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及川光博氏のDVDを一足早く手に入れる。「9年目の本気」・・・うーん。5年前のアルバムと比べるとやっぱり顔つきが違う。男性もやはり確実に歳をとる。ミッチーさまはあの身体の細さを維持している限り華麗だと思うけれど。ブックレットを見てうわージーンズなんて初めて見た・・・。と思っていたらやはりマスコミ初公開らしい。「僕は今から見慣れない格好で登場するけどみんな笑わないでね」・・・・・ジーンズにTシャツ。これはやはり裸に等しい。ミッチー、やっぱりキューティハニーの「ブラッククロー」の衣装のほうが似合ってるしジーンズのほうがコスプレに見えてしまうよ・・・。私にとっても現在は見慣れない格好である。でもフリマの自画像はひそかにTシャツをきてます。かなーり見難い画像で。そろそろプロフの写真も変えないとと思いつつ5月から放置してます。ジーンズのトップスはとことん甘いめガーリーに。Tシャツにあわせるのは裾が広がったズボンフリルのスカートあえてモードな感じに。というのがまりぃ流でございます。
2004年11月30日
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痣のように残るこの記憶その言葉跪いてなんでもしてあげる自信に満ちたその目がたまらないこれは恋ですか?それとも・・・・・教えて欲しいの新しい愛のカタチ「あたしと貴方の間には 確かに愛情というものが存在しているけれど 決して交わらないの空と 海の ように」その男の腕に抱かれて私はぼんやりと妄想を抱いていた海の底に沈んでいく感情そこは真っ暗だというのにときおり太陽の光が差し込んでキラキラと光り輝くのだ。そう水の中の太陽あの頃から私には眠りというものが、ない。彼の長い髪とうっすらと生えた髭この男はイエスキリストにも凶悪な犯罪者にも見える。私は間違いなくその男を愛していたのだけれど同じくらい嫉妬に近い醜い感情を抱いていた。彼の作り出す言葉を、世界観を敬愛していたまるで神様のような男だった。生まれながらに欲しいものがすべて手に入るそういう宿命を持った男はそうはいない。容姿も家柄も学歴も非の打ち所がなかった。だからこそ彼はある意味では満たされどこか感情の一部分が欠乏したように怖いほど貪欲に感じることもあった。写真というカタチで残されてゆく彼の欲望私もおもちゃのひとつでしかないことをなんとなくもうその時感じていたどれだけ身体を重ねたところで決して交わらない ふたり。突然彼が鋏を差し出した。髪を切って欲しいと。裸のまま白いシャツをはおって死角になっている一階のバルコニーに出た。肩まで伸びた長い髪に私は鋏をいれた。なぜ私なのかその答えはずっと解らなかった。堕ちてゆく時間。過去だって切り取ってしまえればいいのに。
2004年11月27日
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雪の池辺に白鷺が白無垢姿の娘と化してあらわれるそれは鷺の性との人間の業を合わせ持って誕生してしまった自分を語り弔うための喪の装束自分の宿命を嘆き 悲しみ狂って空の彼方に飛び去ってゆく私が人生で最後にしようとしている舞台。他の仕事で稽古をまたさぼってしまった。足がずいぶんと悪くなった母がこのアクロバティックな振り付けをする踊りをなぜか稽古をつけてくれようとする。5年前とは体力も違うし筋力も違う。舞台費用も決して安くは無い。それでも私は3年後この曲を踊れたらと思う。私の舞台ブランクはその日がきたとして12年となる。結構な年数だ。短い期間だけれど祖母にも稽古をつけてもらった。鷺を踊ると妊娠するという伝説がうちの家系にはあるのだ。私が大学時代にくんでいたバンドはHARPY下半身が鳥で上半身が女性のギリシャ神話の欲望の塊の象徴だった。その思いとなぜか重なった今日。飛びたいと願っていた私に自分の業に戸惑い生きる私にふさわしいのかもしれない。もう一度飛び立とうとしている母に今では人間国宝になった母の師匠が(開設当初の日記参照)譲ってくださった「折り紙」すぎた日の思い出を表現していくこの踊りは私が二十歳の頃 母が舞台で演じたもの大阪歌舞伎座を総満員にし後にかしく祭で奉納の舞として再演を依頼される。10年の節目5年間の舞台のブランク今日母が稽古の後、腎臓が痛み、寝込む。「もしかしたら7回忌はできないかもしれないこれが最期の舞台になるかもしれない。」などと言う。1月30日、国立文楽劇場のトリ。祖母の三回忌ができなかった代わりにこの話が突然舞い込んだ。祖母はやはり死んでも母が可愛いのであろう。「とむらい踊りやなあ・・・・」とつぶやいた文楽劇場の食堂の社長が言った言葉が忘れられない。母は私にとって母ではなく芸術家としての視点で見てきた。だからこそもう一度飛び立って欲しい。母はいつでも美しかった。参観日に来れば目だって仕方がなかった。街をあるけば人が振り返った。彼女の立つ舞台はいつだって満員で立ち見がでるほど。祖母が母を支えてきたから。その代わりをする日がやってきた。さて課題がまたひとつ増えた。彼女が涙で踊れないなどという状態にならないように付き人として走り回っていた感覚を思い出しながら舞台のそでにつくのはお弟子さんに任せて私は祖母の写真を抱えて客席に座ろう。そう15列目あたりの真ん中の一番良い席で。10年の月日をゆっくりと思い出しながらこの思いを空に飛ばそう。現に遺された母と共に。
2004年11月25日
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やたらと長い間現のままで醒めない夢を見ていた気がするそこに差し込む光を息苦しいまま見つめていた沈んでも溺れたり しないそれが私の生き方だ。
2004年11月20日
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すっかりお店のほうはお休みしていますまりぃです。夏からこちら少しはましになったもののやはり不眠症炸裂身体は重い完全なるエネルギー不足です。とほほ。原因てのはまぁ親に公認された彼氏と音信不通になったという。まったくもって情けない理由で。さよならのコトバもなく。電話で話すこともなくなり何度かけても数秒しか話ができないので私は彼の携帯番号を削除してしまいました。メールアドレスは残ってますが何度連絡しても返ってこず。最悪な終り方をしたなあ・・・と思います。とはいいつとても破天荒な人だったので生きてるかどうかも仕事がどうなったのかも純粋に心配している自分がいたりして。大切だとか変わらないとかコトバを並べるのは簡単。実際行動に移さないと愛情なんて感じないし一日1通のメールで充分心が繋がってると思える。それだけで充分なのですが。私に女性としての魅力が足りないということでしょう。さて今年目に付くレオパード。豹に薔薇というとんでもないなあという柄を2枚も購入してしまいました。・・・・ええまだ怖くて着てませんとも。祖母のクローゼットをあけると見事なほどアニマル柄がそろっています。Diorのメゾンで修行したというシェレルの服が90%です。今年の流行そのものじゃん!というワンピースもでてきました。サイズがあわないので私には無理ですが。70歳をすぎてもそれを着こなしてしまっていた祖母をやっぱり私は尊敬します。普段着はなんでもいい。愛する人の前で可愛いお洋服が着れたら・・・・それがやっぱり私の一番の喜びです。
2004年11月15日
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何処までが現実で何処までが夢なのか解らなくなっている。呼吸することだけでも精一杯でそれでも私は決して倒れたりしない。街はクリスマスの準備が始まり私はまた哀しい思い出に包まれる。身体の傷よりも心の傷のほうがずっと消えてなくならないのかもしれない。ふたつでひとつだった魂が半分なくなって私はそこにうまくおさまらない。どうしてこんなにも彼女は孤独を嫌うのであろう。なのにどうしてそばにいても私は彼女を笑顔にできないのだろう。切り裂いた身体の傷の痛みよりも心の傷のほうがずっと疼くんだ。
2004年11月12日
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念願のクラブデビューをいたしました。まったくひょんなきっかけですが。大阪船場にあるクラブ。滞在した時間は門限のため1時間強でしたが楽しかった・・・・・。結構有名らしく知ってる顔に何人も出会う。もちろん有名人もいらっしゃる。祭日前日で結構な人数。数百人はいたと思われ。カクテルを片手に最大限のボリュームでリズムに身をゆだねる。ベース音が心臓に響く。煙草の煙。ちょっとかっこいい男性がトナリに。しかしスーツで踊りにくるビジネスマンの多いこと。(唖然)女の子のほうはこれまたファッション雑誌の生バージョンみたいなもんでとにかく、可愛い。盛り上がってきたところで私も数年ぶりに踊り狂ったわけですがキャミワンピにファーカーデ。カーデが失敗した・・・・。暑いのなんの。11センチヒールのブーツで踊る私も阿呆である。だがしかし。同じ阿呆なら踊らにゃ損。ミニスカートにブーツという女の子が多かった。上はだいたいキャミソール。なるほどこういう夜遊びにでかける若い子から30代のおねーさんがいるから冬場でもキャミソールがあるわけね。音楽のジャンルも色々で。ほとんどわからないのが多かったな・・・巷ではダンスブームで駅前で高校生くらいの少年少女がウィンドーを鏡に練習してたりするのだけれど。あたしの高校生の頃もダンス流行したって。元気が出るテレビのダンス甲子園・・・・流行はやはり10年サイクルなのか?お笑いもそうだし。とかく驚いたのは「レゲエダンス」見たことあります?皆さん?衝撃です・・・。音楽をやってた頃最終オーデションの後みんなでマハラジャに行ったらしい。(最近復活しましたね。)さすがに羽根扇子の時代は終ってたんだけどもミラーボールやらお立ち台やら私はかなり興味深々で。楽器と声で伝えるのではなく私はあくまでも「魅せる」音楽がしたかった。衣装、ダンスもトータルで楽曲をつくる。その後「クラブミュージックをお茶の間に」なんてキャッチフレーズをプロデューサーにつけられてた。(ダサい・・・・)当時のデモを聞くとジャングルだったりする。相当笑える。あの頃の感性が今の私に通じてるわけで相当刺激をうけた一日でした。結局マハラジャは祖母と母に日帰りしか許してもらえずとぼとぼとオウチに帰りました。(後に東京でホテル暮らしになるけれど夜遊びなどせず。)たまにはこう。ばーっと発散しなければいけませんね。あたしは音楽が好きでダンスも相当好きで振り付けしろといわれたら数分でできる。のにどうして家業の日本舞踊は何度やっても覚えられないんだろう・・・。(T_T)
2004年11月02日
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