仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.01.17
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カテゴリ: 東北
江戸時代中期の名君として名高いのが米沢藩9代藩主の上杉鷹山だ。そもそも上杉家は上杉謙信の血を引く名門で当初は会津若松120万石の大藩であったが、数度の減封と移封で、米沢15万石に至る。収入が激減したのに家臣団はそのまま抱えたから、財政負担は膨大となり、8代藩主重定は幕府に領地返上を願い出たほどである(明和元年=1764年)。

明和4年に17歳で9代藩主となったのが養子の上杉治憲(鷹山)である。役人の削減、特産物の奨励、興譲館の創設などの業績を残した。

鷹山によって登用された人材の1人が竹俣当綱(まさつな)だ。若いときには藩主重定の奢侈を諌めようとして召上げ閉門の処分を受けたが、その後、実権を握り苛政をしいた森平右衛門を有志と謀議し暗殺する。

当綱の献策の第一は、桑、楮(こうぞ)、漆の各百万本植立て計画である。植樹費用を支弁する、成木となれば藩が買い上げるなどの配慮も行った。

また、米沢織の国産化も挙げられる。米沢は青苧(あおそ)の産地だが、織りの技法がなく原料として国外に出していた。当綱は織りの産地から職工を移住させて家中の婦女子に技術を学ばせて、米沢織を産業化させた。

千石取りから執政筆頭にのし上がった当綱だったが、鷹山の信頼と改革の功のあまりに専制が過ぎて堕落し、天明2年(1782年)に鷹山から隠居押し込めの命を受ける。主君の命を伝えたのは、同じく菁莪社出身で改革をともに推進してきた莅戸(のぞき)善政だった。

天明3年から続く凶作は東北地方に凄惨な被害をもたらした。仙台藩だけでも餓死30万人から40万人とされるが、米沢藩は餓死や離散者は格段に少なかった。このように改革の成果は明らかとなったが、天明5年に鷹山は家督を治広に譲って隠退。ときに35歳。訓戒として治広に与えた3か条の「伝国の辞」は有名。

鷹山はなお後見役として政務を指導した。やがて莅戸善政は中老職に登用され改革を推進した。中でも養蚕業、織物業の発展が著しく、財政および農村復興の基盤となった。

竹俣当綱は鷹山の改革を推進した忠臣であり、また権勢をふりかざした奸臣とも評価される。しかし、一度はともに失脚した同志の莅戸善政が復権して改革を引き継ぎ、そして彼らが世を去り、さらに主君だった鷹山が没した翌年にやっと米沢藩は借金を完済する。






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最終更新日  2007.01.17 01:10:38
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