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<榛名湖畔を歩き、走る> 昨日仙台は一日中細かい雪が降っていた。どうせ大したことはないだろうと思っていたのだが、いつの間にか結構な量になっていたようだ。写真は昨夜の9時頃の裏の家の屋根。トイレに行った時に電気を点けたら、意外にも大雪に。今朝の雪かきはきっと大変なはず。その前に、ブログを更新したら二度寝する予定なのだが。 さて、今日のテーマをどうするか悩んだ。気がかりなニュースについて書くか、それとも旅のシリーズにするか。迷った挙句、今日は旅の写真を載せることにした。 昨年の10月、妻と二人で旅へ出た。1日目は長野の小布施を訪ね、湯田中温泉に泊った。翌日は群馬県の高崎まで長野新幹線に乗り、そこからバスで榛名湖畔へ向かった。見える山は榛名富士。標高1390mの美しい山だ。榛名湖はカルデラ湖。つまり湖は火口湖なのだ。そして榛名富士は外輪山の一つ。湖を取り囲むようずらりと火山が並んでいる。 当然温泉もあるのだが、残念ながら私達が泊った国民宿舎は天然温泉ではなかったようだ。宿に着くなり、私と妻は歩いて湖を一周することにした。この日の朝、私達は湯田中温泉で走っていた。その疲れもあるので、無理する必要はない。榛名湖は一周6km。夕食前のちょうど良い運動だ。 湖ではワカサギが釣れる。漁期は9月初めから11月末までがボートに乗っての釣り。そして1月末から2月一杯までが氷上の穴釣りである。この日の昼食は、湖畔の食堂でワカサギ天ぷらソバを食べた。 湖畔の木々の間から榛名湖が見える。私は大好きな風景なのだが、あいにく同じような写真だけが残ってしまった。旅行から帰宅後旅の話をブログに書いたのだが、その時に変化のある写真を使い果たしたようだ。辛抱してご覧いただけたら嬉しい。 湖畔を周回する道路は一本だけなので迷うことはないのだが、何しろ初めての道なので分岐点には注意していた。 このボートが浮かんでいる浜辺が分岐点の付近。翌朝妻が迷子になったのはこの辺りだ。 一昨年訪れた北海道の大沼公園にはたくさんの小島が浮かんでいたが、ここには島がない。ただ湖水が静まり返っていただけだ。それに紅葉にはまだ少し早かったのも残念だった。 一周して再び元の場所に戻って来る。湖畔にはコスモスが風に揺れていた。気持ちの良い風景だ。 馬鹿の一つ覚えのようにピースサインをする私。 翌朝はまだ暗いうちに起きた。そして少し明るくなった頃ランニングスタイルに着替えて、妻と二人外へ飛び出した。フロントの小父さんのビックリしたような顔。老夫婦がこんな早い時間帯から走るなんて信じられなかったのだろう。だが我が家では冬でも早朝から走る妻なのだ。 相変わらずの風景だが、木々の間から朝日が差し込んで来る光景はどこか神々しい。 前日心配した辺りで、妻は迷子になった。私が写真を撮ってる間に1人で走って行き、そのまま分岐点を通り過ぎたのだ。私は慌てて妻を呼んだ。ノコノコと帰って来たのは暫く経ってからのこと。彼女にはどうも危険を察知する能力が欠けているようだ。それとも私が慎重過ぎるのか。 榛名富士の麓に結構急な坂道がある。その坂道を下り切ると広場。そこにテニスコートや乗馬クラブがある。桜の木がちょっぴり紅葉していて嬉しかった。 一周して宿舎に戻り、5階の展望風呂から湖を眺めた。走り始めた時よりは幾分明るくなって来た。これは外輪山とカルデラ湖の関係が良く分かる写真だ。さて前日は湖畔を歩いて1周し、2日目は朝から走って1周した。これも旅の良い思い出。この日は埼玉県の川越市に向かい、蔵のある古い街並みを歩いた私達だった。<続く>
2015.01.31
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長い長いミッションだった。昨年の暮れに読み始めた本を、昨日ようやく読み終えた。読んだのは井上ひさしの『吉里吉里人』で、新潮社から昭和58年に出されている。その時点で第30刷となっており、初版はその2年前だったようだ。サイズは四六判で834ページ。文庫本なら6冊分にはなると思う。この大著を読んだ理由は、本が以前から家にあったため。恐らくは文学専攻の長女が読んだのだろう。もちろん古本。我家にある本のほとんどが古本だ。 吉里吉里国歌 10年以上前にも一度読もうとしたことがあった。井上ひさしの代表作のこの本は有名で名前を知っていたし、一頃話題になってもいた。だが少しだけ読んで読むのを止めた。何だか面倒になったのだ。今回もそうだったが、今度こそ最後まで読もうと頑張った。最初の書き出しからしつこい描写が延々と続く。それで厭になってしまうのだ。今度はその壁を何とか乗り越えることが出来た。 一言感想を言うならば、奇想天外なストーリー。東北で生まれ、東北で育った彼にしか書けない本だと思う。吉里吉里国と言う名の国が突如日本から独立して誕生し、最後はそれが崩壊に至るまでの経緯を丹念に追う。書かれた言葉の大半は吉里吉里語。つまり東北地方の方言だ。それにかなりの頻度で卑猥な言葉が出現する。私はどちらも不得意な分野ではないため、直ちに「日本語」に通訳しニヤニヤしながら読んでいた。そう、この吉里吉里国はわが故郷である宮城県の最北部に誕生した仮想国なのである。 吉里吉里国には独特の理念が存在する。金本位制に基づく経済体制、有機農業を中心とした農業政策、世界が羨む最先端の医療システム、そして政治体制は民主的で明快。村民は4千人ほどだが、最先端の医療を受けに世界中から患者が集まるため8千人に膨らんでいる。それにこの国では動物を合体させた奇妙な生物や、動物と野菜を組み合わせた新たな生命体が誕生している。空想の世界ではあるが、時代を先取りしたユートピアなのだ。 井上ひさし(1934-2010)は、山形の寒村で生まれた。なぜか父親の戸籍に入らず、仙台の孤児院に預けられた。高校は県内で最優秀の仙台一高。当時は男子校だ。第二女子高に通っていた若尾文子(後に女優)を見染めたのは地元では有名な話。施設の推薦で東京の上智大学に進学したが中退し、一時岩手県の病院に勤めたことがある。だから東北弁には堪能。自由自在に使えるし、元々彼の語彙は豊富なのだ。 NHKの人形劇『ひょっこりひょうたん島』は彼が脚本を書いた。まだ白黒時代の放送だが、あれは愉快で楽しい話だった。若い頃はストリップ劇場で喜劇の台本を書いていたこともあったそうだ。そんな下地がきっと『吉里吉里人』を生んだのだろう。最後は淋しい結末で私の予想は外れてしまうのだが、彼の思考を知るためにも読んで良かった古本だった。 私がかねがね興味を抱いていたのが、最初の奥さんである西舘好子さんとの離婚。私はてっきり奥さんの浮気が原因とばかり思っていた。なぜなら次の結婚相手が彼が関係した劇団の主宰者だったからだ。だが今回ネットで調べて、そうではないことが分かった。原因は夫のDV。つまり家庭内暴力だった。井上は遅筆堂の異名があるほど文章を書くのが遅く、編集者泣かせの作家だった。それで筆が進まないとイライラして妻を殴ったのだとか。 締め切りが迫ると困った編集者は井上に殴らせるよう奥さんに頼んだそうだ。それで妻の頬は始終腫れ上がっていたのだ。小説の世界ならいざ知らず、これでは奥さんは堪らない。逃げ出すのは当然だろう。井上は仙台市文学館の初代館長で、彼が亡き後はお嬢様が彼のコーナーを引き継いだ。それで親しみがあったのだが、私の疑問は意外な結末で解けた。さて、今回が彼の著作を読んだ2作目。人間とは、そして人生とは実に不思議な存在だと改めて感じた次第。
2015.01.30
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<福州園・沖縄の中の中国(2)> 昨年の10月末、私は久米島マラソンの帰途、那覇に寄り市内を歩いた。立ち寄った先の一つが福州園。ここは中国福建省の省都である福州市が、那覇市との友好を記念して作った中国式の庭園だ。今日もその庭園を紹介したい。詳しい説明は昨日のブログを参照して欲しい。 塀の透かし窓も玉を持った獅子も、いかにも中国らしい雰囲気が漂っている。 13世紀に入ると沖縄本島の各地に豪族が現れ、競って中国との通商を始めた。中国の権威を借りるのと、中国から高い文化を導入し、貿易で収益を上げることが目的だった。やがて沖縄本島は中山王によって統一され、琉球王国が誕生する。そして中国の柵封体制下に入る。形式的に琉球王は中国皇帝の臣下となることによって貿易が許され、中国からは数年に1度柵封使が乗った船が那覇の港に着いた。 園内の石畳 浮き彫り 日本も古い時代から中国に使いを出していた。福岡県の志賀島から出土した金印がそのことを物語る。金印には「漢委奴国王印」と刻まれている。「漢の倭の奴の国」とは漢の支配下にある倭国(日本)の奴国(現在の福岡周辺にあった小国)との意味。奈良時代の遣隋使船、遣唐使船もそうだし、室町時代の勘合船も中国から学問や文化を学び、通商することが目的だった。だが大和朝廷は中国の臣下となる意思はなかった。それ以降の時代も全てそうだ。 巨大な石塔 中国は琉球王国を大琉球と呼び、台湾を小琉球と呼んだ。だが琉球王国は中国の柵封使に自由な行動をさせず、沖縄を島国と悟られないよう万全の注意を払った。もし島国と侮られたら、侵略される恐れがあったからだ。やがて琉球王国は八重山諸島を征服して傘下となし、その勢いで奄美諸島まで攻め入った。最盛期には貿易船が日本、朝鮮、中国、そして東南アジアの国々へと渡り、巨大な富で王国は繁栄した。 だがそれを日本は黙って見ていなかった。室町時代には足利将軍家が九州の大名に琉球を授ける約束をした。これは実現しなかったが、江戸時代早々、島津藩が琉球王国に侵入した。慶長14年(1609年)のことだ。勿論江戸幕府の承認を得てのことだ。東北で難破した琉球の船を救出したが、琉球王国から礼がなかったことも一因だった。100年前に武器を捨てた琉球王国は、わずか3日で島津藩の前に屈した。 中国はそのことを知らなかった。琉球王国と島津藩が隠したからだ。隠した理由は、もしそのことを中国が知れば、莫大な貿易の富を失うため。中国は形式的にせよ臣下となった国に対して、貢物の数百倍もの品々を与え、琉球王国はそれを貿易品として収益を上げていた。中国から柵封使が来ると島津藩の役人は地方に逃げて姿を隠した。こうして琉球王国は中国と日本に二重に帰属し、その体制が明治初期まで続いた。 明治新政府は琉球王国を「琉球藩」とした。そして琉球藩の船が台湾に漂着して蛮族に殺される事件が起きると、日本は清国に抗議して補償させると共に、琉球藩を沖縄県に改めた。これが「琉球処分」のあらましだ。かつて繁栄を極めた琉球王国はこうして日本の一部となり、琉球王は東京へ移された。勿論暴動を防ぐためだ。 さて、中国共産党は「沖縄は中国のもの」と主張し、機関紙で沖縄奪還を表明している。だが、沖縄は古い時代から日本語を話し、琉球王国の公文書は「ひらがな」で書かれ、本来の宗教は日本同様に原始神道だった。仏教も漢字も日本から伝わり、奈良時代の文献にも「阿児奈波」として名前が残っている。島の人が話した「おきなわ」がそう聞こえたのだろう。 今沖縄では極めて少数だが「独立論」を叫ぶ人がいる。またそれを正当と捉えるマスコミも存在する。愚かなことだ。日本の一部が日本から独立することなどあり得ない。昔から同じ日本人なのだ。もし間違って独立したと仮定しても、きっと中国に飲み込まれてしまうはず。それは香港の現実を見れば分かる。民主的な政治を守るとの約束も、早速反古になりかけているではないか。それに沖縄の米軍基地反対運動には中国からも資金が出ているとの噂がある。 福州園は友好の証として作られた中国式の庭園だが、建築後23年目にして所々に「破れ」が生じている。見た目は美しいのだが、きっと素材や工事が雑だったのだろう。私にはそれが中国の現実の姿のように思えた。見栄えは良いが、実態はお粗末なのが彼の国の本質だ。 自らは中華思想にどっぷりと浸り、周辺の諸国は全て蛮族。それが中国の古代からの根幹思想。そして日本の過去を責めながら、現在でもチベット族やウイグル族などを圧迫し続け、資源の収奪を欲しいままにしている一党独裁の国家だ。そこには自由などありはしない。そんな中国のどこが良いのだろう。沖縄は独立してどこへ行こうと言うのだろう。 中国の権威の象徴である龍柱だが、中国の権威もそのうち「化けの皮」がはげるのではないか。それはあまりにも中国国民の格差が大き過ぎるからだし、国家としての矛盾点があまりにも多過ぎるためだ。福州園の庭園を、どこか冷めた目で見ていた私だった。<続く>
2015.01.29
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<福州園・沖縄の中の中国(1)> 那覇市上空 昨年の10月、私は沖縄の久米島に行った。久米島マラソンを走るためだ。その帰路、那覇に寄った。那覇空港で仙台便に乗り換えるにはかなりの時間がある。そこで私は空港からモノレールで那覇の街へと出かけたのだった。下界に流れるのが国場川で、後で出て来る。 奥武山(おおのやま)公園駅で降り、公園内を歩いた。ここはNAHAマラソンのスタート、ゴール地点のある陸上競技場があり、私にとっては懐かしい場所。沖縄勤務時には奥武山球場へ良く高校野球を観に来たものだ。栽監督率いる沖縄水産が全盛期の頃だ。この公園の一角に池がある。池には石の橋が架けられ、シーサーが鎮座している。沖縄に馴染んだ風景だが、どちらもかつて中国から渡って来た文化だ。 公園を突っ切ると、やがて目の前に川が見える。ここが国場川。水が青く見えるのは、満潮で海水が上がって来るためだ。この川の畔が、かつてはNAHAマラソンのスタート地点だった。 この川に架かるのが明治橋。琉球王朝時代の奥武山は島で、舟で渡る風葬の地。明治になってここに初めて橋が架けられたための命名だ。橋の欄干に龍柱(りゅうちゅう)が立っている。これも中国渡来の物。龍は皇帝のシンボルで、民衆は勝手には使えなかった。中国皇帝が用いた龍は爪の数が多く、玉(ぎょく)を握っているのが特徴だ。首里城の宮殿前にも大きな龍柱が立っている。ここから私はさらに歩いて行った。 国道を若狭方面に左折した街中に、こんな龍がいた。首に通りの名前が書いてある。「くにんだなかみち」と読める。漢字では多分国村中道のはず。初めて聞いた名前だった。ここからさらに西の方角に向かって歩いた。 すると前方にこんな岩が見えて来る。「久米巌」と書いてある。久米は地名で、琉球王朝時代は久米村と呼ばれ、何人かの中国人が住んでいた港町。言葉が堪能な中国人は、琉球王国の貿易船に通訳として乗り込んだ。やがて彼らは帰化し、そのまま沖縄に残った。巌は岩の意味で、ここがかつて島だったことに因むのだろう。塀の内側に、小さな公園がある。 公園の名は「福州園」。福州は中国福建省の省都。琉球王朝時代、琉球王国の使節は必ず福州にある琉球館に立ち寄ってから都の北京へと向かった。福州は琉球王国の交易指定港だったのだ。これは明(1368~1644)の時代も清(1636~1912)の時代も変わらなかった。 平成4年、那覇市の市制70周年と福州市との友好都市締結10周年の記念事業として、福州市がここに公園を作った。公園内には福州を代表する山や川、塔などが再現されている。さて入場は無料だが、どこから来たのか、受付で記帳する必要がある。 ほらね。見えて来た風景には、どこか中国の雰囲気が漂ってるでしょ? 園内にはこんな人工の滝もある。これは川を再現したつもりなんだろうね、きっと。 木々の間から見える建物も独特の形をしてるねえ。 デザインも中国的だよね。 透かし窓も不思議な感じ。窓の間から樹木が見えるのがご愛嬌かな? 小さいけど園内には池もあるよ。 ほら、屋根の両端が飛び跳ねるような形をしてるでしょ。まさしく中国の建物だね。<続く>
2015.01.28
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何日か前の朝、居間のカーテンを開けている時、鼻の中を暖かいものが流れるのを感じた。これはヤバイ。そう思って急いでティッシュを千切り、鼻の穴に突っ込んだ。久しぶりの出血だが、なぜ鼻血が出たのかが分からない。 最初の鼻血は50年前の大学病院での手術。これは鼻の中からの「小手術」と唇の内側から切開する「大手術」があるのだが、私は両方とも受けた。病名は副鼻腔炎と鼻中隔湾曲症。つまり「蓄膿症」だ。大手術では曲がった骨をハンマーと「のみ」で削る。大変な痛みと出血だ。目隠しの隙間から流れた血がガラス瓶の中にドンドン溜まるのが見え、不整脈が起きた。あれが私が最初に経験した不整脈と、大出血だった。 2番目の鼻血は大阪勤務の時。今から18年前の話だ。この時は夜中に出血し、鼻にティッシュを詰めて、何とか止血した。原因はニンニクの食べ過ぎ。夕食時に焼いたニンニクの小片を8個ほど食べた。精力をつけようとしたのだが、無残な結果となった。 3番目の出血は6年前。この時は未明に大量の出血が起きて、止まらなくなった。妻を起こして救急車を呼び、大学病院の救急部に行った。救急車に乗ったのはこの時が初めて。救急隊員が「鼻出血」と言っていた。手当で出血は治まったが、その日のうちに近所の耳鼻科で鼻の中の毛細血管を焼き潰す手術を受けた。翌日は東京のお台場で24時間走レースに出、114kmを走った所で止めた。止めた理由は鼻血ではなく、鋭角のカーブを周回したため、膝を傷めたのが原因だった。 今回の鼻血はようやく夜になってから止まった。なかなか出血が治まらなかったのは、私が血液をサラサラにする薬を服用しているため。不整脈による血栓を防ぐため、出血があると大変なことになる。出血の原因は不明だが、高血圧の関係が疑われる。もちろん血圧降下剤は飲んでいるが、副作用があるのだろうか。10年ほど前には鼻の奥に痛みを感じてMRIを受けたが、異常はなかったのだが。 新年早々亡くなった義兄の納骨の日が決まった。告別式で百箇日供養まで済ませていたため、いつでも納骨は出来たのだが、墓石に戒名を刻む作業があったのだと思う。昨年の暮れには従姉が亡くなったことを聞いた。私と同学年だった。そしてその弟が脳出血で倒れたことも聞いた。彼らの生家は我が家の本家。仙台近郊の農家で、幼かった私達にとっては懐かしい家だ。まだ貧しかった頃、畑のリンゴや桃をたらふく食べさせてもらったっけ。 先日テレビで出羽三山の即身仏の番組を観た。生きながら自らミイラになった昔のお坊さんの話だ。即身仏になるためには「五穀断ち」「十穀断ち」と徐々に食べ物を制限し、最後は地中の箱に入る。肉体が腐敗しないよう、少量のウルシを毎日飲むようだ。そこまでして生きながらミイラになるのは、仏になって村民の平和を祈るためだった由。生きてる時も住民のために世話を焼き、死後も大いなる精神で人々に光を与え続けたのだ。 イスラム国に捕えられた日本人の人質に、その後変化があった。残念ながらそのうちの1人は、どうやら殺害された可能性が高いようだ。残った1人を解放する代わりに、今度は身代金ではなくヨルダンの監獄にいる死刑囚との交換を条件として持ち出した由。これは他国の政治的な判断を伴うため、解決には困難な道を辿るはず。1人の愚かな行動が、他人の生命にも大きな影響を与える結果となった。 ニューヨークの国際貿易センタービルがイスラム過激派に爆破されて以降、これまでに多くの血が流された。欧米人なども犠牲になったが、その代償としてその何十倍もの罪のないイスラム教徒の市民が誤爆のために死んだ。命を奪われたことで、新たな殺戮が起こる。まさに泥沼、負の連鎖だ。死は死を呼び、憎しみは憎しみを招く。命に代償などあるのだろうか。果たして命に宗教の違いがあるのだろうか。どうやら人間の業は、とてつもなく深い闇のようだ。
2015.01.27
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<塩竃神社点描(2)> こちらは塩竃神社の別宮である。ご祭神は塩土老翁神(しおつちおぢのかみ)。海の神、製塩の神で、こちらが塩竃神社が本来祀っていた神様だったのだろう。転じて航海の神、安産の神としてのご利益も高く、獲れた魚を献上する木製の「献魚台」も用意されている。 そしてこちらが拝殿。奈良時代に陸奥国府が仙台市郡山(太白区)から多賀城に移転すると、この神社に新たな使命が加わった。国府鎮護。つまり東北全体の安全を祈る神社としての存在である。 拝殿の入口 向かって右側にあるこちらが左宮。ご祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。茨城県の鹿島神宮に祀られている「武の神」で、当時の日本の最前線を守るため遷座して来たのだろう。藤原氏の氏神でもある。国府多賀城とは直線距離で約3kmほど離れている。そして塩釜港は当然国府津(こうづ)としての機能を持つようになった。 そして向かって左側にあるのが右宮。ご祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。千葉県の香取神宮に祀られている同じく「武の神」。武甕槌神と一対となってわざわざ東北まで国家鎮護のため遷座した訳だ。 塩竃神社に奉納された地酒である。門前には今でも造り酒屋が何軒かあり、新酒が出来ると店頭に杉玉を飾り、神社に造酒(みき)を奉納したのだろう。塩竃神社は平泉の奥州藤原氏によって守られ、藤原氏が頼朝に滅ぼされた後は奥州留守職となった留守氏の庇護を受け、留守氏が伊達氏の傘下となった後は仙台藩の伊達氏が代々篤く敬った。伊達氏が正式に参詣する際は、「藤原氏」を名乗ることが神社の古文書に残されている。 随神門の裏手。まさに「青丹よし」の色合いだ。 境内の小社にもそれなりの風格がある。 こちらは古木が龍のように枝を伸ばしている。 塩竃神社は参詣客が多く、境内の木の枝を傷つけないよう「御神籤」を結ぶ場所が別に設けられている。天然記念物の「塩竃桜」もこの境内にあり、神社の神紋として用いられている。 こちらは少し離れた場所にある志波彦神社。本来はここから直線距離で6kmほど離れた仙台市岩切(宮城野区)にあった。岩切は東山道の延長線上にあり、仙台から多賀城に向かう途中にある。中世期、岩切では市が開かれ、江戸時代には「奥の細道」となって芭蕉もそこを通った。明治期、恐らくは道路の拡張などの理由で移転を余儀なくされ、塩竃神社の境内に移ったと思われる。 神門越しに見える志波彦神社の本殿。塩竃神社は延喜式神名帳には載っていない別格の神社だが、志波彦神社は延喜式にある式内社であり、古い歴史を持つ。宮城県内にはこの「志波彦」の他に「志波姫」の地名があり、岩手県には「紫波城」などがある。「しわ」は「諏訪」と関係があると私は考えているのだが、真相はどうなのだろう。 志波彦神社本殿。こちらも大変な数の参拝客で賑わっていた。 志波彦神社の砂場。境内に相撲の土俵がある神社は見たことがあるが、砂場を見たのは初めてだ。さて、この砂場にはどんな意味があるのだろう。実に不思議な空間だ。 塩竃神社の広い境内には池もある。放生会(ほうじょうえ)でも行ったのかも知れない。境内は花見の名所であり、桜の咲く頃は大勢の花見客で賑わう。また、ここからは塩釜港が望める。なお、宝物殿では仙台藩が奉納した刀剣展が開催中だった。 東参道の神門。往路は急な表参道の石段を石段を登って随神門から境内に入り、帰路はこの神門を潜った。 東参道の石段(右側)はとても緩いため楽に登り降り出来る。参道の途中に竹藪があり、石灯籠が立っていた。この日は自宅から23km走り、駅と神社の往復で2kmほど歩いた。昼食を抜いたせいか、その夜体重を計ると2kgほど減っていた。<完>
2015.01.26
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<塩竃神社点描(1)> 1月11日。私は自宅から塩釜まで走って行った。最終目的地は塩竃神社。もうお分かりのように、神社だけは今でも「塩竃」と「かまど」を使い、他は簡単な「かま」の字を使っている。前回よりかなり日が開いたが、今日もまた塩竃神社の境内を紹介しよう。ここは陸奥国一宮として古代から東北の要である国府多賀城を鎮護する神社でもあった。 表参道の長い石段が見える。右側は鋳物で出来た灯籠。上部に菊のご紋が見える。 表参道入口付近にある狛犬。右が口を開いた啊(あ)像で左側が口を結んだ吽(うん)像。 高い石段の上にあるのが随神門。門の左右には木製の神像が納められている。 随神門の直ぐ横には新年を祝う門松が立てられており、手水舎には「謹賀新年」の標識があった。1月も半ば近くと言うのに、境内には参拝客が溢れていた。 境内の建物(左側)と参拝客が買い求める縁起物(右側) ご神木であった杉の年輪(左側)と境内のシャコ貝。塩竃神社は本来海や製塩の神を祀る神社。このため獲れた魚を奉納したり、このような南方の珍しい貝を奉納したのだろう。 境内にある小社。小社と言っても堂々たる雰囲気が漂っている。 こちらは境内の狛犬。左側が「あ」で、右側が「うん」。この狛犬も年代が古く、かなりの貫禄だ。なかなか良い表情をしてるでしょ? 金属製の古い灯籠越しに拝殿の側面が見える。 境内の建物では、新海苔の品評会が行われていた。海の神社ならではだ。優秀品は毎年皇室に献上される。 拝殿は右宮と左宮に別れているが、これは向かって右側にある左宮。朱塗りの拝殿が鮮やかだ。 これは別宮の側面。ここに祀られているのが塩や海の神で、きっと塩竃神社の本来の姿なのだろう。 静かな佇まいの東参道と東参道の入り口にある石灯籠。 <続く>
2015.01.25
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全豪オープンテニスの錦織選手は2回戦を突破し、今日3回戦を戦う。相手は強敵。どこまで勝てるか分からないが、全力でぶつかって欲しいと願う。大相撲初場所13日目。横綱白鵬は大関稀勢の里を取り直しの末に破り13連勝。これで33回目の優勝を決めた。大横綱大鵬の記録を破る前人未到の記録を作った。この分ならまだまだ優勝の記録を伸ばすのではないか。後に続く力士もこれは苦労しそうだ。 一方オーストラリアで戦っていたサッカーのアギーレジャパンは、残念ながら昨夜UAEにPK戦の末敗れ、準々決勝で姿を消した。敗因は何か。過密スケジュール、高い気温など考えられるが、それは相手も同様のはず。PK戦の1発目で本田が蹴り損なったのが全て。髪を金髪から銀髪に変えたのが悪かったか。銀は金より動ける範囲が狭い。おっと、これは将棋の話だった。 男のスポーツばかり取り上げては悪いので、一つだけ女性向きの話を書いておこう。何とレスリングのユニフォームを変更する考えがあるようだ。女子はこれまでのランニングシャツからビキニスタイルになるとか。男はウハウハだろうが、あのチャンピオン吉田沙保里選手は抗議し、もしビキニスタイルが採用になったら選手を辞めるそうだ。何と勿体ない。いや、困った事態になった。 スポーツニュースだけでなく、たまには芸能界のニュースを見ないこともない。先日驚いたのは矢口某の復帰。旦那の留守中に若い男を自宅に連れ込み、そこへ帰宅した旦那と鉢合わせして離婚した彼女だ。なんとまあ浅はかな女。そんな女の芸能界復帰などどうでも良いではないかと思うのだが。 さて某テレビ局の裁判にも決着がつきそうだ。女子大生の採用に関して、履歴書にクラブでのアルバイトを記入しなかったかどで採用中止になった女子大生が争っていた事件。裁判所の和解勧告に従って、採用に踏み切る由。テレビ局の女子アナがそれほど神聖な職業とも私には思えないのだが。 安藤美姫とスペインの貴公子との恋にも驚いた。彼女は未婚の母。子供の父親はフィギュアスケートをしていたN里君。彼は美姫ママの眼鏡に適わず、スケートを辞めて居酒屋チェーンで働いていたようだ。それだけ頑張ったのに、あっさり振られた。スペインの貴公子の年収は1億円以上。とても居酒屋のアルバイトでは太刀打ち出来ないだろう。彼女はさっさと日本から脱出したいそうだ。しかし女は強いねえ。今はそんな時代になったようだ。 三船美佳と高橋ジョージの離婚話にも驚いた。2人が結婚したのは彼女がまだ16歳の時。相手は23歳も年上のミュージシャン。長く芸能界のおしどり夫婦としてテレビを賑わせていた。だが年毎に彼女の不満が高まって来たようだ。離婚申し立ての理由は「モラハラ」。夫に束縛され通しで自由がないとの主張。今回の「事件」が明らかになって以降彼女の表情が明るいが、ジョージの表情は沈みっ放し。離婚の理由がジョージいや情事ではなかったことが唯一の救いかも知れない。 さて芸能界のニュースばかり追っている訳にも行かないだろう。世界ではイスラム過激派の事件が頻発している。フランスでも大事件が起き、続いてベルギーでも起きた。女性蔑視の過激派は困った存在。マララさん襲撃、アフリカでの女子生徒大量誘拐事件など、とても許しがたい行為だ。だが、だからといって教祖を揶揄するのは行き過ぎではないか。そう思って書こうと思っていた時に今回のイスラム国による身代金要求事件が起きた。 彼らに捕まった日本人の1人はノイローゼ気味の変な人。「自分はどうなっても良い」とか言って、ノコノコ危険地帯に入って行った。民間軍事会社などと言うのも奇妙だし、武器を手にした映像もとてもまともな神経とは思えない。一方のフリージャーナリストは立派な人。彼を救おうとしてイスラム国へ赴いたものの、ガイド役に騙されたようだ。今は敵に捕虜として「売り飛ばす」商売が横行しているようだ。 身代金2億ドルは余りにも巨額。そして交渉期限の72時間はあまりにも短か過ぎた。軍資金に苦しむ彼らは凶暴の極み。1人の日本人の愚かな行動が、もう1人の日本人を窮地に陥れた。イスラム国との仲介人になっても良いと申し出た人も何人か現れた。だがイスラム国から日本政府への正式な連絡はないと言う。彼らが通告した期限は既に切れた。今後事態はどう動くのか、皆目見当がつかない。世界は危険に満ちている。日本人はもっとそのことを心に刻む必要があるようだ。
2015.01.24
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先日の午後、私は小川の河川敷を走っていた。その時、岸辺に立っている鳥が見えた。白鷺のようだ。こんな小さな川に魚がいるんだろうか。しかも今は寒さが厳しい冬。鷺は全部で3匹いた。食われる魚も、食う白鷺も必死だと思う。鷺の姿が脳裏に残り、私は走りながら何とか俳句に出来ないか考え続けた。それが冒頭の二句である。 その数日後、今度は冬の鳥の俳句を作ってみようと思い立った。こちらはほとんどがイメージの世界。ど素人なのでろくろく季語も知らないが、そんなのはテキトーで良い。ともかく頭の中に浮かぶイメージを十七文字に置き替えてみる。こうして27の句が生まれた。単なる言葉遊びだが、老人の脳トレには十分だ。ご笑覧いただけたら嬉しい。 大寒や鷺悄然の象して *しょうぜん *かたち 鷺立ちし岸辺哀しき寒の夕 寒の入り鶴居ずまひを正しけり *いずまい 地吹雪や片脚の鶴身じろがず 眩暈せし鶴風花のごとく舞ふ *めまい *かざはな=風に舞う雪 雪の田や番の鶴の舞ふごとく *つがい 虎落笛ヒヨドリ一声風に鳴く *もがりぶえ=竹の切り株が放つ音 白鳥の孤独見つめし星七つ *七つ星=北斗七星 白鳥の夢凍らせて沼の漣 *さざなみを「なみ」と読ませる 北風や鳶眼を失ひぬ *トンビ *まなこ 木枯やよろけし鳶ピーヒョロロ *こがらし *トンビ 珊瑚樹やヒマラヤ越へし鶴の冬 *サンゴジュ 雪原に食はれし朱鷺の血の飛沫 *トキ *しぶき 冬晴れや鵯の声高くして *ヒヨドリ 冬木立鶺鴒の旅果てもなし *セキレイ 木枯やセキレイ尾羽忙しなく *せわし 鴎眠りニシン番屋の寒の月 *カモメ 海時化て鴎を狙ふ猫二匹 *しけ *カモメ 時化の海鴎狂ひて波に飛ぶ *しけ *カモメ 岩陰の雷鳥遠き雪崩聞く *なだれ 寒月や鴉の塒照らしけり *カラス *ねぐら 鴨今は眠りし沼の昴かな *すばる 昏き冬鴨潜りたる波紋かな *くらき 有明の月細々と鴨の冬 風花や鴨パンの耳奪ひあう *かざはな 小春日や家鴨の瞼塞ぎけり *アヒル *ふさぎ 電線に脹雀の十羽ほど *ふくらすずめ=羽毛に空気を溜めて膨れた冬の雀 真楠翁謹製 私のハンドル名である「マックス爺」は死んだ愛犬の名前を無断借用したものですが、作句の際に名乗る「真楠」(まっくす)はこの音に合わせた雅号です。
2015.01.23
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<大阪の街> 昨年の9月、日頃別れて暮らしている家族が大阪に集まった。私の古稀を祝う会を行うためだった。私達夫婦と東京の次男は前日から大阪に着いており、その日の朝早くからホテルを出て大阪の街を歩いた。 最初に向かったのが住吉大社。これは次男の希望だが、私も前から行きたい所でもあった。摂津国一宮だけに古い歴史を秘めるとても立派な神社で、奈良時代はこの付近にあった住吉の津から遣隋使船や遣唐使船が出航したようだ。 次に向かったのが聖徳太子ゆかりの寺である四天王寺。ここも次男のリクエストだったが、私は大阪勤務時代に訪れたことがある。境内から日本一ののっぽビル「あべのハルカス」が見えたのも良い思い出だ。 次に私の希望で大阪歴史博物館へ行った。ここは前から訪れたいと願っていた場所で、付近には古代の「難波宮」の跡地もある。博物館の展示は満足出来るもので、階段の踊り場からは目の前に大阪城公園が見えた。 そこから天保山へ移動。ここで高松の長女家族と合流。妻は何度か会っていたが、私は実に7年ぶりの孫達との再会だった。海遊館(水族館)を楽しんだ後、船に乗って大阪港を横切り、泊ったホテルの裏側にある桟橋に到着した。翌日の早朝はここからUSJへ向かうのだが、この日は夕方から道頓堀方面に出かけた。 恐らくは難波の地下街だと思う。さすがは大阪、大変な賑わいだった。 久しぶりの道頓堀。三浦洸一が歌った「大阪の人」の歌詞が浮かんだ。 赤いネオンの道頓堀に 影を映して唄う いとし愛のワルツ 聞けばまた湧く 逢いたいこころ ああ辛かろうと泣かない 大阪の人 (二番) 夕暮れが迫る道頓堀。堀の水が夕日に染まる。商都大阪は水の都。そして歌の都でもあろう。 有名なグリコの大看板は、「綾瀬はるかバージョン」になっていた。初めての道頓堀に興奮する孫達。何か大きなことが起きると、橋の上から下の川に飛び込む若者がたまにいる。 道頓堀周辺には面白い看板が多い。歌で有名な宗右衛門町もこの近くにあるようだ。そこで「宗右衛門町ブルース」の一節を。 きっと来てねと泣いていた かわいあのこはうぶなのか なぜに泣かすか宗右衛門町よ さよならさよなら又来る日まで 涙をふいてさようなら この夜は家族そろって焼肉を食べた。我が家もそして長女の家でも、滅多に外食などしない。妻は渋い顔をしていたが、これは私のおごり。孫達が美味しそうに食べる姿を見るのは、年寄りの秘かな喜びでもある。 法善寺である。織田作之助の「夫婦善哉」の舞台でもあるが、私が思い出すのは藤島桓夫が歌った「月の法善寺横丁」の方だ。 包丁一本晒に巻いて 旅に出るのも板場の修行 待っててこいさん 哀しいだろうが ああ 若い二人の想い出にじむ法善寺 月も未練な十三夜 そして法善寺と来れば水かけ不動。この日も大勢の善男善女がお不動さんに水を掛けようと、静かに順番を待っていた。 水を掛けられ通しの不動明王は、緑色の苔で全身を覆われていた。これも篤い信心の表れ。大阪の庶民の心なのだろう。 ここでも私は歌を思い出す。フランク永井があの美しい低音の声で歌った懐かしい「大阪ぐらし」だ。その歌詞が石碑にも刻まれていた。 がたろ横丁で行き暮れ泣いて ここが思案の合縁奇縁 おなごなりゃこそ願かけまする 恋の思案の法善寺 (二番) こうして大阪の街を堪能した私達は、再び難波駅からホテルへと向かったのだった。<不定期に続く>
2015.01.22
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<大阪・海遊館> ある方からもっと大阪のことを知りたいとのリクエストがありました。実は昨年の9月に大阪へ行った際の写真がまだ残っていました。私の古稀を家族で祝う会を大阪で開き、普段は仙台、東京、高松で暮らしている家族が合流したのです。その時に行った水族館、「海遊館」の魚たちが今日の主役です。最初はクラゲのオンパレードです。もしも嫌いな人がいたら、ゴメンね~!! どのクラゲにもちゃんと名前が付いてるのでしょうが、メモして来ませんでした。ゴメンね~!!でも、こうして見ると、なかなか幻想的ですねえ。 南方の色鮮やかな魚と巨大なナマコ。私はこれと同じナマコを沖縄の渡嘉敷島でたくさん見たことがあります。 どうやらタイの仲間のようですね。 こちらはハタの仲間でしょうか。 巨大なハタです。高級魚で味が良いらしいのですが。 座布団のようなマンタ(イトマキエイ)のようです。 海遊館の主、ジンベイザメです。性質はいたって穏やかです。 スタッフによる餌付けのショウです。餌に魚たちが寄って来ます。 ゴマフアザラシがじっとこちらを観ています。 人気者のペンギンたちです。 「生きてる化石」シーラカンスの標本です。マダガスカル島沖や、インドネシア沖の深い海に生息しています。 水槽を見つめる長女と2人の孫達。楽しかったね海遊館♪<不定期に続く>
2015.01.21
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<大阪・国立民族学博物館> 国立民族学博物館の展示物紹介も、今日が最終回になりました。一昨年の11月に「神戸マラソン」を走った前日、16年ぶりに訪れたこの博物館は私の8番目の職場でもあったことから、とても懐かしく感じたものです。では早速館内を紹介しますね。今日は東ヨーロッパと日本展示コーナーの一部です。なお、常設展の展示物は原則的に撮影が許可されています。 東ヨーロッパ地区の展示品です。恐らくはオルガンの自動演奏機だと思われます。手でハンドルを回して堅紙の楽譜を読みこませ、穴を通った空気の振動で楽器を演奏する仕組みです。 楕円形の物に色んな模様が付いていますね。これはイースター(復活祭)の卵です。東欧諸国では、国によって描く模様が異なるみたいです。 ルーマニア北部のサプンツァ村の「陽気な墓」です。亡くなった方の生前のお気に入りの姿が墓に彫刻され、観光の名所になっています。 聖職者を担ぐ人々でしょうか。ちょっと不思議な雰囲気の人形です。 ギリシャ正教では「イコン」と呼ばれる聖画です。テーマは聖母マリアと受胎告知の天使でしょうか。 こちらも同様です。テーマはイエスキリストの磔(はりつけ)図。信徒が処刑されたキリストを見守っています。 こちらは聖職者の肩かけと思われます。中央に十字架の「盾」が見えます。 ここからは日本展示コーナーです。豪壮な太鼓台はお祭りの主役です。 この大天狗は、確か南九州の物だったと記憶しているのですが。 巨大なわら人形です。手ぶれを起こしてしまいましたが、面白い感じが出ています。 「牛角」云々の文字が見えます。果たしてどの地方のものだったか? 奇妙な表情の人形です。どことなく南方系の雰囲気が漂っていますね。 お面も衣装も伎楽由来のものでしょうね。恐らくルーツはシルクロードだと思われます。 以上で国立民族学博物館の展示物紹介を終わります。専門家でないため、正確な説明が出来なかったことをお詫びします。同館は大阪府吹田市の万博公園内にあります。機会があったら是非一度お訪ねくださいませ。<不定期に続く>
2015.01.20
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<大阪・国立民族学博物館> 暫くお休みしていたこのシリーズを再開します。今回は大阪府吹田市にある国立民族学博物館の展示品を紹介します。一昨年の11月「神戸マラソン」に出場する際、16年ぶりくらいに訪れました。ここは私の8番目の職場でもありました。あの時に紹介し切れなかったのが少し残っていました。 この博物館では自由に展示品(常設展など)を撮影することが出来、一部は直接手で触れることも可能です。収集品は民族学(文化人類学)の研究のため、一般的な生活用品が中心です。私は専門家でないため、詳しい説明は出来ませんが、観るだけでも楽しめるのではないでしょうか。 ベトナムの水中人形です。実際に水の中で人形を操って観客に劇を見せます。ベトナムでの生活ぶりが良く分かって愉快ですね。 これも上の人形と同じで、水中で操作します。こちらは水牛を使って水田を耕す農民のようです。 ラオスの仏壇です。これらを含めた展示品は、私が勤務していた当時に研究者が収集して来たものです。当時は日本との交流もなく、ほとんど未知の国でした。ラオスの博物館運営に協力したこともあり、展示品の収集に便宜を図ってくれたようです。 仏画です。これは地獄の餓鬼の様子を描いたのでしょうか。 これも仏画のようです。地獄で火焔で燃やされる人の様子でしょうか。 こちらは天国の様子でしょうか。ハスの花を手にした人や、掘り上げたレンコンのようなものが見えます。 これはブッダを描いたのでしょうか。 ラオスの仏像です。材料は木のようでツルツルしています。日本の仏像とはかなり雰囲気が違いますね。 上の仏像と対をなすものでしょうか。 ラオスは共産主義の国家ですが、国内の交通網が発達してなかったこともあり、ほとんど未知の国でした。今、中国は中国南部からラオス、タイ、ミャンマーを通過してインド洋へ出る高速道路を建設するなどの援助活動を活発化しています。またメコン川の上流に次々と巨大なダムを建設し、下流の国々との水問題も起きているようです。このような地域研究もこの博物館の使命で、専門の研究家と連合大学院が置かれています。 地域の確認を忘れた展示物です。表情は東洋系のように見えます。股間の巨大な陽物がユーモラスですが、何やら不思議な像ですね。 これも地域の確認を忘れました。太鼓のようですが、たくさんの取っ手がついている不思議な楽器です。この博物館には、世界の楽器のコーナーもあります。<続く>
2015.01.19
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<樹木・モノトーンの世界(2)> 冬の樹木と雪の組み合わせは、いかにも寒々しい感じがします。そこで即興で作った俳句を写真に添えてみました。果たしてどんな感じになるかお楽しみに~♪ 煩悩を道連れにして大晦日(大晦日)*ぼんのう 喜びも哀しみも経て年の暮(大晦日) また一つ年去りにけり除夜の鐘(大晦日) 古稀過ぎて除夜の鐘聴くやもめかな(大晦日) 初春やこの一年も生き抜かん(元旦) 初日の出東雲の空染めにけり(初日の出) *しののめ 元旦の意気洋々のブログかな(元旦) 穏やかな年になれかし年始め(元旦) 新年ややるぞと吠へて天仰ぐ(元旦) 怨念を捨てて厄年初詣(初詣) 年毎に減る一方の賀状かな(元旦) 屠蘇に酔ひ駅伝に酔ひ年明けぬ(箱根駅伝)*とそ=酒 初場所や十年先の朝稽古(大相撲) 大望を秘めし晴れ着の二十歳かな(成人式) *はたち 松焚きや暖を取りつつ手を合はす(どんと祭) 冬の空裸参りの鐘の音(どんと祭) 海苔で食ひ納豆で食ひ餅尽きぬ(小正月) 小正月蜜柑僅かに残りけり(小正月)*ミカン <1月2日に逝きし義兄に捧げる> 新春や義兄も鬼籍に入り給ふ *あに 家族葬新春の通夜和みつつ 松の内過ぎ去らぬまま骨拾ふ 年始め骨を拾ひし竹の箸 白骨に還へりし義兄も歳男 *あに 骨壷の重きに惑ひ年明けぬ *まどい 冬の星座義兄の御霊か震へたり *あに *みたま 合掌 <不定期に続く>
2015.01.18
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<雪に耐える生命> もう新年も半月を過ぎた。元旦以来、まだブログを更新していないブログ友もいる。私のブログ友は年齢が高い人が多いので、健康が心配だ。何とか元気を出して頑張って欲しいのだが。 そして今日1月17日は「阪神淡路大震災」が起きた日。あれから今年で20年を迎えた。多くの犠牲者の霊に合掌したい。そんな想いを籠めて、今日のテーマは「雪に耐える生命」にした。文章は特に付けないので、自由に観ていただきたい。 冬。雪の中で植物達は皆生きるのに必死だ。今は寒さに耐えているこれらの植物達も、春になれば再び生き生きと葉を広げ、生命力を取り戻す。今は我慢の時。その姿がとても神々しく見える。<続く>
2015.01.17
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<雪の朝> 私がまだ子供だった頃、今から60年も前の話だが、静かな冬の夜は汽車の音が遥か離れた駅の方から聞こえたものだ。それはそれは物悲しい夜汽車の音だった。 高校1年の時、父が夜逃げ先の松山で死に、故郷の仙台に帰り一時叔父の家に厄介になっていたことがあった。高校2年からは放課後にアルバイトをした。帰宅は9時ごろ。雪の夜はとても静かだった。誰もいない畑の中の小道を、星を見ながら帰った。朝、目覚めると頭に雪が載っていることがあった。天井板がないため、屋根の隙間から入ったのだ。 元旦には年賀電報の配達をしたこともある。雪の坂道を自転車を押しながら、電報を配ったものだ。それをさほど辛いとも思わなかった。貧乏は若い頃から私の友達でもあった。 20代前半の勤労学生の頃は、バス通りに面した家に下宿していた。冬の朝はシャリシャリと言う音で目覚めた。「あっ、今朝は雪だ」。聞こえたのはチェーンの音。その頃は滑り止め用に、タイヤにチェーンを巻くのが一般的だった。 そんな訳で、北国にいながら私はスキーが下手だ。貧乏であまりスキー場へ行く機会がなかったのだ。私に比べたら妻の方がずっとスキーが上手。独身時代にたった1度だけ、彼女とスキーに行ったことがあった。それも遠い日の思い出になった。 昨年の暮れ、仙台では何度か雪が降った。雪国の方々には申し訳ないが、つい嬉しくなって雪景色を撮りに、近所の公園に出かけた私だった。一昨年の冬、仙台では73年ぶりの大雪になった。それでも降ったのは35cm。小学校の時にもっと降ったような記憶があるが、きっと背が小さいため大雪と感じただけだったのだろう。今は坂道でも、ソリで遊ぶ子供はいないが、私達が子供の頃は自分でソリを作ったものだ。 これがまあ終の栖(ついのすみか)か雪五尺 小林一茶の句である。彼は薄倖の人であった。嫁をもらったのは晩年になってから。その若い嫁も、確か何かが原因で亡くなったはず。彼が住んでいたのは信濃の国(長野県)の片田舎。冬ともなれば雪は五尺(150cm)も積るような村だった。 だが、一茶には次のような優しい句もある。 うまさうな雪がふうはりふうはりと 雪とけて村いっぱいの子どもかな ふうわりふうわりした美味そうな雪。そしてその雪が解けると、家の中から大勢の子供達が外へと飛び出して遊び出す。寒村でのそんな様子が目に浮かんで来る。 幾たびも雪の深さを尋ねけり これは病床にあった正岡子規の句。彼は若くして結核と脊椎カリエスに冒され、床に伏していた。まだ20代後半の時だ。恐らくこの句を作ったのは29歳ごろ。場所は東京のようだ。 障子あけよ上野の雪を一目見ん 同じ頃の句であろう。場所も上の句と同じ家だと思う。障子を開けて雪を見たいと頼んだ相手は、松山から上京して子規の面倒を見ていた妹だと思う。司馬遼太郎の小説を基にしたテレビドラマ「坂の上の雲」の場面を思い出す。妹役を演じたのは菅野美穂だった。 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ 三好達治の詩「雪」である。冬の夜、しんしんと雪が降る。太郎の家の屋根も次郎の家の屋根も真っ白な雪。その屋根の下で、こんこんと眠る子供の顔が思い浮かぶ。まるで童話のような詩だ。 私はまだ現役の頃、山形と石川で勤務したことがあった。どちらも日本海側の豪雪地帯で、雪の多さには驚いたものだ。その頃山形では一冬に何人ものお年寄りが亡くなった。屋根の雪下ろし作業で転落しての事故だ。石川では一晩に1mも降った。翌朝はスコップを持ち、それで雪を掘りながら職場へ行った。昔はもっと雪が多く、2階から出入りしていたと土地の老人が話していた。豪雪は今も雪国の人々を苦しめている。 雪景色を楽しむ太平洋側の人々を、彼らはきっと笑っているだろう。いや、それとも案外羨んでいるかも知れない。 我が家の庭の雪も今はすっかり融けている。そして先日まで連日乾燥注意報が出ていた。昨夜のうちに雨が降ったようだ。今狭い畑では、15個ほどの白菜が寒そうに震えている。そして土の中に埋められた大根は、残り7本ほどに減った。<続く>
2015.01.16
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昨日の午後3時。花火が打ち上げられる音が聞こえて来ました。1月14日の夜、仙台市内の各神社では毎年「どんと祭」が行われます。花火の音は、どんと祭が始まった合図なのです。 「とんど」、「左義長」、「松焚き祭」。この祭は全国で行われ、色んな名前で呼ばれています。昨年は市内で一番大きな「大崎八幡宮」のどんと祭を紹介しましたが、今年は近所の神社に正月飾りを納めて来ました。今日はその小さな神社のどんと祭を紹介しますね。 西多賀神社の境内に近づくと、灯が見え出しました。夜店が出て、たくさんの参拝客が集まっています。 眩しい光は焼きソバ屋さんから。 付近の子供達が大勢押し掛けていますねえ。 さて、どんな賞品が当たるかな? 人波をかき分けて前進すると、拝殿の前でどんとの火が燃え盛っています。 燃えろ燃えろどんとの火。私も持参した正月飾りを、火の中に投げ入れました。今年も一年健康でありますように。 カランカランと手に持った鐘の音。これは「裸参り」の鐘。下帯姿の男達がどんとの火の周りを廻っています。 この夜参加した裸参りはこの一組だけで、人数はわずか10名ほど。だって小さな神社ですもの。 これは地元の商店街の有志の方々。商店街も年々寂れる一方です。 善男善女が引いた御神籤を笹の枝に結びます。 カランカランカラン。裸参りの一行が、お参りを終えて帰ります。 お疲れ様でした~。裸で寒かったでしょう。風邪引かないようにね~!! 帰り道、私はもう一か所、鈎取八幡神社へも寄りました。 こちらの旧社格は村社。つまりかつての村の鎮守様ですね。 神社の前では、行儀良く参拝客が順番を待っています。 消防団の方が注意しながら火の世話をしています。 う~む。こちらの方が火の勢いが良いねえ。 こちらは火の直ぐ傍まで行けますよ。やっぱりこれじゃないとねえ。 人々はどんとの火に祈ります。家内安全。商売繁盛。世界平和。そして今年も健康で一年を過ごせるようにと。 境内の夜店は地元の町内会のお世話。甘酒一杯いかがです~? テレビの画面から この夜のニュースでは、大崎八幡宮の裸参りは約3千人と言ってました。やはり規模が全然違いますね。(注)今朝の地元紙によれば、大崎八幡宮の裸参りの参加者は121団体で3800人。参拝客は8万人とのことです。
2015.01.15
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<塩竃神社の風景> 表参道にある標識 今日のテーマは塩竃神社。表参道の入口にある石の標識に、このような文字が刻まれている。これが塩竃の旧字体。パソコンに慣れた私達にはとても書けそうにもないが、高校時代のクラス担任がスラスラと書いた時には驚いた。国語の教師だが、良くもこんな複雑な字を間違えもせずに覚えられるものだ。 左側の尖塔には「東北鎮護」の文字が見える。そして右側の鳥居の扁額には「陸奥国一宮」の文字が。神亀元年(724年)、国府多賀城が築かれた。それ以来塩竃神社は多賀城を鎮護するための神社となり、塩釜の港は国府津(こうづ)としての性格を帯びた。今でもその名残に香津(こうづ)の地名が残っている。延喜式の神名帳には載っていないが、塩竃神社は古代より朝廷から別格の扱いを受けていたようだ。 表参道の石段である。ここから丘の上の神社までどれだけの高さがあるか分からないが、ともかく急で登ると息が切れる。 祭礼の際は、この急な石段を神輿が上り下りする。恐らく神輿の重さは1トンを下るまい。それを担ぐ神官も氏子も皆必死だ。そして石段の表面には、滑り止めのために色んな形の「刻み」が施されている。 長い石段を登ると、さらにまた石段が続く。その上にようやく随神門が見えて来る。 随神門の扉には菊の紋章が施されている。右側は随神門を照らすための吊り灯籠で、神紋の塩竃桜が浮かんでいる。 拝殿正面。塩竃神社は弘仁11年(820年)撰の弘仁式に、国より祭祀料一万束を下されたとの記録があるのが初出。神紋は塩竃桜。この拝殿の向かって右側が左宮で、左側が右宮となっている。 左宮に祀られている祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。 そして右宮に祀られている祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。二柱の神は鹿島神宮、香取神宮に祀られている神と同様に、一対の神として扱われているようだ。 こちらが同じ境内にある別宮で、祭神は塩土老翁神(しおつちのおぢ)。つまり神話海幸彦、山幸彦伝説で失った釣り針を捜してくれたこの神が、本来祀られていた主祭神。国家戦略上の「東北鎮護」は後から加わった使命なのだろう。この神は海や塩が神格化されたもののようだ。また航海安全と安産の神でもある。 海苔の品評会(後出)会場に飾られていた絵。確か「絹帳の神事」とか書かれていたはず。神が帳(とばり)の内側に隠れて、秘かに遷移する神事のようだ。伊勢神宮の遷宮時にも、同様の儀式が執り行われる。 塩竃神社の神輿を参考までに載せておく。(東北歴史博物館特別展の冊子から借用)境内は桜の名所で、塩竃桜は天然記念物。 こちらは本塩釜駅構内にあった塩竃神社の祭礼の写真。 「海の神社」らしく、別宮の傍には「献魚台」が置かれていた。また境内の一室では、新しい海苔の品評会が行れていた。最優秀賞に輝いた海苔は、皇室に献上されるようだ。 縁起物 絵馬 御神籤 仙台名物「松川だるま」 縁起物である「松川だるま」は、青い色で塗られるのが特徴で、毎年少しずつ大きなサイズのものを求める風習がある。 左側は東神門。右側は東参道の石灯籠。灯籠のある近辺に、かつての別当寺である神宮寺があった。この日は23kmを走った後で2km歩いたが、結局昼食は摂らずに終わった。体重は年末年始の最大時より2kg減少していた。別な境内にある古社志波彦神社など残った写真は、改めて別な機会に紹介したい。
2015.01.14
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塩釜港の遠望 1月11日日曜日。私は自宅から塩釜まで走りに行った。23kmの旅の目的地は塩竃神社。遅くはなったが初詣を兼ねてのランニングだった。着替えをしたのはJR本塩釜駅の多目的トイレ。そこから歩いて神社へと向かった。塩釜は東北でも有数の漁港で人口は5万6千人。昔から塩竃神社の門前町として栄えて来た。さて、「塩竃神社」の「竃」は「かまど」で湯を沸かす「釜」と本来意味が違うが、字が難し過ぎて神社でしか使わず、塩釜でも良いことになっている。その街の様子を見てみよう。 これはお菓子屋さん。「志保がま」と言うらくがんに似たお菓子が昔から有名だ。 太田屋 こちらも県道3号線に沿った店。太田屋さんは味噌や醤油の醸造元だ。 造り酒屋さんの店頭に吊るした杉玉。出来たての神酒はきっと神社に捧げられるのだろう。 こちらは県道から少し入った所にある御釜神社前のお茶屋さんだ。 塩竃神社参道付近の先ほどとは別の造り酒屋さん。大きな酒樽が良く目立つ。 ここのディスプレイはなかなかの優れ物。 酒瓶のデザイン(左側)と正月飾り(右側) 「奥の細道」の洒落た記念碑。芭蕉と弟子の曾良は、元禄2年(1689年)の旧暦5月8日に塩釜を訪れてこの付近に一泊し、翌日9日の早朝塩竃神社に参拝した。当時は海が迫り、2人はここから舟に乗って松島へ向かった。 下水のふた。デザインされているのは塩竃神社の境内にある「塩竃桜」だろう。 御釜神社の鳥居。御釜神社は塩竃神社の境外末社で、祭神は塩土老翁神。つまり製塩の神様だ。 鳥居の扁額。こちらは「竈」ではなく「釜」の字を用いている。 境内の内側から見た鳥居。 雪吊りを施した境内の松(左側)。ここは海に近いため、雪はそんなには降らないはず。右側は摂社の藤神社。 堂々たる風格の小社(左側)と製塩用の釜を納めた小屋(右側) 御釜神社には製塩用の釜が全部で4基あるそうだ。そのうちの一つが外から見えるこの小屋に納められている。 製塩用の巨大な釜。松島湾沿岸には縄文時代の大きな貝塚が何箇所かに残っている。またその当時の製塩遺跡も多い。それだけ昔から製塩を行って来た訳だ。塩作りには幾つかの方法があるようだが、この御釜神社には釜の水の色で吉凶を占う神事が伝えられている。 本塩釜駅の構内に張られていた御釜神社の製塩神事。恐らくは海水を浸した海藻から塩を造る藻塩焼きではないかと思う。古代は付近にある国府多賀城へ献上する塩を造っていたようだ。国府多賀城を鎮護する塩竃神社へも当然納められただろうし、現在でも納められていると思う。<続く>
2015.01.13
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スタート前 9時15分、自宅を出発する。行き先は塩竃神社だが、ゴールはJR仙石線の本塩竃駅。背負ったリュックの中身は着替えで、重さは3kgもないはず。痛みを感じて、右膝にはエアサロンパスをしゅっと一振り。タイツはサポート機能があるものを履き、念のため右膝にはサポーターを着用した。上着は長袖のTシャツのみ。寒くなったら薄手のウインドブレーカーを着る積り。問題は足がどこまで持つかどうかだ。 アスト長町にて やはり風が冷たい。この日の気温は5度になると言うが、風が吹けばきっと体感温度は零下だろう。それでも私の場合走っていれば、この服装で大丈夫。長町で最初のトイレと給水。そこから新しい街を突っ切り、国道4号線のバイパスを目指す。妻が本当に走れるのか心配していたが、ダメな時は電車に乗るからと言って納得してもらった。「ジョギングシュミレーターで計測した距離は22.5km。最近の練習は長くても11km止まりなので、それが少し心配だ。 広瀬川の河川敷 千代大橋の上から河川敷を見ると、大勢のランナーがいた。ここは私が所属する走友会の練習場所。念のため河原まで下りてみると、走っていた集団は若いランナーだった。仲間が1月2日に塩竃神社へ参拝ランしたことは、HPで知っていた。名取市から往復50kmを走破した模様。私はとても無理だし、その日は義兄が亡くなった日でもあった。当初は4日に予定していたが、通夜や告別式があってこの日(昨日11日)になったのだ。 遠見塚古墳 家を出る前、妻が「とうとう1人になった」と話していた。実兄が死去し、実姉が認知症とパーキンソン病とで近々入院することになるかも知れない。兄弟で1人だけ取り残された気持ちだと言うのである。分からないでもないが、私はずいぶん前からそのことは覚悟を決めて来た積り。結局人は1人で死んで行くのだと。妻は来年度も仕事をする予定とも話していた。今年誕生日が来たら69歳になるが、自分の励みになると言う。 そこで私は言った。「俺のランニングも同じようなものだよ。実際に走れるかどうかは分からないけど、挑戦する気持ちが無くなったら終わりだ」と。バイパス沿いの遠見塚古墳に立ち寄る。ここは高校時代に叔父の家に厄介になってた所。もう55年も前の話だが、畑の土の上に土器の破片が幾らでも落ちていたし、滑石製の「紡錘車」を拾ったこともあった。優しかった叔父もずいぶん前に亡くなり、あのボロ家も今はもう無い。(参考)遠見塚古墳は全長110m、後円部の直径63mの東北で第4位の大きさを持つ前方後円墳で、国の史跡に指定されています。 陸橋の上から古墳を撮り、バイパスの向こう側へ渡る。北風が強く、鼻水が出る。そのまま国道45号線まで直進。もう15kmは走ったはず。45号線にぶつかった所で右折。長い旅だ。足が全く伸びない。鈍足の亀ランナー。いや亀と言うよりかたつむりランナーだ。空腹を感じてポシェットから干し柿を出し、2つ続けて食べる。遠見塚古墳ではチョコレートを食べ、ミルクティーも飲んだのだが、ガス欠にならないようエネルギー補給は欠かせない。 梅田川河川敷 最近はダイエットに励んでいた。年末年始にご馳走を食べて酒を飲んでいたら、見る見るうちに体重が増えたのだ。それに十分走れなかったこともある。代謝機能が老化で落ちて、簡単には痩せなくなった。それで最近では1日2食にしていた。それも慣れると空腹を感じなくなった。日差しが出て暖かく感じたのは20分間ほどで、再び風が冷たくなった。今度は海からの東風だ。 泉ヶ岳 あれはどこだったか、「塩竃まで8km」の標識。それはおかしいと思ったら、間もなく6kmの標識発見。だがそこから疲労のため距離感が狂って、ゴールが遠く感じるようになった。宮城野区からようやく多賀城市に入る。何度か人に尋ねながら、塩竃への近道を捜す。ようやく下馬の三叉路から左折。ここからは一本道のはずだが、最後に間違って少しだけ遠回りをしてしまった。 本塩竃駅前にて 本塩竃駅にゴールしたのは1時26分。23kmに4時間11分もかかってしまった。多目的トイレの中で着替えをし、ようやく暖かい服装になる。そこから御釜神社を経由して塩竃神社まで歩く。正月ももう11日と言うのに、日曜日のせいか、参拝客が結構目につく。東参道を過ぎて表参道へ向かう。この周辺は芭蕉が「奥の細道」の旅で泊った場所。当時は神社の直ぐ近くまで海が入り込んでいた模様。長くなったので神社の話はまた明日にしたい。<続く> 塩竃神社東参道の鳥居 なお、昨日は帰宅後遅くまでかかって写真整理をしていたため、ブログ友へはどなたへもお邪魔出来ませんでした。この場を借りてお詫びします。
2015.01.12
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<沖縄で見た花と植物> このシリ-ズでは私が旅した際の写真を紹介しています。今回は昨年の10月に走った「久米島マラソン」(フル)で訪れた久米島と沖縄本島で見かけた花々と植物達を紹介しますね。 重要文化財である上江洲家住宅(久米島)の庭で見かけた彼岸花です。私が黄色い彼岸花を見たのは、今回が初めてでした。 こちらでは黄色い彼岸花は珍しくないのか、島の至る所で咲いていました。中にはこんな群落もありました。でも逆に赤い普通の彼岸花は、全く見かけませんでしたよ。 ハイビスカスは沖縄の花の定番ですね。色も形も様々な種類がありますが、上江洲家住宅の庭に咲いていたハイビスカスは、昔ながらのどこにでもある花でした。沖縄では四季を通じて咲いています。 上江洲家住宅のハイビスカスをアップしたものです。いかにも南国らしい花ですね。 「久米島マラソン」のレース中に撮った花です。名前は分かりませんが、どことなくネジバナに似た雰囲気がありました。でもねじれていませんけどね。 那覇空港で見かけたブーゲンビレアです。室内のためか、外で咲いているものよりも色が淡いですね。 旅行最終日、沖縄本島那覇の街中で見かけたサンダンカです。この花は、強烈な色をしています。 那覇の国際通りで植木鉢に植えられていたノボタンです。花弁が割れた変種で私は初めて見ましたが、珍しいですね。 久米島のホテルの庭にあったアダンの実です。パイナップルにちょっと似てますね。熟れた実はヤシガニの大好物で、木に登って食べるそうですよ。葉は台風の塩害で少し枯れかかっていました。 左側はホテルの庭にあったタコノキの実です。これは小笠原諸島と沖縄にしかない植物です。右側はヤシの実です。ホテルの売店でジュース用に売っていました。1杯1400円だそうですが、貴方は飲みますか~? 久米島で見かけたサトウキビ畑です。こちらも台風の塩害で葉が枯れかかっていました。成長が遅れるため、例年より砂糖の収穫量は落ちるようで心配です。レース中にもサトウキビ畑の中を通りましたよ。 那覇市奥武山公園内の拝所(うがんじゅ)付近で見た木々です。亜熱帯植物らしく、枝から無数の気根(きこん)が垂れ下がっています。これが地上に達すると支柱根として台風にも負けない強い木に変身します。 那覇市内で見かけた木の根っこです。こちらも台風に負けないよう、しっかりと地中に根を張っています。木は確かホウオウボクに似た種類だったと思うのですが。 左側は那覇市の奥武山公園で見たトックリヤシノキです。徳利のような形をしたこの木は、沖縄ではどこででも見られます。右側は国際通りで見たクロトン。鮮やかな葉が特徴です。この木の枝を、沖縄では仏前に供えます。つまり本土の榊(さかき)などと同じような役割を果たしているのです。 那覇市内の福州園(沖縄との長い友好を記念して中国の福州市が建てた公園)で見た竹です。種類は恐らく中国原産のホウライチクだと思われます。 奥武山公園内で見かけたクワズイモです。サトイモの仲間ですが、アルカロイド系の毒を持っているため食用にはなりません。でも、琉球王朝時代の飢饉時には、無理やり食べたこともあったのでしょう。<続く>
2015.01.11
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<沖縄の工芸品> あまり寒々しい写真ばかりが続くのもなんなので、時々別のテーマも入れようかと思う。昨年旅行した時に撮った写真が、まだたくさん紹介しないまま埋もれているので、それらの中からアットランダムに紹介することにしよう。今回は昨年10月に参加した「久米島マラソン」で沖縄へ行った際の写真。トップバッターは工芸品にしたので、楽しんでほしい。 久米島のホテルの売店にあったシーサーです。シーサー(獅子)は沖縄では守り神になっており、屋根の上や門柱の上などに置かれています。これはとても愛嬌がありますね。 左は久米島のホテルにあったもの。右は那覇の街中で出会ったシーサー。 左は那覇の国際通りを守るシーサー。右は国際通りの土産物店にあったもの。最近の作品は表情が豊かですね。 上とこれは那覇空港の売店にあった小さなシーサーです。 上とこちらは国際通りの土産品店で見かけたシーサー。やはり質感が違いますね。 工芸品としての琉球ガラスは戦後間もなく、島に駐留する米軍のコーラの瓶を溶かして作られたのが最初です。最近では質が高い作品が各地のガラス工芸工場で作られるようになりました。とても美しい色の琉球ガラスは、NAHAマラソンの完走メダルにも採用されています。 上と同様に久米島のホテルにありました。 以下は国際通り、及び那覇空港の売店で見かけたものです。 昔は単純な色しか出せなかったのが、今ではこんな深みのある色の作品が増えています。 微妙な色が良いですねえ。 透明感があって良いなあ。沖縄の美しい海の色を思い出しますね。 鮮やかな赤も素敵です。 那覇市の奥武山公園では、前日まで産業祭が開催されていたようです。この日(10月27日)は片づけている途中の焼き物を撮らせてもらいました。 那覇市の国際通りの真ん中辺りに平和通りの市場があります。そこを抜けてひめゆり通りへ行く角に壷屋地区があります。沖縄の焼き物はここで生産される壷屋焼きから始まっています。最近では沖縄本島中部の読谷村周辺に窯を開く陶芸家(業者)が増えているようです。 沖縄の焼き物は本来生活用品が中心でした。だから分厚くて丈夫な陶器が大量に作られたのです。魚のモチーフは、人間国宝だった故金城次郎氏が使い始めてから広まりました。 これは抱瓶(だちびん)と言います。本来は農民が腰にぶら下げて農作業中に水を飲むための水筒でした。腰にフィットするようカーブしています。実用品だったものが、今では工芸品です。 「だちびん」の裏側です。裏側にまでデザインがあるのは珍しいですね。モクマオウ(木麻黄)の葉っぱをデザインしたようです。こうして見ると、カーブしてるのが良く分かりますね。 那覇空港で見かけた織物です。沖縄の織物にはミンサー織や花織などがあります。素材は木綿では久米絣(かすり)が有名で、夏涼しい芭蕉布は高級品で、無形文化財に指定されています。染色で有名なのは紅型(びんがた)。これは琉球王朝の王族が着用したものです。写真の織物は観光土産用のものと思われます。 那覇空港内で見かけた装飾品です。いかにも南国らしいデザインが目を引きます。<続く>
2015.01.10
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<樹木・モノトーンの世界(1)> 冬、落葉樹は全ての葉を落としています。そんな姿で寒さに耐え、じっと春を待っているのです。その枝や幹に、白い雪が積ります。全くのモノトーンの世界です。色の乏しい世界ですが、シンプルなだけに、心に迫るものがあります。今日はそんな写真に添えて、もらった年賀状を紹介しますね。 2番目の職場の後輩S君からは「男の料理教室」仲間と青森、八戸の魚市場へ買い出しに行き、「ねぶたの家」でねぶたを観た」とのコメント。奥様も同じ職場だったがお元気そうで何よりだ。名古屋在住の研修仲間K君からの賀状は、今年もヨーロッパ旅行の写真が。昨年はスエーデンの古城を訪ねたようだ。私も外国へ行きたいな♪ 宮崎の弟からは「ボケ爺になったけど元気です。ゴルフは週2回ペース」とある。どちらも再婚同士だが、幸せそうな様子が伝わって来る。奈良の走友Iさんからの賀状は夫婦で走った奈良マラソンの写真。昨年は20レース中15レースを一緒に走ったようだ。仲が良くて羨ましいね。それに夫婦ともレベルの高さに驚く。 大学の後輩I君からは「里山や団地の行事に追われている」とある。でもこれは奥様の字。奥様も彼と同学年だった。もう45年も前に会ったきりだが、元気そうで何よりだ。宮城の走友Tさんからは例年の通り参加したレースの詳細な報告。昨年末でフル以上のレースの完走は138レースになった由。今年は年内中に150レース達成を目指すとある。まさに鉄人の領域に達したようだ。 山形勤務時代の部下Sさんからは、自宅裏山にあるゴルフ場で季節雇用での勤務を始めたとある。平日は格安で廻れると書いてあるが、生憎私はゴルフをしないし、第一「足」がないもんねえ。鳴門勤務時代の野球仲間M教授からは、大阪で還暦野球をやっているとのコメント。太ったとはあるが、ユニフォーム姿が様になっている。 筑波勤務時代の先輩Fさんからは、フルマラソン挑戦、中国語小説の読破、健康野菜の安定生産が目標とあった。宮城UMCのM会長からは、「今年も無理せず故障せず、日本各地の大会を楽しみながら走り廻りたい」とある。今年75歳になる会長だが、その元気さには脱帽だ。 大学の先輩O氏からは「ビジネス界では生涯現役で頑張ります」とある。定年後起こした企業は順調なようで何よりだ。東京及び筑波勤務時代の上司I氏からは「今年87歳。年いよよ水の如くに迎うかな」の一句。最後にお元気でとある。今も気にしてくれていることに感謝だ。 筑波時代の後輩J君からは「昨年もスペインに旅行し、孫の世話のため夫婦で札幌に出かけることが多い」とある。写真にも好々爺ぶりが良く表れている。大学の後輩T君からは「昨年出来たのは第九の合唱と野菜の大量収穫」とある。写真は合唱時のもの。蝶ネクタイが良く似合ってるね。 大阪勤務時代の走友O君からは「最近は仕事の前に早朝ランニングをしている」とある。一念発起、どうやらランニングを再開したようだ。高校時代のクラスメートA君からは「シルバー人材センター」に登録したとある。彼は中学浪人なので既に72歳。ますます壮健で何よりだ。 宮城UMCの先輩F氏の賀状には石川啄木の歌。「何となく今年はよい事あるごとし 元日の朝晴れて風なし」 神戸のNさんはいつも通り細かい字で昨年の出来ごとが詳細に記されている。昨年はかつて走った「萩往還」の山口を訪ね、大分から阿蘇を経由して熊本まで2回走ったとある。かつてはギリシャ「スパルタスロン」を走破した勇者も、今はたった1人でマラニックを楽しんでいるようだ。 今は淋しい姿のこれらの木々も、春になると一斉に若葉を芽吹き、美しい花を咲かせます。それを楽しみにして春を待ちましょう。<続く>
2015.01.09
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<雪の中の花と実> 第2回の今日は雪の中で頑張って咲いている(いた)花と実の写真です。東北の冬は厳しく、咲いてる花はごく限られています。これは12月半ばに撮ったもので、今は既に枯れたのもあることでしょう。写真に添えて、今年もらった年賀状を紹介する文章を書いていたら、更新直前にシステムエラーで全部消えてしまいました。約2時間かかったのが消えてガッカリ。気を取り直して再度書けるかなあ? 葉ボタン 娘一家からの年賀状には昨年一緒に行ったUSJの写真。孫のMちゃんからは「楽しい思い出をありがとうございました。次に会えるのを楽しみにしています」と。今年はいよいよ中学校も最上級だ。頑張ってねMちゃん。妹のRちゃんからは「USJ楽しかったです。今年もよろしくおねがいします」とある。とてもきれいな字だねRちゃん。爺ちゃん婆ちゃんも嬉しいな。そして今年も会えたらもっと嬉しいけどね。 葉ボタン 水戸の走友Kさんからは「なかなか膝が治らないので、目下登山に挑戦中。昨年は常念岳や北大日岳に登った」とある。常念岳は長野のブロガーの写真で観ていたので良く知っている。別れてから12年も経っているのにこうして年賀状をくれるとは嬉しいね。沖縄の走友Hさんからは、NAHAマラソン30回連続完走の知らせ。初回から70歳までの連続記録はアッパレ。暑い沖縄での練習はさぞ辛いものがあるはず。走友の快挙を心から祝福したい。 葉ボタン 亡くなった埼玉の友人の奥様からは「無事3回忌を済ませてホッとしている。昨年はツーリングで沖縄、奄美、東北、北海道を走った」とある。お元気で何より。天国で友人も喜んでいるだろう。仙台の走友Tさんからは「昨年も富士登山競争に挑戦し、念願の個人ジムを開設。今年も専門資格取得に向けて熱く突き進みたい」との力強い言葉。 ヴィオラ 千葉に住む妻の従兄からは「定年後も地域の児童保護育成に携わるほか、本格的なブドウ作りに取り組みたい」との便り。岡山の走友Iさんからは「数年前の乳がん手術に続き、昨年は股関節を人工関節に置き換える手術を受けた」旨の近況。かつては超長距離を走るウルトラランナーのまだ若い彼女が、まさかこんな過酷な運命に出会うとは。ともあれ希望を失わず、元気で暮らして欲しいと願っている。 パンジー 石川勤務時代の上司Mさんからは、「私も還暦を迎えます。ビックリです」のお茶目な年賀状。エリート族の彼とはたった1年の付き合いだったが、一緒に野菜を育てたことがあった。80代も半ばを過ぎている沖縄勤務時代の上司の年賀状は、チェコのプラハで描かれた油絵。「旧年も立派な記録を作りましたか」との添え書き。私が走っていることを記憶しているみたい。有難いことだ。 パンジー 徳島勤務時代の部下からは「上の子が大学受験の年になりました」とのコメント。当時はまだ独身だった彼女が、もうそんな歳になったんだねえ。月日の早さに今さらながら驚いている。筑波時代の麻雀仲間からは「今年はぜひ出席して欲しい」との賀状。幹事のF氏からは早速不都合な日があれば知らせるよう求めて来た。今年の会場はどうやら筑波のようだ。麻雀はもう3年近くしていないが、果たしてルールを覚えているかどうか。長くなるので続きはまた明日。 サザンカ サザンカ ヒマラヤユキノシタ ヤツデ 菊 バラ バラ イチゴノキ 珍しいイチゴノキの名前はブログ友Huちゃんから教わったもの。花が咲き終えるとイチゴのような赤い実が生るようだ。その実を観るのを楽しみに待っていたい。 ナンテン ナンテン ピラカンサス ヤブコウジ カキ 2回も書き直してすっかり手がかじかんでしまったが、無事更新出来るかな。途中まで「実」の紹介を忘れていたけど、思い出して良かったよ。<続く>
2015.01.08
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太平洋側にある仙台では、冬も滅多に雪が降ることはない。いや、雪は時々降るが、あまり大雪にはならないと言った方が適切かも知れない。そんな仙台でも昨年の暮れには何度か雪が降り、一面の銀世界になったことがあった。雪に苦しむ豪雪地帯の人から見たら叱られるかも知れないが、こんな雪景色は案外嬉しいものだ。このシリーズでは、暫くの間、雪景色を楽しんでいただけたら嬉しい。<あれっ、こんなものが♪> 外は今、猛烈な北風が吹き荒れている。東北の冬は長い。これから先も当分この厳しい寒さと戦わなければならないだろう。だからこそ気持ちだけでも暖かくしておきたいものだ。昨日は暖かいメッセージをお寄せいただき、ありがとうございました。この場を借りて心から御礼申し上げます。<続く>
2015.01.07
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義兄(妻の兄)のお通夜と告別式を終えた。いずれも身内だけの家族葬だった。義兄は地区の世話役もやっており、交際範囲も広かったのだが、まだお正月と言うこともあって遺族は家族葬を選択した。結果的には、やはりこれが良かったようだ。とても厳かでかつ和やかな雰囲気の中で、100か日までの法要を済ませることが出来た。 導師は言う。人間朝に道を聞いて、夕べには白骨になると。またこうも言った。清めの塩は用いないで欲しい。浄土真宗では死は穢れたものと考えてはいないと。なるほど人間の生はいかにもはかない。72歳の誕生日を目前にして、義兄は幽冥の世界へと旅立って行った。 義兄と最後に会って話したのは昨年の夏。お盆の時に妻の実家の墓参りをした帰りだった。前立腺がんなどの手術を受けたことのある義兄だが、あの頃はまだ元気だった。あれから腰が痛み出し、歩行にも杖を使用するようになった由。既に病魔が義兄の脊髄を冒してがん細胞を増殖させ、圧迫骨折を起こしていたのだろう。懇意にしていた内科医の診断で専門病院に転院して検査を受けたのが先月半ば。それからまだ3週間もしないうちに義兄は帰らぬ人となった。 喪主は妻である義姉が勤めた。長い間色んな病気と戦って来た義兄夫妻。今回も看護などで、きっと疲労が蓄積していたはずだ。それでも3人の子供に支えられながら、何とか喪主の務めを全うした。私が妻と知り合ってから48年。妻の家族とも46年以上の交流があった。あれから生まれた妻の兄弟の子供達、つまり甥や姪は今やすっかり成人となり、その子らも早い者は高校生になる。 孫を代表して、中学1年生になる姪の長男が送る言葉を述べた。とても心が籠った優しい送辞。血が繋がり、愛された数々の思い出があるからこその言葉だった。義兄には4人の孫がいる。一番下のまだ1歳5カ月の孫は祖父の死を理解出来ず、元気良く斎場の中を走り回っていた。その無邪気な姿が、悲しみに暮れる遺族の心を慰め、癒してくれたように思う。 つい先日まで話していた義兄の声は、記憶の中に留まるだけになった。あの笑顔も、今は写真の中でしか見られなくなった。義兄には話したいことがあったが、話せないままに終わった。きっと残された3人の子供達も同じ気持ちだったのではないか。大きな体をした義兄が、今では小さな骨壷に収まっている。まさに導師の読んだ経文通り、朝に道を聞いて、夕べには白骨になるそのものだ。 今回のことで、私は時代が変わったことを知った。今はもう子供達の時代、甥や姪の時代だ。私達が死んだら、きっと彼らが葬儀の中心になるはずだ。そしてこれだけ核家族化すれば、「家族葬」は益々増えるのではないか。家族に見送られてあの世へと旅立つのも悪くない。私はそんな風に思えた。 若い頃から私には死や狂気を異常なほど恐れる気持ちが強かった。だが、歳を取るにつれて、次第にそれらとも慣れ親しむことが出来るようになって来た。きっと何事にも準備期間が必要なのだと思う。生命あるもの全て、いつかはそれを喪失うのが定め。だからこそまだ生きている時は思い切り笑い、思い切り泣き、出来るだけ仲良くしないとね。義兄の冥福を心から祈って。合掌。本日から再びコメント欄を開けさせていただきますね。
2015.01.06
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昨夜遅く、妻の兄が亡くなりました。少しの間ブログをお休みします。また申し訳ありませんが、コメント欄を閉じさせていただきますね。皆様のところにもお訪ね出来ませんが、ご了承ねがいます。寒さ厳しい折りから、どうぞご健勝で過ごされますよう。
2015.01.03
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正月2日の朝もきれいに晴れた。この日もやや睡眠不足気味。前夜の風呂の時間を次男の生活パターンに合わせるため、どうしても就寝が遅くなるのだ。朝から日本酒を冷やでいただく。ぐい呑みで5、6杯も飲んだろうか。結局これがいけなかったのか、後でとんでもない事態を招くことになる。餅は1個で良いと言うのに、次男が食べなかった分1個を、妻が私の茶碗に入れた。これも苦しみの原因になった。 私の年賀状 自室に戻って「箱根駅伝」を観ながら届いた元旦に届いた年賀状を読んだ。沖縄の友人、職場の後輩は興奮気味に辺野古への米軍基地移転に怒っていた。どうも観念的過ぎて、国土防衛のことなど頭から吹っ飛んでいるようだ。2番目の職場の先輩は文部科学大臣表彰を受けた由。この方は早目に職場をリタイヤして、書の道に進んだ。1番目の職場の先輩からは、6年ぶりくらいに年賀状をいただいた。恐らく代筆だろうが、まだお元気なのが分かって嬉しい。 大学時代のクラスメイトからは、同級生同士でテニスをしているとの消息。その相手からも同じことが書かれ、そのうちに会いたいとあった。仙台の走友Aさんの年賀状は、昨年出場したレースの写真。昨年はフルマラソンを5回ほど完走している。70代半ばなのに元気なものだ。大阪勤務時代の同僚Iさんからの賀状には、瀬戸内海で釣り上げた1mを越える太刀魚の写真。腰と膝を傷めて困惑中とある。 広島のTさんは大阪勤務時代の上司。昨年の大雨で土砂崩れの被害を受けた地区に住んでいたため心配していたが、どうやら被災地区ではなかったようで一安心。沖縄勤務時代の先輩T氏は、昔から漁に使われていた小舟サバニの模型作りに勤しんでいる由。山形勤務時代の上司、北海道のT氏からは7年ぶりくらいに賀状をいただいた。お元気そうで何よりだ。筑波勤務時代の先輩S氏は、毎朝ウォーキングをされている由。もう80代半ばのはず。 年賀状を読んでいる途中、急に気分が悪くなって来た。脂汗が流れ、胃の具合が良くない。慌ててトイレに駆け込み戻す。餡子餅2個分を吐いたら何とか体調が回復した。老化で消化機能が落ちているのだろう。それに酔いが廻るのが速くなった。この日もランニングか早歩きをする予定でいたが、無理しないことにした。 気分転換に畑の芽キャベツを初収穫し、ハート型に並べて写真を撮った。これは妻が茹でて、夕食のサラダの付け合わせになった。箱根駅伝は5区の登りで青山学院がトップの駒沢大を抜いた。2位に明治大学、3位に東洋大学が入り、駒沢の選手はフラフラしながら何とか4位でゴールに倒れ込んだ。5位中央学院、6位早稲田、7位東海大が復路は到着順の時差スタート。以下の13校は一斉スタートになる。 そこまで観戦した所で病院から呼び出し。入院中の妻の兄の容体が急変した由。郊外の病院まで甥の車で急ぐ。ドクターの話によれば骨髄のがん細胞が50%を越えて血液を再生出来ず、人工呼吸器での呼吸。胸部の圧迫骨折も数か所ある由。3時間ほどしたら血圧が安定し帰宅。ほとんど寝ていない義姉に代わって、姪が病室に残った。登山や写真が好きだった義兄。私より1歳年上で、昨年の夏まで野菜を作っていたと言うのだが。自分の体調と相まって、老後の健康について考えさせられた一日だった。
2015.01.03
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元旦の起床は5時過ぎ。大晦日は除夜の鐘を聞いてから寝たので、睡眠時間は5時間ほど。それでも起きて、いつも通りブログを更新。7時過ぎには1階の居間に降り、妻と新年の挨拶。シャッターを開け、妻がようやく書き上げた年賀状を持って近所のポストへ。道路は前夜の雨と雪がガチガチに凍って、アイスバーン状態だ。危ない危ない。そうそう仙台の初日の出は予め準備した写真のとさほど変わりはなく、美しい新年の夜明けだったよ♪ 夜更かしした次男も、案外早く起き出して台所を手伝っていた。その間に私は次男が前夜飲んだ缶ビールの缶やペットボトルなどを始末し、生ごみを堆肥作りのコンポスト容器に捨てた。新聞屋さんがいつもより遅い時間の新聞を届けてくれた。大きなビニール袋に入った分厚い新聞。中を開いたら、「初売り」の広告がたくさん入っていた。 丸テーブルの上に、手作りのお節料理が並ぶ。刺身は次男が切って盛り合せてくれたもの。年末の30日の夜は彼が「寄せ鍋」を作り、大晦日の夕食は彼が「すき焼き」を作ってくれた。銀座の料理店で勤務したことのある次男は、料理のセンスが良い。全部揃うのを待ち兼ね、一人日本酒を冷やで飲み始めた私だった。 鏡餅も花もそうだが、我が家の正月は意外と質素。年金は減る一方のため、将来に向けて妻は無駄遣いを極力避けている。刺身などは妻と次男が年末に選んだもの。私も一日だけ妻の買い物に付き合ったっけ。それに一年の初めである元旦から洗濯機を使い、気温が上がった後に洗濯ものと布団を私が干した。 ともあれ、私、妻、帰省した次男の3人で新年の乾杯。東京の長男は元旦の今日も仕事。高松の長女一家は、ようやく夫君が単身赴任先から帰って、一家で新年を迎えたようだ。次男は初めてボーナスを支給された由。それは嬉しい話だが、将来に向けて貯金しておくよう私が諭すと、「それはちゃんと考えているようだよ」と妻。のんびり屋の次男も、少し変わって来たかと年老いた父は感慨に耽る。 お正月は良いもんじゃ 油のような酒飲んで 木っ端(こっぱ)のような餅食って 雪のような飯(まま)食って これでもとっさん正月か これは日本のわらべ歌。昔の庶民は貧しくて酒などはなかなか飲めず、餅や白いご飯を食べられるのは正月くらいなものだった。それ以外の日は、芋や野菜が主食だったのだろう。今は日本も豊かになり、飽食の時代になった。きっと若い人達はこんな歌を知らないだろうし、飢えた時代があったことすら知らないと思う。 だが第二次世界大戦のさ中に生まれ、戦後の食糧難の時代に少年期を過ごした私は、強烈な飢餓を何度も体験している。食べたくても食べるものが無かったあの頃。小学校の貧しい給食が、大変なご馳走だった。進駐軍が提供してくれた脱脂粉乳すら、私は美味しく感じたものだ。あの給食が無ければ、私達は栄養失調に陥っていたに違いない。 その経験があるからこそ、私はどんなことにも感謝することが出来る。暖かいねぐらがあり、食べ物があり、家族があることを有難く思わないとね。油のような酒も飲んだ。雪のようなままは食べなかったが、木っ端のような餅は1個だけ食べ、妻が作った我が家のお節料理を結構食べた。お礼の気持ちを籠めて、食後の食器は全部私が洗った。 昼食代わりに食べたのは小さなバナナ1本、ミカン1個、そしてかき揚げなど。そして酔いが醒めるのを待って、近くの公園まで走りに行った。道路はかなり融け出したが、まだ凍っている個所もある。ほとんど人のいない公園を、一人黙々と走る。最初は苦しかった胸が、次第に楽に感じられるようになる。今年も元気に走れたら嬉しいが、体の衰えは誰よりも自分自身が良く知っている。走った距離は11km。今はこれがせいぜいの私だ。 元旦のこの日観たのは、ニューイヤー駅伝やグレートレース、それに正月恒例のお笑い番組をちょっとと、東京の街の歴史を訪ねる旅など。本も少しだけ読み始めた。当初は4日に帰ると言っていた次男が、3日には東京に戻るらしい。どうやら老親のいる家は退屈なようだ。そうか。若者には、こんな静かな日常は飽きてしまうのだろう。 私の同級生達は、今年7回目の歳男を迎え72歳になる。だが3月生まれの私は、人よりも1年近く遅れてようやく71歳。さて、今年は自分にとってどんな年になるのだろう。先ずは健康第一。健康でないと全ては始まらないものね。今日はまだ読んでなかった年賀状を、早速読んでみよう。
2015.01.02
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皆さん、明けましておめでとうございます!! 今日は2015年、平成27年の元旦です。年頭に際し、皆様のご多幸とこの一年のご健康を、心からお祈り申し上げます。合わせて拙いブログですが、今年もどうぞよろしくお願い致しますね~!! さて、この一年はどんな年になるのでしょうね? 出来れば健康で充実した年になって欲しいなあ。 高浜虚子の俳句に 去年今年 貫く棒の如きもの と言う句があります。 去年(こぞ)、今年と人は分けて言うけど、その実態は1本の棒のようなもので、何も変わったところはない。そんな意味だと私は理解しています。昭和25年、虚子78歳の句で、人生を達観した様子が窺えます。 同じ虚子の句に 春風や闘志いだきて丘に立つ と言うのがあります。 春風は普通「はるかぜ」と読みますが、ここでは「しゅんぷう」と読みたいものです。新年早々、厳しい北風が吹く丘の上に立って、今年もやるぞと秘かに闘志を燃やす若々しい姿が目に浮かびます。 春は名のみで風はまだ冷たいけど、何とか自分の人生を切り開きたい。そんな強い想いがこの句から伝わって来ます。 大晦日の夜は除夜の鐘を聞きました。カレンダーは今日から新しいものに変わりました。 手帳代わりのランニングノートも、2015年のものに引き継ぎました。 今年も出来るだけ充実したブログにしたいものです。改めてこの一年も、どうぞよろしくお願いしますね~!!なお、写真は予め用意したもので、本日の天候とは無関係であることをお断りしておきます。
2015.01.01
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