仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2010.10.16
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カテゴリ: 東北
日本の一般人の数学水準が高いのは、江戸時代の和算が根底にある。「塵劫記」の吉田光由、「竪亥録」の今村知商、関孝和、建部賢弘などの天才が数学を発達させたが、一般庶民にも生活に必要な数学は普及した。寺子屋では最低限度の加減乗除を教えたし、地方の村でも向学心がある者は藩校で学び、また江戸の遊歴算家が歓迎された。遊歴算家としては、山口和、佐久間纉、法道寺善などで、各地に足跡を残している。

庶民文化としての数学としては、文化文政期の江戸の長谷川道場に人気があった。長谷川寛は関流の宗統日下誠の弟子で、従来秘伝とされた高度な数学書を弟子の名で次々と公刊した。千葉胤秀「算法新書」、山本賀前「大全塵劫記」などである。

長谷川道場屈指の数学者として頭角を現したのが山口和(?-1850)である。新潟県水原町立博物館に残る日記をもとに、山口の遊歴から東北の和算文化を拾ってみた。

■佐藤健一『日本人と数 和算を教え歩いた男』東洋書店、2000年 から

1 一度目の遊歴

文化14年4月9日(旧暦)、山口は神田の長谷川道場を出発し筑波山参詣に向かった。上総国豊田村郡上蛇村(水海道市)の玉宝院に泊まったところ、数学好きの住職の息子に教えて欲しいと頼まれる。山口は息子に九九、八算(注)を暗唱しているか確認し、そろばんの使い方を教える。

(注)八算は、今では使われないが割り算の九九である。二進が一十、三進が一十、と始まる。2/2=1、3/3=1の割り切れる場合を言うが、「にっちもさっちもいかない」の由来だ。

また寺具村では満充寺住職に依頼されて数学を講義した。山口は方々で数学談義をしながら、帰途は鹿島神宮、酒々井などを経て5月神田に戻る。

2 二度目の遊歴



(1)陸前浜街道を仙台領まで

勿来の関を越え、菊多郡久保田村枝村の大月村に滞在。近隣の村から多数が集まり、数学を講義する。狐塚村、四倉村、楢葉郡山田岡村、富岡、行方郡大堀村、小高村、原町を経て、中村の分かれ道は、通りやすい山際の道(陸前浜街道)を選び西進。山麓にあたり右(北)に曲がって、塚部、駒ヶ嶺、新地、仙台藩南端の坂元本郷に入る。東の太平洋岸の磯浜には、元文4年(1739)ロシア探検隊の3艘現れており、山口が通った頃には唐船番所が設けられていた。

麻生原村、山下村、山寺村、吉田村、亘理村。北西の風が強いため火災を考慮して屋敷を直線に並べない工夫がされている。

阿武隈川を渡り、北長谷村で島貫清蔵に数学を教え、岩沼竹駒神社、二木(武隈)の松、岩沼で奥州街道と合流し北上。長町から国分町へ。岩井屋源之丞の家に泊まる。山口が仙台に来たのは新暦4月14日で桜が咲いていただろう。

今市から右へ向かい、市川村多賀城では「壺の碑」とされた多賀城碑を見て、塩竈神社、海路で松島、富山で絶景を眺め日記に絵を描いている。芭蕉の影響が強いようである。

(2)千葉胤秀と出会う

富山から川下村に出る。すると村に数学者が滞在しているというので面会する。仙台領内で町人農民3千人以上を弟子に教えている千葉胤秀である。千葉は一関藩家老で関流藤田貞資の門人梶山次俊に学んだという。問答の後に千葉は山口の弟子となり、2人で小野村の外れで右の石巻街道に進む(左は気仙道)。牛網村、矢本村、大曲村から石巻に入る。日和山で芭蕉の句碑を確認し、牧山では長禅寺境内に算額を認める。石巻では別行動を取り、山口は渡波から船で牡鹿半島鮎川、金華山を訪れる。蛇田、鹿又、和渕、寺崎、赤生津、横山不動尊。黄牛村で千葉の弟子宅に泊まり、4月1日流郷清水村(一関市花泉)で千葉と再会する。

千葉は安永4年(1775)農家の二男に生まれ一関まで8時間かけて歩いて梶山に学んだ。その後自宅を開放して教えていたが、次第に歩く範囲が広まり遊歴算家となった。山口は千葉の家で、仙台などに掲げられていた算額の問題33題を話題にした。累円術が多い。千葉の家に3泊した山口は、千葉に長谷川道場入りを勧めた。

山口の旅の最大の成果は千葉胤秀を弟子にしたことである。千葉は、後に江戸にのぼり長谷川寛に学び、「算法新書」を編集して有名になる。帰郷後は一関藩士となり数学教育に尽力した。子孫も優れた数学者で、特に孫の千葉量七は将来性があったが、明治元年戊辰戦争で25歳で亡くなった。

(3)盛岡藩領へ

平泉から北上川を渡り、東山郷長部村で千葉胤秀の弟子千葉新太夫宅に泊まる。平泉見物のあと、山ノ目村まで戻り、奥州街道を西に折れる。中野村、赤萩村を経て五串村で胤秀の弟子吉太夫を訪問。再び長部村千葉新太夫宅から、今度は北上川を渡らずに、山の中腹を北に向かい、赤生津村、母躰村、山内村。正法寺と黒石寺に参詣する。羽黒堂村、石山村、岩谷堂へ。賛同から外れて下り、照沢村を越え門岡村。下鬼柳村で奥州街道に出る。ここから南部藩であり、黒澤尻村、成田村と北上川西岸の山際の街道を歩く。根子村では数学者河原新作の家を訪ねる。



小岩が神文をしめしたので河原新作も関流の自分の神文を披露した。河原の師は南部藩士小山田勇右衛門で、かつて江戸で関流の藤田貞資に学んだ。藤田の門人として、阿部知義、下田直貞、志賀吉倫は盛岡の三子と呼ばれる優れた数学者だが、小山田も同様に数学教育に熱心であった。

南万丁目村から花巻に出て、奥州街道を八幡、石鳥谷、郡山、高田、三本柳、津志田を経て盛岡へ。4月15日、北上川にかかる珍しい舟橋を渡り仙北町。舟を何艘も鎖で繋いでその上に板を敷いた橋で、前は古川橋があったが寛政の洪水で流されたため、舟橋にした。外加賀野に住む小山田勇右衛門を訪ね滞在。江戸の数学事情などを話したと思われる。小山田から聞いて盛岡天満宮の算額を見ている。

(続く)
和算家山口和の東北遊歴(中) (2010年10月16日)へ





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最終更新日  2010.10.19 21:29:58
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