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まりぃはピンクが大好きでございます。いい年だと言われ様が着てる洋服もピンクが多いです。愛を象徴するのがピンクの色。インテリアに取り入れる場合は若々しく気分を優しくするので恋人同士、またはご夫婦が一緒にいる場所にこの色を使うとふたりはより心地よく愛を感じることができます。ピンクはレッドほど強い色ではないので広い面積に使うことができますが部屋全体をピンクに統一するのは避けたほうがいいと思われます。というのも。落ち込んでいるときはこの色に囲まれると世の中から疎外されたように感じ怒りをひきおこしてしまうという可能性があるそうです。あとピンクは味覚的甘さを象徴する色でもあるのでケーキやさんなんかのインテリアにはいい傾向をもたらします。ただし食欲をそそる色ですのでダイエット中の方にはピンクは控えたほうがいいかも。最終的にピンクは若返りの効果があります。ピンクに囲まれた生活を送ることはいつまでも若さやういういしさを保つのに大変効果的です。ぜひご夫婦の方はバレンタインにはピンクの薔薇なんか飾ってみてくださいね☆
2004年01月31日
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本能が欲しがる色というのは心の中のメッセージあらわしています。そしてその中に含まれるのがプラス(肯定的)要素とマイナス(否定的)要素。マイナス要素がでてこないために心がけてとりいれるのが「補色」となります。小物やさりげないものでとりいれるとOK.ちなみにグリーンの補色は赤。グリーンが好きな人は草木や木、山や海などが都会に住むひとが安らぎを与えるようにその人がいるだけで、まわりのひとがくつろぎ、安心した気持ちになれるというように調和をもたらします。旅や冒険が大好きで自由奔放を好みます。グリーンはハートに結びついた色。自分の感情や知識を他人に伝えることも上手です。ポジティブ。寛大で心にゆとりを持った人。しかしマイナスの面は妬みや裏切りや嫉妬。他人のことをうらやましがるという感情で情緒欠如におちいるようなところがあります。マイナス面が出ないためにレッドをとりいれるといい効果がでます。バラの花を生けてみるのとかもいいですね。グリーンが象徴するのは調和。私も祖母が亡くなってから突然グリーンという色が目に止まるようになりました。祖母がくれたエメラルドの指輪は今でも私の左手のお守りです。
2004年01月25日
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興味のある方は2002年4月14日の日記をよんでくださると話が繋がります。私は日記に名前を書くことはできるだけ避けてるのですが(掲示板みりゃ一発にわかるけれど)ほぼ2年ぶりに、昔教えていた大好きな姉妹の家でお仕事をさせていただきました。この2年間、お互いに本当に色々あったけれど。おねえちゃんは本当に調子も良くなって。3人で過ごす時間は、笑顔はなにも変わらなかった。嬉しかった。本当に嬉しかった。不思議なのは私の祖母と彼女達のおじいちゃまが同じ歳に亡くなった事。もしかしたら又めぐり逢わせくれたのかもしれません。出逢ってから4年という月日が流れました。驚くほど早いものです。私もあちこちで仕事をしていて家から距離がある彼女達の家にいつまで通えるかはわかりませんが。この先3年間、また一緒に過ごしていくのかもしれません。純粋な二人の少女の魂に一緒に過ごして来た時間にどれだけ癒されたことでしょう。2年前、最後の授業で教えたこと、本当になったね。人の縁て、すごいです。一度離れても、まためぐり会うことがあるものなのですね。<瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あはむとぞ思ふ>(瀬の流れが速いので岩にせきとめられる滝川がいったんはふたつに別れてもいずれはひとつになるように、今はあなたと別れていてもいつかは必ず会おうと思います。)
2004年01月24日
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ひさびさに映画を見た。ViViモデルの佐田真由美ちゃんがあまりに美しいジャケットだったので。演技力もなかなか。本当に美しい人だった。モデルから女優になった人は力づよい魅力を持ってる人が多い。米倉涼子ちゃんとかも。脳を移植するとその記憶のまま別の体で生きていくらしい。ワタシの体に祖母の脳を移植したらどう思う?と母に聞いてみた。どういうリアクションでもなかった。不思議な気持だったな。私はいつも自分をいっぽひいて見てるととある方に言われた。その人は鋭い。いつだって怯えてるよ。歌を無くしたときに全部殺してしまったんだもの。愛されたいと叫ぶように歌っていた。泣きたいだけ泣いて。さみしいと繰り返した。我侭だってたくさん言った。感情のまま、生きていた。与える愛には自信ができたけれどそれをうけとめきれる人はいるのだろうか?たったひとつ自信があるといえば私は心だけは透明だ。祖母が、母が、育ててくれた愛の形。それがワタシ。・・・今日はとても寂しい。胸が苦しい。無感情でいるほうがどれだけ楽だろう。「誰かとワタシを比べないで愛してると平気な顔でいわないで優しくしないで中途半端な愛情ならもういらない。」あれれ なんだか本当の自分が見えなくなってる・・・。どうしよう。
2004年01月22日
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中学2年から教えている女の子の生徒。高校2年になった今、バンド活動に夢中の様子。夢をもって将来の道を選んで欲しい自分の生きがいになる仕事をして欲しい。そういい続けてきた私。彼女は栄養士のお母様の影響もあってお菓子作りのプロをめざすことになった。17歳。私も高校生のときコピーバンドに夢中。でも女子高の演奏力なんてたかが知れてます。^^;18歳。大学の音楽サークルにはいって「男の子」の演奏のうまさに驚く。人の縁に恵まれて18歳の夏にはもうオリジナルをつくっていた。私は楽器が一切できないが作曲はできるというおかしな奴だったのだけれど絶対音感をもった人はこの世にたくさんいて。とんとん拍子に私のつくりたい音を形にできたのです。17歳の彼女と歳が変わらないときの練習テープもしくはビデオガみたいというので探していたら血が沸き立つ感じになったわけです。んで前日の日記のような精神状態・・・・。気が遠くなるようほどの練習量と生み出すエネルギー。当時は何も感じなかったけれどひとつのものを作り上げるのは相当な時間と周りの人たちの力が必要でした。ひとりよがりではダメなのです。しかし私ものすごいパワーだ。エキセントリックだ。ばしばしメンバーに叱咤飛ばしている。なんでこんな丸くなったのだろう。あばずれ女が尼僧になったくらい価値観も性格も変わった。「手癖やもん」とバンドのギタリストが言った言葉明確に練習風景を思い出せる。記録しておくっていいことだな。私の手癖・・・ではないけれど作る曲はFが多かったらしい。音楽は色に分析できるそうで。Fはピンクにあたるそうだ。一番、好きな色。深層心理というのは恐ろしい・・・・多分、貴方の好きな色も貴方の心の中を現していますよん。(質問したい方は掲示板へどうぞ。笑)
2004年01月21日
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アルコォルなどワタシには一滴も必要ない。高校生のとき失恋して酔っ払って寝てるクラスメイトがかっこよく見えてお酒を飲んだりしてみた。それでもリキュールどまり。カルアミルクかピーチツリーフィズ。たまに飲むならカシスオレンジ。渋谷で独りで泊まってた頃母親におやすみなさいの電話をしてからバーでひとりでカクテルを飲んだことがある。無理して大人になろうとしてた22歳。できるだけ少女のまま大人になりたいと思う今。ワタシの憧れの人はお洒落なバーボンをロックで飲みながらアイスを人差し指できまぐれにかきまぜて葉巻の一種というみかけないタバコを吸う。ゲンズブールの真似をしてジタンを吸ったこともあるがそれよりも大人の味のタバコ。ワタシはマルボロメンソール。22の時からずっと。哲学的な話を彼と延々とするのが最近ワタシの楽しみである。恋愛感情などまったくないが見た目が美しくて中身が輝いてる人間など長らく出逢ってなかったのでワタシの感性は刺激される。アロマ程度の数滴の水割りでワタシはダンディの真似をする。年をとればとるほど一分一秒が早くなる。つまり一秒分の価値が高くなる、というわけ。あと残された時間で自分に何ができるのかと。形にするのも彼のように自分のスタイルを確立するのも今のワタシには難しい。かつては自己表現することを仕事にしようとしていたのに。忙しい時間はワタシに泣く暇を与えない。そして今朝どうしようもなくさみしい夢を見て自分の呼吸が激しくなって目が醒めた。魘された。生まれてこの方酔っ払ったことなどないがアルコォルで忘れられることもあるのだろうか?「・・・・あとは何でもいいよ ガゾリンでもいいよ」なんとなくこの歌詞が今は理解できる。「ジャガーならライフルであの世行きだから今夜から 空回りさ綺麗な指のあんたに抱かれたいんだすぐに忘れるよ あとくされないよ」タイトル抜粋 シルクスカーフに帽子のマダム
2004年01月19日
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ここ数日更新できなかったまりィです。今此処を含め4種類の仕事をしてるのですわ。とにかくオーバーヒート状態。でもへこたれてません。私は冬に強い。頭の中は春物のことでいっぱいでしてフリマの入れ替えにあくせくしてます。見事、本日、腱鞘炎。なんかね~夏物売れたりしてるので。今の季節は本当に不思議なのです。やりたいことをやってます。お香を焚いて、音楽を聴いて。人前で歌を歌ったりもするようになりました。月のしずく・・・歌って欲しいと言われ今更ながら覚えています。3曲目の↑のほうが私は今の気持ちにはまったんですが。黄泉がえり、明日DVDでも借りに行くかな。しかし柴崎コウちゃんはすごい。ここまでの歌唱力だとは思いませんでした。センスなんでしょうかね。天性の魅力もあるのでしょうけれど。私はどんな女性でも磨けば光ると信じています。ちょっと恋愛の真似事もあったり。綺麗になりたいですね。もっと。魂の純度を。見た目の美しさを。それでも今はすべてを信じて愛してると思える男性はいないのです。愛される女に、ならなくては。去年の今頃は本当に夢の中にいるようでした。眠れない母と、涙に満ちた日々。極度の哀しみは景色を灰色にするといいます。だから私は色を欲しているのかもしれません。すこしづつ祖母が天高い場所をめざしていると感じてきました。少しは強くなりました。始まりはどこでしょう終わりはどこでしょうどうか とどめを刺して生まれ変われませんあなたがいないからこの世はひとり・・・・・絆って、なんだろう。何処に、あるのでしょう?現在、私が生きていること・・・?月が綺麗な夜の独り言です。
2004年01月18日
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阪神大震災から、9年。テレビで亡くなった人達を思い、泣いていらっしゃる方々に自分と母が、重なる。生まれたばかりの赤ちゃんが小学生になってしまうほどの月日。私自身が被災して、初めて今までテレビの向こうで起きている自然災害がどれだけ大変なことか共感できるようになった・・・。私は当時二十歳でまだ1月15日が成人式だった頃。大学の試験と重なっていたため暖かくなってから振袖で家族で写真をとろう、と。17日も試験中。幸い私の選択科目の試験は17日にはなかったのだけれど。もし、起きて用意をしていたら、怪我をしていたかも知れない。ずどーんという大きな音。私は本当に何がおこったのかまったくわからずベットの中。すごいと思ったのは母は飛び起き祖母の部屋へ行こうと立ち上がったこと。祖母はその時風邪をひいていて、薬を服用しようとベットから降りた直後。母は「部屋から出なさい!」と叫ぶ。祖母は「動いたらダメ!」と叫ぶ。結果祖母の判断のほうが正しかった。部屋の入り口の本棚とコンポが倒れて部屋からしばらくでれなかった。祖母のベットの上にはテレビがぶっとんできていた。もし彼女が横になっていたらストマに直撃して大出血になっていたはず。幸い、家族全員怪我はなし。暗がりの中階段を下りれば一階はガラスの破片だらけ。おそるおそる足元の掃除を始める。最初は何が起こったのかわからなかった。母はただごとではない、とすぐに私とコンビニに食料と飲み物を買いに走った。7時頃。まだ人はいない。ニュース報道で伊丹駅が崩壊したり阪神高速が倒れたりしてるのが放映されてから二度目にコンビニに行くとすごい人。守るべきものがある、という母の機転と意識はすごい、と思った。結果的に祖母は風邪が悪化するわ家は半壊するわ、ガスは2ヶ月でないわ。当然、お風呂も料理も簡単にできないわけで。私は京都の友達のところでお風呂を借りれたけれど母と祖母はお風呂屋さんまで行かなくてはならなかった。壮絶な体験だったと思う・・・・。関西にしてはまだましなほうではあるけれど。水が止まらなかっただけでも感謝しないといけない。翌日、お墓が神戸にあるためタクシーで向かう。テレビで見た映像そのままの町並みを目の当たりにした衝撃は今でも忘れられない。戦争、ってこんな感じだったのかもしれない。テレビの向こうの出来事はいつ自分の身に起こるかわからない。神戸は見事に復興をとげた。私自身にも色々なことがおきた。これから先、どうなっていくかは自分次第。生きていること、ただその意味に感謝するのです。1月17日が来るたびに。
2004年01月17日
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昨日初フリマガを発行しました。一坪ショップオープン記念で48時間限定1円オークション開催!という初の試みにでてみたんですけども。なんか個人情報掲載してるぶん広告のせませんか~とみたいな電話があったりメールもウィルスメールがばしばし届くし(でも特別なセキュリティをしてるので大丈夫★)よしあしやな~課題はぎょうさんあるな~と思案中です。とりあえずわけのわからない疲労感に襲われているので週末には復帰予定・・・足跡だけ残して遊びに伺ってますが失礼しますです。(T_T)
2004年01月16日
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一坪ショップはまだいじりたいので此処で堂々と紹介するのはもうちょっと後に・・・・^^;30品おけるんですけどね。まだ7つくらいしかならんでないの。(汗はじめ、フリマをはじめた時、自分が離れていく10代後半から20代半ばの女性が着るお洋服を扱おう、と思ってました。単純にね、洋服やすれば在庫もでるし自分が着れる様なものならマイナスがでてもいいかと。そんな甘い考えでは、ダメだったのですよ。自分の趣味だけに固定せず、できるだけ幅広い好みのものを、私が認められるものを選んできたのですが。(私の趣味のみにしてしまうと本当にピンクやら赤やらばっかりになってしまうことに気がついたので)実際買い物をしてくださるのは同世代の女性や年上の方が多かったのです。祖母が本当にとてもおしゃれだったこと。私の扱う商品も77歳にして着こなしてしまうこと。そんな姿を見ていて、女性って本当にいつまでも可愛いらしく年齢関係なくいつまでも綺麗になる努力をしていかなくちゃ。そして私にそのお手伝いができれば、と思うようになったのが最終的な結論でした。もちろんそのためには私自身が輝くための努力をしなくてはいけないわけで。今思うのは一番に心が綺麗であること。つまりは感性を磨くこと。二番目に体の根本から元気でいること。祖母を看取るまでの三ヶ月間は病院に寝泊りでコンビニ弁当やらまったく家庭の食事を取ることが不可能だったのでそのツケはしっかり次の夏にやってきて不健康に体は痩せるわ、肌は汚くなるわ。食べ物からきちんとした栄養素をとることの大切さを思い知らされたのです。三番目に基礎化粧品で肌を手入れする努力。毎日の積み重ねが必ず結果を生み出します。特に、25歳をすぎてから。素肌が綺麗であれば特別なメイクのテクニックなど必要ありません。顔、だけでなく体もそう。そんなお洋服でも着こなせてしまいます。腕や背中を綺麗にしたいというのが今の私の課題。アレルギーで長年悩んできたので夏からこっち体質改善の努力をしてます。目指せノースリーブの似合う肌。(生まれてこの方腕を出したことはないのですよ。実は)四番目にお洋服と、メイク。と私は考えています。もちろん逆の順番でもその場限りの美しさを生み出すことはできるのです。綺麗に見せる魔法はいくらでもあります。でも私自身が理想とする形を自分自身で実現していきたい。そして共感してもらえれば、と思うのが現在の目標でございます。自分のために綺麗になるのも大好きな人のために綺麗になるのも、とっても素敵なこと。さて後一年後、どうなっていることやら。ふふ。でもね。今ほんとに時間不足です・・・・オーバーヒート気味です・・・。(こっそり弱音)
2004年01月15日
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今日はどうもこの香りが心地よく感じない。甘い甘い、香り。ボディショップのバニラの香水。男の人に必ずといっていいほど珍しがられる。甘くて、バニラエッセンスの香りそのもの。んで、おととい買ったのがこのHEMのバニラ。香りは記憶に残る。大好きな人の匂いは脳裏に残る。今の私に必要なのはこの甘さよりもたぶんもっとリラックスできるもの。少し、スパイシーなもの。長い、長い、キスをありがとう。ずっと会いたかった。でも私から会いたいなんて言えなかった。短い時間でも車を飛ばして会いに来てくれて嬉しかった。愛してるという言葉はどこまでを定義するのでしょう。私には未だ貴方のすべてを欲する勇気がないのです。私のすべてをうけてもらえる自信がないのです。求めて、くださいますか?私から求める勇気はないのです。それでも、貴方と過ごす時間は本当に愛しい。女ですもの、恋をしなくちゃ、ね。もう二度と他人を信じられないと思っていたのに貴方は私の心を不思議なくらい溶かしてしまう。愛していても、いいですか?求めて、くださいますか?甘い、甘い、私のためだけの接吻が欲しいのです。
2004年01月14日
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うお~年末に審査が通っていたはずの一坪ショップ、色々チェックがはいって宅急便の送料表やらなんやら打ち込みしなおしして~やっと1月13日開店しました。(でもね、実はフリマのほうが売れてるの^^;)これからもうちょっとディスプレイいじってフリマガ発行して検索サイトに登録して。やること山積みです・・・・しかももう季節の移り変わりときたもんだ。(だからあたしは12月オープン目指してたのにさ)春物にいうてる間に入れ替えしなければならないのでこちらに堂々とリンクを張るのはもうちょっと先になります。ウチの商品は元々お安く提供できるように頑張ってるのでバーゲンはないのですがバーゲンの季節になると、焦ります。^^;というわけで週末にかけて春物のデーター整理で死んでました。これでもかっ、というくらい動き倒して半日PCとむきあってますがちょぼちょぼしか作業は進みません。(T_T)ひとつのことを成し遂げるというのはものすごいパワーが必要ですな。本店のほうでの掲示板は完全レスつき、ファッションとメイクの話題のみ取りあげてみようかと思ってます。ということで又一年後、どれだけ成長してるか見守ってくださいませね。あたくしの頭の中はカラフルな色でいっぱいです♪今年はキャンディーポップなカラー流行予測。Diorトロッターも限定ピンクからガールズラインとして新発売されましたしね。ポーチかバックが欲しいけど自分への一年間のご褒美。ピンクの携帯ケース、買いました。^^;(誰かにプレゼントされたいよね~)・・・・・でもまじでばてばてです。体充電しなおしたらまた書き込み挨拶にお伺いします♪
2004年01月13日
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画像ができたのでちょっとだけ公開。やっぱり可愛い・・・今頃新しい飼い主さんと幸せなのかな?と切ないですが・・・。なんだかんだいいつつ母も時折涙したりしています。ちょっと母の体調が悪く今日も臨時で病院にいってます。こんなんじゃやはりペットは無理なのかも。小型犬であんまりお散歩が必要なくてしっかりお世話できる出逢いがあったらやっぱり私はわんこが欲しい。んでおそろいの洋服で出かけるの♪キューティブロンドみたいに。ちょっとわんちゃんについては勉強中です。もう、前みたいなことにならないようによーく考えて。いつか新しい家族を家に迎えたいものです。癒されたいのかなァ・・・・。めりー、おねむで拗ねてる顔。おしゃれキャットマリーの毛布で寝ています。たった二晩でも残してくれたものは大きいです。ありがとう、めりー。
2004年01月07日
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春物の準備であくせくしてますまりいでございます。土曜になると、ばてばてです。最近もっぱら不眠気味なのです。安らかな眠りが恋しいな、と。ちょっとね、仕事仲間と恋愛話で盛り上ってたらものすごくさみしくなっちゃいました。おめあてのダーリンは近くにいたんですけどね。会えずじまい。結婚すると、夫婦はダブルベットで寝るものなのでしょうか。私は片親なので小さな頃から疑問なのです。はて、神経質な私が毎日だんなさまと眠れるかどうか。一応ね、もうご無沙汰してますけどね愛しい人の腕の中で目覚めたこともありますよ。でもたいがい、ほとんど寝ず。^^;本当に熟睡して気持ちよく起きたことなんて一度くらいですね・・・。気を使うのは腕枕をしてくれる男の人。くっついてたいのはやまやまだけど手が痛くならないかなとか色々考えてしまう。いつかしてくれなくなる瞬間て、怖い。そこで私の人生の師匠の名言。男もいつまでも女を腕枕で眠らせるほどの包容力をもちつづけなくちゃいけない。女は男にそうさせるくらい可愛い女でいる努力をしつづけなくちゃ、と。はい。もっともですね。今年はまともな恋のひとつでもできるのかしら~。今日は早起きしてしまったのでHEMのバニラを焚いてひとやすみ、します。(;O;)
2004年01月06日
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やっと、喪があけました。みなさま本年もよろしくお願いします。本当に新しいスタートはこれから、です。また一年間でどれだけの達成感が感じられるか。テーマ、です。ところで数え年はなんで一年多いかご存知でしょうか?とつきとおかおなか母親の胎内にいるから。そんな話を最近浄土宗のお坊様からきいてたんですが法事のとき、うちにきてくださったお上人が教えてくださいました。本当の誕生日というのは母の胎内に生をうけた日、なんだそうです。そのお上人というのは姫路にある、うちの家族が本当にお世話になった開山日榮上人のお孫さん。祖母の葬儀も、あげていただいた方。で、私の本当の誕生日というのは12月14日。それから後に種をまく、つまり新しいことにどんどん挑戦していくと良いのだそうです。みなさまもぜひ、計算してくださいな。・・・一坪ショップ、がんばろ。(汗あいかわらず動いてるのはフリマですね。あくせく仕上げた割にはもう春物にきりかえしなければなりません。とほほん。仕事するぞー(絶叫明日は舞い始めですわ。去年は喪中のため事始めはなかったですが。舞踊のほうも真面目にやらないと祖母の怒号が飛んできそうです。^^;でも母の稽古のほうが祖母より怖い・・・・\(゜ロ\)ココハドコ? (/ロ゜)/アタシハダアレ?お弟子さんには優しいのにな。ぐすん。
2004年01月05日
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2004年1月4日驚いたことに8時半にぴたりと目が醒めた。午後3時にはお上人が来て下さる。それまでに祖母の好物を買いにいかなくちゃ・・・・。2003年1月4日ゆっくり、ゆっくり時間が流れた気がする。私も朝方になると疲労度が高まり感覚が麻痺した感じになる。それでも不思議に気持ちがよかった。祖母の手を握ったままぼんやりしていた。7時過ぎ、驚いたことにいつもよりかなり早く母から起きたと知らせが入る。祖母のことが気になってほとんど眠れなかったという。幸子さんはもう出かけたみたいだから。母も用意を終えたらすぐに家を出ると言われて電話を切る。そしてまたゆっくりと時間が、流れる。本当に夢を見ているような優しい、時間の流れだった気がする。八時半頃だったと思う。私の意識は現実に引き戻された。空気の流れが変わった気がした。同時に看護婦さんが心拍計をもって数人駆け込んできた。幸子さんも不思議なことに到着していた。祖母の呼吸は驚くほど荒くなった。それでも苦しい顔はしていなかった。精一杯息をしてる。最後の力を振り絞って。そんな感じだった。ドラマの中で見ていたような出来事が目の前で起きていた。「もうすぐお母様が着くから。頑張って。」そう私も叫んでいた。幸子さんが同じように泣き叫んで祖母の体を揺する。辞めてください、と看護婦さんが止める。余計な振動は正常な脈がとれないのだ。いつのまにかお医者様も来ている。とうとうその時がやってきたのだ。心臓発作を起こして苦しんで死を迎える。これだけは絶対にさせたくないと母から言い聞かされていた。私は祖母が入院するときはいつもお守りにしていた日榮上人のお袈裟を祖母の心臓に当てて左手を握って必死で祈った。どうか、眠るように苦しまずにお迎えに来て上げてください・・・・・・。祖母が最後の息を大きく吸い込んだ。脈が、なくなった。お医者様が最後に脈を図る。瞳孔を見る。時計を、見る。「1月4日 8時45分 ご臨終です。」・・・・頭の中が真っ白になった。祖母は静かに眠るように最期を迎えた。母がもう到着するはずです。心拍計をはずしたらどうかこのままの状態でいさせてください。静かに、病室から人がいなくなった。眠っているようにしか見えない祖母。私は、放心していた。5分もたたないうちに母が到着した。泣き崩れた。ぬくもりもまだ残っていたのに間に合わなかったのだ。それから後の私の記憶はあまりはっきりしていない。母は必死に祖母に謝っていたが私はあの異常な緊迫感の数分間を祖母は母に見せたくなかったのだと思う。血の繋がらない幸子さんでさえ、半狂乱だった。母がその場にいなかったことは良かったと今になって思う。ドラマの中で同じようなシーンを見ただけでも私はフラッシュバックを起こして震えが止まらなくなるようなこともあった。哀しい記憶ははっきりと心に刻まれる。
2004年01月04日
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仏壇の前にたくさんの花が並んでいます。明日は祖母の一周忌。祖父の遺影はもうお稽古場に飾ってありますが祖母の遺影はまだお仏壇の前にあります。母は未だ泣いています。毎日のように。その遺影をお稽古場に飾れるようになれば母も少しは立ち直ったことになるのでしょうか。それでも確実に変化したと思う日々。彼女を支えるのは私しかいないのです。物心ついた頃から祖母に言われていました。私が祖母の代わりをしなければならない、と。母を守らなければならない、と。実際は守られているのは私であっても祖母の死は私の人生で一番の恐怖でした。2003年1月3日。すでにもう何度も呼吸停止が起きていると聞きながら今日も、生きてくれたのだと思う。2交代制では母の体も神経ももたないのでかつて祖母がひいきにしていた旅館の仲居さんに住み込みで手伝いにきてもらっていた。母より少し年上の幸子さん。幸子さんが朝食の前後、朝9時くらいに病院に着いて私は病院を後にする。結局私は一度も幸子さんに夜の付き添いを頼まなかった。自分の体などどうにでもなると思った。母が病院につくのはお昼前。早くて11時。その間に亡くなる可能性もあった。それでも母は私に眠りなさい、私が体を壊すといけないから、と立派に葬儀を終らせることが一番祖母の望んでいることだと私が自宅にいる間に亡くなっても絶対に知らせないときかなかった。母も健康な体ではない。精神的にも身体的にもぎりぎりの状態だった。私は当然眠れるわけがない。この頃には睡眠薬などなんの効果もなかった。何度かナースステーションに電話して祖母と母の状態を教えてもらう。3日の朝、舞い降りてきた雪がとても切なくて哀しくてずっと空を見上げていた。涙がとめどなく溢れた。あの時ほど心が透明になったことはないと今でも思う。2002年12月に私も極度の不安から過呼吸発作を起こして以来、薬でなんとか発作を抑え、歩くのもやっとだった。震撼症状も続いていた。家では横になったまま眠るわけでもなく、苦しい時間をすごした。2003年1月3日22時前にいつものように病院に到着する。母は、今日あたり危ないかもしれない、と言う。呼吸停止の回数が多くなった。祖母はもう1ヶ月、点滴も注射もしていない。投入しているのはモルヒネの手前のレペタン座薬だけだ。少しのメロンと、氷だけで命を繋いできた。祖母は昏睡状態でも確実に生きていた。6時間おきにレペタン座薬を投入、数時間おきに看護婦さんが体位の交代に来てくれる。話すことはできないけれど目は確実に開く。私を見つめる。10時間以上体をさすることが続いた2か月。私の体も、限界に近かった。12月の半ばに一度正常な意識に戻ってから祖母は二度と話せなくなった。わずかな変化でも気がつけるように私は簡易ベットに横にならず祖母の体をさすったり祖母の手を握ったままベットにもたれていた。祖母が目を開くと氷で口を濡らした。看護婦さんには水も飲み込めない状態だからと反対されていたけれど。ばーちゃま、氷ですよ、ごっくんしてください、そう話しかけると祖母は水分を上手に飲み込んだ。そんなことを繰り返しながら夜が過ぎていく。私は祖母の手を握ったまま30分ほどうとうとしていた。心拍計をつけているのだから脈に異常が出れば看護婦さんが飛んできてくれるのだけれどこの夜だけは絶対に横になる気がしなかった。朝6時ごろだったと思う。祖母が目を開いた。同時に私も少し眠っていたことに気がつく。おはようございます。朝ですよ。もうお正月三日間も終りましたね。家族3人で新しい年が迎えられましたね。そう話しかけていつもとおり熱いタオルで祖母の顔をふいてあげる。そして祖母の大好きな氷で口の中を湿らせる。安心したように祖母は眠りに着いた。このときが「末期の水」だったのだと後に母は言う。祖母の心臓の音が聞こえそうなくらいの静けさの中で私も意識朦朧としていた。おだやかな、おだやかな時間が流れた。
2004年01月03日
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気まぐれに更新していく私的記録です。2004年、1月2日深夜数日間休養できたので、久々に体調もよく、これから寒くなるというのに頭の中はもう春物のことで頭がいっぱいで一日中ショップの作業をする。一度、まったくなにも薬を飲まずに自然な睡眠を取ってみようかと思う。案の定、ほとんど眠れない。数時間の軽い眠りの後、目が醒める。学生時代からずっとそうだった。眠りに執着がなかった。眠る時間すらもったいないと思うほど時間が足りないと思ってたあの頃のエネルギーと今の体調はまったく、違う。切迫感と緊張感というのが病気とまではいかないにしろ本質的にずっと持ってるものなんだな、と改めて感じる。2002年の3月に、心療内科に初めて診察に行った。2001年の9月22日から10月12日まで数週間病院で寝泊りをした。その時に左目の下に痙攣が止まらなくなった。夜に睡眠をとるという自然行為この日からできなくなって、睡眠不足が続いた。祖母が強制退院させられた日からずっと自宅でも私は祖母に夕方からお昼まで付き添った。極端に私は寝つきがよろしくない。祖母が寝たと同時に睡眠が取れればいいのだがそうはいかない。咳をすれば目が醒めるしお手洗いにだって付き添う。人工肛門(以後ストマと表現する)からの止血をまかされているという極度の緊張感。要するに私は祖母の命を預かっているのも同然なのだ。ほとんど眠らない生活が半年過ぎて、(それでもまだ2件家庭教師の仕事を続けていた)これでは私のほうが又倒れてしまうと思い、睡眠薬を飲む決心をした。子供を生むまでは薬を飲みたくなかったのだけれど。実際毎日睡眠薬を服用するほどの重度の不眠症ではない。強迫性緊迫症、不安症状ということで薬を処方してもらった。そして抗鬱剤。極度の疲労と不安で動かなくなった体を無理やりでも動かすために処方されたもの。私は鬱病ではない。なぜなら死にたいとか未来に希望が持てないとかそういう事柄はすべて乗り越えた自信があったから。それでも動かない体と不安と緊張を和らげるために頼れるのは薬しかなかった。誰も、頼れなかった。近所に心療内科ができてなければ私は看病をやりとげることはできなかったと思う。祖母が亡くなって、2か月で抗鬱剤は抜いた。かなりの減薬にも成功した。何度が心理的に波があって投入も考えたけれどいらない、と判断。現在は不定期通院。夜だけ確実に薬を飲んでいるけれどそれも自分で増減可能の指示を頂いている。デパスだけは絶対に欠かせない。極度の筋肉痛になりやすいので未だに飲んでいる。アタラックス、抗ヒスタミン剤、ホリゾン。体調によって増やす薬。抗不安作用の強いもの。週に何度かハルシオン一錠を飲んでゆっくり睡眠をとる。それが最近の処方だ。日本では鬱病や心療内科、要するに心の病気に偏見が多い。私が薬を服用していることで驚く人もいるかもしれない。やっぱりな、と思う人もいるかもしれない。看病のピークの頃はぞっとするほどの量を飲んでいた。初めて処方を書き出すかもしれない。正しい量は覚えていないけれど。抗不安剤デパス(最大投与量)ホリゾン震撼発作を抑えるためにこれが私の命綱だったと思う。ペーパーバック法をしなければならないような発作を起こすなんて夢にも思わなかった。セパゾンアタラックス(最大投与量)ポララミンレキソタン (最大投与量)抗鬱剤デプロメール 3錠(最大投与量 朝、晩)これが私には一番効いた。のどが渇いて仕方なかったけれど1錠から3錠に増えた。後にパキシルに切り替え祖母が他界後完全に薬を切るまで2ヶ月かかった。睡眠薬ハルシオン 2錠マイスリーロヒプノールしかし起きれなくなるのが怖くてロヒは一度しか飲んだことがない。結局睡眠薬をきちんと投与していたのは2002年の年末のみ。血液検査もきちんとしなければならなかったしきちんと減薬できたのは先生のおかげと私を支えてくれた人たちの優しさと愛情のおかげだと思う。薬は効く。確実に。そして薬だけの力ではなく心理的な力が体を動かす。私は祖母や母のように決定的な病を持っているわけではない。今のところ手術や大病とは無縁だ。健康で毎日が過ごせること。これだけで充分幸せなのだ。そしてお医者様に生きてるのが不思議だと何度もいわれた祖母の気力。ヘモグロビンが体の三分の一になったことにしろ32歳で大腸がんになって以来、何度も死の宣告をされてきた祖母の生命力。最初の手術の時は麻酔が効かずに両手両足をしばりおなかを切ったという。当然気絶したらしいのだが・・・・私には想像できない。そのことが私に「いかに人生を精一杯生きるか」ということをずっと考え続けるきっかけを与えてくれた。
2004年01月02日
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みなさまどんな新年をお迎えになりましたか?この一年が皆様にとって幸多き一年であることを心よりお祈り申し上げます。1月から一坪ショップが本格的に動き出します。更新・・・頑張らないと^^;あいかわらず動いているのはフリマのほうなので。ひとつ、夢を叶えたことになりますね。開設当初からリピートしてくださるお客様もいらして。メールでしかお話したことがなくても何度かお買い物していただいてるうちに好みやサイズの感覚がわかってきたり親近感が生まれたりします。本当に、不思議で、嬉しいことです。お店をしたい、と思ったきっかけは家で祖母と母のそばにいながら仕事がしたいと思ったから。そのヒントを与えてくれたのは当時の彼氏と教え子でした。そして、ベトナム雑貨の可愛いさにひとめぼれしたこと。ビーズやスパンコール。お花モチーフの可愛いさ。雑誌を読んでいくうちに一番のお気に入りはJJになりました。女らしくて、かつ、可愛いブランドのお洋服がたくさんで。年齢的にもう子供の雑誌だと言われようが私は26歳から愛読しはじめました。笑。最初は10代から20代前半の女の子をターゲットにしたものにしようと思ってました。でも実際のお客様は20代以上のママさんや、仕事が忙しくてなかなか買い物にいけない方。サイズも好みもさまざま。まりィが納得したものでできるだけ幅広い好みに対応できるような商品を仕入れてきました。もちろん価格もお手ごろで。ブランドネームに負けない品質とデザインの商品をこれからも探していくつもりです。一品ものを減らしてたくさんの方に選んでいただけるような商品を見つけていくのが今年の目標。祖母との生活を経験して女性はいくつになっても可愛い存在であってほしい。そんな思いが強くなりました。綺麗で、可愛い女性でいること。そんな努力が毎日を輝かせてくれるのです。もちろん私もまだまだこれからです。体調も本調子ではありませんが徐々にペースを戻してきました。皆さんに素敵な情報を提供できるように頑張っていきますので今年もどうぞよろしくお願いいたします。
2004年01月01日
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