MM2022のブログ

PR

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2025.08.30
XML
カテゴリ: 報徳記を読む
195

二宮翁夜話巻の2

【12】 尊徳先生は、床の間のかたわらに、不動尊の像を掛けられていた。
山内董正(ただまさ)が言った。
「あなたは、不動を信ずるのか」

先生はおっしゃった。
「私は壮年の時、小田原侯の命を受けて、野州(栃木県)物井(ものい)に三村を復興させるため来ました。
人民は離散し、土地は荒れはて、どうしようもありませんでした。
そこで功の成否に関わらず、生涯ここを動くまいと心に決しました。
たとえ事故が起こっても、背に火が燃えついた事態にたちいたろうと、決して動くまいと死をもって誓いました。
不動尊は、『動かざれば尊し』と訓じます。
私は、その名義と、猛火で背を焚いても、動かざるの像形を信じ、この像を掛けて、その決意を妻子に示しているのです。
不動尊のどのような功験があるかは知りませんが、私が今日にいたったのも、不動心の堅固一つにあります。
ですから今日もなおこの像をかけて、妻子にその決意を示すのです。

成田山祈誓

【12】

山内董正(ただまさ)曰く、

卿(きみ)不動を信ずるか、

翁曰く、

予壮年、小田原侯の命を受けて、野州物井(ものゐ)に来(きた)る、

人民離散土地荒蕪、如何(いかに)ともすべからず、

仍(よつ)て功の成否に関せず、生涯此処(ここ)を動かじと決定(けつぢやう)す、

仮令(たとひ)事故出来(しゆつたい)、背に火の燃え付くが如きに立(たち)到るとも、決して動かじと死を以て誓ふ。

然るに不動尊は、動かざれば尊しと訓ず、

予其の名義と、猛火背を焚くといへども、動かざるの像形を信じ、此の像を掛けて、其の意を妻子に示す、

不動仏、何等の功験(こうけん)あるを知らずといへども、予が今日に到るは、不動心の堅固一つにあり、

仍(よつ)て今日も猶此の像を掛て、妻子に其の意を示すなり。



後年、岡田氏が成田に参って聞き取った「二宮先生の7大誓願」という文章がある。
生涯人を助け世を救うことを実践された尊徳先生の事績をみると、この誓願もさもあらんという感慨がわいてくる。

尊徳先生は、新勝寺の別寮に移られて、日々朝から晩まで水を浴び、お経を唱え、祈念怠ることがなかった。

「世に当山に祈願するものを見るに、あるいは自らの病気を治すため、あるいは貧乏を免れようとし、あるいは栄華や利益を願うためにし、あるいは愛欲をみたさんと願い、おおよそその私情私利の欲念のために祈願しないものはない。
 今、私があなたを見るに健康で病気でもない。衣服は粗末だが、貧乏を憂えてのことでもない、栄華利欲を祈るものでもない。言語もしっかりしており、とても危うい道を踏み行って災難に遭遇するとも思えない。心ひろくまっすぐで欲念や怒りをはらすためでもない。
 そもそも何を祈願することがあって、特に当山に来て、食事を絶ち、身を苦しめようとするのか」

 先生はこうおっしゃった。
「わたしは病気があるわけでもない。
 しかしながら 私は幼くして父母の病気にあって不幸にしてはやく父母をなくしてみなしごとなった。その不幸はいかほどか。
 思うに天下に私と不幸を同じくするものが少なくないことを知るゆえに、天下の人の父母たるものが無病健全で子どもが安心して生育できるよう祈願するものである。


私は今貧乏を憂えるものではない。しかし、極貧の家に成長し、父母の艱難は言葉に尽くしがたいものであった。世の中で貧乏より悲しいものはないということを知った。
 ここをもって天下の貧者をみては、あまねくこれを救済して富者になさしめることを祈願するものである。


私が生まれた年、天明の大飢饉であった。死者は何万人いたかわからないほど多かった。関東の諸州の死亡がもっとも多く、栃木の芳賀郡の村々が廃亡したのもこの時であると聞いている。
 今、ここの開墾の任務にあたり、飢饉の害ほど大きいものはないことを知る。60年前後に必ず凶荒のときがあると聞いている。あらかじめその備えをなして、天下に飢えた民がないことを祈願するものである。


私は幼いとき、しばしば洪水にあい、所持の田畑は再三押し流された。その開墾のため、父母の苦労は筆舌につくしがたいものであった。元通りにしようとしても、容易には良田になしえず、数年の労力でやっと復旧しても、このために負債を生じて所有地を売り払うこととなった。一家滅亡したものも我が家だけではない。
 だから天下の水害をこうむって滅亡にいたるものを救助すること、私が自ら我が家をたてなおしたようにならんことを祈願するものである。


天下にはさまざまな災厄をこうむって、借財を生じて、利息が累増し、元利を償還することができず、家財産を失い、逃亡する者も少なくない。あるいは家老の職にあってぜいたくになれて、負債のため職務を全うできず、厳しく重税をとりたてて国家危急にいたるものも少なくない。
 私はこれがために方法を設け、救い取ろうと祈願する。


 要をもって言えば、 禍を転じて福となし、凶を転じて吉となし、借財を変じて無借となし、荒蕪を変じて開田となし、やせ地を変じて肥沃の地となし、衰貧を変じて富栄となし、困窮を変じて安楽となし、おおよそ人民のにくむところを除いて好むところを与えようと日々夜々に祈願するところなり

 わたしは君命を受けて、物井村にいたってよりここに七年、着々これを実地に施した。
しかしながら、民心はいまだにこれを理解せず、土地が開け、人民は豊かになってきて、しかも人心は喜ばず、かえって反抗をこころみ、よこしまな者どもは威力をたくましくして、良民はその志をのべることができない。
 すでに人民の困窮を変じて安楽の道をあたえ、すでに人民の貧を変じて富み栄させ、すでにやせ地を変じて開田とし、借財を幾度となく無借としてきた。しかしながら、人心の凶を変じて吉とすることがなしがたく、国家の禍を福とすることができない。
 どういう理由か、これは人民が私の誠に疑惑があるためである。
私は君命のために国家を復旧の道をたて、民を水火に救おうと欲するだけである。
天地神明いやしくもこの誠心を真実としなければ、死ぬとも食をとらず、民を水火から救うことができなければ、この身を猛火になげすてよう。
 これが当山に来て祈誓するゆえんである


 和尚はその誓願に感嘆し、
「あなたの誓願はまさに世を救う法であり、世間の教えの及ぶところではない。
 よくその誓願をたもって動くことがないならば、いかなる天魔や悪鬼の妨げるものあるもついにはどうすることもできないだろう。」
 そして不動経を与えた。

 先生はこの不動経を受持し、朝夕昼夜怠ることなく、毎時ごとに沐浴し、不動尊の前に礼拝し、誓願を唱えた。
 そして、実に21日目に感応があり、次の歌をよんだ。

 身を捨ててここをせんどとつとむれば 月日の数もしらぬなりけり

 心あれば成田の山にこもりなん 石の上にも岩の上にも








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2025.08.30 16:53:41


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: