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「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著243ページ
明治39年3月31日に、藤三郎は福川泉吾と協力して、郷里の静岡県周智郡森町に私立周智農林学校を創立した。これは、昭和28年4月に静岡県立周智農林高等学校(2010年静岡県立遠江総合高等学校)となった。
※「特殊なる私立周智農林学校」(漢字をひらかな化するなど読みやすくした)より抜粋
私立周智農林学校
鈴木藤三郎 氏
経営当事者 福川 忠平 氏
私立周智農林学校
明治42年3月刊行
標題
目次
第壱章 本校創設と推譲 1
第弐章 福川鈴木両大人 6
其一 福川大人 6
其二 鈴木大人 15
第参章 本校の特色 31
第四章 本校特設事項 36
其一 社会科 37
其二 学生図書文庫 39
其三 時価一覧表掲示 45
第五章 本校の教授訓練 49
第六章 本年度特殊記事 62
第七章 稲作試験成績 76
第八章 本校沿革関係者及設備等 82
第九章 本校と地方との関係 94
第拾章 本校卒業生及在学生 99
附録 研究調査 103
其一 蚕体内物質分解に関する研究 103
其二 梨赤星病に関する調査 111
其三 蒟蒻芋の栽培 118
其四 田楽農事考 129
其五 田鼠考 136
序
家厳老後の記念として、さきに鈴木氏とはかりて共に本校を創設す。教育事業の困難にして、しかもその効果の遅々たるのは予め期する所なりしが、幸いにして地方有志の甚大なる助力を受け、かつまた職員おのおのその人を得て、校務日に挙がり月に進み、今や第一期の卒業生を出さむとするに当たり、先ず学事報告の編成れるを告ぐ。
創設年を閲(け)みする僅かに三百里の行程漸く半歩を進めたるのみ。今後なおますます努力してこれが完成を図り、以て創設当初の所期に沿わんと欲す。もしそれこの些々たる一小事が、誤って国家富強の動機を成すの一助ともなるあらば、洵(まこと)に望外の幸いというべき也。
明治己酉歳(42年)3月
於東京品川寓居
福 川 忠 平
自序
予乏を本校々長に亨(う)け、福川鈴木両大人(うし)の懇切なる指導と、地方有志の深厚なる同情と、かつまた熱心なる職員各位の補佐とにより、幸にその職責を全うすることを得て、今や第一回の卒業生を出し、同時に学事報告の刊行を見るに至れるは、深く感荷(かんか:恩を深く感ずること)に堪えざる所也。
想うに、本校は特殊の動機によりて創設せられたる特殊の実業学校にして、現時他にその類を見ざる所、しかしてかかる美挙は、将来各地において続々出現すべく、またまさに興らざるべからず事に属し、したがって本校の経営に関しては、その責任更に一層重かつ大なる責を覚ゆ。
近くは、備中倉敷の素封家大原孫三郎氏、巨万の財をなげうって、地方公共の為、農学校の経営を企画せりと聞き、予は氏に致すに、大要下のごとき意を以てせり。
前略、兼て倉敷日曜講演と題せる冊子により、また内務省地方局編纂の「田園都市」により、常に地方公共の為御尽瘁の段つぶさに拝承、深くその篤志に敬意を払いおり候処、去る1月15日発行大阪朝日新聞において、今回更にまた私立大原農学校設立の御企画あるやに承知つかまつり候。小生目下主宰に係る私立周智農林学校は、福川泉吾、鈴木藤三郎両氏が推譲の一端として、地方公共の為設立せられたるものにして、このたび御企画の大原農学校とその性質を等しうせるものにこれ有り候。
農学校の私立経営は、今日世に類例少なく、従ってその方法手段等につきては、多大の注意としかも多くの忍耐とを要すべく、不幸その手段を誤り、万失敗に帰することもあらんには、将来まさに各地に興らざるべからざるのこれらの美挙に対して、甚だしき影響を及ぼすべきかとひそかに愚考まかりあり候。されば小生が今日までに得たる経験におり、相感じ候2,3の事項を記して、この際御参考の資料に供するは、あながち礼を失うの挙にあらざるべく、かつまたかかる学校に在職せる者の、まさに致すべき責任とも思はれ申し候。
まず第一に、農学校経営のごときは極めて地味なる事柄にして、これを他の公共事業に比すれば、毫もハデハデしき所なく、時にあるいはその要不要をさえ感ぜらるゝ事なきにしもあらず候。けだし農業教育は、その効果永遠に、しかも隠約の間に収めらるべき者にして、他の事業とはおのずからその性質を異にせるやに考へられ候。もし次に、農学校は、一方においてはその地方の農事試験場たらんことを要し、かつまた卒業生の指導に全力を注ぎ、学校を中心としたる、特殊なる農会の経営を必要と致すべく候。もし思ひ茲(ここ)に到らずして事を興しなば、あるいは後に至りて失望の嘆なきあたわざるべく候。かくのごときは万々御承知の儀とは存じ候えども、婆心逸し難く、まず第一に相数え申し候。
第二には、生徒募集の案外容易ならざる義にこれ有り候。農家として農業教育の必要なるは素(もと)より論を俟(ま)たざるも、農家父兄の多くは、識者の相感じ候ほど切にその必要を認めず、かつまた学校の性質を充分に了解せざる等の為、設立の当初に在りては少なからず困難を相覚え申し候。
第三には、在学生中、退学者の比較的多きことにこれ有り候。こは「金を掛けて学校などへ出すよりも家の仕事を手伝わす方が利益」という目前の勘定より来たれるもの最も多きよう思われ候。
第四には、世人時として農業教育に対して、正当なる解釈を欠き、あるいは過大の希望を繋ぎ、あるいは不可能の要求を成し、その結果往々非難の声を放つ者なきにしもあらず候。
第五には、私立学校においてはとにかく職員を得るに困難を感じ申し候。こは恩給その他の関係もこれ有るべく、かつ又単に私立といえる名称の解釈の仕様によりては、県立郡立等に比して、人を惹くべく余りに花やかならぬにも基因致すべきかと存じられ候。
その他挙げ来たらば多々これあらんも、大体右に記せる数項は、創立者においても、また経営者たる校長においても、予め充分注意しかつ覚悟しおらざるべからざる点かと愚考つかまつり候。
次に私立として他にまさりたるは、無用の虚飾形式を避けて、自由にしかも実際的なる教育を施し得ることにて、こはことに私立農学校において特筆大書すべき点にござ候べし。
次に農学校は、一方においてはその地方の農事試験場たらんことを要し、かつまた卒業生の指導に全力を注ぎ、学校を中心としたる、特殊なる農会の経営を必要と致すべく候。
もしそれ創立者と学校職員との関係は、同情と感謝との交換を以て終始すべく、その間毫も他の混じ入るを免さず。従って職員其人の人選は殊に注意を要すべく候。
右に対して、農学士近藤万次郎氏は特に大原氏の依嘱を受け、去る2月15日来校の上、本校経営上の実際につきて周密なる調査を遂げられたり。想うに大原農学校の創立を了して、世に類を同じうせる2箇の私設農学校を見るもまた遠きにあらざるべし。
本校第1回報告を刊行するに当り、大原農学校の創設を世に紹介し得たるは、深く歓喜に堪へざる所也。予は更に第二回報告刊行に際して、また新らしき私立農学校の創設を紹介し得るの光栄あらむ事を期す。
明治42年3月
静岡県私立周智農林学校長 山崎徳吉
飛鳥川、岸辺の早苗とりどりの、袖も緑の景色かな、山ほととぎす声添へて、うたふ田歌もなほ繁し。種蒔きし、其神の代ぞ久方の天の村早稲種継ぎて、いま人の世の末までも、恵の国は治まりて、我等如きの民までも、地儀おかまへは豊なり。然れば神と君が代の、広き御影のありがたさよ
謡曲飛鳥川
凡 例
一、本書はそう卒(そうそつ=にわか)の際編纂せる故に、緊要なる事項にして、編を逸したるもの二三に止まらず。ことに福川鈴木両大人(うし)の事績に関しては誤謬遺脱の多からむことを恐る。これらは更に次回報告において補う所あるべし。
一、本書表題の文字は、特に宮中御歌所寄人大口鯛二氏の筆を乞い、表紙の意匠は画伯島守寒光氏を煩したり。
一、本書の印刷につきては、東京の友人婦女新聞社長福島四郎氏の厚意に負う所甚だ多し。特に記して感謝の意を表す。
一、口絵卒業生写真、向つて右より一番田邊定、二番高木徳章、三番牧野泰一、四番福川忠平氏、五番山崎校長、六番北原丈衛、七番実石教員、上部に挿入せるは校医久永順治氏也。
一、農会役員写真、向って前列右より一番気田村農会長村長高木松三郎氏、二番郡農会副会長田邊三郎太氏、三番郡農会長増田小三郎氏、四番城西村農会長村長金原作次郎氏、五番郡農会幹事村松猪太郎氏、中列右より一番天方村農会長奥宮久七郎氏、二番熊切村農会代表者山口太郎馬氏、園田村農会長本田常太郎氏、山梨町農会長町長幡鎌馭三郎氏、宇刈村農会代表者鈴木勝三郎氏、郡農会職員一木藤太郎氏、後列右より一番奥山村農会長村長熊谷儀六氏、二番一宮村農会長村長鈴村松次郎氏、三番郡農会職員友田重吉氏也。
江戸葛飾のほとりに、権兵衛という村長があった。私のもとに来てお願いしたい事がありますと言う。どのような事かと問うと、何年か前の春に伊勢で恥をかいたことがあったので、茶の湯を教えていただきたいと、こういうことがあったと語り、今でも忘れられないほど恥ずかしく口惜しく思っていると言う。私は、大笑いして、あなたも日頃に似合わない不見識なことを言われるものだ。農夫は農家に人となって、農業の事にさえ詳しければ恥ずかしい事など何もない。茶はもともとは隠遁した人の手すさみで、その道の日用に足りるといっても、農夫や町人などのすべき事ではない。世を遁れた隠居などはともかく、村長であるあなたがもし茶を学べば、一村皆これに習って、農業に励むべき時に怠るならば、田畑はことごとく不作となるであろう。村長が茶道を知らないからこそ耕したり草を刈ったり収穫するに時機を違わない。国中で百人耕して五十の遊民があれば、その国は必ず飢えるであろう。百人耕して十人遊んでいるぐらいならば、その国は果して豊かであろうと言うと、権兵衛は感銘しましたといって、茶の湯を習う心を思い止まった。(「雲萍雑誌(うんぴょうざっし)」より)
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.19
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.18
補註 「鈴木藤三郎伝」鈴木五郎著 その… 2025.11.17