全1209件 (1209件中 1-50件目)
下記文献を読んで、現代の宅地災害の歴史において、東北の事例が「わが国で初めて」の意味を持つ場合が何度かあると知った。■釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』京都大学学術出版会(学術選書090)、2020年同書は、日本の宅地災害や地すべりを、近現代の都市の形成過程と併せて検証していく。特に、丘陵地に形成された谷埋め盛土が、1970年代終わりごろから各地で地震で地すべりを起こすようになったが、危険性の認識とリスク誕生の過程が、従来の崖崩れや地すべり災害と本質的に異なり、人為的に生み出された都市の宅地災害だと論じている。以下に災害史上「初めて」の意義を持つ東北の事例について、読書メモを記す。(なお、小見出しなどは、おだずま再構成)1 1968年十勝沖地震 =剣吉中学校の被害(1)歴史的意義・丘陵の宅地開発は東京23区や阪神間以外でも、1950年代後半から始まり、60年代には尾根を削った土砂で谷を埋める大規模な造成が行われた・当時から地質学者や地形学者は危険性を指摘したが列島開発ブームで省みられなかった・そうした中、十勝沖地震で、谷埋め盛土地すべりで最初の犠牲者が発生。谷埋め盛土の危険性が証明された(2)概要・青森県南部町(旧名河町)剣吉中学校の生徒4名が、避難途中の校舎玄関前通路で、崩落した谷埋め盛土に級友40名とともに巻き込まれた・剣吉中学校の校舎は、背後から続く谷を埋めた盛土を跨ぐように建てられていた(おだずま注:地すべり後の写真では、2本の尾根筋に直交するように校舎が乗っかっている。尾根の間の盛土が崩れて校舎前の校庭や入口の方に流出したようだ)・しかし農業地帯であったためか、後の都市で頻発する宅地盛土災害を結びつけて考える専門家は少なかった2 1978年6月12日宮城県沖地震 =戦後初の都市型地震災害(1)歴史的意義・マグニチュード7.4・M7クラスの地震は明治以降11回もあるが、マグニチュードの割に被害が極めて大きくなった・仙台都市圏が戦後発展したためである・すなわち、日本において、現代化された大都市がまとまった被害を受けた最初の事例として意味を持つ(2)概要・死者28、負傷者11,028、建物損壊179,225棟だが、家屋全壊率は0.3%と低い・大規模火災もなく、都市震災としては中程度以下・その理由は仙台中心部の地盤が比較的良いこと・しかし、特に注目されたのが宅地造成地の斜面崩壊(谷埋め盛土地すべり)とブロック塀倒壊・その後の都市地震災害に出現する定番の被害となる(3)谷埋め盛土・仙台市緑ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷、白石市寿山第四団地など・地質学者や地形学者の懸念が的中したが、不思議なことに当時は、仙台の古い(昭和43年新都市計画法施行以前)盛土に限定した災害として処理された・宅造法(昭37)以前や新都市計画法(昭43、開発許可制度)の後は、被害のあった造成地の割合は減っているが(おだずま注:著者は造成地件数より個々の盛土の面積や数ごとに比較すべきとする)、それでも全体の2割以上ある・盛土地すべりは他の都市では起きにくいとする議論があった。一片の真実としては、仙台の丘陵の基盤をなす第三紀層の砂岩、泥岩が削られて盛土に使われたため、乾湿の繰り返しで砂や泥に分解するスレーキング現象を起こすということはある。また、仙台では動くべき盛土はあらかた動いたから将来は安全、との解説も・しかし、そのような都合の良い理屈(ノーマルシーバイアス)は、1995年阪神・淡路大震災や2011年東日本大震災で崩れた3 2003年三陸南地震、2008年岩手・宮城内陸地震 =築館の地すべり(1)歴史的意義・2003年は気仙沼沖深さ70km震源の深い地震、2008年は栗駒山麓断層運動(逆断層)による震源深さ8kmの浅い地震、と性質は異なる・しかし、特徴は宮城県築館町(現栗原市)で2回とも発生した谷埋め盛土の地すべり・すべり面角度10度と極めて緩い・このため詳しく調査され、谷埋め盛土のメカニズムに重要な情報が得られた。後にローラースライダーモデルと呼ばれる(2)概要・1970年代の農地改良事業で、いく筋かの谷埋め盛土がほぼ平行に形成されていた・斜面造成の目的は、畑地とも宅地転用とも言われているが、実際に造成後も利用されることなく維持管理はされていなかった・盛土材料は、尾根部の鬼首カルデラ起源の軽石流堆積物で、多孔質な軽石を含み比重が軽く、盛土に向かない(有効上載圧を上げにくい、地下水たまりやすい、などで液状化しやすい)・さらに、旧谷底の地盤は特に弱い(N値測定不能=打撃せず自沈する状況)・以上から、盛土底面付近での液状化で、極めて低角度でも滑ったと思われる(3)補足・問題の地区で多くの谷筋が埋められたが、2003年地震で谷埋めA(盛土4m)が崩壊して流動化した土砂が水田に流入した。2008年には谷埋めB(盛土6m)が崩壊(Aは対策済み)した・更に別の斜面谷埋めC(盛土8m)は、崩壊せず。これは、底面付近の地盤は液状化で抵抗が失われるが、盛土の厚さによって側部の抵抗が大きかったためと考えられる4 2011年東北地方太平洋沖地震(おだずま注:フロンティア事例というよりは、過去の教訓が生きなかった事例という位置づけ。そのため簡潔に整理)(1)概要・1978年時点で判明していた事実と本質的に同じ。例えば緑ヶ丘4丁目の地すべりは1978年とほぼ同じ範囲と深さ・しかし他方で、1978年に崩れなかった盛土でも地すべりがあった。例えば折立5丁目は明瞭な移動体を持った典型的な地すべり(後のボーリング調査で盛土に地下水が貯まっていたことがわかったので、対策が可能であったかもしれない)・盛土材料が問題を悪化させたケースも。1978年地震の地すべり盛土を、7から10年後に再調査したところ、(常識では盛土は時間経過で圧密し強度は増すが、逆に)N値が当時と同水準か低下する傾向。これは災害復旧時に盛土材とした泥岩・左岸のブロック(掘削岩塊)のスレーキングが原因と考えられる。この状態で2011年を迎えたのだ(スレーキングは上述2(3)参照。岩石が湿潤と乾燥の繰り返しで分解していく現象。通常は地表で起きるが地下水の上下によって地下でも起こりうる)(2)対策工事の効果と限界・緑ヶ丘地区では、1978年の地すべりが顕著に発生。宮城県によって地すべり対策工事が行われた。谷埋め盛土地すべりに対するものとしては全国初で、兵庫県南部地震までおそらく全国唯一の場所だった・対策工事は、集水井戸による地下水排除と何列もの鋼管杭の抑止効果を組み合わせたもので、地すべり対策としては例外的に入念・しかし、なぜか1丁目と3丁目の地すべり地区のみ行われた・2011年には1丁目の谷埋め盛土は無被害だったが(効果あったか)、3丁目は(1978年のような盛土全体の地すべりは防げたが)杭を起点に浅い滑りがあり、住宅基礎の亀裂や傾きが発生した・4丁目は対策工事が行われないまま(道路と水道のみ補修)、2011年にほぼ同様に再現され激しい被害となった。地下水位も非常に高く(地震直後に自噴したほど)、大きく動いた。地震後1年間緩慢な地すべりが続いた。再建できず集団移転を選択することに■関連する記事 地すべり、宅地災害、土砂災害などの基礎知識(2024年05月28日)
2024.05.28
コメント(0)
4月18日の新聞記事であった。縄文人と弥生人の二重構造モデルに疑問を投げかける内容で、縄文、関西、東北の3系統に分けられる可能性が高い、とする。■理化学研究所プレスリリース 全ゲノム解析で明らかになる日本人の遺伝的起源と特徴以下に、要点をまとめる。・全国7地域の医療機関に登録された3,256人の日本人の全ゲノム情報を分析。・まず、コモンバリアントに基づいて従来の主成分分析を実施。以前の研究と同様に、沖縄と本土クラスターの二重構造が再現された。・次いで、レアバリアントを使用した次元削減分析で、前例のない遺伝構造が明らかになった。・具体的には、本土の領域間のより明確な分離と、本土クラスターから沖縄クラスターのより明確な区別が観察される。また、東北の人々が細長いエリアにクラスタリングされる。・さらに、ADMIXTURE分析の結果、日本人口は、3つの祖先の混合によって最もよくモデル化できることを示唆する。すなわち、K1(沖縄)成分は、本土サブグループで安定した割合、K2(東北)成分とK3(関西)成分は西から東北に徐々に変化する。・以前の研究により、日本人が縄文人及び東アジア(EA、主に漢民族)の祖先をもつことが示唆されている。最近の古代ゲノム分析から、北東アジア(NEA)の祖先の影響も指摘される。この背景のもと、縄文、EA、NEAの現代及び古代の遺伝データを今回データと共に分析した。・縄文の祖先比率は、沖縄がもっと高く(28.5%)、次いで東北(18.9)、関西は最も低い(13.4)と推定。これは縄文人と沖縄の人々に遺伝的親和性を示す以前の研究と一致。また、関西地方は漢民族と遺伝的親和性が高いことが明らかになった。・また、関西人と黄河又はその上流地域の中新石器時代および後新石器時代古代中国集団との間に顕著に密接な関係が見受けられた。対照的に、東北地方の個体は縄文人との遺伝的親和性が顕著に高く、また、沖縄の宮古島の古代日本人ゲノムや古代韓国人(三国時代)とも高い遺伝的親和性が示された。・最新の確率的手法IBDmixを使用し、現生人類の近縁で絶滅したネアンデルタール人やデニソワ人由来の遺伝子配列が検出された。・本研究は、日本人の起源に関する重要な洞察を提供する。従来の二重構造モデル(縄文時代の狩猟採集民と大陸からの弥生時代の稲作移民の混血)に対して、最近出土した人骨のゲノム研究による三重構造モデル(縄文人の祖先集団、北東アジアに起源を持ち弥生時代に日本に渡った集団、東アジアに起源を持ち古墳時代に日本に渡った集団の3集団の混血)が提唱された。しかし、先行研究では古人骨全ゲノムのサンプル数が制限されていたところ、大規模な現代日本人ゲノム情報に基づいた今回の研究により、三重モデルの裏付けになる可能性がある。・さらに、初めて日本人の遺伝的構造に対する東北地方人の祖先の影響の重要性が強調された。居住していた蝦夷(エミシ)の起源を調べる必要がある。報道は分かりやすさを求めるが(これで決着?)、あくまで数理上の解析であり、三重モデルをよく説明できそうだということだろう。人類学的視点、古い地形や古気象学など様々な観点から研究の深化が求められると考えるが、今回の成果が支持しそうな仮説的な3系統とは、次のようになろう。1.縄文系 沖縄に多い2.関西系 関西に多い。古代中国黄河付近の漢民族と親和3.東北系 東北に多い。縄文人や古代韓国人とも親和。由来が不詳(蝦夷?)■関連する過去の記事・東北の縄文人の特徴(2016年4月7日)・東北縄文人はどこから来たか(08年11月23日)・ミトコンドリアDNAと日本人の起源(07年11月4日)・縄文人と弥生人(07年6月5日)その他、下記のフリーページの記事リストに関連する記事あると思います。・東北とは何か・歴史に見る東北・東北の民俗・言語・文化・出版・思想・科学
2024.04.19
コメント(0)
4月11日のニュースで、浪江町大堀地区で大堀相馬焼の登り窯に実に14年ぶりに火が入ったという報道があった。以下は、NHKの報道内容のポイントだ。------------・浪江町に伝わる国指定伝統的工芸品の大堀相馬焼の産地で、原発事故の影響で途絶えていた伝統的な登り窯による作品を焼く作業が、14年ぶりに行われた。・大堀相馬焼は、大堀地区に300年以上前から伝わる。繊細なひびの模様や馬をあしらった絵柄などが特徴。・避難先で活動するなどしている窯元の組合は、昨年、事故前の恒例行事登り窯まつりを来月3月に復活させることを決め、まつりで展示する作品を伝統的な登り窯で焼く作業を11日から始めた。・地震で壊れ昨年再建した窯に、11日朝6時に窯元2人が火を入れ、薪をくべた。・焼くのは地元の子などの作品約800点。13日昼まで7人の窯元とボランティアが交替で温度を調整する。・「休閑窯」の半谷秀辰さん(談話)。・大堀相馬焼協同組合理事長で「半谷窯」の半谷貞辰さん(談話)。------------このニュース映像をTVで見ていて、アッと声をあげそうになった。湯呑かカップが映し出されたのだが、深い青緑色の器の上半分には細かいひび割れのような模様が見え、濃く彩られた下半分は内外の二重構造で外側に小さな窓がいくつか開いている。これが、子どものころ家にあった記憶の中の湯吞みと一致したからだ。祖父が使っていたような気がする。なお、河北新報の記事(12日)もあり、ポイントは以下。------------・大堀相馬焼協同組合の半谷貞辰理事長が展示施設「陶芸の杜おおぼり」の登り窯に火を入れた。・窯の中には町内の児童や住民が作った品や、大堀相馬焼職人の作品を入れた。・焼いた作品は、5月3日-5日に同施設で開催される「大せとまつり」で展示する。・大堀相馬焼は300年を超える伝統を有する。・浪江町によると、大堀地区を中心に26軒の窯元があった。原発事故で全員避難。その後、県内外の避難先で12軒が再開。昨年3月の避難指示解除で1軒が大堀地区に帰還した。------------福島県には、国指定の伝統的工芸品が5品目ある。(福島県サイト)・会津塗・会津本郷焼・大堀相馬焼(昭和53年国指定、平成9年3月31日福島県伝統的工芸品指定)・奥会津編み組細工・奥会津昭和からむし織(会津郷からむし織)大堀(おおぼり)相馬焼は、相馬藩士半谷休閑(はんがいきゅうかん)の下僕の左馬(さま)によって創始されたという。佐馬が中村で陶器の学び方を学んで帰ると、さっそく井手村〔おだずま註;明治町村制で大堀、井手など8か村が合併して標葉郡大堀村が発足〕の美森(うつくしがもり)で土を発見し、小さな窯をつくり陶器制作に成功。主人の休閑がこの技術を村人に伝える。技術は近隣に広がり、相馬藩の特産物として保護育成され、江戸末期には窯元の数は100戸を超え、北海道から関東関西にまで販路が広がる。明治になり藩の援助がなくなると産地は次第に衰退。大堀相馬焼の特徴は、「青ひび」が器全体の地模様になっていること。青ひびは青磁釉によるもので、主原料となる砥山石は大堀焼産地ただ1カ所にのみ産出する原料だ。また、珍しい特徴として「二重焼」の構造があり、お湯が冷めにくく持ちやすい。・東北経済産業局サイト東北の伝統的工芸品・うつくしま電子事典 半谷休閑大堀地区は浪江町の山側の区域。双葉郡大堀村が昭和の合併で同郡浪江町と統合された。私は、大堀(浪江)は双葉郡なので、相馬中村藩領から外れているのではと一瞬思ったのだが、大堀も相馬藩領だった。明治に発足した双葉郡の名は、標葉と楢葉の2郡を統合したものだが、北部の旧標葉郡は藩政時代に相馬藩の領地である(南部の旧楢葉郡は磐城平藩)。ちなみに、相馬郡も明治の発足で、宇多郡(現相馬市、新地町)と行方郡(現南相馬市、飯舘村)が統合されたものだった。なお、旧宇多郡でも、今の新地町(駒ヶ嶺以北)は仙台藩領であった。福島県浜通りの歴史は、よく勉強しておきたい。浪江は磐城寄りのようにも感じるが、地図では茨城県境よりむしろ宮城県境に寄っている。
2024.04.13
コメント(0)
かなり前の記事で、三八、上十三、上北下北、東西南北中の津軽郡、十三湖などなど、方位や数字の組み合わせ地名が豊富な青森県は、抽象的幾何学的コンビネーション地名では絶対に世界一だ、と書いた。(青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日))東北の経済界を長らく牽引された黒田四郎さんの著作を読んでいたら、青森県の地名について書いておられた。以下に引用してみる(一部を算用数字に変換しました)。■出典 黒田四郎『東北見聞録:歩く・会う・語る・住む』八朔社、1997年(東北通商産業局「東北通産情報」の連載エッセイをもとにしたもの。ここで引用したものは、1988年4月号が初出。)------------ あるとき、青森県の市町村を調べていたら、名前の中に数字がある市町村が多いことに気がついた。数えてみると、下北半島の南の方から、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、十和田、十和田湖、百石、三沢、六ヶ所、と10個あり、津軽半島の方に五所川原と三厩と2個あって12個となる。12コといえば、「十二湖」という湖が青森県にあるのも面白い。 それに加えて市浦は昔は四浦といったという話がある。もしそうならば13個となる。13個といえば、不思議なことに青森県には、「十三湖」という湖もある。 青森県の市町村は67あるので、数字の入った市町村の占める割合は、20%になる。日本の各県のなかで、このように名前の中に数字がある市町村が13個もある県、そしてまたその割合が20%もある県は、ほかにないようである。 最近各県が日本一を競う風潮にあるようであるが、それならば青森県は、これを日本一と数えあげてはどうであろうか。 ところで、このことをかつて、青森に勤務したことのある同僚のTさんに話したところ、数字はデジタルであるから、「それならば、青森県は”デジタル県”ですね」という言葉が返ってきた。面白い発想であり、私はこれを頂戴することにした。------------おだずま編集長の発想と同じような、といっては大家に失礼かも知れないが、このような見方をされていたことに非常にうれしく感じた。共鳴しながら、時代を超えた「対話」のつもりで読んでいた。■関連する過去の記事 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 「三八地方」を考える(再論)(2011年12月4日) 五能線の名の由来を考える(10年5月24日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 南部の戸(へ)の地名(07年12月17日)
2024.04.10
コメント(0)
これまでも地名について考えてきたが、命名のパターンについて、今尾氏の著作をもとに、整理してみた。主として、市町村合併の際に新たに命名する際の手法の類型論だ。今尾氏著作の内容からの引用を示しながらも、類型の抽出や命名は当ジャーナルでの整理もあります。■今尾恵介『市町村名のつくり方:明治・昭和・平成の大合併で激変した日本地図』日本加除出版、2020年(1)合成地名 合併した複数の村の一文字づつ取って町名をつくる手法。大田区など。明治22年の町村制に際して、内務省は、町村合併標準(明治21年内務大臣訓令352号)で、「殆ど優劣なき数多の小町村を合併するときは各町村の旧名称を参互折衷する等努めて民情に背馳せざることを要す」と助言したため、合成地名が激増。平成の大合併でも便利に使われた(今尾)。 宮城県では、山元町、東北では、風間浦村、八峰町などだろう。 福島県飯館村は、今尾氏著作でも詳しく解説されているが、勝ち抜き戦のような長い経緯がある。昭和31年に飯曽村と大舘村が合併したが、じつは両村とも合成地名。大舘村は昭和17年に大須村と新舘村が合併。さらに大須村は明治22年町村制で大倉村と佐須村が合併したもの。一方の飯曽村はやはり明治町村制で飯樋村と比曽村の合併による。さらに言うと、昭和17年に飯曽村に編入された石橋村も合成地名(臼石、二枚橋)だった。昭和17年まで存在した新舘村の名は、明治町村制(8村の合併)の際の合成地名ではあるが、村名の合成ではなく、新井(にいた)川と草野にある館跡(舘)を合成したもの。結局、明治町村制以前の藩政村18村のうち、「勝ち残った」のは飯樋村のみ(飯の文字)とのこと。 (おだずま補遺 愛島村(現名取市)も合成地名)(2)村数地名 千葉県富里市は明治の町村制で13村が合併したので、十三の里の意味の富里とした。他にも、埼玉県三郷市など(今尾)。 宮城県だと、七ヶ浜、七ケ宿、仙台市内の六郷や七郷だろうか。東北では六ヶ所村か。(3)瑞祥地名 非地名系で縁起のいい地名をつけるもの。長野県栄村など。横手市南部にも昭和26年まで栄村(えいむら)が存在したが、明治町村制で6村合併で誕生したもの(今尾)。(4)時代地名 「明治村」がかつて多数存在した。全国で24あり、東北でも、現在の羽後町、山形市、福島市にあったが、現在は残っていない。このうち福島県伊達郡の明治村は、意外にも(明治時代でなく)昭和5年に飯野村から分立して誕生したが、昭和2年に大火で村役場が焼失した後の新役場設置場所で紛糾した結果だという。昭和30年に飯野町に戻り、旧明治村村域は「大字明治」(現在は福島市飯野町明治)として残った。(今尾) 福島県昭和村(昭和2年に野尻村、大芦村が合併)はこれだろう。また、仙台市宮城野区の平成(1丁目、2丁目)は、平成の最初までは原町苦竹(字中原など)だった。※おだずま補遺 この記事の後の記事です 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)(5)仲良し系地名 今尾氏の表現をお借りして類型名にしてみた。むつみ村、平和村、共和(協和)村など。秋田県協和町は昭和の大合併に4村合併で誕生。現在は大仙市の大字の名として残る。 大和(やまと、たいわ)も含めていいだろう。(6)イメージ系地名 雰囲気を重視した地名が平成の合併では散見される。栃木県さくら市、群馬県みどり市など。その土地に関係はあるのだろうが、歴史的地名に関係なく印象の好感度を重視したもの。 北海道大空町(空港がある)、熊本県あさぎり町(盆地に朝霧)など。熊本県和水(なごみ)町は平成18年に三加和町と菊水町が合併した新町名で、合成地名ともいえるが、もともと三加和は仲良し系命名で、菊水は菊池川に由来する。(7)広域地名 定義的に言えば、合併した際にその地域を含むより広域の呼称を採用するもの。古典的な例として明治43年に岐阜県上有知(こうづち)町が改称した美濃町で、戦後に激増した。戦後の古株は備前市、日向市、鹿児島県薩摩町(現さつま町)、秋田県羽後町、加賀市など。平成の大合併ではさらに増えて、越前市、下野市、奥州市、南九州市など。政令指定都市では、北九州市、相模原市、さいたま市(以上今尾)。 郡名や旧国名などが着目されるが、例えば郡名を採用した場合に競合や混乱が生じる場合がある。伊豆市、伊豆の国市が平成の合併で誕生。なお、東伊豆町、西伊豆町など伊豆を冠する自治体名は多い(伊東市も伊豆の東の伊東郷から)(以上今尾)。 南相馬市の名について。かつて相馬郡内最大の町は原町だったが、昭和の合併で原町市とともに誕生したのが、中村町を中心とした相馬市。相馬市は相馬中村藩の伝統から郡名を名乗るに相応しいと言えるかもしれないが、平成の大合併で原町市側は南相馬市を名乗ったので、逆転現象のような形ではないか。(当ジャーナルの勝手な印象なので、後によく検証したいと思います。) (過去の記事 原町(南相馬市)とJR原ノ町駅(10年6月9日)) 宮城県名取市は、昭和30年に合併して名取町(昭和33年市制)としたが、増田町(増田駅がある)と閖上町(旧東多賀村、人口は増田町より多かった)の二大人口集積地があり、役場所在地や新町名の調整が簡単ではなかったのではないかと察する。(これもよく検証したいと思います)。郡役所は長町だったし、岩沼町も大きな町だった(県立名取高校は昭和23年改名)。今の若い人たちは名取市こそ郡の中心地と思っているのではないか。 (過去の記事 西多賀を考える(07年5月23日)、丹取郡と名取(10年3月17日))※おだずま補遺 この記事の後の記事です ・合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) ・合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) ・亘理町を知る(地域区分、大字など)(2024年03月10日)(8)山川(やまかわ)地名 自然地形や水系などの名称を採用する事例(命名おだずま)。(以下今尾)山では駒ヶ根市、富士市、ニセコ町など。川では、高知県の四万十市と四万十町、新潟県の阿賀野氏と阿賀町。川の名は以前から東京23区などにも採用されてきた。海では、鹿児島県錦江町、熊本県不知火町(現宇城市)、高知県黒潮町、岡山県瀬戸内市など。北海道オホーツク総合振興局(管内)は初のロシア地名か。湖だと、山梨県富士河口湖町、秋田県田沢湖町(現仙北市)、八郎潟町、滋賀県びわ村(現長浜市)、神奈川県相模湖町、北海道洞爺湖町、茨城県かすみがうら市。(9)温泉地名 兵庫県の有馬町や城崎町は、郡名でもあるが有名な温泉の名を用いた。また、長野県野沢温泉村の例もある。なお、(何も付かない)温泉村という自治体が全国に4か所あった。神奈川県(現箱根町)、兵庫県(現新温泉町)、宮城県(鳴子町→大崎市)、島根県(現雲南市)。(10)名産地名 柿の名産地だった能登町柿生は、明治8年の3村合併で柿生村が誕生し明治の町村制で大字になる。神奈川県の柿生村は現川崎市麻生区。藍の特産地だった徳島県藍住町(藍園村と住吉村の合成地名)。桑の地名も多い。戦後では、橘町(現周防大島町)。 発想が近いものに、イベント地名もあるのでは(当ジャーナル)。実現しなかった山形県花笠市。最上川市(やまかわ地名か)との間で新市名をめぐり揉めたという。花笠市ならユニークなイベント市名だろう。 (過去の記事 尾花沢線の歴史(10年5月9日)をご参照ください)(11)東西南北地名 西東京市(田無市と保谷市)、東松島市など。今尾によると、方角付き市名には3類型あり、(1)地域内のどこにあるか(東村山市、南房総市)、(2)他市への配慮から位置関係を示す(東久留米市、東松山市)、(3)ある地域のどちら側にあるか(西東京市、北名古屋市)。このうり(2)は昭和45年の自治次官通知(既存の市と同一や類似とならないよう十分配慮すること)が徹底されたためだ。 中、中央、上下などが頭に着くのも類似と言えようか。※おだずま補遺 この記事の後の記事です 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)(12)国名付き地名 高田といういう地名に旧国名を冠したのが、陸前高田市、大和高田市、安芸高田市、豊後高田市。すでに新潟県に高田市(現上越市)が存在した事情から。最初に国名を冠したのは、昭和17年の泉大津市で、昭和の大合併では大和郡山市を最初に、近江八幡市、美濃加茂市(新潟県加茂市の三週間後)、常陸太田市、土佐清水市、会津若松市など旧国名市名が激増した。 重複回避のため、国名以外の冠を用いたのは、大阪狭山市(河内でない)、京田辺市など。(13)「新」地名 北海道には、大水害を機に移住した元の故郷の名をつけた新十津川町、分村独立した経緯を持つ新篠津村(篠津村から分村)がある。ほかに、兵庫県新温泉町、長崎県新上五島町。重複回避のための「新」の例は新南陽市(現周南市)で、山口県内の南陽町、山形県南陽市が存在したため。■関連する過去の記事(地名に関して。主にタイトルから拾いましたが、他にも記事中で地名譚や命名、比較論などを扱ったものは多数。記事リストをご覧ください)(仙台) 定義(如来)をどう読むか(2023年09月23日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 稲荷小路の名の由来と歴史(2016年1月20日) 条里制の名残 六丁の目(2014年3月22日) 足軽町だった柴田町、成田町、三百人町など(2014年3月25日) 広瀬川の名を考える(2013年11月30日) 仙台・泉区の赤生津を考える(2013年10月14日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 定義は「じょうぎ」か「じょうげ」か(2012年6月17日) 仙台の団地名を考える(荒巻方面)(2012年5月27日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日) 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 郡山市の八丁目と三町目(2011年11月5日)(仙台市六丁目の名の由来) 角五郎と四郎丸の地名(2011年10月28日) 高松と小松島(2011年10月20日) 杉山台ノ原(2011年10月8日) 七曜と仙台・宮城・東北の地名(最終更新)(2011年2月26日) 仙台の数字が揃いました(2011年1月17日) カラフル仙台 色の付く地名を考える(2011年1月15日) 仙台と数字を考える(2011年1月12日) 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 七郷、六郷と呼ばれる旧村名を言えますか(10年9月10日) 南光台と南光学園(東北高校)を考える(09年10月12日) 行人塚の地名の由来(08年9月12日) 仙台の名の由来(07年9月20日) 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(07年8月3日) 星陵町の名の由来(07年5月31日) 西多賀を考える(07年5月23日) 歴史的町名復活検討事業を考える(06年4月19日) 燕沢の名前(06年3月17日) 仙台の地名 福田町と高砂について(05年11月10日)(宮城) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) 小牛田の名の由来(2016年1月27日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 猿田という地名を何と読むか...(2013年10月15日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 縄文海進海退の跡を示す地名(2013年4月15日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日)(県内の災害崩壊地名) 母子石(塩竈市)の伝説(2013年2月13日) ごんだら村(気仙沼市五駄鱈)(2013年2月8日) 石巻市雄勝の地名「味噌作」を考える(2012年10月27日) 宮城郡 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 唯一の「け」都市 気仙沼(2012年8月26日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) 七曜と仙台・宮城・東北の地名(最終更新)(2011年2月26日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 宮城1-9(2011年1月19日) 数字と宮城の地名(2011年1月18日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(10年7月16日) 陸前と宮城県(10年6月19日) 体で覚える富谷の歴史と地名(10年4月11日) 丹取郡と名取(10年3月17日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日) 町名の読み方「まち」と「ちょう」を考える(07年8月8日) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日)(東北) 駅名と地域名が微妙に異なる例in東北(2016年1月28日) アイヌ語地名と東北(2016年2月27日) 五七五の地名(2013年3月2日)(由利本荘市など) 東北の難読地名(2012年6月16日) 都道府県名ベストテン 東北は入るか(2011年5月26日) 東北の駅名を考える(2011年5月2日) 七曜と仙台・宮城・東北の地名(最終更新)(2011年2月26日) 海の魚の内陸地名、首の地名(2010年12月5日) ビッグな市町村名を考える(10年5月17日) 東北で一番長い市町村名を考える(09年11月3日) 市を上回る人口の「ビッグ町」シリーズ(08年6月13日) 東北各県の「東北」を探す(07年11月29日)(青森) 陸奥はなぜ「むつ」と読むのか(2017年8月14日) 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 「三八地方」を考える(再論)(2011年12月4日) 五能線の名の由来を考える(10年5月24日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 南部の戸(へ)の地名(07年12月17日) 津軽の由来(再)(07年12月12日) 旧浪岡町の合併と分町運動(07年12月4日) 市町村合併と東通村(07年12月2日) トリプル飛び地の青森・津軽地方(07年12月1日) 「むつ」の語源(07年8月27日) 津軽の名の意味(07年4月6日)(岩手) 陸前高田は「たかた」か「たかだ」か(2011年4月20日) ビッグな市町村名を考える(10年5月17日)(奥州市について) 花巻と里川口(花巻川口町)(10年5月13日) 金ケ崎町は大きな「ケ」で決まり(07年9月29日) 誕生!奥州市(06年2月20日) 「北上市」という命名を50年後の今賞賛する(05年11月18日)(秋田) 大潟村の誕生と地方自治法(2015年10月9日) 五能線の名の由来を考える(2010年5月24日) 東北の合成地名 再び(09年6月28日)(藤里町について)(山形) 日本で唯一の地名を持つ東根市(2016年9月13日) 山形と新潟の県境にある山 日本国の伝説(2013年10月9日) 山形県の小学校名を考える(北部、南部など)(2013年7月7日) 飛島中学校と飛鳥中学校(2013年7月6日) 左沢(あてらざわ)を考える(2010年12月20日) 尾花沢線の歴史(10年5月9日)=最上川市、花笠市 東北文教大学と再び東北各県の「東北」を探す(10年1月18日)(福島) なすびも。やはり「けんぽく」だ(2016年6月17日) 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年11月24日) 広瀬川の名を考える(2013年11月30日)(伊達郡の広瀬川) 郡山市の八丁目と三町目(2011年11月5日) 東北の駅名を考える(2011年5月2日)(岩代の名が少ないこと) ハンダの名の由来 桑折町(10年8月7日) 原町(南相馬市)とJR原ノ町駅(10年6月9日) 会津若松市の名称を考える(09年3月15日) 伊達市が打ち破った先例(09年3月14日) 福島の OBAMA は二本松にも!(08年11月7日) 東北の OBAMA 世界へ!(08年11月6日) いわき市の誇りは永遠に(07年4月26日) 会津はやっぱり「あいづ」か(05年9月8日)(その他) 地名の読み方を変更する議案(2014年12月20日) 釧路市の合併(07年12月6日) 新市名として盗まれた隣町の名前(07年12月2日) 市町村合併雑感(05年10月1日)
2024.03.05
コメント(0)
朝日や読売の全国版紙面は、黒石寺蘇民祭が行われたことを写真付きで報道していた。淡々とだが、2008年のポスター騒動にも言及していた。かなり紙面を割いたのが毎日新聞で、大要はこんな感じ。----------●「岩手の奇祭」1000年の歴史/担い手不足 蘇民祭に幕関係者の高齢化と担い手不足のため今年が最後の開催。日本三大奇祭の一つとも称される。2008年に胸毛男性のポスターがJR東に掲載拒否されて話題になった。モデルとなった花巻市の会社員佐藤真治さん(53)は責任を感じ今回を含めて祭りへの参加を控えてきた。来年以降、祭はなくなるが旧正月の護摩祈祷などは続けるという。●伝統行事の中止 全国で歴史ある伝統行事が担い手不足で中止される例は全国で相次ぐ。・和歌山県有田川町の「久野原の御田(おんだ)」。・秋田の「男鹿のナマハゲ」も実施集落が減少した。女性参加の議論が浮上した時期もあるが伝統が理想とされ実現していない。・筑後市熊野神社の火祭り「鬼の修正会(しゅじょうえ)」は、大たいまつを30人ずつで3本支える人が足りない。地元で宿泊費負担で参加者を集め2本を引き回せた。民間シンクタンク(祭り・イベント総合研究所)23年夏アンケートでは、課題は資金難、準備スタッフ不足、当日スタッフ不足など。体力的に大変、高齢化した主催側と若者の共存図れない、などの回答も。武田俊輔教授(法政大)は、変化をどこまで許容するか。やり方や中止に至る過程などを記録して、将来世代が復活について判断する余地を残すのが望ましい、と指摘する。●東北冬点描 奇祭の終幕 惜しむ/岩手・蘇民祭「楽しみなくなる」最盛期には見物客を含めて4000人が訪れた奇祭の終幕を惜しむ声。蘇民祭争奪戦で最後まで袋を握っていた「取主」は、保存協力会青年部長の菊地敏明さん(49)だった。毎年写真を撮りに来ている栗原市の佐藤健さん(74)は、長く続けてほしかったと惜しむ。倉成奥州市長は、少子高齢化は時代の流れで地元の判断を尊重したい、と関係者をねぎらった。----------伝統行事と担い手の問題がまずは中核だろう。これだけでも難しい問題だが、観光や地域おこしの視点が混じってくると一層難しくなる場合がある。2008年の胸毛ポスター問題のときも、地元の意見は、真剣な伝統行事を進めているだけなのに外野が何をいうのかという思いだったと思う。もとは全裸男性の争奪戦だったが、奇祭と伝えられて奇異の目で見られたことも。担い手確保の視点から女性の参加も検討されことがあるという。河北新報は、他の事例を紹介して、イベントとして開放された形での継続を示唆するかのような論調だった。それも一法だが、そもそも伝統行事とは、信仰や地域生活に密着した催事であることを基本に考えなければならないと思う。その上で、地域の維持や交流人口拡大の視点から、継続を議論されることはもちろん良いことなのだろうが、じつは地域の催事全般に言える難問なのだ。毎日新聞全国版の記事はその点を指摘している。■関連する過去の記事(黒石寺蘇民祭) 黒石寺蘇民祭を考える(2024年02月18日) 奥州市の蘇民祭ポスター掲載拒否を考える(08年1月10日)■関連する過去の記事(地域と感染症など) 仙台藩の飢饉と金勝寺、徳泉寺、願行寺(2023年09月08日) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)=黒石寺蘇民祭など 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2024.02.20
コメント(0)
今月17日、奥州市の黒石寺で蘇民祭が開催された。夜中に裸の男たちが蘇民袋を争奪する奇祭として知られ、争奪戦はコロナ禍を経て4年ぶりの開催なのだが、住民高齢化と後継者不足を理由に、今回を最後に千年以上の歴史に幕をおろしたことが、あちこちで報道されている。産経新聞ニュースでは、16年ぶりに祭に来たという花巻市の佐藤真さん(53)が記事に出ている。この方が、2008年に掲示が拒否されて話題になったポスターのモデルだった人だという。記事には、当時のポスターも示されている。河北新報でも最近、蘇民祭に関する記述がだいぶあった。●2月18日 一面記事 蘇民祭/有終の肉弾戦●2月16日 河北春秋(大要 長岡京跡で蘇民将来之子孫者と書かれた木札がみつかった。蘇民将来は疫病神から家族を守ろうとした庶民信仰。千年以上の歴史を誇り日本三大裸祭りに名を連ねる黒石寺蘇民祭が、あす開かれる。苦渋の決断だったろうが、復活を信じたい。)●2月15日 とうほく・総合面 ほっとタイム 歴史の終わりに万感/蘇民祭撮り続けた88歳写真家(大要 奥州市のアマチュア写真家佐々木稔さん。1955年ころ黒石寺蘇民祭に初めて行き、以来通い続けた。闇の中で男たちが揉み合う泥臭さが魅力だった。佐々木さんの作品は祭りのポスターに毎年のように採用。2008年JR東日本が掲載拒否したポスターの写真も佐々木さんが撮った。)●2月11日-14日 社会面「炎消ゆ 惜別 黒石寺蘇民祭」(11日 上 決断 高齢化にあらがえず)大要 黒石寺住職の藤波大吾さんは12月5日、淡々と開催終了を説明。黒石地区は人口900人、高齢化率50%超。祭りの中核を担う檀家は9軒に減り、70代80代中心に10人ほど。祭りの準備は1か月以上かかり、寺と檀家しかできない部分がある。開催1週間前から精進潔斎は家族全員に課されるため、女性は入浴できず、子どもは給食を食べられず弁当を持たせる。 藤波さんは言う。祭りは信仰の手段であって目的ではない。担う人や家族は伝統の核だから、無理やり変えてまで蘇民祭を続ける必要はない。 蘇民祭は、疫病除けの神と信仰された牛頭天王の化身をもてなし、その力を授かった伝説上の人物蘇民将来を祭る。厳寒の川で身を清め、火の粉を浴びる荒行は深い信心の証し。蘇民袋争奪戦の後、袋は細断され災い除けとして参拝客に配られる。(12日 中 尊重 真剣なら参加拒まず)大要 花巻市の会社員で4児の父、佐藤真治さん(53)(おだずま注:産経記事とお名前が異なる)は2008年のポスターのモデルだった。祭りに懸ける真摯な姿を撮ってくれたとわだかまりはないが、テレビコメンテーターに、下劣、威圧的、女性の敵とまで言われたことを悲しげに振り返る。 その年取材陣は10倍の170人に達して森厳な祭りの美は損なわれた。自分がいたら取材のぶら下がりが続くと、当時37歳の佐藤さんは14歳から毎年参加した祭りから身を引いた。 今回の祭りには、新宿二丁目のゲイの人たちも蘇民祭に参加する。黒石寺住職は、精進潔斎して感謝の気持ちあれば誰でも問題ないとする。保存協力会青年部長は、裸が見にくいとかゲイが気持ち悪いとかは、体験してから言ってくれ。過酷な祭りに真剣な思いで参加するなら誰でも歓迎されると言う。(14日 下 模索 議論重ね難局打開へ)大要 1月28日金ケ崎町の長岡蘇民祭が行われた。祭は1989年に農協青年部が企画したのが始まりで、地元有志の実行委員会で運営。寺、檀家、信者が中核を担う他の蘇民祭より人材確保や資金調達が容易だ。 岩手県内の蘇民祭は、黒石寺に限らず担い手の高齢化と人手不足で廃絶や中止が相次ぐ。明治以降、ピークは県南部中心に20ケ所で実施されたが近年は10ケ所ほどに半減。石鳥谷の光勝寺も800年以上続く五大尊蘇民祭を今年打ち切った。黒石寺の廃止発表の数日後の決定だった。 蘇民祭はこれまでも廃絶の危機に瀕したことがある。戦後混乱期には3回の中止。1971年には参加者を殴りつけた暴力団員が逮捕される事件。寺主体の祭りは終わるが、地元住民の保存協力会では、場所を変えて蘇民袋争奪戦を続けられないかと思案する。■関連する過去の記事(黒石寺蘇民祭) 奥州市の蘇民祭ポスター掲載拒否を考える(08年1月10日)■関連する過去の記事(地域と感染症など) 仙台藩の飢饉と金勝寺、徳泉寺、願行寺(2023年09月08日) 感染症と人類の歴史(2023年08月15日) 水の森公園の叢塚と供養塔(2023年08月03日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)=黒石寺蘇民祭など 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2024.02.18
コメント(1)
(4回シリーズとしています。)・地域別人口推計を考える(その1)(2024年01月31日)=地域別推計結果の概要・今回 地域別人口推計を考える(その2)(2024年02月14日)=個別の市区町村の結果・地域別人口推計を考える(その3)(2024年02月15日)=将来推計人口について・地域別人口推計を考える(その4)移動仮定と封鎖人口(2024年04月25日)2023年12月公表された地域別の人口推計(国立社会保障・人口問題研究所)について、前回(その1)は地域別推計(都道府県、市区町村)の結果の要点を記した。今回は、東北を中心に個別の市区町村をみていく。(なお、福島県浜通り13市町村は1地域とされている。市区町村数は全国で1884地域。)(1)総人口の減少動向まず、2020年→2050年で全国を見て、95.5%の団体は減少。減少率が大きいのは、順にこうだ。1.群馬県南牧村 -74.8%2.熊本県球磨村 -73.33.奈良県野迫川村 -72.54.北海道歌志内市 -72.05.奈良県御杖村 -71.5東北地方をみる。人口減少が顕著(4割以下になる)の市区町村を抜き出す。2020年を100として2050年推計を指数で示す。●青森県(全県61.0)今別町 29.6(2334人→691人)外ヶ浜町 32.4深浦町 34.7中泊町 36.6佐井村 33.9新郷村 38.1●岩手県(全県64.7)西和賀町 37.8●宮城県(全県79.5)最低が丸森町40.6●秋田県(全県58.4)男鹿市 37.6上小阿仁村 36.8藤里町 36.7●山形県(全県66.6)最低が西川町40.1●福島県(全県68.0)三島町 36.4金山町 38.4東北地方では人口が増える地域はないが、全国では下記の通りだ。つくば市 106.0守谷市 111.4つくばみらい市 113.0群馬県吉岡町 101.7さいたま市(全市) 101.2(なお市内6区で増加)川口市 100.9戸田市 107.0朝霞市 104.2志木市 101.7和光市 100.4八潮市 109.3吉川市 106.8滑川町 111.0千葉市中央区101.0船橋市 101.4柏市 102.1流山市 120.9印西市 116.8東京都は23区の内で減少が葛飾区、江戸川区のみ武蔵野市 105.8三鷹市 103.6調布市 104.4小金井市 102.3国分寺市 100.9狛江市 104.6稲城市 108.6西東京市 102.7御蔵島村 101.2(323人→327人)横浜市内の5区川崎市(全市) 104.4(市内の多摩区以外の6区も増加)開成町 102.5長野県南箕輪村 100.5(15797人→15882人)名古屋市東区 103.2常滑市 100.7大府市 100.9日進市 100.6長久手市 107.3草津市 100.4守山市 102..2木津川氏 101.9大阪市内の6区(西区110.7など)神戸市中央区 102.6福岡市(全市)100.6(市内4区で増加)福津市 108.3福岡県志面町 102.8須恵町 101.2新宮町 102.7久山町 107.1粕屋町 109.3熊本県大津町 104.1菊陽町 107.0豊見城市 101.8南城市 101.9恩納村 103.5(10869人→11249人)宜野座村 108.1(5833人→6304人)北中城村 101.7(17969人→18269人)中城村 117.8(22,157人→26,102人)与那原町 109.2(19695人→21504人)南風原町 102.0(40440人→41255人)八重瀬町 111.0(30941人→34340人)拾い上げて疲れた。(2)75歳以上人口(数)の動向75歳以上人口(数)について、2020年(100)→2050年の指数で。顕著な地域(3割以上増加)を拾う。●青森県(全県110.5)三沢市 135.8六ケ所村 136.2おいらせ町 165.9階上町 142.4●岩手県(全県105.9)盛岡市 139.9北上市 138.3滝沢市 171.6矢巾町 160.3●宮城県(全県136.1)仙台市168.6(青葉区173.1など)名取市 177.5多賀城市 153.5岩沼市 148.5富谷市 222.0(4743人→10529人)大河原町 145.7柴田町 133.3亘理町 134.3七ヶ浜町 134.9利府町 189.5大和町 144.7大衡村 137.1●秋田県(全県94.7)●山形県(全県104.3)●福島県(全県117.9)福島市 131.5郡山市 151.5須賀川市 136.0本宮市 135.4大玉村 150.8(1126人→1698人)西郷村 173.8(2299人→3996人)数の増加率では富谷市が突出している。全国で2倍以上になるのは、東京都中央区、つくば市、長久手市などだ。(3)75歳以上人口の割合今度は75歳以上人口の占める割合の動向。2050年の割合の高い地域(50以上)ないしは最高の地域などを拾う。●青森県(全県17.1→31.1)今別町 30.9→52.2外ヶ浜町 29.1→50.82050年で割合が最低は、六ケ所村の(11.8→)24.2●岩手県(全県17.8→29.1)最高 洋野町(22.1→)43.5最低 北上市(13.9→)24.1●宮城県(全県14.0→24.0)最高 丸森町(23.5→)40.3最低 大和町(11.2→)17.3なお、(2)で75歳以上人口の増加が顕著な富谷市は、その割合でみると、9.2→22.5 となっている。●秋田県(全県19.9→32.2)最高 上小阿仁村(32.8→)48.9最低 秋田市(16.0→)28.0●山形県(全県17.9→28.1)最高 西川町(25.6→)40.9最低 東根市(15.1→)22.3●福島県(全県16.0→27.8)最高 下郷町 (26.4→)42.7最低 大玉村 (12.7→)21.3全国を見渡して50を超えるのは、以下のようだ。群馬県南牧村(43.6→)55.2長野県栄村50.5京都府笠置町(30.0→)56.4大阪府豊能町50.7同能勢町50.5大分県姫島村(28.7→)52.5
2024.02.14
コメント(0)
東北では菊地が18位、菊池が23位の多姓であるが、岩手県では菊池が多く、菊地の20位を大きく引き離し第5位。ちなみに、岩手県の多姓は、第1位から順に、佐藤、高橋、佐々木、千葉、菊池、阿部、菅原、及川、伊藤、鈴木と続く。岩手県の菊池氏は、遠野市、宮守村、東和町、江刺市、大東町などに多く、中でも遠野市では4.8世帯に1世帯が菊池という多さ。菊池の発祥は、肥後国菊池郡(熊本県菊池市)で、中世菊池氏の居城跡と菊池神社がある。菊池氏は瀬戸内海から紀伊半島にかけて活躍した海族だったが、平安後期、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏に敗れ各地に散った。一族は、現在の大分、愛媛、三重、千葉、茨城、福島、宮城、岩手各県に落ち延びたという。遠野市小友町館内にある奥友館は、菊池喜左衛門の居館跡といわれる。阿曽沼氏の家臣に菊池氏が多くみられ、阿曽沼氏から八戸南部氏にかわってもこれに従ったと思われる。むつ市田名部には、九州菊池の一族菊池正興の城跡がある。■参考 鈴木常夫『多姓と難読姓からみた 東北人の苗字』本の森、2001年ところで、当ブログでも随分参考にさせていただいている田村昭さんの著作(出典下記)に、仙台の本郷さんは古く菊池氏から発生したとある。(以下に要約)仙台藩のお抱え刀工の本郷国包(くにかね、新寺二丁目善導寺に墓、中央二丁目の貴金属店本郷は子孫)、松川だるまの本郷けさのさん(柏木一丁目、8代目)など、宮城県内では約560世帯がある。ところで本郷の名字は、本郷の地名と関わりがあるのだろう。東京文京区の本郷はじめ、宮城県内にもたくさんある(白石本郷、利府本郷、坂元本郷、舘腰本郷など)。本郷の姓の起こりは、藤原氏の流れをくむ菊池から起こった本郷氏が既に古い時代から発生しているから、地名と名字のかかわりが深かったと想定できる。(要約以上)本文中では、本郷さんが地名に由来すること、菊池から本郷氏が発生したこと、は記述されているが、宮城県の本郷姓が菊池(氏)から発生したとまでは記載していないと思う。しかし、この項目(p74)の見出しは、「集落発展基礎の本郷さん 古く菊池氏から発生」とされている。なお、目次ページでは、「集落発展基礎の本郷さん 菊地氏から発生」と記載されている。細かいことだが。■参考 田村昭『宮城県のお名前漫歩』宝文堂、1985年■関連する過去の記事 東北各県の特徴的な名字と珍名(2019年11月24日) 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(06年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(06年9月12日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 苗字と名字の違い(06年5月22日) やっぱり多い鈴木さん (06年5月9日)■関連する過去の記事(人の名前あれこれ) シンコペーテッドな名前 再論(2023年01月03日) 下から読んでも同じ名前(2011年11月25日) 同一の段だけの氏名はあるか(09年4月23日) ア列の名前(08年7月26日) 回文を考える(07年9月15日) シンコぺーテッドな名前(06年12月22日)
2024.02.10
コメント(0)
秀吉の天下統一の戦いで、最後に戦陣を張った東北の英雄だ。(長谷川ヨシテル『どんマイナー武将伝説』柏書房、2023年 から当ジャーナル要約)1 天下統一と九戸政実 秀吉の天下統一は1590年(天正18)の小田原征伐と思われているが、翌年秀吉は東北に大軍を派遣して九戸城(岩手県二戸市)を攻めている。九戸政実の乱と呼ばれる。2 九戸家 南部家の分家にあたる。『二戸郡誌』などによると、1536年(天文5)生まれと考えられる。秀吉の1歳上になる。三戸を拠点とした南部本家に仕え、1569年(永禄12)には、侵攻してきた安東愛季を撃退して鹿角を奪還するなど、武勇に秀でた人物だったようだ。室町幕府からも一目置かれたらしく、1563年(永禄6)の幕府に従う家臣や大臣の名簿『永禄六年諸役人附』にも、本家当主の南部大膳亮(晴政)と並んで九戸五郎(おそらく政実)の名が記される。『南部史要』(1911年刊行)には、1万7、8千石の領地があり、家臣筆頭であるだけでなく、富は宗家を越えていた、と記されている。3 南部家との争い 南部家24代目の晴政には実子がなく、従兄弟の南部信直を娘と結婚させて養子に迎えていたが、1570年(元亀1)に実の子(晴継)が生まれると晴政は息子を溺愛。3年後に信直に嫁いでいた娘が死去すると、晴政は自ら兵を率いて信直を襲撃して殺そうとした(元禄年間成立の『八戸家伝記』)ため、信直は後継を辞退して領地の田子(青森県田子町)に退く。 しかし、1582年晴政が死去し、その葬儀の帰り道に晴継は何者かに暗殺される(江戸後期の盛岡藩記録『公国史』)。ふたたび後継問題が起こり、信直に対して、政実は弟の九戸実親を推す。実親は南部本家から正室を迎えていた。政実を支持する南部家重臣が多かったものの、信直を推す北信愛(南部家の分家)の大演説に押し切られて、なかば強引に信直が継ぐことになった。不満を抱いた政実は、本家と対立を深める。 1590年(天正18)小田原攻めで秀吉の参陣命令に、信直は参陣。戦後の奥州仕置と太閤検地に反発した勢力が、葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆が勃発し、信直は新たに与えられた領地で発生した一揆の鎮圧に奔走。そのタイミングを狙い、政実は戦の準備を進め、1591年3月に挙兵する。九戸政実の乱である。4 九戸政実の乱 政実に味方する勢力はかなり多く、さらに政実に寝返るものもいて、信直は防戦一方で滅亡してもおかしくない状況に追い込まれた。ここで信直の使者を受けた秀吉は鎮圧軍を派遣。秀次を総大将として、伊達政宗、徳川家康、前田利家、石田三成、大谷吉継などが名を連ねた。8月には葛西・大崎一揆と和賀・稗貫一揆も鎮められ、鎮圧軍は九戸城に迫る。9月1日には九戸方の前線拠点である、根反(ねそり)城と姉帯(あねたい)城(ともに岩手県一戸町)が落城。翌2には6万5千といわれる大軍が九戸城を包囲した。 九戸城攻防は、『南部根元記』や『九戸軍談記』に詳しい。それらによると、攻めた武将は、天敵南部信直をはじめ津軽為信、秋田実季など東北勢、蝦夷の松前慶弘、秀吉家臣の蒲生氏郷、堀尾吉晴、浅野長政、家康家臣の井伊直政の面々という。 対する九戸城の城兵は5千ほどだが、士気高く、ひるむことなく応戦した。切岸を登る秀吉軍を弓矢と鉄砲で撃退。蒲生氏郷が唐傘を開いて立てて呼びかけると、工藤右馬之助(兼綱)が名乗りを上げ百間(181m)離れたから傘を打ち抜いて両軍から大喝采を浴びたという。 秀吉が小城と侮った九戸城は、防御力が高かった。三方を川に囲まれ(猫淵川、白鳥川、馬淵川)、切岸は屏風のように広がり、堀は深く土塁は高く、塀には狭間を多く設置してその上に櫓を構えた。力攻めでも無駄に兵を失うばかり。くわえて秀吉軍が大軍で兵糧が不足する事態に陥る。 そこで、浅野長政は策略を実行。政実の菩提寺の長興寺(九戸村)の僧薩天を開城の交渉役に命じ、降参すれば一門家臣を助命され、武功を褒められ領地を与えられるだろうとの書状を託す。弟の九戸実親は、城を枕に討ち死にすべしと説得するが、政実は、一命を以て衆の命を替えるは武士の本道と、降参を受け入れ命を差し出した。剃髪した政実が9月4日城を出て長政のもとに行くと、突然捕えられる。氏郷は降参の条件を反故にして、九戸城の全員の撫で斬りを命じる。実親は二の丸で奮戦するが、本丸を制圧した氏郷軍の鉄砲で討死。 秀吉軍に騙された政実は、7人の城将とともに秀次の陣のある三迫(さんのはさま、宮城県栗原市)まで護送され、そこで処刑された。享年56と伝えられる。5 その後 政実の遺骸は斬首された地に埋められ塚が建立されたというが、江戸時代には荒れてしまったという。明治初期にとある行者の夢に政実が現れたため、何かの暗示だと草むらを探索したところ遺骸の埋まった塚が発見され、その供養のために、九ノ戸神社が建立された。近くには、首級を洗ったとされる「首級清めの池」が伝えられる。 また、政実の首は京都の戻橋(もどりばし)に晒されたともいわれるが、家臣の佐藤外記が乞食姿で密かに首を盗み出して九戸村に埋葬したとも伝えられ、今も「九戸左近将監政実首塚」が残されている。首塚の近くの九戸神社は、九戸家が先勝祈願したとされる神社で、隣には1995年建立の政実神社がある。すぐ東には、九戸城以前の九戸家居城と考えられる「大名舘」や菩提寺の長興寺がある。■岩手県公式サイト 九戸政実の足跡■二戸市公式サイト 哀涙の政実を訪ねて
2024.02.04
コメント(0)
白棚(はくほう)鉄道株式会社により1916年(大正5)に開通。経営が苦しく1929年からガソリンカーを導入するなどするが、1932年(昭和7)に水郡線が水戸から磐城棚倉まで達するとさらに経営が苦しくなり、国鉄が借り入れる経営委託となり白棚線になる。1944年戦時の金属供出のため線路が剥がされる。以後、鉄路が復活することはなく、専用軌道化して1957年から国鉄自動車専用道白棚高速線として運転開始。当時は国道でも舗装が少なく、高速仕様バスの試験場の役割も担った。名神高速道路開通前に、高速バス用に試作された日野RX10が走るなどしたが、高速道路のない時代の試験走行に貴重な専用道だった。現在はJRバス関東が運行。沿線国道の整備や災害被害などもあり、専用軌道は徐々に縮小する傾向で、棚倉町内からは専用軌道がなくなっている。道路整備で一般バス路線の系統と変わらない運行形態に近づいている。■参考「旅と鉄道」編集部編『JR路線大全Ⅱ 東北本線』天夢人(山と渓谷社)、2021年(池亨執筆部分)■関連する過去の記事 水郡線に敗れた白棚線(2016年2月6日) バス専用道路の白棚線(07年9月16日)
2024.01.09
コメント(0)
宮城県と栃木県に導入された新式の車両について。(1)ハイブリッド式気動車(仙石線) HB-E210系東日本大震災で被災した仙石線が2015年5月30日に全線運転再開するのに合わせて、仙石線と東北本線の直通列車を運転することになった。仙石線は、松島海岸をはさんで仙台と石巻を結ぶ宮城県民の大動脈だが、東塩釜から石巻までの区間が単線であることから、特に石巻地区の人たちからは速達化のために、複線化、東北本線との乗り入れ、女川直通運転などが随分前から要望されてきた。これに対して、国鉄やJRが直通化に難色を示した主な理由が、電化方式の違いだったと記憶している。すなわち、仙石線は直流、東北本線は交流だからだ。実現した直通運転は、両路線の近接する松島町内に専用の連絡線(非電化)を設け、専用車両としてハイブリッド式気動車のHB-E210系を開発することで果たされた。電化方式の違いを新型の気動車で乗り越える発想とJR東日本の復興を支える心意気に、宮城県民は喝采を送ったのだった。車両はステンレス製、総合車両製作所のsustinaシリーズを採用。ハイブリッドシステムは、キハE200形やHB-E300系で実績のあるシリーズハイブリッド方式で、エンジンを発電機として使用し、発電機からの電力と蓄電池の電力で主電動機を駆動するもの。屋根上にはクーラーのほか、主回路用蓄電池や元空気だめの一部を搭載する。(2)蓄電池駆動電車(烏山線) EV-E301系JR東日本は非電化区間の環境負荷低減のため、蓄電池駆動システムの車両を開発し、2014年3月から烏山線で営業運転を開始。直流用蓄電池駆動電車である。EVは、Energystorage Vehicle から。愛称ACCUM(アキュム)は Accumlator(蓄電池)に由来する。首都圏で唯一、蓄電池電車が走行する路線で、現在は全列車がEV-E301系で運転されている。烏山線は、宝積寺(東北本線)と烏山を結ぶ全線非電化20.4kmの地方交通線で、国鉄時代は赤字83線に数えられたが、沿線の猛烈な廃止反対運動と、本線に乗り入れて宇都宮と結ばれ比較的営業係数が良かったことから、特定地方交通線に指定されず、三セク化は免れた。蓄電池列車の営業運転が初めて導入されたのは、電化路線の東北本線に乗り入れつつ比較的短距離で近郊輸送を担う烏山線の特性が着目されたため。烏山線は直流だが、同じくACCUMの交流版であるEV-E801系が投入された男鹿線と共通している。電化区間では通常と同様にパンタグラフで架線集電し、合わせて床下の蓄電池で充電できる。主回路用蓄電池箱には、リチウムイオン電池が収まり、各車両に5箱、編成で合計10箱設置されている。非電化区間は蓄電池で走行。非電化の烏山線の終点烏山駅に充電のための地上設備が設けられており、折り返しを待つ間に充電する。■参考「旅と鉄道」編集部編『JR路線大全Ⅱ 東北本線』天夢人(山と渓谷社)、2021年
2024.01.05
コメント(0)
テレビ番組で、冬の家屋のリビング平均室温を全国地図で各県ごとに色分けして示し、WHOが最低室温18度以上を強く勧告しているのに対して、だいぶ低い都道府県があることを問題として取り上げていた。冬に寒い家は、ヒートショックなど命の危険にも繋がるという趣旨だ。テレビ画面に、「国土交通省スマートウェルネス住宅等推進事業調査結果より」との記載があったので、国が主導して家屋の断熱性と死亡増加率の関係などを調査研究しているようだ。冬の在宅中のリビングの平均室温だが、都道府県別に次のようである。1 北海道 19.8℃2 新潟 18.43 神奈川 18.0以上がWHOが強く勧告するという18度をクリアしている。3道県しかない。下位の都道府県を見ると、香川(最下位)13.1福島、大分 14.9栃木 15.1鳥取 15.6宮城 15.7高知 15.8などとなっている。他の東北では、秋田17.7、岩手17.8など。全体的に東日本は室温が低く、冬季の死亡増加率の高さと関連付けて、家屋の断熱性能の重要さが指摘されている訳だ。たしかに、北海道の家は室内が暖かいとよく聞く。東北地域の家は、断熱材を多用せず寒さに対応できない、また、積雪で換気ができず健康を害するなどと指摘されてきた(下記の過去の日記をご参照ください)。 「岩手の心」高橋喜平さんと雪国沢内村を思う(2006年02月04日)上記の平均室温についてはニュースなどから知りえたもの。調査結果のデータ本体に当たりたかったが、ネットではたどり着けなかった。調査時点や調査要領など踏まえて検証してみたいのだが、次の機会に譲る。
2024.01.02
コメント(0)
皆さま2024年も当ジャーナルをよろしくお願いいたします。昨年の暮れ、私の故郷奥州市を訪問した際に、大谷翔平選手ゆかりの学校などを巡ってみました。私にとっても思い出のある建物たちが、冬の陽に映えていました。奥州市立姉体小学校は田園地帯にあります。門から立ち入らず遠望した横断幕には「頑張れ!大谷選手 僕らの希望 二刀流大谷選手の母校 奥州市立姉体小学校」と。子どもたちの誇りですね。続いて、奥州市立水沢南中学校です。通称南中(なんちゅう)。2023 WORLD BASEBALL CLASSIC MVP おめでとう 大谷翔平先輩 とありました。南中は、国道4号から細い坂道を上ったところにあります。隣接中学区で育った私も、中総体の応援や講習会などで何度か訪れていたので、懐かしい校舎です。その坂道には、何と3枚も横断幕がありました。坂の下の方から順に掲げます。最後に、大谷選手が通った前沢バッティングセンター。水沢南中学校から南下した国道4号沿いにあります。昔の雰囲気のままです。一組だけ家族連れの先客がいました。建物を出て傍らの狭い東北本線ガードをくぐって振り向くと、貨物列車がゆっくり過ぎていきました。
2024.01.01
コメント(0)
かつて東北本線は東京-青森間739.2kmが日本最長の鉄道路線だった。ちょっと経緯を書くと(下記文献から)、東北本線の歴史は1883年(明治16)私鉄の日本鉄道が上野-熊谷間を開通したことに始まる。このとき途中駅は、王子、浦和、上尾、鴻巣のみ。大宮駅が1885年3月に設置され、同年7月に大宮-栗橋間と、中田仮駅(利根川北岸)-宇都宮駅間が開通。翌年12月に黒磯まで全通。その後も小刻みに延伸され、1887年に仙台、1890年に盛岡まで、青森までの全線開通は1891年9月1日だった。1906年に国有化。1909年には国有鉄道路線名称制定により、秋葉原-青森間が東北本線と名付けられた。1914年(大正3)に中央停車場(東京駅)が開業、1925年から東北本線の列車が乗り入れ、起点を東京駅に改められて、東京-青森間739.2kmとなった。東北新幹線が1982年に、大宮-盛岡間で暫定開業。以降、東北本線の優等列車は徐々に廃止され、新幹線の延伸にあわせて、2010年12月までに並行在来線を第三セクター化した。IGRいわて銀河鉄道(盛岡-目時間82.0km)、青い森鉄道(目時-青森間121.9km)である。これにより、東北本線は東京-盛岡間535.3kmに短縮され、在来線で日本最長路線の座を山陰本線(京都-幡生間673.8km)に譲っている。さて、東北新幹線は1982年6月23日の暫定開業時は、大宮-盛岡間505.0kmであった。1985年3月14日の上野-大宮間26.7kmが開業(最高速度110キロ、2021年から130キロ毎時)、国鉄分割民営化とJR東日本移管を経て、1991年6月20日にようやく東京-上野間3.6kmが開業。盛岡以北は2002年12月1日に八戸まで96.6kmが、2010年12月4日に新青森まで81.8kmの延伸により、暫定開業から28年を経て、713.7kmの全線開通を果たした。営業距離713.7km(実キロ674.9km)は、日本の鉄道路線として最も長い。■「旅と鉄道」編集部編『JR路線大全Ⅱ 東北本線』天夢人(山と渓谷社)、2021年(参考にした部分は、執筆が武田元秀・編集部と記載されています。)
2023.12.31
コメント(0)
磐越東線は常磐線(旧)平駅と東北本線郡山駅を結ぶ85.6kmの地方交通線。福島県下で人口1位と2位の工業都市と経済都市を結ぶのに非電化なのは、いわきと東京を直接つなぐ常磐線の存在もあってだろう。建設のきっかけは、1911年(明治44)に平郡(へいぐん)鉄道同盟会の運動が起きたことによる。1914年7月の郡山-三春間開業を皮切りに、翌年3月には三春-小野新町間、平-小川郷間と、双方から路線を延ばし、1917年10月に全通した。昭和期までは平周辺の常磐炭鉱の石炭を郡山方面へ、また、阿武隈高地の石灰石やセメントを運び出す路線でもあり、大越(おおごえ)には住友大阪セメントの田村工場があった(2000年廃止)。また、菅谷(すがや)近くには入水鍾乳洞、神俣(かんまた)近くにはあぶくま洞などの鍾乳洞がある。いわきを出て、小野新町から三春辺りまでは中山間地域の農村風景が残る。阿武隈高地は以前は桑の木やタバコの栽培が盛んで、タバコ畑の中を気動車が進む光景が見られた。三春は民芸品の三春駒や三春張子で知られるが、生産地は三春町でなく郡山市西田町の山間にある高芝デコ屋敷と呼ばれる4軒の家々が数百年の伝統を守っている。■参考 「旅と鉄道」編集部編『JR路線大全Ⅱ 東北本線』天夢人(山と渓谷社)、2021年(該当部分の執筆は、池亨さん)
2023.12.28
コメント(0)
山形交通三山線(三山電車)について昨年秋に廃線を探訪した記事を載せていました。(過去の記事 三山線の名残りを探して(西川町)(2022年10月29日))このたび、民俗学をともに志す寒河江出身の知人から、廃線の花電車の様子の写真をいただきました。日ごろ敬愛する同氏に感謝し、掲載いたします。■三山線花電車が停まる高松駅〈寒河江市・昭和49年〉■三山線廃線の花電車が停まる間沢駅〈西川町・昭和49年〉昭和の一コマ。地域の変貌とともに時代は流れています。電車が多くの人たちを乗せていた頃に、思いを馳せてみたりします。■関連する過去の記事(西川町、三山線) 三山線の名残りを探して(西川町)(2022年10月29日) 五色沼、志津温泉、清水と苔の西川町(山形県西川町)(2022年10月27日) 朝日軍道(2016年4月3日) 山形で一番寒い大井沢の「ゆきんこ祭り」(2016年1月7日) 出羽三山(2010年12月7日) 大井沢の大栗(10年4月13日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 月山トレッキング(07年10月20日)■関連する過去の記事(山形と鉄道) 奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(2022年10月17日) 長井線の踏切たち(2016年5月4日) 山形鉄道フラワー長井線に乗る(2016年5月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日)
2023.11.19
コメント(0)
思い立って、こんな本を読んでいた。■渡部史絵、結解学『鉄道写真 ここで撮ってもいいですか』オーム社、2023年鉄道写真を撮るためのマナー、なぜそれが違反になのか、などをくわしく解説してくれる本なのだが、手にしたのは、掲載されている写真が楽しいから。いくつか東北地方の写真もでていた。釜石線(平倉-足ヶ瀬)でひまわり畑の傍らを走るSLの美しい写真がある。この畑のひまわりは、油の採取のために育てているのだが、農家の方の好意で農道や駐車場を開放している。撮影は、畑に入らず、農道から行うこと。そして、厚意に感謝するため、鉄道愛好家がひまわり栽培の募金箱を設置している(その写真もあり)。花輪線赤坂田駅を出発したキハ110を真っすぐ正面から撮影した写真がある。線路上から待ち構えて撮影したようにも見えるが、アウトカーブの外側から望遠レンズで撮ったもの。発表されている写真はこの方法で撮られている。線路に立ち入ったりカメラを設置するのは、違法だ。風の強い日の五能線(広戸-追良瀬)。写真は、列車が波しぶきを上げる海沿いを走る迫力がある。強風時は荷物が飛ばされたり三脚が倒れることに注意だ。かつてのような窓が大きく開く車両はなくなったが、撮影のため窓から手や顔を出すのは、危険でNGだ。2006年に花輪線と山田線で窓枠に置いたカメラで撮影された、美しい山河の写真がある。
2023.10.17
コメント(0)
染色の歴史に関して、最高位の冠の色とされた紫が、紫根(紫草の根)からつくれらたように、茜(あかね)も草の根から染色するもので、茜草の根は、浄血、解毒などの作用があり古くから薬草として用いられたことも、紫根と同様だ。茜の根を細かく切って煮込むと、アリザリンという無色の成分が溶け出し、酸化してブラジレインという赤色の物質に変化する。茜さす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王、万葉集)茜染めは、「岩手県が発祥で、飛鳥時代や奈良時代から利用されている、日本で誕生した染色法です。」(以上は、三澤信也『日本史の謎は科学で解ける』彩図社、2023年 を読んで書き留めたもの。最後の一文のカギ括弧部分は、記載どおり引用しました。)驚いたのは、古代に岩手県が発祥の文化、しかも宮中に関わる雅な染色文化が当時化外の地から広まったということがありうるのか、と。おそらく、私の誤解で、岩手が発祥というのは藩政時代の南部藩が奨励して特産物になった(南部絞り)ことを指しており、古代の染色技法としては西日本や畿内で存在したのだろう。魏志倭人伝にも卑弥呼からの献上物として記載があり、吉野ヶ里からも出土している。■関連する過去の記事 貴重な資源だった赤根沢の赤岩(2013年7月15日) 赤根沢の赤岩(今別町)(2013年6月15日)
2023.08.22
コメント(0)
前回の記事(下記)で、陸奥国川内(青森県むつ市)出身で、ロシアで種痘を学び本邦に導入した中川五郎治に触れた。関心を持ったので、五郎治について調べてみた。(下記文献、下記のサイト、などから。)■関連する過去の記事 感染症と人類の歴史(2023年08月15日)■参考とした文献 茂木誠『世界と日本がつながる 感染症の文明史 人類は何を学んだのか』2023年、KADOKAWA■松前町サイトの説明■函館市文化・スポーツ振興財団の説明■アイソトープ・ニュース723号(医療史跡)五郎治と久蔵■松木明知「本邦牛痘種痘法の鼻祖中川五郎治研究の歩み(上)」(日本医史学雑誌)中川五郎治(1768-1848)は、日本の種痘の祖とされる。陸奥国川内村(現むつ市)に生まれ、松前の商家に奉公の後、択捉島内で事業に携わる。択捉島のアイヌ人は松前藩に帰順しており、五郎治もアイヌ人の娘と結婚している。(五郎治の人物伝 =函館市文化・スポーツ振興財団サイトから)明和5年、陸奥国下北郡川内村(現・青森県川内町)で、小針屋佐助の子として生まれる。若い頃から蝦夷地に渡り、松前で商家に奉公し、寛政11年松前の豪商栖原庄兵衛の世話により漁場の”稼ぎ方“としてエトロフ島に渡る。働き手だった五郎治はやがて番人から番人小頭になる。文化4年、ロシア人・フボストフは船2隻を将いてエトロフ島を襲撃、番屋を荒らし、物資を奪い、番人らを捕えてシベリアに連行、その中に40歳になった五郎治もいた。シベリアの抑留生活は5年にもおよんだ。この間、逃げ出したり、捕えられたり、仲間に死に別れたりしたが、9年、突然、松前へ送還されることになる。というのは、フボストフらの暴行後、警備を固くしていた幕府の役人が、千島方面を測量に来たロシアの艦長ゴローニンを捕えて、松前に抑留した事件があり、その釈放を求めて日本に行く副艦長リコルドが、漂流民を連れて行くことになり、その中に五郎治が加えられることになったからである。イルクーツクを出発してヤコウツクに向う途中、商人の家に一泊した。その時、書棚に飾られていた本の中に種痘書を見つけ、興味を引かれるままその本を貰いうけた。5年の抑留生活でロシア語が読めるようになっていた五郎治は、この本で種痘が恐ろしい天然痘を予防することを知る。その時、幕命で松前に来ていた幕府の訳官馬場佐十郎がこの種痘書を見て驚き、早速翻訳して文政3年「遁花秘訣」(とんかひけつ)と題し、わが国最初の種痘書となった。30年後の嘉永3年には、利光仙庵の手で更に翻訳し「魯西亜牛痘全書」(ろしあぎゅうとうぜんしょ)と改題して出版された。五郎治は後に足軽となり、松前や箱館に勤務したが、文政7年天然痘が流行すると実際に種痘術を行ったのを始め、更に天保6年、12年など2度にわたって実施して多くの人々を救った。五郎治の実施した方法は天然痘の種苗を大野村の牛に植え、その痘苗を男子は左腕に、女子は右腕に、それぞれ一箇所ずつ植えたといわれる。松前、箱館の土民は五郎治の施術を受けて難病を免れ得たものが多かった。五郎治はこの方法を箱館の医師白鳥雄蔵、高木啓策、松前藩医櫻井小膳等に伝え、白鳥雄蔵は秋田にいたりこれを藩医に授けたといわれる。弘化5年9月27日、わが国種痘術の創始者・中川五郎治は福山において数奇な一生を終えた。享年81歳であった。明治18(1885)年、72歳になる田中イクという老婆が11歳の時、五郎治に種痘してもらったという。逆算すると文政7(1824)年にあたり、五郎治がシベリアから帰されてから12年後になる。五郎治が種痘を施した最初を文政7年としても、長崎でオランダ医師モーニックが、始めて種痘に成功した弘化6(1849)年に先だつこと実に25年も前ということになる。(ゴローウニン事件について=松前町サイトから)幕府が松前藩を梁川に移し北方警備を強化している中、文化八年(1811年)千島列島などの測量を命ぜられたロシア軍艦ディアナ号が国後島沖にやって来ました。国後に上陸したゴローウニンら八人はたちまち捕らえられ、船に残った副艦長リコルドは南部藩と砲撃戦を行いましたが、オホーツクへ引き返しました。ゴローウニンらは松前に連行され、取り調べを受け、捕虜として抑留されることになりました。翌年には脱走を試みますが、失敗に終わり再びとらわれの身になっています。この文化十年八月にリコルドは、中川五郎治や6名の漂流民とともに国後に来て、ゴローウニンの釈放について交渉しましたが許されませんでした。たまたまそこへ高田屋嘉兵衛の観世丸が現れ、嘉兵衛と4名の水夫を伴ってカムチャッカに帰港し、ゴローウニンらとの交換を申し入れました。翌文化九年九月リコルド副艦長の指揮するディアナ号は箱館に入港し、ついにゴローウニンらは高田屋嘉兵衛と交換、釈放されました。この後しばらくの間、北方は平穏になりました。(中川五郎治の功績=同上)天然痘は古くから有効な治療法が見つからず、死亡率が高く非常に恐れられていた病気でした。その予防法である「種痘」を、ロシアから伝えたのが中川五郎治(1768~1848)でした。五郎治は南部藩領下北半島川内村の出身ですが、いつ蝦夷地に渡ったのかは分かっていません。やがて彼は、栖原屋庄兵衛の雇いになり択捉島の漁場で働いていましたが、ロシア船が襲撃してきたときにアイヌ語を覚えていたため、シベリアに連行され6年間のロシア生活を送りました。文化九年(1812)、五郎治が45歳の時「種痘書」を入手し医師について種痘方法を学びました。五郎治の最初の種痘手術を受けたのは、函館大町の商人田中正右衛門の母田中イクで、十一歳の時(文政七年 1824)だと言われています。五郎治の晩年の記録は明らかではありませんが、彼を通して渡ってきた種痘法はその弟子たちによって伝承されていきました。不治の病として恐れられた天然痘を治す種痘法は、当時の微妙な日本とロシアの国際関係がもたらした歴史的偶然の所産であったといえるかもしれません。当時の蝦夷地は、和人が持ち込んだ天然痘が猛威をふるっており、アイヌ人が山に逃げてしまい、開発のための労働力が不足していた。開発促進のためにも種痘が必要だった。五郎治の日本初の種痘接種とその効果を確かめた松前藩は、アイヌ人に対する集団種痘を実施し、流行を収束させることができた。松前公園には、没後150年の1998年函館市で日本医史学会が開催された際に建立された中川五郎治の顕彰碑がある。また、函館市の高龍寺に墓があるという。なお、松木氏(上掲論文)によると、名は「五郎次」の表記が正しい。■関連する過去の記事(旧川内町) 傘松(むつ市旧川内町)(2013年6月26日) 第一田名部小学校、第一川内小学校、第一田名部街道踏切(2013年7月5日)
2023.08.16
コメント(0)
敬愛する同郷の大先輩がみずから走査してまとめられた、古道と歴史に関する資料をいただいた。気仙沼街道は、気仙沼市新町から千厩を通り一関市花泉町金沢までの約42kmで、当時は千厩から一関に向かうには北上川を越えなければならず、川崎村の蛇行した浅瀬を使って弥栄を越えていたものとみられる。金沢宿に近い清水原はキリシタンが住んでいたとの記録がヨーロッパで見つかった。宮城県北部の涌谷や米川は藤原文化から伊達政宗の仙台領となり、九州から移住のキリシタンが活動し、地元の砂鉄や鉄鉱石と木炭で還元する「たたら製鉄」で栄え、蘭学等の草分けとして、ヨーロッパのトップクラスの文化と技術がこの地域に伝えられたと推測される。すなわち、金沢宿付近は、まさに伊達政宗が憧れた平泉文化の入口として構築された地域だった。主要な街道として使わていた当時、金沢宿から出発すると、最初の難関である長い上り坂に、前鹿野一里塚がある。春には雪をいただく須川岳が遠望できる。気仙沼方面からやってきた旅人は、金沢宿を一望し、石巻街道との合流地点を眺めて確認し、安堵して坂道を降りて行ったであろう。■関連する過去の記事 気仙沼街道(金沢-薄衣)のルート(2011年10月22日) 平泉繁栄の理由 北上山地の砂金(2023年02月19日) 平泉への道(06年1月11日) またまた「東北の街道を行く」(05年10月14日) 再び地図上で東北の「街道を行く」、各県の地図ランキング発表!(05年10月12日) 地図上で東北の「街道を行く」(05年10月10日)
2023.08.02
コメント(0)
7月21日、無着成恭さんが96歳で亡くなられたとの報道があった。いくつかの記事によると氏の経歴は以下だ。1927年本沢村(現山形市)生まれ。山形師範学校を卒業し、1948年山元村(現上山市)の山元中学校で「生活つづり方運動」に取り組む。51年、文集をまとめた「やまびこ学校」を出版し映画化もされる。53年駒澤大学を卒業し、明星学園に入り後に教頭。64年からラジオ「全国こども電話相談室」を30年間。教員を引退後は僧侶となり、大分県、千葉県で住職を務める。河北新報には(7月26日)、2000年秋に千葉県の福泉寺に無着さんを訪ねたという評伝の記事があった(生活文化部加藤健一)。個性の強いという先入観をもって対面したが、静かで穏やかな笑顔で接してくれたという記者のリード文があるが、いい記事だと思った。(記事から無着氏のことば) 子どもたちに自分の本音を書かせて真実を客体化してあげたに過ぎない。修学旅行に行けない貧しい子どもたちのために、やまびこ学校のクラス全員で杉皮を背負って金を稼いだが、そんなことができる時代の方がずっと幸せだ。自己中心を戒め、いつも自分の心を見据えながら生きることだ。昭和のその当時は、体制から解放された生徒中心の斬新で先進的な教育方法などと評価されたのだと思うが、現在の教育事情や家庭の問題などを考えると、子ども中心の本来の姿に立ち戻れと諭されているように思う。大人の押し付けた「幸福」や行き過ぎたパターナリズムを排して、裸の人間として子供たちをとらえよう。伸ばそう、と。私の小学校の頃の職員室には、「やまびこ学校」や「つづりかた兄弟」なる書物があった。半世紀も前の田舎では、今のような学力や個人情報など気にせず、おおらかに先生たちもやっていただろうと思う面も正直あるが、いや、先生たちも子どもの教育に全力で真剣だったのだ。これは偏狭な私見かもしれないが、教育や子育てをめぐって、本当に大事なことを置いてきぼりにしていないか、という気がする。山元中学校は2009年に役割を終え、地区公民館として、その敷地内にはやまびこ学校の記念碑が残るという。ぜひ、訪ねてみたい。■関連する過去の記事 ノンちゃん牧場のいま(2016年6月4日) 教育三県に数えられる山形県(10年3月11日)
2023.08.01
コメント(0)
『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(佐治靖執筆部分) 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 宮城県の妖怪伝承(2023年07月13日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日)・アカヒトリ(高目(西会津町)の諏訪神社の森を通りかかると、アカとって食べか、人取って食べか、と鳴く鳥の妖怪)・赤目たら主(長谷堂大尽という長者屋敷の裏手の沼の主。屋敷の火事の消火のため水がなくなり、少女に変身して移った「主沼」も氾濫で流され、「女沼」の主となった。安達町民俗誌。)・安達ヶ原の鬼婆(二本松市安達ヶ原の鬼女。黒塚が墓とされる。仕えた姫の病を治すため、身重の生き肝を求めて奥州に下って「いわて」が、気づかず実の娘と孫を殺したことを悔い、発狂して、旅人を殺す鬼婆になった。ある秋、知らずに棲家に泊った僧祐慶が捕まりそうになった時一心に祈ると天空から如意輪観音が破魔の真弓を射て鬼婆は息絶える。)・奥州会津怪獣の絵図(同名の瓦版風の一紙物に記された妖怪。天明元年夏頃から、会津から出羽国象潟にかけ子どもが失踪する事件が頻発したが、磐梯山の麓塔の沢でも大勢の子がさらわれた。南部大膳太夫様と家臣たちが捜索し、天明2年大筒で仕留めた怪獣は、背丈4尺6寸、ヒキガエルにも似て全身に毛が生えていた。)・大滝丸(悪路王)(坂上田村麻呂に征伐された大滝根山の鬼。伝承は阿武隈高地中央部から西部に分布し、大滝丸と悪路王は同一人物とみなされ、宮城県岩手県の阿弖流為との関連の伝承はない。大滝丸は鬼生田(郡山市)の地獄田で生まれ、大滝根山の達谷の窟・鬼穴に棲みつき仲間と悪事を働いた。他方で、中央権力に敗れ排除された在地豪族の陰も見え隠れする。)・お尻目小僧(尻に目玉そっくりなものが10もある子どもの妖怪。小雨の夕暮れ時に、下柱田(岩瀬村)の跡見塚の山道に出没する。出会った者が着物がよごれると裾をめくってやると、尻を見て驚いている間に、子どもは無言で歩きだし長命寺付近で姿を消した。)・オボ(散らし髪の赤子を抱いた幽霊。乳飲み子を残して亡くなった未練で成仏できず、夜遅く、坂井と八町(金山町)の間の沢道の入り口に現れ、通行人に髪をすく間子守を依頼し、礼を言って消える。また、檜枝岐村ではオボは難産で死んだ女の霊で、あの世でお産をして妖怪になる。)・オンボノヤス、オボノヤス(山中で出会うと白い霧を吹きかけられ道がわからなくなる。)・カシャ猫(大辺山に棲む化け猫。爺様の留守中に、飼い猫が婆様に浄瑠璃を聴かせるが、婆様が約束を破って爺様に話すと、猫が急に婆様を噛み殺し大辺山へ飛んでゆく。その後、長雨や日照りを起こし、葬式があれば屍を喰うなどした。カシャは、葬式や墓から死体を奪う妖怪「火車」と一致する。檜枝岐村ではカシャは野辺送りのときに棺の死体を盗みに来るといい、途中カシャの仕業で棺桶が軽くなったり重くなったりする。)・亀姫(猪苗代城(亀ヶ城)に棲みつく主とされる妖怪で『老媼茶話』に登場する。姫路城の妖姫「おさかべ姫」と並び称される。城代主膳のもとに禿が現れ、「汝、城主にお目見えしていない」というので、「自分の城主は加藤明成だ」と叱ると、禿は「亀姫を知らぬとは汝の天運は尽き命も絶えた」と笑い姿を消す。次の正月元朝、主膳への拝礼の場に新しい棺桶と装具が置かれ、夕には大勢で餅を搗く音がするなど不吉が続き、18日主膳は病気となり20日死去。泉鏡花『天守物語」にも。)・朱の盤(諏方(すわ)神社野境内(会津若松市)に毎晩出没する妖怪。最初若侍か女房の姿で現れ、朱の盤について尋ねると突然「こんな顔か」と恐ろしい顔に変貌する。)・殺生石(伝説上の人物「玉藻の前」が九尾の狐に化身し、正体が見破られた後、下野国那須野ヶ原で毒石「殺生石」になる。これを退治した玄翁和尚は会津の名刹示現寺(喜多方市)の住職を務めた。会津では割れた石の一つは摺上原に落ちて人取石となったとされる。また『新編会津風土記』には、玄翁和尚に済度された殺生石が女の姿で現れ、白狐に化身し降り立った地が慶徳稲荷神社であると記される。)・ダイバ(馬を死なす怪。湖南(郡山市)の湖岸道など決まった場所で、突然馬が狂いだして倒れる。人間には聞こえないが馬に聞こえる声を発し、その声と馬が鳴き合わせると馬は死んでしまう。)・天狗(会津の山間部を中心に分布。志津倉山(三島町)には「狗ひん様」という天狗が墨、山奥から「狗ひん様の空木かえし」という音を出す。川桁(猪苗代町)では、縄張りを決めるための天狗の相撲の足音。松本(天栄村)の大天狗は、脱糞して不毛の地を肥沃な土地にしたという。また、「天狗の石合戦」は伊南川を挟み男女の天狗が仲違いして石を投げ合う説話。)・沼御前(会津の金山谷(金山町)の沼沢沼の奥底に棲む妖怪。長い髪の若い女性の姿をしているが、正体は沼沢沼の主である大蛇。)・猫魔ヶ岳の化け猫(猫魔ヶ岳の山名の由来。ネコマタ(猫又)とも。人の言葉を話す猫が、婆様が固く口止めされた約束を破ると、たちまち大きな化け猫に変身し、婆様をくわえて猫魔ヶ岳に飛んで行った。)・磐梯山の手長足長(磐梯山に棲む巨人。手足の長い一人の説と、足長の夫と手長の妻の夫婦の説がある。磐梯山に腰を掛け、手足は会津盆地や猪苗代湖の対岸湖南にとどき、太陽を遮り猪苗代湖の水を撒いては凶作を招いた。ある時、弘法大師と問答して胡麻(豆)粒ほどにされ印籠に封じ込められた。)・磐梯山の魔魅(まみ)(磐梯山が病悩山(びょうのうさん)と呼ばれていたころ棲んでいた妖怪。大同元年の大爆発で溺死者を多く出したのは魔魅の仕業とされる。)・真っ黒の大入道(古い大狢が化身した妖怪。背丈7尺ほどあり姿は真っ黒。三本杉の清水で水汲みする姿を見た柴崎又左衛門が一刀にすると、姿は消え、しばらくして八ヶ森で大きな古狢の死骸がみつかった。)・山姥のかもじ(髢。髪を結う際に地毛が少ない部分を補う付け毛のこと)(山姥から奪い取った髪の毛の一部を所有すると、山姥の祟りや障りを受ける。かもじを返さないことへの怨念であり、家族にも災厄が及ぶ。また、かもじを見ると働きたくなくなるとも。)■関連する過去の記事(他にも多数あります。フリーページの記事リストをご覧ください。) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(安珍・清姫伝説、安達ヶ原の黒塚)
2023.07.17
コメント(0)
『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(今井秀和執筆部分) 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 宮城県の妖怪伝承(2023年07月13日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)・犬の宮・猫の宮(置賜の犬の宮は狸の化け物を退治した犬を祀る。その近くの猫の宮は、庄屋の妻の体調を悪化させた屋根裏の大蛇を退治した猫を祀る。)・ウコン・サコン(米沢藩の侍が中身を間違えた書状を幕府に向かわせてしまい、上代の岩井大膳が狐を走らせて、下総古賀で飛脚がうたた寝している隙に中身をすげ替えさせた。一昼夜で往復した狐は米沢城中に戻ると倒れて死んだが、右近か左近かわからないという。)・大山の犬祭り(鶴岡市。毎年人身御供の噂のある椙尾神社に旅の僧侶が忍び込むと、生贄を食った大入道から、丹波国の和犬(メッケいぬ)に知らせるなと繰り返した。僧侶は丹波に赴き一匹の白犬を手に入れて一年後神社を訪れた。大入道と犬は相打ちになり、人身御供は不要になった。)・片目の鮒(鶴岡市の薬師社にある池を掃除すると、小さな片目の鮒が怒って雨を降らせるという。片目の魚の伝承は全国各地に伝わるが、雨乞いの習俗と関わっている。)・河童地蔵(尾花沢市毒沢の川原子地蔵。かつて最上川は水難事故が多く、河童によると考えられ、水難者の供養と安全を願い建立された。)・ケサランバサラン(白い毛玉状の呪物で、持つ者に幸福をもたらすという。薬品として珍重された動物の結石の意味が変じたと考えられる。念珠関村では、白粉を食べさせて育てると子を産んで増えるという。落雷の後によく落ちているという。1970年代にブームに。)・ケボロキ(奥羽地方の山村に伝わる。夜間に木を挽くような音がする。)・鮭の大助(おおすけ)(見てはいけない巨大な怪魚。庄内地方では、旧暦10月20日など特定の日に、鮭の大助いまのぼる、などと大声で叫びながら川を上る大魚が現れる。新庄市では声を聞いた者は三日のうちに死ぬと伝えられた。)・白髭水(しらひげみず)(吾妻山中腹の集落に、万治2年大洪水の際に白髭の老人が水の上に座ったまま流されたという伝承がある。ほかに東北地方には老人が大水を予言するものがある。)・仙人嶽(湯殿山の後に続く仙人嶽という山に住む仙人は、聖域を侵す人間を嫌うので、入った者は二度と村に帰ることができない。山裾には仙人沢という場所があり湯殿山に奉仕して一生山を下らない修行者が暮らしているという。)・デエデエボウ(羽黒山周辺に伝わる雪山の妖怪。一本足の巨人で、雪に大きな足跡をつける。)・手長足長(手と足がそれぞれ長い一対の妖怪。本来は中国の『山海経』などに記載された辺境の異人。秋田との県境の有耶無耶の関では、手長足長が関を通過する人を食っていたが、三本足の鳥が有耶(手長足長がいるとき)、無耶(不在のとき)と鳴いて人に知らせたという。)・出羽三山の天狗(明治の初めころ狩川村の佐吉が荒沢の杉を買い取ったが、杉材から血のような液体が流れ出たり搬出作業の男たちが怪我をした。三年後出羽三山詣りに出た佐吉が、古峰ヶ原の山伏宿で風呂の日の様子を見に来た寺男が、自分は荒沢の天狗だと佐吉を睨む。佐吉は逃げて気絶する。また、山中の平らな場所は天狗の相撲場とされ、月山バラモミ沢、朝日岳、母刈山、黒森山など県内各地のほか宮城県にもあった。月山と湯殿山にわたる連峰の中に天狗相撲取山の名があり、毎年正月10日の未明に、京都の鞍馬山からきた天狗が行司をして置賜庄内村山の天狗たちが相撲を取り合うので、けっして山に登ってはならないと戒められている。)・ナベオロシ(東村山郡では夕暮れ時に杉の木の梢から真っ赤に焼けた鍋が降りてくる伝承がある。類似のものに近畿地方などのツルベオロシ、ツルベオトシ。)・化け石(上山の生居(なまい)には、生居の化け石という巨石がある。昔、化け石に庄屋が一俵分の握り飯を食わせると、お礼に小石をよこした。池に投げ込むと家が栄えるというので、末代まで繁盛した。)・雪女房(米沢に伝わる。未婚の若者が山奥で炭焼きしていると、道に迷った女が訪ねてくるが、寒いからと勧めても女は決して火に当たろうとしない。やがて夫婦になり子もできるが、ある吹雪の日女は外に出ると雪崩が起きて女は下敷きになり、男は子と里に下りて幸福にくらした。小国の伝承では、雪女郎は人間の子を攫うと伝わるほか、ウブメのように出会った男に怪力を授けることもある。)・与次郎稲荷の狐(東根市の稲荷神社の狐で、秋田市にも祀られている。水戸から秋田に移った佐竹氏が与次郎という狐を神としたことに発端する。久保田に築城の際、棲家を奪われた白狐が佐竹義宣の夢枕に立ったので、稲荷社を祀ると、その恩義に報いて白狐は与次郎という名の飛脚の若者に化けて仕えた。幕府の姦計で狐罠で殺された白狐を祀るのが与次郎稲荷である。)
2023.07.16
コメント(0)
『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(丸谷仁美執筆部分)■関連する記事 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 宮城県の妖怪伝承(2023年07月13日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)・アクバンバ(灰ばんば)(由利本荘市、にかほ市。イロリの灰の中に居る。子どもたちは火を乱暴に扱ってはいけない。)・小豆とぎ(県内各地。夜に集落の外れなど決まった場所で小豆を研ぐ音が聞こえ、正体不明だが、由利本荘市ではイタチ、羽後町では小豆とぎ石の仕業とされる。)・ウブメ(産女)(身ごもったまま亡くなった女の霊。今の横手市の梅津忠兵衛が夜勤で巡回中の丑三つ時に子どもを抱いた女から赤ん坊を預かるが、腕の中で子がどんどん重くなり、念仏を唱えると消えた。戻った女が、お産の手助けをしてきた、難産だったが梅津の念仏のおかげで無事生まれたという。抱いていたのは生まれる前の子どもで、女は山の氏神だった。梅津は礼に怪力を授けられた。同様は、横手市内の妹尾五郎兵衛が蛇の崎橋で出会った話で、小泉八雲や与謝蕪村も紹介した。)・おぼう力(ウブメから授かる怪力をいう。女が髪を結っている間頼まれて赤ん坊を抱いていると、大きく重くなり最後まで抱いていると怪力を授かる。角館町周辺では、墓地など、おぼう力を授かる場所が伝えられる。)・河童(初代藩主佐竹義宣が大仙市神宮寺に鉄砲撃ちに行ったとき、川から腕が出て来て鉄砲を奪った。その後近くに住む六兵衛が密かに鉄砲を探しだして角館の佐竹北家に売ったが、翌年淵にはまって死んだ。鉄砲は1722年佐竹本家に献上され、妖怪の握った跡があったという。)・カブキリ(県北山間部。老年の蛙の妖怪。腰から下のない化け物。また、上小阿仁村では、汚い子どもで、いなくなると家が途端に落ちぶれるザシキワラシのようなものと考えられている。)・狐(県内各地。騙された話ばかりでなく、羽後町の狐火は集落に良いことの起こる前兆とされ、男鹿市では夏から秋にかけての狐火を狐の嫁入りといった。また、狐館は蜃気楼のことで干拓前の八郎潟で冬の風物詩だった。)・ザシキワラシ(ザシキボッコとも。鹿角市、由利本荘市など)・ツチノコ(横手市山内筏、羽後町西馬音内掘回の堂山で報告があった。)・二の舞面(能代市清助町の龍泉寺に伝わる。秋田市上新城の羽鳥沼の妖怪を退治するため、秋田右近太夫藤原秀成が待ち伏せしていると、夜に光る女が現れたので切り付けると逃げた。その血の跡を追っていくと、上新城石名坂の竜泉寺の書院に翁媼一体の面があり翁面に血がついて割れていた。面は能代市龍泉寺に保管され県の有形文化財。)・猫婆(大館市では和尚に化けた猫が武士に退治され、秋田市新屋では猫をいじめた子が夜にうなされて父親が念仏を唱えて治した。秋田市天徳寺の佐竹家墓所に猫婆の墓とよばれる場所がある。三代藩主佐竹義処の側室の墓だが、猫が人を噛み殺して人間に化けていたとされ、明治初めころまで墓に縄がかけられていた。側室はキリシタンのため殺されたという。)・狸(ムジナ)(県内ではムジナを狸と同じものとする場合が多く、大砲や木を伐る音などで人を驚かせる。中には学のある狸もおり、宝暦の中頃、秋田市の外れの赤石六郎兵衛に夜な夜な訪れ様々なことを語った内容が『水口夜話』にまとめられている。また、ちらいという専念寺の若い僧に読経してもらった狸が二百文の布施を約束したといい、書き残した書には、二百文、ちらい、の文字が残る。)・ムラサキギモ(由利本荘市。1、2歳の子どもの体内に入るといわれ、ムラサキギモが入った子どもはイロリの傍で薪の残りの灰を食べるという。そのため、子どもは薪から離れないといわれる。)・山おんじ(北秋田市阿仁の山中にいた大男。阿仁中村と阿仁長畑菅生に大きな足跡が残るという。)・雪男・雪ばば(大館市では、雪男は山の神の日の12月12日に酒を買いに里に下りてくる。五城目町では、雪の夜に子どもが泣いていると、「小豆煮えたか、包丁研げたか」と言いながら雪ばばが降りて来て子どもをさらってしまうといわれる。)
2023.07.15
コメント(0)
『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(今井秀和執筆部分)・悪路王(鬼の頭目。坂上田村麻呂に征伐された阿弖流為のこととも言われる。平泉町の達谷の窟を根城にしたと伝えられる)・岩手山の鬼(麓の人々を苦しめた鬼の領袖大武丸(おおたけまる)を、立烏帽子と名乗る神女の先達で田村将軍が征伐を進め、最後の片目の鬼が岩手山の権現様の使いとして生き残る。伝承には奥浄瑠璃「田村三代記」の影響もある。)・オシラサマ(多くは男女一体の木製の人形姿の神。遠野地方には馬と娘の起源譚がある。)・ガタゴン(現代の伝承。1992年山形村(現久慈市)の畑で大きな足跡が発見された。)・河童(遠野に多いが、佐々木喜善は河童とザシキワラシが同一との説を紹介している。)・カブキレワラシ(遠野地方に伝わる木に棲む妖怪。)・クサイ(動物妖怪としての狐や狸に近い存在だが、似て非なるものと認識される。下閉伊郡の「さいの神」峠にはヤズクサエという妖怪が居り、騙されると死ぬと恐れられた。)・ザシキワラシ(柳田國男『遠野物語』で有名になった。佐々木喜善によると、チョウピラコ、ウスツキコ、ノタバリコなど様々な種類がある。現代には金田一温泉が有名に。)・ザンビキワラシ(気仙沼周辺で河童に類した妖怪を指す。)・ノリコシ(はじめ小坊主のような姿で次第に大きくなって人を驚かす妖怪。)・経立(ふったち)(年を経た猿や犬が妖怪に変化。遠野では、御犬(おいぬ。オオカミのこと)の経立も恐れられていた。)・マヨイガ(山中の不思議な家。迷い家。鉄瓶の湯がたぎっているが人の姿がない。必ず食器や家畜を持ち帰るよう言い伝えられた。その人に富を授けるために家をみせるのだから。)・モウジャブネ(九戸郡の海の妖怪。盆になると亡者船が出るので漁船は日没前に帰るものとされた。)・山男・山女(岩手県各地に伝承が残る。山男は山で生活する異人。山女は山男にさらわれて里に帰れなくなったものが多い。)・ユキオナゴ(夜中に樵が山小屋に休んでいると真っ白な着物姿で入り口に現れ、誘いに乗って小屋を出ると明け方に呆けた状態で戻り一生精を失う。)■関連する過去の記事 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 宮城県の妖怪伝承(2023年07月13日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 田村三代記(田村語り)(2011年8月28日)他にも多数あります。フリーページの記事リストをご覧ください。
2023.07.12
コメント(0)
『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(今井秀和執筆部分)■青森県・アカテコ(八戸の小学校の古木から赤い小児の手がぶら下がる)・甘酒婆(青森市など。夜中に甘酒を求めて家々を回る妖怪)・オガリヤワラシ(殿様の泊まるお仮屋の座敷に出る子ども姿の妖怪)・オシッコサマ(津軽で河童に類する妖怪。中国の水神「水虎」(すいこ)が訛ったもの)・恐山の死霊・カワオナゴ(青森市の釜谷橋の近くの土手に現れ男にとりつく女姿の妖怪)・鬼神社の鬼(弘前市鬼沢の鬼神社には、用水路建設を手伝った鬼が祀られている。)・櫛引八幡宮の白狐(八戸市。八幡宮の本殿の横板には、使いの狐が出入りする穴がある。八戸大火の際に白狐が出て来て火災を知らせた。)・狗賓(ぐひん。恐山を構成する大尽山の山腹から管弦の音が聞こえるのは、狗賓(天狗)の仕業とされ、山が荒れだす。)・シガマニョウボウ(シガマ(つらら)のように美しい妻が来たが風呂に入れると櫛だけが浮いていた。)・嶽の大人(だけのおおひと)(津軽には岩木の嶽や鬼沢村の嶽に巨人の伝承がある。)・タタリモッケ(津軽など。恨みをのんだ死者は祟りを引き起こす)・タンコロリン(弘前市周辺では大人の言うこと聞かない子供にタンコロリンが来ると脅す)・テンコロバシ(坂道を転がる妖怪。八戸など)・八の太郎(八郎太郎)(相内村(五所川原市)の樵夫の八の太郎が十三湖、平川、次いで八郎潟の主に転じた)・メドツ(津軽や八戸周辺。河童に類した妖怪。古代の水の神ミヅチが変化したか)■関連する過去の記事民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢)岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日)宮城県の妖怪伝承(2023年07月13日)秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日)山形県の妖怪伝承(2023年07月16日)福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)
2023.07.11
コメント(0)
今朝のNHKニュースでやっていた。バブル期に建てられた巨大観音像の対策が各地で問題になっている。石川県加賀市で1987年に建てられた73メートルの観音像が出ていた。当時は金ピカだったそうで、建立した会社社長さんの当時の映像。また、静岡県や淡路島の事例も。淡路島の場合は、相続する者がなく国有化され、国が9億円をかけて今年5月に解体撤去した。高崎経済大学の津川康雄名誉教授が解説しておられて、画面に移された日本地図では、25メートルを超える観音像15体の位置がドットされていた。東北は3つ。岩手の沿岸部は釜石大観音、宮城は中山の観音様だろう。そして福島県は会津地方に点が示されている。●釜石大観音(釜石市) 1970年、48.5m 明峰山石応禅寺●仙台天道白衣大観音(仙台市) 1990年、100m 双葉綜合開発、新界山大観密寺●会津慈母大観音(会津若松市) 1986年、57m ツルカメ建設、祈りの里会津村
2023.06.30
コメント(0)
今朝のNHKニュースでやっていた。バブル期に建てられた巨大観音像の対策が各地で問題になっている。石川県加賀市で1987年に建てられた73メートルの観音像が出ていた。当時は金ピカだったそうで、建立した会社社長さんの当時の映像。また、静岡県や淡路島の事例も。淡路島の場合は、相続する者がなく国有化され、国が9億円をかけて今年5月に解体撤去した。高崎経済大学の津川康雄名誉教授が解説しておられて、画面に移された日本地図では、25メートルを超える観音像15体の位置がドットされていた。東北は3つ。岩手の沿岸部は釜石大観音、宮城は中山の観音様だろう。そして福島県は会津地方に点が示されている。●釜石大観音(釜石市) 1970年、48.5m 明峰山石応禅寺●仙台天道白衣大観音(仙台市) 1990年、100m 双葉綜合開発、新界山大観密寺●会津慈母大観音(会津若松市) 1986年、57m ツルカメ建設、祈りの里会津村
2023.06.30
コメント(0)
新型コロナでマスク着用の緩和(3月13日)が行われたが、その後も外出時に常にマスク着用という人が6割にのぼる。そして、都道府県別では、広島県が72%と割合が最高だ。これは、第一三共ヘルスケアのネットによるアンケート調査(資料資料)。3月17日から19日に実施。全国で4,700人が回答。概要はこうだ。・マスク着用ルール緩和後も、61.6%は外出時に常にマスクを着用・理由で最も多いのは「感染が不安」(52.1%)で、「慣れてしまった」45.9%、「花粉症などアレルギー対策」40.6%、「周りの目が気になる」28.7%などと続く。・なお、女性では「素顔見られたくない」(26.3)、「メイクが面倒」(26.6)も。・着用率が最も高い都道府県は、広島県。最低は奈良県。 1位広島県(72.0%) 2位岐阜県(70.1) 3位愛知県(69.9) 45位佐賀県(60.3) 46位福岡県(60.1) 47位奈良県(56.4)・緩和後の変化では、「外すことが増えた」は20.8%にとどまり、「変わらない」が70.8%と多い。都道府県別で「外すことが増えた」や「常に外すようになった」の回答率が最も高いのは沖縄県。 1位沖縄県(32.0%) 2位佐賀県(31.0) 3位大阪府(29.0) 43位群馬県・島根県(15.0) 45位秋田県・岡山県(13.0) 47位広島県(11.0)・依然、感染対策(手指消毒、手洗いうがいなど)を実施しているのは鳥取県。「変わらない」や「頻度が(やや)多くなった」の回答が88.0%である。 1位鳥取県(88.0) 2位神奈川県(87.0) 3位広島県・島根県(86.0) 41位石川県・三重県(72.0) 43位宮城県・大阪府・岐阜県・千葉県(71.0) 47位福井県(66.0)マスク着用行動は、感染症だけでなく、周りの目など社会的な要因もあろうから、複合的に考えるべきなのだろう。もう慣れた、メイクが面倒、なども面白い。もし、マスクを外させる政策を考えるなら、各要因の寄与度や相互関係を考えるのだろうか。クロスセクションでどれだけ「地域性」が分析できるのか分からないが、広島が、マスクを着用する人多い、外すように変化した人もいない、感染対策も変わらない、の三拍子そろって「保守的」だと有意に言えるなら、相当に興味深い事象だ。わが東北では、秋田と宮城が「変化した」方で登場だ。
2023.04.27
コメント(0)
近代日本の工業化を担った鉱山の労働者の間で「友子制度」があったそうだ。鉱山跡を探訪する猪木武徳氏の珠玉の歴史紀行を読んでいて、知った。■猪木武徳『地霊を訪ねるーもうひとつの日本近代史』筑摩書房、2023年同書によると、友子制度は次のようなしくみ。・鉱山労働と生活につきものの事故、病気、失業などによる経済的困窮を防ぐ相互扶助の組織・親分・子分の契りを交わす(友子結盃式)・子分は(多くの場合)3年3か月10日の間、親分の家で生活・親分と子分は何事があっても互いを守る掟・万が一掟を破れば全国の鉱山に除名が通報される・この組織は全国ネットワーク・友子は親分の紹介で全国の鉱山で働くことができた・交際金という積立金制度で見舞金等を賄った・親分の死亡では子分たちが共同で墓碑を建て友子の共同墓地に葬った・友子制度は徳川家康「金銀山 定式山例 五十三箇条」が原点とされる・村串仁三郎『日本の鉱夫ー友子制度の歴史』(世界書院)に詳しい猪木氏の本によると、阿仁町の阿仁郷土文化保存伝承館に、友子制度に関する資料が展示されている。また、大仙市協和荒川の大盛館(民俗資料展示館)には友子制度の下で出された自坑夫免状(1931年)が展示されている。鉱夫が新たに友子に加入する際には、盃を交わす取立結盃式が行われ、各人に友子の掟などを記した免状が配られた。友子には、独身で全国の鉱山を渡り歩く「渡り坑夫」と一つの鉱山に定着して妻子を持ち親分の許で働く「自坑夫」がいた。荒川鉱山は自坑夫が中心だった。過酷で危険を伴う鉱山労働における組織的秩序を保ち、他方で労働力の移動や家族の扶養などにも配慮した仕組みが考えられていたのだ。ちょっと飛躍かも知れないが、古代から伝わる日本社会の「しきたり」の知恵と繋がるかもしれない。奇祭や結社などとして残るものもあるが、我々は、古くから現代に至るまで、助け合う社会を形作ってきたのだ。■関連する過去の記事(鉱山関係) 平泉繁栄の理由 北上山地の砂金(2023年02月19日) 大谷鉱山(気仙沼市)(2021年5月4日) 鹿折金山(2021年5月3日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月24日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 白石湯沢温泉「やくせん」(2007年05月13日) 金華山と涌谷を考える(2006年12月17日) 東北の飲泉地(06年7月18日) ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)(半田銀山)■関連する過去の記事(奇祭、習俗、結社など。他にも記事リストご覧ください。)(奇祭など) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)(来訪神、結社などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 尻屋の共産部落(2015年2月6日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.04.23
コメント(0)
文化庁が昨年始めた地域の食文化の認定制度「100年フード」に、37府県70件が追加認定された。産経新聞記事(4月6日)によると、東北関係では14県28件が選ばれた。・青森県 八戸せんべい汁・岩手県 南部鼻曲がり鮭の新巻鮭・宮城県 ほや雑煮・秋田県 横手やきそば・山形県 笹巻、むきそば、山形芋煮、酒田のラーメン、蔵王温泉ジンギスカン・福島県 山都そば、うにの貝焼、ラジウム玉子■文化庁100年フードのサイト山形の芋煮は、しょうゆ味の村山地方に対して庄内はみそ仕立てと味が異なる。しかし、芋煮のルーツは中山町である。江戸時代県内を南から北に流れる最上川を伝って、内陸部から米、紅花、青苧などが酒田経由で京都や大阪に運ばれ、帰路には砂糖や干し魚、衣類、ひな人形などの上方文化が運ばれた。元禄7年(1694)に荒砥に通じるまでの舟運の終点は、長崎湊(中山町)で、そこで船荷の積み替えが行われ米沢方面へ運ばれた。荷揚げや荷待ちの間に船頭や商人が川岸の松の枝に鍋をかけ棒鱈と里芋を煮て食べたのが芋煮会の発祥とされる。(以上、産経の記事から。)■中山町観光協会の説明日本三大芋煮という言葉を聞いたことがある。山形、島根、愛媛だ。島根は津和野町、愛媛は大洲市。山形はもちろん中山町だが、3市町が連携して東京でイベントをやっているそうだ。
2023.04.07
コメント(0)
中央の視点による東北開発が具体的にどう進んだのか。三度目になるが、岩本先生の著作から。■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年■関連する過去の記事(岩本由輝著作) 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日)(岩本由輝) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日)(岩本由輝)■関連する過去の記事(東北後進論) 白河以北一山百文の意味の変化(2023年04月04日) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日) 「二束三文」と東北(2012年8月11日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日)■関連する過去の記事(三島通庸、野蒜、安積疏水。ほかにも記事ありそうですが。) 土木県令三島通庸と市立病院済生館(2013年1月6日) 野蒜築港跡を考える(2015年5月18日) 安積疎水を考える(06年12月19日)1 三島通庸(みちつね)の土木県政1786年(明治9)8月初代山形県令となった三島通庸は、県政の主眼は道路とばかり、新道の開鑿や旧道改修に乗り出す。伝統的に西廻り海運と最上川で大阪との経済的つながりの深かった山形県を、首都東京と仙台に結び付けることを策したもので、中央集権的強権政策の一環であったが、このとき、自動車交通以前の山形県の基本的な道路体系ができあがる。1878年7月イザベラ・バードは、すでに現高畠町津久茂から新庄までの立派な道路(国道13号の原型)ができていたことを証言している(日本奥地紀行)。三島の最初の着手は、76年11月起工の栗子新道。東京に至る最短コースとして2つの隧道を掘る難工事で80年10月竣工。同年12月には新庄から秋田県に至る道路にもつながる。81年には第二回奥羽巡幸が行われたが、9月22日秋田県境まで出迎えた三島は面目躍如。天皇が福島に向かう10月に3日に開通式が行われた万世大路は栗子新道への取付道路だった。山形仙台間は、笹谷、二口、関山のいずれも難工事の3路線が検討されたが、78年起工の野蒜港に最短距離の関山峠越えが適当と判断され、80年関山隧道の掘鑿を伴う関山新道工事が始まり、82年6月完成。ところで三島の土木県政は強権発動で地元民の意見や不満を顧慮しなかったから、多くの人の怨嗟の的となったことは否定できない。福島県令に転じた三島は福島事件で鬼県令の悪名を呈するが、山形県でも関山新道の費用徴収をめぐって反対運動が組織された。しかし、山形県の場合、自由民権派の開明社の機関紙「山形新聞」も好意的で、また、三島には県内各地から留任要請が出された。2 野蒜築港大久保利通の東北開発構想は、1878年5月の大久保暗殺後体化、11月に工事着工。最も重要な港口の工事は79年7月に始められ、内務省土木局長石井省一郎を監督に、早川智寛(のち仙台市長)が築港主任。技術を面を担当したのはファン・ドールンを主任に数名のオランダ人。工事は順調だったようで、82年(明治15)10月第一期工事落成式が挙行。第二期工事は、外洋の波浪を防ぐため宮古島(ママ)の東端に防波堤を築いて吃水7mの大型船碇泊を可能にすること、宮古島(ママ)と野蒜の間の連絡路建設、などであった。かし、84年(明治17)秋の台風で内港東側導流堤が流失。85年内務卿山縣有朋が再建判断の調査を行わせたが、結果は否で、68万3千円を投じた野蒜港は放棄、もとの寒村に戻った。失敗の原因は、場所の選定や設計の誤りが指摘され、また、松方緊縮財政が最大の理由と言われるが、台風以前の74年1月の「野蒜市街地計画方之義ニ付伺」にあるように、(大略)借地出願の者少ないなど地元の理解は進まず、建築家屋も転売の動きなど慨歎の至りであり、米価金融閉塞状況だとはいえ、こうした状況が主原因である。地域の経済進展や後背地との関連が顧慮されることの少なかった野蒜港の維持発展は、台風被害がなくても困難だっただろう。当時の巨大プロジェクトの早産的悲劇をみる思いがする。3 安積疏水の明暗安積開墾は3つの段階と3つの地域に分けて進められた。(1)1873年(明治6)、福島県の手で始められた旧二本松藩士の入植による、大槻原南部(2)74年、郡山で富商たちが結成した開成社の出資で進められた大槻原中北部(3)78年から政府事業として展開された五百戸移住による、対面原から広谷原にかけての開墾このうち、主流は第3のもので、78年から82年にかけて旧久留米藩士141戸を筆頭に、旧高知藩士105戸、旧鳥取藩士69戸、旧二本松藩士56戸、旧会津藩士30戸、旧棚倉藩士28戸、旧松山藩士18戸、旧米沢藩士13戸、旧岡山藩士5戸、計465戸約2500人が入植。士族授産である。この3つの開墾を推進したのが、旧米沢藩士で県官を務めた中条政恒である。孫が中条(のちの宮本)百合子。安積開墾の最大の難点は水に乏しいこと。そのため立案されたのが大久保利通の建議による猪苗代湖疏水の開鑿である。設計はドールンとするのが定説だが、実態は助言だけで、内務省勧農局御雇の山田寅吉が設計主任として詳細な設計書を提出している。なお、山田の配下で実測設計活躍した新渡戸七郎は、三本木原開墾を推進した盛岡藩士新渡戸伝の孫で、稲造の長兄。79年(明治12)10月起業式が行われた安積疏水は、数十の隧道、樋を架する大工事だが、82年10月延長52kmの幹線水路と78kmの分水路が完成、通水式を行った。83年残された工事が全部終了。安積、安達、岩瀬3郡に潅漑し水不足解消に貢献している。ところで、1905年(明治38)、法制局参事官柳田国男は、安積開墾の帰趨について記すに、(大略)最初各地の藩士をまねたいた時は保護が厚かったが、保護が止むとたちまち衰微し始め、郡山地元民に売却するなどして町に移住したり、元の土地で小作するなどの状況。士族授産の帰結が、少数地主の形成と、貧しき人の群れの創出であったことを伝えている。
2023.04.06
コメント(0)
河北新報2023年4月3日(ワイド東北)で、東北大学災害科学国際研究所の川内淳史准教授(東北近現代史)に聞いたという記事。東北の侮蔑後とされた「白河以北一山百文」は、最近の研究によって意味合いが時代によって少しづつ変化してきた過程が明らかになってきたという。概要は以下だ。(記事の文中には、川内氏の見解(持論)などと随所に断りがあるが、以下では省いた。なお、記事の署名はコンテンツセンター小沢一成さん。)1.近事評論の寓話文献に初めて登場したのは、雑誌「近事評論」の明治11年(1878)8月23日第148号。福沢諭吉の門弟だった旧熊本藩士で自由民権運動に共鳴した林正明が書いたとされる。記事は、西南(薩長)の地図の上に並べた人形は飛ぶように売れるのに、白河以北に並べた人形は誰も顧みようとしないという寓話。時代が変われば売れるようになると慰められた人形売りが泣き止み、白河以北一山百文と叫んだという内容。。2年後の同誌第277号は、東北人士を人形になぞらえ、薩長藩閥政府の下で西南優位の状況を覆絵層としない無気力を批判し奮起を促す狙いだったと記述している。2.天恵薄き地意味合いが変わったのは20世紀に入った頃。明治三陸大津波(1896年)や大飢饉(1905年)などで、東北=「天恵薄き地」という認識が広まった。これを理由に東北振興の機運が高まっていく。東北人を発奮させるためだった「白河以北一山百文」が、天恵薄き地の認識が広まる中で、東北全体を指す言葉に意味がずれていった。3.薩長発信との認識昭和に入ると薩長新政府が東北に投げかけた「罵倒語」との認識が登場し始める。1930年出版の「総合ヂャーナリズム講座Ⅲ」に、「一山百文とは明治維新の変革に政権を握った薩長が、東北を侮蔑した呼称で(中略)あざける意味が含まれていた」との記事。昭和三陸津波(1933年)や昭和東北大凶作(1930-34年)に見舞われ、さらに戦時体制の強まる中で、同じ日本にも関わらず差別的扱いを受けたとして国家を造った薩長に不満が向けられて、「白河以北一山百文」に結びついたのではないか。4.司馬遼太郎の推理と影響一方で、戊辰戦争で薩長の司令官が攻め込んだ際に「白河以北一山百文」と言ったという俗説がある。司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」が一番古い記述とみられる。1972年の連載を収録した「街道をゆく三」の冒頭部分に「『白河以北、一山百文』といったのは、戊辰戦争を戦って会津城を攻め落とした長州軍の士官の一人であったであろう」とある。司馬一流の推理とみられるが、意味がずれていく中で生まれたものと推量される。司馬の影響で、以降こうした認識が広まった。■関連する過去の記事 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日) 「二束三文」と東北(2012年8月11日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日)
2023.04.04
コメント(0)
東北開発の端緒は、中央集権的な体制のもとで進められた。前回に続き岩本先生の著作から。■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年■関連する過去の記事 東北という呼称の初現ー「東北」の形成(2023年03月26日)戊辰戦争と明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により、幕藩体制は崩壊したが、この時点でもまだ東北開発は具体的な日程にはのぼってこない。しかし事実上失職した武士に仕事を与えねばならないから、各地で思い思いに士族授産事業が開始された。中には、藩政時代から引き継がれたものもあった。盛岡藩勘定奉行新渡戸伝が安政2年(1855)から着手していた三本木原開拓事業や、同藩の大島高任が安政3年に建設し出銑に成功していた釜石の洋式高炉がそれである。釜石は、明治7年(1874)工部省鉱山寮釜石支所が置かれ官営釜石鉱山となる。また、政策面で注目されるのは、明治3年(1870)11月13日から17日にわたり、涌谷町にあった登米県庁に民部大丞渡辺清が、陸前陸中陸奥の各藩県の地方官を集めて三陸会議を開き、検地検見の施行と貢米輸送、藩県行政の規則、商品流通、土木工事の調査の件などについて諮問したことである。この会議の結果を踏まえて東北地方にも中央集権体制が築き上げられていくことになる。緊急の課題だった武士の扶養の一方策が、帰農だった。戦国末期の兵農分離で農業から離れた武士を再び農民に戻すというのである。弘前藩は明治3年10月、帰田法を推進し、一定面積以上の土地を保有する地主の土地を強制買い上げして武士に配分したが、武士の大部分は帰農せず土地を小作させたが、小作料だけでは生活できなかったから、土地は再び商人や高利貸しに集中されるようになり成功とは言えなかった。中村藩では、明治4年8月に土着法という形で、447戸の城下町武士全員を旧藩内137村に実際に帰農させた。土地は一町歩以上を持つ農民から買い取り、抽選で配分した。米沢藩では旧藩主上杉茂憲(もちのり)が東京移住に先立ち6千人の士族に当座の生活資金を与えるとともに、士族就産基金と共有財産を下げ渡した。これを管理運営する士族義社が、大正5年に両羽銀行(現山形銀行)に合併するまで金融事業を行った。もっとも、基金を元手に織物や漆器の生産を始めた生産社はたちまち失敗(解散)。また、士族義社も製糸業に手を出して裏目に出て、解散の危機に直面した。旧新庄藩では、舟生源右衛門らが明治8年から秩禄処分で交付された金禄公債を磁器や亀綾織に出資し、たちまち元も子もなくした。帰農を開墾の形で進めたのが旧鶴岡藩だった。士族授産事業の多くが痕跡を留めていない中で、松ヶ岡開墾場は、現在も225haの農場として経営が続けられている(松岡農業協同組合)ことは注目に値する。明治5年6月に、旧鶴岡藩士約3千人を30組の開墾隊に分けて進められた。桑苗を植えて、明治8年から生糸生産を開始し、士族授産の実をあげた。しかし、きれいごとだけではなく、脱走した者が絞殺されたり、酒田県が旧藩から継承した種夫食(たねふじき)貸米を開墾費用に不当に流用したことから農民が償還を要求して立ち上がった(ワッパ騒動、明治6年11月)。三島通庸が同年12月に酒田県令に着任したのは、騒動対策と同時に旧鶴岡藩士の県政の専横を抑えるためでもあった。明治6年3月には、安積開墾が始まり、旧二本松藩士19戸が入植する(開墾本格化はもう少し後)。また、明治3年2月以降、仙台藩支藩の亘理、白石、岩出山、角田各藩の北海道開拓(大地の侍)は帰農の一形態であり、同年閏12月の会津藩の削封と斗南藩転封は帰農というより流刑だった。東北開発が政府の政策として具体化する契機となったのは、明治9年(1876)6月から7月の第1回奥羽巡幸である。巡幸を演出した内務卿大久保利通が、天皇出発の10日ほど前の5月23日東京を出発し、巡幸コースより広い範囲で東北各地を巡視したことが端緒といえる。大久保は、東北の未開発資源に着目し、東京を首都とする明治国家の後背地とすることを目論んでいた。明治9年、大久保は、内務省に授産局を置き士族授産と殖産興業を実現しようとしたが、明治10年西南の役勃発で計画は中止。役の平定後、明治11年3月6日太政大臣三条実美に、建議書(一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺)を提出。その方法については、こう述べた。・第1等の方法は、移住を望む華士族に開墾地や物品を給貸する。1万3千戸を目標とする。・第2等の方法は、所在地の近くを開墾する華士族に官有荒蕪地を貸与する。・第3等の方法は、資本金350万円を内務省に備え、各地方固有物産の保護改良、運輸の便宜などに必要な資本に給貸する。この第3等の但し書きで、運輸ノ便ヲ開クカ如キ漸次各地ノ形状ニ従テ挙行スヘキモノ百端アリト雖モ中ニ就テ尤モ其ノ較著ナルモノ七トナス、として、その七つの開発構想を挙げる。・其ノ一 宮城県下野蒜開港 35万円・其ノ二 新潟港改修 31万円・其ノ三 越後(清水越ト云フ)上野運路ノ開鑿・其ノ四 大谷川運河ノ開鑿(茨城県)・其ノ五 阿武隈川ノ改修 同川を修浚シ更ニ運河ヲ疏鑿シテ塩釜ノ内海ニ達シ以テ野蒜ノ新港ヲ合スルヲ得ハ福島地方ノ便利ヲ得ル・其ノ六 阿賀川改修・其ノ七 印旛沼ヨリ東京ヘノ運路大久保は翌3月7日には三条に建議書(原野開墾ノ儀ニ付伺書)を送り、前日付けの第1等の方法に関して、安積開墾と疏水の具体的な提案を行っている。さらに、3月18日、大蔵省に訓令して起業公債を募集することとし、5月大蔵省は起業公債証書発行条例にもとづき、第一国立銀行と三井銀行に内国債募集事務を扱わせることを発表。18件のうち、新潟を含む東北7県に直接かかわるものが9件(全体費用総額の31%)である。9件のうち、猪苗代湖疏水費を除くと、5件が港湾と道路など交通関係、3件が鉱山関係(阿仁鉱山、院内鉱山、油戸炭山)であることが、大久保の東北開発の姿勢を象徴している。しかしこの大久保の積極姿勢が、戊辰戦争以来くすぶっていた東北の不満を懐柔することになった。その意味でこの投資は藩閥政府にとって安い買い物であった。大久保はこの計画を打ち出して間もない5月14日に暗殺され、この中央集権国家による上からの東北開発計画の実現は、後継者に委ねられることとなった。
2023.04.02
コメント(0)
東北という地域名のが文字の上で初現するのは、慶応4年(1868)7月の薩長政府による建議書の表題である。以下、岩本由輝先生の著作から。■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年慶応4年(1868)1月仙台藩に会津藩征討の命が下る。藩主伊達慶邦は猶予を懇請。3月に奥羽鎮撫総督軍が松島湾に到着し、総督府は仙台に置かれる。仙台藩と米沢藩は会津救済の周旋を決定し、閏4月4日、白石列藩会議を招請、二度にわたる会議で会津藩と鶴岡藩に対する処分の寛典を求めて嘆願することになった。最初の閏4月11日の会議の結果による会津藩救済嘆願は、17日奥州鎮撫総督九條道孝により却下される。20日仙台藩士による世良修蔵暗殺。22日、24藩による第2回会議で鶴岡(庄内)藩寛典処分嘆願書を調印。28日には孤立状態の九條を佐賀藩兵と小倉藩兵が救出。29日は、仙台に24藩に天童藩(織田氏)福山藩(松前氏)を加え、軍事同盟の性格を打ち出した盟約書に署名する(奥羽列藩同盟)。5月3日、この盟約に長岡藩(牧野氏)など北越6藩が加わり、奥羽越列藩同盟となる。しかし、江戸城は4月11日に開城し、列藩同盟も決して一枚岩ではなかった。隣藩の誼で義理で参加、あるいは会津や鶴岡の軍事力を恐れて参加した藩もあった。盟主の仙台藩や米沢藩もまったく腰が据わっていなかった。5月1日には白河城が西軍に奪われる。仙台藩は九條総督を人質にとる気概もなく、九條に秋田に逃げられてしまう(5月18日総督府は秋田に移る)。19日長岡城が落ちる。26日同盟軍は白河城奪還に失敗。法親王輪王寺宮公現(北白川宮能久)が28日会津に入ったことは同盟軍を活気づけたが、7月、九條の仙台帰還を求めて秋田藩に交渉に赴いた仙台藩正使ら11人が斬首さらし首となる(7月4日秋田藩同盟離脱)。この間、6月に、棚倉、泉、湯長谷が落城。7月には亀田、本荘、矢島、新庄、弘前の各藩が脱盟。秋田藩は鶴岡藩を攻めるが、軍備にすぐれた鶴岡藩の反攻はすさまじく秋田領大曲まで占領した。太平洋岸では、西軍が7月平城を攻略、7月中に三春藩が脱落、守山藩が降伏し、二本松城が陥落。北越では7月に同盟軍が一度長岡城を奪回するが、新発田藩が西軍に内応し再び長岡城は西軍の手に落ちる。7月17日、江戸が東京と改められ、薩長政府の参与木戸孝允は、戦勝後の同盟諸藩に対する処置に関する建議書を提出している。その表題が、東北諸県儀見込書である。これが東北という地域名の文字の上での初現であり、また、県というのは閏4月21日に出された府藩県三治の制にもとづき占領地など政府直轄地に付される予定の行政単位の呼称であった。東北とは東夷北狄を約めたもので、薩長政府の高官が夷狄の地となぞらえたことの意味は重要で、西戎南蛮を意味する西南地方という地域名の設定は薩長政府からは当然のこととして行われなかった。東北地方という地域名は、以前の、蝦夷、みちのく、陸奥などとともに他から与えられたものであり、決してこの地域に住む人々の発想から生まれたものではない。後の西南の役の西南という表現も同巧であり、政府が敗者に押し付けたものだろう。8月1日、西軍は新潟を占領。6日は中村藩が降伏、離脱。20日にはいよいよ会津進撃を開始し、23日会津城下に入る(白虎隊の悲劇)。26日榎本武揚率いる艦隊が仙台湾に入るが、時遅く、9月4日には盟主米沢藩降伏。8日明治に改元。13日仙台藩降伏。22日会津落城、松平容保降伏。24日盛岡藩が降伏し、9月26日秋田藩内で鶴岡藩が局地的優勢を保ったまま降伏。これにより奥羽での戊辰戦争は終焉。ここで、31藩のうち、脱盟した藩(秋田、本荘、矢島、新庄、弘前、三春、新発田、中村)を除いて賊軍となった。また、戊辰で西軍の敵として最も睨まれた会津と鶴岡の敗戦の仕方は対照的だ。徹底抗戦の末敗れた会津藩では、落城後の藩主松平容保と嫡子喜徳が300名の岡山藩兵によって江戸に連行される状況を目撃した英国公使館付の医師ウィリアム・ウィルスは、「出発を見送りに集まったものは十数名もいなかった」と意外の感を示した上で、「いたるところで、人々は冷淡な無関心をよそおい、すぐそばで働いている農夫さえも往年の誉れ高い会津侯の出国を振り返ろうともしない。一般的な世評としては、会津侯が起こさずもがなの残忍な戦争を惹起した上、敗北で切腹もしなかったため尊敬を受ける資格は喪失したというのであった。」と監察している。外国人ゆえの冷静さともいえるが、会津農民の冷静さに注目したい。今日戊辰戦争を語る熱っぽさは後世のつくりごとに過ぎないのだ。鶴岡藩は、薩摩藩の要路とりわけ西郷隆盛に取り入り、維新政府の繰り出す諸政策を骨抜きにし、みずからの封建的特権を守るために画策するふてぶてしさを示すことになる。戊辰120年のいま〔おだずま注、1988年のこと〕、当時の現実を無視した敗者の正義を美化する心情的言説が各地に横行したので、客観的な当時の経過を評価をあるがままに記した。ところで、明治元年(1868)12月7日、同盟に加わった諸藩に対し処分が行われるが、維新政府参与木戸孝允の手記には、「東北諸県御処置」の文字が見える。木戸があえて東北といおうとしていることが、7月頃の建議書とともにはっきりする。処分の内容は、寝返った幾つかの藩に賞典禄を与えたのを除けば、いずれも削封された。削封地は閏4月の府藩県三治の制にもとづき政府直轄地の県とされ、知事が派遣されて、残りは藩として藩主が置かれたが、明治2年6月17日の版籍奉還後は藩主も藩知事となり、明治4年7月14日の廃藩置県を迎える。
2023.03.26
コメント(0)
ネットニュースで知った。大館能代空港は、大谷サンも驚きの二刀流空港だ。何がというと、空港ビルが道の駅になっている。全国でも2つしかないと。大館能代空港の公式サイトによると、たしかに、「道の駅大館能代空港」として秋田県内30番目の道の駅に登録。そして、空港自体が道の駅という全国にもう1つの事例とは、のと里山空港だという。ダイヤは羽田に3往復(ANA)のようだ。秋田県公式サイトによると、令和4年(暦年)利用者12万3千人、搭乗率41.6%とあり、新型コロナの影響がまだまだ残っているとはいえ、だいぶ厳しい。経緯を振り返ると、高速交通から取り残された秋田県北部の移動時間短縮と活性化をめざし、鷹巣町(現北秋田市)に建設し、1998年供用開始。大館能代のちょっと後に開港した庄内空港の場合、羽田5便(ANA)で最新統計はみあたらないが、きょうど今日から12年ぶりの増便で5便になるというから、利用状況は大館能代より高いと思われる。ポストコロナの地方振興を考えるに、依然、地方空港の役割は重要だろう。人口減少の中でもビジネス、観光、居住を考える時に、本来の役割である交通(移動)機能をしっかりと見据えなければならない。道具をどう維持するかの倒置した論議は極力意識すべきではない。とは言っても、苦労と負担を経て今すばらしい武器を持っている現実(空港や空港施設なかりせばできないこともある)も直視して、これからの地域経済と地域振興の姿と空港(施設)について考えていくべきではなかろうか。WBCは、誰もが予想や期待をしただろうが、現実は、それ以上の展開だった。空港の姿も新しい検討を待っているのかもしれない。
2023.03.26
コメント(0)
今日の第5回WBC決勝戦、侍ジャパンは米国に見事勝利、三大会ぶりの頂点を極めた。今回の代表には、大谷、佐々木朗希、山川、ダルビッシュなどをはじめとして東北ゆかりの選手が揃い、特に岩手県では半端でない視聴率を記録。全国紙も地方紙も号外を出したようだが、特に気になる東北の各紙を確認したい(電子版含む)。・河北新報 マイアミ共同のクレジット。大谷MVPの見出しだが、文中でダルビッシュ有が8回に救援登板したことを伝える。なお松井裕樹、宇田川優希は言及なし。・岩手日報 マイアミで運動部・斎藤孟とのクレジット。記者を派遣したのだろう、さすが岩手だ。大谷の写真(共同)を掲げ、二刀流でMVPを報じる。本文読めず。・岩手日日 マイアミ共同のクレジット・デーリー東北 八戸市内で速報を配ったという。・東奥日報 マイアミ共同のクレジットで、タイトルは「侍 世界一奪還」、写真は大谷ひとり・秋田魁新報 マイアミ共同。写真は大谷中心に歓喜の選手たち。・山形新聞 マイアミ共同。写真は大谷を中心に歓喜する選手たち。本文中で、中野拓夢(阪神、日大山形高、東北福祉大)も取り上げている。・福島民友 2ページにわたる。マイアミ共同。後半では最年長のダルビッシュの貢献を強調。・福島民報 2ページにわたる。マイアミ共同。写真をふんだんに。湯浅京己(聖光学院)は言及なかった。今回の決勝戦の試合の速報とみれば、出身選手を総括する必要もないことではあるが、一応、各県地方紙のとらえ方を比べてみたのでした。
2023.03.22
コメント(0)
最近のニュースで出ていたもの。鶴岡市にある慶應義塾大学先端生命科学研究所の冨田勝所長(環境情報学部教授)が今月(2023年3月)末で退官するという報道。同研究所は2001年に設立された先端バイオテクノロジー研究機関であるが、鶴岡に慶應大のサテライト研究施設のようなものがあるとは知っていたが、よく調べたこともなかった。このニュースは複数の新聞が取り上げており、その一つに、退官される冨田所長は作曲家の冨田勲さんの息子と紹介したものがあり、強く印象に残った。シンセサイザー音楽の草分け的な大家と言っていいと思うが、自分には中高生の頃に聞いた「新日本紀行」のテーマが記憶に残る。もう10年位前だが、慶應の役員をしている先生から、鶴岡と慶應のつながりについて話を聞いたことがある。ほとんど忘れてしまったのだが、なぜ鶴岡にあるのか、鶴岡市が積極的に受け入れたのだが、旧庄内藩名家の関係者のつながりがあったのだ、とかの内容だったと思う。大学や研究機能と地域づくり。鶴岡は良いモデルなのだろうか。よく勉強してみたい。
2023.03.08
コメント(0)
藤原清衡が平泉を拠点に選んだは、砂金と湧き水が大きな理由だという。湧き水の方は、地層が曲がって、地表に立ち上がるように露出した断面からどんどん水が砂岩層に染み込み、パイプのように流れて斜面に湧き出してくるという。平泉には湧出地が多く、かつては毛越寺の浄土庭園の池を湧き水でまかなっていたという。そもそも地名も、平地に泉が湧くからとも言われる。湧き水の方はこれくらいにして、以下は、砂金についてだ。■参考 NHK「ブラタモリ」制作班監修『ブラタモリ 9 平泉 新潟 佐渡 広島 宮島』2017年 から「1 黄金の都・平泉はなぜ栄えた?」(2016年12月10日放送)中尊寺の山門から続く参道は、木立に囲まれていてあまり気づかないが、だらだらとした坂が100メートルもある崖に至るのだ。境内最奥部に立つ「かんざん亭」のテラスから平泉の北の衣川を望むことができる。この高さ100メートルの崖は東西1kmにわたり、平泉建設前には、朝廷と地元の境界だった。奥州の抗争を勝ち抜き平和をもたらした清衡が、政治的な意味で境界だった場所に信仰の拠点を置き、東北の中心としようとしたのだが、平泉を選んだ理由はそれだけではない。奥州藤原氏の政庁とされる柳之御所遺跡が北上川に沿っているように、大河の水運が良い点もあった。その北上川は、南北の物資の交易で巨万の富を平泉に集中させたが、地質に着目すると東西を分ける境目である。東の北上山地は、日本でも特殊な地形をもつ大事な場所だ。(東北大学名誉教授永広(えひろ)昌之さんが解説しておられます。)北上山地はとても古い地層や岩石が多く、北上川の西とは明らかに地質が異なる。2千万年前の日本列島誕生に伴ってできた西側に比べ、東側の北上山地は、1から5億年前の古い地質が広範囲に露出している日本唯一の場所である。そして、こうした古い地質の周辺で砂金が産出した。なぜか。一関市内の猊鼻渓は砂鉄川沿いの峡谷だが、川底にはキラキラ輝く雲母が見える。北上山地の川では、雲母や砂鉄が大量にとれるが、その元は花崗岩だ。北上山地は日本有数の花崗岩地帯で、北上山地に1000から2000あったといわれる金山の位置を地質図と重ねると、花崗岩地帯の「へり」とその周辺に金山が集中しているのが分かる。花崗岩は地下5000メートルほどの深い場所でゆっくり固まって形成され、簡単には地表に露出しない。花崗岩と金鉱脈が隆起と侵食を繰り返して徐々に地表に現れ、雨風で風化して砂金になるのだが、それには長い年月が必要で、非常に古い北上山地は幸いその年月があったのだ。■関連する過去の記事(鉱山など) 大谷鉱山(気仙沼市)(2021年5月4日) 鹿折金山(2021年5月3日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 東北の巨石(10年5月29日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) ハンダの名の由来 桑折町(10年8月7日) 遠野の石の不思議(07年8月28日)■関連する過去の記事(平泉) 判官堂(義経神社)、白山神社、樋爪館(2012年10月28日) いわて・平泉観光キャンペーンのキャラクター(08年9月6日) 高速バス平泉中尊寺号(08年8月4日) 「世界遺産」平泉 新聞はどう報じたのか(08年7月10日) 平泉の終焉 泰衡の実像と義経北行の真実(08年5月26日) 聡明なる藤原第四代泰衡(08年5月19日) 生きよ義経 泰衡と月山神社(08年5月11日) 奥州藤原氏17万騎消滅の謎(08年4月29日) 平泉の優位性を考える(07年11月5日) 発進!平泉を世界へ!(07年9月30日) 義経は出なかった(07年6月24日) 骨寺村荘園遺跡(07年2月26日) 都市平泉の予想図(07年1月28日) 平泉への道(06年1月11日) 義経伝説と東北の歴史ロマン(05年12月8日)
2023.02.19
コメント(0)
上野三碑(こうづけさんぴ)は、国内最古の石碑群で、2017年ユネスコ世界記憶遺産に登録されている。高崎市の鏑川と烏川の合流点付近に、飛鳥・奈良時代に建てられた3つの石碑だ。このうち、多胡碑は、那須国造碑、多賀城碑とともに、日本三古碑に数えられる。・山上碑(やまのうえひ、681年)長利という僧がなき母の黒売刀自(くろめとじ)のため建てた石碑。完全な形で現存する日本最古の石碑。・金井沢碑(かないざわひ、726年)三家氏という一族が先祖供養と子孫繁栄、そして一族が仏の教えで結ばれ、仏に仕えることを誓った石碑。・多胡碑(たごひ、711年)既存の3郡から300戸を割いて新しく多胡郡がつくられた記念に建てられた。書体が美しく書道的価値も高い。上野三碑は3つの事実を伝えている。1つは多民族共生社会の形成。石碑文化はもともと中国から半島経由で伝来したもの。この地域には新羅系をはじめ多くの渡来人が居住しており、石碑もその協力で建立されたと考えられる。2つめは仏教の伝来と浸透。山上碑を建てた長利は、東国を代表する大寺院放光寺の僧であった。また、金井沢碑には三家(みやけ)氏一族が仏教信仰を誓う文が刻まれており、当時の上野国にも仏教が浸透していたことがうかがえる。3つめは日本語の基礎の芽生え。当時の公用文の漢文とは異なる日本独自の表記を編み出す努力が国内で続けられていた。その流れの中で、訓読みした漢字を日本語の語順に並べ替える方法が採用される。そのことがわかるのが山上碑だ。碑の53個の漢字はすべて日本語の語順に並べられており、山上碑はこの表記方法が完全な形で残る最古の石碑である。■参考 『群馬のトリセツ』2020年、昭文社■関連する過去の記事 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 記事リスト古代・中世の仙台・宮城もご覧ください。
2023.01.13
コメント(0)
大船渡線は、竜ののたうつ形状から愛称ドラゴンレール、また鍋の取っ手にも見えて鍋弦(なべづる)線とも呼ばれる。その形成過程はどうだったのか。■参考 今尾恵介『地図帳の深読み 鉄道編』帝国書院、2022年■関連する過去の記事 幻の一関西部鉄道構想(2013年4月24日) 幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その1)(2013年4月19日)(大船渡線がナベヅルになった理由)大船渡線は、一ノ関と摺沢の間が大正14年(1925)7月26日開業、次いで、昭和2年(1927)7月15日に摺沢と千厩の間が開業。その後、同3年折壁まで、同4年気仙沼まで、同10年に盛までが全通している。菅原良太氏(一関市文化財調査委員、東磐史学会会員)によると、この地域の鉄道計画は明治20年代から存在し、最初は一関町と気仙沼を結ぶ磐仙鉄道が摺沢村の有力者らにより創立認可願が明治30年提出されたが挫折。建設促進のハードルを下げる軽便鉄道法の施行を機に、やはり摺沢村の佐藤秀蔵が発起人総代となり明治45年に磐仙軽便鉄道として敷設申請された。このルートは、一ノ関から摺沢は現在とほぼ同じだが、その先は千厩を経由せず、奥玉から折壁に向かうもので、これとは別に摺沢から千厩への支線が計画された。資金難で着工延期を繰り返したのち、大正4年(1915)に免許返納に至る。他方で大正7年に政府鉄道会議で一ノ関と気仙沼間の国有軽便鉄道敷設案が可決される。ここで、摺沢と千厩で誘致運動が盛んになった。原敬内閣(立憲政友会)は、四大政綱のひとつに交通機関の充実を掲げ、新線建設を進めた。大正9年総選挙岩手6区では、立憲政友会新人で摺沢村の佐藤秀蔵の長男佐藤良平が、立憲民政党のベテランで中里村(一関市市街地の北)の柵瀬(さくらい)軍之佐を破る。このことが、摺沢経由を決定したと思われる。ところが、次の大正13年(1924)5月第15回総選挙では、柵瀬が返り咲く。それまで摺沢からほぼ真っすぐ折壁に向かうはずだった線路は、猛運動により千厩経由に変更された。昭和2年7月には摺沢-千厩間が開業するのだが、選挙から開業まで3年という短期間だったのは、かつて工事認可された磐仙軽便鉄道の支線(摺沢-千厩)の設計を流用できたからだろう。今尾恵介氏のこの本には、政治路線の有名な例として、長野県の「大八回り」も紹介されている。中央本線が岡谷から南下して、辰野駅からまた北上して塩尻に至る大きなV字のルートだ。伊那谷出身の代議士伊藤大八が、上伊那郡北端の辰野を経由させたという話だ。実際には、フォッサマグナの困難地質を抱える塩嶺峠にトンネルを掘るのは当時の技術では難しかったためらしい。
2022.12.22
コメント(0)
11月30日、モロッコの首都ラバトで開催されていたユネスコ政府間委員会で、日本が提案した「風流(ふりゅう)踊」の無形文化遺産登録が決定された。24都府県の41の伝統行事が含まれている。東北関係では、下記だ。文化庁資料から。・永井の大念仏剣舞(S55、盛岡市、永井大念仏剣舞保存会)・鬼剣舞(H5、北上市、奥州市、鬼剣舞連合保存会(岩崎鬼剣舞保存会、滑田鬼剣舞保存会、朴ノ木沢念仏剣舞保存会、川西念仏剣舞保存会))・西馬音内の盆踊(S56、羽後町、西馬音内盆踊保存会)・毛馬内の盆踊(H10、鹿角市、毛馬内盆踊保存会)12月3日には、北上市さくらホールで「東北の風流踊~岩手の念仏剣舞」と題したイベントが開催され、下記の7団体が披露したという。岩崎鬼剣舞保存会、滑田(なめしだ)鬼剣舞保存会(以上北上市)、朴ノ木沢念仏剣舞保存会、川西大念佛剣舞保存会(以上奥州市、なお上記4団体が鬼剣舞連合保存会を構成)、永井大念仏剣舞保存会(盛岡市)、西馬音内(にしもない)盆踊保存会(秋田県羽後町)、毛馬内(けまない)盆踊保存会(同鹿角市)。■関連する過去の記事(疫病、民俗、感染症など) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(西馬音内盆踊り、秋田県の民俗) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2022.12.14
コメント(0)
ある本に、自転車普及率(世帯あたり)は埼玉県が全国第一位。首都圏では通勤通学や買い物に自動車を使うことも少なく、また坂も少なく平地率日本一(傾斜度3度以下の土地が58%)が埼玉県、だと。逆に、平地率4%と坂の多い長崎県が最も自転車に乗らない、という。この本は、販売(業者側)または購買(消費者側)の統計を基にしているようだ。通勤通学における自転車の利用状況を確認しよう。以下は、当ジャーナルで、2020年(令和2)国勢調査の「従業地・通学地による人口・就業状態等集計」の「利用交通手段」(表番号17-1)からデータ処理してみたもの。なお、利用交通手段が1種類の場合の「自転車のみ」(1)の数のみならず、2種類の場合の「鉄道・電車及び自転車」(2)と「乗合バス及び自転車」(3)、3種類の場合の「鉄道・電車、乗合バス及び自転車」(4)と「鉄道・電車、勤め先又・学校のバス及び自転車」(5)の合計5項目の数を合計して、通勤者・通学者の数(常住地)に対する比率を算出した。●通勤通学に自転車を使う割合全国では、5715万人の通勤通学者に対して、自転車利用者は751万人で、13.1%になる。(上述の区分での内訳は (1)自転車のみ560万人、(2)150万人、(3)17万人、(4)20万人、(5)3万人 である。)1 大阪府 26.5%2 埼玉県 19.13 京都府 19.04 東京都 18.65 兵庫県 15.56 愛媛県 15.37 広島県 15.08 岡山県 14.39 高知県 14.110 愛知県 13.9大阪府が飛びぬけている。第2位の埼玉県などと内訳を比較してみると、大阪府 利用者99万人 内訳(1)76万人 (2)20万人埼玉県 利用者65万人 内訳(1)43万人 (2)18万人東京都 利用者109万人 内訳(1)75万人 (2)27万人愛媛県 利用者8.8万人 内訳(1)8.1万人 (2)0.6万人となっており、大阪は、埼玉県と比較して、最寄り駅まで自転車のパターンより、自転車一本足打法が相対的に多いと言えるのではないだろうか。ベストテンでは出てこない東北地方は、次の通りだ。26 宮城県 9.2% =利用者10.0万人 内訳(1)7.6万人 (2)1.8万人38 青森県 7.1 = 4.0 (1)3.4 (2)0.339 岩手県 7.0 = 4.0 (1)3.3 (2)0.441 福島県 6.6 = 5.6 (1)4.8 (2)0.642 山形県 6.6 = 3.4 (1)2.9 (2)0.443 秋田県 6.4 = 2.8 (1)2.4 (2)0.2下位は以下のとおり。44 鹿児島県 6.245 新潟県 6.146 沖縄県 3.047 長崎県 2.7沖縄と長崎は極端に利用率が下がっている。
2022.12.11
コメント(0)
何気なく地図を眺めて今更気づいた。岩手の中学生の頃に何かで知ってその名が気になっていた有住中学校は、住田町にある。そうか、住田町は、有住(下有住、上有住)と世田米の合成地名なのか、と。世田米は盛街道の宿場町。また南北方向には、遠野と高田を結ぶ結節点でもあっただろう。種山ヶ原、滝観洞(ろうかんどう)は子どもの頃に連れていかれた。
2022.12.10
コメント(0)
宮古や釜石は、本州でも日の出が早い地点だ、と思っていた。というより、日の出日没の時刻は、経度に従い、同じ経度なら同じだろう、と単純に思っていた。それは誤りだ。地球が太陽を回る公転面に対して、地軸は鉛直ではなく傾いているからだ。なるほど、その証拠に極地だと白夜や極夜がある。夏と冬では、太陽が上がる場所がかなり異なる。小学生の頃なら、回帰線の意味などと合わせて理解していたのかもしれないが、年取るとだめだね、物事をちゃんと考えないようになってしまう。さて、元旦の時点でいうと、日本の日の出(初日の出)は、南鳥島が最も早く(5時27分、2020年の場合)、本土の平地では犬吠埼が最も早い(6時46分)。しかし、高低差も考えねばならず(200m高いと1分早まる)、富士山頂は6時42分で本土で最も早くなる。東京スカイツリー展望回廊(453m)も犬吠埼と同じ頃になる。ここで、北海道の東部や、本州でも宮古市など三陸海岸は犬吠埼より経度(東経)は高い(東にある)のだが、犬吠埼の日の出が早いのだ。地図上に、日の出時刻ラインを引くとすれば、経度に対して、右(東)上から左下に斜めに緩い弧を描くだろう。仙台市(市役所140°52’)は東京都心部(都庁139°41’)より東なのだが、初日の出は遅くなるようだ。しかしこれは、正月を含む冬のケースである。夏は逆になる。仙台は東京よりかなり早く夜が明けるのだ。札幌市(市役所141°21’)はもっと早くなるのは当然だが、仙台市より西にある青森市(市役所140°44’)なども仙台市よりだいぶ早い。本州最東端の宮古市の日の出が、結局どうなるかというと、次のとおり(2022年の場合)。夏と冬では、日の出の早い遅いに地域間で逆転現象が出るのだ。日付宮古市仙台市秋田市千代田区1月1日(元旦)6:526:537:006:506月21日(夏至)4:044:134:114:2512月22日(冬至)6:496:496:576:47
2022.12.04
コメント(0)
山形県の棚田カレーが記事になっていた。今朝の河北新報。ご飯を盛り付ける「型」を県内の飲食店に無料で貸し付けるという、面白い取組。各地の棚田米を使うのが条件で、カレーの具やおかずにも地元の食材をつかってもらう。記事によると(多少のネット情報も加味)、2年前に、棚田に観光客は来ても、農家がもうからないという生産者の声をきいた山形県庁の農村計画課の担当者が、ダムカレーがあるなら棚田カレーにしてもいいだろうと発案したという。そして、本気を出したのだろう、すごいのは、企業に委託してドローンで朝日町の棚田を実際に撮影、そのデータを基に3Dプリンターでライスの型を作る。樹脂の14戸を製作。ご飯を畔に見立てて、田んぼに水を張るようにルーを乗せる。今年の2月から山形県庁の食堂や遊学館で提供して人気を博した。今月29日から再び県庁食堂で販売(780円)。山形県内には国県の認定する棚田が24箇所。耕作放棄による荒廃が懸念される。このような本気の取組が、生産者の方々の勇気になればと思う。大いに広まってほしい。自分も食べることで参画したい。■関連する過去の記事 棚田遺産(2022年2月16日) 山辺町(画像は大蕨の棚田)(2015年6月21日) 大蕨の棚田と地方創生(2015年3月7日) 日本の棚田百選 椹平の棚田(08年9月11日)(山形県以外の棚田の記事もあります。フリーページの記事リストを参照ください。)
2022.11.26
コメント(0)
ずっと気になっていた。三山線について。2005年の秋、鶴岡への旅の途中、寒河江のチェリーランドの後、西川町に入り、国道沿いの酒蔵資料館で屋外展示されている電車を、まだ小さかった娘たちと眺めた。中に入れたような気がする。その2年後に、本の表紙をみて記憶がよみがえり、あれはかつて当地を走っていた三山線の車両と知ったのだった。(下記の記事をご参照ください。)自転車道などに転用されたらしい三山線のルート、また、終点の間沢駅跡はどうか、など気になっていたのだが、先日、ついに現地を訪問できた。山菜そばで有名で、お昼時に多数の行列ができていた出羽屋さんの道路向かいに、碑があった。その碑の南側にバス待合所(月山観光タクシー、月山観光開発などと標記)があって、脇で洗車(写真の軽自動車)している人に聞いてみた。駅は待合所の建物のある場所にあったのだそうだ。その方も、小さい頃の記憶としてにぎわっていたんだ、と。線路は、出羽屋さんの向かいの商店(黒坂商店、ヤマザキショップ)の南側(広いスペースで駐車場になっている)を手振りで示して、こう走っていたんだろうな、と説明してくれた。(上の写真の奥に見えるのが待合所。撮影地点付近がレール敷地になるのでしょう。)つまり、出羽屋さんに面した道路に並行する感じで(黒坂商店を挟んで)寒河江方面から線路が来て、現在待合所のある駅舎に繋がっていた。待合所の建物の北側は道路に面して広場になっていたから、駅前広場だったのだろう。その片隅に碑があるのだ。(写真では、待合所の右側になります。)事前に周囲を散歩してみた私が、山形銀行の裏に広いスペースがあって立派な石碑などありましたが、あそこも軌道跡ですか、などと聞いてみたら、何、どこだって、と逆に聞かれた。大きな道を寒河江方向に向かうと、並走していた軌道跡と思われる自転車道。酒造記念館に17年ぶりに立ち寄る。建物の中には、三山線の資料が展示。そして、屋外の電車はこうなっていた。かなり前に来た時に子どもたちと中に入った記憶がありますけど、と記念館の人に聞いたら、部品もなくて修繕むずかしい、しかし、500万円で買い手がついているのだそうだ。設楽酒造店の一声(ひとこえ)純米原酒を一本買った。帰宅後に飲んだら、とてもまろやかな味だった。■関連する過去の記事(西川町関連) 五色沼、志津温泉、清水と苔の西川町(山形県西川町)(2022年10月27日) 朝日軍道(2016年4月3日) 山形で一番寒い大井沢の「ゆきんこ祭り」(2016年1月7日) 出羽三山(2010年12月7日) 大井沢の大栗(10年4月13日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 月山トレッキング(07年10月20日)■関連する過去の記事(山形と鉄道) 奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(2022年10月17日) 長井線の踏切たち(2016年5月4日) 山形鉄道フラワー長井線に乗る(2016年5月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日)
2022.10.29
コメント(0)
紅葉も終わりかけた休日、西川ICを降りて西進、道の駅にしかわ(月山銘水館、水沢温泉館)を訪れた。施設の中に、「癒しの極 苔」と銘打ったコケの展示があり、そのわきの壁に、手書きで下記のような説明書きが貼られていた。西川町は水の豊かな空気の綺麗な町です。地名には、<水沢><大井沢><沢口><姥沢><岩根沢><間沢>等が有ります。水が豊富で冷涼な気候が多くの苔を育んでいます。また、町民の名字に志田さんが多く、人口当たり全国第1位です! 志田さんの名字の由来は植物の羊歯、シダからきています。西川町には、シダも沢山あります。ワラビ、ゼンマイもシダの仲間です。その後、月山湖で国道を北に入り月山方面に上り、弓張平公園を突き抜けて、志津温泉に足を延ばす。五色沼を眺めた。ほとりに看板があり、次のように説明がある。出羽三山信仰のみち「六十里越街道」における志津地区 戦国時代、最上義定・義光と庄内〔2字省略〕の抗争により、戦のための軍馬が六十里越街道を往還していました。また、最上氏と上杉氏の戦いにおいて、「上杉の庄内勢が六十里越から攻めて来て志津に乱入した」とされています。中世における志津地区は、庄内との交通の要所であり、食糧の中継地点だったと考えられます。 江戸時代に入り、平穏な時代となった慶長16年(1611)、行人が山賊に襲われる事件が起きました。領主最上義光は、現在の志津の地に番所を設け、番人を常駐させ治安の維持を図りました。番人は14名で、後の志津村14軒の起りとなりました。志津村の成立は、最上氏改易後の元和9年(1623)から寛永10年(1633)の間と推測され、寛永一揆「白岩目安状」には、志津村の名称があります。 本来、ここ志津は、湯殿山別当本道寺、大日寺の両寺が維持管理する休み茶屋としての役割を担い、大井沢口、本道寺口から登拝する際や、羽黒口から下山した行者らが、立ち寄ることが一般的でした。幕末後は、本格的に旅篭屋として機能することになり、出羽三山に向かう参詣の道中に位置し、庄内への取次場であることからも、出羽三山信仰の要所と考えられています。分校跡なのだろうか、街道から五色沼に張り出したようなエリアは、苔が一面を美しく緑を演出。多くの碑があるが、中でも新しい石碑は、「東日本大震災復興祈願 湯殿玄海古道登拝記念碑」とあり、側面には、「月山志津開村四百年記念行事 平成二十三年十月吉日建立」。「主催」として並んで刻まれている「西川町志津町内会 会長」と「月山志津温泉旅館組合 組合長」のお名前はいずれも「志田」さんだ。そのあと、道を降りて、国道に戻るすぐ手前にある路傍の黒いタンク「月山沢の湧水」に立ち寄る。町の中心部に向かい、西川町内(間沢)の出羽屋。行列ができていてものすごい人気のようだ。しばらく待って、旅館の中に通していただき、山菜そばをいただいた。■関連する過去の記事(西川町関連) 朝日軍道(2016年4月3日) 山形で一番寒い大井沢の「ゆきんこ祭り」(2016年1月7日) 出羽三山(2010年12月7日) 大井沢の大栗(10年4月13日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日) 月山トレッキング(07年10月20日)
2022.10.27
コメント(0)
山形県内のあるイベントでブースが出ていた。グッズ(ウェットティッシュ)とともに、パンフレットをいただいた。以下に概要を書き出そう。(表紙)フル規格新幹線の早期実現を!やまがた創生の基盤となる 奥羽 羽越新幹線フル規格新幹線山形県奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(裏表紙)皆さんの力を結集し 奥羽・羽越新幹線を早期に実現しよう!奥羽新幹線・羽越新幹線は、本県に新たな活力を呼び込み、将来に渡る自立的な発展をもたらす重要な社会基盤となるものです。本県の将来を担う若い世代のためにも、今こそ、地域が一丸となって、奥羽・羽越新幹線の実現に向けた道筋をつけていく必要があります。山形県奥羽・羽越新幹線整備実現同盟(事務局:山形県企画振興部総合交通政策課)(左下隅に、2020.02 とプリントされている。)(内容から抜粋)1 今こそ求められるフル規格新幹線・震災で再認識された日本海国土軸の重要性(東日本大震災で折れ曲った仙石線の車両が写真で紹介されている。)・地方創生の基盤となるフル規格新幹線(ミニ新幹線の山形新幹線は福島-新庄の在来区間で130kmしか出せず運休遅延も多い、と説明されている。)2 奥羽新幹線・羽越新幹線・奥羽新幹線(福島市-秋田市)、羽越新幹線(富山市-青森市)は昭和48年に全国新幹線鉄道整備法に基づき政府の基本計画に位置付けられたフル規格の新幹線構想。・フル規格によって見込まれる効果は、所要時間短縮、交流人口拡大、地域産業活性化、安全安定輸送。・(JR東日本の事故件数のグラフがあり、在来線(平成30年で1466件)に対比して、新幹線は圧倒的に少ない(平成30年で33件)と示されている。)3 奥羽新幹線・羽越新幹線の整備に向けて・期待される昭和48年組の整備(昭和47年に基本計画に位置付けられた路線=北海道、北陸、九州など=はほぼ完成に目処がついてきた。昭和48年に基本計画に位置付けられた路線=四国、山陰、東九州など=も次の整備を目指した取組が開始された、と説明されている。)・山形県では、オール山形の組織「山形県奥羽・羽越新幹線整備実現同盟」を平成28年に立ち上げた。奥羽・羽越新幹線ルートイメージ奥羽新幹線(福島市-山形市-秋田市)フル規格新幹線が実現すれば 東京-米沢 約1時間30分 東京-山形 1時間台 東京-新庄 約2時間30分羽越新幹線(富山市-新潟市-秋田市-青森市)フル規格新幹線が実現すれば 東京-酒田 約2時間40分山形新幹線の福島-米沢間のトンネル整備構想山形新幹線の運休遅延が多いこの区間に、JR東日本からは、全長約23kmのトンネルを整備する構想が示されている。本同盟では、将来のフル規格新幹線実現の足がかりとして、トンネル早期事業化に向けて取り組みを進めていきたい。サイト:奥羽・羽越新幹線整備実現同盟■関連する過去の記事 庄内と秋田の新幹線延伸構想(2015年4月14日) 山形の鉄道建設熱を考える(続)(07年1月3日) 山形の鉄道建設熱を考える(07年1月2日)
2022.10.17
コメント(0)
全1209件 (1209件中 1-50件目)