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一般的な子育てや教育では、お母さんや大人たちが子どもたちに「大人に合わせるよう」に求めています。そして多くの人が、それがしつけや教育の目的だと思い込んでいます。そのように思い込んでいる人は、子どもに対して大人の要求通りに行動するように求め、言うことを聞かない場合にはアメとムチを使ったり、あれこれ説得したりしてなんとか子どもを「大人の要求」に従わせようとしています。それが行き過ぎて子どもがケガをしてしまったり、時には死んでしまっても「しつけのためだった」と言えば許されると思い込んでいます。その「しつけ」のために、心に大きな傷を負ってしまう子もいっぱいいます。そのような子育てを受けて育った人は、自分自身の子育てでも同じようなことをしようとします。そして、それに従って大人に対して従順になってしまう子もいます。でもそのような子は自分の感覚で感じようとしません。自分の頭で考えようとしません。自分の意思で判断し行動しません。というか出来ません。なぜなら、それが出来ない状態になってしまっているから、お母さんに対して従順でいることが出来るのですから。それでも、会社に入って仕事をして、お金をもらって、普通の社会人として生活することは出来ます。人生の目的がなくても、周囲の人と繋がれなくても、「生きている意味」が見出せなくても、ゲームや娯楽などで日々楽しく暮らすことも出来ます。まあ、それも一つの人生の在り方ですから、それで満足できているのなら何の問題もありません。でも、そのような状態の人は結婚して子どもが生まれると「子育て」や「夫婦関係」で苦しむことになってしまうのです。それでも男性は「子育て」を母親に押し付けることが出来ます。子どもの成績や行動に問題が起きたら「母親の育て方の問題」として母親を責めることも出来ます。本来、子育てにおいては「父親の責任」も大きいのですが、でも、そのことは無視します。というかそもそもそのことを知りません。子どもは母親に対して積極的に「母親としての責任」を要求しますが、父親に対してはそのような要求をしないからです。そもそも、父親が子どもと関わろうとしなければ、子どもは父親に「お父さん」を求めようもありません。それどころか最近は妻に対して母親的な役割を求める「子どものような夫」まで増えています。幼い頃からお母さんに何でもやってもらっていたので、自分では何もできないのです。そして、お父さんがそのような状態だと、子どもも思春期を迎えることから色々な問題を現し始めます。精神的な自立が出来ないからです。お母さんは子どもがちゃんと勉強をして、ちゃんと片付けて、ちゃんと学校に行って、ちゃんと自分の言うことを聞いてくれているのなら、自分の感覚で感じ、自分の頭で考える能力が育っていなくても、精神的にいつまでも幼い子どものような状態でも、自分のことを自分で出来なくても、母性本能で世話をしてしまうのです。その結果が、そのような「お父さんになれない父親」を育ててしまっているのです。そんな父親に手を焼いているのに、多くのお母さんが自分もまたそのような父親を育てるような子育てをしているのです。そのような「子どもを追い立てる子育て」「大人の価値観に合わせた子育て」をしている人の話を聞くと、「私が追い立てないと勉強しない」、「私が追い立てないと片づけない」、「私が追い立てないと学校に行かない」、「私が追い立てないと・・・」などと言います。つまり、そのような人は、子どもの「成長しようとする意志」や「人間らしさを求める本能」を信じていないのです。またそれには、「なんでも早い方がいい」という現代人の価値観も大きく影響しています。環境を整え、働きかけて待っていれば時期が来れば自然に出来るようになるのに、時期が来る前にやらせようとするから、追い立てないとやらないのです。でも、子ども自身が求めるようになる時期が来る前に追い立ててやらせた勉強や学びは身につかないのです。受け皿が整っていないのにいっぱい色々なものを乗せようとしてもこぼれてしまうだけなんです。また、追い立ててやらせると、本来その時期に体験すべきことが体験出来なくなります。学ぶべきことを学ぶことが出来なくなってしまいます。その結果、「見かけは大人、中身は欲求不満の子ども」という状態の大人に育ってしまうのです。
2024.09.26
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子どもが困ったことをした時、言われたことをしない時、一生懸命に子どもに説明したり、子どもを説得しようとしているお母さんをよく見かけます。でも、ほとんどの場合、その言葉は子どもに届いていません。それは子どもの様子を見ているとよくわかります。お母さんの言葉が届いていないから、同じことを繰り返すのだし、まただからそういう状態になってしまっているのです。いくら丁寧な言葉で優しく教えても、いくら易しい言葉で上手に教えても、その話を聞く気のない人、話を理解する能力がない人には伝わらないのです。日本語しか分からない人に英語で教えても伝わりませんよね。それと同じように、「子どもの言葉」しか分からない時期の子どもに「大人の言葉」で説明しても伝わらないのです。同じ日本語で話していても、子どもと大人とではその使い方が違うのです。男性と女性とでも違います。さらに言えば、言葉は一人一人違います。それは「その人の言葉」は、その人の感覚や、思考や、体験や、知識や、知的能力や、言語能力や、心やからだの状態の影響を強く受けているからからです。砂漠で生まれ育った人に、ジャングルの話をしても通じません。お金というものが存在しない社会の人に、経済の話をしても通じません。日本人とフランス人や中国人などの外国の人は最初から異なった言葉を話しています。だから通訳や翻訳機が必要になるのですが、でも、いくら上手に翻訳してもらっても「心や、感覚や、文化とのつながりが強い言葉」は伝わらないのです。「ひらひら」「ふわふわ」「むくむく」「きらきら」などのオノマトペの意味を英語に訳して伝えても、日本人が感じている「ひらひら」「ふわふわ」「むくむく」「きらきら」の感覚は伝わらないのです。そういうことを無視して、いくら「上手な教え方」を学んでも意味がないのです。じゃあどうしたらいいのかということですが、まず、「子どもはどのように学んでいるのか」、「どのように学ぼうとしているのか」ということを観察と思考と学びによって理解するところから始める必要があります。子どものしつけや教育において大事なのは、「教え方」を知ることではなく「子どもはどのように学んでいるのか」ということを知ることなんです。それが分かっていない状態でいくら「教え方」を学んでも意味がないのです。その学びの基本は「真似ること」と「体験すること」です。幼い子どもは「言葉による学び」の前に「体験による学び」が必要になるのです。言葉だけでもある程度は学べるようになるのは思春期が来てからです。でも、大人になっても「体験とセットになった言葉」でないとその言葉のことを深く理解することは出来ません。「作用、反作用」という物理現象も、言葉だけで学ぶのと、実際に押し合ってみて体験しながら学ぶのとでは、理解度が全く違ってしまうのです。その体験による学びを促すためには、「真似をしたくなるきっかけ」と「真似をしたい対象」と「真似が許される環境」が必要になります。これは遊びでも、しつけでも、学校での学びでも同じです。学校の先生は「教え方」は学んできたでしょう。でも、いくら「教え方」が上手でも、子どもに「真似をしたい」、「話を聞きたい」と感じさせような働きかけが出来なければ、授業は出来ても教育は出来ないのです。しつけでも同じです。どんなにいっぱい教え、叱り、説明しても、お母さんが「子どもにとって魅力的で話を聞きたい、真似をしたい対象」になっていなければ、お母さんの言葉は子どもの心には届かないのです。だから、しつけのために子どもを追い回すのではなく、子どもと一緒に色々な体験をし、安心を与え、子どもの気持ちに寄り添い、子どもとの間に信頼関係を築くことが、結果として「より良いしつけ」につながるのです。
2024.09.25
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最初に群馬で10月から始まるワークの告知をさせて頂きます。お申し込みも、以下のサイトから出来るみたいです。今回は「表現する」ということをテーマにします、もちろん気質の話しもします。「自分らしく生きる」ということは、自分を表現しないことには絶対に実現しないのです。「どのような子育てをするのか」ということもまた自己表現です。周囲を見て、周囲に合わせ、みんなと同じように子育てをすることばかりに一生懸命になっている人は「自分」を生きていない人です。篠先生の親の土台を育てるワークSeason2Event by ゆずり葉学舎 and 村西 有希 on 木曜日, 10月 24 2024******************子育てには正解がありません。ですからマニュアル化も出来ません。だって、その対象となる子どもが一人一人違っているのですから。「似た子」はいますが「同じ子」は絶対にいないのです。また、親もまた一人一人違います。ということは親子の関係も「子どもと親の組み合わせ」ごとに異なるということです。それはつまり、Aさんが自分の長男にやって上手く行った方法を、Bさんが自分の子に真似てやってみても「同じ結果」になるかどうかは不明だということです。逆にAさんがやって失敗した方法で上手く行くことだってあります。またAさんが長男に対して上手く行った方法を兄弟の他の子にやっても上手く行くとは限りません。同じ親に育てられた兄弟たちでも、みんな一人一人感じ方も、考え方も、心やからだの状態も異なるからです。そんなこと「みんなが知っている当たり前」のことのはずなのに、なぜか多くの人が子育てや教育にマニュアルを求めるのです。いっぱいマニュアルを調べて、それを「自分と我が子にあった方法を考え出すヒント」にするのならいいのですが、それを「正解」だと思い込んでしまうと困ったことが起きてしまうのです。その方法を自分の頭で考えた人は上手く行ったとしても、それを真似しただけの人はほとんどの場合上手く行かないのです。コピーにはオリジナルと同じ力がないからです。自分の力でオリジナルを創り出した人にはそれだけの土台があったのです。でも、結果だけを見て真似した人にはその土台がないのです。科学では「再現性」ということが重要視されます。「誰がやっても、同じ材料と環境をそろえ、同じ手順で同じことを行えば同じ結果が出ます」ということが科学では重要なんです。でもこれは「自分の意思」を持たないものに対してしか有効ではないのです。だから、自分の意志を持った子どもが30人いるクラスで、先生が同じことを同じように教えても、「子どもが学んだ内容」、「学びの深さ」は30人みんな違うのです。一生懸命に先生の話を聞く子もいれば、友達とのおしゃべりに夢中で全く聞いていない子もいます。同じように一生懸命に聞いた子でも、自分の趣味や興味や感覚に合わせて聞いているので、先生の話から吸収した中身は違います。それは何人かで一緒に森に行って同じような体験をしても、一人一人感じたこと、気付いたこと、学んだことが違うのと同じです。そんなこと、「日常的に誰でも体験している当たり前のこと」のはずなのに、なぜかみんな、その「当たり前」のことを無視して、「一人一人の子どもに合わせた子育てや教育の方法」を工夫しようとしないのです。それなのに、上手く行かないと「子どものせい」にします。でもそれが、「子どもという存在の特性」「人間という存在の特性」であるのなら、その特性を無視して上手く行かないのは親や先生のせいなんです。子どものせいではないのです。多くの大人が、思った通りに子どもが行動しなかったり、勉強しなかったり、しつけや教育がうまく進まないとそれを子どものせいにするのです。また、多くの大人が「子どもは生まれつき大人が教えなくても学び、追い立てなくても色々なことを学ぼうとする強い意思」を持っているということを知りません。そして大人の指示や命令に従わせ、しつけや勉強を押し付けています。でもその結果、子ども達が本能として持っていた「学びに対する意欲や意志」が萎えて行ってしまうのです。そして、大人の予想通りに「大人が追い立てないと行動しない子」に育っていきます。<続きます>
2024.09.24
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なんで現代人は「みんな一緒」「みんな同じ」にしたがるのでしょうか。自然界に存在するものは全て「世界に一つしかない存在」です。カラスは世界中にいるでしょうが、「全く同じカラス」は一つとして存在しません。ちなみにインドのカラスは黒くありませんでした。桜のソメイヨシノは全て接ぎ木で育てているので、遺伝子的にはみんな同じです。それでも、育った場所の気候風土や、光や、土や、周囲の環境に合わせて異なった姿かたちや大きさに育っています。月や太陽や地球の状態も影響しているかも知れません。そしてその組み合わせは無数です。人間の場合は環境や遺伝子だけでなく、自分の自由意思を持っているのでさらにその状態は複雑になります。ある人から細胞を取ってクローンを作っても、100%同じにはならないのです。それは一卵性双生児の研究でも確認されていることです。でも人間はその「みんな違っているもの」を「これは人間」「これは桜」「これはカラス」「これは男性」「これは女性」と抽象化することで「同じもの」として扱おうとします。その働きによって生まれたのが「言葉」です。その「言葉」を得たから人間は抽象的な思考をすることが出来るようになったのですが、その「言葉」を得たがゆえに、目の前にあるものを「ありのままの姿」で見ることが出来なくなってしまったのです。目の前にいる人を「女性」とか「男性」というカテゴリーで見ることで「女性」とか「男性」という枠を超えた「その人らしさ」を見ることが出来なくなりました。「男女平等」という考え方、見方も同じです。男性と女性を分けてから、「この二つは同じなんだよ」と説明しても、一人一人の「らしさ」を否定しているという点では同じです。また、「分ける」という作業をするから「中間的な状態の人」の扱いに困ってしまうのです。肉体は女性でも精神的には男性としての自覚を持っている人もいれば、肉体は男性でも精神的には女性としての自覚を持っている人もいます。さらには肉体的にも男性器と女性器の両方を持っている人もいます。人間は、人工的に作り出した「縦割りの社会」を維持する都合上どちらかに分けたがるのですが、自然界はみんな横につながっているだけで、縦割りには出来ていないのです。そして「からだ」も「性」もその自然界に属しています。でも、縦に分けたからこそ見えてくる現実や真実もあります。分けたからこそ「違いの意味」を知ることも出来るのです。科学はこの「分ける」という働きによって支えられています。だから、病院には婦人科が存在しているのです。婦人科が存在していることを「性差別だ」と言って騒ぐ人はいませんよね。(多分)それは、男性と女性は社会的な存在としては同等ですが、動物的な存在としては異なった存在だからです。問題は子育ての場における「女性」と「男性」の問題です。「子育て」は、「時代の変化と共に変化している社会的な要素」を多く含んでいます。そのため、子育てのありかたや、しつけや教育のあり方は社会の状態を強く反映しています。今は「平和は良いことだ」「無駄は減らそう」という教育をしていますが、戦争中は「敵を殺せ」と教えられ、高度経済成長の頃には「消費は美徳だ」と大量に生産し大量に廃棄していました。子育てでも、高度経済成長が始まる前は「地域のみんなで育てよう」という意識がありましたが、高度経済成長が始まると、子育ての責任は個々の家族に押しつけられるようになりました。家族の中では、「お母さん」に押しつけられるようになりました。そして「専業主婦」という言葉が生まれました。高度経済成長が始まる前は「地域」という「横のつながり」の中で子育てをすることが出来ました。子ども達にも、「遊びを通してつながった仲間」という横のつながりがありました。でも、高度経済成長が始まると「地域」という「横のつながり」は弱くなりました。またその「横のつながり」を束縛として嫌う人も増えて来ました。家族でさえ、バラバラに生活するようになってしまい「横のつながり」が弱くなりました。問題は、男性は元々「物事を分けて考える縦型の思考」をする傾向があるため、横のつながりが弱くなってもそれほど困らないのですが、女性は「物事をつなげて考える横型の思考」をする傾向が強いので、「横のつながり」から切り離されてしまったらどうしていいのか分からなくなってしまうのです。また、その「物事をつなげて考える横型の思考」は子育てや仲間作りには必要な考え方なんです。子育ての最大の目的は「子どもを仲間や社会とつなげてあげること」だからです。様々な勉強もそのためのものです。「競争に勝つためのもの」ではなく、「社会や、世界や、自然とつながるためのもの」なんです。でも、横のつながりが弱くなってしまった現代社会では、勉強は「競争に勝つためのもの」になってしまっています。でも、横のつながりが弱くなってしまった社会や家族では、子育てが出来ないのです。子どもも自分の成長に必要なことを学ぶことが出来ないのです。「成長という自然現象」に必要なのは人間の社会を支えている「縦のつながり」ではなく、自然界を支えている「横のつながり」だからです。ちなみに「科学」を支えているのは「分けることを基本にした縦型思考」です。それに対して「文化」を支えているのは「つなげることを基本にした横型思考」です。
2024.09.23
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(何回も目にしている文章かも知れませんが、何回も伝えたいことなので少し手直しして再掲載します。)人間は「つながり」の中で成長します。言葉も、歩き方も、感じ方も、考え方も全て他の人との「つながり」を通してしか学ぶことが出来ません。どんなに高価な知育玩具を与えても大人との人間らしい関わり合いがなければ子どもの知能は成長しません。そして、その「つながり」には大きく分けて二種類あります。大人も含めた異年齢による「縦のつながり」と、仲間との「横のつながり」です。異年齢のつながりは新しい世界、異質な世界との出会いをもたらしてくれます。また、様々な年齢の人と出会うことで人生や、生き方ということを考えるきっかけにもなります。世話をされたり、世話をしたりすることで優しさを学ぶことも出来ます。また、言葉や、考え方、感じ方、心の使い方、からだの使い方、価値観などを学ぶのもこの「縦のつながり」を通してです。つまり、いわゆる「人間性」と呼ばれるもののほとんど全てを子どもはこの「縦のつながり」を通して学んでいるわけです。ですから、この「縦のつながり」がなければ、子どもは「一人の人間として生きていく能力」を育てることが出来ないのです。子どもは人生の最初、この縦のつながりのなかに生まれてきます。3才くらいまでの子どもにとってはお母さんやお父さんとの縦のつながりが全てです。そのつながりのなかで子どもは歩き方や、言葉や、コミュニケーションの方法や、感覚や心やからだの使い方の基礎を学んでいます。でも、3才前後から仲間との横のつながりを求めるようになります。それはこの頃から社会性を育てるための本能が働きだすからです。でも、横のつながりは縦のつながりと違って、何か「共有するもの」を必要とします。それは例えば「言葉」を含めた様々なコミュニケーション能力や、常識や、知識や、技術や、趣味や、価値観などです。それは大人でも同じですよね。そして、そういうものは主に「縦のつながり」を通して学んだものです。つまりそれは、3歳までに「縦のつながり」によって身につけたものを共有する形で「横のつながり」が生まれるということです。ですから、お母さんやお父さんなどとよく森の中で遊んでいた子どもは仲間とも森の中で遊ぶことを喜びます。だからそういう仲間が集まります。でも、小さい時から家の中ばかりで遊んでいた子は家の中で遊びたがります。だからそういう仲間が集まります。「仲間を作りたい」というのは子どもの本能なのですが、実際にどういう仲間作りをするのかということにおいては、それまでの親と子の縦のつながりが非常に大きく影響しているのです。ですから、逆に言うと生活の中でのお母さんやお父さんとの縦のつながりがしっかりとしていない子は、仲間と共有するものを持つことが出来なくなるため、横の繋がりも作ることが困難になってしまうということです。織物と同じように、「縦糸」がしっかりと通っていなければ、しっかりとした「横糸」は通せないのです。そして、「横のつながり」を作ることができない子は、孤独になり、相手を否定することで自分の居場所を作ろうとしたり、様々な攻撃的な関わり方によって仲間とつながろうとします。また、ゲームや空想の中に逃避してしまう子もいます。成長しつつある子どもにとって一番苦しいのは「孤独」だからです。だから必死になって「孤独」から逃げようとするのです。でも、一人だけの世界の中に居場所を作ってしまった子は、余計に仲間とつながることが難しくなってしまいます。ちなみに、ゲームを通してのつながりは「支え合うことが出来るつながり」ではありません。相手はAIだっていいのですから。ただし、発達障害などの子の場合はこの「縦のつながり」が作りにくいようです。そのため、結果として友だちに攻撃したりするような問題行動が多くなってしまうのですが、そんな時は“優しくしなさい”と叱っても無駄です。トラブルは「横のつながり」の中に現れていますが、もともとの原因は「縦のつながりを育てることが出来ない」ということの中にあるからです。これは生まれつき障害のある子でも、「縦のつながり」がない状態で育った子でも同じです。こんな時はまず、大人とのしっかりとした「縦のつながり」を育てることをまず一番大切に考える必要があります。それはなかなか困難な作業ですが、子どもを否定せず、ゆっくりと見守りながら「縦のつながり」を育てていくのです。あきらめてしまったらそこで止まってしまいます。そして、「縦のつながり」がしっかりとしてくれば「横のつながり」も落ち着いてきます。この時、「横のつながり」の中だけでトラブルを解決させようとしても無駄です。また無理に“ゴメンナサイ”を言わせても無意味です。“ゴメンナサイ”は大人同士の関係改善のための言葉です。ただし、ここで間違えないで欲しいのは、「縦の繋がり」とは、単なる「しつけ」のことではないということです。現代の「しつけ」はただ子どもの行動に規制をかけることだけが目的になってしまっています。昔のしつけには精神的なものを伝える意味もあったのですが、その“精神的なもの”に価値を感じなくなってしまった現代人はただ子どもの行動だけを制御しようとしています。そしてそれは結果として動物を調教する方法と似た方法になってしまっています。アメとムチを使った大人の権力による押しつけです。でも、そんな方法ではいくら一生懸命にしつけても子どもが人間らしく成長することはありません。そして、しつけに熱心になればなるほど、子どもはペットのように大人に依存するようになってしまいます。そして、思春期が来たとき“自立出来ない自分”に苦悩することになります。それが「縦のつながり」であろうと、「横のつながり」であろうと、「つながり」に必要なのは「お互いを認め合う双方向的な関わり」なのです。この双方向的な関わりがあるから大人から子どもへと大切なことが伝わり、また、仲間同士もしっかりとつながり、子どもは安定するのです。子どもが安定出来ないようなものは「つながり」ではないのです。さらに「縦のつながり」においては「あこがれ」や「尊敬」や「信頼」の有無も大切な要素になります。例えば、小さな子は何でも出来るお兄ちゃんやお姉ちゃんに憧れを抱いています。だから、そこに「縦のつながり」が生まれるわけです。自分のことを大切にしてくれる大人に対しては尊敬や信頼が生まれます。だからそこにも「つながり」が生まれます。「つながり」は共有するものであって、一方的に押し付けることはできないのです。 このようなことは学校でも同じです。先生と生徒が信頼関係によってしっかりとつながっているクラスでは、「横のつながり」もしっかりとしています。逆に、先生と生徒がつながっていないクラスでは生徒は乱れ、学力は低下し、イジメなども多発します。先生と生徒の間に信頼関係のないクラスで道徳教育などやっても全く無意味です。“生命を大切にしよう”、“友だちを大切にしよう”と訴えても、先生と生徒の間に信頼関係のないクラスではその言葉に何の説得力もありません。ですから、イジメを子どものせいにばかりしてはいけないのです。ですから、学校における最高の道徳教育とは、先生が生徒との間に信頼を築くことに他なりません。また、そのためには校長が一人一人の先生との間に信頼を築くことも必要になるでしょう。政治の世界でもまた、国民と政治家がしっかりとつながっていれば社会は安定するでしょう。でも、政治家が国民をバカにして、国民が政治家を信用しない国では、社会が混乱するばかりです。子どもたちはこのような縦と横のつながりに支えられて成長していきます。そして、そのつながりの中で自由に生きることが出来るようになります。人は一人では生きていくことが出来ないので、「つながりの中での生き方」を学ばないことには、自由に生きることが出来ないのです。でも、現代人はそのことを忘れてしまっています。そして、まだ一人では生きることが出来ない状態の子どもを縦横のつながりから切り離し、“自由に生きなさい”、“早く自立しなさい”と言って追い立てています。それは、現代人が誰からも束縛されていない状態を「自由である」、「自立している」ことだと思いこんでいるからなのでしょう。でも、実際にはそれは自由でも自立でもなく、ただ単に「糸が切れた凧」と同じ状態に過ぎないのです。そういう状態の子は「自分」や「周囲」に振り回されているだけです。一見自由には見えるのですが、本人は苦しいのです。
2024.09.22
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(以前書いたものに手を加えました)「母性」とか「父性」という言葉には、「母」とか「父」という「性別につながる言葉」が使われているので、一般的に、「母性」は「母親が持っている、もしくは持つべき特性」であり、「父性」は「父親が持っている、もしくは持つべき特性」であると考えている人が多いのではないかと思います。でもそれは勘違いです。性別と全然関係がないわけではありませんが、実際には「なんとなく」ぐらいの関係しかありません。母性に優れた男性もいれば、父性に優れた女性もいるからです。ちなみに、一般的にバイキングや海賊といった戦うことを目的とした集団のボスは男性が多かったですが、女性がボスだったバイキングや海賊もいたそうです。さらには、どっちも持っていない男性や女性すらいます。そして、そういう人が最近増えて来ています。人間以外の動物の場合はオスとメスで明確にその役割が異なっています。象の群れでリーダーになるのは年取ったメスだそうです。ペンギンの場合は子育てをするのはオスで餌を捕ってくるのはメスです。動物の世界では、一般的に「性の違い」は「役割の違い」でもあるのです。でも、動物の中でも高度な知能と社会性を持っているサルのような生き物の場合は、性別よりも能力によってその役割が決まることがあるようです。群れを率いるボスザルの多くは力に優れたオスですが、少なくとも動物園のサルの場合、時々メスのボスザルも出現するそうです。動物園のサルの場合外敵に襲われることはありませんから、ボスザルの条件として「力と体格に優れている」という必要がないからなのでしょう。これは人間の社会でも同じですが、安全が確保されている群れの場合は「敵と戦って勝つ能力」よりも「群れをまとめ、みんなに安心と目標を与える能力」の方がリーダーとして必要な能力になって来るのです。そして、その能力は性別よりも個体差に大きく依存しています。人間の社会でも、見栄と体裁と強さをアピールしたいような組織では、男性のリーダーを求めるでしょうが、みんなの幸せを願うような組織では、性別よりも能力の方を優先させるでしょう。ただ、実際の性別がどうであれリーダーには父性的な感じ方や、考え方や、行動の仕方が必要になります。人間の組織は「縦のつながり」と「横のつながり」によって支えられていますが、「父性」とは、その「縦のつながり」を支えるために必要な能力のことだからです。それは、「客観的に状況を分析し、客観的に判断し、みんなで共有出来るような目標や希望を与えることが出来る能力のことです。まただから、実際の性別とは直接的につながっていないのです。これは、単なるネーミングの問題に過ぎません。それに対して「母性」は横のつながりを支える働きです。縦のつながりを支えているのは客観性ですが、横のつながりを支えているのは「共感し、つながり、支え合う能力」です。父性は目標を与え、励まし、成長を求めますがますが、母性は寄り添い、安心を与え、泣き言に耳を傾けます。繰り返しますが、これは役割の問題なので、直接、性別には関係がありません。父性的に子どもと関わるお母さんもいれば、母性的に子どもと関わるお父さんもいます。同性同士のカップルの場合でも、この役割分担はちゃんとあるのではないかと思います。そうでなければ一緒に居る意味がないからです。そして、この二つの働きがお互いに支え合うような環境の中で育つことで、子どもは、一人の人間として、そして社会人として、「自分らしく」成長していくことが出来るのです。また、この母性とか父性という考え方は、子育ての場だけでなく様々な分野でも使われています。西洋文化は父性的だと言われています。キリスト教も父性的です。だから命令し裁きます。そして、神への従順を求めます。ギリシャの神々も同じです。人間と神の関係は「上下関係」、つまり縦の関係になっています。それに対して東洋文化は母性的だと言われています。仏様は命令もしないし、従順も求めないし、裁きもしません。そのままを肯定し、寄り添ってくれます。人間と仏さまの関係は「上下関係」ではなく「共に」という横の関係なんです。キリスト教はその元になったユダヤ教よりは母性的ですが仏教よりは父性的です。イスラム教はキリスト教よりも父性的です。シュタイナー教育とモンテッソーリ教育を比べると、シュタイナー教育は母性的要素が強く、モンテッソーリ教育は父性的な要素が強いです。お分かりでしょうか、だから母性とか父性というものと、実際の性別は関係がないのです。ただ、動物としての本能が強い幼い子どもは、命の要求に従って父親に父性を求め、母親に母性を求めます。でも、大切なのは子どもの育ちの場に、父性と母性の両方があることであって、この役割が交代しても子どもはすぐ慣れます。また、母子家庭の場合は父性を外注することも出来ます。スポーツクラブのような社会的な活動の場は父性的な原理で運営されていることが多いので、子どもにそういう場を体験させる事で、子どもは父性に触れることが出来るからです。ただし、社会的な活動であっても、子どもの自由意志を認めず、自由な活動を認めず、子どもを支配管理するだけのやり方では、子どもは父性を育てることが出来なくなります。そういうやり方は母性も父性も破壊します。そして、人間性が育ちません。以下で紹介しているのは、私が母性と父性の話をするときによく使う絵本です。てん [ ピーター・レイノルズ ]価格:1430円(税込、送料無料) (2021/7/16時点)楽天で購入びゅんびゅんごまがまわったら (絵本・ちいさななかまたち) [ 宮川ひろ ]価格:1430円(税込、送料無料) (2021/7/16時点)楽天で購入
2024.09.21
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昨日は、この「みんな違っている」、そして「みんな違っていなければいけない」というのは人間を含めた自然界の自然な姿であると共に、ルールでもあるのです。ということを書きましたが、みんな違っているからといって、バラバラになってしまっているわけではありません。人間は一人一人違います。同じ人は一人としていません。でも、その人が人間である限り「人間という枠」の中には納まっています。それは当然ですよね。人間同士だと「違い」の方にばかり意識が向かってしまいますが、「すべての生き物」という視点から見ると、どんな人でもみんな「人間としての共通点」を持っているのです。私たちはみんな一人一人違います。でも、日本で生まれ育った日本人なら「日本人としての共通点」を持っています。でも、その「日本人としての共通点」は、日本人以外の人と出会ったことがない人、外国の人の意見に耳を傾けたことがない人には分からないのです。成田空港に降り立った外国の人は、「日本のにおい」に気付くそうですが、日本人はその「におい」に気付きません。また、人は生まれてから死ぬまで「私」という意識の外に出ることが出来ません。人は一生「他者」になることが出来ないのです。そのため、他者と出会い、他者の言葉を聞かない限り、「自分が他者からどのように見えているのか」ということを知ることは出来ないのです。「自分と他者の違い」も分かりません。日本で生まれ育った日本人なら「日本人としての共通点」を持っています。同様に、フランスで生まれ育った人は「フランス人としての共通点」を持っています。イギリスで生まれ育った人は「イギリス人としての共通点」を持っています。その共通点は自国の中にいる時には気づきませんが、外国に出ると気づきます。その「日本人としての共通点」の中に、日本人を特徴づける「日本人の気質」があります。その「日本人の気質」が日本語や日本の文化の独自性を創り出したのです。でも、同じ日本人でも「東北で生まれ育った人」と「沖縄で生まれ育った人」とでは違います。「海辺で生まれ育った人」と「山奥で生まれ育った人」も違います。「都会で生まれ育った人」と「田舎で生まれ育った人」も違います。さらに、その同じグループの中でも一人一人みんな違います。じゃあみんなバラバラなのかというとそんなことはありませんよね。違いもありますが、その違いを生かして助け合い支え合っていますよね。だからそのグループが維持できているのですから。違うから助け合うことが出来るのです。違う人たちがいるからエネルギーや新しいものが生まれ、社会が循環しているのです。そのグループが生き生きとした状態で継続していくためには、異なった能力、感性、特性を持った人たちがお互いに助け合う必要があるのです。まただから「違い」が存在しているのです。「違い」は偶然存在しているのではなく、そのグループの存続にとって「違い」が必要だからその「違い」を持ったものが生まれるのです。その原理が自然界の多様性を創り出してきたのです。人間が作った工場は「同じもの」を生産しますが、自然は、「常に変化している自然」に対応できるように、わざと不完全な状態で色々な特性、個性、能力を持った個体を生み出し、その「不完全なもの同士が助け合って生き延びるシステム」を採用したのです。その方が自由度が高くなるし、変化にも対応しやすくなるからです。オスとメスが分かれたのも同じ原理です。男性と女性が分かれたのも、「男性」と「女性」という異なった特性、個性、能力を持ったもの同士が、お互いに助け合い、支え合った方が人類の進化に有効だからなんです。人類が単性生殖する動物だったら、文化も文明も生まれなかったのです。でもなぜか、人類は今、そっちの方向を目指しています。光と影は、同じ場所に同時には存在できません。でも、場所を分ければ光も影も同時に存在することが出来るのです。そして「光が必要な時は光が働き、影が必要な時は影が働き」といったように多様な対応が可能になるのです。色もまた同じです。すべての色が集まったら絵具では「黒」に、光では「無色」になってしまうのです。そこには変化がありません。でも、それを赤、青、黄色などとバラバラにすると、その組み合わせて無数の色が生まれるのです。気質も同じ原理の中で生まれたものです。
2024.09.20
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「人と違う」ということを恐れないことは非常に大切なことです。私たちは一人一人異なったからだと、異なった心と、異なった感覚と、異なった知性を持って生まれてくるのですから、本来「同じ」ということなどあり得ないのです。みんな違って当然なんです。そして、この「みんな違っている」、そして「みんな違っていなければいけない」というのは人間を含めた自然界の自然な姿であると共に、ルールでもあるのです。それなのに、なぜか現代人はその自然界のルールに反して「みんな一緒」や、「みんな同じ」を求めています。その背景には「大量生産」に支えられた、「規格化された社会」があります。工業でも、農業でも大量生産するためには、機械で処理する必要があるため標準化と規格化が必要だからです。そしてその背景には簡単・便利・贅沢を求める私たちの欲があります。でも、その標準化され、規格化された生産システムに支えられた社会では、その規格に合わないものは不良品として扱われてしまいます。そのような社会では、「子どもらしい子ども」や、「生産活動が出来ない老人や障害者」や、「人間らしい感情やからだ」などは「やっかいなお荷物」として扱われます。男性と女性は「からだ」も「役割」も「世界とのつながり方」も異なるのに、その違いを否定して「同じもの」として扱おうとしています。でもそれが出来るのは、人間の脳の中だけです。男性も女性も異性に近づけば、緊張したり、ドキドキしたりします。子どもも、「お母さん」と「お父さん」をちゃんと区別して使い分けています。でも「観念の世界」に生きている現代人は、そういう「命の世界の現実」を認めません。本来トマトは大きさも、味も、形もバラバラなのが当たり前なのに、日本の八百屋さんに並んでいるのは工場で作られた製品のように標準化、規格化されています。私は40年ほど前に半年ほどスペインの田舎で暮らしていたのですが、八百屋に行くと日本のトマトとは全く異なった形や大きさのトマトばかりが並んでいました。みんなものすごい形の「へちゃむくれ」ばかりなのです。最初はびっくりしました。こんなトマトで大丈夫なのかと思いました。そして、日本人の常識としての「トマト」を探しました。でも、いくら探しても日本の八百屋さんで並んでいるような「きれいな形のトマト」など見つからないのです。そこで初めて、それが自然な状態のトマトであり、日本人が知っているトマトの方が異常なトマトだったということに気付いたのです。あまりにも人工的な環境の中だけで生活しているうちに、私たちはもう「自然な状態」が分からなくなってしまっているのです。分からなくなるだけでなく、その「自然な状態」に違和感すら感じるようになってしまっているのです。また、スペインに最初着いた頃に感じたのは、「子どもや老人や障害を持っている人たちがやたらと多いな」ということでした。公園のベンチには老人がいっぱい座り、広場では子どもたちがいっぱい遊び回り、障害を持っている人たちもいっぱい歩いていました。でも、しばらくして逆のことに気付きました。それは、「どうして日本の町中では子どもや老人や障害を持った人を見かけないのか」ということです。私が子どもの頃は町中で遊んでいる子どもたちがいっぱいいました。夏になると、みんなアミを持って虫取りをしていました。夏休みの自由課題は「昆虫の標本」を作る子が普通でした。でも今、夏になって、セミがいっぱい鳴いていてもセミ取りをしている子は少ししかいません。ザリガニ取りをしている子もあまり見かけません。子どもたちはどこに消えてしまったのか。また老人たちも、町で見かけるのは買い物をしている元気な老人たちばかりです。しかも、子どももお年寄りもみな忙しそうです。遊んでいる子どもも、ベンチでのんびりしているお年寄りもあまり見かけません。障害を持っている子も施設に通う姿は見かけますが、町中で遊んでいる姿を見かけることはあまりありません。日本では、みんなそれぞれ交わらないように隔離されているのでしょう。それは隔離した方が効率的だからかも知れません。冷静に考えれば、これは全く不自然で異常な状態なのですが、でも、日本ではこれが当たり前の風景になっています。教育でも、子どもは一人一人違うのですから、一人一人の違いに対応できるような教育システムが必要なはずなのに、教育システムの方を規格化してしまい、子どもの方を無理矢理その規格に合わせるような教育をしています。「○○教育」と呼ばれるようなものでも、本来は子ども一人一人に合わせるものなのに、無理矢理、子どもの方をそれらの教育方法に合わせようとしている人がいっぱいいます。教育は、本来子どものためのものなのに、それが国のためのもの、大人のためのもの、教師のためのものになってしまい、子どもたちはただ従うだけの存在になってしまっているのです。その結果、生命がゆがみ始めているのですが、でも、歪んでいるということにすら気付きません。大人達は「大人の言うことに素直に従うよい子」を褒めますが、それは子どもの状態としては自然なことではないのです。八百屋に並んでいるトマトは形が整ってきれいですが、本当は歪んでいるのです。逆に、自然な状態のトマトはへちゃむくれで全然きれいではありませんが歪んでいないのです。大人の思い通りにならない幼い子どもたちが、その「大人の歪み」を教えてくれているのですが、大人たちは自分たちがおかしいのではなく、子どもの方がおかしいのだと思い込み、無理矢理子どもを矯正しようとしています。子どもは数十万年前から全く同じ状態で生まれてきます。そして、幼い子どもは「自然」そのものです。ですから、自然に違和感を感じるようになってしまった大人たちは、子どもたちに対しても違和感を感じるようになってしまいました。それがまた「子育ての苦しみ」を生み出しているのですが、みんな子どもを何とかしようとするばかりで、「自分たち自身の方がおかしいのだ」ということに気付きません。「大人の指示に従うばかりのよい子」は一見歪んでいないように見えますが、「自然」を基準にすると歪んでいるのです。逆に、いつも泥だらけになって遊び回っている子は「大人」を基準にすると歪んでいるように見えますが、自然を基準にすると歪んでないのです。
2024.09.19
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今日は簡単にさせて頂きます。昨日、おとといと岐阜の多治見で講演とワークショップをしてきたのですが、その際、どうやったら気質の特徴を簡単に見える化できるかを考えていました。そして、以下のようにまとめてみました。<胆汁質> 目的を共有することでつながろうとする 目的達成に必要な方法も共有しようとします。 世界平和はどの気質の人でも望むでしょうが、胆汁質の人は「軍事力の強化」という方法で進もうとする傾向があるような気がします。 自然を資源として見る傾向があります<多血質> 感情を共有することでつながろうとする 身近な目的は持ちますが、遠くを見据えたような目的は持ちません 世界平和でも「みんなが仲良くなれば戦争なんて起きないのよ」というような考え方をする傾向があるような気がします 人の影響を受けやすいです 人間が大好きです 自然を「心とからだを楽しませてくれるもの」として見る傾向があります<粘液質> 感覚を共有することでつながろうとする いっしょにご飯を食べて「おいしいね」と顔を見合わせる、一緒にお風呂に入って「気持ちがいいね」と顔を見合わせる。 そんな感じです。感覚を共有しているので言葉はあまり必要がありません。 勝ち負けにこだわらないので、なぜ人と人が戦うのかが分かりません。人と人が殺し合っているのを見ると悲しくなります。 平和主義者ではありますが、大きな声で「反戦」を訴えるようなこともしません。 自然との相性はいいです。自然を仲間として受け入れます。 ですから、人がいなくても自然があれば寂しくありません。 <憂鬱質> 世界観、価値観、美意識を共有することでつながろうとする これが共有出来ないといつも一緒に遊んでいても「友だちではない」といいます。 逆に、これが共有出来るなら、会ったことがない相手でも仲間として受け入れます。 戦っている人を見ると恐怖を感じます。そして遠ざかろうとします。 大きな声の人、人の心を感じようとしない人、大騒ぎをしている人にも恐怖を感じます。 そのため、憂鬱質の子は、自分も子どもなのに「子どもらしい子ども」が苦手です。 大人と一緒にいる方が安心する子も多いです。 自然との関係は両極端です。 自分と分離できないくらい自然とつながろうとする人もいれば、自然に恐怖を感じ近寄らない人もいます。 憂鬱質の人にとって自然は「資源」でも「遊び場」でもなく、それ自体が「生き物」なんです。だから、その「生き物」と良い関係を築けた人は自然に包まれようとし、良い関係を築けなかった人は襲われる危険を感じて避けようとするのです。ちなみに日本人は、粘液質と憂鬱質が強い民族のような気がします。妖怪なんかも自然を生き物として見る感性の表れだと思います。粘液の人にとって大切なのは今胆汁質の人にとって大切なのは未来憂鬱質の人にとって大切なのは過去多血質の人にとって大切なのはちょと未来と、ちょっと過去と、ちょっと今こんなことも考えました。
2024.09.18
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昨日も書いた通り、「感覚の働き」と「心」や「からだの働き」は密接につながっています。ですから、子どもの心の成長を考える時には、子どもの周囲の「感覚環境」を整えることも非常に大切なことなんです。機械音に囲まれて育った子と、鳥の声や風の音など「自然の音」に囲まれて育った子とでは心とからだの状態が違うのです。人工物や無機物ばかり見て育った子と、草や木々や森や様々な生き物を見て育った子とでは心とからだの状態が違うのです。砂漠で育った子と、森の中で育った子と、都会の中で育った子とでは「心とからだの状態」が違うのです。直線で構成され、無機的な色に塗られ、ちょっとした音でも反響するような固い壁で囲まれた空間の中で育った子と、柔らかな曲線と目に優しいやわらかな色が多い開放的な空間の中で育った子とでは「心とからだの状態」が違うのです。同じ「マンション」で暮らしていても、買ったばかりのような無機的な状態の部屋の中で暮らしている場合と、色々と「自然を感じるようなもの」が置かれたり、目に優しい色の壁紙と、冷たい音の反射を抑え、目に柔らかい感覚を与えるような布やカーテンなどで不自然な感覚刺激を抑えるような工夫をされた部屋の中で暮らしている場合とでは「心とからだの状態」が違うのです。その違いは、ただ普通に社会生活をしている時には問題になりませんが、「自分の心やからだ」と向き合うとき、子どもが生まれ「子どもの心とからだ」と向き合う時には問題になって来るのです。簡単にいうと、機械的で無機的な環境の中で育った子は、自然の働きとつながった「ありのままの自分の心とからだ」、「ありのままの子どもの心とからだ」を、ありのままに肯定することが出来なくなってしまうのです。そのため、自分の理想に合わせて「自分の心とからだ」を作り変えようとします。自分の理想に合わせて、「子どもの成長」をコントロールしようとします。でも、いずれも一時的には成功することもありますが、人工的に作られたものは、自律性を持たない不自然なものなので、常に人工的に維持管理し続けないとすぐに崩れてしまうのです。YouTubeで「人類が滅亡した後どうなるか」という動画を見ることができますが、人類が滅亡して、維持管理してもらえなくなった都会や、人工物はあっという間に崩壊していくのです。自然の働きに逆らって作られたものは、自立性を持つことができないからです。でも、人類が消えても自然は安定したまま変わりません。それでも、整形のようなものはお金がある限り維持管理することが出来ます。でも、子どもの場合はそうはいきません。なぜなら、思春期を迎えた子どもは「子どもの成長を支えている自然の働き」によって、「子どもを管理しようとする親や大人」から逃げようとし始めるからです。子どもが幼いときは、子どもの行動や成長はある程度管理、コントロールすることが出来ます。でも、子どもは自然物であって人工物ではありません。子どもの成長を管理コントロールしているのは人間ではなく自然なんです。ですから、その自然の働きに逆らうような環境の中で、自然の働きに逆らうような育て方をしていると、後で困ったことになってしまうのです。自立する能力が育っていないのに自立せざる負えなくなってしまうからです。それは子どもに、不安と、自己肯定感の喪失をもたらしてしまうのではないかと思うのです。
2024.09.17
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「心の働き」と「感覚の働き」はダイレクトにつながっています。おいしいものを食べれば、嬉しくなって心もからだも緩みます。甘いものを食べたときと、しょっぱいものを食べたときとでは心とからだの状態が異なります。素敵なにおいは心を落ち着かせます。私は時々「香」を焚きますが、好きなにおい、嫌いなにおいがあります。不安や寂しさを感じたときは、何かに触れていると安心します。それでぼろきれのようになったタオルやぬいぐるみを離せない幼い子どももいます。大好きな人に触れられていると心もからだも緩みますが、嫌いな人に触れられていると、心もからだも緊張します。色や形や音も、心とからだの状態に大きく影響を与えています。赤い色を見ている時の心とからだの状態と、青い色を見ている時の心とからだの状態は異なります。〇を見ている時の心とからだの状態と、△を見ている時の心とからだの状態も異なります。自然の音を聞いている時の心とからだの状態と、機械の音を聞いている時の心とからだの状態は異なります。アップテンポの曲を聴いている時とスローテンポの曲を聴いている時とでは、心とからだの状態が異なります。もちろん、メロディーも心とからだの状態に影響を与えています。長調の曲を聴いている時と、短調の曲を聴いている時とでも心とからだの状態は異なります。「人間」というか、すべての生き物は「感覚の働き」を通して、「自分が生きている世界」とつながっています。そして、感覚の働きによって得た情報に合わせて自分自身の状態を調整しているのでそれは当然のことなんです。ですから、子どもの心とからだを育てようとする時には、「子どもにどのような感覚環境を与えるのか」ということを考えることも非常に重要なことなんです。<続きます>
2024.09.16
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人間にとって「美」とは何なのか。これは私がいつも考えているテーマでもあります。もちろん正解がある話ではないのですが、「美とは何か」ということを考えることは、人間が人間らしく生きるためには必要なことなのではないかと思うのです。確かに、「美」などを無視して、ひたすら、簡単、便利に依存して、合理的、効率的、能率的に生きることも可能です。そして、現代人はそのような生き方を求めています。そんな現代人にとって、心を満たすために必要なのは「快楽」であって「美」ではないようです。でも快楽を得るためにはお金が必要です。でも、「美」は私たちの周りの至る所にあります。ただ気づくだけでそれに触れることが出来るのです。お金なんか必要がありません。でも気付かない人には「美」は存在しません。また、世の中には美味しい食べ物や快楽よりも「美」の方を求める人もいます。アウシュビッツの収容所での出来事を書いた「夜と霧」(フランクル著)という本の中に、貴重な夕食の時間に、夕食を食べずに夕焼けを見ていた人がいたと書いてありました。(フランクルの別の本だったかもしれません。なんせ、何十年も前に読んだので。)自分の美学を完成させるために死を選ぶ人もいます。数学の式に美を感じる人もいます。命の働きの中に美を感じる人もいます。話し方、歩き方、食べ方、生き方に美を求める人もいます。「外側の美」を求める人もいれば、「内側の美」を求める人もいます。歌人の会津八一は、知人に「美しき人になりたく候」と書き送ったそうです。(私はこの言葉が大好きです。)「死にざま 生きざま 美しき人になりたく候」(紀野一義著)という本がありますが、私はこの本を書いた紀野先生が大好きで、若い頃追っかけをしていました。でも多くの現代人は、「外側の美」ばかりを求め「内側の美」には興味がないように見えます。見栄えの美しさには興味があっても美しい生き方には興味がないように見えます。「人間らしさ」というものに対する考え方に変化が起きているのでしょう。本来、「美」は視覚的なものと言うよりも精神的なものなんです。人が「美」を求めるのは「美」に触れていると心が満たされるからなんです。人間も人間以外の動物たちも「快楽」は求めますが、「美」を求める動物は人間だけです。ですから「美」について考えることは「人間とは何か」ということとつながってくるのです。そしてそれはまた、子どもを人間らしく育てるためにも必要なことなのではないかと思うのです。日本人は世界の中でも特に「美」に対して高い感受性を持っている民族です。もちろん、「何を美しいと感じるのか」ということは、人によっても、文化によっても、時代によっても、国によっても異なります。そこに正解はありません。そして、それぞれの文化において「美」を大切にしているでしょう。でも、日本人ほど「美」にこだわる民族は少ないと思います。ただし、ここで言う「美」とは芸術的な美だけではありません。「見た目」や「体裁」にこだわるのも美意識の表れです。「汚れ」とか「清め」ということに敏感なのも美意識の表れです。「台ぶきん」と「雑巾」を使い分けるのも美意識の表れです。(中国の人はそんなことこだわらないそうです。)電車に乗るときなどにきちんと整列して静かに待っているのも、日本人の美意識の表れです。「躾」も美意識の表れです。「美味しい」(おいしい)というのは、「美しい味」と書きます。日本人の民族宗教である神道も、日本人独自の美意識とつながっているのではないかと思います。古代の日本人は、「命の持つ美」の中に「神」を感じたのではないでしょうか。だから、多くの日本人が信仰は持っているのに宗教は持っていないのです。「日本人は無宗教」だと言われますが、宗教は持っていなくても信仰は持っているのです。でも、その信仰の説明が出来ません。思想によって作られた宗教は言葉化出来ますが、感覚の働きによって生まれた信仰は言葉化出来ないからです。ちなみに、日本書紀には天照大神が伊勢の国がを「うましくに」と呼んだと書いてあるそうです。その「うましくに」は「美し国」と書きます。そんな日本語もまた、日本人の美意識によって生まれたのではないかと思います。英語は「意味」に「音」を当てて作られています。「これをなんと名付けようか」という感じで言葉が作られてきたのではないかということです。でも、日本語では、それを見たとき、それに触れたときの印象を「音」で表して言葉が作られてきたような気がするのです。光を見たときに感じた感覚が「ひ」という音だったので、光に「ひ」という音を当てたのではないかということです。そこに「か」が表すものと「り」が表すものが組み合わさって「ひかり」という言葉が生まれたのではないかということです。日本語では「あ・い・う・え・お」などの単音だけでも、みんな意味を持っています。こういう言語は珍しいそうです。私は、英語は「人間によって作られた言葉」で、日本語は「自然からもらった言葉」なのではないかと思っています。だから、日本語は感覚や感情を伝えるのは得意ですが、論理的な意味を伝えるのは不得意なんです。また、人間が主人公の言葉ではないから主語がないのでしょう。「おのまとぺ」という「意味ではなく感覚を伝えるだけの言葉」もその表れなのではないかと思います。ただしこれらは全く私の勝手な推測ですから根拠を提示することは出来ません。「そう感じる」というだけのことです。とりとめのない話しで申し訳ありません。
2024.09.15
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遺跡を発掘している考古学者と呼ばれる人達は、地面を掘ったり、洞窟の中を調べたりして「人間が存在した痕跡」や「人間が生活した痕跡」を探しています。それは石器や、土器や、壁画や、生活廃棄物などですが、それらを入念に調べることで、それらを作ったり描いたりした人たちの精神性や知性の状態をある程度うかがい知ることが出来るからです。古代の人が残した石器や土器や壁画を調べれば、彼らがどういう意識と心を持ち、どういう生活をしていたのかということを推察するヒントを得ることが出来るのです。同じ石器でも、その作り方の違いで意識の違い、精神性の違い、生活の違いを推測するヒントになります。石の種類を調べると、人の流れも分かります。それらの遺跡や石器や土器の変化を見ていくと、面白いことに、最初のうちはただの「便利な道具」だったものが、次第に形が整えられて、そして、なぜか美しくなっていくのです。時には実際に使うには不便なんじゃないかと思えるほどに美しくなっていくのです。どうやら、人の心は、便利なだけでは満たされないように出来ているみたいです。カラスやサルも道具を使いますが、それ自体を作品のように作りあげることはしません。カラスやサルが道具に求めているのは機能性だけです。でも人間は道具に美まで求めるのです。それもまた、「カラスやサルの心」と「人間の心」の大きな違いでもあります。どうやら、人間の心にとって「美」というものは必要不可欠なもののようです。なんで人は「美」を求め「美」を喜ぶのでしょうか。そのことを考えることもまた、「子どもの心の育ち」を支えるヒントになるのかも知れません。ちなみに幼い子ども達は「かわいい」は分かりますが「美しい」は分かりません。「かわいい」は「生理的な感覚」で「美しい」は「精神的な感覚」だからです。最近は、子どもだけでなく大人でも「かわいい」は分かるけど「美しい」が分からない人、「かわいい」ばかり求めて「美しい」を求めない人が増えて来ました。これは何を意味しているのでしょうか。<続きます>以下は縄文時代の縄文土器です。こんな土器を作ったのは世界中で縄文人だけです。そこに、自然と共に生きていた縄文人の心を知るヒントがあるのでしょう。
2024.09.14
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犬も、イルカも、サルも、「心」を持っています。だから、怒ったり、喜んだりするし、好き嫌いも主張するし、自分の心とその場の状況に合わせて様々な判断をしたりもします。ただし、その「心」は100%「自分中心」です。人間でも、幼児期の子ども達の心は同じような状態です。だから「こういうことをしたらお母さんが困る」とか、「ここで騒いだらみんなが困る」などというような判断をすることが出来ません。お母さんが優しい言葉でいくら熱心に説明しても、理解することが出来ません。でも、そんな状態の子ども達でも、人間らしく扱われ、人間らしい関わり合いの中で人間らしく育てられれば、7才前後から「人間らしい心」が目覚め始めます。その「人間らしい心」とは、「相手の立場に立って感じ、考えることができる心」のことです。実は、この「相手の立場に立って感じ、考える能力」こそが「人間の心」の最大の特徴なんです。そのような心を持っているからこそ、文化や文明や生まれ、みんなで平和に暮らすことが出来るのです。高度な知能を持ち、「情報を伝える言葉」や「心」というものを持っている動物たちでも、この「他者の視点に立って感じ考える能力」は持っていないのです。人間でも、幼い子ども達はこの能力を持っていません。だから、いくら熱心に「こんなことをしたら○○ちゃんが困るでしょ」などと説明しても無駄なんです。幼い子ども達は、自分がされているように相手にもしているだけです。だから、お母さんに優しくされている子は他の子にも優しくします、お母さんに叱らてばかりいる子は他の子を否定し、拒否します。相手の立場に立って感じ考えているから優しくしてわけではないのです。そんな「他者の視点に立って感じ考える能力」は7才前後から目覚め始めます。仲間と群れて遊んだり、いっぱい物語を聞いたり、いっぱい絵本を読んでもらったりしていっぱい「言葉」と出会うことで「他者の視点に立って感じ考える能力」が育っていくのです。まただから、この頃から、それまで子どもが生きてきたファンタジーの世界が弱まっていくのです。特に「言葉との出会い」は、子どもの心の成長に非常に大きな影響を与えています。「言葉の世界」には、人間の「人間らしさ」の全てが詰まっているからです。優しさとか、愛とか、希望とか、勇気とか、命などというようなものは言葉の中にしか存在していないのです。「愛」という言葉を知らない子が生きている世界には「愛」は存在しないのです。そんな抽象的なものだけでなく「色」や「味」といった感覚的なものも同じです。「青」という言葉を知らない子が生きている世界には「青」は存在しないのです。だからこそ、子ども達に「言葉」を伝えることが、子どもの人間らしい「心」や「意識」を育てるために必要なんです。ただしそれは「一方的に画面から流れてくる言葉」ではありません。「直接自分に向けて語られる言葉」です。直接自分に向けて語られるからこそ、その「音」に「自分に向けたメッセージ」を感じ、それを「言葉」として認識するようになるのです。幼い子ども達にとって、テレビから流れているのは単なる「音」であって「言葉」ではないのです。また、その言葉が「自分自身の体験」として確認できる必要もあります。「青」という言葉を伝えるためには、実際に「青を見る体験」とセットにする必要があるのです。「優しさ」という言葉を伝えるためには、「優しさを感じる体験」が必要なんです。そのため、一日中テレビの声を聞かせていても、直接大人が子どもに話しかけることがなければ、子どもは、その「音」を「言葉」として学ぶことが出来ないのです。「人間らしい心」も育ちません。また、自分の言葉や行為に対して「自分の心」で反応してくる相手との関わり合いも必要です。それが群れ遊びの場でもあります。幼い子ども達は「自分の心」のことしか分かりません。他の子にも「自分と同じような心」があることが分からないのです。だって「心」は見えませんからね。感覚も同じです。自分がぶたれた痛みは分かります。でも、自分がぶった相手の痛みは分からないのです。これは大人にだって分かりませんよね。でも、大人は相手の立場に立って想像することが出来ます。でも、幼い子どもにはそれが出来ないのです。そんな子どもたちは群れて遊ぶことで「他の子の心」と出会います。だからケンカをするのですが、だから仲間も生まれるのです。そして、一緒に活動することで「他の子の心」のことも考えるようになります。そうしないと楽しく遊ぶことが出来ないからです。そうやって、「相手の立場に立って感じ考える能力」つまり、「人間らしい心」が育っていくのです。問題は、現代社会に生きている子ども達には「言葉と出会う機会や場」も、「仲間と出会う機会や場」も非常に少ないということです。先日も、「誰でもいいから人を殺してみたい」という動機で、女性が襲われた事件がありましたよね。こちらにその記事があります。このような事件を起こす子は、「相手の立場に立って感じ考える能力」が育っていないのです。これは子どもの責任ではなく子どもの周囲にいた大人の責任なんです。
2024.09.13
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人のからだが成長するためには栄養のあるものを食べなければなりません。ただし、いくら栄養があるものを食べても、その栄養がその時のその人のその時のからだの状態にあったものでなければ意味がありません。肉体活動が多い人が必要とする栄養と、頭脳労働が多い人が必要とする栄養は異なります。暑い所で作業した人が必要とする栄養と、寒い所で作業した人が必要とする栄養も異なります。また、体質の違いによっても必要な栄養は違います。そうですよね。また、ただ食べればいいということではなく、それを美味しく食べることも大切です。美味しいと感じながら食べた方が食べる量も多くなるし、消化や吸収も高くなるからです。また、そのためにはいっぱいからだを使って活動したり、ちゃんと排泄している必要もあります。からだを使って活動したり、ちゃんと排泄しているからおなかが空っぽになって食べたくなるし、また美味しく食べることが出来るのです。私は長いこと子どもと関わる仕事をしていますが、からだを使っていっぱい遊んでいた昔の子ども、特に男の子は飢えていました。教室に来ている子も、しょっちゅう「腹減ったー」と叫んでいました。それで「ラーメンどんぶりを作ったらラーメンを作ってあげるよ」と誘って、みんなで「ラーメンどんぶり」を作ったこともあります。その頃は自宅に窯があって陶芸もやっていたので。夏休みは、お豆腐などの「食べ物作り」をして、クリスマスが近くなるとクッキーなどを作ったりしていました。そして、子ども達は出来たお料理やクッキーを「美味しい美味しい」といってあっという間に食べてしまいました。でも、ゲームで遊ぶ子が増えてきたころから、「腹減ったー」と叫ぶ子が減ってきました。お料理を作っても全部食べない子、クッキーを作っても「お母さんにあげる」と言って残す子も増えてきました。からだの活動が減ったので、からだも、いっぱい食べる必要がなくなってきたのでしょう。また、偏食する子も増えてきました。おなかがすいている時にはなんでも美味しく食べることが出来たのですが、それほどおなかがすいていないので、好みの味のものしか食べなくなったのでしょう。その結果、身長は伸び、スタイルもよくなりましたが、体力も筋力も持久力も低下しました。前に向かって進もうとする意志の力も弱くなりました。「意志の強さ」と「からだの強さ」にはつながりがあるからです。今書いたことは「からだの成長に必要なもの」についてですが、実は「心の成長に必要なもの」も同じなんです。ただし、「からだ」は目で見ることが出来ます。ですから「からだの成長」も目で見ることが出来ます。でも、「心」は目で見ることが出来ません。「心の成長」も目で見ることが出来ません。じゃあ、どうやって子どもの心の状態や成長を知ることが出来るのかというと、「目」ではなく「心」を使うのです。目では見ることが出来ない「心の状態」を知るためには、「自分の心」を使うしかないのです。「心」を観ることが出来るのは「心」だけなんです。でも、心を持たない機械や人工物ばかりを相手にして育った人は、その「心の使い方」を知りません。それで、子育てをしていても、子どもが「自分の心」に目覚め始めるとどうしていいのか分からなくなってしまうのです。そして、物や機械を扱うようにマニュアルを探し始めるのです。<続きます>
2024.09.12
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10/24(木)、11/17(日)、12/12(木)と群馬に行きます。今回のテーマは「表現」です。気質の話もします。詳細は未定です。*************幼い子ども達はみんな「自分の成長」を望み、「自分の成長」を喜びます。それは日々「自分の成長」を自分自身でも実感できるからなのでしょう。でも、成長とともに多くの子ども達が「成長」を望まなくなります。そして「成長」の代わりに、「競争に勝つこと」や「お金を得ること」を望むようになります。「ゲームが出来れば他には何もいらない」という子も出てきます。そして、我が子が幼い頃は「うちの子天才だ」と思っていたお母さんやお父さんが、次第に子どもへの期待を失い「うちの子は欠点ばかりだ」などと言うようになります。どうしてそのように変化してしまうのでしょうか?私なりにその理由を考えてみました。幼い頃の成長は主に「からだの成長」なので目に見えるし子ども自身も実感もやすいです。子どもと一緒に大人もその成長を喜ぶことが出来ます。でも、「からだの成長」がある程度進むと「心の成長」が始まります。でも「心の成長」は見える人には見えますが、見えない人には見えません。子ども自身も実感することが出来ません。子どもが「自分の心」に目覚め始めると、子どもはその「自分の心」(自分らしさ)を守ろうとし始めます。それもまた「心の成長」の表れなんですが、多くのお母さんやお父さんが「心の成長」を喜ぶことなく、「ワガママになった」「いうことを聞かなくなった」「反抗的になった」と、子どもを非難、否定し始めます。多くのお母さんやお父さんが、「からだの成長」は素直に喜んでいたのに、「一人の人間として生きようとする心の成長」は否定するのです。そのような人は、「簡単に子どもを喜ばせるもの」は与えますが「心の成長に必要なもの」は与えません。「心の成長」興味のない人には「心の成長に必要なもの」が分からないからです。その結果、子ども自身も「心が成長する喜び」を感じなくなり「心の成長」を望まなくなります。代わりに、「簡単に喜びや楽しさを得ることが出来るもの」ばかりを求めるようになります。じゃあ、「心が成長するためには何が必要なのか」ということです。そこで「表現との出会い」や「自分を表現すること」が必要になるのです。反抗期は、「心が育ち始めた子どもの自己表現」なんです。ということで続きます。
2024.09.11
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「命」は「人工的に作られたもの」ではありません。自然の働きに従って、自然の中に自然に生まれたものです。ですから、そのシステムは100%自然の働きとつながり、自然の働きに従っています。朝・昼・晩という光の変化に対応して命の働きも変化します。その時の気温や湿度の状態に合わせても、命の働きは変化しています。住んでいる場所の空気の濃度によっても、命の働きは変化しています。「何を食べているのか」ということも命の働きに影響を与えています。そして、つい最近になるまで、人間は自分が住んでいる周辺に生えている草や木、周辺に生きている生き物たちをその食の対象にしていました。そして、自分が住んでいる周辺に生えている草や木、周辺に生きている生き物たちは100%その土地の自然の働きの影響下にいます。砂漠にすんでいる民と、森で暮らしている民と、草原で暮らしている民と、都会で暮らしている民とでは、感覚の働き、心の働き、からだの働き、命の働きが微妙に違うのです。周囲には自然しかなく、何キロメートルも先まで見通せるところに住んでいる人たちと、数十メートル先しか見えないビルと人工物に囲まれた中に住んでいる人たちとでは、感覚の働きも、心の働きも、からだの働きも、命の働も違うのです。もっと言えば、月や太陽の動きも、命の働きに影響を与えています。私はインドの最北部にあるラダックという州に行ったことがありますが、その中心都市「レー」は標高3500mにあります。ちょっと山の方に行けば4000mを簡単に超えてしまいます。自動車が通過可能な世界一標高の高い峠として知られる海抜5,359mにある「カルドゥン・ラ」にも行きました。高山病用の薬を飲んでいたので、頭痛や吐き気は起きませんでしたが、自由にからだが動かないのと食欲が出ないので難儀しました。ホテルの階段を上るだけでも富士山の頂上付近を登るのと同じなんですから。「カルドゥン・ラ」で車から降りたときは、酔っぱらったようになってまっすぐに歩けませんでした。でも、当然ながら、現地の人たちは普通に動き生活していました。現地の人と、旅行者である私とでは命の働きが違うのです。また、「春に食べたいもの」と「夏に食べたいもの」も違います。「朝食べたいもの」と、「夜食べたいもの」も違います。「からだを動かして遊んだ後に食べたいもの」と、「からだを動かさずに頭だけを使って仕事をした後に食べたいもの」も違います。「子どもが食べたいもの」と、「大人が食べたいもの」も違います。そして、まだ自然の働きによって生まれたばかりで、自然の働きによって成長しつつある幼い子ども達は、その自然の働きの影響を受けやすいのです。なぜなら、幼い子ども達は、自分が生まれてきた世界の状態に合わせて自分の意識、感覚、心、からだを整えている真っ最中だからです。そうやって、自分が生まれてきた世界の食べ物や、気温や、酸素濃度や、ばい菌などに対応する能力を、からだの機能の中組み込んでしまうのです。また、それに合わせて意識や、感覚や、心や、からだの状態も整っていきます。そのため、幼い時に人工的に管理された環境の中だけで生活し、人工物だけと関わり、不自然に作られた食べ物ばかりを食べて成長した子は、自然に対して違和感を感じる感覚や、感性や、心や、からだを持った状態に成長してしまう可能性が高いのです。そしてそれが、多くの現代人の、特に若い人たちの感覚や、感性や、心や、からだの状態でもあります。問題は、そのように育った子は、「自分の中の自然」「自分という自然」に対してまでも、違和感を感じる感性が育ってしまうということです。すると「ありのままの自分」を肯定できなくなります。そして、人工物と同じように「自分」も作り替えようとします。今ではお金さえかければ理想的な美女にだってなることが出来ます。スタイルだって人工的に変えることが出来ます。でも、どんなにお金をかけても「病」と、「老い」と、「死」という自然の働きからは逃れることが出来ません。どんなに自然に逆らってみても、最後は100%敗北するのです。また、そのような感性を持った人たちは、結婚して子どもが生まれると、子ども達の能力や、性格や、成長も、お金をかけ「子育てマニュアル」に従えば、自分の理想に合わせて人工的に作り変えることが出来ると思い込んでしまっています。でも、子どもの命も、からだも、成長も自然現象であって人工物ではありません。ですから、子どもの成長は「自然の働きかけ」には従いますが、「人工的な働きかけ」には従いません。そのことに気付かないと、子どももお母さんもどんどん苦しくなってしまいます。そして、子どもの命や成長を支えている命の働きも狂い始め、自己否定をし始めます。
2024.09.10
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(昨日からの続きです)人間は服を着ることで、自分の皮膚と自然との間に壁を作りました。靴を履くことで、自分を支えてくれている足と、さらにその足を支えてくれている大地との間に壁を作りました。家(巣)は人間以外の生き物も作りますが、人間はさらにその中で人工的に光を作り出し、自分たちに合わせて空気や温度をコントロールし、家の中にいながら外の世界とつながる方法を作り出し、家から出なくても生活できるようになりました。さらにはその「家」を拡張して、都市という形で家の周囲の環境まで「家」に含めてしまいました。その結果、現代人は、「頭で処理する情報」を通して世界とはつながっていますが、「からだの働き」を通して自然という「命を生み出し、命の働きを支えている世界」とつながることをしなくなりました。家の中にいれば、外の気温が分かりません。風が遠くから運んでくるものの気配を感じることも出来ません。天気の変化に伴う空気の変化を感じることも出来ません。風の音も、鳥の声も聞こえません。季節の変化に伴う草木や空気や光の変化にも気づきません。もちろん、そんなに完全に家の中に閉じこもりっきりの人はあまりいないでしょうが、でも、「家」を「人工的に管理された空間」という風に考えれば、都市も、電車の中も、会社の中も、「家」の一部です。自然との関係で見たら、都市全体が集合住宅のようなものです。そのような、自然から切り離された「人工的に管理された空間」の中だけで暮らしていると、からだは「自然」ではなく「人工的に管理された環境」に合わせるようになります。家の外は夜であっても、家の中が昼間のように明るくて、刺激的な映像と音に満たされていたら、からだは「昼のからだ」のままで「夜のからだ」にはなれないのです。問題は、成長が終了して、老化が始まっている大人たちはそれでもいいのですが、成長過程にある幼い子ども達にとってはそれは非常に困った状態なんです。子どもの心とからだの成長は自然現象です。その自然現象は、子どもが生活している環境に適応するように自動的に子どもの心とからだの状態を調節しています。その時、子どもが「命の働きに対して不自然な人工的な環境」の中だけで暮らしていると、子どもの心とからだの状態が、「子どもの命と成長を支える働き」と分離してしまうのです。そして、子どもの「心とからだの育ち」が遅れたり歪んだりしてしまうのです。人間の様々な能力は、必要や環境に合わせて成長するように出来ているからです。日常的に「人工的な大きな音」や「刺激的な音」に囲まれて生活している子どもは、「耳を澄ます」とか「耳を傾ける」という能力が育たなくなります。「自動的に動く映像」ばかり見ている子は、「意識を向けて観察する」という能力が育たなくなります。歩く時間が少ない子は「歩く能力」が育たなくなります。また、疲れやすくもなるし、色々なことに対して「面倒くさい」「億劫」と感じやすくもなります。長い時間平気で歩くことが出来るような子は、待つことも出来るし、何かに取り組むときの持久力も高いのです。からだを使った遊びをしていなければ「からだ全体のつながり」が育たなくなります。それはまた思考力の育ちとも関係しています。子ども達は「コマの回し方」や「木の登り方」を工夫し、学ぶ過程で思考力も育ててるのです。簡単に回すことが出来るように作られているベーブレードを回すだけなら思考力は必要ありませんが、「ひもを巻いて回すコマ」を回せるようになるためには「頭とからだの思考力」が必要になるのです。仲間と一緒に泣いたり笑ったりケンカしたり遊んだりしなければ、「感情の育ち」や「社会性の育ち」が遅れます。森や自然の中で、自然を感じながら遊んで育った子は自然を「自分の仲間」として大切にする感性が育つでしょう。そういう感性が育った子はSDGsなどという言葉を教えなくても、自然を大切にするようになるでしょう。自分の足で大地に触れ、大地に流れている水と遊び、風に吹かれ、鳥の声を聴き、野の草花や虫たちと遊びながら育った子は、知識としてではなくリアルな実感として「生きているとはどういうことなのか」ということを知り、「命の実感」を感じることが出来るようになるでしょう。その感性は、子どもが成長して大人の社会、人工的な社会とのかかわりが大きくなって心やからだが苦しくなった時に、子どもの心やからだが壊れないように「子どもを守る働き」をしてくれるでしょう。また、そのような感性が育っている子は自分で自分の心やからだを傷つけるようなことはしないでしょう。だから子どもを自然から切り離してはいけないのです。人工的な環境の中に閉じ込めてはいけないのです。子どもは本能的にそのことを知っているのです。だからすぐ裸になりたがり、すぐ裸足になりたがり、すぐ駆け回りたくなり、すぐ高いところに登りたがり、すぐ水溜に入りたがるのです。大人も同じです。悩みや苦しみがあったら、無理矢理それを取り除こうとするのではなく、そのまま自然の中に入り、自然に包まれてみて下さい。自然は世界最高のヒーラーですから。
2024.09.09
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ディズニーの「インサイドヘッド」という映画があります。あらすじは普段は少女の頭の中の司令室で、彼女の幸せのために尽くすヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミという5人の感情たち。ところが引っ越しで環境が変わり、少女の気持ちが不安定になってしまう。彼女の頭の外へ吸い出されてしまったヨロコビとカナシミは、司令室に戻ろうと必死に少女の後を追いかける。というようなものです。似たような視点から描かれた「カラーモンスター」という絵本もあります。絵本の紹介にはカラーモンスターはじぶんでもなにがなんだかよくわかりません。いろんなきもちがごちゃごちゃ。こんがらがったきもちをほどかなくてはなりません。カラーモンスターはうれしい、かなしい、いかり、ふあん、おだやか、5つのきもちをせいりすることができるでしょうか?自分の感情を把握して気持ちの整理や表現ができるようになる本。と書かれています。カラーモンスターに登場するのは、「いかり」「うれしい」「ふあん」「おだやか」「かなしい」という名前の5つのモンスターです。インサイドヘッドに登場するのと似たようなキャラクターです。いずれの作品も、自分の内側にある感情と向き合うことがテーマになっています。(ただし、最初にお断りしておきますが、私はこの映画は見ていません。絵本はパラパラと見た程度です。ですから誤解も含まれているかも知れません。)私はこの二つの作品のことを知った時、「欧米的な発想だな」と感じました。「心の問題」を「からだの問題」とつなげることなく、「心の中だけの問題」として扱おうとしている点でです。心理学的とも言えます。欧米では、「本来切り離せないものをバラバラにしてから調べて、それを再構成して全体のことを知ろうとする」という方法が主流です。科学はその方法によって生まれました。そもそも、キリスト教では「感情」を扱いません。「良い感情」は「神様からのささやき」で、「悪い感情」は「悪魔からのささやき」というような扱いはしますが、「感情」というものに対して、「命の働きと密接につながっている人間らしさや自分らしさを支えている大切な働き」という発想はありません。キリスト教的な発想では、「心」は「神様(聖なるもの)とつながるもの」ですが、からだは「土(不浄なもの)とつながるもの」です。「魔女」と呼ばれ迫害された人たちも「土」とのつながりが強い人たちです。その「心」と「からだ」を分離して考える考え方は、キリスト教とは関係がないと思われているこの映画や、絵本のようなものにも一貫しています。自分の心と向き合うために「自分の中の感情」を、その働きによってバラバラにして扱うという発想自体が西洋的です。それに対して、お釈迦様が説いた仏教では、「自分の感情」と向き合うことこそがメインテーマでした。その仏教では「怒り」「喜び」「苦しみ」などの様々な感情を「別々のもの」としては扱いませんでした。喜びがあるから悲しみが生まれ、苦しみがあるから喜びが生まれ、安心があるから不安が生まれるというように良い感情も悪い感情もみんなつながり合っているからです。光と闇を分離することが出来ないように、「良い感情」と「悪い感情」を分離することは出来ないのです。また人は苦しいがゆえに深い学びをすることが出来る場合もあります。悲しいがゆえに人に優しくすることが出来る場合もあります。「私」という存在の他に「多様な感情」があるのではなく、「多様な感情の集合体こそが私という存在なんです。そしてその感情の集合体の大本に「からだ」という存在があります。「感情」は「からだ」からのメッセージなんです。からだが整えば肯定的な感情が優勢になったり、自分の感情に振り回されなくなります。でも、からだが歪めば否定的な感情が強くなったり、特定の感情にこだわるようになります。ですから「心の問題」を「心の中だけの問題」として見ると、迷路にはまってしまうのです。だから西洋医学では心の問題を処理するときに簡単に薬を使ってしまうのです。でも、薬では心の問題を解決することは出来ないのです。それは明らかな事実です。実は、「からだの様々な活動や出会いに基づく学びや成長」を通してしか、「悩み」や「苦しみ」を本質的に解決することは出来ないのです。いくら自分の感情と向き合っても無駄なんです。自分の感情と向き合うことで一時的な処理は出来たとしても、それが「学び」と「成長」につながっていなければ、またすぐに同じ問題が繰り返されてしまうのです。<明日に続きます>
2024.09.08
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現代社会には、「狭い部屋の中に閉じ込められ、傍にいる人間はお母さんだけ、お話しするのも、関わり合うのもお母さんだけ、子どもの相手をしてくれるのはオモチャや、テレビや、タブレットや、ゲーム機などという機械や人工物だけ」という状況の中で育っている子どもたちがいっぱいいます。これでは、お母さんも苦しくなり、子どもが「独り立ちできる一人前の人間」として育たないののは当たり前です。「独り立ちする」ということは「人と人のつながりの中で自分らしく生きる」ということです。「一人ぼっちで生きる」ということではありません。そもそも人は「一人ぼっち」では生きていくことが出来ない生き物なんです。でも、「一人ぼっち」で育った子は「人と人のつながりの中で自分らしく生きる能力」を育てることが出来ないまま大人にならざる終えないのです。「からだの育ちに必要なもの」を与えなければからだは育ちませんよね。これは明らかなことです。その「からだの育ちに必要なもの」とは食べ物だけではありません。いくらいっぱい食べ物を与えても、食欲がなければ食べないからです。子どもがいっぱい食べるようになるためには、いっぱいからだを動かす必要があります。からだを動かす目的も必要です。からだを動かす喜びを伝えてくれる仲間や大人も必要です。そういうものを与えずに、ただ、美味しいものをいっぱい食べさせても、食べたものがからだの育ちに使われることなく、脂肪として溜め込んで肥満になるだけです。それでも、食べていれば「子どもの成長を支える命の働き」によって体は大きくなり、性的な成長も進み、見かけは成長しますが、成長するのは「みかけ」だけです。心もからだも中身は幼い時のままです。でも、見かけだけは成長するので、お母さんはその状態に問題を感じません。周囲の子どもの多くも同じ状態なのでなおさらです。「これが今どきの子ども達なんだ」と思うだけです。それが問題として表れてくるのは、子どもが思春期を迎えるころです。思春期になると子どもたちは親から離れて独り立ちする準備を始めます。子ども自身が望むと望まないとにかかわらず、そういう成長プロセスに入ってしまうのです。思春期が来ると、本人が望んでいなくても、自動的に性的な成長が始まりますよね。それと同時に自立のための「自他分離」が始まるのです。「反抗期」と呼ばれるものはその表れです。それは、幼い時から家族に守られて旅をしていたのに、思春期になると「ここから先は一人で行きなさい」と、突然、家族が去って行ってしまうような感じです。そこから先の旅を共にする仲間は自分で見つけなければならないのです。でも、それまで「狭い部屋の中に閉じ込められ、傍にいる人間はお母さんだけ、お話しするのも、関わり合うのもお母さんだけ、子どもの相手をしてくれるのはオモチャや、テレビや、タブレットや、ゲーム機などという機械や人工物だけ」という状況の中で育った子は、「一人で歩く能力」も「仲間を見つけたり、仲間を作る能力」も育っていません。学校では他の子と出会っていますが、生徒一人一人が個別につながり合って学んだり、遊んだりしているわけではありません。学校も、子どもを管理し、勉強を教えるだけで「仲間づくり」のサポートをしていません。そのため、毎日学校で会っておしゃべりしていても、「仲間としてのつながり」は作れないのです。だから学校から帰ってまで一緒に遊ぼうとはしないのです。それでも、思春期前の子どもは、オモチャや、テレビや、タブレットや、ゲーム機があればそれで満足していられます。でも、思春期が来てしまうと、それだけでは満足できなくなってしまうのです。お母さんが一緒の時はゲームをしながらでも、お母さんについて歩いていれば迷子にはなりませんでした。でも、思春期がくると、いつの間にか一人ぼっちになってしまっていることに気付くのです。当然、孤独や不安も感じるようになります。その現実や孤独や不安を忘れるために、さらにネットの世界やゲームに依存してしまう子も多いです。子どもの頃は単なる遊びだったゲームが、思春期頃から現実逃避の道具に変化していくのです。そのような状態の子は、自分を守ることばかりを考えるようになります。「前に進む」とか、「自分を成長させる」とか、「自分の世界を広げる」などということには関心がありません。問題は、そのまま大人になり、結婚して子どもが生まれても、自分を守ることばかり考えている大人が増えて来たことです。「子どもの犠牲にはなりたくない」などと言う人もいます。そして、子どもが犠牲になり同じことが繰り返されます。もしその負の循環を断ち切りたいのなら、子どもを一人だけで囲い込んで育てることを止めた方がいいです。人と人のつながりの中で子どもを育てるようにした方がいいです。そしてそのためには、お母さん自身が「人と人のつながり」の中に身を投じる必要があります。でも、「子どもには仲間を作ってあげたい、でも、私は一人でいいです」などと言う人が結構いるのです。でもそれは無理なんです。私の主な活動対象は、幼い子どもであり、お母さんです。でも、子どもが思春期を迎え、それまでの問題が目に見える形で吹き出し始めてから相談に来る人が多いのです。私のブログを読んで「そういうことだったのか」と気付いて相談メールを送ってくる人も多いです。でもそれが「幼児期からの育ち」につながるものなら、すでに思春期を迎えた子どもに対して出来る事は限られてしまうのです。親の苦しみも分かります。同時に子どもの苦しみも分かります。だからなんとかしてあげたいと思うのですが、何にも出来ないのです。それが歯がゆいのです。だから、後悔しない子育てをしてもらうために、ブログでこういうことを書いているのですが、まだ子どもが幼くて成長に関する問題が「困ったこと」として表れていない状態のお母さんの多くは、こういうことには興味がないのです。
2024.09.07
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それがどんなことでも、「新しいこと」を始める時には「お手本」が必要になります。赤ちゃんが話し始める時にも、歩き始める時にも、感じ始める時にも、考え始める時にも、遊び始める時にも「お手本」が必要になります。「学ぶ」の基本は「真似る」だからです。まただから、日本人らしい人に育てられた子は日本人らしく育ち、フランス人らしい人に育てられた子はフランス人らしく育つのです。私は自宅では造形教室をしていますが、お父さんが大工さんの子は、最初から道具の扱い方が上手です。何かを作ったり、絵を描いたりするのが好きなお母さんに育てられている子は、何かを作ったり絵を描いたりすることを楽しむことが出来ます。うちの長女の家庭では、長女も旦那さんも歌や音楽が好きです。合唱もやっています。そして、子ども達三人もまた歌や音楽が好きです。「勉強しなさい」と追い立てるから子どもは勉強するようになるのではなく、お母さんが勉強したり、学んだりすることを楽しんでいる姿を見て、子どもは自分の意思で勉強するようになるのです。「優しくしなさい」と強く言うから「優しい子」に育つのではなく、常にお母さんの優しさに触れているから「優しい子」に育つのです。「自由に生きることが出来る大人に育ってほしい」と願っている人は多いですが、お母さん自身が自由に生きることを諦めてしまっていたら、いくら「自由に生きることが出来る大人に育ってほしい」と願っても、子どもは「自由に生きることが出来ない大人」に育ってしまうのです。子どもがイジメをしていると「イジメはよくない」と子どもを非難しますが、大人がお互いに助け合う姿を見せていなければ、子どもも仲間と助け合うことが出来なくなります。そして、自分を守ることばかり考えるようになります。「イジメ」はその結果に過ぎません。だから、「どのような大人と、どのように関わりながら育っているのか」ということと「どのような仲間と、どのように関わりながら育っているのか」ということが、「子どもが育つ方向性」を決めてしまうのです。助け合いながら創造的に遊んでいる仲間と関わりながら育っている子は、助け合ったり、創造的に感じ、考え、行動することが出来る能力を育てることが出来るでしょう。でも、大人たちによって無理やり連れてこられた子どもたちを集めても、子ども達は本能と欲求に従って行動するようになるばかりです。ケンカやイジメも起きます。そんな時、子どもが憧れるようなことが出来る年上の子や大人がその場にいれば、子ども達はその子や大人から学ぼうとし始めます。それもまた本能だからです。私は火花を起こして火をつけるファイヤースターターを10個ぐらい持っていますが、子ども達がバラバラに遊んでいる場で、私がチャッチャと火をつけてみせると、何も言わなくても子ども達が群がってきます。そして、夢中になって火おこしを始めます。誰かが成功すると歓声が起きたりもします。中には火おこしにはまってしまい、一人で黙々と1時間以上も取り組む子もいます。薪割りにはまる子もいます。ベーゴマも同じです。竹馬やコマも。昔の子ども達の遊びにはそういう力があったのです。そして、そういう技が得意な子が中心になって群れがまとまっていたのです。また、昔の子ども達の群れには、世代を超えて長い間受け継がれてきた「子どもと子どもをつなぐ遊び」がありました。子ども達はその遊びを共有することでつながることが出来たのです。そしてそのような場で、「ルールを守ること」、「弱い子を守ること」、「みんなで相談すること」、「みんなで協力すること」などを学んでいたのです。ですから、「群れて遊んだ経験がない子」や「みんなと一緒に遊ぶ楽しさを知らない子」をいくらいっぱいあつめて一緒に遊ばせようとしても、それだけでは「遊び」も「つながり」も生まれないし、「遊びを通して子ども達が育つ場」も生まれないのです。子どもの群れが群れとして機能するためには、みんなが憧れるような「かっこいいお兄ちゃんやお姉ちゃん」が必要なんです。そういう子がいない時には、子ども達が憧れるような事が出来る「かっこいいお母さんやお父さん」でもOKです。むしろ、弱肉強食的な原理に支配された場になってしまい、
2024.09.06
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現代社会の子どもたちは、「大人が、大人の価値観に基づき、大人のために作った社会」の中だけで暮らしています。でも子どもたちは、その「大人が、大人の価値観に基づき、大人のために作った社会」に適合することが出来ません。また大人たちも、子どもたちをいきなり「大人の社会」に放り出す危険性を知っています。だからネットなどにも「子どものためのフィルター」をかけたりしています。そして「子どものための公園」を作り、「子どものためのオモチャ」を作り、「子どものための場所」を作り、「子どものためのお菓子」を作り、「子どものためのテレビ番組」などを作っています。「子どものための権利」なるものも作っています。そしてそれが「大人としての優しさ」だと思っています。それはつまり、「現代社会に生きている子ども達は常に子ども扱いされている」ということです。現代社会では大人と子どもが、「大人」という「子どもを守り世話をする存在」と、「子ども」という「大人に守られ世話を受ける存在」に分かれてしまっているのです。問題は、「子ども」という「大人に守られ世話を受ける存在」も、やがて「大人」という「子どもを守り世話をする存在」にならなければいけないのですが、「その役割の交代を子どもたちが学ぶ場」がないということです。大人たちも子どもたちに「大人としての役割」を伝える機会がありません。そのため、現代社会では大人になってもまだ「子どもの時に受けていた保護」を求め続ける「見かけは大人、中身は子ども」の大人が増え続けています。30才、40才、50才になってもまだ親の保護を求め続けている人もいます。成長の過程で「大人になるための学び」「守る側になるための学び」を学んでいないのでそれは当然の結果なんです。昔の子ども達は兄弟も多かったし、遊びの場にも異性や異年齢の子もいっぱいいて、みんなで助け合いながら遊んでいました。そして、子どもは他の子を「子ども扱い」しません。自分よりも幼い子には手加減しましたが、同じような年齢なら対等に関わりました。助け合うこともしたし、ケンカもしました。子ども相手に子どもが「おれは子どもなんだから」と主張しても、相手も「おれも子どもだ」と主張してくるでしょう。子どもが「子どもとしての権利」を主張できるのは相手が大人の時だけなんです。これは「権利」と呼ばれるもの全般に言えることです。「女性としての権利」は男性に対してしか主張できないのです。昔の群れ遊びの場には、幼児から高学年の子までいました。私が属していたグループをまとめていたのは中学生のお兄ちゃんでした。下は幼稚園ぐらいの子です。幼稚園ぐらいの子と高学年の子がみんなで一緒に遊んでいたのです。そういう場では「僕は子どもなんだから」などと子どもの権利を主張する子はいません。また、大きい子が小さい子も一緒に遊べるように工夫していました。そして最初は「世話を受けていた子」がやがて「世話をする側」になっていきました。つまり子どもたちは、「群れ遊びの場」で楽しく遊びながら「大人になるための学び」や「守る側になるための学び」もしていたのです。また「お手伝い」という形で「大人の役割」も学んでいました。あとこれも非常に重要なことなんですが、子どもだけでなく自然もまた子どもを「子ども扱い」しません。「子どもが登りやすいように自らの形を変える木」などというものは存在しないのです。落ちてもケガをしないように地面をフカフカになどしてくれないのです。だから、自然の中で遊ぶためには、子どもの方が自然に合わせる必要があるのです。「自然は危険だ」と言って子どもを自然から遠ざける大人もいますが、でも子どもが「自立して生きることが出来る大人」になるためには、「自らの力でその危険を克服するための学び」をする必要もあるのです。人工的に作られた公園で子どもがケガをしたら、付き添っていた大人か、公園の管理者がその責任を問われます。でも、森の中で遊んでいてケガをしたら、それは子ども自身の責任です。子ども自身で何とかするしかないのです。昔の子どもの群れには「大人の付き添い」などなかったのですから。子どもが「子どもを子ども扱いしない自然」の中で、「子どもを子ども扱いしない異年齢の子ども達」と群れて遊ぶことが、「子どもが大人になった時の学び」を支えてくれていたのです。でも、それもほぼ消滅してしまいました。現代社会に生きる子ども達は、「大人として生きるために必要な学び」を学ぶ場を失ってしまったのです。
2024.09.05
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昨日のブログ「自然とのつながりを取り戻そう」(もっと自由に生きるために)に対して、「めげぞう」さんから以下のようなコメントをいただきました。小学校のお母さん達に、放課後の過ごし方を聞いてみたら,半数以上の子ども達が、放課後誰とも遊んでいない事がわかりました。平日全て習い事をしている子平日全て民間学童で過ごしている子2週に1度くらいは約束して誰かと遊ぶけどそれ以外はiPadをやっている子びっくりしたのが、外で遊ぶ事を母が良い事だと思ってませんでした。地域のプレイパークに小学生の子ども達が来ない事がよくわかりました。そして低学年からスマホです。遊べるかわからないけど家にピンポンしようと言うことも皆無でした。地域で、外でも遊ばせないのですから、自然は程遠いと思います。海にも川にも危ないから行かないそうです。何を育てているのかわからなくなります。学校や地域によって程度差はあると思いますが、日本全体としてもこのような状態が進行しているのは確かだと思います。植物でも、動物でも、昆虫でも、成長するためには栄養が必要です。そしてその栄養は幼虫の時と成虫の時、幼体の時と成体の時は異なります。芋虫の時に必要な栄養と、蝶になってから必要な栄養は異なります。おたまじゃくしの時に必要な栄養と、カエルになってから必要な栄養も異なります。ちなみに、今ネットでその違いを調べたら、AIの回答は以下の通りでした。おたまじゃくしとカエルの食べ物は次のとおりです。おたまじゃくし草食よりの雑食で、茹でたホウレンソウやナッパ、カツオブシ、ニボシ、米、パンなどを食べます。人工飼料も与えられますが、同じ餌ばかり与えると栄養バランスが偏って成長が阻害される可能性があります。また、動物質の餌を与える場合は、水質の悪化に注意が必要です。カエル肉食性で、ハエ、蛾、コオロギなどの生きた昆虫を食べます。水生のカエルはメダカなどの小魚を与えます。カエルの種類や大きさによって食べる虫は異なり、アマガエルはガガンボやアブラムシ、ウンカなどの田んぼの稲を食い荒らす害虫を食べています。繁殖期のオスはほとんどエサを食べません。つまり、カエルは肉食ですが、おたまじゃくしの時は「植物も含めたバランスの取れた栄養」が必要だということです。人間の場合でも、赤ちゃんに必要な栄養、幼児に必要な栄養、思春期前後の子どもたちに必要な栄養、大人になってから必要な栄養、老人に必要な栄養は異なりますよね。もっと細かく言えば、季節によっても「からだに必要な栄養」は異なります。朝昼晩でも「からだに必要な栄養」は異なります。なぜなら、年齢や季節や一日の時間によって「からだの状態」が異なるからです。「からだをいっぱい使って遊んでいる子」と「本ばかり読んでいる子」は「からだの状態」が異なります。だから、「必要な栄養」も異なります。そのくらいのことはみんな知っているのではないでしょうか。そして人間の場合は「からだ」だけでなく、「知性」や、「心」や、「感覚」や、「意識」や、思考力」や、さらには「魂」まで育てる必要があります。その場合でも、「知性の育ちに必要なもの」と「心の育ちに必要なもの」は異なります。「思考力の育ちに必要なもの」と「感覚の育ちに必要なもの」も異なります。さらには、同じ「知性の育ちに必要なもの」であっても、子どもの年齢によってその内容は変わります。子ども一人一人の特性によっても異なります。子どもの育ちには、こんなにも多様な「必要なもの」があるのです。ですから、大人がそれに合わせて子どもに栄養を与えるのは不可能なんです。でも、大丈夫なんです。子どもは「遊び」を通して、「自分の成長に必要なもの」を自分の本能で満たそうとするからです。感覚が育っている時は、感覚を刺激するような遊びを好みます。身体能力が育っている時には身体能力を必要とするような遊びを好みます。社会性やコミュニケーション能力が育っている時には仲間と遊びたがります。言語能力が育っている時には「おしゃべり」や「言葉遊び」などを楽しみます。子どもたちはこのようにして「遊び」を通して、本能的に「自分の育ちに必要なもの」を満たそうとしているのです。男の子は、思春期になってからだがしっかりとしてくると肉が食べたくなりますよね。それと同じ働きです。子ども達は「多様な状況での多様な遊び」を通して、自分自身の状況に合わせて自分自身の成長を促しているのです。それは子どもの遊びを見ているとよく分かります。成長に合わせて「遊び」が変化していくからです。でも現代社会の子どもたちは、めげぞうさんのコメントにもあるように、その「遊び」を奪われてしまっています。そして、「成長が終わってしまった大人」と同じものを与えられています。テレビやゲームやネットなどで得ることが出来るものは、「成長が終わってしまった大人の感性」によって作られた「成長が終わってしまった大人」のためのものです。「成長しつつある子ども」のためのものではありません。皆さんは、大人と同じ味付け、大人と同じ栄養の食べ物を幼い子どもたちに与えていますか。普通はそんなことしないですよね。それに子どもも嫌がりますよね。カレーを作るときも「子ども用」を別に作ったりもしますよね。でも、現代の子どもたちは「大人と同じ環境」の中で暮らし、「大人と同じルール」を求められ、大人のように義務に縛られ、子どもらしく感じ、考え、行動する自由を奪われて生活しています。また、刺激や情報に関しては大人と同じものを与えられています。現代の子どもたちは、「子どもが必要とし、子どもが求めるもの」ではなく、「大人が必要とし、大人が与えるもの」だけで成長しなければならないのです。でもそれは無理なんです。
2024.09.04
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子どもたちを喜ばせるのは簡単です。「欲しいもの」を与え、「行きたいところ」に連れていき、「見たいもの」を見せ、「やりたいこと」をやらせ、「食べたいもの」を食べさせれば、子どもたちはすぐに喜びます。ただし、その「子どもたちを喜ばせるもの」は、子どもたちが「すでに知っているもの」である必要があります。すでに「ポケモン」をよく知っているから「ポケモンミュージアム」に連れて行くと喜ぶのです。ディズニーの映画やキャラクターを知っているから、「ディズニーランド」に連れて行くと喜ぶのです。そして子どもたちは、日常的にテレビや、映画や、ゲームや、youtubeなどを通して、そういうものに触れ、あこがれを感じています。また、企業もそういうメディアを通して子どもたちにそういうものを欲しがるように働きかけています。アイドルに会いたいと思うのも同じです。メディアが作りあげた「キラキラしたアイドル」を見ているから、アイドルに会いたくなるのです。そして、会うと喜ぶのです。その「キラキラ」は、メディアが作りあげた幻想なんですが、子どもたちはそのことを知りません。そして、これらの「子どもたちを喜ばせるもの」の全てが、大人たちが創り出した人工物です。自然や、命や、からだなどとのつながりがない虚構の世界です。そのため、「命の働きとつながった子どもの成長」を支える力はありません。また、お金がないと得ることが出来ません。また、それ自体に多様で複雑な世界が含まれているわけではないのでしばらくすると飽きます。自然界は、それ自体が生き物なので、常に動き変化しています。だからいつまで見ていても飽きないのですが、人工物は生き物ではないので、人間が変化させないことには変化しないのです。そのためそのままではすぐに飽きます。だから常に新しい商品を作り出しています。でもそれを得るためには「お金」が必要です。また、その「人工的な世界」の中に閉じ込められ、人工的な世界の中にあるものだけを欲しがり、喜ぶようになってしまった子どもは、その世界から外に出ていかなくなります。お金さえあれば、簡単に「欲しいもの」を得ることが出来るのですから、そこから出ていく必要がないのです。でも、「常に新しい刺激を得るためのお金」に対しては執着するようになります。やりたいことをやった結果としてお金を得るのではなく、お金を得るために働くようになるのです。だから仕事は何でもいいのです。テレビでも「空き時間に簡単にバイトが出来ますよ」と宣伝しています。そして、現代社会には「お金を稼ぐために生きている人」がいっぱいいます。それはそれで「一つの生き方」ですから、そういう生き方をしている人を否定はしませんが「もったいないな」とは思います。せっかく与えられたたった一度っきりの人生を、お金を稼ぐためだけに使ってしまうのはもったいないです。そんな現代社会でも、まだ「命の世界」や「自然の世界」とのつながりが強い3才ごろまでの幼児は、積極的に「外の世界」に出ていこうとします。でも、「外の世界」を嫌う大人たちによってすぐに「安全で、清潔で、刺激的で、快適に管理された人工的な世界」に連れ戻されてしまいます。その繰り返しを通して子どもたちは外の世界に対して興味も感じなくなります。「自分たちが暮らしている人工的な世界の外にはもっともっと大きな世界が広がっている」ということも分からなくなります。さらには「外の世界」に恐怖を感じるようになってしまう子すらいます。また、大人たちも「外の世界」のことを語りません。虫の面白さ、草や木の美しさ、風の音、光の揺らぎ、雲の不思議について語りません。命の不思議、死の不思議も語りません。というかそもそもそういうことを知りません。出会ったことがないのですから。その一方で、子ども達に「虫やばい菌の恐ろしさ」や、「自然の不潔さや危険性」はいっぱい教えています。そのため、人工的な世界の中だけで暮らしている子どもたちは、次第に「外の世界」に対する興味を失うだけでなく、「外の世界」を怖がるようになります。そういう子は、部屋の中に虫がいただけで「殺して殺して!」と大騒ぎをします。ちなみに虫は「外の世界」の住人です。うちの教室には時々「蚊」が出没するのですが、「蚊」がいただけで大騒ぎをする子もいます。そういう子の家には蚊がいないそうです。クモも時々出没しますが、当然、クモでも大騒ぎします。気になるのは、そのような時「外に出して」ではなく「殺して」と主張する子が多いことです。「蚊なんか全部殺しちゃえばいいんだ」と言う子もいます。昔、と言っても、人類史的にはつい最近のことですが、人々は自然と共に生きていました。そのため、自然から学び、自然と対話する能力を持っていました。自然の怖さも知っていましたが、素晴らしさや、美しさや、面白さも知っていました。お金がなくても自然があれば衣食住の全てを賄うことが出来ていたのです。子どもたちもまた、自然があればいつまでも遊んでいることが出来ました。ただし、自然は「ただそこにあるだけ」ですから、子どもの方が能動的に感じ、能動的に考え、能動的に行動しないことには楽しくないし、遊びも生まれません。だからこそ、能動的に感じ、能動的に考え、能動的に行動する能力を育てることが出来たのですが、人工的な世界が子ども達に与えているものは、お金がないと楽しめないものばかりです。それらはお金がないと楽しめませんが、お金があれば能動的に感じ、能動的に考え、能動的に行動しなくても楽しく遊ぶことが出来ます。そしてそれ故に、中毒性があります。
2024.09.03
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お母さんは、子どもが幼いうちは毎日、四六時中、我が子と一緒にいます。遊んでいる時も、食事をしている時も、テレビを見ている時も、寝ている時も一緒です。だから、「自分の子どものことは自分が一番よく知っている」と思っています。でもそれは思い込みに過ぎません。多くのお母さんたちが知っているのは、「お母さんと一緒にいる時の我が子」「家の中にいる時の我が子」「日常生活を行っている時の我が子」に過ぎないからです。「自然の中の我が子」、「仲間の中の我が子」、「何かを描いたり作ったりしている時の我が子」、「仲間と一緒にからだを動かして遊んでいる時の我が子」のことはあまり知らないのです。そういう場に立ち会うことがあまりないからです。「我が子を海に連れて行ったら、どういう反応をして、どういう遊びを始めるのか」などということは、実際に子どもを海に連れて行かないと分からないのです。実際、私は、30年近く、親子で一緒にからだを動かしたり、歌ったり、踊ったり、作ったり、劇をやったり、わらべ歌で遊んだりするような活動をしていますが、そういう場で初めて「それまで見たこともない我が子」の姿を見て驚くお母さんも多いです。家では普通に遊んでいるのに、他の子がいる場に来ると固まって動けなくなってしまう子もいます。みんなで遊んでいるのに、みんなと一緒の輪に入らず、一人だけで遊びたがる子もいます。絵本を読んでいる時には多くの子が静かに話を聞いていますが、そんな時も全く関心を示さない子もいます。絵本を読んでいる人の真ん前に立って、他の子から「見えない」と言われる子もいます。静かに集中してお話しを聞く子もいます。輪になって座っている時に、絶対に自分のお母さんのお膝にしか座らない子もいれば、他のお母さんのお膝でも気にしない子もいます。さらには、他のお母さんのお膝にばかり座りたがる子もいます。劇遊びなどで、役になるために変身する時も、ノリノリで変身する子もいれば、変身を嫌う子もいます。お母さんが変身しても大丈夫な子もいれば、お母さんが変身すると泣き出す子もいます。そのような子どもの状態は、私の教室に来る前からその自身が持っていた特性なのですが、そういう状況の中での我が子を見たことがないお母さんは、そういう場で「それまで知らなかった我が子の姿」を見ることになるのです。幼稚園に行くようになって、先生から「幼稚園での我が子の姿」を聞いて、家にいる時とは全然違うその姿に驚く人も多いのではないでしょうか。狭い部屋の中や、ブランコや滑り台があるような小さな公園で遊んでいる子の状態と、森や野原で仲間と一緒に自由に走り回って遊んでいる時の状態は全く違うのです。からだの動きも、声も、笑顔も全く違うのです。以前、体験に来た人が、家では見たことがないほど活発に動き回り、家では見たことがないような笑顔で遊んでいる我が子を見て、「こんな笑顔初めて見た」と言っていました。このお母さんだけではありません。毎日一緒にいるのに、子どもの「本当の笑顔」や「本当の姿」を知らないお母さんがいっぱいいるのです。「我が子の素晴らしさ」、「我が子の問題点」、「我が子の能力」、「我が子の気質」に気付かないお母さんもいっぱいいます。そのようなことに気付くことが出来る場面に立ち会ったことがないからです。確かに、テレビを見ている時も笑うかもしれません。美味しいケーキをもらった時も笑うかもしれません。でも、仲間と一緒に自由に走り回って遊んでいる時の笑顔はそれとは全くレベルが違うのです。からだ全体が光っているような笑い方をするのです。狭い空間に閉じ込められ、自由を奪われた状態で暮らしている子どもたちは、その命のエネルギーや光を内側に閉じ込められてしまっているのです。そして、その状態が長く続くと命のエネルギーも光も萎えていってしまうのです。エネルギーというものは動き循環することで保たれるものだからです。
2024.09.01
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自覚しているかどうかはともかくとして、子育てをしている多くの親は、我が子に対して何らかの期待を持っています。例えば、「優しい子に育ってほしい」、「良い子に育ってほしい」、「自立した人間に育ってほしい」、「スポーツが得意な子に育ってほしい」、「勉強が出来る子に育ってほしい」、「強い子に育ってほしい」、「かっこいい子に育ってほしい」、「賢い子に育ってほしい」などなどです。子どもに対して何にも期待しないで子育てをしている人の方が少ないのではないでしょうか。そして、実際の子育てにおいても、その期待に沿って子どもに言葉かけをしたり、子どもを励ましたり、子どもを追い立てたり、子どもの遊びや生活の環境を整えようとしています。ですから、そのお母さんが子どもにどのような言葉かけをして、どのようなことに追い立てているのかを見れば、そのお母さんが子どもに何を期待しているのかを知ることが出来ます。本人が自覚していなくても、周囲の人には分かるのです。私の場合は、今思えば「賢い子に育ってほしい」だったのではないかと思います。ただし、子育てをしている最中にはそんな自覚はありませんでした。「今、振り返って思えば」ということです。だから勉強にも追い立てませんでした。「学校の成績」と「賢さ」は関係がないからです。「優しさ」も強制しませんでした。「優しさ」は「賢さ」の表れに過ぎないからです。「優しくしなさい」と言わないと優しくできないのは「優しい子」ではないのです。「良い子」も求めませんでした。大人や親の言うことに従うだけの子は「賢い子」ではないからです。「自立」も強制しませんでした。「精神的自立」もまた「賢さ」の結果に過ぎないものだからです。子どもに「自分らしく生きる」ことを望むのなら、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と判断で行動することが出来る賢さ」を育てることが必要になります。じゃあ、私は何をしたのかというと、山のように読み聞かせをしました。仲間や自然と出会わせました。色々なところに連れていき、色々な大人と出会わせました。モノや道具に依存しない色々な遊びや活動に子どもたちを誘いました。「そのような関わり合いで育つ何か」を期待していたからです。今思えばそれが「賢さ」ということだったのではないかということです。じゃあ、その「賢さ」ってなんなのか、ということです。私はそれを「相手の立場に立って考える能力」と考えて、このブログに書こうと思っていたら、ちょうど「賢さ」について書いた記事と出会いました。それは「ナゾロジー」というサイトの以下の記事です。「賢い」と思われる人の条件は相手を思いやれること!11カ国で共通以下はここからの抜粋です。「賢い」と思われる人には多くの国で共通する特徴があったようです。カナダ・ウォータールー大学(University of Waterloo)の研究チームは最近、11カ国における約2700名の参加者を対象に「どういう人を賢いと思うか」を調査。その結果、どの国でも「内省的で論理的に思考し、他人の感情を思いやって気遣うことができる人」が最も賢い人と捉えられていました。研究の詳細は2024年8月14日付で科学雑誌『Nature Communications』に掲載されています。どうやら、私が「賢さとは何なのか」と考えていたことは、私一人の思い込みではなかったようです。ここではっきりしているのは、どの国でも、「成績が良いこと」を「賢いこと」とは認識してないということです。世界中で多くの人が、「賢さ」とは「相手の立場に立って感じ、考え、判断する能力」と考えているということです。それは、そこが「人間らしさの根幹」だということなのでしょう。ただし、「賢さってなにか」ということが分かっても、実際にそれを育てるのは至難の業です。なぜなら、「賢い子ども」を育てるためには、親もまた賢くなる必要があるからです。ただし、潰すのは簡単です。子どもが感じていること、子どもが考えていること、子どもがやりたいこと、子どもの成長に必要なことを無視して一方的に親の期待を押し付ければ、「賢さの育ち」を簡単につぶすことが出来ます。でもそれを止めるためには、親自身が自分の人生を自分の意志で生きる覚悟が必要になります。
2024.08.31
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子育てで一番大切なことは子どもの「笑顔」を育てることです。子どもの「笑顔」が育っている時、お母さんにも家族にも笑顔があります。というか、本当はその逆で、お母さんや家族に笑顔があるから子どもの笑顔も育っていくのですが、いずれにしても子どもの笑顔は子育ての大切なバロメーターでもあるわけです。確かに、子どもは泣いたり怒ったり悲しんだりしながら成長していくのですが、それでも家族の支えがあればすぐに笑顔に戻ることが出来るのです。そして、すぐに笑顔に戻ることが出来る子は感情が豊かな子でもあります。私の見た範囲ですが、笑顔の少ない子はどうも感情が偏っていることが多いように感じるのです。そのようなタイプの子は、感情が固まってしまっていて、笑うことだけでなく、素直に怒ることも、泣くことも出来ないような気がします。笑顔のない子(人)は自分を守ることに精一杯なのです。笑うということは緩むことです。でも、緩むということは無防備になることでもあります。だから、不安や緊張が強い子はからだを緩ませることなく顔だけで笑おうとするのです。だからなんとなく不自然だし、他の子との間の壁が消えないのです。顔は笑っていてもからだは相手を拒否しているのですから。このような「笑顔」で子育てをしているお母さんも多いような気がします。実は、「からだが緩んで出てくるような笑顔」は心が健康である証拠なんです。だから、「笑顔がある子」は心の病気にかかりにくいのです。まただから、そのような笑顔の子の周りには色々な子が集まるのです。世の中には様々な子育て法や教育法があります。でも、それがどんなに立派な哲学や、理論や、方法を持っていても、実際にそれらを実施していく過程で、お母さんや子どもから笑顔が消えてしまうようなら、それはそのお母さんにも、子どもにも合っていないのです。だから、そのことに気づいた時点ですぐやめた方が身のためです。そうでないと、取り返しがつかないことになってしまいますから。例えば、すぐに他の子を打ってしまう子が時々います。それで周囲の子やお母さん達との関係が悪くなってしまうこともあります。でも、そのような子に対して「他の子をぶたないように」強制しても事態は良くなりません。かえって悪化してしまうこともあります。親子の関係も悪くなり、子どもの笑顔も消えます。そんな時は「打たないように」強制するのではなく、「他の子と仲良く遊ぶ楽しさ」を体験させるのです。でもそのためには、大人も子どもの中に入って色々な遊びを伝えたり、一緒に楽しく遊ぶ必要があります。そうすれば笑顔が増えます。そして、笑顔が増えれば結果として他の子をぶつ回数は次第に減っていくのです。なぜなら、自分を防御する理由が消え、からだが緩んでくるからです、もし、「自分で勉強する子に育てたいのなら、勉強を強制しない方がいいです。勉強を強制したら勉強が嫌いになってしまうだけですから。そうではなく、勉強することの楽しさを教えるのです。そうすると笑顔が増えます。でもそれは「勉強を楽しむことが出来る大人」にしか出来ませんけど。子どもがお手伝いをしないのなら、お手伝いが楽しくなるようにお母さんと一緒にお手伝い遊びをしてください。子どもはお母さんと一緒なら楽しくなるのです。一人でも出来るようになるのはその楽しさを充分に味わってからです。子どもの笑顔が育つように子育てをしているのなら、特別な教育方法などに頼らなくても子どもは素敵な大人に育つのです。そこに、特別な「しつけ」などいらないのです。
2024.08.31
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いつも書いていることですが、子どもの頭と、心と、からだの育ちには「子ども自身の自由意思に基づく自由な活動」が絶対的に必要です。でも、ただ放し飼い状態で自由にさせるだけでは、子どもは欲望と本能に振り回され、進むべき道を見失い、迷子になり、不安になり、自信を失い、誰かや何かに依存することで安心と居場所を得ようとし始めます。困った行為をするグループに所属することで安心と居場所を得ようとする子もいます。そんな時、手っ取り早く「やるべきこと」を与えてくれるのが「ゲーム」です。ゲームは次から次へと課題を与えてくれます。じっくり考えるとか、しっかりと感じるとか、わざわざからだを動かすといったような面倒くさいことも必要ありません。次から次へと刺激的で楽しい課題を与えてくれるので、ただ反応しながらその課題をクリアしていくだけで達成感も得ることが出来ます。また、ゲームを通して仲間づくりも出来ます。お母さんもまた、子どもが外に出て困った仲間とつるんだり、事件や事故に合う危険性も減るので安心します。(ネットを通して困った人や困ったコンテンツと出会うことも出来ますが、そこは気にしないのでしょう・・・)それにゲームで遊ばせていると、子どもはお母さんにまとわりつきません。だから、お母さんも自由になります。その時間に家事をしたり、ネットを見たりすることも出来ます。ただし、問題がないわけではありません。それは、「ゲームの中で学んだことは、ゲームの中でしか役に立たない」ということです。リアルな世界で遊び、体験し、学ぶ機会を犠牲にしていくらいっぱいゲームで遊んでも、ゲームの中で学んだことは、自分の命が生きているリアルな世界では役に立たないのです。それはまた、子ども自身の「人間としての成長」にも役に立たないということを意味しています。ネットの記事なんかを読んでいると、「ゲームは子どもの脳機能の発達に有効だ」というような記事を見かけます。それゆえにゲームを肯定する人もいます。でも、いくら脳の機能がアップしても、それに「人間としての成長」が伴わないのならその能力が有効的に活用されることはないのです。「自分の命やからだが存在しているリアルな世界」で生きていくために必要なことを学ぶためには、「自分の命やからだが存在しているリアルな世界」での体験が絶対的に必要なんです。VRで海の中をいっぱい泳いでも、実際の水に入って泳ぎを学ばなければ泳げるようにはならないのです。本人が泳げる気になって海に飛び込んだら溺れてしまうのです。ゲームの中でいっぱい走り回っても、子ども自身の心肺機能も筋骨格も育たないのです。でも、リアルな世界での体験が乏しい子ども達には、そのことが分からないのです。「ゲームの中で釣りが上手なら、実際にやっても上手に出来るはずだ」と思い込んでしまうのです。でも、テレビを見ているとそんなことには一切触れず、「ゲームの楽しさ」ばかりを宣伝しています。リアルな世界での体験が乏しい親たちも、そのことに問題を感じません。そしてそういう親が増えて来ました。お金や、経済や、競争にしか興味がない大人達は、子どもの「人間としての成長」にも興味がないのでしょう。だから、「ゲームにしか興味がない子ども達」が大量生産されてしまっているのでしょう。今、子ども達に「一番やりたいことは何?」と聞くと、多くの子(男子はほとんど全員)が「ゲーム」と答えます。人生で一番「多様な体験」と「多様な学び」と「多様なつながり」を必要とする時期に、ゲームにしか関心がない子、ゲームとしかつながろうとしない子が凄く多いのです。でも皆さんの子どもが、社会に出てからも生き生きと自分の人生を生きていくことを願うのなら、親はマスコミの言いなりになってはいけないのです。テレビもマスコミもゲーム会社も、皆さんのお子さんの成長には興味がないのですから。国もまた同じです。様々な子育て支援も、子どもの幸せや成長を支えるためのものではありません。単に、大臣や党に対する評価を上げるためのものです。中島みゆきの「宙船(そらふね)」という歌詞の通りです。その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけおまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな全文はここで見て下さい。
2024.08.30
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幼い子どもたちは「成長する喜び」に満ちています。出来なかったことが出来るようになった時「ねえねえ、お母さん見て!」と見せに来ますよね。しょっちゅう「なぜ? どうして?」と聞いて来るのも、知らないことを知ることが「成長する喜び」につながるからです。他の子が竹馬に乗っていると自分も乗りたくなったり、他の子が上手にコマを回しているのを見ると自分も上手に回したくなるのも、仲間とつながり、仲間と一緒に成長することが子どもにとっての喜びだからです。子ども達は、自分の意思で努力し、出来なかったことが出来るようになることで、リアルに自分の成長を実感することが出来るのです。それが、子どもの成長における「遊び」の意味と役割でもあります。ここで重要なことは、ただ「出来なかったことが出来るようになる」ことではなく、「自分の意志でやったかどうか」ということなんです。子どもたちは、遊びの場では大人に強制されなくても、自分の意思で努力しますよね。自分の意思で努力するからその活動が楽しくなるのです。そして、自分の意思で努力したからこそ、その過程で学んだことが「子どもの成長」を支える力になるのです。勉強でもスポーツでも、大人に強制されてやって出来るようになっても、それだけでは子ども自身の成長にはつながらないのです。確かに、たとえそれが強制によるものでも、出来なかったことが出来るようになれば能力はアップします。でも、能力はアップしても、それが自分の意思で行ったものでなければ「成長する喜び」にはつながらないし、また「子ども成長を支える力」にもならないのです。だから一流大学を出てもその能力を使って犯罪を犯す人がいるのです。子どもたちを勉強に追い立てている人たちは「追い立てないと勉強しないから」と言います。でもそれは違うのです。学ぶことが「成長する喜び」につながらないから、子どもは勉強しないのです。まただから、追い立てやらせてはいけないのです。そんなことをしたら、子どもは「逃げること」ばかりを考えるようになってしまうのです。一流のスポーツ選手は追い立てられて練習したから一流になったのではなく、自分の意思で練習したから一流になることが出来たのです。一流の選手は成長する喜びを知っているのです。まただから、選手をやめて新しい世界に入っても、その新しい世界で成長することが出来るのです。スポーツが好きな人は「スポーツには子どもを育てる力がある」と言いますが、実際には、「スポーツ」が子どもを育てるのではなく、「自分の意思による活動」が子どもを育てるのです。努力を強制したら成長は止まってしまうのです。これは勉強でも同じです。でも、世の中の多くの大人達がこれをやってしまっています。子ども時代に、遊びや、仲間や大人との関わり合いを通して「成長する喜び」を知った子は、強制されなくても、自分の意思で学び、遊び以外の活動を通しても成長を求めるようになるのです。問題は、最近の子どもたちには、自由に自分の意思で活動する場も、時間も、一緒に成長を競い合う仲間も与えられていないということです。その一方で、常に大人に監視され、他の子と比較され、良い子を求められ、勉強に追い立てられています。そのため「成長する喜び」を知りません。だから、ゲームのような、簡単に、手っ取り早く、楽に楽しむことが出来る遊びにはまってしまうのでしょう。でも、ゲームをやって進化、成長するのは、ゲームの中のアバターだけです。スキルアップするのもアバターです。ゲームをやっている本人は成長しないのです。「たまごっち」でいくら上手に「たまごっちの中の生き物?」を育てても、「たまごっちをやっている子ども」は成長しないのです。
2024.08.29
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古来から、人間が人間らしく生きるために必要な基準として「真・善・美」という考え方が大切にされてきました。goo辞書には「真・善・美」に関して以下のように書かれています。認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。でも、古来から大切にされてきたこのような考え方も現代人には「価値がないもの」になってしまいました。まず、AIの進歩で「真」が曖昧になりました。昔の人は「百聞は一見に如かず」と言いましたが、科学の進歩で「本物と区別がつかない偽物」を簡単に創り出すことが出来るようになってしまったからです。100年以上「真実」を写してきた写真ですら、撮ったその場で簡単に加工して「嘘」を創り出すことが出来るようになりました。AI技術を使えば、岸田総理に花笠音頭を躍らせることだって出来てしまいます。皆さんが登場していなくても、皆さんそっくりの顔と姿と声を持ったアバターが登場するリアルな映画だって作ることが出来ます。それでアメリカでは役者の組合が懸念を表明しています。江戸川コナン君の決め台詞は「真実はいつも一つ」ですが、実際には「人間によって真実と認定されたもの」が「真実」として扱われるだけです。人間による判断が「真実」を決めているのです。そのため「真実」はそれを判断する人によってコロコロ変わります。芥川龍之介の小説 「藪の中」を基に撮った黒沢明監督の 「羅生門」という映画のとおりです。ちなみに「真実」と「真理」は異なります。「真実」は人間が確定しますが、「真理」の方は人間を超えた存在です。でもそれ故に議論の対象にはなりません。「美」と同じように「真理」を感じることが出来る人には「真理」は存在していますが、感じることが出来ない人には存在していません。そして、人間が作ったものに囲まれて暮らしている現代人は「真理」を感じる感性が萎えてしまっています。「美」を感じる感性も萎えてしまっています。現代人における「美」は社会的な雰囲気が作りだしている蜃気楼なようなものです。ですからコロコロ変わります。「善」もまた人それぞれです。ある人にとっての「善」は別の人にとっての「悪」であることもあります。アメリカと戦争していた時、日本人にとってはアメリカの兵隊を殺すのは仲間や国を守るための行為であり、善でした。でも、アメリカ人にとっては日本の兵隊を殺すのが仲間や国を守るための行為であり、善でした。「戦争は正義と正義の戦いだ」とも言われます。両方とも「自分の方が正義だ」と主張するのです。人々がまだ宗教を信じていた頃は、宗教が「善」を規定していましたが、異なった宗教を信じている人は異なった「善」を信じていました。現代人は科学を信じていますが、科学は「この世界には唯一の真実も、絶対的に正しい善も存在しない」ということを明らかにしてしまいました。また、「多様性を尊重する」という価値観の元では「善」を一元化する考え方は否定されています。「美」についても同じです。時代や国や文化が違えば「美」の基準は異なります。男性と女性でも異なります。もっと言えば一人一人異なります。美人コンテストでは美しい人を選びますが、その方法は多数決です。「美」には正解がないからです。人々がまだ「つながり」を大切に生きていた頃は、その「つながり」が「真・善・美」の基準を与えてくれていました。というか、「真・善・美」を共有することで「つながり」が維持されていたのです。でも、「つながり」が失われてしまった社会で生きるために必要になるのは「真・善・美」ではなく「お金」です。そして「お金」を得るために必要なのは競争です。「真・善・美」はみんなで共有する必要がありますが、「お金」は共有する必要がないからです。そのため、多くの人が、我が子がその競争に勝ち抜くために子どもたちを競争に追い立てています。でも、幼い頃から競争に追い立てられて育った子は「安心感」も「自己肯定感」も育てることが出来ません。社会に出ても、会社に入っても、結婚しても、子どもが生まれても、他の人と助け合うことが出来ないのです。現代社会では「社会的に共有された真・善・美」は存在しません。でも、家庭や家族がつながり合い、支え合って、幸せに暮らすためには、少なくとも家族の間では「真・善・美」が共有されている必要があるのです。親子間、夫婦間で競争を始めたら家族は崩壊してしまうからです。また、子どもたちの群れ遊びの場でも同じです。「群れ遊び」が成り立つためには、仲間同士で「真・善・美」が共有されている必要があるのです。一人一人が自分勝手な「真・善・美」を主張していたら戦いが起きるだけです。そしてそのためにはお母さんやお父さんが、自分の価値観、自分の生き方、自分が大切にしていることをはっきりとさせる必要があるのです。子どもが他の子をいじめた時にどういう対応をするか。ケンカをした時どういう対応をするか。ドロンコ遊びをした時どういう対応をするか。そういう日常的で些細な関わり合いが、子どもの「真・善・美」の感覚を育ててくれるのです。そしてその感覚が子どもが自分らしく生きる道しるべになってくれるのです。
2024.08.28
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現代社会では、何百年と地域や部族の中で大切にされ、受け継がれてきた価値観や、考え方や、感じ方や、からだの使い方の大切さが否定され、毎日のように変化し続けています。真・善・美の感覚も変化しています。でも、人間の心とからだの基本的な構造や、そのシステムや、育ち方は、何万年も前から変わっていません。栄養状態や衛生状態が良くなることで多少からだの成長が早くなったり、寿命が延びたりしたりはしていますが、からだの基本的な構造や、システムや、育ち方が変わったわけではないので、栄養状態や衛生状態が100年前に戻れば、成長の早さや寿命も元に戻ります。スポーツの記録も年々伸びていますが、人間のからだが進化しているわけではありません。スポーツで使う道具や施設が進化しているから記録が伸びているだけです。東京オリンピックで、アベベ・ビキラは裸足でフルマラソンを走り切りましたがその記録は2時間12分11秒でした。当時の世界記録です。ネットで調べたら、現在の世界記録は、エリウド・キプチョゲ(ケニア)が10月12日、オーストリア・ウィーンで、非公認のフルマラソンで出した1時間59分40秒2だそうです。アベベよりも12分も早いですが、でも、人類の足が速くなったわけではありません。エリウドに裸足で、アベベと同じコースを同じ条件で走らせたら、100%そんな記録は出せないはずです。アベベを超えられるかどうかも不明です。同じ時代の選手でも、お金の有無が記録の結果に直結してしまっています。同じ能力を持った選手でも、より高い装備を手に入れることが出来る人の方が良い記録を出すことが出来るのです。でも、これはフェアではないですよね。現代スポーツはお金がかかるという時点でフェアではないのです。でも、多くの人がそれらを「技術の進化のおかげ」とは考えずに、「人間の能力が進化した」と勘違いしています。繰り返しますが、人間のからだの基本的な構造や、システムや、育ち方は、1万年前の古代人とほとんど同じなんです。変わったのは頭の中と、生活環境だけなんです。科学の進歩で生活環境が変化したから、それに伴って、見かけ上の状態が変化しているだけなんです。成長に必要なものも変わっていません。ですから、1万年前の子どもの成長に必要なものと、現代に生きている子どもの成長に必要なものも基本的には同じです。それは手を使い、頭を使い、心を使い、感情を使い、からだ丸ごとを使った活動をし、多様な体験をし、仲間と関わり、大人から学ぶことです。そのような活動を通して、子どもたちは意識や、心や、知能や、からだや、様々な個人としての能力や、社会人としての能力を育ててきたのです。人類誕生以来何十万年と、人間らしさも、文化や文明もその能力によって受け継がれてきたのです。でも、近代に入り、科学の急激な進歩と、便利な機械の登場によって状況は一変してしまいました。特にここ半世紀ほどの変化は人類史に例を見ないほど過激でした。人類規模で、こんなにも短時間で生活環境が激変してしまったことなど過去に一度もなかったのです。スマホやコンピュータなどを使えば頭を使わなくても高度な計算をすることが出来るようになりました。でもその一方で簡単な計算も出来ない人達が増えて来ました。機械を使えば重いものを持ち上げることが出来るようになりました。でも、その一方で重いものを持ち上げる筋力は低下しました。機械を使えば誰でも美味しいご飯が炊けるようになりました。でも、その一方で機械がないとご飯を炊けなくない人が増えて来ました。ゲームがあれば子どもは一人でも退屈しないで遊ぶことが出来るようになりました。でも、その結果リアルな世界での人と人の関わり方を学ぶことが出来ない子が増えて来ました。相手に共感したり、誰かと助け合う能力も低下しました。ゲームの中では助けいますが、それは利害を共有しているからに過ぎません。ゲームの中には、利害を超えた助け合いは存在していないのです。そういう価値観が肯定されてしまったら、ゲームがゲームとして成り立たなくなってしまうからです。スポーツのチームの中での助け合いも同じです。そのような能力がなくても、便利な機械があれば豊かで贅沢な生活が出来るようになったのです。「それが現代人らしさであり現代人の生活だ」とも言えますが、それは同時に、人間の能力が低下していることとセットになっているのです。子育てをする時、子どもの教育をする時にはそのことを忘れてはいけないのです。
2024.08.27
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日本人は「自分を表現する」ことが苦手です。苦手どころか逃げようとします。自分が感じていることや、考えていることを言葉や行動に出そうとしません。そして、ただ黙って周囲に合わせています。みんな、幼い子どもの頃はそんなことなかったはずなのに、周囲の大人から「良い子」や「正解」を押し付けられ、「みんなと一緒」を強制されているうちにそのような感性が育ってしまうのです。日本の社会では「みんなと違うこと」は「直さなければいけない欠点」なんです。「発達障害」と呼ばれる子が増えてきたのも、学校に行かない子、行けない子が増えてきたのも、社会の「均一圧力」が強くなった結果なのでしょう。「セルフ・レジ」のようなシステムも、社会の多様性を奪ってしまっています。そして、そのようなしつけや教育を受けているうちに、感じたり考えたりする能力自体が萎えてしまっています。コロナ騒動の間に「顔を出してはいけない」と押し付けられ、なんの考えも持たずにそれに従順に従った人たちは、今でも顔を隠して生きています。でも、一人で散歩している時も、自転車に乗っている時もやっているのは「感染を防ぐためのマスク」ではなく「顔を隠すための布」に過ぎません。顔を隠して生活している人がいっぱいいる社会は不気味です。そんな人たちでも、幼い子どもの頃には一生懸命に感じ考え、それを言葉と行動によって表現しようとしていたはずなのに、日常的にそれが否定されることで、感じたり、考えたり、言葉や行動によって自分の感覚や、思考や、想いを表現する能力の育ちが止まってしまったのでしょう。そのような人に、「感じてみて」、「考えてみて」、「言ってみて」、「やってみて」と言っても「何を求められているのか」ということ自体が分からないようです。子育ての勉強会で「子どもから〝なんで勉強しなければいけないの〟〝なんで学校に行かなければいけないの〟と聞かれたらなんて答えますか」と聞いても、納得できるような答えが返ってくることは稀です。「子どもには自分らしく生きて欲しい」と言っている人に、「じゃあ、自分らしさって何ですか?」と聞いても納得できる答えが返ってきません。そのような問いにちゃんと答えることが出来るような人はもうすでに「自分らしく」生きているのです。そして、お母さんが「自分らしく」生きているのなら、子どもも「自分らしく」生きることが出来るように育っていくのです。それは、「日本語を話すお母さん」に育てられれば、子どもも日本語を話すようになるのと同じことです。自分は自分らしさを失った状態から抜け出そうともしないで、子どもにだけそれを求めても無理なんです。でもまだ子どものうちなら、ちょっとした刺激を与え、感じ、考えたことを言葉や行動で表現することを肯定しているうちに、子どもたちはどんどん感じ始めます。考え始めます。発言し始めます。行動し始めます。すると、他者との関わり合いが生まれます。その過程で自分とも出会います。そして、頭と心とからだの成長が始まります。自分らしく生きる能力も育ちます。人間としての精神も育ちます。そしてもっと学びたいとも思うようになります。それが子どもの本能だからです。だから、子どもの育ちには「覚えさせる教育」ではなく、「表現させる教育」が必要なんです。「黙って言うことを聞きなさい」というしつけではなく、「君は何がやりたいの? 何が言いたいの?」と、問いかけるしつけが必要なんです。言いなりになるために聞くのではなく、対話を始めるために聞くのです。でもそのためには、まず大人が、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の言葉で語り、自分の意思で行動することから始める必要があるのですけどね。
2024.08.26
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無事、楽しく、お泊まり会は終わりました。滝ジャンプしたり、滝に打たれて修行をしたり、カニや虫を捕まえたり、ドラム缶風呂や五右衛門風呂に入ったり、花火をしたり、キャンプファイヤーをして怪しい新興宗教のように踊りまくったりしましたが、今回のメインイベントは夕食後の「劇遊び」でした。やったお話はみんなが知っている「桃太郎」と、ちょっと怖い「三枚のお札」でした。それぞれお母さんにリーダーを任せ私はノータッチでしたが、いやー、面白かったのなんの。子ども達やお母さん、お父さん達の底力らを感じました。本当は、子ども達の素敵な表情を捉えた写真をお見せしたいのですが、昨今の諸事情であまり子ども達の顔をお見せできないので、「なんとなく」という写真だけを選びました。こういう表現遊びをすると、子ども達も、お母さん達もどんどん成長していくのが分かるのです。食事でも同じですが、「出すから入る」のです。出すから「入ったもの」が栄養として頭と心とからだに回るのです。でも、現代の教育では出させないで入れることばかりを考えています。だから詰まってしまうし、苦しくなってしまうし、身動きが取れなくなってしまうし、どんなに口の中や腹の中に詰め込んでも、子どもの頭と心とからだを育てる栄養として吸収されないのです。「(なんちゃって)桃太郎」なぜか恐竜も家来に桃太郎に自分の能力を見せる恐竜パン泥棒まで出てきますやられてしまった鬼。でも、この後仲直りします「(なんちゃって)三枚のお札」ヤマンバ、怖いでしょ子ども達がキャーキャー言って逃げ惑いますお札の一枚目は手裏剣が出ます二枚目は大雨が降ります三枚目はなぜかクマが出てきますみんな、子どもとお母さん達で考えました。キャンプファイヤー踊る原住民
2024.08.25
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今日はこれから、山北の「ペガススの家」という所で毎年やっている親子遊びの合宿に行ってきます。ということで、明日のブログはその合宿から帰ってから書きます。******************ダンスを学んだことがない人や、ダンスを見たことがない人に、「自由に踊っていいよ」と言っても、自由に踊ることは出来ません。本人は自由に踊っているつもりでも、周囲の人にはそれは「自由」ではなく「デタラメ」にしか見えません。本人も、そのようなダンスでは楽しくないのですぐに飽きてしまいます。ストレスが溜まっているときなどはデタラメに踊るだけでも気持ちがいいかも知れませんが、それは「排泄」であって、私が言っているところの「表現」ではありません。(排泄もまた「表現」の一種ですが、「表現」のような「人を育て、自由を楽しむ行為」とは異なるものです。)実は、「自由に踊ることが出来る人」は「踊ることを楽しむことが出来る人」でもあるのです。これは、お料理でも、絵を描くことでも、子育てでも、人生を生きることにおいても、仕事でも同じです。「自由に子育てが出来る人」は、「子育てを楽しむことが出来る人」であり、「子育てを楽しんでいる人」は「自由に子育てが出来ている人」でもあるのです。人は「自由がない行為」を楽しむことが出来ないからです。その時、もっと「自由にならなければ」などというような精神論では自由になることが出来ません。むしろ、不自由になります。じゃあ、どうやったら楽しめるようになるのかというと、「学び方」を工夫するのです。その「工夫」が学びを楽しくしてくれるのです。勉強も工夫するから楽しくなるのです。そして、工夫するから身につくのです。ただ頑張っているだけでは身にはつかないのです。そして、「自由」は、その「工夫」の中で実現されるのです。でも、「工夫」をしたことがない人には「工夫する」ということがなかなか分からないようです。子どもでも、最近の子は、思い込みでやってみて、その思い込み通りに行かなかったときにはすぐに諦めてしまう子が非常に多いです。「こうやってだめだったら、ああやってみよう」と工夫することが出来ないのです。そんな時、ただ頑張るだけではどんどん迷路のどん詰まりに追い込まれ、苦しくなるばかりです。そういう子育てをしている人もいっぱいいます。「早くしなさい」と言ってもダメだったら、他の方法を工夫するのです。何回言ってもダメなのに、ただそれを繰り返し続けるだけの人は「工夫しない人」です。それでは「子育て」は苦しくなるばかりで楽しくなりません。自由にもなりません。じゃあどうやって工夫するのかと言うことですが、その時に必要になるのが「視点の切り替え」なんです。ただし、視点の切り替えが出来るようになるためには、「知識」ではなく「多様な体験」が必要になるのです。体験が「自分の視点」を与えてくれるのです。知識の中にあるのは「他人の視点」だけです。だから、知識ばかりいっぱい詰め込んで体験が不足している子は、学ぶことを楽しむことが出来ないし、自由に感じ、考え、表現することも出来ないのです。だから、子ども時代はお勉強などさせずに、いっぱい遊ばせた方がいいのです。
2024.08.24
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現代人は「簡単・便利」と引き換えに「自由」を失っています。社会の色々なことが機械化されることで、私たちの生活は簡単で便利になりましたが、その分一人一人の能力は低下し、不自由になってしまいました。でも、そのことに気付いている人は多くありません。気付くきっかけがないからです。私はパソコンなるものが登場する前からコンピューターを使っていました。オフィスコンピュータなる、冷蔵庫のように大きなコンピュータです。そのコンピュータを動かすためには、その動きを制御するためのコードを入力しなければなりません。パソコンなるものが登場し、私がそれを扱うようになったのは1983、4年頃のことです。まだ「ウィンドウズ」は存在していない時代です。その頃のパソコンもまた、オフィスコンピュータと同じように電源を入れても真っ黒な画面が立ち上がるだけでした。コードを入力して動作を指示しないと何にも出来ないのです。電話回線を使ったパソコン通信なるものはありましたが、インターネットなどはありませんでした。でも、コードを入力して動作を指示しないと何にも出来ないのですが、コードを記述すれば100%コード通りに動きました。「自分仕様のアプリ」も作ることが可能でした。で、1995年にウィンドウズが登場したのですが、びっくりしました。電源を入れただけで画面が立ち上がるのですから。コードを打ち込まなくても作業が出来るのですから。アプリも自分で作らなくても出来合のものがいっぱい出てきました。自分で作るのではなく、数ある中から選ぶだけで良くなったのです。それは便利でした。でもそれと同時に自由を失いました。それまではパソコンを私のやり方に従わせていたのに、ウィンドウズではウィンドウズやアプリのやり方に私が従わなければならなくなってしまったからです。セルフレジと同じです。人間の店員さんならお客の要望にある程度は合わせてくれますが、セルフレジでは、100%お客の方が機械のルールに従うしかないのです。それはまたレゴとも似ています。レゴでは色々なパーツをくっつけるだけで簡単に色々なものが作れますが、パーツそのものを自由に自分で作ることは出来ません。レゴで遊ぶときにはレゴのルールに従うしかないのです。それが「便利の代償」です。また、レゴでは「のようなもの」しか作れません。レゴでも「トンカチのようなもの」を作ることは出来ます。でもそれは、あくまでも「のようなもの」であって「トンカチ」そのものではありません。「椅子のようなもの」も作ることが出来ます。でもそれは「本物の椅子」ではありません。簡単で便利なオモチャで作れるのは「オモチャ」であって「本物」ではないのです。でも、本物の道具と材料を使えば、自分のイメージに合わせて本物の椅子も、本物の家も、本物の洋服も、本物のお料理も作ることが出来ます。ただし、そのためには「本物を使いこなすための修練」が必要になります。レゴで作るように誰でも簡単に出来るわけではないのです。でも、修練することで本物を作り出す自由を手に入れることが出来るのです。簡単で便利に遊ぶことが出来るレゴでいくらいっぱい遊んでも、本物を作れるようにはならないのです。そして、子どもの成長にはそういう「本物と出会う体験」が絶対的に必要です。まただから、子どもには学ぶことや修練することが楽しい時期があるのです。歩き始めの幼い子どもは転んでも転んでもまた立ち上がり歩こうとしますよね。2,3才の子は色々なことにチャレンジしようとします。当然ケガもします。でも、諦めません。でも、そうやってハサミやナイフの使い方、ノコギリやトンカチの使い方を学ぶことが出来るのです。うちの4番目は赤ちゃんの時から教室でウロウロしていたので、3才ごろにはもうナイフも、ノコギリも、トンカチも自由に使っていました。ケガもしていましたが、自分でバンドエイドを貼っていました。また、4,5才ごろになると、さらに活動が大きくなります。この頃の子は無茶なこと、危険なことでも大人の目を盗んで平気でやってしまいます。その結果ケガをしてもまた挑戦します。何回ケンカをしても、またその子に寄っていきます。昔から、幼い子どもたちはそうやって、失敗を繰り返しながら、ケガをしながら道具の使い方、からだの使い方や、仲間の作り方を学んでいたのです。またその過程で、頭の使い方、心の使い方、感覚の使い方を学んでいたのです。でも、この時期に安全で、簡単で便利な機械を与えてしまうと、努力すること、頑張ること、工夫すること、考えること、感じること、からだを使うことが苦手な子が育ってしまうのです。「本物の道具」と「本物の材料」を与えないと、本物を作る能力が育ちません。「本物の体験」を与えないと「本物の自分」を知ることが出来ません。「本物の友達」と遊ばないと、本物の友達を作ることが出来ません。それは、「自分だけの本物の人生」を生きることが出来なくなってしまうということを意味しています。ゲームの中の世界と、本物の世界は全くの別物なんですから。
2024.08.23
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簡単で便利な機械に囲まれて、自由な時間も、自由な空間も、一緒に遊ぶ仲間も与えられず、大人の保護や、監視や、管理のもとで、一人だけで機械を相手に遊び、受け身的に生活している現代の子どもたちには、自分の人生を自分の意思で生きていくために必要な能動性を育てる場がありません。そのため、何でも「やってもらう」のが当たり前だと考えています。親子遊びの場で工作をする時も、子どもたちは自分でやろうとせず「お母さんやって」とお母さんに仕事を委託して、自分は遊んでいます。「先生やって」と私のところに持ってくる子も多いです。それで、「最初は分からない、出来ないのも当たり前だな」と思って、やり方を教えようとすると、私に任せたまま本人はどこかに行ってしまうのです。そばにいて、私がやることを能動的に観察しようとはしないのです。これは自宅でやっている教室でも同じで、ちょっと難しいと感じるとすぐに「先生やって」「先生手伝って」と言って来る子がいっぱいいます。昔は「先生は手伝わないで」と手伝いを拒否する子もいましたが、今ではそういう子は皆無です。「手伝って」と言ってくる子も、私に任せたまま自分は友達とおしゃべりしています。そばにいて私がやっていることを観察し、学ぼうとはしないのです。そのため、いつまでたっても出来るようになりません。そういう子に共通しているのが「観察力が弱い」ということです。見本を見せても見本を見ようとしません。ただ眺めることは出来るのですが、観察力が弱いのでどう見たらいいのか分からないのです。テレビもyoutubeもボーっと眺めているだけで楽しむことが出来ますからね。ただ眺めるだけなら、視覚に特に問題がなければだれでも出来ます。赤ちゃんでも出来ます。でも、ただ眺めているだけではその対象から何も学べません。なにも発見することが出来ません。そのため、すぐに退屈します。だから、テレビのように常に動き変化している対象なら眺め続けることが出来るのですが、静止しているものに意識を集中し続けることが出来ないのです。静止しているものを観察するためには、自分の意識の方を能動的に動かすしかないのです。感じながら、考えながら、意識を働かせながら見ているから、静止しているものでも見続けることが出来るのです。ちなみに、客観的に見る能力がまだ育っていない7歳前の子は、空想画は描けても観察画を描くことは出来ません。見て描かせても客観的な観察画にはなりません。その証拠に、観察画なのに見えていないものまで平気で描いてしまいます。そして、この「観察能力」は「学習能力」とも直結しています。先生の話を聞いても、本を読んでも、実験をしても、観察能力が低い子はその対象から何も学ぶことが出来ないからです。ただボーっとしか見ることができない子は、話を聞いてもただボーっと聞くことしかできないのです。また、観察力が育っていない子は、本に書いてある文字は読めても、その言葉の中から何も発見することが出来ないためすぐに飽きてしまいまいます。そのような能動的な意識の働きが育つためには自由意思に基づく自由な体験が必要になるのです。実は、昔の子どもたちにとっては当たり前だった、自由な時間と自由な空間の中での仲間との自由な遊びが、子どもたちの能動性を育てていたのです。また、遊びを通して観察力も育っていました。子どもは子どもに丁寧に教えたりはしません。また子どもにもプライドがあるので他の子に聞いたりはしません。コマ回しが出来ない子は、「上手にコマを回している子」のことを観察し、その技を盗んでいたのです。昔の職人の世界と同じです。でもそういう「遊びを通して学ぶ場」も消えてしまいました。そのため、依存心ばかりが強く、自分の意思で能動的に動くことが出来ない子どもたちがいっぱい育っています。「○○ガチャ」という言葉でなんでも人のせいにしようとする人たちが増えたのも、その結果だと思います。確かに「ガチャ」による影響は大きいです。それは調査研究されています。でも、「それを乗り越える能力も人間には与えられているんだ」ということを忘れてはいけないんだと思うのです。
2024.08.22
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今、「○○ガチャ」なる言葉がはやっています。「親ガチャ」とは、子どもは親を選べない、でも、自分が生まれた家が金持ちか、親が優しいか、親の社会的地位が高いかで自分の一生が決まってしまう。これは自分の力ではどうにもできない。だから、良い親のもとに生まれた子はラッキーで、そうでない子はアンラッキーとして諦めるしかない。というような考え方です。一方、親の方にも「子ガチャ」なることを言う人もいます。親は生まれてくる子ども子どもの、性格、知能、容姿を選ぶことが出来ない。性格がいい子、頭の良い子、容姿に優れた子が生まれたらラッキーで、そうでない場合はアンラッキーとして諦めるしかない。というような考えです。このように考える人たちは、自分の人生をすべて「運」で決めてしまっているのでしょう。まただから「運がいい人」を羨むのでしょう。そのような人は、「成績が良い子」を見ても「それだけ努力したんだな」とは思わずに、「子どものためにお金を惜しまないいい親をゲットしたんだな」と考えたりするのだと思います。また、努力はせずに結果だけを望み、「僕だってお金持ちの家に生まれていればもっとすごいことが出来たはずなんだ」などと、成功している人を見ると羨むのでしょう。親の方も、よその「成績が良い子」を見て、「頭がいい子をゲット出来て羨ましい」と思うのでしょう。でも、このような考え方は不毛です。このように考える子どもも、このように考える親も、自分が「自分の人生」の主人公になることを諦めてしまっています。「自分の可能性」を自分で放棄してしまっています。あと「自分ガチャ」なる言葉もあります。生まれてくる時に、自分の容姿や、頭の善し悪しや、スタイルを自分で選ぶことが出来ないからです。「自分ガチャ」を言うような人は、「僕だって、大谷翔平のような能力を持っていたらあのぐらいの活躍は出来たんだ」とか、「私だってもっと可愛くてスタイルが良かったらアイドルになれたんだ」というように考えるのでしょう。「成功するまでの努力」は見ずに「成功した結果」だけを見て羨むのです。でも、現実世界で、「自分が受け取ったガチャ」を変えるのは困難ですが、ゲームやネットの世界なら、お金の力で自分好みの容姿や能力をお金で買うことが出来るのです。「運」すらもお金で買うことが出来ます。お金さえあれば、ゲームの中で現実世界ではどうにもならない「ガチャ問題」を解決することができるのです。「違う自分」になることが出来るのです。それもまた、みんながゲームにはまる理由の一つなんでしょう。やはりお金がかかりますが、容姿だけなら整形美容でも同じようなことが出来ます。「親ガチャ」「子ガチャ」を言うような人は、ゲーム感覚で「自分」や「自分が生まれてきた世界」を理解しているのではないでしょうか。昔の子ども達の「アナログ遊び」の世界では、「お金」はあまり価値を持ちませんでした。お金をいっぱい持っているからと言って木登りが上手になったりはしないのですから。コマを回したいのなら自分で頑張って努力するしかなかったのです。そして、頑張って努力して回せるようになった子を見て憧れることはあっても羨むことはなかったのです。でも今ではベイブレードを買えば、努力せずに誰でも簡単に回すことが出来ます。そんな時、家が貧しくてベイブレードを買ってもらえない子はペイブレイドを持っている子を見て羨むでしょう。「親ガチャ」を恨むかも知れません。「努力して回せるようになった子」を見て羨むことはないのに、「努力せずに買ってもらっただけの子」を見たら羨むのです。そして、人を羨むような子は自分自身もまた受け身的な状態で生活しているのではないでしょうか。受け身的な生活しか知らないので、「努力することで自分の能力を変えることが出来る」、「自分の運命を変えることが出来る」ということを知らないのです。だから、自分では努力せずに、結果だけを見て羨むのです。でも今、子ども達の能動性を育てる場も、遊びも消えてしまいました。だから「ガチャ」を恨む人が増えて来たのではないかと思うのです。
2024.08.21
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最近の子どもたちは「無知からくる自信」は過剰に持っているのですが、「体験に基づく自信」は悲しいくらい持っていません。そのため、初めてやるようなことでも、最初は「そんなの簡単だよ」と大言壮語します。上手にできない子を見て「下手だ」などと簡単にバカにしたりもします。それで私が「君はやったことあるの?」と聞くと「やったことはないけど、こんなの簡単じゃん」などと言います。「ユーチューブで見たことがあるから出来る」などと能天気に言う子もいます。これは、電車の中などで子どもが泣いていると「ちゃんとしつけていないからだ」などと、お母さんを非難する人も同じです。そういう話を聞くと「じゃあ、お前がやってみろよ」と言いたくなります。でも、そのような人ほど「それは俺の責任ではない」などと言って、自分ではやろうとしません。また、思い込みだけで言いたい事を言う人ほど実際の体験もないし、ちゃんと考えたことも、ちゃんと学んだこともありません。家事や子どもの相手が忙しくて片付けが出来ない、お料理が手抜きになってしまうお母さんに対して、「一日中暇なはずなのに、なんでこんなことも出来ないんだ」などと文句を言うお父さんも同じです。始めてやるノコギリ、初めてやるトンカチ、初めてやる工作に苦戦している我が子を見て「なんでこんなことも出来ないの」と言うお母さんも同じです。そんな時は、お母さんにもやってもらいます。以前、幼稚園の企画の工作体験の場にもそのようなお母さんがいたので、「じゃあ、お母さんもやってみてください」と、お母さんにもやらせたら子どもよりも下手でした。「簡単に出来そうに見えたけど、こんなに難しいんですね」と言ったお母さんもいます。「体験を通して学ぶ」という体験が少ないので、「初めてやることは上手に出来なくて当たり前だ」という当たり前のことが分からないのです。便利な機械を使えば最初から上手に出来てしまいますからね。子どもに勉強を教えていて「なんでこんなことも分からないの」と子どもを非難する人も同じです。すでに答えを知っているお母さんには簡単でも、まだ答えを知らない子どもにはすごく難しいのです。それに、このようなことを言うお母さんほど「なぜそうなるのか」は理解できていません。ただ答えを知っているだけです。また勉強が嫌いです。勉強が好きなお母さんは「分からないから面白い」「分からないから楽しい」ということを知っているので、分からないで悩んでいる子どもを馬鹿にしたりはしないのです。子どもに対して、「なんでこんなことも分からないの」とか、「なんでこんなことも出来ないの」などと言ってばかりいるようなお母さんは、自分自身の体験を通して「子どもは強制しないと勉強しない」ということを学んでしまったのでしょう。「体験を通して学ぶ」という体験が乏しい人ほど「無知からくる自信」を持っています。だから上手にできない人を簡単に馬鹿にし、否定するのです。そういう人ほど「自分の無知」を知らないのです。そして、悪戦苦闘して努力している人も見て「ダサい」とか言って馬鹿にします。でも、そのような人が実際にやらなければならないような状態に陥った時、急にその自信は崩壊してしまいます。また、「体験を通して学ぶ」という体験が乏しい人は諦めも早いです。思い通りにいかないと簡単にあきらめて放り出します。「分からない」「出来ない」を楽しみながら、色々と工夫したり試行錯誤することが出来ないのです。「誰でも最初は分からない、出来ないが当たり前だ」と言うことが分かっていないのです。また、「汗水垂らして努力する」ことをダサいと感じる感性も育ってしまっています。でも、「無知からくる自信」は、実際にやらなければならなくなった時に簡単に崩壊してしまいます。結婚する前、子育てを始める前は「しつけなんて簡単よ」と思い込んでいたような人ほど、実際の子育てでは簡単に挫折するし、諦めも早いです。最初は、ネットで得られるような様々な情報を活用して子どもを思い通りにしつけようとします。「しつけのマニュアル」を知っていれば簡単に仕付けられると思い込んでいるのです。でも、子どもを思い通りに育てるのは不可能です。どんなに情報を集め、マニュアルを学んでその通りにやっても、子どもはお母さんの期待通りには育ちません。それで今度は、思い通りに子どもが育たない原因を子どもに押し付けます。「子どもが言うことを聞かないからだ」「子どもの性格が悪いからだ」「子どもが私を馬鹿にしているからだ」などを意味不明な理由をこじつけて「私は悪くない」と思い込もうとするのです。「子ガチャ」です。子どもの方もまた自分のことを分かってくれない親を見て「親ガチャ」と言います。学校の先生も選べないので「先生ガチャ」もあるでしょう。先生の側からの「生徒ガチャ」もあるでしょう。「運が悪かった」ということです。「ガチャ」のように、なんでも「運」のせいにするのです。そこにあるのは人生に対する受け身の姿勢だけです。「自分の人生は自分の力で創るんだ」という能動的な意志が希薄なんです。そして楽しそうに子育てをしている人、素敵に育っている子どもを見て羨ましがります。「子ガチャが成功したんだね」ということです。仲の良い夫婦を見て「夫ガチャに成功したのね」などと考える人もいるかも知れません。「そのような状態の人は、そのような結果を得るためにいっぱい努力したんだ」ということが分かっていれば、そう簡単に羨んだり、嫉んだりしないのでしょうが、子どもの頃から与えてもらえるだけの生活しかしてこなかった人には、それが分からないのです。そういう人は、「自分の運命は自分で変えることが出来る」ということを知らないのです。「自分の人生は自分の意志で能動的に手作りしていくしかない」ということを知らないのです。実際に「親ガチャ」はありますが、それを生かすも殺すも自分次第なんです。
2024.08.20
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「自己肯定感が低い」という状態の反対は何だと思いますか?「低い」の反対は「高い」ですから、一般的には「自己肯定感が低い」の反対は「自己肯定感が高い」ということになりますよね。でも、「低い」も「高い」も評価によるものです。「自分自身の価値観による評価」です。そのため、自己肯定感が低い人に対して「自分をほめる」という方法を勧める人もいます。自分のいい所を探し出して自分をほめるのです。「出来ないこと」ではなく「出来ること」に意識を向けるのです。そのようにして、自分自身に対する自分の評価を変えるのです。確かにこの方法でも一時的には自己肯定感を高めることが出来ます。でも、この効果は長続きしません。一時的には自己肯定感が上がっても、「評価による自信」は不安定なので、ちょっと失敗したり、ちょっと人から非難されたりするとすぐに消えてしまうからです。自分で自分をほめて自己肯定感をあげても、実際の自分自身の能力が上がるわけでも、他者からの評価が上がるわけでもありません。そのため、お酒を飲んで辛いことを忘れるのと似たような効果しかないのです。それは自己肯定感が低くなってしまった原因と関係しています。3歳ごろまでの幼い子どもたちはみんな自信に満ちています。自分で自分を責めたりする子はいません。でもそれは自分で自分を褒めているからではないですよね。その自信はどこから来ているのかというと、お母さんや家族の人から無条件に肯定され、「大切な存在」として守られているからなんです。その安心感が子どもの自信を支えているのです。幼い子どもの自己肯定感を支えているのは「安心」なんです。でも、4,5歳ごろになって仲間と遊んだり、他の大人と関わり合う機会が増えてくると比較されることが多くなります。お母さんからも、無条件に受け入れてもらえなくなります。「お母さんの言うことを聞かない子は嫌いよ」などと言われたりもします。他の人から比較されなくても、自分で「自分」と「他の子」を比較し始めます。「○○ちゃんはコマが上手だけど、僕には回せない」とか、「○○ちゃんは足が速いけど、僕は遅い」などと比較し始めるのです。でもだからといって、それがそのままその子の自己肯定感を下げるわけではありません。他に好きなことや、得意なことがある子はコマが回せなくても、足が遅くてもそんなに気にしないものです。あと、コマが回せなくても、足が遅くても、みんなから「大切な仲間」として受け入れられている子も自己肯定感が下がりません。「仲間に受け入れられている」という安心感があるからです。スポーツでは「能力の上下」を競い合います。ですから、どんなにサッカーが好きでも足の遅い子は非難されます、どんなに野球が好きでもボールを投げるのが下手な子は非難されます。どんなにダンスが好きでも、それだけでダンスの競技に出たら非難されます。(先日のオリンピックで実際にありましたよね)でも「遊びの場」は「競い合う場」ではなく「体験や楽しいを共有する場」です。また、色々な能力の子がいるからこそ一緒に遊んでいると楽しいのです。足が速い子、木登りが上手な子、歌が得意な子、虫を見つけるのが得意な子、ボーっとしているのが得意な子、こんな風に色々な子がいるから、遊びに多様性が生まれ楽しくなるのです。人間に「上手下手」や「得意不得意」があるのは当たり前なんです。それが「自分らしさ」でもあります。その「当たり前」や「自分らしさ」が肯定される場で、仲間と助け合いながら遊んで育てば自己肯定感などと言うものに囚われなくなるのです。勉強でも、仕付けでも、スポーツでも、大人が決めた価値観を押しつけられ、競い合わされるから、人の評価を気にするようになり、「私は私のままでいい」という安心感が失われ、自己肯定感が低くなってしまうのです。「私は自己肯定感が低いんです」などと「何の意味もないこと」に囚われなくなるためには、「自己肯定感」を高めようとするのではなく、「私は私のままでいいんだ」ということに気付く必要があるのです。そのためは「つながりに支えられた安心」や「私のままを受け止めてくれる仲間」が必要になるのです。
2024.08.19
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昨日、ネットのニュースを見ていたら障害を持っている人が補助や手助けを受けることに対して「ずるい」と感じる人が増えてきたそうです。この「ずるい」は子どもたちもよく言います。遊びの場でも、小さい子だけ「おみそ」として特別ルールを作ろうとすると「ずるい」と言います。最近の子はちょっと難しそう、ちょっと大変そうだとすぐに「手伝って」と言ってきます。でも、ちょっと頑張れば出来る程度の時は、「じゃあ、応援してあげるね。ガンバレ、ガンバレ、○○ちゃん」と言うのですが、すると「いじわる」と言われます。そんな時、自分で出来そうな子には自分でやらせ、どうしても無理そうな子は手助けするのですが、すると「○○だけずるい」と言います。電車の優先席は、本来、お年寄りや妊婦や何らかの事情で立っているのが困難な人のためにあるはずなのですが、そういう人に対しても「ずるい」という感情を持っている人が結構います。以前、家内と台湾旅行に行った帰りに二人で優先席に座っていたら、30代ぐらいの男性が「年金生活者がのうのうと椅子に座ってるんじゃないよ。おれに席を譲れ。おれは働いて疲れているんだ。」と言ってきました。色々とお話をしただけで譲りませんでしたけど。この人も椅子に座っている私たちを見て「ずるい」と感じたのでしょう。ちなみに台湾で電車に乗ったら、乗った途端に100%席を譲ってもらえました。日本と台湾とでは若者の意識が全く違うようです。この「ずるい」は子どもや、妊婦や、子育てをしている家庭にも向けられています。実際、特別な補助をしようとすると「子どもだけずるい」「妊婦だけずるい」「子育て家庭だけずるい」と言い出す人がいます。我が子に対してまで「ずるい」と感じる親もいます。子育てをしている妻に対して「三食昼寝付きでずるい」と感じている男性もいます。仕事で外に出ているご主人に対して「子育てを手伝わないでずるい」と感じている女性もいます。そこにあるのは「妬み(ねたみ)」という感情なんですが、この「妬み」は社会的に成功したアイドルなどにも向けられます。キラキラしたアイドルを妬んでいる人は、そのキラキラをつぶしたいと考えます。そして、どうでもいいような短所や欠点を探し出して非難否定し、ネットで拡散します。追い詰めます。それで自殺にまで追い込まれる人までいます。このように人を妬む人は、自分を肯定できない人です。自己肯定感が高い人は他の人を妬んだりはしないのです。自己肯定感が低い人は、自分に自信がなく自分の未来に希望を持てません。冒険もチャレンジもしないので世界が閉ざされてしまっています。だから、「楽をしているように見える人、得をしているように見える人」がいると、妬みの感情が目覚めてしまうのでしょう。いま、自己肯定感が低い子どもたちがいっぱいいます。大人も同じです。そして、自己肯定感が低い人は子育てでも苦しんでいます。夫婦関係も上手く行きません。相手とちゃんと向き合うことが出来ないからです。子育ての悩みを聞いていると、自己肯定感が低い人からの相談が圧倒的に多いです。問題は、どうしてこういう状態になってしまったのかということです。
2024.08.18
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昨日、「他者との出会い」が自分への理解を深めてくれるのです。本当の「自分らしさ」を知りたいのなら「他者」と出会うことから逃げてはいけないのです。ということを書きました。このことの意味は皆さんが思っているよりも大きなことです。人間が「人間について」知りたいと思ったら「自然」と出会う必要があるのです。人間が作ったものに囲まれて、人間が作った社会の中だけで生きていたら、「自然」についてはもちろんですが、「人間について」も分かるようにはならないのです。ちなみに、西洋文明は自然と向き合うことなく、一方的に自然を支配しようとしてきました。現代社会はその延長上にあります。だから自然が壊れ、そのことで人間が苦しむことになってしまったのです。その状態を変えたいのなら、人間の力や科学の力で「人間にとって都合がいい自然」を回復しようとするのではなく、「自然との対話」に目覚める必要があるのです。自然が回復するのはその結果に過ぎません。鏡に映った自分をいくら一生懸命に見ていても、自分だけ見ていて他の人を見ようとしなければ「自分について」分かるようにはならないのです。同じところをグルグル回るだけで悩みや苦しみから抜け出せないような人は、自分しか見ていない人です。整形を繰り返している人も同じです。他者との出会いがなく、他者から肯定される体験がないまま育った子は、自分でも自分を肯定することが出来ません。だから「違う自分」になりたがるのです。「不自由」と出会わないで育った子は「自由」について知りません。その逆もあります。「自由」と出会わないで育った子は、自分がどんなに不自由な状態でもそのことに気づきません。「光」と出会わないで育った子は、「闇」に囲まれていても、そのことに気づきません。「善」と出会わないで育った子は、「悪」に囲まれていてもそのことに気づきません。「死」と出会わないで育った子は、「生」についても知りません。「自分のからだ」について知りたいのなら「思い通りにならないからだ」と出会う必要があるのです。実際、皆さんも、病気やケガをした時には「自分のからだ」と出会いますよね。でも、ほとんどの人が病気やケガが治ってしまえば自分のからだのことを忘れてしまいます。でも現代人は、「思い通りにならないもの」「見たくないもの」「聞きたくないこと」を排除して、「思い通りになるもの」「見たいもの」「聞きたいもの」だけに囲まれて生活しようとしています。様々な便利な機械や、ネットやゲームはそのような状態を与えてくれます。でもだから、狭い世界に閉じ込められて苦しくなってしまうのです。また、成長することも出来ず、自分についても知ることが出来なくなってしまうのです。今は夏休みです。家族みんなでキャンプに行って、ちょっと不便な生活をしてみませんか。自然と出会ってみませんか。子どもたちが人間について、文明について、命について、自然について知るきっかけになるかも知れませんよ。
2024.08.17
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「自分らしさを大切にしよう」という言葉はよく聞きます。また、「自分らしさ」を大切に生きたいと思っている人もいっぱいいます。でも、その自分の「自分らしさ」はどのようなものなのかを知っている人は少ないです。例えば、感じ方や、考え方や、話し方や、歩き方といったものも「自分らしさ」の一部なんですが、自分がどのような感じ方をしているのか、考え方をしているのか、話し方をしているのか、歩き方をしているのか皆さんはご存じですか。多分、ほとんどの人が知らないと思います。知る機会がないのですから。確かに、自分自身が感じている自分の感じ方や、考え方や、話し方や、歩き方はあるでしょう。そして多くの人が、それが「自分らしさ」だと思い込んでいます。でもそれは、「自分にとっての自分らしさ」に過ぎません。他の人から見た「その人らしさ」ではありません。例えば、全然太っていないのに「私は太っている」と思い込んでいる人がいます。「太っている」というのがその人にとっての「自分らしさ」なんでしょう。でも、周囲はその人を「太っている人」として扱うことはないでしょう。実際には太っていないのですから。それで、「みんな私のことを分かってくれない」などと思うのかも知れませんが、実際に自分のことを分かっていないのは自分自身なんです。「なんでみんな、私のことを分かってくれないの」と訴えているような人ほど、自分のことを分かっていないのです。周囲の人は、その人の「その人らしさ」に合わせているだけなんです。それが、「自分が思い込んでいる自分らしさ」と異なっているから、「周囲の人が自分を理解してくれない」などと感じてしまうのです。カウンセラーの人なら、痩せている人が「私は太っている」と言っても、それを否定しないで聞いてくれるでしょう。相談者の立場に立って、感じ、考え、話を聞くのがカウンセラーの仕事ですから。でも、日常生活の場で、そのカウンセラーのような対応を他の人に求めるのは不可能です。ほとんどの人が自分の立場に立って、感じ、考えているからです。「私のことを分かって」という想いの人が集まって、「自分」の押し付け合いをしているのが現実の世界なんです。そんな時「みんな私のことを分かってくれない」と思うのでしょうけど、みんなのことを分かろうとしない人ほど「私のことを分かってくれない」と訴えるのです。でも、「みんなのこと」を分かろうとしている人は「自分のこと」も分かっています。客観的な「自分らしさ」は他者との比較の中で生まれてくるものなので、他者の「自分らしさ」を理解しようとすることで、自分の自分らしさが分かってくるからです。また、「自分らしさ」が分かっていないと、他の人の気持ちをその人の立場に立って聞くことも出来ません。日本から出たこともなく、外国の人と会ったこともなく、外国の人の文化や歴史や考え方にも興味がない人は日本人の「日本人らしさ」について知りません。生まれたときから赤い光の中で暮らしてきた人は、自分が赤い光の中で暮らしているということに気づきません。気付くきっかけがないからです。そんな感じです。でも、外国に出かけ、外国の人と話し合い、外国の人の文化や歴史や考え方に興味を持って勉強している人は「日本人らしさ」も知っているのです。「他者との出会い」が自分への理解を深めてくれるのです。本当の「自分らしさ」を知りたいのなら「他者」と出会うことから逃げてはいけないのです。でも、現代人にはその場がありません。簡単で便利な機械が介在してくれることで、直接他者と出会わなくても困らなくなったからです。これは子どもの生活でも同じです。昔の子どもたちは、仲間と群れて遊ぶ場で一緒に協力したり、ケンカしながら「自分について」知ることが出来ました。でも、他の子と関わらないで遊ぶことが多い現代の子には「自分と出会う場」がないのです。その結果、「みんな私のことを分かってくれない」「私は孤独だ」と疎外感を感じながら生きている子が増えてきたように感じます。いくら「私のことを分かって」と訴えても、相手のことを分かろうとしない人は永遠に自分のことも分からないままなんです。
2024.08.16
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昨日は孫6人と篠家の家族キャンプで、今日は家内と二人で山梨の北杜市にある、「おいしい学校」という、廃校になった学校を使った宿泊施設に泊まっています。名前の通り、お料理は最高に美味しいです。ということで、今日も簡単にさせて頂きます。先日、ネットで「コロナ対策におけるマスクの有効性」を色々な調査結果を基に論じた記事を読みました。結構大規模な調査をした結果、マスクをした群の方が若干ではあるが有意なレベルでコロナに罹る割合が少なかったそうです。で、その人は「だからマスクをした方がいい」と結論付けていました。それで私は、「この人は全体が見えない人」「関係性の中で物事を考えることが出来ない人」なんだな、と思ったのです。詳しくは知りませんが、この人は良い大学を出た「頭がいい人」なんだろうと思います。でも、テストの成績は優秀でも、現実に即して考えるのは苦手なようです。マスクの問題を考える時に「実際にマスクをする人の立場に立って考える」という視点が、完全に抜けてしまっているのです。幼い子ども達の成長への影響、コミニケーションに与える影響、本人、及び周囲に与える心理的な影響、呼吸への影響、肌への影響、生活の質への影響、病人や老人への影響、障害を持った人たちへの影響、マスク内で発生する雑菌の問題、子ども達の身体的活動に対する影響、まだまだあると思いますが、そういう「現実世界に存在する問題」を一切切り捨てて、マスクとコロナの関係だけを取り上げて「マスクをした方がコロナに罹りにくいからマスクをした方がいい」と論じているのです。なぜか、同じような論理で、マスクやワクチンを肯定するような人ばかりがテレビやマスコミには登場するのです。そして、それを見て、そのまま信じる人もいっぱいいます。私は、そういうことも「知識を覚えさせることだけに偏った教育」の困った結果なのではないかと思っています。メリットだけでなくデメリットもちゃんと調べてみんなに伝え、それでどうするのかは、その本人に決めさせるのが、民主主義のあり方としては正しいのではないかと思うのでですが、皆さんはどう思いますか?もっとも、そのようなことが可能になるためには「知識を覚えさせるだけの教育」「ペーパーテストだけで子どもを評価する教育」をやめる必要がありますけどね。現在位の状態では「自分の頭で考えて判断して」と言われても、途方に暮れて困ってしまう人の方が多いような気がします。
2024.08.15
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今日はキャンプに来ているので簡単にさせていただきます。昨日、「木を守る」ということは「木という現象を成り立たせているものすべて」を守るということなんです。「木という現象を成り立たせているもの」が壊れてしまえば、どんなに一生懸命に「目の前にある木」を守ろうとしても、木は枯れてしまうのです。それは周囲の土や、水や、光や風や、微生物や、様々な生き物を守るということでもあります。それらを守らないと「木」を守ることは出来ないのです。「子ども」も同じです。「子ども」を守るためには、「成長過程にある子どもという現象」を支えているすべてのものを守らなければいけないのです。そうでないと、見かけは「子ども」でも中身が「子ども」ではなくなってしまうのです。ということを書きました。ここに書いたことは、冷静に考えれば「当たり前のこと」です。でも、世界を「つながり」の中で見なくなってしまった現代人はそのことを忘れてしまったようです。どうしてそういうことになってしまったのかというと、それは、現代人が「つながりに支えられた体験」を通してではなく、「試験のための知識」を学ぶことで「自分が生きている世界」のことを学ぶようになったからなのではないでしょうか。確かに体験を通して学ぶのは効率が悪いです。時間もかかります。マニュアルは通用しません。指導者の教育が大変です。指導者の質がそのまま学びの質に直結してしまうからです。それに対して、「知識を覚えさせるだけの教育」は簡単です。オンラインでも出来ます。「ちゃんと学んだかどうか」のチェックも簡単にできます。なにしろ、ペーパー試験だけでチェックできるのですから。効率もいいです。資格を取るのが趣味の人もいっぱいいます。じゃあ、「資格をとったらちゃんと仕事が出来るのか」というとそんなことはありませんよね。学校の先生はみんな教員免許を持っています。でも実際には、素敵な先生もいれば、素人よりも困ったとんでもない先生もいっぱいいますよね。「教員免許を持っている=教師としての能力が育っている」ということではないのです。ペーパー試験に合格したらもらえるような資格を持っていても、それだけでは、子どもの育ちを支えることは出来ないのです。でも、親は先生を信じて子どもを学校に預けています。「知識」は「つながり(全体)」切り離されています。切り離さないことには知識化できないからです。だから知識をいくらいっぱい学んでも、私たちの世界を支えている「つながり(全体)」は見えてこないのです。「命を守る」とはどういうことなのか、「自由」とか「子ども」を守るとはどういうことなのか、が分かるようにはならないのです。まただから、子どもが言っていること。子どもがやっていることの意味が見えないのです。子どもは「つながりそのもの」を見て、「つながり」のなかで物事を理解しようとしているからです。「物語」が好きなのもそのためです。でも困ったことに、私たちの社会は知識を覚えるだけの教育を受けた人たちが動かしています。
2024.08.14
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「平和」とか、「愛」とか、「自由」とか、「子ども」とかいうものは「存在しているもの」ではありません。実際に存在しているのは「言葉」だけであって、「それらの言葉が示すものの実体」は人の心の中にしかないのです。だから人によって解釈が違うし、「これが○○です」と展示して見せることも出来ないのです。一見分かりやすい「木」というものでも同じです。みんな「木」は存在していると思い込んでいますが、実際に存在しているのは「私たちが木と呼んでいる何か」だけなんです。「平和」も、「愛」も、「自由」も、「子ども」も、「木」も現象に過ぎません。「存在しているもの」ではなく「現象」なんです。それは「虹」に似ています。「虹」も「現象」であって「存在」ではないですよね。虹は見る人との位置的な関係性の中に現れるので、同じ虹を見ているようでも、みんな違う虹を見ているのです。まただから、どんなに早く虹を追いかけてもたどり着けないのです。私は飛行機に乗っている時に、眼下に「〇い虹」を見たことがあります。その〇の真ん中に飛行機の影が映っていました。そして、高速で動いている飛行機と同じ速さで動いていました。そういうことが可能なのも「虹」が「存在しているもの」ではなく「条件が整った時に現れる現象」だからなんです。だから「虹を守る」ということは「虹という現象を成り立たせているものを守る」ということなんです。「虹」だけを守ることは出来ないのです。何を言っているのか分からない人も多いかもしれませんが、この理解がないと子どもが生きている世界が理解できないのです。子どもがどうやって言葉を覚えているのかが理解できないのです。「平和」という言葉の意味をどう伝えたらいいのかが理解できないのです。「子どもを守る」ということがどういうことなのか理解できないのです。「木を守る」ということは「木という現象を成り立たせているものすべて」を守るということなんです。「木という現象を成り立たせているもの」が壊れてしまえば、どんなに一生懸命に「目の前にある木」を守ろうとしても、木は枯れてしまうのです。それは周囲の土や、水や、光や風や、微生物や、様々な生き物を守るということでもあります。それらを守らないと「木」を守ることは出来ないのです。「子ども」も同じです。「子ども」を守るためには、「成長過程にある子どもという現象」を支えているすべてのものを守らなければいけないのです。そうでないと、見かけは「子ども」でも中身が「子ども」ではなくなってしまうのです。「子ども」という現象は、ただ単に年齢によって決まるのではないのです。「成長意欲に満たされた状態」が「子ども」という現象なんです。だから、子どもがケガをしないように、病気をしないように、犯罪に合わないように、ケンカをしないようにしているだけでは「子ども」を守ることは出来合いのです。子どもを「つながり」から切り離したら「子ども」を守ることは出来ないのです。
2024.08.13
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よく「平和を守ろう」などという言葉を聞きます。「平和の大切さ」は自明のこととして扱われています。でも、「平和」というものに「具体的な実体」はありません。各自が各自の頭の中に勝手に創りあげたイメージに過ぎません。ですからワークなどで「平和って何ですか?」と聞くと様々な答えが返ってきます。気質によってもそのイメージは違います。胆汁質の人が考える「平和」と、憂鬱質の人が考える「平和」は同じではないのです。また、戦争を体験した人が考える「平和」と、戦争なんかまったく知らない人が考える「平和」も同じではありません。アメリカ人が考える「平和」と日本人が考える「平和」も違うでしょう。「平和」という言葉が存在しているから、「平和」というものも実際に存在しているものだと勝手に思い込んでいるのです。でもそんなものどこにも存在していないのです。「命」とか「子ども」とか「自由」とか「平等」などというものも同じです。というか、言葉には実体がないのです。人間は、言葉があると実体がなくても実体があるように思い込んでしまうのです。人間は簡単に言葉に騙されてしまうのです。ですから「平和を守ろう」、「子どもを守ろう」、「自由を守ろう」、「平等を守ろう」というような大きな目的ではみんな賛成しても、「そのために具体的に何をするのか、何を目的にするのか」ということはみんな違うのです。(気質のワークでこのようなことを話し合うと面白いですよ)A国とB国が戦争している場合でも、A国は「A国の平和」を守るために、B国は「B国の平和」を守るために戦っているのです。両者とも「平和」を守るために戦っているのです。不思議なことですよね。それはつまり、「平和を守ろう」という考え方が、逆に戦争を引き起こしてしまうこともあるということです。「みんなの自由を守るために」と色々な規則を作れば、結果、みんな不自由になります。「みんなの平等を守るために」と、「誰かが考えた平等」をみんなに押し付ければ、必ず不平等を感じる人も出てきます。「子どもを守ろう」という場合も、「大人によって管理された空間」の中で「子どもに害を及ぼすもの」を排除することで子どもを守ろうとする人もいれば、多少の危険、多少のケンカがあっても、子どもの自由意思に基づく行動を守ろうとする人もいます。「子どもを守ろう」という場合の「子ども」の意味も、「守る」の意味も人によって違うのですから。体格も、性別も、食欲も、年齢も異なる子どもたちに平等にケーキを切り分ける場合、正解なんてあると思いますか。ある人は、そのような違いを無視してすべて同じ大きさに切り分けて「これで平等だ」と言うかも知れません。でもある人はからだの大きな子には大きく切って、小さな子には小さく切って「これで平等だ」と言うかも知れません。男尊女子の価値観が生きていた時代だったら男性の方を大きくして、女性の方を小さくして「これで平等だ」と言ったかもしれません。でもいずれの場合でも、「これでは不公平だ」と感じる人が出て来るでしょうね。じゃあ私だったらどうするかということですが、私は、形ではなく「みんなが納得できる状態」が「平等」だと思っているので、みんなで話し合います。正解を固定しません。「平和」も「自由」も同じです。ですから、私は、子どもたちの「話し合う能力」「対話する能力」を育てることが「平和」や「自由」や「平等」を守ることになるのではないかと思っています。政治の世界でも同じです。いくら平和を願っていても、政治家に「話し合う能力」「対話する能力」がなければ、戦争に巻き込まれてしまう可能性が高くなるのです。で困ったことに、日本の政治家の「話し合う能力」「対話する能力」は高いと思えません。でも、学校では「平和について教える授業」はしていても「話し合う能力」や「対話する能力」を育てるような授業はしていません。そのやりかたは戦争中と同じです。ただ、教える中身が変わっただけです。
2024.08.12
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ケンカをしないからといって仲がいいわけではありません。ケンカをするからといって仲が悪いわけでもありません。戦争がないからといって平和なわけではありません。「悪いこと」をしないからといって「いい人」というわけではありません。人殺しや犯罪がないからといって「平和な社会」だというわけではありません。人に頼らないから自立しているというわけではありません。悩みや苦しみがないからといって幸せだということではありません。お金がないからといって貧しいというわけではありません。社会的に成功しているから幸せだということではありません。「毎日いっぱいご飯を食べることが出来ているから豊かなんだ」ということでもありません。「外から見た姿」と「中から見た姿」は同じではないからです。それはつまり、「いっぱい食べても満たされない人よりも、少しの量でも満たされる人の方が、本人的には豊かなのではないでしょうか」ということです。「お金はいっぱいあっても心が満たされない人よりも、お金はなくても日々の小さなことにも幸せを感じ、周囲の人に感謝して生きることが出来ている人の方が豊かなのではないでしょうか」ということです。「ケンカをしているから仲が悪いんだ」というのは、外から見た評価です。でも、ケンカをしながらでもいつも一緒にいたがる子が本当に仲が悪いのでしょうか?「戦争がないから平和なんだ」というのも、外から見た評価です。確かに、戦争が起きれば平和は失われます。でも、戦争がなくても「人と人が助け合わない社会」「生きることに安心を感じることが出来ない社会」は平和ではないような気がするのです。今の日本は戦争をしていません。だいぶ勢いは落ちてきましたが、それでも世界の中では豊かな方です。そういう意味では平和です。そして、この平和を守ろうとしている人たちもいっぱいいます。でもその一方で、「刑務所に入りたいから」と犯罪を犯す人が増えてきました。「誰でもよかった」と人を襲う事件もよく聞きます。「簡単にお金が手に入るから」と、簡単な気持ちで闇バイトに手を出す若者も増えてきました。ちょっとした落ち度に付け込んで相手をののしるカスハラも増えてきました。子どもが嫌いな人、子どもを許容できない人も増えてきました。血肉が飛び散るようなホラー映画が大好きな人もいっぱいいます。子どもと一緒に見ている人もいっぱいいます。(子どもからの情報です)表面的には平和でも、その平和を「大切なこと」として守ろうとする意識はそれほど高くないのです。むしろ退屈を感じ刺激を求めている人がいっぱいいます。ネットの投稿を見ていても、「大きな災害」を待ち望んでいる人もいっぱいいるみたいです。戦争にあこがれる若者すらいます。刺激が欲しいのでしょう。日本の平和は自分たちの力で創りあげたものではありません。戦争に負けて、アメリカや世界の圧力によって受け身的に与えられたものです。連合軍は連合軍の立場で戦争責任を追及しましたが、日本人自身が「自分の事として」反省することはしませんでした。日本人が得意な「過ぎてしまったことは忘れよう」という能力が発揮されたのでしょう。そのため、日本人は「戦争がない=平和」という短絡的な発想をするばかりで、平和の作り方も、平和の維持の仕方も知りません。学校では「知識としての平和」については教えていても、実際に自分たちが生きている社会での平和の作り方や維持の仕方を教えてはいません。もし子どもたちに、「平和の作り方や維持の仕方」を伝えたいのなら、今のような「一方的に先生が言葉で教えるだけの授業」や「先生が子どもを先生の価値観だけで評価するシステム」をやめるべきなんです。そして、子ども同士が話し合い、子どもと先生が話し合うような形で、子どもたちの学びを支える必要があるのです。平和は「話し合い」の上にしか成り立たないのですから、「話し合いの技術」を育てることが平和を育てることにもつながるのです。第二次世界大戦もそれがなかったから始まってしまったのです。平和は、ただ守るのではなく、常に創り続けていないと維持できないのです。守っているだけでは中身がスカスカになってしまうのです。子どもと子どもが話し合わない、大人と子どもが話し合わない、先生が子どもや親と話し合わない。政治家が国民と話し合わない社会は、戦争はなくても平和な社会ではないのです。
2024.08.11
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もうすぐやってくる8月15日は「終戦記念日」です。戦争で死んだ人のことや、命と平和の大切さを今一度想い出すための記念日です。浅草に住んでいた私の父の母と妹、つまり私の祖母と叔母は、3月10日の「東京大空襲」で亡くなりました。父は、特攻隊で宝塚にいたので助かりました。その特攻隊も、父が飛ぶ前に戦争が終わったので今の私がいます。(仲間は飛んでしまったのですが、ある理由で父だけみんなと一緒には飛ばなかったのです。)私自身は戦争が終わって6年後に生まれたので直接戦争は知りません。でも、私が子どもの頃は戦争の記憶が濃く残っている時代でした。当たり前のことですが、その当時の大人は100%戦争体験者でした。街の中にもまだ戦争の名残が色濃く残っていました。駅には、白い服を着て、アコーディオンを弾いている戦争で怪我をした人たち、いわゆる傷痍軍人と呼ばれる人たちがいっぱい立って物乞いをしていました。鎌倉駅の前にもいました。父や母や祖父からも戦争の話をよく聞かされました。母は、学校の帰りに機銃掃射を受けたと言っていました。「田んぼの真ん中に落下傘で落ちてきたアメリカ兵を大人たちが棍棒などを持って殴りかかって殺してしまった「という話も聞きました。家内の父は兵隊には行きませんでしたが、戦後、開拓民として北海道に渡り、大変な苦労をしたそうです。義父と北海道旅行をした時、その話をいっぱいしてくれました。なにしろ、電気も水道もなく、農耕には適さないような荒れた土地でなんとか生き延びなければならなかったのですから、当時の体験は、筆舌に尽くし難いものだったようです。でも今、その戦争の記憶は薄れてしまいました。遠くの国で起きている戦争の話は聞きますが、自分の親兄弟や友達が死んでいるわけではありません。自分達の命や、衣食住が脅かされているわけでもありません。だから、ただ「可哀想だ」と感じるだけです。子どもたちはゲームの中で殺し合って遊んでいます。大人たちも、助け合うのではなく勝ち負けを競い合っています。子どもたちに「ケンカはやめなさい」とか「イジメはやめなさい」などと言ってはいますが、「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」を体験を通して伝えようとはしていません。ただ叱るだけです。大人同士も仲良くしていません。でも、二度と戦争が起きないような社会を作るためには、子どもたちに「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」を伝える必要があるのです。いくら戦争の悲惨さを教えても、平和の作り方を知らない子は平和を守れないからです。実際に戦争が動き出したら「戦争反対」も言えなくなってしまいます。「戦争が起きたら逃げる」と言う子もいますが、逃げることも出来なくなるのです。「敵であっても人を殺すのはよくない」などと言えば、非国民扱いされます。コロナ騒動の時のワクチンやマスクのように、相互監視によって行動や意見が制限されるのです。また、戦争を超さない世界を創るためには、子ども達の「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」を育てる必要もあります。戦争が動き出したら、国は決して本当のことを言わなくなるからです。というか、戦争につながらなくても、国民に隠し事をするような国は危険なんです。そういう点で今の日本は非常に危険です。その嘘を見抜き、支配されないためには「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が必要なのです。そしてそれが、平和な社会を作るために必要なことなんです。平和な社会は国が作るものではなく、私たち一人ひとりの意識と生き方が作り出すのです。なぜなら、私たち一人ひとりの意識と生き方が、国の形を決めるのですから。「本当のこと」を隠したり、利害関係で繋がった組織票で政治を動かそうとする考え方は、民主主義の理念に反するのです。ちなみに、第9条があるから大丈夫などとは考えないで下さいね。国が本気になったら、こんなもの簡単に変えてしまうことも出来るのですから。国が情報操作して、「9条は危険な考え方だ」と偉い学者達にテレビなどで言わせれば、世論は簡単に変わってしまうのです。そんなことしなくても自分たちだけで簡単に変えることもできます。だからこそ、「平和」を維持するためには、「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」を育てる必要があるのです。戦争反対をいくら言い立てても、戦争の悲惨さをいくら伝えようとしても、「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が育っていない子には伝わらないのです。
2024.08.10
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(去年の8月にアップした文章に少し手を入れたものです)子どもを叱ってばかりいるお母さんがいます。でも、叱られてばかりいる子どもは、オドオドし、憶病になるだけで行動が改善されることはありません。それは、目隠しされている状態の人に「真っ直ぐ歩け」と言っても意味がないのと同じです。「真っ直ぐ歩け」と言う前に、目隠しを取ってあげる必要があるのです。そして、自分にとって価値のあるものに目を向けさせてあげるのです。そうすれば「真っ直ぐ歩け」などと言わなくても、自分の意思で真っ直ぐ歩くようになるのです。ただし、お母さんが向かわせたい方向とは違う方向に歩き出すでしょうけど。「イジメをヤメロ」と言うのは簡単です。でも、相手の悲しみや苦しみが分からない子に「イジメをヤメロ」と言っても無駄なことです。厳しく叱れば隠れてやるようになるだけです。「ケンカなんかしないで仲良く遊べ」と言っても、「一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らず、相手を「仲間」として受け入れることも出来ないような子が仲良く遊べるわけがないのです。「遊んでばかりいないで勉強しろ」と言っても、「勉強の楽しさ」や、「勉強の仕方」を知らない子が勉強するようになるわけがありません。それは材料を与えることもせず、作り方も、作る楽しさも教えないのに「自分の力で立派な家を建てろ」と言っているのと同じことだからです。そんなこと出来るわけがないですよね。子どもにそういうことを要求している大人にだって出来ません。でも、お母さんだけでなく、世の中の多くの大人達が、「自分でも出来ないようなこと」を子どもには要求しているのです。いくら「戦争反対」を叫んでも、戦争の悲惨さを知らない人にはその訴えは届きません。色々な写真を見せ、色々な体験話を聞かせても戦争に対する恐怖心が生まれるだけです。そして、いくら恐怖心を広めても、戦争は防げないし、平和な社会も作ることも出来ません。それは、「仲間と一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らない子に、「仲良く遊べ」と要求するのと同じことです。戦争はなんで悲惨なのかというと大勢人が死ぬからではありません。人と人が殺し合うからでもありません。実際、ウクライナではいま多くの人が死んでいます、人と人が殺し合っています、でも、多くの日本人はそれを情報として知っているだけでウクライナの人と一緒に悲しんだり、苦しんだりはしていません。悲惨だという状況は認識していますが、実際に悲惨さを感じているわけではありません。どうしてなのかというと、ウクライナに「自分にとって大切な人」がいないからです。ウクライナが自分にとって「大切な国」ではないからです。戦争が悲惨なのは、自分にとって大切な家族や、大切な仲間や、大切な想い出や、大切な故郷や、大切な文化や、大切な生活が失われてしまうからです。ただ単に人と人が殺し合うからではありません。でも、ウクライナに「大切な家族」や、「大切な仲間」や、「大切な想い出」を持っている日本人は多くありません。だから、人ごととして見ていることが出来るのです。人は、「自分にとって大切なもの」を守るために戦うのです。そして、「自分にとって大切なもの」が失われたときに悲しむのです。だから、「戦争がない平和な社会を作ることが出来る子」を育てるためには、人と人のつながりの中で「大切なもの」や「失いたくないもの」をいっぱい育ててあげる必要があるのです。大切な仲間、楽しい想い出、大好きな事や大切にしていることをいっぱい育ててあげることが平和教育になるのです。そういう「大切なもの」をいっぱい育てることが出来た子なら、「戦争が起きたらそういうものが全て失われてしまうんだよ」と伝えることで「戦争の悲惨さ」を伝えることが出来るでしょう。10才以降の子ならその判断が出来ると思います。江戸幕府が300年も平和を築けたのは、人々が戦国時代の悲惨な想い出を語り継いだからではありません。むしろその逆に、人々が日々平和に生きることの中に「楽しさ」を見いだしたからなんです。だから、あれだけの文化が花開いたのです。それと同じように、平和な社会を持続させるためには、子どもたちに「大好きな家族」、「大好きな仲間」、「楽しい想い出」、「自然の美しさと面白さ」、そういうものをいっぱい育ててあげる必要があるのです。また、外国の人ともつながり、外国の文化や歴史にも興味を持たせるような関わりも必要です。フランスに想い出があったり大切な友だちがいるなら、フランスと戦争をしたいなどとは思わないのです。皆さんだって、子どもの頃楽しく遊んだ川、楽しく遊んだ野原、楽しく遊んだ仲間を失いたくはないですよね。破壊されそうになったら守ろうとしますよね。でも、自分の事や、お金や、地位や、名誉にしか興味がない人は、自分の利益のために戦争を利用するかも知れません。戦争が起きても「自分にとって大切なもの」が失われないどころか、むしろ戦争が起きることで「自分にとって大切なもの」を得ることが出来るのですから。でも今、「つながり」の中で「自分にとって大切なもの」を育てることが出来ない子どもたちがいっぱいいます。「自分の命」や「からだ」すら「大切なもの」でなくなってしまっている子もいっぱいいます。それは、大人達が、子ども達から「遊び」を奪い、「仲間」を奪い、「自由に感じ、考え、行動する喜び」を奪い、「自然」を奪い、お金を得ることや、競争に勝つことの大切ばかりを教えて来たからです。そういう状態の子は平和を守ることには興味が無いでしょうね。戦争の悲惨さを教えても、逆に「面白そう」と思うかも知れません。実際、人が人を殺し、人が無残に死ぬようなホラー映画を面白がって見ている子がいっぱいいますから。遊びとしてのゲームの中でも楽しそうに殺しています。実際、「戦争に行ったら鉄砲が自由に撃てるんでしょ。戦争に行きたい。」と言っていた子がいました。皆さんのお子さんにとって「大切なこと」は何ですか?皆さんにとって「大切なこと」は何ですか?「人と人のつながり」の中に「その大切なこと」がある人は、平和を守ろうとするでしょうね。でも、勝ち負けや、名誉や、お金といったようなものにしか価値を感じることが出来ない人は、平和には関心がないでしょうね。
2024.08.09
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昨日は、子ども達に「本人の自由意志に基づかない活動」を強いると、子どもの心とからだがバラバラになってしまうのです。すると、心も不安定になります。ということを書きましたが、子どもが、自立して自分らしく生きることが出来るようになるためには、この「本人の自由意思に基づく活動」が必要になるのです。昔の子どもたちの「子どもたちによる、子どもたちのための群れ遊びの場」ではそういう活動が出来ていました。そんな群れ遊びの場では、嫌ならやらなければいいのです。飽きたら色々と工夫して楽しくすればいいのです。ケンカしても自分たちで解決しました。監視や管理や命令をする大人はいませんでした。「遊びとしての勝ち負け」は競いましたが、勝つことにこだわりはしませんでした。楽しくなくなってしまうからです。それに、昔の群れ遊びの場には色々な年齢の子、色々な能力の子、色々な性格の子が集まっていたので、「みんなが同じルールを守って勝ち負けを競う」という活動自体が出来ませんでした。小学校の高学年の子と幼稚園ぐらいの子が勝ち負けを競い合っても意味がないのです。それよりもみんなが助け合って楽しく遊ぶことの方が大切だったのです。ですから、小さい子には「おみそ」といって特別ルールを作ったりもしました。でも、最近の子たちは小さい子にだけ特別ルールを作ろうとすると「ずるい」と言い立ててきます。固定されたルールに従って勝ち負けを競うスポーツのような活動が成り立つためには、年齢や、体の大きさや、性別や、能力などの同質性が必要になります。実際、スポーツではそうなっていますよね。そして、最近の子どもたちは自分と似た年齢、似た趣味、似た能力の子としか遊ぼうとしないし、また遊べません。だからスポーツは出来ても群れ遊びが出来ないのです。でも、そのような条件が与えられているのは学校やスポーツクラブのような特殊な場だけです。以前、学童に呼ばれて遊びのワークをしたことがあるのですが、異年齢のグループを作らせて遊ばせようとしたのですが、みんな自分と同じ学年の子とだけ群れて、みんな一緒に遊ぼうとしなくて難儀したことがあります。小さい子が困っていても大きな子が助けないし、小さな子が危ないような遊びも平気でするのです。でも、社会に出たら、昔の群れ遊びの場のように、色々な年齢、色々な趣味、色々な能力の人と関わりながら生きていくしかないのです。「会社」もそのような場です。「家族」も同じです。でも、幼い頃から多様性が失われ、助け合うのではなく勝ち負けを競い合う群れの中で育った人は、「会社」や「家族」という「多様性に支えられた群れ」の中ではどうしたらいいのか分からないのです。結婚して子どもが生まれても、自分とは異なった感覚や考え方を持ち、異なった世界に生きている子どもとの関わり方が分からない、自分とは異なったルールを持っているパートナーとの関わり方が分からない、そして「自分勝手(マイルール)」をお互いに押し付け合う、今、そういう人が非常に多いのです。将来子どもが自立して自分らしく生き、幸せな家庭を築くために必要なのは「勝ち負けを競う合う能力」ではなく、「助け合う能力」なんです。でも今、その「助け合う能力」を育てる場がありません。もっとも最近は、結婚願望もあまりなく、子どもも嫌いで子どもを持ちたいという願望も弱く、一人で気楽に生きたいと願っている若者が多いみたいですけど。
2024.08.08
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