仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2007.09.25
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カテゴリ: 宮城
 寛政5年(1793年)11月27日、牡鹿郡石巻港から、24反帆、800石積みの若宮丸が、藩米332俵と木材を積んで江戸へ向け出帆した。しかし磐城の塩屋崎沖で南の逆風に遭い、北へ漂流すること約半年、翌年6月に乗組員16人が辛くも到着したのは魯領(ロシア領)オンデレイツ島であった。
 一行は10か月ほど厚遇を受けた後、翌1795年4月に、病死した平兵衛以外の15人はロシア本国に船で送られる。オホーツク、ヤクーツク、イルコーツカに順次移される。イルコーツカでは、先年漂着してそのまま居残ってニコライと称していた伊勢の国の新蔵という者が通訳をしたという。
 1803年にモスクワを経て帝都ペトルブルカに送られ、皇帝アレキサンドル一世に謁見を許される。この時一行は10人で皇帝は帰化を認めたが、津太夫、儀兵衛、左平、多十郎の4名が帰国を希望し、政府の好意により軍艦ナデシタ号によって南米を経て無事長崎に送還された。
 漂流者一行は、寛政5年11月から、文化元年(1804年)9月まで12年をかけて世界一周をして奇跡の生還をしたのである。

 この事件は帰国後の記録として「環海異聞」に著されている。

 多十郎の墓は室浜の入口に建てられているが外の3名の墓碑は土に埋もれてしまったようだ。寒風沢の加藤家仏壇に津太夫の母の位牌があり供養されているそうだ。

 林子平が海国兵談を完成したのは1791年、寛政の改革の松平定信は版木を没収して焼いた。日本は躍起になって海外に目をつぶろうとしていた時だ。
 後にジョン万次郎(嘉永3年(1850年)漂流)は、アメリカの捕鯨船に助けられて帰国したが、ペリー黒船来航(1853年)直後の事情から、幕臣となるまで厚遇された。実は島国日本からの漂流民は17世紀から相当多数が外国に保護されている。まさに林子平が言ったように、江戸から唐オランダまで境目のない水路なのだ。
 漂流民を受け入れた強国は、日本に国交を求めに漂流民を護送までしてくれたのだ。しかし、ジョン万次郎の時代は別として、以前の漂流民の帰還は幕府にとって迷惑だったに違いない。また漂流民を手みやげに通商を迫る外国使節はことごとく追い返した。大黒屋光太夫とラクスマン(1792年)、米国のモリソン号(1837年)などの例のとおり。


 思いもしない異国の地を歩き、何とか故郷に戻った4人の心中はどうだったろうか。

 林子平や高野長英のような先覚者を輩出し、さかのぼれば藩命を懸けて支倉常長を遠くローマに向かわせた仙台。ここに偶然ながら日本人初の世界一周を果たした人々がいた。そして時代はそれにフタをかぶせようとした。
 画期的な偉業なのにこれまで知られることの少なかった若宮丸漂流民。彼らの足跡と生きた時代のことを、仙台・宮城の貴重な史実として我々は学び取るべきでないだろうか。

■資料
 ○ 若宮丸漂流の事 (塩竃市ホームページ)
 ○ 多十郎の墓・漂流記念碑 (東松島市観光協会)
 ○菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル
(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品)
 ○ 初めて世界一周した日本人
 ○ 石巻若宮丸漂流民の会
 ○ 津太夫の世界一周記
 ○井沢元彦『攘夷と護憲 歴史比較の日本原論』徳間書店、2004年





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最終更新日  2007.09.25 06:10:42
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