おじん0523のヒロ散歩

おじん0523のヒロ散歩

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

オジン0523

オジン0523

カレンダー

コメント新着

フリーページ

2026.09.12
XML
​​​​​​​​​​​​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
​​​​
​​
​​温故館の中にある海老名市立郷土資料館を見学した。
滋賀から来たという男性に受付の男性が丁寧に説明しておられた。

9月2日(水) 15:00
石器・縄文、弥生時代の出土品がショーケースの中に陳列されていた。


こちらには、
弥生土器について 」と。


弥生土器について
弥生時代とその生活について

海老名の弥生時代


弥生土器について
1884(明治17)年、本郷弥生町(東京都文京区)から発見されたことから、弥生土器と
呼ばれるようになりました。
縄文土器よりも薄手で、北海道と沖縄などの南西諸島を除く日本列島各地で使われ、
地域や時期によって形や文様に特色のある土器が作られていました。
器種は、水稲耕作による食生活の変化により、貯蔵用の壺、煮沸用の壺、盛りつけ用
の高坏(たかつき)・鉢を基本として、その機能によって多くの器種が作られました。
また、祭祀用の土器や埋葬に使われた土器もあります。
弥生土器はあくまで機能を優先したものと思われ、縄文土器のような立体的で複雑な
文様は少なく、平面文様が多くなり、縄文や沈線により文様が描かれたものや、赤い
顔料が塗られたものなどが多くみられます。



弥生時代とその生活について
弥生時代は、弥生土器から名前が付けられており、本格的に水稲耕作がはじまった頃から
前方後円墳が造られ始める頃までを指します。その中で、大きく早期・前期・中期・後期
と4つの時期に区分されています。
弥生時代の人々は、縄文文化の伝統も残しつつ、大陸からの石庖丁などの農耕具、青銅器
や鉄器などの金属器といった新しい文化を取り入れました。これらの文化は、北海道と沖

住まいは縄文時代と同じ竪穴住居ですが、収穫物を貯えるための高床式倉庫や、周囲を溝
で巡らせた環濠集落という形態のムラが造られました。
ムラのそばには、方形周溝墓、再葬墓、土器棺墓など様々な形のお墓が築かれました。
弥生時代は、新しい文化によって縄文時代より豊かな食生活を送れるようになりました。
しかし、同時に争いや階層化が進むという社会の変化も起こりました。

海老名の弥生時代
市内では早期~前期の遺跡は確認されていません。
関東地域に広げて見ても、早期~前期の遺跡は少なく、この時期には人口が減少していた
可能性が考えられます。
市内で遺跡が確認されるのは中期以降で、後期になると遺跡の数は増加していきます。

~中期~
  《本郷中谷津遺跡・杉久保蓬谷遺跡・国分尼寺北方遺跡・河原口坊中遺跡》
 集落や方形周溝墓が発見され、本郷中谷津遺跡と杉久保蓮谷遺跡では環濠と思われる溝も
 出土しています。この2つの遺跡では方形周溝墓から土器棺が見つかっています。
 また、河原口坊中遺跡では木製の高坏や又鍬などの農耕具が出土しており、海老名におい
 ても水稲農耕の文化が定着していたことが分かっています。
~後期~
  《本郷遺跡・本郷中谷津遺跡・国分尼寺北方遺跡・河原口坊中遺跡》
 本郷中谷津遺跡・国分尼寺北方遺跡などの遺跡が中期から引き続き存在しています。
 本郷遺跡では、西遠江(静岡県西部)などの土器が出土しており、他地域との交流があった
 と考えられています。


古墳時代コーナー


海老名の古墳時代
日本列島では3世紀頃から、形態や埋葬施設にある程度共通性をもった塚状の墳墓が造られ
るようになります。畿内地方を中心に大型の前方後円墳が築かれますが、時期や地域により
古墳の形や規模は様々です。7世紀頃までを古墳時代と呼び、前期・中期・後期・終末期に
分けられます。
海老名市域では、3世紀後半に秋葉山古墳群の築造が始まり、この地に古墳を築造できる
有力者がいたことを物語っています。2.5キロほど南の上浜田古墳群は、前期から中期にか
けての古墳群です。さらに南の伊勢山古墳群は中期末から後期の古墳群とみられます。
後期から終末期には上今泉・杉久保・本郷地域等で丘陵や台地の斜面を掘って造られた横穴
墓が多くみられます。また、相模川の自然堤防上の河原口坊中遺跡では、墳丘のない小石室
も見つかっています。
集落は、前期は国分尼寺北方遺跡・本郷遺跡・本郷中谷津遺跡・社家宇治山遺跡等で認めら
れており、多くは弥生時代後期の集落に重なるように立地します。市域南部にある本郷遺跡
では、竪穴住居跡から割れた小銅鐸が出土しているほか、緑色凝灰岩を原料とした管玉等の
製作も行われていました。しかし中期になると集落はほとんどなくなってしまいます。再び
集落が営まれるようになるのは5世紀後半頃で、中野桜野遺跡・国分尼寺北方遺跡・国分宿
遺跡等で、竪穴住居跡が見つかっています。この頃の竪穴住居には新たにカマドが導入され、
これにあわせて煮炊き用の甕の形も変化しています。
古墳時代に使われた土器は、赤みを帯びた素焼きのもので「土師器」と呼ばれ、平安時代ま
で作られました。また、朝鮮半島から伝わった技術で生産された「須恵器」は、窯を使って
高温で焼かれた、青灰色の硬質な土器です。須恵器が生産され始めた5世紀頃は、主に古墳
の副葬品として用いられ、7世紀以降は徐々に実用品として普及しました。
上浜田古墳群
海老名市国分南、浜田町、大谷北の・・・する古墳群で、南北にわたり6基の古墳が確認さ
れています。・
最も北に位置する7号墳は、・・・・。


古墳時代中期の出土した「鉄剣」。


海老名の奈良・平安時代
古墳時代、平安時代の出土品がショーケースの中に陳列されていた。


海老名の奈良・平安時代
古墳時代の大王と有力豪族から構成された時代から、律令制度をもとにした
天皇中心の国家体制へ移行されました。
大宝令によって地方行政区画が確定し、海老名市域は東海道を構成する「相模
国」に属し、高座(たかくら)郡のほぼ中央に位置しました。
平安時代にまとめられた『和名類聚抄』によると、高座郡には13の郷が存在
し、「有鹿郷」が河原口に所在する有鹿神社付近と考えられています。駅家と
しては、浜田駅が所在していました
市内では、奈良から平安時代の遺跡はとても多く、大谷向原遺跡、本郷遺跡、
国分尼寺北方遺跡等で集落跡が見つかっています。住まいは、古墳時代後期に
なると、炉のある竪穴住居からカマドのある竪穴建物や掘立柱建物へと変わっ
ていきました。カマドは炉に比べて熱効率がよく、その構造にあわせて、甕の
形も台が付いたものから長胴に変化しました。
土器は素焼きの「土師器」以外に、灰色の硬質な「須恵器」も使用されるよう
になり、市内でも、貯蔵用の甕や液体を入れる瓶、坏等が出土しています。
坏には文字が墨書されたものも見られます。
また、海老錠や風字硯、石帯、緑釉陶器等役人の身分を示すようなめずらしい
ものが出土することもあります。


古墳時代前期・古墳時代後期の出土品


奈良・平安時代の出土品


神奈川県内の相模国域と郡と郷(『木簡が語る古代史』2001 荒井秀規氏原図 改変)


正面に「海老名の奈良・平安時代」のショーケース。


相模国分寺跡の発掘と出土品


相模国分寺跡
相模国分寺跡は、神奈川県のほぼ中央、西に大山を望む相模川が形成した標高32m前後の
河岸段丘上に立地しています。西は段丘崖、東に丘陵地が迫っており、寺院地を確保するた
め、丘陵の一部を削り平坦にしています。約500m北には相模国分尼寺跡が所在します。
相模国分寺跡は、中門から見て左手に塔、右手に金堂、塔と金堂の背後に講堂を配し、塔と
金堂を回廊や築地塀で囲む法隆寺に似た伽藍配置が採用されています。諸国国分寺でこの伽
藍配置を採用しているのは、他に下総国のみです。
区画溝で囲まれた寺院地(寺院を運営する建物を含めた範囲)は、東西約240m、南北300m
以上と全国の国分寺跡の中でも有数の規模です。


国分寺の配置と逆川関連遺構
相模川、目久尻川は南に流れているが、逆川(さかさがわ)は目久尻川から北側へ流
れていると。


左:塔 跡(平成4年撮影)
中:中門跡(平成5年撮影)
右:僧房跡(平成9年撮影)


相模国分尼寺跡
国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」です。国分寺と同様、聖武天皇の詔によって建立
されました。相模国分尼寺の伽藍配置は、中門・金堂・講堂が直線上に並び、中門と講堂
が回廊で結ばれる形式で、三河・常陸・信濃の国分尼寺などと同じ伽藍配置が国分寺や国
分尼寺によくみられる形です。
発掘調査で出土した区画溝や周辺の地形などから、寺院地は175~200m四方と推定され
ます。

寺院地
国分尼寺跡の北側にある国分尼寺北方遺跡からは、区画溝や掘立柱建物跡、竪穴建物跡な
どが確認されています。第7次調査では、倉庫とみられる総柱の掘立柱建物跡や庇付掘立
柱建物跡、馬の首を埋葬した土坑などが見つかっています。
国分尼寺北方遺跡からは「法華寺」と書かれた墨書土器が出土していることから、この一
帯が相模国分尼寺の寺院地であったと推定されています。
掘立柱建物は尼寺の付属施設、馬首埋納土坑などは宗教儀式・祭祀の遺構であると考えら
れています。
中央の図「 相模国分尼寺跡伽藍配置図 」。
右側写真「 金堂跡基壇 (西から) 」。


3基の五輪塔が置かれていた。


五輪塔
密教では、物質を構成する要素を地・水・火・風・空の5元素であるとされます。これを
下から上へと積み上げて塔の形にし、大日如来を表したものが五輪塔です。そのため、
大日如来の真言(言葉・呪文)を梵字(古代インドの文字)で刻んだものもあります。
平安時代後期以降、供養塔・墓標として広く用いられ、主に武士層によって造立されました。


左:海老名の中世
中:海老名氏系図
右:中世主要遺跡及び推定される武士の拠点分布


海老名の中世
平安時代中頃になると、有力な地方豪族の中に、弓矢を持って戦う「武士」が
現れ、宮中を警護したり、地方の治安維持を分担するようになりました。反乱
が起きると武士の力で鎮圧し、保元・平治の乱をきっかけに、武士が中央政界
に進出しました。その後、源平の争乱が起こり、平氏が滅亡すると、源頼朝は
各国に守護・地頭を配置し、鎌倉に幕府を開きました。
海老名市域では、小領域の郷が多数成立し、管理を任された有力武士が私領化
するようになります。市域の南東部は、武蔵国から進出した「渋谷重国」によ
って開発私領化され、渋谷氏の勢力下となりました。
その他の地域は「横山党」の流れをくむ「海老名季貞」が郷司となり、長男「
季久」に「上海老名郷」(上海老名氏)、三男「有季」に「国分」(国分氏)、四
男「能季」に「下海老名郷」(下海老名氏)を譲り、郷司職から転化した地頭職
として鎌倉幕府から任命されました。
建保元(1213)年に起こった和田義盛の乱で、渋谷氏と海老名氏は大打撃を受け
ますが、その後も両氏の一族は活躍しました。室町時代に入ると、海老名氏の
一流が関東公方の近臣となり、永享の乱(1438年)では海老名に本陣がおかれま
した。しかし、幕府軍の攻撃により敗戦し、海老名の地は小田原北条氏の支配
下となっていきます。
海老名市内の中世の遺跡としては、上浜田遺跡、上郷遺跡、河原口坊中遺跡、
本郷遺跡などがあげられます。上浜田遺跡は、13~15世紀に営まれた武士の
居館跡で、神奈川県の史跡に指定され、整備・公開されています。上郷遺跡は、
14~15世紀の大規模な中世墳墓跡で、板碑・五輪塔などが多数発見され、海老
名氏に関連する遺跡と推定されています。河原口坊中遺跡では、市内で他に出
土例がない「白かわらけ」や密教法具の「金剛盤」が出土しており、周辺に居
館や寺院があったことをうかがわせます。
遺跡から発見される土器は、食器・儀式・祭祀などに広く使われた「かわらけ」
と呼ばれる素焼きの土器と輸入・国産の陶磁器で、土師器や須恵器は見られなく
なります。


海老名氏系図


1階の各時代の遺跡からの出土品、歴史資料を見終え2階へ上がる。
2階には民具の展示がある。


公開記念パネル展
「 海老名市デジタルアーカイブ えびなの歴史 」
  今年の3月1日より海老名市デジタルアーカイブ「えびなの歴史」を開設し、様々な
  資料をウェブ上でご覧いただけるようになりました。デジタルアーカイブに搭載した
  資料の中から、海老名市域の写真をご紹介します。


時計回りに展示品を見た。
昔の道具は大切な物です。お手をふれないようお願いします。

2階には、衣・食・住や生業、信仰などに関する民具が展示されています。参考資料として
何故かの絵画(複製)もありますが、これらは中山耕一郎氏(1894~1979)の作品です。
氏は郷土史家であった中山毎吉氏の長男として出生、のちに山梨大学で美術教育に尽力され
ました。自らの体験に基づき、明治末から大正初期の村の暮らしを共感的な筆で温かく描い
ています。なお、この絵は撮影は御遠慮下さい。
とあったが、絵はなかった。


戦後の昭和期の電気関係の懐かしいものが展示されていた。


カメラ、8ミリカメラ、バリカン


温故館の建物の歴史


温故館の建物の歴史
明治22(1889)年に施工された市制・町村制により、海老名村が誕生し、国分に「海老名村
役場」が設置されました。しかし、明治43(1910)年の国分大火により建物が焼失、その後
しばらくは薬師堂(現在の国分寺)の庫裏を仮庁舎としていました。庁舎の再建は、大正5(1
916)年頃から計画され、大正7(1918)年4月に竣工しました。この村役場庁舎は、神奈川
県内で現存する最古の役場建物で、郷土資料館「海老名市温故館」として、貴重な姿を今に
伝えています。


温故館2階の東側の窓から相模国分寺跡を見下ろす。
一段高いのは「七重塔跡」の基壇。


中門・回廊跡方向を望む。


ショーケースに長いガラス製のものが。


左上:ハエを退治する昔の道具(昔の防虫対策)
蝿(はえ)取り器
    瓶の下に餌を置いて瓶の中に蝿を誘います。蝿は入ったら出ることができないので、
    瓶底の水に落ちて死んでしまいます。


〔 ハエ取り棒 〕
  天井に留まっているハエを退治するための道具です。
  下側の丸い部分に水や石鹼水を入れておき、上側のラッパの形をした部分を下から
  天井に留まっているハエにかぶせます。
  逃げようとしたハエはガラスの内側にあたり、ガラス管を滑り落ちて、下の丸い部分
  の水や石鹸水の中に落ちて死んでしまいます。


壁面に「 衣 」と。
和服、ミシン、草履等が展示されていた。


壁面に「 食 」と。
このコーナーには、台所用品が展示されていた。


農耕具が所狭しと並べられていた。


食コーナーを振り返る。


写真付きで機織機のようなものがあったが。


説明に「 製莚機(せいじょうき) 」
機械化された莚機(ムシロバタ)(莚を織るための機)。「長谷川式製莚機」の記があります。
昭和十八年。


農耕具も陳列されていた。


いろんなパネルが掲示されていた。
伝統芸能・行事                 
・大谷歌舞伎  平成4年(1992)4月25日  ・海老名のささら踊り 平成16年(2004)
・セイトバライ   平成3年(1991)1月14日  ・盆の行事 盆棚     平成3年7月15日
相模川の風景
・浅野砂利採取場大型採取船「大山丸」   昭和4年(1929)1月4日
・相模大橋渡り初め            昭和30年(1955)6月13日
 ・相模小橋(もぐり橋)        平成元年(1989)7月17日
 ・相模川鮎解禁            平成3年(1991)6月1日


昭和20~30年代の写真
 ・西部排水路  昭和20年代後半      ・花嫁の到着  昭和32年
 ・たき火    昭和32年頃        ・海老名耕地  昭和32年頃
昭和初期の暮らし
 ・葬儀写真   昭和8年3月30日       ・出征兵士の村葬  昭和12年頃 
 ・慈教会愛国婦人会託児所 昭和16年    ・養蚕の作業風景  昭和初期


大正~昭和初期の建物
 ・海老名村役場    大正7年(1918)頃
 ・有馬村役場     昭和初期~昭和20年代
 ・海老名小学校校舎  昭和13年(1938)
 ・旧厚木駅      昭和14年頃


大正~昭和初期の学校

 ・有馬小学校高等科一年女子修行者一同  大正4年(1915)3月25日
 ・海老名小学校尋常科卒業記念      大正14年(1925)
 ・海老名小学校運動会            昭和13年(1938)
 ・有馬国民学校卒業写真         昭和19年3月29日


明治時代から昭和期までのいろんなものが展示されていたが奇麗に整備されていた。


明治時代の写真
 ・家族写真(裏庭にて)   明治40年(1907)5月9日
 ・大国小学校卒業写真    明治41年3月
 ・家族写真(裏庭にて)   明治42年(1909)2月6日    
 ・徴兵記念         明治45年(1912)6月27日
大正時代の写真
 ・有馬村マラソン大会    大正8年(1919)
 ・国勢調査記念       大正9年(1920)10月
 ・海老名村村会議員     大正10年(1921)
 ・中新田消防組       大正時代


関東大震災
 ・被災した諏訪神社        大正13年(1924)9月1日
 ・海老名小学校上棟式       大正14年(1925)6月
 ・海老名小学校河原口分教場上棟式 大正14年(1925)6月
 ・有馬村役場上棟式        昭和2年(1927)12月  


15:15
受付には2名の方がおられ、来館者に対して丁寧に説明しておられた。
受付に「登録有形文化財」の認定証が置かれていたが玄関先に掲示してほしいものだが。



                                 ー continued ー





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2026.09.12 08:44:25
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: