仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2014.08.10
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カテゴリ: 宮城
〔前回に続く〕
■前回の記事  木地業とこけしの歴史を考える(その1) (8月8日)
■関連する過去の記事  木地師と東北を考える (2014年7月12日)

■参考 柴田長吉郎『宮城伝統こけし』理工学社、1999年

5 蔵王山麓の木地業とこけし

蔵王連峰の東側(宮城県側)は古くから木地を挽いた稲子、横川(七ケ宿町)と、横川の流れをくむと考えられる遠刈田新地、弥治郎(白石市福岡八宮)が主要な木地産地。

稲子と横川

近江国から陸奥国会津に移住していた木地師のうち、桧原に居た新国掃部を天正年間に伊達政宗が召し出して、刈田郡湯原(七ケ宿町)に居住させたのが始まりという。その後この集団は、愛子、作並、大倉村滝ノ上などに移住した。



横川は塗屋がさかんで、こけしなど玩具は作られなかった。この地でこけしが作られるのは明治以降で、弥治郎の流れをくむもの。横川の木地業は一時繁盛したのだが、遠刈田や弥治郎のように、時代に適応する木地製品を売りさばく湯治場が近くになかったため、衰退し大正時代末頃には廃絶した。

遠刈田新地

横川の流れをくむもので、発祥時点は不明だが、木地玩具や小道具類が作られるのは文政後期から天保の初め頃に認められる。遠刈田新地の起源は古く平氏あるいは藤原氏の落人と伝える。全戸が佐藤姓を名乗り源氏車を家紋とする。江戸時代、白石城主片倉小十郎の支配下にあり、木地屋は御徒小姓組として苗字帯刀を許され、下級武士ながら内職として木地を挽いていた。横川と違って椀類は作らず、鉢、盆、煙草入れ、茶壺などの道具類と人形(こけし)、えずこなどの木地玩具類で、主として温泉客に販売した。維新後は木地業が生活の主体に。当時は1人が轆轤の回転軸を綱で引き他が刃物で切削する二人挽き轆轤。湯治客入りが3月節句から8月15日夜までのため、一年を通して行うだけの販路はなく、年の半分は農耕、養蚕、薬草取りで生計を立てていた。

明治18年に田代寅之助が一人で回す足踏み轆轤を遠刈田に伝えてからは、生産は画期的に増大。鉄道開通も販路を拡大。大正時代には季節にかかわらず温泉客も入り売れ行きもよくなった。また、箱根、小田原などの玩具類が刺激を与えて、遠刈田新地の玩具の種類も多くなった。周辺の青根で木地工場ができて産業規模が拡大し、山を越えて蔵王温泉、汽車で鳴子温泉などに運ばれ売られるようになった。

弥治郎

この集落を開いたのが弥治郎という平家の落人との伝説がある。木地業がはじまったのは江戸時代。弥治郎は白石城主支配下にあり、延享3年に横川とともに近江国蛭谷筒井神社の氏子狩をうけており、この頃すでに木地業が行われていた。

氏子狩(がり)(氏子駈(がけ)とも)とは、小椋谷が全国を統制する手段として江戸時代に行った制度。諸国に分散した木地師を巡回神官が歴訪して奉賀銭を集め神像などを授与。これにより諸国の伐採が自由となる。天文から永禄年間に始まり江戸初期に組織化された。小椋谷の蛭谷筒井神社と君ヶ畑金龍寺(高松御所)の2組織が独立して行ったが制度的には筒井神社が強く所属木地師も多かった。各年代の巡回記録が「氏子駈帳」として残る。

弥治郎は横川の流れをくむ木地業と思われるが、隣の遠刈田では氏子狩を受けていない。このため、弥治郎が氏子狩を受けた頃に遠刈田で木地業が行われていたは不明である。古い工人の話では弥治郎の木地玩具と小道具は遠刈田新地から教えられたというので、こけしの発生は遠刈田よりいくらか遅れた頃と考えられる。

弥治郎は明治以後も農作が中心で、内職として木地挽きを行い、主に鎌先や小原の温泉場で販売。この状況が現在まで継続している。

6  鳴子 の木地業とこけし

鳴子は古くから漆器業が盛んで(おそらく室町時代に発生し藩政期に鳴子に集約)、木地業はこれと関連して発達したと考えられる。安永、文政、文久年間の古文書にも「鳴子のぬりもの」「木地挽きもの」などが鳴子村の産物と記され、江戸時代には木地業が塗物業とともに確立していた。こけしは、文化文政のころに発生したとみられている。

鳴子周辺の中山平、鬼首、門沢、赤倉などには近江系木地師がいて蛭谷筒井神社の氏子狩を受けているが鳴子との関係は記録されていない。系統が違うようで、文化文政の頃に信州木地師の一団が飯田(長野県)より鬼首に移住したという記録もある。



大正10年頃には電動轆轤が登場し、昭和初期には木地工場が開設されたことで、塗り下の量産のほか、鉢や盆など横木の大型挽物が製作されるようになった。こうして鳴子の漆器は昭和5年6年ころに第3のピークを示したが、長期の戦争による資材統制や働き手の応召などで業界は分散状態となってしまった。

それでも戦後しばらくは日常什器不足で漆器の需要も増大したが、やがて陶磁器、プラスチック食器、金属食器の発展で需要は減少し、大部分の工人は小物挽物やこけし、玩具製作の専門となり、こけし時代へと歩んでいった。

鳴子の木地業は塗物の下地挽きが主体だったわけだが、こけしの始まりは文化文政のころにはじまったと推定されるものの、確かな根拠としては文化年間の古文書にこけしの絵が描かれ、鬼首の文書にも「こふけし」の名が出るので、この頃には作られていたのは確かであろう。西田峯吉氏は明治から鉄道開業の大正年代までを古鳴子時代と呼ぶが、この時代にも木地業は本業の傍ら少しづつこけしを作っており、いくつかの古品が残っている。

昭和に入り、こけしが広く紹介されてからはこけしを作る人も増えたが、昭和10年以前の現存する物は少なく、戦後のこけしブームの昭和15年頃が最も盛んであり、やがて戦時終戦のころは実用品が主。戦後、木地物什器の衰退とともに、こけし専業の木地屋が多くなったのである。

7  作並

南条徳右衛門と弟子の岩松直助が、その師弟にこけしも含めて木地業を教えたことから始めると言われる。江戸時代後期頃となるが詳細は不明。南条徳右衛門については、青下(大倉村)の仙台藩お抱え木地師から木地挽きを習ったとも言われるが真偽は不明である。

ともあれ岩松直助の時代には木地業がありこけしが作られた記録があり(明治15年頃)、山形の小林倉治が岩松に師事して、その後山形で木地業を始めた(山形系こけしの始まり)が、このころ作並では一時木地業が途絶えたようである。それでも、明治45年に倉治の弟子の平賀謙蔵が作並に帰って木地業を再開、その後謙蔵の弟子がこれを受け継ぎ現在の作並こけしに至。

8  仙台 の木地業とこけし

仙台では江戸時代に町職人の木地挽き役が大勢居て、伊達漆器の椀下などを作っていたが、氏名は明らかでない。また、木地挽き役とは別のお抱え木地師がいたようで、佐藤家、高橋家などの名があげられる。佐藤家は仙台で最も古い木地屋といわれるが、こけしづくりの伝承はほとんどないようである。高橋家では、胞吉(えなきち)が明治時代に一貫してこけしを作っていた。胞吉のこけしの形態からは一応作並系に入るようだが、詳しい伝承は残っていないようだ。

大正初年から中期にかけては、大勢の鳴子工人が仙台に出稼ぎに来た。大正終わりから昭和20年までは、鳴子系に加えて、遠刈田と肘折(山形県最上郡大蔵村)の工人が仙台で働いていた。昭和20年以降は遠刈田系工人が多くを占めていたが、胞吉型の工人や肘折系の工人なども活躍するようになった。加えて作並系の工人も働くようになり、現在は多くの系統の工人が木地業を営んでいる。

9 伝統こけしと新型こけし、創作こけし

玩具こけしは、封建制のもとで技術、用具のみならず形状や様式まで師弟相伝の形で伝えられ、それぞれの土地で代々継承されてきた。そして、形状や様式はそれぞれの家独特で他人はこれを侵さないという不文律ができあがった。定まった様式はその土地の中では、家系によりすこしの相違はあっても、共通した一定の形式が生まれるようになり、他には見られない土地独自の様式ができあがっている。

この土地特有の様式を有するこけしを、現在は「 伝統こけし 」と呼ぶ。こけしの歴史はそう古いものではないが、その伝承のされ方が伝統的であり、東北地方固有のものとして残されてきたので、伝統の語をつけているわけである。

こけしは一般に温泉地の手軽なお土産として出回っているが、その大部分は戦後以降に轆轤技術を応用して各温泉地の人形として作られたもの。ほとんどは工場で流れ作業でつくられ、生産も特定の場所で一括して行われ、その温泉地のものは少ない。これらは 新型こけし と呼ばれるが、地方性や個性がなく、伝承もないので鑑賞の対象となりにくい。もちろん新型こけしの収集が悪いということではないが、伝統こけしとは基本的に別の世界ということである。

一方で、 創作こけし とは、作者があらかじめ主題を定めて人形で表現するようにデザインや工夫を施すもので、テーマの表現の点が伝統こけしとは全く異なる。伝統こけしには個々の作品についてのテーマはなく、父祖師匠から伝承した形式と模様を受け継ぎ、自分の個性が加わり、習熟による手練を表すのが本来である。また、同じ技術を様式が同じ土地で代々受け継がれたため、それぞれの伝統こけしは土地に定着した強い風土の味わいを持っており、この風土性が創作こけしにはない伝統こけしの特色である。

音楽にたとえれば、伝統こけしはいかに演奏するかの表現技術であり、創作こけしはいかに作曲するかのまさに創作に相当する。もちろん両者に優劣はないが、別の方向で鑑賞の対象となるものである。

10 伝統こけしの系統

伝統こけしは11様式に分類されるが、これを系統と呼び、伝統こけしの特色である。

土湯系(中心地は土湯温泉)
遠刈田系(遠刈田温泉)
弥治郎系(弥治郎集落)
鳴子系(鳴子町)
作並系(作並温泉)
肘折系(肘折温泉)
蔵王系(蔵王温泉)
山形系(山形市、米沢市、寒河江市、天童市)
木地山系(秋田県雄勝郡皆瀬村、稲川町)
南部(花巻)系(花巻市、盛岡市)
津軽系(黒石温湯温泉、大鰐温泉)

各系統の中心地ではいくつかの家系が多くの師弟を保っているが、工人の移動や産地間交流などから、必ずしも一産地の工人全員が同じ系統を有しているわけではない。昭和56年6月に指定された「みやぎ伝統こけし」(指定当時で企業数107社従業者数175人)では、遠刈田系、弥治郎系、鳴子系、作並系、肘折系の5系統が指定されているが、肘折系が含まれるのはこの理由による。

特に仙台市では各系統の中心地で修行した工人が販路を求めて移住して製作しているので、多くの系統のこけしが作られている。山形市内(蔵王温泉以外)でも、山形系のほか蔵王系の工人が大勢いることも同様である。それでも、各系統の各家系は独自の特色を保っているので、容易にその家系を指摘することができる。





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最終更新日  2014.08.10 11:33:21
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