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2025.11.15
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

普勧坐禅儀抄話その4

 さて、祇園の生知というのは、祇園精舎で説法されたお釈迦様ということである。生知とは論語の中に「生まれながらにして之を知る」とあって、その下につづく端座六年の蹤跡云々は、大聖人のお釈迦様が端座六年なさった跡を見ろ、ということである。
 少林の心印を伝うる、面壁九歳の声明尚聞ゆ
 少林というのはシナの少林寺、すなわち達磨さんのことである。達磨という人はインド南天竺の香至(こうし)至王という人の三番目の息子で、伝えるところによれば、もはや八歳で道を得ておったという。それが二十一歳でお父上がなくなり、それから出家して般若多羅という人について五、六十年の修行をした。むかしの人は根気がよい、そんな偉い人が師匠について五、六十年も修行する。さらにそれから師匠がなくなってから、五、六十年間インドで布教しているのだから、シナに渡った時分には百二、三十歳にはなっておる。そうして梁の武帝に会見した。つまり、揚子江を海からのぼったのである。そのころだったら、中央アジアを通ってくるのがふつうであるが、達磨は無風帯の海を通って揚子江をさのぼってやってきた。南京に雨華台というところがあるが、そこには梁の武帝が道の構義をしたら華が降ったというので、あの金魚鉢の中に入れる赤い石やら青い石やらいろいろな石をたくさん持って来て、雨華台に降った華が石になったのだといっている。いまでも南京では女子供がよく見にゆくが、つまりあの付近に都があったのである。そこで梁の武帝と達磨とが会見したのが『碧巌録』の第一則になり「廓然無聖(かくねんむしょう)」という則があらわされている。そうして達磨は梁の武帝と意見が合わず、ついに揚子江を渡って少林寺にいった。その時分にはシナが二つに割れて、梁の武帝と魏の国の対立があった。それで達磨さんは、魏の国にいたって面壁九年、九年間坐った。しかし達磨さんは悟るために坐ったのではない。そうすると、何のためにかいうことが、非常な問題である。
「面壁九歳の声名尚聞ゆ」達磨さんが面壁九年したのは悟るためのものではない。もう百二、三十になって、えらい爺さんになっていてもそうだった。そうなれば悟るということが、じつは当たり前のことであったのである。(『禅談』p.313-314)





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最終更新日  2025.11.15 05:10:04
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