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2025.11.13
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その2

 道元禅師の『普勧坐禅儀』を時間のあるだけ、お話したいと思う。
  原(たずぬ)るに夫(そ)れ、道本(どうもと)円通(えんづう)、いかでか修証を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在なんぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。いわんや、全体はるかに塵埃(じんない)を出づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。おおよそ当処(とうじょ)を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。然れども、毫釐も差(しゃ)あれば、天地はるかに隔り、違順わずかに起れば、紛然として心(しん)を失す。
 我々は仏性というものを持っている。仏性というとおかしいが、我々は宇宙と少しもかけはなれていないのである。我々の細胞ひとつひとつが宇宙の仕組みとつながっているのである。つまり、宇宙の真理から免職食っていない。だから悟るということおり、迷わずということが根本である。そうすると、悟るということは、迷ったことのある人に名づける言葉である。
  悟るとは悟らぬ前の迷いなり 悟りて見ると悟るものなし
 そうなれば、悟りというものは迷うた者に名づける名前であって、迷うた覚えのない者は悟るという名前もいらない。それが本当なのだ。むかし演若多という人があった。毎朝鏡を見ていたが、ある朝うっかり鏡の裏を見た、そうすると首がない、おれの首はどこへいった、首を失った、さあ大変だというので、街中狂い歩いておれの首はどこへいった、おれの首はどこへいったといって、そこらじゅう首を探して歩いた。大きな首を胴体の上に乗せながらそういっているのだから、さあ貴様の首はそこにあると、があんとやった。そうするとああ首があった、首があった、おれのように偉大な首を取り戻した者は五百年来、まれであろうといったという。このひとつの元からある首について失うたというのと、取り戻したというのと、迷ったということと、悟ったということ、こういう面倒くさいことがあるのである。失うたのは元より嘘である。首があったというて誇るのも嘘である。そうすると、失いもせず得もせず、元の通り本時平体である。(『禅談』p.308-310)

 我々の求むべきところの的は元の通りのものを求めるのであって、迷ったものも途中のことであり、悟ったのも途中のことである。すなわち迷いもせず悟りもせずというのが根本である。
 それならば迷いもせず、悟りもせず元の通りのものを求めるのにはどうすればよいのか、そこが

 ということになる。たとえどれだけ立派な悟りを開いたといっても、それは一種の悟りについた臭味である。おれは修行したぞというのがそれであるところが迷いもせず悟りもせず、おれは迷うた覚えもない、悟った覚えもない、これが天壌無窮というのである。随神というのはそれである。善ということは悪ということについている。悪は善についている、どうでもない、元の通り、我々先祖伝来この通りであった、それが根本である。その場合に「会に誇り悟に豊かにして瞥地の智通を獲、道を得云々」金と金石と石がつきあってぱあっと火の出るようなもので「ほとんど、出身の活路を虧闕(きけつ)す」る。すなわち、迷うた覚えもない、悟った覚えもない、というくらい雄大なものはないというのである。そこでひきあいにでるのが、
  いわんや、かの祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし
 迷うた覚えもない、悟った覚えもない、そんならもう手足を曲げてそんなことせんで遊んでおってよいのではないか、ところがそうではない。我々は生きておれば生きておる間、いろいろな概念がひっついてしまって、囚われが多くなって、もうがんじがらめにふんじばられて、どうしても自分というものの自由がきかなくなる。そこでそこにひとつの迷うた覚えもない。悟った覚えもない。少しもこせついていない。調子づいていない、じつに純真なる自分というものを持ってくる必要がある。坐禅をしているというのは無邪気なものである。しかし世の中には何をするにも位とか順序がある。我々坊主といえども、きめられた順序というものがあって衣の色順とかなんとか妙なものがある。社会の組織秩序というものだ。しかし人間の本質というものは、そうしたものではないから、そういうものから離れて本当の自分になる。こう坐禅をやっている間は、みな無邪気に居眠りしている人がある。これが四十男かと思われるような、じつに無邪気なおとなしい顔をしている。友達の前でもない、悟りと迷いの関係もない、親子の関係もない、もうまったくわれ独りぼっちになってやっておる、じつに無邪気な境涯である。こうなってみると、はじめてここに自分というものが分かるのだ。坐禅は何もなるかというと、私は何んにもならぬというのである。何にもならぬといえばおれはやらぬというかも知れないが、坐禅をしたから月給が何千円あがるというようなことにはならぬ。また悟って金の玉を見つけたということもない。実際ここで悟っているのはじつに何んにもならない。自分が自分ぎりで何のもならない。しかしこういう修練が我々の生活の中にある。これが修養である。本当の自分になるこういう方法がむかしからあるのであって、それは誰がやったかというと、お釈迦さんがやったので「いわんや、かの祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし」である。(『禅談』p.310-312)





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最終更新日  2025.11.13 04:40:07
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