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早朝に病院で娘と待ち合わせていた。娘の受付を済ませ、私は7号棟のエレベーターホールにあるソファにいて、看護師さんからの連絡があるまでそこで待っているように、と言われた。娘は今回の治療で麻酔を使うので、診察後ベッドでしばらく休んでから帰宅するのです。何も心配はなかった、数時間休んで、麻酔が覚め,出血が無ければ昼食を食べて帰宅です。私は下の売店へ行って本を見てそれから朝食、モーニングセット、を頼みゆっくり食事をしました。エレベーターホールのソファに戻り少し待ってから看護師さんに案内された。娘はベットで点滴を受けていた。「足が冷たいから、ホカロンを布団に付けてくれる、疲れているのに眠れないの」と言った。ホカロンを入れてから娘の足をつかむと、冷たかった。私の暖かい両手で娘の両足をつかんで、足を暖めてあげた。私は自分の母のことをふっと思い出した。母が入院していたときのこと、そのとき母は意識があまり無かったようで、ただ寝ていましたが、ベットから落ちないようにしているのか、体をベットに拘束してあった。これでは手足が思うように動かせない、可愛そうだわ手足をさすってあげよう、と思ったのです。私は母の両足を両手でかわるがわる擦りました。母の足は乾燥していた、がさがさとした足だった。私が冬になると必ず乾燥してがさがさになるのが、母のこの足と同じ、母譲りの、乾燥肌の足だ、と思った。娘の足はしっとりとして、すべすべしていた、少し温かくなってきた。点滴をしているのでじっとしているうちにウトウトと寝ているようでしたからソッと手を離した。旦那様のTさんが来た。恵里子が元気そうでいるので、冗談を言ってはしきりに笑わせていた。やはり夫婦が一番いいのでしょう、それはそうですよね。ひとしきり話すと、お仕事があるからと、出て行かれました。昼食がくると少し食べてはまた休んでいたが、食べ終えるとまた少し寝ていた。先生がみえて、今日の診察の結果のこと、薬、次の診察のことなどをお話下さった。帰る支度を始めると主人が来てくれた。「もう大丈夫よ」と娘。『家まで送るよ』と主人は言って一緒に来た。私は帰りに病院内にあるお花屋さんを見た、いつもこの病院へ来るとこのお花屋さんを見るのが楽しみでした。そして今日も買ってしまいました、自分へのご苦労さま、の気持ちを添えて。クリスマスローズ ヘレボルス リビダス です。
2008年01月17日
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今一番行きたいところ、見たいところは例のお花屋さんです。例の、というのは、こちらへ越してきてから最近、見つけたお花屋さんです。中野まで地下鉄で行きますが、そんなに遠くはないですから、散歩がてら、お花の買い物が、楽しみです。何よりも、ずらっと並んだ植木は鉢数、花の種類が多いですから見ごたえがあります。それに比べれば、都心のお花屋さんは鉢植えの種類も数もそんなに沢山はおいていません、場所が狭いから、当然ですが。犬の散歩のときに、お花屋さんの前を通ると、いつも気になるのです。近所の小さなお店ですが、店頭で見たお花に心惹かれては、今までに何度も結構買っていました。鉢数を多めに置いているところは、デパートの屋上にあるお花売り場です。いくつかのデパートの屋上のお花売り場に何度も足を運こびました。昨日、日本橋の三越のお花売り場を見ました。本館の屋上がチェルシーガーデンで、お花売り場です。ここへは機会があるたびに来ています、今どんなお花が咲いているのか、どんなものがいくらするのか、見たくなったときにはここが好きなところです。ちょっと、見たくなったのはクリスマスローズでした。クリスマスローズの開花株がたくさんありました。とっても綺麗ですし、色もいろいろ、一重、八重咲き、斑入りと見ていましてどれもほしくなりそうです。クリスマスローズは種類が多いですから、集め始めればキリがないのはわかっているのです。以前住んでいた、郊外の家の庭にも植えたのですから。そのころは鉢植えのクリスマスローズも持っていましたから、かなりの数、集めたのです。八重咲きが出始めて来たころでしたが、まだ珍しい、高価な八重咲きは買わなかったのです。急に入院することになったのです、突発性難聴、耳の聴神経の病気です。発病すると、何はともあれ、すぐに入院でした。1週間の入院を終えて帰宅しましたが3月の気候の移り変わりは速く、わずかの間に庭の花たちは春の花をいっせいに咲かせていました。枝だけだった杏の木に花が満開に咲いていました,水仙も、クロッカスも・・・。そして鉢植えのクリスマスローズを見たときには、がっくりと気を落としました。しおれて、枯れているようです、急いで水をあげました。何度か同じ病気で入院しましたが、いつも春先の、この時期でした。退院して帰宅すると、一番初めにしたことはいつも決まって、庭の植木への水遣りでした。庭に植えてあるクリスマスローズは当然元気でした。クリスマスローズの生き残った鉢植えは、田舎の庭に植えました。そのとき以来クリスマスローズはもう買わないことに決めたのでした。夏は木陰になる、庭の片隅で寒い冬にひっそりと咲く真っ白なクリスマスローズが好きでした。毎日庭に出て、あの花この木と植物を愛でるのが好きでした。そんな私には、どうしても見て回りたい園芸店が必要でした。都内にはそんな大きなお店はないものとあきらめかけていたときに、出会ったのが、中野のホームセンターでした。そこですぐに目に留まったのが、あの白いクリスマスローズ,でした。よく見ると根元につぼみがいくつかついていましたから、すぐに買うことにしました。バルコニーで一週間もすると、真っ白な花、あの私が愛でたのと同じ、クリスマスローズの開花でした。(ヘレボルス ニゲル ジョーセレクト)デパートでもっといろいろのクリスマスローズを見たくなってここへ来たのです。それなのに、買ったものは、ミニバラ、と、におい桜、でした。ミニバラはもう買わないと決めたのに、また買ってしまいました。アンティーケ コルダーナ のミニバラの鉢にはつぼみが4つついていますがまだ開花していません。そばにあった開花株を見ていますから、それを見て買いたくなったのです。におい桜、はいつもご近所で見かけていて、綺麗に咲いているのが素敵で欲しかったのでした。この花も何度か育てたことがありますが、枯れてしまったので、今度こそは何とか来年もお花を咲かせたいと思います。枯れないようにがんばりますので、育て方のアドバイス、お願いしますね。ところで、例のお花屋さんへは、クリスマスローズを見に行きたいのです。
2008年01月12日
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デパートの福袋を買い始めたのは、郊外に住んでいた頃から、その頃は近所にあった、聖跡桜ヶ丘の京王デパートを利用していた。当時は学校に勤務していましたから仕事着はいくら数があっても良かったので、サイズさえ合えば、与えてくれた服を着るのが便利で楽だと思ったのです。値段も1万円以下でしたから買いやすかった。福袋の中身は手袋やマフラー、ジャケット、セーター、インナー、カットソー、などなどでした。どんなものが流行しているのか知らないうちに流行の物を与えられているのですから助かりました。専業主婦をしていました頃は、衣類などの身の回りのものは必要最低限しか持っていませんでした。お友達と会うとか、親戚付き合いなどの時には、自分で仕立てたものを着て出て行きました。時間があったから出来たのです、洋裁をしたり編み物もしました。学校で仕事を始めてから、持っている服が少なすぎるし、第一、毎日着て行くのです。作っている時間はありませんから、近所のデパートが頼りでした。仕事着でしたから、そんなに上等なものは要りません、きちんとさえしていれば十分でした。今、退職して、専業主婦に戻って、時間もありますからまた洋裁や編み物を始めました。スタイルブックを見てあれこれ考えて、それにあった素材を探して、厄介ではありますが、楽しいとも思えるのです。製作に夢中になっていますし、作り終えると、また他のものを作りたくなりますから、やはり楽しい、好きなことなのです。昔、洋裁を習っていました頃はとにかく次々と作って数をこなすことが、技術を習得することでもありますから、セールで安い生地を見つけてそれで作っていました。最近作るのは、生地の素材が良いもの、しっかりしたものを好んで使っています。編み物も同じです、キッドモヘアーやシルク(絹)、カシミヤ、アルパカなどを好んで材料に選んでいます。自分で作るものは、手間隙かけるのですから、上等な素材を使いたいと思うのです。数年ぶりに、お正月の福袋を今年も買いました。日本橋三越で、朝8時半から並び始めます。私は9時近くになってしまいましたが行列の後に並んで、買って来ました。袋の中身はダウンコート、カシミヤのセーター、そしてシルクウールのショールなどが入っていて1万500円ですから、かなり安いと満足しています。買いに出かけるときに主人に「あなたのはどうします?買いましょうか?」と、チラシを見せて聞きました。チラシには袋の中身が写真で載っていて、何が入っているかは一目瞭然です。「これだけ入っていて、それに素材も良さそうですから、安いですよ」「要らない、僕のは買わなくていいよ」とそっけなかった。自分のだけを買って来て家で広げてみました、主人も見ていました。「ジャケット、ドウかしら、いいでしょう? これ、13日の初参りのバス旅行に着ていくの」と着て見せました。「カシミヤのセーターも暖かいわ、手触りも良いし、このごろはカシミヤが欲しかったから,よかった」「僕も来年は買うよ、福袋を」と主人。主人と来年は一緒に買い物に行けるでしょうか?
2008年01月11日
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最近読んだ本は、「やっぱり子供がほしい」田口早桐著、です。産婦人科の先生の著書ですから、いろいろと学ばせていただきました。人生は仕事、勉強、子育て、と何かに夢中になっているときが一番充実している時でしょう。私の場合は、大学を卒業して、私学の高等学校の英語科教師として、結婚後も続けていましたから、がんばっていた時期でした。あなたを出産してからは子育て、英語の勉強、編み物、手芸など時間のある限り学びました。お料理はすべて手作りでした。おやつもお惣菜も。ご近所のお友達と肉まんを作ったから、と言ってはお互い呼び合って、キッチンでお食事、おしゃべりもしました。彼女は高校時代の同級生でしたから、とっても楽しかったしお互い教えたり教わったりのおともだちでした。毎日が充実した日々でした。専業主婦になることは私の人生の目標ではありませんでしたが、この機会を逃すようなことはしませんでした。時間を有効に使って、子供のお稽古事にも時間を取れました。人生にはこうゆう時期も大切です。お給料はもらえませんが、これも立派な仕事ですし、自分自身を磨くよいチャンスだったのです。誰でもしたいこと、なりたいこと、なりたい職業などをいくつかは持っているでしょう。一番なりたいこと、一番チャレンジしてみたいことはすぐに出来ないこともあるでしょう。環境も大事ですし経済的なこと、年齢的にも難しいこと、あるいは今でしか、今でなくてはできないこともあるでしょう。でも絶えず希望を持ち続けていればいつかはそれなりの方向に向かって行きますし、運がめぐってくればそれで成功することにもなります。とにかくしたい、なりたい、やりたいと思えばチャレンジしてみることです。特に今すぐにでもスタートすべきだということもあります。時間は大切です、どんどん過ぎて行くのですから、後でいつでも出来ることばかりではありません。’鉄は熱いうちに打て’、といいます。今懸命になってしなければならないときには、わき目も振らずに・・・、という心構えも時には必要でしょう。専門的な知識を身に付けることで大学などへ行くのであれば、それは年齢ではなくて、したいとき、学びたいときが入学の適正時期でしょう。頑張ってやってみよう、自分の才能の芽を育てることです。とにかくしてみることが大切です。人生のうちで、少なくとも一度は、ある期間、自分の限界に挑戦してがんばることが大切でしょう。出来るときにがんばってこそ、後の生活、人生も豊かになってくるのですから。あなたにはモデルという立派なお仕事がありますが、いつも希望、目標を持って励んで下さい。あなたはまた、ライターとしても活躍されていますね。地道なお仕事と思います、モデルの仕事もその意味ではこつこつと積み重ねることですから日々努力なさっていることでしょう、頑張ってください。頑張っても出来ないこともあります。この「やっぱり子供がほしい」の本を読んで、生きている人間は生身であり、体力、年齢相応の生理現象もあって、時機を逸してしまうと後になってからではどうしようもない事があるということを本の中でおっしゃっていました。そしてさらに、本の中で「やるだけのことをやるという姿勢が大切です。まさに’人事を尽くして天命を待つ’」と書いてらっしゃいます。まったくそのとおりだと思います。健康に気をつけて、目標を持ち続けてください。
2008年01月08日
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毎年、娘夫婦がお正月に来てくれます。私「又、すき焼きにしましょうか? 数の子、酢だこなどほかのおせち料理もありますが、やっぱりご飯にはすき焼きがいいわね」「今年の正月もすき焼きだったな」と主人。「でも今年は浅草の、松喜、のお肉屋さんにしましょうよ、あそこのお肉は美味しいわよね。私の実家へ新年に行ったときには必ずお肉だったわ、松喜のお肉だったのよ、値段も高い、いいものをご馳走してくれたのでしょうね、きっと。今まで、私たちには高価だと思っていましたが、これからは松喜で買いましょうよ。恵里子やTさんに美味しいお肉を食べさせてあげたいし、これからは私たちも食べたいものをたべるのでしょう? 今は都内に住んでいるのだから、浅草なんて近いわ、地下鉄でいけるのだから」郊外に住んでいたときには、近所に美味しいお肉屋さんが在ったのです、あのころはそれで十分でした。適当な値段で、決して高価ではなかった、肩ロースが美味しかったのです。都内に越してきてからはお肉屋さんの美味しいお店が見つからなくて、デパートで買っていました。デパートのお肉はお金さえ出せば、美味しいお肉はありましたが、そんなに高価なものを普段食べつけるのも気が引けました。健康にもロース肉はカロリーが高いのが心配です。「そうだな、浅草ならここからは近いよ、郊外に住んでいたら、交通費も時間も掛かって出かけるのは億劫になってしまうが」と主人も乗り気です。29日土曜日、午前中に出かけました。お店の前から長い列が続いています。「やっぱり思っていた通りね、松喜のお肉は本当にすごい人気ね」急いで列に加わりました。待つこと1時間は優に越えたでしょう、この列を見れば、どんなお肉屋さんか察しはつくでしょう。普段に食べるロースの切り落とし、とすき焼き用の上肉をかなりの量買いました、冷凍しておけば、大丈夫ですから。お肉を買ってから、浅草寺を見て、仲見世を通って、雷お越しや舟和の羊羹などの買い物もしました。自宅に帰ると、早速買ったばかりのロースの切り落とし肉、を醤油で炒めて遅い昼食にしました。美味しかったですよ!、実家の味、でした。私の父は次男でしたが、おじいさんがお肉が好きだったので、松喜の肉を買ったときは必ずおじいさんを呼んだのです。父の実家は郵便局で近くでした、本家へおじいちゃんを呼びに行くのはいつも私でした。おじいちゃんは汗を拭き拭きすき焼きを召し上がっていました。父は親孝行だったのでしょう、松喜のお肉を沢山買って来てはおじいちゃんを呼んだのです、おばあちゃんは早くに亡くなったそうで私の記憶には在りません。松喜の肉、と私の実家の思い出です。私達は毎年最後の土曜日に、松喜へ行くことに決めました。来年のカレンダーには12月27日土曜日(うるう年でした)に予定が入りました。
2007年12月30日
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マンションを出て交差点を渡ったところにお寺さんがある。今日、私は病院へ行くのにこの通りを行きますが、お寺の入り口の階段の上でお餅つきをしていました。杵を持った突きての男性が数人いましたから、かなり大掛かりでしていると思いました。ペッタン、ペッタンと音がして、思わず足を止めて見ていました。ペッタン、ペッタン、お餅が杵に粘ってくると,突きての方は重くなり、かなりの重労働です。重くなった杵を休めると、女の方が、ぬらした手でお餅を取り上げ、濡らしてからひっくり返して臼に戻しました。突きての男性は杵を桶の水の中に入れて濡らしました。いずれもくっ付かないようにしているのです。ごく当たり前の餅つき風景でした。ですが、私は今は亡き、実家の母と父が、毎年暮の30日に決まってしていたお餅つきを思い浮かべました。二人で一日かかっていたように思います。母がお釜で蒸したもち米を運んできて、臼の中に入れると、お餅つき、が始まります。父が一人でしていましたが、長男が成長してからは兄も加わるようになりました。父が杵を使ってこねてから、一人でペッタン、ペッタンと一回、一回力をこめて突いていました。杵が粘ってくるとすかさず母がお餅に水を付けるのです、杵にもお水を付けるのです。ペッタン、ペッタン、その間に母が瞬時にするのです。二人の呼吸はぴったり合っています。かなり突いてから、父はさすがに一人ですから疲れてきます。父が杵を持ち替えて数歩、後に下がりますと母がお餅を濡らしてひっくり返し、また父と二人の餅つきが始まります、ペッタン、ペッタン。私はふとその時の光景を思い浮かべていました。そこには、臼のそばで母は、低く腰を曲げて、ペッタンの後に必ずぬれた手を挟んでいました。母の役目は大きかったのです、お餅が粘ってくっ付いてこないようにしていたのです、それも一回一回。突き終えると、母はお餅を持って、ノシ板におき,ノシ餅にするのです、その間父は一休みして、次の蒸したもち米がくるのを待っています。母はいつも大変な役を立派にこなしていたと思いました。やり手でやかましい父が満足するのには母は並大抵ではなかったと思います、でも母はそれをいつもこなしていったのです。あるときは、愚図だ、のろまだ、といわれたりもしていましたが、母はそんな父に、よく仕えていました。実家の父の事業が、成功したのは、母のおかげだったのです。働き者の父に負けず劣らずがんばってきた母でした。私はフッと、われに帰りました。母のこと父のことを思い出した、お餅つき、でした。母は体格はいいほうだった、大きい体で、色白でした。二重の大きな目がくぼんでいて彫りが深かった、まつげに白髪が混じっていましたが、そんな母を美人だと思ったことがありました。「おばあちゃん、美人ね、きれいですよ」と言うと、母はうつむいたまま少し恥ずかしそうに「自分の親だからよく見えるのではないの」と言った。娘の恵里子がおばあちゃん譲りの、長身、パッチリした目をしています。
2007年12月28日
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「今日は二人で夜にそちらへ行こうと思いますが、ご都合はいかがかしら?」と娘からのメール。返事は、「今ケーキを作っています。 散らかっていますが、みんなでお食事でもしましょうか? その後でお茶にしましょうか?どこかへ食べに行くか、ウチでおすしでも取るか、どうしましょう?」結局はTさんがお店を当たってくれることになりました。しかし、今夜はイブで休日でもあって、どこも込んでいてお店は予約をしないし、また、していても取れなかったりでした。紀伊国屋書店の入り口で待ち合わせをしました。犬の散歩を済ませてから出かけた私たちですから、少し遅れて到着でした。携帯で連絡をするとまもなくして書店の中から、二人が出てきました。ぶらぶらと歩いて、天ぷらや、つな八本店、の前に来ました。「づい分並んでいるわね」お店の前は待っている人の列が出来ています。「4人で並ぶこともないから、あなた方その辺を見てきてもいいわよ」主人が「どうしてこの店はこんなに並んでいるのかなあ」「お店が小さいからかしら?、あっ、でも、ずいぶん進んだわね。以前にみんなでお食事をしたときは、高島屋のつな八、へ私がそこへ連れて行ったから、今日はTさんがここを選んでくれたのね。」また進んで、入り口近くへきたので、主人が携帯で二人に連絡をした。お店の人「何人様ですか?」「四人です」中に入ると「四人様はこちらへどうぞ、座ってお待ちください」と。一階の店内しか知らなかったので、奥のお部屋があって、さらに階段があるので、広いお店なのだと思った。間もなくお二階のお部屋に通されました。乾杯して、次々と出てくる、揚げたてのてんぷら、楽しく美味しいひと時でした。Tさんがお勘定を払ってくれました。娘夫婦にご馳走になったのです、とってもうれしいです。でも、お返しを、と思い、クリスマスプレゼントを二人にしました。今夜はそこで別れました、娘夫婦は家には来なかったのです。ウチへくる予定でしたから、手作りケーキとお紅茶の支度をしてあったのです。テーブルにはシクラメンの花三鉢が並び、ウイッタードの紅茶の箱、ボーンテャイナはROYAL CROWN DERBY のセットが用意してあったのです。明日娘が来てくれたら、半分ケーキをもって帰ってもらいましょう。主人はTさんがご馳走してくれたのを喜んでいました。もちろん私もです。「デパートとはまた違った雰囲気で、よかったなあ、うまかったよ」と主人。私の手作りケーキでお茶の予定でしたが・・・。
2007年12月25日
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The daisy is found in every meadow in Great Britain.It is often thought of as an English flower,but it grows in all the warmer parts of Europe and in Turkey. In North America it is known as the English daisy and as bachelor's button.イギリスの芝生の中であちこちにあります、イングルッシュディジーです。ガードナーの方は雑草として根から取り除いています。芝刈り機にこの葉っぱがあたるとスリップしてしまうからです。毎年咲いてくれて丈夫です。
2007年10月29日
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ロンドンのどこの公園にでも必ず見ることが出来ます、黄色いラッパ水仙、 daffodils です。 Daffodils are among the loveliest of Spring flowers.
2006年03月21日
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ロンドンに滞在していた時に家族でよく行きましたレストランの一つは、日本食のお店でした。その当時もロンドンには何でもあるとい言われていましたがやはりロンドンはロンドンです、日本のものが何でもあると言うわけではありません。 しかし魚にしてもロンドンでそろう素材、たとえば、レモンソール、lemon sole(舌平目)と呼ばれている魚は、サーモンやタラ(cod)と同様にイギリスを代表する魚です。ドーバー海峡近辺で取れるドーバーソール、このシタビラメのムニエルは、フランス料理を代表するメニューでもあります。 同じシタビラメ(sole)でも、なぜかフランスではドーバーソールという呼び方をしないそうです。 イギリスではこの魚もフィッシュアンドチィップスでよく出てきます。日本レストランでは、レモンソールが、お刺身になります、軽くて品のいい美味しさです。 ほかにも活きのいいさば、帆立貝、生ニシン、アジ、などは魚屋さんでも見かけますが日本料理店で頂くと日本の感覚に料理されていて、食べていて本当に落ち着けるのです。 イギリス人の大好きな魚、スモークドサーモン、スモークドコッドロー、キッパー(ニシンの燻製)もここでは和食になって出てきていました。 家族でここにたまに来てホッとしたひと時を過ごしたものです。イタリアンレストランにも入ってみました。メニューと料理が結びつかなくて、注文にてこずっていましたらお店の方が、アドバイスしてくださってそのとおりのコースメニューにしました。お料理が出てきましたが、「これは何?スープかしら?煮豆かしら?煮豆にしてはしょっぱいわ」ウエイターに尋ねると、「前菜で、ファッロと豆の煮込み、です」と。別のお料理が来ましたが、又まめが入っていてスープでもないしパスタでもないし、これは何かしら? またして訊ねると、「パスタと豆のスープです」と。ビーフステーキが出てきましたがその付けあわせが白インゲン豆の煮物がたっぷりついていまして美味しく頂ました。パンは少し固めでしたが、頂いていると、ウエイターが「これはパンに挟んで食べると良い、豆で作ってある」と言ってピザのようなものを添えてくれました。このお店では豆のお料理を数種類経験しました。いくつかのお料理がテーブルに並び、最後までどんなお料理が来ているのかよく分からないまま全部食べ終えました。店を出てから主人が「今日の料理は日本のイタリア料理とはずいぶん違うな。 なんだか豆を食べに来たようなものだなあ」と言ったのでした。又ある時は韓国料理店で、店の女主人が日本語を話すこともあって私達はすっかり気をよくしたのです。とにかく東京のあのロースやカルビの脂ののったアツアツの焼肉が食べたかったのですが、でてきた肉は味が全然違うのです。焼き方も違っていて、鉄なべに入った肉からは汁がたっぷり出て水っぽくて焼肉と言うよりはスキ焼き風でした。キムチは辛い漬物ではありません、どちらかと言えば甘いのですから。何だか頼んだものと違うメニューが来たような感じがしましたが、食べ終えました。立ち上がると、女主人は上手な日本語で私達3人が着ていた、私の手編みのアランセーターを「三人でおそろいのアランが、とてもセンスがいい、あなたが編んだのですか」と言って、誉めちぎってくれましたので私は少し気分を良くしたのです。主人がレジを済ませて店を出ると「なんでこんなに高いのだろう、まあ、イギリスではこんなものなのかな、東京の韓国料理店ではないから・・・」と呟いたのです。 私達3人が毎週のように好んで通ったのはインド料理のタンドールレストランでした。近所のハムステッドでした。注文するものはいつも大体決まっていました、それでも慣れないうちは、あれこれ頼んだものですが、だんだんに好みも分かって来ますから。初めて来た時はやはりまごついたものです。 メニューを見てオーダーを終えると、ウエイターが、`Do you like hot ?゜と聞くのです。主人が、`Have you got the cold one?’ と言えば、ウエイターは口ごもっています。「あなた、hotは辛いと言う意味でしょう、熱いではないわよ」と私。主人;I like medium.私;I like hot.娘;I like mild.と言う注文になったのです。カレーは美味しかったです、えびカレー、ビーフカレー、野菜カレーなど、前菜も、スイーツも頂いて、一週間もすると又食べたくなって家族では一番多く来たレストランでした。何度か行きやみつきになったのです。そして2番目によく行ったのはソーホーにある中華街です。3人で行く中華料理店はいつも決まっていて、おいしくて値段も手頃でした。今日はこれを、次に来た時はあれを・・・と。英語のメニューを見ても、想像通りの料理が確実に出てくるので安心して注文できました。 ここでも最初は、餃子は何と言えばいいのかしら、当たりを見回して、餃子らしきものを食べている人を指して、「あの人と同じものをください」と言ったのです。 そして、「何と言うのですか」、とそのつど料理名を聞いて、いろいろと覚えていきました。女性同士の友達と出かけると、たいていはデパートのレストランとか、イギリスのレストランでした。 紅茶にケーキ、サンドイッチとかフィッシュアンドチップスなどを食べたものです。又何人かで出かけると、ワインも飲んでステーキで、会食をしたものです。 やはりステーキは美味しかったです。 イギリスにはサイダーと言う、アルコール飲料があります。これはアップルサイダーのことで、かなり強いほうだと思いますが、スパークリングですから口当たりが良くてつい飲んでしまいますが、酔いが回るのは確実ですから、気を付けるといいでしょう。(楽天の仲間)僕にとって忘れられないのは、スモークト・マッカレルですね。初めてイーストロンドンのストリート・マーケットの屋台のお店で見つけたときは、鯖の文化干しだ!と、えらく驚いたものでした。黄色い色が気になりましたが、早速買って食べたら、鯖の薫製でした。ホントにおいしかったですね。その後スーパーマーケットにもあることが分かって、時々食べました。黒胡椒をまぶしてあるのも好きでした。もう一度食べたいです。(私)さばの燻製ですね、美味しかったでしょう。kipper、ニシンの燻製、も美味しいです。 スコットランドのホテルで朝食によく出ます。大きなキッパーが一匹出てきます、朝食はこれだけでもお腹いっぱいになりました。他にも、燻製は鮭、タラコなどがあります、美味しいです。(楽天の仲間)南アフリカは、みんながイギリス風のものにあこがれているのです。英語もイギリス式。アメリカ風は馬鹿にされています。始めていった時は、発音もさることながら、単語の違いに驚きました。イギリスでも信号のことはrobotですか?(私)イギリス人がアメリカ人のことを、見ただけで分かるというのです。ウチのピアノと英語の家庭教師、フローラが言ったのです。「同じ服を着ていても、アメリカ人は目だって、派手だ、着方が違う」、と言うのです。信号は、a traffic signal です。(楽天の仲間)海から近いはずなのに、新鮮な魚に出会う機会のないイギリスの片田舎に住んでいるワタクシ。無理して高く活きの悪い生魚を買わずもっぱらテスコの「スモークド・マッカレールか、スモークド・キッパー」を買っています。これをオーガニックの玄米(ブラウンライス)と一緒に頂いて和風を気取っております(笑)なんで燻製でまっ黄色なものがあるんでしょうね。今は慣れましたが最初ちょっと引いちゃいました(^^;(私)イギリス人はお魚、貝類、えびも結構食べますね。 貝やえびは茹でてあって、おつまみに良いですし、魚のスモークドは独特の美味しさですね。
2004年06月23日
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子供は言葉の習得が大人より早いと言いますが、それでも彼女にはそれなりの苦労はあったようです。イギリスの学校へ行き始めてまもなく教わってきた歌を歌っていますが、Mary had a baby. Yes, Lord.Mary had a baby. Yes, my Lord.Mary had a baby . Yes,Lord.People people come and a train has just gone.という4文からなる歌詞の歌です。聞いていて、どうも四行目の歌詞が理解できないのです。このように、歌っているからです。メリー ハダ ベイビー イエス ロードメリー ハダ ベイビー イエス マイ ロードメリー ハダ ベイビー イエス ロードピコ ピコ カミナリ チン コン カン「チョッと、もう一度歌ってくれる?」私は彼女の歌っているのを聴いて、何だか可笑しいと思いながら「良く覚えたわね、最後のところはそれで良いのかしら、本で調べてみましょうね。」と子供向けのナーサリーライムズの本を探してみました。「ほら、これよ、 ‘ピプル ピプル カムアンダツレインズ ジャスツゴン’」と私は歌って聞かせ、娘にも歌詞を読んでもらいました。イギリス人の中に入ってすぐの頃でしたから、耳からだけ憶えた歌詞を、日本語の感覚で捉えていたのでしょう。5歳から彼女が通っていたロンドンの学校では当時、一クラスに生徒が十数人、そして先生は教室に2人いました。 日本のように先生が教壇にいて、生徒が皆で先生の話を聞くというスタイルの一斉授業ではありません。同じ教室の中で、ある子は算数をしていて、ある子は国語(英語)の本を読んだり、絵を描いている子など様々で、その間を先生2人が歩いて回り指導するのです。娘のように外国から来た子には先生の手作リ絵本が渡され、それを終了して後に教科書に入っていきます。初級の本から徐々に進み、進歩の早い子はどんどん次の段階に進んでいきます。子供によってそれぞれ個人差があるのは当然で、いつまでも同じ本を終了できない子もいますが、先生は一人一人の子に応じた対応でそれぞれの個性に合わせた自由な勉強、得意な教科をどんどん伸ばしていくのです。しかし、これを裏返すと、できる子はますます進み、算数でも国語でも得意な教科は他の子達に大きく差をつけてしまう反面、できない子、不得手な学科は全然進まないまま、激しく差がついてしまうということです。日本の小学校ではできない子や不得手な学科の子がいても、いかにしてみんなと同じレベルに至らせ、いかに同じに進んでいくかに重点が置かれ、極端に遅れた子を出さない平等で差別をつけない教育を、という考え方が根底にあるようです。だから優秀な子がいてもなるべく皆同じにするという観点から一等、二等、三等賞ではなくて「参加賞、すなわち参加することに意義がある」ということになるのです。こういう日本式の方法が良いか悪いかではなく、皆が同じようにはできていない人間を、皆同じレベルにもっていこうとする、日本の先生方のご苦労も大変なことと思います。日本に帰国すると、娘は小学3年生として編入しました。編入学をお願いに行き、その時担任の先生はすでに決まっていて、その男性の担任の先生に連れられて校長室に入りました。先生が、校長先生に「ロンドンから来た恵里子です」と紹介してくださり、娘に向かって 「恵里子、この方が校長先生ですよ」とおっしゃった。 先生は更に「恵里子、 校長先生って英語でなんて言うんだい?」と娘に話しかけたが、娘は黙っていて、先生が「ヘッドマスターって言うのかな?」と言いました。「違うよ、ヘッドマスターは男だよ!」と娘。 その言葉に先生は顔を赤らめてしまった。校長先生は女性でしたが、そのやり取りをお聞きになって、ニコニコと微笑んでいらした。自分の意見をはっきり言う、いかにも帰国子女、と思われたようです。娘は通学を始めて直ぐのある日、学校から帰ると「お母さん、緑のおばさんてなあに?」と聞きました。「その人はロンドンで言うロリーポップレディ(lollipop lady)よ」と私。又ある時は、「学校で水着を持って来なさいって、言ったんだけど、水着ってなあに?」「それはねスイミングスーツよ(swimming-suit)」と私。ロンドンでは寒いこともあるのでしょうか、ロンドンでの水泳の授業は一度もありませんでした。第一プール自体、恵里子の行っていた学校にはありませんでした。娘は水着を持っていましたが、それは近所の子供達と庭で、子供用の膨らますプールで水遊びをしたり、天気の良い日に日光浴をする時用のものでした。日本の小学校に来て生まれて初めての水泳の授業を受けたのです。水着を持って学校へ行ったものの、彼女にとって浮き輪のない水泳は生まれて初めての経験でした。いつも元気で病気知らずの娘が登校前に「お腹がいたい、今日は泳げないから、お便りノートに書いて」と言うのです。体調を心配しながらもお便りノートに「腹痛のためプールは見学にして下さい。」と書いて持たせました。それ以降もプールの授業があるたびに、「頭が痛い、お腹が痛い」とプールでの見学が度重なっていったのです。「水泳するの嫌なの、どうしたの?」と話を聞いてみると、初めての水泳の授業で、皆と同じようにプールに入って泳がなくてはならず、しかもとにかく水に慣れろと先生に無理矢理沈められ溺れかかったというのです(娘の話では)。その一回の恐怖感から、一種の逃避行動になってしまったのです。又あるときは、「お母さん、日本の学校ではイギリスの学校と同じ事をすると嫌われる事があるよ」と言うのです。「へえー、どんなこと?」「うーん、なんか自慢しているように思われるみたい・・・。だからイギリスの話はもうしないの。 お母さんもあまりみんなにしないで」と。子供は子供なりに自分の環境の変化を察して順応しようとしていたのです。他の子と同じでなくてはいけない、皆と同じ勉強を同じようなレベルでしていくのが当たり前の日本の学校。 女の子の個性はあまりみんなに受け入れられないのでしょうか。先生方のご苦労もありまして、お蔭様で帰国後2、3ヶ月もすると娘はすっかり日本人になっていました。帰国子女の補習校もありましたが特に行く必要も無かったのです。英語も覚えていて、英検3級をすぐに取得し「日本語で書かれた問題文の漢字が読めなかったけどカンでやってきたよ」と言っていました。友達も直ぐにでき、再びピアノのレッスンも始め、もとの高島平で小学校を卒業しました。後になって気がついたことですが、誰でも知っている幼稚園、小学校低学年で習う日本の歌を恵里子は何も知りませんでした。(楽天の仲間)個性を育てる少人数制、一方的に教え込む日本の詰め込み型でなく、隠れた才能を伸ばす、見つけだす・これは是非やってもらいたいと思われませんか?(私)人間は皆同じには、出来ていません。それぞれの個性があり、それぞれに得手、不得手があります。 それを皆同じにするのは、却って不平等、逆差別でもあるでしょう。英国式教育を、一握りのエリートを育てる、とも言いますが、それなりの利点も多々あるでしょう。個性や得意な学科は、どんどん伸ばしてあげたいですね。
2004年06月16日
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ロンドンの地下鉄ロンドン市内の街並み自体は少しも昔と変わっていなかった。 しかし、Oxford St. やRegent St.にあった以前のお店はいろいろ入れ替わっていました。私がよく通った‘Needle Woman’という手芸材料のお店も今はありませんでした。 その店へ行けば手芸材料のすべてが揃い、見て回るだけでも楽しかったのに。 イギリスの女性がどのようなものを作っているのか、が手に取るように理解できたのですが。最近では多くの女性が職業を持つようになって、編物や手芸のような手間暇のかかる奥様芸をする人が少なくなったのはどこの国も同じでしょう。 手芸や洋裁、編物などは趣味的なものだけでなく実用も兼ねていますので、安い値段で出来上がった作品が買えるのであれば、何も苦労して手間暇かけて作ることもないと思うのも当然かもしれません。 それでも私は苦労してでも作るのが楽しくて今でも作っていますが。今、日本では洋裁、編物、などの本の種類も数も以前に比べるとかなり少なくなっています。 洋裁も編み物、手芸もそれをする人口が減っているからでしょう。 その点は伝統を重んじるイギリス人も同じでした。 職業を持っていて、時間も無いでしょうし、安くて手の込んでいる外国製のものが簡単に買えるのですから。ピカデリーーサーカス駅にあるBond St. に行くと日本のデザイナーのお店やデパートが新たに出店していました。 相変わらずの高級感のあるお店が並んでいます。 ピカデリーサーカス駅付近は以前と変わらず、Lily White、というデパートのように大きなスポーツ店があり、懐かしい思いで通り過ぎました。 主人とこのお店にゴルフのセットを買いに来たからです。 ゴルフは主人がそれ以前から日本にいるときもしていましたが、私は、ここイギリスへ来てから始めたのです。 まずは、リリーホワイト、で道具一式を買ったのです。英国製の某ゴルフ製品を主人は,「日本でこれを買ったら大変な値段だぞ」と言っていました。 ロンドンのサマータイムの時季は主人が帰宅すると、すぐ夕食を済ませて、家族と娘の近所の友達も連れて、ハムステッド郊外にあるゴルフ場へ出かけました。 夏は夜10時近くまで明るいですから出来るのです。私と主人にはゴルフの先生が付きました。 先生の指導で振り方から始めました。先生; Have you got a handicap?主人; a physically handicapped?先生は主人の言葉に、ビー球のように澄んで綺麗なブルーの目をぱちくりさせていた。「あなた、ゴルフのハンデ、じゃないの?」と私。主人; Oh! No, I haven't.全くお笑いですが、こんな具合で、一から、習ったのです、以後、この先生のことを私たちは、ビー球ちゃん、と呼んだのです。娘と友達はミニコースでゲームをしていました。ロンドンにこんな所が出来たのね、と驚いて入ったのはジャパンセンターでした。日本人向けの本や、食品、薬など私達が生活していた頃とは比べものにならないほどたくさんの日本製品が置いてあります。 日本人のための情報誌も置いてあり、こういう情報をうまく活用すれば個人旅行、長期滞在も安く収まるはずでしょう。 またフラットの週ごとのレンタルや同居人探し、そして「不要品をお譲りします」などが掲示板に貼られてあり、大混雑しながら皆がその情報をメモしています。やはり日本人は今でも昔と変わらず、日本人同士で情報を交換し合って、支えあって生活しているのだと思いました。でも昔とは違って、今ロンドンには多くの日本人がいて、たくさんの情報があり、見ず知らず同士がお互い助け合い、こうゆう場所で情報交換をしているのでしょう。ここには本当にいろいろあって、今では日本人も生活し易くなったものです。ロンドンの地下鉄が世界で最初にできたという事実は普遍です。その地下鉄も新たにジュービィリーラインが増設され以前より便利で明るく綺麗になっていました。以前の地下鉄のエスカレーターは木で出来ていて、ガタガタとその音が響いていたのが印象的だったのですが、今では少し垢抜けていました。 速度が速いのは以前と変わっていませんでした。エスカレーターに乗ると、中央分離帯に注意書きが置いてあります。日本では「ベルトにおつかまりください。」と書かれたものをよく目にするのですが、ここロンドンでは「スリにご注意下さい」というのを見かけます。 並んで立っている間にスッと後ろからすられることもあるようです。私達は市内を歩き回るのに地下鉄をよく利用しました。 車両内はロンドンの縮図のように本当に色々な人種の人達がいるのです。 人種は違っても殆どの人は英国人なのでしょう。以前は身に着けている、民族衣装やターバン、帽子、サリー、黒いスカーフ、お化粧などで何処の国の人か、大方見当がついたものですが、今は衣服や外見では全く見分けがつきません。こうした現象は今や世界のどこの都市でも言えるのでしょう。(楽天の仲間)今は、日本人も大分多いそうですね。最近、親戚のちびちゃんをキンダーガーデンにあげたのですか、保母さんが日本人だった、て言ってました。(私)そうなんですかあ、保母さんが日本人ですかあ、そこまで日本人が浸透しているのですかあ。愕きました、娘がイギリスの学校で、初めての日本人でした、日本人は一人でしたから。(楽天の仲間)こうしてみるとチューブもなかなかかわゆいですねっ♪そうそうロンドンは日本人だらけですよ~。この前行った時いたる所で日本語が聞こえました(笑)日本人化の波は私の田舎にもやって来ており大学に100人ほどの日本人がいる(でもシティから遠いのであまり会わない)らしいことを聞きビックリしています。(私)大学に100人ですか、そんなに大勢いて、あまり日本人に会わないと、言っているのですね。イギリス中日本人だらけのようですね,なぜでしょうね?? (楽天の仲間)ロンドンも日本と同じように人の心も近代化していますか?ハリーポッターやシェイクスピアーのような伝統的な感じがしますが。バッキンガム宮殿は、印象的です。(私)女性の社会進出は伝統も変えるのでしょうね。バッキンガム宮殿,印象的ですね。ロンドンはやはりこれなしでは、済まされませんね。
2004年06月13日
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ロンドンの地下鉄がストであった月曜日の朝、娘と私は別行動をとることにしました。地下鉄の駅の辺りには、通勤客たちが、バス乗り場に集まり、ごった返していました。そんななかを、私はSouth Kengington駅の近くにある今、泊まっているホテルからすぐの、歩いていける、‘ Victoria & Albert Museum’ に行き午前中を過ごすことにしました。歴史的な楽器のコレクションで有名なVictoria & Albert 博物館でもあり、工芸品、建築装飾などの装飾美術品の宝庫でもあります。名前はヴィクトリア女王とその夫であったアルバート公から来ています。South Kensington駅(Piccadilly Line)を出てすぐのところに, Exhibition RoadをはさんでNational History Museum、と Victoria and Albert Museumはあります。全世界のあらゆる時代のものが収集されたコレクションはすばらしい物ばかり。沢山ありすぎて早足でも到底全部は見きれなかったのですが、日本の展示品だけはゆっくりと念を入れて見ました。大英博物館でもそうですが、以前日本の貴重な遺産を見たとき、なんだかイギリス人に日本の遺産が盗られて持出されたという嫌な思いが強く、憤懣(ふんまん)やるかたない感じで観たものでした。でも今回は違った気持ち、つまり完成度の高い日本の優れた品を見て、誇りを持って、という思いで観ることが出来ました。英国で日本のすばらしい物を鑑賞できる事を嬉しく思えるようになったのは、私が歳をとった証拠なのでしょうか?博物館を出て、Brompton Rd. を少し歩いて行くと右手にハロッズが見えてきます。昔住んでいたハムステッドからは少し離れていたので、当時はハロッズも数回来ただけでしたが今はホテルから一駅で来れます。 今日は歩いて来まして時間もあり、ゆっくり見る事ができるのです。ハロッズに入店する時、警備員のような人が二人入口に立っていて、入って来る人々を呼び止めて何やらチェックをしていました。 私は呼び止められなかったのですが服装のチェックなのか、危険物の検査なのか・・? ハロッズでは服装も見られていることは確かです。昔はIRA過激派によるロンドン爆弾事件があり,セルフリッヂに入るときにバッグの検査をされたことがありましたが。店内に入り、食品売り場に行くと時代の流れとも言うのでしょうか、日本風のお寿司カウンターがあり、イギリス人のお客が上手に箸を使ってお寿司を食べていました。巨大なフードホールには主人の好物だったスモークドサーモン、 スモークドコッドロー(太い鱈子の燻製)、プローン(ゆでた子持ちエビ)、マッスル(タニシのような貝)、コックルズの貝(ムール貝のような貝)などがありました。懐かしくてしばらく確認しながらゆっくりと見て回りました。 今日は娘と喧嘩をして別行動を取っていたのですが、ふと娘がプローンを今でも覚えていて、「お母さん、あの茹でエビ食べたいけど、どこで売っているの?」と私に尋ねていたことを思い出しました。 わたしはプローンを買いました、「ハーフ、ポンド、プローンを下さい」「Oh! Pound.」と店員が驚いたように言ったのは、今は、グラム、になっていたからでしょう。私は一人ではありましたがハロッズで念願のアフタヌーンティーをすることにしました。ゆっくり休んで、ハロッズを出てSloane St.のお店を見ながらそろそろホテルへ戻ることにしました。 Sloane St.は高級ブティックが並ぶ通りであり、世界的に有名な一流ブランドのブティックがづらーっと軒を列ねています。 その中の3、4店に入り、リュックタイプのバッグを探す目的でみたのですが、商品がウインドーや商品棚などに、ほんの数点、飾るように置いてあるだけです。 店内を見ていると店員が、「どんなタイプが欲しいのか」と希望を聞いてから奥のケースから取り出してくるのです。「これではどうですか?」と、「もう少し小さいのはありますか」と私。こんな具合ですから、素敵なのがあったからつい買ってしまう、ということもなくて不自由だと思いました。 東京のお店のようになぜあれこれと並べて置かないのでしょう、盗難予防でしょうか、イギリス式商法なのでしょうか。どうしてもブランド物が買いたいという場合にはあらかじめ、日本でそのブランド品を下見しておいたり、ブランド本を見てリサーチしてからの方がいいかもしれないと思いました。アフタヌーンティー一般には、お紅茶一式、と三段式のケーキスタンドにケーキ、サンドイッチ、スコーンが盛られて出てきます。 スコーン用のスプレッドにはクロテッドクリーム、ラズベリージャム、イチゴジャムなどです。アフタヌーンティーは、香港などでも、イギリス系のホテルなどでは、十分に夕食になりますから、ただの、お茶、ではありませんので、ご利用すると便利でしょう。 スコーン (イギリスのお菓子, 8個分) ロンドンのハロッズで買い物をして少し休みたい時に紅茶とスコーンで一息ついてから帰宅します。 焼きたての暖かいスコーンが2個にクロテッドクリームとイチゴジャムがついて紅茶と共に運ばれてきます。 英国のご家庭ではごく普通に焼いているお菓子のひとつです。 イギリスにはセルフレイジングフラワー(ベーキングパウダー入り)と呼ばれる小麦粉がありバターを加え牛乳と卵でこねたものをオーブンで焼けば出来上がりです。日本の普通の小麦粉でも簡単に焼けるお菓子です。 焼きたての暖かいのをご自身で作って素朴で美味しいスコーンを楽しみましょう。 作り方; 生地を作る・・・ボールに薄力粉とベーキングパウダーをふるいにかけておく。 バターは冷蔵庫から出して硬いうちに細かく切って、ふるってある粉に混ぜ指でこすり合わせるようにして混ぜ込む。 均一に混ざってさらさらになるまでする。 溶き卵と牛乳を良くかき混ぜてからボールの粉に加えて木杓子でさっくりと切るように手早く混ぜる。 このときこねたり、時間を掛けすぎるとグルテンの粘りがでてよく膨らまない。 台に打ち粉をして丸くまとめた生地を乗せ、綿棒で2cmの厚さまでのばす。 丸い型抜き(コップでもよい)で抜き取って天板に並べる。 照りを出すには牛乳をはけで塗る。 オーブンはあらかじめ220℃に暖めておく。 オーブンにいれて15分焼く。 ふくらんで割れ目が出来れば成功です。 材料; 薄力粉225g、 バター50g、 ベーキングパウダー小4、 卵1個、 牛乳大4~5、 ※紅茶にとてもよく合います、割れ目を手で割ってクロテッドクリームとジャムをつけていただきます。 ※レーズンやくるみ、チョコチップスなどを入れて焼いても美味しいです。(楽天の仲間)英国に世界各国の財宝(美術工芸品など)が略奪され集められたおかげで、無事保存されたのでしょうか?日本の美術工芸品をどっしりと風格のある英国の美術館で鑑賞するのも楽しみがあるでしょうね。(私)全くです、日本の工芸品の優秀さ、素晴らしさには、立ち尽くし、見尽くしてしまいます。(楽天の仲間)ポンド、田舎だからかなぁ?こちらで量り売りの時はポンドを使っているような気がします~。ブランド数点陳列はわたくし個人が感じたことですが、びっしりたくさん並べるよりスペースを空けてお上品なイメージをかもし出したいから?それにわざわざ店員が持ってくるというこの店員の使い方がイギリス伝統的なお上品な店のサービスなのかなぁと(^^; でもその場で選べる合理性のある日本の方が断然便利ですよね~。(私)まだまだ、ポンド、が多いですね、イギリス人はキログラムに変える気があるのですかねえ?やはりイギリス式のお上品なサービスなのですかあ、なるほど・・・。(楽天の仲間)アフタヌーンティー私も食べてきましたよ。お腹いっぱいになって食べ切れませんでしたよ。それにしても食事はまずかったですね。どう思われますか。朝食はどこのホテルでも、連泊でも毎日寸分違わないメニューです。昼も夜もまずくて、料理に何の工夫もなく、あれでは料理人は要りません。日本に生まれて毎日美味しいものが食べられてつくづく良かったと思いました。 どう思いますか?(私)アフタヌーンティーは夕食にもなりますから、お腹いっぱいでしょうね。朝食は毎日同じだったのですね。おそらくベーコン、エッグ、だったのでしょう。マッシュルームとミニトマトがついていたでしょう、あるいは太目のソーセージでしたか?どこのホテルでもいつも同じ朝食でしたでしょう。 これが慣れると当たり前、美味しいと思うのです。 食生活、食習慣とはそんなものでしょう。確かに日本の食事は美味しいです、日本人には日本のお食事が一番美味しいのは、この食習慣のせいもあると思いますが。 日本の食事、素晴らしいですよね。
2004年06月06日
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娘とすごしている、ロンドン滞在最終日になったというところなのに、またしても最後に喧嘩をしてしまいました・・・。二人が最後の晩にでかけたのは娘が計画してくれた、「テムズ川豪華ディナークルーズ」です。ガラス張りの船で食事をしながらテムズ河のディナーと夜景を楽しみます。テムズ川の岸辺にある、船着場に予定より早く到着してしまった私達でしたが、乗船して、案内された席に着くと、メニューを見て、注文をしている頃になってようやく出航のドラ(汽笛)が聞こえてきました。 何だか馬鹿に、騒々しい、話し声が聞こえる席で落ち着かないでいましたが、ちょうど窓際の景色の良く見える席が空いているのを見つけ、私達はそこへ移動させていただき、そこに落ち着きました。さっきまで後ろの席で東洋人の団体が大声で話し、ハデに笑っていたのが静かな船内の雰囲気とはチグハグのような気がして私達には耳障りだったのですが、その声もおかげで気にならなくなりました。ロンドンでは、夜の景観を損ねないようにするため、ピカデリー・サーカス以外でのネオンの使用は禁止されています。 しかし町はイルミネーションに彩られて、ロンドンの夜を落ち着いた風情に見せています。料理が運ばれ、ワインで乾杯し、船内で演奏されているサックスフォンの音楽を聞きながら、外を眺めると、ライトアップされた日本のピースパゴダ(竜の彫刻の置物)を始めチェルシー橋、HOUSES of PARLIAMENT、ウエストミンスター橋、ロイヤルフェスティバルホールなどが次々と私達に迫り来るように見えてきます。船は川上へと進み、ビッグ・ベンのところまで来た。 ここから船は川下へと引き返し、ロンドン橋をくぐり、右手に戦艦ベルファスト、左にロンドン塔、そしてタワー・ブリッジの真下に差しかかった時には音楽が一段と大きな音で演奏された。 それはまるでこのディナーツアーの最高潮だと言わんばかりに盛り上がりました。 タワー・ブリッジの向こうにセント・ポール大聖堂の丸い屋根を望み見る景色であった。 更に、「皆さん、ここから見える景色がこのツアーで最もうつくしい夜景です」とアナウンスされた。女性はスーツやワンピースにパーティードレス、そして男性はスーツで決めていて昼間の街中で見ていたイギリス人達とはまた一味違って見えました。船内が少し寒くて男性に上着を借りているドレス姿の女性もいます。そういえば娘の時も学校の友達を集めたパーティーでは、幼児であろうとも皆パーティードレスを着て集まります。娘の誕生日は1月の寒い時なのですが、それにもかかわらず半袖のワンピース姿でおめかしして来てくれたものです。 寒くないかしら?と心配しているうちはまだまだイギリス式に溶け込んでいない証かもしれません。船上ではバレンタインデーの日であったこともあり、熱々の(?)若いカップルのダンスも多く見られました。美しく、静かな夜景であった。娘は私に景色の良く見える場所に坐らせてくれて、自分は振り返る形でテムズ川の船上から見るロンドンの夜景を眺めていました。ワインが効いてきたのか、それとも夜も更けて来た為なのか? そしてあまりの快適な心地よい揺れの中で、私はついうとうとと・・・・。 「お母さん!折角いい場所に坐らせたのに、ちょっと起きてよ・・。」 これが私達の最後の喧嘩となってしまったのでした・・・(笑)。船はまた、元の船着き場に着いた。船内では、サクスフォンの“蛍の光”が演奏されていました。
2004年05月05日
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結婚して間もないとき、主人に夜中に起こされた。 「どうしたのだ、うなされていたよ」と。あの頃は良く夢を見たが、うなされる夢は決まっていた。 いつも次女の姉と喧嘩している夢だった。 夢の中ではうなされていても、目が覚めて平常心に戻れば、何ということは無い、うなされるほどのことではなかった。 些細な姉妹げんかで、辞書の取り合い、とか、参考書の取り合い、母が買ってきてくれたセーターの奪い合いなどであった。実際にこれらのことは、結婚前に、実家にいて、日常生活の中で姉としばしばぶつかり合っていたことであった。 特に仲が悪かった方ではない、むしろ仲は良かった。これからの人生について話し合ったこともありましたし、一緒に銀座へお買い物で、出かけたり、映画を見に行ったりしたものです。勉強部屋は8畳の部屋に勉強机を二つ置いていた。 姉と私は机を離して置いていたが、お互い一人でいたいと思い、ほかの部屋、居間などへ移動したりしたものです。私には兄と長女の姉もいましたが、二人は年齢、生活環境が私とはかけ離れていましたから、あまり接点は無かった。 その点、次女の姉とは同学年の大学生であり、姉は数学の先生を目指して、私は英語の先生を希望していましたから、あまりに近くにいた存在ということではあった。何度か夢でうなされ、その度に姉と喧嘩の夢を見ていたのですから、主人は「よほど激しくやりあったのだなあ、そんな夢を今も見るのだから」と言った。 私は不思議だった、なぜこんな夢を見るのだろう、姉とは、むしろ仲良しでもあったのに・・・、と。 ロンドンに住んでいたときに、姉は亡くなった。(4月30日の日記)身近な姉の死はとても悲しかった、父とともに抱き合って泣いたのです。そのとき以来、姉の夢は、パッタリ、と見なくなった。夢の中で、あんなにも姉と言い合ったりしたのに、それもしばしば夢のなかで、うなされたりしたのに、姉の死後、全く夢を見なくなったのです。 なぜかしらと、不思議に思いました。その後に二十数年して、再び私は、ロンドンの、以前に住んでいた家を訪れていますが、そこで‘タイムスリップした話’は4月27日の日記で書いています。 そのとき私は姉の夢を、姉の死後、始めての夢を見ているのです。姉も私も、タイムスリップした時代に戻っていて若々しかったのです。 そのときは仲の良い姉妹の夢でしたが。姉の死後には一度も姉の夢を見なかったのに、タイムスリップしたときに見た夢は仲良しの姉妹に戻っていました。 現実と、タイムスリップ、姉の死後の夢は精神面の葛藤、、姉妹二人の無意識の中のライバル意識、などがあったのでしょうか。理解できない不思議な現象を経験したのです。なぜなのでしょう、この現象を、説明、解説、教示できる方がいらっしゃったならば、ぜひお聞かせ願いたいものです。 (楽天の仲間)夢は、よく未来の予言とか潜在意識とか言われますがどういう意味なのでしょう。(楽天の仲間)姉妹は生まれたときからの競争者、でも反面一番親しい仲でもありますから。(私)私の夢の場合、潜在意識だったのでしょうか。やはり、私たち姉妹は仲良しでありライバルでもあったのでしょうか。姉も私も高校の、数学、英語の先生になりましたが。(楽天の仲間) フロイト心理学の夢判断では説明がつきにくく、むしろユンク(フロイトに対立した心理学者)の方が近いと思うのですが、ユンク以降のソンディー心理学で説明出来るのではないかと思います。 簡単に言えば、表面上の人間関係と内面的関係とは矛盾し葛藤している場合が多く、何かのきっかけで立場が変われば相手への認識も変わるということです。それが自分にとって印象深い相手であればある程です。相手の死や環境の変化など様々な要因がからんできます。(私)自分自身の奥深さに潜んでいる深層心理を眠りにつくと誰もが見る夢,とユング心理学では解き明かしていますね。
2004年05月02日
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ハムステッドのAbbots Gardenに住んでいた頃は、私ども家族は、娘も含めて、イギリス生活にも馴染み、言葉の不自由さも感じないで快適な日々となりました。高級住宅地に隣接し、住宅環境の良いところで、お魚屋さんもいいお店があり新鮮な魚介類が、たやすく手に入りました。 果物屋さんも、とても良い、美味しい果物が置いてあり、中でもサクランボ、イチゴが素晴らしく美味しかったのです。私は主婦業と、お稽古事に熱中していました。そんなある日、東京の私の実家から電話で、次女の姉が亡くなった、と言う知らせがあった。私たちが日本を発つとき、羽田まで見送りに来てくれましたが、そのとき姉はすでに、やせ細っていました。姉は二人目の赤ちゃんのとき、地方の病院で出産しましたが、出血多量で、産後の経過がよくなかった。病院で検査、検査の日々でしたから、私も新橋の慈恵医大に入院している姉をお見舞いに行ったものです。 姉は病名を教えてくれませんでした、母も、良く分からないと言っていました。 私は、実家の主治医の先生のお話、姉自身、そしてその夫で義兄からの二言三言の言葉から判断して、医学辞典で調べました。 その結果は;『下垂体前葉機能低下症、 原因;下垂体前葉ホルモンの分泌低下、 シーハン病(分娩時の大出血に伴う下垂体の虚血性壊死) 』、 と自分なりの判断をしていました。姉のことは、心配でしたが、実家に戻って、治療していましたから、最善を尽くせると思っていました。 私は娘を連れて二人だけで、翌日、東京へ戻ることにしました。 主人が「緊急だからこのチケットしか手に入らなかった、エアロフロート、でモスクワ経由だ」と言って、チケットを差し出した。「緊急でも、買えたのね、良かったわ、高かったの?」と私。「高い、などと言っている時ではない、100万円したよ」と主人。このことを後日、父に聞かれて、話すことになったが、父はそんな主人を‘偉い’と言ってくれた。 当時、一昔前の100万円はかなりの額であった。私が実家に着いた時は、出棺、間近の時だった。私は父が可愛そうだった、姉を一番可愛がっていたのに、その姉が父より先に亡くなるなんて。父の姿を見つけると、私はすぐに父に抱き付いて泣きながら、「お父さん、お父さん、お父さんが可哀そう、あんなにお姉さんのこと可愛がっていたのに、そのお姉さんが先に亡くなるなんて、お父さ~ん」と言って、父を抱きしめたのです。「一生懸命に看病したのだよ、寿命だなあ~」と言って、父は涙ぐんだ。幼い娘にとっては初めて経験するお葬式で、何も分からないで、何が入っているのか知りたいのか、しきりと、そばへ行きたがった。「お母さんと一緒にいなさい」、とそのつど、言い聞かせたのに、娘は姉の遺体をのぞいたのです。 かけ戻って、私にしがみつきました。その晩、娘とひとつ布団で休みましたが、うなされて私にしがみ付いて来ました。翌日になると、いとこどうしで子供たちは遊んでいました。未だ時差もあり、遊びつかれたのでしょう、娘は座敷でいつの間にか寝ているのです。母が見つけて、娘のそばに行き、「風邪でも引いたらいけないから、お布団に寝かせましょうね」と言って、娘を抱き上げました。 「あらまあ~! この子は靴のままで、寝ているは。 靴を履いたまま畳の上でいたのねえ」とびっくりして、靴を脱がせていました。すっかりイギリス人になっていた娘でした。後日、父に私は冷やかされたのですが、「恵里子だけではない、かつ子、お前は全て、イギリス流だ」と言って、私が父にみんなの前で抱きついたことを、笑って話したのです。(楽天の仲間)靴は体の一部になっているから、脱ぐという習慣はあちらの人にとっては珍しいでしょうね。(私)靴をん脱ぐことはあまり無いですねえ、特によその家では。自宅では、専用のシューズに履き替えますが。
2004年04月30日
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ハムステッドのAbbots Gardenに住んでいた頃は、私ども家族は、娘も含めて、イギリス生活にも馴染み、言葉の不自由さも感じないで快適な日々となりました。私は主婦業と、お稽古事に熱中していました。 家事の合間を見てはイギリス式のflower arrangement(生け花)を成人学校で習い、そして英語を娘のピアノの先生から学んでいました。ピアノの先生、フローラはロンドン大学で音楽を学ぶ学生で、恵里子のレッスンが終わると次に私の英語を見てくれました。私は手編みで、編物を独学でやっており、アランセーターを作っていました。まずbooklet(編み方の小冊子)を買いそのカタログを見ながらメーカーの毛糸、付属品などを揃えます。こちらのカタログを開くと、編み方の英文の文章、だけが書かれています。製図が描かれていないため、どんな作品が出来上がるかは表紙の写真でしかわかりません。まず、指定されたゲージに自分のテンションを合わせます。 大抵の作品にはサイズが2~5種類くらいは表示されてあるので、その中の、自分のサイズを選び編み始めます。文章で書かれた、編み方を読み、そのとおりにやり進めればでき上がるわけです。作品は常にバック(背中側)から編みます。 例えば、次のように書いてあります。 『何号の編み棒を使用し目をいくつ、いくつ作りなさい。1段目;表目2回、次に、裏目1回、表目1回、裏目1回、これを終わりまで繰り返す。2段目;表目1回、裏目1回、これを繰り返し、裏目2回で終わる。3段目;1段目と同じ。これを繰り返して2インチ編みなさい。』と、ゆう具合です書かれた文の通りに編み終えると、何のことは無い、1目ゴム編みができていました。初めから1目ゴム編み2インチって書いてくれれば済むのに・・・。すべてがこの調子で、込み入った模様もその指図の通りに1つ1つ編み進んで行きさえすれば、きちんと編めて来るのですから、初心者には逆に親切になるのかも知れません。 編み進むにつれて、やっと、どんな模様かが解る次第です。日本式の製図ならまさに一目瞭然なのに、と思いますが英国式の文章も、初めて編み物を学ぶ方、にはとても分かり易かったでしょう。お花のお稽古ですが、私が日本で習ったのは古流でした。日本では、先生が毎回、その日のお花を用意して下さり、生徒皆の分まで持参して下さいました。ところがロンドンの成人学校での、フラワーアレンヂメント、ではお花は自分で用意し教室へ持参するのです。初回のレッスンではコンテェイナー(お水盤や花瓶など)の説明とその種類、大きさなど、使用方法と目的、そして付属品についてのお話をして頂きました。それらが終わると「次回いける作品は」と言いながら、黒板に「トライアングル、シェイプは三角形にまとめ上げて作る」と書いて、生徒の前で、お花を先生が自分でいけ始めました。先生は、さし方の順序、全体のまとめ方、花の特徴などを簡単に説明しながら、作品をあっという間に完成させたのです。いけたばかりの作品を生徒たちに見せて、「次回はこの作品と同じようにいけますが、好きなお花を自分で準備して持ってきてください」とおっしゃったのです。 そして2回目の授業で、お花と道具を持って教室に入って行くと、すでに他の人達はそれぞれのお花とコンテェイナーで既に、いけ始めていました。私も前回の説明のノートを見ながらいけ始めます。しばらくして先生がみえると、一人一人にアドバイスをして回り、手を添えながら見て回るのです。全員の作品が出来上がると、花の種類、色の使い方、その作品がどの方向から見られているか、などのアドバイスを、生徒たちを前にして、改めて指導してくれます。それから、次回の作品についての説明になります。前回の時と同様に、黒板に、‘ランドシェイプ’と書き、「次はラウンド シェイプです、この形は、テーブルの中央に置きます」と説明しながら、見本の作品を完成させて、見せてくれます。お花は各自が準備してきますから、生徒の数だけさまざまな作品と花の使い方があります。他人のアレンジメントをお互いに見せ合いながら学習していくのです。生徒の人数だけお花の、選び方、使い方があり、とても勉強になります。特に花の選び方や配色の仕方が大切だということを私はここで学びました。アレンジメントには、庭にあるグリーン(木や草花の緑)がとても役に立ちました。私が日本で学んでいた時のように、先生から与えられたお花と材料をそのまま使う、やり方は楽ですが、それは、ただの過保護でしかない、と思えました。
2004年04月29日
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応接間の窓からレースのカーテン越しに見える風景今回私達が泊まっていたWest Kensingtonにある、ホテルで食べていた朝食は、純英国風のブレックファーストです。娘もはじめはなんだか味がしっくり来なかったということでしたが、日が経つにつれ懐かしく、なんだかわからないけど無性に食べたくなる美味しい味に変わっていったようです。子供の頃、学校で毎日みんなで楽しく食べたイギリスの味は大人になってもなかなか忘れないのでしょうか。 食事をしている子供たちを見て、ホテルの、美味しい味の理由が思い当たりました。職員室に入ると先生方が対応して下さり、「当時の校長先生は誰でしたか?担任の先生は?」と私達に立て続けに質問をなさいました。私は校長先生の名前は覚えていたものの、担任の先生の名前までは覚えていません。「ミセス・・・、うーんわかりません」と私。 「ロングヘアーで黒い髪をしていた女性です」と娘。「解りました。まずは在籍簿を調べてみましょう」「えーとEriko・・・あ Kobayasiさんですね、お父さんのサインがここに・・・」と言いながら、がっしりとしたハードカバーの大きなノートを先生が私達に広げて見せてくれました。この国は本当に物持ちがいいのね、と心の中で思ったその時、娘が「Oh、 my name is here!(まぁ!私の名前がある!)」と声をあげました。先生方と恵里子との会話は、学校を卒業してからの事、そして今どんな仕事をしているかで盛り上がっています。 恵里子のパソコンの仕事、ライター、のことなど。話がパソコンになると、「ここの生徒達もパソコンを使っています」とおっしゃって、私達はパソコンの入った教室に案内されました。 そこでは低学年の小学生が10人ぐらい座っており、各自が1台のパソコンを操作していました。 私はこのような光景を初めて目にしました。 東京の学校でパソコンの授業があることは聞いていましたが、こんな幼い子供達までもしているなんて。 英国のブレアー首相は教育に力を入れている、と聞いてはいましたが。ここでも突然お邪魔してしまいましたのに、先生方はとても親切にそして丁寧に私達を迎えてくれました。 十分御礼を述べ私達は学校を後にしました。タイムスリップした、私。Golders Green 駅前から10分たらずバスに乗り、6、7分歩くと私達が住んでいた2番目の家、があるAbbots Gardenという通りに入ります。この付近はロンドンの中心から少し入った所にある、ハムステッドの立派な家々が立ち並ぶ高級住宅街に隣接している美しい街です。 娘の後に付いて歩いて行きましたら、懐かしい見覚えのある家に到着しました。「ここよ」と娘。 そうです、確かにここです。 見覚えがあるどころか、まだこの間まで住んでいたような感じがしました。 長い旅行から、今、ようやく我が家に戻って来たような、そんな気がしたのです。この家は私達が住んでからしばらく経っているのに、ペンキが綺麗に塗られていて以前よりも家が美しく見えます。 こちらでは家が20年、30年経っても古くなるどころか逆に綺麗になっていくのが不思議なところです。私達が以前住んでいた我が家のベルを押しますと、日本人の奥様が私達を「立ち話もなんですから」とわざわざ迎え入れて下さいました。 昔住んでいた時と同じように私達はなじみの玄関で靴からスリッパに履き替えました。 室内も私達が住んでいた頃よりもペンキの塗り替えや間取りの変更でより美しくなっていました。 家主さんが私達の頃と代わり、初めはその家主さん一家が住むために家を大改装したということでした。私達の時代には別々に仕切られていた応接間と居間の仕切りが今はなく広い部屋に変わっていました。その応接間の窓から、私が以前いつもそうしていたように(人の家だということをすっかり忘れて)ゆっくりとカーテン越しに外を眺めました。 少し曲がった人通りのない道は今も静かな家並が続いていました。 以前、毎日見ていた景色が目の前に広がると、昨日もその前の日も、同様に、この同じ景色を見つづけていたかのような不思議な錯覚に陥りました。 その部屋には私が当時フラワーアレンジメントで習ってきて、活けたお花が置いてあったのですが、それが、いつもの場所に置かれていなかったので、私は、「あら、お花はどこ?」とつい探してしまいました。リビングにはあの頃は、古いがっしりとした黒い木のテーブルでしたが、今は新しい、美しいテーブルが置いてあり、私達はそこで日本茶をご馳走になりました。 彼女が、キッチンに入り、お茶を持ってきたとき、「いつも私が、キッチンでしていたことを今、彼女がしている」と思い、不思議な感じ、想いがしたのです。ロンドンで美味しい日本茶をいただいて、とても心が休まりました。 ふと見渡すと裏庭も総て昔と同じままです。 隣の家との境の、古い木製の垣根、その側にあるライラックの木、裏庭の向こう側にある、他人の家の裏庭、その境には相変わらず木々が茂っています。私が住んでいた時そこにあった2本の大木が切倒されたのです。 大きな音と共に木が倒れるのをこの部屋から見ていました。 ザザッという音とともに、リスが数匹、その倒れかけた木から、飛び降り、逃げ散って行ったのです。 そのとき以来、リスの姿を見かけなくなってしまったのです。 そんなことを思い出しながら、同じ場所に在る木々を当時と同じリビングから眺めていましたら、裏庭にリスが数匹、現れてきたのです。 「あっ、リスだわ。まだリスがいたのね」と私。「ええ、毎日出て来るんですよ。 息子がエサをあげています。 これです」彼女はクルミを二つリスの方へ転がした。 私はそのリスを見ていて、なぜかわからないのですがさらに不思議な思いに浸っていきました。私は昔から此処にいてリスや裏庭を眺めていたのです。 今も同じように眺めています。 私はあの頃と全然変わっていないのに娘だけが大きくなっている。 それはなぜ? 不思議な気持ちのまま、私はそのまま昔に1人タイムスリップをしていったのです。 これが不思議な現象の始まりでした。 と言いますのは、その時以来、ロンドン滞在中に亡くなった私の姉の夢を再び見るようになったのです。 この次女の姉のことは、後日の日記に書きますが、姉が亡くなってからは、このときまで一度もその姉の夢を見たことが無かったのです、それなのに、その晩、滞在中のホテルで夢を見ました。 姉は夢の中でとても元気でしたしまだ若かったのです。さらに、私の高校時代の担任の先生の夢までも見たのです。 先生は相変わらず若く快活でとてもお元気でした。 姉も先生も、二人とも、あの頃と変わらず若々しくお元気でした。 もちろん私自身までもが若返っていたのは言うまでもありません。そして不思議な現象がもう一つ。 今回、私と娘とで二人ロンドンにいて、色々な交渉事は全て娘がしてくれていました。 娘の英語で十分だったし、私は話していても単語が思うように出てこなかったり、第一相手は誰も私の顔を見ないで、娘の方を見て話をしていました。 それがどうしたのでしょう、この時から私は、急に昔の若かった時と同じような、流暢な英語、を話せるようになったのです。 不思議なことに単語が淀みなく出てくるのでした。 そしてなぜか気分も若々しく軽くなり、私の持病の足の踵の痛みも薄らいでいたのです。同じ家に住んでいたというだけの縁で、娘が事前に話をつけておいてくれたとは言え、すっかり長いこと見ず知らずのお宅にお邪魔をしてしまいました。厚く御礼を述べてこの家を出ました。 夕暮れ近くになり、コートなしの私には冷たい外気のはずでしたのに、タイムスリップして、若返っていた私は、一考に気にならず、娘の速歩に負けないで、元気良く、若い頃の、ここに住んでいた当時の、私のように歩いたのです。タイムスリップしたこの不思議な現象は、帰国して、成田空港に到着するまで続きました。(楽天の仲間)懐かしい英国の家に戻られタイムマシーンに乗ったような経験で感慨深いでしょう。(私)タイムマシーンに乗ったような経験、ずばりそのものです。(楽天の仲間)懐かしい不思議な体験で、一気に脳細胞が活動始めたのかもしれませんね。(私)不思議な現象でした。「脳細胞が活動を始めた」、そう、なんですか、不思議な体験でしたよ。(私)Lovelyの日記の中で、私はタイムスリップをしています(本当の話)、数十年前とまるで同じ環境の中に戻ったのが原因でしょう。風景は、環境は人に与える精神面の影響が大きいのでしょう。(楽天の仲間)今、Lovelyさんの日記を読み終わったばかりです。昔の記憶が蘇って(というよりもそれを被っていたカバーが取り払われた状態になって)良かったですネ。環境がそういう風に刺激を与えてくれるということは大いにあることで生活に更なる潤いを与えてくれた点では良かった旅行でしたネ。
2004年04月27日
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お隣のご主人様と私、昔の家の前で Chils Hills School, と教室ロンドンの2月は、東京のような身を切るような冷たい風ではなく、既に春風のようにも感じられ、そう寒くはなかった。東京で買って、着てきた寒さ対策のダウンコートも必要ないくらいの暖かさを感じました。以前私達が家族で住んでいた懐かしい2つの街、すなわち、ゴールダスグリーン、ともうひとつの、引っ越した先、ハムスッテドのアボッツガーデン、に娘と出かける予定です。私達が住んでいた家に今現在住んでいるという日本人の方ともお会いする約束をしていたこともあって、思い切ってスーツだけで出かけることにしました。地下鉄ノーザンラインに乗り、まずは、懐かしのGolders Green 駅で降りました。この周辺はJ.J.の町とも言われ、Japanese、Jewish(日本人とユダヤ人)が多く住んでいます。私達もここに住んでいたのですが、いざ駅に着いたものの、駅前のバス乗り場から何番のバスに乗って家に行ったかが思い出せないのです。私はいつも車で来ていたし、バスが通っているのは知ってはいたのですが・・・。ロンドンでは最初は、国際免許書、で運転し乗っていたのですが、こちらでも主人と私は免許を取得しました。インストラクターの男性が家まで来てくれて私たちの車で練習し、私たちの車で試験を受ける事が出来ました。日本のように教習所へ通うという事はなく総て実際の路上運転で、試験も路上運転と、その車の中での口頭質問なのです。その免許は70歳まで使用できるので今でもまだ使えます。その間一度も更新と、書き換えはありません。仕方なくバス乗り場で、「Hendon Way 又は、The Valeへ行きたいのですが何番に乗ればいいのですか?」と運転手さんに尋ねて回っていると、1人の運転手さんが私達を見かねて「このバスは車庫へ行くけど、そこを通るからそこまで乗っていきなさい。カモン!」と言って指を立てて、呼んでくれました。バスは娘と私と、その運転手さんの三人だけです。彼は無料で乗せてくれたのです(お金を渡そうとしたのですが受け取ってくれませんでした)。実はイギリス人は親切な人も結構多いのです。イギリスに来て騙されてはいけない、馬鹿にされてはいけない、人種差別があるのではないかと思っている間は、そんな親切なイギリス人がいても気がつけずにいたのです。少しずつ気分的に余裕がでてくると、他人の、イギリス人の親切も見えてきました。娘がお礼に自分のキャンディを渡しましたら、ニコニコと微笑んで、受け取り、手を振ってお別れしてくれました。そうして私達が最初に住んでいた街、 Cumbrian Gardens に無事到着しました。実際に歩いてみると、どこの道がどう通じていたのかが少しずつ思い出され、何か不思議な力で再び昔に舞い戻されて行くのでした。それはやはり以前と変わらない家並み、道路であり、あちこち修理はされていても町の基本形体が殆ど変わっていないからでしょう。そして住んでいた家の前に到着です。私は家の前に来て立ち止まり、しばらくじっと家を見つめていました。 私達が住んでいたあの頃を思い出すかのように・・。 歩道にはみ出した大木の桜の木の下で。「お隣りの家は今もいらっしゃるかしら?」二人は迷うことなく隣のベルを押すと、幸いにもお隣のご主人とお会いできたのでした。少し年を召された隣のご主人様でしたが、私にはすぐに昔の面影が重なりました。「私と娘のEriko は以前、お隣の95番に住んでいたんです・・。私達を覚えていらっしゃいますか?」と言えば、彼は直ぐに思い出してくれて、突然の訪問にもかかわらず私達を快く家の中へと導いてくれたのです。奥様は買物に出ていて残念ながら今日は留守だったのですが・・・。家の中に入って目にしたその光景は、相変わらず昔と変わらない暖かいロンドンでの生活がそのまま続いていました。 同じ場所に置かれたソファー、ご主人の椅子、暖炉がありました。しばらく、お互いの現状について話し、懐かしい過去も振り返った後、記念の写真を撮りメールアドレスの交換をしました。 スターンさんに、娘が通学していた‘Childs Hills Infant School’の場所を教えてもらい私達はそこへ、向かうことにしました。「確かこの道だったわ。 左側に学校があったはずだけど。 もう少し行ってみましょう」家から学校までを、いつも私が車で送り迎えしていたので、今歩いてみると随分長い道を歩いたような気がするのですが、学校はまだ見えてきません。道路沿いの庭で、車をいじっていた男性に道を尋ねながらようやく小学校に到着しました。「ここだわ」。 入るわけでもなくただウロウロするだけの私達でしたが、その時、校門から女性が出てきました。私は「ハロー、彼女はここの小学校の生徒だったんです。 久しぶりにロンドンに来ましたので寄ってみました」と話しかけて言ってみました。女性は一瞬戸惑った顔をしましたが、娘に「職員室はあちらですよ。 どうぞ来てください、ご案内します」と私と娘を連れて校庭を横切り、校舎内へと入って行きました。私たちも彼女の後に続いて恐る恐る入っていきました。「わー懐かしい、ここでディナー(給食)を食べたっけ。 でももっと広いと思ったんだけど・・・」と娘。お昼時と言うこともあって、大広間(体育館)のようなこの場所で全校生が集まって食事をしています。私には、懐かしい子供たちの姿が目に入ってきました。 私達が入ってくるのを見て不思議そうな顔をする子供達ではありましたが。(続く)
2004年04月26日
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娘の出発から3週間遅れて私もロンドンへ経ちました。ツアーではないので私は何かと不安もありましたが、パスポートの入手、チケット予約、荷物の整理など一つ一つ片付け、娘にはEメールで、「あなたの時と、同じ飛行機でロンドンヒースロー空港へ向かうので迎えをよろしく・・・」との文を送りました。娘の方も私のために新たにホテルの予約をしてくれていました。現在、ロンドンへは直行便なら12~3時間で到着するのですから、昔と比べれば本当に便利になったものです。それに何より嬉しいのは航空運賃が冬場ということもあるのでしょうが7万円前後(往復で)と安くなっていることです。 これも娘が教えてくれたのです。昔、ロンドン滞在中に、私の姉に不幸があって、急遽、モスクワ経由で帰国、実家に帰った時は、娘と二人で百万円弱もかかりましたから今となっては本当に驚くばかりです。今や海外旅行やビジネスで飛行機に乗るのはごくごく当たり前になっています、以前の羽田空港から成田空港と場所も変わり、昔の、私達の頃のように海外勤務をするからといってお見送りする光景は今や何処にも見られませんでした。1人で成田へ行くにしろ荷物をあらかじめ空港へ、宅配便で送ることもできますし、最寄駅からの成田エキスプレスを利用すれば国内旅行と同じような軽い気分で行けますから。今回乗ったロンドン行きの飛行機はすべて満席でした。2月という時期もあってか、ビジネスマンよりも旅行や留学をする女性の乗客が多く見受けられました。それだけ旅行者が多いのでしょうが、満席ということもあってさらに座席が狭く感じました。 私が乗ったのはビジネスクラスでしたので、それでも座席に余裕はあったのでしょう。機内では座席前に付いている画面で映画、ショッピングガイド、テレビゲームなどをし、食事を何回か、そして寝たりしているうちにあっという間にロンドンに到着しました。到着したヒースロー空港は、私が住んでいた当時よりも今は明るく清潔な感じがしました。ヒースロー空港では娘が私を迎えてくれ、飛行機が遅れ、待ちくたびれながらも微笑んでいるのを見た時、言いようがなくホッとしたのでした。日本では色白の娘もここロンドンで見るといかにも日本人らしく、いくらか黄味がかって見えました。「恵里ちゃん・・・」と私。 娘は手を振って、私を見つけると近づき、私が押していた荷物を代わりに押してくれました。 「ここからは、地下鉄で行くからね」と娘。 娘は東京にいるときとは違った思いやりのある面を見せてくれました。地下鉄のピカデリーラインが地上から地下に入る頃、辺りの景色は早くも夕闇に包まれていました。17:00を過ぎ、車内はサラリーマン、OLで混みだして来ました。車内は白人、黒人、インド人、東洋人など様々な人種のるつぼ・・・。ようやく私も懐かしの国、ロンドンに足を踏み入れたのです。私が住んでいた時代は地下鉄内のアナウンスも電光掲示板も全く無かったのに、今ではその両方があって、東京の電車と同じだと思いました。車内では人々の携帯電話があちこちで鳴り、車内で話す声も聞こえてきます(ここでは車内での使用が可能なのですね)。都営大江戸線の車内に似た感じのちょっと狭い車内にはすぐに慣れました。2,30分を過ぎたところでホテルのあるGloucester Road駅に到着しました。
2004年04月25日
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Abbots Gardens(ハムステッド) の我が家(↑)、 とそのご近所(↓) ロンドンの娘から翌日に電話がありました。「昨日はどうだった? Abbots Gardens の家はわかったの?」「うん、周りの人に聞いて、迷いながらもすぐに行けたわよ。 でもね、David の家は引っ越していてもう違う人が住んでいて、いなかったの。今では、元の、私たちの家に、ほかの日本人が住んでいて、その人の話によると、この辺りにもバブルが押し寄せて、みんな家を売って引越してしまったんだって」娘は思い切って、まずは隣のDavidの家を、そして、Davidの家族は誰もいなかったので、自分が昔住んでいた家を訪ねて、その話を聞いたようです。彼女は昔の友達とも、その家族にも会えずとても残念そうでしたが、持ち前の人なつっこさで、私達が住んでいた家に今、住んでいる日本人の方とお話をしてきたのでした。娘は少しずつロンドンの空気を吸い始めているのが日本にいる私にも十分伝わり、理解できました。しかし私の英国滞在経験から、海外に到着してから1週間ぐらいの間に必ず失敗や、ケガ、不注意なことをしてしまうものなのです。娘がロンドンに着いてから3、4日程経った頃、「パソコンをしていてお風呂の水をホテルで溢れさせてしまった」という失敗の話を電話でしてきました。部屋の中にホテルの人が数人、入って来てバスタオルを何枚かひいて出て行ったのだそうです。それから一夜経って「運良く下の階に水漏れするようなことは無かったようだが、この絨毯はウールなので、縮んでしまうんだ」、とホテルの人に言われてしまった。「もし弁償してくれ、ってホテル側に言われたらどうしよう・・・。」と相談してきたのです。私は「弁償しろって言われてから考えればいいから・・・。 今回の旅行は、ちゃんと保険にも入っているんだし。 もし何かあったら母が2月に来ますから、と言いなさい」と私はきっぱり娘に言いました。ロンドンに着いて、このような事が起こらなければいいが、と内心ずっと心配でした。でも娘の心配とは裏腹に、私としてはたいした事態でなくてよかった、と少し安心したのでした。その後、娘が携帯電話を借りたのをきっかけに、なるべく私共の方から電話を入れるようにしました。毎日電話するたびに娘はいつも違うところを元気に動き回っていました。どこからのツテなのか、数人の日本人達とも接触していて、ロンドンの大学でカリグラフィーを学んでいる方とお会いした折りに、児童文学を勉強できる学校を紹介してもらったそうです(娘はロンドンで、児童文学の勉強を考えていた)。モデルのお仕事で、カメラマンの方々とも連絡を取りあっていました。又、ミラノでモデルをしている日本人の方々とお会いし、観光を兼ねてイタリアへ行ってくるとも話していました。親の心配をよそに、現地に馴染んできていました。
2004年04月24日
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私と娘の、イギリス訪問の旅は、娘が先に行って、数週間遅れで、私が出発し、ロンドンで一緒に過ごしたのですが、娘が一人でいた時の事です。「今日はね、これから昔住んでいたAbbots Gardens へ行ってみるから・・・。」と彼女。このAbbots Gardens というのは私達、家族が日本に帰国する直前まで住んでいた所、ハムスッテッドにあります。住んでいた家の近所には彼女の仲良しの遊び友達もたくさんいたし、今でもきっと懐かしく思えるのでしょう。 到着した翌日にそこへ向かうと言うのですから。「覚えている? 最寄りの駅はEast Finchelyよ。 リターンチケット(往復券)が安いから必ずそれを買っていくのよ。 駅を降りたら住所を言えば誰かしらが教えてくれるわ。」私は立て続けに話した。私共はロンドンに来てから一度引越しをして、East Finchely 駅から数分のところにある、Abbots Gardens, に移り住んだのです。 この家を、今、娘は訪れると言うのです。引っ越をしてきたとき、 娘は転校したのですが、彼女は転校などには関係なく、すぐに近所の子供達と仲良くなり、毎日,本当によく遊んでいました。 帰国するまで住んだ家でした。以前の家は,Golders Green 駅,の近くでした。そこの学校でも友達がいて、英語を学びながら現地の習慣や状況に馴染んで行きました。その時の彼女の毎日のスケジュールは,Infant School,学校から3時過ぎに帰宅し、おやつを食べ、テレビで‘play school’ という子供向け番組を見て、一休みします。冬ですと、もうその頃には外は真っ暗です、それから娘はピアノを弾きます。 当時ロンドン大学の学生、フローラが、週一回ピアノを教えに来てくれました。 彼女は私にとっても英語の先生でありました。その後、親子の会話の時間です。「今日は学校で何したの?」と私。「この本を貸してくれたよ。 家で見てきなさい、って」見ると娘が持ってきた「本」は画用紙を半分に細長く切っただけのものです。先生が作った10ページ足らずの小冊子で、端をピンクのリボンで留めてある、手作り。表紙にはTeddy とだけ書いてあり、もちろんすべてが手書きです。ページをめくるとテディベアの絵があって「I am a bear. My name is Teddy. 」という文が添えられています。ピンクのリボンをしたテディの絵のページには「I have a pink bow. 」という具合です。娘は私が読むのを何度も聞き、すっかり文を暗記してしまうと今度は彼女自身が本をめくりながら、「I am a bear. My name is Teddy. I have a pink bow. 」と何度も繰り返すのです。これが終わると娘は自分のベットルームに行き、又、下へ来たりもして、私達が見ているテレビを見ながら食事までの時間をすごします。翌日には、また昨日とは違う、別の本を持って帰宅するのです。しかし次第に英語が上達し、友達ができるようになると、遊ぶのに忙しくなり、読書の時間が減っていきました。ハムスッテッドに来てからは娘の英語の先生は、かつての私から、友人達や学校の先生に代わっていきました。ロンドンへ来てすぐの時、イギリスの慣習や言葉を知らないために、娘は遊んでいる途中で友達を家に帰してしまったことがあります。隣の家の女の子と一緒に遊んでいた時、その子を自分の家に呼ぼうと、日本流にこっち、こっちと手招き(手を上から下に振った)をしたそうです。こっち、こっちという手振りはイギリスではバイバイになってしまい、女の子は娘の誘いにも関わらず、バイバイだと思って家に帰ってしまったのです。「家へおいでと手招きしたはずなのに、バイバイだと思って帰ってしまったよ。」と娘は残念そうでしたが、今ではそれも笑い話の1つです。 友達と遊んでいて、経験しながら、娘は少しずつイギリスの慣習を学んでいきました。夕食は、主人が帰るとすぐに始まり7時前後には終わります。夏時間のときですと、まだ日が差していて、外は気持ちのいい陽気ですから、家族で、出かけます。よく出かけたのは、ゴルフ場で、隣の家の、恵里子の友達、David、も一緒に行きました。帰宅は 暗くなってからで、夜の9時から10時近くでした。 夏は何時までも明るくて、有効な時間を過ごせたのです。彼女の最初の遊び友達は皆女の子でしたが、 Abbots Gardens、に引っ越してからは、すぐに周りの友達と慣れることが出来て、とても活発に男女の子に関係なく毎日誰かしらと一緒に遊んでいました。鬼ごっこ、ピクニック、クリケット等をしていたように思います。特に、David 、とはとても気があったようで、休みになるとお弁当を持ち、ピクニックに出かけたり、仲良く毎日のように遊んでいました。その時のお弁当は、パンにコロッケをはさんだ,コロッケサンド、でした。 イギリス人の友達も、コロッケが大好きでした。 日本人なら誰でもご存知のコロッケなのですが。・・・・・・・・・コロッケの作り方・・・・・・ ポテトコロッケ(15個分)材料じゃがいも 中5個牛挽き肉 200g玉ねぎ 中2個卵 1個粉、パン粉、サラダ油 適量作り方じゃがいもは皮をむいてから(アクが取れるので)、たっぷりの湯で茹でます。 茹ったら水分を飛ばしてからつぶしておく。・・・a.玉ねぎはみじん切りにしてよく炒め、ひき肉を加え更に炒める。 肉に火が通ったら、塩、コショウ、調味料で味を整える。(じゃがいもには味がついていないのでその分を考慮する)・・・b.a.のじゃがいもの中に、b.の炒めた具、を入れてよく混ぜ合わす。 15個の団子にして粉をまぶしてから好きな形にし更に粉で形を整え、とき卵、パン粉をつけて油で揚げる。 低温でいつまでも揚げていると破裂して中身が出てくるから油温に注意(180度)。 とき卵だけではパン粉の衣が薄いので、粉と水を少し足しても良い。(楽天の仲間)英国のコロッケと日本のコロッケは、同じようで親しみがあります。英国のジャガイモは、どの様な美味しさか経験したいです。(私)イギリスにはコロッケの料理は無いのです、それで、我が家のコロッケが、人気があったのです。じゃが芋は、日本と同じです。 おいしいです。(続く)
2004年04月22日
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Spode, Blue ItalianSpode Visiter Centre、へは3時近くに到着しました。このSpodeはボーンチャイナを最初に製品化した英国王室御用達の工房とのことで、とても高価な感じの磁器、チャイナです。スポードはジョサイア・スポード氏により、ストーク・オン・トレントにて創始されました。1784年には「銅版転写」技法を編み出し、1816年には最高傑作、‘ブルーイタリアン’シリーズを開発しました。‘ブルー・イタリアン’の原画は当時のローマ近郊の風景を題材にしています。又縁取り部分は、中国より輸入された磁器の、伊万里、柄をそのまま模したものだそうです。‘ブルー・イタリアン’の伝統的な製法である「銅版転写」は現在も熟練された職人によって守られています。‘ブルーイタリアン’は発売当時から、180年以上もの間、現在も世界中で愛されています。ここ、Spode Visiter Centre、では銅版の製作や陶器への彩色などを見たのです。そして私がここを訪れた狙いと言っても過言ではない、Spode(http://www.spode.co.uk/)のアウトレットショップ、を見たのですが、実際私の欲しいものは残念ながら色違いはあったものの置いてありませんでした。私はSpodeの鮮やかなブルーのプリントに憧れていたので、それがどうしても欲しいと思っていたのです。Spode Visiter Centre 内には「ブルーイタリアン」という名の、素朴な雰囲気のレストランがあり、私達は帰りにそこに立ち寄りました。農家の野菜スープ、とパン(食べ放題)、で3ポンド(600円弱)、とは安いと思いませんか?パンを盛りバターを皿に置き、テーブルで食べながら待っていると、スープがなみなみと入った、‘ブルーイタリアン’のスープ皿で、スープが運ばれてきました。周りを見回すと、ティーを飲んでいる人もおり、皆が‘ブルーイタリアン’のセットで飲食をしています。そう、もうおわかりだと思いますが、このレストランの名前である「ブルーイタリアン」はチャイナ、食器の名前からきているのです。その名の通り、スポードのあざやかなブルー、ビクトリア調の格式とでも言うのでしょうか気品あふれる‘ブルーイタリアン’のチャイナを実際に使って料理を出しています。‘ブルーイタリアン’の美しいチャイナでお茶が運ばれてくるのは陶磁器好き、には嬉しい限り、本当に感激です。ついさっき、‘ブルーイタリアン’の製作過程を見学し,銅版による印刷、の転写技法の説明を聞き、赤い銅版を手彫りで細かく彫刻している職人さんの作業姿を見て、感心してきたばかりのその‘ブルーイタリアン’で、ですからなおのことです。ロンドンに滞在中、私達は毎日ホテルで同じメニューの朝食ばかりでしたので、野菜一杯の濃厚なスープを本当においしく感じました。ただ、そのスープを飲むとジャリッ、とした歯触りがあり(娘にはなかったよう)、葉キャベツか何かの野菜にドロが付いていたかしら、と思われます。しかし、そこまで気にしていたら英国の田舎料理はもう食べられないでしょう。とにかく私はごたごたの野菜料理に飢えていましたので、パンをおかわりし、パンにスープをつけながら、イギリスの農家の味、をお腹一杯、綺麗に平らげてしまいました。「ブルーイタリアン」のスープとパンのおかげでお腹一杯になった私は最後に飲み物を取りに行きました。これが実は無料なのです。日本ならずともイギリスで無料のものだなんて、今までそうそうは聞いたことがありません。工場見学で入場料を払ったからでしょうか。これは嬉しい驚きでした。 美味しいりんごジュースを頂き、店を出ました。この街で私達は何度となく道に迷ったのですが、様々な人々に教えて助けてもらいました。人々はみな心が暖かく、一生懸命に場所を教えてくれる老人に、何はともあれ「ありがとう」と握手をしてしまったほどです。ロンドンとは違い、訛りの強い英語はとても聞き取りづらく、娘もいつもとは違う英語を聞き取るのにひどく苦労したようです。言葉や人種の壁があっても人間とは思いやれるもの。そんな暖かい気持ちでこの町を後にしました。またも遅れてきた電車に乗り、暖房の入らない寒い列車の中で、やっとの思いで眠れ、私達はロンドンの Euston 駅に到着しました。後日、ナイツブリッジのハロッズデパートで、娘との英国旅行を記念し、思いきってスポードの'ブルーイタリアン'のティーセットを一式、購入しました。東京の自宅へ直接配送してもらいましたが、3週間ほどで日本には届きました。そのとき税金と手数料で2000円払っただけでした。
2004年04月21日
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その後はWedgwood Visitor Centreに向かいました。Wedgwood、ウエッジウッド、を代表する、ジャスパー、は有名なシリーズです。創業者のジョサイア・ウェッジウッドが宝石のような焼き物をつくろうと、4、5年の歳月と1万回以上の試作を経て完成した釉薬のかかっていないストーンウエア(石のように固い器の意)です。素地そのものに上品な色合いを含ませ、ギリシャ神話などをモチーフにした図柄をレリーフ風にあしらった独特のデザインは、ジョサイアがイギリス陶磁器界に残した最大の功績ともいわれています。欧米ではウェッジウッドブルーとも呼ばれている独特のペールブルー。白く浮かび上がるギリシャ風の図柄が高貴な印象を与えます。ペールブルーのストーンウェアに白いカメオ細工のような飾りを張り付けるのが特徴と言えます。ジャスパーシリーズは誰もが見たことがあるでしょう。このWedgwood Visitor CentreはStoke-on-Trent駅からバスでかなり入ったところでしたがその分、規模も大きく、建物も新しくてとてもきれいです。ウエッジウッドの歴史や製法、を博物館のように展示しています。製作過程の実演、お店、カフェなども楽しめます。絵付けや彩色などの実演はとても興味深く、陶磁器がより身近なものに感じられました。Wedgwood Visitor Centreを見終わったときには午後2時を既に過ぎていました。冷たい、小雨降る中、最後にもう1箇所、かねてから行きたかった、Spode Visiter Centre、へ行くことにしました。(続く)
2004年04月20日
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Royal Doulton Visitor Centre、にて。 英国のボーンチャイナが昔から大好きな私は、以前(昔)に、もう,ひととおり買って揃えてあるのにもかかわらず、ロンドンで、店の前を通るとどうしても誘惑に負けてしまい、今はどんなものがあるのかしらと、気が付いた時には、店に入っているのでした。ボーンチャイナ、そして、チャイナショップはもちろん今も健在で、ロンドンのあちこちで見られます。ガイドブックを見ていて、「英国の陶磁器メーカーが集まっている、陶器の町Stoke-on-Trent へも時間があったら行ってみたいわね・・・」、と私が、そんなことをポロッと娘に告げると、早速に、娘は「行こう」、と行動に移してくれました。Stoke-on-Trent は陶土と石炭が豊富にあり、昔から、陶器の町として有名です。Euston駅から約二時間の場所にあるのですが電車は途中、徐行運転をし、案の定30分以上も遅れてStoke-on-Trent駅に到着しました。Stoke on Trentと言う駅につくと、そこにあるのは、Stokeと言う街で、Stoke on Trentの町中、タウンセンター、まで出るには、そこからバスに乗ります。Stoke on Trentのタウンセンターは、Hanley、ハンリー、と言うところにありますので、Hanley行きのバスに乗ります。市内には、Pottery,窯元の博物館、やギャラリーがいくつかあります。また、近郊にある工場の数は、大小合わせて、30くらいあるそうです。大きなところと言えば、Wedgwood、やRoyal Doulton、があります。私達はどう行ったらいいのか道に迷いながらも早速、Royal Doulton Visitor Centre、へと向かいました。ロンドンを離れると小雨のせいもあってかとても寒かったのですが、入場料を払って中に入ると室内はとても暖かくてひとまずホッとしました。Royal Doulton、はピーターラビットや美しい女性をはじめ陶磁器で作られた、美しいあでやかな人形、お花、で有名です。ドルトン人形の展示室にはかなりの数の人形が展示されていて驚くと共に、古くからの長い伝統を感じさせられました。自宅にある人形と同じ人形が展示されているのを見つけて、古くからのパターンの人形を、今もなお、作り続けているのを実感しました。そこ、人形のショウ―ルーム、を抜けると次の部屋では、人形ができるまでの行程、を実演で見せてくださいます。 実際に作りながら、説明してくださり、分かりやすく、興味ある作業場でした。 Royal Doulton、の人形。(続く)
2004年04月19日
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イギリス人は皆、素敵なボーンチャイナでお茶を飲んでいるのでしょうか?答えはノーです。一流ホテル、一流レストランでのティーや、貴族、上流階級はいざ知らず、私の知る限りでは皆さんそこそこのチャイナを使って、コーヒーにも紅茶にも便利なマグカップなどを使っていたりするのです。以前住んでいたゴールダスグリーン駅前にあった雑貨屋さんでは手ごろな陶器が並んでいて、手ごろな値段の、ドイツ製やフランス製やら、外国産のチャイナ、そして手ごろな値段の、英国製のチャイナもあり、売られていました。 Oxford St. にはデパートが幾つか並んでいて、そこには大手スーパーのマークス&スペンサーが近くにあります。娘と二人で、スーパーのサンドイッチバーで昼食をして、ひと休みしてから、食品売り場を見て回りました。私達はここで紅茶を多めに買って自宅用にしました。日本人がおいしいとするイギリスの高級品の紅茶は、一般のイギリス人が普段に飲んでいる紅茶とは違うのです。何十年ぶりかで、このマークス&スペンサーに再び来て、私はもう1度この一般のイギリス人が飲んでいる、おいしい紅茶を家で味わいたかったのです。他にも私が以前、よく紅茶を買うのに利用したデパートはSelfridgesでした。以前住んでいたハムステッドからバス一本で来られたのが大きな理由なのですが、品数も多く、高級とまではいかないにしろ、良いものが多く揃っています。お友達へのお土産用には、以前のクラッシックな雰囲気のフォートナムメイソンから変えて、今回はウイッタード(Whittard of Chelsea )のものにしました。とてもファッショナブルな店内です。 人気があるせいか、市内のあちこちでもウイッタードのお店を見かけました。私は中でも伝統的なブレンドやクラシックブレンドを選んだのですが、娘はちょっと変わったバニラだとかキャラメルフレイバー、ピーチ等をお土産に選んでいました。私が紅茶以外で選ぶお土産は私の大好物でもある、チョコレートの、After Eight、です。パッケージの時計の絵が印象的な、薄いチョコレートの間にミントが挟まった大人のビターチョコです。これは私がイギリスに住んでいる時から大好きで、今買ってみても昔と味も形も全く変わらず本当に美味しいです。お土産話のついでに私がお勧めする、もう一つ美味しいお菓子にShortbread Cookies (http://www.walkersshortbread.com/ )というクッキーがあります。東京でも最近はよく売っていますが本場のものはいろいろなフレイバー、レモンとかジンジャーなどがあります。もうひとつお土産にも自宅用にもいいのが、English Cheddar Cheese 、英国のチェダーチーズです。 おいしいチーズの代表,と思います。 ほかのスーパー、Sainsbury’s 、などにも、手ごろな、おいしいチーズ、紅茶が並んでいます。お土産話が一段落したところで、‘紅茶の入れ方’です。私と娘は「手作りマフィン・スコーン教室」に参加しました。テムズ川のほとりにあるイギリス人の先生のお宅(フラット)が教室です。目の前にはなみなみと流れる美しい川が見えました。彼女のお宅のキッチンで習って、一緒に作りました。できあがったばかりのスコーン(クロテッドクリーム、ジャムが添えられていた)、そしてオーツビスケット、ビクトリアケーキ、きゅうりのサンドイッチなどを三段重ねのティーセットに、並べてお出ししてくださいました。ティーが注がれました。先生が「お味は合うかしら?」、と食べながら教えてくださった、‘紅茶の入れ方’、を私なりにまとめてみました。a. 水は新鮮なものを使う、これは、酸素がたっぷり含まれていて、香気成分も出るから。沸かしたてのお湯を使う事。b. ティバック一つでカップ3杯分が適量。「日本人は一般的にお茶が濃すぎることが多い」とおっしゃっていました。c. お茶の入れ方のゴールデンルール、`The five golden rules’ についても語ってくれたのです。1. Use good quality tea. (良いお茶葉を使う。)2. Warm the teapot. (ポットを暖める。)3. Measure your tea. (分量を量る。)4. Use freshly boiling water. (新鮮な沸きたてのお湯を使う。)5. Allow time to brew. (湯を注いで少し待つ。)(続く)
2004年04月15日
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英国滞在中に英国製のチャイナを数種類、購入して私なりに得た結論です。参考にしていただければ幸いです。1.あれこれ考えないで見て好きになったものを選ぶ。 一目惚れを信じる。2.次の点、“飽きがこないもの、何時までも使えるもの”、と言うことは考えないで今、本当に欲しいものを選ぶ。3.1セットだけしか買わない場合は、値段に左右されず思い切って、好きなものを買う。4.複数のセットを買うときは、2セット目からは、既に持っているものより気楽に使えるとか、あるいはその反対に、もっと豪華にする、とかして、ランクを敢えて変えてみる。5.既に持っているものと、色合い、雰囲気が似ていないものにする。6.壊れた場合に備えて、今現在も生産されているパターンかどうかを確認する。 廃盤のものは、必要に応じて余分にそろえておく。7.ティーポットは大、小のサイズがありますから、1人の時や2、3人の時には小さいサイズが便利ですので、できれば、両方のサイズを揃えておく。8.デパートなどの大型店、チャイナの専門店などで買う。安いものは、セカンズ(検品ではねられたもの)や生産中止(廃盤)のもの、又は中古のもの、などを買わされる事があるので注意する。ただし、年代物のアンティークとか、お茶の教室で使うとか、目的がある場合は別ですが。9.セール品を買うときは、なぜ安いのか尋ね、その理由に納得してから買う。例えば、パターンの廃止、中古品、在庫切れ、セカンズ(検品ではねられたもの)などが考えられます。10.チャイナは目で見るだけでなく手にとって肌触りを確かめてから買いましょう。ざらざらしていたり、ぶつぶつしているものは、不良品ですから、避けます。気がつかないひび、が入っていることもありますので、注意する(ざらざらしたり、ひっかかる)。 ひびが入っているかどうかは、軽く叩いて、その音を聞けばわかりますから、心配のときは、店員の方に、確認していただくのがいいでしょう。英語に自信が無くても勿論買物はできますが、お店の人に勧められるままに買ってしまうことのないように買いたいものの目安はあらかじめ、持っているのがいいでしょう。そしてセットを買うにあたり、これは必要だというものを、買物をする前に、きちんと勉強し、多少の知識を身に付けてから買いたいものです。店員によっては、英語ができないのをいい事に欲しくも無いものを売りつけたり、値段や、おつりをいい加減にされてしまうことがあります。はっきりしない時は毅然とした態度で必ず確認して、おつりはその場で数えてから受取るように。また市場やノミの市、アンティークショップなでは店主を困らせるくらいに(笑)、値切って見るのも良いかもしれません、ケースバイケース、でしょう。デパートで、チャイナを選んでいて、手触り、で気になりましたので、店員に、「これが欲しいのですが、壊れているところは無いですか?」と聞くと、店員は、箸のような棒を取り出し、いきなり、そのカップを、ひと叩きして、「ひびが入っている」と言った。彼女は私の目の前で、更に叩き続け、ついに、そのカップを割りつぶしたのです。吃驚しました。なんと、気の強い、と思いましたが、いいえ、親切な店員さんだったのですね。(楽天の仲間)Lovelyさんの丁寧なボーンチャイナの買い方マニュアルを読んで、ボクはネクタイを買うのと似ているなと思いましたネ。好きで買うのはどれも似てくるものですネ。(私)好みと言いますか、個性が出てくるのでしょうね。あえて、それを、超えてみるのも、思わぬ効果、でしょうね。
2004年04月14日
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ROYAL WORCESTER, Evesham, oven to table ware 私の身近にある、英国のチャイナ、を紹介しております。使用目的でチャイナ(陶磁器)を選ぶことも必要です。 前述のアイアンストーンは、丈夫でかつ、美しいことがポイントです。 ボーンチャイナは、おもてなしに、ぴったりの美しい、豪華なものですが、あまり頑丈ではないでしょう。 更に有用なチャイナとしては、オーブンからそのまま食卓に出せる、耐熱性のもの、です。 イギリス料理はオーブンを使って調理するレシピーがかなりありますから、oven to table ware、の磁器もいろいろとあります。我が家では ,ROYAL WORCESTER, ローヤルウースター(前述)の ,FLAMEPROOF PORCELAIN, (耐炎性)、Evesham,(イヴシャム)を揃えました。ティーセット、と、フランディッシュ、そしてディナーセット、です。Evesham、の名は、果樹園で有名なEvesham、の地名を由来にしています。 イングランド、 ウースター近郊にある果樹園で有名なイヴシャムです。 その絵柄は、プラム、さくらんぼ、桃、ベリー、レモン、などの、果物の絵です。この果物のパターンの人気はかなりなもので、1961年に発表されてから、今日まで40年以上にわたり愛されています。テーブルウエアーでもありますし、オーブンからそのまま食卓に出せる調理用アイテムでもあります。フォーマルにもカジュアルにも使用できる、かわいい果物のパターンは美しく、がっちりとしたチャイナです。 オーブンで作る、 MACARONI CHEESE マカロニチーズ(二人分) チーズソースを作ってマカロニを加えオーブンでこんがり焼くマカロニーチーズは美味しいですがカロリーもありますからこの二人分の材料で、2~3人でお皿に分けていただくのも良いでしょう。 大皿でなくても一人分づつのグラタン皿も良いでしょう。 イギリスのご家庭では良く食べられている料理です、ロンドンでお隣の奥様から習ったものです。 マカロニを茹で始めてからオーブンを暖めておきましょう。 作り方; 玉ねぎとにんにくはみじん切り。 しいたけとベーコンとチーズは細かく切っておく。 マカロニは塩ひと摘みいれて熱湯で決められた時間ゆでる。 チーズソースを作る… フライパンでバターとにんにくたまねぎ、ベーコン、しいたけを木へらでかき混ぜてよく炒める。 白ワインをふりかけてから、小麦粉を入れ弱火にして1,2分かき混ぜながら炒める。 一度火を止めて牛乳を少しくわえてどろどろに溶かしてから弱火にして更に牛乳を加えてとろとろになったら塩、コショウ、コンソメ、チーズを入れてどろどろのソースが出来るまで良くかき混ぜる。 ソースの中にマカロニを入れてよく絡ませる。 オーブン上段で250℃で20分ぐらい、表面に焦げ目が付けばよい、焼く。 出来上がり、パセリをトッピングにする。 ※ソースを作るとき一度火を切りよく溶かしてから弱火で滑らかソースを作る。 ※牛乳は少しづつ入れていく。 材料; マカロニ100g、 玉ねぎ1個、 チェダーチーズ100g、 ベーコン3枚、 バター20g、 白ワイン大1、 にんにく1かけ、 しいたけ2枚、 小麦粉大2、 牛乳350cc、 コンソメ1個、 塩コショウ、 パセリ、(楽天の仲間) 果物の絵柄もいいですネ。うちにも似たシリーズものがあって皿の裏をみるとNORITAKEでした。イギリスの真似をしたのでしょうネ。(私)まねとは言いたくありません。大好きな私の日本ですから、日本のチャイナ(洋食器)を代表する,Noritake,です。 ノリタケのボーンチャイナ、にも素敵なものがたくさんあります。しかし、英国のチャイナ、を隈なく見てきたものですから、このノリタケはイギリスのあれに似てる、あのノリタケはイギリスのあのチャイナに似ている、と言うことはよく感じます。Noritake、の製品は優れたチャイナであり、後は買う方の、好みでしょうね。
2004年04月09日
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IRON STONE, Shakespeare's Country, アイアンストーンボーンチャイナは普段に使うのには少々扱いに気をつけないと割れることもあり、それを考えると丈夫で扱いやすいアイアンストーンが便利です。チャイナは既に、十分に持っているのだから買うのはよそうと決めていました。 私にとってロンドンに住んでの楽しみの一つが、チャイナ、陶磁器を見ることでしたから、買う必要がなくても、よくブラブラと街のウィンドーショッピングに出かけていました。クリスマス休暇があけてセールの時、人も商品もいっぱいのデパートに私はまたも紛れ込んでいて、特に買いたいものは無かったのですがイギリス人と同様に、セールを見て歩きました。そこで、ブルーの風景画がきれいなアイアンストーンに出会いました。その絵模様である、Shakespeare’s Countryの家などの風景画はShakespear’s Birthplace(シェークスピアの生家)などの風景画であり、家族でストラッドホードアポンエイボンを旅した時のことをはっきりと思い出させてくれます。またアイアンストーンの使いやすそうながっちりした感触とシンプルな中にも伝統を思わせるシェイプにも魅力を感じ、またも買ってしまったのです。私は普段用の陶器、食器類を日本からの引越し荷物で、ロンドンに送っていませんでした。それで、購入したと同時に頻繁に使うようになり、ロンドンでの生活で大変役に立ちました。食器洗浄器にも耐える、dish washer proof、で丈夫なのがいいですね。 値段もボーンチャイナよりも手ごろです。よく絵を見ますと、以下の絵柄です。The Globe Theatre in the year 1599、Trinity Church Stratford on Avon,Anne Hathaway's Cottage,Mary Arden's House, Home of Shakespeare's Mother,Shakespear's Birthplace , Stratford on Avon,Welford on Avon,などの風景画がありますよ。(楽天仲間)全く知らない英国の磁器について知識を深めるのは楽しいです。 博物館に来るようです。(私)ここでは、イギリスの伝統ある、チャイナ(陶磁器)のご紹介をさせていただいております。 ほんの数種類だけですが、概要はお分かりくださいましたかしら、説明が下手なもので・・・。(楽天仲間)美しいものに目が行くのは人間の習性で、更にそれが欲しくなって集めるのは人間の文化ですから結構な趣味ですネ。心が豊かになります。その豊かな気分の拡散方法がHPでの紹介と啓蒙にあるとすれば、それはもう立派な文化サロンですヨ。見て喜ぶ人が多いことでしょう。(私)チャイナはたまに、広げて見るのも楽しいです、皆さんにも見ていただけて嬉しいです。(続く)
2004年04月06日
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ROYAL CROWN DERBY 、Derby Posies, ボーンチャイナすでに優しい感じのボーンチャイナは持っているのに、無いものねだりといいますか、今度はきれいな花の、パッとあでやかな、一目でイギリスのボーンチャイナと感じさせる柄に惹かれるようになりました。そして出会ったのが Royal Crown Derby の花模様、Derby Posiesでした。ローヤルクラウンダービーと言えばオールドイマリという赤、黒、金の豪華なパターンで有名です。 ジャパンイマリ(日本の伊万里)を真似したこのパターンは200年以上も昔から現在まで作り続けられています。 その間、クラウン(クラウンと言う名前)をジョージ三世から、ローヤルという名前をビィクトリア女王から賜ったとか。 それで、ローヤルクラウンダービー、です。私が選んだのはこれらの日本趣味とは関係ないコサージュのあでやかな花々のパターンです。バラと小花が5、6種類寄り添うように描かれており、ピンクのバラ、そして紫、赤、黄の花々がいかにも英国風の美しいものに見えました。既に持っている二組、とは又違った、おしゃれで、イギリスっぽく、豪華さで満ちているものです。テーブルにこれらのティーセットや、コーヒーセットが並ぶとパッとあでやかで豪華な雰囲気が楽しめます。 それを前にした時のお客様の感じも、以前に紹介したミントン、や、ローヤルウースター、のチャイナのときとは違った反応を表しますよ。 画像を見比べてくださいね、皆さん、はいかがに、お感じでしょうか?本当に心から大切にしたいと思うセットです。 コーヒー用のデミタスカップ(小さなエスプレッソコーヒー用カップ)もあるので、我が家では、自然と出番が多くなってしまうのです。現に今、自宅で極身近な親戚や、とくに親しい方々にはこれでお出ししています。他にも比較的、手軽な、お花の柄では、ロイヤルアルバート、ROYAL ALBERT、のチャイナには花模様が多いですね。 例えば、flower of the month、のシリーズの12ヶ月の花柄を総て揃えてみるのも楽しいと思います(私は持っていませんが)。 2月はすみれ、5月はすずらんという風に、12個全てをです。(続く)
2004年04月05日
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ROYAL WORCESTER, LAVINIA, ボーンチャイナ ウインドーに飾られたチャイナ、欲しいなあ、と思いつつしばらく見とれていましたが、とても高価で買えないでいました。ロイヤルウースター、 Royal Worcester、 のラビニア(名前)、Laviniaというこのポットは、シンプルでいて,威風堂々,としたものを感じました。ブラックベリーの赤黒い実と、白い花、そして緑の鮮やかな葉っぱがとても美しくしい。丸みをおびたティーポットが新しく斬新なデザインを感じさせる反面、年代ものの良さをも感じさせる古い形をも、併せ持っています。表面の凹凸は品がよく、金の縁取りが豪華です。ロイヤルウースターは実は英国初の王室ご用達の窯として現存するイギリス最古の窯なのです。「素敵、どうしてもあれが欲しいわ、でも・・・。」と、何度となくウインドーを覗いたものです。クリスマス後のセールの時、セルフリッジデパートの地下のチャイナ売り場に、あのブラックベリーのラベニアがあったのです。「えっ!? セールであれが買えるの? 値段は? セットで揃っているのかしら?」とはやる心をおさえながら、ティーセット、大皿、中皿、スープ皿、と揃えて、買い集めることにしました。 セールで、念願のチャイナを手に入れることが出来たのです。そのときに、無くて買えなかった、ティーポットの小、これだけは後日に注文して、正価で買い足しましたが。なんとも思いがけず、ティーセットとディナーセットまでもがセールで全部揃ってしまったのです。グレイビーボート(お肉にかけるソースの入れるもの)と、スタンド(その受け皿)もあり、何時の日か、このラビニアのチャイナで家族揃ってゆっくりと楽しめたら・・・・、と夢は尽きませんでした。それに美しい陶器は見たり触れたりするだけで本当に心が和みます。たわわに実ったブラックベリーの絵も縁起のよい物のように思えてきました。このブラックベリーなのですが、イギリスの野や道で見かけることがよくありました。ロンドンのウチの裏庭にもありました。どこのお庭でも、よく見かける果物の木はペアー(洋ナシ)、プラム、りんごなどがあります。青りんごのクッキングアップル(お料理用のりんご)は、我が家の裏庭にもありました。そのまま食べるというよりは、パイにしたり、焼きりんご、ジャムなどに使います。これら全ての料理の時に、このブラックベリーを一粒か二粒入れると、真っ赤で美味しそうな色になります。今、東京の我が家の庭にあるブラックベリーで、ブラックベリー酒を作ると、真っ赤な果実酒となり、それは驚きの美しさです。人寄せのとき、このベリー酒をお出しすれば、あまりの美しい赤色は、テーブルで皆の話題を独占します。実際、東京に戻ってからはいつも何かと慌しくしているので、このチャイナを使って、家族揃って家でディナーとはなかなかいきません、いつかはと思いますが。先日、自宅でお友達とお昼にサンドウィッチでお茶をした時には、「器が素敵なので、会話もお食事も楽しくなるわねえ」と、お友達が仰って、ゆっくりして下さったのです。一人だけのとき、お客が居なくても、自分のために‘お気に入りのカップ’でお茶とお菓子を用意して、あるときはテレビやビデオ の映画を観ながら、ある時は庭の花を眺めながら過ごすこともあります。 それが私の唯一贅沢な、一人楽しむ時間でもあります。友人に後日「例のブラックベリーのセット買ったのよ、セールで思い切って揃えたの」と言うと、「あのデパートのセールは随分混んだでしょう、いいものが沢山出て、安くなるから、皆その日を待ち構えて押しかけるのよ」と教えて下さいました。確かにものすごい人込みでイギリス人が全員街へ押しかけてきたようなそんな迫力でした。 地下のチャイナ売り場は、置いてある陶磁器の多さ、人の多さ共に、見たことも無いほどでしたから。こうして二種類のボーンチャイナをようやく手に入れた私でした。チャイナはこれで十分と思っていましたのに、数年すると、持っている両方共がグリーンのおとなしい色合いで、どこか雰囲気が似ているのに気づきました。「私はこういうのが好きなのだわ、何処となく似ているもの。 色合いもグリーンが主流で、優しい淡い感じ・・・。 今度はもっとイギリスっぽい花模様の、あでやかな色のチャイナが欲しいわ・・・」と考え始めていたのです。(続く)
2004年04月04日
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MINTON,Greenwict ボーンチャイナ一昔前の英国で、暮らし始めた時に、日本人のご家庭を訪問する機会が何度かありました。 どなたのところでも客間にて素敵な陶磁器でお茶をお出しして下さるのです。ご近所にいる日本人の方を最初に訪問したとき、ごく自然に、当たり前に陶磁器をお出し下さったのですが、私にとっては英国のボーンチャイナ、一式を使ったお紅茶のおもてなしが全く初めてでしたので、その器、ティーポット、クリーマー、シュガーボールなどの見事さにすっかり感心したものでした。「素敵な器ですね」と私。「ええ、ボーンチャイナです。 小林さんも徐々に揃えられたらいいでしょう」。「ボーンチャイナって?」その頃、イギリスに着いてすぐの私には、何の知識も無かったのです。※中国から磁器を輸入していたイギリスでは、輸入だけではなく、自国でも作れないか試みたが、イギリスで採れる磁器の原料となる陶土の質があまりよくなく、なんど試みても中国の磁器(チャイナ)と同じように作る事はできなかった。 その末に生まれたのが、牛の骨灰 (燐酸カルシウム) を含んだ「ボーンチャイナ」です。 18世紀頃、イギリスで創られるようになりました。 透き通った独特の白さを持つ磁器(チャイナ)で、長い間製法が秘密にされ、当時の王室や貴族の間で珍重されていました。それが英国生活に馴れるにつれ、チャイナショップ(英国陶器店)に立ち寄って見るたびに、少しずつ感心が高まっていったのでした。 当時は1ポンド700円前後だったこともあって、日本人には、ボーンチャイナはさらに高価に感じました。 それでも、ティーセットだけは揃えたい・・・と思った。高価すぎないもので、好みのシェイプ、そして絵柄が落ち着いていて、飽きのこないものにしなくては。 そう考えて初めて買ったのが「MINTONのGreenwich」でした。 ソフトな感じの淡いグリーンの葉っぱ、グレーとうす黄色の花、金で枠取りしてあるおとなしい感じの絵柄です。 シェイプもウエーブ(凹凸の線)が入っていてシンプルで落ち着いています。 カップを手に取ったときのつるっとした手触りと、ファイフシェイプ(シェイプの名前、形の種類)はミントンを代表する形、であり、ウエーブの凹凸が心地よくマッチして感じられました。これならば、きっと飽きがこなくて、長く使えるだろうと思ったのです。 ティーセット、一式を買いました。 初めて買ったボーンチャイナのティーセットです。早速、それでティーを頂いてみると、カップもソーサーも手になじんでとても扱い易いのにがっしりとして、高級感も感じられます。 なんせヴィクトリア女王からも、「MINTONは世界で最も美しいボーンチャイナ」と称賛されたとか。 その芸術性までもが手にずっしり伝わってくるようです。ロンドンの我が家を訪れてくださった方々と、そのチャイナを使って、皆さんで器をほめて頂いたり、お紅茶を味わってみたりのひと時です。 皆さんそれぞれに、ボーンチャイナを持っていらして、「○○さんのところでは、ウエッジウッドよ、柄はwild strawberry 。 ウチはミントンです」、と言う具合に情報交換の場でもあります。お互いにお茶に呼ばれて、その方のボーンチャイナを見せていただき、お茶とチャイナの鑑賞を楽しんだものです。そうこうしているうちにまた一つ欲しいチャイナに出会ってしまいました。ショーウインドーで初めて見た時に一目惚れしてしまったかわいいブラックベリーの絵柄のものです。 「綺麗だわね。 ポットの形が変わっているかしら? 」と私。「すてきねえ~、これは高いわよ、かわいいポットねえ」とお友達。綺麗なチャイナを見て歩き、お友達とウィンドーショッピングするのも楽しいものです。「欲しいなあ~、少し考えるわ」と私。ロールケーキ(バタークリーム)ロンドンに住んでいた時、食べたくても食べれないものがいくつかありました。 日本でしか手に入らない魚(ぶりの切り身とか)、野菜、お菓子など今では何でもあるでしょうが当時はまだ日本人も少なかったせいか不自由したものです。 其の中のひとつがケーキです。 ええ、もちろんケーキは売っていました。 とても美味しそうなケーキがウインドーにずらりと並んでいて食欲をそそります。 「今日はみんなでケーキを食べましょう」といっていくつか買いました。 見るからに美味しそうなケーキ、お紅茶も入れて、しゃれたボーンチャイナで、楽しみは一層膨らみました。 一口食べて、私も主人も恵里子も、「ええっ! 何、この香り、この香り強いわね! これじゃー」と言う訳でケーキは私が作ることになりました。 念のため申しておきますが、恵里子には、学校のディナーなどでイギリスの香り味にだんだんに慣れて、おいしくなっていきました。 さて今日のケーキはバタークリームを使っています。 バナナの香りもほのかな日本の味です。 最近はバタークリームはあまりお店で見かけませんから食べたい時は手作りしています。 もちろん生クリームでも美味しいですよ。 くるくると巻いたロールケーキは持ち運びに便利でお土産、お使い物に良いです。作り方; 1、生地(スポンジ)を作る。 下準備をする…クッキングシートを天板に敷いて置く。 材料を計っておく。 薄力粉はふるいにかけておく。 バターは溶かす。 オーブンを170℃に予熱する。 泡だて器、ボール中と大を2個、へらを用意する。 卵と砂糖をボールに入れ、一回り大きいボールに40℃のお湯を入れて其のボールで湯煎して砂糖を溶かす。 泡だて器で泡立てる、もったりして文字がかけるくらいまで。 バニラエッセンスを加えて混ぜる。 薄力粉を入れてさっと混ぜ、更にバターを加えて手早くしっかり混ぜる。 クッキングシートを敷いた天板に流し、平らにして隅まで入れる。 予熱してあるオーブンの下段に入れる。 170℃で17分間焼く。 焼き上げてアラ熱が取れたら、大き目のまな板などに置いてさます。 さめてから裏返してシートをはがし、はがした方を上にしてシートの上に戻す。 材料; 卵4個、 サトウ80g、 無塩バター20g、 薄力粉80g, バニラエッセンス、 クッキングシート、2.バタークリームを作る。バターは室温で戻しておく。 やわらかくなったバターを白く、ねっとりするまでホイップする…ア砂糖と卵をボールに入れ1.と同様に湯煎する。 1、と同じく字が書けるくらいまで泡立てる…イ 別々にあわ立てたものを一緒にして(イをアの中に入れる)ホイップする。 クリームの出来上がり。 材料; 無塩バター100g、 砂糖60g、 卵1個、 3.仕上げる。 生地のシートをはがした方にクリームを平らにたっぷり塗る、向こう側2cmは残す。 バナナの薄切りを生地のまんなかより5cm下と5cm上(間隔は10cm)に並べておく。 手前からシートを使って巻く。 巻き終わりを下にしてシートでくるんだまましばらく置き、なじませる。 落ち着いてから切り分ける。材料; バナナ1本、 ※下準備を必ずする、手際よく出来るから。 ※バターの代わりに生クリームを使ってもよい。 (続く)
2004年04月03日
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英国旅行のベストシーズンはやはり5月、6月、7月で、私達、親子みたいに1月、2月に行くと言うのは少ないのではないでしょうか。 実際、英国人でも冬に観光旅行する人は少なく、第一、観光地がCLOSEDになっていることもあります。 開いていても2時頃に終わるのは来る人がいないからで、キューガーデンは本当に開いているだけでもありがたい程人もまばらでした。その時季に、観光旅行が少ない一番の理由は日照時間と天候なのです。 春夏は日が長く、お天気も比較的良い。 そして快適な温度とくれば春夏が良いのは当たり前です。 その上花々が次々と、咲き乱れるのですから。日照時間の少ない12月、1月は、どちらかというと寒くて暗いです。 どんよりした空や、小雨がパラつく日が多いので一日中寒々しくなってしまいます。 2月、3月になるとスノードロップスの白い花から咲き始まりデイジー、クロッカス、水仙などが次々と咲き出します。 4月はApril shower brings May flowers.(4月のにわか雨の後は5月の花となる)との言葉のごとく、大雨が降り水溜りがあちこちにできます。 時には氷が降ったりすることもあります。 5月、6月、7月になれば、いっせいにバラ、ライラック、石楠花、芍薬、ラベンダー、など、などが咲き始めます。 短い夏を今とばかりに競って咲くのですからそれは、それはとても見事です。 花達が咲いている期間が短いことは、花が一斉に咲くことであり、見事なのです。マレーシアのクアラルンプールで生活したこともあります。 赤道直下のこの国では熱帯の花々、ハイビスカス、ブウーゲンベリア、熱帯性のランなどがいつも咲き誇って、一年中綺麗なのだろうと、思う人々が多いのです。 実際、確かに一年中花が咲いていますが、短い期間に一斉に、このときとばかりに咲くのではありません。 年中咲いているのですから、ほどほどに花が付いているのです。 植物も年がら年中お花をいっぱいつけていれば、疲れ果てるでしょうから。 その点、短い夏を競って咲くのがイギリスの花々です。イングリッシュガーデンが美しいのはそれだけではありません。 一年を通して気候がマイルドで生育に適しているのです。 ロンドンの冬はメキシコ暖流のおかげで、マイナスになることはめったにありません。 お天気が悪く、薄暗く、底冷えのする日々ではあります。 暖流のために、霧のロンドンでもありますが。又、夏が短く、30度を超えることはめったに無くて、20度前後であり、害虫が少ないからだと思います。 木や花の敵である毛虫や害虫がいないことは無いのでしょうが、東京に比べれば、ほとんどいないのです。 セミや蝶々がいないのは寂しいですが、蚊やゴキブリもいませんから。競って咲いた花々も、8月には秋の雨が降り始め、何時の間にか木々には赤い実が見え始めてきます。さらに9月、10月、11月になると秋雨がしとしとと降る日が多く、東京より降雨量は少ないのに曇り空、雨天の日が続きます。 だから人々にとって明るい、短い夏はとても貴重なのです。 そのため、ロンドンではお天気のよい温度20度前後の肌寒い日でも、肌を出した服装で日光浴を楽しみます。裏庭のテーブルで家族が昼食をとったり、ビーチベッドに寝ころんで、水着姿で日光浴をします。私もイギリス人がするように、肌を出した服装にサングラスでビーチベッドに寝そべり,くつろいでみましたら、裏庭では、日光が暖かくとても気持ちがいいのです。 家の中は肌寒い温度なのに、外は空気は爽やか、太陽は暖か、時々リスが来たり、鳥の声を聞いたりして過ごすのはやはり最高でした。 芝生のあちこちにデェイジィーが太陽の下で大きく花開いています。以上のことから、英国旅行は秋から冬がオフシーズンと言われています。 しかしバレーやコンサート、ミュージカルなどは冬がハイシーズンです。 一方、ショッピングもセールが楽しめます。ですから、これらの点を楽しみたいのであるなら、そしてまた何回もロンドンに行こうと考えているのでしたら、航空運賃がハイシーズンの半額以下になるこの時期に旅行をするのも一つの方法だと思います。(楽天仲間)イギリスには桜はないって言っていましたけど、本当ですか?どんな花が咲いているんですか?(私)桜はあります。 とても綺麗ですよ、ほとんどが八重桜です。 大木が多いですね。いろいろ花はありますが、私の好きなのは、イギリスの、ライラックです。花の房が大きくて、綺麗で、匂いがとてもいいのです、庭一面に、香ります。
2004年04月02日
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イギリスの庭造りが見て楽しめる121万平方メートルある、世界で最も有名な植物園であるイギリス王立キューガーデンに、今回は、私一人で行ってきました。 昔、家族一緒に訪れた時は石楠花(しゃくなげ)が満開に咲いていた初夏。 西洋石楠花は背が高い大木となリ、花がとても見事でした。その石楠花の木々も冬の今は、何処にあるのか花が無いので、全く見当たりません。 2月の園内は人影も殆ど見えません。 一人、池の端に立ち、泳いでいる鳥達を見ていると、足元に地上を歩いている、他の鳥達が近寄ってきました。 とても可愛い姿、歩き方に思わず見とれてしまいます、「そばに来てくれたのに、えさが無くてごめんね」と私。 林の中を歩くと小鳥が枯れ枝に止まり、さえずり、飛び、などと戯れています。 美しい羽を持ったこの鳥は何という鳥なのかしら、とその鳴き声に耳を傾けました。 木々の根元にはスノードロップスが咲いて、芝生の中には白いデイジーの花も点々と見られました。 冬のキューガーデンは冬枯れで寂しい感じがしましたが、歩いてみると針葉樹の球果だけを見ても、色々な形、大小の実、とてつもなく大きいのもあり驚きですがそれを見つけた時は、楽しくなりました。 「わあ~こんなに大きい球果、マツボックリとも違うわ、珍しい」と思わず独り言。今回の訪園で気がついたのは日本の植物が園内のあちこちで見られたことです。 花をつけている種々の椿やつつじ、赤い実をつけている青木などです。日本の植物が流行っているのかキューガーデンへ来る途中の民家の庭でも見かけました。キューガーデンには日本庭園もあり、とても良く手入れがされていました。 日本庭園へ行く途中の小道には桜並木が日本企業のバックアップで作られていました。 お花見が出来るほどの数が植えられています。かつての大英帝国時代のプラントハンターの拠点であり、世界の植物研究に大きな貢献をしてきた植物学の殿堂である、この園内で今、私が一番楽しんだのは、植物画、ボタニカルアート、を描いて世界各国を探検旅行した、Marianne North(女流探検植物画家)の作品を集めたギャラリーです。 800枚を越える作品が、ギャラリー一杯に所狭しと飾られています。 今日ではありとあらゆる植物を日本でも、ほかの国でも観察できるようになりましたが、Marianne Northが最初に世界旅行に出発した1871年頃には、絵に描きとめられた植物は、珍しく貴重であったに違いありません。 そのための彼女の旅行、でもあったのでしょう。世界中の美しい花々、植物が今、東京でも鑑賞できるのはありがたいことですが、日本固有の花はどれで、原形は何であったかを忘れてしまうのは悲しくもあります。キューガーデンは研究機関でもあり、解放されている庭園も大変に美しい広大な園地で、1日で見るのは無理なくらい広く、4万5千種に及ぶ植物が保存されている。スケールの大きい見事な庭園が多くあり、ヴィクトリア王朝期に建設された大温室、パームハウスを始め多くの建造物もある。 大温室、パームハウス
2004年04月01日
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ロンドンに住んでいた頃はよく日本人が集まるガーデンパーティーに出席しました。 その日のパーティーは都心から鉄道で少し入ったところでありましたが、その分広いお庭でバラ、ライラック、芍薬、などが美しく、見事に咲き誇っています。 春のイギリスの典型的なお庭、それも広い裏庭でのパーティーです。もちろん東京のバラも素敵で、神代植物園には種類も豊富にありますし、京成バラ園も同様に素晴らしい、毎年、訪れたいバラ園です。 ライラックはイギリスの花のほうがはるかにきれいです。 花も大きく匂いもあり房も本当に見事。 ロンドンの我が家の裏庭にもライラックがありましたが、庭一面に香りがして、大きな房が美しく、長い間咲き続け、夏の庭での忘れない花となりました。 ロンドンのライラックが忘れられなくて、東京で探しましたがあの房咲きの立派な香りのあるものは見つかりませんでした。西洋芍薬は東京にもありますが本場イギリスの八重咲き大輪の花には負けてしまうでしょう。 イギリスのお庭ではよく見かける豪華な素敵なお花です。 日本では芍薬より、ボタンの方が多いですし、見事だと思います。 上野の牡丹園 、町田市の牡丹園、など、どこも素晴らしいですものね。パーティーでは各々がバーベキューの串を手に飲んだり、しゃべったりしながら、広い庭で花に見とれて小鳥のさえずりを聞き、暖かい太陽のもと、秋から冬の間は日照が少なく、寒い日が多いロンドンですから、このときとばかりに、ノースリーブのワンピースを着て薄着になって、時間を過ごします。 とてもいい気分でゆったりとします、ところが、気がつくとハエがたくさん海老や貝、お肉の串にとまるのです。 やはり田舎のせいもあったのでしょうか・・・。 日本と違って蚊やゴキブリがいないのは本当に助かりますが、追っても追っても止まるこのハエには参ってしまいます。 蝶が飛んでいなくてセミの声が聞けないのは、日本人の私には少し寂しい感じがしました。 その代わり、日本のように、毛虫、害虫はほとんど見られませんが。ロンドンの夏はすがすがしく、花好き、暑がりの私にはまさに楽園です。現在、私は都心から少し離れた郊外の家で大好きな花いじりをしながらのんびりと毎日を過ごしております。 桜の花が散リ去って、石楠花、チューリップ、水仙、花ずおう、パンジーなどがつぎつぎと、庭に咲き、お茶を飲みながらそれらを見て過ごすのは、郊外での生活ならわでしょう。ご近所に私と同じ趣味の方がいらしていつも美しいお庭を造っておられるのです。蚊がまだでてこない時期を見計らってお互いに訪問し合い、お庭でお茶を頂くことにしています。 良い天気の日はこうした庭でのお茶はよい日光浴にもなると思ったのですが、東京の太陽の光は以外に強く暑くてたまらないのが難点です。「これでは日焼けしてしまうわ、首の辺がバカに暑いの」と彼女。 木陰に何度か、時間と共に、椅子を移動したりしました。ゆっくりお茶を飲みながらおしゃべりをして、小鳥の姿を目で追いかけながら鳴き声に耳を傾けていると、蝶々がヒラヒラと花に止まり蝶々がこんなに美しいなんて、ここ東京ならではの美しい光景が楽しめます。さすがにこちらにはリスはいないのですが、こんなに可愛く美しい蝶々がいるのですから。明るい太陽にきれいな蝶々がよく映えます。 又、木々の新芽が太陽の下できらきらと輝くのを楽しんでお茶ができるのです。お友達と楽しくお茶をしていましたら、急に突風が吹いてきました。 春の強風です。 あわてて、テーブルクロスが飛ばないようにしたりしましたが、砂も舞い上がっています。「ケーキに砂が付いてしまったわ」、よく見るとお茶の中にも砂が。私たちは家の中に移りました。応接まで、お友達との語らいは続くのです、ロンドンにいたときと同じように、お友達とのおしゃべり、至福のひと時です。(楽天仲間)太陽がさんさんと輝いているお庭で、パーティーなんて一度してみたいですね。日差しが強くて真っ黒になったLovelyさんも、なかなかではないですか?(笑)(私)太陽の少ないロンドンでは、ガーデンパーティーは、日に当たる、良いチャンスです。不思議と、いくら日に当たっても、ロンドンでは日焼けはしないのです、残念。
2004年03月30日
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ロンドンにしかない美味しいものもたくさんあります。 それは初夏の頃のさくらんぼでした。私たちが住んでいた、ハムステッドには新鮮な魚屋さんがありましたが、八百屋さん、果物屋さんも、質のいいものがおいてあります。 高級住宅地で、富裕層の多い場所柄でしょうか。 私はそんなお店で、大きいザルに一杯(重量で2~3ポンド)のさくらんぼを買ってきて、いつもお腹一杯食べていました。 新鮮でみずみずしく,甘み、味が濃い、とにかくおいしいさくらんぼです。さくらんぼのある時期には毎日、切らした事がないほどに好きでした。 日本に帰ってさくらんぼの季節になると決まって、不思議なもので、逆にロンドンで食べた濃い色の大粒のさくらんぼがとても恋しくなります。 ロンドンのあのさくらんぼが食べたい、それはちょうど、イギリスにいた時12月になると日本のみかんを恋しく思い出すのと全く同じ現象でした。 何年かするうちにロンドンのさくらんぼのことは気にならなくなりました。 そのさくらんぼに似たアメリカンチェリーがありますから、ただし新鮮さ、味はロンドンで食べたさくらんぼにはかないませんが。他にもイギリスで生活するに連れ私が好きになった野菜はリーク、マッシュルーム、ズッキーニなどです。今でもよく「イギリス風」として私が作るのは、マッシュルームとズッキーニを油で揚げ、トマトを焼き、お肉とポテトと付け合せたもの。 フィシュ&チップスももちろん私はいまだに作って食べています。 生ソーセージも帰国してすぐの頃は食べたいと思ったのですが、同じものは、見つかりませんので、だんだんに忘れました。 Out of sight out of mind. でしょう。 クリスプス、crisps,と呼ばれるポテトチップにはフレイバー、味が多種あります。 ビネガーの利いた、イギリスのポテトチップ,クリスプスが食べたい、など、きりがありませんが、今では日本でも買えるようになりましたね。 娘に「イギリスのお土産に何か欲しいものはありますか」と聞かれて、チェダーチーズ、を頼みました。 イギリスのチェダーチーズは美味しいですねえ。
2004年03月28日
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ロンドンに来てすぐの頃は東京で食べていたとおりの食習慣をそのまま持込、その結果は当然あれも無い、これも無いと不自由を感じたものです。 たとえば長ネギ、大根、ごぼうなどのお野菜は無かった。 今は大根もありますが。又反対に英国ではこんなものがある、見たことの無いもの、食べたことの無いものもあり、次第にそれら、身近にあるものを利用するようになり、しばらく生活しているうちに我が家のロンドン風日本食が出来上がってきた。 例えば、すき焼きはねぎの代わりに、リークをつかいます。 白菜、スプリングオニオン、モヤシなども入れます。 牛肉は薄切りが無いので自分で切るのです(半分凍らせて於いてから薄切りにした)。 長く住んでいる日本人はそれぞれに工夫していますので、お互いに聞き合って参考にします。 毎日食べているうちに、我が家の、ロンドン風日本食が当たり前になり、おいしいと思うようになってくるものです。 慣れれば、日本を離れていても何の不自由もないと、思えてくるものです。一昔前のロンドンでは、お米はカルフォルニア米をスーパーで10袋~20袋(500Gの子袋)を、まとめて買ったものです。 日本のように5キロ、10キロ入りの大袋が無かったのです。イギリス人にとってお米は主食ではなく、サラダ、スープなどちょっとしたところで使うだけなので、小袋で十分足りるのです。最近のロンドンでは、ジャパンセンターがあって日本人用のものが沢山あります。10キロ入りの日本の米袋を見かけた時、お米一つとってもずいぶん昔とは違って便利になったと思った。初めはむしろまずいと思っていたイギリスの料理も、次第に癖になり、慣れてくると美味しく感じるのは本当に不思議な現象です。 到着直後に近所のスーパーで生ソーセージを買い、店員に、グリルで焼く、と教えてもらったので、早速焼いて、食べてみました。見た目は太いおいしそうなソーセージ、焼けてふっくらと膨らみ、ホークで切りながら、「中は何が入っているのでしょう、おいしそう」と口に入れました。 焼きたてのソーセージはジューシーだった。 「う~ん、何だか分からない、初めての味だわ、何だろう、感触が違うし、ソーセージとは違う、でもソーセージだ」。 主人も娘も美味しくないと言った、私もそう思ったが「焼きたては美味しいから、食べてね、今日はこれしかないわよ」と。 国内旅行(英国内)によく出かけたが、BB(bed and breakfast)を利用した。 BBで、朝食にこのソーセージが出た、マッシュルームとトマトも焼いて同じお皿に添えてあった。 家ですでに食べていたから平気だった。 娘は学校のディナーでよく食べているそうだ。 「美味しいよ」と言った。 焼きたては美味しかったし、何だか分からない味が、美味しいと感じてきたのだ。食生活は食習慣だと言います。 食習慣と言えば、私の場合、ロンドンにいても12月ごろになると、決まって、みかん、を食べたくなりました。 それも1個や2個ではなく、できれば一箱くらいが欲しいのです。 日本ではみかんをたくさん食べていたからでしょう。 ロンドンのみかんは、さつま、と呼ばれているもの、スペイン産、が日本のみかんに一番似ていて、たくさん食べた。 イギリスは日本と比べて、お店に並ぶ野菜の種類が少ない、夏野菜の種類が特に少ないのは、地理的にも分かる。 もちろんトルコ、スペイン、イタリヤなどから種々の野菜が入って来てはいるのですが、もともと英国自体の野菜の種類が少ないようだ。彼らは選べるほどの、多種類の野菜を必要としていないようだ、それともイギリス人は好き嫌いがないのでしょうか。(続く)※楽天の仲間(掲示板より);欧州は日本と違ってミネラルが豊富なので日本ほど野菜を多く取らなくても栄養的に良いのだと思いますヨ。私;この場合ミネラルは、どこに含まれているミネラルのことでしょうか。 飲み水でしょうか?イギリスの水は硬水です。日本の水は軟水です。イギリスではやかんが重くなるほど,鉱物が付着します。関係ありますでしょうか?楽天の仲間;野菜に含まれているミネラルです。日本の6倍以上もあるそうです。ですから分量はそれ程食べなくても充分補給でき、肉を食べても日本人のように栄養が偏らないというのです。関係あるでしょうネ。野菜の繊維質を除去すれば殆ど水ですから。
2004年03月27日
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昔、ロンドンで暮らしていたのに私はパブへ一度も行った事がありませんでした。 その頃はちょうど子育てをしていた時期でしたから。 イギリスでは日本人のように赤ちゃんや子供を親と一緒にどこへでも連れて行くようなことはあまりしないのです。 ましてやパブに子供をつれては行けません。主人に「どんなところなの、一度行ってみたいわ」と言うと、「酒をのむところだ、行きたければ行くといいよ、僕が恵里子を見ているから」と。「エエッ、一人で入るの? それはチョッと・・・」自宅のそばにもパブがあったが、入り口のドアーが閉まっていて、中は見えないから、なんとなく、入りづらいのに一人ではなお更だった。 結局、行かなかったのです。 数年前に娘とロンドンへ来た時のことです。 今では、娘も成人、一緒にどこにでも行けます。 滞在しているホテルの近くのパブに二人で行きました。 そこはレストラン風の明るいお店でした。 パブと言っても、レストランパブでしょう。 昔、主人に、入ってみたいと言った、純粋のパブとは違っていた。 ビールを頼みました。 「ラガービアー、ハーフパイント、二人分」と言ってカウンターでお金と引き換えにグラス二つを手にしました。 テーブルに着いて、さて「乾杯!!」ゴクッ、ゴクッ、と飲んだ後「本当に美味しいわねえ。 よく冷えているわ」と二人で口を揃えて思わず言ってしまったほど、ここのパブのビールは冷えていて、おいしかったのでした。確か主人は、「パブのビールは冷えていなくて、おつまみも無く、飲むのだから、よほどのどでも渇いていないと」と言っていたが。私達は一緒に頼んだフイッシュ&チップスを待ちながら、又も一口・・・と言う具合に、どうしても飲むのをやめられません、又一口、おいしい~。 それにしても娘と一緒にこうしてパブでビールを飲めるなんて、なんと嬉しいこと! 感激!・・・。 そんな思いで幸せに、浸っていましたら、二枚の大皿に盛られたフィッシュ&チップスが目の前に運ばれてきました。 フィッシュ&チップスはご存知、魚とじゃがいもを揚げたもの。 魚はイギリス人が好きなタラを使っています。 一般的に魚の名前は英語にすると日本語に比べてずっと数が少ないのですが、こと、タラに関しては別です。 英語でも数種類あり、それを使い分けしている程なのです。 タラがイギリス人の食生活に浸透している証でしょう。揚げたてのコッド(タラ)とチップスは本当に香ばしく美味しかった。 マッシュポテトのような緑色につぶしたものが脇に添えてあったのですが、食べてみて、それがグリンピースで出来ているのが、判りました。 マッシュポテトならぬマッシュピーだったというわけです。 少々ついていた葉野菜もおいしく、私はすべてを残さず食べました。 娘はラガービアーを、さらにハーフパイント、注文したせいか、お料理は残していましたが。以前住んでいたハムステッドの近所には新鮮な魚屋さんがありました。 東京のお魚屋さんに比べるとはるかにその種類は少なかったのですが、そこに住んでいる当時はそれで十分でした。 新鮮なレモンソール、サバ、そして、アジなどを自分で調理して、お刺身、酢の物、たたき等にして食べました。 そのお店には他に、エビや貝類、ホタテ貝、ニシン、タラ、スモークドサーモン等がいつも、ありました。 スコットランドのホテルでは朝食にニシンの燻製、キッパー、が出て、朝からこんなに大きなニシンを一匹も、こんなに沢山食べられるかしら、と思ったのですが、これがとても美味しく、残さず食べたのでした。以前、ロンドンにあった日本料理店でも魚料理を注文したのですが、ロンドンで生活していましたから、仕入先の事情も私には全て分かっていて、出されたお料理を見ると、調理人の苦労も察せられたものです。 例えば、イカの塩辛,こちらのイカ,はイカの綿が白いから赤茶色にならず、白いイカの塩からです。 またタラ子にしても「塩の振り方などいろいろ変えても日本の小さい、タラ子のようにおいしくならない、タラコはどのように作るのかなあ、作ったことはありますか?」と言って、お店の方は悩んでおられました。こちらのタラコは大型で、タラコを燻製にして(スモークドコッドロー)食べます。 スモークドコッドローは細めの大根ぐらいの大きさです。 日本の小さいタラコとは見た目からしてもかなり違います。 「スコッチウイスキーとスモークドコッドローを召し上がることはここでは、贅沢なことなのです」と、ピアノの先生、フローラが話していました。※1、レモンソールは舌平目、a sole ひらめの一種です。 イギリス人は、バター焼き、でレモンを添えるのがふつうのようです。 とても新鮮で、我が家、日本料理店などではお刺身にします。 2、さば、mackerel,もとても新鮮です、しめさば、煮物にもしました。3、キッパー、はニシンの燻製です。 ニシンはherring,です。a kippered herring とも言います。 グリルで焼きます。英国人が朝食によく食べます。※(楽天仲間)たらこ大きいですね~、大根の小さいのぐらいなの?すごいね。でも辛子漬けにすると美味しいでしょうね。まだそんなに大きいたらこなんて、見たこと無いですけどね。(私)タラコはcod roe で、イギリスの大きいタラコは燻製ですsmoked cod roe です。辛子漬け、いいですねえ、食べてみたいです。
2004年03月26日
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買い物に行ったが玉子を、車の中に忘れていた。 おばあさんから電話で家まで取りに来るように言われて、夜道を主人と二人で出かけた。 彼女の家は2,3分のところだった、実を言うと夜で、それが何処なのか、私にははっきりしなかったが。 彼女に昼間の買い物のお礼を言って「玉子をとりに来ましたから」と言うと、「入りなさい」と言った。 入り口で、「お礼のタバコです」と言って、渡し「玉子はいただけますか」と言えば、「入りなさい、お茶を飲んでいたのです、見せたい写真がありますから入って下さい」と言うので、主人が入り私も後に続いた。 日本のある企業の幹部と一緒にとった写真だと言って、見せた。 私は疲れが出てきて、時差もあり、もう眠かったので、あまり話はしないで、早く帰りたかった。 主人が彼女の話しを聞いていた。 彼女は一人で話続けた。 適当に帰ろうとして、立ち上がると、彼女が「私は服を売っている、あなたに似合いそうな服がある」と言って、私の前に服を持ってきたのです。私は買う気は無かったので、早く帰りたくなった。 ドアーの方へ行こうとしたら、彼女は「チョッと待ってください」と言って今度はパンツを持ってきて、「ロンドンは寒い、あなたはスカートを履いているが、スカートではだめだ、パンツを履きなさい、これは純毛だから暖かい」と言う。 確かにそうだった、東京の10月はまだ暑かったがここは寒いくらいだったから。 引越し荷物の船便はまだ届いていなかった。 主人が「買えばいいよ」と日本語で言い、私もパンツならと思って、買った。 家に着くと夕食のまだ食べ残しがそのままになっていた。「あの人の言ったことは本当かしら?」と私。「あの写真は確かに東京のMビルで撮ったものだなあ」と主人。「日本へは本当に行ったのだわねえ」「彼女にはタバコもあげたし、パンツも買ったから、もういいわ、あの人とは、押し付けられるのは嫌だから」と私は独り言を言った。数日して彼女から電話があった、「遊びに来てください、一緒にお茶を飲みましょう」と。私は丁寧に断った。 その後又2,3回お電話を頂いた。 「新しい服が入ったから見に来てください、ほかにも日本人がいます。 彼女たちはいい人だから、お友達になればいい」と言うのです。 私ははっきり言った「日本から船便が届きましたので、服は沢山ありますから、買いません、今日は行けませんから」電話の向こうで彼女は怒り始めた「あなたのような人は本当の友人は出来ない、親切にしているのに。 言い訳は無用だ」と怒鳴って、自分で電話を切った。不愉快な思いだった。近所に日本人の友達が出来た。 彼女にこの話をした。 「ああ、その人ね、Aさんというのよ。 日本人と知ると、親切の押し売りをして近づき、服を売るのよ。 みんな買ってあげているみたいよ、と言うより、断れないのよ、買わされているのね。 服はいいものではあるようだけど、無理して買うことは無いのに」地下鉄のNorthern Lane のGolders Green には日本人医師の診療所もあり日本人が多くいたのです。 Golders Green はJJの町と呼ばれている。 すなわちJapanese と Jewish (ユダヤ人)が多い町なのです。私たちはその後、Hampstead に引っ越した。
2004年03月25日
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「親切なのだけど、何だろう、このイギリス人のおばあさんは」と思った。 とにかく家へ連れてきてくれたのだから。「ありがとう、助かりました」と言いながらドアーの方へ来て、送り出そうとした。「私は日本が好きで、日本へ旅行をしました。 日本人はとても親切だった。 日本のビーフはとてもおいしい、神戸牛が最高だ。 これから、市内のマーケットへ、買い物に行きます、おいしいビーフが買えるのです。 車に乗りなさい、一緒にいきましょう」と言ったのです。 ドアーを閉められずにいると、おばあさんは自分の車を開けて、「さあ、乗りなさい、家は近くだから又ここへ戻りますよ」。 一瞬迷ったが、さっきと同じ考えで、近所の方だし、おばあさんだ、親切に言ってくれているのなら悪いから、と思って車に乗った。おばあさんでも運転はうまかった(?)、かなりのスピードを出していた。 私は後ろ座席で、足を踏ん張っていた。 すぐ着くだろうと思っていたのに、まだ止まる気配が無い。 どこまで行くのだろう、心配になってきた、まだロンドンに来たばかりで、何も知らないのに、どうしょう・・・。 30分は過ぎた。 どうしたらいいかなあ、車が止まらないと、まずは・・・。 やっと止まった。 市場の前だった。 おばあさんの後について、お店を見て回った、珍しい野菜があり、きょろきょろと見入っていた。 おばあさんがにんじんとたまねぎを注文していた。 野菜を買ってから、肉屋まで車で行った。 お店で彼女が注文をしていた、よく分からない英語だったが、「薄く薄く切ってください」とも言っていた。お肉も買った。 「ここはどの辺ですか? 車でだいぶ来ましたね」と私。「すぐそばがハイドパークです、チョッと行きましょう」と彼女。ハイドパーク内を少し歩いて、疲れも取れたのか車で帰った。買った荷物がかなりあったので、車でなければこんなにも買い物は出来なかったと思った。 家まで送ってくれた。 お礼を言って、別れた。買ってきたものを、冷蔵庫に入れていて、玉子を車の中に忘れてきたことに気がついた。 「玉子が割れるといけないから」と言って、彼女が、座席の後ろの上に置いたのです。主人が帰宅した。 今日のことを話した。「そうだったのか、いくら電話しても出ないから心配したよ。 初日だと言うのに、どこへ行ったのかと、何かあったのではと心配だったよ。 それでどこまで買い物に行ったんだ」「それが分からないのよ、どこだか、車に乗っていただけだから。 帰りにハイドパークへ寄ったのよ」「ええ~、ハイドパーク、そんな遠いところまで行ったのか。 あなたもよく行ったなあ、そこまで」とあきれていた。 「まあ、良かったよ、無事で。 買い物も出来て、それでその、おばあさんの家はどこだ」「知らない。 だって、迷子になったんだから、どこにいるのか分からなかったのよ。 分かれば迷子にならないし、自分で帰ってくるわよ。 玉子はいいわ、そのままにしておくから、それしかないでしょう」「どこの人かなあ、近所なら、又会うだろう、そのうちに」と主人。買ってきた牛肉はおいしかった。 薄く切れていたので焼肉にした。 夕食をしていると、電話が鳴った。 出ると、さっきのおばあさんだった。 お礼を述べた。 玉子を忘れているから、取りに来るように、と言うのです。 家の場所を聞く為に主人に電話を変わった。 電話を切ると、「すぐそばだ、歩いてすぐだから、これからチョッと行ってこよう、一緒に行くんだ、今すぐだ」 食事もそこそこに、「おばあさんはタバコをすっていたから、日本から持ってきた、タバコ、ワンカートン、をあげましょうね」と言って私たちは夜道を出かけた。※イギリスではタバコの値段が高くて、日本の2倍以上していた。楽天の仲間(掲示板);>とにかく無事に帰れて良かったですね。>でも外国で知らない人なのに>良くついて行きましたね(笑)>ーーーーー私;典型的な日本人でしたよ。良くされると、断れなくなるんです、悪いような気がして。なまじ英語が話せるのも、よし悪しです。反省しました、その後ですがね。 後の祭りです。(さてこのおばあさんは何者?? 続く)
2004年03月24日
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セミデタッチド、ハウス の家並み(2月の画像)20時間近い飛行機の旅と時差もあって時間の観念はまったく無くなっていたが、ロンドンの自宅に明け方に着くとすぐに私と娘は眠りに着いた。 主人の声が聞こえた「起きたか? 早く、早くしないと、今日は午前中でお店は閉まってしまうから、すぐ行こう」と、せかす声がしたのです。「ええ? どこへ行くの?」「お店だ、近くの商店街だ、今日は土曜日だから、12時に閉まってしまうから、すぐ行くんだ」主人の後について5,6分いくと住宅地の中心部の通りが商店街だった。郵便局、肉や、魚や、雑貨店、パン屋、八百屋など、小さなスーパーもあって、日常の生活に必要なお店が並んでいた。 主人に教わりながら買い物をした。 12時を回って、お店はしまりはじめた。「ここへ来れば、一通りはそろうからな」と案内してくれた。 帰りながら「道はここを曲がれば、後は自宅の近くの道に出るから、もう一度ここを曲がるのだ」と教わった。翌日、家族で市内のお店を見に出かけた。 日本レストランへ行きおそばも食べた、あまり、進まなかったが、せっかく主人が連れて来てくれたのでこんなものかと思って食べたが、娘は帰宅途中で食べたおそばを吐いてしまった、まだ疲れているのだ。ロンドンの町並みは、東京から来たばかりの私には全てが同じように見えた、特に自宅近くの家並みと道路はどこも同じだった。 レンガのセミデタッチドハウスが連なって並び、生垣で囲まれた庭が続いていた。 娘が十月初めの街路樹を見て「こっちの木はみんな同じだね、全部赤い実がなっている」と言ったが、なるほどそうだ、と思った。翌日、月曜日は主人が会社に出かけた後、そうだ、あの商店街へ、行ってみよう、買い物もしないと。 土曜日と同じように見て歩き、スーパーで生ソーセージを買ってみた。お店の人に「これはどう調理すればいいのですか?」と聞くと、「グリルで焼くのです、フライパンではなくて」と教えてくれた。 早速試したくて、家に向かったが、なかなか家の近くの道路に出てこない。 おかしいな、こんなに歩かなかったのに、どの家も街路も同じように見えるのだから区別がつかない。 「困ったなあ、どうしよう」と思いつつ歩き続けた。庭で車の掃除をしている人が見えた。 近づくとおばあさんだが、赤いパンツをはいて身奇麗な格好をしていた。 ここの家の人だわ、聞いてみよう。 「すみません、98Cumbrian Garden はどこですか、道に迷ってしまったのです」と言うと、「あなたは日本人ですか、いつ来たんですか? すぐお連れします、私も今出かけるところですから、この車に乗りなさい」と言った。「土曜日に来ましたが、近くですから、歩いていきます」と私。「車で出るところでしたから、一緒に行きます、乗ってください」と再度、言われ、近所の方ですし、おばあさんだから大丈夫だろう、それに親切に言ってくれているのなら悪いからと思ったのです。 おばあさんの車に乗った。 なんだか車でぐるっと道路を一周したようだった。 こんなに離れているはずは無かったのにと不安だったが、自宅の前に着いた。 お礼を言って、家の中に入ろうとすると、「着いたばかりで、買い物は大丈夫か?」と言って、私の後について家の中へ入ってきたのです。ドアー、から廊下、その突き当たりがキッチンになっている(この近所の家は皆同じような間取りだったのだ)。 おばあさんは‘勝手知っている他人の家’でづかづかと入ってきた。 台所をきょろきょろ見て「キャロット、もオニオンも無い」と言った。(このおばあさんはさて??、続く)
2004年03月23日
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主人がロンドンに出発の日、早朝に私の兄が高島平の我が家へ迎えに来た。 羽田まで送ってくれる為に。兄は「荷物はこれだけかい? 小林さんいいかな、出かけるよ」と言って、玄関に立ったままで、荷物を持つと主人を待った。主人は「じゃ、行くぞ、行くからな」と私を見た。「あなた、頑張ってね」と私。二人のやり取りを兄はニコニコ笑って、聞いていた。団地の長い廊下を二人は行きエレベーターに乗った。 二人が駐車場の車に入り、車が消えていくのをジッーと私は上から見送った。 東京は夏の暑い盛りだった。 三ヶ月後には私と娘も出発する、それまでにすることはたくさんあった。 引越し荷物をロンドンに送ること、この住居をたたむことだが、そのための買い物、何を持っていくか決めるのです。主人から無事に着いたという電話があり、「ロンドンは夏でもかなり涼しいから、それでも夏服は必要だ、全体に地味な服装をしているから、今使っている服は全部持ってくるといい」と言った。 その後は毎日はがきが来た、あれを持って来い、これも必要だと書いてあった。 食べ物のこと、服装、イギリス人、家の近く、商店のことなどを次々と書いてきた。 ロンドンへ送る引越し荷物の容積は決まっていた、○○キュービックフィートまでと。いざとなるとそんなに送るものは無かった。 現地で買えばいいことだと思った。荷物を出した後は出発間際に残りの荷物の引越しがあり、山梨の主人の実家へ全て送った。ロンドンへ当日持っていく手荷物以外は何もなくなり、ガランとしたこの家を出て、実家にお世話になった、この時、結婚後初めて実家に泊まったのです。 会社の国際部へ行く必要があり、娘を置いて、出かけた。 今まで、いつも出かけるときは娘と一緒だったので、独りでの外出は何か晴れ晴れとしたものです。 娘はゴリラの大きいぬいぐるみを持って、私とお揃いのアンサンブルを着ていた。飛行機の中は空席があり、ゆったりと座れ、娘は横になって眠っていた。 機内の乗客はきちんと背広を着た男性客、ビジネスマンが殆どだった。 今では考えられないことですがただの観光旅行客は居なかったのです。 スチュワーデスさんがとても親切に、気を使ってくれた。 北回りの飛行機で、アンカレッジ経由だった、ここで給油のため少し待ったのです。 当時はヨーロッパへの直行便は無くアラスカのアンカレッジを経由して北極上空を飛んでいくのが普通だった(約17時間)。今はほとんど直行便はシベリア上空を飛んでヨーロッパに行くのが普通だが(日本からヨーロッパまでノンストップで約12時間)。ヒースロー空港に着いた。ぞろぞろと列に従って歩いて行くと、主人が迎えに来て待っていてくれた。 三ヶ月ぶりにロンドンで一家が揃ったのです。
2004年03月22日
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結婚してから実家へ行き、泊まる事は無かった、先生の仕事を持っていて忙しくしていたし、近くに住んでいたので、訪問しても泊まる必要は無かった。 なにより主人を独り置いて、家を留守にする気にもなれなかった。長女の姉は出産の時には帰ってきて、実家のホームドクターの先生のところで出産し、実家には長居をした。 姉は私たちがまだ居たこともあり、又、母の良いお話し相手でもあって、子供を連れて実家によく来ていたのだ。 次女の姉は新幹線に乗って実家へ来るので学校の夏休み,お正月休みなどのときに子供を連れて夫である義兄も来て家族でしばらくの間滞在した。 娘の頃は、父が一番かわいがった姉であったが、父に性格があまりによく似ていて長く滞在しているうちには衝突もあったようだ。 姉は私に父のことで愚痴っている事もあった。 実家は特にお正月とお盆のときは二人の姉たちの家族と、私と主人も加わってとても賑やかであった。 以前は厳しかった父が、この頃には私たち姉妹とその家族を歓待してくれた。 父は「こうしてみんなで出来るのも、親が元気で居るうちだけだろうからなあ」と言って、自分で気が向くと、浅草のまつき、の肉屋で神戸牛をたくさん買ってくるのだった。 皆で、父に連れられて、外食で出かけたこともあった。 それは今まで見たことの無い、父の顔だった。 娘の数だけ、息子が出来て、嬉しかったのだろう。 私が父の愛を感じたのはこの頃からだった。 若い頃の父は自分で起こした事業に一生懸命だった。 それを支えて、母も父同様に苦労したこともあった。 父は実によく働いた,母もだが。 子供ながらに、郵便局のおじちゃんチみたいにサラリーマンならもっと楽なのに、と思ったものです。 父は自身の哲学を持っていた。 その自分の信じる信念のもと勤勉、努力、節約で仕事に励んだ。 自分自身にも厳しかったが、母や私たち子供たちにも厳しすぎるほどだった。そんな父に口答えはしないで、ただ、はいはい、と母は従って父を支え、家庭を守ってきた。私たち姉妹はそんな母を見て育ち、父のような人は結婚相手にはしたくないとさえ思ったのです。 姉妹三人で、どうゆう男性が夫としていい人なのか、と話すことがあったが三人とも父は失格だ、としたのです。 そんな父ですが、従業員を大切にしていた、職人さんたちは父の気性を知ったその上で、働いてくれた。 父の会社の経営は順調に行き、初代にして、その土台は硬く築かれた。成功者である父は、娘達の夫である義子息たちに,自分の信念を聞かせたものです。 特に小林とは話が合って、よく話し込んで、仕事のこと、財産形成のこと、目的を持ってすれば何事も、なせばなるのだ、と教えられた。 主人も「お父さんは立派な人だ」と言って嬉しく聴いたものです。晩年父は私と母の前で「私は我がまま者で、おみよ(母)には苦労をかけたなあ」と言った。 又私だけのとき「お兄さんがいるが、娘はお前だけになってしまった、お母さんのことは、よろしく頼むぞ」と言って頭を下げた、その頃母は痴呆が出始めていた。 父は80歳で亡くなった。遺体で横たわる父の足元に伏して、私は号泣した。勤勉で努力家の父だった。 愛しても愛しても止まない、私の大切な父だった。 雨ニモ負ケズ 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシズカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ 宮沢賢治
2004年03月21日
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30年愛用のピアノカバー子育ての日々でしたが、趣味にも熱中した。 娘が赤ちゃんのときは飯田深雪さんのアートフラワーの作製に夢中になった。 家中がアートフラワーでいっぱいになり、お友達がそれを見て、教えて欲しいと言って習いに来ていた。 飾ってあった作品のほとんどは後日にロンドンへの引越し荷物に入れてほとんどを持っていった。 造花はロンドンの我が家に飾って置いたが、帰国する前に、お世話になったイギリス人たちに差し上げたのです。 綺麗な造花だと、大変喜ばれました。レース編み、手編みもよくした。 テーブルセンター、ピアノカバーはレース編みで、これらは30年たった現在でも使用している(写真)。 何度も洗濯し、色も古めかしくなったが、やはり手作りはいつまでも愛着があり、捨てることは出来ないでいる。 娘が幼稚園へ行くようになり、いない時間帯には‘機会編み教室’に通った。 このときの経験が後にイギリスでの‘アラン編み’に役立ったことはいうまでもない。どの時期にも絶えず続けていたのは、ラジオ英語会話、だった。 毎日、早朝と午後の二回聞いた。 主人に「よく続くなあ、それだけは感心した」などと言われたものです。なぜか、いつか海外へ出ることがあるような予感を絶えず持っていた。ある日、主人が「仕事で国内に留まるか、海外に出るか、やりたい仕事を決めていくのだが、海外へ出てもいいのか」と聞かれた。 「ええ、私はそのつもりでいますが」と私。主人の伯父さまが外交官だった。 私たちが婚約をしたとき、その伯父さまが私の実家へ何度か足を運んでくれたのです。 そんなことで、私には親しみが持てた伯父様でしたが、その頃は外交官を定年になり、ニューヨークで日本人学校の校長をしていた。 日本人学校の創設者で初代校長でした。 「伯父さんがニューヨークにいるうちにニューヨークへ行けるといいわねえ」と私。「仕事で行くんだ、どこになるかは分からないよ」と主人。「でもどこに支店があるかは分かっているんでしょ、何処なの」「こんなに沢山あるの、チョッと心配だわねえ」と私。そしてある日、主人は帰宅するなり、「海外要員名簿に載ったからな」と言った。いよいよ海外行きが現実味を帯びてきたと感じた。 特に生活は今までどおりで、変わらなかったが。 どこに行くのかは、まだ分からなかった。 私たちの若さ、が不安よりも希望を与えてくれたのだ。 海外転勤の知らせを待っていた、希望を持って。 道程僕の前に道はない僕の後ろに道は出来るああ、自然よ父よ僕を一人立ちにさせた広大な父よ僕から目を離さないで守る事をせよ常に父の気魄を僕に充たせよこの遠い道程のためこお遠い道程のため 高村光太郎
2004年03月20日
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今では、数十年前のことです。お正月は予定日を控えて、今か今かとまっていた。予定日の3日は過ぎて、お腹がさらに大きくなり、育ちすぎて出産が大変なのではと心配になったが、もよおしてこなかった。 6日の早朝に少し出血があり、始まりだと思った。友人がすでに出産を経験していて、「出血があればお産の始まりだから、それから病院へ行けばいいのよ」とアドバイスしてくれたのです。 慶応病院のお産科に主人と到着して、主人はそのまま会社へ、私は内診のあと、陣痛が弱くなってしまい、看護婦さんに「一度帰宅しますか、まだですから、家は遠いのですか」と聞かれ、病院で待機したいとお願いした。 妊娠がわかってからこの日までに、定期的な診察を受け、出産教室では、会陰切開など、お産についても教わってきた。 無痛分娩があり、そちらを選らんだが、母に「普通分娩にしなさい、普通がいいのよ」と言われ、普通分娩に変えた。 無痛分娩を選べばその講習会があり、そこで無痛分娩がどんなものであるか説明と学習を受けたでしょうが。 7日の夜に陣痛室に入った。 陣痛の間隔がだんだん短くなって、破水した。 破水してからは痛みも一段と激しくなり、看護婦さんが見に来て「子宮口が開いてきましたから、筋肉を和らげる注射をしましょう」と言った。 痛みはさらに激しくなりベッドに寝ていられなくて、立ち上がって、力んでしまった。 見に来た看護婦さんに「無痛分娩にしてください」と言えば、「今からではできませんよ」と言われた。 さらに注射をした。 痛みが去ると、ベッドに横たわり、陣痛が来ると起きだして、しゃがんだ状態で力んだ。 横たわっていられなかったしそうするしかなかった。 またの間に何かものが挟まっている感じがした。 看護婦さんを呼ぶと「頭が見えてきましたから」と言って、分娩室に入った。 分娩台の取っ手を掴んで、何度も力んで、先生が「もうすぐですよ、もう一度力んで」と。 言われなくても痛くて力まずには要られない、どうなることかと思った、さらに力んだ時、「女の子ですよ」と言う声と、赤ちゃんの泣声が聞こえた。 女の子、ああ、この子も私と同じ痛い思いをしなければならないんだわ、と一瞬思った。朝の七時過ぎだった。 8時間に及ぶ苦しみは難産だとばかりおもっていたのに、「普通です、赤ちゃんは新生児室で一番大きいですよ」と言われた。歌 梓みちよこんにちは 赤ちゃんあなたの笑顔 こんにちは赤ちゃんあなたの泣き声その小さな手 つぶらな瞳はじめまして 私がママよこんにちは 赤ちゃんあなたの生命 こんにちは 赤ちゃん あなたの未来に この幸福がパパの希望よ 始めまして私がママよ
2004年03月19日
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子供の頃、食事をしていて父に叱かられたことがあったが、それは「黙って、早く食べろ。 おみよつけを残すな。 ご飯粒を残すな。 あちこち手を付けないで食べろ。」 ということが主でした。 時には、父は持っていた、箸で、叩くこともあった。父は家族がご飯粒一粒でもお茶碗に付いたまま、ご馳走様をすれば、「米一粒、汗一粒だぞ。 ご飯を粗末にすれば目がつぶれるぞ。 食べ物を粗末にするな。」と言うのですから、誰も、一粒もご飯を残すものはいなかった。 ウチの父は特別やかましいから、と思ってはいたが、結婚して主人の家庭で食事をすることがあったが、かなりの相違に気がついた。 小林の家では、まずお父さんからして、お茶碗にご飯粒がたくさんついたまま、終わりにしていたし、おみよつけは、お汁だけ飲んで、実は残してあった。後片付けをするとき、「おみよつけ残っているけど…?」と言うと、義母が「お父さんはいつもそうだわ、実は食べないからね」と。「それなら、はじめから実を入れないでよそえばいいわね」と私。「そうゆう訳にはいかないわ」とお母さん。「でももったいないわよ、おいしい実がたくさんあって、ただ捨てるなんて、せっかく作ったのに」「おばあさんが、お父さんの、その残りを、いつも食べていたわ」と義母。おばあさんが亡くなってからは、残された実は捨てられているのだ、毎日。厳しい父を、恨んだこともあったが、私は自分の父を誇りに思った。 そして、私自身が、家庭を持って、父と同じことを、主人と娘にも言って来たので、我が家ではご飯粒一粒も残すものはいない。 娘の頃、朝起きると、すぐにすることはお掃除だった。 ほうきを持って、ダイニングキッチンを除いた、全ての部屋を掃き、からぶきをするのが、私と姉の役目だった。 床の間はいつもピカピカで、父の好きな掛け軸がかかり、生け花が置かれていた。お花は先生が家に来て、教えていただいていた。 姉たちはお茶も習っていたが、私はお花だけ習った。 古流であったが後日、ロンドンでフラーワーアレンジメントを習っているときに、イギリス人に日本のいけばなに関して質問されたが私なりの答えをすることが出来た。 又、日本の華道と英国のアレンジメントを比較することが出来て、アレンジメントのよさを更に深めることが出来たのは幸いだった。 父はお花とお茶の習い事には家庭教師の先生を付けてくれたのです。部屋の掃除が終われば、玄関をきれいに掃除した。 父もまめに庭の掃除をしていたものです。 私の実家は隅々までいつもきれいに掃除が行き届いていた。 主人の実家は両親が教育者だったが、義母は子育てで退職した後は、福祉委員、裁判所の調停委員をしていた。 儀父母は畑、ぶどう園もあり、かなり忙しい日々を送っていた。 夏にはお盆の頃に田舎へ行くと必ず、ぶどうの収穫を手伝ったものです。 ぶどうを出荷する為の作業は人手が必要だったから。 普段でもお掃除はあまりしていないようで、その時間は畑仕事になったのでしょう。実家でしていたように、朝おきて、ほうきを持って掃除を始めたところ「そんなことは、しなくていいから、お勝手をして頂戴」と義母に言われた。田舎の生活を知らない私でしたが、自然相手の生活の忙しさを学びました。バラはバラ,菊は菊それぞれに美しきなり。※父のことは50年以上も昔のことであり、時代錯誤があります。
2004年03月18日
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出産予定日は1月3日であった。 秋も深まったある日、私たちは公団の賃貸住宅に住んでいたが、東京ガス不動産の土地分譲のチラシが入ってきた。 60坪前後の、都内からは一駅外ではあったが、閑静な住宅地で、値段も手が届きそうだった。 私は大学生の頃から貯金を始めていた。 必要なものは全て親が買ってくれていたから、それで十分だったし、あまりおしゃれでもないのに、姉のおかげでいつも服には不自由していなかったから。 父にもらったお金のほとんどは貯金していたし、アルバイト(家庭教師)もしたが、その収入の大半は貯金していた。 私の学校での初任給は一万八千円だったが、収入の大半は貯金した。 結婚したとき私の年収が30万円ほどだったが、持参金(貯金)は100万円を超えていた。 親と一緒に住んでいたからこそ出来たことなのでしょう。結婚後、主人はお金を持っていなかったが、二人で働いて、ためたお金も出来て、何とか土地の頭金にはなりそうだった。 大きなお腹を抱えて、土地を見に行った。 私が自分の家が欲しいと思ったのは結婚する前からだった。 結婚後、家を持ちたい、これが私たちの目標になった。 父が一緒に来て、見てくれたが、そこの分譲地を買うことにした。 有り金は全て叩いても、まだ足りなくてローンを組んで購入した。 娘が生まれて、出産祝いとお節句のお祝いに、と言って、私の両親から、お金をもらった。父は「お前たちは借金があるから、お金にしたのだ、このお金で、お祝いをしようと、借金を返そうと自由だが、借金は一日も早く返さないとだめだぞ。」と言って、まとまったお金をくれた。 長女の姉のときは、家を買ってあげると言って、父が姉と一緒に見に行ったことがあったが、姉もその物件にはあまり気が進まず、そのままになってしまった。次女の姉は夫の故郷で家を新築した。 私の両親が、呼ばれて行った時に、お祝い金を包んだが、その金額と貴方達に今、上げるのと同額だ、と母が教えてくれた。 戴いたお金は全て、借金の返済にした。 まだ少し借金が残ったが、たいした金額ではなかった。数年後、高島平に公団の分譲住宅が売りに出された。 同じ公団の賃貸住宅に入っている私たちは、特別枠になり、当たる確立が高かった。 申し込んで、当選した。 主人の勤務先に、社員持ち家制度、があって、家を買う為の融資を受けられるのでそれを受けて、高島平団地に移ろうと決めた。 しかし決定するまでに迷いはあった。 私は団地ではなくて、都心のマンションの方が良いのではないかと思った。 港区に新築のマンションがあって、私はそちらの方がいい、と主張した。 高島平の二倍の金額だったが、会社の融資額の範囲内であった。 主人は「借りればいい、と言うが、返さなければいけないんだぞ」と言って、半値の高島平の方を選んだ。会社の融資を受けるときに課の、係りの人に「この持ち家制度の融資は一回限りですから、よく考えて決めてください。」と言われたそうだ。 融資を受ける時、たいていの行員は目いっぱいの金額にするのに、半分しか借りないからだろう。 港区のマンションを望んだ私は、悔しい感じもしたが、主人の言うことも気になり、主人に従った。 新たな借金の返済が始まったが、高度成長期の時期でもあって、年々物価は上がり、高島平も例外ではなかったが、港区のマンションのはるかな値上がりには、やはり悔しい思いがした。
2004年03月16日
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仕事と家庭の両立は、まだ女性の負担が多い年代であった。二人だけの生活は私が仕事を続ける上では都合がよかったが、いつまでこのままのつもりではなかった。子供がいて、子育てと家事で過ごしたいという思いが大きくなってきた。結婚して間もない頃、主人が、「僕と結婚して良かったと思うように必ずさせるからな」と言ってくれた。 私は嬉しかった、その意味が漠然としていて、よく解らなかったが。それは主人の自分への決意でもあったのでしょう。 実にまじめによく働いてくれた、私もそうであったが。 会社では全てが順調に運んでいった。 主人も私と同じ気持ちでいて、「もう仕事はやめても良いんだな」と私の気持ちを確かめてくれた。 学校を辞め、妊娠を知って、専業主婦になった。 次女の姉は私より一年遅くに同級生だった数学の先生と結婚して、夫の故郷で、姉も先生をして、一人子供が生まれて、子育てもしていた。 姉は勝気で、頑張りやでしたから朝早くに起きて、家事の全てを済ませてから学校へ行っていた、と母が話してくれた。 姉は仕事を懸命にしていたのです。長女の姉は二人めの子供を身ごもっていた。 妊娠五ヶ月を過ぎた頃から、むくみが出てきて、お医者様にかかっていた。 安静にしているようにということで、姉の家へ、母が泊まりで行ったり、私もお手伝いに行ったが、その後、日赤病院に入院した。母体が持たないからと、胎児はおろすことになった。 おろした後も姉の様態はよくならなかった。「肝腎要、というが、肝臓と、腎臓が悪いので重症です。」とお医者様に言われた。病院へお見舞いに行ったとき、義兄は泣きながら、姉はもう助からない、と打ち明けてくれた。 涙がポロポロとこぼれて、姉の病室にしばらくは入れなかった。数ヶ月の入院のあと姉はなくなった。 なくなる直前に、兄に「良子を頼む」と頼んだそうです。 かわいそうなお姉さん、優しいお姉さんだった。 姉は私が遊びに行ったとき、家を飛び出したことを話して「かっちゃん、聞くも涙、語るも涙だったのよ。 もしお父さんがあんなに頭越しにがみがみ言わなかったら、お父さんの言うとおりに、お見合いした人と、一緒になったでしょうね。 でも宮下と一緒になって、幸せだから、もし生まれ変わったとしても又宮下と一緒になるわ。」と姉が言ったの・・・。美人で心もきれいなお姉さんだった。水のこころ水はつかめません水はすくうのです指をぴったりつけてそっと大切に水はつかめません水はつつむのです二つの手の中にそおっと大切に水の心も人の心も高田敏子
2004年03月15日
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東京の下町にある、短期大学付属高等学校で、英語の先生になった私は仕事と勉強に追われていた。女子だけの私立学校で、躾けは厳しく指導していて、生徒たちも下町のお嬢様が多く、学校の雰囲気は落ち着いていた。次第に仕事にも慣れてきた二年後に結婚した。学校から一つ駅の近いところに住んだのは家事もあるからで、通勤時間のかからない、場所だった。 主人より後に出て、二時間は先に戻っていたので、夕食の支度は出来た。夕食後は部屋に二つ置いてあるそれぞれの机に向かって勉強した。 私は受験英語の雑誌を好んで読んだ。 懸賞つきのクイズが面白くて、よく応募して、図書券などをもらったり、問題の回答を、送って添削してもらい、応募者総数の何番に入ったかが楽しく励みであった。 ラジオ英語会話は欠かしたことがなかった。外人の先生はイギリス人で、私が彼の世話をすることになり、授業も彼と組んでしていた。大学時代の外人の先生はアメリカ人であり、教材用テープもアメリカ英語であったから、イギリス英語を学ぶよいチャンスであった。 生徒に「外人の先生は、No, I can’t.[ka:nt] と発音するのに、先生はどうして[kaent] と発音するの?」とか、「Summer is warm. では無くて、Summer is very hot. です」という生徒と英国人の先生のやり取りは愉快だった。ある雪の日の彼の授業で、黒板に “A SNOWMAN” と書いた。 「生徒たちは雪男?」と言って、雪だるま、を笑わせた。 彼は hot dog を‘暑い犬’と売店で言っていた、と生徒が教えてくれた。 仕事はやりがいのある、楽しい時間でもあった。学校に組合が出来た。 するとすぐにもうひとつの組合、学校側の第二組合、が出来た。学校側の先生と組合の先生が対立した。 学校側の先生に呼び出されて、そちらの組合に入るように進められたが返事はしなかった。 どちらの組合にも入らないでいたが、それは私の立場を悪くしたようだ。 大学時代の恩師、英文学部部長、岡本成蹊教授に相談に行ったのは彼の推薦で、その学校の教諭になったからだ。 「自分の信念を通せばいい。」と岡本教授はおっしゃった。学校といえども労働組合は必要だと思った、しかし、学校という、未来を背負う若者を育てる場で、イデオロギー丸出しの言動は取りたくなかった。 学校に勤めて以来、毎年、クラス担任をしてきた。 クラスを持つことは何かと雑用があり大変であったが、そのぶん生徒たちとの交流もあり、忙しい中にも生徒の信頼にこたえることの充実感もあった。 三月になり、学年末の成績処理と新学期の準備、で忙しくしているとき、来年度のクラス担任の発表があった。 今年は高校1年生を持っていたから、そのまま持ち上がりで、2年生のクラスを持つだろうと思っていた。 クラス担任の名簿を繰り返し見たが、私の名前は無かった。クラス担任は全て学校側の先生で埋めてあり、組合の先生の名は無かった。 私もクラスを外されたのである。
2004年03月14日
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※THE ARAN LOOK ,BY PATONS より学校に勤め始めてからは忙しくなり姉のところへ行く回数も減ったが、夏休みには洋裁を教えてもらうために通ったことがあった。 もともと手先の仕事が好きで、編み物、手芸などは経験していた。 姉の指導の下、自分のスカート夏物のブラウス、ワンピースなど初級クラスの物を縫った。 娘が生まれてからは専業主婦をしていて、編み物に熱中し、機械編み教室に通った。ロンドンに住んでからは、アランセーターの制作に熱中した。 英語で書かれた編み方の小冊子を買い、材料を揃えると、編み方が一段ごとに文章で説明されていて、そのとおりに編む手編みの作業だった。 英国式編み方の本、には日本式の編み図、は無かったが、これは編み物が出来て、英文の編み方説明が理解できたからこそ制作が可能だった。 近所にいる日本人の方が三人、教えて欲しいと言って、習いに来ていた。 ロンドンで日本人相手の、英国式編み物、アラン編み教室、無料講習会のボランティアを行ったわけです。 このことは現地の日本人どうしの交流を増した。ロンドンから戻って高島平に住んでいた頃、同じ団地内の洋裁教室で、スーツ、コートなど一通り全てを作り、洋裁は自分で考え製作出来るようになった。 普段に着るものや安いものは市販のものを買い、外出着などおしゃれ着は自分のと娘のものは全て私が作った。 その後、教員に復帰し、洋裁をする時間は限られてしまったが、寝る時間を惜しんでまで、数は少なくなったが制作し続けた。娘が大学生のとき、ブランドのワンピースを買ってきた。娘は「お母さん、○○ブランドの服を買ったんだけど」と。「良いの買えたの? 着て見せてよ」と私。娘は紺色の品のいいワンピースを着て降りてきた、「どお、良いでしょう、似合っているでしょ」と娘。確かに素敵だった、「いくらしたの?」値段を聞いて、そんなに高価なものを…、と思った。 私が作れば、もっと上等な素材で、五分の一の値段で出来るのに、と思った。「そう、良いわね…、」と私。「お母さんはどうせ私の買ったものは気に入らないのよね、いつもそうよ、顔を見ればわかるわ」娘は寂しそうに、そう言い捨てて、二階へ行ってしまった。 翌朝、食事で下にいた娘を見て、昨日はチョッと可哀想だったかな、と思い「エリちゃん、昨日の服似合っていたわね。 素敵だったわよ」と私が言うと、娘は急に涙をポロポロと落として、「私の友達はみんなブランドの服を持っているのに、私だけよ、今までお母さんの手作りで、それでずーと我慢していたのよ。 今回初めて、ブランドの服買ったのよ、私だってブランドの服が欲しかったのよ。」と泣きながら言った。 「分かったわ、エリちゃん、そうだったの~、分かったから、ごめんね」と私。 それ以後、娘の服は作っていない。 先日機械編みで、セーターとカーデガンのセットを編んであげたが喜んでくれた。 娘も大人になったのだろうか。
2004年03月13日
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