仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.03.08
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カテゴリ: 東北
古代の日本の地理空間は現在の日本列島全域ではない。

倭国に代えて「日本」の国号を使い出すのは7世紀後半だが、どこまでが「日本」だったのか。997年に奄美人が兵船で薩摩に来襲し、住民300に連れ去ったとあるが、当時の奄美初頭は日本から見て異国だったことになる。自国と異国を分かつのが国境だが、近代的な意味の国境は、安政2年(1855)の日露通好条約で択捉島とウルップ島の間に初めて引かれたが、千年前の奄美を異国と認識した日本人の意識はこのような近代的な国境ではない。

政治地理学では、国境にはバウンダリーとフロンティアの2つの形態がある。日露通好条約の国境はバウンダリーだから、地図に線として描ける。一方、フロンティアは一定のゾーンとしてしか捉えられない。

2つの国境は、形だけでなく質的な違いも大きい。ブルース・バートン『日本の国境』は、地理学者L・クリストフの所説を紹介している。バウンダリーが空間的に広がってもフロンティアになるのではない。両者の世界観はまったく異なり、バウンダリーは法律的または政治的な概念に基づいて決まり、フロンティアは自然発生的に1つの文明世界が広がる中でたち現れる。

劣等の東北側にはまた別のフロンティアが長く存在した。エミシ、エゾが、そのフロンティアの外に広がる世界に住んでいた。

■参考:奥武則・大島透『にっぽん一千年紀の物語』毎日新聞社、2001年

私は、この話を読みながら、憲法論としての「国境の存在理由」を想起していた。たとえば長谷部教授の著書の中の「国境はなぜあるのか」の論考だ。

古代日本の、その「日本」の側からエミシをどう見てきたか、それはいわば現代日本人が習う日本の歴史感だ。

一方で、われわれが住むこの土地。東北という地に、こだわりたい。そうすれば、この地に政治空間が広がっていた古代のフロンティアを、東北の視点から想像してみたい。もちろん、その時代に立憲的な意味でのconstitutionはなかっただろうが(研究が進めばどうかわからないが)、いかなる政治社会がどこまで広がっていたのか。古代蝦夷社会の規律や法制など、もし時間や方途に恵まれれば、ぜひ勉強したいものだ。





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最終更新日  2011.03.08 21:52:59
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