仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2024.02.04
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カテゴリ: 東北
秀吉の天下統一の戦いで、最後に戦陣を張った東北の英雄だ。
(長谷川ヨシテル『どんマイナー武将伝説』柏書房、2023年 から当ジャーナル要約)

1 天下統一と九戸政実
 秀吉の天下統一は1590年(天正18)の小田原征伐と思われているが、翌年秀吉は東北に大軍を派遣して九戸城(岩手県二戸市)を攻めている。九戸政実の乱と呼ばれる。

2 九戸家
 南部家の分家にあたる。『二戸郡誌』などによると、1536年(天文5)生まれと考えられる。秀吉の1歳上になる。三戸を拠点とした南部本家に仕え、1569年(永禄12)には、侵攻してきた安東愛季を撃退して鹿角を奪還するなど、武勇に秀でた人物だったようだ。室町幕府からも一目置かれたらしく、1563年(永禄6)の幕府に従う家臣や大臣の名簿『永禄六年諸役人附』にも、本家当主の南部大膳亮(晴政)と並んで九戸五郎(おそらく政実)の名が記される。『南部史要』(1911年刊行)には、1万7、8千石の領地があり、家臣筆頭であるだけでなく、富は宗家を越えていた、と記されている。

3 南部家との争い
 南部家24代目の晴政には実子がなく、従兄弟の南部信直を娘と結婚させて養子に迎えていたが、1570年(元亀1)に実の子(晴継)が生まれると晴政は息子を溺愛。3年後に信直に嫁いでいた娘が死去すると、晴政は自ら兵を率いて信直を襲撃して殺そうとした(元禄年間成立の『八戸家伝記』)ため、信直は後継を辞退して領地の田子(青森県田子町)に退く。
 しかし、1582年晴政が死去し、その葬儀の帰り道に晴継は何者かに暗殺される(江戸後期の盛岡藩記録『公国史』)。ふたたび後継問題が起こり、信直に対して、政実は弟の九戸実親を推す。実親は南部本家から正室を迎えていた。政実を支持する南部家重臣が多かったものの、信直を推す北信愛(南部家の分家)の大演説に押し切られて、なかば強引に信直が継ぐことになった。不満を抱いた政実は、本家と対立を深める。


4 九戸政実の乱
 政実に味方する勢力はかなり多く、さらに政実に寝返るものもいて、信直は防戦一方で滅亡してもおかしくない状況に追い込まれた。ここで信直の使者を受けた秀吉は鎮圧軍を派遣。秀次を総大将として、伊達政宗、徳川家康、前田利家、石田三成、大谷吉継などが名を連ねた。8月には葛西・大崎一揆と和賀・稗貫一揆も鎮められ、鎮圧軍は九戸城に迫る。9月1日には九戸方の前線拠点である、根反(ねそり)城と姉帯(あねたい)城(ともに岩手県一戸町)が落城。翌2には6万5千といわれる大軍が九戸城を包囲した。
 九戸城攻防は、『南部根元記』や『九戸軍談記』に詳しい。それらによると、攻めた武将は、天敵南部信直をはじめ津軽為信、秋田実季など東北勢、蝦夷の松前慶弘、秀吉家臣の蒲生氏郷、堀尾吉晴、浅野長政、家康家臣の井伊直政の面々という。
 対する九戸城の城兵は5千ほどだが、士気高く、ひるむことなく応戦した。切岸を登る秀吉軍を弓矢と鉄砲で撃退。蒲生氏郷が唐傘を開いて立てて呼びかけると、工藤右馬之助(兼綱)が名乗りを上げ百間(181m)離れたから傘を打ち抜いて両軍から大喝采を浴びたという。
 秀吉が小城と侮った九戸城は、防御力が高かった。三方を川に囲まれ(猫淵川、白鳥川、馬淵川)、切岸は屏風のように広がり、堀は深く土塁は高く、塀には狭間を多く設置してその上に櫓を構えた。力攻めでも無駄に兵を失うばかり。くわえて秀吉軍が大軍で兵糧が不足する事態に陥る。
 そこで、浅野長政は策略を実行。政実の菩提寺の長興寺(九戸村)の僧薩天を開城の交渉役に命じ、降参すれば一門家臣を助命され、武功を褒められ領地を与えられるだろうとの書状を託す。弟の九戸実親は、城を枕に討ち死にすべしと説得するが、政実は、一命を以て衆の命を替えるは武士の本道と、降参を受け入れ命を差し出した。剃髪した政実が9月4日城を出て長政のもとに行くと、突然捕えられる。氏郷は降参の条件を反故にして、九戸城の全員の撫で斬りを命じる。実親は二の丸で奮戦するが、本丸を制圧した氏郷軍の鉄砲で討死。
 秀吉軍に騙された政実は、7人の城将とともに秀次の陣のある三迫(さんのはさま、宮城県栗原市)まで護送され、そこで処刑された。享年56と伝えられる。

5 その後
 政実の遺骸は斬首された地に埋められ塚が建立されたというが、江戸時代には荒れてしまったという。明治初期にとある行者の夢に政実が現れたため、何かの暗示だと草むらを探索したところ遺骸の埋まった塚が発見され、その供養のために、九ノ戸神社が建立された。近くには、首級を洗ったとされる「首級清めの池」が伝えられる。
 また、政実の首は京都の戻橋(もどりばし)に晒されたともいわれるが、家臣の佐藤外記が乞食姿で密かに首を盗み出して九戸村に埋葬したとも伝えられ、今も「九戸左近将監政実首塚」が残されている。首塚の近くの九戸神社は、九戸家が先勝祈願したとされる神社で、隣には1995年建立の政実神社がある。すぐ東には、九戸城以前の九戸家居城と考えられる「大名舘」や菩提寺の長興寺がある。

■岩手県公式サイト ​ 九戸政実の足跡
■二戸市公式サイト  哀涙の政実を訪ねて





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最終更新日  2024.02.04 01:00:08
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