仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.11.04
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カテゴリ: 東北
津軽藩祖である英雄津軽為信の意外な一面が見えるという。井沢元彦さんの解説だ。

■井沢元彦『検証 もうひとつの武将列伝』(有楽出版社、2005年)から

津軽藩とライバル南部藩は仲が悪く、江戸時代には南部侍による津軽藩主暗殺未遂事件(檜山騒動)が起きている。主犯で獄門に処せられた下斗米秀之進(相馬大作)の言い分は、元家臣の津軽が大名として南部と対等のつもりで居るのがケシカラン、というものだった。

津軽藩の藩祖は大浦為信。津軽を統一した上で南部の支配から独立しようという野心を抱いた。元亀2年(1571)、22歳の為信は突如南部氏の津軽支配の拠点である石川城を急襲し、城主南部高信を討ち取った。その後、南部氏の執拗な抵抗を払いのけ、17年かかって津軽を統一した。

その間中央では、信長が倒れ、関白秀吉が絶頂を極めた。為信は情報戦略にも巧みで、秀吉に使者を送り津軽の支配権を確保(本領安堵)しようと考えた。長く続いた戦国の世では、戦国大名は「切り取り次第」、つまり領土拡張は勝手というのが当たり前で、みなそうして領土を広げた。為信がしたことも主人南部氏に対する反逆だが、それを言えば信長も秀吉も同罪である。だからこそ、北条氏は秀吉の覇権を認めず滅ぼされた。東北の雄伊達政宗も「私闘」を繰り返したことで秀吉に家をつぶされそうになった。秀吉が天下人となることで、それまで当たり前だったことが「私闘」とみなされ、公儀に対する反逆ととらえられるようになった。この変化を日本の北辺にありながらいち早く気が付いたのが、為信である。

為信は急ぎ京にのぼる。為信の非凡なところは、五摂家の筆頭近衛家を訪れ、自分たちは近衛家の裔であると認めてもらい、牡丹の紋を授かったことだ。多額の金品を贈ったのであろう。次いで秀吉の寵臣石田三成にも取り入り、ついに秀吉から津軽の領有を認められた。

これを機に、姓を津軽と改める。南部ははらわたの煮えくりかえる思いでこの決定を聞く。もし南部が先んじて秀吉に拝謁し、南部の駿馬を添えて、為信は反逆の臣と願い出ていれば、おそらく討伐の許可は簡単に下りただろう。そうなっていたら、為信は南部と秀吉の連合軍を相手に滅亡したことは間違いない。南部にはそういうセンスがなかった。良く言えば朴訥、悪く言えば鈍重である。だからこそ余計に津軽人が憎らしいのである。

為信は世渡りがうまかった。関ヶ原は参戦せずに住んだし、大坂冬の陣、夏の陣も徳川に味方した。この時既に為信は世を去っていたが、徳川家に人質に出した三男信枚(のぶひら)を後継ぎに指名した。信枚は家康養女満天姫(まてひめ)を正夫人とし、外様の中で初めて東照宮を城内に建立した。このことは重大な意味があり、この城を攻めることは徳川家に弓を引くことになるわけで、絶好の防衛策である。もちろん、潜在敵国南部に対する押さえに他ならない。

ここまでいうと、津軽為信はこすっからくて悪知恵にたけたイヤな奴だと思われるだろう。ところがどうも違うようなのである。



明治になってその扉が開けられると、その中には、なんと豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は津軽家を大名にしてくれた秀吉の恩を忘れないために、幕府による改易の危険をかえりみず城内に秀吉を祀っていたのである。さらに驚くべきことに、信枚の側室で嫡子信義を生んだ女性は、石田三成の遺児だったという伝承すらある。もちろんそんなことがバレていたら、津軽家は徳川によって皆殺しにされていただろう。それを恐れぬ津軽人の情義の深さには驚く他はない。





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最終更新日  2011.11.04 07:06:45
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