仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.04.30
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カテゴリ: 宮城


看板書きを転記してみる。
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末の松山 (平成11年12月10日多賀城市教育委員会)

 「末の松山」は、「君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ」(古今和歌集 東歌)「ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつすゑのまつ山なみこさじとは」(後拾遺和歌集 清原元輔)の歌で著名ですが、源信明、源重之、橘為仲など多賀城を訪れた官人〈陸奥守 その他〉ともゆかりが深く、多くの歌人たちに親しまれた、みちのくの代表的な歌枕です。
 「末の松山」の所在地については諸説がありますが、この多賀城市八幡説が最も有力です。
 元禄2年5月8日(1689年 陽暦6月24日)松尾芭蕉は、塩竈到着(仙台から)ののち、「野田の玉川」「浮島」を経て、「末の松山」を訪れています。「おくのほそ道」には、
 「末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかわし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、...」
と「末の松山」に接しての感動をしるしています。「寺」とは末松山宝国寺のことを指しています。

 「おくのほそ道」ののちも、芭蕉の足跡を慕って、多くの文人たちが、この歌枕を訪れており、その風潮は現在にも引き継がれています。

(平成11年12月10日多賀城市教育委員会)

おきのゐて 身をやくよりも かなしきは 宮こしまべの わかれなりけり
 古今和歌集 小野 小町
わが袖は しほひにみえぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき
 千載和歌集 二条院讃岐

 沖の井(沖の石)は、古来歌に詠まれた歌枕であり、今もって池の中の奇岩は磊磊とした姿をとどめており、古の情景を伝えています。
 江戸時代の元禄2年5月8日「おくのほそ道」の旅の途上、松尾芭蕉と同行者の曽良は、この地を訪れました。
 また、四代藩主伊達綱村の時代には、仙台藩により名所整備が行われ、手厚い保護を受けていたことが知られています。
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4月も末日にまで桜が咲いている今年だが、もう鯉のぼりもちらほら目にする。やっと来ましたとばかり、初夏らしい朝の陽ざしが、やわらかく降り注いでいた。





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最終更新日  2010.04.30 12:11:34 コメントを書く


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