仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2015.03.15
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カテゴリ: 宮城
七ヶ浜町の湊浜は、古代多賀城の湊であった。砂押川(市川)で多賀城との舟運があった。『日本書紀』景行天皇紀にある「竹水門(たかのみなと)」は「多賀の水門(みなと)」で、湊浜のこととみられる。

『安永風土記』には、宮城郡市川の末流が多賀城より湊浜に流れて商人舟が往来したと書かれている。また、同書市川村編には、「市川の上流は宮城郡森郷の惣の関堤より市川村の沼頭で、加瀬村の砂押川へ合流し、往古は湊濱に流れ出る郡中第一の大河で大船も通行したので、当村を一川(いちかわ)と称した、と俗に伝えられているが、いつのころか八幡村に津波があったとき川が埋まりその後は小川になったのでその文字も換えられた」とある。

津波とは、慶長大津波(1611)と思われ、これで河口や河床が浅くなり湊に不適となったようである。

現在、湊浜は、仙台新港や精油所のため埋め立てられ、わずかに河跡湖として弁天沼が残っている。かつてのにぎわいの名残として、旧河道に面して仁寿2年(852)慈覚大師が彫ったという岩窟仏の薬師堂が建つ。

湊浜の東、松ヶ浜には御殿崎という小岬がある。かつて鴻ヶ崎とも呼ばれた。松ヶ浜の「松」は風を「待つ」で、風待ちに使われた浜であり、鴻ヶ崎は、国府に通じる岬の意の国府ヶ崎が転訛したとみられる。

今では砂押川は仙台新港の入り口に注ぎ出す。また、七北田川はさらに南の蒲生で海に出るが、かつてはこの七北田川が南宮で砂押川に合流していた。とすると、孫兵衛が工事をする前は、流量も相当あったのだろう。古代の七北田川も同じ流路と考えれば、南宮で合流ということは現在の市川橋より上流で合流していて、国府そばでは水量も豊富だったろう。中央との物資や往来に用いられる河港があり、河口の湊浜もにぎわっていたのだろう。

■参考 菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版、2014年
七ヶ浜町観光パンフレット2013
■関連する過去の記事
七北田川を考える (2007年10月3日)(流路の変更)





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最終更新日  2015.03.15 22:09:14
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