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山形県の高校再編を記したが、続けて岩手県の場合について。先日、水沢高校と金ケ崎高校の統合が見出しとなる再編計画の新聞報道があったことが、記憶に新しい。■関連する過去の記事 致道館高校と山形県立高校再編(2025年08月26日)岩手県教育委員会の公式サイトから、以下に要約する。第3期県立高等学校再編計画(当初案)が、8月6日公表され、意見募集に付されている。そのポイントは次の通り。・期間 前期~R12、後期~R17・中学卒業者 R7 9,715 → R17 6,839 → R21 5,310・学校数 R7 59 → R17 44~48・学級数 213 → 142~163・募集定員 8,250 → 5680~6520・前期(-R12)の主な再編(以下。学級減除く、募集停止は一部だけ)・盛岡地区 盛岡工業R12校舎移転・中部地区 遠野緑峰R11遠野と統合、黒沢尻工R9半導体に学科改編・県南地区 金ケ崎R10水沢と統合、杜陵奥州は金ケ崎に校舎移転、一関一R11探求に学科改編・沿岸南部 高田R10水産募集停止・宮古地区 宮古商工・宮古水産R9校舎一体整備・県北地区 久慈翔北R10水産系列選択停止・後期(R13-17)の予定 県南工業の新設(←水沢工、一関工)、盛岡地区で大規模な統合を予定、など発表されているものは「当初案」と冠しているが、最終案を来年2月に取りまとめるのだという。最近の報道では、8月25日に奥州市で行われた住民意見交換会では、金ケ崎高校の存続を求める声があがった。26日の奥州市役所江刺庁舎で行われた首長等との検討会議では、金ケ崎高校に加えて、大東高校商業ビジネス科募集停止(R9)にも異論が出たという。かつての大原商業高校の流れなのだろう。地域における生徒たちの選択の機会が狭まる、または、活気がなくなって人口減少に拍車をかけるという心配は非常によくわかる。しかし他方で、多数の欠員が出ている現実や、施設維持や教員配置を含めた高校運営コストも冷静に考えなければならない。一番考えるべきは、学校は生徒のためのものだから、生徒にとって最も良い学校づくりの視点だろう。
2025.08.27
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先日新聞記事を見ていて驚いた。致道館高校の名を見つけたからだ。再編で生まれたという。後で調べてみたら、昨年(2024年)開校。いずれも伝統校の鶴岡南高等学校と鶴岡北高等学校を統合し、さらに県立の併設型中高一貫校として県立致道館中学校を併設している。校名は言うまでもなく庄内藩校にちなんでいる。山形県の高校再編の全体像を見てみよう(山形県教委公式サイトから)。・県立高校再編整備基本計画(平成26年策定、令和6年一部改訂)・学級数(東西南北の4学区の全体) (H26)203 → (R6)171・中学校卒業者数 (H26)10,850 → (R6)8、918・主な再編(以下。学級減など除く)・東学区 キャンパス制(寒河江+谷地、寒河江工+左沢)・北学区 キャンパス制(新庄北+最上、新庄南+金山、神室+真室川 楯岡→東桜学館(中高) 再編整備:R6新庄神室産業(←新庄南商業科)、R8新庄高校(←新庄北と新庄南)、R9定時制昼間移行・南学区 キャンパス制(長井工+荒砥) 再編整備:R7米沢鶴城(←米沢工と米沢商)、R8定時制昼間移行・西学区 キャンパス制(鶴岡南+山添) 再編整備:R4庄内総合、R6致道館中・高(←鶴岡南と鶴岡北)、鶴岡中央・加茂水産・庄内農業は統合と校舎制導入を検討致道館高校は、普通科5学級、理数科2学級。7クラスは、酒田光陵(普通科2、工業3、商業2、情報1)に次いで県内2番目の規模だ(ほかに山形市立商業も商業科7クラス)。
2025.08.26
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昨日の記事(よみがえる東北の廃線たち(2025年08月19日))で触れたが、元祖高速バスにしてBRTの原型ともされる白棚線のいまを調べてみた。ジェイアールバス関東のサイトから時刻表(2025年4月改正)を見ると、以下のようだ。●棚倉方面・1日15本(うち4本は土日祝運休)・始発のダイヤ (始点)白河駅発610→(主な停留所)白河高校、新白河駅、南湖公園、実業高校前、白河東工業団地、表郷庁舎前→磐城棚倉駅702→(主な停留所)棚倉小学校前、修明高校前→(終点)祖父岡710・運行パターン 15本のうち、(1)5本が白河駅発→磐城棚倉駅 (2)朝と午後の6本(上記の始発便も)が、白河駅発→祖父岡 (3)遅いダイヤ4本は、始発が旭町二丁目で、旭高校、中央中学校などを経て白河駅以降は同上で、終点は祖父岡。ただし、最終便は終点が磐城棚倉駅どまり。・最終便ダイヤ (始点)旭町二丁目1920→(主な停留所は旭高校、中央中学校)→白河駅発1930→(終点)磐城棚倉駅2022●白河方面・1日15本(うち4本は土日祝運休)・始発のダイヤ (始点)磐城棚倉駅610→(終点)白河駅703・運行パターン 1日5便が磐城棚倉発。10便は祖父岡発。終点はほとんどが白河駅だが、2つ変則があり、一つは白河駅の先を旭町二丁目(終点、750)まで行く便、もう一つはルートが違って、旭町二丁目、白河駅、新白河駅(終点、802)の順番の便。・最終便ダイヤ (始点)祖父岡1900→白河駅2000■関連する過去の記事(白棚線) BRTの元祖 白棚線(2024年01月09日) 水郡線に敗れた白棚線(2016年2月6日) バス専用道路の白棚線(07年9月16日)■関連する過去の記事(廃線)よみがえる東北の廃線たち(2025年08月19日)(青森県) 下北駅と田名部駅(2015年8月9日) 下北交通大畑線の廃線跡に立つ(2013年7月1日) 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その2)(2013年6月19日) 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その1)(2013年6月18日) 芦野公園と津軽森林鉄道(2013年6月4日) 下北半島の森林鉄道(2013年5月6日) 南部縦貫鉄道を考える(2013年3月10日) 南部鉄道(五戸鉄道)を考える(2013年3月8日) 三農高前(2012年9月3日) 悲運の南部縦貫鉄道(2011年12月5日) 鉄道めぐりツアーと七戸のレールバス(10年3月29日) 南部縦貫鉄道(09年3月21日)(岩手県) 軌道の栄えた花巻(2016年2月8日) 岩泉線を考える(10年8月1日)(秋田県) 横荘線(2015年7月8日) 喜久水酒造のトンネル貯蔵(2014年11月27日) 小坂鉄道レールバイク(2013年9月14日) 石川好の秋田鉄道復活私案(2013年4月9日) 横荘鉄道構想(07年11月25日)(山形県) 三山線最後の写真(2023年11月19日) 三山線の名残りを探して(西川町)(2022年10月29日) 尾花沢線の歴史(10年5月9日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日)(福島県) BRTの元祖 白棚線(2024年01月09日) 水郡線に敗れた白棚線(2016年2月6日) バス専用道路の白棚線(07年9月16日)(宮城県) 長町に操車場があったころ(2023年05月03日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日) 東北須磨駅(2016年1月29日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) くりはら田園鉄道のレール(07年10月27日) くりでんメモリアル乗車(07年2月15日)(宮城県 鉄道敷設など) 旧山線の根廻トンネル(松島町)(2025年03月11日) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)=仙台鉄道中新田駅の跡 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)(仙南温泉軌道、永野駅) 長町に操車場があったころ(2023年05月03日) 角田と鉄道の歴史(2022年5月1日) 新生富谷市はなぜ「駅なし鉄道なし」なのか(2016年10月10日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日) 仙山鉄道 3つのルート(2015年2月13日) 小原新道と白石人車軌道(2014年8月8日) 松山人車と白石人車軌道(2014年8月7日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) ガソリンカーと仙台(2012年11月5日)(行人塚に駅があった) 茂庭のトンネル(2010年11月25日) 山田自由ヶ丘のバス専用道(2010年11月24日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 鉄道廃線跡を歩く楽しみ(06年11月22日)
2025.08.21
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廃線の跡をどう活用しているか。東北の状況について。■「旅と鉄道」編集部編『配線探訪入門:鉄道の面影を探しに廃線スポットをめぐる旅へ』山と渓谷社(旅鉄BOOKS 019)、2019年 (第3章 旅に出たい廃線スポット から東北エリア)●南部縦貫鉄道 2002年8月1日廃止/シンボルだったレールバスが健在/ 七戸駅跡にはホームや線路が残り、南部縦貫鉄道のシンボルともいえる生え抜きのレールバス、キハ101、DB11ディーゼル機関車の計4両が動態保存。毎年ゴールデンウィークに体験乗車イベントが行われている。●くりはら田園鉄道 2007年4月1日廃止/旧検修庫は「くりでんミュージアム」/ 栗原電鉄時代の名残だった架線柱は撤去されたものの、線路のほとんどは残されている。若柳駅跡は栗原市が「くりはら田園鉄道公園」として整備し、約500mの区間でKD95、KD11気動車による動態保存を実施。旧検修庫は「くりでんミュージアム」となった。●下北交通大畑線 2001年4月1日廃止/キハ22形が国鉄時代の塗色に復元/ 車両基地が置かれた大畑駅跡の車庫や線路を活用して、キハ85系(旧・国鉄キハ22形)2両、10tディーゼル動車、ヨ8000形車掌車の動態保存が行われている。このうちキハ22-150は国鉄時代のオレンジとクリーム塗色が復元され、懐かしい雰囲気を醸し出している。●山形交通高畠線 1974年11月18日廃止/石造りの駅舎や電気機関車を保存/ 廃線跡はサイクリングロード「まほろば緑道」として整備され、レンタサイクルでたどれる。昭和初期に地元産の高畠(瓜割)意思で造られた重厚な旧高畠駅舎は国の登録有形文化財。ホーム跡にはED1電気機関車、ワム201貨車、モハ1電車が静態保存されている。(第4章 復活するロストライン から東北関係)●南部縦貫鉄道 古典的レールバスは今も健在!/懐かしの走行シーンの再現も/ レールバス・キハ10形気動車が最後まで活躍した南部縦貫鉄道。車両は動態保存された旧七戸駅構内で一般公開されている。主催・七戸町観光協会。年数回ながらイベントも開かれる。●岩泉線 かつての過疎路線がアイデアで復活!/自転車改造車両が山里を駈ける/ 2014年廃止。自然災害をきっかけにバス転換。沿線の羽井内刈屋地域振興会が2016年1月に岩泉線レールバイクの運航を開始。JR東日本から譲渡を受けた線路などを宮古市から無償で借り入れたもので、旧羽井内~旧中里間をレールバイク鞭牛(べんぎゅう)号で往復走行を体験できる。●小坂鉄道 2009年廃線のあと、2014年に小坂鉄道レールパークがオープン。営業当時の駅舎や線路を展示。全国でも数少ないディーゼル機関車の運転体験ができる施設として注目を集める。徒歩圏内には、鉱山関連の国重要文化財である小坂鉱山事務所や康楽館など、明治から現代までの歴史を感じられ町全体がまるごとテーマパークのようだ。2016年には「ブルートレインあけぼの」宿泊営業がグランドオープンし、動態保存されているブルートレインに宿泊できることでさらに注目が集まった。・ディーゼル機関車運転体験・小坂町赤煉瓦倶楽部(カフェ)(旧小坂鉱山工作課原動室(電気室)を移築)・レールバイク 4人乗り・観光トロッコ(除雪に使用されたTMC200形モーターカーで牽引する)・奈良岡屋、ホルモン幸楽小坂店・列車ホテル。ブルートレインの保存車両として国内唯一動態保存されている。朝食はJR大館駅の名物駅弁「鶏めし」を開放式B寝台で食べられる。(第2章のうち「歩ける廃線跡」から 東北関係)●日中線 1984年4月1日廃止/長大路線への夢ついえた”第1級ローカル線”/ 日中線は喜多方を起点に熱塩まで結んだ非電化路線。晩年は3往復の客車が朝夕に細々と運行。一方で、本州最後の蒸気機関車牽引の定期旅客列車が走る路線としてファンが詰めかけた。もとは、今市と米沢を結ぶ野岩羽(やがんう)線の一部として計画され、その夢は喜多方で途切れた。廃線跡の3kmを日中線記念自転車道として整備。終点の熱塩駅跡は良好な状態で保存されている。●白棚線 1944年12月11日廃止/BRTの先輩格として歴史を刻む/ 白河と磐城棚倉を結ぶ白棚鉄道として1916年愛行、経営難から国有化のあと戦況悪化で休止。 廃止後は路線バスが沿線の足を引き継ぐのが一般だが、白棚線はかつての路盤をバス専用道に転用したバス路線として復活したユニークな事例。現在はジェイアールバス関東の白棚線として運行。途中駅での上下行き違いなど鉄道さながらの情景がみられる。時代を経て、バス専用道は、三森~表郷庁舎前と磐城金山~関辺間に縮小している。■関連する過去の記事(青森県) 下北駅と田名部駅(2015年8月9日) 下北交通大畑線の廃線跡に立つ(2013年7月1日) 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その2)(2013年6月19日) 青森市森林博物館と津軽森林鉄道(その1)(2013年6月18日) 芦野公園と津軽森林鉄道(2013年6月4日) 下北半島の森林鉄道(2013年5月6日) 南部縦貫鉄道を考える(2013年3月10日) 南部鉄道(五戸鉄道)を考える(2013年3月8日) 三農高前(2012年9月3日) 悲運の南部縦貫鉄道(2011年12月5日) 鉄道めぐりツアーと七戸のレールバス(10年3月29日) 南部縦貫鉄道(09年3月21日)(岩手県) 軌道の栄えた花巻(2016年2月8日) 岩泉線を考える(10年8月1日)(秋田県) 横荘線(2015年7月8日) 喜久水酒造のトンネル貯蔵(2014年11月27日) 小坂鉄道レールバイク(2013年9月14日) 石川好の秋田鉄道復活私案(2013年4月9日) 横荘鉄道構想(07年11月25日)(山形県) 三山線最後の写真(2023年11月19日) 三山線の名残りを探して(西川町)(2022年10月29日) 尾花沢線の歴史(10年5月9日) 山形交通三山線の電車モハ103(07年11月23日) 三山線とサイクリングロードのこと(07年10月21日)(福島県) BRTの元祖 白棚線(2024年01月09日) 水郡線に敗れた白棚線(2016年2月6日) バス専用道路の白棚線(07年9月16日)(宮城県) 長町に操車場があったころ(2023年05月03日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日) 東北須磨駅(2016年1月29日) 定義森林鉄道(2011年9月11日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) くりはら田園鉄道のレール(07年10月27日) くりでんメモリアル乗車(07年2月15日)(宮城県 鉄道敷設など) 旧山線の根廻トンネル(松島町)(2025年03月11日) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日)=仙台鉄道中新田駅の跡 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日) 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)(仙南温泉軌道、永野駅) 長町に操車場があったころ(2023年05月03日) 角田と鉄道の歴史(2022年5月1日) 新生富谷市はなぜ「駅なし鉄道なし」なのか(2016年10月10日) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 石巻線と金華山軌道(石巻-女川)の歴史(2016年2月6日) 仙山鉄道 3つのルート(2015年2月13日) 小原新道と白石人車軌道(2014年8月8日) 松山人車と白石人車軌道(2014年8月7日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) ガソリンカーと仙台(2012年11月5日)(行人塚に駅があった) 茂庭のトンネル(2010年11月25日) 山田自由ヶ丘のバス専用道(2010年11月24日) 太白トンネル(シリーズ仙台百景 32)(2010年11月23日) 鉄道廃線跡を歩く楽しみ(06年11月22日)
2025.08.19
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葛西氏はどこに行ったのか。下記の文献から。■江田郁夫編『秀吉の天下統一 奥州再仕置』勉誠社(アジア遊学294)、2024年 より、泉田邦彦「葛西・大崎一揆と葛西晴信」による1 奥州仕置と再仕置天正18年、小田原北条氏を滅ぼした秀吉は、翌8月には会津黒川に下向し、破城、刀狩、検地を強行するいわゆる奥州仕置を行う。奥羽ではこれに反発する一揆が各地で起きた。しかし、豊臣政権やその意を受けた伊達政宗により、鎮圧され、天正19年秋までに奥州再仕置がなされて、豊臣政権の全国支配が実現された。2 一揆と葛西氏の動向小田原攻めには、政宗が天正18年6月に参陣したのに対して、葛西晴信は不参だった。7月上旬に米沢城に戻った政宗は、7月23日に秀吉を出迎えに宇都宮に出発する。その前日の7月22日付で、葛西晴信、一族で桃生郡山崎館主(石巻市相野谷)の葛西流斎(重俊)、栗原郡三迫の富沢日向守(葛西一門)に宛てた3通の政宗書状があり、晴信は使者を遣わしていた。政宗は、晴信には、奥州の仕置は政宗に仰せつけられたことをよく考慮すべきと、また、流斎には、晴信が伊達氏へ一統に属するよう働きかけを求めた。奥州仕置以前の段階で、流斎、冨沢日向守ら葛西氏の一族・重臣は伊達氏とも気脈を通じていた。天正18年7月下旬の宇都宮仕置で、葛西、大崎、和賀、稗貫各氏の知行召上げは決定した(小林清治はこれを奥州仕置の第一段階と位置付け)、同年8月から10月にかけて、北上川中下流域の葛西領(牡鹿、桃生、本吉、登米、磐井、江刺、胆沢、気仙郡)では、豊臣政権による破城、刀狩、検地が進められた。浅野長吉、石田三成が主体となった検地、刀狩を経て、葛西・大崎旧領は、木村伊勢守吉清、弥市右衛門吉久の父子の手にわたり、吉清は登米城、吉久は古川城に入城した。旧臣たちは従来の居城と武士身分を剥奪され、農村に年貢のほか伝馬役や人足が課せられた。加美郡米泉(加美町)では、伝馬の負担を不満として大崎旧臣や百姓が隠し持っていた刀を取り出して、30人余りが中新田で磔にされたという。各地の城主は上方から召し連れられた者に置き換わり、年貢や妻子等を奪い取るなど無道の仕形であった(貞山公治家記録)。旧臣等の一揆は、胆沢郡柏山(金ケ崎町)、気仙郡、磐井郡東山、玉造郡岩手沢(岩出山)で立て続けに起き、各地へ波及した。一揆勢は10月16日には、佐沼城に吉清、吉久父子を包囲することに成功する。注目すべきは、一揆蜂起直後に出された(10月23日付)宛て所を欠く(晴信家臣宛てと推定)政宗の書状で、政宗が木村吉清を助けるべく一揆鎮圧の助力を晴信に依頼したこと。他方、蒲生氏郷が政宗に宛てた書状では、一揆鎮圧に励むなら晴信の所領安堵を秀吉に取り次ぐ意を示したとみられ、また政宗も晴信の処遇に関与していたと指摘される。晴信の発給した文書をみると、一揆発生後の天正19年2月以降、家臣の奉公に対する恩賞として宛行っており、実際に一揆鎮圧に動いていたこと、政宗の下での所領回復を目指していたことが推測される。政宗が申し開きのために上京した天正19年2月から奥州再仕置が始まった6月までのものであることから、晴信の牡鹿郡支配は政宗の庇護の下でなされたとする見解がある。確かにそうだが、晴信の宛行行為は、奥州仕置の以前から牡鹿郡及び遠島に限られている。また、仕置以後も晴信が牡鹿郡にいたものと推定されている。3 政宗と氏郷11月10日、江戸では徳川家康と浅野長吉が対応を協議し、20日までに名生城に入った蒲生氏郷は、須田伯耆の密告を受け、一揆と政宗の関係を疑う。政宗は、宮沢城、中目城、師山城(いずれも大崎市古川)、高清水城を攻撃、11月24日には佐沼城へ軍勢を進め木村父子を救出する。この後、木村から政宗へ登米、佐沼両城を渡すことと「葛西大崎之儀」を政宗へ預けるよう秀吉に取り成すこと等が、氏郷から浅野六右衛門と政宗に伝えられ、政宗も氏郷に起請文を提出した。しかし、氏郷から浅野長吉に政宗心替の報が入り、京都にもたらされる。これを受け、二本松にいた長吉と政宗の会談が行われた。翌天正19年正月9日付で、政宗に長吉の書状が出され、政宗が富沢日向守以下の葛西大崎旧臣を抱えていながら未だその妻子を人質として豊臣政権側に差し出していなかったことが窺えるが、こうした状況も政宗と一揆の密な関係が疑われた要因だろう。その後、長吉の勧めもあり、政宗は天正19年1月30日米沢を立ち、(閏1月をはさみ)2月4日京に上洛する。晴信は政宗に書状を送り、その返書が閏1月朔日付で政宗から出された。その書状には、1月19日に秀吉からもたらされた朱印状により、一揆の鎮圧を中止し上洛を命じられたこと、朱印状の内容は安心してよいこと、(晴信の問いに対する)残りのことは京都から申し述べることが伝えられている。依然として、政宗と晴信の密接な関係が窺える。政宗は上洛後、2月6日秀吉に参礼し、12日には侍従に補任、羽柴姓の名乗りを許されたほか、屋敷を与えられ公家衆とも交際した。2月9日付浅野長吉宛政宗書状は、国元から一揆大将(佐沼城主)を岩沼に捕縛したことを報告したものだが、この時点で葛西大崎旧領を政宗に与え、会津周辺5郡(田村、塩松、信夫、小野、小手)を秀吉へ進上することが命じられている。4 葛西大崎合戦一揆の鎮圧を命じられた政宗は5月20日ころに米沢に帰国し、6月14日葛西大崎旧領への出馬を家臣に報じた。直後の6月19日付で政宗が流斎に宛てた書状では、流斎から何度か書状が送られていたこと、大崎衆は過半が政宗に出仕してきたこと等が判明する。葛西大崎一揆と伊達方の、宮崎、佐沼両城における合戦は、政宗が秀吉家臣たちに宛てた書状に詳しく、それらによれば、6月24日一揆が籠る宮崎城(加美町)を取り囲み、翌日に攻め落とし、数百人に及ぶ撫切りを行い、佐沼城は、2月に討ち取った一揆大将(城主の子の彦九郎)を残党が支援して抵抗したが、7月2日に伊達方が城を取り囲み、翌3日には落城。城主の兄弟をはじめ旧臣ら5百人が討ち取られ、2千余人の首が刎ねられて、女童にいたるまで撫切りにして葛西の残党は退散される。一揆勢のうち宮崎城を拠点としたのは大崎旧臣ら、佐沼城を拠点としたのは葛西旧臣らが主で、後者がより強硬に抵抗を続けたと窺える。この後、政宗は登米城に入城し、対一揆勢の合戦は葛西残党を中心としたものになる。5 深谷の役7月14日頃には磐井郡東山も伊達方が押さえたようで、一揆の鎮圧は進む。この頃、秀吉は、葛西大崎一揆及び九戸一揆を討滅すべく、秀次と徳川家康を中心とする大軍を奥州へ指し向け、宮崎佐沼両城を落とされた一揆勢は政宗に降参を申し入れた(貞山公治家記録)。政宗は、秀次に助命を取り次ぐことを約束し、桃生郡深谷に彼らを移した。しかし、秀次からは一揆勢の首を刎ねる指示が出され、政宗は、一揆の武頭20余人を討ち、その首を京都に送ったという。石巻市須江糠塚「殿入沢」に伝承される「深谷の役」である。この事件は史実で、家臣宛て政宗書状でも弁明している。宮崎、佐沼の撫切りもそうだが、奥州仕置を強行する豊臣政権の命に従って政宗が実行したものだった。6 一揆の背景と影響8月下旬から9月下旬にかけて、葛西大崎旧領の城館破却と普請が豊臣政権の手でなされた。葛西旧領では、胆沢郡柏山城を上杉景勝が、江刺郡江刺城、胆沢郡水沢城を大谷吉継が、磐井郡大原城、気仙郡気仙城を石田三成が普請し、大崎旧領は玉造郡岩手沢城、栗原郡佐沼城を徳川家康が普請した後、政宗に渡されたという。その上で天正19年秋から冬にかけて、伊達氏は重臣を本領から切り離す大胆な知行替えを実行。江刺郡岩谷堂城に桑折政長、胆沢郡水沢城に白石宗実、磐井郡大原城に粟野国顕、同郡黄海城に留守政景、栗原郡真坂城に富塚近江、同郡築館城に遠藤宗信、同郡佐沼城に湯目景康、遠田郡涌谷城に亘理重宗、志田郡松山城に石田宗朝が移された。7月7日付政宗書状では、深谷保小野城主の長江月鑑斎(勝景または晴清)と黒川郡黒川城の黒川月舟斎(晴氏)に対し、横目を付けるよう指示している。彼らは必ず居残ろうとするから、引越しを交渉し、拒否するなら切腹の外なしと述べているように、知行替えは容易でなかった。亘理重宗の場合も、涌谷城への移転は応じ難かったようで、亘理郡の知行高の差出はなかなか実現されなかった。秋保定重の下に預け置かれていた長江月鑑斎は、12月7日付で政宗から定重に命がだされ、13日に「生害」が定重から政宗に報告された。翌14日、政宗は、湯村右近衛に対し「深谷一宇惣成敗」を認めており、深谷保も政宗の支配下に組み込まれた。月鑑斎の「生害」では、政宗は定重に、月鑑斎の妻子を弟の晴信のもとに返すことを指示している。天正19年12月時点で、晴信はなお牡鹿郡周辺で存命した可能性がある。ただし、この段階で晴信の立場は厳しいものだった。12月9日政宗が家臣に与えた知行配分日記では、登米郡米谷、西郡、本吉郡鱒渕等が石母田頼景へ、志田郡坂本、蟻ヶ袋、磐井郡東山、桃生郡寺崎、牡鹿郡真野、鹿妻等が大条宗直に与えられた。これまで葛西晴信のみが牡鹿郡に対する宛行行為を行えたことを踏まえれば、天正19年冬までには政宗は葛西大崎旧領を完全に手中に収め晴信は領土権を失ったとみられる。7 その後の葛西氏葛西晴信の行く末は、前田利家に預けられて慶長2年加賀で死去(葛西真記録)、大崎義隆とともに上京して上杉景勝に属した(貞山公治家記録)などの説があるが、後者が有力視されている(大石直正、竹井英文)。晴信の子葛西長三郎清高に比定される人物が慶長5年7月の白石城における上杉氏と伊達氏の合戦(いわゆる北の関ヶ原)の際に、(家中の富沢吉内、黒沢豊前、高野佐渡守らとともに)伊達氏に降っていること、上杉氏から伊達氏に渡された刈田郡内の知行目録に、かさい、とみさわ、が確認されるからである。なお、大崎義隆は、蒲生氏郷の客分を経て会津上杉氏に仕え、その後山形最上氏を頼って慶長19年までに没したという(遠藤ゆり子)。一方、いち早く伊達氏に仕官した者たちもいた。天正19年冬には、葛西流斎が宮城郡幡谷村、竹谷村に100貫文の所領を得て幡谷村に居住。晴信の重臣だった赤井景綱も幡谷村を与えられ、近世には仙台藩士として存続。流斎の系統は、二男の葛西俊信が文禄6年(1597)桃生郡飯野川に113貫文も所領を得た後、寛永4年(1627)政宗に「先祖旧領之地」を望んで桃生郡相野谷村、成田村を拝領したといい、近世には準一家飯野川葛西氏として在郷支配をしていく。流斎の長男葛西重信は、宇和島藩士になっている。ほかにも、晴信の子葛西勝兵衛延景は、慶長3年盛岡藩南部氏の客分となり、慶長6年南部利直より和賀郡毒沢村、浮田村700石を与えられる。盛岡藩には、江刺柏山氏ら江刺郡胆沢郡を治めた葛西一族らが出仕している。8 一揆と葛西氏江刺郡の曹洞宗正法寺に伝わる「正法年譜住山記」には、天正18年条に、江刺城の場合、九左衛門という上方勢が新たな城主に置き換わり、9月17日に蜂起した一揆が落城させて元の侍が城に復したと記される。一揆の主たる構成員は、大崎、葛西の残党などと確認できるほか、一揆とは距離を置いて政宗に扶持されていた氏家典膳や、富沢日向守らの「葛西大崎牢人衆」も確認できる。つまり、一揆の主たる構成員は、葛西晴信、大崎義隆の所領が没収され自身も居館を追われた葛西、大崎の旧臣らが中心であったが、凡下や百姓ら地域住民を巻き込むものであった。一方で、葛西晴信や流斎は、奥州仕置前後から政宗と連絡を取り合い、一揆蜂起直後には鎮圧への協力を依頼されたことからすれば、一揆の結成は必ずしも葛西大崎両氏を盟主と推戴するものではないと思われる。「京儀を嫌う」心理と、仕置後の上方勢による年貢、伝馬役の賦課、妻子、下女、下人の略奪等の横暴が耐え難いものであったと推察される。9 葛西氏と牡鹿郡葛西七郡、葛西八郡と呼ばれる広大な支配領域をもちながら、なぜ奥州仕置後の葛西晴信は牡鹿郡に身を寄せたのか。そもそも葛西氏と牡鹿郡のつながりは、文治5年(1189)奥州合戦の後、葛西清重が源頼朝から恩賞として陸奥国5郡2保を賜ったことに始まる。平泉周辺に加え、飛び地として北上川河口の牡鹿郡を獲得したのは、牡鹿湊(石巻、湊、伊原津の3地区が複合的に機能)による流通が指摘される。葛西氏惣領は興国3年(1342)前後、牡鹿郡に下向し、天文年間に登米郡寺池城に移転するまで牡鹿湊を拠点としていた。14世紀半ば以降、支配領域の重要な基盤が牡鹿郡であり、16世紀初め以降は山内首藤氏を滅ぼして獲得した桃生郡が加わった。葛西晴信の宛行行為は、対象が牡鹿郡及び遠島に限られている。晴信の父葛西晴胤が宛行を確認した永禄8年の判物には、桃生郡三輪田村に関する可能性がある。天文年間以降、葛西氏の本拠は登米郡寺池城に移転するわけだが、その支配領域では、薄衣氏と浜田安房守の合戦、一族江刺氏の再乱、元吉氏の再乱、遠野孫次郎と鱒沢氏の対立、磐井郡東山での内乱等が相次ぎ、麾下領主たちを統制できていなかった。室町中期以降、江刺郡や胆沢郡は葛西一族の江刺氏、柏山氏が、葛西氏惣領を頂点とする家格秩序に位置づけられながら、それぞれ郡内では頂点に立ちその下に郡内の領主が編成されていたことがわかっている(高橋和孝)。すなわち、戦国期葛西氏の支配領域は、葛西氏惣領を頂点としながらも、江刺郡は江刺氏、胆沢郡は柏山氏、本吉郡は元吉氏、気仙郡は北の浜田氏、南の熊谷氏といった「郡主」とも呼びうる一族、重臣が支配を展開したと推察される。(磐井郡は、東部に薄衣氏、東山の大原氏、黄海の藤沢氏、西部に小野寺氏がおり、南部の流は三迫の富沢氏の勢力が及んでいたと考えられる。)葛西氏惣領が自ら家臣に宛行行為をおこなった牡鹿桃生両郡と遠島、天文年間以降の本拠であった登米郡は、さしあたり惣領家の直轄領と位置付けられよう。とりわけ、流斎が拠点とした山崎館があった桃生郡に対して、牡鹿郡には有力領主が存在しなかった。奥州仕置後、登米郡は木村吉清の手にわたり、晴信は直轄領たる牡鹿郡に身を寄せることとなった。当該地域では大規模な一揆がなかったと指摘されるが、それは晴信が一揆に与しない選択をしたため牡鹿郡の旧臣らは合流しなかったものと捉えたい。■関連する過去の記事 葛西氏と大崎氏(10年9月22日)そのほか、フリーページの記事リスト (10)戦国・藩政期の仙台・宮城 をご覧ください。
2025.08.18
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■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。1 仙台藩の拘禁刑(牢以外)武士身分では、牢に拘禁することが中心だが、ほかに、・他人預け・親類預け・逼塞・閉門・蟄居・慎み(つつしみ)があった。ただし、それぞれが具体的にどのようはものかは明瞭でない。なお、江戸幕府では重い順に・閉門 =昼夜とも出入りを禁止・逼塞 =夜間くぐり門から出入りは可能・遠慮(えんりょ) =くぐり門は引き寄せるだけで良く、夜中出入りは可能があり、仙台藩の逼塞、閉門、蟄居が、それぞれ対応するのではないか。一方で凡下身分では、やはり牢に拘禁が主であるが、そのほかに、・戸結・押し込め・親類預けがあり、さらに百姓は、戸結と押し込めの間に「縄懸け」があった。戸結(おそらく「とゆい」と読むと思われれる)は、幕府の「戸〆(とじめ)」(貫をおろして門戸を釘締め)にあたり、押し込めは、幕府の「押し込め」(戸を建て寄せておき他出させない刑)と同様であろう。縄懸けに対応する幕府の刑は「手鎖(てじょう)」だが、仙台藩では、手錠を施すのは武士身分で、凡下身分の拘束具は縄だった関係で、百姓は縄で縛って自宅に拘禁する刑が設けられたのであろう。町人の拘束具も縄だが、ただ刑罰として設けられなかったと理解されよう。2 牢への拘禁牢への拘禁について。まず、幕府の場合についてみると、未決囚の収容が中心で、既決囚を拘禁する場ではなかった。小伝馬町に町奉行管轄の牢があったが、収容されるのは裁判を受ける者であり、いわば拘置所。もっとも例外的に既決囚が収容された場合があり、「永牢(ながろう)」と「過怠牢(かたいろう)」である。永牢は、牢内で同牢者の世話をよくした者、牢屋が類焼しそうになり「切りはなし」(いったん解放する)したが鎮火後正直に戻ってきた者、死刑や遠島にあたるが自訴(現在の自首)してきた者(高野長英が有名、蛮社の獄)、情状が憐れむべき者などに対し、永く牢に収容する刑である。過怠牢は、敲き(たたき)刑に換えて用いられた拘禁刑で、子供が敲き刑に該当する罪を犯したときと(病人や子供を収容するため浅草と品川に溜(ため)が設けられ被差別民が管理した)、女性が敲き刑にあたる罪を犯した場合(小伝馬町牢屋敷の女牢に収容)。仙台藩の場合は、やはり基本的には未決拘禁施設であり、米ヶ袋の牢から花壇の評定所に連行され裁判を受けたものである。しかし、既決囚を収容することもあり、第一に、近世前期に「牢朽し(ろうくだし)」「永牢(ながろう)」があり(武士、凡下とも)、第二に凡下身分に「日数牢舎」があった。牢朽しと永牢は、どちらかというと牢朽しの語が古く、永牢が新しい時期に使われるが、同時期にも使われていて、いずれも長期拘禁刑で違いははっきりしない。牢朽しは赦(しゃ)の適用がない終身禁錮という説もあるが、赦に浴した事例もある。ここでは時期により呼び方が違うだけとしておく。永牢は、死刑に次ぐ重罪と位置付けられいろいろな犯罪に適用されてきたが、延享2年(1745)に、乱心者だけに適用し、それ以外はすべて流刑に処すことに変更された。その理由は、当時幕府に永牢はないことに倣ったというが、上記の通り幕府にも存在したので誤解ではないか。(近世中期の幕府には実際に永牢がなかった可能性もある。)日数牢舎は、日数を限って収容するもので、一村追放や城下追放の次で「戸結」の前に位置づけられている刑罰。日数は、幕末維新期の資料では、30日から10日が目に付く。実は仙台藩は牢内での有宿者(無宿でない)の食費は自弁させたのであり、「牢米」として、一日玄米1升と薪代4文の基準で徴収された。百姓には大変重い負担で、本人が出せないと親類や五人組が負担したと思われる。3 さらし刑仙台藩では、さらし刑がよく利用されたが、幕府と比較してみる。幕府では、死刑や遠島の本刑に付け加える付加刑として科せられたが、『公事方御定書』下巻第51条「女犯(にょぼん)の僧お仕置きの事」に、一つだけ本刑としてのさらし刑がみられる。女性と性交渉した僧侶が修行中(所化僧、しょけそう)なら日本橋で3日間さらして、上級寺院である本寺・触頭(ほんじ・ふれがしら)に渡してその宗派の法の処分に委ね、寺持ちの住職の場合は、さらし刑でなく遠島になり、さらに相手女性に夫がある場合(密通)は、所化、寺持ちの別なく獄門に処された。付加刑としてのさらし刑は、主人やその妻子に傷を負わせた奉公人が、さらしのうえ磔にされたほか、よく知られるのが、相対死(あいたいじに、心中)の未遂の男女が日本橋に3日間さらされた上、本刑である非人手下(ひにんてか)となるケース。仙台藩は、幕府に比べると、さらし刑はすべて付加刑で、本刑はなかった。幕府が本刑として適用した女犯の所化僧を仙台藩がどう扱ったかは、関係する規定がみられない。なお、『公事方御定書』下巻をモデルとした盛岡藩の文化6年(1809)『文化律』の規定では、さらし刑は付加せずにただ宗派の法の処分だけとある。一方で、付加刑としてのさらし刑は幕府よりも多様な犯罪に科せられたようだ。・元禄16年(1703)偽札作りの犯人が前沢町で磔に処される前に仙台で3日間さらされた。・正徳3年(1713)高給金の要求がかなえられず強いて暇をとった奉公人7人が、7日間城下にさらされたうえ流刑に処された。中でも、博奕犯へのさらし刑が注目される。元禄3年(1690)の法令で、在方(ざいかた)での博奕犯は、(罪の軽重に応じ3日間、5日間、7日間)その所にさらして、五人組が番をして、過料として一人3切(1切=4分の1両)づつ召し上げるとする。城下でも行われたようで、元禄6年(1693)に、市中引きさらしのうえ長町で磔にされ、関連して凡下2人が芭蕉の辻で3日間さらされて他国追放を申し渡されている。ただ、その後『評定所格式帳』の規定にはさらし刑の付加はみられないが、近世中期になると、ふたたび博奕犯がさらし刑に処される事例が出てくる。・享保19年(1734)博奕宿をして自らも加わった罪で城下芭蕉の辻で7日間さらされた上、遠き川切り追放(加わっただけの凡下13人はただの遠き川切り追放なので、さらし刑は博奕宿への刑)・寛保2年(1742)二日町の借屋人が博奕宿の罪で城下7日間さらされたうえ過料を科された推定寛延1年(1748)の博奕規制令には、加わった凡下は1ヶ年奴、博奕宿については城下は札の辻、在郷の者はその所で7日間さらしたうえ大肝入に奴として与えると明記されている。4 入れ墨刑戦国の余韻がさめていない17世紀初めには、肉体を傷つける肉体刑がよく行われた。有名な例は、秋田藩の院内銀山で行われたもので、耳、鼻、指を切る事例が多くみられる。幕府や多くの藩にもあり、仙台藩では『評定所格式帳』第51条「耳鼻を切り候お仕置きの格」によると、元禄11年(1698)それを廃止した。これは、幕府の廃止に合わせて、金沢、会津、仙台など横並びで廃止したようだ。ところが、幕府は8代吉宗の享保5年(1720)に、中国法を参考に主に盗犯への刑罰として、入れ墨刑と敲き刑を採用。これを受けて諸藩でも入れ墨刑を利用するようになる。幕府は、左腕の肘の少し下に、入れ墨2筋をぐるっと回し、再犯の際には筋を増やす。広島藩では、初犯は額に「一」の筋を、再犯で「ノ」を入れ、三犯になると右下に筋と右上に点を加えて「犬」の字にしたという。しかし入れ墨刑を採用しない藩もあった。弘前、盛岡、そして仙台藩も採用しなかった。その理由を教える史料がないが、幕末に近習目付に就いていた丹野茂永が藩に提出した意見書に、心根が改まっても入れ墨の体が戻らないのは憐れむべきことだと述べて、不採用は更生の機会を与えるためという。しかし、これは後から付けた理由で昔からそう考えられていたわけではなかろう。近世後期の学者の浅川善庵が幕府に提出した意見書『済時七策』の中で既に同様の主張があり、丹野が浅川の意見を知っていたかどうかは分からないが、いずれにしても犯罪者の更生の視点があることは、仙台藩の刑罰を考える際に注意すべきであろう。また、幕府が導入した敲き刑についても仙台藩は採用していない。幕府の場合、牢屋敷の門前で公開により行うもので、受刑者の親類、町村役人、通行人にも見せて、恥辱を与えるものであった。幕府に倣って、庄内藩(寛政3年)、秋本家時代の山形藩(寛政4年)でも採用したようだが、仙台藩は幕末まで採用していない。史料がないが、犯罪者の更生を考えて終生消えない入れ墨の刑を用いなかったのと同様に、公開の敲き刑を執行することで、先非を悔いて更正しようとする心根をくじくことを恐れたのではないだろうか。いささか仙台藩の刑事政策を買いかぶり過ぎかもしれないが。5 〔おだずま編集長から〕連載終わりにこの記事シリーズを、今回の10回目で一区切りとします。現行の刑法や刑事政策との比較という観点から入ったのですが、当時の世の様子や統治の工夫なども垣間見えて、また今に通じる日本社会の制度的意識的側面も感じられたりして、何度となく読み返しました。記事にした他にも興味深い内容が多数含まれているのですが、仙台藩を含む我が国の近世社会の勉強を深めつつ、後日改めて、といたします。勉強した本の「あとがき」によると、著者の吉田先生が大学の同窓会会報に寄稿を依頼されたのが契機とのことですが、わかりやすい内容の本を書かれた吉田先生のおかげで、学生時代もそうですが未だに不勉強な私なりに、自ら考えを深める機会をいただけたことに、感謝を申し上げます。■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑)(2025年08月08日) 仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰)(2025年08月05日) 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日) 芦東山記念館を訪れる(2013年5月7日) 仙台藩の刑制と流刑地(10年2月10日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 仙台藩の刑場(07年9月3日) 仙台藩の牢屋(07年8月19日) 仙台藩の法治体制(06年11月20日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)
2025.08.11
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■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。1 縁坐奴について江戸時代には犯罪者の妻子なども罰する縁坐(えんざ)が行われた。重大犯罪では、妻子も死刑や追放にしたが、そこまでしなくても、妻子を没収し奴隷として使役することがよくあり、仙台藩でも、それを奴(やっこ)と称して行っていた。江戸時代の奴刑全体に触れると、対馬藩の事例が知られる。九州の諸藩ではだいたい縁坐奴があったようだが、東北でも、例えば秋田藩では犯罪所の妻子を欠所(けっしょ)として没収し、盛岡藩では妻子を「御台所(おだいどころ)」に収容した。これらは藩自体が労働力として利用したのだろう。幕府でも縁坐奴の制度を持っていて、頻繁に妻子を没収して、書記役人である右筆に与えて使役させている。ところが、5代将軍綱吉の頃から次第に縁坐を少なくして、新井白石(正徳の治)、8代吉宗と制限が進んだ。これらの改革によって、百姓・町人の縁坐としては、主殺し親殺しに限って子も軽く罰せられる程度になり、獄門以下の刑では縁坐がなくなった。武士では、父が死罪なら子は遠島、父が遠島なら子は中追放、などと縁坐が残ったが、以前よりは軽くなった。こうした縁坐の緩和は、父兄の罪を子弟に及ぼすのは仁政にもとるとする学者の意見も出てきていたし、幕府としても太平の世で縁坐は不条理と考えたのではないか。こうした一環として、縁坐奴は姿を消していったが、まったくなくなったわけではない。『公事方御定書』下巻第20条「関所をよけ山越えいたし候もの、ならびに関所を忍び通り候お仕置きの事」には、男に誘われ関所を通らず山越えした女、及び関所を忍び通った女、の2例を奴にするとし、希望する幕臣や町人に奴を渡した。希望する者が出るまでは、その奴を牢屋敷の洗濯などに使用した。幕府がなぜ奴刑を関所破り関係に限定したか理由はわからないが、奴とされた人数はかなり減っただろう。なお、『公事方御定書』下巻第47条「隠し売女お仕置きの事」で、隠し売女は3年間吉原町に与えて遊女として働かせる刑を科した。隠し売女は、公認遊郭の吉原や黙認された品川などの宿場(旅籠屋が飯盛り女の名で雇う)の営業妨害となるので、町奉行所がときどき取り締まりして刑を科したもの。奴刑の一種とも考えられるが、一般の労働とは異なるので、奴刑とは区別しておく。2 仙台藩前期の奴刑妻子を没収して奴隷とする奴刑は、仙台藩でも大変よく利用されたが、犯罪者が凡下の場合だけで武士の妻子が奴になることはなかった。早くから奴と呼ばれたのではなく、17世紀前半は「妻子・家財闕所(けっしょ)」などと判決文に記載される場合が多い。妻子は家財と同列に物として扱われたようだが、17世紀終わりころには「妻子奴、家財闕所」と変化する。妻子と家財が分離され、妻子は奴刑となったわけだ。また、17世紀中は本人の刑との関係が明瞭でなかったが、元禄16年(1703)『評定所格式帳』第43条「罪の者妻子お仕置きの格」で明確になる。すなわち、死罪(あらゆる形式の死刑)、牢朽し(ろうくだし、生涯拘禁する刑。江戸町奉行所の牢は原則未決囚だったが、仙台藩は既決囚も収容された)、流罪(流刑)、他国追放の4種の刑で妻子を奴とした。そして、そもそも家財同様にみられて没収されるのだから、期限のない永代奴だったと判断される。奴とされた妻子は、町奉行、郡奉行、目付、用番の武頭、評定所役人、評定所勤務役人、歩目付、奉行の物書、出入司の物書、に与えられることになっていた。これらは裁判機関である評定所に関係する役人であると『評定所格式帳』には説明がある。これは、仙台藩が幕府に倣ったという見解があるが明らかに誤解で、近世前期の幕府の奴の付与先は書記役人である右筆であった。なお、藩が奴を直接使役する事例はまったくなく、すべて家臣に与えられたと思われる。その後、幕府が縁坐を緩和するにつれて、おそらくそれに倣って仙台藩も縁坐を少なくしていく。正徳1年(1711)父が家禄没収された際に、子には出仕を許した事例がある。近世中期には縁坐奴は姿を消す。しかし、仙台藩は別な形の奴刑を創出する。3 仙台藩中期以降の奴刑それまで縁坐奴を与えられた家臣にとっては、奉公人を雇うことが次第に困難になって、また奉公人の給金も上昇していた事情があるため、奴の消滅はいささか困ることだった。この対策として、仙台藩は、享保9年(1724)に、それまで江戸詰め家臣は奉公人を(国許から連れて行くのでなく)江戸で他所者を雇い入れることを許可し、享保19年には国許でも他領者の召し抱えを許し、さらに、延享3年(1746)には他領者を斡旋して保証人となる人本屋(ひともとや)を設置するなどの奉公人確保を図る。このような事情のもと、藩は、縁坐奴に代わるものとして、追放刑に処された犯罪者本人を奴にすることを考える。8代将軍吉宗が享保7年(1722)に諸大名がみだりに追放刑を利用することを戒める命令を出したが、この方針に従うのなら本来拘禁施設を作るのが望ましいが、仙台藩では、とうていその財政負担に耐えられないと考えたのであろうが、幕府の手前もあり、本来ならば追放刑に処すべき者のうち奉公人として使用可能なものを奴とする方策をとった。延享1年(1744)藩の通達では、まず、遠き川切り追放の男女のうち奉公人として使えそうな者は、5,6年の間、遠い郡の大肝入、肝入、検断(これらは凡下身分の村役人)に与えられた。翌年には、遠き川切り追放相当の女はすべて奴として、遠方の大肝入のほか、城下の検断にも与えられることになった。他方、男は、奉公人として使えるか考慮して、遠郡の大肝入の奴とするか、そのまま遠き川切り追放にするかを決めることとなった。また、この延享1年通達では、三郡追放、二郡追放、一郡追放相当の男女は、それぞれ3年、2年、1年の年季で藩の諸役人に付与するとした。このように、縁坐奴が永代奴だったのに対して、(本人の)奴は年季奴となった。4 奴身代金・代人制の登場このような追放刑と結合した年季奴は、奉公人確保の利点があった一方で、付与された奴(犯罪者本人)が必ずしも従順とは限らなかっただろう。こうした負の側面を改善するため、藩は、宝暦5年(1755)、主人(家臣)と奴が交渉して相応の身代金をとって奴を解放する、あるいは代人(だいにん)としても良いとの通達を出す(奴身代金・代人制)。注目されるのは、奴から支払われた身代金は藩庫ではなく主人に入ることで、罰金や過料と根本的に異なる。奴刑も藩による科刑だから、身代金も藩の会計に入るべきとも思えるのだが、これは、幕府や他藩にない仙台藩独特の制度であろう。しかも、主人と奴の交渉次第だから、強欲な主人は多額の身代金をとろうと頑張ったようだ。一例として、文久2-3年(1862-63)の仙台藩医学所に出入りした城下薬問屋8人が収賄事件で奴刑に処された件では、二ヶ年奴1人が身代金45両、他の奴7人(一ヶ年)は、65両、30両、25両(2人)、20両、10両、7両とバラバラ。5 他藩の密使報告幕末期史料に『仙台風談』がある。いずこかの藩の密使が仙台藩の形勢を探索して提出した報告書とされる。密使にとって仙台藩の奴刑や興味深いものだったようで、2ヶ所の記述がある。一つは、博奕との関係で触れられているが、身代金を出せば心がけが直ったと主人が藩に報告するが、金持ちの奴をもらえば大金をとる者がいる、など。もう一つは、米や塩の藩専売品を密輸出した商人が奴になると、主人によっては大金を出さないと非道の扱いを受けるが、藩は一向に構わないようだと。賭博犯や密輸商人が奴刑にされた事例が掲げられているのが注目される。いかにも奴刑から解放させるために大金を出すことができそうな犯罪者である。6 奴刑の対象となる犯罪では、奴刑が科される犯罪はどういうものがあったか。幕末期の仙台藩刑事法の状況を示す『刑法局格例調』では、多彩な犯罪に適用されたことがわかる。木に登った子をゆすり落して死亡させた者、盗み、酒密造、芝居興行主、法外の高値で売った商人、など。明確な規定があったわけでなく、町奉行と評定所役人がどんどん対象を広げた。奴を与えられるのは評定所役人だから、自分たちの利益に直結した。しかも、いかにも金を持っている商人などが狙い撃ちにされている感じがする。元治1年(1864)に、長町、原町、堤町、八幡町の4か所に、領民の些細な間違いを裁判沙汰にし、奴にして大金を取り上げる家臣を非難する張り紙がされた。裕福な町人はみな災難を被っているとまでいわれた。天保4年には、村役人の不正を追及した村人4人が一ヶ年奴の刑に処され、30切から8切(1切=4分の1両)身代金で解放された例がある。幕末から村方騒動の指導者が奴刑に処される事例が目立つ。7 奴の管理奴に処された者の多くは身代金で解放されたと思われるが、身代金も払えず使役された者もいただろう。労働条件などはどうだったか。まず、奴の管理は、人足方(にんそくがた)という、土木工事や雑用に使役するために村々から徴発した人足を管理す役所が行った。他藩でも同様だが、各村は一定の基準で年間何人と人足を提供する義務を負っている。しかし、これら普通の農民と異なり奴は犯罪者である。評定所、町奉行所、郡奉行所などの裁判機関でなく、人足方が扱った点をとっても、奴はどうも犯罪者というより一般の人足と同様に扱われたと想像される。実際に、労働のあり方を見ても、奴が病気になると療養のため村に返し、奴の父母が病気になったときは看護のために暇が許され、それらの日数分年季を延長する措置がとられた。また、付与された役人は親類縁者に奴を貸すことができたようで、その家臣が江戸詰めの際に奴を召し連れることもできた。おそらく江戸では監視もほとんどなく、江戸見物などの行動の自由もあったのでないか。このように、奴は犯罪者というより奉公人として取り扱われたといえる。もちろん、給金はないが、食事や衣類などはそれなりに主人から保証されただろう。8 熊本藩の徒刑制度との比較熊本藩は宝暦5年(1755)に中国法に倣って前年制定した藩の法典『御刑法草書』を施行した。その中で、追放刑に代えて「眉なし」と呼ばれる徒刑制度を採用。これは、眉を剃って紺色の目立つ上着を着せ、牢内に拘禁し労働に従事させ、その賃金のいくぶんかを貯えて出所時に生業の元手とさせるもので、現在の懲役制度とほとんど同じといってよく、我が国の近代的自由刑の誕生と高く評価される。刑期は、1年から3年の5等級。比較すると仙台藩の奴刑は、名前からして前近代的な感じがする。熊本藩の徒刑囚が藩の設置した施設に収容されたのに対して、仙台藩の奴は家臣や役人個人に与えられた犯罪奴隷ということになる。しかし、奴の管理は一応役所(人足方)が行って完全に個人任せにしたわけではなく、むしろ奉公人として扱われて、いわば社会内処遇的状態とも言え、熊本藩の徒刑より自由だったとも言えよう。また、熊本藩が眉を剃り紺色の着物を着せたのに対し、仙台藩では通常の奉公人のように扱われ、異形にすることはなかった。仙台藩では熊本藩のように出所(解放)時に資金を与えた形跡はないが、奴には保証人が付けられて逃亡や取り逃げの場合の保証をするとともに、奴の解放の際にはどうも保証人に預けたようである。つまり、どこへでも行けと放っておかれたのではなく、保証人が面倒をみることが期待されたのであり、解放後の生活にもそれなりに手が打たれていたと言えるのでないか。9 おわりにいずこかの藩の密使の関心を引いた仙台藩の奴刑は、確かに、身代金が主人の懐に入るなどユニークではあるが、意外と犯罪奴隷という印象はないことが理解できる。なお、幕末期に東蝦夷地の警備に動員された仙台藩の13代藩主伊達慶邦は、奴受刑者を当地に派遣して使役する重奴(じゅうやっこ)構想を打ち出すが、実現した形跡はない。また、明治3年頃には、新政府の『新律綱領』に採用された徒刑制度と併存して、また重要な変化もしていく。■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 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2025.08.11
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■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。1 刑罰の中心としての追放刑現在の刑罰は自由刑が中心だが、江戸時代は死刑と追放刑が主として利用された。追放刑は、ただ追い放すだけで監視をつけないものが多く、さほど効果的な刑でないとも思われるのだが、なぜ多用されたのか。古代社会では、死刑という報復もあったが、よく行われたのがその団体からの追放だったとされる。例えば凶暴な素戔嗚尊が高天原から追放された。ドイツの古い時代には、罪を犯して団体から追放された者を見つけた者は、追放された者を殺す義務を持ち、死骸は放置されて鳥のついばむままにされたという。古い時代には追放刑は死刑と同等あるいはそれに次ぐ重い刑だったのだ。(もっとも、素戔嗚の追放を刑罰とみることはできないという有力な批判もあるし、ドイツ古代の追放について最近は違う評価もあるようだ。)鎌倉時代になると、追放刑に新たな意味合いが付け加えられる。すなわち、犯罪が生じた地域はその犯罪でけがれたとみなされ、清めるための方法として犯人を地域から追放するという意味である。犯人を死刑にすると新たなけがれを生むことになるので、中世社会では死刑制度がなかったという指摘もあるし、また、清めるためには犯人の住宅なども焼くなど処分する必要があったという。つまり、追放刑はお祓いの役割を担ったのだ。死刑がないのだから、追放刑が最も重要な刑罰として用いられたのは当然だろう。しかし、室町から戦国には、死刑も復活し、犯罪をけがれとみる意識も少し薄れたか。むしろ、追放刑は、厄介者を支配地域から追い出すことに主眼が移ったのではないか。とはいえ、ある大名が支配地から追放することは、逆に他大名との間で厄介者をやりとりするだけで、根本的解決にならない。加えて、経済や交通が発達して追放されても生きるのに困らないから、幕府の刑罰体系では軽い刑罰とされる敲き刑や入れ墨刑よりも、重い刑罰のはずの追放刑にされた方がずっと良いという者も表れる始末。(やくざ者が江戸払いを受けても、江戸周辺で勢力富五郎、国定忠治、清水次郎長などの大親分に世話になり、いざ喧嘩出入りの際には加勢をして恩義に報いればいい。)このように欠陥のあった追放刑の問題をよく認識した八代徳川吉宗が改革する。享保7年(1722)に諸藩でもみだりに追放にしないよう大名に命令している。実際には幕府はその後も追放刑を利用し、20年後の『公事方御定書』でも各種追放刑が規定され幕末まで廃止はされていない。各藩でも、享保7年の幕府の命で改革をした藩は若干あるが、多くはやはり幕末まで追放刑を利用した。本気で廃止するならば、現在の刑務所のような拘禁施設を作るのが最善だが(18世紀半ば以降そのような施設を作る藩も出た)、相当の財政負担が生じてできないので、ほとんど刑罰の実効性をもたない状態の追放刑を多用し続けたというのが実情だったろう。仙台藩もそうであった。2 江戸幕府の追放刑追放刑には大きく2種類がある。一つは、特定地域を指定するタイプ。例えば盛岡藩で「田名部牛瀧へご追放」「雫石へご追放」など、悪質度に応じて辺境の地域を指定する。もう一つは、ある一定の地域(=お構い場所)以外はどこにいてもよいとするタイプで、幕府が採用した方式。入ってならない「お構い場所」は、例えば寛保2年『公事方御定書』下巻第103条「お仕置き仕形の事」に規定される「重追放」では、武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、甲斐、駿河、がお構い場所に指定されている。「中追放」だともっと狭くなり、「軽追放」になると江戸十里四方、京、大坂、東海道筋、日光、日光道中だけになる。さらには、江戸十里四方追放(日本橋から半径5里)、江戸払い、所払い、などもあった。これらの区別が複雑だったからか、3年後の延享2年(1745)には、お構い場所はすべて江戸十里四方、住んでいる国、犯罪をした国、だけに統一される。そのうえで、闕所(けっしょ)の対象で区別することになった。すなわち、重追放では田畑、家屋敷、家財を取り上げ、中追放は田畑、家屋敷を、軽追放は田畑を取り上げることで区別した。3 仙台藩の追放刑仙台藩は元禄16年(1703)に『評定所格式帳』を制定するが、それ以前はやはり他国へ追放している例が目立つ。ただし、武士が軽い罪を犯した場合は城下十里四方追放などもあるので、領内の追放刑もあったか。元禄期になると、これらのほかに、「三本木川を限り追放」「三郡追放」「二郡追放」「一郡追放」「本所追放」など、種類が多彩になる。ところが、享保7年の幕府の追放刑制限令を受けて、5代吉村の仙台藩も、凡下の他国追放は止める。しかし、武士に対しては他国追放は残した。こうして、近世中期に確立した仙台藩の追放刑は、武士と凡下に共通として、「遠き川切り追放」「三郡追放」「二郡追放」「一郡追放」「城下追放」の5種類があり、武士のみに「他国追放」が、凡下のみに「一村追放」が科せられた。遠き川切り追放とは、凡下の他国追放の代わりに採用された形式で、領内を一迫川を中心に南北に分け、北の地域で罪を犯した者は、阿武隈川・宮川の南に追放し、一迫川より南で犯した者は、北上川より北に追放するというもの。これは、盛岡藩の辺境地域指定と同視することもできるし、(阿武隈川・宮川以北、北上川以南を)幕府の「お構い場所」とした追放刑とみることもできる。なお、近世前期には「近き川切り追放」もあり、(北上川より城下に近い)三本木川北部に、或いは(阿武隈川・宮川より城下に近い)名取川南部に、それぞれ追放するもの。三郡追放は、城下及び罪囚の居住した郡と周辺二郡をお構い場所とするもの。例えば、城下居住の町人ならば、城下と宮城、名取、黒川の3郡がお構い場所になる。二郡追放も同様に城下と居住郡と周辺一郡、一郡追放は城下と居住郡がお構い場所になった。一村追放は、城下とその農民の居住した村をお構い場所とした。なお、追放地までの護送は、徒歩での護送は付き人2人、伝馬の護送は馬子の他付き人2人などとある。付き人は足軽と思われるが、休憩や宿泊などやはり宿駅は負担があったと思われる。4 被追放者の生活と立ち帰り流人と違い、追放された者に援助が行われた形跡はない。おそらく自活が当然視されたと思われる。このため、追放されても身寄りの仕送りが受けられるならともかく、一般の凡下の生活は大変だったのでないか。生活苦のほか、様々な理由で元の居住地に戻ってしまう者(追放立ち帰り)が多かったようだ。監視が付いているわけではないので、立ち帰りにさほど困難はなかったろう。もちろん藩主は立ち帰りの処罰を強化するが、『格書抜(かくかきぬき)』第43条「ご追放立ち帰り者、お仕置きの事」によると、藩は延享2年(1745)に、3度までは元の通り追放、4度目には死刑にするが、元の罪が軽い場合は遠き川切り追放にする場合もあると決めている。立ち帰りを大目に見る態度があったのではないか。さらに『諸令聚要』では、「遠き川切り追放」未満の刑には、財産没収刑である闕所(けっしょ)が付加されない。つまり、三郡追放以下の刑に処された者は、曲がりなりにも元の生活基盤が残されたので、おのずから立ち帰る者も多くなったのだろう。これら追放刑も無期刑であったが、流刑と同様、赦(しゃ)によって解放された。赦に浴す経過年数は、凡下の遠き川切り追放は5年以上、三郡追放以下は3年以上とされた。5 仙台藩の姿勢 ー 奴刑以上のように仙台藩は幕末まで追放刑を利用し、拘禁施設を作ることもなかった。しかし、まったく対策を立てなかったわけではなく、近世中期になって、追放刑と労働刑を結び付けて、使いやすい被追放者を家臣や町村役人に与えて労働させるとともに監視下に置く「奴刑」の採用である。 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日)に続く■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑)(2025年08月08日) 仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰)(2025年08月05日) 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日) 芦東山記念館を訪れる(2013年5月7日) 仙台藩の刑制と流刑地(10年2月10日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 仙台藩の刑場(07年9月3日) 仙台藩の牢屋(07年8月19日) 仙台藩の法治体制(06年11月20日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)
2025.08.10
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■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。1 流刑(島流し)中国の刑罰の一種である「流」は、罪囚と家族を犯罪の凶悪度に応じて、二千里、二千五百里、三千里などと離れた僻遠の土地に移住させて労働させる刑だったようで、必ずしも島々に流すものではないが、仙台藩の流刑は、明らかに島流しであった。なお、幕府は、流刑といわず遠島と呼んだ。仙台藩の流刑の起源は不明だが、正保3年(1646)江刺郡黒石正法寺の僧快応が江島に流されたのをはじめ、その後も僧侶や武士が、田代島、網地島に流されたので、おそらく17世紀半ばには行われていたと判断できる。さらに、貞享2年(1685)には凡下が島奴(しまやっこ)に処されているので、この頃には庶民にも科されたと言える。仙台藩は延享2年(1745)に流刑を、遠流(江島)と近流(田代島、網地浜、長渡浜)に分け、さらに近流地で島民に使用される島奴をその中間の刑として、この「遠流ー島奴ー近流」の順序を、藩末まで維持した。なお、近世前期には本吉郡大島も流刑とされ享保期に除外された。なお、幕府の流刑地は、東国の流人は伊豆七島(大島、八丈島、三宅島、新島、神津島、御蔵島、利島)、西国の流人は薩摩、五島、隠岐、壱岐、天草とされた。判決は遠島のみで、どこに流すかは出発時に奉行所で決めたようだ。東国には江戸から、西国には大坂から船で連行するが、江戸の場合年に1,2回船を出した。それまでは小伝馬町の牢屋に入れておいた。仙台藩では、判決で流刑地を指定し(例、網地浜へ流罪)、直ちに流人を護送した。天保10年(1839)までは陸路で牡鹿半島まで行き、そこから海路になる。2 護送の実際上級武士や僧侶神官の流人には、徒目付(かちめつけ)という武士と足軽2人が付き添い、駕籠で護送した。下級武士の流人には足軽が付き添って馬で護送した。凡下の場合は、男の場合、庶民である宿場役人が次の宿場まで順に護送し(宿送り)、流人は腰縄をつけて徒歩だった。女の流人は足軽2人が付き添い、馬で半島まで行った。寛延3年(1750)の事例(武士、田代島)・2月2日 午前10時 城下評定所出発→原町、12時過ぎ 利府着、昼食、16時過ぎ 高城着、宿泊・3日 高城出発→小野昼食→小竹浜宿泊・4日 10時 雨のため少し遅めに小竹浜出船→狐崎で船を継ぎ立て、12時過ぎ 田代浜着、代官・大肝入・肝入に引き渡し徒目付と足軽の宿泊費(2泊)と食事代(6回)は公費で支出されたようだが、流人のそれは宿場の負担だったようだ。しかも、不寝番が6人動員されて交代で勤め、また、駕籠かきも4人が宿場ごとに動員された模様で、宿場の人的金銭的負担は相当大きかっただろう。しかも、逃がしたりしたら宿場の責任となるので精神的負担も相当だったろう。(文政6年=1823、流人と足軽が酒肴を要求した事例、天保1年=1830、島奴として送られた女性が牡鹿郡湊町で男児を出産し30日ほど養生した事例)宿場から改善を求める声が届けられていたが、ようやく天保10年(1839)に陸路から海路護送(宮城郡蒲生から)に変更された。しかし、船と船頭の調達費用は、これまでの宿場の負担額を振り向けたので、宿場の金銭負担は変わらなかった。3 流人の生活幕府により伊豆七島に流された流人の場合、出船前に身寄りから差し入れが許され(米20俵まで、銭20貫文まで、金20両まで)、差し入れがない者には奉行所から武士一両、庶民金二分(=2分の1両)の手当てが官給された。この金で出帆前夜に400文の酒食が許された。当日朝、牢屋式裏門から霊岸島の船着き場に行き、前夜申し渡された島に向かう。流刑地では、例えば八丈島ではクジで所属する五人組を決め、その一員として生活するが、どの島でも自活が要求されたため、職や収入のない者は悲惨な生活を強いられ、野垂れ死にが想定された。幕府が死刑に次ぐ重い刑罰としたのはむしろ野垂れ死にを狙いとしたとみられる。仙台藩ではどうか。まず、島民のもとで働くことを要求される島奴の場合、史料がすくなく生活の実態がよくわからないが、牢に入れられる場合に比べればずっと自由だったと想像される。奉公人に近いかもしれないが、中には主人を手こずらせる者もあり、使いやすい者ばかりではなかったろう。一般の流人は、幕府同様に差し入れが許され、或いは手当てが官給されたかはよくわからないが、たとえそれがなくても流人の生活が劣悪だったわけではない。第一に(少なくとも近世後期には)居住施設として流人小屋に男の流人は収容された。士長屋(板敷き)と凡下長屋(土間)に区別されたが、財力のある者は民家を求めることが許されたようで、また、女は民家に居住した。第二に、流人には若干の道具代と春秋の衣服代が与えられたという。注目すべきは、生活費(武士は2人扶持、凡下は1人扶持)が官給され、ほかに木銭(一日6文)が支給されたことで、最低の生活はできた(1人扶持は玄米一日5合)と思われ、さらに民家の作業を手伝って賃金を得ることもできたようだ。4 赦と島抜け幕府でも仙台藩でも流刑に刑期はない無期刑として言い渡されるが、実際には吉凶行事に伴う赦(しゃ)で解放される途があった。幕府では、遠島は一応29年以上で赦に浴すことができたが、仙台藩の場合、遠流では(近世前期は赦が適用されないが後期には)士で14年、凡下で10年経過で赦が可能となり、近流では士17年、凡下5年以上で赦になったようだ。なので、とにかくまじめに生活すればいずれは島を出ることができたのだが、やはり耐えられない流人もいただろうから、半島と近いこともあり、時々島抜け事件が生じた。また、島の地名に「流人ころがし」などがあるようなので流人に対するリンチがあった可能性があり、この点からも脱出する流人があったろう。5 流人の規模弘化1年(1844)の数値として、長渡浜48人、慶応1年(1865)の田代島24人、という記録がある。また、文久3年(1863)江島では、流人数57に対して在来島民が450人という紹介もある。昔からいる島民にとっては、流人を受け入れることは大変だったろう。親身に世話する島民も多かったろうが、まじめとは限らず迷惑になった流人もいただろう。狭い島に流人を送り込む島流し刑は有効だったのかどうか。おそらくこうした問題点を考えてか、東北地方で島流しを行ったのは仙台藩だけのようだ。■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑)(2025年08月08日) 仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰)(2025年08月05日) 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日) 芦東山記念館を訪れる(2013年5月7日) 仙台藩の刑制と流刑地(10年2月10日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 仙台藩の刑場(07年9月3日) 仙台藩の牢屋(07年8月19日) 仙台藩の法治体制(06年11月20日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)
2025.08.08
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■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。1 仙台藩の江戸屋敷の種類時期により変遷があるが、下記のような種類があった。・上屋敷(藩主が滞在)・本屋敷(仙台藩独特の呼び名。一般的には跡継ぎの若君の住居で、仙台でも初期だけの存在)・中屋敷(多くの大名が若君の住居とした。仙台藩も初期以外は同様)・下屋敷(火事などの際の避難場所の役割。のちに隠居場所や別荘の役割)・蔵屋敷(倉庫の役割)上屋敷は延宝4年(1676)以降は芝口の浜屋敷で、その頃の本屋敷兼中屋敷は愛宕下屋敷、下屋敷が麻布屋敷と品川大井屋敷で、以降、上屋敷と本屋敷(中屋敷)は変動ないが、下屋敷と蔵屋敷はずいぶん変わっている。2 江戸屋敷の犯罪処理と処刑江戸の町の治安は、幕府の町奉行や目付などが管轄したが、江戸屋敷内は仙台藩の治外法権が認められたのか。『治家記録』によると、屋敷内の事件でも、犯人が屋敷外に逃げるなどした場合は、町奉行のに報告し指示を仰いだようである。また、仙台まで身柄を護送して七北田で処刑した事例もあるので、藩の処理が中心だったようだ。山本博文『江戸お留守居役の日記』では、萩藩江戸藩邸には治外法権が認められ一種の租界だったと指摘する。治外法権と同視できるかためらいはあるが、国許と同様とみなして元禄10年の「自分仕置き令」の適用が認められた、または、江戸屋敷居住者はすべて家来とみなされて成敗権を行使できた、と考えることが可能かもしれない。享保年末以降には、わざわざ国許まで連れて行かずに江戸屋敷内で死刑にする例が目立ってくるが、江戸屋敷の死刑はすべて斬首刑でほとんどが下屋敷である品川屋敷。獄門にする場合は国許の七北田を利用している。中期以降の死刑で品川屋敷が利用された理由は、郊外であって倉庫としても利用され、また江戸中で評判の仙台味噌の製造場所でもあって、死刑を執行してもさほど支障はなかったからか。会津藩では、幕府の鈴ヶ森刑場を借用したとみられる事例がある。仙台藩江戸屋敷における罪と罰は一層の研究の深化が望まれる。■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑)(2025年08月08日) 仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰)(2025年08月05日) 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日) 芦東山記念館を訪れる(2013年5月7日) 仙台藩の刑制と流刑地(10年2月10日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 仙台藩の刑場(07年9月3日) 仙台藩の牢屋(07年8月19日) 仙台藩の法治体制(06年11月20日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)
2025.08.05
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■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。(以前の記事) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日)1 仙台藩の刑場磔や火罪という死刑を執行するために、仙台藩は早くから処刑場を設置していた。最初は、仙台城下の広瀬川端の琵琶首に、牢屋とともに設置されていたようだが、寛文6年(1666)に、牢と一緒に米ヶ袋(現在の片平市民センター)に移され、さらに、元禄3年(1690)に処刑場だけ仙台城下からかなり北に離れた、奥州街道沿い七北田村に移され、その後変更はなかった。牢が米ヶ袋に残された理由は、おそらく、主として未決囚を拘禁したので、藩の中心的な裁判所である評定所(花壇。現在の評定河原球場など)から遠くない場所に置く必要があったのだろう。しかし城下の市街化が進んで、米ヶ袋近辺に人家も増え、処刑場だけが田舎だった七北田に移されたのだろう。2 死刑の種類(おだずま注:仙台藩の刑の種類は、仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日)を参照ください。)現在の死刑は死刑囚の命を奪うことだけが目的で、できるだけ苦痛を与えない執行が求められるが、江戸時代は幕府、諸藩とも、はずかしめと苦痛を与えることが重視された。近世初期には特にキリシタンに、釣し殺し、火焙り、水漬けなどの残酷な方法がとられたようだが、藩政中期からほぼ執行方法が固定する。武士に対しては、重い順に・牢前において斬罪・牢前において切腹・その身屋敷にて切腹の3つが法定された。もっとも極めて重大な犯罪は、武士の身分を剥奪して庶民に行う方法で執行することもあった。一般庶民(凡下)に科される死刑は、重い順に(1)竹鋸にて挽き磔(2)火罪(3)磔(4)獄門(5)切り捨ての5種類が規定される。(1)は、幕府の鋸挽き(日本橋のたもとに座らせ首だけを地上に出して2日間さらした後に処刑場で磔にする)と同様と思われる。仙台藩では芭蕉の辻(札の辻)で3日間さらして処刑場で磔にした。なお、幕府の鋸挽は主殺しのみで親殺しは磔だけだが(忠を孝より重視か)、仙台藩は双方ともこの刑とした。(2)火罪は放火犯に対する刑で、幕府と同様。同害報復(タリオ)の典型。遺骸はそのままの形で7日間(支障日を除くとびとびの期間)その場にさらされ、近くの被差別民が番人に動員された。(3)磔は、幕府同様に柱に縛って左右から二本の鑓で突いて死なせるもの。多くの種類の重大犯罪に対して用いられる。執行人は城下の被差別民が動員される。遺骸は(とびとびの)5日間その場にさらされ、近くの被差別民が番人とされた。(4)獄門は、幕府と同様、獄門台に斬首した死刑囚の首を置いて3日間さらした。多様な犯罪に用いされた。この語は、もと中世に斬首した首を獄舎の門にかけたことから出ているようだ。(5)切り捨ては単なる斬首で、さらしは付加されない。単純な殺人などに科せられる。一人殺せば一人死ぬというタリオと言えるだろう。3 付加刑獄門と切り捨てについては、首のない遺骸が刀の切れ味を試す様物(ためしもの)に利用された。幕府では単純な斬首の刑(下手人、げしゅにん)より重い死罪と獄門が、様物となった。代々の山田朝右衛門(首切り朝右衛門)が様物をした御用浪人として有名だが、仙台藩にも同様の人物がいたのかもしれない。また、幕府では死罪以上の死刑には、田畑、家屋敷、家財を没収する闕所(けっしょ)が付加され、下手人には付加されなかったが、仙台藩はすべての死刑に闕所が付加された。4 みせしめとしての死刑死罪は上記のように、犯罪の凶悪度に応じて、はずかしめと苦痛を与えることを眼目としたが、他方で、公開処刑やさらし刑の付加を通じて、多くの領民や家臣に重罪はむごい死刑に処されるとの意識を植え付けること(一般予防)の効果を狙ったことも明らかだ。例えば、重大犯罪の死刑囚が執行以前に死亡した場合は、遺骸を塩漬けにして保存して刑に処する(屍仕置き)こともあったから、疑いない。5 引きさらし死刑囚は牢から処刑場まで連行されるが、重大犯罪では、はずかしめの一環として、馬に乗せて人々に見せしめる「引きさらし」が付加された。江戸幕府の場合は、浅草(小塚原)と品川(鈴ヶ森)の二か所あったが、死刑囚を馬に乗せてにぎやかな江戸市中を引き廻した。仙台藩の引きさらしの道順は、牢から北目町に出て、一度南下して土樋、北上して荒町、連坊、寺町の八塚(やつづか)、名掛丁、大町、国分町、さらに北一番丁から八番丁まで北上して北山を廻り、七北田に向かった。6 所仕置き死刑は藩設置の刑場だけでなく、犯罪発生地や死刑囚の住んでいた村でも実施された。仙台藩では「その所にて火罪」「本所において磔」などと示された。これは、どの藩でも行っていることで、有名なものでは国定忠治が嘉永3年(1850)に関所を破った上州大戸近辺の処刑場で磔になり1500人以上の観衆が出たという。仙台藩でもとくに近世前期は、所仕置きがたいへん多く、例えば元禄16年(1703)12月18日に全16件35人の死刑判決が下されたが、所仕置きが12件28人と圧倒的に多い。これは、みせしめの効果を狙ったためである。とくにこの頃は密通事件に対して科される例が目につく。しかし所仕置きは、民衆に負担を強いるものだった。処刑場作りの負担、死刑囚の搬送に伴う食事の世話や不寝番、また、処刑に立ち会う役人に対する食事などの世話と動員された被差別民に一日100文の旅費を負担するなど。おそらくこうした民衆の負担を緩和する配慮か、藩は享保14年(1729)に、所仕置きとする犯罪を、(1)放火、(2)5人以上の徒党、(3)不忠不孝、(4)所を騒がせた者(村方騒動)、の4つに限定した。殺人は以前から対象外だったようだが、盗みがこの時点から除外されたので、所仕置きの数はだいぶ減ったのではないか。ここで、仙台藩がみせしめの効果を特に狙ったのは、(1)(2)(4)の地域的・集団的法益侵害行為(当時の放火は広範な類焼をもたらした)と、(3)の封建道徳侵害行為だった、と考えられよう。これに対して、殺人は個人的法益侵害行為で所仕置きにする必要がなく、盗みも同様なので除外されたと考えられる。もっとも、数は減っても幕末まで所仕置きを実施したので民衆の負担はなくなることはなかった。7 被差別民の差別意識死刑執行人や死骸のさらし番として仙台城下や村近辺の被差別民が動員された。村人にとっては、それまでよく知るものを鑓で突き殺す被差別民を恐ろしいものと映ったに違いなく、その恐怖が裏返しとして差別意識を大きくしたのではないか。すなわち、藩の採用した死刑制度なかでも所仕置きが、仙台藩領でも差別意識の強化につながっていたのだ。■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑)(2025年08月08日) 仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰)(2025年08月05日) 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日) 芦東山記念館を訪れる(2013年5月7日) 仙台藩の刑制と流刑地(10年2月10日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 仙台藩の刑場(07年9月3日) 仙台藩の牢屋(07年8月19日) 仙台藩の法治体制(06年11月20日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)
2025.08.03
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・仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日)・仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日)・仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日)から続く■吉田正志『仙台藩の罪と罰』慈学社出版、2013年 をもとにしています。7 喧嘩両成敗と仙台藩先述の仙台藩の「武士はやられたらやり返せ」の思想は、江戸時代の天下の大法といわれた喧嘩両成敗法に矛盾しないかの疑問もあろう。仙台藩法に喧嘩両成敗法があったか否かを考える。喧嘩両成敗法の典型は、今川氏が大永6年(1526)に制定した『今川仮名目録』第8条に「喧嘩に及ぶ輩(ともがら)、理非を論ぜず、両方ともに死罪に行うべきなり」というもの。同様のものは、仙台藩でも戦時の軍隊統率の一環として存在する。例えば慶長6年(1601)伊達政宗が伊達成実と亘理重宗の両人に命じた書付の第3条に「喧嘩口論つかまつり候者、理非によらず、双方ともに成敗に及ばるべきの事」とある。また、大坂冬の陣に際して政宗が発した「軍法」第1条にも、「喧嘩口論かたく停止(ちょうじ)のうえ、若し違背の輩においては、理非を論ぜず、双方とも誅罰すべし」とある。しかし、『今川仮名目録』第8条には、上掲の文のあとに、相手が攻撃してきても堪忍してそれで傷ついた場合、たとえ非があるとしても穏便にしていたことから理があると判断する、との内容の文書が続く。つまり、反撃せず我慢して傷ついたならば、理として処罰せず、そうではなく反撃したときは両成敗として両者死罪とするのが喧嘩両成敗法である。となると、仙台藩の「武士はやられたらやり返せ」の態度は明らかに喧嘩両成敗法に矛盾することになる。仙台藩に「やられたらやり返せ」の思想があったと判断する根拠は、『評定所格式帳』第35条「臆病者の類」の項に、「一 臆病つかまつり、その場をはずし候えば、侍ならびに内の者は、他国ご追放仰せつけられ候、ただし、百姓・町人などは、お構いござなく候、」とあること。つまり、逃げたら侍や奉公人は他国追放の刑に処し、百姓や町人は逃げても罪を問わないという内容。これだけだと、逃げなければ良いだけで、反撃せずに我慢することも想定されるが、そもそも我慢している事例は発見できずだいたい逃げ出している。乱心物に切りつけられて逃げ出した事例はかなり多く、相応の始末をせず逃げ出した者が、侍として未熟として処罰されている。『今川仮名目録』では武士は相手の攻撃にじっと我慢すべきものと強調するのは、おそらく武士は主君ためにだけ命を捨てるものとの思想だろう。これに対して仙台藩は、反撃しないのは武士に似合わないというのだから、武士の姿を正反対に捉えているようだ。そして、『刑法局格例調』の「不法不義の類」の一項からも、この姿勢は幕末まで一貫していた。8 仙台藩の姿勢の根源この姿勢はどうやって形成されたのか。ヒントとなる伊達政宗のエピソードを、谷口眞子(しんこ)『近世社会と法規範』が紹介する。慶長19年(1614)江戸で、但馬豊岡藩主杉原長房の家来6人が政宗の小姓4人に言いがかりをつけて口論となり、小姓たちが6人を殺害して、身柄を政宗に預けられた。家康の寵臣本多正信が、喧嘩両成敗法を適用して小姓全員の切腹を要求する長房の言葉を伝えたところ、政宗は、両成敗は事により申し付けるもので、無理を仕掛けられた上の殺害は、両成敗法の適用外だ」と反論した。正信は、長房に対して、たとえ将軍直々の裁判になっても、貴殿家来から仕掛けた喧嘩だから死に損を仰せつけられるだろうと述べ、長房は事件を訴えなかった。また、谷口が引用する『仙台藩刑罰記』の2つの事件は、いずれも無礼に対して切りつけた事件は余儀ないことと判断している。些細なことでも侮辱された場合は反撃が当然とされているのである。もっとも、仙台藩でも、両成敗にした事例はある。例えば、正保3年(1646)喧嘩で双方が疵を負った事件で、尋ねても互いにはっきりしないので以後の懲らしめに二人とも切腹を申し付けた事例。また、慶安3年(1650)不意に襲った乱心者を殺害したと申告された事案で、詮議のうえ、前月に当人(反撃した者)が悪口をいった意趣からの喧嘩と判明し、反撃した者に切腹を命じた。これらのように、仙台藩でも、喧嘩で両方を成敗する方針はそれなりにあったと理解できる。しかし、これらはいずれも詮議を加えて両成敗としたもの。いわゆる喧嘩両成敗法とは、「理非を論ぜず」、つまりどちらが良いか悪いか検討することなく両成敗にすることに本質がある。これに対して仙台藩では、明確にどちらが良いか悪いか調べたうえで、双方とも悪い場合に両成敗とした。以上から、仙台藩には、戦時には喧嘩両成敗法があった。しかし、平時には、喧嘩両成敗はあったが、喧嘩両成敗法はなかったと言えるだろう。■関連する過去の記事 フリーページ「戦国・藩政期の仙台・宮城」から「仙台藩の藩政」をご覧ください。(主なものは下記) 仙台藩の罪と罰を考える(その10 拘禁刑、さらし刑、肉体刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その9 奴刑)(2025年08月11日) 仙台藩の罪と罰を考える(その8 追放刑)(2025年08月10日) 仙台藩の罪と罰を考える(その7 流刑)(2025年08月08日) 仙台藩の罪と罰を考える(その6 江戸屋敷と刑罰)(2025年08月05日) 仙台藩の罪と罰を考える(その5 刑場と死刑)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その4 喧嘩両成敗)(2025年08月03日) 仙台藩の罪と罰を考える(その3 正当防衛)(2025年07月24日) 仙台藩の罪と罰を考える(その2 殺人の罪)(2025年07月22日) 仙台藩の罪と罰を考える(その1)(2025年07月21日) 芦東山記念館を訪れる(2013年5月7日) 仙台藩の刑制と流刑地(10年2月10日) 芦東山と江戸期の司法制度(08年10月2日) 仙台藩の刑場(07年9月3日) 仙台藩の牢屋(07年8月19日) 仙台藩の法治体制(06年11月20日) 岩手の生んだ大学者の芦東山(06年3月29日)
2025.08.03
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