全8件 (8件中 1-8件目)
1

河北新報の記事における誤字や事実誤認、また、偏ったり公正でない論評については、いまさら驚くこともない。と言いたいところだが、これには本当に参ってしまった。8月29日の朝刊紙面だ。見出しに堂々と、大崎の「日本人学校」とある。(下記画像は、8月31日時点の紙面ビューアーから切り取り)きょう(8月31日)、オンラインの記事を見ると「日本語学校」と訂正されている(下記画像)。だいたい、国内や県内に日本人学校があるはずもない。誰でもおかしいと思う。しかし、デジタル紙面(紙面ビューアー)は、きょう時点でも、以前のままだ。よく読み返してみたら、翌日の30日の紙面に、訂正の告知があった。実は、お詫びや訂正の告知がないと思っていたので、その前提で最初、この日記で思い切り持論を展開し、400字くらい書いた。単なるミスにさえ真摯に対応する姿勢がない「大新聞社」に、公正な論評が期待できるものか、と。自分も不覚だったので、その400字は削除した。■関連する過去の記事(河北新報に関すること) 河北新報の誤字(2025年06月18日) 医師と歯科医師を考える(2024年04月20日)=見出しの誤り 大川小学校事故訴訟と河北新報の誤り(2016年12月18日) 石巻殺傷事件の実名報道を考える(2016年6月16日)=理由が不可解 畠山重篤さん(2015年9月26日)=河北新聞と言う 人はなぜ河北新聞と呼ぶのか(その5)(2015年9月16日) 河北新報の記事を評価する(2015年9月8日) 河北新報のいう与党野党とは(2015年9月7日) 自動車学校の花壇? そして校名について(2015年8月16日)=見出し 選挙カーが仙山線を止める(2015年8月2日)=実名報道すべき なぜ宮城県人は「河北新聞」と呼ぶのか 第4論(2014年6月4日) 仙台・宮城県の新聞概史(2012年11月10日)=一県一紙となるまで なぜ人は「河北新聞」と呼ぶのか(2012年1月25日) 岩手県職員の逮捕報道を考える(2012年1月8日)=実名の是非 再び考える なぜ仙台の人は「河北新聞」というのか(2011年5月20日) 河北新報の誤字を考える(2010年12月8日) 河北新報の支局を言えますか(10年3月31日) 共同通信のせいにするのか(09年9月19日) a half of twins = a twin ?(09年8月29日)=ハーフの使い方 減少するGS 東北の実態(09年7月19日)=データの扱い方 仙台・宮城の人はなぜ「河北新聞」と呼ぶのか(09年7月17日) 新聞は「会社員」にそれほど厳密なのか(09年7月1日) 仙台市長選挙を考える(09年5月24日) 公金不正と国の予算を考える(08年11月4日)=国の関与の実態を報道できるか 山形の学校プール事故2題を考える(08年7月25日)=飛込み一律禁止について 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日) 河北新報の梅原市長評を考える(06年2月28日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日) 知事選挙の動向(07年3月26日) 岩手県知事選挙スタート(07年3月23日) 浅野氏と河北新報(07年3月11日) 不適切動員を考える(07年2月13日) 河北新報の誤字(07年2月11日) 直撃チェック!隣の机(06年12月14日) 仙台市議会と都市ビジョン会議公開問題(06年8月22日) 河北新報を賞賛する(06年5月24日) 河北新報関係タブロイドについて(続)(06年5月5日) 河北関係タブロイド各紙について(06年04月10日) 河北新報の梅原市長評を考える(06年2月28日) 立川反戦ビラ事件東京高裁有罪判決と各紙報道(特に河北新報)(05年12月12日) 今日の河北新報の記事2題をもとに考える・続(05年11月7日) 今日の河北新報の記事2題をもとに考える(05年11月7日) 仙台市バス乗車拒否で賠償請求の件について(05年11月3日) あれ「横手市」がないよ!(05年10月2日) 河北新報の誤植について考える(05年9月20日)
2026.08.31
コメント(0)
きのう、釜石鉱山鉄道のことを書いてから、思っていたこと。金銀、鉄などの鉱山資源をめぐって古代から権力者は争い、近代には国力増進のために開発され、またそこには家族のために額に汗して働いた人たちが集まった。現在のほんのちょっと前、二世代くらい前の時代をみても、鉄道が走り、鉱山の麓に町ができて、学校、映画館、病院がにぎわった時もあった。そんな今に続く、地域の盛衰の歴史。鉱山と東北の、特に現代史に光を当ててみたい。まずは過去記事を寄せ集めてみました(この記事末尾にリスト)。今後、特集の構想を練ります(編集長)。AIに500字でまとめてもらいました。東北の鉱山史は古く、奈良時代の涌谷での日本初の産金や、平泉の黄金文化を育んだ北上山地の砂金採掘に遡ります。明治期には鹿折金山や大谷鉱山、半田銀山などで近代的な採掘が開始され、佐渡や生野と並ぶ国内有数の産地として日本の工業化を牽引しました。ブログ著者はこうした産業の背景において、単なる資源開発の成功史だけでなく「現場に携わった人々の営みと情熱」に強く着目しています。開発者・鉱山師の挑戦: 鹿折金山で秋田から鉱山師を招いて試行錯誤の末に巨大な金鉱石(モンスター)を発見した地元の情熱や、五代友厚らによる洋式技術の導入と経営革新など、地域開発に挑んだ先達の功績を見つめています。過酷な現場を支えた労働者の絆: 鉱山労働者の間で生まれた互助組織「友子制度(ともこせいど)」を取り上げ、危険と隣り合わせの現場で助け合い、絆を結んで生きた従事者たちの思いや独自の労働文化に光を当てています。著者は、東北の地下資源が国家や地域の発展を支えた側面を描くと同時に、厳しい風土と危険な鉱山空間の中で地域開発に命を注いだ人々の知恵や連帯のドラマを多面的に掘り下げています。 釜石鉱山鉄道(2026年08月26日) 広瀬川の赤さびと亜炭坑(続)(2024年11月11日) 広瀬川の赤さびと亜炭坑(2024年11月05日) 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日) 東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日) 米川の戦後史 米川新聞、沼倉たまき、教会活動など(2024年08月16日)=キリシタンの歴史 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日)=仙南軌道と鉱石運搬 運炭路線として栄えた磐越東線(2023年12月28日) 鉱山労働者と友子制度(2023年04月23日) 平泉繁栄の理由 北上山地の砂金(2023年02月19日) 大谷鉱山(気仙沼市)(2021年5月4日) 鹿折金山(2021年5月3日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) 小坂鉄道レールバイク(2013年9月14日) 日本キャニオンを訪れました(2013年5月18日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日)=玉造と鉱山 八戸キャニオンを見てきました(2012年8月17日) 日本一低い場所 八戸キャニオン(2012年3月20日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) ハンダの名の由来 桑折町(10年8月7日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 秋田藩佐竹義宣の改革を考える(07年12月19日)=院内銀山 日本キャニオン(07年10月7日) 壮大なる八戸キャニオン(07年4月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)(おくのほそ道)
2026.08.27
コメント(0)
釜石鉱山鉄道は、大橋駅から製鉄所まで鉱石運搬をメインに敷設されていた。いまは車道となって姿がないが、鉄道として、新橋ー横浜、大津ー神戸に次いで、国内3番目という。あんべ光俊さんのエッセイに出ていた。釜石に住んでいた子供のころ、駅で毎日、蒸気機関車を眺めていたそうだ。■あんべ光俊『イーハトーヴタイム/いい匂いのする日々』イーハトーヴウインズ、2026年(内容を紹介できませんが、素晴らしい文章です)。当然、東北では最初の鉄道になる。1880年、官営製鉄所と鉱山を結び開業。いったん廃止され、馬車鉄道として復活、その後、蒸気機関車が運転され、旅客も扱うようになる。1944年、釜石東線(現在の釜石線)が並行して開業したため、鉱石や通勤社員を運ぶ専用鉄道となった。社員の輸送は1950年まで、そして、鉱石輸送も1965年に終了し、鉄道は廃止された。陸中大橋駅(釜石線)の付近に、廃線跡や設備の跡がみられるという。■釜石市サイトから旧釜石鉱山事務所(釜石鉱山展示室)■関連する過去の記事 鉄道工学と東北を考える(09年4月18日)(釜石のレール生産)
2026.08.26
コメント(0)
8月15日の河北新報朝刊の記事だ(松村真一郎記者の署名)。見出しを列記すると、「褜(えな)褜付く名前 宮城なぜ多い?/出産時の願いに由来か/難読字 現在は人名に使えず/古い風習 地域特性は不明」というもの。概要は以下(当ジャーナル要約)。褜(えな)は、胎児を包む胎盤やへその緒を意味する漢字。宮城県内で人名に多いというが、なぜ難読漢字が名前に使われるのか。宮城野区の昭徳寺で東日本大震災の遺族を取材していて、犠牲になった祖父の褜(えな)蔵さんの名が気になった。寺の許可を得て墓石を見て回ると、ほかにも、褜吉、褜松などの名がみえた。電話帳では、石巻市、名取市、村田町、加美町などで人名に確認できた。寺の近くに住む人の紹介で、宮城野区の佐藤褜男さん(84)に話を聞くと、岡田小学校の頃は同じクラスに褜志(えなし)、褜幸(えなゆき)がいた。母親に由来を聞いたら、褜が体に絡まった状態で産まれたからだと教えられたという。方言漢字事典(研究社)によると、宮城ではへその緒が体に絡まった状態で産まれた子に、丈夫に育って欲しい願いを込めて、褜の字を名付ける風習があった。「いな」と読む例、女児に「えなよ」と名付ける例も。編著者の笹原宏之教授(早稲田大学)は、この風習は遅くとも江戸後期には存在したが、なぜ宮城で根付いたかはわからないという。1948年戸籍法改正で、この漢字は人名に付けられなくなった。じつは私(当ジャーナル編集長)も、宮城県で社会人になった20代前半のころ、職場の先輩から、人名にたまにある「褜」の字の読み方と、その意味を教えてもらった記憶がある。たしか、宮城の県北部に多いとも言われた気がするし、褜は医療用に用いたとか、家の土間に埋めたとか、そんな話も聞いたように思う。(以下、関連する過去の記事) 人の名(ファーストネーム)の地域性を考える(2026年03月20日)=東北には〇悦の名の長男が多いこと 方言漢字、地域文字(2025年01月03日) 方言漢字を考える(2019年11月18日)■姓名など 東北各県の特徴的な名字と珍名(2019年11月24日) 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(06年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(06年9月12日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 苗字と名字の違い(06年5月22日) やっぱり多い鈴木さん (06年5月9日)■人の名前あれこれ シンコペーテッドな名前 再論(2023年01月03日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 下から読んでも同じ名前(2011年11月25日) 同一の段だけの氏名はあるか(09年4月23日) ア列の名前(08年7月26日) 回文を考える(07年9月15日) シンコぺーテッドな名前(06年12月22日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 苗字と名字の違い(06年5月22日)
2026.08.17
コメント(0)
平安時代の会津に、傑出した博識の僧がいた。下記文献から。(僧徳一に関する記述の前後を含めて、当ジャーナルで適宜要約と編集させていただいた)。■本郷和人『宗教の日本史』扶桑社、2024年1 仏教伝来の経緯仏教が日本に伝来したのは欽明天皇の時代だが、宗教に対する抵抗や対立はなく、ごく平穏に受け入れられたと言えるだろう。神道は自然崇拝的な要素が強かったが、経典や協議が整っている仏教は、日本人にとって初めてであう本格的な宗教として、新しい魅力があった。また、仏教周辺の美術や音楽という文化的要素も人々の心を惹きつけただろう。聖徳太子の時代を経て奈良時代には、仏教は国家宗教としての地位を確実にする。その背景には、白村江の戦いで大敗を喫し、半島での権益を放棄し国力低下の危機に直面した日本が、国を守る手段として仏教による鎮護国家をめざしたことがある。奈良に伝えられたのは、南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗(ほっそうしゅう)、俱舎宗、華厳宗、律宗)で、特に力を持ったのが華厳宗(東大寺)と法相宗(薬師寺)であった。これらの教義は現在の宗教とは異なり、非常に難解であり、理解するには高度な学問と修業が求められた。厳しい道を経て、僧侶になるための得度ができるのは、国によって少数に制限されていた。この時期の仏教は、現代で言う癒しや慰めなどの人々の救済ではなく、国家の安定や繁栄を目的にする性格が強く、僧侶は学問や経典の研究に力を注いでいたようだ。2 京都への遷都と仏教改革道教事件のように奈良の僧侶が力を強める中、危機感を抱いた桓武天皇は、平安京に遷都する。(おだずま注;奈良仏教と距離を置くための遷都という定説に対して、本郷氏は疑問が残るとしておられる。)この時期、仏教界でも大きな変革が起きた。ともに唐で学んだ最澄(天台宗)と空海(真言宗)が、国家を鎮護する南都六宗に対して行なった仏教改革である。空海は圧倒的な語学力と知識により、中国で真言宗の師匠から跡継ぎに指名されるほどの待遇を受けた。最澄は天台宗を学んだが、当時の中国ではやや古いものとされていた。最澄が学んだのは顕教(けんぎょう)、空海は密教と、内容が違っていた。顕教とは、文字や言葉で書かれた仏典に基づき修行者が教えを積み重ねて解脱するもので、悟りに至るまで時間と鍛錬を要する。一方、密教は、人間の理性では到達できない秘密の教えのことで、仏の力を得て悟りを開く道である。仏の神秘的な力を借りて即身成仏する、との考え方である。短期間で悟りに至る密教は貴族に歓迎された。最澄は危機感を抱き、年下の空海に弟子入りするが、最澄が必死に経典を借り出そうとしたため軋轢が生じたが、この2人の対立が、のちの仏教界の二大流派の誕生のきっかけとなった。最澄の弟子の円仁や円珍の代で、天台宗は密教を教義に取り入れることに成功し、その結果、天台宗における台密(たいみつ)、真言宗の密教である東密と呼ばれるようになった。中世仏教の枠組みは、顕密体制(黒田俊雄)と呼ばれるが、天台宗には密教が含まれている。3 三一権実論争と徳一最澄や空海の当時の仏教思想で注目されるのは、三一権実(さんいちごんじつ)論争である。最澄が、会津の僧徳一(とくいつ)との間で繰り広げた論争。徳一は、法相宗の僧で、悟りに至る道に、声聞乗(しょうもんじょう)、縁覚(えんがく)乗、菩薩乗の3つの境地があると主張。対して最澄は、この3つは方便で、最終的には一つの悟りに達すると主張した。すなわち、3つの悟りと1つの悟りのいずれが真の教えか、の議論であった。権は仮の教え、実は真の教えの意である。この論争は仏教界で重要な思想的対立を生みだした。論争には多くのトピックがあるが、中でも、「人は仏になれるのか」。最澄の教えは、草木国土悉皆成仏の考えに基づき、人間に限らず無機質で自我を持たない草木も仏になれる。この思想はのちに天台本覚論に発展し、日本の仏教思想の中心的な考えとなる。最澄の教えは、すべての人間が悟りを開き教えを説く存在になれることになるが、徳一はこれに反対し、人間は、仏とは異なる阿羅漢(あらかん)という存在までしか到達できない。仏教の教えを説けるのは釈迦ただ一人であり、阿羅漢にまでしかなれない人間が教えを他者に説くことはできない、したがって修業は一人でするものではなく共に高め合いながら修行するべきものであると主張した。この違いは、大乗と小乗仏教の違いに近いものがある。小乗仏教は、三蔵法師がインドから持ち帰った思想で、個人の解脱をめざす修行体系。一方、最澄が説いた天台宗は大乗仏教であり、すべての人が仏となり、ともに悟りの道を歩むとする考え方である。3 徳一の存在両者のやり取りは非常に感情的で激しいものだったが、それだけ徳一が、仏教に対する深い理解を示し、最澄に影響力を持っていたと言える。法相宗は南都六宗の一つでかなり学問的な仏教であるが、当時の会津に、最澄と対等に議論できるほどの学識をもった高僧が活動していた事実には驚かされる。4 (以下、当ジャーナル)ゆかりの施設福島県磐梯町のサイトに、高僧徳一ゆかりの慧日寺資料館がある。■磐梯山慧日寺資料館・史跡慧日寺跡慧日寺跡は、昭和45年に仏教文化発祥の地として国史跡に指定。徳一廟の保存に続き、新たな遺構も発見されている。昭和62年に、磐梯山慧日寺資料館が開館した。
2026.08.14
コメント(0)
きのう(8月11日)は山の日だった。夏に弱い私としては、さほど高い気温ではなくても湿気が頭痛や倦怠感を引き起こしている気がして、山に登ることはおろか、物を考える気力も薄れていた。そこで、力を抜いて、東北の山々について考えてみたいが、手っ取り早く、当ジャーナルの過去記事を以下に集めてみました(手抜き)。(ほかにも、山岳信仰、峠を越える街道、山城をめぐる歴史、山を貫くトンネルや道路などなど、さまざまな記事があります。)■関連する過去の記事 加護坊山(2026年05月04日) 山の呼び方(山、岳、森など)(2024年12月26日) 堺田の分水嶺(山形県最上町)(2024年07月06日) 牧山は魔鬼山か(2024年01月29日) 不忘の碑(白石市)(2023年08月11日) 徳仙丈山(2023年06月01日) 田束山(2023年05月30日) 白河以北一山百文の意味の変化(2023年04月04日) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日) 十和田噴火(2021年10月10日) 日本一低い山より低い山(2015年10月8日) 十三湊の信仰の山 靄山(2015年9月21日) 二百名山と銘酒(2014年12月31日) 秋田県で一番高い山は...(2014年10月21日) 蔵王火山と鳥海火山の噴火(2014年10月1日) 会津の富士山(2014年5月10日) 山形と新潟の県境にある山 日本国の伝説(2013年10月9日) 3県境の八溝山(2013年10月6日) 飯豊山と福島県境の経緯(2013年3月18日) 蔵王の御釜の色を考える(2013年2月19日) チョウクライロ舞と鳥海山(2013年2月9日) 日本の火山災害(2012年9月10日)(東北関係は磐梯山と安達太良山) 黒又山(2012年8月20日) 見える分水嶺 堺田峠(2012年6月26日) 和淵山の歴史(2011年10月5日) 出羽三山(2010年12月7日) 多聞山から偉観松島を眺める(10年10月11日) 双観山から見た松島(10年9月27日) 扇谷山から幽観の松島を望む(10年9月19日) 鎌倉岳と蒲生岳(10年9月23日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 会津のマッターホルン 蒲生岳(10年8月29日) 番ケ森山に登る(10年3月7日) 阿武隈のマッターホルン(09年11月27日) 登山界に冠たる仙台(09年11月9日)(槇有恒、山内東一郎) 真昼山地(09年10月18日) 蔵王山境界紛争を考える(09年5月17日)山火事と東北(09年4月11日)(昭和36年三陸大火、昭和58年仙台市利府町山火事など) 登山道だった国道289号(09年3月11日) 栗駒山麓と温泉(09年2月10日) 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日) 日本一好(す)いてる三ノ倉スキー場(08年2月13日) 標準電波を出す福島県おおたかどや山(08年2月2日) 月山トレッキング(07年10月20日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日) 飯豊は会津の山(07年8月6日) 鳥海山の種まきじいさん(07年5月16日) 蔵王スキー 3つの好条件(07年2月3日) 山形パノラマ展望(07年1月23日) 雪国と山を考える(07年1月11日) 東北の百名山を考える(06年9月4日) 南蔵王縦走(06年8月20日) 鳥海山麓の2日目(06年7月31日) 鳥海を訪れる(06年7月30日) 栗駒と蔵王の名前の由来(06年7月28日) 宮城の山(06年7月5日) 小野寺寅雄さんの『みやぎの峠』(06年5月2日) 韓国スキーヤーが注目する山形県(06年5月19日) シーズン最後は山形蔵王(06年5月6日) ぼけた頭で考えるチベットと仙台(06年1月22日)
2026.08.12
コメント(0)
東日流外三郡誌で有名な和田家文書の経緯について。下記の文献をもとに。■原田実『偽書が揺るがせた日本史』山川出版社、2020年1 東日流外三郡誌の経緯(上掲書の第5章から、適宜当ジャーナル要約)『東日流外三郡誌』に代表される「和田家文書」は、寛政年間前後、三春藩主秋田家の親族である秋田孝季(たかすえ)が、義弟で津軽飯詰(いいづめ、現五所川原市)の庄屋でもある和田長三郎吉次(よしつぐ)とともに編纂した文書だという。吉次の子孫と主張したのが所蔵者の和田喜八郎(1927-99)であった。一般に知られるようになったのは、昭和50年から52年、市浦村が『市浦村史資料編・みちのくのあけぼのー東日流外三郡誌ー』全3巻として刊行してから。NHKは、喜八郎へのインタビューを含めて複数回テレビで放送。学界では、奥野健男(多摩美術大学)、新野直吉(秋田大学)、武光誠(明治学院大学)などが好意的に扱う。(ただし新野は後年、偽書であることに気づいて取り上げるのをやめたと述べた。)その内容は、神武東征で畿内を追われた耶(邪)馬台国の一族と津軽の先住民族、中国からの渡来人が混交した荒吐(あらはばき)族が、津軽に一大王国をたてて大和朝廷と対立した。中世には、荒吐族の流れをくむ安東氏が十三湊を根拠に栄えたが、興国元年(1340)もしくは2年の大津波で安東水軍が滅亡し、歴史は忘れられた、というもの東日流外三郡誌が話題になったのは、安東水軍に関する詳しい記述があったことが大きい。安東水軍と興国の大津波については、郷土史家の間で存在が唱えられながら、実在の証拠がなかったからである。県内の自治体や観光業者によって、東日流外三郡誌に出る史跡や寺社仏閣を観光資源として売り出す様々な試みが行われた。酒蔵が「安東水軍」の銘柄を採用した。さらに、山形県や秋田県でも、和田が提供した「古文書」や遺物に基づく史跡を「発見」して町おこしを行おうとの動きがあった。1990年代に入ってから、『東日流外三郡誌』の検証が進み、江戸時代の文書にはありえない用語や、官位、暦法の錯誤が続々指摘され、さらには明治期の写本と主張されたテキストの筆跡が喜八郎のものと判明し、偽書であることが明らかになった。また、1991年から93年の国立歴史民俗博物館の十三湊遺跡総合調査では、安東水軍や興国大津波の実在を示す証拠は一切発見されなかった。むしろ、十三湊は13世紀初めから15世紀半ばまで継続して港として機能を果たしており、繁栄のピークは14世紀半ばから15世紀初めであることもわかった。・国立歴史民俗博物館『中世都市十三湊と安藤氏』1994・青森県市浦村編『中世十三湊の世界』2004・十三湊フォーラム実行委員会『十三湊フォーラム』20041990年代には古田武彦が偽書説に反論したが、その論法は詭弁の域に入っている。町おこしに使おうとする自治体もなくなった。以上の経緯は、斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』2019、原田実『偽書が描いた日本の超古代史』2018、を参照されたい。2 壁の中から偽書が出てくる理由(上掲書の第18章から、適宜当ジャーナル要約)儒教の経典の一つ、『書経』(『尚書』)は、始皇帝の焚書坑儒の難に遭ったが、ふたたび世に出た経緯は、唐の孔穎達が編纂した『尚書正義』(『尚書注疏』)序などに詳しい。まず、秦代の学者伏生(伏勝)がひそかに家の壁に塗りこめたのが漢代に発見され当時の書体に書き直されたというのが「今文尚書」で、さらに、前漢に旧宅から多数の典籍が発見され、「今中尚書」に欠けている章も含まれていた(「壁中古文本」)。漢代には他にも複数発見され、それらは「古文尚書」と総称されるが、いずれも散逸した。東晋の代に、梅賾(ばいさく)が新たに「古文尚書」を発見。前漢の学者の孔安国による注とされるものまで付されていた。孔穎達はこれを真正と信じ、『尚書正義』の底本とした。しかし、梅賾発見のテキストには南宋代の学者から疑義が寄せられ、明清代の学者の考証もあり、今では偽作が判明している。以上の『書経』伝来のエピソード、すなわち、旧家に隠されていた本、あるいは、弾圧された文献を建物に隠した、などのパターンが、のちの様々な偽書の由来となっている。和田家文書については、喜八郎の話では、昭和22年から23年頃、自宅の天井を破って屋根裏から落ちてきた長持の中から古文書がまとまって出てきたという。そして、寛政年間の人とされる秋田孝季は、その内容は津軽藩の許しが出ないので門外不出にせよと戒めており、明治の人である和田末吉は、万世一系の皇統を否定する内容が明治政府に知られると弾圧されるから、自由民権の世まで秘匿するよう誓わせた、という文書になっている。そもそも喜八郎宅には、天井裏に物を隠す空間は存在しておらず、由来譚そのものが創作であった。壁の中や天井裏などの封印された空間は、トリックの小道具としての箱の役割を果たしたといえよう。3 真贋論争(上掲書の第28章から、適宜当ジャーナル要約)1990年代初頭、東日流外三郡誌の真贋論争で、近世成立説に固執して擁護の論陣を張ったのが、古田武彦(昭和薬科大学)である。古田にとって、偽書とは、当人が偽りと知りつつ他に真実と信ぜしめる行為としての造文・成書である。そこから、著者がその内容を真実と信じている『東日流外三郡誌』は偽書ではないとする。むしろ、日本書紀こそ、7世紀までの倭国と8世紀以降の日本国の断絶という(古田が想定する)史実を隠ぺいするから偽書である、と主張した。4 偽書は体制批判として有用な意義があるのか(上掲書の第30章から、適宜当ジャーナル要約)偽書であっても内容が虚偽とは限らないとして、天皇制国家及びそれに随順するアカデミズムによって隠蔽された真実がその中に伝わっている、という擁護論が歴史ファンによって展開された。しかし、それは自分の好みに合わせて、偽作者たちの思いもよらない読み方を新たに創作したものである。更に進んで、偽書はその存在自体が権力の欺瞞を暴くものだとする考え方もある。その代表が北山耕平氏である。北山は、歴史は人の数だけあるという考えにたち、歴史は一つとするファシズム的な考え方を解体することが重要であるとする。たとえば、東日流外三郡誌は蝦夷の視点からの歴史であり、国家が押し付ける万世一系の虚構を解体する上で有効だと説く。しかし、北山のように歴史書はすべて偽書とみなして使用価値を相対化することは、結局、恣意的な解釈の横行を許すものでしかない。東日流外三郡誌はあくまで20世紀の和田喜八郎の創作にほかならず、それを忘れられた人々の精神を記したとみなすのはあくまで北山の恣意である。歴史書は、それ自体は、確かに事件の時点の当事者が書いたものではないとしても、その記述の妥当性は一次史料や金石文や考古学的資料で証拠は求められる。偽書を珍重する姿勢は、史料事実よりも自分の好みを優先する態度にほかならない。■関連する過去の記事 十三湊の信仰の山 靄山(2015年9月21日) 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十万都市だった十三湊(2014年4月29日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その4)(2013年8月18日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その3)(2013年8月15日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その2)(2013年7月25日) 津刈蝦夷と古代の津軽を考える(その1)(2013年7月20日) 十三湊遺跡(2013年7月16日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 十三湊を訪れる(2013年6月6日) 津軽安藤氏と北方世界(10年5月18日) 日の本(ひのもと)将軍の安藤氏(09年1月25日) 壮大なニセ歴史ロマン(07年5月27日)
2026.08.06
コメント(0)
気になったこと。今日(8月4日)の新聞朝刊で、地方選挙の結果が出ている。朝日新聞は、2日の選挙結果を報じる「新市長」欄で、下妻市について、こう記載している。菊池博氏(64)=無元=が3選。パン製造販売業=無新=を破る。私は「N選」とは連続N回当選を意味するものと根拠もなく思っていたので、元職が当選して「3選」はおかしい、と感じた。ところで、毎日新聞では「選挙」欄で、こうある。下妻市長(茨城県) 前市長死去に伴う。元市長の菊池博氏(64)=無元=が、パン製造会社代表の井上誠氏(57)=無新=を破り、通算3回目の当選。昭和のジャイアンツのV9は、9年連続優勝を意味するのだろう。いまでも、スポーツなどで「V+数字」の表現があるが、これも通算でなく連続を意味すると、私は思っている。この選挙は、ことし3月の市長選挙で、3選をめざした菊池氏に競り勝った新市長が、6月に隣町の排水路で亡くなって発見されたもの。なお、ネット情報なのだが、産経は「3選」と表現、読売は、「返り咲き」「3回目の当選」としている。日経も「3選」、地元の茨城新聞は、「通算3回目の当選」だが、「ひと」コーナーでは、「3選を果たした(菊池さん)」と紹介している。■関連する過去の記事 <a href="http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/202605050000/">こどもと「さん」「くん」「ちゃん」のルールを考える</a>(2026年05月05日)
2026.08.04
コメント(0)
全8件 (8件中 1-8件目)
1