2006.12.08
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カテゴリ: 山口雅也馬鹿



日本推理小説界の四大奇書に連なる第五の奇書」

本屋でそんな帯タタキが目に入ってきた。
他の本は読んだ事ないが、夢野久作の愛読者としては
『ドグラ・マグラ』と並ぶ名作というような書かれ方をされたら
読まないわけにはいかない。

2001年9月11日。
推理作家・火渡雅は奇妙な経験をし、その中で右目の視力を失う。
火渡がその体験を小説仕立ての手記として記した・・・それがこの「奇偶」である、という設定だ。


ここまで続くものは“偶然”と呼ぶのだろうか?
何らかの意志が働いている“必然”ではないのか?
作家である自分が視力を失ったことにも何か意味があるのではないか?
彼は次第に“偶然”とは何か?
そして“偶然を必然的に自分に振りかける神の存在”を偏執的に追い求めるようになる。


「奇偶」は上下巻のバランスが悪い。
分厚い上巻に対し、ちょっとした短編程度の薄さの下巻。
つまり全体の大部分を占める上巻は、
自らの体験を元に、火渡が様々な人物と交わす「“偶然”とは何か?」という
形而上学的な論議が中心となる。
神学・哲学・物理学・数学そういったものを組み合わせ

推理小説・・・いや、小説とすら言い難い
小説の体裁をとった著者・山口雅也による「偶然論」というべき内容である。

“偶然”を考えるという事は“確率”を考える事も避けては通れない。
当然万物の“存在”そのものに関わる「不確定性原理」
つまり「粒子の位置は確率でしか表せない」という理論にも触れる。



その辺りは、こないだ読んだ 「数学的にありえない」 を思わせる。
そういえば 上巻の感想文 では「ドグラ・マグラ」を思い出したという表記がある。
この2作品に間をおかずに出会ったことも“奇妙な偶然”だろうか?

下巻でようやく推理小説になる。
もちろんネタバレになるので多くは語らないが
想定の範囲内とは言え、推理小説の常識を超えた終わり方をする。
いや、これは推理小説なのだろうか?
そもそも“どこが終わり”なのだろうか?

どの登場人物が正常で、どの人物が狂っているのか?
どこまでが現実で、どこからが“そうでない部分”なのか?

色んなものの境界線が曖昧になり、そして崩壊し
これまでの物語や伏線といった情報が行き場を失い、読み手の脳髄に押し寄せる。



どうやらこの本が、『ドグラ・マグラ』と並ぶ奇書である事は認めざるを得ないようだ。





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Last updated  2012.10.21 23:25:15
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