仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2023.04.02
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カテゴリ: 東北
東北開発の端緒は、中央集権的な体制のもとで進められた。

前回に続き岩本先生の著作から。
■岩本由輝『東北開発120年』人間科学叢書22、刀水書房、1994年
■関連する過去の記事
東北という呼称の初現ー「東北」の形成 (2023年03月26日)

戊辰戦争と明治4年(1871)7月14日の廃藩置県により、幕藩体制は崩壊したが、この時点でもまだ東北開発は具体的な日程にはのぼってこない。

しかし事実上失職した武士に仕事を与えねばならないから、各地で思い思いに士族授産事業が開始された。中には、藩政時代から引き継がれたものもあった。盛岡藩勘定奉行新渡戸伝が安政2年(1855)から着手していた三本木原開拓事業や、同藩の大島高任が安政3年に建設し出銑に成功していた釜石の洋式高炉がそれである。釜石は、明治7年(1874)工部省鉱山寮釜石支所が置かれ官営釜石鉱山となる。

また、政策面で注目されるのは、明治3年(1870)11月13日から17日にわたり、涌谷町にあった登米県庁に民部大丞渡辺清が、陸前陸中陸奥の各藩県の地方官を集めて三陸会議を開き、検地検見の施行と貢米輸送、藩県行政の規則、商品流通、土木工事の調査の件などについて諮問したことである。この会議の結果を踏まえて東北地方にも中央集権体制が築き上げられていくことになる。



中村藩では、明治4年8月に土着法という形で、447戸の城下町武士全員を旧藩内137村に実際に帰農させた。土地は一町歩以上を持つ農民から買い取り、抽選で配分した。

米沢藩では旧藩主上杉茂憲(もちのり)が東京移住に先立ち6千人の士族に当座の生活資金を与えるとともに、士族就産基金と共有財産を下げ渡した。これを管理運営する士族義社が、大正5年に両羽銀行(現山形銀行)に合併するまで金融事業を行った。もっとも、基金を元手に織物や漆器の生産を始めた生産社はたちまち失敗(解散)。また、士族義社も製糸業に手を出して裏目に出て、解散の危機に直面した。

旧新庄藩では、舟生源右衛門らが明治8年から秩禄処分で交付された金禄公債を磁器や亀綾織に出資し、たちまち元も子もなくした。

帰農を開墾の形で進めたのが旧鶴岡藩だった。士族授産事業の多くが痕跡を留めていない中で、松ヶ岡開墾場は、現在も225haの農場として経営が続けられている(松岡農業協同組合)ことは注目に値する。明治5年6月に、旧鶴岡藩士約3千人を30組の開墾隊に分けて進められた。桑苗を植えて、明治8年から生糸生産を開始し、士族授産の実をあげた。しかし、きれいごとだけではなく、脱走した者が絞殺されたり、酒田県が旧藩から継承した種夫食(たねふじき)貸米を開墾費用に不当に流用したことから農民が償還を要求して立ち上がった(ワッパ騒動、明治6年11月)。三島通庸が同年12月に酒田県令に着任したのは、騒動対策と同時に旧鶴岡藩士の県政の専横を抑えるためでもあった。

明治6年3月には、安積開墾が始まり、旧二本松藩士19戸が入植する(開墾本格化はもう少し後)。また、明治3年2月以降、仙台藩支藩の亘理、白石、岩出山、角田各藩の北海道開拓(大地の侍)は帰農の一形態であり、同年閏12月の会津藩の削封と斗南藩転封は帰農というより流刑だった。

東北開発が政府の政策として具体化する契機となったのは、明治9年(1876)6月から7月の第1回奥羽巡幸である。巡幸を演出した内務卿大久保利通が、天皇出発の10日ほど前の5月23日東京を出発し、巡幸コースより広い範囲で東北各地を巡視したことが端緒といえる。大久保は、東北の未開発資源に着目し、東京を首都とする明治国家の後背地とすることを目論んでいた。

明治9年、大久保は、内務省に授産局を置き士族授産と殖産興業を実現しようとしたが、明治10年西南の役勃発で計画は中止。役の平定後、明治11年3月6日太政大臣三条実美に、建議書(一般殖産及華士族授産ノ儀ニ付伺)を提出。その方法については、こう述べた。
・第1等の方法は、移住を望む華士族に開墾地や物品を給貸する。1万3千戸を目標とする。
・第2等の方法は、所在地の近くを開墾する華士族に官有荒蕪地を貸与する。
・第3等の方法は、資本金350万円を内務省に備え、各地方固有物産の保護改良、運輸の便宜などに必要な資本に給貸する。
この第3等の但し書きで、運輸ノ便ヲ開クカ如キ漸次各地ノ形状ニ従テ挙行スヘキモノ百端アリト雖モ中ニ就テ尤モ其ノ較著ナルモノ七トナス、として、その七つの開発構想を挙げる。

・其ノ二 新潟港改修 31万円
・其ノ三 越後(清水越ト云フ)上野運路ノ開鑿
・其ノ四 大谷川運河ノ開鑿(茨城県)
・其ノ五 阿武隈川ノ改修 同川を修浚シ更ニ運河ヲ疏鑿シテ塩釜ノ内海ニ達シ以テ野蒜ノ新港ヲ合スルヲ得ハ福島地方ノ便利ヲ得ル
・其ノ六 阿賀川改修


大久保は翌3月7日には三条に建議書(原野開墾ノ儀ニ付伺書)を送り、前日付けの第1等の方法に関して、安積開墾と疏水の具体的な提案を行っている。さらに、3月18日、大蔵省に訓令して起業公債を募集することとし、5月大蔵省は起業公債証書発行条例にもとづき、第一国立銀行と三井銀行に内国債募集事務を扱わせることを発表。18件のうち、新潟を含む東北7県に直接かかわるものが9件(全体費用総額の31%)である。9件のうち、猪苗代湖疏水費を除くと、5件が港湾と道路など交通関係、3件が鉱山関係(阿仁鉱山、院内鉱山、油戸炭山)であることが、大久保の東北開発の姿勢を象徴している。

しかしこの大久保の積極姿勢が、戊辰戦争以来くすぶっていた東北の不満を懐柔することになった。その意味でこの投資は藩閥政府にとって安い買い物であった。

大久保はこの計画を打ち出して間もない5月14日に暗殺され、この中央集権国家による上からの東北開発計画の実現は、後継者に委ねられることとなった。





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最終更新日  2023.04.02 21:08:41
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