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前略!やまこぅです。さて、なんで屋有楽町露店主のミネッチさんからこんな話を聞きました。なかなかいい話だと思うので報告です。師曰く「思い出帳はカードを買ってくれたお客さんにもおすすめ!」なんで屋ではお題を聞いてもらった後、「思い出帳」に感想を書いて貰ったりしています。感想、評価は勉強にもなるし活力にも繋がります!今までは概ねお題をやった時に書いて貰っていたのですが、カードを見てくれたお客さんにもどんどん勧めてみてはどうでしょうか?カードを熱心に見入ってくれるお客さん、カードから話が出来たお客さん、たくさん居ると思います。こうしたお客さんにもどんどんなんで屋の感想を書いて貰って、そこからまたどんどん繋がりを作って行く。そんな中でカードを媒体にした評価や繋がりの可能性がもっと広がるのではと思いました。
2005.04.27
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前略!やまこぅです。土曜の夜は吉祥寺でなんで屋をやってきました。昨日、あの娘露店が商店会から注意を受けていたのでだいじょうぶかなぁと思いましたが、だいじょうぶでした。開店準備中にいきなり人だかりが出来てカードもよく売れました。幸先良し!でもその後なかなかお客さんが来ませんでした。で、焦ったのかやまこぅ、あたふたしてしまい、デモをやってもカードを勧めてももう一つ。一緒にやっていた娘露店長のよしまやんのアドバイス(格言?)、有り難かったです。師曰く「なんで屋って、釣りみたいだよね。」なるほど、と釣り経験2回の私でも思いました。釣りって、魚を肯定視しないと出来ないのではないかと思います。おそらく私はお客さんが来ないことに慌てて撒き餌をしすぎていたのだと思います。待つ事もまた肝要と思いました。でも、ただぼーっとしているだけではもちろん駄目で、外に意識を向け、街行く人を良く見ながら、何を求めているのか探索ながら待つことが大事と思いました。なんかしなきゃと思いがちでしたが、待つこともまた肯定視と思ったりしました。お客が来ない時とかって、他の露店主さん達は、どんな意識でやっているのでしょうか?
2005.04.23
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こんばんは、やまこぅです。一昨日は銀座、昨日は横浜でなんで屋をやってきました。駆けつけてくれた弟子、娘のみなさん、どうも有難うございました!「自分探しってどこ探すの」このお題をやってみました。「自分探し」と言われると何の事やら良くわからないかもしれないけど、きっと探しているのは自分の役割や存在理由、そしてそこで得られる活力なのではなのではないでしょうか。それを見付けるためには決して自分にだけ向かっていっては駄目で、周りをしっかり対象化することが肝要。そこでの期待・応合を土台にした共認充足こそこれからの活力源。待っているだけでは駄目で、まずは自分からどんどん周りに期待を発信していこう!と弟子の古田君に展開しながら、なんだかこっちが気付きが多くてスッキリしました。というのは、古田君をはじめ、なんで屋に来てくれる弟子や看板娘さん達は皆最初は道に転がっていたなんで屋を見つけて、そしてどんどん来てくれるようになった。これはまさになんで屋に期待を発信してくれていたのだと思います。そしてそこに応えてゆく事でこちらも活力がでて、今度はどんどん弟子や娘に期待をかけて行くようになる。そして共認充足の場がどんどん出来て行く。なんで屋って、この期待・応合→活力という場その物なのだなぁと改めて思いました。古田君の実感ベースの「なんで屋をやっているのは何で」がとても響いたのも、そこがすごくストレートに表現されていたからなのだと思います。これからも店主、弟子、娘、そしてお客さんにどんどん期待を掛け合って、共認充足、活力発見の場を作って行きましょう!
2005.04.18
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●自我(じが) みんなの共認によって(自分には)与えられなかった評価の欠乏。他者否定と自己正当化の塊で、己に都合の良い幻想に収束する。従って、共認機能の派生物であるが、みんなの共認を破壊する敵対物でもあり、言わば、共認機能が生み出した鬼っ子である。(るいネットより) 上記が自我という言葉の定義として扱っています。例えば、周り(仲間等)から「間違っている」と指摘を受けたとしても自分の頭では、なんで間違っているのかとは考えずに「俺は正しい。間違っているのは周り(仲間)のほうだ」と根拠のない(みんなに共感してもらえない)観念を並べて思い込む事なんかがあげられると思う。共認充足を得ようと「なんで間違っているのか」を追求し、正しい(みんなに正しいと共感してもらえる)答えを出そうとするのは結構努力が必要。自我回路というのは、その努力をなしに、自分の頭の中でとりあえずまとまりさえすれば(ドーパミンの抽出により)充足出来るので陥りやすいところかもしれない。しかし、あくまでとりあえずの充足であって不全を常に抱えている状態である。もともとの出所は共認不全(神話不全、役割不全、評価不全)。共認不全を共認によって充足するか、自我によって充足させるかの違い。自我というのは共認を否定(あくまで部分否定。完全には否定できない。完全否定するのであれば自己正当化する必要はない。)しているわけで、共認不全が解決するわけもなく、やっぱりとりあえずの充足なんですよね。まったく解決になってないこれが「自我」というものだと思います。
2005.04.06
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マオさんからお題を頂きました。「人間って何?」ちょっと難しかったんで、投稿が遅くなりました。すいません・・・ずばり、「人間とは、共認動物である」でいかがでしょうか!「人間って何」は、いろいろな切り口が有ると思うのです。それこそ、哲学的な話や生物学みたいな話も含めて。だからその疑問の出発点を、このブログ上でマオさんに聞いたりしました。そこでマオさんの言葉。>何か人間って楽しい時には楽しいって感じたりするけど、それって人それぞれでないですか?そう考えていったら人間って何だろう?って感じてしまったので・・・。>楽しいはずなのにアノ人が居るかそんな事って多分皆さん感じたことがあるかも知れないですけど、そんなの人間だけだと思うのですよ。それって何でカナぁ~みたいな・・・・。なるほどなるほど良くわかります。そこで楽しい=充足感ってなんだろう、どこから来るのだろうと考えてみると、「人」なのではないでしょうか。反対に、「面白くない」こともまたその出発点は「人」だったりしませんか?それこそマオさんの言ってた、>昨日久々にムッとしましたが・・・。<みたいな事も。人間は単に本能的な欲求、食欲とか性欲とか、を満たすだけでは充足しないのだと思うのです。本能的な欲求は持たされても、心の充足は得られない。この心の充足、人と人とがお互いを共に認め合う共認充足を求めるのが動物と違う「人間」なのではないでしょうか。人類はこの共認機能によって課題や役割や規範や方針を共認することによって、社会を統合してきました。共認とはは、人それぞれの好みや価値観みたいな表面的な物ではなく、それこそ人類が生き延びるために強化してきた命綱です。そんな深いところにある機能だからこそ、真の心の充足に繋がって行くのだと思います。そこで、「人間とは、共認動物である」どうでしょうか。
2005.04.04
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