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「あ~、湧いたな~… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2006.01.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
昨日、 みんなが同じ言葉を共有しているから言葉が通じます。みんなが同じ自由を享有しているから民主主義が成り立っているのです。みんながデタラメな言葉を使っていたら社会は崩壊します。

そして、25日には牧野さんから 昨日、「自由な表現」と「デタラメな表現」と言うのがどうもよく分からなくて、次のようなことを考えていました。 というコメントも頂きました。

それで、今日はその“自由”と“デタラメ”の違いを少し説明するところから始めます。

これは“言葉”に例えると分かりやすいと思います。人は言葉を使って自由に自分の考えや感情や感覚を表現することができます。言葉が使えなかったらどんなにか不自由でしょう。
でも、言葉はちゃんとした規則に基づいて使われないことには理解してもらえません。自分で言葉を作っても相手は理解してくれないのです。また、文法的には正しくても、相手が理解できるように話さないことには理解してもらえません。
当たり前のことですよね。
つまり、言葉というものは一つの決めごとなんです。ですから、自分勝手には使うことが出来ません。そういう意味では不自由です。


つまり、自分勝手な言葉を話したり、相手に理解できない表現を使うのが“デタラメな表現”であり、相手に理解できる形で自分の考えや感覚や感情を伝えるのが“自由な表現”だというわけです。

ということは、“自由な表現”は不自由な学習によって得るものだと言うことでもあるわけです。それは皆さんが外国語を学ぶ時のことを考えれば分かることです。つまり、“自由”は与えられるものではなく、学習によって身につけるものなのです。

それは言葉だけでなく、踊りでも、歌でも、絵画でも、文章でもみな同じです。自由を得るためには不自由な学習が必要になるのです。

でも、日本の家庭や学校や社会ではその自由を得るための学習をさせないまま、いきなり“君たちは自由だ”とやってしまっているのです。
それで、子育てでも“子どもを自由に育てたい”と言って、“子どもの好き勝手”にさせているお母さんがいます。
幼稚園を選ぶ時も、塾や教室を選ぶ時も、“自主性を大切にする”といって、子どもに選ばせているお母さんもいっぱいいます。

でも、そのように育てられた子は社会の中で自由に生きるための学習が出来ないので、自分一人で社会の中に入っていくことが出来ません。そして、親や他の人を支配することで自由を得ようとするのです。
実際、そういう子がいっぱいいるのです。

どうしてこうなってしまったのかというと、(昨日書いたように)もともと日本には“社会的な責任を伴う自由”という概念がなかった上に、戦争中軍部によって統括されていた政治、経済、学校、生活が終戦とともに一度リセットされてしまったからです。

戦争中には個人の自由はありませんでした。みんな生活の隅々まで監視され、管理されていたのです。それが終戦とともに軍部が解体され、監視され、管理されることがなくなりました。
そして、当時の日本人にとってはその状態こそが“自由”だったのです。つまり、“束縛からの解放イコール自由”だったのです。


そしてそれは戦争に負けたことによって“棚ぼた式”に“与えられた自由”でした。自由を得るために戦って得た自由ではないのです。

そのように、日本人にとって“自由とは与えられるもの”として始まったのです。ですから、主体的に自分たちの力で自由な社会を維持するために必要なものがなんなのかということが分からないのです。

そして、今でも多くの人が自由は与えられるものだと思いこんでいます。そして、その根拠に“人権”を引っ張り出します。だから、先生が何か言ったりすると“おれには自由に行動する権利があるのだ”などという子どもが出てくるのです。

でも、“人権”は自由を保障はしてくれますが、自由を与えてはくれないのです。勘違いしてはいけません。人が自由になりたいと思ったら自由を得るために様々な学びと努力が必要なのです。他人任せでは自由にはなれないのです。

では、人が自由になるために学ぶべきものは何かというと、それは“コミニケーション能力”と“自己表現能力”の二つです。その二つを学ぶことで、人は人の中で自由に生きることが出来るようになるのです。



そして、現代の日本の子どもたちの育ちにはこれらが決定的に不足しています。家族の間でさえ深いコミニケーションをしていない子どもたちがいっぱいいます。コミニケーションを必要としていない生活をしているわけですから、自己表現能力が育つわけありません。


それと、昨日 その一つの理由として考えられるのは、日本の社会は“家族”をモデルとして考えられていたからでしょう。家族というモデルの中では対等な個人という考え方は存在していないのです。 と書きましたが、ヨーロッパの社会も同じように、家族をモデルにしています。
但し、ヨーロッパというよりキリスト教国では、「神」を父親とする家族です。ですから、人間はみんな対等な兄弟になってしまうのです。欧米の「個人」という考え方の背景にはこのようにキリスト教の影響も含まれています。
それが組織ごとに家族的な上下関係を作る日本とは違うのです。

そして、対等な個人と個人だからこそ様々な表現方法が発達したのです。それらは、日本のようにお上の命令に従うだけの人間関係の中では必要ないのです。





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Last updated  2006.01.26 20:32:12 コメント(4) | コメントを書く


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