仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2012.10.09
XML
カテゴリ: 宮城
多賀城柵は、大宰府と同様に東北の行政軍事全般を統括し、さらに蝦夷対策の拠点となった機関である。多賀城は中華思想にもとづき蝦夷対策の中核として設置されたことから、その城柵名も特別の命名であったと考えられる。その場合、「多賀」の名は、西海道を統括し古代中国朝鮮の使節を接待する機関である大宰府(大宰は、中国古代の官名であり、王を佐けて国家を治めることを掌る意味。和名は、おおみこともちのつかさ。)と同様に中国に典拠を求めるべきであろう。

古代中国の鏡に頻出する銘文にみられる文言から、古代中国では「四夷」なるものは中華の天子の徳を慕って来貢すべきものとの観念が成立していたと言って良い。多賀城は、この中華思想にもとづき、蝦夷(四夷)を服属させ国家に安寧をもたらすことを目的として設置されたゆえに、「四夷服、多賀国家人民息」(中国出土の鏡の銘文)を典拠として多賀城(柵)と命名されたと理解できるのではないだろうか。

従来の説に常陸国の多賀郡に由来するという見解がある。常陸国中央部にある地域は「仲」とされ、仲国造が支配している。それにたいして多珂郡は、本来「高国造」の「高」という常陸北部の山地に基づく表記と考えられる。和銅6年の「諸国の郡郷の名は好き字を着けしむ」との制度によって字義のよい漢字二次をもって表記するようになった。「高」も「多珂」(珂は玉の名、たくさんの宝石の意)と表記し、8世紀以降はあらゆる資料に「多珂郡」とある。音からも「高」「多珂」は清音「タカ」であり、一方「多賀」は濁音「タガ」である。それが中世以降になると常陸国「多賀郡」に変わる。従って、常陸国の郡名「多賀郡」に由来するという説は、多賀城の呼称に直接結びつかない。

■平川南『東北「海道」の古代史』岩波書店、2012年 から

この本は東日本大震災を受けて、氏が関わった気仙地方、多賀城、相馬など東北沿岸部の古代史研究の成果をまとめている。そして、犠牲になった研究者の方々の熱意にこたえるためもあり、壊滅的な被害を受けたこの地の再生の基盤として、歴史文化の原像を描き出して我々に提示しようとするものだ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012.10.09 20:42:17
コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

コメント新着

ななし@ Re:北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(09/10) 『1917年(元和3)年頃の統計では、佐竹藩…
おだずまジャーナル @ Re[3]:水の森公園の叢塚と供養塔(08/03) 風小僧さんへ 規模の大きい囲いがあった…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: