仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.10.16
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カテゴリ: 宮城
前回(その2)

■関連する記事シリーズ
船岡と海軍火薬廠の歴史(その1) (2011年10月13日)
船岡と海軍火薬廠の歴史(その2) (2011年10月14日)

■朝日新聞仙台支局編『宮城風土記3完』宝文堂、1987年から
(なお、同書の船岡海軍火薬廠は、昭和60年に新聞に連載したとのことです。従って、下記記事中の人物の年齢や肩書きは当時のものです。)

9 新しい需要

昭和22年の第1回統一地方選で史上最年少25歳で県会議員となり連続8期、昭和53年から柴田町長の平野博さんは、20年9月末23歳で郷里船岡に復員し、米兵の柔道教師を務めるようになる。そして、一目置かれた平野さんは、米軍労務担当将校から、米兵の規律維持のためにも、キャンプの日本人従業員組合を組織するよう頼まれる。米軍は占領政策として労組結成や育成に熱心だったのだ。21年3月船岡進駐軍要員労働組合が700人の組合員で誕生、待遇改善に一役買おうという気持ちから、また、身内の規制に協力を求める米軍の率直さに打たれて、平野さんが委員長になる。



それでも、米軍進駐は火薬廠閉鎖による地域の衰退に歯止めをかけた。基地作業員は、炊事洗濯から土木工事まで一時は1500人近くに膨らんだ。こうした需要が周辺にあふれた旧火薬廠の従業員や復員軍人、引き揚げ者などに生活の道を開いた。進駐軍の規模は縮小し、船岡でも23年頃から激減、24年には100人を割って、キャンプの要員需要も急速に落ち込んだ。他方で25年6月朝鮮動乱が持ち上がると警察予備隊が創設され、空き家となった船岡米軍隊舎跡に、26年10月警察予備隊の東京の工兵1個大隊が入営。半年で普通科大隊と入れ替わり、その後も自衛隊と改称されてからも交代が続いた。火薬廠時代の建物を流用するだけで住み心地も悪かったので特定部隊の根拠地にするには無理があった。跡地は33年6月正式に米軍から全面返還されたが、最後に駐屯した自衛隊補給支援部隊も2か月後に仙台に撤収し、広大な敷地は無人地帯にかえっていた。

10 自衛隊誘致

敗戦以来、米軍と自衛隊でそこそこ食いつないでいた地元船岡の人々はあわてた。しかも31年に槻木町と合併し柴田町として発展を目指す矢先のことだった。町当局や町議会は、角田出身の元海軍中将、戦後は地元選出代議士として活躍中の保科善四郎(94)(前出のとおり火薬廠の船岡立地を工作した。)を前面に建てて政府に自衛隊再配備を働きかけた。

この時期陸自は全国6管区を5方面隊に組み替える機構改革を進めていた。そのタイミングに働きかけたのが奏功し、全国でただ1群しかなかった豊川市の第一建設群の3つの構成部隊のうち第103建設大隊約800人の35年度内移駐が認められ、その駐屯用地として米軍からの返還時519haあった火薬廠跡地のうち65haが大蔵省から防衛庁に移管され、36年8月同大隊を中核として、東北方面隊の工作部門を受け持つ総監部直属部隊、第二施設団がここを本拠に編成された。さらに37年には82haの用地を加えて東北地区補給処の船岡弾薬支処も旧爆薬庫地帯に配置が決まった。

本隊が到着した35年3月15日、家々は日の丸を掲げ大アーチを建てた国鉄駅で花火を打ち上げ一行を迎えた。中学校庭の歓迎式で熱っぽく演説をぶったのは社会党県議団長の平野博さんだった。船岡に駐屯する第二施設団、その中核の旧第103建設大隊は昔の工兵隊で、土木建設工作が任務の専門部隊。船岡移駐に先立ち、蔵王エコーラインの先触れ工事でも力を発揮した。

11 産業復興

米軍は跡地全体を接収したものの、実際に使ったのはほんの一部だった。手つかずで放置された工場や倉庫などは荒廃が進んだ。24年秋になると、工業用地として活用し地域の振興を図ろうとの声が高まり、副知事、仙台通産局などによる県賠償施設委員会が発足、保科善四郎元海軍中将を会長に工場誘致連盟も組織、活発に動いた。

最初に誘致話が進んだシリコン樹脂製造工場はご破算に。しかし、殺虫剤BHC製造工場進出計画が保科氏のもとに持ち込まれて実った。こうして25年1月東北共同化学工業会社が設立された。資本金3百万円のほとんどは船岡火薬廠建設工事を手掛けた大木建設の創業者大木貞助氏が肩代わりし、社長には海軍元技術大佐、会長には保科氏が就任した。県工場誘致条例の適用第一号でもあった。

殺虫剤BHCは、DDTをしのぐ効力と安さのため、家庭用に爆発的に売れ、続く農薬用も大成功だった。28年には総合研究所も設立。やがてドイツから技術導入した水銀系薬剤の製造も手掛けたが、協力者の東北大教授から水俣病などの中毒情報がもたらされ、非水銀系の開発研究に力を入れ、全国に先駆けて38年イモチ病防除剤の開発に成功、内外特許をとって売り出しを図った。ところが、水銀系に固執する大手製薬会社と農民に阻まれて需要は伸び悩んだ。BHCも人体残留成分の影響から使用禁止となり、経営は窮地に。結局、北興化学と業務提携に踏み切り製品販売権を譲って危機を脱した。35年頃からは原料供給を受ける三井化学工業との提携を強化、接収を解かれた火薬廠跡地内に共同出資の新農薬工場を設立した。運営会社は、三東化学工業と命名、37年10月から操業を始めた。互いに隣接し、共同化学は粉剤、三東化学は粒剤中心で競合を避けた。

跡地民活のパイオニア東北共同化学工業は、現在資本金2千2百万円、38人が北興化学ブランド中心に農薬生産にあたっている。総合研究所は48年に閉鎖され、敷地の一部はガソリンスタンドや自動車整備工場となった。保科氏のおいの保科慶美さん(68)が4代目社長として経営を引き継いでいる。

船岡火薬廠の建設以来、ステンレス加工を手掛ける品川区の大江工業が作業に加わり、やがて0年5月には白鳥神社わきの水田に東北工場を構えた。終戦後も特殊技術で業績を伸ばした。40年8月には東北大江工業として独立、周囲が住宅地となったため47年1月に現在地(火薬廠時代の爆薬仕上げ工場跡地)12haを県土地開発公社から購入して移転した。いまは資本金1億5千万円、札幌にも工場を持つ中堅機械メーカーに成長し、受注先も原子力発電や宇宙ロケッット実験装置まで広がっている。



船岡海軍共済組合病院を引き継いだ船岡鉄道病院は41年3月閉院。建物を使って翌年4月、船岡養護学校が開校した。肢体不自由児のための独立教育施設は県内初だった。43年には秋保町拓桃園の地元小中学校分教室と公立刈田病院のベッドスクールを移転させた不忘学園の2施設が、船岡養護学校の分校となる。

13 大学誘致

38年3月、旧火薬廠船岡門周辺の建物を流用していた陸自第二施設団は、大沼門近くに本部隊舎を完成させた。そのため船岡門周辺の跡地7.6haが不要となった。平間新午郎町長がこれに目を付け、付属高校を全国に広げていた日大に誘致を打診した。古田重良会頭は、金を貸すから地元が学校を建てて3年間は自力で経営し軌道に乗ったら引き取って付属高校にする、と条件を出した。町長は応じようとしたが、県のある課長が、高校はいずれ県が建てる、大学はどうか、と学校法人朴沢松操学園が四年制大学用地を探している話を紹介。町はこれに乗り換えた。跡地管理の大蔵省と文部省が互いに相手が先と言い張って無駄に時間が過ぎたが、大物政治家の調整で開学予定直前の41年2月に認可内示。最初は学生応募が少なく、職員給料も出ない時もあったが、50年代から志望者が急速に延びている。

14 角田とロケット技術開発

我が国航空技術開発は、37年スタートの第2次五か年計画でロケット技術を重点目標に加え、新たな施設用地を秘かに検討していた。角田市議会議長だった笹森賢蔵さん(82)は、横須賀で航空機開発に従事した専門家だ。かつて東大工学部航空学科で机を並べた松浦航空技術研究所次席(のち所長)との縁で、40年7月、ロケット研究のメッカとして角田市君萱地区の旧火薬廠跡約91haを敷地に、航空宇宙技術研究所角田支所が誕生した。


(完)





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最終更新日  2011.10.16 21:38:34 コメント(5) | コメントを書く


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