MM2022のブログ

PR

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2025.11.15
XML
カテゴリ: 鈴木藤三郎
33

 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著237~240ページ


10月26日には日本精製糖会社は、事業拡張のため資本金を倍額の400万円に増資をした。明治28年12月に資本金20万円で創立されてから、約9ヵ年の間に、資本は13倍余に増加されたのである。
この年には、重畳式無気蒸発装置、製塩装置、醤油醸造法、蒸発装置、完全燃焼炉など11件を発明して、特許を得た。
藤三郎は、戦時国会に議席を持っていた上に、製塩法と醤油醸造法の改革を並行して研究を始めたので、非常に多忙になった。それで、明治38年(1905年)3月23日に台湾製糖会社の社長を辞して平取締役となった。
創立以来、苦心経営してきた台湾の橋仔頭工場も、その生産額が、初年度である明治35年(1902年)から4年間に約3倍に増加して、予定の4万ピクル(1ピクルは60キログラム)を5個も超過するに至った。
 明治35年  18,502ピクル
 明治36年  28,437ピクル
 明治37年  56,742ピクル
 明治38年  59,277ピクル
また製品の歩留りも、この4年間に2倍以上になった。
 明治35年  4.32
 明治36年  6.96
 明治37年  7.90
 明治38年  9.70
次に株式配当も、この4年間に年ごとに増加して、5分から1割までになった。
 明治35年  第2期    5分
 明治36年  第3期    6分
 明治37年  第4期    8分
 明治38年  第5期    1割
このように営業状態はますます有望となったので、第二工場の計画も立てられて、台湾製糖会社の基礎は全く確立した。
わが国の砂糖の輸入も、台湾製糖株式会社の創立当時は、一カ年に3,000万円もあったものが、その後、次第に減少して、5年後の明治38年(1905年)には、半分以下の1,300万円台となった。これに反して輸出は、明治35年(1902年)にわずかながら同社の製品が、中国方面へ行くようになってから年々激増して、明治38年(1905年)には約400万円に上って、将来増加することは疑う余地のないまでになった。これで、藤三郎としては井上馨の信頼にもこたえ、その責任を完全に果して今後は自分が直接に第一線に立たないでも、十分に経営してゆかれる見とおしがついたから、彼も社長を辞しやすかった。明治36年(1903年)に、わずか50万6千ピクルに過ぎなかった台湾の砂糖生産量は、太平洋戦争前の昭和14年(1939年)には、実に45倍余の2,290万ピクルスに達していて、藤三郎のこの見とおしの正確であったことを、いまさらに証しているのである。


※「台湾製糖株式会社史」

4 創業時代(8-12頁)

明治33年10月、初代社長鈴木藤三郎氏は、後の支配人山本悌三郎氏と共に台湾に渡って実地踏査 した結果、台南県橋仔頭庄に、一昼夜サトウキビ圧搾能力250英トンの工場を建設することに決定し、同 34年2月、創立2か月後に工場建設工事に着手 した。同時に原料のサトウキビの一半を自給するの必要かつ有利なるを察して、 橋仔頭付近に1,000甲歩の土地を買収し、ここに農場を経営し、社業遂行の安固を図るとともに、模範的サトウキビ農業を行って地方農民を指導することとした。 この土地所有方針は、 創業以来一貫不動の社是 として今日に及び、現在所有土地面積は49,267甲(昭和14年6月現在)、面積33平方里余にして、ほぼ 和歌山県又は香川県の耕地面積に匹敵 する程の大を成すに至った。

 当時支配人として現地に於て悪戦苦闘した 山本第三代社長は、その頃を追懐して、「困難といえば総てが困難であった」と語られた が、まことに社業の遂行には一つとして困難の伴わないものはなかった。まず交通運輸不便のため、機械、建築材料の運搬など、今日においては到底想像も及ばぬ種々の障碍に遭遇したのである。

 すなわち、当時の高雄港は築港工事などは施されておらぬので、積荷は波浪高い港外2,3海里の処で沖取りするの外なく、汽車もまたわずかに高雄、台南間一日2往復あるに止まり、停車場の設けすら無い橋仔頭にて建築材料のごとき重量貨物を荷卸しするのは実に容易ならぬことであった。しかし、努力の苦心は報いられて、工場建設工事は意外に順調に運び、 明治34年11月には機械据付も完了 し、12月中実地的試運転を行い、翌3 5年1月15日にはめでたく操業を開始 し、ここに近代文化の産物たる大規模新式製糖工場が力強く運転されはじめたのである。

 当社社票 は社名の頭字TSを組合せ、同時に昇る旭日を象徴させたもので、まことに当社の使命抱負にふさわしく、当を得た着想であったと思われる。

 当時、使用した原料サトウキビは、付近農民の栽培した在来種を買収したのであって、収穫量、含糖分共に極めて少ない劣等品であるばかりでなく、農民は会社に原料サトウキビを供給したことがないため、とにかく受入れに円滑を欠き、ひいては工場の運転にも齟齬を来たす結果を招いた。その上社員及び職工を得ることも困難にて、せっかく苦心の末これを得ても、あいついで疫癘に冒され、昼夜継続作業の場合のごときは、交代して貰うにも代りの者も無く、やむを得ず不眠不休、連続勤務するの状態で、時としては製糖作業の継続が不能に陥らうとしたことさえあった。

 加うるに土匪の襲来したことも一再に止らなかった。これがため、工場の周囲には土壁をめぐらし、事務所の屋上には万一の場合に備えて大砲を据え付け得る設備を施し、屋上並びに階下廻廊には銃眼をうがち、一方、陸軍分遣隊の駐屯を請うとともに、社員職工中から選抜した100有余名の義勇団を常備しつつ製造に従事しなければならぬ有様で、その危険と困難とは全く言語に絶するものがあった。しかし、我が従業員はかかる苦境の中にこの危険を冒しながら、精励苦闘、よく操業を続け、もって今日の基礎を築いたのであった。

 操業方面は上述のごとくであったが、当時我が国の金融は一般に円滑を欠き、特に危険視せられていた台湾への金融のごときは、当社の事業に相当理解ある斯業者すら少なからず躊躇する状態とて、この方面でもまたひとかたならぬ苦心を要した。ちょうどこのころ三井銀行の営業部に居られた前大蔵大臣池田成彬氏は、当社の社債100万円募集に尽力することとなり、一流銀行の代表者に参集協議を求めたところ、その席上某銀行頭取のごときは、「いったいそんな会社はどこにあるのか」という始末で、募債は遂に成立しなかった。「一流の銀行家さえ、かかることを平気で言われる時代もあったものだ」と、同氏は、最近、武智現社長に述懐せられたが、この一事をもってしても当時の状況を察知し得るであろう。また、火災保険会社のごとくも、当社の工場に保険を付けることを極力回避する状態にて、今にして思えば全く夢物語に類するものである。しかし、かかる事情であったにもかかわらず、株金は常に遅滞なく払い込まれ、予定の事業はなんらの支障なく着々進捗した。当社がかく後顧の憂いなく企画経営にまい進し得たことは、株主各位の理解と、熱心なる後援とによるものにて、このうるわしくも円満なる関係は、以来今日に至るまで毫(ごう)も変ることなく、実業界広しといえどもかかる類例は容易にこれを他に求め難いであろう。

 製品の販売もまた困難であったが、幸い糖商は最初から好意をもって尽力し、明治35年9月には三井物産合名会社と製品一手販売(内地全部)契約を結び、今日のごとき確実な販売方策の端緒が開かれたのである。

 かくして事業は年月と共に確固たる発展の途をたどり、創立当初250英トンの工場能力は、わすか5年後の明治38-39年度には既に650英トンとなり、さきに世人から危惧の眼をもって観られた当初の事業、ひいては台湾糖業に対する懸念も雲散霧消し、前途有望なことを認識せしめ得るに至った。

     5 第1回増資(12-14頁)

 ここにおいて当社はますます社業の刷新発展のため、海外糖業地の状況を研究して参考に資すべく、日露戦役のいまだ終らぬ明治38年、常務取締役山本悌二郎氏並びに農事製造に関する機、化、農の三技師をハワイに赴かしめ、つぶさに糖業を視察せしめ、大いに啓発せられるところがあった。以来農場、工場、運輸等各般の新施設に対して、この知識の応用せられたるものすこぶる多く、実にこのハワイ視察こそは、日露戦後の当社事業大拡張に有力なる準備となったものである。

 以上のごとく社業の前途に対して十分な見極めがついたので、従来の橋仔頭工場に隣接して、ハワイ式による第2工場(能力400米トン)を併設すると共に、原料製品等の運搬のため蒸気機関車による30インチ幅(ゲーヂ)専用鉄道を敷設し、なお副産物たる糖蜜を原料とするドイツ式酒精工場をも同地に設置することとした。また一方、後壁林には模範農場と1,000米トンの第3工場を建設する等のため、明治39年八月、資本金を500万円に増加し、ここに画期的一大躍進を見ることとなった。

 橋仔頭第2工場は、明治39年8月、建設準備に着手し、翌40年末には早くも鉄骨建築、四重圧搾、四重蒸発缶の設備を有し、内容外観共に台湾における最新式工場の先駆をなす工場を完成して、ただちに作業を開始した。

 酒精工場は、明治40年5月建設に着手し、同41年4月操業を開始した。これまた台湾において糖蜜を原料とする酒精工場の嚆矢となったものである。

 橋仔頭の専用鉄道は、機関車、貨車の外に電話線をも備えたもので、明治40年11月完成した。これが当社専用鉄道の濫觴であり、同時に台湾における30インチ幅(ゲーヂ)専用鉄道の初めのもので、牛車、台車等にのみよっていた従来のサトウキビ輸送方法に比し、全く画期的のものであった。

 当社においては創業開始当時すでに橋仔頭に自営農場を設けたが、明治40年には更に鳳山庁下後壁林に模範大農場を開設し、大農式経営に適するよう耕地の区画整理を施し、我が国最初の試みとして蒸気スキを用ひて深耕を行い、すこぶる良好な成績を挙げた。後壁林農場は、今日でも国内に類例を見ぬほどの大農場にて、経営はますます合理化され、農学とその実際方面とに寄与するところ大なるものがある。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2025.11.15 05:00:07


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: