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2026.09.13
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海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」を見たあとは相模国分寺跡へ。

9月2日(水) 15:15
相模国分寺跡
小田急小田原線の海老名駅から徒歩約10分に位置している。
国分寺跡の南西隅に立つ、郷土かるたに「 て 」と。
木柱には「天平の 礎石が語る 国分寺」。


史跡相模国分寺跡環境整備事業
相模国分寺は、741年(天平13)の「国分寺建立の詔」によって全国に建立された寺院の一つ

が、940年(天慶3)には相模国分寺の仏像が汗をかいたという記録があることや発掘調査の
結果等から、平安時代中頃までは修理や再建が行われていたようです。
しかし、平安時代後期には荒れ果て、やがて現在の国分寺の場所に移転したといわれてい
ます。
相模国分寺跡は、江戸時代に書かれた「新編相模国風土記稿」の挿し絵にも遺跡が描かれ
ているほど古くから知られていました。
明治時代後半から大正時代にかけて尋常高等海老名小学校 (現在市立海老名小学校)の校長
であった中山毎吉が相模国分寺跡や国分尼寺跡などの遺跡を調査して、矢後駒吉とともに
「相模国分寺志」という研究書にまとめました。
こうした中山毎吉等の調査研究や保存運動により1921年(大正10)3月3日に相模国分寺跡
は「国指定史跡」となりました。

復原・整備をする環境整備事業を平成元年度(1989)から始めました。
1966~67年(昭和41~42)の発掘調査結果をもとに、1990~1996年(平成2~8)にかけて
塔跡、中門跡、南面廊跡、僧坊跡等の発掘調査を行い、史跡整備に必要な資料をそろえま
した。基本的な整備計画は、相模国分寺の創建時の遺構を整備することにしました。
具体的には、塔・金堂・講堂の基壇復原、中門・廊跡・僧坊跡等の位置表示を行い、現存

                        2000年(平成12)3月 海老名市


「新編相模国風土記稿」の「国分寺併旧跡図」
   (天保年間 1830~1841年)


史跡相模国分寺跡 整備予想図


国史跡 相模国分寺跡
  指定日 大正10年3月3日 (1921.3.3)
  指定地 海老名市国分南一丁目18.19番 
                海老名市教育委員会  2019年2月


国史跡 相模国分寺跡
奈良時代、聖武天皇は仏教のカで国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。
相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を
東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲ん
でいます。その外側は素掘りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と
諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります。
七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。
瓦は乗越瓦窯(のりごしがよう 横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(かわらおねがよう 東京都
町田市)などで焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川
上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川(さかさがわ)跡は、これらの資材を運
ぶために人工的に開削された運河とみられています。
通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(おおすみぐん 平
塚市)、国分寺は国府から約12キロも離れた高座郡(海老名市)に置かれました。これは大
住郡と高座郡の郡司が壬生(みぶ)氏という同じ氏族であったからではないかとされてます。
ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、ニ寺が並び立つ様子は壮観だった
ことでしょう。
相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然
としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継
がれています。


相模国分寺復元図


伽藍配置図


海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」
史跡相模国分寺跡・尼寺跡の発掘調査で出土した瓦や水煙など貴重な遺物や相模国分寺の
復元模型を展示しています。
是非お立ち寄りください。


塔 跡
復元された七重塔の基壇。


塔跡説明板
右側の写真は、発掘された塔跡、出土品


塔 跡
ここは741(天平13)年の「国分寺建立詔」をうけて建てられた七重塔の跡です。国分寺
の塔には、国家の平安を祈る金光明最勝王経が安置されていました。
1966(昭和41)年と1992(平成4)年に行った発掘調査で基壇(建物の基礎となる土盛)は、
一辺の長さが20.6m、高さは1.3mの規模であったことが確認されました。残存する礎
石から、塔の初重の広さは、10.8m四方で、塔の高さは約65mあったと推定されてい
ます。
塔跡のまわりからは屋根瓦(布目瓦)や水煙等の遺物が出土しています。
また、基壇周辺で発掘された石敷や盛り土から2回の修理もしくは建て替えが行われた
ことも分かりました。
創建時の基壇は、現在復元されているように、四辺ともに切り石積み(壇正積)でしたが、
後に北側の辺だけが川原石積み(乱石積)につくり替えられています。
石質調査の結果、切り石は相模川上流から、礎石は丹沢方面から運ばれたものと推定
され、両方とも凝灰岩質の石です。
10個の礎石は当時のままですが、失われた礎石は国分寺跡から運び出されたといわれ
る礎石3個と新たな石4個を使って復原・補充しました。
基壇の高さは、基壇周辺の遺構を保護するために盛り土したので、創建時の基壇より
も​約35cm低く復原しました。
図は、相模国分寺七重塔想定復元図。


基壇上面の礎石。


中門跡から西側の回廊跡礎石を見る。


石碑と案内板


中門・回廊跡
ここには、塔・金堂など主要な建物を囲む回廊とその中に入るための正門である中門があり
ました。
1966年と1993年に行われた発掘調査の結果、中門は東西21m×南北11m程の土台(基壇)上
に建つ瓦葺きの建物だったと推定されています。
廊跡からは、礎石上に柱の痕跡があるものが7基みつかり、周辺から瓦が多く出土しまた。
回廊は一般的に東西南北に廻らされますが、相模国分寺では東面が築地塀であったことが
確認されており、西面についての詳細は不明です。
現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に中門と回廊の範囲を表示しています。
                海老名市教育委員会  2019年2月


石碑正面に「 史跡 相模国分寺阯 」。
左側面には「大正十四年三月建造」。
右側面には「史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リ
        大正十年三月内務大臣指定」と。


回廊の東側から西側を望む。


礎石があったが「 金堂跡 」か。
伽藍配置から「金堂」は塔の東側にあり、塔と同じく版築工法で作られた基壇に礎石が残っ
ており、礎石の上に金堂の建物が建っていたことがわかる。金堂も塔と同じく基壇を切石で
覆っていたものと考えられていたが、2005年に行われた金堂発掘の結果、石積みであった
ことが判明した。また、金堂の建物内に幅2.2メートルの高まりが存在した。これは須弥壇
であったと見られていたが、やはり2005年に行われた金堂発掘の結果、高まりは須弥壇で
はなく、後世相模国分寺跡が畑地として耕作されていた際に耕作されずに残された場所で
あったことが判明した。と。


石碑には「 相模國分寺遺蹟 」と。
裏面を見たが「金堂跡」とはなかった。


東側から七重塔の基壇を見る。
国分寺跡の広場は草が刈られ整備されていた。


ズームアップ。
高層ビル群は海老名駅周辺。天気が良ければ大山、富士山が見えるスポットか。


国分寺跡の中を横切る市道。


市道脇に祠が建っていたがGoogleマップ、説明板もなく?。


祠の西側に建っていた標石には「 国分寺講堂跡 」と。
伽藍配置から「金堂跡」「経蔵跡」「講堂跡」「鐘楼跡」があったが説明板があったのか。
標石も「講堂跡」以外は見落としたか。


滋賀から来たという人が案内図を見ながら散策していた。
国分寺巡りをしておられるのであろうか。


新旧の道祖神が立っていた。

右側には「昭和四十九年一月建之 道祖神 逆川講中」とあった。
左側は破損修復されており確認できなかった。


僧房跡 (そうぼうあと)
現在、遺構は地下に埋め戻して保存し、その上に僧房の範囲を表示している。


僧房跡 (そうぼうあと)
ここに、国分寺の僧が集団生活をしていた施設である僧房がありました。僧房は塔と金堂、
講堂とともに奈良時代の寺院を構成するために必要な建物でした。1966年と1996年に行わ
れた発掘調査により、東西81m以上の長大な建物で、東西9m、南北6.57mを1居住単位と
し、9区画以上に仕切られていたことなどが確認されました。
柱穴を調べたところ、柱の下部を地中に埋める掘立柱建物から、柱を礎石の上に建てる礎
石建物へ建て替えられたことも判明しました。柱は直径約30cmと推定され、柱が沈み込ま
ないよう根元に石や瓦を置く礎板も見つかりました。さらに、掘りなおされた痕跡が確認さ
れたもの、柱穴の中に焼けた瓦や土器が廃棄されたもの、焼けた土で埋め戻されたものが
確認されました。
これらのことから、火災などによって2回の建て替えがあったものと考えられます。
見つかった僧房の遺構は、長く将来に伝えていくために埋め戻し保存し、その上に僧房の
規模や構造がわかるよう、壁や柱の位置を表示しています。
                海老名市教育委員会  2019年2月


相模国分寺跡は芝生で覆われ奇麗に整備され、周りには新興住宅が建ち並んでいた。
右側に説明があり「 北方建物跡1 」と。


北方建物跡1
ここは僧房の北側ですが、ここにも国分寺に関連する施設がありました。1966年に行われ
た発掘調査では、東西9m以上、南北6mで、南側に廂(ひさし)がある掘立柱建物であるこ
とがわかりました。二度にわたり建替えられ、相模国分寺跡の中軸線上にあることから、
重要な役割を担った建物と推定されます。
                海老名市教育委員会  2019年2月


国分寺跡の北側にある「 北方建物跡1 」から南側を望む。


西側から僧房跡を望む。
高層ビルは集合住宅の「ルネ・エアズヒル二番館」。


国分寺そば
所在地:神奈川県海老名市国分南1丁目8-35
国分寺跡の北西にある蕎麦屋で、木を基調にした和風の店内で蕎麦と和食を楽しめるくつ
ろいだ雰囲気の店であると。広い駐車場もあり人気の店であるようだ。
Googleマップによるとこの先に「 大型建物跡・区画溝 」にある。

”国分寺そば”の横を抜けると辻に広場があり、道祖神、説明板があった。


2基の石柱があり左には「道祖神 交通安全 昭和四十六年十一月吉日 □木講中」と。


大型建物跡 ( 北方建物跡2) ・区画溝
大型建物跡 ( 北方建物2)
ここは国分寺の中心から北西にあたります。南北9m、東西33.8m以上の建物跡が発掘され
ましたが、柱の並びが等間隔でないため、複数の建物であった可能性もあります。用途は
不明ですが、その位置から国分寺の運営に関わった施設と推定されます。
区画溝
この敷地の西端から南に向かって、2条の素掘りの溝が確認されました。溝は上幅約1.2m、
下幅約1.0mで、寺域を区画していたと推定されます。
                海老名市教育委員会  2019年2月


左:国分寺配置図(左上が現在地)
右:区画溝の確認状況


大型建物跡 (北方建物跡2) から南側を望む。
南側の黒塀は「国分寺そば」。


人気の蕎麦店「 国分寺そば 」。
古民家風の落ち着いた外観が印象的で、大きな提灯が目印のお店です。石臼挽き自家製粉
の蕎麦が名物で、香り豊かな手打ち蕎麦をゆったりした雰囲気の中で楽しめると。


相模国分寺跡の北側エリアに立っていた「 国史跡 相模国分寺跡 」。


まだ新しい標識である。


海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」へ戻る。


15:30
温故館の玄関ポーチ
切妻造の玄関ポーチで、屋根の上には屋根飾りがついています。全体としては直線的で素
朴な装飾で、左右対称の役場らしい建物となっています。明治から大正時代にかけて全国
各地の役所などによく用いられ、郡役所様式などともいわれます。



                                 ー continued ー





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最終更新日  2026.09.13 03:00:03
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