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関係者以外には、意味不明な記事です。ご了承を。ライヴの進行と役割分担を予め決めて当日を迎えようと提案して行われた昨日のK箱ライヴ…。多少の「全員参加」感はあったものの、ほぼいつもと変わらなかったよなぁ…。まず、役割分担ができてない。誰が何やるかは、当日その場で決めるゆうて…。準備不足や役割意識の欠如から生じる不安要素を取り除こうとしないのは、つまりはお客様によりよいステージを提供しようという意識の無さの現れ。あるいはそれに気付けない、気付いていても何もできない無能。そして、自分以外のメンバーの、特に「負担」への関心の無さの現れでもある。オレ、スタッフで来てくれてる人たちには、ありがたいと思うと同時に申し訳ないとさえ思うもん。報酬が出るわけじゃなし、交通費は持ち出し自己負担で、いいように使われるだけ?「K箱が好きだから」、「自分が行かないとたいへんだろうから」と足を運ぶ、かっちぃや姫他のメンバーの気持ちはとても尊く、素晴らしい。だからこそ、その気持ちに対して敬意を払わないK箱の風潮に申し訳なさを感じないわけにはいかない。物販出店者が、自分では何もせず、他のメンバーとおしゃべりしながらスタッフにホワイトボードに値段書きを指示する…。自分で責任持ってせえよ!なんで…「人からしてもらうこと」に、かくも鈍感なのか?腹が立つ。上のは、ほんの一例に過ぎない。今回のライヴでも、足並みの揃わなさ、意思疎通の困難さと、そこから生じるやりにくさ、本来は回避可能なはずの不具合は随所に見られた。前半だけで30分以上押しとか…ありえねぇし。司会がノープランだからそうなる。パフォーマーと打ち合わせもせずに臨めばそうなるしかないわな…。出たとこ勝負で5分でトークの落としどころ見つけるなんて不可能だよ。だから事前の取材と、打ち合わせが必要なんじゃん。「自殺にまつわるトークするからね」ということすら、出演者には予め伝えられてないわけで、急に振られた話題に素で答えなきゃならない出演者、そのコメントを上手に拾うことのできない司会者…。空疎で時間だけが長いトークを聞かなきゃならないお客様こそいい迷惑だ。だからオレ、自分で話そ思って、演奏の前にコメント入れたんよ。KACCO&レッドの司会じゃ、オレのあの話は引き出せないし、司会者の合いの手は邪魔にしかならないと判断した。結果的に、大成功だったと思ってる。司会者とのトークは、オレのは時間短めだったしね。不満は他にもたくさんあるが、オレはもうK箱では「他人を変えようとする試み」はしないことに決めたよ。土台になる目的意識が、掛け離れているメンバーとは解りあえない。オレの目からは、一部のメンバーは、「何も与えず、ただ受け取るだけ」の姿勢に思えてしかたがない。全員参加で、アイディアや要望、互いにダメを出しあって、皆でひとつひとつのライヴを「創り」あげていく…。それこそが「集団」の持つ力だと信じてやまないし、それができればすごいことだと思う。K箱ならでは…の、パフォーマー集団に欠かすことのできない「集団としての個性・アイデンティティ」が産まれてくるとの確信があるけど。K箱じゃ、無理。理と本意を尽くして、語ったところで、一部の「ただほしがるだけの人たち」には、通じないだろ。K箱から「得られる」ことにしか関心が無いメンバーとは、解りあえないし、解りあおうと試みて自身が消耗することをオレは望まないから。結局常に五里霧中の、カオスこそ今のK箱の本質で、そこに留まることで利益を受ける集団の抵抗によって、霧の中から抜け出ることは今のところ不可能。なら、そのカオス自体をせいぜい楽しむことだ。他人を変えようとするより、自分を変えようとする方がはるかに楽。報われないことに、一所懸命になるのは、もうやーめた!
2008/07/21
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自分なんかどうなってもいいと言うことは…どんなことをしても、人を困らせ傷つけたとしても、恥じず悔いないということだ自己犠牲に見せかけた、究極の自己中は、時に他人やその本人を翻弄し死にいたらしめることすらある。しあわせになりたい…その気持ちを、素直に表せない人と付き合っていくのはとても難しい。
2008/07/18
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怒り…じゃなくて、身勝手な憤りかな…不安不満忿懣ストレスやり切れない思い…溜まりにたまると…サメるんです冷めるんです覚めるんです醒めるんですついでにもひとつ…褪めるんです…っと!究極に堪えきれなくなると、アツくなれないもんだねぇ…ないまぜになった諸々の思いは総て、色褪せたモノクロの写真のごとくひっそりと、だか明確に、過ごしてきた時間を伝える悲しみにかたちを変えて、心の主座に…しっくりと収まっている。もう誰も傷つけたくない哀しみの高みから世界を見おろしてオレは…なんでもできそうな気がしてる
2008/07/04
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アン、ちわぁ! 昨日はpresented byこわれ者の祭典…「短歌絶叫コンサート」のお手伝いに行ってきました。 9時、会場の新潟市総合福祉会館に到着。月乃氏と合流。他3名のボランティアスタッフと共に、機材の搬入と会場設営をした。あと、アンケート回答用の鉛筆削ったり…。少し遅れて、ミチコさんとゆう、女性のボランティアの方もきた。オレに気さくに話しかけてくれる、素敵な女性。アンもそうだけど、こわれ者繋がりで、魅力的な女性とのご縁がたくさん!だからこわれ者好きなのかも…ワラ! 正午過ぎにはあらかた準備は済んで、そのあとKーBOXのレスンに顔を出した。前回のライヴの反省会。 15時から、「短歌絶叫コンサート」開始!岐阜からのゲスト、ミッチーさん。「生き様発表会」とゆうイベントをオレと一緒にやってる、ギター&vo.のYOPPYと、筋ジストロフィーで車椅子使用者のワタコウさん。アナウンサーのHIROEさん。言わずと知れた、アイコリンと月乃氏のふたり。おっと!忘れちゃいけない…木林おずさんも。 彼等がコンサートの前半、朗読とギター演奏・伴奏を披露してくれた。 ワタコウ…こと渡辺浩一さんの「また、障害になって産まれてきたい」の言葉。全身の筋肉の力が衰えて、自分では寝返りを打つことさえできない彼は、しかし自らの生活を日々心から楽しんでいる。プライベートでのお付き合いもあるから、よく知ってんの、オレ。障碍=不幸じゃない。同じように、メンヘラ、リストカット、鬱およびその他の精神疾患、ひきこもり、身体または知的しょうがいの数々…。皆、「=不幸」では「ない」んだ!たいせつなのは、自分を受け入れてそこに満足できるか?の気持ちの在り方なんだと、この日のコンサート全体を通して教えられた気がする。 後半。この日のメイン出演者、福島泰樹さんの短歌絶叫コンサート。潔い言葉の吐き方をする人だ。こういう人の言葉にもっと耳を傾けなければならない。ピアニストの永畑雅人さんと共に、宮沢賢二、中原中也などの詩を引用し、七五調で力強い朗読を披露してくれた。「…じゃね?」みたいな曖昧な表現が蔓延している今の世にあって、先人たちの言い切りの言葉たちは潔く硬質で力強い。朗読をする福島氏の声も、また。 会場の後片付けを終えてから、打ち上げに参加。「鳥の歌」ゆう居酒屋で、出演者来場者ボランティアが集まって歓談。ギター演奏して歌歌ったの、オレ。 ものすご楽しい一日だった。昨日の晩は閣下ん家泊まって、今新潟駅前の公園でメール打ってる。 添付の画像は、昨日撮ったもの。アイコリンと、まいまいとゆうピアノを弾き語る女の子と。 そんじゃ、また。東京で会えるのを、楽しみにしてるネ! マチオ
2008/06/23
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(原文ママ) 参加できません。 懐かしがって話す話題無いし、厄落としのお祓いは必要無い。他意は無い。単に金がねーの(笑)。 幹事ご苦労。皆で楽しんでネ!
2008/06/20
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おもしろい実験があって、ナントカいうある種の蟻は、その2割ほど…だったかな?が、「働かない」。怠け者の集団がいるのだそうな。んで、この2割は役立たずだからと、蟻社会から排除してみる(実験ね)…。すると、残った働き者たちの中から、また同じ割合の「怠け者」が現れる。これはもう、そういう役回りを担うというルールが存在する…ということだろう。 「蟻とキリギリス」の童話を思い返すと皮肉な感じだ…。蟻にも怠け者はいる、ということ。 なんだかこれ、ひきこもりやニートを暗示しているようだねぇ…。こうした事案が日本に顕著なのは、我々が暮らすこの社会が、全体主義・社会主義的な、昆虫=蟻の社会と似通っているからかもしれないな…。とか、思ったりする。 ひきこもってる「言い訳」として、この話持ってきたんではないよ。言い訳など必要無いとゆうことを言っている。だって、そういう役割、「働かない」という役割を果たしているんだからな…。 「怠け者」の蟻は、「何もしないでいる」訳じゃない。同様にひきこもりもニートも、何もしないでいる訳ではない。蟻も人間も、生きている限り何もしないでいる…とゆうことは不可能だ。 蟻だってまさか、話しあって決めてはいないだろう…誰が働いて、誰が怠けるかということを。人間だっておんなじ。たまさか振られた役割なのだ…と、割り切った方がいい。理由はいかにあれ、自分だけでで判断できるようなものじゃないんだからな…。 この世界に対し、どういう役割を担っているか…?なんて、誰も知ることはできない。今のまま自分のままでいいのだと信じこんで、好き勝手に動くのが関の山…。だし、またそれだけで充分なのだ。
2008/06/18
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今回のライヴはオレとしては最高の出来!自分なりの反省点は多いし、改善の余地もたっぷりだけど、とにかくやりたいことができた…ってことで大満足! 演った曲は2曲。「想ひ出のキノコ園」と「Wow, Yeah!」。キノコ園は想い入れたっぷりに、Wow, Yeah!は暴走気味に…狙いどおりのパフォーマンス。今回は来場者の中に明確なターゲットが何人かいたから、その分気合いも入っていたしな。 Wow, Yeah!は演奏中に拍手求めよう思ってたら、自然と沸き起こって感激!たぶんK箱の誰かが始めてくれたんだろけど、ああしたライヴの一体感みたいなものがなければ、なんのためのライヴイベントなのか?思てるオレには最高の贈り物。 「ウンバァ」もそうだけど、客席に座っているお客さんたちと「同じ時間を過ごしてる」ってことを感じたいんだよね。ソロでステージ立ってれば、頼れるのは自分だけ。会場の総ての視線が集まる中で、共に過ごしている来場者の方々を退屈させるのがオレにはすっごく怖い…。だからなんだってヤルさ!たいせつなのは、こっちから距離を置かないこと。 単純に、自分は皆に好かれている…と疑い無く思いこむこと。馬鹿ならたやすいこと。だから、馬鹿になれゆうとるがな! 信じてもらうにはまず、自分から信じること。好かれるにはまず、自分から好きになることだ。それがすんなりできたら、ステージではやりたい放題さ。この日のオレのよーにな。 照れとか戸惑いとか、観たり聴いたりしてる人が居心地悪くなるようなものは出したくない。たいせつなのは常に、おもてなしの心なのだよ。
2008/06/17
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6月15日(日)今月のK箱ライヴは、愛海・VEA・わったん・シーガル・マチオ・純名の出演。愛海の朗読。今回の作品は、独り語りのスタイルだからこそパフォーマーの表現力…テクニック云々よりも「伝えたいという気持ち」が、問われてくる。会場の聴衆に直接、自分の感情を言葉に乗せて伝えるというのは、例えば詩として情景を詠むとか、誰かに宛てた手紙の体裁をとってそれを読むとかいうよりも、遥かに難しい。それをよくこなしたと思う。心剥き出しにした言葉を感情を想いを、「自分のものとして」伝えるには覚悟が必要で…。愛海の表現力の根源は、普段よく口にする「死にてー」に裏打ちされた、やけっぱちの覚悟なのかも。愛海と次のVEAのパフォーマンスの時は撮影係をやらせてもらった。これは楽しい仕事だった!VEAの歌…「発表会スタイル」なんだよね。コピーの曲をただ聴くだけなら、オリジナルをCDで…の方がいいに決まってる。ステージで、観客の前でやるからには、絶対不可欠なライヴ感…がVEAには足りん。決められたことを滞り無くやること…が、パフォーマーの仕事ではないヨ。正直言って、VEAの歌はどれも同じに聞こえるんだよネ。おもろない、つまらん!わったんもさ…、K箱でのキャリアは誰よりも長いんだから、聴衆を楽しませるってこと、もっと考えようぜ!ラヴサイケデリコの2曲とオリジナルの「LOVER DAYS」…どれも皆似たような歌で変化が無いからつまらん…。オリジナル曲の「LOVER DAYS」…何が言いたいの?何を伝えたいの?何も伝わってこないヨ…。VEAもわったんも、嫌なところに寄り掛かってる気がする…。「病気だけどワケありだけど、一生懸命やってマス!」みたいなところで評価されたがっているような…。だったら、他の誰でもいいんじゃん。シーガルさんのパフォーマンスは、「死を望む君に告ぐ」に、今回独自のテイストを盛り込んだ模様。出待ちで控えてたので、パフォーマンスの全容を語ることはできないが、シーガルさんには、間違い無く「同じ作品でも、二度と同じものは聴かせない」という気概がある。でないと、あの絶叫は出てこないよ。純名…は、自分のパフォーマンスをちゃんと考えてるよね。KーBOXライヴに訪れるお客さんたちの望むものを意識して曲作りしてる。病気なのに…ではなく、病気・訳ありだからこそのパフォーマンス。曲の背景にきちんとしたマイ・ストーリーがある。KーBOX・純名でやるならこのスタイル。BIGひばりなら豹変してのあのスタイル(笑)。敏感で深く考える質だから生きづらいんだろうけど、その生きづらさをネタ(敢えて、「糧」とか言わない)にしての曲作り、そして歌・存在。KーBOXにフィットすることを意識しているんだろうな。後は…司会のレッドか…。お前はなっとらん!とにかくね、お客様いないような態度はやめれ。ピンで司会で、いっぱいいっぱいなのは充二分に理解はするけども…。ンなの言い訳にしてたら、いつまでたっても司会なんて務まらないヨ。司会が上手くなかったことにツッコンでんじゃねぇヨ。自分の役回りとしての、意識の問題ネ。やる気や目的意識感じてれば、上手くいかなかったことには拍手を送るさ。それが感じられないから、苛立つ!少なくともオレは今回、「レッドよくやったね」とかゆう気まったく無いから。司会があれでいいんだったら、誰がやってもいいゆうことだよね。…で、「そう言うお前はどうだったんだヨ?」と、ツッコミ入れてくださる奇特な方には…明日、超絶自己満自画自賛日記をUPしますので、どーぞそちらをご覧ください。
2008/06/16
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-for youの行方- 皆、大変なのねぇ…と、皮肉を交えずにそう思ってしまう…。最近の身の周りの人間関係。今、つらいのは、皆、他の誰かのせい…?あるいは、全部自分自身のせい…? 思い上がるなヨ!どっちも!総て自分の責任だ…なんて言うほどお前ぇに力は無いし、全部他人が悪いのだと言うほどには非力ではないのだ!誰もが! その上で、総てのことは、偶然、なんだ!自分が思ったとおりにことが運んだとしても、それはたまたま。思いどおりにならなくて当たり前!それもたまたまだっ! 世界を思い通りに動かすために、自分自身を作り変えようなんて傲慢だ!今の自分でなければ、ここがこうでさえなければ…望みが叶えられるのに…? なわきゃねぇ!偶然は偶然。所詮なるようにしかならないのだ。そして人は未来を読むことなどできないんダ! シヤワセがほしくてほしくて、これぞ自分のシヤワセと、狭く狭く限定しちまってたら、当たりを得る確率はそりゃ下がるわな…。 自分のために…、あるいは誰かのために…、智恵を絞って小賢しく小賢しく立ち回ったとてやはり、なるようにしかならないのがこの世の理だ。予想を超える、予期せぬシヤワセに気付かないのか?与えられるものは苦しみを生み出すだけだと、簡単に投げ出すなヨ。苦しみと痛みこそが、最上の贈り物だと、うそぶいて笑ってみせろっ!あるいは、泣けっ! あなたの「ため」だと、誰もが言う。そして、思い通りにいかなければ、あなたの「せい」だと皆が責めるだろう。-for you-…どっちにしろ同じことだっ!everybody must get stoned…だっ! 自分のすることで、他人をシヤワセにもフシヤワセにも、できやしない…。偶然だっ!皆、たまたま、なんだっ! 「せつない、つらい」と誰もが言う。皆、「自分が自分であること」の「被害者」になりたがっている。 ふざけんなっ!
2008/06/05
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ふと気が向いて…と言うにはあまりにも強迫的に、新潟市で催される「言葉の格闘技」朗読イベントに参加したくなって、15時に家を出た。 あらかじめ用意しといた朗読用の作品を車中で口ずさみながら…「なんか違うんでないかい?」の思いが…。今回のイベントは、絶叫短歌コンサートのプレイベントだ。なら、オレが届けたいものは何だ?朗読か?いや違う…「絶叫」だ!絶叫を届けるなら、今度のステージで披露しようとしてる新曲、「Wow,Yeah」しかないだろう。そうだそうだ、そうしよう! 三条市を過ぎるころには、主催者の了承も得ずにすでに歌う気満々で(笑)、用意しといた朗読の作品のことなどすでに頭の中になかった。 18時半、会場の酒屋(!)ワタミチに到着。ちょうど月乃さんやAKIRAさんが着いたところだった。 ワタミチは酒屋とゆうよりは、レンタルスペースみたような感じ。酒…置いてないし…(笑)。10畳ほどかな?さほど広くないスペースに、四角いボックス様のテーブルと椅子がならんでる。 会場には、懐かしい顔・顔・顔…。トモっち、晶ちゃん、コスゲくん、こわれ者のスタッフでご一緒した皆さん。皆の顔を見れただけでも、この日はよかった! KーBOXで一緒のシーガルさんも参戦。KACCOさんともうひとりの司会者REDも客として来ていた。 この日の参加者はオレをいれて6名。発表順に、トモっち、晶ちゃん、シーガルさん、オレ、ムラヤマ(だったかな?)さん、ミッチーさん。 トモっちは絵かきさん。こわれ者絡みでライヴペインティングを何度かしてる。自殺してしまった彼女への想いを、歌の歌詞にのせて朗読した。 晶ちゃんは女優さん、「ウミノカド」とゆう映画で女優を務めた。女優さんだから人前にでることはなんでもないだろな、と思ったが、開演前には「緊張するぅ」を連発していた。んw 萌ぇ!自作の詩を3篇朗読。小刻みに震える、原稿を持つ手から緊張が伝わってきて、何かいたいけなものを見るようでさらに萌ぇ萌ぇ!いやw よかった! シーガルさんは、拡声器を使ってのパフォーマンス。場所柄を考えて音量絞っていたのかな?ほぼ生声のよに聞こえたが。この日いち番の絶叫。 次がオレの反則技で、歌。なんでもアリのルールに甘えて歌わせてもらった。んw 思ったほどの絶叫ができなくて残念だったな…。まぁこの忸怩たる思いを、次のライヴにぶつけるのダ!AKIRAさんにはほめてもらったしぃ! ムラヤマさんの朗読は、福祉作業所での研修中に知り合った女性との顛末。フィクションの体裁をとっているが、ドキュメンタリだろ…と思うのは、あくまでオレの感想なんで気にしないように(笑)。こわれ者がストーリーに絡んでいて、面白かった。 6番目、東京から参加のミッチーさん。今回最優秀賞に輝いた彼女の朗読は、自らの性同一性障害と家族との関係…。言わば、自分自身の在り様を選びとってきた歴史だった。真実を吐露する言葉は、飾りつけないままで浄く、尊い…。そう感じさせる朗読だった。胸に迫る真情と実感が来場者の心を打ったものと思う。 月乃氏の朗読。氏のマイミクで元麻薬常習者のジロジロさんのブログを抜粋・朗読したものが大ウケ!ここにもまた、偽らざる言葉の力強さがあった。 我が「なんちゃって娘」アイコリンは、朗読とAKIRAさんの歌のコラボが素晴らしかった! そして…AKIRAさんの歌。今回も涙流しながら、同時にほほ笑みながら聴かせてもらった。『僕の後を来るな 僕は導かない』『僕の前を行くな 僕は従わない』 …なんて潔いんだろう!他者との関係性にもたれ寄り掛かられ、そうすることで、生きる力を分け与えられているオレなんかには及びもつかない…それでいて、憧れてやまない心の構えが、しなやかに力強い調子で声で、朗々と謳われている!あんなふうに…。あんなふうに謳えるように、オレもなりたい。 イベント後、「鳥の歌」で持たれた打ち上げも、意外な話をたくさん聴くことができてよかった。 望むように動いてかない心を、気持ちよく裏切ってやったいち日。心鈍くなっている今だからこそ、揺らしていかねばな…と、深くそう感じた。
2008/06/04
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つまりは人称の問題なんである-。 とのっけから結論なんだが、これではなんのことかわかるまい。今回は「ウザい」という言葉を取り上げて、支配と制御について論じてみたい。 いつの間にかすっかり日本語として定着しちゃった感のあるこの「ウザい」とゆう言葉…いったいどうゆう意味なのか…?「ウザいっつったら…ウザいってことだよな」と言わずに、ちと考えてみてほしい。ウザいはうざったいの略なんだそうだ。うざったいとゆえば、わずらわしくて不愉快とゆうような意味だろう…。いやまさに、今そうゆう使われ方をしているのか。 しかし何故、この言葉が人々の口にのぼり、波及していったのだろうか?始まりは若者言葉らしいが、若者言葉とゆうのはその時代の気分を反映したものだから、「ナウい」にせよ「ダサい」にせよ「チョベリバ」にせよ、若者の間で古臭くなった頃に、オッサン・オバハンが頻繁に口にするようになるものだ。世に不愉快な気持ちを味わっている人ばかりなのね。 しかしホントかどうだか知らないが、どうも最近のティーネージャーあたりは「ウザい」とゆわれると死にたくなるくらいショックを受けるものらしい…。まぁ確かに、言われて愉快な気持ちはせんだろが、なにも死にたくなるこたないだろ…と思う。 元々本題に沿って始まってない話がさらにそれるが、今の若い人はアレだね、否定されることに超敏感。AC(アダルトチャイルド)のオレがゆうのも変だが、ホントACに似て部分否定すら人格全否定と捉えて、全力を挙げて抵抗を示すんだよな…。それも、二枚貝的(笑)抵抗…殻に閉じこもっちゃう(ひきこもりのオレがゆうのもナンだが…)。 「ウザい」とゆう言葉を、使う側にこそそうゆう傷つき易い一面…みたいなものがあって、それがオレには非常にドロドロしたものに思えて、気持ち悪い。 「気にくわん」ゆうことだろうと思うのよね、人が「ウザい」って口に出す時はさ。感覚の言葉だから、人により「気にくわん」ものは違うわさ。ただね…「気にくわん」ゆう時の主語は「オレ(私)」だわな…。対して、「ウザい」ゆう時の主語は「お前(あなた)」なのよね。この違い…わかるかなぁ。 「ウザい」がとても卑怯な言葉だと思うのは、この、一人称でものをゆわない点なんだな。自分を前面にだそうとしない。…そうゆえば前に、「むかつく」つー言葉が流行ったことあったな…。アレも一人称のようでそうではないね。「お前むかつくんだよ!」とか、そうゆう使われ方だもんな。 「ウザい」って便利な言葉だよな…。「私はあなたを不愉快に思っています」とゆう、非常に言いづらいことを、総て相手に過失があることにしちまって、自己主張の体裁とって実は相手をなじってる。狡猾で、そのくせ臆病な言葉だ。 見え隠れするのは、「自分は悪くないんだ」の気持ち。さらにゆえば、「自分は悪くないんだけど、そんなことゆってもわかってもらえないだろし、自己主張し過ぎるとKYだとかゆわれるし、『だったらお前はどうなんだ?』とツッコマレたら言い返す自信無いし…」みたいな、どこまでもってまわってるんだっ!と怒り出したい程の深謀遠慮だったりして…。 「ウザい」と口にするのは、怯えから発する示威的行動だよね。心の中でひとりごちるのは精神的な優位性を保たんがため。いずれにせよ、自己認識を他者との相対的な地位の関係で推し量ろうとしている時点で、「自分は、自分自身にとっていかにあるか?」の問いは封殺されてしまってるよな。 簡単に言えば、他者をおとしめることで自分自身に自分は立派だと思いこませようとする試み…とでもゆえばいいか。いじめも同じ構造を、より明確なかたちで持ってる。 卑怯でも狡猾でも臆病でもいいんだが…。オレがそうだからそこはツッコマない。しかしながら、否認はよくないよ。ましてや自分自身への言い訳的に周囲を己の言動でコントロールし支配しようと試みるのはいただけない。自作自演も、心からそうであってほしいと願えば、その人の中では真実になってしまうんだ。 自己否定を免れんための、緊急避難的行動…?まぁ確かに、他の誰か悪者にしたてあげた方が気持ちは軽いよな…。ただ、品のない言動はオレの好みに合わん。気にくわん、つーこった!
2008/05/29
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最近、少しまた頭が無駄に働くようになってきて、考えることは「支配と制御」。制御はコントロールとゆった方が伝わりやすいかな? 中学生の間では、「メールの返信は3分以内」とか、「メールのやり取りは自分から終わらせない」とゆう暗黙のルールがいち部に存在するらしい。後者に至っては、決してふたりともが守れるものではないと思うが…。3分以内に返信しあって、「自分から終わらせられず」に、夜通しメールを打つようなこともあるのだとか。 子供たちだけではない、社会全体の風潮が「私を見て!」の悲鳴の大合唱だ。「転職するならどんな仕事?」のアンケートには、上位に芸能・エンタメ関係の職業がずらり…。これもまた、「私を見て!」の気分を反映したものだと感じる。 ブログもそうだ。友人・知人の記事を読んでいても、ほとんどが「己の気分」のオン・パレード…。そこに至る経緯は省かれているか、意図的にぼかされている場合が多い。客観的にみてどうか?の意見は必要無い…というか、そういうレスはむしろ歓迎されていないのだろう。ただ、自分の気分を聞いてほしいだけなのだ…。 それが悪い…とゆう話ではないヨ。むしろそれは満たされるべき欲求。己の存在を気持ちを、ただ無条件に受け入れてほしい…。関心を持っていとてほしいと願うのは自然なことだよな、とすら思う。 ただ、あまりに闇雲でお手軽で、互いに関心を示しあうその姿勢にうすら寒い、空虚なものを感じてしまうのだ。先のメールのルールで言えば、まず「私はここにいるよ」のサインとしての発信があり、「うん、わかってるよ。だからあなたに関心持ってるわたしがここにいるってこともわかってね」の返信があって、さらに「そんなの当たり前じゃん!私に関心持ってくれてるあなたがいるってことを、『私が』わかってるってこと、わかるでしょ?」…と、延々と繰り返される堂々巡り…。関心を示しあっているんではなく、求めあっているだけの擦れ違い…じゃないのかなぁ…?って。 自分の、自身に対する関心の薄さを、かりそめでも他者からのそれで購おうとする行為はなんだか虚しい気がするのだ。 さて、タイトルの「支配と制御」なんだが…。己の価値を、他者からの反応のみで測ろうとするならば、それを支えるのはつまり影響力ということになる。メールの場合であれば、レス(レスポンスね)が返ってくる…ということ。返ってこなければ即ち無視…と、絶対主観的に受け止めて、自分を無価値と断じる。あるいはそれを認めたくない場合には、「無視」した相手をなじる・罵る…?そういう暗黙の不安が世に蔓延しているように感じてならない。 そうした不安から逃れるには、どうしたらいい?無関心を時として恩恵としても受け止めることができなければ、そして他者からの関心の無さにメゲない程の自己への充分な関心を持ち得なければ、他者からの関心のみを貪り求めるしかない。放っておいても人々の関心を集める、ヒーローヒロイン、スターの座…。転職したい業種の1位が芸能界とゆうのも頷ける。 絶大な影響力を発揮して、特別な演出施さずに自分のままでいて、人々の関心の的。常に居心地いい自分…みたいな夢、見てんのか?って。自分王国作りたいのか?本気で作る気あんのか? 支配とコントロールのパワー・ゲーム。それのママゴト遊びみたいなメールのルール。エンタメなんて、「誰がなんと言おうと自分が素敵で大事で大好き!」て気持ちが無いとできないヨ。生温くふにゃふにゃに、薄ーい関心のトレーディング(交換)している場合じゃないヨ。 支配とコントロールと、関心集めのゲームは楽しいしオレも大好きだ。でもそれは、所詮遊びでしかない。 主題に関して充分に語れなかった…。よってこの稿は序として、続く(たぶんな)。
2008/05/28
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5/25に行われた、第4回生き様発表会を振り返る。 13時30分開演予定だったが、トップバッターの脳性マヒブラザーズが勝手にトークを始めているのでそこに乱入。「えw さて…」とかゆって始めるよりステージに立ち易くて助かった。 司会としてトークのイニシアティウ゛を受け取った後、会場を飾っている垂れ幕やイラスト、ボランティア参加の人たちの紹介を軽くはさんで開演時刻を待った。 いち番手の脳マヒBのパフォーマンスは、かなり笑いを誘っていて、トップバッターの仕事を着実にこなした。照れや躊躇が一切無いのが彼らの強みだよな。 パフォーマンス後のトークでは、彼らが映画のエキストラ出演という絶好のネタを提供してくれたので、それを拾って話しを広げる。司会の仕事の第一義は、実は自らが喋ることではない。パフォーマーからの言葉をいかに引き出すか?喋らせるネタフリをいかにしてするか?が、いち番気を遣うところだ。脳マヒBのふたりは、目立ちたがり・喋りたがりなので、司会としては楽。話題フッて、後はフォローとツッコミしてればいい。 対して2番手、畑山さんは寡黙な人。民謡とオリジナル、計4曲を披露した。朗々たる歌声のパフォーマンスで会場を魅了。 前回、前々回は、どうやって畑山さんに喋ってもらおうかと智恵を絞ってみたが、今回は敢えてトークは短めに、温泉行きのネタひとつを披露してさっと切り上げた。畑山さんのシャイな人柄を印象づけるには、その方がいいと判断。弾まないトークを延々続けるより、観客にも好印象だろ。 ワタコウさんのパフォーマンスは、自らの半生を振り返っての朗読。 それを受けて、チャレンジを授けられても遠慮しない生き方と、パフォーマンスの中の台詞「また、しょうがいになって産まれてきたい」について、語ってもらった。客席の皆が、興味のあるところを拾わなければね…。そして、文中最も印象深いポイントでもあるし。 最後のYOPPY。この日のギター演奏はノリにノッて、聴いて善し観ててもカッコイイ!の会心のパフォーマンス。YOPPYのトークがいち番気を遣ったよ。シヴいYOPPYとお道化た司会マチオの対比で、なんとかしのごう思ったけど…。言葉少なにMC挟みながらのパフォーマンスは堂々たるもので、正直オレが「存在感負け」してたね。勝っちゃまずいんだから、ま・いいか? 休憩挟んでの約30分のトークの時間は、この日いち番のハードル。まず、参加者がいない…(笑)。観客として来てくれた1グループ4名と、ボランティアスタッフとパフォーマー約20名で30分か…。 積極的に喋りたい人皆無の状況で、いかにして参加者に気まずい空気を味わわせずに過ごしてもらうか?司会者の力量が問われるところ。ボランティアスタッフのひとりに少林寺拳法の型を披露してもらったり…(笑)、場を繋ぎ退屈させない時間づくりに関しては、とてもいい経験をさせてもらった。 最後はCJの、この日持って来たリュックの中にバナナが数日間放置されていたことが判明…。の、衝撃の告白で幕を閉じた(笑)。いやまぁ、これに救われましたわ…。 なんだかんだで、終始リラックスして司会を務めることができた。差し入れのハンバーガーにも大量にありつくことがでしたし。 いいいち日であった。
2008/05/27
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人のことにお節介焼くのは、厳に控え目にしなければな…。宙に漂ってるよな役割、勝手に自分のものだと決めつけて…つか、かっさらって、なんかやっちまった…って感じ。 「オレならできる」みたいな感覚で、頼まれもしないのに動き出すっつーのは下手したら、不本意に振られた仕事を断れないってコト以上に、ヤバいんでないの(笑)? ええカッコしぃなのは善い。オレはそう、そんな奴。何するにせよオレの場合は、動機は不純な方がいい。まぁ今回も、「気にくわん」がモチベーションのおおかたを支えているんだがな(笑)。 ならいいじゃんか…? うーん、いいんだけど…。 けど…? 誰の「ため」つーのが嫌で堪らないオレが、誰かのために動くか?動くわきゃない。「ため」は全部for ME!オレ様っ!総取りっ!な感じがベストなんだ! じゃあ今回、不本意にも誰かのためを思って動いたことで煩悶してるのか?NO!いやむしろNEVER!いつだってオレは自分優先!それは今回だって変わらない! ただなぁ… 人の事情に関して動くのは楽だ!あまりにも楽過ぎる!楽勝を通り越して、楽(笑)だっ! 他人のコトなんてそりゃ簡単に言えるし決められるヨ。失敗したって自分が痛い目みる訳じゃないしな…。利害絡まなけりゃ、人間なんてある意味無敵で万能だ。自分にもたらされるべき利、自分に負わされるであろう害があると空想するから縛られて動けなくなる訳で、そこ外ずしたらそりゃたいていのコトできるわな…。 「誰かのためになにかしている」とゆう幻想は、オレから傲慢さだの鈍感さだの悪辣さ…怠惰、卑怯、臆病、強欲、狡猾といった、生きてくために必要だから培ってきた様々な悪徳を削ぎ落としてしまう…。ヤバい、ヤバいっ。自分のままで、生きていきづらくなっちゃうじゃんか! 世のため人のため…なんて感覚身につけちゃうと、なんだかもう…それだけでまつたり満足…な感じがしてきてしまうものだ。面白くもなんともない毎日を、淡々とこなせるようになっちまう。 そのくらいならまだいいが…。他人のこと、あるいは周囲への気遣いに一所懸命になって、いざそうした配慮と自分自身の意思だったり性質との間に齟齬が生じると、自分のことなどどーでもいい…という、究極の無責任状態を自らに許してしまうんだよネ。これが巧妙で甘美な罠なのよ…。いやマジで、時には死に致る罠。 過干渉な母親から、すっごく嫌ぁなかたちで「お前のためよ・ためよ・ためよ…」的に育てられたオレは、ホンット「ため」がダメ…。だってその「ため」には、全部請求書が貼り付いてんだぜ! …いやしかしホント、この件に関しては母親に感謝!おかげでオレは、他の誰のためにも、なんのためにもならない楽な生き方こそ至上…の感覚(お気楽至上主義)を養えたんだから。これは真剣に、皮肉ではなく。 だからもうオレは、他の誰かのためとか、そんなことは一切しないの。オレだって誰かのためになんかしたりしたら、見返りを要求しない訳ない奴なんだからな。 借り物の言葉で申し訳ないが… 「もー誰もオレに感謝しちゃダメ!オレに感謝禁止ッ!」 って、本気で言えるような人に、なりたいヨ…。
2008/05/26
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意外に思われるかもしれないが、オレは「オトシマエ」つー言葉が好き。 「このオトシマエ、どうつけてくれるんでぃっ!」とか、他人に言ったことはないが…。 昨日の日記じゃないけど、他人を批判するのはオレ、大得意!自己紹介に特技:粗探し…って書こうかな?ゆうくらい、他の奴のダメなところ瞬時に見抜きますよ。 ああして他者へのダメ出し文章にしたり、口に出したりすると、心の奥底から聞こえてくる言葉がある。 「だったら…オメーはどうなのヨ?」 と。 「なんなのなんなの?オメー他人批評できるような立場なの?何様?なエラそうなことゆっていいの?だいたいオメー『ダメでいいじゃん』とかゆってんじゃん(笑)。オカシーよね矛盾してるヨね自分の都合のいい時だけ『ダメでいい』なのかよ?それで他人にはダメ出し?えー、自分のコト棚に上げてるよネ…ウヒヒ…馬鹿じゃねぇ?…ウヒヒ…なんかカンチガイしてるんだヨ…ウヒヒ…ウヒヒ…」 嗚呼w うるさいうるさいっ! やったろうじゃねぇか!嗚呼やってやるとも!オレが手本見せてやるよ!こうすりゃいいんだヨっ、てトコロをヨッ!そうすりゃ文句ないんだろっ!えぇっ?! …とまぁ、こうした一連の自分との対話(というか罵りあい)を繰り返してオレは自分自身のスペック上げてきたんす。 交わされる言葉は総て「約束」だから、後付けでも真実にしないと「嘘」になる… 嘘は、いかん… これが、オレ流オトシマエのつけかた。オレは自然に自分追い込むようにできてるし、そのプレッシャーのはけ口は、「信念に沿った行動」なんだヨ。信念が正しいかどうかはもはや問題ではない。自ら考え決定し行動することこそが必要なんだからな。 ゆった手前…で動くのがオレの行動原理原則なんだな。口にしたことを自ら行動し実現させたろっ…っつー、オレは予言者でありたいのよ。
2008/05/23
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ホンット、オレの周りには「若いいい男」がおらん…。共通するのは「不器用」のキーワード。んw まぁネ、君らが不器用で要領よくなくて、それに理由があることも、そんな自分がなんとなく好きなこともわかるんだけども…。ただ、不器用なら何してもいいんかぃ…f^_^;つーネ、何だか気にくわなさを非常に感じる。もはや君らのは、不器用という名の免罪符。不器用という名のテロリズムだヨ。小器用に人間関係こなせなくても構わないさ。そんな無理なことしろとはゆわんが…。ただネ、人と相対する時に自分の事情しか頭に入ってなくて、それしかアッピールできないんじゃカッコ悪いゼ。余裕を持たなきゃ…なんてゆわないが、相手のこと気遣う気持ち投げ棄てちゃダメだろ。まったく、どこまで「自分自身に関しては」ナイーヴなんだか…。因みに、NAIVEつーのは原義は「神経剥き出し」みたいな意味で、日本ではなんか「繊細」みたいな意味で使われてっけど、実際は「オメー感じ易過ぎ」みたいな意味。バネが無ぇんだヨ、バネが!「こんな自分じゃヤだな」みたいな気持ち募んないのは、自分のダメさ加減と究極まで向き合う覚悟が足りんのだ。自分のコト、諦めてるようでアキラメきれてない…。「悪いのはいつも他人」なのか?まーいいけど。オレはおっさんのバネの魅力で、若い女かもしたろ。君らはそのままでいるがよい。
2008/05/22
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100,000アクセス達成…。 ただの記号に過ぎんとは思ってても、7桁の大台に乗るっつーのはやはり何がしかの感慨がネ、やっぱ。 かつての常連さんたち、今も来てくれるありがたいお客様方、たまたま一度通りすがってくれた人たち、出会い系エッチサイトのPRコメントやトラバ張り付けに来た人たちに至るまで…(笑)ひとりひとりに感謝々々の100,000アクセス! ありがとうございます m( _ _)m
2008/05/19
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いつの間にか社会の仕組みに組み込まれて ついていこうと必死にあがいてハブかれて さらけ出すにも妙なプライドが邪魔んなっちゃって Wow,Yeah! Wow,Yeah! Wow,Yeah! 君はフサいでる 心に傷負ってる ほんのささいなことに怯えては後ろ振り返るんダ グダグダな昨日 希望など無い明日 今日がありゃいいサ ウダウダ生きてこう …それでいいじゃないか 他人(ひと)の言葉を頷きながら受け取れずに 嘘とウラヨミ裏では恨んで疎まれて ウラギられるとうっかり疑い鬱んなっちゃって Wow,Yeah! Wow,Yeah! Wow,Yeah! 君は悩んでる 答を出せずにいる とても大事なコトを決めかねて頭抱えてるんダ 忘れたい昨日 逢いたくもない明日 そのままでいいサ おめおめ生きてこう 犬に噛まれたらどうしよう? 猫を踏んじゃたらどうするの? そう逃げたっていい 嗚呼謝りゃいい 何も問題は無い …それでいいじゃないか 産まれて生きていつか消えちまう あなたに出遭えたうれしさを ボクは今歌ってるんダ Wow,Yeah! Wow,Yeah! Wow,Yeah!(X3) …それでいいジャン それでいいじゃないか
2008/05/15
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…何だか、「無為」への耐性が減じてきている気がするなぁ。何を以て有為・無為とするかは人それぞれなんだろうけどサ。 ダラダラ過ごしているのが苦痛に感じる時間が増えてきた。それとともに、強迫的に「ナニカシナキャ」の気持ちが不安と共に募る…。 「いいことじゃないか!?」とゆわれそうだし(笑)、実際、前の日記に書いたように「ナンカヤッタルデ!」的なモードに入ったら、無為あるいは退屈を嫌うこうした感覚は行動を起こし進めていくためには欠かせないものでもある。自分でも、何らかの変化の兆しと受け止めることは現時点でもできるしな。 それでも…いてもたってもいられないようなそうした気持ちに抵抗するように立ち上がるのは、「無為でいいじゃないか」という、「潔さ」への拘泥りなのかもな?あるいはただの怠惰か? 「生きてる意味とか価値云々…」と言い出さないように、これはオレにとって必要な、大事な感覚。 実際、強迫的である時でも、動けてる時はそんな意味や価値、意識してないしな…。不安も強迫も、生きてく上で、オレには欠かせない感覚。ただ、不安と強迫と興奮の歯車が上手く噛み合っていない…そんな感じか?ブレーキとアクセル、同時に目一杯踏み込んでるとゆうか…。 この場合、必要なのはアクセル緩めることなんだろうな…。なんだか書いていて、自分が思ったよりヤバい感じなのかも?思えてきた…(笑)。 まーそのうち、口が(指が)動くほどに身体も動かすようになれば…こんなコト気にも留めずに、痙攣的に「生きてるコト」を貪るモードに入んだろ。そしてそれは、自分じゃコントロールできないコトと割り切れば、コンフリクトから生じるストレスも軽くなるだろな…。 こうして書いていても、虚しい言葉しか綴れないなぁ…。まぁ、いいのいいの!実際今のオレは空蝉みたく空っぽの状態サ。 虚しくたっていいじゃんか!無意味に、生きてさえいれば(笑)な。
2008/05/09
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しばらく放置してたのは、どうにも気持ちが上向かなかったから。相変わらずドヨーンとしている。 カッコよくなりてぇな…。約4年前、ひきこもりを辞めてから次第に表に出るようになり、やりたいこと見つけて自分のできることだけは手ぇ抜かずになんでもチャレンジしていたあの頃は、自分の理屈で総てがわかっていたしそれでよかった。 絵本の読み聞かせから始まって、文芸創作、HP作成、このブログ、国際交流、こわれ者、芝居、ストリートでのギター演奏、中越地震でのボランティアetc,etc... 「やるかやらないか?迷ったら、ヤル」と決め付けて、興味のあることならなんでもやった。当時は「自分の使い道」が、おもしろいほど次々に見つかって、そんでもって体験したことを余すことなくこのブログに綴ってきた。…今でさえ思う。この八百余件の記事群はダテじゃない。 観たこと聴いたこと感じたこと…そして出会った多くの人たちから授かった、興奮がこのブログにはつまってる。 「もう一度…」とは言うまい。新たに、今までのことなんか全部無しにしたって、何かをヤル興奮を、シビれるほどのそれを味わいたいんだ! 誰がなんと言おうがオレはヤル、やってヤル!無駄にムキになって呆れられながら、ヤリ過ぎて凹んだり落ち込んだりしながら、ヤリたいことは皆、ヤってヤルんだ! そういう自分はカッコイイと思う。そうなれるし、できるということは「ここ」に書いてあるんだしナ…。
2008/05/08
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生きている者に対して、特別な尊敬の念を抱かない。死者はその成し得た偉業あるいは愚行に関わらず、存在しない者として扱わなければならない。 心から真に額づきたいのはただ「死」のみ…。「己はいずれ存在しなくなる」という、厳然たる事実のみだ。 どうも近頃まで、「死」に対する「構え」が緩くなっていたようだ。と、感じたのは…最近死の恐怖を感じる時間が何度かあったから。 とゆっても、誰かに殺されかけたとか、車で事故りそうになったとかいうことはない。日常の何気ない場面で、「自分がいずれ存在しなくなる」ことへの恐怖が、ムラムラと沸き起こってくるのだ。 もの心ついてしばらくして、「死」がいずれ自分にも訪れると思い至ったあの時の恐怖そのままに、理屈でなくリアルにそのことを畏れる気持ちになる。 産まれ墜ちたその瞬間から、常に己に寄り添い続けた「死」からの…声だろうか、あるいは鋭い眼差しでもあろうか、「生きよ」即ち「活きよ」のメッセージに、畏れながら心揺さぶられる心地がするのだ。 心の面に現れる・現れないの違いはあるにしろ、懸命に生きて・活きていると感じられる瞬間には常に、「死」への畏敬の念を抱いていた。 限りある与えられた時間に、何を成すか…。愚行であっていい。他の誰からもよろこばれやしないことでいい。ただ、自己満足のためでいい。己をよろこばす何事かを、今お前はしているか?できているか?と、「死」が冷ややかな眼差しで見つめ「活きよ」と語りかけてくる声が聞こえる…。 初めて出会った時から…いや、そのずっと前から何故だか知っていた。死は常に、己を見棄てることなく、ただひたすらに静かに、冷ややかに、ただ待ってくれていることを。
2008/04/28
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DAIGOからのお招きで、久しぶりに「こわれ者の祭典」を手伝いに行った。朝9時に会場の新潟市総合福祉会館到着。少し遅れて他のステージスタッフ、月乃光司サン、アイコリン、DAIGO、周佐クン、KACCOサン、CJらこわれ者パフォーマーが三々五々会場入りした。後になってからだが、大久保長男氏とも会って少し話した。オレと同じK-BOXのメンバーのわったんと、驚いたことにこれまたK-BOXメンバーのかっちぃと姫もボランティアとして参加していた。会場設営や配布するパンフレットの準備を手伝う。それにしても、ボランティアスタッフが、大勢ではないにしろ一定の人数集まるのはやはりうらやましいナ。こわれ者自体メジャーだからとか、メンバーひとりひとりが顔が広いからとかだけじゃなく、この日も行われたように、閉会後の交流会が持たれ、その場でのパフォーマーとの親密な会話や馬鹿騒ぎが求心力になっているんだろう。アフターケアのつもりは、こわれ者メンバーズにはおそらくほとんど無い。呑んで騒ぐのが好きなメンツが多いからと、主幹的立場の月乃氏がさみしさに従順な人柄だからなのだろう。メンバー全員が、魅力的に「出会いたがり」なんだな…。午前中だけ手伝って、午後はK-BOXのレッスンへ。…とは言うものの、遊んでただけだったな(笑)。下準備していかないと、やっぱダメだ。恒例の発表の時間には、「お気楽でスカ?」に加えてソロでの新曲、「思ひ出のキノコ園」を歌った。未完成だから途中からグダグダで、まぁシャレの軽ーい気持ちで作った曲だからナと気楽に歌ったつもりが、代表のKACCOサンの食いつき良すぎでビビった(笑)。この日のお遊びの中から生まれたネタ、「ゥンバァw 」(説明不能…)と共に、どーやらオレ、お笑い方面で相当期待されてるらしい…。ま、オレほどアホなキャラ、他にはおらんけんね。姫を自宅に送って、車内で長話してから帰途についた。このあたりの顛末は、語ると一冊の本になってしまうくらい濃いぃので、書かない。
2008/04/27
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こんなモノにまでトレンドあるんだよねぇ…練炭の次は硫化水素か、自殺。こりゃ、かなり苦しいらしいよ…。でも、たぶんそれやる人は「苦しいからよい」思ってるんじゃないかな?思うと怖いよね。多くの人を巻き込む可能性のある硫化水素による自殺を選択してしまうのは、「死刑になりたいから人を殺す」のと同じ、自罰願望が隠れているようで不気味だ。 「死にたいけど、死ぬ理由がない。ないなら自分で作ってしまえ!」って、言い逃れできない状況を作り出して、それを自分が死ぬ「大義」に仕立てあげてしまう…。はじめに自罰=死ありきで、泥縄的に罪を犯し、そのせいで自らを死に致らしめる…。なんだかちぐはぐで、すごく身勝手な理屈だ。自ら死ぬ訳に窮した人にはうってつけなのかもしれないが…なんたって、「りゆう化水素」だからな。 自罰いうよりこの場合は、役他自罰なんだがな。「ほーら、こんな奴は死んだ方がいいでしょう?」と、皆に納得されて死にたいのか?アホらし…ゆうより怖いのは、自己の命の評価基準が、主観ではなく社会や全体から観た自己像の曖昧なイメージ(これもまた、不純な主観だが)に依存していること。 「空気読めよぉ…」っていう、全体の気分に同調することを強いる「和」と言う名前のファシズム…。空気読んで読んで読んで先読みし過ぎて、「こんな奴、いらないでしょ?」って、周りを巻き込んで死んじゃう硫化水素自殺、どっちも嫌だ。根っこの部分は一緒だからね。「空気読め」の発言も硫化水素も、根底には虐げられた主観とその歴史、その中で培われた怨みつらみが幾重にも層をなして存在する。その上、不本意にも屈してきた自己への忸怩たる思いなんかもないまぜになっているわけで、こりゃもう気持ち悪い!全体の調和によって自らが利益を受けると思う時にだけ、読んでりゃいいんだ空気なんてモノは。 全体の調和によって受ける自己の利益と、不調和によって生じる自己の不利益…。その辺のところに意識的でないと、「空気を読む」という行為は、自己決定権を無自覚に他者に譲り渡す愚行に堕してしまう。そして、全体の調和の為に自己の利益・願望を抑制することも、自己決定権に無自覚な故の行動と捉えなければならないだろう。 実際、「和をもって尊しとす」(この言葉、大嫌いなんだが)への曲解が、互いの損益の「差」を無くする為の「空気読めよ」の発言として発露しているのは皮肉なことだ。 こうした全体主義的な気風を支えるものとして、巷に溢れるランキング情報があるように思う。大嫌いなんだ、アレ。 売れてる○○ランキング、映画興行収益ランキング、果ては初デートの前の晩に気になったことランキング…etc,etc...。 毛嫌いしてるのもあって、ランキングと聞くだけでもう「だからナニ?」と思っちゃう。なんだろね、ありがちな傾向の寄せ集めなんだからさ、上位には「さもありなん」な予想可能なものばかり並ぶワケですよ。何がおもろいの?って。そうしたつまらん情報に、もっともらしく蘊蓄…とすら言えない解説くっつけて、何が楽しいんだぁw 結局皆、他人の顔色窺いたいだけのアホらし行動だよねぇ。他人からどう思われようが、どうでもいいじゃんか…少しでも思えんもんかな?
2008/04/25
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前述のオセロ大会は3人1チームのトーナメントで。1回戦1勝2敗で進出ならず…だったのだが、石数順での敗者復活枠に進むことができた。 とゆうわけでこの日は2回戦。序盤から見慣れない展開であたふたし(馬っ?)、右上に引っ張られてすでに勝負アリのかたち…。その後、負けでもなんとか石の数は残そうと智恵を絞ったものの、終わってみれば●58-○08の大差で負け。前回時間ギリで終えたので、今回は中・終盤に時間とっておこうとしたのが裏目に出た。実力差ある場合、序・中盤で勝負がつくいうのはホントだね…。 対局には多くの観戦・応援の人が来てくれて感謝々々!ネトゲの他のオセロ、全然やらなくなっちゃったのは、COBRAのこういう人と人との結び付きが他では無いからなんだよね。オセロより、チャトしてる時間の方が遥かに長いがな…(笑)。 最近調子悪くてあまり行けてないんだけど、そうすると心配してメル送ってくれる人がいたりする。ありがたい!
2008/04/24
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鬱が窮まって身体中の皮膚がピリピリしてる。なんもしないでいるのがいち番なんだと頭ではそう考えているのに、気持ちは、感覚はソレを拒否し始めてる…。寝静まった夜の街に彷徨い出て、あてどなく歩いてみようか…なんて、ただただ無意味なことがしてみたい。 そゆえば「生きることに意味なんていらない」そう思える潔さこそがオレの矜持だった…。 今のこの生き苦しさはナニカの予感…。善いコトでなくて構わない。今以上の苦しみであってさえいい。また今度も、ネをあげる時が近づいている。強くなんかない、強くなんてなりたくない自分を、そのままに認めてあげられる時が…。 たぶん、きっと…
2008/04/22
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昨日20日(日)、KーBOXの月例ライヴで新潟市へ…。 往きの車中でなんかもう死にそうだった…。昼夜逆転半端な時間に寝て起きて、大遅刻必至リハの時間あるかこんな感じでステージに出ずっぱり大丈夫なのか…etc,etc... 具合悪い上に、具合悪いが故の不都合が重なって、かなり追い詰められてた。 前半はパフォーマンスないんでかなり暇。最初こそ話振られて答えたりしたけど、後は「ナンデココニイルノ…?」状態。前半に関しては、あのスタイル活かせてないし、安易なヒト真似は自らの価値下げるだけ思うケドナ…。絡みで唯一よかったのは、愛海と純名の過食トークか…。ああいうのをもっと持ち込まないと、パフォーマー全員出ずっぱりの意味ないよナ…。アト事前の打ち合わせ大事よネ。「桜や春まつわる好きな歌」て…、突然振られても困るわ。 しよがないからステージでずっとグリーフワークしてましたわ。暇だからじゃない、精神の均衡保つため(笑)。 愛海のパフォーマンス、堂々たるものでヨカッタ!個人的には、朗読としてはちと長いかな思う。「体重云々家族が死んじゃう云々」の…強迫観念を語る箇所がオレ的にはクライマックスだと感じるので、アレを際立たせるためにさらに推敲し、煮詰めた方がよいように思う。まぁ、これからだよね。 「お気楽でスカ?」演奏るのはホント、気が重くて…(笑)。前フリトーク丸投げにしちゃってスマンm(._.)m、純名、閣下! 間奏の暴走はオレららしわけわからんテイストでヨカッタ!純名GOOD JOB!! 「人は生きてこそ」。昨日の演奏は歌いうより朗読…いうよりむしろ独白に近かった。あの歌詞に気分がモロにシンクロしとったっけネ。ああいうの、つねにできることじゃないよナ。 恒例お茶会では「お気楽…」CDジャケット打ち合わせ。来場者から2名、KーBOX参加者があらわるっ!でビツクリ。 往路に比べ復路では、心なしキモチ軽くなってた…。
2008/04/21
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やべぇ、再開したのはいいけどもうくじけそうだよ…。 身の回りのいろいろなこと、気になりだしたのはまぁ、そうできるだけの余裕でてきたつーことなんだろけど…。それだけに思うにまかせない心と身体が負担に感じる。 今日はケータイのオセロの大会があって、19時から対戦。●43ー○21で負け…。石数差はあるものの自分ではまぁまぁ納得の勝負ができたかな?ただ確信もてずに打った手が結構あって、今後の課題だな。ギャラリーが多く居て緊張した。 嗚呼駄目、調子悪い。書いてる自分が楽しめるような日記、書きたいな。
2008/04/18
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もしもボクが夢を持てたら、どんな未来思い描くかな? もしも明日になにか願えたら、今の自分変えられるかな? 繰り返す日々、過ぎてゆく時間にただ流されて生きてそれだけでいいのかな…? 光無く、闇でさえ見渡す何処にもないよな、灰色の世界でいま独り息ひそめている 生きる意味、与えられた時に答は無くても、いつか巡りあえる時を信じて祈りたい もしもボクが愛を知っていたら、少しでもやさしくなれるかな? もしもボクがボクをゆるせたら、他の誰かも赦せるのかな? 心ない言葉と嘘につかれてただ泣いているけれど…それさえもいいのかな? 幾千と重ねてもなおまだ届かぬ言葉に思いたくしながら今日も歌口ずさむ 生きる意味、与えられた時に答は無くても、いつか巡りあえる時を信じて祈りたい もしもボクに勇気あったなら、自分を信じていられるかな? ほんの少し信じられたなら、次の一歩を踏み出せるかな? 手離すためだけに立ち止まってただ生きている…今はそれだけでいいのかな? 繋いでも、つながるほどになおつのるさみしさに背中押されながらそっと手を差し延べて 生きるため与えられた命…生まれた誰もがきっと祈りながら明日を信じて歩いている もしもボクが… *** 詞・曲:マチオ
2008/04/10
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3度にわたって「お気楽でスカ?」の歌詞を掲載してきた。そ。歌詞なんだな、これが…。 昨年10月くらいから、新潟市に拠点がある病人パフォーマー集団(笑)KーBOXつーとこに所属して、だいたい月1くらいでライヴに出演してる。 「お気楽でスカ?」は、現在3曲あるオリジナルの持ち歌のうちの1曲。
2008/04/07
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かっこ悪くていい 不様でいい 生きてりゃいい あなたがたいせつ たったひとり あなただから (キミガスキダヨ…) 愛していまスカ? 愛されてまスカ 愛ってなんでスカ スカ スカ わからねぇ (ンでもっ!) キラキラ気楽に キラキラ気楽に キラキラ気楽にキラキラ輝いて生きよう 泣いて生きよう 笑いながら 迷いながら だらけながら トボけながら どんな時も なるべくなら ありのままの そのままで 情けなく だらしなく なにげなく 生きてゆこう 生きてゆこう 生きてゆこう キラキラ気楽にキラキラ 輝いていきよう
2008/04/04
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いつのマニマニ こんなフニフニ 生き苦しいの? むやみにハリキリ 平気なフリムリ やってられないよw 悲しければ泣け ゆるせなけりゃ 怒っていい 自分に正直 それがとてもステキだから (ヤッパイマデモ…)憎んでいまスカ? 怨んでいまスカ? 忘れないでスカ スカ スカ それでもいいよね (ンでもっ!) ユルユル赦siて ユルユル赦siて ユルユル自分「は」赦siて生きてゆこう
2008/04/03
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お気楽でスカ スカ スカ スカ スカ ? いつもニコニコ できりゃクヨクヨ 悩まないけど だってウソウソ 裏じゃメソメソ そりゃしかたないよ くもり顔でいい 無理に笑顔作らないで ありのままがいい いつもそれはかわらないぜ(ドンナトキデモ) お気楽でスカ? お気楽でスカ? お気楽でスカ スカ スカ スカ? キラキラ気楽に キラキラ気楽に キラキラ気楽に キラ キラ 輝いて生きよう
2008/03/27
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再開します
2008/03/26
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今月の読み聞かせ会「とんとんお話の部屋」では、司会を務めた。 今回は絵本が2冊と紙芝居ひとつと昔語りがひとつ。司会は絵本の読み聞かせや紙芝居を演じることと違い、アドリブでコメントを差し挟みながらの進行が要求されるので、いつもとは違った趣がある。季節柄春めいたお話が主に語られた。お話に聞き入る子どもたちは皆熱心に耳を傾け、絵本や紙芝居の画面に見入っている。ほんとうに、観客に恵まれた会だと思う。 読み聞かせの後の「遊びの時間」では、野草を使って首飾りを作ったりという「草花遊び」で子どもたちと楽しんだ。 来月オレは紙芝居を演じ、再来月は「遊びの時間」で、紙粘土を使った遊びをする予定。また、「とんとんお話の部屋」で、人形劇を演じるという計画もある。反省会では、人形劇の今後の製作の話題で盛り上がった。 毎回、来てくれる子どもたちによろこんでもらえたらそれでいい。子どもたちと触れあう時間の後は、なぜかしら心が軽くなったように感じるのだ。それが楽しくて続けている。
2007/05/12
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国際大学(IUJ)で行われているキックボクシング・ダンス・エクササイズ。この日は卒業アルバム用の写真を撮影をするということで、メールで案内がきた。 ストレスと鬱屈が溜まりきっている頭ン中空っぽにできる気がして、久々に参加してみた。 夢っくすサロンに来ていたYOKOさんを誘って、IUJのジムへ。 数ヶ月ぶりの参加で身体が動くかどうか心配だったけど、以前頻繁に参加していた甲斐があって皆のダンスにもなんとかついていける。リズムにあわせて身体を動かすことだけに集中する。吹き出る汗、身体の隅々から伝わってくるシグナル、体温の上昇とともに頭の中は真っ白になる。久々の、爽快感! 汗と共に、なにか「嫌な気分」も流されたようで、身体を動かすことの楽しさ面白さを再確認した思いだ。家路に着く車の中で、見も心も少しだけ軽くなったように感じていた。
2007/04/17
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宿直勤務明けに六日町のチャレンジ・ショップHOMURAに行ったら、偶々六日町を訪れてきていた、上越市のI澤さんと出遭った。I澤さんはトラっちを訪ねてきたのだったが、あいにくトラちゃんは不在。おかげでボランティア活動や団体の運営談義に花が咲き、興味深い話をたくさん聴かせてもらえた。 I澤さんは、文字どおり手弁当(つまり無報酬)で県内のNGO団体を繋ぐボランティア活動をしているスゴい人だ。本人曰く、「楽しいから、好きだからなんですよね」。…うん、素晴らしい!ボランティア活動に携わる姿勢は、常にそうありたいものだ。I澤さんは物腰柔らかな雰囲気が周囲を和ませる、ユニークな雰囲気をまとった人。いつも彼の顔を見ると、何故だか「ほっ」とするんだな。 NGO,NPOに代わる市民団体の呼称に、“CSO”というものがあるのだそうな。Civil Society Organizations(市民社会組織)の略。いささか使い古された感があり、かつ否定語“Non”で始まるNGO,NPOより印象がいい。「市民参加の社会組織」という位置付けを明確に現していて判りやすいし、なにより耳に「新しい」。 超新し物好きなオレは、早速個人用の名刺の、自分が運営する団体の呼称に“CSO”をつけ加えた。CSO“あ・ぴえ”と、CSO“UIIAA”。ああ誰か、名刺を渡した時に「CSOって何ですか?」って、早く訊いてくれないかなぁ…(笑)。
2007/04/16
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月にいち度の読み聞かせ会「とんとんお話の部屋」の日。 今回は、いろいろあって4,5ヶ月振りに紙芝居を演じるということで特に気合が入っていた。また、先日観た「魚沼産☆夢ひかり公演・オズの魔法使い」で、表現者としての気概を激しく熱く揺さぶられ、また、事前に人前で演じる機会を与えられたりと幸運にも恵まれ、自分自身で納得かつ充実の紙芝居を演じることができた。今回は準備期間に一ヶ月を要したことだしな。 タイトルは「かいぞくでぶっちょん」。掛け値無く悪い海賊のお話。ま、最後には改心(?)というか暮らしぶりが変わるようなオチがついているものの、そのナンセンス振りが気に入って選んだ紙芝居だ。あと、「ドッカーン!」とか、「ズシーン!」とか、「ゴロニャーン」とか、随所に腹の底から声を出せる台詞(擬音)が入っていて威勢がいいのもオレにとっては魅力のひとつだった。 読んでもおそらく判らない梗概(あらすじ)を敢えて載せると、 でぶっちょんが奪い取った品物の中にびっくり箱があり、そのせいでネズミが逃げ出して、子分たちは怖れおののいて船を去ってしまう。退屈しきったでぶっちょんは人間大砲でとある島に上陸。トラに出遭って怖れおののいたりする。最後にはゴリラと会話をし、美しい夜空を眺め、その後は島で動物たちと仲良くくらしたんだとさ…。おしまい。 という物語。 十数名の子どもたちの双眸が、すべて紙芝居の画面に熱く注がれているのを見ながら、自分なりの演出をこらした紙芝居を演じる快感…。これがあるから、やめられないんだよな。 「遊びの時間」では、こいのぼり作りをした。小さな可愛らしいこいのぼりを手にして、よろこんで帰っていく子どもたちを見送る時間。これもまた、「やっててよかった!」と思える、貴重な貴重な時間なのだ。
2007/04/14
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この日は、「スーパーこわれ者の祭典」の日。エイブルアート・オンステージ・プロジェクトの一環として催されたもの。ボランティア・スタッフとして参加するために、7:30に家を出た。9:30にリュートピア能楽堂に集合予定。なんとかギリギリ間にあって、その場でこの日オレのする仕事を確認。車椅子での来場者の方たちの客席案内係だった。 スタッフ間の打ちあわせ、車椅子来場者の席の確認と確保、ゲストのホーキング青山さんを出迎えと、仕事をこなしているうちに午前中はあっと言う間に過ぎていった。 かつてない大舞台での公演に珍しく緊張気味に引き締まった顔をしているCJの姿を見つけ、写真を撮ろうとしたらこれだ…↓ 13:00開場。車椅子での来場者は予想ほど多くは無く、我々スタッフの仕事は滞り無く進んでいった。実は今回のイベントでは、無視することのできない波乱があった。主催者の予想を大きく上回る当日券を求める来場者に、前売り券を買った方たちの多くが入場できない事態が発生したのだ。まぁ主催者側の手落ちは手落ちなんだが。前売り分の席をあらかじめ確保しておけばよかった…とは、まぁ後からならば何とでも言えるからな。この失敗を糧に、今後の開催をより良いステージ作りに活かしてもらいたいものだ。それにしても、380以上ある席がすべて埋まるとは凄いぜっ! スタッフとしての参加だったので、残念ながら今回のパフォーマンスを客席でじっくりと観、聴くことはできなかった。車椅子の方の介助のために交代で会場に入り、ライブで聴くことができたのはアイコさん、筋ジストロフィーのワタコウさん&YOPPY、そして月乃さんのパフォーマンスだった。 昨年11月のオーディションで選ばれたメンバーたちは皆、ステージ経験の無いずぶの素人ばかりだった。だが、約半年のレッスンを繰り返し、どのパフォーマンスも観、聴く価値のあるものに仕上がっていることにびっくりした。「スーパー」を冠しているのは伊達じゃないってステージを観、聴かせてもらった。 ワタコウさんの「自分史語り」と、YOPPYのギター演奏のマッチングの妙は特に素晴らしく、聴く人の心を動かしてやまないワタコウさんの言葉。オーディションの際にも心動かされたのだが、今回はそれがまさに「芸」として昇華されている。「この次産まれる時も、障碍を持って産まれたい」と高らかに言い放ったワタコウさん。素晴らしく潔いっ! 他にもCJ&わったんの共演(これは会場の外のモニタで観聴きしたのだが)もすんなりハマっていた。朗読とギター演奏に、照明効果も加わって、CJの「いじめられっこ自慢」振りに相応しい演出が加えられている。常々彼のCold Jokeに体温下げられて正直辟易しているオレでも、こう思った。んw 普段はああでもやるときゃやるゾ!侮り難し、失笑芸人(笑)! 芸の研鑽と絶妙な演出の効果で、すべてのパフォーマンスは会場の規模やチケットの代金に比較して充分に観るに耐え、聴くに耐えるものに仕上がっていた。当日券\2,300のチケットは決して高くなかった。 アイコたん。彼女は普段は可愛らしくオズオズとした印象なのに、歌や詩を語る時には何故にああも心に訴える表現ができるのだろう?まさに豹変。彼女の操る言葉は、絶妙なマリオネットを観ているようで、巧みに操られる言葉の糸によって様々にその表情さえ変化させる人形劇を思わせる。胸の内に、彼女の姿の踊り子の人形の幻想が現れて、繊細な情感と力強い躍動感を備えた舞踏を観せられているような気持ちになる。零れ溢れ出す、情念の噴出…めいた感覚。ああした理外の言葉の感性ってオレには無いものなので、彼女の綴る言葉にはいつも魅了されるのだ。紙面テロル、今回はあったのかな?スタッフなんでもらわなかった。あれを読むのを、毎回楽しみにしてるんだよね。今回の歌と演奏のパフォーマンスも、いつも以上に素晴らしいものだった。 DAIGO&周佐くんの「脳性マヒブラザーズ」のコント。これまでのショート・コントとは違い、昔話を題材にした長編のコント。周佐くんが語り、DAIGOがその物語を演じるスタイルは、声優志望で読み聞かせをやっている周佐くんの活動を知っているだけによりいっそう面白く感じた。ボケとツッコミのメリハリも利いていて、今回は彼らのMAXを観せてもらった気持ち。公演が終わって、周佐くんにそう告げたら、「いや、ボク的には全然MAXじゃないですよ!」と、頼もしい言葉。「見てもらう」パフォーマンスから、「魅せる」パフォーマンスを目指す気持ちに火が着いたようだった。 Kaccoさん、わったん&クーちゃん、まいまい、YOPPYのK-BOXからの参加者もみごとなパフォーマンスを披露してくれた。公演終了後にクーちゃんがくれた、「汚れた空でも翔んでいこうよ」の言葉。今のオレにすっごく必要な言葉だった。ありがとう! 今回はスタッフとしての参加だったので、あまり写真が撮れなかった。↓はグランド・フィナーレの模様。 出演者全員の素晴らしいパフォーマンス。そして、こわれ者を通じて出あったたくさんの人たち。りえさん、はなびさん、ユッキー、miruっち、大久保長男氏、かんだちさん、トモっち、YOSHIYAさんその他大勢の方々と心通わせる時間をもらって、ほんと、今回招いてもらってよかったと感じている。東京からはるばる訪れてくれたmomokoさんにも会うことができた。うれしかった!出演者、ボランティア・スタッフの皆さんと記念撮影 今回のステージは、言葉で言い尽くせないものごとが多すぎる… つーわけで、百聞は一見に如かず。興味のある方は下記のNHKの放送をご覧ください。 ・5/3(木・祝)18:10~18:44 NHK総合TV全国放送 「ホリデーにっぽん」こわれ者の祭典特集「能楽堂公演ドキュメント」 もしよければ、月乃さんの対談集「病気だヨ!全員集合」も、よろしくw ああそうそう、今回は先日購入せざるをえなかったスーツ着用での参加だった。これが以外に好評で、とっても気分がよかったんである。
2007/04/08
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毎回足しげく夢っくすに足を運んでくれている新会員のYOKOさん。彼女が少しだけ知っている日本の歌の中に「島人ぬ宝」(by:BIGIN)がある。オレの持っているギターのスコア・ブックに載っていたので、ギターを弾き、一緒に歌ったりした。 歌詞とギター・コードを記したものをプリント・アウトしたものを使い、彼女は「島人の宝」の歌でも日本語の勉強をしていた。 いずれ夢っくすでささやかなコンサートを催せたらと考えている。YOKOさんはギター奏者でもあり、実力はオレ以上とみた。国際大学(IUJ)の学生さんからいろいろな楽器の演奏者を募って、夢っくす主催のミニミニ・コンサート。今年中のいつか、やりたいな…♪
2007/04/06
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2回目の期日前投票立ち会い人を務めた。この日投票に訪れた人の数は約40名。初回とたいして変わらん時間が流れただけなので、この日に関しては特に記することはない。 だが、実は今回の新潟県議会議員選挙には、ちょっとしたしがらみがある。 当地区の立候補者は2名。そのうちのひとりが、縁の浅からぬかつての同級生なのだ。 小学校高学年から中学校まで、奴はかなりグレたアウト・ロー的な子どもだった。それが今、いいオヤジになって町議、合併後の市議、そして今回の県議といずれもストレートに当選している(この日記は4/25に書いている)のだ。知人曰く、「挫折を知らない男」なのだそうだ。 子どもの頃の奴はいじめっ子で、当時のオレはいじめられっ子。いや実際、オレをいじめ非道い目にあわせ続けていたグループの主だったひとりがヤツだった。中1の1学期にオレが転校する際に、クラスメイトへの贈り物として母親が用意した1ダースの鉛筆を、突っ返したのが奴だった。その時の情景を今でもよくおぼえている。 さて、そのかつてのいじめっ子のM候補なのだが、今はいろいろあって当時の恨みつらみをオレはまったく感じない。まぁ、中越震災の時に共にボランティア活動をしたり、公の場で会い言葉を交わす機会を幾度か持つごとに、今現在の奴の人と成りが知れるにつれ、この歳になるまで抱き続けていた「赦し難い」思いは薄れた。その後現在では5児の父親になっていることが判明し、ましてや息子を相手に「子煩悩」振りを発揮している場面に出くわしたりもしたのだからなおさらだ。 皮肉なことに、オレにとってのかつてのいじめっ子である奴は、現在教育や子育ての問題に深く関わり、いじめに関しても積極的に取り組む姿勢を示している。これは皮肉ではなく、掛け値無しに「いいこと」だとオレは思っている。かつてのいじめ経験者としての、いじめ問題への取り組み。そこに、かつてのいじめられっ子としてのオレが首を突っ込んだなら、かなり面白い展開が待ち受けているのではないだろうか?繰り返しになるが、真実かつての恨みつらみはもう感じないのだ。むしろ、当時いじめていた奴と、いじめられていたオレが、共にいじめについて考え行動することからは何がしかの意味や意義が生じる予感がする。少なくとも、面白いことにはなるだろう。 「あ・ぴえ」主催で、奴を招いてオレと奴との当時の当事者の体験談を振り返るのも面白いかもしれない。昨年末くらいからそう思い始め、今本気でオファーを考えているところなのだ。
2007/04/05
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アルバイト感覚で、新潟県議選の立ち会い人に申し込んだら採用された。なので、転職初日の翌日に早くも休みをいただいて、立ち会い人を務めるため、最寄の魚沼市役所庁舎に向かった。 いわずもがなのことを書いておくと、立ち会い人は投票の場に立ち会うことがその仕事だ。公平・公正を期さねばならない選挙だから、市民から募集した第3者の目の前で行われるという前提の基での「見届け人」ということか…。ありゃ!?オレ自身よく判ってないんじゃないか!(笑 この日、期日前投票に訪れた方の人数は30名ほど。投票が行われないその他の時間は、まったくヒマ。時間を持て余すことが予想されていたし、あらかじめ「本を持ってきてもいいですよ」と言われていたので、福井晴敏の「亡国のイージス」を図書館で借りて持っていった。この本は面白い!…だが、予告無く中断される読書では、普段のように読み進めることができない。 昼食が出て(ラキーッ!)、午後からの時間は座りっぱなしで眠くなって、人がいない時間はストレッチで眠気ざまし。時折同席の他の立ち会い人の方や、選挙管理者の方と言葉を交わした。 8:30から17:00まで。無事に務め終えた。まぁ…立ち会う他にやるこたぁないんだが。 投票開始時と終了時には、投票箱が厳かに開錠・施錠され、選挙管理人によって開始と終了が宣せられる。投票箱の鍵の入った袋には、立会人が各々判を押して封印する。この時間は、普段なかなかない厳粛な気持ちを味わえた。 5日にも、期日前投票の立ち会い人をする予定なのだ。
2007/04/03
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転職して初仕事の日。前日に買ったスーツを着て、新たな職場である知的チャレンジドの方たちのグループ・ホームに向かった。 仰々しい任命式。職員がひとりひとり名前を呼ばれ、任命書を手渡される。…こういう「オカタイ」雰囲気の中に身をおいていると、よくもまぁオレみたいなデタラメな人間が採用されたものだと不思議に思うくらいだ(笑)。んw 間違いなく、人手不足が最たる要因であろう。 任命式が終わると、制服に着替えていよいよ初仕事。…だが、この日は一日中会議で、ほとんど実務はなかった。会議では、何について話しているのかチンプンカンプンで、思わずうとうとして隣の人に注意された…。んw 初日からカッコ悪い始まりかただなぁ…。 とにもかくにも、新たな職場での仕事が始まった。とにかくこの日からもう、不安と緊張の連続だったんである。
2007/04/02
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3月末ぎりぎりになって、転職が決定。30日(金)に正式に旧職場の退職手続きを終えて、その足で新たな職場に必要書類を提出…。あわただしいこと、この上ない。 31日、4月1日と「半年間の南米散歩」の充実のイベントと交流があって、新職場に提出する書類の作成もままならないまま、もうひとつ問題が…。 就任式というか、任命式なのかな?…が4/2にあって、事務の方が言うには、 「正装でおいでくださいね♪」 正装…、スーツ…?持ってねぇ! 新たな職場では下はスラックス、上着は制服が貸与されるので、スーツなどいらんのだ。「たった1日のため」に高価なスーツを購入するのは嫌だ。が、しかし、残された日数はわずかに3日間。知りあいの誰かに借りようと思案したものの、胴回りの太いオレと体型が似ている知りあいの顔も思い浮かばない…。家にある家人のスーツも試してみたものの、どれもこれもオイラにゃ小さすぎる。むむむ…どうしようか!? で、結局「洋服の○山」に買いに行くことにした。店員さんの前で、「すんません、スーツの上下がほしいんですが…」と言ったら、「スーツは皆上下揃っているんですよ」と言われた。うははっ、早速恥をかいてしまったぞ。「なるたけ安いものを」とアドバイスを求めると、\18,900のツーパンツ・スーツを勧められた。年配の女性の店員さんが勧めてくれたのは、いかにもリクルート・ルックといった感じの黒のビシッとしたスーツと、それよりもゆったりとした縦じま模様の入った、まぁいろいろなシチュエーションに着ていける感じのもの。オレとしては、黒い方がカッコいいと思ったのだが、せっかく大枚はたいて買うのだから、コスト・パフォーマンスを考えて結局後者に決めた。 試着室で試着をすると、おぉっ!なんだか自分で見てもいい感じじゃないか…。袖の丈も丁度いいらしい(自分ではわからない。店員さんがそう言っていた)し。馬子にも衣装というが、ほんとうだ。ふたつボタンのスーツだったが、両方のボタンを留めようとしていると店員さんから、「スーツは一番下のボタンは留めないんです」との指摘が。「えっ!?じゃあなんで、ボタンがついててボタン穴が開いているのだ?!」…疑問は尽きなかったが、問いただすのも妙な気がしたので、黙っていた。そうした自分の知識の無さを再確認するとともに、「なんだか奥が深いゾ、スーツってやつは!」と感心しきりだったのだ。あと、「\30,000以上のスーツを買うと、\15,000引きになりますよ」という店員さんの言葉。「は?それってどういう仕組み?」という疑問の後で、「んw だったら、\30,000ジャストのスーツを買えば、\15,000になってコレ(\18,900の)より安いじゃないか」と思ったのだが、世の中そんなに甘くはない。\30,000以上のスーツは実は皆\40,000近い値段で、結局\25,000近い出費になるのだ。そんなことも含めて、スーツと「洋服の青○」に関する謎は深まるばかりだった。 すっかり気に入った、試着したスーツを購入する気になったのだが、ここでひとつの誤算が露呈した。実は全所持金かき集めて持っていった金額は\15,000くらい。足りねぇ…(笑)。スーツをゲットする算段はもうひとつあって、リサイクル・ショップで古着を安く買おうかという案もあったのだ。実際、地元のわりとなんでも扱うリサイクル・ショップにはオイラの体型にぴったり合うスーツが売ってはいたのだった。がしかし、白っぽい布地に妙な光沢があって、なんだか派手派手しくて新たな職場に着ていくにはふさわしくない…と断念したのだったが。洋服の○山の近くにも規模の大きいリサイクル・ショップがあるので、一縷の望みをかけて、そこでダメなら青○で買おうと決め、さっそく裾あげの準備を始めようとした店員さんを制して、「ちょっと検討してみたいので…」と言うと、「じゃあ、お取りおきしておきますね」との言葉。結局、件のリサイクル・ショップにも求めるものは無く、弟に返済する予定のお金から一部再拝借することにして、足りない分を家に取りに帰った。往復約1時間の道程(笑)。 なんだかんだすったもんだあってやっとスーツを購入。んw 久しぶりに高額の買い物だった。ほんとオレ、スーツって今まで着たことすらなかったんだな…としみじみ思うとともに、いろいろと驚きと疑問の連続でだいぶん勉強にもなった。高い買い物だったけど、なかなか面白い体験ができてよかった。 ちなみに4月からの新しい職場は、知的笑凱者の方たちが暮らすグループ・ホーム。作業補助員として、働くことになっている。
2007/04/01
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前日の「一年半の南米散歩」参加者の方たちからお誘いを受けて、地元の蕎麦の幻の名店「いたや」に行くことになった。自宅から車で5分の距離だが、土地不案内な皆さんを先導しに国際大学へ行った。 「いたや」に着くと、すでに長蛇の列が。田舎では珍しい、行列のできる店なのだ。 おそらく1時間近くの待ち時間は、前日の交流の続きの良い場になった。家から近い店なので、普段なら行列ができていることを確認した時点で他の店に足を向けるので、行列にならぶのはオレとしては新鮮な体験。 この場でも、佐竹真有さんの南米でのエピソードに関して話に花が咲いた。 スペイン語の学習もそこそこに、南米へと旅立った真有さん、よほどやむにやまれぬなにか「突き上げるような激情」が生じ、それに駆られて旅立ったのかと思って質問したら、申請したビザ(?だと思う…海外行ったことないからよくわからねぇ…)が半年かかると言われたのにすぐさま発行されたので、その有効期限のために早々に旅立ったのだとか。それだからこその、数々のユニークな体験をされてきたのかと思うと、人間なにがさいわいするかわからないと、しみじみと思う。 並んで待って、談笑しながらの食事はとても楽しかった。…とはいっても、「一升五合」の蕎麦と山菜の天麩羅が運ばれてきたとたんに、皆無口になったのだが(笑)。それくらい美味かったということだ。行列に並ぶのも、たまには悪くない。蕎麦の写真を撮る真有さん 遠路はるばる新潟市からいらしていただいた真有さん、そして仙台から足を運んでいただいたカトちゃん…。その他の参加者の皆さんに、まさにオレの地元の幻の蕎麦屋の味を楽しんでいただけたのなら、うれしいことだ。
2007/04/01
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3/29にトラホンから連絡を受けて、急遽「一年半の南米散歩」というイベントに参加することにした。新潟市から招かれた講師は、佐竹真有さん。南米のチリを始め、アルゼンチンやメキシコを巡り歩いてきた方だ。 前述の「前フリ」で述べたように、かつてとある女性の美貌と豊かな胸の誘惑に駆られてスペイン語を学習していたオレにとってはそそられるイベントだった。開催2日前という、ありえない期日に告知されたにも関わらず、会場には15,6名の参加者の姿が。おそるべしっ、トラホン!(笑) 今回主催者のトラホンが用意したアイスブレーキングは、参加者の各々が自分の「理想の旅」を思い描き、発表するというもの。トップ・バッターを命じられ、オレが発表したのは「オーストラリアへの新婚旅行っ!」。行き先がオーストラリアなのは、最近夢っくすに入会したメルボルン出身のYOKOさんとの日本語の学習から、オレの中で今、「オーストラリア熱」が高まっているからで、「今ちょっと気になっているあの娘」と、もし将来結婚することにでもなったら行ってみたいなぁ…つー感じで。はぁ…、ウケを狙いましたとも! 隣の席に座っていたカトちゃんから、「オーストラリアにはフェアリー・ペンギンがいる」と聞き、「ああこりゃもう、新婚旅行はオーストラリアしかない」と思ったワケですよ。 座の雰囲気がほぐれてきたところで、夕食を摂りながら真有さんの南米での滞在の体験に、PCを使ったスライドショーの写真を拝見しながら耳を傾けた。南米諸国は確か、ブラジルがポルトガル語を使っている以外は皆スペイン語が公用語だった…と思う。真有さんはスペイン語の勉強すらせずに、単身チリへと発ったのだそうな。なんて大胆なっ! 南米大陸って、正直あまり馴染みが無い。国際大学(IUJ)の学生さんの中にも数人、南米からの留学生の方たちがいるが、たぶん10名に満たないくらい、数えるほどでしかない。TV等のメディアから伝わってくる情報は、一時期ペルーの大統領がフジモリ氏だった時と、かのフォークランド戦争の時に多く伝わってきてはいたが、それ以外は南米については寡聞にしてあまり耳にしないのが現状だ。 真有さんがその目で視、その耳で聴き、肌で感じてきた体験談はとても興味深く、チリ、アルゼンチン、メキシコ各国のお国柄の違いを知り、彼女が出会った人々とのエピソードから、南米各国に生きる人々のおおらかさが伝わってきた。 日本との比較で、経済的に豊かでない国が持つ「心の豊かさ」を感じるお話を聴くことができた。国民のほとんどが飢えることなく暮らしていけるこの国の経済的な豊かさは皮肉ではなくよろこばしいことではあるのだが、「勝ち組」「負け組み」なんて言葉が無批判に用いられ、一部の裕福層がマネー・ゲームに興じ、株価やら為替レート(それがなんのことだかオレにはよく判っていないのだが)やらの変動に一喜一憂しているこの国は、その富の代償として支払ったかけがえのないものを失っているようで、なんだか心が寒くなる。情報は全国ネットのTVやら新聞やらで均質に共有され、日本全国必ず同じものが流行り、一億総中流意識こそ失われてきたようではあるものの、未だほとんどの人々が経済的により豊かな人々の方へのみ目を向け、垂涎の思いを胸に抱えながら何かたいせつなものを見失っている気がしてならない。 話がそれてしまったが、今回のイベントでの最大のうれしい収穫だったのは、まだ見ぬ「心の故郷」を地球の反対側に見つけてしまったことだ。 その国は、おそらく世界で一番細長い国、「チリ」。チリでは細身の体型はあまり好まれないのだそうで、「ダイエット」とは無縁の国であるらしい。日本とは大違い…というか、正反対だ。ダイエットが続かない…と嘆く紳士淑女は皆、チリに引っ越したらいい。おそらくチリではそのままで理想の体型になれることだろう。この一事が、最近流行っているかのメタボリック・シンドロームと仲良く暮らしているオレの心の琴線に触れた(笑)。他におおらかというか大雑把な人々の暮らしぶりにも大きく心惹かれたのだった。チリでのエピソードを聴くにつれ「チリっていいなぁ…」と思い、将来チリで暮らす自分のしあわせな未来像という夢を思い描くことができた。無論その時は、「今ちょっと気になっているあの娘」も一緒だ(笑)。 真有さんだけでなく、今回参加した方は皆個性的で、思い思いに発言し交流を深めることができた。会場の建物が閉まる23:00直前までいろんな人と話し込んだ。「えずみや」の仕出しの料理も旨かった!もう言うことなし、の満足イベントであった。
2007/03/31
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久しぶりにスペイン語熱が再燃し始めた…などと書くと、かつてさも一所懸命に学習していたかのように聞こえるだろうが、実はそうではない。カセット・テープ付きの会話練習のテキストを一冊丸暗記したくらいかなぁ…。ひきこもるずっと前の話だから、もう7,8年も前になるのか。長いブランクで、覚えたことのほとんどが忘却の彼方に記憶の欠片となって散ってしまっていることは言うまでもない。何故スペイン語を学習しようと思ったのかというと…これと言った理由は無い。英語がネイティブ・スピーカーとさほど支障無く話せるようになったので、「英語はまぁ、これくらいでいいだろう」と思ったものか?自分でも判然とせんのだが。語学学習的な浮気心でも生じたものか?ちなみに英語だって、「ペラペラと流暢に話せたらなんかカッコいいかも?」というしょーもない理由で英会話学校に通い始めたのだ。今はうおぬま国際交流協会の活動で、英語を話すことが非常に役に立っているのだが、英会話を習っていたあの当時、まさか十数年後にこんなかたちで役に立つとは当時のオレは想像だにしていなかった(笑)。明確な目的意識が無くとも一所懸命になれるという性情もたまには役に立つこともあるということか。 それはともかく、会話中心のテキストに付属のカセット・テープを繰り返し聴いては口に出す練習を繰り返したおかげで、当時は結構いろんなフレーズをおぼえていたものだった。英語に比べて、スペイン語は発音に苦労がほとんど無いし、口に出して話すとなんだかスカッとする威勢の良さを感じて、各々のフレーズをおぼえることは楽しかった。 あっ、そうそう!当時NHK教育の「スペイン語講座」も熱心に視聴していたのだが、その番組に出ていたペルー出身の女性がお気に入りだった。毎週録画して、繰り返し視ていた記憶がある。ほんとになんの目的意識も持たずに漫然と学習していたワリには、ところどころ断片的な知識が結構しっかりと残っていたりするのは皆、彼女のオレ好みの容姿と、特にその豊かな胸のおかげと言っても決して過言ではない。 「オーラ アミーゴス! コモ エスタス!」と、番組の冒頭でTV画面から語りかけてきた彼女の姿と声を今でも思い出すことができるほどだ。カレンさんと言ったっけ。当時のオレのアイドルだった。うっわ!なんかすっげぇ懐かしいこと思い出しちまったなぁ…。 それにしても、男の不純な動機のパワーって…(笑)
2007/03/31
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南魚沼市六日町にあるチャレンジ・ショップ「HOMURA」内にある三椿の店長、みかホンに招かれて、「ほむら夜市」の「のんびりする会」にゲスト出演。紙芝居を演じ、絵本の読み聞かせをさせてもらった。 17:30に開場。会場のチャレンジ・ショップ「HOMURA」には、十日町市池谷産コシヒカリで作ったおにぎりが用意された「のんびりする会」の他に、インレイ・クラフト・ショップ、自家焙煎コーヒーのカフェ、カラー・アロマセラピーにマッサージが加わったオーラソーマ、リラクゼーション整体指圧(なのかな?)のお店などなど…個性あふれるお店が並んだ。 おっと、天然酵母のパン屋さん、「MAJINパン」を忘れてはならない。 まだまだ寒い中、唯一の屋外での出店。「ほむら夜市」のPRに、すごく貢献していた。 紙芝居は「かいぞくでぶっちょん」。絵本は「これはのみのぴこ」を読ませてもらった。敢えて大人向けのものを選ばずに、いつも子どもたちの前でやっていることをそのままにやろうと思って。来場した方の中から何名かがとても熱心に耳を傾けて聴いてくれたので、うれしかった。「かいぞくでぶっちょん」は、来月の地元の読み聞かせの会で演じようと思っているので、今回演じさせてもらったおかげですごく勉強になったし、次回はもっと自信を持って演じることができるだろう。 夢っくすの新入会員YOKOさんを誘っての参加。彼女は手作りのイヤリングに挑戦。とても素敵な作品を作っていた。会場には外国人の人もたくさん来ていて、英語で屈託無く話せる時間を持てたこともよかったのではないだろうか。 HOMURAで行われるこうしたイベントに参加するたびに感じることだが、こうした「開かれたコミュニティ」って、他ではなかなか得られない。オンライン(インターネット上)でのコミュニティは、SNSとかブログなんかで簡単に作れてしまう今のこの時代に、オフラインでのこうした「人と人との繋がり場」が得難いということはなんだか皮肉を感じてしまう。それだけに、ほむら市の試みはとても貴重で重要な役割を地域に果たしていると思うのだ。 ほむら市の開催された、「六日町」の地名は、その昔毎月六日に市が開かれたことに由来するそうだ。この近辺には二日町、五日町、九日町、十日町、一日市(ひといち、と読む)など、かつて市が開かれた日付に由来する地名が多く存在する。こうした市は生活用品の売買の場でもあったろうが、同時に人と人との出会いの場、交流の場としての役割も果たしていたのだろう。そうしたかつての「市」の役割を、ほむら市は長い年月を経て再び担っている。多くの人たちが集まるのも、そうした「人との繋がり」が現代では切に必要とされているからだろう。オレも多くの出会いと、人との繋がりを与えられている。 今回招いてくれた三椿の店長、みかホンには心からの感謝をおくりたい。ありがとう!
2007/03/27
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NPO法人シーターの主催する「日本語交流ネット」の、ボウリング大会に参加した。 参加者は20名ほど。子どもたちも含めると25名程度か。4,5名ずつ、4つのグループに分かれて競いあった。…といっても、そんなに熱のこもった大会ではない。ボウリングを通じての交流が主眼の会だ。 オレは外国籍花嫁さんのご夫妻二組と同じグループでゲームに参加した。前日のTAKEとのゲームで勘を取り戻したものか、あいかわらずおそらく見た目すっごくヘンなフォームで投げたが、それでもいくつかのスペアとストライクもとれた。 どのレーンでも、一投ごとに嬌声・歓声・嘆声があがる。スペア、ストライクがでるたびに互いに両手を打ちあわせて一緒によろこびあう。和やかな雰囲気の、とってもよいボウリング大会だった。 いつもの日本語学習の時間とはまったく違う、楽しむことだけで交わる時間。こうした時間と通じてお互いに仲良くなることがいち番たいせつなんだ。 ボウリング大会が終わって、ボランティア・スタッフのミーティングが持たれた。年間の活動計画などを話しあったのだが、何故かスタッフ全体に「中国語を教わろう」という気持ちが強まっていて、今後の日本語交流ネットの活動が、お互いに教えあい教わりあうかたちに変わっていきそうで、多文化共生への大きな一歩になりそうで、とても楽しみだ。
2007/03/25
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キッズ・ミュージカル・プロジェクト「魚沼産☆夢ひかり公演『オズの魔法使い』~魚沼バージョン~」を観劇してきた。 市民演劇マニアの友人TAKEを迎えに、六日町まで足を向けた。興味のある演劇が催されると聞けば、東京から新潟にでも駆けつけるというツワモノだ。南魚沼市六日町のチャレンジ・ショップHOMURAで待ちあわせ。 TAKEが来たあとで、HOMURA内でアクセサリ&手作りショップ「三椿」を営むみかホンを交えて少しおしゃべり。この時に、思いがけないお誘いを受けた。3月27日の、ほむら夜市での三椿の出店にゲストで友情出演、紙芝居と絵本の読み聞かせをさせてもらえることになった。TAKEを六日町まで迎えに行くことになったのは、ヤツの寝坊とかいろいろな偶然が絡んでのことだけに、人の縁ってほんっと、異なもの味なもの。翌週の火曜日夜の読み聞かせに向けて、俄然意欲が湧いてきたのだった。 TAKEは寝坊しなければこっち(新潟)でスキーをするつもりだったらしい。電車でずっと同じ姿勢を強いられ、また観劇で同じことの繰り返しではたまらんと、「何か身体を動かしたい」と言うので、ふたりでボウリングしに行くことに。2ゲームして、オレの圧勝。このボウリングで、TAKEが言いだしっぺでささやかな賭けをして、勝った。またもや思わぬラッキー! ボウリングを終えると、開場時間が迫っていた。ボウリング場から近くの、小出郷文化会館に向かった。 開場前に長蛇の列ができていて、ちょっとぴっくり。入場して、中央舞台寄りの席に着いた。同会館の大ホールで催された「オズの魔法使い」の客入りは六、七分といったところ。客層は見たところ、出演する子どもたちの友達と親類縁者がほとんどという感じ。 「オズの魔法使い」の原作は読んだことがない。幼い頃、ほんとうに簡潔過ぎる絵本だったかあらすじか何かを読んで不満を覚えたことを憶えている。「ドロシーを助けたかかし、ブリキのきこり、ライオンはオズ大魔王から、脳みそ、心、勇気を授けられました。そしてドロシーは魔法の靴を3度踏み鳴らして、カンザスに帰ることができたのです…。めでたしめでたし」みたいな感じだった。子どもながらに、「脳みそや心や勇気って、魔法で誰かに与えてもらうようなものか?」というモヤモヤした割り切れなさを感じたものだ。原作は違うらしい。原作では、オズ大魔王はたいした魔法も使えないペテン師として描かれている。これは後で語るが、この物語はそうでなくっちゃいけないよな。 19:00から、さぁいよいよ開演だ。 のっけから「魅せる」・「観せる」オープニング。ドロシーの住むカンザスの日常を演じる4,5名の役者たちの動きに隙が無い。舞台の上でその役柄として「存在」している役者たちの演技が素晴らしい。おっと、今回のキッズ・ミュージカルは、一昨年魚沼市の市民劇団「魚沼一座」の公演「雪壁」を演出した小口真澄さんが演出を手がけていることを書いておかなければならない。オレもかつて演出を施してもらったひとり。わずかながらでも、その演出がいかであるかは知っているつもりだ。だから、「さすが小口さん!」と、素直に感激した。 ドロシーは嵐に連れ去られ、遠くオズの国へと運ばれてしまう。かかし役は、魚沼一座で一緒に芝居をした女の子だ。活き活き溌剌とかかしを演じる彼女。今回のミュージカルの稽古でさらなる成長を遂げた様子がうかがえた。観ていて、とても頼もしかった。 ブリキのきこり、ライオンともに、漫画で言う「キャラが立っている」感じで、舞台上で各々の存在感をかもし出していた。主要な登場人物の内で、主人公のドロシーだけが何故か台詞にあまり感情がこもっていないように感じた。棒読みの抑揚の無い台詞の所為だろうか?一所懸命さは伝わってくるものの、彼女の台詞だけは心からの気持ちが伝わってこなかった。これは残念な点。だが、歌は素晴らしかった。澄んだ声で堂々と歌う姿には耳を傾ける価値が充分にあった。 北の良い魔女の助言を受けて、オズのエメラルドの都に向かう道すがら、かかし、ブリキのきこり、ライオンに出会うストーリーはおそらく原作どおり(原作をよく知らないのでなんとも言えないが)だろう。黄色い衣装をまとった踊り子たちが3人、ドロシー一行に随行していて、歌とダンスのシーンでは大役をはたしていた。舞台上の役柄について何の説明もされていない彼女たちが、ストーリーが進行していくあらゆる場面で登場し、歌と踊りの絶妙な効果を生み出していた。3人の内のひとりが、特に活き活きとした動きで楽しそうに踊っていて、観ていてとても気持ちがよかった。 特筆すべきは、ストーリーのメイン・キャラクターではない、いわゆるモブ(群集)の子どもたちの演技が舞台に与える演出効果。これが、素晴らしいっ!魔法の国に暮らす小さな妖精めいた住民たちが、舞台の上にはっきりと「生きて存在」していると感じた。子どもならではのたどたどしささえ武器にして、それはもう、可愛らしい小さな生き物たちが寄り集まって暮らしている「世界」が、ステージ上に在った。これは小口さんの演出の妙で、しかもその演出の手法を思い出して考えてみるると、それらすべての演技が、演じている子どもたち自身の想像力から生み出されたものに違いないのだ。これは、ほんとうにすごいこと。いわゆる「端役」と呼ばれるような、こうした役者たちが、たとえ台詞が無くとも、スポットライトを浴びることがなくとも、ひとりひとりがこの舞台に欠かせない存在であることを芝居のすべてを通して感じることができた。この芝居に、「端役」は居なかった。それがなんとも、驚くべきことで素晴らしいことだった。 「西の邪悪な魔女」を演じた役者さんの演技に魅せられた。圧倒的な「悪」の中に、ユーモラスな味わいを加えた演技を信じられないくらいのハイテンションで観せてくれた。彼女が登場する場面では、客席はあるいは息を飲み、どよめき、こらえきれずに笑い出す。彼女が舞台を引っ張る役割を担っていたことは間違いない。 そして、偉大なるペテン師大魔法使いオズ。オズを演じた役者さんは、この芝居に出演する中で唯一の大人で、魚沼一座の前座長さんだった人だ。「んもう、オズ最高っ!」って言うくらい、彼にしか演じることのできないオズを観せてもらい魅せられた。エメラルド色のステージ衣装に身を包んだ、何故か演歌調の(笑)オズ大魔王は客席から喝采を浴び、また絶えず笑いを誘っていた。誰が誰が、こんなオズ大魔王を想像しえようか?それだけではない。いかがわしくだらしなくも情けない「ただのオヤジ」を、あれだけ「突き抜けて」演じられてしまうとはっ!かつて舞台に上がったことがある者として、嫉妬の混じった羨望を禁じ得なかった。 オズの贈った脳みそ、心、勇気は皆まがいものに違いない。始めから彼らには、それらが備わっていたのだ。自らの胸の内に潜む、「知恵・心・勇気」。行動し何かを体験し、歩き続けることで見つかる何か…。ドロシーの3人の同行者たちにとっては、そういう気付きの旅の物語だ。では、ドロシー自身は? 彼女にとっての気付きは、「自分の居場所」であってほしい。「望まれて、ただそこにいる」こと、ただそれだけで許される、自分自身のたいせつな居場所。故郷のカンザスを遠く離れて改めて想う、生まれ育った地と、たいせつな人々。苦楽を共にしたかかし、ブリキのきこり、ライオンと別れることになってもなお、帰りたい故郷への想い。胸の内のその想いへの気付きの旅…だろうか。 フィナーレに、出演者全員そろっての歌と踊り。客席のすべての人たちが惜しみない拍手を送っていた。今も目を閉じればあの芝居のいくつかのシーンが甦ってくる。芝居の中で歌われた歌が、耳に残っている。「今、ここでしか観ることのできないもの」を観せてもらった。ほんとうに、素晴らしかった! 観客の見送りをしている小さな役者さんたちに「ありがとう」の声をかけながら出口に向かった。顔見知りの役者さんとは言葉を交わし、演出の小口さんとは熱い抱擁(笑)。いやほんと、この芝居を創ってくれたすべての人に感謝したい思いだ。大枚はたいてやってきたTAKEも大満足のようで、パンフレットの小口さんの名前を指差して、「まさにこの人が魔法使いだね」と言った。オレもまったく同感だ。ふたりして興奮醒めやらぬまま、小出郷文化会館を後にした。
2007/03/24
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ニート支援団体ガイドマップの第2回編集委員会に参加してきた。 午前の就職の面接に加え、応募した施設の見学もさせてもらったので、かなり時間が押して1時間の遅刻…。14:00に会場である新潟ユニゾンプラザに到着し、遅刻を詫びながら会場の会議室に入った。オレが着いた時は、それぞれの編集委員が取材を通して「よかったこと」「残念だったこと」を発表しあい、分かちあいをしているところだった。 着席してすぐに、自己紹介を求められたので、 「魚沼市で、ひきこもりの方に快適にひきこもってもらうための活動をしています」と言い、名前を告げた。会場からは、好意的な笑い声(失笑?)をいただいた。 オレの場合、今回の取材に携わらせてもらって、自分とは違う姿勢でニート・ひきこもりに取り組んでいる団体を訪問させていただいたことで、よりいっそう自分の取るべき立場というか、姿勢と気持ちを固めることができた。「ひきこもってて、いいじゃん」という。 ひきこもりのご家族の方とその友人方が立ち上げたピアハウスへの訪問では、ひきこもり当事者の親御さんと多くお話させていただいた。お子さんの社会参加を強く望んでいる親御さんとの対面では、その気持ちに対して何もできない自分の無力を感じさせられる。ひきこもりの人を「家から出す」お手伝いをオレはしないことに決めたからだ。ここらへんのことは今後詳しく書くことがあるかもしれないが、今回は多く言葉を費やすことをしないでおこう。ただ、その会見はジョークを交えた和やかなものであって、とても楽しかったことを付記しておく。機会があったらまた「ピアハウスぽぽたん」に訪れたいと思っているのだ。 昨年末から今年1月中くらいまで鬱々メンタル低調ドロドロ状態が続いていたオレであり、気分的にはひきこもっていたころと変わらないような自己否定的な心境が続いていたオレだったが、この取材をきっかけにして動きだせ、気付けば今はかつての抑鬱が嘘のように快適だ。まだちょっと、気持ちにもやもやが残っているものの、あの当時に比べたら爽快といっていいくらいの心持になれた。何かしら自分に役割が与えられること、それによって動かされ生かされていく。自分がダメダメでも、周りの人たちが様々なかたちで支え、自然な流れの中で助けてくれている。ひきこもっていた当時と比べ、今はなんて生きるのが楽なんだろうと感じる所以だ。今ひきこもっている人たちに願うことは、どうか自分なりの「生きやすさ」を手に入れてほしいということ。それは、即ち家から出ることとは限らない。「ひきこもる」という選択があってもいい。というか、あった方がいい。その中で、どうやって心穏やかに、できるだけ快適に過ごしていくか?その答えは、ひとりひとりの心の内にしかないと思うのだ。 編集委員会の後半は、ひきこもり・ニートの若者が必要としているものは何か?というテーマで、二つのグループに分かれて話しあいが持たれた。 オレが着いたテーブルの編集委員の方は皆、オレがまずかつてのひきこもり経験者であり、CJは現役ニートであり、他の3名の方たちはいずれもサポート施設の利用者という、きわめて当事者寄りのメンバーだった。興味深いことにこのグループでは、「支援の『不必要性』」に関して、熱く言葉が交わされた。オレは当事者の主体性と主権という観点から、本人の意思の伴わないところに「支援」は無いと考えている。他のメンバーの方たちも「構い過ぎない」ことの重要性を訴えていた。「あなたのせい」も「あなたのため」も、非常な重荷になるのであり、親と子が同時にそこから自由になることで双方にとって望ましい道が開けるのではないかと考える。ただ、そこまで辿り着く道程は長く険しいことは確かなのだが。現状をありのままに認めた上で、「気楽に気楽に」が基本であり最優先事項だと思うのだ。他に、「底つき」がもたらす、その後の豊かな心性に目を向けてみたい。「底つき」とは、「自分は堕ちるところまで堕ちた」ということを身を以って肌で感じることと言うことができるだろう。オレは何度も底をついた人間だし、それだからこその強さ弱さを持っている。しぶとさや常識とか何かを突き抜ける感覚とか…。それらすべてが、今オレが、人と繋がることで生きていくちからになっている。強さも弱さも、自分を助けてくれるものになり得るのだ。 こればっかりは、体感しないとおそらく想像できない感覚かもしれない。そして、「普通・まとも至上主義者」の人たちは、なるべく底をつかないようにつかないように(まぁ、決してよろこばしい感覚ではないからな:笑)身を削るような努力を続けているからなおさら理解も共感も得られないかとも思う。「みんないち度、底つきを体験すればいいのに」とさえオレは思う。だが、生きているすべての人が底つきを体験できるわけではない。それならば、底つきは得がたいチャンスであり、かけがえない幸運でもあるのだ。ひきこもりもニートもリストカットも他のありとあらゆるチャレンジも皆、得がたいラッキーに変えられるのだとオレはそう信じたい。 もうひとつのグループには、わりと「支援者寄り」の方たちが集っていたようで、そちらからは支援活動を運営していく上での実務的な内容が話しあわれていたようだ。今後の多様な支援の可能性を探る支援者と支援不必要を唱える被支援者(?)の間の意見交換。これはかなり意義のある擦りあわせだったのではないかと感じる。 今回の編集委員会もそうだが、企画と取材を通じて非常に多くのことを教わった。声をかけていただいて、参加させてもらったことが感謝にたえない気持ちだ。皆さん、ありがとうございました!
2007/03/22
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