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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 74ページ
東京へ
明治21年(1888年)4月4日、もう老衰していた養父伊三郎は、近くの町で開かれた競馬を見て帰って、機嫌よく晩飯を食べていたが、脳溢血で、膳に向かったまま急逝してしまった。享年67歳であった。32歳の藤三郎の責任は、いよいよ重くなった。
彼は、この年の5月から冷水浴を始めて、生涯やり通した。晩年、60歳近い彼が、発明した乾燥機の事業で、北海道の釧路港へ行っていたときなど、真冬の早朝、起きるとすぐ宿屋の風呂場に行って、水おけの水を破って水を浴びたので、壁一重隣の部屋に寝ていた宿の女中たちは、その音を聞くと、寒くて寝ていられなかったという笑い話もある位である。彼がこの、冷水浴をやり始めたときのことは、後年(明治32年(1899年)12月)印刷して知友に配った『冷水養生法』(※)というパンフレットの中に、詳しく書いている。
※「冷水養生法」鈴木藤三郎著
冷水養生法の効験については、既にこれを知っている者は多いが、今これを実行している者は少ない。予が遺憾とする所である。本編は、我が国医術界の権威、佐々木政吉博士が、去る明治21年4月20日、第一高等中学校生徒に向かって、演説された冷水養生法の筆記で、当時東京日々新聞に数日間連載されたのを、予が業務に忙しく、寸隙もない時に書き写し、家人の心得として、現に珍蔵していたものである。
予は生来、身体は体が大きく、立派ではなかったが、幸いに、幼時から強健だったから、20歳の時、体重は実に51キロあった。しかし、当時非常に時事に感ずる所があって、誓って国家の一大事である製糖業を大成し、少しでも国家に貢献しようと欲した。業務を執行するかたわら、この計画を行うとともに、これに必要な読書の講習を約4年ほど熱心に実行した。この間に、非常に身心を過労し、知らずしらず、次第に身体は衰弱して25歳の頃、体重は43キロまで減った。冬季には衣をかさねても、なお寒さに耐えることができず、それだけでなくいつも風邪にかかりやすく、また昔のような身体でなかったので、人によってはいよいよ予が前途を憂慮させるにいたった。
予もまた思った。身は不敏であっても、いつの日か事業を大成し、皇恩の万分の一に報いようと欲した。そして身体がとても弱いことは、このようであった。どうしてよく宿願を達することができようか。しかず、専心一意、養生の法を行って、身体の回復を図り、その後、事業に従うにはどうすればよいかと、医師に養生の法を聞き、または、養生に関する書籍を求め、衣服飲食の注意はもちろん、その他個人的衛生に係る事で行わないものは一つもなかった。しかし身体の回復は容易に行われないだけでなく、かえって衰えて、その疲れを高め、まさに肉が落ち、骨があらわれる悲境に近づいた。ところが去る明治20年11月末、業務のため、病体を忍んで名古屋に旅行し、宿で暇なとき、たまたま同地の新聞に人間生涯無病の新法と題した本が発売されたという広告があるのを見た。試しにこれを購入して閲覧したところ、その要旨は、毎朝冷水に浸した布切れで、身体を摩擦すれば、風邪にかかる憂いを除き去ることができるということにあった。思うに、これはきっと良法であろうと。しかし、従来、冬季に衣をかさねても、なおかつ、寒に耐えないで、常に毛布で、襟をおおっている身で、今これを実行したら、事は急激に失し、かえって害ではなかろうかと。方法が善良であることは信じたが、これを実行する勇気を奮い起こすことはできなかった。ひとり窓の柵によりかかって、事業の前途を考え、身体の弱いことを嘆き、茫然自失していたとき、たまたま美しい妙齢の芸者が3,4人、お化粧し盛装して襟を延べ、褄(つま)をとって、冷たい風が吹きすさぶなか、肌が戦慄することも物ともしないで、互いにおしゃべりしながら、まさに遊客のもとに至ろうとするのを見て、ひるがえって自覚する所があった。おもうに、芸者はもともと寒さを恐れないわけではない。しかし今その気にしないようになったのは、きっと習慣が然らしめる所であろうか。あの普通の婦女子が下着又は乳房を出して赤ん坊に乳を与えて育て、少しも風邪にかかる者がなかったのも、またこれは習慣によるものではなかろうか。予はふだんしきりに養生の法を求めて得なかった。今偶然、冷水養生法の効果があることを知って、これを実行する勇気を奮い起こすことができない。どうして婦人女子に恥じないでいられようかと。ここにおいて断然決意して、すぐに襟巻をやめて、翌朝から布切れを冷水に浸し、これで、先ず半身を摩擦することを始め、以来、毎日これを実行し、これまで一日も廃することがなかった。
翌明治21年5月4日から同8日に至る5日間、東京日々新聞は、冷水養生法と題した、医学博士佐々木先生の演説筆記を連載した。予はこれを拝読したところ、条理は整然として、挙証は明確であり、冷水養生法の必要効能及び用法を詳しく説いて、また、余すところがなかった。これによって、予はますます厚く信じ、誓って博士の説に従い、この法を励行すべきことを決意した。それと共にこれを家人の心得として、永く子孫に伝えようと欲し、事務が集中し、身はまさに忙殺されようとする時に際し、親しくこれを書き写した。以来この法に従って、毎朝全身に冷水をかけて、そして強く皮膚を摩擦し、一日もこれを廃しなかったところ、幸いに、風邪にかかる癖を全治し、次第に身体は強健になり、精神もまた爽快となった。
去る明治29年6月、製糖視察のため、にわかに海外旅行を企て、アメリカを経て、ヨーロッパに至り、また南洋諸島を過ぎて、明治30年6月に帰国した。この間北ドイツに寒さをしのぎ、南ジャワに暑さにたえ、転々ほとんど地球を一周して、1年余りの日月を費やしたが、少しも病気におかされることがなかっただけでなく、身心に少しの疲労を感じなかった。以来、身体はますます強健となり、精神もまたいよいよ強固となったことは、自からも任じ、他もまた許す所である。しかも体重も、現在60キロ余りの多きに達した。これはすべて、13年間励行してきた、冷水養生法のたまものということができよう。そして、15年間、予が事業をたすけ、予と苦楽を共にして、始終かわらない吉川長三郎氏を始め、予が門弟20有余人もまた、皆これを励行して、身体強健、精神剛毅であることを得たのを見れば、その効験が誠に顕著であることは確かである。
ことわざに曰く、「命あっての物だね」と。実にそのとおりである。しかし彼の天寿を顧みないで、いたずらに生命を長久ならしめ、飽食暖衣して気楽に遊び暮らすようなもの、または息が絶え絶えで今にも死にそうで、何を行う所がなくて、みだりにその長命を貪ろうとするようなものは、決してその真意ではなかろう。予は信ずる。このことわざは、きっと人はその身体を強健にして天寿を全うし、そして貴賎貧富の区別なく、各々一生懸命に熱心に、その職分を尽くすことに在るという意味であろうと。予が予と同志が親しく実行している現状を述べ、謹んで博士の卓説を紹介し再拝してこの実行を勧告する理由もまた実にこのためである。昔から我が国民は、欧米人に比較すれば、その体格は小さく、かよわであり、顔色は憔悴し、体はやせ衰え、精神も萎縮し、忍耐力もまた欠如する傾きがあるが、もしこれを自然に委せないで、みずからよくこれを培養し、子孫もまたよくこの意を体して事に従うならば、今から数代の後、彼と肩をならべ、あるいは彼に凌駕することも、必ずしも至難の業といえないであろう。トウトウたる天下有為の士よ、幸いに予と感を同じくし、予が勧告をいれて、これを実行し、これによって、各々その志を達し、さらには子孫を身体強健にし精神剛毅とさせ、大いに国家に貢献する所があれば、その光栄はひとり予だけに止まろうか。
終わりに臨んで一言。この出版は予が数年来の望みであったが、業務に忙しくてこれを果たす機会を得なかった。このごろたまたま少し閑ができたので、序文を書いて、秘蔵していた冷水養生法の謄本と共に、博士にお見せして、これを公にする許しを求めたところ、博士は喜んでこれを承諾され、特に巻首に出す序文を書いて贈られた。予は予が光栄を喜ぶと共に、博士がこの道のために努力されていることに深く感謝するものである。 明治32年2月
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.17
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