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皆さま、こんばんわ・お久しぶりです。今ごろお礼を申し上げるのもなんですが、地震の折にもお見舞いを頂戴しましたのにご無礼を致し申し訳ありませんでした。私にとっての大転換期があり、ご報告をと思いつつやっとパソコンに向かう余裕が出来ました.実はこの9月に北九州は小倉の繁華街のど真ん中に”なでしこ 小倉店”を出店する事になったのです。前々から今の田舎でやっているのはもったいないという小倉の繁華街の2,3のお知り合いからお誘いはあったのですが私に全然その気もなく聞き流していたのです。が今年はなぜかふとやってみようかなという気になったのです。12年に一度の好運勢だとかで出会う方、出会う方・・・・新しい出会いも昔からの知人も・・・なぜか追い風のような・・ひとつの方向に向かっている情報や応援と言う形でどんどん話がまとまっていって気がついたらばここまできていました。皆さんが段取りをしてくださり、それに乗っかってきたという感じです。昨日8月5日は (有限会社 なでしこ)の設立日となりました。二年半自宅でやってきたことでいろんな勉強をさせてもらったので不安はありません。むしろいろんなアイデアで創作商品を開発したのに10万都市での手応えだけでは物足りなくなって来ていたのも事実です。北九州に出ておいでというお誘いで、考えてみると知人、友人、サークルのお友達親戚、いろんな知り合いが北九州にはいました。従兄の娘を、なでしこ2世に育ててみようと言う決心もしました。私とはまた違った感性を持つこの娘はわたしのベストパートナーとなりそうです。こちらのお店は当初一旦閉めようと思いましたが周に一日でも良いから決まった日に営業をして欲しいというお客様の要望もありギャラリー なでしこ 宗像店として残す事にしました。4,5年、小倉で羽ばたいてみて、軌道に乗れば娘に任せてまた戻って来るまで看板は下ろさないことにしました。ここ2年半やって来た展開で小倉の方も二年は行けそうなのですでに彼女と二人で二年先の展開の準備も始めています・もうけるという事もビジネスとして一番大事でしょうが一度、事業の面白さと、自分たちの考えていくオリジナルの商品が何処までお客様に伝わるかと言う喜びも味わいたい。するとやはり周辺を含めると200万都市の方が手応えは大きいわけで・・・ワクワクします。まずは商店街のお知り会いの方たちの応援がすごくありがたいですしだからこそ不安がありません。もし駄目だったら帰ってくるお店があるのが強みです。今のお店にまずは先に新しい商品を並べ、感触をみて小倉店に並べるつもりです。地元のお客様はやはり大切にしておかねば。。9月初旬のオープンに向けてまた、進行具合をご報告、また画像が乗せられるようでしたら紹介しますね。ということで本日の報告はこれまでです。ではまた。。
2005年08月05日
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ジョン.ヒューストン監督の作品で好きな作品はというと”マルタの鷹”、”アフリカの女王”を上げる人が多いが、私は迷わずに”黄金”をあげる。1948年の製作作品であるが、ハンフリー・ボガードが珍しく、疑心暗鬼な心の弱い悪を演じている。ボガードのボガードらしくない作品として過去に紹介した”ケイン号の叛乱”というのがありましたが、それに劣らず彼が悪のいい味を出しています。なぜこの作品が好きか??金鉱掘りで一山あてて一攫千金を夢見るという単純なドラマの中にフランスのアンリ・ジョリュジュ・クルーゾー監督の”恐怖の報酬”にも似たスリル感、それと何よりもヒューストン描く、非情なまでの人間の醜さと、おおらかさは何よりも幸を運んでくれるというその対比を密度濃く描いているからです。アカデミーの監督賞、脚本賞を獲得したことも頷けるヒューストンの分りやすく丁寧でそれでいて古さをちっとも感じさせない力量のすばらしさ。メキシコのある町から金鉱が舞台であるが、同じメキシコが舞台の西部劇の”荒野の七人”よりもずっと楽しめる娯楽作品であり、ヒューマンドラマでもある。1950年代というのはある年など年間に200本近いアメリカ映画が封切られるようになるのであるが、その他ヨーロッパ作品を見ても下のように日本公開が1949年という”黄金”が上映された年に”戦火のかなた”、”ハムレット”、”大いなる幻影”、”裸の町”、”恐るべき親たち”、”仔鹿物語”、”聖処女”、”ミニヴァー夫人”、”狂恋”、”平和に生きる”といった何かにつけ映画史に残るような名画が目白押しだったんですよね。映画は時価のものという見方もあるように、リアルタイムでないとという方もあるようですがみんながみんなリアルタイムで見られるものでもない。今、ビデオやDVDというものが出来て本当にありがたい。新作は劇場で、旧名作はビデオやDVDで鑑賞できるのだから。当時に世界情勢や社会情勢の中で見るから古い名作も生きてくる・・・だから年数が経って、二度以上観るのはイヤだという方もあるでしょうが、旧作も何度も何度も見て噛み砕く事をわたしは好みます。さて、この”黄金”にはボガードの他にジョン.ヒューストンの父君で名優と言われたウオルター・ヒューストンが若きトム・ホルトと共に共演しています。で、ウオルターはこの”黄金”で、アカデミー助演男優賞を獲得。親子一緒にオスカーを掴んだんですよ。ウオルターといえばサイレンと時代から活躍している役者ですがトーキーになってからのウイリアム・ワイラー監督の傑作作品、”孔雀夫人”というのに出演しているのを見ましたが、とてもいい味を出しています。もちろん、”マルタの鷹”にも出ていますよ。逆に、”黄金”では息子のジョンが誰かさんのように通りすがりのアメリカ人の役でちょっと顔を出しています。ジョンもイタリアのデシーカのように役者としてもいい味を出す人で結構いろんな作品にでていますね。前にも書きましたが、最近では、”チャイナタウン”のフェイの父親役で出ておりましたね。そろそろ”黄金”について語りましょう。とにかく、ボギー、ウオルター、トムの3人が出会うところから金鉱へ向かう流れがとても上手いし、引き込まれていく。 あらすじメキシコはタンピコという町でアメリカから流れて来てポケットに2ドル50セントしか残っていないというドブス(ボガード)は同じような境遇でここにいるカーティン(トム.ホルト)と老人・・・じいさんと呼ぶ(ウオルター・ヒューストン)と知り合う。ここで人夫をやって稼いだ賃金を男に騙し取られたもののまだ彼奴をやっつける力は残っていてなんとか300ペソを取り返した。食べるものもろくに食べていないドブスとカーティンがインチキ労務者監督をやっつける場面は妙にリアリティがあって笑える。宝くじを買ったドブスは200ペソを手に入れた。爺さんの貯金と併せて何とか600ドルになった金を金鉱へ向かう準備金とした。爺さんは過去にも鉱山へ入った事があるので道、場所、見分け方など詳しい。まあここで出かけるまでにそれぞれの人物像がすこし分る仕組みでこの先どんな事があるのか想像を掻き立てられるのが面白いのだ。本物の金鉱を見つけられるまでに、一番に音を上げたドブス。掘って掘って掘りまくる。そろそろ三人の人生観をあらわすような会話、動きが、頻繁に出て来るんですね。山に出かける前にじいさんが言った言葉・・・”黄金は人間を変える。仮に金が見つかっても限度を知らない者が出ると困った事になる”と言った。するとドブスは”見つけた人間による”と吐いた。毎日、掘った金を計りにかけるが最後に3等分するか、それとも毎日3等分してそれぞれが保管するか・・・?カーティンは元々おっとりしているので最後で良いと言う。彼はじいさんは信用しているがドブスを信用していない。ドブスは段々と本性をあらわしてとにかく、二人を疑う事しか知らない。寝ている間に持ち逃げしはしないか?気になって仕方なく言葉もあらわに二人に雑言を浴びせだした。元々ドブスが”見つけた人間による”と言ったのにそれを忘れ、”金が人を変えてしまう”その人自身になっていっているのである。もう一生遊んで暮らせるだけの金は手に入れたから帰ろうという老人の言葉に耳も貸さず、もう少し、もう倍は掘ると言う。毎日3等分してそれぞれがテントの近くに隠しているのだが夜になり、老人が外に出ると気になるドブスは確かめに行く・ドブスを信用していないからカーティンもまたでてゆく。じいさんは”三人がこれを繰り返したら朝になっちまう、寝ろ!!”と言うシーンがなんとも笑ってしまう。だが彼等には笑い事ではないのデス。老人はカーティンにお金に変えたら何に使うかと訪ねた。彼は幼い頃母たちに混じって桃の栽培を手伝った。果樹園でもやりたいなあと漏らした。じいさんは、老い先長くもないし、のんびり暮らすさ”それを聞いたドブスがまず、町で床屋に行って、それから洋服を一ダース買って、それから女を見つけて・・・・と言い出した・町に食糧を買いに山を降りるときも一悶着。ドブスがすんなりと事を運ばせなくてわざわざトラブルを起こすのだ。町で、カーティンが測量などを買い込みに行っていて、甘いところを吸いたいと彼に同行しようとする男と出合ってしつこく食い下がられるが何とか断った。しかししっかりと尾行された。だが、彼も根っからの悪でもなく、メキシコ人の山賊がちょうど襲ってきて彼の死で三人は助けられた。彼の持ち物には妻からの手紙があった。ダラスで果樹園をやっているがこの男は一山あてようとここにやってきたらしく、ご無事で帰ってくださいと書いてあった。いよいよ砂金を皮袋に詰め、ロバ二頭づつにくくりつけ町へ帰ろうとするときにメキシコインディアンが現れ子供が川でおぼれたので助けて欲しいと言う。息もしていない・動かない・でも死んではいない・・ともかく老人が行く事になった。無事に子供を助けた爺さんは帰ってきたが翌朝、またインデイアンがやってきて一週間で良いから歓待するのであなただけ来て欲しいと言う。ドブスが難色を示したからだ。わしの荷は預けるから町迄持っていってくれと頼み、歓待を受けに向かった・こんな旨い話をドブスがほっておくわけがない。カーテインに爺さんの金も頂こうと言い出した。もちろんカートは断った。ドブスは拳銃で彼を二度も撃った・ドブスは本当は肝が小さい。カートの死体をもう一度見に行くか行かないか自問し、うろうろ・・・結局朝まで行かなかった。すると死体が無くなっていた。ハゲ鷹も来ていないのに何故??6頭のロバを引き連れ道に迷い、水も無くよろよろと歩いてとうとうあの山賊に又出くわしてしまった。じいさんはまるで天国にでもいるような気分だ。ハンモックに寝て、若い美人に手取り足取り飲めよ食べよの歓待なのだ。そこに傷を負ったカーテインが助けられてきた。とにかく町へ降りてみようと手当ての後、二人は馬で向かった。一方、ドブスは山賊にロバを渡せと迫られていた。積んでいるのは毛皮らしいと仲間内でぼそぼそ。歯向かったドブスだが疲れ果てて抵抗も出来ない。とうとう、殺されてしまった。山賊はロバの背中の皮袋は全部切り落としてロバだけを持って町へ向かった。彼等に砂金の価値などネコに小判だから。町でロバを売ろうとしたがロバには焼印があったために盗んだものとすぐに判明。彼等は捕えられた。そこにやってきた爺さんとカート。事情を聞いてロバの背中を見たが皮袋は見当たらない。現地へと急いだ。だが猛烈な砂嵐・・・着いてみたがそこにはカラの皮袋が散らばっていただけだった。砂金は砂嵐に飛ばされてしまったのだった。じいさんは大声で笑い出した。命が残っただけでも拾い物だと言わんばかりに笑って、元び戻っただけさと。・・・吊られてカートも笑い出した。爺さんは山のインディアンの所へ戻ると言う。あそこへ行けばわしは神様だ。何の苦労も無しで暮らせるさと。カーティンにロバを売ったお金でダラスまでの切符を買え、そしてあの夫人に遺品を届けてやれ!ダラスには果樹園が待っているぞ!。”決まった”と笑って二人は別れたのだった。マルタの鷹やキーラーゴに見るハードボイルドタッチがお得意のヒューストンだが、”黄金”は醜さの裏返しにじいさんのおおらかで人生を達観していながら若者の行動に身を投じてまた人間を凝視している。アフリカの女王で見られるヒューストンの優しさユーモアは随所で見られ、悪玉のドブスことボギーだけにはこのユーモアは通じないと言う設定。じいさんが現世の物欲を越えて、インデイアンの元に身を寄せるというラストが善意の人間の力強さとなって心地よさを私に与えてくれた。それにしてもボギーと組んでの一連の作品は余程相性がいいのか素晴らしい作品が多いですね。ドブスが町でアメリカ人を見つけては”同国のよしみでちょっと金を融通してくれ”と声をかけるシーンがある。その金で毎日を食いつなぐわけですが、このアメリカ人が言う。”昨日も一昨日も俺に声をかけたな、俺ばかり狙わないでくれ”と言うがこのアメリカ人をジョン.ヒューストンが演じています。そして、ドブス=ボギーの答えが振るっている・”すまん、お金と手しか見ていなかったので同じ人だと思わなかったぜ”。
2005年03月03日
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早いものでドロンチャンが我が家に来て一年経ちました。運動の甲斐あってかたくましく育ちました。性格はおっとりと優しい性格になりました。甘えん坊はいまだ直らずです。私の行くところついて離れません。可愛くて可愛くて、この子のいない生活はもう考えられません。ちなみに ↓ この写真は我が家に来た時のもの。 随分と変ったでしょう!!
2005年03月01日
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ジョン.フォード監督作品は西部劇だけではなく、アイルランドを舞台にした名作、”静かなる男”など大好きな現代劇作品があります。どの監督でもそうでしょうが、いつも決まって出演する俳優…フォード組とでも言いましょうか、例えばワード・ポンドなど殆どのフォード作品に出演していますね。アイリッシュ気質を描いた3部作、”我が谷は緑なりき”は、すでに紹介済みですが、”静かなる男”も書きたいなと思っています。そして今夜紹介する作品はアメリカはウエストポイントを舞台にしたものですが、アイリッシュ気質を丁寧に描いた”長い灰色の線”です。タイロン・パワー主演、お相手はフォード組常連のモーリン.オハラ。どうしても静かなる男のイメージからして、ジョン.ウエインのほうが良かった?かなと思ったのですが、いやいやこの主人公はタイロンで正解でした。タイロン.パワーという男優はギリシャ彫刻のような美男子ですが、容姿はというと意外にずんぐりむっくりなんですよね。一本気で失敗ばかりする三枚目はタイロンにぴったりの役どころだったんです。ウエストポイントの陸軍士官学校で陸軍士官を養成する仕事に一生を捧げたマーティー・マーの実話を元に描いた作品。マッカーサー元帥やアイゼンハワー元大統領を送り出したウエストポイント。タイロン扮するマーティーは一本気で屁理屈も時々こねるが、生徒と同じ目線、姿勢で彼等に接するので生徒からとても愛される。この学校に50年勤務する中でのエピソードを温かく、ユーモラスに描いています。二枚目俳優が三枚目を演っているので非常に新鮮なのです。若いうちは失敗ばかりを繰り返し、生徒たちに助けられる事も多いが中年期にさしかかって、教え子が戦場で死に直面してぐらつきそうになる、そして老人となってリタイヤする充足感までを骨太に演じきっている。生徒たちと一緒にマーティも成長してゆく過程が見ていて心地よい。アイルランド移民の両親を持つフォード監督はマーティの父親にしっかりとしたアイルランド気質を演じさせている。決してスマートではないタイロンの魅力。端正な顔形よりも誠実な部分を膨らませることは、単にアメリカの正義を訴えているものではなく、明るさと、ユーモアとどこか人を包み込む人柄の素直さをのびのびと描き、従来のタイロンにない魅力を醸し出しているのである。モーリン.オハラはいつものようにはにかみ屋で頑固、一途、そしてかしこい女性を明るく頼もしく演じている。なでしこ流に申しますとモーリン・オハラって日本では巴御前のタイプ・・・とっても好きですね。生まれて来たタイロンとモーリンの息子は誕生してすぐに死んでしまうが、その地に留まる辛さで去ることよりも彼等の教え子を我が子たちとしてそこで育てる事を選ぶ。そしてそれぞれが旅立ち、戦場に赴き、生き残って二世を誕生させたものはみんな息子を送り込んできた。その子達の癖や言動が一世にそっくりなこともタイロン・マーティ夫妻にとっては嬉しい。タイロンは1914年に誕生して1932年のデビュー・1958年、44歳で亡くなっている。戦前の作品では、”シカゴ”と”血と砂”くらいしか知りませんがアクションで活躍したよう。戦後、40歳という中年になってからは、彼の甘いだけではないきびきびとした魅力が花咲く。もちろん戦前も人気は圧倒的だったのでしょうが。1954年、”長い灰色の線”の後、1955年に”愛情物語”1957年に”日はまた昇る”1958年に”情婦”と駆け抜け1958年に心臓発作で亡くなったのである。わたくしはどちらかといえばあまり好きとはいえないタイプの俳優さんですが、この”長い灰色の線”という作品の彼は好きですね。ジョン・フォードの作品で珍しく宗教色の濃い、”逃亡者”というヘンリー・フォンダ主演の作品があります。西部劇のフォードも大好きですが、アイルランド気質を描いた”静かなる男”は又大好きな作品です。故郷はだれにとってもすばらしいもの。フォードにとっても両親の故郷は格別のものなのでしょうね。イギリスに占領されてからのアイルランドはカトリック教とプロテスタント教の戦いの歴史ですが、国旗の色は緑と白とオレンジの三色。緑はカトリック、オレンジはプロテスタントを表し、白はその中立、両方を表すものなのだそうです。アイルランドの肥沃な土地は頑固でも、その人柄も肥沃なのでしょう。あのキレイなキレイな緑に包まれた景色の”静かなる男”は愛すべき頑固者たちの物語を温かく包み込んでいましたね。
2005年02月27日
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最近、映画”ロッキー”no.1からno.5までを初めて鑑賞した。で、1956年度のロバート・ワイズ監督の作品”傷だらけの栄光”を思い出し、取上げる事にした。二人のロッキーである。その前に、ポール.ニューマン主演のこの”傷だらけの栄光”・・・・私の映画日記によると昭和44年、テレビの日曜映画劇場で初めて観ているようでその感想文にはアメリカ映画というのは雨のシーンを実に上手く使うと記している。そして、”雨の朝パリに死す”(なでしこでは紹介済み)とカークダグラス主演、ウイリアム・ワイラー監督の”探偵物語”と比較して書いてあった。読んでみると、最近見ての感想が違う角度で捉えていたなあと感慨深かった。その雨のシーンは古い感想文を読むまでもなくずーっと覚えていたので傷だらけ・・・イコール雨!!という記憶であった。あの頃はワイラーもワイズも全盛期の時代だった。ポール.ニューマンはわたくしの好きな男優の5本の指に入る人であります。さて、二人のロッキーですが、見たり聞いたりしたわけではありませんのであくまでも想像ですがスターローンはニューマンロッキーからこの名を取ったのかなあと思います。二人のロッキーを語る前に”傷だらけの栄光”のあらすじを・・・・ロッキー・・・ニューマンノーマ・・・・ピア・アンジェリスラム街のイタリア移民の青年、ロッキーは不良というよりも手のつけられない暴れん坊といったほうがいいかもしれない・つまり、善悪の判断が出来ず、やり場のないエネルギーや貧困に対するもやもやとした得体の知れない熱いものが暴力や盗みといった行動にでてしまう。大人たちの説教や戒めは理解できず、自分の法則でしか判断できない。不良のように計画的に大人を困らせようと思ったり、ずるがしこく悪さをするのではない。気がつくと人を殴ってしまっていたり物を盗んでしまったり、自分で自分を押さえられず自分を持て余している。そんな彼を本気で心配しているのは母親くらいのもの。その母親ももう、彼を見捨てようとさえ思っている。留置場や刑務所は出たり入ったり。入隊させられた軍隊を刑務所と同じように思って規律など彼には通用しない有様。そんな常識が彼には備わっていなかった。軍を脱走した彼はまた町に戻ってくるが母親にお金を渡したくてボクシングジムで喧嘩をするように相手を倒し、10ドルをもらう。しかし軍からオムカエが、いずれ来るのが分っているから偽名を使い、小遣い稼ぎをした。相手を倒すのは彼にとってボクシングではなく、町で喧嘩をするのと同じだった。軍に帰ると、また作業途中で喧嘩。ボクシング部隊というのがあって、いいミドル級が見つかったとある中尉が引き抜こうとした。まずは独房へ・・・そこで彼を目覚めさせることになる人が待っていた。思うにこの物語をわたしはどうしても宮本武蔵とダブらせてしまうのね。だからこの人は武蔵にとっての沢庵和尚にあたるわけ。喧嘩がめっぽう強くても人生の第一歩がわからない人間に道を作ってあげる人。そしてシャバへ戻った彼は瞬く間に才能を発揮。ドンドン勝ち抜くわけ。ここに彼の父親が居るわけですが、いつも酒臭い息をした酔っ払いの寡黙な人。ロッキーは彼に優しい言葉をかけてもらった事がないんですね。それは彼もボクシングをやっていた。だけど行く先廃人になると思った妻、つまりロッキーの母親はボクシングを辞めさせた・不完全燃焼のままの父親はその結果、家族にとっても廃人同様になってしまった。妹が女友達をロッキーに紹介した。女性にはうぶなロッキーはノーマに恋した。ノーマと映画に行ってもラブシーンがつまらないと途中で映画館を出てしまう。ボクシングは嫌いとノーマは言う。”あなたの殴られる姿は見たくない”と。そこで練習を見に来いとノーマにロッキーは言った。その練習が可笑しいんです。ノーマが入ってくると急に踊るようなボクシングを始めたのだ。ニューマンがとっても可愛いんです。だが、トレーナーはノーマを連れ出しロッキーと付き合うのを止めた。ロッキーの過去やボクシングの辛さを全部話したのだ。どしゃぶりの雨の中ロッキーはノーマを探して87軒もの映画館を探したと言う。彼の熱意に打たれまあ、とにかく結婚までこぎつける。女の子にも恵まれ順調だった。ある時、チャンピオンゼールと対戦。負けそうになっている彼の試合をラジオで聞いていてノーマは居てもたってもいられない。結果はロッキーの敗北だった。試合の勝ち負けではなく、彼がいつ怪我をして立ち直れなくなるのではと母に言った。そのとき、母は彼女に答えた。”ロッキーにボクシングを止めろと言ったの?””彼にとってボクシングは人生のすべてです””では、あなたにとってもすべてのはずよ、私と同じ間違いを繰り返さないで”と・・・”わたしはミドル級と結婚したんですね”帰ってきたロッキーにノーマは”あのパンチは何よ”とけしかけた。ロッキーは”それですっきりしたぜ”と。”ゼールヲ倒すのよ!!”ゼールとの再試合に関して刑務所で一緒だった男が八百長を持ちかけてきた。受けなければロッキーの過去を新聞社に持ち込むというもの。窮地に立たされたロッキーは試合を降りた。彼の八百長は今までにも何度かあったようで警察も調べていた。面通しで、ロッキーはその男のことは知らぬ存ぜぬで通したが結局、ロッキーの過去は新聞に載ってしまった。そしてボクシング協会からライセンスを剥奪されてしまった。ニューヨーク州では試合は出来ない。シカゴでのゼールとの試合が持ち込まれたがロッキーはイヤだといった。自分を嫌っている町での試合などイヤだと。ノーマはトレーナーに言った。まっとうな世界に生きたいと三年間頑張ってきたのよ、戦意を失った彼を蘇らせて”。三人でシカゴへ行ったものの夜中にロッキーはひとりニューヨークへ帰った。行きつけの店でソーダー水を飲みながらマスターに言われた。”昔の仲間の五人のうち一人は刑務所、一人は殺され一人は逃走中に車の事故に一人は電気椅子・・・。ソーダー水を飲んだら金を払う事だ。”ロッキーは父に会いに行った。相変わらずの酒の匂い。オヤジはどうして自分の質問にいつも答えてくれない?何故ボクシングを止めた?ずーっと頭の中で闘うばかりで一生頭の中で闘うつもりか?俺は今家族のために闘っている。シカゴに居なくてどうしてこんなところに居ると何故言ってくれない?父は泣きながら、やつに勝ってくれ!とつぶやいた。ロッキーはにっこり”任せてくれ!とシカゴへ引き返すのだった。試合はロッキーのKO勝ち。父も、仲良しも店のマスターもそして軍で知り合ったあの人もみんなラジオを聴いていた。ニューヨークに凱旋したロッキーはパレードの花だった。”そうさ、somebody up there Likes me!”天の誰かが自分を好いていてくれるのさ!決して人生を投げ出してはいけない。家族愛、糟糠の妻、有り余るエネルギーも導き方でこんなにすばらしいファイトになる。そんな栄光でした。夫婦って同じ方向を見て歩まなくてはならない。決して向き合うものではないのね。スターロンロッキーのすばらしさはいつでも、決して自分を強いと過信してはいないところ。試合に勝ててもコミッショナーや妻や息子や神様が付いていてくれているからだと思っていますね。そしてとにかく人にやさしい。人の話をきちんと聞きますね。まっすぐな性格と粘り強さをロッキーファンは愛した。どちらもスポーツ選手の成功物語ではなく、人生の成功への道を歩んだという事ですね。5部にも及ぶあの長いドラマが人々を惹き付けた事がよく分りました。めぐり合う人々によって人生があんなに素晴らしいものになるというお手本みたいな作品ですね。そして、”傷だらけの栄光”のノーマ役のピア・アンジェリは清楚で美しい女優さんでしたが29歳の若さで自殺してしまったんですね。スターロンロッキーの原点をワイズのすばらしい演出でご覧になってください・ニューマンってほんとすてき!!そうそう、ニューマンのチンピラ仲間のひとりとしてスティーブ・マックイーンがデビューしていますよ。
2005年02月24日
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007シリーズの中に日本を舞台にした”007は二度死ぬ”という作品があったが、いまいち出来は感心しなかった。ハンフリーボガードのハードボイルドタッチのB級映画に、”東京ジョー”というのがある・戦後の日本を舞台にしたものだが、この作品のほうが娯楽作品としては楽しめる。日本映画としての戦後の東京は当たり前の事であるが郷愁もあって興味深い。がしかし、アメリカから見た東京が違和感なく描かれているのに驚いた。この作品はボギーの作品歴にはあまり登場しないのでご存知ない方も多いと思う。偶然知って鑑賞したので紹介することにしました。”戦場にかける橋”に出演していた早川雪州が悪役で登場しているのも興味深いですよ。作品、”カサブランカ”を思わせる恋人との再会、執着など男女のロマンスも絡ませ、多良尾伴内が登場する、”七つの顔の男だぜ”張りの東映映画っぽい粗さも目立つが、全体としては我々世代には楽しめるのではないでしょうか。監督はスチュアート.ヘイスラーとかいう人で私は初めて知りました。ジョー.バレッタ....ハンフリー.ボガード木村男爵........早川雪州あらすじ太平洋戦争前、銀座でキャバレー「東京ジョー」を親友の日本人、伊藤と経営していたジョー・バレッタは七年ぶりに日本を訪れた。七年前、戦争が勃発してアメリカへ帰り、従軍していたのだった。日本はまだ、GHQの支配下である。米空軍基地に降り立ったジョーは東京に入るのが米軍を脱走するより難しいななどとジョークを飛ばすほど面倒だった。ジョーはなぜか、米軍にマークされているようで彼の通過する審査の後、逐一米軍のダークレン大佐に報告されていた。キャバレー「東京ジョー」はもはやアメリカ人は経営に携わることは出来なくなっていた。ジョーはそのことをアメリカを出るときにはすでに知っていたが、まだ銀座に店があるかどうか見たくてぶらりやってきたのだった。しかし、滞在許可は60日だった。何か仕事をしなくてはならなかった。「東京ジョー」を訪ねると親友の伊藤は再会を喜び、隣のボロホテルに泊まるというジョーを制して店の二階に案内した。しつらいは昔のままだった。”隣のホテルは今は駐車場さ、B29という名のね”。笑いながら柔道を始めた。ただ、カンダと名乗る巨体の日本人は得体の知れない雰囲気で表面は伊藤の使用人のように振舞っていたのがジョーには気にかかった。懐かしい唄声が電蓄から流れていた。店で歌手をしていた恋人トリーナの声だった。死んだと思っていた彼女が生きていると伊藤は言った。中野に住んでいるという。すぐさま訪ねると彼女はアメリカ軍の法律顧問をしているラディングという男の妻になっていた。熱烈に愛し合って結婚していたジョーとロシア人女性、トリーナだったが、事情があって、トリーナを捨て、米国へ帰ったジョー。後悔して日本へ帰ろうとしたときの戦争勃発だった。トリーナはジョーを忘れられないでいたが、戦後、ジョーとの離婚申請をして今はやさしい夫と女の子との平穏な生活があった。アリーナという七歳の女の子は初めて会ったジョーになぜか親しみを感じ、自分の誕生パーティに招待した。一方、伊藤は何か職が欲しいと言うジョーに元秘密警察にいた木村男爵を紹介した。木村はジョーがパイロットの免許を持っていることを知っていて、韓国まで空輸する仕事を持ちかけた。貨物の中味は何か?と訪ねると冷凍のカエルだという。陰気臭いなと感じたジョーだが今は仕事を選んでなどいられない。まずは空輸許可を米軍に申請した。許可が下りるのは数ヶ月先だとのことだった。ジョーは仕事を降りようとしたが木村はある秘密ファイルを見せ、この仕事を遂行しろと迫った。その秘密とは元妻、トリーナに関するものだった。ジョーは冷凍のカエルを運ぶ事になった。倉庫で見た荷の中味は確かに冷凍のカエルだった。二名の米人パイロットを雇い、一名の日本人パイロットを雇った。日本人は神風を操縦していたという。名前を聞いて笑ってしまったワ タ シ。 カマクラゲンゴロウカネマサ と名乗ったんです。そして行き先は韓国だった。その日の荷はなぜか骨董品だった。すると帰りの便に日本人の男が乗り込んできたのだった。何か引っかかるがトリーナを守らねばという思いだけだった。トリーナの秘密とは・・・トリーナは戦時中に女の子を出産したが、戦後日本軍の捕虜となった。そして釈放された。日本軍に強要されたとはいえ、GI向けのラジオ放送に携わることで釈放されたといういわば反逆罪に相当する過去を持ってしまっていた。生活苦のためにに仕方なかったとジョーに告白した。女の子が7歳だとすると自分の娘だと確信したジョーだった。きっと君を取り戻して見せるとジョーはトリーナにも夫ラディング氏にも断言した。ラディングは分別ある人物だった。彼もジョーもトリーナを守りたいという気持ちは一緒だった。ここはあの”カサブランカ”のリックと立場が逆になっているんですよね。悪いようにはしないから自分に任せろとラディングはジョーに言い、ダークレン大佐に連絡をとった。ダークレン大佐は恐らく、前々から木村男爵をマークしていたと思われる。その彼に接触するジョーの行動が果たしてどういったものなのかを掴む為にジョーをも、マークしていたのだった。”昨日の韓国行きは試しの運航だった。明日、本当に冷凍カエルを運ぶらしい、そして帰りの便には戦犯の日本人三名を乗せてくるはずだ”とダークレン大佐は言った。そして木村とその戦犯たちはクーデターを起こそうとしているのだ。日本国と日本国民のために絶対に阻止せねばならないとも言った。その情報はカマクラゲンゴロウカネマサが探ったものであった。トリーナの件はもみ消すから軍に協力してくれとも言った。ジョーとダークレンは協力してセスナに乗る事にしたが木村はアリーナを人質として誘拐した。ジョーが裏切らないようにであった。三名を乗せた韓国からのセスナに木村は横浜に着陸しろと命じてきたが軍は羽田に着けろという。日本の警察と協力して木村を逮捕しようとしたが彼は行方をくらました。娘を守るために横浜にセスナを着けたが待っていた木村の手下は戦犯三名を受け取ると手下の一人はセスナの翼をハンマーで叩いた流れるオイルに火を放つと爆発炎上であった。各飛行場に張り巡らした兵は、ここ横浜にも待機していたのですんでのところでジョーは命拾い。踵を返して「東京ジョー」に行くと責任を感じた伊藤は切腹していた。息を引き取る前に教えてくれた木村のアジトはなんと例の、元”B29”という名のホテルだったーー今は駐車場ーーところの地下に潜伏していると言うものだった。ジョーは伊藤に言った。”米軍は真の敵ではない、日本の国の復興の手助けと日本の国民のために居るんだぜ”地下に降りてみると、巨体のカンダはやはり木村の手下だった。もみ合って、何とかカンダを刺し殺した。泣いていたアリーナ・・・我が子をしっかりと抱きしめるジョーだった。しかし、木村の銃口がジョーに向けられた。負傷したジョーを救ったのは米軍兵士の銃。ダイナマイトを投げようとした木村に命中し、倒れていった。やってきたトリーナに重傷を負ったジョーは”アリーナと一緒にアメリカへ帰ってやり直そう”と告げるのだった。トリーナの答えは”もちろんよ”だった。ここはカサブランカと違って、ボギーとトリーナはハッピーエンドでした。筋立ては三流映画のようですが、アメリカから見た日本の時代の背景がとてもよく出来ていて楽しめる一本です。昨今の複雑な情報スパイものは大型映画っぽく作られていて惑わされやすいですが単純なストーリーをストレートに分りやすくかつ、ボギーが日本を舞台に活躍というちょっと拾いものの作品であります。日本家屋をアメリカ式にインテリア化されているものも違和感なく、興味深いし、早川雪州の英語の合間に入れる日本語がちょっと笑えます。”カサブランカ”だって”慕情”の舞台、香港だって異国情緒なんだから、そこが日本だというだけで我々から見れば少しくすぐったいかもしれないけれどあちらから見れば舞台としてはさほど差はないのかもしれませんしね。これ製作年は分らないのですが多分1950年前後だと思います。正式なものをご存知のかたは教えてくださいませ。ということで今夜はハンフリー・ボガードの拾い物作品でした。
2005年02月22日
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長らくのお休みでした。友人が1970年から1990年代にかけてのビデオをボール箱いっぱい持ってきてくれてがんがん見まくっておりました。話題作以外、いや殆どと言っていいほど見ておりませんでしたので一気に見てしまいました。それによってまた、旧作の価値などを再認識もできましたし、時代の流れによる映画の変化というものも少し把握できたように思います。そして、まだまだ見てみたいものが出てきました。わたしのページは旧い映画のページでありますので新しい作品の紹介はしないと思いますが、見たことによって今まで気づかなかったものが見えてきました。100本観たぐらいのものですのでたいした収穫もないかもしれませんがそれでも目からうろこの状態にはなったんですね。食わずギライのニューシネマはアウトローをヒーローとした作品。それが一段落した新しい形の根性物や政治サスペンスへとなんと新鮮だったか!はっきりと把握できていなかった男優、女優もようやく覚えたし、結構面白く見ました。これらを見たことでアメリカ史を知らなくてはと学生時代の世界史を引っ張り出して1700年代から独立時代、そして州がどんな経緯で増えていったか、そしてアメリカ地図を画いてどういう順番で州に認められて行ったか?1776年から1952年の50番目のハワイ州まで、番号を付けていってみました。面白いですね。そうする事で同じ西部劇や南北戦争ものの時代背景と場所の確認を掴む事が出来ましたし、政治サスペンスも時代の変化で複雑かつ面白くなり、改めてみる映画の確実な面白さに気づく事も出来ました。学生時代になにを勉強していたのでしょう??と我ながら恥ずかしい限りでした。これは今、もう少し突っ込んで勉強しています。西部劇も政治サスペンスもこの背景と場所の確認がしっかりとつかめていないと旧作でも新しいものでも薄っぺらな見方に終わってしまうことは前々から感じていましたのでいい機会だと思っています。それに吊られてドイツや、イタリヤ、スペイン、イギリスロシアの歴史へと今お勉強が広がっているんですよ。年始めにABC順に俳優をピックアップして日記をまとめようと思って書き始めましたが、アレも書きたいこれも書きたいと...どうもまどろっかしいので、やはりランダムに作品を選んで書こうと思います.今、BS2ではなでしこで紹介した作品が次々に放映されていますね。みなさま、見ていらっしゃいますか??今夜は深夜に”戦場にかける橋”が放映されますね。先日の”その男ゾルバ”、如何でしたかしら??”チャイナタウン”は同じ年に”ゴッドファーザー2”が封切られたために霞んでしまったようですがニコルソンはこの作品が一番いいんじゃないかしら??ロマン.ポランスキーの絶品でしたよね。私の方は、今夜はサスペンス映画の原点とも言われているフリッツ.ラング監督の作品 ”M”を取り上げてみます.この作品ですが、今日本でも頻繁に起こっている性格異常者による少女殺人事件がポイントなのですが、それだけに終わらない奥の深い作品なんです。主役のピーター・ローレはこの作品の殺人犯の役で有名になりイギリス、アメリカでヒッチコックの作品や、ジョン.ヒューストン監督の”マルタの鷹”などに出演していきます。この作品では彼の形相は作品の犯人の不気味さを盛り上げまさにぴたりとはまっていました。”M”を撮り終えてラング監督はすぐにパリへ亡命するわけですがこれがこの映画の重要なポイントになります。MはmurderのM.少女の殺人場面もなく、犯人の登場も映画の中盤以降。だけども、怪奇性を感じさせるラングの手腕。警察に犯人逮捕を任せておけないと市民を含んだそれぞれすねに傷をもつ者、暗黒街の顔役たちが犯人像を分析していく過程が殆どである。この両者別々の談義が交互に映されていく仕組み。殺人者の特徴はどうも少女を連れ去る時に聞こえる口笛の音。ストーリーの中盤、盲目の風船売りが口笛の音を聞いて前に居なくなった少女に風船を買ったやった男がこの口笛を吹いていた事に気づく展開。見つけた犯人を市民がリレーで追うわけですが見失わないようにと犯人の背中にチョークで本人にわからないように”M”の印をつけるくだりは上手いですねえ。逃げて逃げてあるビルの倉庫に逃げ込む。それを金庫破りの名人が倉庫の上の床を電気ドリルで掘ってゆき警察に捕まる。警察は彼らが集団で犯人を追い込んでそれぞれ倉庫へ向けてあの手この手で近づこうとしている事には気づいていないので、この金庫破りを尋問するくだりはあのドロン作品の”さらば友よ”のブロンソンを逆彷彿させられ思わず笑った。ドロン作品もこれ頂いたのかなあ・・ってね・作品が作られたのは1931年度。ドイツではワイマール共和国が終わりを告げようとするヒンデンブルグ大統領下にあり、ヒトラー率いる労働党がのし上がりつつある頃です。この映画に登場する警察は間違いなくワイマール共和国の象徴であり、市民を率いる暗黒街の輩はヒトラー政権の象徴であると思います。犯人はこの双方の社会に属する事の出来ないはみだし者でラング自身の化身とも思われます。映画の中心は双方の喧喧諤諤とした会話で犯人像に近づいていく過程の談義だと書きましたがまさにワイマールとヒトラーの思想談義だと取れるわけ。犯人は日常的には子供が好きで普通の人物であるから人々は気づかないのだという結論に達していくわけですが犯人を自分たちの手で捕まえ、人民裁判をしようとする。警察はと言えば左、右 の中間といった思想のなかで論じてゆくわけです。そうやってとうとう市民は犯人を捕らえ廃墟ビルの一室で人民裁判を行う。少女と一緒にいると安らぐ・・が途中でどうしようもない恐怖にかられ殺してしまう。そして殺した時のことは覚えていない。。が殺した事実は自分でもわかっている犯人。つまり犯人をラング自身に置き換えるとワイマールにもヒトラーにもついて行けず、身の置き場のない恐怖を感じているわけだ。”死刑だ!”という娘を殺された母の叫び。総立ちになる市民。だが、弁護士は言う。あなた方も国家もこの者を捌く権利はない。人民裁判はあってはならない。警察に渡すべきだと・ ”警察だ、手を上げろ”..と乗り込んできた警察に手を上げるのは犯人ではなく市民全員だったのでした。そして最後にメッセージが出る.”親はどんな時にも子供から目を離してはならない、親が守るべきだ”と・しかしこれはこの映画の言いたい事でもないように思われる。ある意味では本当ではあるが。まだ、ヒトラーの殺戮は始まってはいない年であるからこのときにこののちのヒトラー政権を予測したラング。そしてまさに現代の幼女殺人事件をめぐって法務大臣への批判や殺人者予備軍の野放しへの疑問等で騒がれている今の日本の抱えている問題をこの時代に取り組んだラングの碧眼はすごい。ドイツでのラングはぞくぞくする怪奇的な映像とともにいろんな要素を散りばめたこれぞサスペンスという一級の作品をぜひご覧になってください。パリに亡命してから後、ハリウッドに招かれて撮った作品”死刑執行人もまた死す”はなでしこでも紹介済みです。ぜひご覧になってくださいね。彼の生まれた19世紀末のウイーンの雰囲気と妙にマッチした彼独特の異常な世界は古さを全く感じさせないものであり、切れ味の良い、歯切れの良い運びの脚本は夫人の共同も多く、この作品もしかり。素晴らしいの一言である。1931年度、ドイツ作品。
2005年02月21日
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男優をABC順にピックアップしていますが、Bの項でビング・クロスビーを挙げませんでした・というのは彼の作品は何作品かすでに紹介していますので省略しました。”我が道を往く”、”聖メアリーの鐘”、”ホワイト・クリスマス””上流社会””喝采”などを紹介しています。どうぞ、ご覧になってくださいませ。で、”皇帝円舞曲”をと思いましたが、またの機会に取り上げてみますね。さて、Cの項はケーリー・グラントで始めましたが、今夜はクラーク・ゲーブルを取上げます。彼の作品といえば、”風と共に去りぬ”でしょうがこのメジャー作品は避けます。では・・、”或る夜の出来事”や”モガンボ”もすでに取上げましたね。そこで今夜はメジャーではありますが、”荒馬と女”を取上げましょう。その前にゲーブルその人のことをちょっと。1901年ん生まれ。両親はドイツ移民。ハイスクールの時代に家を飛び出していろいろな職業を転々とした後に演劇の世界へ入る。”惨劇の砂漠”という作品がほぼデビュー作品のようである。元々ギャング映画の悪役からの出発だったようですね。それが、33歳の時に”或る夜の出来事”の主役に抜擢されいきなりオスカーを手にする。その後は、”風と・・・”で名実共にハリウッドの大スターとなるわけである。我々世代はゲーブル=レッド.バトラーというイメージが定着しています。高校時代の夏休みにマーガレット.ミッチェルの”風と共に去りぬ”(河出書房版)三巻を一気に読みました。その時のレッド.バトラーの印象は強烈でした。余談ですが、その後、司馬遼太郎の”竜馬がゆく”を読んだときも同じカルチャーショックでした.もう40年も前の話ですが。大きな心で懐の深いワイルドな男性バトラーはいっとき、理想の男性像でしたもの。その後、リバイバル上映でもってスクリーンでゲーブルのレッド・バトラーに対面した時は感激でした。そのワイルドさは”モガンボ”で受け継がれ、そしてこの”荒馬と女”という現代のワイルドなカウボ-イに投影されています。さて、この”荒馬と女”という作品。なにかこう因縁めいた作品なんですね。なでしこでも紹介しました”セールスマンの死”・・・の原作者であるアーサー・ミラーの原作、脚本によるものです。そしてこの作品に共演しているマリリン.モンローの当時の夫でもあります。アーサー.ミラーは”セールスマンの死”で当時の(195,60年代)アメリカの社会の孤独と責任と倫理感を強く主張した人です。その彼の原作の”荒馬と女”は強く生きること、真の男らしさと真の女らしさの歯車のかみ合いをベースにそれぞれ孤独な過去を持った男と生きる不安を抱えた女が出会ってどう決着をつけるかというテーマなのですが、この作品の完成後四日目にゲーブルは亡くなり一年後にモンローも孤独な死を迎えている。そしてもうひとりの共演者、モンゴメリー・クリフトも5年後に心臓麻痺で亡くなっている。生きることの真実をやっと見つけた男達と女、まさに3大スターが相次いで亡くなっているという人生の淋しさ、怖さが浮き彫りにされ、胸に迫るものがある。では、簡単なあらすじを・・・ネバダ州のリノという町は離婚都市と呼ばれるほどで離婚をしたい人々はこの都市に6週間滞在すれば離婚が認められるため、あちこちからたくさんの離婚希望者たちがやってくる。ロズリン(モンロー)もそのひとりで離婚が成立したその日にカウボーイ、ゲイ(ゲーブル)と自動車修理工のギドー(イーライ・ウオーリック)と知り合う。先にギドーがそのお色気溢れるロズリンと知り合うわけだが一目ぼれ、紹介したゲイも一目ぼれする。しかしロズリンは多分その魅力ゆえ、男たちがいつもいつもとりまき、彼女も恋するが、失望し男不信に陥っていると思われた。が、彼女は心底やさしく思いやりがあって天使のような性格であることが次第にわかってくる。彼女の真の魅力に男たちが近づくのではなくその外見の魅力で男たちが近づいてくる事がロズリンにはやりきれないのであった。しかしゲイは違った。彼女の踊りの上手さを褒め、動物や植物に優しく接する彼女の純粋さを見抜いていた。ゲイとギドーは少しの間この町に留まる事を勧め、今は住んでいない郊外のギドーの家を彼女に提供した。ゲイはそれまでこまめに働く事はなかったが彼女のために家の模様替えや修理をして野菜を植え彼女の手助けをした。ギドーとゲイとロズリンはピクニックに出かけてムスタング、つまり野生の馬を発見した。ゲイはいつもドウインという愛犬を連れている。ドウインはやさしいロズリンにすぐになついた。二人の男は野生馬を捕らえて儲けようと投げ縄の名手パース(モンゴメリー.クリフト)を仲間に入れようと彼が出場しているロデオの会場へと迎えに行った。パースもロズリンに一目ぼれした。このあたりのシチュエーションはリノ.バンチェラとドロンの”冒険者たち”を彷彿とさせますね。年代が逆ですが。ここに来るまでにロズリンの心の葛藤も当然あります。ゲイは離婚経験者で妻が娘二人を連れて男と駆け落ちしたという過去がある・パースは父の死後母親が再婚。義父に牧場を乗っ取られたという経験の持ち主、ギドーはといえば結婚したものの妻は妊娠後、赤ん坊共に亡くなっているという過去がある。彼はいつも自分を嘆いてばかりいるような男でポリシーというものがない。ロズリンは彼らの性格をよく見ている。そんな中、荒馬の捕獲を男共は始める。ギドーがぼろセスナで馬を追い集める。パースとゲイがジープで荒縄を振り回して馬の首にかけるわけだが、縄の先には大きなタイヤがついていて、走る馬も逃げれなくなる。そこで男たちは馬の手脚をしばり放置する。後は仲買の博労が持っていくというものだ。分っていたはずのロズリンだが目の前で馬が倒されていく事に耐えられない。親子馬が三頭結わえられるところでロズリンは限界に達する。”動物殺し!”と喚き、”自分たちを殺せば・・”と男たちを責めた。ゆくゆくは犬のえさになる馬の肉。。。遠くから見ている犬のドウインは昨日から落ち着かない。今までこの光景を何度も見ていて犬の本能としていつかは自分も殺されるのではないかと思っているかもしれない。だから、この頃はいつもロズリンのそばを離れない。飛行機に繋がれたまま、この光景をまたドウインは見ているのだ。ものすごい格闘の末、牡馬が結わえられ、牝馬が結わえられた。子馬は母馬のそばを離れないのが分っているから結わえられない。この家族の捕獲は他ならない四人の人生を投影しているのを男たちはその瞬間はわかっていない。それぞれ家族というものに縁がない。そんな彼らがこの三頭の親子馬を見てなにも感じないはずはない。ギトーにはこれが分らなかった。ゲイを責めたロズリンにまたもやギトーが人生の伴侶として名乗りを挙げたがロズリンは彼を激しく非難した。男らしいということと仕事として残酷な仕打ちというその違いは頭では分っているゲイ、パース、ロズリンであった。思い切ったパースはジープを走らせ牡馬のロープを切った。走って牝馬の方へ先回りをしようとするゲイ。だが放たれた牡馬が牝馬のところへ迎えに来た。見守るパースとロズリンの前でゲイは牡馬と一騎打ち。牡馬はゲイを力いっぱい引きずる。彼(牡馬)とて死ぬか生きるかの瀬戸際だと知っているからだ。激しい格闘の末、ゲイはとうとう牡馬をねじ伏せた。だが、その後彼のロープを切ってやるのだった。いかなる人間の指図にも屈しないという牡馬の抵抗に、例えねじ伏せてもゲイは牡馬に負けたことを悟ったのだ。自分の仕事はもうこれまでだと観念したがそれを見ていたロズリンは人間の誇りと馬の誇りの闘いに真の男らしさを確信し、死への恐怖から解放されゲイと一緒に強く生きていける自信を得たのだった。パースも天使のような心のロズリンに会えて幸せだったと言って去って行った。ギトーはとうとう人生というものを理解できぬままだった。繋がれていたドウインは迎えに来たロズリンに全身で歓びを表現し、ふたりと一匹は新しい人生の一歩を踏み出すべくジープを走らせるのだった。前方にはあの親子馬がじゃれ合いながら駈けていくのが見える。ロズリン、”暗闇でも道が分る??”、ゲイ、”あの大きな星を見れば道は見失わないよ!”このセリフ”冬のソナタ”にも出てきましたよね。考えてみればモンローという女優はあれほどに美しく魅力的なのにいつもおどおどしている役柄が多いが、これは彼女の地でもあるように思われる。純粋すぎてガラス細工のように壊れそうな人・この作品の撮影当時も恐らく神経衰弱は重かったのだろうと思うのは私だけであろうか。モンゴメリー・クリフトこのひとはいつもいつも耐えて耐えて耐え抜く役がぴったりとはまる。”女相続人”や”陽のあたる場所”、”愛情の花咲く樹””終着駅”などを紹介しましたが、”地上より永遠に”やヒッチコック作品の”私は告白する”でも耐えぬく役がはまっていますね。この人は意外とスターであった期間が短いんですよね。”荒馬と女”はもう亡くなる5年前ですか・・・この頃はもう嘗てのクリフトらしさは出ていません。スタートしてのクリフトは”終着駅”まででしょうね。ゲーブル・・・この人について行けばどんな状況でも食わせてくれる・・・安心感がありますよね。荒っぽさの中に優しさと繊細さもある。同じワイルドでもランカスターと違って 粋っぽさ があるんですよね。そこが魅力でしょう。1961年度作品監督。。ジョン.ヒューストンスケールのでかい西部劇をワイラーが描くと教科書のお手本のような・・これもまた魅力ですがヒューストンはもっと人間臭い。”ジャイアンツ”もたしか??かれの監督作品でしたね。この人は俳優としても何本か出ていますが晩年、ジャック.ニコルソン主演の”チャイナ.タウン”に犯人役として出演していましたね。
2005年02月04日
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今夜はケーリー・グラントの作品の紹介です。作品は ”めぐり逢い”ニコラことニッキー ケーリー・グラントテリー デボラ・カー早速、ストーリーから。あちこちの国で浮名を流したニコラ・フランチェは今度はニューヨ-クの大富豪令嬢と婚約した。そのニュースは各国のラジオで報じられた。つい最近までつき合っていたガブりエラはこのニュースにかんかん!。その頃、ニコラはニューヨークへ向かう豪華客船の船上にいた。ここでも彼は有名人で、レディキラー、ニコラにサインを求めるご婦人や紳士に囲まれた。しかし、今まで手練手管で女性を操っていたこのハンサム男は何日かの船上生活で180度変貌する事になるのである。落としたシガレットケースを拾ったテリーというエレガントな女性と言葉を交わした。しかし、彼女も彼がそういった噂のある男性と知ったので彼のスマートで上手い誘惑には乗ってこなかった。が、まるで彼をからかって楽しんでいるような接し方であった。船上の人々は彼が又新しい女性を口説いているのだろうと興味津々。二人の行動を常にマークして楽しんでいるのだった。テリーにも5年間付き合っている恋人はいる。だが、・めぐり逢いとはこういうものか・・。運命の赤い糸は・・・?いかなるレディキラーのニコラもテリーの知性ある辛辣なジョークはニコラを戸惑わせた。今まで付き合ってきた派手な女性達とはどこか違うエレガントで知的なこの女性に、興味がそれ以上の恋へと変りつつあることをニコラは気づいていない。賢いテリーも、彼が噂のとおりの男なのか?それは仮面で本当は本物の恋を求めているのか計るような眼差しで見つめている。船はビル・フランシュという町に寄港した。下船すると言うニコラにテリーも付いておりた。聞けば祖母を訪ねると言う。半信半疑だったテリーは着いたその屋敷の天国の庭のような佇まいにため息をついた。年老いたマリアさまのようなその夫人にニコラの素顔を見たような気がした。老婦人の皺のある手で奏でられる美しいメロディーに歌手のテリーは思わず、ピアノに合わせて口ずさんだ。おばあ様が身に付けていた素敵なレースの肩掛けをいつか頂くと言う約束にテリーは喜んだ。去りがたい思いを残して屋敷を後にしたテリーの心は急速にニコラに傾いていった・・・ニコラも同じだった。”二人の進路は変った”・・と熱いキスをかわす二人は部屋に戻っても興奮を押さえるのがやっと。進路は変ったといっても二人のそれぞれのパートナーの問題があるのであった。みなの目を欺く為に白々しい態度を取ったが仲良くしても白々しくしても結果は同じ。蛍の光が恨めしい。下船すれば現実が待っているのだ。明日は下船という夜、 半年後、エンパイアー・ステートビルの展望台で 再び会う約束、そして結婚の約束をした。 本物の恋を成就させる為には時間がいる。そして半年間、色々なトラブルを片付けようと頑張っている二人・ニコラ=ニッキーは好きな絵で生計を立てようとしていた。テリーもステージをこなし、婚約も解消していた。そして半年後、それぞれエアンパイアーステートビルに向かった。いくら待っても来ないテリーにニッキーは夜の帳が下りるまで待ちつづけた。だが、テリーは来たくても来れなかったのだ。ビルの下まで来て上を見上げていて交通事故にあってしまった。車椅子の生活となったテリーは足を治してからでないとニッキーに会いたくなかった。そんな姿を見せたくなかったのだ。テリーに振られたと思ったニッキーは傷心の中、祖母の屋敷を訪ねた。今はもう居ない祖母。ピアノの音色を思い出すニッキー・使用人がニッキーに手渡したのはあのレースの肩掛けだった。ニッキーはそれまでのレディキラーの生活に戻ってしまった。彼女をへの愛への辛さに苦しみながら。ステージに立てなくなったテリーは辛さをこらえて、子供達に歌を教えていた。祖母が亡くなってからのニッキーの画風が変ったと画廊主は言った。あるクリスマスの夜、バレーの公演を見に行った劇場でニッキーは座席に座っていたテリーに出くわしてしまった。恨みと未練のニッキー・テリーは今は友人として助けてもらっている以前の恋人の手を借りて車椅子で来ていたが気づくはずのないニッキーだった。テリーはそんな身体でもニッキーへの愛は変らず、早く足を治して歩いて彼の元へ行きたいと思っていた。今夜のクリスマスは子供達の合唱隊の初舞台。コーチのテリーは舞台に上がれない。テリーのベッドを囲んでのリハーサルも終わり、リヴィングのソファーに横たわるテリー。その時、男性が彼女を訪ねて来た。ニッキーだった。祖母の形見の肩掛けを届けに来たのだった。ソファーに横たわる彼女に皮肉を並べ立てた。それでもテリーはあの時の言い訳をしなかった。ソファーから立たない彼女を不審に思いながらもよそよそしい彼女に腹が立つニッキー・想いを断ち切ろうとしていたニッキーにとって劇場での再会は応えたのだ。ショールを手にしたテリーに一旦はさよならを言ったニッキーだったがドアの前でふと言った自分のことば。”その姿を絵に画いたよ・若い女性がその絵を欲しがっていたがその女性にはその絵を買うお金がないといったので差し上げたと画商が言った”・・ニッキーは踵を返して彼女の寝室の扉を開けた。そこの壁にはそのニッキーの絵がかかっていたのだった。そしてすべてを一瞬に理解したニッキーだった。このラブロマンスがなぜ素敵なのかと言いますと。さんざん女と浮名を流した男とそれまで結婚の理想像の中にしかいなかった女性が初めて本物の恋をして、真剣に純愛を貫こうとする現在には見ることが出来ないような大人のドラマであるからだ。そしてそこに人生の厳しさが込められ、あの頃の温かなアメリカ映画そのものの世界が描かれているからだ・監督、レオ.マッケリーといえば”聖メリーの鐘”や”我が道を往く”の名作を生んだ人。この人の映画には必ずと言っていいほどたくさんの子供達が登場する。そういったエンターテイメント性もたっぷりで二人をとりまくシチュエーションが何とも素敵である。そしてあのニッキーのおばあ様がまた素敵。彼女が二人のキューピットであり、あのレースの肩掛けが二人の愛を結びつける重要な小道具ですね。見るものの納得の行く運びのこんな恋愛映画。適度なもろさと明るさが魅力のスマートなケーリー・グラントはこういった都会的な作品が多いですが初期の頃にキャサリン・ヘップバーンと多く共演しています。その中の一作、”赤ちゃん教育”という楽しい作品がありますよ。彼の笑みは不潔さを伴わないレディキラーの表情、仕草、子供のような純粋さ、必死に女性をこちらへ向けさせようとする内面の動きを含んだものなのである。やはりグラントはその笑みで極意を極めた都会的紳士なのである。そして聖母のような美しさと清潔なお色気はうっとりもののデボラー.カーとで成り立った作品です。1957年度作品。
2005年02月01日
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イタリア映画界において、フェリーニは天才、ヴィスコンティは巨匠だと以前書きました。ヴィスコンティの方が難解な監督のように思われがちですがわたくしはどちらかと言えばフェリーニのほうが難解です。今夜はヴィスコンティ晩年の作品で、B.ランカスターの最高の演技の作品である”家族の肖像”を取上げるのですが、ランカスターを語る前にヴィスコンティその人を少し整理してみたいと思います。わたしも彼の作品をそうたくさん見ているわけではありません。なでしこで紹介したヴィスコンティの作品は、”若者のすべて”、”山猫”、”夏の嵐”、”ベニスに死す”位でしょうか。”揺れる大地”という初期の作品は見ていないのですが、どうも、貧困に苦しむシチリア漁民を描いたようです。”若者のすべて”は南イタリアに住む貧乏な一家族の崩壊をリアルに描いたまさに号泣ものの作品でした。ヴィスコンティはイタリアでも屈指の名門の貴族出身ですが、彼自身は極端な左翼思想に影響された人で自らの貴族階級というものを容赦なく否定したところに彼を知る鍵があるように思います。それは”山猫”や後年の作品に美と頽廃を徹底した時代考証で歌い上げているところにあると思うのですが・・・・。彼の完全主義なリアリズムは見るものには息苦しく、偏執的にさえ感じられる。言葉ではあまり詳しく表現できないけれど感覚的にはただただ、すごいなと・・思うのです。フェリーニのストーリー性を重要視せず、映像感覚で表現する・・・という感覚の方がどうも苦手です。”家族の肖像”は実生活で愛人関係・・・同性愛と言う関係にあったと言われるヘルムート・バーガーを美の象徴として据え、死を間近にした老人ランカスターの戸惑いはまるでヴィスコンティ自身をモデルにしたのかと思う作品です。”ベニスに死す”は大好きな作品ですが、ダーク・ボガード扮する老作曲家が若く美しい少年の息吹に胸苦しさを覚えながらも彼を眺められずにはいられない・・・・・濃厚なワインのような作品でした・これもヴィスコンティ自身を投影しているようですね。”家族の肖像”はそれをも超越して生きる気力もなかった老人に生きる活力をもたらし、そしてまた絶望し、死を迎えるといったものを描いている。それは、旧いものと新しいものの交代はどうしようもないと言う監督のメッセージであろうか・最近の作品でショーン.コネリーが演じた”小説家を見つけたら”でも若者の息吹から生きる尊さを改めて、授かった・・という素敵な作品がありましたが極めてアメリカ的な正攻法の作品でした。ヴィスコンティの手にかかるとそれはもう芸術の域に招じられると言った方がよい重厚さをもって伝わってくるのですね。前期、ランカスターは野性的な魅力で売っていた俳優ですが、”山猫”での没落貴族の役柄で演技に開眼した。ヴィスコンティによって彼の持つ渋さが引き出されたといって良いでしょう。そして役者は役に埋没していった・簡単なあらすじ騒々しさを嫌いひとり大きな館に住む老教授は孤独を愛し、たくさんの絵画・・家族の肖像画に囲まれて静かに暮らしている。そこへ傍若無人にも突然、公爵夫人(シルバーナ.マンガーノ)が愛人で元学生運動家の美青年、娘とその愛人を伴って、拒む老教授の声に耳も傾けず間借りをしたいとやってくる。それはもう侵入と言う表現がいいかもしれない。女たちはそれぞれ身勝手、男たちは屁理屈をこねる輩である。騒々しく勝手に二階を改築したりと老教授は、彼らに振り回されわけであるがそのうちにその仮の家族のような錯覚にむげに抵抗する事もなくなりむしろ美少年のヘルムート・バーガーに美の対象を見つけ何かと構うようになる。そしてそれが息子への愛に変化してゆく。それは生きる意欲のなかった孤独な老人から生への気力と変る。だが、旧い階級意識や因習はいずれは崩壊し、新しいものへと移り変わっていくものだと気づいていくその中で美少年の死によってまたもや老教授は生きる意欲を失い、孤独な死を迎えると言う物語である。それは明らかに貴族制度は崩壊しても、新しい息吹で新しい形へと受け継がれていくものだという監督のメッセージでありましょうか。この老教授役はランカスター最高の出来栄えであると思うのであります。そして病から一旦は立ち直ったヴィスコンティが死を予感してランカスターにわが身を投影して愛人であったヘルムート・バーガーを起用して撮ったというのは興味深い。まるで私設美術館のような豪華な邸宅で繰り広げられる舞台劇のような人間模様は一見の価値アリです。バート.ランカスターの作品はなでしこでは過去に、前記した”山猫”、ハリウッド作品の”OK牧場の決闘”、ドロンとの共演作品”スコルピオン”を紹介しています。他に”空中ぶらんこ”や”終身犯”、ヘップバーンとの共演作品”許されざる者”、大好きな作品”雨を降らす男””地上より永遠に”などなどたくさんありますね。1931年生まれ、このひと実際にサーカス団に入団していた事もあるんですね。1946年”殺人者”でデビュー・ウイリアム・ホールデンもどちらかと言うと都会的な野生美で売っていましたがランカスターは少し野暮ったい野生美とでも言いましょうか・
2005年01月31日
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先日、BS2で放映されていた作品名をみて、そうだ、この隠れた名作があったんだと思い出しました。今夜はちょっと一息入れて、その作品を取上げてみます。題名は ”テキサスの5人の仲間たち”。ご覧になった方もいらっしゃると思いますが、この作品こそ騙され映画の傑作ですね。ヘンリー・フォンダのところで紹介しようと思ったのですが、この作品はフォンダが主役と言うよりも全員が主役のようなものなので、フォンダの作品はまた別のものを取上げます。ドンパチのない西部劇?、心理劇?、喜劇?まあなんにせよ非常に楽しいエンターテイメント的作品です。この作品はファンが多いんですよ・あらすじ・・・・西部のある町...葬儀屋ベンの馬車が猛スピードで荒野を駆け抜ける。なぜか裁判所に着く。と、裁判中の弁護士ハバショーを呼び、彼を乗せて再び走り出す。今度は娘の結婚式の途中の父親ヘンリーを銃の合図で呼び出し一緒に駆け抜けていく。三人はある町に着き、急いで酒場へ。すると”家畜仲買業のヒューフォードは時計を見ながらドアを閉め酒場へと向かう。そう、年に一度近隣の大金持ちが集まって大博打、ポーカーの勝負を始めるのだ。酒場には遠くからも例年のように、カウボーイたちがわんさとやって来ている。酒場の奥の一室で開かれるポーカー博打。4人は揃ってドアを開ける。中にはすでにドラモンとがテーブルについていた。もちろん、この部屋には誰も入れない。金庫番をしている酒場のマスターサムだけが入れる。酒場の中は誰が勝つか野次馬でごった返している。そこへ妻、メアリーと7歳の息子ジャッキーを連れたメルディス(ヘンリー.フォンダ)がやってきた。テキサスへ行く途中で向こうで小さな農場を始めるとか。馬の蹄鉄を直す為に立ち寄ったので一晩泊めて欲しいと言う。マスターに何とか部屋の都合をしてもらったが、メルディスはこの大きな真剣勝負の博打が行われている事を知った。妻は”カードは禁止でしょ?”とたしなめるがメルはとても我慢できずに見たくなった。ちょうど一杯飲みに部屋から出てきていた、ハバショーは二階から降りてきた美しいこの妻メアリー・・・レディに目を奪われ、メルを見物させる事に。。。鍛冶屋へひとりで行く事になったメアリーは”パパに目を光らせておくのよ”と言って、出かけた。中では金持ちどもがジョークや、この勝負がいかに大事で楽しみにしていたかなどを話していた。葬儀やベンは最年長だが独身。女を信用していない。ドラモントも妻とは3ヶ月も会っていないなどみんなそれぞれ、お金はあるがいろいろと事情を抱えてはいる。多額の金がスリーカードで、勝負に出るなどメルにとっては考えられない。とうとう参加したいと言い出した。身内だけの勝負で16年間も続いている勝負だ。だが、お金があれば入れてやってもいい。1000$だという。止めるジャッキーの言葉に うるさい とパパ、メルディスは部屋へ戻る。鞄の中には4000$入っていた。1000$掴んで戻ると勝負に出た。弱くていつもすってしまうから妻に禁じられていたのに、欲望は止まらない。だがまた、1000$、又1000$と負けていく。とうとうスカンピンになってしまう。ところがとってもとってもいいカードを手にしたメルはどうしても降りることが出来ない。掛け金の25ドルがない・あんなにジャッキーが止めたのに。ママはそろそろ帰ってくる。マスターは気の毒そうにメアリーも顔を見る。部屋をあけてもらったところに空っぽの鞄が。ご主人はポ-カーをやっています。ショックで涙も出ないメルディス夫人だった。信用貸しで金を貸してくれと、メルは皆に言うがそれが無理な事。妻は怒って入ってきた。みなの前で責めるメアリー。勝負を止めてこのふたりの会話を見ている彼ら。馬車をかたにと迫るメルだが彼はそのとき心臓発作を起こしてしまう。呼ばれた医者ドクは隣部屋にメルを移し、診察をした。メルはこの良い手はお金さえあればきっと勝てるカードなんだ。君がやってくれと!!夫人に手渡した。さあ、これからが面白い!!みんなが納得するか?ハバショーは彼女にいいとこが見せたい。彼女の夫が死にかけているんだ。何でも聞いてやろうと肩入れをする。メアリーはカードなんてとても分らないそれがどんなにいい手かも。まずはカードのやり方を教えて。。と言う始末。みんなを前に、銀行に連れて行ってくださいと申し出た。”あんなケチが金など貸すものか!”メアリーの後を5人の金持ちはカルガモの行進のようについてくる・部屋で不正が行われないよう、メアリーが不正をしないようにというのもあるだろうが。興味が一番であろう。メルデイスはドクの深慮所へ運ばれた。みなさんにとってはゲームでしょうが私にとっては人生をかけた大勝負なんですのよ・・・と必死のメアリー・凛としたレディ、メアリーに皆はあっけに取られていたが、銀行での態度も立派だった。すったもんだの末、担保はこのカードですと頭取バリンジャーに見せた。分りませんが、良い手のはずなんです。主人がそういいましたから。唸った頭取バリンジャーだったがやはり無理だ、貸せないと断られた。追い出された6人はまた行列をなして酒場へと。ジャッキーを抱いて途方にくれているところへ、頭取バリンジャーがやってきた。彼らそれぞれの過去を並べ立て、みんなどんな担保で金を貸してやったか。覚えているか?・・・改めて夫人のカードを見たいと。”一言言わせてもらうが今まで数々用立ててきたがこの担保が最も確実だ”と頭取のお言葉。見られん用にカードを服に押し当てなさい、見ていいのはあなたと私だけだと頭取は言って横の椅子にかけた。では勝負だ。皆はポカーンと口をあいている。さらにレイズする、5000$だ。ひとり、またひとりカードを投げた。諦めたのだ・さあ頂こうかな。頭取は言った。ひとりが彼女の手札を見ようとすると一人が止めた.この場合手を見る必要はない!それがルールだろと。ヂルモントは”久しぶりに女房のところへ帰るかな”葬儀やベンは今まで出会った女性の中であなたは最高の女性だと尊敬の念を伝えた。頭取は”利息は6パーセント頂きますよ”たいした女性だとみんなは顔を見合わせた。ベンは”黙ってろ”と言い残した。残った三人は”今まで素晴らしい女性に何人出あった?”と聞いたひとりに”ひとりさ”と口々につぶやいた。感慨に耽った顔、顔。そしてジャッキーとメアリーと頭取を乗せた馬車は夫の待つ診療所へと向かった。不動産屋のヘンリーは我が家に帰ると待っていた娘を残し婿になる男を連れて二階へ上がった。お前のような男がブスの娘を見初めたとは考えられん。あの窓から出て世間を良く見ろと金を与えて追い出した。彼も感激したのですね、メアリーに。さてさて、ところは変って。。。。札束がなんだか5つに分けられている、小さな手で。頭取に、医者ドクに、そして、メルデイスに、メアリーに”これはボクの分け前だ”とジャッキーは自分の分け前を掴んで去っていった。そうメアリーとメルも夫婦ではなかった。テキサスの5人の仲間は詐欺師仲間だったのでありました。皆様、キンキラ金の衣装に身を包み5人の中で一番博打が好きなのはメアリーで今から又賭博場へ繰り出すのでありました。どうも頭取バリンジャーがメアリーの旦那様のようでしたよ。まあラストの痛快さはもちろん、見事に騙されました。我々も。あの大金持ちたちは一生、メアリーを尊敬し最高のレディだと思って又、来年、あの5人で勝負をするのでしょうね今までのように。・・・・メアリー役、ジョアン・ウッドワードがとてもよかった。ジャッキーも心細そうにうろちょろしているので完全に騙されました。一役買っていたとはね。ということでちょっと一息の幻の名作でした。1965年度作品監督..フィルダー・クック
2005年01月25日
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何度も何度も変更して申し訳ありません。今夜は、パチーノの作品をもう一作ということで ”セント.オブ.ウーマン”を取上げようと思いましたがひとり2作となるとなかなか前へ進めないので、止めました。それと1993年の作品となると他のページでたくさん取上げられていると思うので、私が書くこともないかと思った次第。で今夜はAの俳優さん、アンソニー・パーキンスへと駒を進めまする。一昨年だったかドロン様のファッションについて書いたときにパーキンス...について少し触れましたので重なる部分もあるとは思います。我々世代は彼のことをトニパキと呼んでおりました。愛称がトニー.パーキンス・・・それを縮めてトニパキであります。幸か不幸か、ヒッチコックの”サイコ”のノーマン・ゲイツがあまりのはまり役、それも性格異常の得意な役者、かのピーター・オトゥールにも通ずる異様な匂いがこれ以降彼について回って損をしている部分もある。この作品の彼はもはやトニパキではない。デビュー当時のトニパキはすらりと伸びた手足と広い肩幅にアイビールックがよく似合うニューヨーカーの瑞々しい青年だった。彼の真のデビューとも言える”友情ある説得”(1957年)以後、ドロンが出現してから、こののびのびとしたトニパキとドロン様は我々少女達の人気を二分した。下町の二枚目のお兄さんのドロンに比べてトニパキはナイーブなセンシピリティを漂わせた母性本能をくすぐる初々しさがあった。それをもうガチャガチャに崩してくれた作品が”サイコ”である。作品は一級であるが彼のイメージはそれまでの彼を知らない人たちには異常な、エキセントリックな持ち味の俳優と言うイメージが固定してしまったと思う。悲しくもある・・・がこの作品があったからこそ、彼は今でも人々に忘れられないとも言える。先に取上げた”さよならをもう一度”のフイリップや”のっぽ物語”などの作品だけではアメリカ映画史に残らなかったであろう。今夜取上げる”友情ある説得”は1957年、ゲーリー・クーパー・・・クープの晩年の佳品であるが、トニパキが殆どデビュー作といっても良い作品で、これでアカデミー男優助演賞にノミネートされた。監督・ウイリアム・ワイラーカンヌ映画祭グランプリに輝いたアメリカらしい、ワイラーらしい真の平和主義者とは何か?をユーモラスにまたホットに描いた大好きな一編である。この作品では背景に南北戦争があるわけですがその後、1958年の”大いなる西部”でワイラーは東部と西部の考え方の違いを描いている。 ”友情ある説得”出演者ジェス・・・ ゲーリー・クーパー妻イライザ・・・ドロシー・マクガイヤ長男ジョッシュ・アンソニー.パーキンス長女マティ次男リトル.ジェス(6.7歳か?)ジェスの親友サムサムの息子ガードあらすじジェス一家は敬虔なクエーカー教徒、クエーカー教は酒、タバコ、コーヒーはもちろん音楽を聞くことも禁じている穏やかで頑固な平和主義者である。前半、この一家の日常を通じてクエーカー教徒の毎日はこんなものだとゆったりと描かれていく。とうもろこしを栽培し、肉や卵を馬車に乗せて近隣の町、牧場へ何日かかけて売りに行く。この一家にペットのサマンサというガチョウがいる。そしてレッドという馬がいる。これが重要な役を担う。リトゥル・ジェスはみんなにおチビさんと呼ばれている.おチビさんとサマンサは相性が悪く、チビはいつもサマンサのくちばしでつつかれていてちびはいつかサマンサの首をひねって食べてやると悪態をついている。マティはガードに恋をしている。ジョッシュは今悩んでいる。日曜日の教会での集まりにやってきた北軍の兵士が戦争に参加するように言うが、教徒達は戦争は罪です。と拒否する。が、ジョッシュは違う。”君達は同胞を盾にしてのうのうとしていられるのか戦ってこそ家は守られるのだ”という言葉にどうしても自分も同胞の役に立ちたいと願い始めている。パパ、ジェスはと言えば教会へ出かけるときに道のりを親友のサムの馬車と競争するのが楽しみだが競争意識のないジェスの馬レッドはいつも負けていてジェスは足の早い馬が欲しいと願っている。夫人のイライザは競争心のないレッドでさえ不満でもっと遅く走る馬をと願っている。ある日町で定期市が催され、一家で出かけた。ジェスは音樂が好きだ。禁じられているにもかかわらずオルガンを買ってしまう。ダンスも催され、ソーダー水を飲みながら知らず知らずにステップをこっそりと踏んでいるのをチビは見逃さなかった。はぐれた娘がガードと踊っているのを見つけた彼女はわれに戻ってガードと引き離して連れ去った。イライザはクエーカーの教えに忠実で頑固に守る。それを息苦しく受け取らずに夫は自分の意志を貫きながらもやわらかく受けてかわす術を知っている・10日間の旅に出た父と息子はひょんなことで競争心の強い馬と出会い、持ち馬レッドと交換する。不細工な馬だが名はレディ。オルガンが届いた日、どうしても家に入れるなら私は今日から納屋で暮らすとさっさと納屋へ。それでも夫はオルガンを家に入れた。夜、毛布を抱えて、夫は納屋へ出向く。このあたりの運びが実に上手く、くすっと笑わせる。親友のサムが仲介を申し出るが断る夫。夫婦喧嘩の理由を聞いて笑い転げるサム。あくる日、日が昇るや否ややってきたサムは納屋で二人がやすんだことをクスクスと笑う。必死にごまかす夫は”誠意を持って説得したんだ”とどぎまぎ答える。ここも伏線です。プリンスの競争相手を見にやってきたサムはこんなブスが俺の馬と競争できるのか?と笑った。日曜日、サムと競争する為にレディに鞍をつけたがいつもの大きい馬車がボルトが外れて走れないと子供達を置いて夫婦二人で出かけることに。ジョッシュがボルトを外しておいたのだ。猛烈に走るレデイにイライザはびっくり。プリンスに勝ったレデイだった。教会の長老達が家にやってきた。息子、ジョッシュの教育をどうしているんだ??と。つまり、同胞のために戦わなくてはならないのか揺れている彼を知ったからだ。そして南軍がそこまでやって来ていると・ジョッシュは焼けた納屋や、食糧を略奪された近隣の家を見てきたと。自分も義勇軍に参加すると父に申し出た。戦争はいやだし、死ぬのも殺すのも怖い。殺す事さえ出来ないかもしれないが、みんなが戦っているのに知らん顔はできないと言う。父は止める事が出来なかった。父は”もし南軍に襲われたら甘んじて受けるし、死も運命だと受け入れる”と言う。教会の長老の一人がやって来て、手のひらを返したように巻き割をしていたって家は守れん、戦わねばと言った。来合わせていたサムは昨日までとは違って変り身の早い事だと皮肉った。サムは俺がジェスの分まで戦ってくるさと銃を持って息子ガードの元へ走った。ジョッシュが乗っていった馬レディが傷を負って帰ってきた。ジェスは銃を持ち出した。止めるイライザを後に息子ジョッシュを捜し求めて。だが、途中でプリンスに会ったジェスはサムの身に何か起こったと思った。サムは近くの森に倒れて虫の息だった。その時、ジェスも銃で襲われ、かすり傷を負った。もう一度銃を向けた若い兵士に素手で立ち向かい、彼に撃つつもりはないから行けと逃がしてやった。それから傷を負ったジョッシュを見つけそばで死んだ若い兵を助けられなかったことに泣きじゃくるジョッシュをなだめ連れ帰った。その頃、家では南軍が押し寄せてきていた。イライザは食肉も野菜も果物も家畜も与え、料理まで振舞った。兵の一人がガチョウのサマンサを見つけて捕まえようとした。イライザはわれを失って、”サマンサはペットなのよ”と喚き、帚で彼を何度も何度も叩いた。チビはそんな母の姿に口を開いて見ていた。姉はパパには絶対に内緒よと口止め。又、教会へ出かける日曜日がやってきた。サマンサと友好的になっているちびさんにパパは気づき、”???どうしたことだ”姉は”チビがいじめなくなったせいよ”ちびは”違う、向こうから(サマンサ)近づいてきたんだ。南軍が来てからあいつは変ったんだ”と口をすべらした。止める姉の声をさえぎってチビはしゃべった。”ママがバーン、バーンって敵を叩いたんだ、サマンサを守るのに!”パパは”そりゃー大ニュースだ”出て来たママにパパは”箒を買い換えなくてはな””何故?””随分、戦ってくたびれているようだ”と・・・・こうしてまた、平和な日常が始まった。。この映画で言っている事は民族と民族、国と国、の戦いだけが戦いではないのですね。つまり家庭の中にも、趣味や友人同士の中にもいろんな競争や争いはある。そんな中からでも、平和への解決方法を学べるんだというメッセージを感じました。つまり、納屋での夫婦喧嘩の解決方法は愛嬌であったにせよ、オルガンを家に入れる事をパパはママに押し通したが屋根裏に置く事、日曜日と、来客中は弾かないと言う条件を飲んだ。サムの横にいた南軍の兵士にもああいう形で平和を彼に教えたのでは?”たくさん、敵をやっつけて!”と言ったチビにそんな言い方はいけない、どんな命も尊いものなのだよと諭した。平和主義だから戦争はしないと言った彼らの言葉は理想主義あるいは生っちょろいと聞こえるかもしれないが周りのちいさな戦争にもいろんな対処の仕方がある。それができれば心は平安に暮らせるものなのだ。そんなところからまず、平和であろうと言う事でしょう。自分の信念を貫きながら、平和に解決する。一番難しくて出来ないことをこの映画では難なく見せてくれたのです。さて、クープはすばらしい適役であるのですが、今夜はトニパキを語るものなので、彼のことを後ちょっと。つまり、この作品ではトニパキらしい、ジョッシュは役よりもなによりトニパキそのものの瑞々しいものでした。ぜひぜひご覧アレ。ノーマン・ゲイツは個性派役者アンソニーであって初期の彼はナイーブかつ都会的なスマートなトニパキだったのです。 おわり・
2005年01月23日
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先夜、アル.パチーノの作品として、”ゴッド.ファーザー2”を取上げると書きましたが、この作品はロバート・デニーロにも触れなければならないので、その時に取上げようと思います。でもって、今夜はアル.パチーノの代表作、”スケアクロウ”を取上げる事にしました。ジーン.ハックマンとの共演のこの作品、ロード.ムービーと言うんですか、導入部からして、すごく苦手なものでした。でも、映像がすごくいいんですね。一度、見終わって、もう一度見てみる。苦手なはずのこの手の作品なんだけど、哀感があってとてもいい。んん??いいじゃん!!食わず嫌いって損ですねえ。 あらすじ・・6年の刑期を終えてのムショ帰りのマックス・・・・ジーン・ハックマンと5年間家を捨てて、船員生活を経て、デトロイトへ帰ろうとしているライオン・・・・アル.パチーノ二人は南カルフォルニアのハイウエーで出会った。マックスは刑務所で貯めた2千5,6百ドルを元手にカンザス州のピッツバーグで洗車屋を始めようと思っている。ライアンは五年前、恋人の元を蒸発する時に彼女のお腹にいた子供に会いたくてミシガン州のデトロイトに帰る途中だった。でかくて荒っぽいマックスだが道路の向こうでおどけるライオンに何となく親近感を覚え、デンバーからデトロイ経由でピッツバーグへ行こうと二人で旅をすることにした。今まで人を愛したこともない、信用した事もないというマックスだが荒っぽさの中にもどこか頼れるところがあった。無口なこの案山子のようなライオンは自分を表現するのにおどけた仕草でマックスをだんだん素直にさせていく。マックスは会って間もないライオンに洗車屋を一緒にやろうと一人喋り捲った。残り一本のマッチでタバコに火をつけてくれた・・たったそれだけのことだがライオンのやさしさを見抜いたのだ。二人の間に奇妙な友情が生まれていく。その二人の旅がまるでスケッチのように描かれている。そのスケッチがふたりの過去、現在の心情や性格を浮かび上がらせていく。荒々しいマックスだが、喧嘩をしても、対女性にしても限度を弁えているのに比べて、ライオンはおどけた仕草とは裏腹に段々エキセントリックになっていくようにさえ感じられ、その心のひだと膨らみが終盤に向かって盛り上がっていった。それはショックを受けて傷つくと行ったものを超え、精神錯乱となっていく。5歳になるだろう、まだ見ぬ子供への土産を持ってデトロイトへ着いた。訳も言わずに恋人の元を去ったライオンだが彼女に電話をするのが怖くて、途中何度もマックスに勧められたが電話できなかった。公衆電話から、彼女の声を聞いた。5年間、ずっと彼女に送金していたが連絡は取らなかった。恋人は二年前に結婚したと言う。”子供は??””8ヶ月で流産したの、男の子だったわ”、”何も言わずに出て行って何よ・・・・・そばにはライオンそっくりの男の子が遊んでいたが、彼女は嘘をついた.受話器を置いたライオンは噴水のそばで遊んでいる子供を抱き上げ洗礼を受けさせるんだと水の中へ入っていく。。精神が錯乱したんですね。その彼を病院へ運んだマックスは”二人で洗車屋をやるんじゃなかったのか、お前がいなきゃ出来ない”と眠って起きないライオンに必死で迫るのだった。”俺の2600ドルでお前の面倒は見るからな”開業資金を必死で貯めたマックスはそんなことはもうどうでもいい、生涯もう会えないかもしれない最初で最後のこのたったひとりの相棒に叫ぶのだった。”あの電話ボックスでお前の女房はお前に一体、何を言ったんだ??”夢を打ち砕かれたマックスは怒りを抑えられなかった・・・・このラストまで、じわじわと深い絆となっていく過程をいかにもアメリカらしい切り口で切なく、ユーモラスに描いた秀作ですよね。時に、父親が息子を見るような眼差しで厳しい現実からライオンを守ろうとするマックス。喧嘩っ早いマックスをおどけで、気を反らさせようとするライオン。お互いにないものの中から生まれる友情だけでなくなにか切ないものがこちらへ伝わってくるそんな作品でしたね。アメリカの屈折した、暗い部分を演じたらこの人が最高でしょうね。生い立ちからくる暗さのイメージと重なって圧巻。カンヌ映画祭グランプリ受賞。のびのびとした荒々しさのあるジーン・ハックマンもすごく良いですね。わたしは”訴訟”を見た時にファンになりました。これはジーン・ハックマンのところで書きたいと思っています。さてパチーノのもう一編は”セント・オブ・ウーマン”ですね。”スケアクロウ”から20年、53歳の時の作品ですがもっと上の年齢を感じさせる役柄・ヴイスコンティの”ベニスに死す”のダーク・ボガードにも通じる官能的なものに加え、頑固で、ヒューマニストでさえあるこの作品の役柄はどんな感じで書き進めましょうか??
2005年01月22日
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年頭から日記を更新することができて喜んでいたのですが、書いている途中で突然、パソコンが止まってしまいまして・・・電源がどうしても入らない。充電がゼロに??・・いくら奮闘してもダメでとうとうメーカーに修理をお願いする羽目になってしまいました。昨日、やっと戻ってきました。五年の保障期間ギリギリにまにあって修理費ゼロ!!ホッ!!出鼻をくじかれてしまいました。今年こそは続けると決心しましたので二週間も修理期間が必要という事でショック!!興ざめなことで、申し訳ありませんでした。掲示板にお休みの理由を書いていただいた友人のCさん、ありがとうございました。今年はまず、ハリウッド、ヨーロッパの男優さんにスポットを充てて書いていくことにしていますが、かなり偏るかもしれませんので悪しからずご了承ください。若かりし頃はあまり目の行かなかった癖のある俳優さんや脇役で光る俳優さん、個性の強い俳優さんにも焦点をあててみたいと思っています.これは自分自身が年をとって、感性が変わった事もあるでしょうが、俳優さんのほうも年を経てからの方がいい感じという事もありますネ。だから遡って、彼らの若い頃のまだ鑑賞していない作品を見たりもしています。アル.パチーノもその一人で、”セント.オブ.ウーマン 夢の香り”を見て、いいなあと思い、”セルピコ”や”狼たちの午後”を見たという次第。ロバート.デニーロやパチーノが出現し始めた1970年...わたしはハリウッド映画を観なくなりました。荒んだアメリカ..ヒッピー達が都市に入ってきてアメリカの昔の素敵な都市は都市でなくなったような気がして都市型映画がなくなったという勝手な思い込みからでした。いわゆる食わず嫌いになったのです。でもこの年になっていい年のとり方をしている彼らの作品を見て、ちょっと遡ってみてみようと思ったのです。この1970年代を、1980年代のハリウッドを覗いてみないと彼らが語れない。ですよね。で、少しずつ勉強しながら鑑賞していこうと思います。A・・・・の男優さん、3人目はアル.パチーノです。”ゴッド.ファーザー”は言わずもがな彼の出世作ですが、パート2の方は、実のところ見ていませんでした。1968年、”ナタリーの朝”でデビューしたようですがなんと言っても1972年の”ゴッド.ファーザー”での3男のマイケル役でトップスターに踊り出たんですね。1973年の”スケアクロー”、”セルピコ”を経て、1974年の”ゴッド・ファーザー”へと続き、1975年の”狼たちの午後”へと...こうやって遡ってみると、このひともアレック.ギネスなどと通じるいろんな顔、役者の顔を持つ人なんですね。いつもダスティー・ホフマンと比べられるようですがこのシチリア移民の小柄な男優は作品ごとにその演ずる役どころがいつも性格の違う、しかもきついものであるが先に述べましたように頽廃したアメリカの恥部を象徴した役のものばかりのような気もする。だが、魅力ある骨太い俳優さんである。1970年代、ニューシネマが台頭し始めた時代に極めてマッチしたそれ的なムードを持った人だといえるかも。ゴッド.ファーザー2でのマフィアの二代目ゴッドファーザーを継いでから始まるこの作品では10年前の”セント・オブ・ウーマン”で見せた人生を見放した盲目の退役軍人の頑固でありながら、理不尽さには目をつぶれない、そして本当は秘めた心の温かさを持つそんなキャラクターはゴッド...での冷酷非常なドンでありながらファミリーへの熱い思いのシシリー気質と組織の破滅との狭間で苦悩するマイケルにすでにパチーノは存在していたのでした。今回、ゴッド、パート2を見まして作品的にはパート1よりはるかにすぐれた作品である事も認識しました。このパート2で絡みはないにしても共演したデニーロもデビュー2作品目ぐらいですし、ダイアン.キートンもデビュー間もない。ロバート.デュバルは冴え渡っている・・・屈折したチンピラ的な役も良いが今回はこの”ゴッドのパート2”と”セント.オブ.ウーマン”を取上げてみようと思うのですが。。。??なにかご希望の作品がありましたらお聞かせくださいね。見ていれば書けるかも??1940年、ニューヨークの裏町生まれ、シチリア移民の子である。貧乏の中、まあいろいろあって1966年にアクターズスタジオ入り。ブロードウエイの舞台で活躍、「虎はネクタイをするか」でトニー賞を受賞後、映画デビュー・ジェリー・シャッツバーグ監督によってゴッド.ファーザーの三男マイケル役に抜擢され世界中に名を馳せる。と言う事で、明日は”ゴッド.ファーザー2”にスポットをあてます.何を今更かもしれませんが観ていない方はぜひ見て欲しい作品。観た方はそれなりに読んでくださいな.1970年以降の作品は殆ど見ていなかったわたくしですので今とっても新鮮に見ています.映画は1970年までにすでにパターンは出尽くしているとページを始めた頃に書いたわたしですが、それは本当だと思います。でも、その後に出てきた作品がどのようにアレンジされデコレーション化され、感動を与えてくれているか見つけていこうと思っています。
2005年01月19日
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戦場にかける橋 1957年度 英監督 デビッド・リーンアレック.ギネス・・・・英国軍将校、ニコルソン大佐早川雪舟・・・・・・・・日本軍将校、斎藤大佐ウイリアム・ホールデン・・アメリカ軍、シアーズ中佐ジャック.ホーキンス・・・英国軍ウオールデン大佐改めて見直してみるとこの作品は明らかに三部構成で作られていますね。戦争映画は当然、反戦と平和を訴えているのですが、この作品はそれ以上に人間らしく生きるということはどういうことか?この四人のそれぞれの考え方、生き方,死に方の中からそれぞれのメッセージを投げかけていました。クワイ河はビルマに近いタイとの国境を流れている。ーーーあらすじーーー日本軍の斎藤大佐はラングーンを経てシンガポールへと続く鉄道を貫通させるために必要な橋をかける任務を命じられた。クワイ河近くの捕虜収容所長の斎藤大佐は送られて来たイギリス軍の百数十人の捕虜達に架橋工事をやらせようとする。1943年の5月12日までにどうしても橋を完成させねばならない。5月13日にシンガポールへ物資を運ぶ汽車がやってくるのだ。斎藤大佐にとっては将校も歩兵も同じことで全員に工事をやらせようとするが、英国軍将校ニコルソン大佐は自分を含め将校はあくまで指揮官であって工事をやらせるわけにはいかないと突っぱねる。先にここに捕虜となってきているアメリカ軍のシアーズ中佐は疫病や負傷、栄養失調で死んでいった仲間たちの墓掘りにもうんざりし脱走を計画している。斎藤大佐の捕虜の扱いにも辟易している。突っぱねたニコルソンは営巣に入れられるが、頑として斎藤に応じない。架橋工事は始まるが日本人の指揮で、歩兵達の工事は一向にはかどらず斎藤はいらつく。ニコルソンの身を案じる歩兵達や軍医。この前半で斎藤の武士道精神とニコルソンの騎士道精神がしっかりと描かれる。工事に携わる人数を少しでも増やそうと頑固に強要する斎藤。将校の任務をあくまで貫こうとするニコルソン。なぜ、これが大事かというと、人間は置かれた状況の中でいかに誇りを、名誉を、規律を大事にして生きていくかが、戦禍の中でも大事だとリーンは説いている。そして無謀に見える斎藤とて日本軍の命令に忠実に働こうとしているだけである。ニコルソンは精神を貫き、斎藤は譲って工事の指揮をイギリス軍将校にやらせることに応じ、営巣から出すと、歩兵達は歓喜の声で迎え,ニコルソンを取り巻いた。斎藤は歩兵に尊敬される指揮官と言うものがどういうものかを目の当たりにし、ひとり部屋で恥ずかしさのあまり号泣する。その日から斎藤は変わった。設計も材料も粗末なもので進められていた橋は新に別の場所に作られる事になった。それは先のお粗末な橋ではなく本格的なものとして工事は始まる。ニコルソンは軍医に言った。戦闘に負けてもこの状況下で一生懸命に目標に向かって最高のものを作る。誇りで我々は勝者となる。600年も耐久するという楡の木を柱に使って後世に奴隷としてではなく捕虜として立派な橋を作ったという誇りが我々だけでなく,歩兵達にも誇りとして残るだろうと。そして歩兵達は橋を作るということで一丸となるだろうとも。さて、中盤は本来主役である脱走に成功したホールデンのドラマである。取りあえずは逃げ切ってラングーン近くのイギリス軍の野戦病院にいた。かれは本当は中佐でもなんでもない。収容所で良い待遇を受けようと階級を偽っていただけでただの二等水兵であった。ウオーデン大佐はその辺のところは調査済みでシアーズに橋の爆破を依頼した。決死隊としてクワイ河の近くまで空から向かいパラシュートで降り、現地まで行く計画だ。しかし、女性に目がなくここでも看護婦にちょっかいを出す始末。表面要領よく見えるシアーズ。任務のむずかしさ、折角脱走した場所に又戻れというのかとさんざんノーと言ったが、結局は受ける事になり,4名の隊員で出発。一名はパラシュ-トの降下で失敗,命を落とした。現地人の男性と荷物を運ぶ3名の女性を加え、険しいジャングルの中を彼らは進んだ。途中でウオールデン大佐は足に怪我をし、皆に迷惑をかけるから自分を置いて行けと言う。5月12日の夕方までには橋に着かなければとも。シアーズは彼に言った。何故そんなに死の影ばかりを背負うんだ?人間らしく生きる事を考えろ。お前を置いて俺は進めないと説く。結局,担架を作って、ウオーデンを運ぶ。ようやく辿り着くと橋は完成していた。ここからが後半ですね。ニコルソンと斎藤は橋を見回して感慨に耽った。ビューティフル クリエイト!!ニコルソンは言った。28年の軍人生活の中で家にいたのはたかだか10ヶ月位のものか。考えてみるといい人生だった。この年になると死も近いと思うが・・・今まで生きてきた支えが何だったか今分かったような気がすると。それを聞いた斎藤は部屋に戻り,遺書を書き、肌身離さず持っていた短剣で頭髪の一部を切った。これはニコルソンへの限りない尊敬の姿なのですね。いよいよ決死隊は爆破の為のワイヤー張りも終わり、列車が来るのを待った。ニコルソンは橋の柱に板を打ち付けた。それには1943年、イギリス軍によってこの橋は建設された・・・ニコルソン大佐 と書かれていた。最後の点検も終わってふと、ニコルソンはワイヤーの一部に気づいた。ニコルソンは斎藤を誘って河へ降り、ワイヤーを辿った。岩の陰で列車の近づく音を聞きながら若いジョイスはまさにスイッチを押そうと待ち構えていたが・・・斎藤とニコルソンに見つかるのは必然だった。崖の向こうで銃を持って見守るシアーズは刺せと叫んだ!ウオーデンも銃を構えた。斎藤ともみ合ってジョイスは斎藤を刺した。どうして??ニコルソンは目の前で”イギリス軍です、決死隊の命で爆破します!!”というジョイスに驚き、目をみはった・銃弾は飛び交いだした。ジョイスは倒れた。シアーズは必死で河を泳ぎ、スイッチへと向かった。負傷しながらも必死で河を這い上がってきたシアーズにニコルソンは”君は!!”と叫んだ。ニコルソンは”私は何のために橋を作ったんだ??!!”浴びせられるウオールデンの銃にニコルソンが倒れたのはスイッチの上だった。橋は列車もろとも河に崩れ落ちた。生き残った軍医はただ、”狂っている、狂気だ!”と叫んだ。死の影を背負っていたウオーデンが皮肉にも生き残り、”任務の為だったんだ!”と喚いてその地を去るだけだった。確かに狂っている。しかし、戦争そのものが狂っているのであって、誰もが戦争の任務になんてつきたくないはずだ。戦争が又人々を狂わす。これはストーリーの展開よりも彼ら四人を見ても分るように逃げられない状況の中でそれぞれが任務に忠実に動き、誇りだけは失わないという人間ドラマを描いて素晴らしいのだ。現在の世界中のあちこちで行われている戦争でもきっと無限のドラマが一人一人にあるはずです。行きたくて行っているわけではない戦場。だが、そこでしっかりと生きなくてはならない人たちを我々は簡単に戦争はいけないよと言ってしまってはいないか。行きたくなくても行かなくてはならない人たちのことを思うと安易に口に出来ない言葉だとこの物語は語っています。戦争否定は言葉で言うのは人間の奢りではないか。もっともっと心の中でじっくりと考えるものではないか。ニコルソン大佐=アレック.ギネスリーン監督の作品には常に登場する人でこの作品はギネスあっての作品だと思います。彼はこの作品で米、英両国のアカデミー賞主演男優賞を受賞している。歩兵達の熱い尊敬と信頼を受けるニコルソンこそ真の将校、騎士道精神の持ち主なのですね。フランス映画、ジャン.ルノワールの”大いなる幻影”と是非見比べて欲しいものです。いかに日本軍がはずかしい軍隊だったかよく認識できるはずですね。ということで”戦場にかける橋”・・如何でしたでしょうか?。
2005年01月05日
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私の好きな作品に”名探偵登場”というのがある。これはミステリー映画というよりパロデイーとしてのお遊び要素が強い作品なのだが、なぜか楽しい。ミス.マープルやポアロ、サム.スペードに・・・と賑やかな顔ぶれの探偵さんたちがある邸に招かれ推理合戦をするといった内容のものだ。その招く主人役を作家のトルーマン.カポーテイが演じ並居るベテラン俳優を食ってしまった作品でもある.作品の内容としては今昔の有名な推理小説を茶化し大いに遊んで、我々をパロディへの世界へと誘うというもの。その邸に盲目の執事がいて、これもまた私の好きなアレック.ギネスが演じているのだ。そのとぼけ振りが秀逸でまさに”100の顔を持つ俳優”と言われているのが頷ける。今夜はこのアレック.ギネスについてちょっと書いてみます。”博士の異常な愛情”でのピーター.セラーズの百面相ぶりも素晴らしいが、ギネスの化けぶりも勝るとも劣らない。彼の代表作としてはやはり、D.リーン監督の”戦場にかける橋”なのだが、騎士道精神を貫くイギリス将校らしい大佐を演じていた。ギネスの正統派の演技としての代表作であろう。このときの、理不尽な事にはとことん命をかけて立ち向かうキャラクターが後の”スターウォーズ”のオビ.ワン役として再び我々の前に登場した。1914年ロンドン生まれ。一度は広告会社に勤めたらしいが、その後、舞台を目指し、演劇学校に入り、ハムレットの舞台で認められたとある。兵役の後、ニューヨークの舞台に立つも、すぐに映画界に入り、デビッド.リーン監督の”大いなる遺産”でその強烈な個性は評判を呼ぶ。グレース・ケリーの引退作品”白鳥”(なでしこでも紹介済み)、”戦場にかける橋”あたりまでは正統派の英国紳士そのものであった。”戦場・・・”でアカデミー主演男優賞を受賞している。イギリスではローレンス.オリビエに継いで”サー"の称号を授けられている。その後はこの人もアンソニー・クイーンのバイタリティーはないにしろ多国籍の人物を多く演じている。砂漠の王子や共産党員、ヒトラーや幽霊、インドの哲学者と・・・ただアンソニーと違うのは画面で見ても、ギネスと一目で分らない化けぶりで見終わった後でああ..あの役がギネスだったんだと見事騙された事が多い。"アラビアのロレンス”、”ローマ帝国の滅亡”、”ドクトル.ジバゴ”、”さらばベルリンの灯””クロムウェル”、”名探偵登場”、”インドへの道”(なでしこでは紹介済み)”スター.ウオーズ”シリーズと続くが脇役とはいえこの人ほど主役を食ってしまう印象を残す人はクイーンと双璧と言えるのではないか??。と言う事で、明日は正統派の作品”戦場にかける橋”を取上げてみましょう。本当は化けぶりについて語りたいのですが・
2005年01月04日
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”その男ゾルバ” 1964年度作品製作 米監督 マイケル・カコニヤス出演 アンソニー・クイン、アラン.ベイツ イレーネ.パパス、リラ.ケドローバ あらすじ亡くなった父の残した炭鉱を再開しようとギリシャはクレタ島に渡ろうとしていた英国の作家、バジル(アラン.ベイツ)は、待合所で不思議な魅力を持つゾルバ(アンソニー.クイン)と出会った。強引にゾルバはバジルに現場監督として雇ってくれと言い、バジルは何となくO.Kしてしまった。島に着くと一軒しかない安ホテルに落ち着く事にしたバジル。ホテルの経営者はもう、老年と言った方がよい未亡人であった。彼女はフランス人で昔は踊り子だったようだが何人もの男たちを遍歴した女性で、ここではよそ者でもあり、孤独でもあり、ゾルバを最後の男として愛している。バジルは見るもの、聞くもの珍しく興味を持った。閉鎖した炭鉱の再開ではやはり朽ちた柱などが倒れ、最初から無理だった。そこでゾルバは発想を変え、バジルに製材所をやろうと提案した。とてつもないことを思いつくゾルバは自分でもわかっていて失敗してもいいか?とバジルに打診した。O.Kしたバジルに嬉しさを身体で...ダンスで表現した。そのおおらかさにバジルは益々ゾルバに魅かれていった。炭鉱はバジルのものであるがその上の山は修道院の所有物。ゾルバは修道士達を天性のユーモアで説得し、山の木の伐採を許してもらった。さて、頂上から海まで、ケーブルを張って木を降ろす計画だったが・・・・。ゾルバは酒を愛し、女を愛し、人生を謳歌し・・・・だが失敗も多い憎めない男。ホテルの女主人が昔の栄華を唯一の自慢として話すのを黙って聞いてやるゾルバ。例え、バジルにとって苦笑いの話でもだ。女を真に理解するゾルバはこの女主人にとって今何をしてやればいいかをよく知っていた。結婚も約束し、ウエディングドレスも用意してやろうと思っていた。しかし、ケーブルの材料の手配の為に島を離れたゾルバは酒場の若い女と一緒で何日も島を留守にした。帰ってきたゾルバに敏感な女主人は泣いてゾルバを責めた。老いの不安と体調のすぐれない彼女はただただ、ゾルバとの結婚を願っていた。着飾れば着飾るほどに老醜の浮き上がる彼女にまるで幼女のようにゾルバは接した。バジルとて彼女をレディとして扱った。さて、島にはもうひとり美貌の未亡人(イレーネ・パパス)がいた。島の男たちは彼女をものにしようと虎視眈々と狙っていたが彼女は誰にも冷たく、心も開かなかった。中でも、男たちのリーダーの息子は彼女に本気で熱を上げていたが見向きもしない彼女に仲間たちは、彼女の家の窓を割るなど嫌がらせをしていた。いつもの嫌がらせに、たまたま居合わせたゾルバとバジルは彼女を助けた。生憎の雨に蝙蝠傘をそっと差し出したバジルに未亡人は島の男たちに向けるきつい眼差しとは違う優しい目を返した。未亡人から届いたお礼のクッキー。咄嗟に隠したバジルだったが、久しぶりに帰ってきたゾルバはすぐにそれを見つけ、未亡人の気持ちを汲んでやれと世話を焼いた。何日かしてバジルは未亡人を訪ね、その夜はそこに泊まった。それを知ったリーダーの息子は海に身を投げて死んだ。逆恨みをしたそのリーダーは仲間達と一緒に礼拝に来る大勢の信者達の前で彼女を取り囲んだ。ナイフを持って彼女に迫る彼を一旦はゾルバが救ったが、目を離した隙に彼女はリーダーに刺され死んだ。何故?未亡人が独身の男と恋に落ちて、姦通在なのか??ここにギリシャ悲劇を盛り込んでいるのでしょうね。??バジルは紳士だ。自分のせいで彼女を死なせてしまったことを悔いた。体調のすぐれなかったホテルの女主人は病が重く、死期の近い事を知っていた。バジルの立会いの元、ゾルバは彼女と式を挙げた。死期の迫った彼女の財産を狙って島の女たちがぞくぞくと集まって来た.まだ息を引き取ってもいないのに黒衣の老女達が部屋の中にまで入ってきて座り込み何を盗み取るか見回しているその姿は背筋が寒くなる。しかし、これはギリシャの古くからの習慣なのだろう。入って来られた彼女にしてみれば”お前はもうすぐ死ぬんだ”と言われているようで切ない。”怖くない,俺がそばについているんだよ”とゾルバは彼女を抱きしめ、そしてその腕の中で息を引き取った。振り向くと部屋にはベッドと彼女だけになっていた。異国人,まして異教徒の彼女は教会の墓には葬る事は出来ないのだとゾルバはバジルに言った。可愛そうだというバジルにゾルバは”死んだ彼女にはもう何も分らんさ”と吐き捨てた・人生を謳歌し、豪放磊落なゾルバの言葉だからこそギリシャの風土に培われた諦観が滲み出ています。木材運搬ケーブルはちゃちなものだったが一応,竣工式というか試運転を行ったバジルとゾルバ。修道士や老僧も交え、始まった。ものすごい勢いで下ってくる大きな木材。三度目でケーブルの柱はドミノ倒しのように崩れていった。焼けたマトンを頬張りながら大笑いをする二人。”坊さんがびっくらこいで逃げていったぜ”ワハハと・・・・”やっと腹の底から笑ったなあ”とゾルバはバジルの肩を叩いた。明日は島を去ると言うバジルはゾルバに島の あの踊り、ダンスを 教えてくれと・・二人ステップを踏むのだった。強靭な生命力を感じさせるギリシャ人ゾルバ。軽妙にそして温かく,真実を達観して豪快に生きるゾルバ。几帳面な英国人作家とこの豪放磊落な正反対のギリシャ人との奇妙な友情は最初から最後まで心地よく、ラストのダンスで本物となった。同じくギリシャの風土を描いた”日曜はダメよ”の底抜けに明るいギリシャ人気質・対照的な目線で描いた”その男ゾルバ”は二人の友情が強い信頼関係となっていくのを縦軸に愛、友情、生きる事の素晴らしさ,歓び,苦しみ、そしてギリシャの風土に根付く”死”というものを真っ向からどうだ!と言わんばかりにつき向けてきた。ゾルバの恋人を演じたリラ.ケドローバはこの作品でアカデミー助演女優賞を受賞。愛と優しさ溢れるゾルバはクイーンあって生まれた作品。不朽の名作でしょう.
2005年01月03日
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さて、年初めは私の好きな男優さんということでABC順に取上げて整理していこうと思います.まず、一日目は男優さんの紹介、二日目は1作品か2作品を取上げるという形式で..と思っています。で,Aのトップは★アンソニー・クイン★にスポットを当ててみます。最初に言っておきたいのですが A の中にはアラン・ドロンも当然あるわけですが彼については最後に書きたいと思います。一言で言って血の気の多い駄々っ子というか暴れん坊という印象が強いクイーンですね。我々のもう少し前の世代の男性方にはすこぶる人気のあった俳優さんです。男臭さの中にどこか茶目っ気と愛嬌がある。国籍が何処だろう?という程、多国の人物を演じて右に出る人はいない。1936年のデビュー以来出演作品は100を超えるという。主役でもさることながらそのエネルギッシュな大物バイプレーヤーぶりも独特で特異な存在なのでした。資料によるとアイルランド系の父とメキシコ人の母から1915年に誕生している。その当時、二枚目が悪者をやっつけるというハリウッドの映画では最初は当然彼等の引き立て役として重宝されたようである。セシル.B.デミルの大型映画にはうってつけだったようで主役ではなかったがそこでアクション物にたくさんでていたようだ。10年ほどそんな役回りが続き、M.ブランドが映画で演じた”欲望という名の電車”の舞台に立つ事になり、それがきっかけであの名作、 ”革命児サパタ”(1952年)でアカデミー助演賞を獲得し、後はご存知..フェリーニの ”道” での獣のような人間らしさのかけらもないザンパノ役で我々の前に登場したわけですね。そして、二度目の助演賞を勝ち取る”炎の人ゴッホ”と続く。私の鑑賞した彼の作品はたかだか10本くらいのものですがあの、やんちゃで愛嬌があってそれでいて優しい目をしたクイーンの独特な図太い演技が大好きです。”ナバロンの要塞”、ではどうか死なないで!!と思い”日曜日には鼠を殺せ”では悪役とはいえどこか間が抜けていて憎めなかった。”アラビアのロレンス”ではアカバの町を略奪し馬にまたがる彼、アウドはロレンスよりもファイサル王子よりも豪快な魅力に溢れ私を魅了したし、”その男ゾルバ”は彼の作品ではわたしのもっとも好きな作品である。ギリシャの風土に溶け込みそのたくましい生命力といつものぎらぎらした迫力が全然感じられない軽妙な演技はゾルバ=クイーン??と思う程良かった。”砂漠のライオン”ではリビアの遊牧民の長としてこのとき65歳位かなあ...なんとも枯れた慈愛に満ちた聖父のような姿...そしてナバロンで見せたこの人に任せておけば安心だ・・・という戦略や、ロレンスで見せた豪快さを、後半見せながら、死につくときの何ともいえない崇高さとも言おうか魅了されました。ともあれ、脇に回っても、敵役になってもいつもクイーンの存在は光っていて我々を魅了してやまなかった。という事で、明日は大好きな”その男ゾルバ”を取上げようと思います。
2005年01月02日
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みなさま、明けましておめでとうございます.と・・・ご無沙汰して申し訳ありませんでした。仕事に追いまわされていたのは、言い訳にもならず!!サボってしまいました。およそ半年にもなりますか。すっかり勘も鈍ってしまいましたし・・・お仲間にお約束した事もまだ守れていないまま。。ごめんなさい。でも、今年からまた、少しづつ,書いてみようかなと。ところで遅ればせながら,今ごろ何よと言われそうですが年末に”冬のソナタ”完全版というのをしっかりと見させていただきました.メロドラマがあまり好きではなかったはずの私がドラマが進むに連れて涙、涙..ラストは号泣という有様でした。甘く見ていて見向きもしなかったのですが世間があれほど騒ぐならじっくりとともかく最後まで見てみようと。。。。世間の感想は 主人公達の純粋さ、懐かしさ、といったものでありましたが、わたしはむしろ新しさを感じました。昔懐かしいとの批評がありましたがそうではなく。。。過去にも現在にもこんな愛のドラマ、はなかったように思います.純愛映画には間違いないのですが私の感想は一言で言ってこんな人間になりたい、日本の若者がこんなふうにやさしく温かく思いやりのある人になって欲しいいなという感想でした・作品としてストーリー展開の面白さと、スピード画面の美しさと音楽のマッチしたうっとり感。見た目の柔なチュンサンこと ヨン様が実は懐の深い男らしい人であり、見た目の好青年サンヒョクが実は想う女性への愛と恋敵への勘違いの執着に苦しみながら嫌な男へとなっていく自分自身に悩む。。。でも何よりも13年という間に彼を含めヒロインたちが、すてきに成長していく過程。。。ヨジュンの一途さとチュンサンの大きな愛と心とに吸い込まれていく作品の魅力。。。何の予備知識もなく見始めたわたしは毎回の、またラストへ向かうストーリーを推理し、ほぼ当ったことの面白さを味わいました.丁寧に丁寧にゆっくりと解りやすく描かれているのに古さはちっとも感じない、まどろっこしさがむしろ心地よい。あの青年達の礼儀正しさと親を真に敬うというしきたりがいまだ当たり前として残っている韓国へのうらやましさを覚え、感動しましたね。この映画は画像と脚本と音楽とそしてあの俳優さん達が見事に融合して出来上がったものですね。鼻にかかった甘ったるい,甲高い声でしゃべる日本の女優といわれている若い人たちと違いはっきりと聞き取りやすい声で好感の持てたチェ.ジュさん。毎回,毎回、メモしたくなるようなすばらしいセリフ..というより言葉。会話。チュンサンとユジンの間の結末もさることながらチェリンとサンヒョクの成長ぶりをとっても楽しみに見ていてふたりとも最後にやっと一人前の素敵な女性と男性に成長してくれた。。。これはもう消化不良起こさずにそれ以上のものをもらいましたし、、とにかく、年末最高のプレゼントでございました。薀蓄があるならとにかく最後まで黙って見てみようと。。。!!ありがとう!!でした。さて、どこまでできるかわかりませんが、今年はまず、旧い男優さんから取上げてみようと思っています。この半年間に1970年以降の作品も少々見てみました。また追々書ければと思っています。長い間、もう殆ど開かなかったホームページでしたがその間にもたくさんの方たちがおいでくださっていました。ありがとうございました。まだまだこのページも閉じたくないので続けるつもりです。どうか本年 は よろしくお願いいたしますね.
2005年01月01日
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ラブ・トライアングルを描いて,その先駆的作品といわれるクロード・シャブロル監督の≪いとこ同志≫。今夜はこの作品を取り上げてみます。ロベール.アンリコ監督の≪冒険者たち≫を起承転結のはっきりとしたメジャーな作品とすれば≪突然炎のごとく≫やこの≪いとこ同志≫はマイナー的に描きながら映像文学にまで仕上げた名作ではあると思う。≪冒険者たち≫を今みても青春のロマンと友情のほろ苦さや熱い思いが時代を超えて何ら古さも感じず、そしてすーっと入っていけるのに、こういったヌーベル作品の主たるものが子供じみてみえるのは年のせいだけではないでしょう。芸術作品といわれる作品なのに私に受容力ないのか?かといって若かりし頃に感動した覚えもない。もともと個人的には人情モノやサスペンス、が好きなので恋愛モノのひねったヤツは受ける器がないのかもしれませんね。だけど、ストーリーやヒロインの性格が子供じみて感じられるだけで映像、また女優の魅力は素晴らしいと思うんですよ。ポール・・・ジャン.クロード・ブリアリシャルル・・・ジェラール.フラン.フロランス・・・ジュリエット・メニエル登場人物は殆どが大学生。ポールは巴里に住む大学生で遊び人、すべてに要領よく世渡りが上手い。田舎から彼を頼ってきた大学生の従弟シャルルは真面目で純情な文学青年。ポールが自室で開いたパーテイにフロランスという美人を紹介する。一目で彼女に恋をしたシャルル。真面目なシャルルはフロランスに一途に走る。だがフロランスは男好きだった。フロランスは今度こそ真面目なシャルルと本物の恋を貫こうとするがここでも同類根のポールとフロランス。ポールはきっとフロランスがシャルルに物足りなさを覚え、飽きて捨てその結果傷つくシャルルを想像し、フロランスを我が物にしてしまう。フロランスもポールの口説きに始めほど抵抗はなかった。ポールとフロランスが同棲し始めても隣室でシャルルは痛手に耐えて試験勉強に励んだ・だが試験前日にフロランスがシャルルを誘惑しようとした。シャルルは必死で振り切ったが心の動揺は試験に打ち込めず、落ちてしまった。遊んでいて勉強もしないポールは合格。思いつめたシャルルはポールの引き出しにあったピストルに弾を込めた.そこへ来たポールと言い争いになり冗談でピストルをシャルルに向けた。弾の入っている事は知らないポールは引き金を引いた・・・・この作品で素敵なところはシャルルとフロランスが出会って、真摯な恋を語るところだ。突然・・・・のカトリーヌのようにフロランスは自分を知り尽くしてはいない。シャルルの前にいた時のフロランスは確かに純情な娘だった?彼の前にいるとそうなったのだ。だがポールの前にいると彼が言うように男好きのフロランスのように見えた。”ボクは君に出会う前からずーっと、きっと君を待っていたんだ!”君の為に詩を朗読するよ””聞かせて!””恥ずかしいから、心で朗読するよ!””聞こえた?””聞こえたわ,美しい、世界中で一番美しい声よ!”こういった一見純情そうにも見え、男好きにも見える女性。。。彼女のほうがカトリーヌよりも神秘的に見え、感情移入もしやすいのはわたしがやはりカトリーヌではなく≪冒険者たち≫のレティシアに魅力を感じるからでしょう。これはもう好みの問題ですね。だからジャンヌ・モローはわたしは徹底した悪女のマドモアゼルでのほうが魅力的に映るんですね。そして作品の中のヒロインはレティシアに惹かれます。≪冒険者たち≫のトライアングルは美しい男のロマンと友情とレティシアへのほのかな憧れを描いて美しいラブ.トライアングル。≪突然炎のごとく≫は純粋に愛だけ。その他のことは置いておいて現実とは遠い世界の恋模様で男同志の友情よりもヒロインの奔放な魅力ですね。そしてジャンヌ・モローがいたから成功した作品でもあると思う。≪いとこ同志≫は年上の従弟が初めての恋に深手を負う前にと思いやりもあって彼女を遠ざけた事で純情な青年は恋も勉強も挫折し死んでゆく不条理がなんともやるせない映画でした。冒険者たちが美しいものを理想的に描いたのに反して人生なんてこんなものさ・・・というトリュホー,シャブロルでしょうかねえ。そうそう、いずれ≪大人は判ってくれない≫も書こうと思うのですが魅力的な巴里がそこにありますね。若々しい人生への感性はそれまでの時代のルノワールやフェデーといった監督のものにはない瑞々しさがあります。ヌーベルバーグ作品に共通しているのは人間の生き方を肯定も否定もしていない魅力でしょう。≪いとこ同志≫も、≪大人は判ってくれない≫も音楽がとても洒落ています。≪死刑台のエレベーター≫に始まったフランス映画ジャズ・美しい巴里からモダンなパリへと・・・・ーーーーーーーーー明日,明後日は東京出張なので日記はお休みします。
2004年06月05日
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”ジム,ちょっと来て!お話があるの。”カトリーヌとジムとジュールは三人でドライブに来ていた。ジムはイスから腰を上げ、カトリーヌが待つ車の方へと歩いた。ニコニコと笑っている彼女は話をするでもなくまっすぐにゆるゆると車をすべらした。見ていたジュールの前方をまっすぐに海へ向かう車は崖からすーっと落ちていった。死んだ二人の火葬を終えてジュールは思った。二人の灰を混ぜてやりたかったがそれは許されなく、それでも彼はこの上ない幸福感を感じていた。こういう形でしかジュールは幸福になれなかったのだ。いきなり、ラストから入りました作品,≪突然炎のごとく≫です。映画では本当にラストのシーンですね。このラストがこの映画のテーマだと思い、そういう紹介の仕方をさせていただきました。フランソワ・トリュホー監督、1961年度の作品です。今夜からヌーベルバーグ作品を少し取上げてみますが、作られた年代は順不同でいきます。カトリーヌ・・・・ジャンヌ・モロージュール・・・・・オスカー・ウエルナージム・・・・・・・・ アンリ・セールまずはストーリーから。。。ジムはドイツ青年、ジュールはフランス青年で,二人は親友・ジュールは真面目な青年、ジムは次々と女を作っていくが理想の女性にはなかなかめぐり合えない。そもそも理想さえあるかどうかも解らなかった。そんな折、ふたりはアドリア海のある島にある女の彫像の写真を見た.その不思議な微笑みに魅了され、出かけて行った。その魅力に彼等は思った。現実にこんな女性がいたらふたりは・・・・・だが,現実にそんな女性に出会ったのだった。アンニュイさと神秘的な微笑をたたえた美しいカトリーヌにふたりが惹かれ恋するのに時間はかからなかった。だがここでカトリーヌがどちらに惹かれたかというとどちらも好きだった。普通の感情でこういうことがあるかどうかはさておいて、彼女はそうなのだった。最初は三人でドライブや、サイクリングなど一緒に楽しんだ。ラブ.トライアングルの始まりである。だが、結婚を申し込んだのはジュールだった。これでジムとジュールの関係が壊れるのがいままでのありようだろうが、この二人の親友は彼女を挟んで語り合い、成長していくようにみえた。純情なジュールにカトリーヌは”わたしたちはキット上手くいくわ”と告げた。、女を知りすぎるほど知っているジムに比べて女をあまり知らないジュールに,惹かれたのは間違いない。しかし、彼女の中にいる同類根としてのジムに大きな魅力があったのも本当だった。自分の魅力を知り尽くしているカトリーヌだからこそ同類のジムの危険な魅力も捨てがたいのだ。ジムに結婚申し込まれてからも、カトリーヌはジュールに二人だけで会いたいと誘ったりした。だが,約束の時間の行き違いからジムと合えなかったカトリーヌはジュールとの結婚を決意した。ジュールはカトリーヌを連れて祖国のオーストリアに帰った。時局は第一次大戦への火蓋が切られたころであった。ジュ-ルは戦地から熱い熱いラブレターを送りつづけた。それは彼女の魂を愛していると言うよりも肉体を思い浮かべその熱い思いを綿々と綴っていた。ジュールは彼女との最初の夜から恐怖を感じつづけていた。いつかカトリーヌが裏切りはしないか?死んでしまうのではないか?という恐怖であった。戦場で敵としてお互いに殺しあうような羽目になるのではないかと恐れていたジムとジュールは戦争が終わってホッとした.戦争の間にカトリーヌの愛はジュールから冷めていた。そして他の男たちと情事に耽っていたらしい。ジュールはカトリーヌとの娘の相手をしながら抜け殻のような思いでジムを家に呼んだ。ジュールはジムに言った。 ”カトリーヌと結婚してやってくれ!”と・ジムにも巴里に恋人はいた。家庭的な美しい女性だった。ジムとジュールは言う。 ”カトリーヌは特別美人でもないし、頭が良い訳でもない、 だけどああいう女性はいないんだよなあ”と。カトリーヌが本当に愛しているのはジムだという事をジュールは知っていた。ジムはジムで彼女の奔放さに辟易しながらも彼女を失うよりもジユールのそばにいるカトリーヌを遠くから眺められるほうがいいとずっと思ってきた。ジュールが今まさにそれだった。彼の視界から消えてしまう恐怖には耐えられなかった。それよりはジムのそばにいてくれれば遠くから彼女を見つめる事ができる。全く、また完全に彼女を視界から失う事に耐えられなかったのだった。だが、ジムは今は違っていた。巴里にいる恋人との結婚を考え、迷っていた。三角関係は落ち着くところに落ち着くかに見えたがジムの気持ちを見破ったカトリーヌとの間にも亀裂が起き始めた。ジムはやはり巴里の恋人と結婚しようと思った。カトリーヌがドライブに行ったさきで、崖に向かって車を走らせたのはカトリーヌのプライドがジムを許さなかったのだろうと・・・・・・思うのですね。愛しても愛してもカトリーヌを引き止められないジュールは”灰”になったふたりなら混ぜてやる事ができる。。。と思った。ジュールの幸せは 二人の死 であったのだろう。すべては終わった・・・・ラブ.トライアングルも取りようによっては、三文小説にもならない題材ではあろうがこの作品の素晴らしさはジャンヌ・モローの奔放な魅力に尽きるであろう。アンリ・ピエール・ロシェ・・・74歳の時の処女小説≪ジムとジュール≫が原作である。74歳ですよー。この瑞々しい題材が。三人の生き生きとした動きをとらえる美しい映像、ジムとジュールの奇妙な友情。デリケートなタッチとナレーションによる心理描写の説明でトリュホースタイルを確立した作品である。ベッドシーンなくしてこれほどの女の情念を醸し出す女優、モローはすばらしいですね。今の年齢で見るから客観的に映画として見れますが、当時の封切りでは青年達のその後の人生観や,恋愛感に大きな影響を与えたようですね。流してみているとストーリーや組み立てに目が行かずに三人の男女を中心に映像が取り巻いてくるくると回っている感じが強くでも、ああこれがこの映画の魅力なんだなあと・・この作品は三角関係を描きたかったんではなく、カトリーヌという女性の愛の自由さ、奔放さ、死をもって己が自身の真実を訴えたという魅力ではないだろうか・そしてプライドも。その迫力は人形浄瑠璃の心中ものにみる情念の世界を感じずにはいられませんでした。三人の登場人物だけが殆ど全編をしめるこの作品、前日書きましたように決まりきった、陳腐な表現など、そしてちいさな世界に登場人物を閉じ込めて。。。。といったことに当てはまっていますね。当時斬新であったにせよ、また、その後の映画にも影響を与えたとはいえ好きか嫌いかのはっきりとした選択を迫られる分野であろう。ではまた。ーーーーーーーーーーー
2004年06月03日
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ヌーベルバーグ作品に関してはあまり詳しくないのですが≪突然炎のごとく≫、≪いとこ同志≫,≪大人はわかってくれない≫≪地下鉄のザジ≫、≪鬼火≫≪美しきセルジュ≫≪素直な悪女≫などなど確かに青春時代にリバイバル興行などで観ているはずなのですが確かな見方を していない のはタシカ である。そもそもヌーベルバーグとはなんなのか??それまでの既成の概念を打ち破った映像的映画だと皆さん片付けてしまわれる。以前、フランス映画の概略史らしきものをなでしこは書きました。戦前、戦中と活躍した第一時期黄金時代の巨匠達のことを書き、またそれらの作品をかなり取上げてきました。大体においてそれらの作品は詩的レアリズムと言われる・・・分りやすく言えば文学的要素を含んだものと言ったらいいかな?それに対して真っ向からあるがままのものをあるがままに映像化しよう。無駄な脚色はしないと言うような動きが出始めた。これなんですね。でもこれだけではまだまだ解りにくい。詳しい事は図書館で見つけた本を参考に整理してみます。著者は中条省平さんという方。著書名は”フランス映画史の誘惑”というものである・噛み砕いてここに整理してみようと思います。つまりは、私たちが素敵なセリフ!!だとか、伏線ーーアンダーブロットなどの映画の定石と思われていたものがぜーんぶ,彼等によって否定されたということなのだそう。ではどの辺りを基点に??というとヒットした上記作品よりもかなり前からそういった動きはあったのだそう・詩的レアリズム=良質の伝統なのだが、新しい波を起こそうとした彼らのやりかたはリアリズムがとらえた瞬間を、瞬間に崩壊してしまうというものであり、決まりきった言葉や、駄洒落や警句でがんじがらめに囲んだ彼等のちいさな世界に人間を閉じ込める事ばかりを考えていて、それまでの心理的或いは詩的レアリズムの息の根を殆どとめてしまった・・・と書かれています。なるほど、そういう風にまず,頭に叩き込んで見ると≪突然炎のごとく≫のようなトライアングル恋愛という当時としては妙にくすぐったいような映画が斬新とみられたのも分かるような気がする。戦前派、戦中派にとってこういった作品はかなりの映画として石頭であった彼等にはショッキングなものであったであろう。だが、今見るともう、古い波である事も確かではある。しかし、このヌーベルバーグ活動は、それまでの良質の伝統的作品を徹底的に痛めつけただけでなく、映画産業そのものを根底から覆す事になった。脚本家も撮影技術者も、美術さんといった職人さんもいらなくなった映画産業は目に見えて荒廃の一途を辿るのである。≪カイエ・デュ・シネマ≫という映画評論誌若い批評家たちは文学性とは何の関係も無いヒッチコックやハワード・ホークスを賞賛した・何故なら,彼等は文学性など何の関係も無いところで真の映画表現の本質を究めてしまったからだとある。この批評家達がゴダールであり,トリュホーたちで自らが映画を撮るようになった経緯である。後の有名な著書。トリュホーのヒッチコックインタビューにもあるようにトリュホーはヒッチコック崇拝者である。まあ、そういったところが簡単に述べる新しい波の考え方のようです。ジャン.コクトーでさえ遠い源泉にあるヌーベルバーグの部類に入ると著者は分類している。この新しい波もカイエ派と左岸派に分かれているそうでそれはまた後で述べます。とりあえず、年代順に作品を羅列してみましょう。最初の成功をもたらした作品を出発点とさせていただきます。≪素直な悪女≫・・・・・・・・・・・・・ロジェ・バディム 1956年度≪死刑台ノエレベータ-≫・・・・・ルイ・マル 1957年度≪恋人たち≫・・・・・・・・・・・・・・・ルイ.マル 1958年度1959年がヌーベルバーグが本格的に暴れまくるわけです。≪美しきセルジュ≫・・・・・・・・・シャブロル 1959年度≪いとこ同志≫・・・・・・・・・・・・シャブロル 1959年度≪大人は判ってくれない≫・・・・トリュホー 1959年度≪勝手にしやがれ≫・・・・・・・・・ゴダール 1959年度≪ピアニストを撃て≫・・・・・・・・トリュホー 1960年度≪突然炎のごとく≫・・・・・・・・・トリュホー 1961年度監督別に取上げるともっともっとあるのですがまあそんなふうにして1960年代はゴダールが疾走していきます。夫人のアンナ・カリーナと組んでの≪女と男のいる舗道≫そしてなでしこでも以前紹介しました≪気狂いピエロ≫≪はなればなれに≫と言った風に・細かい事は作品ごとにそれぞれ書いてまいります。さて、先ほど書いた左岸派ですがこれはゴダール、トリュホー,ロメール、シャブロル、リヴェットといった主要五監督を中心とする≪カイエ・・・・・≫誌の事務所がセーヌ川の右岸にあり、このカイエ派よりもっと早くに活動し始めていた監督達(もっと広い意味でのヌーベルバーグに入れるとして)がセーヌ左岸のモンパルナス付近に集まっていた・その人たちのことを左岸派と呼んでいたらしい。アラン・レネやジャック.ドミー、そしてドミー夫人で≪幸福≫の監督であったアニェス・ヴァダなど。。。そういった人たちのことも、細かい事も作品の中で書いていきたいと思います。この本を読んでからヌーベルバーグ作品を見て、とっても解りやすかったです.ということで今日はヌーベルバーグというものの触りを中条さんの著書を参考に書かせていただきました。ヌーベルバーグ映画に詳しい方、わたくしの拙い整理で物足りないかもしれませんが・・・・そういうことで、明日から作品を取上げていきますね。
2004年06月01日
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5月半ばに通りがかりにお寄りになったお客様。近く、和風の喫茶店を開店するとおっしゃた。うちのお店をいたく気に入られて、絵から、花入れ、ランチョンマット、お手洗い用の壁掛けなどなど大量に買い込まれた。明日が開店ということで先ほど出かけてまいりました。うちからそれほど遠くないちょうど良い距離のところ。明るく、清々しいお店という印象でした。だけどまだ何をどこに置こうとか、新聞を入れておく入れ物がどうもすっきりしないとかで頭を悩ませておられた。ご主人の定年後に何か趣味のお店を・・・ということで奥様とお嬢様の二人で始められるそうで楽しみながらのお商売だそう。そのこだわりも秋田杉を使ってのカウンターや屋久杉を使っての大きなテーブルなどにみられた。折りしもわたしのお店の開店の時の一番初めのお客様である老婦人とは今ではお商売を離れても仲良くさせていただいています。30年かけて作られた茶花の畑は見事でしてお店に飾るお花をいただきに時々訪問している。いつもたくさん頂くので帰りに少しおすそ分けに寄りましょうと言いましたところ非常に喜ばれた。そしてうちの商品がお店のあちこちにインテリアとして並びつつあるのをにんまりと美味しいコーヒーを頂きながら楽しんできたところです。そして新聞を入れるのは小ぶりの火鉢になさいとお薦めしたところ”わーいいかもね!”ということで私の帰りについておいでになりました。おつり銭は何に入れるの??”???””せっかくここまで凝ったのだから一閑張りのお皿になさったら?”ということでまたまた我が店で座り込んで物色。”お互いに始めたばかりのお店、助け合って楽しいお店にしていきましょうね!”たまには息抜きにそういうところでコーヒーも飲んでみたい私。お伺いするところが出来て嬉しい!!そんな嬉しい今日の出来事でした。映画日記は明日また・・・
2004年05月31日
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みなさま、こんにちは。映画日記の合間に我が家のドロンちゃんの成長過程を見てください。映画日記は夜,書きこみます・・・昨年の12/31日生まれの彼も明日で丸5ケ月です。体重も8キロと、もう抱きかかえるのに一苦労・ 写真ではほっそりと見えますがそれは顔だけで胴体は丸々と。足はテリアの血をついでかながーいのです。顔もテリアの顔のごとくウブウブと毛が生えて・・・ともあれ、濡れ落ち葉の彼はわたくしめへの後追いが止みません。いつになったら???とちょっとストレスが・でもいないと淋しいとおもうと可愛い!!可愛い!ご近所の小学生達の人気者で、夕方の散歩時には”ドロンちゃんが来たよーー!!”といっぱいいっぱい寄って来て遊びます。”お家へ行ってもいい?”という子もいたりしてとにかく人気者です。人間好きの彼の人やイヌへの愛嬌は大変なものでそれだけで疲れるのか帰るとバタンキューとひっくりかえって寝てしまいます。そうそう、それとこの頃は♪歌を歌うんですよ。ハーモニカに合わせて・・・得意な唄は♪荒城の月、汽車ポッポ、結んでひらいて♪など・おすわりをして切々と・・・・では、また後ほど映画日記で。ーーーーーーーーーーーー 6月のBSはフランス映画、それもヌーベル・バーグ作品を中心にオン・エアするようですね。私の特集、急がねばなりませんね。今夜はルネ・クレール3部作の一本≪自由を我らに≫を取上げます。巴里の屋根の下、巴里祭と並ぶ傑作。ちなみに、フランスでは巴里祭なんて言葉はないそうでこの作品の邦題が始まりで日本で使われるようになったそう。原題は7月14日だそう。クレール作品を一本と言われると誰しもが迷ってしまう三作品。この作品は1931年作品。チャプリンの≪モダンタイムス≫(1936年)に多大なる影響を与えたんですね。チャプリン嫌いな私ですがこの自由を・・・を見るとえ!チャプリン??と思いました。が、違うんですね・あれほどくさい作品ではないし、素直に笑えるのです。日本の小津、山中貞雄、それに稲垣浩などの監督が多くの影響を受けていると言われるだけに作品の中のいろんなシーンでこれってあの監督のあの場面の??なんてところがもういっぱいです。単純なストーリーよりもフランス映画がいかに自由を愛し,求めるかをハイカラなシーンで表現しています。ストーリールイ(レーモン・コルディ)とエミール(アンリー・マルシャル)は刑務所仲間。脱獄しようとして失敗し、エミールの犠牲的行為によってルイだけが脱獄に成功した。ルイは持ち前の商才で頑張り蓄音機の会社を作り,これが大成功。大会社の社長となる。そして時が経ってエミールもシャバに出てきた。エミールは街でふと知り合った女性に恋をし。彼女が勤める蓄音機の会社に工員として雇ってもらう。とここまでもドタバタとはいかないが、知的ドタバタで笑わせる運びである。カメラはいつものようにクレーンを使ってのロングショット。これからエミールのドタバタが始まるのですがあのモダンタイムスで登場したように蓄音機のオートメーション化の場面がデラックスに登場。ルイ社長に会うまでの経緯は邦画 釣りバカ日誌の浜ちゃん、スーさんよろしく,クスクスの笑いが続くのである。エミールの思いがけない登場にルイはてっきり昔の事をタネにゆすりに来た?と思うのだが彼の狙いがジャンヌと言う女性のハートをいることだと知って協力。だが、ルイが脱獄した人物である事をかぎつけた輩が現れ会社を渡せとゆすってくるのである。新工場の落成式で、ルイはまだ自分にはやるべきことがあると発表、工場を工員みんなのものとし、自分はエミールとともに放浪のたびに出るのである。自由こそ宝だと・・・・クレールの心情はたっぷりと笑いの中に盛り込まれ、カメラとドラマ設定、そしてセットとすべてその後の他の監督作品に使われているシーンの宝庫であると申し上げておきます。フランスにはこんな映画が生まれるのだ!自由と小粋さと鷹揚さ・アルジェリアをこれでもかこれでもか・・と痛めつけることになる国のものであることも事実である。だがこれはどの国にも裏と表があるということで、戦争というものはそんなものなのかもしれない。人種差別も戦争も否定と肯定と表裏一体のところで息づき根が深いものだ。だが自由を求めて止まないのは何処の国も同じだということを忘れてはならない・
2004年05月30日
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さて、フランス映画特集第二夜はマルセル・カルネ監督の ≪北ホテル≫を取上げてみます。ルネ・・・・・・・・・アナベラピエール・・・・・ジャン.ピエール・オーモンエドモン・・・・・ルイ・ジューヴェレイモンド・・・・アルレッティ1938年度の製作ですが日本封切りは1949年度のようです。ご覧のとおり、女優特集で紹介しましたアナベラの登場。そして≪天井桟敷の人々≫で、かの 男を虜にするギャランスを演じたアルレッテイも登場します。当時、人気絶頂のJ・ピエール・オーモンそして性格俳優の大物ルイ・ジューべ・・・旅路の果てや舞踏会の手帖での深い濃厚な演技の名役者の登場。マルセル.カルネ独特の人間模様はいつも四人の男女によって繰り広げられる??よう。北ホテルという舞台・・・・・ホテルとはいえどうもキッチンつきの長期滞在用のホテルですね。ここに繰り広げられる人間模様をデヴィヴィエとはまた一味違うカルネが哀愁を込めて描いています。この大監督達に共通するのはそれぞれみなパリをこよなく愛していると言うこと。カルネ監督はルネ・クレールの愛弟子です。だから、脚本も詩人にして名シナリオライターのアンリ・シャンソンが担当しています。”どうしてそんなにわたしを見るの??””見失わないためさ!”など いただき! というようなセリフがいっぱい!!ストーリールネとピエールは心中しようとその場所を求めて下町の北ホテルへ辿り着いた。ホテルとはいえ簡易宿泊所に毛の生えたようなものだった・がそこには人情味溢れる主人と面倒見の良い妻が食堂も兼ねた憩いの場という雰囲気を醸し出していた。二人が案内された部屋の隣には過去に何かありそうな暗い影を背負った中年の紳士エドモンとレイモンドというカップルがかなり長いこと宿泊しているようだ。レイモンドは地下鉄の駅に立ち,男を誘い,稼いでいた。エドモンは彼女のヒモだった。エドモンは彼女を愛してなどいなかった。それどころか彼女と別れて、自分で稼いでもう一度人生をやり直したいと思うようになっていた。写真家としてやり直したい。もう一組夫婦が宿泊していたが、夫は妻の言いなりで妻は女たらしのアンちゃんといい仲になっていた。知らぬは亭主ばかりなりであった。ルネとピエールはホテルに着いたその夜に心中しようとピストルを出した。彼女は何の恐れもなくピエールに胸を撃って頂戴と言った・エドモンは夜中に写真を現像していて銃声を聞き、隣のドアをノックした。振り向いたピエールは驚き、逃げようとした。エドモンは何も言わずに逃してやった。病院に運ばれたルネは自分だけが助かった・・・と自分を責めていた。しかし警察が事情徴収にピエールを連れてきたときに彼女は自分で自分を撃ったと彼を庇った。ピエールは逃げた後、線路に飛び込もうとして,それが出来ず、絶望して自首したのだった。世間は腰抜け野郎とピエールを笑った。ピエールは愛想尽かしをルネに突きつけた。が、ルネの心はいまだピエールを愛していた。立場が逆なら自分もそうしたかもしれないし,恨んじゃいないとピエールに言った。しかし、彼にもわずかなプライドがあったのか、ルネの前に立つのが恥ずかしかったのか自分の事は忘れろとルネに言った。事情徴収によると、ルネは孤児院を出ると,パン屋の店員となって必死で働いた。が、スズメの涙のようなお給金。その頃知り合ったのが、画家のピエールだった。二人はすぐに愛しあうようになり、店を辞め、彼の絵のモデルをし始めたが,結局息詰まって死を考えたのが心中までの経緯だった。ルネは退院してくるとホテルの夫婦からうちで働いてみてはと誘われ応じた。世間の目は様々だったが良く働き明るく美人のルネに憧れを持つ男たちは多かった。ルネは”芝居が終わったら劇場から出なければならないのになかなか席が立てない・・そんな心境だわ!”と恋への未練をエドモンに話した。エドモンは外国へ旅立つ事になっていた。新天地を求めて,腐れ縁のレイモンドを一緒に・・・・ところがルネがこのホテルにいることになって気が変わった。もう一組の夫婦の妻にちょっかいを出していた男もルネを口説いたがルネはその男を相手にしなかった。その男とその妻は駆け落ちした。ルネは足しげく留置場にピエールを訪ねて通った。どうしてももう一度と希望を訴え,ピエールに迫ったがかれはどうしても 元には戻れないよと突き放した・エドモンを探して二人の男がやってきた。務所帰りの男たちであった。そのことをルネがエドモンに告げると彼はルネに過去を話し出した。昔、仲間を裏切って警察に密告したのだと。ルネは仲間を裏切ったことに後悔と自責を持ちながら生きてきて、尚,その傷を癒しきれずにいたのだった。ルネとエドモンは二人でどこか・・・・エジプトへでも旅立とうと・・・話し合った・船上でやさしくエドモンはルネを見守ったが、どうしても吹っ切れないルネの心を見透かして後悔しているのではないかとルネに聞いた。ルネは黙って下船し、刑務所へと向かった。もう一度ピエールに会いたい!そしてあの心中のことは後悔していない。間違って撃ち損なってしまったと言って!とピエールに訴えた。キットやり直せるわ!と・ピエールは不起訴となった。レイモンドのそばには妻に逃げられた間抜けな男がいて、甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いていた。街は折りしもパリ祭・・・・唄と音楽と踊りに酔いしれた群集で溢れていた。エドモンはホテルへと近づいた。ふと見上げたそこにルネはエドモンを感じた。”危ないわ。例の男たちがあなたを待っているの。”急に消えたりして・・さよなら位言ってから去って欲しかったよ!”とつぶやくとエドモンは部屋へ上がっていった。部屋のドアを開けるとそこに彼を血眼になって探していた男が待っていた。エドモンは持っていたピストルをベッドの向こうの男に向かって投げた。一階の食堂は大賑わいでざわめいていた・聞いた銃声を子供の遊びだと取り合わなかった。男は雑踏へと消えていった・翌朝、ルネとピエールはホテルを見上げ”お別れね・・・北ホテルとも・・!”と手を取り合って旅立った。★心に傷を背負いながら癒しきれずにいる中年男の人生を縦糸に若い男女の人生への足掻きを絡ませ・・・・庶民の哀しみをパリ祭の華やかな賑わいの中に人生ドラマを味わい深く描いています。カルネ独特の恋愛哲学はルネの一途な愛とエドモンのやり直そうとしてやり直せない男の消えかかったろうそくのようなか細い愛にしっかりと描かれています。ジューベの心に深い傷があるからこそ道に彷徨った若者を助けようとする紳士の心の葛藤を演じるジューべはさすがにフランス映画界に一時代を築いた名優ジューベの存在感としてここでも圧倒的です。そこに・・・画面に・・・登場するだけで存在感を我々にアピールするジューベはやはりすごいです。しかし、個人的にはデヴィヴイエの 旅路の果て の、ボケ始めた怪老人の役がやはり圧巻でした。≪舞踏会の手帖≫の彼もまた紹介しますからね。ここでのアナベラは可憐で美しく、若かりし頃の高峰秀子のような愛らしさ。≪地の果てをゆく≫での妖艶な踊り子と同一人物とはとても思えない。一時期、タイロン・パワー夫人だったこと、書いていたっけ???アルレッティはかの当り役,ギャランスの高級な娼婦と違ってここでは安娼婦。だけどもやはり貫禄ですね。こんなパリ。あんな巴里。さてさて・・・・・
2004年05月29日
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なかなか続かなくなったわたしの日記です。・・・シュン!!よほど、もうHPを閉じようかと思ったのですが,もう一度だけ書いてみようと思いました。それで続きそうだったら・・・・・かなあ?と・・・続かないようでしたらもう思い切って閉じちゃいますね。さて、ということで書いておきたい作品をとまず、フランス映画とイタリア映画に焦点をあてて書いてまいります。フランス映画については黄金期の監督作品群も以前かなりとりあげましたがそのなかでまだ紹介していない、そして見て頂きたい作品をどうしても書いておきたくて抜粋して取上げてみたいとおもいました。ルノワール、デヴィヴィエ、ルネ.クレール、マルセル・カルネ作品そしてゴダールなどのヌーベルバーグ作品。このゴダールに関してはわたしは詳しくありませんので録画していて観ていなかった作品を鑑賞して書いていきたいと思います。そしてイタリア映画は考えてみればあまり取上げなかったのでパゾリーニやフェリーニ,みなさまお馴染みのピエトロ・ジェルミやデシーカ作品を取上げれればと思っています。詩人と言われるルネ.クレールは日本の小津安二郎監督に多大な影響を与えた人。楽天的なその映画はそう言えば小津作品と共通するところがありますね。そういった目で見るとわたしが勝手に思うのですがデヴィヴィエは吉村公三郎監督に合い通じるものがあり、ルノワールは黒澤監督にジャック.フェデーは溝口健二監督にと少々無理があるにしてもどこか共通点を感じてしまうのです。ならば木下恵介監督は??んん・・・・これがイタリアのデシーカあたりに匹敵するかなあと・・そのルネールと相反するペシミズム・・つまりセンチメンタルでもありケレン味多い芝居っけたっぷりで見せてくれるのがジュリアン・デヴィヴィエだと思うのですね。先に書きましたようにジャン・ギャバンあってのデヴィヴイエ監督。ジュラール・フイリップあってのルネ・クレール監督とはよく言われるのですが今回はそのふたりのスターが出ていない作品を取上げてみます。ルネクレールの作品ではなんと言っても≪パリの屋根の下≫ですね。これはいち早くとりあげました。今回は≪自由を我らに≫を取上げてみようと思います。そしてデヴィヴイエは紛らわしい題名ですが、 ≪パリの空の下セーヌは流れる≫や≪舞踏会の手帖≫後は流れに任せて取上げてみましょう。そしてルイ.マル監督の≪鬼火≫トリュフォーの≪突然炎のごとく≫など私の手にはもてあますような事になるかもしれないヌーベルバーグ作品にも挑戦してみましょう。ということで本日はデヴィヴィエの ≪パリの空の下セーヌは流れる≫・・この映画の主題曲も≪パリの屋根の下≫と並んでシャンソンの名曲です。パリの市井の人々の暮らしと事件を絡み合わせて人間味豊かな構成と人生を描いて独壇場のフランスのエスプリを余すところなく散りばめて描いております。ところでこの作品に登場する何度も何度も国家試験に落第する外科医師の卵がいるのですがこの人,後にドロン映画の≪ボルサリーノ1.2≫両作品にマルセーユの警部役でちょっととぼけた味のある演技をしていた役者さんの若き日の姿だなと気づきました・簡単なストーリーその日の暮らしに困っているおばあさんはパリの下町のアパートで何十匹という捨てネコを飼っている。もう二日もえさを与えていず、少々ヒス気味の猫達。”おまえたちのえさを手に入れるまではあたしも食べないよ。”と今日も町にネコのえさを恵んでくれる人を求めて出かけてゆく。お隣に住む食料品店の妻は”もういかしこも貸しがあるから今日はミルクもあげられない”とやんわりと断った。そして老人施設では身寄りの無いお年寄りに施設内で食事を提供しているが持ち帰りの食糧はないとおばあさんに断った。お隣の食料品店には可愛い女の子がいる。今日は学校でテストの結果が悪くて帰れば、お父さんにぶたれると途方にくれ歩いていた。窓から少し年上の男の子が心配して声をかけ、家でお昼ご飯を食べさせ二人で探検に出かけようとセーヌ川の方へ出かけた。樽に乗って遊ぼうと・・・・折りしも少し離れたセーヌ川河畔で釣りをしていた町の人気者のオヤジが川に浮いている土左衛門をを見つけおまわりさんに知らせた。近頃通り魔が横行しているようでその被害者だろうと言う事だった。田舎から花の巴里へと家出をしてきたドニーズという美しい娘はモデルのアルバイトをしている女友達のアパルトマンに転がり込んだ。文通をしていて愛し合った男性にも会ってはっきりと伝えることがあった。そして彼女は占いのマダムのところへ行った。マダムは最初は星占いで彼女に恋人がいるねと言った。ドニーズは想いを寄せている人がいてしきりに恋愛運を占ってもらいたがった。マダムは手相と水晶占いから”あんたは強運の持ち主だ、相手の人からは愛されているし、名誉もお金も・・・それも大変な大金持ちに一夜にしてなれる運命にあるよ”と・・・・遺産でも入るような親戚がいるかい??宝くじでも買っているかい??と言われた。ドニーズは浮かれた気分で街に出て宝くじを買った・終わりが7の数字とマダムに言われて。ドニーズの女友達には医学生の恋人がいたが外科手術の腕はすごいものなのになぜか国家試験にはいつも落ちている。彼女はアルバイトのモデル業の受けがよく忙しかった。その上ニューヨーク行きの話などもあったが恋人を捨てることが出来ずに悩んでいた。彼を心底愛していたからだ。マチアスという名の画家は陰気臭く変質狂で 通り魔 は彼だった。銀婚式を迎えたエルムノ夫婦がいた。お祝いをしようと隣人や親戚のものは工場へ出向きストライキのさなか一時の休みをもらいセーヌ川河畔でみんなでパーテイーを開いた。女の子は一緒だった男の子から河岸に放り出されどうやって家に帰っていいかわからずに彷徨っていてマチアスに出会った。少女はなんの恐れもなく彼に声をかけた。マチアスは純な幼女の仕草や言葉に心洗われ一時の安らぎを感じた。ミラボー橋で少女に帰り道を教えて別れた。ドニーズは恋人・の作家に会いに行った。彼は近所の公園にいた。イタリア旅行の際に飛行機事故に遭い下半身付随となっていてドニーズに結婚は諦めてくれと言った。呆然と立ち尽くす彼女だったがそれも運命と諦めてアパートへ帰った。少女は帰る途中で街の騒々しさに足がすくんだ。少女が誘拐されたのでは?という騒ぎだったが、街を歩きつかれてくたくたのおばあさんと出くわした。ミルク代を持っているという少女の言葉に目の前のドラッグストアが目に入りふとネコのミルクを・・・と思った。がおばあさんは思いとどまって少女を家に送り届けた。家ではネコの空腹も限界でおばあさんに飛び掛るネコもいた。少女と別れたマティアスは酒場で商売女にバカにされむしゃくしゃして酒場を出た.また女を殺したくなり行き当たりばったりの女性を刺し殺した。警官がすぐさま追った。マティアスを撃とうとしてストライキが終わって自転車で家路につこうとしていたエルムノに流れ弾が当ってしまった。刺された女の子は身分証からドニーズと判明。宝くじは一等の当選った・マティアスは警官に追われていて心臓発作を起こし,倒れた・家でお祝いをしようと待ち構えた家族にエルムノの事故が知らされた。今度も試験に落ちたあの医者の卵は落ち込んで病院にいた。担ぎ込まれたエルムノの手術にあたった。おばあさんのもとに少女とお母さんがミルクをいっぱいもってやってきた。娘がお世話になりました・・・・翌日の新聞にはこう出ていた。宝くじに一等当選の美人通り魔に刺され死亡。国家試験に落ちても外科手術の腕は一流、撃たれた溶接工一命をとり止める・・・と・★いかにもデヴィヴイエらしい淡々としているなかでのドラマチックな盛り上がりです。パリの空から街を見下ろしたところに人々の生活が息づき美しい巴里は刻々と美しくなっている。7つの丘と24の橋がある巴里。人情とドライさと切なさと可愛い少女の名演。愛らしいドニーズの不運。彼女は恋愛とお金の占いは回答をもらったけれど生命運は見てもらわなかったのですよね。こんな巴里。あんな巴里。どんな巴里がまだまだあるんでしょうか・ではまた・・・
2004年05月28日
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みなさま、こんばんは。アラン・ドロン特集パート3・・・≪ファビオ・モンタル≫をご覧になっていますか・昨夜,今夜ともう手に汗握るほど興奮して見ています。複雑な枝葉で、大元のラインがうっすらとしている分目が離せなくて想像しながら楽しんでいます。12本の映画のほうは如何でしたでしょうか。手持ちのビデオで見るのと違って多くの方たちと同じ時間に見ている楽しさは格別でしたよ。彼に関してはもう、書き尽くしたつもりですがそれでも興奮して止みませんでした。若い時分の海の底に吸い込まれそうなブルーの瞳から昨夜からのドラマでの66歳のドロンの渋さと凄みと温かさをすべて出し切っている手ごたえ。またまた惚れ直してしまいました。≪フリック・ストーリー≫のまっすぐで温かな中年の刑事の晩年を思わせ、≪私刑警察≫の渋さと温かさの混じったヒーローを重ね、そして≪兇悪の街≫での凄みをすべて足した人物・・・ファビオ・まだまだ、現役でいけますよね。イタリア.マフイアと警察内部の癒着を匂わせる出だしから、個人的な犠牲を負わされる中盤。明日は・・正義の代償・・・とあるからにはまた、殺されるのでしょうか??負傷だけで終わって欲しいわ。それにしてもマルセーユのあのファビオの自宅は夢のような住居ですよねえ。コバルトブルーの海を見下ろす赤い屋根の白壁の家。テラスでの食事・・・・ドロン様とシャンパンでも傾けながら・・・・ああ今夜の夢と行きましょう・・・・さて、今回の特集もそれぞれ違ったキャラクターのドロン作品でその変化が充分に味わえたのではないかと思います。先月亡くなったジョゼ・ジョバンニ作品も2作だか入っていましたし、フリップ・サルトのキレイな音楽もお聞きになったでしょうし、フランソワ・ド・ルーペの音楽も聴けたし、満腹になりました。わたしは個人的には初めて見た≪テキサス≫が作品的にも、非常にテンポの良い,スピード感のある作品でしたので満足でした・さあ、明日のドラマの最終回を見て、また書きたいと思います。
2004年05月20日
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みなさま、こんにちは。いつ放映されるか、いつなのか?と待ちに待った作品・・・≪避暑地の出来事≫がミッドナイトに放映されましたよね。懐かしくもあり・・・当時,青春映画として見たと記憶していたのですがどうしてどうして熟年の恋と若者の恋を絡ませた結構真面目な作品でした。エリア・カザンの≪草原の輝き≫にも通じる厳しい親に監視されのびのびとした恋も出来なかった若者の苦悩が開かれた国アメリカでさえあの当時は保守的であったんだなと改めて感じました。ミュージカル≪足ながおじさん≫や≪恋の手ほどき≫などの開かれたアメリカの陽気な若者達の世界を描いたものと比べて裏側ではこれが真実の世界だったかなと。リチャード・イーガン、そしてヒッチコック作品や≪らせん階段≫でお馴染みのドロシー・マクガイアの熟年の恋と、ワーナーの花形スターだったトロイ.ドナヒューと、お菓子のように愛らしい,食べたいくらい愛らしいサンドラ・ディの若者の恋という四人の共演とあってはどうしてももう一度見たいではありませんか!!パーシー・フエイス楽団の演奏やパット・ブーンの唄で世界的にヒットしたサントラ・・ ♪夏の日の恋♪・・・マックス・タイナー監督・デルマー・デヴイスストーリーを紹介しますね。パイン島に住む一家族はもと名士の富豪だったが邸をペンションにして生計を立てている。もと一族の雇い人だった男が妻と娘を連れて避暑に来るところから物語は始まる。やってくる元雇い人はケン(リチャード・イーガン)とその妻娘モリー(サンドラ・ディ)迎えるペンション側は妻シルビア(ドロシー・マクガイア)と夫息子ジョニー(トロイ・ドナヒュー)落ちぶれた名士と今は成功して裕福になったケンはお互いにずっとひっかかっていた思いがある。ケンは元恋人だったシルビアを忘れられずにやって来る。もちろんケンの妻はそんなこと知らないと思っている。夫婦仲は冷え切っている.その上妻は娘には異常な厳しさというより冷たい心の持ち主でがんじがらめにしている。夫ケンと離婚したいが慰謝料をふんだくろうと画策している。娘モリーはパパ似でパパが好き。ケンが家族を連れてやってくると知ってシルビアは落ち着かない・彼女もケンを忘れられないでいる。こちらの夫婦も冷え切っている。シルビアがケンを忘れないでいることを結婚してすぐに気づいた夫は酒びたりで、ケンがやってくることを知って成り上がりを馬鹿にしようと待ち構える。ところがモリーとジョーが一目ぼれしてしまった・潔癖症で冷ややかなモリーの母はことごとくモリーをがんじがらめの剣のある言葉で指図する。まあそういったことを抱えたところからストーリーは展開してゆく。面白いのはこのそれぞれの人物像が非常に丁寧に描かれその考え方が興味をそそるのである。ジョニーとモリーが庭でキスをしたことで母親は怒りモリーを怒った事からとうとうケンと妻は言い争う。妻は人の愛仕方、愛され方を知らない女性。娘のキスをふしだらだとののしった。夫のスエーデン気質の遺伝だと・”いい加減にしろ,おかげで新しい家も決まらん。学校の近くは子供がうるさい?ユダや人やカトリックもダメ.ポーランド人にイタリア人、黒人もダメ・子供も、その上今度はスエーデン人もか!それに東洋人も信用できない。英国人は俗物。ロシア人は怖い。フランス人は不道徳で南米人は怠け者・。虐殺でもする気か?嫌いなやつを全部??娘の自然な欲求も許せない・・?若者の恋は安っぽくてふしだらか・!!”ケンは妻に言いまくった。モリーは父のはじめての旅行を台無しにしないでというが自信満々の母は聞く耳を持たない。がこれも妻の母親の入れ知恵で本当は何もわかっちゃいないダメ母であった。信念があってするという類の厳しさではなかった。そしてシルビアとケンは二人きりになる機会を得、今までの想いを告白、結局はお互いに相手と別れてやり直そうと約束。そしてこのボートハウスでの密会を監視員に見られてしまう。そんな折、若者二人はケンのヨットで出かけ嵐に遭い、島で一夜を過ごす。何も無かったがいつも何かがあると目撃するボートハウスの管理人が見た事を面白おかしく言いふらす為に話が複雑になっていく。その上、娘の身体を診察させるという手段に出た母親・モリーは精神が錯乱、失踪する。二組の両親とジョニー,警察官と一同に会する事になるがここでそれぞれの人物の愛憎や理念が噴出し、興味深い。ケンの妻は夫に似た娘を父譲りのふしだらな娘と決め付けながらも養育費をもらおうと手放す気はない。無責任なジョニーの父もシルビアとケンの愛情を確認する事になるが離婚するならジョニーを渡さないと言う。しかし愛のない結婚生活にピリオドを打ちケンと、シルビアは島の噂や、本土での噂にも負けずに結局結婚する。ジョニーもモリーもまだハイティーンで寄宿学校に預けられながらも文通や電話で連絡を取り合い、二人の情熱は奮まってゆくがお互いに結婚した親たちの事は許せない.理解できない。シルビアの元夫は酒びたりがひどくなり廃人同様。モリーの母は益々かたくなに娘に厳しくなり理解を示すどころか分ろうともしない。ケンとシルビアは新居にモリーとジョニーを招待する。最初は拒んだ二人だがやってくる。理解ある二人の下、映画に行くといって二人は海岸で夜中まで過ごす。戸惑ったシルビアとケンだったが自分たちの若い時の気持ちを思い出してみよう!そうする事によって若い二人の力になろうとした。しかし遅く帰ってきて抱き合う二人を見てケンは節度を失うなと叱ってしまうのだった。それぞれの寄宿舎へ戻ったモリーとジョニー・妊娠したことをジョニーに告げるモリー。ジョニーはモリーを学校まで迎えに行き、モリーは父にもらったコートを売ってお金を作りパイン島まで出向き、ジョニーの父親になんとか力になってもらおうとする。いい加減に見えた父は海軍病院へ潰瘍で入院するほど弱っていたが意外にも二人に別れろという。若いうちはたくさんのボーイフレンドやガールフレンドたちとバスケやスポーツなどに興じろ、もっと青春を楽しめと言う。モリーはジョニーの父親に言った。”ひとつ忘れていますわ、 わたしたちは愛し合っていると言う事を!”そして治安判事のところに結婚の許可をもらいに夜中に訪ねるも親の承諾が要ると断られる。二人の力ではもうどうする事も出来ず・・・・ケンの元妻から二人の失踪を聞いたケンとシルビアが心配しているところに二人はやってきた。シルビアとケンは二人を温かく迎え、”力になるわ・”ケンは”だが厳しい現実が待っているんだぞ!”と・どういう風に若者を導いてゆくか。年を経てゆく大人は過去を振り返って若かった頃の気持ちを思い起こす事を忘れているそれを思い出せと示唆し、また、大人も異性を真剣に愛す事で他人への思いやりも心の内側も計り知れるものだと言っているようですね。とても丁寧にそして古さを感じず、むしろ新鮮な恋愛教科書のストーリーでした・純愛が若者の間で見直されている昨今。若すぎる若者の恋は極端ですがしかし、情熱は大人も若者も同じものだと思います。人は噂にし、面白がったり、そしてモリーの母のように愛する事愛される事を知らない女の冷ややかさはついに恋や本当の愛というものを知ることは無かった。恋というものは一時の情熱、それが静まって後に来るものが 愛 だとシルビアは言いました。わたしもそう思いますね・・・・島や海を美しく映すカラー映像が見事です。後年、ピンク豚のようになってがっかりしたドナヒューですがここではヤンキーの若者ののびのびとした姿が格好よい・B級映画だったと認識していたのですがどうしてどうしてシリアスな丁寧な作品でカザンの≪草原の輝き≫のような胸キュンのラストではないにしろ大人の恋が結構いい感じで恋愛哲学もいい意味での古さが胸キュンです。まあカザン作品は本当に若者の恋だけに焦点を当てていたので比較は無理かも知れませんがね。ある雑誌で目にしたのですがA級映画とB級映画の違いは何だろう??それは時間だと言っていました。つまりA級映画は大作っぽく時間が長いだけのことだそう。短時間ドラマ仕立てのB級と言われた作品にも素晴らしいものが多く、本国アメリカでA級,B級の区別はあまり無いそうだ。日本人の映画ファンがいかにも分った風に言っているだけのようです。この≪避暑地の出来事≫も時間の長さから言わせれば充分にA級の貫禄であります。戦中,戦後に活躍したドロシー・マクガイアは熟年になってからのほうが素敵な婦人になっていて素敵でしたよ・どなただったかなあ?以前,この作品が見たいとおっしゃっていましたが、見られたかしら??今夜はドロン作品は≪暗黒街のふたり≫という名作です。またまたラストでギロチンにかかるドロン様。でもこの作品は必見です。それではまた。
2004年05月14日
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みなさま、ドロン特集,堪能なさっているかしら??≪テキサス≫の軽妙な役どころは珍しく彼の初期の、まだ道筋の無い頃のいろんなキャラクターのひとつとして堪能しました。デイーン・マーチンが出るからには喜劇であるには間違いないと。ジェリー・ルイスとのコンビよりもいいかも?と言う感じでした。ハリウッドでの仕事は当時、不評だったのですがその後の仕事を見てからこういった作品を見ると意外といいんじゃない?という感じでいかにも二枚目ドロンとしてのお仕事!!さて、今夜はドロン作品の中でわたしの一番好きな≪冒険者たち≫が放映されましたね。そしてミッドナイトは≪若者のすべて≫でまた、号泣しなくてはなりません。ドロンだけでなく、サルバトーリやアニー・ジラルドのデビュー作品としてまた三人の力演、そして名作といういろんな見方が出来ますので是非見てくださいね。それから話は全然変わりますが掲示板にちょっと≪情事≫のことで書き込みがありましたが掲示板では量的に書き込めないのでこちらにストーリーを書いておきます。ミケランジェロ・アントニオーニ監督モニカ.ヴィッテイ主演の作品。ドロンの≪太陽はひとりぼっち≫のところでもちょっと触れましたが、高度成長期に差し掛かったイタリアの社会的背景。フランスのヌーベルバーグとも重なった時代の作品ですが当時はあまりに前衛的に感じてわかりづらかったものですが今、見るとなんてことない、分るんですよね。愛の不毛なんて言われたってその頃の私たちにはなんのこっちゃ?ッて感じでした。若者に大受けでだったそうですがほんとに分ったのかしらね??青年建築家とレア・マッサリ扮する大使の令嬢アンナだったかな?一組の恋人同士がいる。夏の終わりに公爵夫人の招きでシチリアへ小団体旅行に出かける。オンナのほうは二人の仲がすでに冷え切っていることを悟っている為に女友達モニカ・ヴィッテイを誘った。が、一行は無人島に到着。アンナは失踪してしまう。この件はなんなのか説明されずに話は進む。そのうち女友達クラウデイアと男が親しくなる。アンナを探すも見つからずそのうち探す事を諦める。アンナにやましさを感じつつもクラウデイアはある夜男と結ばれるが,その夜寝つかれずにサロンへ行くと恋人になったはずの男が娼婦と戯れているのを見てしまう。男は涙を流してクラウデイアの前に発ち尽くす。クラウデイアはただ、男の頭を撫でてやるだけであった。その意味はわからない。許し、受け入れているのか、呆然としているのか分らない・ただそれだけの話で観客に答えを出せといったもののようだったと記憶する・こんなお話です・・・ゲストさん!!ストーリーと女優さんのお名前をお尋ねでしたのでこんなものでお答えになりましたでしょうか??さて,ドロン作品に戻りますが見ていらっしゃいますかドロンの作品紹介の中でそれぞれちらっと音楽にも触れてきたと思いますが作品のテーマ曲にもそれぞれ耳を澄ましてくださいね。どれもがすばらしいメロデイーである事を申し上げておきます。どの作品とどの作品があの作曲家の担当で・・・なんてことまで気づいてくれると嬉しいんだけどな。。。では、そろそろ≪若者のすべて≫を見る準備に・・・・ではまた・
2004年05月13日
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いよいよ明日からNHK.BSでドロン様特集です。わたくしは連休中、出張だったのですがアクシデントに見舞われ、落ち込んでおりました。スリに出くわしまして・・・・・まあその話はカットしましょう。先日のお約束のドロン作品、≪世にも怪奇な物語≫の紹介がまだでしたので、気にはなっていたのですが・・・今夜はちょっと述べてみましょう。その前に今夜BSで明日からの特集のまとめと言うか映画ほど素敵なものはない・・・という番組でJ・フイリップとJ・ギャバン、そしてアラン.ドロン様にスポットをあてクイズ形式で楽しい番組をやっておりましたね。その中で興味を惹かれたのが元モデルの山口小夜子さんによるいい男の(あくまでもフランスの映画俳優を対象として)3条件を上げていました。1.光と影2.悲劇性3.エレガンスそうですよね・ぴったりの表現です。三人ともまさにこれに当てはまりますもの。明るい演技も味わいのある演技も演じ分けられる男。そして常に死が付きまとう役柄がはまる。エレガンス・・・・これはもうファッションにおいてはフランス男が世界中で一番粋なのだからして当然のお3人でありますが、加えて私生活の中で培われた彼等の教養が溢れるエレガンスということでしょう。そして私がもうひとつ加えるとしたらこのスターたちの男の色気である。まさに色気がいかにスターにとって大事か!という代名詞のような3人です。今回の放映でドラマを外してみて、作品は12本ですか。そのうち、ラストで死んでしまう作品が(死を予感するものも含めて)8本であります。全作品82本のうちでも2/3は死んでしまいますよね。今夜の≪世にも怪奇な物語≫でも彼は死で幕を閉じまする。原作・・エドガー・ア・ランポーで3つの作品のオムニバス形式・ドロン様は二部のルイ・マル監督作品・(死刑台のエレベーターなど) ≪影を殺した男≫に登場します。一部はロジェ・バデム監督でジェーン・フォンダ主演の・・(馬に哭かれた男)三部はフェデリコ・フェリーニ監督、テレンス・スタンプの・・・(悪魔の耳飾り)今夜はドロン様の部分だけを紹介しますね。怪奇な物語と言う事ですが、この言葉は一時流行りましたよね。(影を殺した男)・・・ウイリアム.ウイルソンが原題・・・・・・そしてドロン様は二役を演じます。★若い士官が聖堂へ向けて駈けていきます・・・”懺悔を・・・・”と神父に飛びつく。名をウイリアム・ウイルソンと言い、人を殺してきたと言う。殺した男の名もウイリアム・ウイルソンと言うそうだ。彼は幼い頃からの経緯を話しはじめた。学校でも、幼い頃からウイルソンはその非情さが目立ち同級生へのいじめは病的であった。転校生に赤インクをかけ,転向生は先生に”ウイルソンがやった!”と言ったその子へのリンチは残酷でロープで吊るし、その下にはたくさんの鼠が入っている樽が置かれてあった。ニコリともぜずに仲間をあおり指揮をとった。しかし、そこにウイリアム.ウイルソンという同姓同名の男の子がどこからともなくやって来て悪さを妨害した。彼は学校を放校となったという。そして何年か経って彼は医大生となった・人体解剖の実験を興味深げに見る彼は夜の町で女性を待ち伏せある部屋に連れ込み裸にして台に載せ、縛り同級生の見る前で、教授の口真似をし、同じ仕草をし、女性をいたぶった・しかし、ここでももう一人のウイルソンが現れ彼の邪魔をした・・・・そしてまた時が経ちこんどは軍隊に入り士官としてある町にいた。夜,サロンに出向いたウイルソンは美しい高慢な女性(ブリジット・バルドー)に侮辱された。女の敵としてのウイルソンを遠まわしにののしったのだった・侮辱を受けたウイルソンがこのまま引き下がるはずは無い。カードをやっていた彼女に勝負を挑んだ・最初は彼女に勝ちがありと見受けたがつきは逆転し、彼女は無一文になった上に借りを作って負けた・それはウイルソンの言うなりになるという条件で借りたものだった。得意げにウイルソンはこの場で言うなりになれと言った・彼女を後ろ向きにさせドレスのジッパーを降ろした・・・そして、始めたのは鞭で打つ事だった。怒りを込めてウイルソンは何度も何度も打った・ところがまたもう一人のウイルソンが現れ彼の勝ちはいかさまだ・・と言い、女性に衣服を渡した。女性は彼の頬をぶった・去ったウイルソンの後を怒り狂って追うウイルソン・剣を向け斬りかかった・”如何して自分の邪魔ばかりするのか!”・・・・そしてウイルソンはとうとうもうひとりのウイルソンを刺し殺してしまった。もう一人のウイルソンは言った・”どうして私を殺した?お前も死ぬんだぞ!”と・怖くなったウイルソンはここ大聖堂へ駆け込んだのだった。しかし、神父は”悪夢だ。悪を反省し,祈りなさい、”ウイルソンは”バカめ!そんな言葉を求めちゃいない”と聖堂を走り出て鐘楼へと上った・・・そして誰に押されるともなく落ちていった・・・・のだった・彼はもう一人のウイルソンを殺したはずだったが自分を殺したのだった・・・・つまり人間の心の中にある善と悪の心を二人の男という形で描いたのでしょうね。表のウイルソンと影のウイルソン。人の愛を知らないウイルソンは人をいたぶる事しか出来なかった。もう一人のウイルソンが彼を諌め守ってやったそのことを認める事も気づく事もさえ出来ずに結局自分を殺してしまったのだった・この作品は 美貌の ドロンで光る作品となりましたね。一度も笑うシーンは無い・冷酷非情も彼が後にプロデュースした役作りの作品のにある非情さの雰囲気ではありません。ルイ・マル監督の望んだ非情な男のような気がします。だから役者ドロンと言うよりこれこそ水も滴るいい男時代のまさにはまり役のドロン様がいますよ。オンナの色香に迷わされる事なんぞない非情な男・・・いいですね・そして明日は第一夜・・ ≪地下室のメロデイー≫・・ジャン・ギャバンとの初共演の作品でニースのリゾート地を舞台にカジノの売上金をごっそりと頂く計画・・ちょっといなせな町のアンちゃんとムショ帰りのギャバンとのコンビ。その後、男臭さが加わる味のあるドロン様になる前の一番ハンサムな時のドロン様を見てくださいませ。そして毎日,少しづつ味わい深い、役者ドロンへと変わって行きますからね。今回の作品では≪テキサス≫・・・ もう忘れてしまっているので楽しみにしています。もちろん録画もバッチリとしてドロンコレクションを完成させていきます。ワクワクしています。
2004年05月09日
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みなさま。こんばんは。今日はみなさまにご報告があります。5/10日からBSで二週間にわたって、アラン様の作品が放映されます。♪たっぷりアラン.ドロン二週間♪です。読んでから,見るか、見てから読むか?なでしこのアラン.ドロンの部屋を覗いてくださいね。5/10・・・・≪地下室のメロディー≫、≪パリの灯は遠く≫5/11・・・・≪悪魔のようなあなた≫,≪テキサス≫5/12・・・・・≪サムライ≫、≪愛人関係≫5/13・・・・・≪冒険者たち≫、≪若者のすべて≫5/14・・・・・≪暗黒街のふたり≫5/15・・・・・≪世にも怪奇な物語≫5/17・・・・・≪帰らざる夜明け≫5/18・・・・・≪ブーメランのように≫そして5/19日から5/21日まで三日間に渡って私も今回が初めて見れるというドラマ≪刑事物語≫が登場です。≪世にも怪奇な物語≫以外は全部アランの部屋に取上げていますのでまた、読んでくださいね≪世にも・・・≫は次回のアラン特集で書き込もうと思っていたのですが今回放映されるのでそれまでには書き込むつもりです。なんだかまた、うずうずと書きたくなってきましたね。アラン作品の他にも先達て紹介しました≪花嫁の父≫も放映されますよ。そしてフランス一の名画.≪大いなる幻影≫、も・それにですね。この映画日記を始めた頃に取上げました≪宮本武蔵と机竜之介≫・・・・・内田吐夢監督の≪大菩薩峠≫も放映されます。★、ここに去年書いた机竜之介・・・つまり大菩薩峠の日記を写しておきますね。★1.≪宮本武蔵と大菩薩峠≫うちの母は、月に一度は、ー(宮本武蔵)中村錦之介ーの映画をビデオ鑑賞している.何度観ても飽きないのだそうで一諸に観る私は、そらんじて話せるようになってしまった.この映画は、5年の歳月を費やして製作され、関が原のシーンから始まり、徳川家光の世 巌流島の決闘までの映画である.5部作で8時間という長きを付き合わねばならない.改めて思う宮本と机龍之介の比較をしてみた.『大菩薩峠』製作 東映 S.32年度監督 内田吐夢原作 中里介山出演 片岡知恵蔵/中村(萬屋)錦之助/ 長谷川裕見子/木暮実千代『宮本武蔵』製作 東映 s.36年度監督 内田吐夢原作 吉川英治出演 中村(萬屋)錦之助/三国連太郎/木村 功 入江若葉/浪速千栄子/木暮実千代『大菩薩峠』については、前後して、(大映)、市川雷蔵主演で作られたが、(内田吐夢)監督で、比較したく敢えて、(東映)作品を上げてみた.1950年度末~1960年代にかけては、この内田監督の時代劇全盛時代である。チャンバラと時代劇をどう区別するか?この時代のチャンバラ映画は、1週間で、新作へと看板の変わるほど次々と封切ラレタ.黒澤時代劇が、出てからのち、彼の作品ばかりが、取り上げられ、今日までその継がれかたは、尾を引いている.だが、我々世代の時代劇フアンには、 マキノ雅弘 松田定次 沢島忠 森一生 など、たくさんの チャンバラ映画監督が、いた.が、伊藤大輔と内田吐夢は時代劇の名監督でありその作品を観れば、黒澤だけでないことも分かる.なぜこの武蔵と机龍之介(大菩薩)映画を比較したか..画かれた世界の 共通点と相反する一生の物語があるからだ.武蔵は、沢庵和尚と出会えたことにより、学問と剣の道を知り また、知ったが故に悩み、敵も作りだが背後に仏の心が”沢庵”や”お通”という純粋無垢の女性の在存が彼の行く道を単に剣だけでなく、人間として成長することへの導きとなり後世名を残すほどの一生となる.龍之介は反対に強いとはいえ、その邪悪な剣により非業の最期を遂げる一生となる.が、共通して言えるのは、その節目、節目に優れた人生の師、また女性に巡り合う.面白いのが、曰く因縁の輪廻と言うか人の巡り合わせが、非常に類似している点だ.これは、吉川英治も中里介山も、”仏の道、心、慈悲の心”を1本の芯としてのテーマを投げかけているように思えるのだ.どうにもならない”業”生き方によりこうも違う。が、龍之介を悪人として終わらせない.この”世界”を吐夢監督は、両者芸術作品に仕上げたと思う。武蔵に生涯”想い”を貫く”お通”は入江若葉を置いて他の女優は、浮かばない.”お通”=入江のイメージは壊したくない!錦チャンの武蔵は、これまた武蔵とイコールで、この映画で、演技開眼!殺陣のシーンはすごい迫力で特に(一乗寺下がり松の決闘)では カラーから突然モノクロに変わる。時代劇の殺陣のシーンでは、最高であろう.錦之介の熱演、三国の不気味さ、数ある吉川英治映画の最高傑作である.方や勝負の極限の世界、方や勝負の狂剣の世界.両映画から伝わるものは”気品”である.時代劇には、役者の色気と気品が大事であると思っている。最今 気品のある男優、女優はいるかもしれないが時代劇の色気を出せる俳優は、激減して、悲しい!付け焼刃の芝居では、なく時代劇のなんたるかを指導してから出演させて欲しいものだ.市川 机を取るか、片岡机を取るかは好みであるが、市川 机は、眠狂四朗と重なり私は、減量して挑んだ片岡 机を選ぶ。★ワクワクしますね。なでしこで取上げた作品が次々と後から放映されるなんて・・・・どうぞ、どうぞご覧になってくださいませネ。そして長年みたいと思っていた内田吐夢監督の ≪血槍富士≫も放映されますので待ち遠しいです。絶対に見逃せませんね。これについても見てから書きますからね。さて、さて話をアラン様に戻しますがDJYANGOさんから掲示板に書き込みを頂きましたようにアランの作品を数多く手がけた脚本家であり監督でもあったジョゼ.ジョバンニが80歳で亡くなりましたが今回放映される作品では≪暗黒街のふたり≫、≪ブーメランのように≫がジョゼ・ジョバンニの作品です。社会の不条理に立ち向かって訴える作品を撮ったジョゼの名作を堪能なさってくださいませネ。アランの作品と言うこともありますが、アンリ・ベルヌイユやジュリアン.デヴイヴイエ監督、そしてジャン・ピエール・メルビル,ロベール.アンリコといった一時代を築いたフランスの名監督の作品。そしてルキノ.ヴイスコンテイのイタリア作品・・・いう視点からもぜひご覧頂きたいものです。やっぱりドロン様の力はすごいな。実のところアレだけの作品が毎日書けたのは母の介護から安らぎを求めていたから書けたのでして今それがなくなって逃げる必要がなくなり書く気力がなかったのですがアラン様の特集と聞いて書かずにはいられなくなりました。≪世にも怪奇な物語≫を一両日に書き入れます。5/3,4,5日は仕事で大阪,京都に出張しますのでお休みします。また張り切れそうです。ドロン君はりりしくなり一気に言葉を理解するようになってから、もう完全に恋人どおししです。向こうは母親と思っているのでしょうが・・・”嫌いよ!”という言葉と”あんまりいたずらをするとおかあさん出て行くわよ!”と言う言葉が非常に傷つくようで諌めるのは簡単になりました。濡れ落ち葉は相変わらずですが24時間、わたしの動きを監視しています。だからわたしの考えていることや行動がすべて理解,判断できるようです。可愛いものですね。本物のアラン様とまたまたみなさまとご一緒に鑑賞できるなんて夢のようです。うれしい!!
2004年04月30日
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みなさま、こんばんは。一週間ほど前にちょっと体調を壊しそうになったのですが、なにげなく「死」 というもについて分析していました。母の死によって落ち込んでいたのではなく、これから生きていくということについて考えた時に母が死んでいったときのことから彼女はどうやって死を受け入れ、召されていったのか?とはたと考えたのです。折りしも今日、週間新潮を読んでいて養老猛司氏が「死の壁」という著書を出版されたのを知りました。それを読む前にここに思ったことを書いてから読んでみようと思ったのです。わたしが母の死を通して思ったことですので各々の方たちの死というものへの思いは違うと思います。衰弱が激しくなった時に母は家にいるときから家に帰る,家に帰るとしきりに申しました。"ここはお母さんの家よ!”と言ってもダメでした。何処へ帰ろうと言うのか??その時にはこれをわたしはボケ,或いは痴呆による幻覚症状だと何の疑いもなく思っていました。ところが母がどんな気持ちで死んでいったのかを思い起こした時に気づいたのですが、亡くなるひと月ほど前から家に帰ると言い始めたその時にはすでに魂はあの世にすでに行っていたのではないかと思ったのです。そして肉体の最期を迎える前に家族に会って別れを告げる時期と場所を捜し求めていた。つまり寿命が来るまであの世からこの世へ帰りたがっていたのではないかと?そして寿命が来たときに私たちに会いに帰ることが出来、そして肉体を持ってあの世へ再び戻るべく息を引き取った。だから、死が怖いとも感じずに旅発てた・死ぬまで死が怖いと思っていたとしたらとても死ねないのではないかと。死は怖いものではない・・・そう感じることが出来たのです。人間はそういう風に出来ているのだなとある回答が出たのです。死への遭遇の仕方でそれぞれ違った死の受け止め方はあるでしょうがわたしはそういう風に思えました。亡くなる前,一ヶ月間はまるで仏様のような言葉を吐いていました。家族も、病院の看護士さんたちも母にとってはもう同じこの世の人たちに過ぎなかったように思えるあり様だったように思えます。だから亡くなる前の日にやっと寿命が来て、わたしたち家族に会いに来て別れを告げ肉体の終わりの扉を閉じた。それを考えた時に死は怖くなくなりました。人は肉体の終わりがあるずっと前に魂があの世に旅立っている。さすれば肉体の終わりは後からついてくるから棺桶に入ることは怖いと言うことさえありえないのだと。もうひとつ感じたのは一年前から母との会話は半分は閉ざされたものでしたからそばにいるというだけのもので、わたしは自分の世界で母の返事がなくても多分こうだろう?と一人で判断してきました。だから亡くなったときに落差がなく、悲しみがありませんでした。淋しさはこの一年間にもあったから亡くなったことで淋しさを特別感じたと言うこともないのだと気づきました。そうやって見ると、こういうことを分析できたのも母のおかげで彼女は大した オ・ン・ナ だなあと改めて気づかされました。そしてそれこそが生きるということに繋がっているのだなあと思ったのでした。人は肉体が死んで,その後に魂があの世へ行くとずっと思っていた私の考えは180度変わった・・・というより気づいたと言うことを報告したかったのです。死というものを真剣に考えたことでひとつの回答が出て本当に良かったと思っています。以前、≪東京物語≫の感想を書いた時に母が死んだ後に見るこの作品はもっと違ったものに感じることでしょう・・・と書きました。早速、もう一度鑑賞してみます。
2004年04月24日
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みなさま、おはようございます。昨日の日記が遅くなってしまいました。今日はジェームス・スチュアート主演の異色の西部劇・・・≪ウインチェスター銃73≫を取上げます。その前にジミーのことに少しばかり触れてみますね.クープ(ゲーリー・クーパー)と並んでアメリカは良きスターを生んだものだと思う。クープもジミーも人懐こい優しさ溢れるキャラクターであるがジミーは土着の匂いのする地方出のインテリア紳士と言った品のよさがある。彼の作品を見てみると裏切りや,不実な恋、残虐なものと言うものはない。いつも善良で、愚図で温かく誠実なキャラクターである。のっぽであるが人を見下ろすと言った風はなく、むしろ猫背で、遠慮がちに人のほうへ顔を近づける・・そんな感じである。この平凡な紳士は第二次大戦に従軍した映画俳優の中では最高位の閣下であった人だそうだ。彼の出世作はもちろん、≪スミス都へ行く≫であるが、その前年の≪我が家の楽園≫、その後の≪フィラデルフィァ物語≫から、≪燃える熱球≫≪素晴らしき哉,人生≫」と続く。ドラマティックな演技ではない自然体の彼がいつもそこにいるのである。≪地上最大のショー≫、みなさまお馴染みの≪裏窓≫≪グレンミラー物語≫そして日本でバカ受けした≪翼よ!あれがパリの灯だ≫≪めまい≫≪媚薬≫などなど上げるとすればどれもと取りげたい作品ばかりである。西部劇について言えば、今日紹介する≪ウインチェスタ銃73≫の後.≪折れた矢≫にも出演しており、後に≪西部開拓史≫というオールスター.キャストの作品にも出ている。クープの活躍が少し早かったので今の若い人たちにはジミーのほうが馴染みが深いのではないだろうか。スター性としてはクープが圧倒的であるがこの人もアメリカのよき時代を演じて負けない。この二人を見ているとアメリカを信じたくなってしまう、そんな俳優である。さて、ウインチェスター銃・・・・監督はアンソニー・マン相手役の女優さんはシェリー・ウインタース・・・・ウインチイェスター銃ライフルM1873の物語である。「西部を征服した銃」 として、牧童、無法者、保安官、兵士らの宝物であった。インデイアンは魂と交換しても良いとさえ言った。1876年7月4日ダッジシティ・・・独立100年祭射撃大会優勝賞品としてガラスのケースに陳列されてあるその銃を見て町民は口々につぶやいた。 ”すごい!ウインチェスター73だ!” ”千に一丁の銃だ!初めて見た。” ”一年がかりで作るんだ! 最初のは大統領に・・” ”抱いて寝たい”などなど・・・ 楽器の名器。バイオリンのストラス.バリウスだとかなんだとかと 同じとは言わないが、 千丁の銃を作れば一丁の名銃ができるというものなのだろう。さて、リン(ジミー・スチュアート)も射撃の名手として射撃大会に参加する為にこの町へやってきていた。ここで、祭りには酒場の女がいては困ると馬車で追い返されている婦人に出会った。これがリンとローラ(シェリー.ウインタース≫との最初の出会いだった。レデイ扱いをしたリンにローラは好感を持ったが彼女には婚約者がいたようだ。追い返した男は町の保安官,ワイアット・アープだった。祭りの間は銃の携帯はご法度だと腰の拳銃は預けさせられた。案内された酒場でハッとして身構えた男がいた。ダッチ(ステイーブ・マグナリー)だった。リンはダッチと言う名では気づかなかったが何か曰く因縁のありそうな気配で彼も身構えた。が双方とも腰の拳銃はなかった。ダッチは恐らく名を変えているところを見ると無法者なのだろう。しかし,射撃大会ではこの二人が最後まで残り,接戦となった。結局、リンが優勝し、 千に一丁 と言われるこの名銃はリンのものとなった。売ってくれと迫るダッチに断固として断ったリンであったが待ち伏せされ、銃はダッチが奪って逃げた。一緒に来たウエイゴ(ダン・デユリア)と銃を追っての追跡が始まるわけだが・・・面白いことにまるで、日本の丹下左膳のストーリーのごとくあの名刀。。青雲と?龍(度忘れしました)のように刀の行方を追ってというストーリーそのままにこの銃がいろんな人の手に渡っていくのである。武器商人からインデイアンにそして、騎兵隊へとそしてまたまたダッチの手に渡り、最後にはリンとダッチの一騎打ちとなるわけだがこの一騎打ちには銃の件もあったが名前を変えているダッチはリンの父親の仇でもあったのだった。その中にもローラとの出会いから彼女と縁があって彼女も回り道をしながらリンと愛し合うようになっていくという絡みが描かれる。西部劇はとにかく学校の講堂で見たチャンバラ映画のようだという印象があるかもしれないがそれはもう、西部劇のほうが断然面白い。武士道だのサムライと町民だのと言うややこしいものが取り外され、男・・・良い男と悪い男という単純な絵図の中に複雑にストーリーを展開させ、単純なものを面白く作り上げていると言う気持ちのよさと淡い恋模様がなんとも良いのである。この作品でもジミーは牧童を真面目に務める素朴な人物をさらりと演じ、その中にも彼独特の粘りの強いいつもの個性を出していて我々は、銃の行方をはらはらしながら、そして拍手をしながら見るという面白い作品である。こういった作品は先日も書いたようにジミーの演じる西部劇を見ればよいのだからジミーの生来の魅力が出ていれば良いのである。悪役がどれほど上手いか、で作品の良さも左右されるわけでこの作品は及第点である。蛇足ですがはや撃ちの名人はクープとヘンリー・フォンダだったそうで≪シェーン≫のアラン・ラッドもジョン・ウエインも案外不得手だったそう・ジョン・ウエインなどはそう言えばライフル銃を振りかざしているシーンのほうが多かったようですね。やはり西部劇の横綱は ゲーリー・クーパーということになりそうです。さて、みなさまそろそろお目覚めの頃ですね。今から、ドロン君と朝の散歩に出かけます。お勤めのみなさま,今日も一日元気で頑張ってくださいませ。
2004年04月13日
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みなさま、こんばんは。今夜は予定を変更しまして、昨日、やっとショップで見つけたアキ.カウリスマキの≪過去のない男≫を書きます。以前,書き入れました≪浮き雲≫で感動した彼の他の作品をもっと見てみたいと思っておりましたが,偶然見つけたのでやっと見ることが出来ました。彼の作品,期待をもって見ましたが独特の優しさ溢れる作品でやはり素晴らしかったです。それで,予定を変更しても早く書きたかったのです。≪浮き雲≫に出演していた女優さんがこの作品にも出演していましたよ。ストーリー展開もうならせますが、見終わった後の脱帽感・・・善人と嫌なやつの交叉が非常に秀逸でどうなるんだろう??どうなるんだろうというワクワク感がいい。簡単なストーリーはと言うと・・・ある夜、人に裏恨みなど買うはずのない男が暴漢にめちゃくちゃに殴打され、病院に運ばれ息を引き取る。と言うより、医者は死亡と判断した。だが,男はむくっと起き上がり、包帯を巻かれた顔のまま街へ出て行った。古いトレーラに住んでいる夫婦が近くに倒れているのをとりあえず家に運んできて様子を見た。記憶を失った男は名前も過去も当然住所も思い出せない。この男の正体が分るまでの話なのだがそのストーリーの運びが実に小気味よくまた時に粋でそしてほのぼのとするのである。良い映画や感動した映画というのはたくさんあるがこの監督の作品、他のものもそうなのだろう??と思うが、作りが全く個性的ですねえ。善人も淡々としているし、嫌なヤツも淡々と嫌なヤツである。だが嫌なヤツも心底嫌なヤツかと思うと案外それほどでもないようなそんな描き方である。職探し、家探し、過去のない男がぶち当たる壁を淡々と描き、そこに登場する救世軍の職員達が彼を気遣い、そこで恋が芽生え、救世軍の楽隊をロックバンドに編成しようとしたり銀行強盗の巻き添えを食ったりと結構波乱万丈な行く手が待っていたのだがそれをそんな大変な事件のようには描かない。やっと借りれたトレーラーも少しづつ家らしくなっていくわけだが思ったよりこの男がきれい好きなところもちらつかせ、またまたワンちゃんも登場する。家主はもぐりで商売しているが,この男の飼い犬だ。家賃を払わないと噛み付かせるはずのこのイヌが記憶のない男に懐いてしまい,家主を見限るのだ。そして、救世軍で働くことになったがここの同僚である女性に恋をし、愛し合うようになった矢先、彼の戸籍が分る。。。妻から捜索願が出ていたらしい。自宅を訪ねると彼は溶接工の仕事をしていたらしいが、博打好きで妻とは離婚話の途中だったらしいことが分る。新しい男に妻を幸せにしてやってくれと言い残し、男は救世軍の恋人の元へと列車の乗るのだった。と,書いてしまえばそんなもんだ。この映画の恋愛の過程が非常に新鮮に映った・彼女の方の愛の受け止め方が非常に古風でとてもよい。あの≪浮き雲≫での妻の無表情の中の温かさがここでもずっしりと感じられ、共感を覚えました。カメラの動きはそのシーンの人物の目で移動するような感じでワクワクする。そしてアキの温かな心がずっしりと詰まっているし、世の中なんてそう捨てたものでもないよと言っているようなそんな印象の映画でした。以前,≪浮き雲≫を書いた時にゲストさんから≪過去のない男≫を紹介され,ぜひ見てみたいと思っていました。有難うございました。他の作品も教えてくださいね。1980年以降の作品は弱い私ですので良いものをじゃんじゃん教えてくださいね。
2004年04月12日
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今日はお茶の先生から気晴らしにお茶会にいらっしゃいとのお誘いがあり出かけてきました。何度ものお誘いだったので、思い切って出かけました。福岡城址の下にある大濠公園というところの中にある日本庭園での 利休忌 のお茶会。先輩方お3人が受付で待っていてくださり楽しいひと時を過ごさせていただきました。思ったより,私が元気だと安心してくださいました。先生はわたしの母より一歳年上の84歳。ですが、女性をまだ感じさせる素敵な方でわたしのん十年後の理想とする方です。とても可愛がってくださり、お世話になりっぱなしです。幾つになっても女性を感じさせる素敵な婦人。いいですねえ。凛とした中に気さくな面もあり、上品なお色気と華のある女性。学ぶことの多い方です。ともあれ、お茶会の後は先輩達と軽い食事をご一緒させて頂いて今日はお天気もよくいい気分転換でありがたい時間を頂きました。帰ったのは夕方でしたのでまたまた大忙し。今夜は ≪ウインチェスター73≫を書くつもりでしたが明日,ゆっくりと書き入れますね。のんびり、ゆっくり楽しみながらという気持ちでのスタートですのでお許しくださいませネ。ではまた明晩!!
2004年04月11日
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昨日は折角書いた日記がぜーんぶ消えてしまってがっくりでした。何を書いたか・・・ マーロン.ブランド監督,主演の ≪片目のジャック≫でありました。結構、ストーリーは・・・忘れておりました。ある本で読んだ記憶があるのですが、西部劇の面白さは何か・・・男のドラマではあるに違いないのだけれどやはり女性の絡みがどう発展していくかがきちんと描かれていないとつまらないとありました・全くそのとおりで西部劇のストーリーなんて何の変哲もない善と悪の闘いといってしまえばそれまで。それが戦前,戦後となぜアレほどにももてはやされたのか・それはハリウッド神話とも関係がありそうだ。つまり現在のアクターズ志向の映画とは違って、スターのための映画作りがそのころのハリウッドの姿だったからですよね。クーパーは何を演ってもクーパーでなければならないしファンもそれを望んだ。ジョン.ウエインもしかり、ジェームス.スチュアートもしかり・・彼等専用のスタジオで、クーパーの西部劇を撮るのである。だから、クーパーの西部劇、ジョン.ウエインの西部劇を我々は楽しみにしていたのである。今の作品のような屁理屈っぽい作品、演技というものを求めてはいなかったのである。そしてお隣のお兄さんや,お姉さん達のような俳優が演ずる映画ではないオーラを放つスターが演じるから西部劇も楽しいのであった・以前紹介した≪荒野の決闘≫は極めて叙情性に溢れた素晴らしい西部劇でした。西部劇にもこのような名作がありますが,その頃のB級といわれた作品でも今観るとB級どころか結構優れた作品が多いと改めて思いました。さて、それでは昨日消えた ≪片目のジャック≫のストーリーから・・・ブランドがメガホンを取ったこの作品、エリア・カザン監督の≪波止場≫で彼と共演した個性派俳優、カール.マルデンとの再度の共演です。★リオ(マーロン・ブランド)とダッド(カール・マルデン)は何をやるにも二人一緒でこそこそ悪いことをしていた。銀行強盗をやらかして逃亡する途中で二頭のうちの一頭の馬が追跡者の弾にあたり、二人はどちらかが残って、ひとりが町で馬を調達して来ようとコインで決めた。ダッドが町へ行くことになった。しかし、ダッドは奪った2袋の金貨を持ったままひとり逃亡した。リオの方は捕まり刑務所に送られ5年の服役を済ませていたがダッドへの復讐に燃え、脱走した・風の噂でリオはダッドがある町の保安官になっていることを知った。酒場でならず者と知り合ったリオはダッドの復讐をすべく、ならず者が計画している銀行強盗の仲間となった。リオにとっては銀行強盗などもはや興味はなかった。ただただダッドに逢って復讐をしたかっただけだ。メキシコ国境の海辺の町・・・ダッドを訪ねたリオは極めて冷静に復讐する気持ちなど微塵も見せずダッドと向き合った。ダッドは嘘をついた。致し方なく逃げたと言った。真実は確かめていたリオではあったが、リオはすべて過去のことさ・・と笑って握手をした。ダッドは子連れのメキシコ女性と結婚していた・夫人も娘も美しく聡明な人たちだった。娘はリオに一目ぼれした。リオの野生の中にも温かな心があるのを見逃さなかったのだ。町の有力者として人気者のダッドの指揮のもと,お祭り催されていてリオは娘ルイザを踊りに誘い、そのまま海辺へと誘った。一夜は明け、ルイザはリオから色々と聞かされた。リオは今まで付き合った女性を本気で愛したことはなくいつも嘘ばかりついてもてあそんで来た。だが純粋なルイザには次第に心を開き、最初は嘘をついていたが夜が明ける頃には過去のことを話した。ルイザは驚き悲しんだが彼を忘れることなど出来なかった。朝帰りをした娘に父ダッドは何があったか問いただした。気持ちよく和解したはずだったがこれはリオの自分への復讐のひとつか?とダッドは誤解しダッドへの憎しみ、恐れは増した。そんな折、酒場で飲んだくれの嫌われ者が女給にしつこく付きまとい、絡み侮辱的な扱いをするのを見て,止めに入ったリオは正当防衛でその男を撃ってしまった。Xxここぞとばかりにダッドはリオを町民の面前で鞭で何度も何度も打ち倒し、挙句の果てに右手をライフルで叩き潰してしまった。二度と拳銃が持てないように。リオと仲間は近隣の漁村に見を潜め、リオは傷の治癒と拳銃の稽古に励んだ。ただただ憎しみの為に。信用できない仲間達はそれでもまだリオの力を必要とする理由だけではや撃ちリオの復活を待った。だが、リオに逢いに来たルイザは、真実。。つまり義父ダッドは昔リオと銀行強盗をやってリオを見捨てて金を持ち逃げしたと聞いて、そんな恨みは捨てて二人で逃げて幸せになろうと説得した。ルイザのおなかには新しい命が芽生えていたのだ。そのときは出来ない!!と答えたりオだったが、時間がたつにつれルイザの気持ちに応えようと決心した。しかし、仲間達はそんな彼を利用して強盗を決行しようとまず、ダッドの家に向かい ”リオがやってくるから待っている!と言い残して町の銀行へと向った。実行したものの、仲間のリーダー格は撃ち殺され、ひとりは逃げた。死者も二人出て、町民は怒って保安官ダッドの元へと走った。聞いたダッドはすべてリオの仕組んだことだとまたしても何も知らないリオを捉え投獄した。今度こそ、縛り首にしてやると・しかし、妻も娘もダッドの本当の姿は堅気になって真面目にやっている現在よりも過去を嘘で塗りつぶして、リオを陥れようとしている姿が許せなかった。ルイザはリオが脱走できるように計らった。そしてダッドとリオの一騎打ちが始まるはずだったがダッドはまたしても背中からリオを狙ったのであった・・・ が,倒れたのはダッドであった・リオにとって、ダッドとの友情、そして裏切り、過ちなら許せたが,これは意図的な裏切り行為であった。腸が煮え繰り返る憎しみであっただろう。ダッドはダッドで自分に都合の良い言い訳で生き延びて、今の地位を得、善人と言われながらいつもびくびくとおびえて生きていた。リオに言わせればこれこそが 片目のジャック 的な生き様だったのだ。この作品は西部劇というよりむしろ一人の男の執念と律儀さと優しさ,激しさ、そしてロマンチックな男の愛も絡めたブランドらしからぬ作品ですね。西部劇の中にこそ男の純愛と男の可愛さ,優しさが溢れていると思う私であります。それでは明日もまた、ちょっと隠れた西部劇作品をご紹介しますね。
2004年04月10日
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みなさま、こんにちは。長いことご無沙汰しましたが、今夜から映画日記を再開します。先達てからの私事につきましては本当に温かいお言葉、お心遣いありがとうございます。みなさまのページには少しづつご訪問させていただきますのでまた仲良くお願いいたしますね。さて、今夜から映画日記を書き込みますがちょっとドロン君の最新の写真をアップいたしますね。今日、狂犬病の予防注射と登録を済ませてきました。少し,微熱があるのかおとなしいですよ。歯ブラシを加えた写真は歯磨きが終わって遊んでいるところです。少しほっそりとして大分おにいちゃんになりました。そろそろ大人の歯に生え変わるそう。昨年の12/31日に誕生して100日というところですか。体重4.7キロ・・・・少し重くなってきました。でも、まだまだ一日中シゴトの時以外は私のそばにくっついて離れませんね。手足がとても長くなってきました。母親がテリア、父親がどうも柴らしく??テリアのような毛が顔に生えてきました。でも、独特の風貌でとてもハンサムですよ。では写真を・・・ ★ 映画日記は今夜入れますからね。もう元気ですから・・・・!!ーーーーーーーごめんなさい。折角書いて入れようとした日記が消えてしまった。もう一度書くには元気がありませんので明日,もう一度入れなおしますね。勘が狂って変な操作をしたみたいです。すみません!!
2004年04月09日
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みなさまへ。お一人,お一人のページにお伺いしてお礼を申し上げるべきですが、この場をお借りしまして心よりお礼を申し上げますことどうぞ、お許しくださいませ。3/24日、無事に母の葬儀を終えました。気の置けない友人達、母のお友達、極身近な身内でのささやかな葬儀でしたが友人ご夫婦の温かい読経に送られ、また、我が親ながらこんなにキレイな!と思う顔で旅立ちました・あまり化粧をしない人でしたので口紅を塗った顔は初めて見ましたの・頑固でわがままでしたが、その反面自分に正直な信念のある人でした。棺には親友から頂いて大事にしていたちりめんの巾着に痛み止めを入れてあげ、愛用のめがねと旅行雑誌・・京都の本、そして寒がりだったので大判のショールを入れました。そして死装束は私の長襦袢と小紋の着物を着せました。これまで、伯父と叔母も喪主として見送りましたが、死水をとるという儀式は初めて経験しました。とても感動的なものでした。通夜,葬儀の間にずっと亡くなる前の母の様子を思い浮かべておりましてはっと気づきました。夕飯を少しづつ食べてくれて、あとで残りを食べるといったのに食べれなくて0:00に私が下げる時に ”もう片付けてもいい?”と聞き、 ”いいよ、・・・・・ありがとう ”と言ったのを思い出しました。そのときはまさかその後すぐに亡くなるとは思わないので食事の,ありがとうだろうと思っていたのです。あれは今まで三年間のありがとうだったのだなあとそのときにあっと気づいたのです。逢いたい、もう一度逢いたいと思う悲しさはわたしのわがままであって、母にとってはもし生きていれば毎日毎日、いつまで続くか分らない激痛の中での傷の手当てが待っているわけで、そのことから解放され楽になったんだから私の淋しさは時間が解決してくれる・・・と吹っ切れました。安らかな死に顔がそれを語っていました。この三日間、もっと悲しいかなあと思っていましたがそれよりも穏やかな気持ちでいつも一緒なんだという気持ちになれ、これからは前向きにシゴトの鬼となるぞ!と決心。父も,私の為にしっかりと生きると言ってくれました。少しづつ、エンジンをかけていきたいと思っています。たくさんの方々にお悔やみを頂きまして何とお礼を申していいか分りません。これから、また、映画・・といっても旧いものは当然ビデオになるでしょうが新しい映画も機会があれば鑑賞し、もっともっと日記を更新していけるよう頑張ります。みなさま、温かいお心を本当にありがとうございました。
2004年03月27日
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みなさま、おはようございます。今、朝方の3:40分。まだ起きています。昨日の朝、7:50分に母が逝きました。安らかな死でした。持っても、今月いっぱいと覚悟を決めていましたので、思い切って自宅に連れて帰って本当によかったと思っています。3/19日の金曜日午前、11:00に自宅へ着きました。もっと早く連れて帰りたかったのですが、病院は面倒なところで、訪問看護士さんを毎日入れることはもちろんですが自宅に帰ってもし万が一のことがあっても病院は責任を負わないことなどの確認を念入りにされ、結局金曜日まで延ばされました。金曜日と土曜日はまだ自宅に帰っているという自覚がなく家に帰る、家に帰ると言っていましたが日曜日にはやっと帰っていることが分ったようでした。その日はなぜか母の好きなものを作ろうと牛肉のすき焼き風と筍と烏賊の煮付けわけぎの酢味噌和え、そしてかぼちゃの金団母お気に入りのわたしのお味噌汁!!を作りました、少しですが全部一応口に入れてくれました。長いこと時代劇のビデオも観ることなく遠ざかっていましたが、この日は何でもいいから見たいと申しまして、長谷川一夫の銭形平次をかけてあげました。そして、父の穏やかな話し掛けにじっと目をみて頷いていました。好きな生姜湯とバナナ、チョコレート,アイスクリームも一口づつでしたが一日のうちに口に入れてくれました。夜中の2:30ごろ、”もう,寝てもいい?”という私の問いかけに”いいよ!”と答えたので眠りました。朝方、夢うつつに”あ!”と言う声が聞こえた気がしたのですがわたしは”なあに?”と答え、返事がないのでいつものひとり事・・つぶやきだなと思ってそのまま眠ってしまいました。22日の8;15分ごろ温めたタオルで顔を拭いてあげようと声をかけましたが応答なく、お顔や首筋,手を触ってみるともう冷たくなっていました。顔は眠ったままの安らかな顔でした。自宅に連れて帰って三日にも満たないものでしたが日曜日にすべきこと全部果たして旅立ったようで私も父も悔いはありません。母もキット満足して逝ったと思っています。そしてわたしの介護もこの辺でよかろうと解放してくれた母の配慮だという気もしています。元気になったら、昔二人で海水浴に行った頃を思い出してドロンと四人でまた、海に行こうね・・・と父が昔話をしながら話し掛けたときにじっと父の目を見詰めていたそうです。中学生時代からの親友のご主人がお経を上げてくださりまた親友も一緒にお経を上げてくれましたし、母もとても喜んでいると思います。昨日は仮通夜でしたので、友人達が帰ったあと父にお酒を付き合いました。2:00ごろまで二人で泣きながらお酒を酌み交わしましたが、父も元気ではありますが高齢だし,休ませました。わたしはそれから一風呂浴びて今、なんだかパソコンに語りかけたくて打っています。ドロンは賢い子で状況を把握して昨日一日おとなしくしていたので疲れたのか泥のように眠っています。自宅へ連れて帰ることに踏み切って本当に良かった!!今、それぞれが悔いなく母を見送りまた,母も悔いなく旅立てたと思いました。明日、通夜,あさって葬儀です。また、近々、ここに帰ってきますので待っててくださいね。今日はもう、眠らずに母とずっと向かい合っていたいと思います。以上、ご報告まで・・・・いろいろと激励のお言葉をみなさまに頂きましてありがとうございました。どれだけ励まされたか分りません。同じような経験をなされたかた、女々しいと思われるかもしれませんがお許しくださいね。それではまた・・・・・
2004年03月22日
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この人でなくてはならない役・・・というので前回、スペンサー・トレーシーの≪花嫁の父≫を取上げました。今夜はその彼の作品の決定打・・・≪少年の町≫を取上げてみます。毎夜,小津作品が放映されていて、私も楽しんでいますが、笠さんに会うとどうしてもトレーシーの作品を紹介したくなります。≪少年の町≫・・1939年の作品なのですが、アメリカという国はこんな映画が作れるのだな!!という感慨があります。トレーシーも笠さんも考えてみれば俳優だからその魅力がわかるけれど巷にこういう人がいてもただの好々爺にすぎないどうしてこんな顔つきで役者?と思ってしまうかもしれないそんなことを思ってしまいます。小津さんによってアレだけの役者になった笠さん。トレーシーは脇役からではなく最初から主役だったらしい・(不確かな記憶ですが)サトイモのような平凡なトレーシーを最初に見出した人は一体どういう思い付きだったのだろう??この≪小年の町≫の原作者は後にM・G・Mの名製作者として活躍したドア.ヴァトリーという人らしいがこんな粋な映画を企画するとはやはり只者ではないような気がしました。アメリカのよき時代という言葉をみなさまよくお使いになりますが、そういった言葉だけではなんともありふれてしまい、もっといい表現が出来ないものかしら??と思うのですが思いつきません。これほど鮮やかにそしてさわやかに温かく、さりげなくやられてしまうとそこに演技があるのかどうかさえ疑問に思います。それほどぴったりとはまった演技以前の存在感というほかはありません。ストーリーフラナガン神父はひとりの死刑囚の執行に立会い、深い衝撃を受けた・死刑囚が最期に言った言葉にである。12歳の時に母親に死なれ、 感化院送りになった時にはわずかなパンの一片くらいしか盗むことが出来なかったが、感化院をでる時にはでっかい・・・・・ 銀行強盗でもできるようになっていた。フラナガンは思った。彼が12歳の時にひとりの友人でもいたならばこんな男にはならなかっただろうと。フラナガンはこういった少年達になんとかまっとうな道を歩ませたいと金貸しの男を説得、また中西部きっての新聞社をも口説き落としてとうとう念願の”少年の家”を作る。少年の家にはどんどん不良少年や孤児たちが増えてくる。フラナガンは年中お金の工面に悩まされた。金貸しのデイヴはいつもフラナガンに文句をタラタラ言いつつ、結局はフラナガンの上手い口説きに落とされてしまった。面白いことにこの少年の家の運営はすべて少年達自身で運営されるのである。この噂を聞いた終身刑のギャングが弟ホワイティ(ミッキー・ルーニー)をフラナガンに託す。しかし、間違った道を歩む兄を尊敬しているホワイティはことごとくフラナガンに反撥。その上、運営委員長に立候補しようとしたが少年達は見るからにおとなしく控えめな少年を選ぼうとした。その少年自身は自信もなく辞退しようした。そんな中で兼ねてより反目していたある少年と口論になり拳闘で決着をつけようということになった。しかし、あっけなくノックダウンとなりホワイティは負けた。みんなに嫌われていたホワイティをただひとりまだ7歳くらいの可愛い少年だけが好いてくれた。負けたホワイティを見て泣きじゃくった。ホワイティは少年の家を出て行くといきがっていた・後を追うちいさな少年は連れて行ってくれと駄々をこね泣きじゃくる。つれなく追い返したホワイティがちょっと目を放した隙に少年は走ってきたトラックに接触されてしまった。幸い命は取り留めたもののホワイティは自分のことばかり考えていた自分を恥じ、そして潰されそうになった少年の家を守ろうと脱走した兄の下へと急いだ。すったもんだの挙句、ホワイティの勇気は少年達の知るところとなり見事ホワイティは運営委員長に選ばれるのであった・そんな少年達を温かく,時には厳しく見守りそして聖職者であることをかなぐり捨ててぶつかっていく。、そういった良心の塊を演技というよりも自然体であるような芝居をしてしまっている・・・そんな役者である。こういったストーリーの発想もすばらしいがそして、主役はトレーシーであるということもさることながらすばらしい少年達である・トレーシーの作品、≪老人と海≫だけでなく≪招かれざる客≫,≪山≫≪花嫁の父≫、そして私の大好きな≪ジキル博士とハイド氏≫≪少年の町≫をぜひぜひご覧になってください。
2004年03月18日
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今夜はヴィンセント・ミネリ監督、スペンサー・トレーシー主演の ≪花嫁の父≫を紹介しましょう.小津安二郎監督の作品,≪彼岸花≫で子供、子供と思っていた娘に結婚したい人がいると知らされ驚きと淋しさと複雑な思いの中で親娘がぶつかりあい、目出度く結婚するまでをユーモラスに描いていましたが、アメリカでは、1950年度作品の≪花嫁の父≫という同じような設定で同じように父親の立場から見た娘が嫁ぐということはどういうことかをこれまた、当時のアメリカ社会を背景としてユーモラスに描いた佳品です。≪彼岸花≫では父親に佐分利信嫁ぐ娘にネコちゃんこと有馬稲子。≪花嫁の父≫では父親にスペンサー・トレーシー嫁ぐ娘にエリザベス・テーラーが扮していました・・前にも書きましたようにアメリカの笠 智衆と思っているスペンサー・トレーシーですがこの作品は≪麦秋≫や≪晩春≫といった純日本の父と比べそこはアメリカ、ちょっと洒落たオヤジ感覚の中でストーリーは運ばれ、内容的には≪彼岸花≫に近いものです。娘を嫁にやることがそんなに辛いものなのか?父親は自分で決めた伴侶を娘にあてがいたいもののようだ。やれ、仕事は安定しているか収入はいかほどか育ちはどうだ・・・などなどお国は違っても抱える問題は同じようである。この作品では娘の相手が現れ、式場選び、披露宴の内容、贈られて来る結婚祝、そしてドレスやモーニングの誂えなどなどを当時のアメリカの中流家庭を設定に描かれそれに振り回される父親、新婚旅行の行き先をめぐっての娘達の喧嘩などを最もアメリカ的に描いて楽しい。ストーリーそれまで子供だ子供だと思っていた娘(エリザベス・テーラー)が父(スペンサー・トレーシー)の前に婚約者だといって一人の青年(ドン・テーラー)を連れてきた。子供??そのこと自体が大変な錯覚で、それなりのドラマが生まれるものである。娘が言うところによると優秀なビジネスマンで頭もよく謙虚で地味な優しい人物だと言う。しかし、父親にとっては生活力があるのか出世の見込みはあるのか?といった現実的なことのほうが気にかかるものだ。幸い見たところしっかりとした青年で許さざるを得ない。ここから結婚式までの準備が面白く描かれてゆくところが日本の作品にはちょっとないかもしれない。父は夜もろくろく眠れないのだがなるべく式は内輪にと考えている。が娘は一生に一度のことだからとあれもこれもと派手にやりたがる。結局娘の希望は通されてしまう。招待客の人選で揉め、これも娘の意向どおりに押し切られ、挙句に式の直前になって破談にしてくれと父は振り回されっぱなしである。といってすぐに仲直り・・・つまり父は残り物の愛情しか回ってこないということを悟るのである。式場での予行演習とスケジュールはびっしり。そしていよいよ式の当日、父はたくさんの客で埋まった我が家の披露宴でウロウロと歩き回るのである。娘の花嫁姿はこの世のものとは思えぬ美しさで嵐のように新婚旅行へ旅立った娘。散らばった食べものの残骸とグラス。。。その中で父は放心状態になっていた。靴を脱ぎ、足をさすり、ボーっとしているところへ空港にいる娘から電話が入った。いっぺんに喜色が溢れるのであった。そしてゴミの山の中で妻とふたりレコードの曲に合わせてダンスを踊る複雑な気持ちの父だった・・・・★アメリカ中流家庭とはいえ日本で言えば上流家庭以上の暮らし振りにも見える。重役になってからローンで建てたという邸も本人は小さいというがどうしてどうして大きな家である。生活レベルの違いはあれやはりトレーシーのアメリカの父親像は日本の笠さんに間違いはない。そして娘に振り回されるときのトレーシーの表情がもう,とっても可愛いのだ。頑固さを背負いながらも穏やかで、やさしい父親は二人の共通点なのだ。そういう見方で見るととっても面白い作品ですよ・エリザベスは当時19歳で美しさ真っ盛りです。ーーーーーーーーーさて,我が家のドロン君、大きくなりましたが飼い主さん、誰しもおっしゃるように??うちの彼もとっても頭がよいようです。ただ眠っている時と私がお仕事をしている時以外はそばを片時も離れない甘えん坊でもあります。お風呂が大好き・・というより私とはなれるのが嫌で彼の週一回の入浴以外にもいつもお風呂場までついてきます.湯船に手をかけて甘え声を出して入れてくれと言います。そして朝晩の歯磨きも見ていて歯ブラシを呉れとせがむので彼も朝晩の歯磨きをきちんとします。あーんといって口を開けさせ、歯ブラシを隅々までゴシゴシ!!とっても気持ちが良い??というよりわたしのすることは全部まねをしたいのが本当のところのようです。パソコンを触っていると後ろでお座りをしていつも右手で遊んでくれとつつきます。もう,随分とわたしの言葉が理解できるようです。庭の掃き掃除の時も絶対について回ります。どんな成犬になるのかとっても楽しみです。どんな恋人よりもドロン様が一番!!というところ!!寝転がってテレビを見ていて、肘を立てて頭を乗せているとその腕の中に頭を入れてきて眠りますよ。膝枕ではなくて腕枕ですよね。毎日,毎日新しい賢さの発見で楽しいです。本当に彼に励まされ癒されています。このワンちゃんが母の強い精神力を運んできて呉れたような気がしています。
2004年03月16日
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エリア・カザン監督の作品は≪波止場≫、≪紳士協定≫、≪欲望という名の電車≫≪草原の輝き≫などを取上げましたが、今夜は子供の純粋な目を通じて生きるということは何かを教えてくれる作品, ≪ブルックリン横町≫を取上げてみます。この作品は大好きな作品で何年かに一度は必ず鑑賞する作品です。彼の作品に共通しているのは社会からはみ出しているかに見える人とそれを理解していないかに見える人とが前面に出て我々にメッセージを与えてくれ、その中から真実を見る目とまさに真実とは何かを投げかけてくれるテーマとで成り立っているように思われます。今夜の作品も夢を見ている父親に妻は辟易して彼の言うことや行いに段々耳を貸さなくなる。そして夫婦の仲が上手くいかなくなる。そんな中で12歳の娘だけは父親を理解し、愛し、誇りを持っている。弟はいつもおなかをすかせているが頼もしいまるであのにあんちゃんを思わせるたくましい男の子である。ストーリーフランシーは父と母のケイティと弟のニーリーとブルックリン横町の安アパート2住んでいる。失業中の父に代わってケイティはアパートの床磨きをしている。フランシーとニーリーは他の子供達と一緒にくず鉄などを拾い集めては業者に売って家計の助けに一役買っている。フランシーは父の血を受け継いでか文学少女で図書館でいつも本を借りては読みふけっているが A のつく作家の本は読み尽くしたといって B のつく作家の難しい本を借り出し、司書を驚かすほどだ。ニーリーは優しいしっかりモノの姉フランシーのよき理解者ではあるがおなかが満腹であれば他には何も望まない楽天家である。父は夜のキャバレーなどでシンガーとして働いたりするが殆ど仕事の口は回ってこない。いつも夢のようなことばかり言う彼に妻ケイティは少しばかりうんざりして夫を頼ることもなくなり、自分のわずかな稼ぎと子供達の手助けで生計を立てている日々であった。今夜も父はかけをやって少しばかりの収入を得てお土産を買ってきて呉れたがケイティはそんな彼を温かくは迎えなかった。酒を飲んで酔っ払って帰ってこなかっただけマシだった。酔っ払うことをフランシーは病気だといって父をかばった。父の夢のような嘘をフランシーは本気で聞き、そんな彼と散歩をすることを喜んだ。スラム街の学校ではフランシーの純粋で繊細な感性は理解されず、彼女は近くのきれいな名門校に入って勉強をしたがった。父はそんな彼女の希望を叶えてやりたくてなんとか入学させることができたが、家系のやりくりは大変でアパートの屋根裏部屋に越した。新しい学校では素晴らしい先生にめぐり逢え、彼女に教えた。空想好きなフランシーに”日常生活では空想や嘘はダメ!嘘や空想はノートに書きなさい。事実に空想を加えて物語にするのよ。ただの夢は何の糧にもならない・・・”と。そのことをなんのてらいもなく父に話したところ父はケイティの冷たい態度にはすこしも堪えなかったがフランシーのこの言葉に恥ずかしさをJ覚え、家を出て、行方がわからなくなった。久しぶりにクリスマスを祝った夜のことだった。一週間後、彼は職安の前で行き倒れとなって病院へ運ばれていた。はかなく死んでしまった父のことでフランシーは母を許さなかった。しかし、母のおなかには新しい生命が宿っていた。そして驚いたことに父の葬儀にはそれはそれはたくさんの知らない人たちが参列してくれた。”あんな良い人はいなかった!”というのがみんなの言葉だった。困っているだろうと手を差し伸べてくれる人たち。ケイテイは姉のシシーに言った。”あの娘は涙も流さないのよ!”と・しかし、フランシーはアパートの屋上でひとり大声を上げて”パパ!”と泣きじゃくった・・・・そして叔母のシシーの説得・・・ ”おかあさんはあなたを必要としているわ、許してあげなさい”・・そしてフランシーは病院でお産が出来ない為、自分が取上げると決心した。ニーリーにはいつものようにアルバイトに行くように命じて・・・無事に赤ん坊は生まれ、父の知り合いがフランシーとニーリーに新しいシゴトを持ってきてくれた。学校が終わってから手伝いに来るようにと・そして兼ねてから親切にしてくれていたおまわりさんが母ケイティに結婚を前程にお付き合いしたいといってきた。子供達は快く賛成した。屋上に上がったフランシーはニーリーに”今までの生活となんだか変りそうね”という彼女に弟は”・・・退屈さ!・・”といっぱしのことをいった。そして”わたしってきれい?”と尋ねたフランシーに”気でも狂ったのかい?”と言って振り向き顔を見て”合格さ!”とあっさりと言った。”優しいのね”・・・・ブルックリンを見渡すといつもと変らない表情の街だった・夢とホラとは背中合わせかもしれないが人を和ませた父親の人柄をフランシーは祖母がたくさんの本を読みなさいと教えられたそのことから本来の父の素晴らしさを感じ取っていた。読書は心の為にするものでモノを知るだけのものではないんだよと祖母は教えた。そしてフランシーは初めて書いた物語、”たくさんの人々に愛された人”・・・のなかでこういっている。”彼はお金を稼ぐことは出来ない人だったけれどたくさんの人を和ませ、そして彼は王様のように幸せをばら撒いた・・”それを聞いた母ケイティは昔を思い出し、”そうだったわ、彼と一緒に歩くとそう,王様と歩くような気分だったわ。ああ,彼に会いたい、今ほど彼に会いたいと思ったことはないわ” ”本当??”とフランシーがにっこり笑ったそのシーンはいまでも心に残る好きなシーンです・大人が子供の純粋な目に教えられる清々しい作品です。お休みが長くてまだ長文のカンが戻ってきませんがぼちぼちと・・・・
2004年03月15日
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折角、映画日記を再開したはずなのに、またまたサボってしまいました。お恥ずかしい限りです。朝夕の母の食事の介護に通っていたのですが病院の食事を受け付けない為に先週半ばから毎朝毎夕,お弁当を作って食べさせに通っていました。夜の時間にいろいろとしなければならないことのツケがたまり、どうしても遅くなると眠気に勝てませんでして、自分のHPどころか,みなさまのHPへのご訪問、掲示板のご返事までも滞ってしまい申し訳ございませんでした。来週半ばに母を一時退院させることにしました。内臓が悪いわけでもないし、床擦れの傷の数箇所は殆ど治りましたが大きな二箇所は体力が快復しないと手術も出来ないし、かといってこのまま病院に置いておいてもすぐに体力がつくとは思えません。本人は自宅に帰ることだけを毎日毎日考えているので、この際決心してつれて帰ることにしました。毎日の訪問看護とヘルパーさんに一日数回来て頂く事を説得しました。つまりこの帰宅の間にどのようなことが起きても受け入れるということです。安心して・衰弱して最期を迎えることになるかまた、好きなものを食べて体力がつくかは かけ です。しかし、これはもう家族が決めることなので本人の希望を最優先することに決めました。人様は簡単に病院に入れなさいとおっしゃいますが入院させたほうが心痛でした。訪問看護とヘルパーさんを早く母が受け入れてくれればこんなことにはならなかったかもしれませんが先生は結果は同じことだっただろうとおっしゃいましたのでちょっと気が楽になりました。母と私のお互いに悔いが残らないようにするにはこれが一番と・・・決めました・そうすれば精神的にも楽になります。金曜日にそう決めてほっとしました。今日日曜日はお客様に頂いた映画のチケット・・・≪ラストサムライ≫・・市民ホールで鑑賞してきましたよー。お昼に病院に行って,その足で・家の近くなので足を運ぶことが出来ました。久しぶりの劇場鑑賞でなんだかワクワクでしたよ。≪赤毛のアン≫は出鼻をくじいて仕舞ったのでまたの機会にあらためて書きますね。明日から、今度は本当に真面目に書きます。本当に旧い名作を取上げたいと思っています。やっとパソコンにじっくりと向う気分になりました。みなさま、いろいろとご心配や元気を下さりありがとうございました。わたくし自身の身体は今のところ至って健康です。ただ、寝不足が続いていてごろんと横になりたいのですがドロン君がちょっかいをかけてくるのでそれも出来ません。手足が伸びてソファーの上でも上がってくるので安心して眠れません。後,ひと月もすれば彼も外の生活になるので今のうちの同居??を楽しんでおきます。とりあえずそういった状態で長々と落ち着かない変な日記の更新になりましたことをお詫びいたします。尚,掲示板のご返事も明日の作品からにさせて下さいね。いつもありがとうございます。
2004年03月14日
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みなさま、こんにちは・落ち込んでいる時にいつも元気をくれる作品。 ≪赤毛のアン≫・・≪続・赤毛のアン≫・・・・先日久しぶりに見まして、なんだか書いてみたくなりました。これは女性が少女期に一度は読んだことがあるだろう?・ルーシー・モード・モンゴメリーの永遠のベストセラーである。この作品の映画化としては原作に忠実であるとともに舞台となるカナダのプリンス・エドワード島の自然を美しく映像化した不朽の感動作品である。女性にとっては少女の成長に与える影響としてのすばらしい思い出や、感動となるが原作も映画も実は周りの温かい大人たちのキャラクターに焦点をあてて見るべき作品であると思う。従って男性にぜひぜひ見ていただきたいのである。たがが少女の乙女チックナ夢物語などと決めつけずに周りの大人たちが子供達に対してどういう考えをもって接するか?そしてどうやってアンをすばらしい女性に育ててゆくか?そういったものをアニメのヒロインではない3000人の候補者から選ばれたアン役のミーガン・フォローが魅力的に演じて・良いですね。また、アンを養女として育てる老人の兄妹マリラとマシュウのすばらしいキャラクターを醸し出します。コディン・デューハースト≪マリラ)とリチャード・ファーンスワース(マシュウ)が演じて素晴らしいです。少女の為の映画でありながらも大人の映画であるということでぜひぜひじっくりと見てください。時々みて元気をもらうんですよ・いい映画は何度見てもいいという表現をよくしますし、よく聞きますが自分にとってどういう風によかったのか?どういう風に影響を受けたのか?それが大事だと思います。母の入院を通じていろんな方と接する機会が多くなりました。そんなときに人様を観察しているといろんな事を感じます。そんなときにこそマリラやマシュウを思い浮かべこんな時にはこうあるべきだ!と反省し、勇気付けられそして希望をももらえる・・・そんな作品です。ヒューマンドラマの素晴らしい作品はたくさんありますがこの作品は人間の原点を見つけることのできる分りやすく且つたくさんのメッセージをくれる・・・そして見るたびに自分がこの年になってもまだまだ成長の過程にあるのだなあとつくづく感じさせられる作品なのです。この≪赤毛のアン≫と≪続・赤毛のアン≫を何回かに分けて書いてまいりたいなあと思います。自分自身を元気付ける為に・・・・続・・・のほうはシカゴ国際映画祭グランプリに輝きニューヨーク国際映画祭銀賞受賞・サンフランシスコ国際映画祭、ヒューストン国際映画祭などなどで高い評価を受けた名作です。製作・監督・・・ケヴィン・サリヴァン1985年・・≪赤毛のアン≫1988年・・≪続・赤毛のアン≫今日はそのさわりの部分からはじめます。あまり書ける時間がないのでゆっくりと書いていきますのでゆっくりとお付き合いくださいませね。ストーリー・・・・二親を亡くしたアンは孤児院で育つが、里子に出された先々で失敗をやらかし、里親を嘆かせあちこちとたらいまわしにさせられている。なぜかと言えば空想好きな彼女はいつも本を手放さない。子守りをしていても、里親であるご主人の弁当を運ぶのも忘れるほど本に熱中し空想を巡らしていて、時間を忘れてしまうのだ。そのためにある里親の主人が弁当の届くのが遅いためにイラついて心臓発作を起こし死んでしまった。彼女に直接の責任はないものの女主人は怒って孤児院に戻してしまう。死んでも孤児院に戻りたくないアン。彼女の性格は一風変って見える。見える・・であって本質的にはちっとも変ってなんぞいないと思うのである。空腹や淋しさを空想・・・イマジネーションで紛らす彼女は裏返せばたくましい女の子だ。孤児院では男の子を欲しいと言うプリンス・エドワード島の二家族があった。マリラとマシュウは老人といってもよい年齢に達した独身の兄と妹で美しいプリンス・エドワードで牧畜をやりながらいっしょに暮らしている。兄のマシュウは今日はおめかしをして馬車で駅に向っている。お隣のレイチェル夫人はそれに気づいて憤慨した。自分に一言の知らせもないままおめかししているマシュウを見て,すぐにマリラに、どこに何の用で出かけるのかを聞き出しにマシュウ宅を訪問した。駅に孤児院から貰い受ける男の子を迎えに行ったとレイチェルに告げた。が、レイチェルフ人は孤児院から子供をもらった人たちがどんな被害になったかを興奮して述べ、マリラに世間知らずにも程があると攻撃した。しかしマリラは落ち着いて”私たちももう年だし、いろんな力仕事を辛く感じることもあるの。手助けになるような男の子が欲しいのよ”と対応した。マシュは駅に着くと駅長から”彼女がお待ちだよ”と言われ”彼女?”見ると女の子がコッチを見ている.駅長は”噛み付きはしないよ、いっぱしの口を利くよ”と笑った。女の子はとことこと近づきいかに幸せな気持ちでいるかを立て板に水のように喋り捲る。自分の名前がAnneで終わりに e のつくAnneだと言う。マシュウはこんなはずはないと思い、男の子を待っていたんだがといいつつも馬車に乗せた。美しいりんごの花の咲き乱れる小路を馬車はくぐりぬけていく。アンはこの小路に早速、 歓びの白い道 とつけた・美しいだけではいい足りないわ.この湖水は 輝く湖水 よ!!今の気持ちはパーフェクト・ハッピーだとも言った。空想のいっぱい詰まった頭と屁理屈とで絶え間なくしゃべる女の子にマシュウはやれやれという思いと共にどこかこの女の子に惹かれていったのか黙って聞いていた。”あれがグリーン・ゲーブルだよ”とマリラとマシュウのふたりの家を指した。女の子は夢のような気分だった。”兄さん、その子はなんなの?”と聞くマリラにマシュウは”駅に行くとこの娘が待っていたんだよ””手違いにしても駅に置いておくわけにはいかんさ”とまんざらでもない様子でマリラに告げた。”わたしたちは男の子を待っていたんじゃないの?”と憤慨するマリラにマシュウはただただかぶりを振るだけだった。泣きそうになるアンに”何も泣く事はないわ、”名前を聞かれて e のつくAnneだと答え、マリラに”どう違うの?と問い返された。Annはひどく感じが悪いけどAnneは上品だわとまた分ったような分らないようなことを言うアンだった。”Annは立派な名前よ,恥じることはないわ”とアンを諭すマリラであった。とにかく今夜はうちに泊まって明日、スペンサーさんのところへ行って来るとマリラはマシューに言った。”いい子だよ”というマシューに”息つくひまもないほどしゃべるあんな子はごめんだわ!”とマリラは翌朝、スペンサーのところへ出かけていった。彼女のところでアンをもらってもらおうと・・・・しかし、他の孤児たちにひどい扱い方をしているのも見てマリラは気が変った。あんなひどいところにこの子を置けないと思ったのだった。マシューは内心嬉しかった。なんとなくこの娘とは波長が合うような気がしたからであった。マリラは誇りも高いが曲がったことや意地悪は大嫌い。しかし、信念も強く、意地っ張りでもある。礼儀も弁え謙虚であった。マシューは穏やかで優しく無駄口のない働き者のすばらしい老人だ。そんな中でアンはどういう風に成長していくのでしょうか・・・明日へ続く・・・・
2004年03月10日
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みなさまこんばんは。映画日記を再開しますと書いておきながらなかなか思うように段取りが出来ません。でもとにかく近況だけは毎日書いておこうかなとは思っています。そんな中で今日は定休日でしたが楽天で知りあいましたrintojinさんが九州旅行のついでにわざわざお店に立ち寄ってくださいました。妹さんと甥っ子のリョウタ君、ヒロト君と一緒に・・・もう夕方近くでしたので短時間の語らいでしたがとても楽しいひと時を過ごさせていただきました。ドロン君にも会いたかったとのことでとても喜んでらした.こんなに人様が好きなワンちゃんも珍しいと思えるほどのいつもの全身の身震いと泣き叫び?声でお出迎えでした。そして彼女にはいつも手作りのグッズを頂いているのですが今日も可愛いちりめんの袋とお猿さんのお人形をお土産に作ってきてくださいました。見てください!とても可愛いですよ。 はるか遠くからの来九・・・明日から博多でいい思い出ができるといいなあと思っています。いつもありがとうね。
2004年03月07日
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みなさま こんばんは。今夜から映画日記を再開しますのでまたよろしくお願いします。さて、我が家のドロン君も大きくなりましてやんちゃぶりもたいしたものです。2/16日の写真と今日、3/5の写真をアップします。まずは2/16日・・・比較してみてくださいね・ 3/5今日のボクです。 ボクの好物はドッグフードのほかに梅干、ピースご飯、かぼちゃのスープお豆腐,そうめん、コンソメスープの野菜床浸けの大根葉やかぶなどのお漬物・・・というよりたくあんまでなんでも好きだよー・映画日記は夜書きいれますからよろしく。-------------今日の映画日記です・母の具合。。。やはり一喜一憂の毎日を送っておりますが体調のほうに関しては順調に快復しております。ただ痴呆の進行に関しては油断できない状態です。今日は幻覚症状が激しくとうとう食事を取らせることが出来ませんでした。みなさまの熱い励ましのお言葉,感謝でいっぱいです。ありがたいです。今夜は民間で たそがれ清兵衛 が放映されていますね。今かかっておりますがこれを観ながら他の作品の紹介とはちょっと惜しい気もしますが・・・衛星放送での録画し忘れた作品を先だって友人が届けてくれたので早速見ました。 ≪暗殺の森≫・・ベルナルド・ベルドリッチの作品でどうしても見たかった1970年度の作品です。このぺージを開設して作品を紹介していくうちにジャン・ルイ・トランティニアンのファンにもなってしまいました。暗殺の森は先日の≪Z≫での予審判事役での好演が印象に残りましたが、それに続くこの作品もファシズムの頽廃を描く作品で彼は幼いときの異常な体験がきっかけでファシズムにのめり込ンでいった・・・・・そして次第に時代に取り残され価値観の変貌についていけなくなった男を色っぽく且つニヒルに好演しています。カラーや音楽も秀逸でベルドリッチ作品としては分りやすくそして出来のいい作品であったとわたしは思いました。愛人を次々と作っている母親の元で育った男マルチェロ・ノーマルな人間になる為にプチブルの娘と結婚することにした・何故,ノーマルにこだわるか・自分が他人と違っていると思えて仕方がないのである。結婚するにあたって教会で懺悔をする彼は13歳の時の異常な体験を告白する。同級生の男の子達に性的いたずらをされそうになったところをアル兵士に助けられるがその男も彼をどこぞに連れ込みいたずらしようとした・マルチェロは美少年だった。戯れの中で銃をもてあそんでいてマルチェロはその兵士を撃ち殺してしまう。そして彼の手に銃を握らせ,自殺したように見せかけ逃げた・・・と神父に告白した。殺人の罪に対して懺悔をしているのに神父は男色に興味を持ち必死で聞き出そうとするのも風刺であろうか?ということから極端にファシズムに興味を持ちその運動にのめりこんでいった。表面、一般人を装って左翼の邪魔な人間を始末している。妻になった女性は性と食にしか興味のないような人だったが彼にとってそんなことはどうでもよかった。そして、今は女性しか性の対象としては見ていないと公言する。そんな中であるバレー学校の女教師(ドミニク・サンダ)と知り合うが彼女の魔性の魅力に取り付かれる。がしかし、彼女にはイタリア人の恋人がいて反ファシズムの人間である。危険を感じた彼女はマルチェロの目を盗んで逃亡しようとするが非情にも部下を使って森の中でその男を彼女の見ている前で惨殺する。そして恐怖の声を上げてマルチェロの車に助けを求めてくるが彼は身動き一つせず、一瞥もくれず無視する。そして部下の凶弾に倒れる。世の中は民主主義へと変りつつあるがマルチェロはついていけない・街へ出ていて妙な言葉を聞いた・13歳の時に殺した男がつぶやいたのと同じセリフを”1935年の3・7日・・・何処で何をしていた?”とその男に詰め寄った・・・そう、あの男は死んではいなかった・あのことがなかったら、その後の殺人は自分にはなかった!何故だ生きていたのか・・マルチェロは狂ったようにその男も同士もファシストだ!と叫んでいた・そのこと事態が道往く人には珍奇な光景であったのに・・・・簡単なストーリー紹介で分りにくいかもしれませんがこの作品は少し抽象的な捉えかたをしてみたほうがいいかも・ファシズム時代のひとつのデカダンスを描いている作品ですが時代の変化と共に,主人公が信じていた価値観が崩れてゆくその様が非常に印象的で、いいですねえ。ドキュメンタリータッチの作品が多い中でこの作品はきちんとしたドラマ仕立てで非常によく出来ています。映像も美しいし,音楽の挿入も非常にいいです。ご覧になった方は感想を聞かせてくださいね。1970年度、伊作品。監督 ベルナルド・ベルドリッチ出演 ジャン・ルイ・トランティニアン/ドミニク・サンダ撮影 V・ストラーロトランテイニアンについては≪激しい季節≫と≪男と女≫、≪危険な関係≫しか見ていなかったのですが昨年末から見ましたドロンとの共演作≪フリック・ストーリー≫や≪離愁≫そして≪Z≫,今夜の≪暗殺の森≫で本当に素敵な男優さんだと再認識いたしました。トランテイニアンファンのみなさま・・・・”グー” ですよ。ファンになりました・
2004年03月05日
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みなさま、こんばんは、あれから、またたくさんのメッセージを頂きまして恐縮しています。私事にご心配を頂くようなことを書く、愚か者ですが、取り乱してしまったようです。どうかお許しくださいね。もう一度自宅に帰ろうということに執着していることが、母を元気付けているようで一安心です。ご心配をおかけしました。さて、映画のほうは昨日は何故か見たくなった作品。・・・・≪赤毛のアン≫,≪アンの青春≫など心温まる大人の童話を見ておりました。女性の方はもう殆どの方がファンで鑑賞されたことでしょうが男性や、お子様に特にお薦めたい作品ですので,また、近日中に紹介したいですね。今日は黒澤明の≪野良犬≫を見ました。先だって、≪日曜はダメよ≫を紹介したときに監督、ジュールズ・ダッシンのことを書きまして、その前に紹介した、この監督の≪裸の町≫は刑事モノの映画史に残る名作で日本映画にも多くの影響を与え、特に黒澤明の≪野良犬≫の発想はこの作品から生まれたものと言われていると書きましたね。そこでもう一度この野良犬を鑑賞してみようと思いました。99%が屋外ロケで作られたドキュメンタリータッチの≪裸の町≫。蒸し暑い夏の夜のニューヨークのアルアパートで起きた殺人事件を発端に若い刑事と老練な刑事のコンビが聞き込みと執念で事件を解決する一夜の話でした。バリー・フイッツジェラルドというかわいらしいおじいさんがこの作品では鋭い洞察力と執念で、いい味の演技でした。バリーは≪我が道を往く≫でビング・クロスビー扮するオマリー神父に慰められる可愛い老神父を演じるなど数多くの作品でお目にかかれるいい役者です。若い刑事のほうはドン・テーラーが扮しています。彼はヒッチコックの≪疑惑の影≫での若い新聞記者でみなさまにはお馴染みだと思います。≪野良犬≫では老練な刑事を志村喬、若き刑事を三船敏郎が演じています。初期に黒澤作品の舞台から香ってくるのは、なぜかフランス映画の香りがするんですよね。下町、キャバレー、酒場、警察署内、長屋・・・どれも戦後のフランス映画の舞台に漂ってくる雰囲気があって黒澤作品の現代劇はもう初期に限ります。私の好みですが。ジョリュジュ・シムノンばりの犯罪ドラマを目指した黒澤の意気込みがとても好きです。シムノンといえばフランス映画ではギャバン、ドロン作品と数多く採用されていますね。その上撮影はダッシンの画期的な撮影法・・・ドキュメンタリータッチがこの≪野良犬≫では駆使され、シムノン風と相まってとても好きな作品である。黒澤作品は個人的には≪天国と地獄≫で終わっていると思う私ですので変な様式美にとらわれていないそして、物語の運びが冴えているこの頃の作品が数倍いいと思っている私であります。小津さんがルネクレールを崇拝していて至る所に撮影法が真似られているがシムノンばりの黒澤監督はフランス映画の監督でデヴイヴイエ風ともいえまいか・時代物は完全にジョン・フォードかぶれであるが。さて、その≪野良犬≫のストーリーを・・・・警視庁勤務の村上刑事(三船敏郎)はまだ新米刑事で射撃訓練の帰り、満員のバスの中で拳銃を奪われてしまった。拳銃には七発の実弾が残っていた。バスを降りた村上は夢中でらしき人物を追跡するが瞬く間に雑踏の中に消えてしまった。真夏の昼下がりであった。村上は白のスーツを着ていた。本庁に帰った彼は係長の紹介で、スリ係の老刑事市川に協力を求めた。市川刑事のカンで,スリのお銀が捜査線上に上がり、村上は執拗に彼女について回った。白を切っていたお銀も,村上の熱心さについに折れ、盛り場の貸しピストル屋を教えてくれた。その店を捜し求めて村上は毎日,野良犬のようにボロを着て、街から街をかぎまわった。やがて、村上は淀橋署の老練な刑事佐藤(志村喬)と組むことになった。本多(山本礼三郎)という男に目星をつけ、後楽園球場にいるという情報を得たが、五万という大観衆ののなかから一人の男を捕えること、いや見つけることさえ困難なことだ。そのうちに本多の後ろに遊佐新ニ(木村功)という黒幕がいることを掴んだ。遊佐の情婦ハルミ(淡路恵子・・・本作がデビュー)を追った。遊佐に騙されていることを切々と説いたが、しかしそうしているうちに佐藤が遊佐の一弾に倒れた。村上は自分の血液を佐藤に輸血し、辛くも佐藤は一命を取りとめた。高飛びしようとしていた遊佐は狂ったように村上から盗んだ銃で抵抗したが七発の弾は撃ち尽くされ、野良犬のような執念の村上によって逮捕された。★土砂降りの雨の林の中を逃げ回る木村功の犯人が鮮烈な印象でした。眉を薄めにメーキャップした死神のような遊佐新ニ役。白い家から聞こえてくるピアノの音色のなかで二人が向き合い、一発,また一発と・・・そして空になった銃を捨てた遊佐。取り戻した村上・草むらの中でどろどろになってのつかみ合いはうめき声だけでセリフはない・そして遊佐のうめきとも聞こえる泣き声・また、淡路恵子のデビュー作でもあり、後年の洗練されたマダム風はまだまだで、犯人遊佐に惚れぬいた踊り子の役が初々しい。1949年、東宝作品。
2004年02月29日
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みなさま、こんばんは。お久しぶりです。のんびりしているとはいえ、毎朝8:00の朝食と夕方18:00の夕食時に病院へ出向きまして、一時間かけてゆっくりと母に食事をとらせています。忙しい看護婦さんの手だと、ゆっくりと食事が出来ない為、母が食べないからです。ゆっくりと食べさすとおかげさまで食べてくれますが昨日はちょっと落ち込みました。私の顔は見たことがあるけど、名前は知らないというのです。環境が変わると痴呆の進行が早いとは聞いていましたが、それにしても早すぎると思って・・・イスに座っていて、涙が止まりませんでした。入院させる時はあと、ひと月もつかどうか??というお医者様のお話でしたが、食事をしっかりと取って、体力をつければ持ち直すかもしれないとのことで今、頑張って食べさせるようにしています。今日はちゃんと私のことがわかったようなので安心しました。だけども毎日顔を見せないとやばいなあと思い、頑張って朝晩の日参を守るつもりです。どのくらいの寿命かは分りませんが母のためもあります。 が 自分自身の心の準備の為にも悔いのないように朝晩の大切な時間をしっかりと受け止めたいと思っています.本人の気力がどのくらいなのかにもよりますができるだけ一緒にいる時間を長くして私を忘れないように働きかけたいと思っています。後,に3日もすれば毎日のリズムもつかめて平常の生活に、戻れると思います。これから、一喜一憂の毎日となると思いますが映画の日記と愛犬ドロンのおかげで気がまぎれます。ドロン君は我が家へきて3週間生後57日ですが、うちへきたときは体重が1kgでしたが、もう、2Kgになりました。よく暴れますので肩こりのマッサージ(人間にするのと同じなんですよ)をしてやると極楽だ!!という顔つきで目をつぶっていますよ。催眠術にかかったりマッサージが好きだったり、変ったワンちゃんです。これからも映画の日記をよろしく応援してくださいね。では明日また・・・
2004年02月26日
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みなさま、こんばんは。ご心配をおかけしましたようで申し訳ありませんでした。そして、たくさんの励ましのお言葉をありがとうございました。母の入院と書いたので大げさに聞こえたと思います。申し訳ありません。手足が弱ってからもう、5年、寝たきりになって一年ほどで、本当の意味の介護は3年ぐらいですか・・・だから、もう腹は据わっていますので、私の手に負えなくなっただけのことの入院ですから、後はもう病院にお任せするだけです。内臓は丈夫な母ですが、動かなくなってから必然的になるべくしてなったもの。最後まで家を離れたくないとの意思を尊重したかったのですがもう、床擦れの状態を見るに忍びないので入院に踏み切りました。私自身のバタバタは落ち着いたのでのんびりしています。病院も自宅から7分、朝と夜にのぞけますので安心です。そういうことですし、明日から、4日間,お店のほうのアクセサリー展も始まることだし、通常の生活に戻ります。さて、今日は定休日、イタリア映画の≪激しい季節≫を観ました。この作品は前半、ブルジョワの火遊びのお話かなあと思ってみておりましたが中盤、年上の未亡人とファシストの高官を父に持つブルジョワの家庭の青年カルロ・・・ジャン・ルイ・トランティニアンとの激しい恋・・上品な中にもエロティシズムを目線で表現する大人の恋へと進み、後半は第二次大戦下の砲弾の中での別れと・・かなりインパクトの濃い作品でしたので取上げてみました・1959年の作品で、ジャクリーヌ・ササールも出ていますが、イタリアの避暑地でのふたりの恋の大人の色気と演技に注目して観たい作品です。1943年、第二次大戦下である。アドリア海に面するイタリアの避暑地に遅れてやってきたカルロ(トランティニアン)は久しぶりにロッサナ(ジャクリーヌ・ササール)に会った。カルロは徴兵前のひと時をここで過ごそうとやって来た。ロッサナはすぐにカルロに惹かれた。避暑地にはそれぞれブルジョワの家庭の若者で出来たグループがあり、海で遊ぶのも、サーカスを見に行くのも、だれかの自宅でパーティもどきをやる時も、いつも一緒だった。男女7,8人にグループであった。ある日、海辺でみんなで興じていると突然、敵の飛行機が低空飛行で海辺を襲った。怖がってないている子供を助けたことから、その母親ロベルタ(エレオノラ・ロッシ・ドラゴ)と知り合った。美しいその女性は未亡人だった。彼女の母は、厳格で子持ちの彼女が彼等たちグループと付き合うことを禁じた。それからしばらくしてみんなで、ヨットで沖に出ているときにたまたま遠泳していたロベルタを船に引き上げたがロッサナは激しい火花を彼女に投げかけそして無視した。そして、カルロスは自分の邸へみんなを連れ帰る。ほの暗い明かりの中でダンスをしていて、カルロとロッサナが踊る。他の男の子がロベルタ・・・30歳の未亡人を踊りに誘う。それぞれの相手と踊る中、ロッサナは得意げにロベルタに見せ付けるがカルロとロベルタは月明かりに照らされる顔と顔・・目と目でお互いの気持ちを訴え、そしてお互いに手ごたえを感じた。そして、導かれるままに庭に出たふたりは熱い抱擁を・・・それを見たロッサナは逃げるでもなく、ふたりの間近に寄ってきて見つめ去った。それまでもロベルタの魅力に嫉妬を感じていたロッサナはロベルタに意地悪を重ねてきたが二人の愛が燃え上がるのを止めることは出来なかった。亡き夫の義妹は戦火を逃れる為に夫の母にここへ疎開させられていて気難しい彼女はロベルタの恋に批判的であった。ロベルタは生まれてからこれまで母の言うなりに生きて来た女性でこの恋を知って初めて自分の意志で動き始めたのである。彼女も上流階級の家庭のお行儀の良い女性であった。だが、戦下という状況、子持ちの未亡人・・・ということで母は彼女に厳しかったが、ふたりは人目を忍んで会った。そんな中で、カルロの父は貴重品だけをもって、邸から逃げた。残ったカルロは邸は軍に押さえられ、しかたなく下宿した。もはや、彼女と離れることは出来ないカルロであったから。今まで父の力で徴兵を逃れていたが、ある夜、海岸で彼女と会っていて兵に見つかり,尋問を受けて、身分証の期限切れを指摘された。出頭せよとの命令で、もはや、徴兵は逃れられない。ふたりは、山奥へ逃れることにして、列車に乗り込んだ。だが、途中で敵の爆撃を受ける羽目になり、ごった返す列車内で離れ離れになり、ロベルタは列車の下に誰かが追いやってくれ砲火を逃れた。カルロもかろうじて砲火を逃れ、ふたりは呆然と歩きながらお互いの姿を見つけ必死で抱き合った。だが、用意された列車に乗ろうとして・・・爆撃を受けて倒れ死んでいる幼子を見て、ロベルタは置いてきた我が子を思い出し、”うちは大丈夫かしら??”と急に興奮しだした。カルロは彼女を慰めなだめ、そして列車に乗せた。そして、自分は列車に乗らずに ”ボクはここに残る。 いつか戦争も終わる、そしたらきっとまた会える。 うちで待っているんだ”と言って、 彼は走り往く列車を見送った・・・・★なんともこのエレオノラ・・・なんとかという女優さん。きれいですねえ。イングリッド・バーグマンの美貌,優雅さ, 上品さに・・ですね・・そのお セクシーさがすごいんです。いやらしくないんですよ。でもいい意味でのお色気。大人の色気がいいんだなあ。角度によってはメリナ・メルクーリーのような大作りな美しさも感じる。ジャン.ルイ・トランテイニアンってほんとメロドラマが多いですね。なでしこで取上げた作品でも≪男と女≫、≪危険な関係≫≪離愁≫の類は 全てメロドラマじゃないですか・ 顔の表情なんて殆どわたしは感じないんだけれど 巷じゃ演技派だという話ですよね。否定はしないけれどそして嫌いでもないんだけど、演技がどうとかも分らないんだけれど・・・・メロドラマ・・・・いいんですよね。これが・・・そんなふたりのぶつかり合いのメロドラマだからもう、雰囲気最高なんですよ。そしてジャクリーヌ・ササールの意地悪な行動、目線も印象的です。が、この女性では太刀打ちで出来ないでしょう!!脚本,監督のバレリオ・ズルリーニはドロン作品の≪高校教師≫カルディナーレの≪鞄を持った女≫とどちらも名作を手がけた監督ですね。前半、出だしは邦画の≪狂った果実≫を思わせ、盛り上がりから後半、そして戦時下の背景からストーリーに厚みと二人の素晴らしい演技。そしてここでも光と影のカメラの美しさがモノクロの画面で印象的な作品です。たまにはこんな作品でもと軽い気持ちで見始めましたが同じトランティニアンの≪離愁≫にも劣らぬ作品でしたよ。
2004年02月22日
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みなさま、こんばんは。寝たきりの母の状態ですが、床擦れの状態がひどくなりまして、もう、わたしの手に負えなくなりまして入院させました。バタバタとしていて、日記のお休みの連絡も出来ませんでした。最後まで自宅で看るつもりでしたが、このままでは後,ひと月も持たないとのかかりつけの先生のお言葉でやっと決心をしました。内臓は丈夫なのですが,床擦れの悪化から内臓まで悪くしてしまうので一旦、入院させたほうがいいとのこと。あれやこれやで落ち着かなかったので今夜まで映画日記はお休みさせてくださいね。ストレス解消もあって、書きたいのは山々ですが落ち着いて時間が取れないので悪しからずご了承くださいませね。みなさまの書き込みにもご返事が遅くなると思いますがごめんなさいね。できるだけご返事は書くつもりですが・・・
2004年02月20日
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