M17星雲の光と影

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2008.02.01
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カテゴリ: その他
新潮社のPR誌「波」08年2月号に、保阪正康「即位と崩壊――天皇の家族史」が連載されている。

今月号は明治45(1912)年7月17日、明治天皇が侍医の診察を受けるところから始まる。この二日後、天皇は体調を損ない、宮中で倒れる。7月20日午後2時、宮内省は天皇が病に冒されているとの官報号外を発し、その病状を詳細に発表する。病名は尿毒症であった。

その「御容態書」には、既往の病名、尿量、体温、脈拍、呼吸数、意識状態などがきわめて細かく書かれている。「昨十九日午後ヨリ御精神少シク恍惚ノ御状態ニテ御脳症アラセラレ御尿量頓ニ甚シク減少蛋白質著シク増加 同日夕刻ヨリ突然御発熱体温四十度五分に昇騰御脈百〇八至御呼吸三十二回」

昭和天皇の病状報道の原型は、このあたりにありそうである。なぜこれほど詳細な発表が行われたのか、そのような方針を打ち出したのははたして誰だったのか、興味のあるところだが、残念ながらそれについての記述はない。

病状報道のあり方が同じであるように、それに伴って起こる社会現象もまた同じようなものである。病状が発表された20日に行われる予定だった隅田川の川開きは中止となり、歓楽街の劇場では急速に客足が鈍り、花柳界の予約取り消しも殺到する。いわゆる「自粛」ムードが社会全体に広がった。

保阪氏の文章では、これに続いて漱石の7月20日の日記が引用されている。それを読んで、私は驚いた。明治の最晩年、当時の文豪はどのような所感を日記に記したか。私はその精神の健全さ、強靱な「常識」力に圧倒される。そして、あらためて昭和前期の暗黒を思う。とにかくその日記を以下に引くことにする。

「晩、天子重患の号外を手にす。尿毒症の由にて昏睡状態の旨報ぜらる。川開きの催し差し留められたり。天子いまだ崩ぜず。川開を禁ずるの必要なし。細民これがために困るもの多からん。当局者の没常識驚ろくべし。演劇その他の興業もの停止とか停止せぬとかにて騒ぐ有様也。天子の病は万臣の同情に価す。しかれども万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して然るべし。当局これに対して干渉がましき事をなすべきにあらず。もしそれ臣民衷心より遠慮の意あらば営業を勝手に停止するも随意たるは論を待たず。然らずして当局の権を恐れ、野次馬の高声を恐れて、当然の営業を休むとせば表向は如何にも皇室に対して礼篤く情深きに似たれどもその実は皇室を恨んで不平を内に蓄うるに異ならず。恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡(うち)に醸(かも)すと一般也。(突飛なる騒ぎ方ならぬ以上は平然として臣民もこれを為すべし、当局も平然としてこれを捨置くべし。)新聞紙を見れば彼ら異口同音に曰く、都下闃寂(げきせき)火の消えたるが如しと。妄(みだ)りに狼狽して無理に火を消して置きながら自然の勢で火の消えたるが如しと吹聴す。天子の徳を頌する所以にあらず。かえってその徳を傷つくる仕業也。」(「波」p84~85)

保阪氏はこの記述の「恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡に醸す」という表現に「強い関心をもつ」と書かれている。いわば予言の一句ということだろう。

私もまたこの一句に強い印象をもつ。だが、それよりもこの文章に見られる漱石の精神の健やかさ、常識の力強さに心引かれる。



「天子いまだ崩ぜず。川開を禁ずるの必要なし。細民これがために困るもの多からん。当局者の没常識驚ろくべし。」

と、すっぱりと所感を述べる。

問題はマスコミをも含めた「取り巻き」の過剰反応にある。それは将来「恐るべき結果を生み出す」だろう。明治天皇の病状を案じる前に、まずそのことをまっすぐにことばにした漱石の「常識」から学ぶものは多い。

昭和の末年、私はこのような「常識」的な文章を新聞や雑誌のどこにも見ることがなかった。

暗黒ははたして昭和前期にだけあったのだろうか。

「泣いて血を吐くほととぎす」という歌詞をもつ演歌を、自主規制という名の下に「放送禁止歌」扱いとしたのは、昭和の末年のことである。

あまりにも軽々に、脳天気に、「進歩」とか「前進」ということばを口にするべきではない。

それよりも、「常識」ということばの内実をあらためて問い直すことが必要ではないかと私は考えるのである。





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Last updated  2008.02.01 21:40:47
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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