仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2005.11.27
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テーマ: 鉄道雑談(1520)
カテゴリ: 宮城
人に聞かれて答えたのですが、この機会に、自分でも整理しておこうと思います。題して、「東北本線のルートにみる宮城県の歴史」(おおげさ)

1 野蒜築港と鉄道建設への影響
 一大開発プロジェクトだった野蒜貿易港計画の推進とその挫折は、わが県の鉄道計画に大きな影響を与えた。古くは県内初の鉄道として開業した仙台-蒲生間の軌道(明治15年から20年)が、野蒜港海運の陸送を担うべく計画されたもの。
 その後、日本鉄道会社(その後国鉄が買収)が計画した東北本線(上野-青森)第二期計画も、仙台経由で野蒜港までであったが、明治17年の台風による築港中止により、塩釜(現在の塩釜港貨物駅跡地)までの路線で明治20年に開業。その後岩切から分岐して利府、松島(反町)、一関に至る軌道が明治23年に開通。
(なお仙石線(宮城電鉄)は、もっと遅くて大正14年開業(仙台-西塩釜)。昭和2年松島公園まで、昭和3年石巻まで全通。)
 港の関係で言えば、仙台新港の建設に伴い、仙台臨海鉄道が設立・敷設されるなど(昭和46年開業。今ではキリンビールが代表的)、やっぱり海運と鉄道の関係は切っても切れないようです。ちなみに現在は空港とのアクセス鉄道が建設されています。

2 利府線をめぐる経緯
 明治23年に宮城県内の東北本線全通の際は、利府ルートであったが、利府ルートの勾配(千分の17)の緩和と複線化対応のために、塩釜側を中心に海岸線の建設運動が強まり、昭和19年に貨物専用の海岸線(現在の東北本線)が開通。この後は、「海線・山線」の2本立て運行がなさることとなる。
 複線化の対応では、昭和32年までに陸前山王-品井沼間だけが単線で残されることとなり、国鉄も本線ルートを海岸線に移行させることとし、昭和37年に海岸線が複線化完成(この際、松島駅が設置)。ここに利府ルートは岩切-利府間を残して廃止され、海岸線が堂々と「本線」とされるに至る。


 時代の流れと鉄道の意義を見誤った結果が、軌道ルートに残された事例。
 まずは、角田・丸森。東北本線の当初計画は阿武隈川沿い(白石ルートより短距離かつ平坦)だったが、伊具の住民は桑園への被害を憂慮して拒否。また、松島以北が奥州街道でも涌谷・佐沼道でもない一見不思議なルートとなっているのは、煤煙などの害が嫌われたから。
 逆に先見の明があったのは仙台駅の位置。当初日鉄は榴岡に計画したが、商業発展のために停車場は町の中心にあるべきと論じた時の松平県令などの運動により、現在地に設置された。町中に停車場をおいたのは当時(明治20年開業)としては珍しいケース。これは、商業都市仙台の誇りとすべき歴史だと思います。(確か新幹線駅の際も類似の議論があったはず)





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最終更新日  2005.11.27 14:10:41
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