仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2024.05.28
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カテゴリ: 東北



■釜井俊孝『宅地の防災学:都市と斜面の近現代』京都大学学術出版会(学術選書090)、2020年

同書は、日本の宅地災害や地すべりを、近現代の都市の形成過程と併せて検証していく。特に、 丘陵地に形成された谷埋め盛土 が、1970年代終わりごろから各地で地震で地すべりを起こすようになったが、危険性の認識とリスク誕生の過程が、従来の崖崩れや地すべり災害と本質的に異なり、 人為的に生み出された都市の宅地災害だ と論じている。

以下に災害史上「初めて」の意義を持つ東北の事例について、読書メモを記す。
(なお、小見出しなどは、おだずま再構成)

1  1968年十勝沖地震  =剣吉中学校の被害

・丘陵の宅地開発は東京23区や阪神間以外でも、1950年代後半から始まり、60年代には尾根を削った土砂で谷を埋める大規模な造成が行われた
・当時から地質学者や地形学者は危険性を指摘したが列島開発ブームで省みられなかった
・そうした中、十勝沖地震で、 谷埋め盛土地すべりで最初の犠牲者 が発生。谷埋め盛土の危険性が証明された
(2)概要
・青森県南部町(旧名河町)剣吉中学校の生徒4名が、避難途中の校舎玄関前通路で、崩落した谷埋め盛土に級友40名とともに巻き込まれた
・剣吉中学校の校舎は、背後から続く谷を埋めた盛土を跨ぐように建てられていた
(おだずま注:地すべり後の写真では、2本の尾根筋に直交するように校舎が乗っかっている。尾根の間の盛土が崩れて校舎前の校庭や入口の方に流出したようだ)
・しかし農業地帯であったためか、後の都市で頻発する宅地盛土災害を結びつけて考える専門家は少なかった

2  1978年6月12日宮城県沖地震  =戦後初の都市型地震災害

・マグニチュード7.4
・M7クラスの地震は明治以降11回もあるが、マグニチュードの割に被害が極めて大きくなった
・仙台都市圏が戦後発展したためである
・すなわち、日本において、 現代化された大都市がまとまった被害を受けた最初の事例 として意味を持つ

・死者28、負傷者11,028、建物損壊179,225棟だが、家屋全壊率は0.3%と低い
・大規模火災もなく、都市震災としては中程度以下
・その理由は仙台中心部の地盤が比較的良いこと
・しかし、特に注目されたのが 宅地造成地の斜面崩壊(谷埋め盛土地すべり) ブロック塀倒壊
・その後の都市地震災害に出現する定番の被害となる
(3)谷埋め盛土
・仙台市緑ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷、白石市寿山第四団地など
・地質学者や地形学者の懸念が的中したが、不思議なことに当時は、仙台の古い(昭和43年新都市計画法施行以前)盛土に限定した災害として処理された
・宅造法(昭37)以前や新都市計画法(昭43、開発許可制度)の後は、被害のあった造成地の割合は減っているが(おだずま注:著者は造成地件数より個々の盛土の面積や数ごとに比較すべきとする)、それでも全体の2割以上ある
・盛土地すべりは他の都市では起きにくいとする議論があった。一片の真実としては、仙台の丘陵の基盤をなす第三紀層の砂岩、泥岩が削られて盛土に使われたため、乾湿の繰り返しで砂や泥に分解するスレーキング現象を起こすということはある。また、仙台では動くべき盛土はあらかた動いたから将来は安全、との解説も
・しかし、そのような都合の良い理屈(ノーマルシーバイアス)は、1995年阪神・淡路大震災や2011年東日本大震災で崩れた

3   2003年三陸南地震、2008年岩手・宮城内陸地震  =築館の地すべり
(1)歴史的意義
・2003年は気仙沼沖深さ70km震源の深い地震、2008年は栗駒山麓断層運動(逆断層)による震源深さ8kmの浅い地震、と性質は異なる
・しかし、特徴は 宮城県築館町(現栗原市)で2回とも発生した谷埋め盛土の地すべり
・すべり面角度10度と極めて緩い
・このため詳しく調査され、谷埋め盛土のメカニズムに重要な情報が得られた。後に ローラースライダーモデル と呼ばれる
(2)概要
・1970年代の農地改良事業で、いく筋かの谷埋め盛土がほぼ平行に形成されていた
・斜面造成の目的は、畑地とも宅地転用とも言われているが、実際に造成後も利用されることなく維持管理はされていなかった
・盛土材料は、尾根部の鬼首カルデラ起源の 軽石流堆積物で、多孔質な軽石を含み比重が軽く、盛土に向かない (有効上載圧を上げにくい、地下水たまりやすい、などで液状化しやすい)
・さらに、旧谷底の地盤は特に弱い(N値測定不能=打撃せず自沈する状況)
・以上から、 盛土底面付近での液状化 で、極めて低角度でも滑ったと思われる
(3)補足
・問題の地区で多くの谷筋が埋められたが、2003年地震で谷埋めA(盛土4m)が崩壊して流動化した土砂が水田に流入した。2008年には谷埋めB(盛土6m)が崩壊(Aは対策済み)した
・更に別の斜面谷埋めC(盛土8m)は、崩壊せず。これは、底面付近の地盤は液状化で抵抗が失われるが、盛土の厚さによって 側部の抵抗 が大きかったためと考えられる

4 2011年東北地方太平洋沖地震
(おだずま注:フロンティア事例というよりは、過去の教訓が生きなかった事例という位置づけ。そのため簡潔に整理)
(1)概要
・1978年時点で判明していた事実と本質的に同じ。例えば緑ヶ丘4丁目の地すべりは1978年とほぼ同じ範囲と深さ
・しかし他方で、1978年に崩れなかった盛土でも地すべりがあった。例えば折立5丁目は明瞭な移動体を持った典型的な地すべり(後のボーリング調査で盛土に地下水が貯まっていたことがわかったので、対策が可能であったかもしれない)
・盛土材料が問題を悪化させたケースも。1978年地震の地すべり盛土を、7から10年後に再調査したところ、(常識では盛土は時間経過で圧密し強度は増すが、逆に)N値が当時と同水準か低下する傾向。これは災害復旧時に盛土材とした泥岩・左岸のブロック(掘削岩塊)のスレーキングが原因と考えられる。この状態で2011年を迎えたのだ
(スレーキングは上述2(3)参照。岩石が湿潤と乾燥の繰り返しで分解していく現象。通常は地表で起きるが地下水の上下によって地下でも起こりうる)
(2)対策工事の効果と限界
・緑ヶ丘地区では、1978年の地すべりが顕著に発生。宮城県によって地すべり対策工事が行われた。谷埋め盛土地すべりに対するものとしては全国初で、兵庫県南部地震までおそらく全国唯一の場所だった
・対策工事は、集水井戸による地下水排除と何列もの鋼管杭の抑止効果を組み合わせたもので、地すべり対策としては例外的に入念
・しかし、なぜか1丁目と3丁目の地すべり地区のみ行われた
・2011年には1丁目の谷埋め盛土は無被害だったが(効果あったか)、3丁目は(1978年のような盛土全体の地すべりは防げたが)杭を起点に浅い滑りがあり、住宅基礎の亀裂や傾きが発生した
・4丁目は対策工事が行われないまま(道路と水道のみ補修)、2011年にほぼ同様に再現され激しい被害となった。地下水位も非常に高く(地震直後に自噴したほど)、大きく動いた。地震後1年間緩慢な地すべりが続いた。再建できず集団移転を選択することに

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地すべり、宅地災害、土砂災害などの基礎知識 (2024年05月28日)





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最終更新日  2024.05.28 23:42:39
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