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2025.11.14
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著236~237ページ

  運命の奔流

 藤三郎についての記録も、ここまでで終ったならば、明治時代のやや特色のある一実業家の立志伝に過ぎないであろうが、彼の晩年を、得意の絶頂から急転直下、失意の深淵に投げ込んで、事業的にはひとつの悲劇の主人公として、単純な立志伝以外のものとした醤油促成醸造法の発明と、その事業化について、ここに詳しく物語らなければならないときが来た。しかし、その前に、そうなるまでの数年間のことを略記するすることにしよう。

明治37年(1904年)3月1日の総選挙で、藤三郎が静岡県から衆議院議員に再選されたことは、前に述べた。この年の2月には、ロシアに宣戦を布告して、日清戦争後10年で、ふたたび国運をかけた日露戦争が始まっていた。

※「砂糖と醤油」村松梢風著

日露戦争中のこと、藤三郎は静岡県の代議士として、ある日静岡の第34連隊を慰問に行った。隊内を回って炊事場へ行くと、ちょうど昼飯の前で、見ると、飯をうつし終わった大釜のそばに、真っ黒なおこげが山のように積み上げてある。驚いて炊事兵に、
「いつも、こんなにおこげが出るのですか」
と藤三郎が聞くと
「はッ、いつも二割はコゲるのであります」
連隊長が案内している国会からの慰問使に対して、
炊事長の軍曹は直立不動の姿勢で答えた。
「ほう、二割もー」
 藤三郎は目を丸くして驚いた。
「はい、こうした大釜では、底が焦げ付くくらいにたかないと、中まで火が通らないのであります」
長年の経験で、2割のおこげを出すことが、よいご飯を炊く秘訣であると炊事長は信じていた。
「ふうん・・・」
 藤三郎は唸(うな)るようにいって、考え込んでしまった。
 陸軍がこうなら、海軍もこれと同じだろう。そうすれば、民間の紡績会社や学校の寄宿舎でも似たようなものであろう。これらの人々は数十万、数百万に上るだろう。その人々が毎日三度三度食べる飯が、2割ずつ焦げて無駄になるとしたら、国家として莫大の損失といわなければならない。まして今は戦争中の主食だから、一日も放っておけない問題であるー。
 藤三郎の頭の中は、こうした考えで一杯になってしまった。
 その頃は、藤三郎は塩と醤油の発明に忙殺されている時であったが、その間を縫うようにして米2斗(30キログラム)を一遍に炊けて、しかも絶対に焦げつかない飯炊き釜の発明に心を砕いた。
 まず普通の大釜で実験してみると、どんなに火の焚き方を工夫してみても、途中で中をかき回してみても、あの軍曹がいった通り、多少釜底の部分が焦げつくくらいにしないと、中まで火が通らないことが分かった。これほどの大きな釜になると、直接に火炎が釜底に当たる方法ではどうしても焦げつくから、いろいろ苦心して考えたのが、熱湯で炊く方法である。そこで鋳物か錬鉄で、底が二重になっている大釜を造った。そして熱蒸気を下の釜の底の穴から上の釜の底の中心へ吹きつけるように注入する一方、上下の釜の間に充満した熱気が、その側面まで平均して行きわたるように工夫した。早速これを鈴木鉄工部で試作してやってみると、立派に炊けた。これに力を得て、何遍かの改良の後に、ついに4斗までは完全に炊ける蒸気二重釜の発明を完成した。これは蒸気力を利用するのだから決して焦げつく心配はなく、完全に炊ける。それに米ばかりでなく、副食物でも何でも煮えも炊けもする。
 この発明は即座に軍隊と軍艦に採用され、民間でも会社、寄宿舎、ホテルの食堂、汽船などに採用された。前からボイラーを使用している所ならその廃気を利用できるし、新たにボイラーを設備しても、300人以上の炊事をする所ならば、燃料代だけを計算しても普通の釜よりは遙かに有利であった。
 爾来(じらい)、今日に至るまで多人数の炊事をしている所では例外なく用いられている。

これより先、日露の間の戦雲が、いよいよ急を告げてきたころ、陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)では、日清戦争のときの経験で、醤油が液体の状態では、大量を遠く大陸に運ぶにも、兵隊が持って歩くにも、非常な不便を痛感したので、なんとかしてエキス状態にしたいと考えていた。
 日清戦争中にも、京都の人で『醤油エキス』というものを製造して、出征の将士に供給した者があった。しかし、その製法は、ただ高温度に醤油を煮詰めてエキス状にしただけの物なので、変質してしまって、再びこれを水で薄めても、醤油本来の味も滋養分もなく、とうてい完全なものではなかった。そこで陸軍糧秣廠では、どうかして、これを完全な物にしたいと苦心して、技官に命じてくふうさせたり、欧米に派遣して調査させたりしたが、適当な良法が見つからなかった。それだのに、時はいよいよ迫ってくる。もうこれ以上は猶予はできないまでになってきた。そこで、民間人ではあるが、藤三郎に発明の才能のあることを知って、明治36年(1903年)10月に、陸軍糧秣廠から特使で、これのくふうを依頼してきた。

 時が時であり、事が事なので、藤三郎は、即座にこれを快諾した。そして、醤油の性質を研究してみたところ、華氏104度(摂氏40度)以上に熱すると、醤油は固形体とはなるが、その滋養分であるタンパク質は変質してしまって、これを水で薄めても、もとのようにならないことが分った。そこで、氷砂糖製造と同じ要領で、真空中に低温度で水分を蒸発させるほかはないと考えて、くふうを重ねて、ついに醤油エキス製造機(明治37年3月特許7202号)を発明した。もう戦争は始まっていたので、すぐ鈴木鉄工部で、この機械を製作すると同時に工場の設備をして、明治37年(1904年)7月から製造を開始して、盛んに戦地に送った。陸軍糧秣廠では、1日30貫(112.5キログラム)の醤油エキスができればよいという希望であったが、実際は十倍の1日300貫を製造して、十分の醤油を供給することができた。

※「駿河みやげ《下》(国府犀東 斯民第1編第12号明治40年3月23日号)において、鈴木藤三郎はこう語っている。

◎『 戦時に際して陸軍糧秣廠よりの依嘱もあり、さきに砂糖凝結の実験をなし、方式に従いて、醤油のエッキスを試造したるに、初めて高熱度を用いしためか、豆分と塩分と全く分離して固有の旨味を失い、実験意のごとくならざりしが、ついで低温度にて固結せしめるの方式を設け、ついに原来の味と全く異ならざる固形醤油を造り得るに至りしが、当時戦地に供給せられしはすべてこの醤油なりしなり 』とて膳に用いられし醤油がこのものなりと説明せらるゝを聞きゝては、戦役の当時この便利なる固形醤油がいかに我が軍隊を利益したるの多かりしやを憶えざるを得ず。






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最終更新日  2025.11.14 09:00:06


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