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今日は先日行ってきた 岩崎城址
(愛知県日進市)を
アルバムでと紹介しますね。
この岩崎城は有名じゃない小さなお城だけど、個人的には
好きな城です。
ではどこで出てくる城か。
はい、 1584年の『小牧・長久手の戦い』においてです。
参考 :
フリー百科事典『ウィキペディア』 小牧・長久手の戦い
長久手町教育委員会 編集 : 劇画 『小牧・長久手の戦い』
1852年、織田信長が本能寺の変で倒れた後、羽柴秀吉と
徳川家康が対立するようになる。
そして 1584年、ついに両者は合戦へ。
はじめは犬山城から小牧山城にかけての一帯で戦いと
なるも、そのうち秀吉と家康がにらみ合ったまま動けない
状況になる。
この戦況を打開しようと秀吉は、家康の本拠地である
岡崎を攻撃することに。
秀吉方の武将の 池田恒興
や 森長可
らが、秀吉の甥の
三好秀次を総大将として、約2万の大軍で進撃を開始する。
秀吉側の三河進撃隊は小牧から現在の春日井市篠木、
そして愛知郡長久手町から日進市岩崎を通って、岡崎に
向かっていた。
秀吉は家康に気づかれぬよう岡崎に行くのを急ぐため、
途中の小城にはかまわぬよう三河進撃隊に指示する。
しかし岩崎を通ったときに、城の留守を守っていた 16歳の
丹羽氏重らは、進軍を少しでもくい止めようと、約300名の
城兵で先鋒の池田恒興隊:約7,000名に戦いを挑む。
そして岩崎城の兵は全員討ち死にとなる。
それでもこの岩崎城での戦いによって池田隊の三河への
進撃が遅れ、家康に有利な展開となる。
結果、長久手での戦いで家康が秀吉に勝つこととなった。
あの時代にこの地で、このようなことがあったのですね。
城を守る300名の城兵が 7,000名の敵兵に向かっていくと
いうことは、もう最初から生きては帰れないということ。
それでも敵に向かっていった。
その甲斐あって彼らの命はその後の戦局に大きく影響し、
無駄死にとはならなかった。
さほど有名じゃない地だけど、歴史に大きく影響を与えた
出来事があった場所。
私にとって、より感銘を受ける城です。
今回もアルバム内で説明板の写真を載せました。
画面右上にある【アルバムへ戻る】をクリックすると、この
アルバムのサムネイルが出てきます。
その中でご覧になりたい写真をクリックするとスクリーン
サイズになり、
さらに写真をクリックすると元画像になります。
元画像なら細かい文字や図もだいたいわかると思います。
ではどうぞ、ご覧くださいませ
★岩崎城址(愛知県日進市)★
写真をクリックしてご覧くださいね。
純白の椿の花。
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