仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2013.06.06
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カテゴリ: 東北
今回の旅の大きな目的の一つだ。十三湖を訪ねて、中世十三湊の繁栄を考えてみたい、と。

県道(十三道)を、つがる市(旧車力村)から五所川原市(旧市浦村)に入る。湖畔の林間道という雰囲気だ。やがて道は十三集落の街村に出る。県道は集落に入ると一旦西側に(海側に)それて走るが、これではそのまま十三湖大橋を渡ってしまいそうだ。あえて引き戻して十三湖の側の、昔の集落道と思われる方に立ち入ってみる。

するとまず目を引いたのが、土塁跡だ。小学校(廃校)の脇にある。説明の看板(市浦村)もあった。いわく、

中世十三湊(とさみなと)の土塁
十三湊を南北二つの地区に区切る施設で、南側には水堀が伴い、北側の館にある地区を防御していた。砂と黒土を版築状に積んでおり、14世紀後半につくられ、15世紀前半に増強されている。


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土塁は小学校の横と湖を隔てるように、続いてもいる。(その後、歴史民俗資料館でこの校庭も発掘されたのだと知る。ジュウサン小学校と館員の方は言った。そう読むのか。さらについでだが、資料館の住所は、五所川原市十三土佐地内、とパンフに書かれている。ジュウサンなのかトサなのか、もう読み方はわかりません。)

土塁と学校の先はもうすぐ十三湖。朝8時の湖は、穏やかで波光がきらめいていた。

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さて、その後は、神明宮に立ち寄り、大橋を渡り、歴史民俗資料館へ。地図にブリッジパークと記されているとおり湖面をわたる橋で繋がった中島に施設がある。9時からの開館には相当早いのだが、県道沿いの駐車場脇の食べ物屋のお姉さんが、大丈夫だろうと教えてくれたので、渡っていく。
(資料館の後に、御礼を兼ねてこの店でしじみシェイクを買いました。)

長さ250mという橋を渡ると、中の島はキャンプ場やケビンハウスの備えられたレクリエーション地区になっていた。「中島遺跡」の解説の看板があった。

中島遺跡
十三湖の北西部に浮かぶ約10ヘクタールの小島に位置する奈良時代の遺跡である。土師器には、坏、壷、甕が出土しており、津軽地方における奈良時代の標識資料となっている。一説には、十三湖周辺は文献史料に見られる「有間浜」の比定地の一つに数えられている。


島を一巡りしたあと、市浦歴史民俗資料館へ(施設のエントランスには市浦村地域活性化センターとあった)。時間には早いが、係の人がいいですよと言ってくれた。ありがたい。デジカメに撮って良いところを確認させてもらってから、早速展示室へ。



そして、4つの展示室を、もちろん自分一人独占しながら、行きつ戻りつ、何度も展示物を眺めた。十三湊の交易と津軽安藤氏の繁栄。発掘物、文書、街並みの再現、そして船具や交易品の数々。

ひょっとしたら村の小さな資料館かとイメージもしたが、大変失礼。ここは本当に素晴らしかった。300円だけで申し訳ないくらいだ。

事務室脇の会議室のようなスペースでは、五月女萢(そとめやち)遺跡発掘調査速報展をやっていた。縄文遺跡のようだが、古代から中世、近世と人々が息づいた地なのだろう。菅江真澄は、唐川城跡から湖の風景を眺めたという。

余談だが、「萢」はヤチと読むのか。直前に通ってきた県道富萢薄市線でも出てきた地名だ。いわゆる谷地で、湿地帯のことだろうか。ついでに調べたら、かまやつひろし(ムッシュ)の本名は釜萢弘と書くのだそうだ。考えたこともなかったなあ。

撮影が許されているエリアで撮った画像を何点か。まずは鳥瞰図。ここが縄文の昔からの繁栄の地。

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今でこそ車社会で人間は陸地は四方八方自由に移動しているつもりだが、昔の海の交易はスケールが大きい。そして、十三湊は東北の外れでも何でもない、日本海海運を通じて、関西と蝦夷地と、そして東アジア全体の貿易の中心だったのだ。世界観が変わる。

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また、古代の東北の概説があった。以下に。

平安時代後期(11世紀)には東北地方全体が幾度かの激しい戦闘の場となった。この時代には、俘囚の長である安倍氏は岩手県南部の奥六郡を、また清原氏は秋田県南部の仙北三郡を支配した。前九年の役(1051-1062)の後、安倍氏に代わって奥六郡の主となった清原氏も、後三年の役(1083-87)で陸奥守源義家に滅ぼされ、その結果、12世紀には藤原清衡が奥州全体を支配し、奥州藤原氏の全盛期を迎えることとなった。
幾つかの激しい戦闘が行われたこの時代、東北北部から北海道南部地方には敵の侵入を防ぐための堀や土塁で囲まれた防御性集落が発達した。また、同時に大規模な城柵も築かれるが、市浦村福島城もその一つと考えられている。
(資料館の中の説明資料から。)

展示室の中の史料は撮影不可のため紹介できないが、本当に豊富だった。上にも書いたが、何度も行きつ戻りつして、読み、眺め、思いをめぐらせた。弾丸ツアーの2日目は、これから津軽半島を周回し、青森市を経て下北半島の尻屋崎まで明るいうちに行かねばならない。それでもここだけは、時間を掛けて十三湊の世界に浸った。来て良かった。



(以下はお勉強成果の一端であります。市浦歴史民俗資料館のパンフレットから)
十三湖周辺の主な遺跡
1 十三湊遺跡(中世・近世)
2 明神遺跡(中世・近世)
3 中島遺跡(奈良)
4 福島城(平安・中世)

6 山王坊遺跡(中世、宗教遺跡)
7 唐川城(中世、城郭遺構)
8 古館遺跡(平安、防御性集落)

十三湊・安藤氏関係略年表
1160 永暦1 藤原基衡の子(秀衡の弟)秀栄、十三に霊鷹山檀林寺造立、国政を執行。子孫は十三藤原氏と呼称(伝承)。
1189 文治5 奥州合戦、平泉藤原氏滅亡。安藤次・三沢安藤四郎ら頼朝に加担。
1190 建久1 大河兼任の反乱。乱後、北条義時が津軽の地頭職に補任。以後、関東武士津軽に流入。
1191 建久2 安藤氏、蝦夷沙汰代官に任命。
1229 寛喜1 津軽萩ノ台の戦、十三藤原氏敗北。安藤氏の十三湊進出本格化(伝承)。
1325 正中2 蝦夷代官職が安藤季長から季久に代わり、津軽大乱拡大。
1328 嘉暦3 鎌倉幕府軍、津軽大乱を平定。
1357 正平12延文2 蓮華庵(相内)板碑造立。
1371 建徳2応安4 1452年柳井の賀茂神社の『大般若経』の奥書に「十三湊」の文字。
1395 応永2 足利義満、安藤盛季らに命じ、北海夷狄平定。
1412 応永19 『時衆過去帳』、「トサ」「奥土佐湊」の時衆阿称号を記載。
1423 応永30 安藤陸奥守、将軍足利義量に馬、鳥、鵞眼、海虎皮、昆布等献上。
1432 永享4 南部氏、安藤氏を攻撃。安藤氏蝦夷島へ逃れる。幕府和平を調停。
1436 永享8 安倍康季、若狭国羽賀寺再興着手(文安4落成)。
1443 嘉吉3 安藤氏、南部氏の再攻撃で十三湊放棄。
1446 文安3 安藤康季、旧領回復のため津軽入りし病死。
1453 享徳2 安藤義季、狼倉に拠り南部氏と交戦して敗死。
1456 康正2 安藤師季、出羽国小鹿島で再興を画策。
1468 応仁2 安藤師季、紀伊国熊野社に津軽外ヶ浜などの旧領地回復を祈願。

■関連する過去の記事
日の本(ひのもと)将軍の安藤氏 (09年1月25日)
津軽安藤氏と北方世界 (10年5月18日)





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最終更新日  2013.06.06 06:40:50
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