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~墓仕舞いを決めて~ 見ているとヤマバトの様子が変。わが家の畑に良く遊びに来るのだが、塀の上から畑に向かって一直線。それも何度か同じことを繰り返している。暫く観察するうち、理由が分かった。支柱を結わえてあるビニールひもが彼の目当てみたいで、細かく裂けた紐を素早く咥えて飛び立つ。その方向を見て、思わず微笑んだ。そこはHさん宅の庭のキウイの木。恐らく今年もそこに巣を作ったのだろう。 ヤマバトの巣 去年のこと、Hさんの奥さんが私に、「ほらあそこに巣があるよ」と教えてくれた。いつもは葉が茂って外からは見えないのだが、収穫のため邪魔になる葉と枝を切ったようだ。それで巣が露わになったのだ。わが家の庭にも良く二羽で来ていた。こんなちっぽけな畑でも、きっと彼らの餌になるものがあるのだろう。今年の春は番(つがい)の山鳩を俳句に詠んでみたのだった。 山鳩の番なるべし春障子。 講師からは「なるべし」は強過ぎるとの講評。そこで 山鳩の番ならむか春障子 とした。なるほど雰囲気が幾分和んだ感じになった。 半袖姿になりペダルを漕いで兄宅へ向かった。途中の和菓子屋でクルミゆべし(左)と草餅(右)を買い、生協で花を購入。電話を掛けなかったが義姉は在宅中。訪問することは数日前に伝え、義姉の都合は確認済み。仏壇の前に香典と花と和菓子を備え、線香をつけ、鉦を鳴らす。義姉が「お父さんMがお菓子を以て来たよ」と故人に呼びかける。居間でひとしきり「墓仕舞い」の話。悩んだ末に義姉が出した結論だった。 急遽義姉が運転する車で霊園に行くことにした。6月4日の1周忌はお寺で行い、その数日後に墓仕舞いをして、別のお寺の納骨堂で永代供養をする段取り。だから実質今回が最後の墓参りになる。兄、私、弟がお金を出して建てたお墓には、父母と姉と兄が眠っている。だが兄の子は2人とも女。私の子供は全員遠方で将来墓を守る人はいない。出した結論が墓仕舞い。墓の周囲の草を抜き、掃除し、花と線香、お茶と飲み物を捧げた。死後、子供たちに迷惑はかけられないとの想いからの潔い決断だった。 ジャーマンアイリス 私は死後墓に入らない予定。戒名も不要。火葬後、遺骨は出来たら3か所へ散骨して欲しいと願っている。徳島県の鳴門、愛媛県の松山、そして沖縄の海。いずれも何年か住み、練習で走った土地。その地の海に還って、サンゴ礁になるのも良い。 永代供養の納骨堂(イメージ) 帰宅した夜、義姉の銀行の口座番号を聞いた。遠慮していたが、最後だからと言って進めた。墓仕舞いの経費の一部。義姉の長い看護があればこそ、兄も長生き出来たのだ。一時兄はキリスト教の教会に通ったことがあったそうだ。それは初耳で意外。そして義姉は、真面目な顔をして「今でも兄を愛してる」と言った。弟としては本当に嬉しい。私も宮崎の弟も転勤暮らしで、長く故郷を離れていたのだ。 畑から野菜を収穫。ブロッコリー(左)は花が咲きそうになっていたし、カリフラワー(中)はナメクジが食べたのか、白が茶色に変色して穴だらけ。シュンギク(右)もとうが立って、茎が少し硬くなりかけていた。気温が高く、あっという間に成長して旬を通り過ぎる。そして5回目の草抜きでも、50Lのゴミ袋が満杯だ。さて、今日はDeNAに勝ちたいねえ。ガンバレマー君、頼んだよ。
2021.05.31
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~久しぶりのラン~ ヒメジオン(雑草) う~んヤバイなあ。「コロナ自粛」で体を動かしてなかった。それでも食欲は落ちない。当然の帰結だが体重が2kg近く増えた。何とかせねば。そう思ってストレッチ体操の真似事をやったが、そんな程度では何の解決にもならない。翌日は上天気。思い切って走りに行くことにした。ランパンにランシャツ。メッシュの帽子にサングラス。首には冷却用の鉢巻き、手にはスポーツドリンクのペットボトル。 エゴの花 全く走ってないため心配だったが、何とかなるだろう。軽く足首を回し、「壁押し」をしてスタート。もちろんスピードは出ない。まるで歩くような速さだが気にしない、気にしない。坂道を下りながら前方を見ると、何やら白い花。近づいて目を凝らすと、どうやらエゴの花みたい。へえ~っ、こんな高木になるんだねえ。その後もエゴの花には何度か出会った。どうも植木ではなく、自然のもののようだ。 イチハツ その後も次々と白い花に出会った。イチハツはわが家にもあるが、どこか「間が抜けた」印象。花としてめりはりがないからだろう。警備員に、工事の概要を聞く。それまでの石段が古くなって危険なため、新造する由。近くに別の坂道が出来て通行出来ると教えてくれた。へえ、そうなの。やはり聞いてみないと分からないもんだねえ。すたこら、すたこら。もうウグイスの鳴き声は聞こえない。 マーガレット 道路の脇に咲いていたマーガレット。どの花も真っ直ぐにお日様の方向に首を向けている。小さな田んぼは耕され、水が張ってある。そろそろ田植えのシーズンだ。大きな団地周辺の畑では、たくさんの人が農作業に精を出している。きっと貸農園だろう。その方が農家も金になるし、第一畑が荒れずに済む。太白山が見え出す。もうすっかり若葉に覆われて初夏の山に変身している。 あなたは誰? 大ぶりの花が見えた。近寄るとボタンかシャクヤクみたい。ボタンは「木」だが、シャクヤクは「草」。でも花だけでは区別がつかない。すたこらさっさ。角を曲がるとそこからはsばらく上り坂が続く。でもさほど苦しくはない。スピードがないため、体への負荷が少ないのだろう。登り切ったら、後は下り。最初の沼の土手に何か目立つもの。これはこれは。ランを止めてガードレールを跨ぐ。 収穫物 ハハハ。これは良いお土産。夢中で手折る。だが入れ物はない。そこで首を冷やしていた「鉢巻き」をほどき、15本ほどのタケノコを縛った。案外重いが我慢我慢。タケノコは高いため買わない。そう言えば去年も「ただ」のタケノコを獲ったなあ。途中から目立たぬよう脇道へ。ところがその出口近くの茂みにも同じタケノコを発見。ものはついで。こちらも頂きだ。何とか鉢巻きで縛り上げ、すたこらさっさ。 皮を剥いた後の姿 無事帰宅して裏庭でタケノコの皮を剥いでると、チャイムの音。ハーイと、ランニング姿のまま玄関先に行くと、民生委員のFさんだった。コロナ禍でどう暮らしているか心配して訪ねてくれたのだ。無事にワクチン接種の申し込みをしたことと近況を報告。独り暮らしの爺さんをいつも心にかけて下さって感謝だ。玉ネギを上げようとしたら、「ルール上受け取れない」と。役目とは言え大変な仕事。偉い人だ。 タケノコ料理 裏庭の貧弱なフキを数本切り、着替後早速料理に取り掛かる。材料はタケノコ、フキ、ニンジン、ワカメ、鶏肉、さつま揚げなど。醤油をベースにして煮たが、鶏肉の旨味も加わり、ごま油でコクを出した。なかなかの上出来で、早速夜の食卓に上った。ネット検索した結果、名前は「細竹」別名「根曲がり竹」。根曲がりは良く聞く名で、これを獲りに山に入って熊に襲われる人が多い。くわばらくわばら。 スーパームーンの皆既月食 その夜は「スーパームーンの皆既月食」だとは知っていた。話の種に見てみようと何度か空を見上げた。だが灯が邪魔になってダメ。それでベランダから見た。だが暑かった昼と異なり、夜は冷える。これじゃ風邪を引くな。と用心して短時間の観察に止めた。だが視力の衰えた私の目には、こんな美しい姿は確認出来なかった。皆既月食の「赤い月」はネットから借用した。 これもネットから借用した画像だが、私の目にはこんな風に映った。左は左上が細い月になり。その後右の右側が細い月に変化したと感じた。月も気懸りだが、セパ交流戦も気になる。この夜もわが東北楽天は敗れ、巨人に2連敗のスタートとなった。あれまあ「実力のパ」はどこへ行ってしまったのだろう。久しぶりに走ったせいか、1杯の焼酎が良く効いた。まだタケノコの煮物はたくさん残っている。
2021.05.30
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~最近の習作から~ 奥入瀬渓流(おいらせけいりゅう:青森県) 奥入瀬の径苔生して朴の花 *みち *こけむして *ホウ 朴の花瀬音は渓の彼方より *たに 獣道高き梢に朴の花 *けものみち ホウの花 朴の花早世したる姉の貌 *そうせい=早死に *かお 喜寿過ぎてなお健やかに朴の花 薔薇咲けど陽は中天に昇りけり *バラ *ひ *ちゅうてん=中空 薔薇咲きて近まる兄の一周忌 薔薇や薔薇疫病の世なれども *はやりやまい 雨に濡れ風に揺れたる薔薇の日々 散りし薔薇うち重なりて香を放つ *か 朴の花 朴の花は夏の季語。私はこの花を2度見たことがあります。最初は青森県の奥入瀬渓流で、2度目は近所の農家の林で。良い香りがするようですが、高い梢の上で咲いているため、直接香りを嗅ぐことは出来ません。花は良く知らなくても独特の形の大きな葉っぱで朴の木と分かります。朴の木は木質が素直なので版画の版木になります。また昔の高下駄の「歯」にしました。高校時代に私も履きました。 薔薇(バラ)も夏の季語です。わが家の庭では目下各種のバラが咲いています。でも花期が短くて、あっという間に散ってしまいます。モッコウバラ(木香薔薇)などは花の量が多いだけに散り出すととても掃除が大変です。「朴の花」は6月の俳句教室の兼題(宿題)のため、ボチボチ準備にかかっています。 私がバラを詠むことは滅多にないのですが、これも練習です。なお秋に咲くバラなら「秋の薔薇」冬なら「冬薔薇」(ふゆそうび)にのように詠むと、その季節の季語として使えます。なお私の俳号「真楠」(まっくす)は10年前に死んだ愛犬マックスから借りたものです。
2021.05.29
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~刺身三昧。そしていつもの手抜き料理 ~ エノモトチドリ 歩いて買い物に行こう。そう決めてリュックを背負った。買いたいものはアレとアレとアレ。頭の中で思い描きつつ、裏道を歩いた。先日までやっていた水道工事が終わったと思ったら、かなり離れたバス通りで継続中。古い水道管を地震に強い新しい型のものと交換する由。確かに地震が多いので、古くて弱いのは困るのだ。「東日本大震災」では5日間、給水がストップしたしね。 キャリーカーに買い物籠を2個積んでスーパーの店内に。地元産の徳用トマト大袋入りを先ずお買い上げ。実際はこの3倍以上入って180円。エノキダケ、見切り品の貧弱なキャベツ、バナナ。それから急いで鮮魚コーナーへ。目ぼしい刺身があれば買いたいと思ってのこと。 あったあった。上物のミンククジラ。アイスランド産とは珍しいが、彼の国もわが国同様にIWOを脱退した捕鯨国。きっ良質のはず。「しかし」と思って野菜売り場に逆戻り。クジラの刺身とくれば、やはり「ショウガ」だろう。練りワサビはあるが、たまにはショウガで贅沢しよう。「しょうが」ないなあ。 初カツオの半身 次にカツオの半身を購入。「柵」になってる方が食べやすくて楽だが、値段が高い。自分で捌くのは大変だが、その代わり量が多くてたくさん食べられる。後刻捌いて4回分になった。さらに「マグロの切り身」を購入。これは刺身にならない部分。いわば「切り落とし」みたいな感じ。インスタントコーヒー、うどん、低脂肪乳、パン(この日は3割引きの日)を抜け目なく買ったが、豆腐は忘れた。ウッセー、ウッセー、ウッセーは。 マグロ 家に帰って早速食品を仕分け。それから魚の処理。クジラは刺身用に切ってあるため、そのまま冷蔵庫へ。カツオは出刃包丁と刺身包丁で捌く。4皿分+半端分。マグロはやはり刺身にならなかった部位で、筋が多い箇所、太い骨のある個所だった。だがそこから刺身になりそうな部分を切り落として、残りはカツオの端切れと共に醤油と味醂を合わせた汁に浸し、いずれ焼き魚にする予定。これが案外いけた。 キャベツとキュウリの塩もみ 次は野菜中心のおかずで作り置き出来るもの。トップバッターは残ったキャベツ、お徳用のキュウリ、そしてショウガの端っこを刻み、ボウルに入れて塩もみ。1時間ほどしたら手で絞ると、水分と余分な塩分が落ちる。ショウガの薫りが食欲をそそるね。 ピクルス 次はピクルス。と言っても写真のように上品な物ではなく、いわば余った野菜の寄せ集め。つけ汁も穀物酢にレモン汁、ポン酢を足した自家製。野菜が漬かった後は、その汁も捨てずに取っておく。 ケチャップ炒め 最後がケチャップ炒め。これは急遽思いついたもの。少し傷み始めたタマネギ、キャベツの芯(と言っても葉っぱの)、ニンジン、萎れかけた小松菜。そして肉は3割引きで購入し、冷凍しておいた鶏の挽肉を解凍。味付けはピクルスの残り汁、味醂、そして熱が通った頃にケチャップ投入。これが酢豚のような味で美味しかった。いつもながらの手抜き料理ではあった。ではどなた様もお元気でご機嫌よう。
2021.05.28
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~ともかく主夫は忙しい ~ サンズンアヤメ(三寸菖蒲) 梅雨入りが近いせいか天候不順で困る。その日何をするかは天候次第。晴れれば洗濯と布団干し。そして庭や畑の手入れや買い物。一方雨の日に出来るのは大掃除や料理。天候に無関係なのがブログの原稿書きと新聞とテレビでのスポーツ観戦など。そうこうしているうちに季節は移り行き、庭の花もどんどん入れ替わる。満開だった花が萎れ、枯れて落ちる。 見事だったモッコウバラが雨に打たれ腐って来た。その汚れた姿を見るのも嫌だが、晴れたら晴れたで落ちた花びらが風に舞う。お向かいさんに迷惑をかけてはいけないと思い、箒で花を叩き落とした。バケツで3杯分の量。それが濡れて掃き難い。それを終えてから剪定にかかった。若い枝がどんどん伸びて見難い。隣のレンギョウの伸びた枝もバッサリ。それらを裏の積み場に運び、堆肥にする。さらに草抜き。雑草は「お湿り」があったため、猛烈な成長ぶり。蚊も出て来るこれからが大変な季節だ。 雲南百薬の若い葉 畑の巡回が楽しみだ。雲南百薬の苗から新しい茎が出ていた。3週間ほど前、腐った根茎を切り、まだ元気な部分を土に埋めた。そこからの発芽。ああ良かった。生きていたのだ。もう10年目になる古株。シュンギクが大きく育って、間もなく食べられそう。ブロッコリーは順調だが、カリフラワーとキャベツが青虫に食われている。トマトの脇芽を摘む。キュウリは順調に根付いた感じ。 兄の一周忌が近いたため、香典を届けようと義姉に電話すると、その日は友達と映画を観る予定とのこと。翌日はと問うと「貼り絵」教室の由。まあ元気で何よりだ。天気と相談し週末に届けると言って電話を切る。こんな風に自転車族は雨の日はお手上げ。晴れの日を待つしかない。お寺に行けない場合は、墓参りだけでもしたいね。宮崎の弟は郵便で香典を送った由。やはり想いは同じだ。 紺所の方が絹サヤを届けてくれた。今年の班長さんで、先日は町内会費の集金に来られたばかり。ちょっと待ってと言って、畑からタマネギを抜て差し上げる。写真はネットからの「借り物」だが、現物は新鮮で大きい。何せ根っこが土の中なので、まだ成長し続けているのだ。葉が枯れるまでは畑で放置。抜いた後は何を植えようかと思案。裏のSさんにもタマネギを差し上げた。大量の雑草をゴミ出し。<続く>
2021.05.27
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爺が気になった話題 17日ぶりに捕獲されたアミメニシキヘビ 横浜市で起きた大蛇脱走事件。飼い主から電話で依頼を受けた白輪剛志さんは、「日本ハ虫類・両生類協会」理事長で、静岡で「体感型動物園」の園長をされている方。連日無償で現場に駆け付けたようだが、このヘビは28度C以下の気温だと遠くへ行けず、きっと50m半径の建物の天井裏に潜んでいる可能性が高いと判断。すると踊り場の天井に隙間があるのを発見。 害虫駆除業者と打ち合わせし、屋根裏へ潜入。すると案の定鉄骨の梁に巻き付いていた由。やはり動物の行動を知り尽くしているんだねえ。飼い主は迷惑をかけたことを謝罪し、捕獲されたヘビは横浜市が管理することになった由。しかし17日間ヘビも良く耐えたもんだねえ。けが人が出ず、先ずはめでたしと言っておこう。 大相撲夏場所は大関照ノ富士が優勝して賜杯を手にした。(左)ただ1人全勝で突っ走っていたが、後半まさかの連敗。千秋楽の本割には貴景勝(右)にも敗れて、まさかの優勝決定戦となった。ここでは踏ん張り、4回目の優勝を果たした。早速横綱審議会が開催され、次の場所で優勝もしくはそれに準ずる成績であれば横綱に推挙すると明言。また今場所の貴景勝も「優勝に準じた成績」と認めた。 朝乃山 ところが残りの大関が不甲斐なかった。正代は辛うじてカド番を脱出したが、朝乃山は場所中にキャバクラに通っていたことが週刊誌にすっぱ抜かれ、相撲協会に虚偽の申告をしたことがバレ、親方は謹慎のため途中休場させた。来場所はカド番だが、理事会が開催されれば、さらに厳しい処分が出る可能性がある。本人はたとえ幕下に落ちても相撲を続けると表明。プロ野球でも不祥事で解雇された選手が出た。 黄河石林 中国甘粛省の黄河石林(上)で開催された「100kmクロスカントリー大会」で21名の死者と1名の負傷者を出す大事故が起きた。原因は突然の気象の変化。日中は18度あったのが、急に豪雨が降って体温を奪われた由。朝方は5度まで冷え込んだようだが、選手は薄着のため次々に倒れたと言う。現場は車が入れない場所で、救助隊が駆け付けられなかった由。 現場での救出活動 事故の原因は主催者と参加選手の認識の甘さだろう。これは単なる「クロスカントリー」ではなく、「ウルトラトレイルレース」。距離が100kmともなれば気象の変化は当然で、途中に休憩所やエイドステーションを設置するのが普通。どんなコースか分からないが、完走者には2万3千円のボーナスが出るとの触れ込みで、浮かれていたのだろう。私は100km以上のレースを20回以上走っているが、コースと天候と服装の知識、自分の実力を十分認識する必要があると思う。 大規模接種センター(東京会場) 東京及び大阪で「大規模接種センター」でのワクチン接種が始まった。菅内閣の支持率が落ち込んだ昨今の情勢を盛り返す絶好の機会と考えても無理はない。「さざ波」、「屁でもない」コロナに苦しむ国民を前にそうツイートした高橋内閣参与も辞職。自衛隊の医官、看護師らの協力を得て、かなりスムーズに接種が進んだようだ。今年中には3種目のワクチン(英国アストラゼネカ社製)の導入も期待される。 伊達政宗騎馬像 実はわが仙台市でも仙台駅東口の商業ビル内に大規模接種センターが設置され、急遽ワクチン接種が始まったようだ。これは宮城県と仙台市の協力によるもので、医師は東北大学付属病院から10名ないし15名派遣されている由。仙台市以外の政令指定都市でも、同じような動きが出ていると聞く。新型コロナウイルスによる感染症が、一日も早く収束して欲しいものだ。 WHOロゴ IOCロゴ アントニオ・グレテス国連事務総長は5月24日、ジュネーブで開催されたWHOの年次総会において「我々は今、新型コロナ」と戦争状態にある」と宣言した模様。これに対してIOCのバッハ会長とコーツ調整委員長はあくまでも東京オリンピックの開催に意欲的と伝わる。片や国際機関。片や「イベント会社」。果たしてどちらの言い分に理があるか。世界はまさに激動のさ中だ。
2021.05.26
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~脳の一部が破壊した荒行~ 先日テレビである番組を観た。一人の僧侶が記者の質問に応えているが、それだけではなさそうだ。話が進むうち、意外な展開を見せ始めた。「あれっ、この人のことは聞いたことあるぞ」。しかもわが家と同じ区にお寺があり、かつてない偉業を成し遂げた人。その当人が成就した「行」の実態を知るのだが、全く予測不可能な凄まじいものだった。 多くの信者に囲まれた塩沼亮潤(しおぬまりょうじゅん)大阿闍梨。(だいあじゃり)。住職を務める慈眼寺(仙台市太白区秋保)にて。師は1968年(昭和43年)仙台市生まれで東北高校卒。比叡山延暦寺の酒井雄哉師が、史上初めて「千日回峰行」を2度達成したことをTVで知って、自分も千日回峰に挑戦したいと願ったそうだ。偶然にも、そのニュースは私も聞き、世の中には凄い人がいるものだと衝撃を受けたものだ。 奈良県吉野山金峯山寺 塩沼青年は早速行動を起こす。1987年。19歳で吉野の金峯山(きんぷさん)寺にて出家得度(金峰山修験本宗)。1991年23歳で大峰山千日回峰行入行。1999年31歳で千日回峰行満行。翌年四無行満行32歳。番組作成のため記者と修行地の吉野に赴き、塩沼氏は現地の人たちと親しく挨拶をしていた。小僧時代の塩沼氏を良く知っている地元の方々は、久しぶりの再会に感激していた。 若き日の師は千日回峰行に向けて毎朝早朝に起き、トレーニングのために山道をランニングする姿を目撃されていたのだ。私は大阪勤務時代に吉野の桜を見に行き、この金峰山寺の姿を良く覚えている。 蔵王権現 この寺は真言宗の僧侶(満堂方)、天台宗の僧侶(寺像方)、神社の仏事を行う(社僧)らによって運営されている由。神仏混交のうえ、吉野から大峰山、熊野にかけては、修験道の祖と伝わる役行者(えんのぎょうじゃ)が開拓した山伏の修行の場でもある。その守護神が蔵王権現なのだろう。 役行者(えんのぎょうじゃ)木像 さて、わが宮城県にも「蔵王連峰」があり、東北地方には役行者の修行地と伝わる場所も多い。役行者は吉野から東北まで、空を飛んで移動したと言われる。私が初めて役行者の木像に接したのは、熊野那智大社の神護寺である青渡岸寺の本堂だった。旅を重ねていると色んな事象や事実に遭遇し、わが国の歴史認識や、日本人の優れた感性について示唆を受けることが多い。 千日回峰のコース 「千日回峰行」を再現(普段「回峰行」の撮影は許可されない)するために53歳の師が錫杖(しゃくじょう)を片手に、鎖も使わずに急な崖を登って行く。若いプロデューサーは必死で後を追うが、危険な場所は避けた。大峰山千日回峰行は高低差1300m以上の厳しい山道を、往復48km、1日16時間以上、千日間歩き続ける荒行。 大峰山山上ケ岳(コース) 修行期間は年間4か月。それを足掛け9年行い、その翌年に「飲まず」、「食わず」、「眠らず」、「横たわらず」の「四無行」を9日間行う。それで満行となるが、これまで達成したのは1300年間でわずか2人だけとのこと。達成者は「大阿闍梨」(だいあじゃり)の尊号を授かる。上の写真の右奥に見える大峰山が千日回峰行の中間地点で、ここからまたスタート地点に戻って1日が終わる。それは雨の日、雪の日、嵐の日も同様。照明器具があるようには見えなかったが。 行を終えた塩沼師は仙台へ帰省する途中、東京で人間ドックを受けたそうだ。その時に脳の撮影をしたら、後頭部の3分の1ほどが真っ黒になっていた由。その写真がTV画面に映ったが、ドクターの診断によれば、不眠不休の厳しい修行を長期間続けたために脳が大きなダメージを受けて、「破壊」されたのだろうとのこと。1300年間に2人しか達成出来なかった荒行の凄さが理解出来よう。師の体は白血球が少ない特異体質のようだが、今もランニングを楽しんでおられるとのこと。 慈眼寺 塩沼大阿闍梨は故郷の仙台に帰って、秋保温泉の奥に建立した慈眼寺で住職を勤める傍ら、世界中を飛び回り、仏教の精神と平和の尊さを説くなど、活発な講演活動を行っているそうだ。3分の1が破壊された「脳」はどうなったのだろう。徐々に再生されるのか、それとも今後重大な障害が発生するのか。塩沼師はそんなことに拘ることなく、今日も穏やかな笑みを浮かべつつ信者に接している。 護摩供養する塩沼師 「比叡山の千日回峰行」成就に感銘を受けた少年が、自らも厳しい修行の道を目指し、見事2人目の「大峰山千日回峰行」満行を叶え大阿闍梨となった。塩沼師の慈眼寺では節分の際、「福は内、鬼も内」と唱えるそうだ。それは悪行を重ねる鬼を仏の力で改心させ、再び世に送り出すためとか。何と尊い話ではないか。不信心で不遜な爺の心にも、一瞬灯が灯った(気になった)のであった。 合掌。
2021.05.25
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~ワクチン狂騒曲~ ビニール傘 わが市における新型コロナワクチンの個人接種開始が5月17日から始まることは知り、市のHPで接種会場を確認し、通院中の医院でも可能と知った。その当日午前0時じゃストに申し込みしようと手ぐすねを引いた待っていたのだ。ところが医院のHPが何も反応しない。3時ごろに再チャレンジしたがダメ。諦めて布団にもぐった。 白花のシラン(紫蘭) 電話は当然駄目だがHPが動かないのには焦った。開院時間の9時半になってようやく予約システムが稼働。だが初めてのシステムに焦ってミス入力を重ねてしまった。1回目は予約出来たが、3週間後の2回目の予約が不可。それでPCを切り、電話作戦に切り替えた。これが拙かった。結局10時間以上かけて無反応のまま終わった。 夕食後。再度PCからの予約開始。ところが私が諦めた間に7月中旬までは全て予約済。気を取り直して初回を7月15日で確定。2度目の接種はまる三週間後に1人分の余裕があったため予約。目出度く2回分の接種日と時間を確保出来た。ドジで間抜けな亀が申し込み初日に何とか手続き完了。疲れがドッと出た。 朝ドラ「おかえりモネ」 朝ドラ「おかえりモネ」が放送開始になったのも、その日だったか。ドラマの舞台がわが宮城県で、ヒロインの故郷の島も、就職先の市も知っていて親しみを感じる。それにあの「大震災」に遭遇した同郷人の話となれば、見ない訳には行かない。美しい映像、馴染みのある風景と地名。ドラマに期待する気持ちが高まるのが道理。楽しみにしてるね。 俳句教室イメージ 2か月ぶりに市の俳句教室に行った。館長が交代したせいか開催の連絡がなく、自分で確認して駆け付けた。教室に入ると講師が小声で私を呼ぶ。「私は肝臓がんで手術し、いつ倒れてもおかしくない。もしも私が休んだらよろしく頼むね」と一言。あれまあ。倒れた以降はずっと私が講師をするのか、先生が休んだ日だけ代理を務めるのかは分からないが、とも角承知しましたと返事した。 山法師(講師の俳号) この日集合した仲間はいつもの半分以下。恐らくはセンターからの開催連絡がなかったのだろう。8名だけの教室は静かで進行がスムーズ。私の提出句には講師から厳しい指摘と意見。もう少し「句を作り込め」と。確かに今回は色々あり過ぎて、推敲と添削が不足していた。6月の兼題は「朴の花」。帰宅後早速十句以上を詠んでみたのだが。 玉ネギの葉の酢味噌和え キュウリの苗の邪魔になっていたタマネギの葉を切り、「ぬた」(酢味噌和え)を作った。ピクルスの残り汁に砂糖と味噌、洋辛しを少量ミックスして混ぜ込んだ。相変わらずの貧乏料理。「ただ」の素材にしては美味しく出来たと思う。野菜サラダ、キャベツとキュウリの塩もみなども合わせて作り、作り置きおかずが野菜豊富となって嬉しい。 っドライカレー 最後にドライカレーを。やもめ料理は、とも角残った材料と調味料で手早く美味しく作ることが肝心で、「能書きは不要」。無骨一遍の男料理だ。全て美味しく出来上がり、3回分程度の主食にはなったろう。後は刺身と卵入り山芋。ワクチン予約完了祝いにイチゴを添えた。
2021.05.24
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~慌ただしい暮らしのなかで~ ドクダミの花 沖縄と奄美は早々に梅雨入り宣言をしていたが、その後も九州北部、中国四国地方くらいまで、あっと言う間に梅雨入りになった感がある。今年は早い梅雨入り。きっと長いのだろうし、雨も多いのかも知れない。コロナ収束の見通しが覚つかず、東京オリンピックの開催も今一歯切れが悪いままだが、梅雨までそれに追い打ちすれば、心の中のどんより雲はなかなか晴れないだろうなあ。 高温の日が続いたお陰で、庭の花があっと言う間に咲きましたよ。バラ、モッコウバラ、ミニバラ、紫蘭、サンズンアヤメ、イチハツなどが次々に。 ハハコグサ だけど、この時期は雑草も勢いを増して花を咲かせます母子草などは可憐なのですが、そのままにしておけば実が実って増えますからなあ。それで可哀想だけど、抜いてしまうのですよ。 それにね。きれいに咲いた花も、いつか終わる時が来ます。そうなると大変なのが掃き掃除です。バラは軽いからまだ簡単だけど、量の多いモッコウバラが雨に当たった後が大変。重いし、汚いし、濡れて厄介だしで、これが結構大変な作業になるのです。 郵便受けの前に出していた植木鉢は花がみすぼらしくなったため、ゴムの木と入れ替えました。そして野菜に花が咲き始めました。 ジャガイモの花 これはジャガイモですが、元気の良い茎2本を残して、間引きします。おおきな芋を育てるためです。そして小さな熊手で「土寄せ」作業。芋が地上に出ると、青くていがらっぽい味になるためです。 8本のトマトの苗にはがっちりとした支柱を施して、風に揺れないよう他の支柱や木の枝に固定しました。さらに脇芽を摘み、ビニール傘を被せます。トマトは雨が多いと病気になりやすいのです。ユズ エノモトチドリ 左はユズの花です。昨年思い切った剪定をしたので心配していたのですが、たくさんの花を咲かせてくれました。こんなに咲いたのは初めて。恐らく全方向の太い枝を伐採したため、北側の枝にまで日光が差すようになったのでしょう。秋には50個ほど実ってくれるかもね。右は鉢植えのとても小さな花、エノモトチドリで4年目です。放置したままですが、意外に生命力は強靭みたいですね。 春先に苗を植えたジャガイモとタマネギは順調で、1か月以内に収穫出来そうです。残念だったのが写真のキャベツ。良く見ると所々に青虫が食った跡があり。葉が食いちぎられています。懸命に探して2匹見つけましたが、青虫も殺されまいとして必死。カリフラワーの表面にはナメクジが齧った跡。ブロッコリーだけはどうやら無傷みたい。マックス爺の奮闘はさらに続くのでR。<続く>
2021.05.23
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~南島の神話と民俗と歴史~ 南島の夜明け 「日本民俗学の父」柳田國男は、「海上の道」で、日本人の祖先は稲を携え南から島伝いにやって来たと唱えたが、そんな単純なものでないことをこのシリーズでは説いたつもりだ。逆に内地から南島に伝わったことも多いのだ。神話、言語、宗教、文化、食物など多岐にわたる。追補版で記したように、内地と南島の間には古来様々な交流や物流があったことは、考古学上からも文献上からも確認されている。 辺戸岬と安須森御嶽 手前の頂に聖地安須森御嶽(あすむいうたき)がある。その先の辺戸岬(へどみさき)は沖縄本島の最北端。沖縄の始祖はあまみきよ。そして奄美の始祖はあまみこ。どちらも頭に「あま」が付き、海洋民族だったことが分かる。あまみきよが最初に上陸したのが辺戸岬。やはり神は北からつまり内地からやって来たのだ。岬周辺には貝塚が多く、海中洞窟からは土器を発見。かつては陸地で、人が暮らした証拠だ。 浜比嘉島のあまみきよの墓 神は島の東海岸を南下し最南端まで行った。途中にカヌチャベイと言うリゾート地があるが、カヌチャに(神着)を充てているのが何とも示唆的。おもろ市の浜比嘉島には始祖神の墓と伝わる洞窟があり、沖縄勤務当時に訪れたことがある。とても不思議な雰囲気の漂う島で、倭寇伝説もある。「シヌグ」と言う名の伝統芸能があるようだが、私は「凌ぐ」=祖先の暮らしぶりを伝えたものと解していた。 神の島 久高島 次に神が上陸したのが久高島。ここにはクマール御嶽(うたき=聖地)やフボウ御嶽、穀物の種が漂着したと言うイシキ浜があり、琉球王朝の聖地だ。神の島からは一木一草たりとも持ち出し厳禁。二人の祝女(のろ)を頂点とする神行事が盛んで、産卵のために近づくエラブ岩でエラブウミヘビを捕獲出来るのは、のろだけだった。午年(うまどし)に行われた奇祭「イザイホウ」が絶えて久しいが、私は勤務した国立民族学博物館で動画を観た。 受水走水 久高島の対岸、知念岬にある受水走水(うきんじゅはいんじゅ)は沖縄で最初に田植えをしたと伝わる。だが現場は驚くほど小さな湿地。隆起石灰岩で出来、川が短くかつ直ぐに海に流れる沖縄本島に稲作に適した場所はほとんどない。それでは穀物の栽培も無理で、採集生活の「貝塚時代」が内地の平安時代辺りまで続いたのも無理からぬことだろう。やはり柳田國男の説には無理があると思う。 玉城城 沖縄本島南部にある南城市の玉城城(たまぐすくじょう)。沖縄本島では11世紀ごろから各地に按司(あじ=権力者)が起こり、群雄割拠状態だった。砦(とりで)程度のものが多く、やがて北山、中山、南山の3国に落ち着き、最後は中山が統一して琉球王国が成立する。沖縄の城(ぐすく)には大抵御嶽(うたき)などの聖地があった。つまり祭政一致で、敵を負かすために祈った訳だ。 沖縄には古くから「おなり信仰」があった。妹(女)が兄(男)を霊力で助けると言う思想。卑弥呼が「男弟」を助けたのと一緒だ。皇室の斎宮と同源だろう。沖縄では祝女(のろ)やその頂点である聞得大君がいた。国王の姉妹が聞得大君に就任し、王国の神事を掌理した。伊是名島や久米島にも有力な祝女がおり、重要な神事を執り行った。古代日本を彷彿とさせ、内地から伝わったと考えて良いと思う。 左は祝女の装束。首には玉が掛けられ、所々に「勾玉」が見える。右は沖縄県立博物館所蔵品。先端にヒスイかメノウ製の勾玉が付いている。日本では縄文時代に始まった勾玉が、沖縄では琉球王朝が崩壊した後も重要な宗教用具として今日も使用されている。 さて、奄美諸島の喜界島(上)の話に戻る。大城久(おおぐすく)遺跡(中)からは九州南部の陶磁器などが出土している。近辺には製鉄遺跡が存在し、奄美ではかなり異質だ。沖縄本島でも製鉄遺跡は初期の王都である浦添城などに限られる。強大な権力の象徴で、奄美を併合した琉球王国が喜界島を統治するまでさらに200年を要したのも、喜界島が太宰府や九州の有力武家と協力関係にあったと推察出来よう。 尖閣諸島 魚釣島 上は明治時代、福岡の商人古賀氏が尖閣諸島の魚釣島で事業を行っていた際の写真で、那覇市の歴史博物館提供。古賀氏は明治21年(1879年)那覇市に寄留。1882年に石垣島に支店を設立し、尖閣の状況を探っていた。同諸島がどの国にも所属しないことを確認、沖縄県の承認を得て1884年尖閣に職員を派遣した。1895年には自ら尖閣の久場島に赴いて現地視察をしている。 1897年から螺鈿(らでん)の材料である夜光貝の採取、アホウドリの羽毛採取とはく製の製造、肥料となる糞を採取。鰹節の生産にも乗り出し終戦後も続いた。ところが1970年に国連が尖閣周辺の石油埋蔵の可能性を公表すると、中国が領有権を主張し始めた。尖閣諸島は国際法上も実効支配上もわが国固有の領土で論議の余地はない。日中友好協定の締結を急いだ田中角栄が、歴史を知らなかっただけだ。 ユウナの花 さて、奄美大島、徳之島、沖縄本島北部、西表島が世界自然遺産の候補地になることが決定したニュースを聞いて書き始めたこのシリーズ。「補遺版」と合計で9回になった。苦しみの連続ではあったが、我ながら良く最後まで書けたものだ。まだまだ検討不足や書き足らない部分、不正確な部分はあろうが、これを以て最終回としたい。 沖縄本島および沖縄県の島々については、沖縄勤務時代及び転勤後に何度も訪れたため、懐かしい箇所ばかり。これからも訪れる機会があり、さらにブログで取り上げることがあるだろうか。長期間のご愛読に心から感謝し、結びの言葉としたい。どうもありがとうございました。亭主敬白。<完>
2021.05.22
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~より遠くへ 造船技術と航海技術の向上~ 丸木舟 このシリーズで何度も使わせてもらった丸木舟。きっと最初に作られたのは「スンダランド」付近だったのだろう。丸木舟用の木を伐り倒すための磨製石斧や、切った木を刳り抜き人が載る場所を作るための「丸ノミ型が南方で起こり、フィリピンや台湾を通じて南西諸島、九州、そして関東からも出土したことで石器と人が来たルートが分かる。縄文人たちの勇気ある行動が、今日の日本人を育んだと言っても良く、丸木舟は1万5千年以上の歴史を持つはずだ。 つい数年前、日本の研究者たちが台湾東岸の花蓮市付近から日本最西端の与那国島(よなぐにじま)までを木舟を漕ぎ渡る実験をした。漕ぎ手は5名でうち1名は女性。台湾沖の黒潮に流され、2日間かかって無事与那国に到着した。今回は伴船が随行したが、縄文時代は頼るのは自分たちだけだった。 男鹿半島で今も使われている現役の丸木舟 もう一つ私が丸木舟で思い出すのが、秋田県男鹿市の博物館(なまはげ館)で見た丸木舟。素材は秋田杉の大木で、先端は角ばってとても頑丈な造りだった。今も現役の丸木舟は冬の日本海の荒磯でも作業出来るよう頑丈な造りなのだ。とても良い物が見られたと思っている。 舟形埴輪 上は古墳時代の古墳から見つかる「舟形埴輪」。それまでの丸木舟とは異なり、「波切用」の舳先があり、波が入らない高さがあり、片側に6個の櫂(かい)を漕ぐ場所が設けられている。左右12名の漕ぎ手がおり、これに見張り役などを入れれば15名程度が乗り組んでいたのだろう。外洋航海にも耐え、恐らくこの形の船で、朝鮮半島に渡り唐・新羅の連合軍と戦ったと思われる。 遣唐使船 複数の帆を有し、風のない時は漕ぎ手が漕いだようだ。出発点は難波の住吉宮の傍にあった住之江。航路は幾通りかあり、博多から朝鮮半島経由で黄海を突っ切るコースが一般的で、宗像大社の沖津宮(沖ノ島)などで航海の無事を祈った。だが新羅や唐との関係が悪くなると、五島列島を経由するルートや奄美諸島を経由するルートも採られた。だが南方ルートは台風に遭遇して難破することが多かった。 開元通宝 開元通宝は621年に唐で鋳造された銅貨。奄美や沖縄で比較的まとまって発見されるのは、遣唐使が持ち帰ったことに拠るようだ。これを倣ってわが国が鋳造したのが「和銅開宝」または「和銅開珍」と言われるが、わが国最古の鋳貨は「富本銭」(ふほんせん)。十数次に及ぶ遣唐使、遣隋使も律令制度が整ったわが国には不要、航海も危険としてやがて廃止された。私は長崎県福江市三井楽の「遣唐使館」を訪れたことがある。 日宋(にっそう)貿易船 平安時代末期から北宋との貿易が始まる。これを差配したのは大宰府だが、貿易港は博多で、日本海側の良港として敦賀港があった。平清盛は大宰府の次官に任じられたが現地には赴かず、博多港の隆盛を見て大輪田泊(神戸外港)を築造し、宋船を博多ではなく大輪田に直航させて巨利を得ようとした。福原への遷都も企んだが、それが実現する前に源氏に敗北した。 宋銭 鎌倉幕府が自ら貿易することはなく、ほとんどを商人に任せた。このため室町時代以降も、北宋、南宋との貿易はますます盛んで、博多からは坊津(鹿児島)を経由し、南島との交易ルートが開かれた。また琉球王朝が成立して中国との朝貢貿易を開始すると、その恩恵を得ようと南島ルートがさらに南下し、その結果17世紀初頭の島津藩による琉球王朝への侵攻へとつながる。 坊津古図 坊津(ぼうのつ)は東シナ海に面する薩摩(鹿児島)の良港。その地の利ゆえに南島貿易の中継地となり、中国の高僧が渡来して地名となり、密貿易や、倭寇の基地としても潤い、後世ポルトガル人が布教のために渡来する。薩摩藩の重要港となるなど、最先端の文化をいち早く摂取し、大いに栄えた。 倭寇図 中国の沿岸を倭寇が襲撃している。海上では相手の船に綱をかけて引き寄せ、乗り込もうとしてるのだろうか。右手の海岸では上陸した倭寇が地元民と戦っている。激しい倭寇の略奪は、中国や朝鮮などの諸国にとっては恐怖であり、厄介な存在だったことだろう。このため、わが国に倭寇の取り締まりを要請し、南島の喜界島へもその通達が来たのだろう。 上は倭寇が遠征した地域。倭寇は中国が賊に対して呼んだ名称で、正常に貿易出来る際は貿易した。ただし、相手が貿易を拒んだ場合は襲って略奪した。朝鮮や中国の貧しい民が食うに困って「倭寇」を名乗り、自国の沿岸民から略奪することもあったようだ。また明が海禁(鎖国)政策を採ると、貿易が出来なくなった倭寇は狂暴化して行く。 そのような意味で、前記と後期とでは倭寇の行動が大きく変容する。倭寇とは別に公貿易を行う商人も存在し、さらに琉球王朝の貿易ルートとも重なっていたため、倭寇の実態は一層不鮮明なものだった。 倭寇のイメージ 倭寇の基地と称するものが九州一円に数多くある。五島列島は朝鮮半島や中国大陸に向かうには好都合だった。沖縄本島東海岸にも倭寇の基地と伝わる地区があり、日本風の言葉や氏名が多いのはそのせいとする説がある。また第二琉球王朝の始祖となった尚円(しょうえん=金丸)の父親は倭寇だったとか、宮古島には倭寇の基地があったとの説が存在する。 ヤンバル船(マーラン船) 琉球の近海用の船が上のヤンバル(山原)船。マーランは中国風の呼び名だろう。この船で沖縄本島北部地方から材木や薪を那覇に運んでいた。また沖縄には源氏の頭領が王の先祖になったとか、平家の落ち武者が流れ着いたとかの伝説が多く、竹富島の赤崎(平家の旗は赤)集落には「自分たちは平家の末」と書かれていた。きっと今でも祖先を誇りに思っているのだと思われる。 琉球王朝の進貢船 中国の冊封体制下にあった琉球王朝は、定期的に中国へ進貢船を送り、中国からは冊封使船がやって来た。中国にとって貴重な「硫黄」や夜光貝の螺鈿(らでん)細工、日本の刀や蒔絵、朝鮮の南画などは琉球がもたらした。資源の乏しい琉球にとって他国から得た品も貴重な貿易品で、いわゆるバーター貿易だったのだ。 首里城守礼門 こうして最盛期には遠くはシャム(タイ)バタビア(インドネシア)まで出かけた。ただし船は中国が建造してくれ、通訳も世界情勢に通じた中国人が乗り込んだ。琉球王朝栄光の日々。薩摩は貿易の巨利に目を付け、17世紀初頭琉球を侵略。武器の無い琉球は鉄砲を持つ島津にわずか3日間で占領されて服従し、かつて奪った奄美諸島を島津に返還する。この体制が明治後期の「琉球処分」まで続き、中国(明及び清)は琉球が中国と島津に両属していたことを知らないまま。それが中国の誤解に繋がった。<続く>
2021.05.21
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~神話から歴史へ~ 神功皇后「三韓統合図」 第14代仲哀天皇の后である神功(じんぐう)皇后は熊襲征伐が先だとする夫を残して身重の身で朝鮮半島に渡り、三韓を征伐した後帰国して後の第15代天皇となる応神を産んだとされる伝説上の女性。対馬には彼女が朝鮮の前に対馬に立ち寄ったとする伝説が残されている。 岩戸山古墳の石人・石馬 継体天皇21年(527年)、朝鮮半島南部へ進撃しようとしていたヤマト王権軍を阻止しようとして筑紫君磐井が反乱を起こした。いわゆる「磐井の乱」だが、物部氏によって成敗される。彼が埋葬されたとされる岩戸山古墳は長径170mで北部九州最大の前方後円墳。墓には独特の石人や石馬が供えられた。一説によれば磐井は新羅と結託し、王権軍に対抗したと言われる。 古代朝鮮半島の政治体制 天智天皇2年(663年)。新羅(しらぎ赤色)は高句麗(こうくり茶色)を倒すため唐(グレー)と結託して、まず百済(くだら青色)を滅ぼしにかかった。当時任那(みまな薄緑)に拠点を置いていた日本(倭=薄紫)は百済の援軍要請に応えて征夷大将軍の阿倍比羅夫を援軍として送ったが、百済の白江河口で唐・新羅連合軍と戦いわずか2日間で敗戦。任那も新羅に奪われ、日本は半島の拠点を失った。 その経緯について刻した好太王碑文を唐は高句麗(現在の北朝鮮)に建てた。碑文には「倭」の文字が十数か所刻されているが、後に朝鮮人によって字を消されるが、拓本が中国に残ってたため今も判読が可能だ。勝利した新羅は朝鮮半島を統一し、滅んだ高句麗の故地には渤海(ぼっかい)国が興り、わが国と親交を結んだ。 大宰府政庁(復元) 唐の日本への襲来を怖れた天智天皇は都を難波から近江へ遷都し、大宰府を強化、水城(みずき)を構築して防備を固め、逃げ城としての大野城を背後に設け、九州北部に全国から防人(さきもり)を派遣した。また瀬戸内海から難波に到る地域に逃げ城を設け、対馬には金田城(こんたのき)を置いた。その後、航路が不安定などの理由で、遣唐使が中止された。日本が初めて迎えた国際状況緊迫化時代だった。 日本書紀 史書に南島のことが出て来るのは奈良時代に編纂された「日本書紀」が初見だが、多彌(たね=種子島)、夜久(やく=屋久島)、海見、阿麻美、奄美(あまみ=奄美大島)、貴駕(きか=喜界島)阿児奈波(あじなは=沖縄本島)、久美(くみ=久米島)、信覚(しかく=石垣島)などの名称が散見できる。朝貢と言うよりは舟が難破して漂着し、都に連行されたのではないか。ただし、種子島には、同島と屋久島を領地とする「国府」が一時期置かれたことがある。九州本土に近かったため、早めに律令体制に組み込まれたのだろう。また中国の史書である「隋書」に琉球の名も見え始める。 喜界島城久遺跡 面白いのが喜界島。奄美諸島でもっとも東北部に在り、薩摩、大隅に近い。そのせいか、どうも比較的早い時期から大宰府の下部組織として機能していた形跡が窺われる。後に「倭寇」が九州北部を荒らし回った際、南島の南蛮人を取り締まるよう喜界島にも通達が来たことが史書に載っているようだ。 <夜光貝> <螺鈿細工の柱> <平泉金色堂内部> さて、縄文時代から古墳時代まで日本列島の住民に珍重された、南方のイモガイ、ゴホウラ貝、スイジガイ(水字貝)はその後装飾の趣向が変わったのか、他の素材が出現したためか、需要がなくなった。それに代わって内地に運ばれたのが一番左側の夜光貝だ。これは螺鈿(中央)の素材となり、匙(さじ)や酒盃に加工された。螺鈿細工で有名なのが奥州藤原氏が建てた金色堂内部のもので、豪華絢爛そのもの。 こうしてやがて沖縄の島々まで次第に日本の貿易体制に組み込まれて行く。他にも言語や宗教、独自の歴史と文化交流について述べたいのだが、今回はこれまでにしたい。ご愛読に感謝しつつ。<続く>
2021.05.20
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~移動と定住と交流について~ <旧石器時代人> <縄文人> <弥生人> 日本人の祖先となった人たちの顏だ。旧石器時代の人で頭蓋骨が見つかっているのは沖縄県だけだから、これはその骨から復元したのだろう。それは縄文人も弥生人も一緒。縄文人は旧石器時代人の風貌ととても良く似ている。 これに対して弥生人は顔が長くて鼻は低く、瞼は一重で体毛が薄くて明らかに先の二人とは異なる。日本列島へは一番遅く中国大陸や朝鮮半島経由でやって来た人種。これらの特徴は北方系であることの証明。眉毛やまつ毛などが凍傷にかからないよう薄く、鼻は取り込んだ冷たい空気を温めてから肺に送るため、副鼻腔が広がり顔が扁平になる。彫りの深い顔立ちの前二者とは明らかに異なる。 縄文人と弥生人は徐々に婚姻関係を強めて行く。稲作が盛んだった九州北部から西日本一帯の混血が進んだのに対して、縁辺部の北日本、九州南部、南西諸島では両者の混血が遅れたために、縄文人の特徴を残した人が多かったのだろう。より一層混血が進んだ現代日本人のDNAは、両者の特徴を未だに保有している。 北谷伊礼原遺跡出土土器 沖縄県北谷町(ちゃたんちょう)にある伊礼原(いれいばる)遺跡は縄文早期(約7千年前)から縄文晩期までの複合遺跡で、国の史跡に指定されている。なお、沖縄の歴史は日本の時代区分と呼び名が異なり、「縄文時代」に当たる「貝塚時代が」、日本の平安時代辺りまで続いている。 左は熊本の曽畑式(そばたしき)土器で、右は鹿児島の市来式(いちぎしき)土器で、いずれも沖縄県内の遺跡から出土した縄文土器。熊本や鹿児島の人が沖縄に住んだのではなく、移動した人が持参したものだろう。なお、宮古島以西の先島、八重山地方からは弥生式土器が出土している。そこまで九州人が移動した理由がきっとあるに違いない。 左からイモ貝、ゴホウラ貝。これらは南西諸島の海で採れる貝。そして一番右はそららの貝で作った釧(くしろ=腕輪)。日本では縄文時代から古墳時代辺りまでこの貝の腕輪が装飾品として珍重された。そのため後に「貝の道」と呼ばれる洋上のルートが存在した。当然何(十、百)人もの人が丸木舟を「漕ぎ継いで」南方の島々に土器を運び、その代わりに南島の貝を入手したと考えられる。そして苦労して得た南海の貝は、他の地方へとさらに分布したはずだ。黒曜石の採取もそうだが、驚くべき航海術と忍耐力だ。 さて上の縄文土器が発見された場所が朝鮮半島と聞いたら、皆さんはどう思うだろう。縄文時代から半島と日本列島との交流があったと考える人もいるだろう。だが私はそうは考えなかった。南島の貝のように交換するものがあれば別だが、その時代に朝鮮半島から日本に持ち帰ったと考えられる物はない。 さて前に書いたように、隠岐の島産の黒曜石がロシアのウラジオストック周辺から発掘されていることを考え合わせると、多分当時の縄文人は彼の地に定住していたように思える。理由は朝鮮史の中で約5千年間ほど空白の期間があると聞く。縄文人が朝鮮半島の各地にいたことを歴史書に記すことが出来なかったのだろう。また百済国の域内からは「前方後円墳」が10基以上発見されているが、韓国人はそれを不都合と考え、重機で幾つかの墓の形を変えてしまった。日本起源のものが朝鮮半島にあっては不都合なのだろう。歴史の捏造は、彼らのもっとも得意分野だ。 しかしなぜ縄文人は朝鮮半島や極東ロシア周辺にまで行ったのか。1)当時は国境がなかったから。2)食料を求めて。でも食料は十分あったはず。日本は四方を海に囲まれ、魚介の入手は容易。それに栗やトチの実、山野の動物も少なくはなかったし、数種の穀物などの栽培も既に行われていて、朝鮮半島へ渡る理由にはならなかったと思われるのだ。 ほかに考えられる理由は、鬼界カルデラ、姶良カルデラの巨大爆発や、阿蘇山、雲仙岳、桜島、霧島山などの相次ぐ噴火で絶滅の危険を感じた九州の縄文人が朝鮮半島に逃げたと考えるのはどうか。そんなことを言う人はいないし学説もないが、ど素人の空想と笑わば笑え。しかし、「明石原人」や「葛生原人」はその後、一体どうなったのか。マックス爺の苦悩と妄想はさらに続くのであった。<続く>
2021.05.19
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~日本人と稲が来た道~ 字が薄くて良く見えないが、人間の祖先がアフリカで出現した後地球上にどう拡散したかが上の図。薄い矢印は現生人種の「ホモサピエンス」。すると濃い矢印は「原人」かも知れない。ジャワ原人や、北京原人が良く知れらている。やはり日本列島へのルートが幾つかある。そして日本列島に現生人類が来た年代は「4万年前」のようだ。 デニソワ人 ネアンデルタール人 左はデニソア人で右はネアンデルタール人。彼らは現生人類が出現する前に滅び、主にヨーロッパで暮らして後者が前者を絶滅したと考えられて来た。ところが両者には婚姻関係が認められ、その後ユーラシア大陸を移動したと考えられるようになった。そしてわが日本人の遺伝子の中にも、彼らの遺伝子がごくわずかだが残っている由。彼らと婚姻関係があった遠い先祖が、日本列島へやって来たのだろう。 さて、中央アジアの民族の伝承には、我々の祖先のうち魚が好きな者は東に向かって日本人となり、肉が好きな者はここに留まってカザックになったと言うのがある。さてデニソワ人の中にはヨーロッパからスンダランドに来た者もいたみたいで、ミクロネシアなどの人々に金髪の人がいるのは、デニソワ人の遺伝子が残るためとも言われるようだ。 現代人のDNAに関する模式図。太い実線であればあるほど近い関係であることがわかる。それによれば本土日本人と中国人。琉球人とアイヌの遺伝的な関係性は少ないと考えられているようだ。 これは遺骨(先祖)のDNAによる関連性。左上の東北の縄文人は、東北の弥生人とDNA的には離れている。つまり婚姻関係が乏しく混血は少ない。現代日本人は渡来系弥生人とDNAの特徴が似ているが、現代韓国人や現代中国人とは似ていない。 少し見難いが、図を見てみよう。長江(揚子江)中流域で起こったイネが西の「熱帯半月板)に向かっている。中国山東半島周辺で起こった稲は「温帯ジャポニカ」(中国の河姆渡遺跡で発見され、種の起源とされた)は、直接日本列島にむかっている。一部は朝鮮半島や済州島に近づき「カーブ」している。かつて日本の米は朝鮮半島経由でもたらされたとされたが、今では否定されむしろ日本から半島に向かったとの説もある。 一番下に南西諸島経由での本列島に向かう矢印がある。柳田国男の「海上の道論」に近いと考えられ、熱帯ジャポニカと注記されている。どうも私たちが現在食べている品種とは異なるみたいだ。 左上は水稲の2種。左側のインディカ種は長粒米(ちょうりゅうまい)で、インドやタイで多く作られている。その右のジャポニカ種は粒が短い短粒米だが国内で生産しているのは温帯性のもの。右の茶碗よそってあるのは古代米。「古代米」には「赤米」、「黒米」、「青米」などがあるがいずれも商品名であり、正確な品種ではない。以上は全てさらさらした食感の粳米(うるちまい)で、もちもちした食感の餅米とは異なる品種だ。 傾斜地での陸稲栽培(タイ) 粟(アワ) 稗(ヒエ) さて左上はタイの陸稲。陸稲とは水田ではなく畑で育てる稲のこと。水田耕作にはそれなりの環境が必要だ。ところが山地では平らな場所が乏しく水利も不便。そこで斜面の畑に種を蒔き、天然水の雨に頼る。もしも痩せた土地なら、焼き畑で林を燃やし灰を肥料代わりにする。日本の稲作は長らく弥生時代からとされて来たが、今では縄文時代から行われたとする説が出ている。当然焼き畑が考えられ、陸稲のほかにアワやヒエの栽培もあっただろう。東北では栗や漆、エゴマ、苧麻(カラムシ、ちょま=衣服の原料)の栽培例も見られる。 土井が浜遺跡人の復元図 さて、稲作が縄文時代に遡ると共に、押し出される形で弥生時代の開始が千年から1500年ほど遡ると考えられるようようになった。戦後からさほど経っていない昭和28年(1953年)九州大学医学部の金関教授が、山口県の土井が浜遺跡から弥生人骨を発掘した。発掘調査はその後も続き、全部で300体ほど発見された。遺体は全て頭を西に向けていたと聞く。 きっと彼らは籾を携えて西から来たのだろう。響灘さらに玄界灘の彼方には彼らが出発した中国の山東半島がある。籾を持った移住者たちは日本の稲作文化隆盛に貢献した。彼らは死に際して故郷を向いて葬るよう懇願したのではないのか。さて、後来の弥生人は先住民である縄文人とどう「折り合い」をつけたのだろう。 稲を刈る神官 西日本から東北の縄文土器が発見されるのは、東北の縄文人がわざわざ稲作を教わりに来た証拠との説も聞いたが、事実はどうなのだろう。稲作地帯の前進と異民族との結婚は、日本神話の「国譲り」や「神武東征」を私は思い浮かべるのだが。<続く>
2021.05.18
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~日本人はどこから来たか~ 柳田國男 昭和27年雑誌「心」に、後に「日本民俗学の父」と呼ばれた柳田國男が「海上の道」と題する論文を載せた。東京帝国大学の学生だった頃、愛知県の伊良湖崎の海岸に流れ着いた椰子の実を観て受けた、日本人は黒潮に乗って南から米を携えてやって来たとの「素朴な空想」からのものだった。そのイメージがやがて小学唱歌「やしの実」になったと言う。 柳田國男の著書 「海上の道」は研究者たちから猛烈な批判を受けた。それは当然だ。考古学、日本古代史、言語学、宗教学、文化人類学などの観点からの考察がないのだから。その後研究と考察を重ね、かなり緻密な論考を発表し、彼の全集にも収載された。彼の論考は大筋では間違っていないが、十分とは言えない。そして彼の主張は関連分野研究の進展によって、補足されて行く。学問とはそういうものだ。 古生物が辿った道 上は氷河時代の日本列島のイメージ図。ナウマンゾウやアケボノゾウ、イリオモテヤマネコ、アマミノクロウサギ、ツシマヤマネコなどが、当時は大陸とつながっていた樺太や朝鮮半島、現在の中国方面から直接、そして一時期つながっていた西南諸島を通じて「日本」へやって来た。当時の日本海は大きな湖のようで、津軽海峡がわずかに開いていた。日本人の祖先もそれらの獲物を追って「日本列島」へ遅れてやって来たのだろう。もうその時は大陸から切り離されていたかも知れない。 最古の人骨 これは沖縄県石垣市の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した人骨。2016年までの研究で、2万7千年前の旧石器時代のものと判明。国内最古の人骨で、身長は165cm。全部で19体が「埋葬」されていた。この時代のまとまった人骨としては世界最多。DNA分析で、インドネシア人と近い特徴を持つことが分かっている。この遺跡は新石垣空港の造成工事中に発見され、今も滑走路の下にある。 上は那覇市にある山下町第一洞穴とそこから出た人骨で、洞穴そのものは3万6千年前の遺跡と言われる。また南城市の港川フィッシャー遺跡からも人骨が出ている。沖縄県で古い人骨が発見される理由は、石灰岩地質で骨が融けずに残るからで、日本列島は火山灰の酸性度が高いため、骨が融けて残らないのだ。私は沖縄勤務当時山下洞穴を訪れた。昨年30年ぶりに行ったが、開発され昔の雰囲気がすっかり消えていた。 奄美大島 そのほかの古い遺跡としては鹿児島県奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡が2万5千円前のもの。徳之島の天城遺跡は3万年前のもの。沖縄県南城市のサキワタリ洞遺跡からは2万1千年前~1万3千年前の釣り針が発掘されており、これは世界最古の釣り針だそうだ。旧石器時代の古い遺跡が南西諸島に集中していることに驚く。 こうして見ると藤村新一が起こした「偽石器事件」は酷かった。彼は北海道で「偽石器」を予め土に埋めているのを毎日新聞の記者に目撃され、それまでの「成果」が嘘だったことがバレた。15万年前、20万年前、30万年前と遡り、最後は60年前の石器発見と発表。彼の「発掘」を信じて「市町村史」を出版した自治体は数知れない。宮城県内の「馬場壇遺跡」や「座散乱木遺跡」の名を今もまだ覚えている。あの事件で、日本の旧石器時代研究はすっかり狂った。きっと30年間以上の空白だろう。 磨製石斧 これは双刃石斧(そうじんせきふ)と呼ばれ、刃は裏表で使用され、さらに磨製(ませい)であるため、切れ味は鋭い。5千年前のもので、東南アジア、中国沿岸部、沖縄から南九州まで同じ形のものが出土している。これは生木を伐るのに使用する。用途は家の木材や丸木舟とするための伐り出しだ。木の「柄」にこの石斧を縛って固定し、木を切り倒した。 左上は「丸ノミ形石斧」と呼ばれる石斧で、インドネシア、西南諸島から日本列島、東京の新宿の縄文遺跡からも出土したのを知っていた。右上は今回知った「桁ノ原型石斧」(けたのはらがたせきふ)と呼ばれ、長崎県の五島列島から沖縄本島にかけて出土している。どちらも用途は材木を刳り抜くためで、内側がカーブしている。それで丸太を刳り抜いて丸木舟を作った。 丸木舟は海を渡るために必要だった。なぜ縄文人たちが海を渡ったか。危険を冒してまで欲しい物の筆頭が左下の黒曜石(こくようせき)。火山性でガラスのように鋭利。それを打ち欠き、右の鏃(やじり)や槍の穂先を作った。 五島列島から出土の黒曜石は、佐賀県の腰岳(こしだけ)産。関東出土の物は伊豆七島の神津島産。青森の三内丸山遺跡の物は、北海道旭川付近の産。そしてロシアウラジオストック出土の物は、日本の隠岐の島産。いずれも丸木舟を漕ぎ、海を渡ったのだろう。人間は30kmの間に見えるものがないと不安を抱くらしい。だから縄文人たちは必死だったと思う。<続く>
2021.05.17
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<a)沖縄の火山島> まずは昨日の続きで火山島の話から。でも鹿児島県の分は終わって、今日は沖縄県。上の図はその火山島の位置で、赤い矢印で「ここです」と書いてある。ところが右側(東側)に鹿児島県とあるのになぜか沖縄本島はずっと南にある。それでもここは沖縄県。つまり「飛び地」なのだ。島の名は硫黄鳥島。その島名にヒントが隠されているが、さて分かるかどうか。 上の図は島を上空から見たもの。島には円形の地形が大小3か所以上ある。火山の火口のようだが、色は白い。ここはかつて硫黄を採掘した場所だが今は無人島。島の住所は沖縄県島尻郡。沖縄本島の最南端の郡なのが2つ目の謎。実は昭和34年(1959年)の噴火時に島民全員が避難したのが久米島で、そこが島尻郡だったため。久米島の泊集落の一部に「鳥島」の地名をつけた。私は70歳の時に「久米島マラソン」(フル)を走ったので、集落の風景を今も覚えている。偶然だが楽しい思い出だ。 崇元寺石門 これは那覇市安里にある崇元寺の石門。去る大戦で破壊され、後に復元された。琉球王朝時代、硫黄鳥島で採掘された硫黄はこの寺の隣の「硫黄蔵」に収容された。かさばるため精製されたが、王国の首都で硫黄を精製したら発生した有毒ガスで困っただろうが。実は硫黄は中国に貿易品として送る貴重品。火山のない中国で火薬の原料の硫黄は採れず、琉球に頼っていたのだ。 恐らく300年間は中国のために採掘されたはず。そんな歴史から明治以降も沖縄県に編入されたのだろう。なおこの石門の前を戦前は軌道車が走っていた。路線は4つあり、いずれも人とサトウキビを運んでいた。いかにも南国らしい話だが、現在では那覇市と浦添市を結んでモノレールが走っている。 久場島 久場島は尖閣諸島の一つで沖縄県所属。明治期には人が住んで仕事をしていた。そのことは後日改めて書くが、今日はこの島が火山島であることだけ紹介したい。良く見ると丸くくぼんだ地形が2か所見える。恐らくは火山の火口痕だと思われる。そのほか西表島の海中にも気泡を生じる場所がある。きっと海中で熱水が湧いているのだろう。<b)氷河期の「日本列島」> さて上の図は氷河時代(約200万年前~1万年前)の地形の様子。現在のインドネシアとボルネオ島は陸続きで「スンダランド」と呼ばれ、アジア大陸にも繋がり、台湾から日本へと緑色の陸地だったことが分かる。その途中に飛び出て「琉球弧半島」と書かれた箇所がある。南西諸島と日本列島は完全につながっておらず、以前記した生物学上の境界線になった。 「スンダランド」の東側には、オーストラリアとニューギニアと陸続きの「サフールランド」と呼ばれる大陸があった。海が凍ったため海面が低下して陸続きになったのだ。なお2つの大きな大陸の間には「小スンダ列島」があるため、人類が割と簡単に移動して行った。オーストラリアの原住民のアボリジニ、ニュージーランドの原住民のマオリ族、ミクロネシアの人々などだ。 下田遺跡出土土器 上は沖縄県波照間島の下田遺跡から出土した新石器時代(縄文時代)の土器で、インドネシアや台湾の土器の特徴があると言われている。陸続きになって人類が移動し易くなった影響だろう。日本最古の石垣島の人骨(3万5千年前)のDNAがインドネシア人の特徴と似てるのも同じ理由。なお、同遺跡からは西表島にしか生息しないイノシシの骨が出ており、縄文人が丸木舟で行き来していたことが分かる。毎回専門的な楽しくない話で済みませんが、私の好きな分野なものでつい。ではまた明日。<続く>
2021.05.16
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~海中の火山~ 2018年11月14日午前0時44分。桜島は南岳火口から噴火した。噴煙は4千メートルに達したと言う。私たちはかつて学校で火山の種類を死火山、休火山、活火山の3種と習った。その区分だと桜島は当然活火山。今も激しい火山活動を呈している「現役」の火山だ。桜島は阿蘇山、霧島山、開聞岳そして東シナ海に浮かぶ南西諸島の硫黄鳥島まで続く「霧島火山帯」に属している。 姶良カルデラ 今日のサブタイトルは「海中の火山」。意外に感じる人がるかも知れないが、桜島は陸地とは繋がっていても、れっきとした海の中の火山。上の図は直径約20kmの姶良(あいら)カルデラ。鹿児島湾の最奥部は丸い形で赤線の外輪山が残る。なお「霧島カルデラ」が中にあり、二重のカルデラになっている。 海の中にカルデラがあるのは、かつてそこが火山活動の「現場」だったからだ。「たぎり」と呼ばれる火山性ガスの気泡が出る箇所があるのもそのせいだ。さて、最初の噴火は約3万年前の旧石器時代に桜島付近で起こり、噴出源から半径90kmの範囲が火砕流で埋め尽くされた。また火山灰は南九州で厚さ30m、高知県宿毛市で20m、京都で4m、関東でも10cm積もったようだ。それは地面を掘って調べると、いつの時代のどこの火山灰かが分かるのだが、それにしても物凄いエネルギーだ。 姶良カルデラの名前も初めて聞いただろうが、次に紹介する「鬼界カルデラ」もきっと初耳だと思う。場所は鹿児島県の種子島の西側で屋久島の北側の東シナ海の中。左の地図の赤い丸で囲んだ場所。海の中なので分からないと思うけど、外輪山が「竹島」と「薩摩硫黄島」として残っている。「鬼界」の名は平安時代の僧俊寛らが流された島が「鬼界が島」とされたからだが、奄美には「喜界島」があって紛らわしいため、最近は「薩摩硫黄島」に改めた由。 海中の「鬼界カルデラ」 人工衛星からの撮影と船による洋上からの観測で得られた海中の姿が上の図。直径が32kmもある世界最大級のカルデラが海中にあるが、死んではいない。巨大な溶岩ドームが立ち上がり、「マグマ溜まり」があることも分かっている。海中から火山性ガスの気泡が出ている。まさに鹿児島湾と同じ構造だ。 鬼界カルデラからの火砕流と降灰の範囲 分かりにくいが上の図は、ピンクが火砕流が及んだ範囲で、オレンジ色の降灰は東北地方にまで及んでいる。先史時代以前に超巨大噴火を複数回起こし、約7300年前の噴火は、地球最大級規模だったようで、その火砕流で九州南部の縄文人は絶滅したと言われていた。高温の溶岩が海を埋め尽くして九州の海岸まで行くのだから、その量と立ち上る水蒸気の凄まじさをつい想像してしまう。 霧島市上野原縄文遺跡 ところがである。その説を覆す発見がされた。時は昭和61年(1986年)、所は霧島市(当時は国分市)。工業団地を造成中にとんでもない遺跡が発見されたのだ。何重もの地層の4層目は桜島の火山灰で縄文晩期だと判明。さらに掘り進めて9層目と10層目の境が縄文早期前葉の地層。そこから日本列島最古の大規模定住集落跡地が発見されたのだ。 鬼界カルデラ外輪山の一つである薩摩硫黄島 ことの重大にさに気づいた調査団はそこで発掘を中止して埋め戻した。そして現在は当時の住居跡を再現した縄文の森となり、展示施設を設けた。背後の海は鹿児島湾だろう。すると現地は小高い丘のようで、このため鬼界カルデラの火砕流に飲み込まれなかったのだろうか。 上野原遺跡から出土した土器 上は、同遺跡から発掘された7500年前の土器。分厚くて模様の無い不器用な土器だが、そのために破損を免れたのかも知れない。そして皮肉にも、幾層にも亘って降り積もった桜島の火山灰による「シラス台地」が地下の埋蔵品を守り、その後の開発を防いだのかも知れない。縄文は東北が最高の文化を誇っているとされて来たが、大規模定住はここが暮らし易かった証。多分日本の考古学史を書き変える発見だろう。 上野原遺跡出土土器 考古学は面白い。単なる空想ではなく遺物を通じて、その時代の人の暮らしが明確に分かるからだ。私はこの遺跡の名前は知っていたが、実態は知らなかった。こうして困難なテーマに挑み、ブログを書くためネットで調査することで新たな知見を得る。何と言う果報だろう。同遺跡はその後国の史跡に指定された由。昨晩、200万アクセスを達成した。今後も元気で頑張りたい。読者の皆様に感謝だ。<続く>
2021.05.15
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~暮らしとニュースの補足~ 新型コロナへのワクチン接種が気になって、市のホームページを確認した。仙台市が「蔓延防止」から除外されたたため、何か動きがないか調べた次第。すると高齢者への個人接種をいよいよ17日から受け付けるらしい。そこで接種場所はどうかと思ったら、いつも通院してる内科で可能なようだ。そして接種開始は5月末日から。17日に早速メールで申し込もうと思っている。 久しぶりにカレーを作った。冷蔵庫の中がかなりスカスカになっていた。それはそうだ。3食とも家で食べているのだから。今ある食材で何が作れるかと考えて下した結論がこれ。調味料にも一工夫して、飽きない味にした積り。加えて、暑くなるこれからは食べ物が傷みやすくなる。そこで味の濃いものにした次第。問題は太り過ぎ。つい何でも美味しく食べてしまうのでねえ。 地元紙のオンライン版ニュースに、蔵王連峰の宮城県側に「種まき坊主」が現われたとの記事を見つけた。なるほど。そう言われて見れば、杖を突いた爺さんが右を向いて立っている。右上はその拡大図。昔はこの「雪形」を観て農業を始める目安にした。俳句の世界で「雪形」は春の季語。4月は中止となった俳句教室も、今月は開かれるはず。そろそろ私も宿題を考えねば。 岩手山の「大鷲」 同じ雪形でも岩手山の「大鷲」は残った雪の形ではなく、消えた形。山頂に悠々と羽を広げた黒い大鷲がくっきりと映えている。これを教えてくれたのが岩手のブログ友だったニッパさんだった。ブロ友「だった」と言うのは、彼が数年前にがんで亡くなったため。彼と盛岡駅で待ち合わせし、志波城歴史公園などを案内してもらったことが、懐かしく思い出される。彼を偲んで一句。 雪形の大鷲舞ひて南部富士 雪形や小波立てり麓の田 *さざなみ 先日「北極航路」の開発のことをブログに書いたが、その後新たな事実が分かったので若干補足しておこう。ヨーロッパから日本までを通常のルート(黒線)で来るよりも、もし北極海ルート(赤線)を使って日本へ来た場合は約7千km距離を稼げることが判明。当然中国や韓国も同様のメリットがある。そしてその際ほど良い寄港地になるのが右図の中央にあるグリーンランドだ。 左上のグリーンランドはデンマーク領だが、現地は自治政府が統治し、全世界の国の投資を受け入れている。最近は分厚い氷床が溶けて鉱山が開発され、中でも中国は莫大な投資をして「レアメタル」を採掘してるそうだ。レアメタルはIT産業には不可欠の金属だが、中国が世界の8割を製品化してほぼ独占中。 今回の選挙ではスエーデンからの独立を目指す会派が、開発を抑制する会派に敗れて少数派になったが差はわずか。中国の動きを警戒したトランプ氏は、開発抑制派をてこ入れしていたそうだ。極限の北極圏で、激しい戦いが繰り広げられていることを思い知らされた思いだ。 横浜の個人宅から5月4日に逃げたアミメニシキヘビは、どうやら13日現在まだ捕まってないようだ。普段は檻で飼っていたが、その日は換気のため窓を10㎝程開けて出勤したとか。長さは3.5mで直径は10cm。無害ではあるが、人間が巻かれたら、その圧力で死ぬこともある由。沖縄の楽器三線(さんしん)に張る皮は、このニシキヘビのもの。飼い主は許可を得ていたようだが、生餌は一体何だったのだろう。もしカエルやネズミだったら、きっと大変な数だろうね。 シュンラン(春蘭) さて、わがブログが間もなく200万アクセスを達成する運びとなった。楽天ブログを開設したのは14年前の5月末。当初はそれまで利用していたブログの不具合で止む無く0から開始した、連日文章だけ1万文字近い味気ないもので、来客はランニング仲間がほとんどで、1日平均100名ちょっとだった。 古代ギリシャのマラソン 写真を載せられるようになったのは7年前。それで印象が変わったのかアクセス数も増えた。ただ長い間には亡くなったり、病気でブログを閉じられた友もおられたりと、たくさんの出会いと別れがあった。現在のブログ記入率は98.3%。1日平均のアクセス数は400件近くまで上がった。これも飽きずに来訪される読者の皆様の7お陰と心から感謝し、今後ともより充実したブログとなるよう努力したいと存じます。先ずはご報告方々御礼まで。亭主謹白。
2021.05.14
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~「世界自然遺産」への登録に向けて~ 南西諸島 かなりボケているが、鹿児島(右上)から台湾(左下)まで連なる南西諸島の島々。冒頭にこんな地図を載せたのは、奄美大島、徳之島(鹿児島県)、沖縄本島のやんばる地方、西表島(沖縄県)が近くユネスコの「世界自然遺産」に登録予定なのを知り、これらの島々をブログの話題にしようと考えたのだ。 左の地図は鹿児島県の薩南諸島で、右は屋久島の南西に位置する口永良部島で、煙を上げているのが新岳。有史以前からつい最近まで、ひっきりなしに噴火を繰り返している火山。平成、令和になっても噴火と地震が起きて、時々ニュースになる。地図の左側上部(西側)に続く島々がトカラ列島で、十島村に属している。最近のコロナ騒動で、鹿児島からフェリーでワクチンを運び、7つの島民に無事注射出来たことが話題になったばかり。 この列島の宝島とその右(東)にある悪石島との間に生物学上の境界線「渡瀬線」がある。ここは海深が千mあり、南西諸島と九州が一度も繋がってないためここを境にして動植物の生態がまったく異なる。津軽海峡の「ブラキストン線」と同様だ。 さて、奄美大島(上)と徳之島にしかいない固有種が右のアマミノクロウサギ。国の天然記念物だが、かつて大陸とつながっていた時代にアジアから渡って来たもの。その後隆起と沈降を繰り返して、島に閉じ込められた「生きた化石」となった。耳、尻尾、手足が他のウサギに比べて極端に短いのが特徴だ。 左上は奄美大島の最高峰である湯湾岳(ゆわんだけ694m)から見える焼内湾の「あまみブルー」。右上は湯湾岳にある神社。沖縄の始祖神はアマミキヨ(アマミク)だが、奄美の始祖神は(アマミコ)。奄美はかつて記紀に「海見(あまみ)」と記された。九州南部の「海部(あま)族」だったのだろう。縄文土器が沖縄に渡来してることも含め、沖縄の神と神話がどこから来たかが窺える。ただし琉球王朝時代の1458年に、奄美諸島は琉球王朝の支配下に入り、その150年後に再び島津藩に奪還される。 沖縄本島北部の山原(やんばる)には豊かな森(左上)があり、琉球王朝時代から戦前までは、薪や木材を山原船で那覇や首里に運んでいた。第二次世界大戦の激しい沖縄戦でも大きなダメージを受けず、今日まで動植物の貴重な固有種が保たれている。右上は良い香りを放つイジュの花。ヤンバルテナガコガネなどの昆虫や、ノグチゲラなどの野鳥が棲む森でもある 天然記念物のヤンバルクイナ(左上)やセマルハコガメ(中央)を守るための道路標識を設置し、道路を動物が潜り抜けるためのトンネル、また落ちても登ることが出来る側溝を作って貴重な動物を保護している。飛べないヤンバルクイナの天敵であるマングース(右上)を捕獲する檻(おり)を設置するなど自然を守る活動を展開して来た。それらの活動が「世界自然遺産」指定に繋がったのだろう。 左上は奄美大島、徳之島、沖縄本島のやんばると共に「世界自然遺産」に指定候補の西表島。右は同島の固有種で天然記念物のイリオモテヤマネコを守るための道路標識。普段は深い森の中にいるが、夜道路に飛び出して車に轢かれる事故が増えている。餌にしているイノシシの子供のウリボウが減ったことも、個体数が増えない理由だ。この島には近畿大学と龍雄大学の研究施設が別個に置かれている。 日本国内でこれまでに「世界自然遺産」に登録されたのは、知床半島、屋久島、白神山地(秋田・青森)、小笠原諸島。私は白神山地は訪れ、知床半島は観光で行って走った。私の国内ランニングの最北端と最東端が知床。北海道は色んな箇所を走り、キタキツネ(上中)やエゾシカ(右上)と出会った。そして国内で走った最西端と最南端が西表島だった。ここでは水牛や蝶々のアサギマダラと出会った。 沖縄本島 奄美大島は行ってないが、上空から何度か見た。沖縄に勤務し、旅したお陰で南西諸島の上空を70回は飛んだだろう。地図も好きだしフライトマップ(航路図)も見るので、島の形を見れば大体どの島か見当がついた。そしてブログを書くためにネットで検索し、その地の歴史や文化を改めて知る。楽しみにもなり有難いことだ。なお走った最東端はシドニーで、最南端はメルボルン。出張の際ランニングシューズを持参したのだ。各地で走った思い出が増え、走破距離は42年間で10万km以上。地球3周目に入っている。
2021.05.13
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~山ウドと冷やし中華~ ゴムの木 ある朝思い切って植木鉢を全部外へ出した。その日は気温が23度になるとニュースで聞いた。それならもう出しても大丈夫と判断。ハイビスカス、シコンノボタン、クジャクサボテン、シンビジウム、クンシラン、シャコバサボテンなど全部で15鉢ほど。水やりをし、家の中を全部掃除した。特に居間は広くなった。小さな電気ストーブもついでに片付けた。 タマネギ タマネギはかなり玉太りが進んだ。これは昨年の秋に苗を植えたもの。さほど手間もかからず、ほぼ放置状態。間もなく収穫し料理にも使える。そうなれば当分買う必要がなくなる。3月に植えたジャガイモはかなり茎が茂って来たので、もう少ししたら元気な茎を2本残し、後は間引きする予定。収穫は来月後半ころ。そうなればジャガイモも当分買う必要が無くなる。 左上はキュウリ。4本植えたが、うち1本は強風で茎が折れた。右上はトマト8本。他にミニトマトが2本。下はゴーヤ(3本)。気温が高くて乾燥するため、いずれも朝夕の水やりが欠かせない。そのうちに仮の支柱、本支柱、ネットなどを苗の成長に合わせて施す必要がある。3株あった10年物の雲南百薬を掘り返すと、根茎部がかなり腐っていた。凍った箇所から腐食が進んだようだ。その部分を切り取って再び土に埋めたが、もしも発芽しない場合は、モロッコインゲンの種を蒔く予定。 一番左の青シソは昨年の晩秋に適当にばら撒いた種が発芽したもの。もう10年近くわが家の畑で生き続けている。真中はサンショウ(山椒)。恐らくは鳥の糞に混じっていた種が勝手に発芽し、育ったものもで高さはまだ15cmほど。春になって葉が出て山椒と判明した。鳥が良く庭に遊びに来るため、数年に1度はこんなことが起きる。右は百合の芽だが、種類は不明。私が2年ほど前に庭の各所にばら撒いた種が芽吹き、それ以来毎年春先に芽が出る。こんな贈り物も、可愛いものだ。 山ウド 園芸店で安売りしてた山ウド。「むろ」で育った真っ白いウドと違って、野原で育った「天然もの」は香りが強い分、堅くて筋が多い。茹でてマヨネーズを付けて食べたり、ピクルスにした。気温が急上昇すると体調が変わる。布団や服装に要注意。風呂のお湯の温度を1度下げ、シャワーを初めて使用。パジャマを冬用から夏用にし、シャッターは閉めずにカーテンだけにしても、寒くなくなった。 特に暑い日の昼食は、冷やし中華が食べたくなる。そこで今季初めて冷やし中華を作った。パソコン机の足元を温めた小型の電気ストーブは仕舞った。コロナ自粛の運動不足のためか、このところ体重が急上昇中。これはヤバイねえ。もっと気を付けないと。 兄嫁から電話があり、コロナ自粛の折、兄の一周忌はお寺で簡単に済ませる由。今後の永代供養や、墓地の始末と市への返却について検討中とのことで私の意見も聞かれたが、私も出来るだけ子供に負担がかからない方法を考えていると告げた。生も家も永遠ではない。まして子供がいずれも遠隔地で暮らしていればなおさらだ。さて、まだ元気なうちに今後どんな準備が必要なのか。
2021.05.12
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~半月間の夢から目覚めて~ 半月もの間、生死や性と再生をテーマにしたシリーズに没頭し、暫しこの世のことを忘れていた。しかし完全に忘れていた訳ではなく、世界の気になったニュースの項目だけはメモしていた。それを思い出して書いてみようと思った次第。 丸い円の内側は北極圏内。地図の右側はほとんどがロシアの領土で、下部にスカンディナヴィア半島が見える。その左側の小さな島がアイスランドで、その上の大きな島がデンマーク領のグリーンランド。そしてその上にカナダの北部が見える。この北極海は今氷が溶け出して、グリーンランドでは海岸部の台地が露わになって来たと聞く。この北極海航路の制覇を巡って、今米ロの熱い戦いが繰り広げられているとか。 左はロシアの原子力潜水艦。厚い氷をぶち割って浮上したところだ。右は訓練中のロシア軍の動きを監視する米国海軍の潜水艦。ロシアはヨーロッパから北極海を通じ、ベーリング海峡から太平洋に出る航路の開発を窺っており、中国もそれに便乗しようと企図してるようだ。アメリカ海軍の監視活動はその牽制のため。地球温暖化が新たな火種になっているのだ。 戦いは宇宙にも及んでいる。中国が宇宙ステーション建設のために打ち上げたロケット長征5号B(左)が、地球帰還の大気圏突入時に燃え尽きず、インド洋モルディブの北方に墜落した。残骸は全長30m、20トンの巨大さで、その動きは米国宇宙軍が把握して情報を発信していた。どうやら中国は機体をコントロール出来なかったようで、NASAは早速中国に警告した。 EU(左はEUの国旗)はこのほど、中国との貿易量を減らして新たにインドとの貿易を推進する方針を打ち出した。右はEUの実質GDP成長率で、近年はマイナス成長が続いていた。原因は中国との貿易で支払う金額が増大して、EU加盟国の経済が停滞していた。それに中国のウイグルや香港に対する人権弾圧に対する反感もあって、中国を牽制するために軍艦を派遣する国も出始めていた。 そのEUからやっとのことで離脱した英国は、止む無く日本が中心になって推進しているTPPへの加盟を希望している。EUとの貿易による利益が減ることに対応するためだ。ところが皮肉なことに、国内で分裂の動きが出た。スコットランドで独立派の議員が過半数を獲得したのだ。ただしこれを認める国民投票が成立するかは不明。英国の国旗「ユニオンジャック」(右)は各地方の旗が合成して出来たもの。もしもスコットランドが離脱することになれば、新たな国旗を作成することになるかも知れない。 クンブ・メーラの群衆 EUから有難い提案を受けたインドだが、今は全土で新型コロナウイルスの変異株が蔓延し、連日40万人以上の患者と4千人以上の死者が出ている。上はヒンズー教最大の宗教行事の「クンブ・メーラ」で、ガンジス川で沐浴するために全国から集まった群衆。3月から始まる巡礼で500万人もの信者が押し寄せた。ガンジス川は聖地だが大腸菌で汚れ、信者は川に入って全身にその水を浴びる。 河畔では新型コロナで亡くなった死者を火葬しているが、薪では火力が弱くて完全に灰にはならず、火葬場も処理能力が追い付かないようだ。日本の企業も商品の生産が出来ず、邦人の帰国もままならない状態とか。 サイバー攻撃のイメージ そんな折、ジョンソン&ジョンソン社、ファイザー社(いずれも米国)が開発した新型コロナワクチンの情報が何者かによって窃取された由。調査した結果サイバー攻撃を仕掛けたのは北朝鮮軍所属のサイバー部隊のようだ。北朝鮮は米国の北朝鮮政策に反発してバイデン政権を恫喝する一方で、密かに最新の医療情報を盗んだ訳だ。6月には食糧が尽きると目される北朝鮮。彼らが必死なのは分かるが。 新装なった国立競技場(上)で先日東京オリンピックのテスト大会が開催された。無観客なのは当然だが、トイレが4つしかないサブトラックは選手たちには不評だった由。それよりも競技場前では、「東京オリンピック」の開催に反対する市民デモがあった。また水泳の池江璃花子選手宛に、オリンピック出場を辞退するようネットで訴えかける動きがあり、同選手が困惑していると聞いた。何だかなあ。 視察のため当初来日の予定だったIOCのバッハ会長も、コロナの厳重警戒が延長されたことに伴い、結局は来れないことになった。ウイルス陽性者数の増加もさることながら、変異株がさらに変化し、感染者と死者数が増えているのが気になる。明るいニュースと言えるのかどうかは分からないが、ようやく国内の製薬会社などが変異株ウイルス対応のワクチン開発に乗り出す。五里夢中だが頑張ろう日本。
2021.05.11
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~死と再生~ 菊の御紋は天皇家の紋章である。それがテーマと何の関係あるの。と聞かれるだろう。菊の原産地は中国。日本へは遣唐使がもたらしたと言われる。中国で菊は割と重要な役目を果たした。「重陽の節句」つまり旧暦の9月9日は菊の花を飾って祝った由。薫り高い菊は日本人にも好まれ、朝廷に献上されてついには天皇家の紋章となった。宮家の家紋は全て菊をアレンジしたものとなっている。 ところが菊を愛したのは中国や日本だけではなかった。これは古代エジプトのファラオの黄金の椅子だが、何と背もたれのデザインはまさに菊の御紋ではないか。すると菊が中国からエジプトへ伝えられたのだろうか。それは不明だが、実はこの「菊」は太陽を表したものなのだ。しかし古代エジプトの王室とアジアの東外れにある日本の皇室で、同じデザインを用いていたとは。天皇の祖先である天照大神は太陽神で、国旗は日の丸。すると菊の紋章を太陽と見なすことも可能なのかも知れない。 古代エジプト「太陽の船」 それならなぜ古代エジプトでは太陽を聖なるものと考えたのか。それは太陽が不滅であるからだ。夕方になると太陽は西に沈む。だが翌日の朝には東の空から再び姿を現す。古代エジプトの民は太陽を復活と再生のシンボルとして崇め、その太陽を舟が運んでいると考えた。上の絵は太陽神を舟で運んでいる姿。それは絵だけでなく、巨大な船が発掘されたことで実在が証明されている。 発掘された「太陽の船」 エジプト考古学の専門家である吉村作治早大名誉教授は、かつて巨大ピラミッド付近の地下には巨大な空間があることを地磁気センサーで探知し、巨大な船が収められてる可能性があると「世界ふしぎ発見!」で語っていた。その後、エジプト考古庁が発掘して吉村説が真実だったことが証明された。彼は他にもう1艘分の空間があると言っていたが、古代エジプト人の信仰や知識、技術の高さが理解出来よう。 秋田県大湯環状列石 これは秋田県鹿角市にある大湯環状列石遺跡。縄文時代のストーンサークルだ。巨大な石の輪が2か所あり、その中に写真のような石組が幾つかある。この遺跡には住居はなく、祭祀専用の空間だった。石組をどかして掘ると人骨が出て来たことから墓だったことが分かった。同時に、この石組は太陽の位置を正確に捉える日時計で、毎年春分の日には、同じ位置から太陽が現れることが確認された由。墓は死者の埋葬施設だが、「日時計」はその復活と再生を願っての施設。二重の意味があったのだ。 第二琉球王朝尚育王肖像 さて、沖縄では太陽を「てぃーだ」「てだこ」と呼ぶ。第二琉球王朝の最初の王都であった浦添城と、次に移動した首里城からは、東方の久高島から昇る太陽を遥拝したことが知られている。久高島は琉球の始祖神であるアマミキヨとシネリキヨが上陸した聖地で、城(ぐすく)には必ず祭事を執り行う御嶽(うたき)があった。まさに卑弥呼や、日本の原始神道を彷彿とさせる祭政一致の姿だ。死と再生は人類共通の願いであり、それゆえ縄文、古代エジプト、琉球王朝と形を変えつつも太陽信仰が出現したのだろう。 (1) (2) (3) さて最後に古代の三美神を紹介しよう。(1)はトルコから出土した「地母神」。豊かな胸と腹部から妊婦であることが分かる。(2)は長野県茅野市の棚畑遺跡から出土した「縄文のビーナス」。どうやら縄文時代中期の土偶のようで、国宝に指定されている。腹部から、妊婦だと分かる。(3)は(2)と同じ茅野市棚畑遺跡出土の「仮面の女神」で国宝指定。妊婦なのか「出べそ」状態だ。同一の遺跡から出土した土偶が複数点国宝に指定されるのは恐らく初めてのはず。 亀甲墓 これは「亀甲墓」と呼ばれ、沖縄のお墓の形態の一つ。名前の由来は形が亀の甲羅に似ていることからだが、これは琉球王朝時代に進貢していた中国福建省の墓制を倣ったもので、「母胎」との説もある。つまり死後は母の胎内に還り、いつの日か再生する願いがあったのだろうと。かつては火葬せず遺体は墓の中の「しるひらし」(汁減らし)に安置し、数年後に取り出して洗骨した。洗骨は女性の仕事だった。 この墓も風葬募の一種。温度と湿度の高い沖縄では最も自然な葬制だったのだろう。一族はみな同じ墓に葬られた。いわゆる「門中墓」(むんちゅうばか)で、今でも一門の結束は強い。墓の入口を「産道」と見なすことも出来るが、遺体を入れた後は漆喰で固め部外者の侵入を防いだ。墓は集落のすぐ傍に在り、死者は子孫の繁栄を見守っていた。そのため家も墓も風水によって場所を決めたのだ。 唐草文 「唐草模様」と呼ばれ、日本の風呂敷のデザインの主流はこれだった。かつては中国由来の忍冬(スイカズラ)の蔓を模したとされたが、今では空想の植物をデザイン化したパルメット紋と呼ばれる。古代ギリシャやエジプトの神殿の石柱などにも彫られた。まさに「文化は伝播する」見本。「東京凡太」が背中にこの風呂敷を被っていたが、そんなことを知る人はもういないだろうなあ。 <横山大観 「生々流転」の一部> 横山大観の名作に因む「名前」を借りたシリーズも最終の10回目。我ながら頑張って難しいテーマに挑んだと思う。「生と性」についてはまあまあ書けたが、「死と詩」のうち「詩」はさっぱりだった。次はいずれ「詩」をテーマに書きたいものだ。なお、この「生々流転」を観たのは島根県の足立美術館だった。ツアーで行った際にたまたま「院展100周年記念展」だったかをやっていたのだ。 ただし展示点数が驚くほど充実し、日本画にあまり興味のない私は大急ぎで見回り、庭園や他の美術品に心を動かされたのだった。偶然だが上の絵を見ると、足立美術館の有名な庭園に雰囲気がとても良く似ていることに気づいた。長い間のご愛読、どうもありがとうございました。心から御礼申し上げ、このシリーズの結びといたします。亭主謹白。<完>
2021.05.10
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~形と意味~ 昨日「陰陽石」のことを書いたら、それを観た鹿児島のクマタツさんが、それがあるのは宮崎県の小林市だと教えてくれた。私も確かネットで知ったはずなのに、原稿を書いているうちに失念したようだ。メモはしてるはずなのに、最近は忘れることが増えた。ただし、それに因む画像を保存していたことを思い出した。宮崎県で一番古い「田の神さあ」が陰陽石の地に建てられていると言うからこれも小林市にある訳。そしてこれは神官型の田の神さあだと言うことが分かり、彩色もされている。 これも宮崎県の田の神さあで、彩色されている。右手に持っているのは「しゃもじ」のようで、上の神官型とは明らかに雰囲気が違うので、きっと農民型なのだろう。私はこの画像を見て、これは「あれ」に似てるなあと直感した。 みるく神(沖縄県竹富島) 私が似てると思ったのは、沖縄県の先島地方に伝わる「みるく神」。先島とは宮古島以西の島々。そして「みるく」は弥勒菩薩の「みろく」が転じたものだが、仏教の弥勒菩薩とは異なり、海の彼方のニライカナイ(極楽浄土)からやって来る神で、風体は「布袋さま」に近いだろう。人々に世果報(ゆがふう=豊穣や幸福)をもたらすと信じられるが、果たして九州南部と沖縄に共通点があるのかどうか。 さて、これまで見て来た神々はすべて石で出来ていたが、上の道祖神は長野県のもので、見た通り稲わらで作られている。道祖神には賽の神、障の神、幸の神、さえの神などの別名があり、いずれも「さい」または「さえ」と呼ばれ、悪霊を封じ込め病魔を退散させると信じられていた。遮(さえぎ)るの「さえ」も同じ語源を持つと思われる。 因みに古代東北の蝦夷(えみし)は武力に秀で、都の人々を怖がらせた。そこで朝廷に服属した蝦夷の中から都を警護する者を選んで「佐伯氏」と名乗らせた。これも「さえき」で、「守る」の意味。また東北の蝦夷を各地に移転させた。佐伯、細木などの地名はそれに由来するもので、真言宗の開祖空海上人も讃岐国(現在の香川県)の佐伯氏の出身。古代豪族にも佐伯氏がいる。 秋田県にも可愛らしいわら製の道祖神を祀る風習があるようだ。また「仁王さん」と呼ばれることもあるようだ。仁王も寺院の門前にあって、聖なる空間を守護する存在だからであろうか。形や素材や呼び名は違っても、日本民族とし相通ずる信仰があったのだろう。 さて、大事なことを忘れていたことに気づいた。宮城県名取市にある道祖神社のことだ。平安時代の延長5年(927年)に編集された「延喜式神名帳」に掲載された全国の官社一覧のうち、陸奥国名取郡の2社がここにあるのだ。明治になって二社を合祀し、「佐倍乃神社」と名を変えた。これも「さえの」と発音するので、相当古い時代から東北でも信仰された何よりの証拠。するとウィキペディアの記述にも過不足があると言うことだろう。 左の道祖神の台座の下部に不思議な形が彫られているのに気付いた。右はその拡大だが明らかに女性のシンボル。石像は「両性具有」だった。私には観音様のようにも見える。「香炉」か賽銭台があるのは聖なるものと崇めた証拠だろう。形が良く似た「桃の種」が奈良の纏向遺跡から3600個ほど出土したのも頷ける。女陰を表す古語の「ほと」は朝鮮語のポティと同源だそうだ。なるほどねえ。 両性具有(りょうせいぐゆう)と言えば、彫刻家アルプのこの作品はさほどリアルではないが、それらしい雰囲気とエロスを感じる。私が初めて彼の作品を知ったのは中学生か高校生の頃のはずだが、フォルムの美しさと彫刻家の意図は感じた。形に込められた人の願いや祈りは、時代や地域や人種を超えているのかも知れない。明日は最終回になるが、果たしてどうまとめたら良いのか。<続く>
2021.05.09
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~あれまあ。どうしてだろう?~ 1)田の神さあ<クマタツ氏撮影> 過日鹿児島のブログ友クマタツさんのブログ「ジージの南からのたより」を見てビックリ。彼が撮影した1枚の写真に目が釘付けになった。彼は薩摩藩の歴史に詳しく、書かれる文章はとても精緻だ。この日のテーマは「田の神さあ」。薩摩弁で「たのかんさあ」と呼ばれる豊穣の神だが、私はこれはあるものに似てると直感。それは男女のシンボル。左側が女性、右側が男性と見たのだが。思い過ごしだろうか。 田の神の後ろ姿(クマタツ氏提供) なぜ田の神が男女のシンボルと結びつくのか。田の神が山から里に訪れることは知っていた。「山の神」には奥方の意味もある。それで男女なのか。形が似ている「道祖神」は、長野や関東で祀られることが多い。だが鹿児島は火山灰地層の「シラス台地」が多く、稲作には向いてないはず。それなのになぜ。果たしてどんな謂れがあるのだろうと私の疑問は深まるばかり。そこで調査を開始した。 画像はグーグルの画像検索で探せる。上は鹿児島と宮崎南部の「田の神さあ」。全て男の形だ。宮崎の南部もかつては薩摩藩に属しており、同じ風習が伝わっているようだ。ヒットした画像をクリックすると、撮影した際の記録を得られる場合もある。またウィキペディアで「田の神さあ」や「道祖神」を検索し、信仰の起源や現状などを知ることが出来た。こうして少しずつ疑問が解けて行った。 <宮崎県えびの市の「田の神さあ」> 「田の神さあ」の形には農民型と神官型があるようだ。神官型の「田の神さあ」は霧島山の噴火で被害を受けた地域に多いそうだ。いずれも豊穣、子孫繁栄、長命を願った由。それほど古い信仰の歴史はなく、どうやら島津藩の新田開発と関係が深いようで、江戸時代に起こった由。豊穣地区の「田の神」を自分の集落に借りる「オットウ」の風習があり、返す際はお礼の品を付け、両地区の農民が共に祝った由。 <長野県安曇野市の道祖神> 一方「道祖神」(どうそしん)は村境や峠などの道端に置かれ、旅の安全を守る神とされた。先住の国つ神が天つ神に国譲りし、道案内したことが旅の安全神に繋がったのか。また縁結びの神、和合の神とされたのは国津神の猿田彦と天津神のアメノウズメが夫婦となったことに因むのだろうし、安曇野市の道祖神がいずれも双身型なのも同じ理由。冒頭の写真と石全体の形が良く似ているのはそれを意識して作ったからとしか思えない。中国では紀元前から「道祖神」信仰があった由。新たな謎が増えた。 陰陽石 調べるうちに、宮崎県南部に「陰陽石」(いんよういし)と言うのがあると分かった。陰陽とくれば、男女のシンボルに間違いない。左手の溝が陰で女性のシンボル。奥の石はどう見ても男性のシンボルだ。これは火山の噴火で偶に出来た「作品」で、人工物ではない由。それも大正時代に茨城県の人が発見したみたいで、古くから信仰の対象となったものではなさそう。世の中には、そんなこともあるのか。 1) 2) 3) いずれも長野県下の双身型の道祖神。1)は男女が手を繋いでいる。2)は男女がキスしてる「接吻型」だが、男性の足が女性の股間に伸びているように見える。3)は男の手がおっぱいに触れている。二人は既に恍惚の表情だ。まあ素朴な愛の表現だが、明治新政府はこれらの道祖神を「恥ずべき」ものとして、極力外国人の目に触れない場所に移動させたと聞く。こんな微笑ましい愛の信仰を。<続く>
2021.05.08
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~連休も曜日も忘れて~ 実際の話。連休がいつまでなのか知らずに過ごし、曜日も忘れていた。新聞休刊日もあったが、さほど退屈しなかった。わりと面倒なテーマのブログに取り組んでいたせいで、それを書くだけで連日3時間から5時間くらい費やしたのではないか。東北楽天の応援にも熱中した。テレビ放送があれば必ず観、ラジオ放送があれば聞き、どちらもない時はPCで試合の進行を細かくチェックした。 ネモフィラ ソフトバンクには1勝しか出来なかったが、それでも何とか首位は保った。6日は休養日で、7日からは札幌ドームで日ハムとの3連戦だが、多分試合は行われないはず。日ハムの選手、スタッフなどに大量の新型コロナ陽性者が発生したためだ。大都会での試合は休止され、入場者数制限もあって各球団は苦しいと思う。だがプロ野球もオリンピックも、命在ればこそのイベント。今は忍の一字なのかもね。 前日はシーツ、布団カバー、掛け布団の襟に取りつけたバスタオル、枕カバーを全部洗濯し、ついでに布団と枕を干した。洗い立てのシーツやカバー、バスタオルを再び布団や枕に装着するのは面倒だったが、風呂にも入ったお陰でとても気持ち良く眠ることが出来た。翌朝はまだ眠たかったが。起きて布団を2階に運んだ。天気予報では晴れ、仙台は23度になるとか。これは一大事だ。 先ずは気になっていた草取り。畑と庭の両方だからとても大変なのだが、この日は軽めの作業で終え、畝をスコップで掘った。その後に発酵鶏糞と石灰を撒いて整地。抜いた雑草を燃えるゴミの袋に詰め込み、三つ葉とミョウガの芽を摘む。それから植木鉢を外に出して水やり。続いて2階のベランダに布団などを干す。 ミョウガの新芽 三つ葉 上がミョウガの芽でこれが成長すると茎と葉っぱになる。普通食べるミョウガは花の蕾だが、若い茎も食べられないことはな、「ミョウガタケ」と呼ぶ地方もある由。三つ葉と一緒に茹でてお浸しに。スーパーボランティアの尾畠さんはタンポポまで摘んで食べるようだが、私は軟弱者なのでそこまでの修行はまだ無理。でも香り豊かな春の恵みを、とても美味しくいただいた。 さて、連休中のとある朝。植木鉢にみずやりしようとしてビックリ。足元にピンクの色が見えたからだ。「あれっ、おかしいな。こんなところにピンクのプラスチックを置いた覚えはないのだが」。驚いて屈んで見るとクジャクサボテンの花が5つ咲いていた。例年なら咲くのは7月ころ。この冬は居間に取り込み、水と液体肥料を与えていた。だからハイビスカス同様、かなり早く咲いたのだろう。感謝感激。 出来ればホームセンターへ行く積り。トマトの苗を8本、ミニトマト2本、ゴーヤ3本、キュウリ4本くらいで十分。カボチャは昨年庭で生った種を蒔いてみよう。こんな風にしてマックス爺の連休も幕が下りそうだ。いや、これからも目標をみつけて少しでも元気でいないとね。そう呟きながら、半袖シャツのまま颯爽と自転車で出かけたマックス爺であった。
2021.05.07
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~罪のない者がまず石を投げよ~ さて生と性などをテーマにしたこのシリーズを、苦しみながらも書いて来た。さて、それをどうまとめようか迷っている。今日を最終回にする積りなのだ。先ずは煩悩に苦しんだ先人のことを書こうか。 これはある夫婦。男の名は岡本一平。漫画家である。女の名は岡本かの子。その妻で女優。だが不思議なことに、彼らの家にはもう二人男が同居していた。一人は京大生で、かの子の恋人。もう一人は夫婦の息子の太郎。後に「芸術は爆発だ」で有名な芸術家となる。一平はかの子の恋人の同居を許した。天衣無縫と言うか、破廉恥と言うか。そんな自由な家で育ったことが、彼の芸術に影響したのかも知れない。 島崎藤村は詩人であり、小説家だった。ある状況下で、彼は姪と関係して子を生す。それを描いた小説が「新生」。部落問題を描いた「破戒」も有名だが、彼は長野から逃れるように東北に来、わが母校の東北学院に勤務した。他に小説「夜明け前」や詩集「落梅集」がある。小説には麻薬の要素があるが、特に私小説ともなればその色は濃く、作家の苦悩もさらに深まる。 夫との間に子がありながら、家族を捨て恋人と出奔した女がいる。その名は瀬戸内晴美。やがて著名な小説家となり、源氏物語の現代語訳を出すなど活躍。後に小説家であり天台宗の僧侶でもあった今東光の得度で尼僧となる。卒寿を過ぎた今も尼僧と小説家の二足の草鞋を履いている。 聖書の話である。パリサイ派の長老たちが一人の女をイエスの前に連れて来てイエスに問うた。女は姦通した罪人。「さて、この女をどう罰しますか」と。そこでイエスは答えた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に先ず石を投げなさいと」。パリサイ派の長老たちは皆口をつぐんだ。(ヨハネによる福音書第8章3~11節) 不思議な男がいる。500もの会社を興し、経営が軌道に乗ったらそれを他人に任せた明治の経済人渋沢栄一。大河ドラマ「青天を衝け」の主人公だが、彼には妻以外の女性との間に出来た20人もの子供がいたようだ。いわゆる妾(めかけ)だが、当時の日本では社会的通念の範囲として許されていた。妻を4人まで持てたイスラムどころの騒ぎでないが、平等に愛し養うのはむしろ「男の甲斐性」だったのだ。 国宝「合掌土偶」 さてもう一つの命題である死についても記さねばなるまい。神の怒りに触れてエデンから追放された人間は、同時に「死」を受容する存在となる。縄文時代の平均寿命は40に満たなかった。原因は出産による母子の死亡率が高かったこと。このため縄文人は家族の長寿と繁栄を願って土偶を作り、人の代わりに破壊し、住居の直ぐ傍に墓を立てて死者の冥福を祈った。深い宗教性の存在が縄文文化の特徴でもある。 「人間(じんかん)五十年 外天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」。信長が本能寺の変で死を覚悟する際に舞ったとされた幸若舞「敦盛」の一節だ。たかだか50年の人生は夢や幻のようだとの意味か。この時信長は満48歳。まさに謡曲通りの死となった。戦国時代が終わり、江戸幕府の泰平の世となっても、平均寿命はさほど変わらなかったみたいだ。 「村の渡しの船頭さんは今年六十のおじいさん 年は取ってもお舟をこぐときは元気いっぱい櫓がしなる」。これは昭和16年に発表された童謡「船頭さん」の歌詞の一節。60歳でお爺さんだが、第二次世界大戦で多くの兵や国民が死に、平均寿命は下がった。かつて15歳で元服した時代があった。娘は15で嫁に行き、30代で祖母になるケースも珍しくはなかった。つい何十年か前まで、インド人の平均寿命は30代だった。 それが今や日本人の平均寿命は男女そろって80歳を超えた。当然だがその年齢までの生存を約束された訳ではない。かつその年度生まれの「新生児」が生きると予想される「平均」に過ぎない。怖いコロナもあればがんもある。だが、がんの遺伝子がヒトの細胞分裂に作用していると聞く。ヒトは生まれながらにしてがん細胞と共存し、ウイルスと共存する運命にあるのだ。 81歳になるスーパーボランティアの尾畠春夫さんが、「後何年ボランティア活動が出来ますか」と問われて言う。「歳ですからせいぜい50年くらいでしょうか」。何と言うユーモアだろう。彼は今でも毎日家の周囲を8km走り、野草をおかずにして一人で生きている。乏しい年金を節約し、ボランティア活動の資金にしてると言う清貧さ。人間の値打ちは年収でも地位でも年齢でもなく、その志にあることを彼の言動から学ぶことが出来る。<続く>
2021.05.06
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~エロス・諸行無常~ 歓喜仏 愛欲の業火仏も人もまた *ごうか まぐわひて人生まれける道理かな チベット仏教の仏像などには性〇為そのものと思われる形のものがある。大抵は「歓喜仏」(かんきぶつ)と呼ばれ、今も厚い信仰の対象である。その真意は到底凡人には理解し得ないが、あるいは生命の起源が真理につながるとの考えかも知れない。 クメールの女神の笑みに惑ひつつ <アンコールワット彫像> 東南アジアの女神たちもチベット仏教の秘仏に劣らず妖艶そのもの。アンコールワットの壁面一杯に浮き彫りされた女神像はいずれも豊満な肉体を有し、隠微な印象はどこにもない。実におおらかで、これを「祇園精舎」と考えたのであれば、日本人の感性とは異なるようにも思うが、多分そうではないのだろう。 縄文の石棒 道祖神 梵天祭り 縄文時代の石棒も日本古来の信仰である道祖神も、形は男〇器そのもの。梵天祭りの「梵天」もその代理で、子宮に見立てた社に梵天を突入させるのが祭りの本旨。形を変えた性〇為と見なすことが出来よう。これらに共通するのは種族の繁栄と長命の願い。ヒンズー教の「リンガ」も男〇器を模したと言われるので、長命と種族の繁栄は民族や時代を超えた希求なのだろう。 そそり立つ魔羅につながる人類史 *まら(仏教用語で男〇器) 天の岩戸の前で踊るアメノウズメ ほと出して鈿女踊れる大岩戸 *うずめ エロスとは生そのものと見つけたり 弟スサノオノミコトの乱暴に怒って姉の天照大神が天岩戸に隠れて以来、世の中は真暗になって人々は困っていた。そこでアメノウズメノミコトが大岩戸の前に進み出、踊りを踊った。皆は喜んでやんやとはやし立て笑った。外が賑やかなことに驚いた天照大神が戸を開いて覗いた途端、タヂカラオノミコトが一気に戸を開き、天照を外に引き出した。すると世の中はたちまち明るくなったと言う日本の神話。 この時、アメノウズメは「腰のもの」を外して「ほと」を露わにし、ストリップの発祥とも言われる。ほとは聖なるもので、呪術性を秘めていたと言われる。単なるエロスとは異なり、沖縄にも似たような話がある。 殷の紂王と妲己 さて、「酒池肉林」と聞いたら何を思い出すだろうか。男なら「ムフフ」なことと答えるかも知れない。だがこれは殷の紂王(ちゅうおう)の妃だった妲己(だっき)の行いに対しての譬え。彼女は贅沢を好み、毎晩のように宴を催し、池に酒を注ぎ、子豚の丸焼きを林のように立てて豪遊した由。挙句は裸の男女に鬼ごっこさせた由。その殷が周に攻められ、妲己は周王に殺害された。天下の悪女を成敗した積りだったのだろう。 四字熟語残し悪女は殺されぬ イヌイットの氷の家 北極圏に住むイヌイット(かつてのエスキモー)は氷の家を作る。昔は電気もストーブもない。おまけに近隣には家もない。だから遠来の旅人が訪れた際は、主人は妻を客に提供した由。心身の暖房のため。客は主人の配慮に感謝し、喜んで受け入れるのが礼儀だった由。また貧しい地域では兄弟が妻を共有することもあった。それもまた文化。文化に高低はない。あるのはその土地に応じた暮らしと人の生き方なのだ。 妻与え客をもてなすイヌイット オーストラリアの僻地に、集団で暮らす一族がいたそうだ。研究者が彼らの血統に関心を持って調査したしたら、彼らは4代から5代に亘って近親結婚を繰り返していたことが判明。その結果、身体的な障害のみならず、精神的な障害が数多く見られた由。あまりにも近い血族で何世代にも亘って婚姻したため、劣性の遺伝子が影響したのだろう。これは本当にあった話。きっとメンデルもビックリだろう。 メンデルもエンドウ豆なら分かったが 話はまだ続くのだが、こんな内容の話は書く方も草臥れるのでねえ。 <一応続く予定>
2021.05.05
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~連休とは言うけれど~ オオテマリ 庭のオオテマリがかなり大きくなった。それにつれて、薄い緑色だった花が、純白に変わって来た。初めてこの花を他所で観て、わが家の庭にも植えたい。そう思ったほどの存在感があったのだ。だが、なかなか大きな花は咲かず、咲いても春先に虫に食われる年が続いた。どうやら特殊な蛾(が)が卵を産み付けるようだ。毛虫が出るころは葉が虫食い状態になるが、今年はその被害が軽かったのかも。 それにしても連休と言う実感がない。特に独り暮らしになってからは酷い。それはそうだ。「サンデー毎日」だもの。でも無理はせず、その日の体調でやれることをやる。その日は大掃除をし、昼は素麺を茹でた。3年前に次男が送ってくれた上物。裏の畑から三つ葉を摘んで茹で、竹輪を切ったのと一緒におかずと薬味にした。午後はブログに熱中。 昼が素麺だったにも関わらず、夜はスパゲッティが食べたくなった。それもケチャップ味の強いナポリタン。幸い、茹で時間「7分」のが1袋残っていた。だがなかなかお湯が沸騰しない。そろそろIH用のレンジがいかれて来たのか。鶏の胸肉を茹でたのを刻んで具に。柔らかくて食感が良い。大成功だ。その夜はシンクの金具や布巾など一式を漂白した。翌朝、かなり汚れが落ちていた。 その夜は雨。翌日の日曜日の朝は町内会の草刈だが、雨の場合は中止。鎌と軍手は準備し、玄関に置いていたが、どうも人が出て来る気配がなかったため行くのを止めた。朝食はナポリタンの残りだが、すべて美味しくいただいた。あるおかずの中で思いつく限りバランスの良い食事を考え、野菜と果物も欠かさない。問題は天候と買い物の関係。さてどんな順番で行こうか。 先ずA店に行き、米10kgを買って帰った。それだけで背負ったリュックが一杯。一度帰宅し、次はB店へ。ここでは野菜、果物、魚、肉、牛乳、麺類、豆腐、納豆、お菓子とパンなど。パンは半額。古い刺身も「切り身」(加熱用)となって半額。野菜の「お徳用」も仕入れた。値下げの原因は連休中だから。半額にしてでも早く売った方が、店にとっては良いのだろう。そして得をした私もウハウハ。 トロの本マグロが200円代。色は悪くなっていたが、味と品質には問題なしと判断。帰宅後ラップを外しながら見たら「地中海産」だった。地中海産の本マグロを食するのは初めて。これが実に素晴らしい味で、上トロそのもの。これは驚いた。すし屋でだって食べたことはない。しかも3~4回分になった。 100円のタコは「細い足」だけ。出刃で切ると吸盤が吸い付いて来る。これは活きが良い証拠。キュウリを刻んで酢で和えた。まあこんな具合に主夫と化した爺さんは家事に精を出す。 帰宅した頃はまだぽつりぽつりだった雨が、キッチンで食品を仕分けしているうちに、音を立てて降り始めた。ハハハ。買い物作戦大成功だ。出かける時間と店の順番を間違えていたら、きっとびしょ濡れになったはず。残った買い物。夏野菜の苗と、お徳用野菜は、連休中に他の店へ行く。その方が安くて良いものをゆっくり選べるはず。なにせ爺さんにたっぷりあるのは「時間」。これを活用しない手はないからね。
2021.05.04
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~エロスと歴史と習俗~ 源氏物語絵巻 世界に誇る日本の文学の代表として「源氏物語」を挙げる人は多いかも知れない。その証にこれまで何人もの人が訳している。だが古典文学に明るくない私には、王侯貴族の単なるセッ〇ス依存症としか思えないのである。時代が異なるので単純な比較は出来ないが、皇室における結婚観は現在とは全く異なり、中には「近親〇婚」としか思えないようなケースも多々あることに驚かされる。 古代の上流階級では「妻問婚」が普通だった由。真っ暗な寝床に男が忍んで行くのだ。当時貴族が風呂に入るのは月に5、6度。それも吉兆を占ってからのこと。長い髪を洗うのは米を研いだ研ぎ汁。ただし光沢を出すため、髪に油を塗っていた由。匂いを隠すため、香を焚き込めていた。だからあまり清潔とは言えなかったようだ。庶民は風呂などにも入れず、たまに体を拭く程度だったのではないか。 筑波山 関東平野の北に聳える筑波山。男体山と女体山の二つの嶺の間で、古代は年に2回「歌垣」が催されていた由。本来は男女が歌を詠み交わすことだが、実態は自由恋愛。その日だけは既婚者と未婚者を問わず好きな相手と思いを遂げることが出来たと言う。頂上は筑波山神社の神域だが、神も公認する特別な一夜だった。 百人一首に陽成院(陽成天皇)の歌がある。「筑波嶺のみねより落つるみなの川 こひぞつもりて淵となりぬる」。みなのかわは「男女川と書く。こひは恋で、筑波山での歌垣を詠んだもの。だが都の天皇は筑波山も、そこで行われていた「歌垣」の実態も知らない。歌を詠んだ天皇は若くして皇位を次ぎ、権力を維持するために苦心した。藤原氏の影響が婚姻に及び、激しい権力争いが絶えない古代の皇室だった。 時代も場所も遠く離れた沖縄にも、かつて筑波山と似たような風習があった。毛遊びだ。「もうあしび」と読み、祭りの夜にだけ許される草むらでの男女の自由恋愛。琉球王朝とヤマトに同じ風習があったのは決して偶然ではない。日本と沖縄は、人種も言葉も宗教性も風俗も底流でつながるものがある。どちらも祖先は縄文人だからであろう。本土の庶民なら、さしずめ「夜這い」に近いかも知れない。 男女間の話はまだあるのだが、今日はこの辺りで止めておこう。私は色んなことに興味を持ち、本を読んだり、現地を旅したり、博物館、美術館、神社、古墳、聖地などをたくさん訪ねた。またTVなどの科学番組が好きで観ている。そのせいで、幾つかの疑問点がふとした機会に解けることがある。つい最近もそんなことがあり、自分の直感が間違ってなかったことを知った。まさに事実は小説よりも奇なり。だから自由な発想が大切。自分の知識など知れたものだ。<続く>
2021.05.03
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~ディープ・ステートの闇~ <庭の花を背景に> アイリス 4月29日(木)。朝起きてパソコンを立ち上げ、自分のブログのアクセス数を確認する。深夜0時には翌日のブログが公開される。その日のテーマは「ヒラリークリントンの処刑」。果たしてどれくらいの人が記事を読んだのか興味があったのだ。朝の8時半の段階では300アクセスちょっとで、いつもと大差ない。夜の9時には1500まで上がっていた。 ツリガネスイセン(ピンク) 必要があってグーグルの画像検索で「クリントンの絵」を検索した。するとその中に見覚えのある写真。彼女の画像ではなく私がその日のブログで用いた「黄色いシュンラン」。ただしタイトルがそのまま「ヒラリー・クリントン死刑台の露と消える」となっていた。アクセス数が増えたのはきっとそのせい。翌朝確認すると前日の最終アクセス数は1800を超えていた。自己新記録だ。これにはビックリ。 咲き始めたモッコウバラ ついでにヒラリー・クリントンの画像を検索すると、私のブログは既に削除されていた。アメリカの民主党や、グーグルなど巨大IT企業など、つまり「ディープステート」側に不都合な情報や画像はこうして消されると言う何よりの証拠だ。私は今回身をもって体験したが、ツイッターでもyoutubeでも、多くの人が真実を知らせようとしても、黙って闇に葬られる。今はそう言う時代。怖いのは中国や全体主義国家だけとは限らない。 ツルニチニチソウツルニチニチソウ ツルニチニチソウ バイデン政権の施政方針演説があった。認知機能に問題があると言われながらも、何とか「普通」に演説し、特に不自然な点はなかったように感じた。だがあれも上手に編集した後なのかも知れない。しかしバイデン親子の弱みを握り、大物の民主党員に大量の資金をばら撒いた中国がなぜそのことを明かし、脅迫しないのかが不思議。もしもそうすれば彼らの不正も全世界に伝わるからだろうか。爺はそう考えた。 ドウダンツツジ つくば勤務時代の後輩のHさんから電話が来た。町内会の避難対策を参考にしたかった由。大きな余震があっても家族が無事だった場合は家の前に「黄色い布」を合図として出すと言うルールだ。それはそれとして、つくば悪友会の仲間の消息を尋ねた。筆まめな彼はほとんどの人と年賀状をやり取りしてる。それで皆が元気でいることを確認。コロナ自粛の今は、足腰が弱ってと言うと、彼も笑った。 さて今月から町内会の草刈が始まった。月の第1日曜の朝7時半からが約束事だが、コロナのこともあって密にならない範囲で、しかも短時間に終わることになっている。超開会の総会も中止し、「会議資料」による報告と事業計画の承認だけになった。5月なのに心は晴れないが、「東北楽天」の頑張りが唯一明るい話題。そろそろ、畑に夏野菜の苗を植える時期だ。
2021.05.02
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~宗教と性差別~ 夜のモスク 連日苦戦しながらブログを書いている。特に今日取り上げるイスラム教の話は厄介だ。知識がないためと、この宗教の厳格性のため。揶揄したと誤解され暗殺された人もいるほど。でも誤解を恐れずに書こうと思う。私の青年時代、イスラム教は教祖の名を取って「マホメット教」と呼ばれていた。現在は「ムハンマド」とされ、「イスラム教」になった。神の名はアラーで、ユダヤ教の神の名にも通じるとされているようだ。 イスラム教国の国旗(部分) ユダヤ教の信徒だったムハンマドはアラーの啓示を受けて預言者となり、イスラム教の宗祖となった。彼は偶像を禁止するなど厳しい戒律を定めた。そして10年ほど前、アラーを揶揄する漫画を新聞に載せたフランス人が暗殺され、事件を論評した筑波大学の助教授が殺された事件を今でもはっきり覚えている。やはり異常性と残忍性が際立っているとの印象が強い。 マララ・ユスフザイさん(ノーベル平和賞受賞者) 2012年。14歳だった彼女がアフガニスタン北部の中学校からスクールバスで帰宅途中、2人の学友と共に過激派タリバンに襲われ、彼女は頭部を銃撃された。入院、手術して頭部を貫き顎骨に留まっていた銃弾の摘出に成功する。彼女が襲われた理由は、タリバンはイスラムの女子に教育は不要と主張していたが、彼女は事件の3年前イギリスのBBCに取材を受けた際、それに激しく反論し抗議したこと。 映像が世界に報道され義援金がアフガニスタンに寄せられたことで、政府が勇気ある少女として、彼女の本名を公表したのが仇となった。彼女は奇跡的に一命を取りとめ、退院後も女性解放運動と人権活動に身を捧げ、2014年にノーベル平和賞を受賞した。授賞式や国連総会での堂々とした英語での演説は、世界の人々を感動に包んだ。 イスラム教にスンニ派とシーア派があることは知られている。スンニ派はイスラム圏の9割を占め、宗祖ムハンマドの教えである慣行を重視すべきとする。従って規律はより厳格だ。これに対してシーア派は宗祖ムハンマドの血を引く者から指導者を選ぶべきとする、血縁重視と言えようか。男は妻を4人まで持てると言うのは、両派とも共通のようだ。 これに対して対して女への制限はかなり厳しいものがある。女性は夫以外の男の前で肌をさらさないことが求められ、図のような肌を蔽う衣類が規律の厳しさに応じて設けられている。ただしトルコのように近代化したイスラム国家においては、これらの厳格な衣装から解放されて、お洒落を楽しむのが普通になった。 ただし、アフリカなどには過酷な通過儀礼がある。少女に対する「割礼」だ。一部キリスト教徒にもあるようだが、ほとんどはイスラム教徒の中での習俗のようだ。具体的には、クリ〇リス、大〇唇、小〇唇を切除し、中にはちつを縫い合わせることもある由。その苦痛と心身への被害は甚大で、医学的な有用性は全くない。世界で毎年約2億人の少女がこの危険行為に曝されている。 アラビアンナイト また新婚の初夜に、新郎が新婦に対して割礼を施す地域もあると聞く。医学的な知識も技術も、麻酔もないまま素人が重要な〇器を損傷するのは因習に過ぎず、百害あって一利なしの危険行為だ。アフリカのある地域で大勢の女子中学生が拘留され、過激派兵士の妻として前線に送られたニュースがあったのは、つい数年前だったと記憶している。どうやらその後解放されたと思うが、誤解でないことを祈りたい。記載内容が 「わいせつ」との判定で公開出来なかったため、一部「伏字」にし直しました。<続く>
2021.05.01
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