仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.11.26
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カテゴリ: 仙台
伊達者ぶりハイライトは文禄元年(1592年)3月17日、政宗率いる伊達軍が、聚楽第を出て洛中を奇抜な服装で行軍した時だ。秀吉の半島出兵に第一次出兵(文禄の役)として参加したのだ。

伊達勢の装束の艶やかさと威容は目を見張るばかりだ。先頭は竹に雀の大軍旗。紺地に金の日の丸を染め抜いた30本の幟が続く。鉄砲、弓、槍の足軽は1メートルの金のとんがり笠、具足には黒漆の地の前後に金星。櫂棒形にかたどった刀の鞘は銀と朱。騎乗した武将は色鮮やかな甲冑に身を包み、母衣は黒で統一、後ろには金色の半月印、太刀は黄金、馬には豹・虎・熊の皮の馬鎧を着せ、尻尾にも飾り物。

世に「伊達者」の名を知らしめた一件だ。人を驚かすのを好む政宗の性格がなせる業、ともされるが、真の理由は別だった。

大陸進出は、関白を秀次に譲り前年太閤となった秀吉の誇大妄想によるもので、号令を受けた全国の大名も内心は呆れていた。第一次の遠征軍はともされるが、前年に関白を秀次に譲り太閤となり、野望だった大陸進出を決意する。一番隊は前田、次いで徳川、政宗が三番隊、佐竹が四番隊。

政宗も朝鮮出兵には反対だった。葛西・大崎を鎮圧し、居城も岩出山に移ったばかりで、知行割りや新田開発など課題山積で海外出兵どころでない。しかし太閤に逆らえない。

そこで一計を案じたのだ。政宗は考えた。朝鮮の戦は厳しいだろうから、なるべく渡海は遅い方が得策だ。おそらく先陣は太閤子飼いの大名。行くならば、大勢の固まった二番手、三番手が良い。なるべく遅くするには、太閤の随行軍に組み入れられるのが良かろう。太閤が渡海するのは勝ったときに違いない。打撃も少ないはずだ。太閤の随行軍に入るためには、派手好みの太閤の目にとまり関心を勝って、長く日本にとどまることだ、と。

政宗は、1500名の軍勢を派遣せよとの秀吉の命令に対して、倍の3000の軍勢で岩出山を出発したのだ。そして、秀吉は奇抜な伊達軍の装束に大いに満悦、渡海の際は自分に同行させて中国軍に一泡吹かせようと考えたか、前線基地の名護屋城では予備軍として本営に留めて親衛隊のように扱った。この点で政宗の策略は的中したのだ。

派兵は4月の第一軍から始まるが、政宗も翌文禄2年(1593年)4月に上陸し善戦するが、風土病で桑折政長と原田宗時を失う。8月に秀吉は帰還を命じ、政宗も9月に京都に戻り、文禄4年(1595年)4月にやっと岩出山に戻る。

単に蛮勇をふるい派手さを好むだけではない、知略家としての政宗の深謀が伺える。伊達の真骨頂とは、まさにこのことなのかも知れないと思う。



■川村昭義『青雲の彼方 伊達政宗』北燈社、2001年

なお同書では、母の東の方(義姫)との宴席で毒を盛られた件(天正18年(1590年)4月5日)について、政宗の芝居だったとの説を提示している。弟小次郎には母の陰謀と告げて斬殺し、母には、小次郎を担ぐ一派が秀吉と通じて政宗を亡き者としようとしたのだ、幼い小次郎は事を理解し立派に最期を遂げた、このことは一切他言無用に願う、などと説明した。政宗が秀吉の催促に応じて会津黒川城から小田原に参陣する直前のこのとき、後陣に憂いをなくすための自作自演だった、というのだ。

一般にはこの毒殺未遂事件は、東の方が、輝宗銃撃など粗暴な政宗を疎んじ、また小次郎可愛さと伊達家内安定のために、あるいは実家の最上義光に唆されて、毒を盛らせたのだとされる。小田原行きについては家中でも意見が分かれ、秀吉によってお家取り潰しとされるより政宗を廃して小次郎を跡目に立てようと、反政宗派の声が強まったのかも知れない。

川村氏は文書から伺える母子の情愛などをもとに検証し、義姫陰謀説を打ち消していく。伊達治家記録などに残される義姫説は、藩祖政宗のイメージダウンを防ぐ編者の作為でないかと指摘する。

同年6月9日。小田原石垣山で初めて秀吉に謁見した政宗は、白装束に身を包み、卑屈なまでに平伏して見せた。秀吉は杖で政宗の首筋を叩いて見せ、もう少し遅かったらここが危なかったぞと、語った。

表向きはこれが政宗と関白の初対面だが、実は数日前に、家康の仲介で秘かに対面した。その場で家康は正式な対面の際の振る舞いについて政宗にヒントを与えたという。政宗は意を解し、正式対面の場ではひたすら派手に秀吉に平伏して見せた。奥州の独眼竜が諸将の眼前で恭順の意を示している。秀吉もよろこび、芦名攻略と遅参に対する処分は寛大なものとなった。

政宗は、秀吉に首を叩かれながらも内心は勝ったと思っただろう。小道具になるときは徹底してなり切る。秀吉、家康と対峙し、かつこれらを取り込みながら、人間力と知謀を豊かにしていったのだ。

天正19年(1591年)には、大崎・葛西の一揆を扇動したとして上洛命令に受け、白の死装束に身を包み磔柱を先頭に立てる奇抜な格好で京都を歩いた。聚楽第の裁きの場での、鶺鴒の花押の言い訳は有名だ。秀吉は、政宗が一揆と通じたことは十分知った上で、政宗の知略に舌を巻き、放免するしかなかった。まだまだうまく使えるとの配慮もあったろう。

豪快で粗暴、しかし緻密で知略豊か。幼少の頃は人と会うのを嫌がる赤面症、長じては一流の文化人。藩祖政宗公のこの奥深さこそ、伊達者の真髄でなかろうか。

■関連する過去の日記
 ○  伊達文化の誇り 伊達政宗の度量





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最終更新日  2006.11.26 15:21:33
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