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2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回はサブタイトルは「母として」でありますが、私は子役たちの頑張りに注目していました。道長の嫡妻・源倫子の嫡男の田鶴を演じる三浦綺羅くんと、妾・源明子の嫡男の巌を演じる渡邉斗翔くん二人の童舞の競演は、きらびやかな装束も相まって、それは美しくて見事なものでした。二人ともこのシーンのために、舞の稽古をいっぱい重ねたでしょうね。特に帝や公卿たちを感嘆させる巌の役の渡邉くんは、どれだけ稽古を積んだのかと思ってしまいます。また伊周の嫡男・松を演じる小野桜介くんは、舞は少しだったけど唄も入っていました。3人とも11~12歳の少年たちです。ふだんの生活ではまずすることがないであろう舞をよく頑張ったと思います。ちなみに三浦綺羅くん、どこかで名前を聞いたことがあるなと思ったら、昨年の『どうする家康』で、織田信長の少年時代を演じていました。そして幼児組では、まひろの子・賢子を演じる永井花奈ちゃんと帝の子の敦康親王を演じる髙橋誠くんの、二人ともたぶん意味をわかってやっていないであろう演技に驚きました。花奈ちゃんが、まひろの読む漢詩に興味がなくて動き回ったり、道長の使者の百舌彦が来ているときに大人の間を走り回ったりするのは、「さあ、走っておいで~」とか言われていたのでしょうか。あるいは誠くんが彰子の膝にちょこんと座ったときは、何かの合図で「あのお姉ちゃんのお膝に座っておいで」とか言われていたのでしょうか。この幼子たちにどうやって演技させていたのか、私はドラマの内容よりもそちらが気になっていました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長保3年(1001)正月、天皇に屠蘇などの薬を献じて一年の無病息災を祝う儀式が行われ、藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)はその行事において大層名誉な役割を担い、上機嫌で妾のまひろ(吉高由里子さん)のところに帰ってきました。宣孝は帝(一条天皇)の様子など宮中でのことを話してくれるのですが、娘の賢子(永井花奈ちゃん)の実父である左大臣・道長の話題になると、まひろも受け止め方に少し戸惑う部分もありました。そして宮中行事の後、除目の前に各国の国司たちの働きを評定する受領功過定が行われるのですが、まひろの父・藤原為時は越前での働きが足りないと評価され、次の任官はならず再び無職となりました。そんな折に他界した中宮・定子に仕えていたききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)が喪に服したままの姿でまひろの家を訪ねてきました。ききょうはあれから定子の遺した2人の内親王を世話しながら、定子がいた頃のキラキラと輝いていた日々が後世に語り継がれるよう、草子を進めていました。まひろはそれを興味深く読んでいましたが、ただその草子の中には定子の影の部分がないことを少し物足りなく思いました。まひろが正直に感想を伝えると、ききょうは定子に影などないときっぱりと言い、影があったとしても書いて残す気はないと強く言いました。さらにききょうは、定子を追いやって命を奪うこととなった左大臣・藤原道長を許さないとまで言い、ききょうのあまりに激しい道長への憎悪に、夫・宣孝を通じて道長から恩恵を受けているまひろは戸惑いを隠せませんでした。そして夜遅くに宣孝が帰宅し、宣孝から父・為時の越前での次の任官がなかったことを聞かされ、まひろも一瞬はこの先どうなるのかと思いました。でも為時と遠い親戚で古くから交流のある宣孝は、為時の次の任官が決まるまで自分がこの家の面倒をみると言ってくれました。まひろが宣孝にしみじみと礼を言うと宣孝は「強気でおれ!」と励ましてくれ、一時は関係のこじれた宣孝でした、今は宣孝の愛情と力を信じることができて、まひろは安心して賢子と日々を過ごせると思っていました。しかし翌朝、宣孝は国司を務める山城国府に出かけたままそれきりまひろの元に戻ることはなく、まひろは後日、宣孝の北の方(嫡妻)の使者を迎えました。使者によると宣孝は4月25日に急病で他界、北の方が弔いの儀の済ませたとのことで、突然のことにまひろはただ茫然とするばかりでした。ただまひろに仕える者たちにとっては、家の主・為時は無官、殿・宣孝は他界でこのままこの家で仕えていてもいいのかという問題であり、賢子の乳母のあさは早々に暇をとって出ていってしまいました。そんな中、まひろの身を案じた道長は従者の百舌彦(本多力さん)をまひろの家に遣わし、父・為時を自分の嫡男・田鶴の漢文の師に迎えると伝えました。左大臣家のお抱えの指南役で好条件、という願ってもない話でした。でも為時はそれを辞退してしまい、自分の信念の為に暮らしを考えない為時に、百舌彦とまひろは半分怒り半分呆れてしまいました。さて道長の長女・藤原彰子(見上愛さん)は帝に入内して中宮となったものの、帝が彰子のところに来ることはほとんどなく、寂しい生活をしていました。彰子を案じる母の源倫子(黒木華さん)は彰子のいる藤壺が華やぐよう道具を選んで毎日運び、彰子の様子を見守っていました。夫・道長から藤壺に通い過ぎではと注意されると、彰子の在所が華やぐように知恵を絞っているのは自分だと倫子は反論、道長もそれを認めて謝りました。(倫子さま、自身も気が強いけど実家も強いから、道長に反論できるのですね)またこの頃、帝の母で女院の藤原詮子は病が重くなり、先の事を考えた詮子は弟の道長に、亡き定子の忘れ形見の敦康親王を中宮・彰子に養育させて人質にするように言い、道長は最初はそれを拒みましたが、姉・詮子の病を押しての考えを受け入れ、帝にそれを認めさせました。間もなく敦康親王は道長の後見を受けて彰子と藤壺で暮らし始めたのですが、彰子と会ったその日から彰子になついて皆も内心は驚いていました。(彰子は引っ込み思案だけど優しい子で、長女だから小さい弟妹たちに慣れているというのもあるでしょうね)家の再興を強く願う藤原伊周(三浦翔平さん)は嫡男の松の舞が思うように上達しないことに苛立ち、松に厳しく当たっていました。(伊周は自分が学問も芸事も武芸もなんでも人並以上にできた人だから、我が子のできが悪いと余計に苛立つでしょうね。)藤原隆家(竜星涼さん)はそんな兄を見て、気持ちはわかるが左大臣の権勢はもはや揺るがない、内裏に官職を得るまではおとなしくしているほうがいいと意見しますが、伊周は自分の考えを変える気はありませんでした。そこに清少納言(ききょう)が、伊周に頼みがあるとやってきました。ききょうは書の束を伊周に差し出し、亡き中宮・定子が輝いていたあの時代のことを書き連ねたこれを宮中に広めて欲しいと願い出ました。ききょうの文才を認める伊周は、自分がなんとかすると約束しました。10月9日、女院・詮子の40歳を祝う四十の賀が左大臣・道長の主催により華やかに行われ、その折に道長の嫡妻・倫子の子の田鶴(三浦綺羅くん)と、妾の源明子の子の巌(渡邉斗翔くん)が童舞を披露することになりました。(二人とも化粧をして衣装を整えると、綺麗になりますね。)先に舞った田鶴は緊張しながらもなんとか無難に演目をこなしました。でも後から待った巌の舞はそれは見事なもので、公卿たちの評判も上々で、母の明子も自信をもって我が子を見守っていました。巌の舞に感銘を受けた帝(一条天皇;塩野瑛久さん)は藤原顕光を呼びよせて言伝し、顕光の口から巌の舞の師に従五位下を授けると発表がありました。巌の舞の師は思いもよらない帝からの下賜にただただ恐縮していました。ところがその直後、女院・藤原詮子(吉田羊さん)の容態が急変しました。母を案じて介抱しようとする帝を、詮子は苦しみあえぎながら帝が穢れるからと傍に寄せないようにしていました。詮子は病が重くなる一方なのに薬湯を拒否し続け、己の死期が近いことを悟った時に弟の藤原道長(柄本佑さん)に、伊周の位を元に戻すよう頼みました。それは伊周の怨念が我が子の帝と孫の敦康親王に及ばないように、という詮子の願いからでした。ところがその伊周の怨念はすべて道長に向かっていて、この頃の伊周は実は陰で道長を連日のように呪詛し続けていたのでした。詮子の願いで位が戻り、再び帝の御前に出ることができるようになった伊周は早速、ききょうが書き留めたものを製本して帝に差し出しました。亡き最愛の中宮・定子の思い出がつまった草子だと聞いた帝はそれだけで胸がいっぱいになり、草子を愛おしそうに手にとっていました。そしてそれは伊周の狙い通りの展開でした。日々、娘の賢子の成長を見守っているまひろは、賢子は漢文にはほとんど興味を示さないのに、かぐや姫の物語は興味を持って聞いていたことに気が付きました。そこでまひろは、今度は何か物語を書いてみようと思い立ち筆をとりました。この家で長く仕え、まひろを子供のころから見ているいと(信川清順さん)は、まひろを静かに見守っていました。
July 31, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。今回の見どころは何と言っても、蔵人頭の藤原行成(渡辺大知さん)が彰子の立后を決断できない帝に対して、力強く進言した場面でした。ふだんの行成は帝(一条天皇;塩野瑛久さん)にはもちろんのこと、若い頃から共に過ごしてきた藤原道長(柄本佑さん)にも自分の考えをほとんど言うことはなく、帝と道長の間で板挟みになってます。そんな行成が意を決して、道長の意向ではあるけれど自分の考えを帝にはっきりと述べたというのは、言われた帝にはなかなか衝撃的なことだったでしょう。苦渋の中でようやく彰子の立后を決断できました。行成の大きな働きだったと思います。あともう一つ興味深かったのは、入内した道長の長女・藤原彰子(見上愛さん)のところに帝が突然渡ってきたときのやり取りでした。帝なりに彰子と打ち解けようと自分のほうを見てくれと言ったら、返ってきた答えは「笛は聴くもので見るものではない」と。色香も機知も何もない生真面目過ぎる返答でした。そして中宮の件を訊ねられたら、彰子はただ「仰せのままに」と小声で答えるだけでした。でも彰子がありのままの自分を出したことで、逆に帝の関心を引くことになりました。この後、帝の心をとらえて、彰子を愛しく思う何か決定的なことが起こるでしょう。どんな展開になるのか楽しみです。さてこちらは、RekiShock(レキショック)先生の情報です一帝二后が実現した頃(1000年2月頃)登場人物の年齢(満年齢) ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長保元年(999)11月、藤原道長は娘の彰子を入内させて帝(一条天皇)の女御にしたものの、帝が愛するのは中宮・定子だけであり、また彰子も帝を魅了するような女人ではなかったので、彰子に力を持たせるためにも道長は、彰子を定子と並び立つ中宮にしようと考えました。道長は「一帝二后」を自分の姉であり帝の母である女院・藤原詮子(吉田羊さん)に相談し、詮子にも力添えを頼みました。そして道長の嫡妻・源倫子(黒木華さん)も帝の心をなんとか彰子に向けるために、帝の好みを詮子に訊ねたりしていました。詮子が逆に倫子に、自分の子供たちの好みは知っているのかと訪ねると、詮子は思いつくまま次々と子供たちの好みや得意を答えていきました。その姿を見て詮子は、我が子を立派な帝にするためにとはいえ、自分の考えを押し付けてきたのだと、心に思うところがありました。藤原彰子(見上愛さん)が帝の心をとらえる女人になるために、倫子はかつて自分の教育係だった赤染衛門を彰子の教育係に頼んでいました。ある日、帝(一条天皇;塩野瑛久さん)が突然、彰子がいる藤壺に渡ってきました。帝は彰子を気遣いいくつか言葉をかけますが、帝の言葉に気の利いた返答ができずに小声で「はい」としか言わない彰子を衛門は心配そうに見ていました。そして帝が笛の音を彰子に聴かせると、彰子はなぜか視線をそらして顔を少し横にして聴き、帝は途中で演奏をやめてそのことを問いました。すると彰子は「笛は聴くもので見るものではない」と。あまりに色香のない返答だけど帝は妙に感心しつつ、同時に彰子に中宮になりたいのかと問いました。でも彰子は「仰せのままに」と答えるだけで、自分の意思がないその姿がかつての自分と重なった帝は、どこか彰子に関心を持つようになりました。左大臣・藤原道長(柄本佑さん)は娘の彰子を中宮にするために、蔵人頭として帝の傍に仕える藤原行成(渡辺大知さん)にも協力を頼んでいました。道長の期待通りに帝は動かなくて行成は板挟み状態で大変だけど、行成は頑張って両者の間を取り持っていました。そして帝が彰子を中宮にしてもいいと言ったことを道長に伝えると、道長は行成の働きに深く礼を言いました。そして四条宮で共に学んでいた若い頃から自分にさりげなく力を貸してくれていた行成に「今日までの恩を決して忘れぬ。行成の立身出世はもちろん俺が、行成の子らの立身は俺の子らが請け負う。」と約束しました。しかしその直後、道長は体の具合が悪くなり倒れこんでしまいましたが、行成に他言しないように頼みました。年が明けて長保2年(1000)、道長は彰子が中宮に立后するのに良い日取りを陰陽師の安倍晴明に訊ねると、晴明は即座に2月25日と答えました。しかし帝はまだ迷っていて正式な詔を出せないままで、帝は行成を召して彰子の立后のことは他言しないよう、定子が傷つくと思いを伝えました。それを聞いた行成は意を決して帝に進言しました。「帝は一天万乗の君。下々の者と同じ心持ちで妻を思うなどあってはならない。大原野社の祭祀は代々、藤原より出た皇后が神事を務めるん習わし。定子が出家して以降、神事を務める后がいない。なすべき神事がなされぬのは神への非礼。このところの天変地異は神の祟りでは。左大臣・道長もそのことを憂えて姫を奉った。ここは一刻も早く彰子を中宮にして神事を第一にすべき。」行成の心からの進言は帝の心を動かし、彰子の立后を承諾しました。そして前代未聞のこの宣旨を聞いて反発する公卿は一人もいませんでした。さて、昨年末に女児を出産したまひろ(吉高由里子さん)ですが、赤子をあやしながら漢詩を読んで聞かせるなど、まひろらしい母となっていました。夫・藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が宇佐八幡宮の務めから戻ってから子に名前をつけてもらうと決めていて、宣孝は子に「賢子」という名をつけました。他の妻との間には男子ばかり生まれた宣孝にとって、たとえこの赤子の父が道長であったとしても、初めて生まれた女児が可愛くて仕方がないようでした。(名づけを宣孝に任せて宣孝の顔を立てるまひろはナイスな選択だと思います。)この後で宣孝は馬2頭を献上して参内し、道長に帰京の報告と妻・まひろとの間に子ができたことを報告しました。ただ道長はその子が自分の子であることにすぐには気がつかないようでした。いよいよ彰子が立后を迎えるにあたり一旦内裏を退出した翌日、帝は最愛の中宮・藤原定子(高畑充希さん)と皇子たちを内裏に呼び入れ、口さがない女房たちの陰口を受けながら定子は内裏に入りました。その夜、帝は定子に彰子の立后のことを話して詫びましたが、定子は帝に自分こそ詫びなければと、衝動的に出家してしまったあの時のことを語りました。そして定子は自分と彰子は家のために入内した同じ立場であり「人の思いと行いは裏腹。彰子の見えているものだけが全てではない。」と言って、彰子を大事にするよう帝に思いを伝えました。そして長保2年2月25日、内裏では彰子の立后の儀が執り行われ、前例のない一帝二后の世が始まりました。藤原実資が祝詞を読み上げ、公卿たちが居並ぶ中で彰子は中宮になりました。(この時代の宮中の華やかな儀式や衣装が映像で見られるのは、歴史長編ドラマならでは醍醐味ですね。それにしても、男女共これだけ大勢の衣装を揃えて俳優さんたちに着付けしてロケして、すごい時間がかかったでしょうね。)彰子が中宮となったのを見届け、道長は妾の源明子(瀧内公美さん)のところに来ていたのですが、彰子のことが一段落した安堵感とそれまでの疲れがたまっていたからか、道長は明子の屋敷で倒れてしまいました。明子から連絡を受けて嫡妻の倫子は急ぎ道長の元に駆けつけたのですが、道長は意識のない状態でした。倫子も明子も共に道長のことを心から案じているのですが、互いに自分の思いの強さを示して張り合っていました。(ここでもし道長が目をさましたらトンデモナイことになりそうと思えるほど、倫子様と明子様は激しくマウントの火花を散らしていました。でも笑えた。)道長の意識は一向に戻らず、病状は瞬く間に宮内に広まりました。藤原道綱(上地雄輔さん)は道長の腹違いの兄だけど道長の事が心配でしかたがなくて、その不安な思いを、政治的にであっても道長の回復を強く願ってくれる藤原実資(秋山竜次さん)の言葉に同調して気を紛らわせていました。(内裏ではたとえ親子兄弟であっても相手の立場に応じて敬称をつけたり役職で呼ぶのですが、道綱は変わらず「道長」と。道綱は昔から政治は苦手で権力欲のない優しいお兄ちゃんだったから、変わってないところがホッとします。)その頃まひろはふだんと変わらず子育ての日々を送っていたのですが、そんな時に宣孝が血相を変えて家に入ってきて人払いをしました。まひろが何事かと思ったら「言うべきか迷ったが、左大臣(道長)が危篤だ」と知らせてくれました。宣孝は、できることは自分たちにはないがと言って、実の父が危篤となっている赤子とまひろの顔をじっと見つめ、話を終えたらすぐに立ち去っていきました。(宣孝にとってこの子は自分の出世の橋渡しとなってくれる子なので、もし万一道長がこのまま死んでしまったら、ということは一人のときには考えたでしょう。でもまひろの前に来たときは「まひろの想い人が、赤子の父が危ない」という純粋な気持ちだったと思います。)まひろは、今の自分には道長の看病も何もできない、とわかっています。だから道長が黄泉に旅立ってしまわないよう、ただ深く強く祈り続けました。まひろの祈りが届いたのか、道長は死の淵を脱して徐々に回復していきました。ところで中宮・定子ですが、この頃は3人目の子を宿していて食事が喉を通らず体調がすぐれない日々でした。定子を案じたききょう(清少納言;ファーストサマーウイカさん)は麦で作った珍しい菓子を定子のために持ってきました。ききょうの心遣いが嬉しかった定子は、菓子の乗った和紙を半分切って、それに感謝の句を書いてききょうに渡しました。定子とききょうは互いにずっと傍にいたいと願い、二人は互いに笑い合いました。定子が心から笑うことができるのはききょうの前だけでした。そしてその年の暮れ、定子は姫皇子を出産すると同時に力尽き、そのまま帰らぬ人となってしまいました。妹の死は全て左大臣・道長のせいだと藤原伊周は荒れ狂い、伊周は道長に復讐してやると誓っていました。そして定子を心から愛した帝は、定子の死をただ悲しむばかりでした。
July 23, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回でなんといっても注目を集めたのは、まひろ(吉高由里子さん)の懐妊がわかった後の夫・藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の言葉でした。あの時の藤原道長(柄本佑さん)の子を身ごもったとわかったまひろは宣孝に離縁を申し出ました。しかし宣孝は「誰の子でもかまわぬ。一緒に育てよう。まひろを失いたくない。」と言い、この言葉にネット民は感動して宣孝大絶賛になっていました。宣孝がまひろに求愛したときに、私はなんとなく、仮にまひろの子の父が道長であったとしてもこういう展開だろうと想像していました。宣孝自身も複数人の妻子がいるから。ただ私は、宣孝が「誰の子であろうと」と言いつつ「この子を大事にすれば自分も左大臣に大事にしてもらえる」という言葉に引っかかっていました。というのも、水害のときにまひろの家に集まった子供たちを汚らわしいと追い払っていたからです。もしこれが芸人だった直秀が生きていて、直秀の子だったら同じことを喜びながら言ったのか、あるいは宋人の周明の子だったら?とはなはだ疑問なのです。とはいえ、まひろも精神的に不安定な時だったから、子の父として後盾になってくれる宣孝の言葉は本当に嬉しかったでしょう。また宣孝の方もまひろだけを求める愛ではないけど、まひろを大事にするという思いは確かだから、まあこれでよかったのですが。感動した皆さま、こんな意見ですみません。私も若い頃ならたぶん感動ウルウルだっただろうけど、人生イロイロあって、つい深読みしてしまいます。さてこちらは、RekiShock(レキショック)先生の情報です彰子が入内した頃(999年11月頃)の登場人物の年齢(満年齢) ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長保元年(999)2月、石山寺に参拝に来たまひろ(吉高由里子さん)は偶然、かつての思い人で今は左大臣である藤原道長(柄本佑さん)と再会しました。はじめのほうこそぎこちない会話だったけど、だんだん昔のように打ち解けていき、まひろの越前での話や互いに現在を思いやる話など話は尽きませんでした。そして適度に切をつけて別れようとしたけど、互いに思いを止めることができずに、二人は再び求め合いました。ちなみに、この件に関して石山寺さんから苦情がきています(笑)「参籠所で添い寝しないでください」 ⇒ ⇒ こちら さらに追記で「今年の大河の平安貴族は石山寺を何だと・・」 ⇒ ⇒ こちら その頃、内裏では出家した中宮・定子が帝(一条天皇)の子を懐妊し、報を聞いた帝はこの上なく喜び、定子を守り抜くと誓っていました。しかし陰陽師の安倍晴明から中宮が産む子は皇子であると聞いている道長は安穏としていられず、娘の彰子をどのように入内させようか考えていました。一方で道長の嫡妻の源倫子(黒木華さん)は、この秋には入内するというのに女人としての華やかな艶が足りない娘の彰子に悩んでいました。そこで自分の教育係だった赤染衛門(凰稀かなめさん)に彰子が魅力ある女人になるよう教育を頼み、倫子も日々それとなく彰子の女人教育に励んだのですが、なかなか思うようにはうまくいきませんでした。春も過ぎた頃、仲違いをしてからしばらく顔を出さなかったまひろの夫の藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)が突然やってきました。宣孝はまひろに、この秋の重大なお役目をいただいたと近況報告をし、やっと宣孝が来るようになって安堵したまひろも気持ちよく宣孝に祝意を伝えました。ただその折に「まひろのおかげで(まひろの思い人だった)左大臣に自分も大事にされている」と意味ありげに言うので、まひろは複雑な気分になりました。その夜、宣孝が寝入っているときに眠れなかったまひろは、宣孝の寝ている様子を(医学知識がない故)微笑ましく日記にして書き留めていました。(その頃ネットでは、これは睡眠時無呼吸症候群ではないかと大騒ぎに)後日、気分が悪いといと(信川清順さん)に訴えるまひろの話を聞いて、いとはまひろが懐妊していることに気がつきました。さらに月の障りのない時期から、授かったのは2月で産まれるのは師走頃、そして2月の頃は夫・宣孝がまひろから遠のいていた時期だったので、この子は宣孝の子ではないとわかりました。つまりこの子は皆で2月に石山寺に参拝したときに情を交わした道長の子であるとまひろは気がつきました。いとはまひろに、このことは宣孝には黙っておこう、黙ったまま行けるところまで行って、その先はその時その時考えようとまひろに進言しました。とはいえ体調の状態から懐妊のことを隠しとおせるはずもなく、まひろは宣孝に、実は子ができた、今年の暮れに産まれるだろうと打ち明けました。宣孝は気持ちよく喜んでいましたが、すでの妻子がいる宣孝ならこれは自分の子ではないと気がついているだろう、このまま結婚生活を続けるのは不実であると考えたまひろは、宣孝に離縁を申し出ました。宣孝はまずまひろに夜更けに深刻な話をしないようたしなめ(コレ、夜中は人は精神的に不安定になるので大事です。ここは大人の経験値ですね)、さらに別れ話を続けるまひろに「この子が誰の子であっても自分の子だ。一緒に育てよう。」と優しく言いました。そう、宣孝はやはりまひろの懐妊は道長の子であるとわかっていたのです。「この子はわしに福を呼ぶ子やも」と宣孝はまひろのおなかを愛おしそうになで、「持ちつ持たれつ。お前を失いたくない。別れるなどと二度と申すな。」と言い、思いがけない宣孝の言葉にまひろは心から安堵したのでした。さて道長ですが、彰子の入内にあたりどれも立派な道具をそろえたのですが、あと少し何か物足りなくて考えていました。そして思いついたのが、屏風に公卿たちの歌を貼ったらどうかというものでした。そこで名だたる公卿たちに歌を頼み、それを藤原行成に清書してもらうことにし、藤原斉信や藤原公任らが自信作を持ってきました。中には藤原実資のように固辞した者もいましたが、逆に先帝の花山院から思いもよらず歌が贈られるということもありました。果たしてその屏風は道長の思惑通り、彰子の入内を公卿の多くが支持しているという証となり、道長の政に大きな意味を持つことになりました。11月1日、藤原彰子(見上愛さん)は入内し、その6日後に中宮・定子が帝の皇子を出産しました。定子も皇子も無事で健やかであると報を受けた帝は心から喜んでいました。ただ産まれたのが皇子であったことで、東宮の居貞親王(道長の甥でもある)は正直がっかりしていましたが、娘の彰子が入内した道長は強気でいました。◎こちらは石山寺さんの解説です「当時の高貴な人の出産は」 ⇒ ⇒ こちら その中宮・藤原定子(高畑充希さん)の兄・藤原伊周(三浦翔平さん)は、これで左大臣・道長も自分たちを無下にはできまいと強気になり、皇子が東宮になれば再び自分たちの世になると、華々しい未来を思い描いていました。でも弟の藤原隆家(竜星涼さん)は、この皇子が東宮になるということは帝が退位することであり、そうなると姉上(定子)の力が弱まることだから急がないほうがいいと、兄の意見に反対でした。定子は兄弟の対立を案じ、産後の力のでない声で二人をたしなめていました。定子が皇子を産んだことの祝意を伝えるために、女院・藤原詮子(吉田羊さん)は息子である帝(一条天皇;塩野瑛久さん)の元に行きました。そして詮子は、いずれ東宮になる皇子だからしっかり育てなければと母として帝に進言したのですが、帝にはそれが重荷となる言葉でした。帝は自分の最愛の定子を幸せにできていないことで自分を責めていて、詮子がそれは定子の身内のせいであると言うと、帝は母にはっきりと反論しました。帝は母・詮子の言うままに進んできたことが内心では何より不満で、そのうえ愛する定子のことを悪く言われたことでついに怒りが爆発しました。「そういう母上から逃れたくて自分は中宮に救いを求めてのめり込んでいった。全ては母上のせいだ。」と声を荒げて母に言い返し、退席していきました。息子からの思いがけない言葉に、詮子は涙が止まりませんでした。(夫と不和でエネルギーを我が子に注いで過干渉になり、さらに自分は絶対に正しいと自負する母親にありがちな展開ですね。子供は我慢を重ねて親に従い、自立したら本当は自分はこうしたかったと爆発するパターンだと思います。)その日の夜、入内から間もない彰子は女御の宣下を受け、居並ぶ公卿たちの前でその披露目が盛大に執り行われました。ただ精神的にもまだ幼く口下手で気の利いた返事もできない彰子なので、帝は楽しく暮らすよう声をかけるだけでした。定子の出産と娘・彰子の女御宣下が同じ日になったことで、道長は自分の運のなさを安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)に嘆いていました。でも晴明は、何の障りもないとはっきり言い、さらに彰子を中宮にするように道長に進言、道長はそれはあり得ぬと反論しますが、国家安寧のためにやってしまえばよいと言いきりました。一方まひろはそれからしばらくして姫(道長の子)を無事に出産しました。◎こちらは石山寺さんの解説です「まひろさんの出産では従者たちが・・」 ⇒ ⇒ こちら
July 16, 2024
昨日の日記の続きで、この前の日曜日に愛知県にある陸上自衛隊 春日井駐屯地の記念行事を見学してにきたときの画像です。訓練展示が終わった後は、自衛隊の装備品(車両)の展示で準備があるため、少し時間が空きました。観覧席の長椅子は炎天下にあるので、ここにそのまま座っていたら照り焼きになりそうです。なのでコンビニがある建物のほうに移動しました。建物の中は自衛隊グッズを買い物する人や、コンビニで食べ物を買って休憩する人であふれていました。(外は暑くてかなわないからみんな入ってきたと思う)座る場所が少ないのを見た春日井駐屯地の方が、廊下に椅子をたくさん運んできてくださいました。来場者に配慮してくださり、ありがとうございます。9時半から11時半まで、日よけのない場所にほんの2時間座っていだけで、半そでから先の両腕が真っ赤に日焼けしていました。私は暑さ対策で保冷剤を冷凍して発泡スチロールの箱にいくつか持っていていたので、休憩しながらそれで腕を冷やしていました。しばらく建物内で休憩し、元気が出たところで外に出て装備品の見学に行きました。陸上自衛隊の野外手術システムです。手術車・手術準備車・滅菌補給車で構成されています。コンテナ部に上がる階段は、コンテナの下に収納できるようになっています。またコンテナ部は外して地上に降ろして使うことができます。手術車の内部です。患者を守るために空調も整備されています。戦闘傷者の救命率を上げるために、初期外科手術や応急処置で使用します。野外手術システムの前を、ちょうど担架っが通っていきました。ストレッチャーのように4輪で安定はしていないけど、たぶん野外で使いやすいように作られていると思います。施設科の装備品の一つで、グレーダです。主な用途は整地だけど、ブレードを交換して除雪作業に使うこともあります。このまま公道を走って現場に行くこともあるし(最高速度;43km)、大型のトレーラーに積んで移動することもあるそうです。グレーダの運転席を見学させていただきました。何かのレバーが8本、足元のペダルが4つ、そしてパネルと、手も足も操作する部分が多過ぎて、私にはとても操作できません。陸上自衛隊の重レッカです。動けないトラックを吊り上げて救助します。車体重量は19.15tで、最大吊り上げ能力は10tとなっています。でも担当の自衛官の方に訊いたら、バランスの関係などで実際の吊り上げは3tくらいまでだそうです。帰る前に資料館を見学していきました。戦前の陸軍の資料や、災害派遣で活動する様子や国際貢献での活動の様子が写真などで紹介され、記念に贈呈された盾の展示もありました。今年の正月に起きた能登半島地震でも出動がありました。捜索、道路整備、そして生活支援で野外入浴セットの「尾張の湯」を提供し、「尾張の湯」は今も支援を続けています。被災者の方々から喜びと感謝のメッセージが書かれていました。いつも陰ながら日本と国民を守り、災害時には寄り添って助けてくださる自衛隊の皆さま、本当に感謝です。
July 11, 2024
7月7日の日曜日ですが、愛知県にある陸上自衛隊春日井駐屯地で、創立57周年の記念行事が行われ、一般の見学もできたので、行ってきました。この日は3日前から連日続いた猛暑日(感覚的には体温超え)に加え、頭上からのカンカン照りの太陽が朝から容赦なく照りつけ、屋根のない場所での見学は非常に厳しいものでした。でも自衛隊の駐屯地や基地は、一般人は年に1~2回しか入れない場所だし、なにより隊員の方々は連日の恐ろしい暑さの中で準備を進めてこられたのです。(観覧席の設置だけでも数日かかるのです)なので有難く見学させていただきました。駐屯地には9時頃着きました。荷物チェックを受けて中に入ります。一般の観覧席で場所を確保した後は、日差しがあまりにもキツクて座っていられないので、ちょっとぶらぶらと。こちらのテントでは銃の展示があり、これは12.7mm重機関銃です。脚なしで38.1kg あるので、運ぶときは分解して3人がかりだそうです。他には、84mm無反動砲、5.56mm機関銃などの展示がありました。来賓として参議院議員の佐藤正久氏がまずはじめに挨拶をされました。ご自身もかつては陸上自衛隊の自衛官で、隊員の気持ちがよくわかるので、自衛官の待遇改善などを自分も努力していると力強い挨拶でした。(実際、自衛官の方々は、老朽化した建物で暮らして風呂やトイレも多くが古いままで、エアコンも控えめなどいろいろ我慢をされているのです。)各部隊の観閲が始まり、春日井駐屯地にある車両が次々と入ってきました。観閲官は春日井駐屯地司令(第10後方支援連隊長も兼任)の荒川ゆかり氏(画面の左端で敬礼している方)です。災害派遣の映像でよく見かける土木の大型車両が続々と入ってきます。自然災害で道路がふさがれたときなど、一気に片づけていきます。(牽引してこの長さになって一般道を走って駆けつけるのですね)閲覧行進の間ずっと運動場?の中ほどで、名古屋の守山駐屯地に所属する第10音楽隊が、式典を盛り上げる演奏を続けていました。昨年春の記念行事では大雨で楽器がびしょ濡れになり、今年は真夏の炎天下での演奏で金管楽器とか熱かったのではと想像しています。閲覧行進のラストは、野外手術システムの車両でした。春日井駐屯地は後方支援の部隊で編制されています。(運動場に集合した隊員の方がなんか少ないと思ったら、この春の大編成で豊川駐屯地に移った方もいたとのことでした。)閲覧行進が終わった後、訓練展示に入るのですが、準備の間は第10音楽隊の演奏がありました。その間に何に、使うものなのかダンプカーが丸太を落としていきました。今までの年なら訓練展示で戦闘シーンが見られたのですが、今年は災害派遣での活動の様子を展示していました。大きな爪のついた車両(名前忘れたし検索してもわからず)で先ほどの丸太を向きを揃えて数本つかんでダンプカーの荷台へ。丸太を片付けた後は爪を地面に置いて待機です。地面に寝ている方は要救助者の役で、この後は自衛隊の救急車が入ってきました。車が津波に流されたという想定で、車両をトラックの荷台に乗せています。訓練展示はこれで終わってしまい正直物足りない感じはありましたが、春日井駐屯地からは能登での災害派遣もまだ続いています。隊員の皆さまに必要以上の負担をかけてはいけないし、なによりこの恐ろしい炎天下だから、これでよかったということに。
July 10, 2024
2024年NHK大河ドラマ 『光る君へ』 の感想です。この回では私は2つの場面が気になりました。1つは、左大臣・藤原道長(柄本佑さん)の一の姫の彰子(見上愛さん)の入内をめぐって、道長は周囲の人々からさまざまな意見を聞くことになりました。この彰子はいかにも不器用そうなおとなしい姫君で、運命の皮肉というか、その地位に一番ふさわしくないと皆が思ってしまう人がそこに就いてしまう、ということは現代でもあるかと思います。この先、本人に資質がなく崩れていくのか、あるいは予想外に見事な働きをするのか。まあ史実で良い方に展開していくとわかっているので彰子に関しては安心ですが。また道長の嫡妻の源倫子(黒木華さん)は、はじめのほうこそ彰子の入内に大反対をしていたけど、母から意見されて考え、気がつけば倫子の中では彰子は入内することになっていて、そして頼りない娘が帝の后の地位にふさわしくなるよう陰で支える決意をします。大人物(道長)を支える妻(倫子)は、本気になったら揺らがない強さがありますね。2つ目、まひろ(吉高由里子さん)の結婚生活について。藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の強い求愛を受けて結婚して、はじめのうちはうまくいっていたようでした。でも何かの出来事をきっかけに、特に非常事態があると、相手の見方が大きく変わることもあるのですよね。貧しい子供たちを汚らわしいと嫌う姿は、下々にも優しかった道長とは正反対であり、文を平気で他人に見せるなどデリカシーもなければ反省もない。まひろの中で宣孝に対して少しずつ違和感が出てきます。宣孝はまひろに「甘えてこい」と言いますが、そもそもまひろのように貧しい子供たちに施しをしたり、男からの高価なプレゼントに考えをめぐらして単純に喜ばない女は、男が喜ぶ甘え方はできないと思います。(華美に身を飾ることが好きな女は、甘えて宣孝好みの女になっていくと思います。否、あるいは珍しい書物でも手に入れて贈ってたら、まひろは喜んで宣孝に飛びついて甘えてきたかも。)宣孝にとって手に入れた後のまひろは、自分はこういう女を妾にしていると自慢して歩くアクセサリーの一つになった感じですね。そしてまひろは、予期せず石山寺で道長と再会に。次回の展開が楽しみであります。こちらで歴史家の先生がドラマのお役立ち情報出してくださってます。彰子の裳着の儀が行われた頃の登場人物の年齢(満年齢) ⇒ ⇒ こちら こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #光る君へ 長徳4年(998)10月、日食と大地震が同日に都を襲い、天災が続きました。帝(一条天皇)は陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリアさん)からの「天文密奏」を受け、帝は政を疎かにしている自分のせいなのかと気にかけていました。一方で左大臣の藤原道長(柄本佑さん)は被災した民の対策に追われつつ、大雨がまだ続く空を見てこの先はどうなるのかと憂いていました。そして道長は密かに晴明を訪ね、どうすれば天災が収まるのかを問いました。晴明の出した答えは、天地の気の流れを変える、そのために道長の一の姫・彰子を入内させることと言い、道長はおとなし過ぎる彰子の性格では入内は無理だと反論しましたが晴明は、これは彰子が背負った宿命と力強く言いました。晴明から言われたことに納得がいかない道長は、女院で実姉の藤原詮子(吉田羊さん)に相談しました。すると詮子からは、道長も身を切る覚悟を持つように言われました。詮子から見れば道長は、公卿たちの最高位にいる今の地位は道長自身があくせくと策を弄して手に入れたものでもない、今までがうまくいき過ぎていたと。さらに彰子はまだ子供だけどそれが自分の使命ならばやり抜くだろう、道長は娘を守ることを理由に自分が苦手な宮中の力争いから逃げている、と続けました。頼りにしていた人たちから次々と裏切られながらも宮中で生き抜いてきた詮子からしたら、やっと道長も血を流す時がきたと思えるものでした。そして朝廷の混乱と天変地異が収まるなら彰子を入内させるよう道長に言いました。晴明の予言と詮子の助言で彰子を入内させようと気持ちが固まりつつあった道長でしたが、道長の子供たちが詮子の前に出たとき、はつらつとする嫡男の田鶴に比べて彰子はおとなしく頼りなげで、詮子も同じ思いで彰子を見ていました。彰子の入内を嫡妻の源倫子(黒木華さん)に話した道長でしたが、それは倫子に相談したというより決定事項の伝達で、倫子は激しく怒りました。倫子はその後で母の藤原穆子に愚痴を聞いてもらい、そして穆子は娘の言い分を一通り聞いた後で優しく自分の考えを述べました。「入内したからとて不幸になるとは限らない。中宮がひょっこり亡くなったら?何がどうなるかはやってみないと分からない。帝は今は中宮に首ったけだけどそのうち飽きるかも。(若い彰子が愛しくなるかも)」怒り心頭だった倫子でしたが、母・穆子の助言には納得していました。天変地異が終わるを願って内裏では改元の話が出ていて、また公卿たちの間では定子は陰で「傾国の中宮」と言われ、評判は良くありませんでした。同時に公卿たちは左大臣・道長の姫が入内すればとの期待も上がっていました。そんな頃、道長の嫡男・田鶴(小林篤弘くん)が母・倫子に、姉の彰子のことでふと思ったことを訊ねました。姉のことを「ぼんやり者。琴の覚えも悪くて師匠が怒っている。」と率直過ぎる言い方をする田鶴を倫子はたしなめます。「姉上のことをそのように言ってはいけない。田鶴がこの家と父上の跡を継ぐ大事な嫡男であるように、姉上は帝の后となる尊い姫なのです!」「彰子は帝の后!」ーー倫子はいつの間にか意識が変わっていました。道長は彰子に入内のことについて訊いてみたのですが、彰子は我が身のことであっても何も考えていないのか「仰せのままに」と答えるだけでした。道長はこの姫を入内させてよいものかと再び悩みました。一方、帝は天変地異で民の命が奪われ苦しんでいるのは自分の不徳だと責任を感じていましたが、その気持ちが向かう先は譲位して政から離れ中宮・定子と静かに暮らしたい、というものでした。蔵人頭の藤原行成(渡辺大知さん)は「たとえ譲位しても今のまま中宮を寵愛し続ければ、中宮も脩子の立場も危うくなる。譲位せず政に専念する姿を皆に示して欲しい。さらに帝に皇子がないと父・円融院の血筋が途絶えてしまう。」と進言しました。この進言は道長が行成に頼んだもので、帝の心はまだ寵愛におぼれているけどこれで一歩進んだと、道長はこれからも頼むと行成を励ましていました。年が明け、改元されて長保元年(999)となりました。しかし帝の定子への寵愛は衰えることなく、あろうことか出家した中宮・定子を職御曹司から密かに内裏に呼び寄せていました。そして定子はやがて懐妊、陰陽師の晴明は今年の11月頃に「皇子」が誕生すると予言しました。内親王ではなく皇子が生まれるとなると道長も迷っていられず、かと言って呪詛という汚い手は使いたくないので、彰子の入内を定子の産み月の11月にぶつけると決め、晴明に良い日取りを出すよう命じました。そして11月1日を彰子の入内の日と決め、倫子に伝えました。倫子はならば定子を呪詛して欲しいと言いましたが、道長は「そのような事をしなくても彰子が内裏も帝も清める。」と力強く言いきりました。道長の考えが己の栄華のためではなく内裏と帝のためにあるとわかった倫子は「私も肝を据える。中宮の邪気を払いのけ、内裏に彰子のあでやかな後宮を作るために私も命を懸ける。」と道長に言いきりました。道長は彰子の入内を帝に申し入れ、帝は定子の産み月という時期もあって即答はできませんでしたが、自分のせいで道長に苦労をかけたことやこの先も道長に舅としての力添えを期待して、彰子の入内を許可しました。道長と倫子は大君・藤原彰子(見上愛さん)の裳着の儀を盛大に行い、腰結の役を道長の姉で女院(であり帝の実母)の詮子に頼みました。参列した皆からの祝意を受け、道長は「これも神仏の守護と、皆のおかげだ。」と厚く礼を述べ、道長と倫子は皆に深く頭を下げました。儀式の後で道長を支える公卿たちはそれぞれに思いを述べていました。源俊賢(妹・明子が道長の妾;本田大輔さん)は見事な式であったとただただ感嘆し、若い頃から道長と一緒に御所で働いてきた藤原斉信(金田哲さん)は「一番ボ~ッとしていた道長が左大臣で自分たちはいまだ参議とは。」と少し不満げな感じでした。斉信と同じく若い頃から一緒だった藤原公任(町田啓太さん)は「道長は己のためだけに生きていない。そこが自分たちとは違う。道長にはかなわぬ。」と素直に道長のすごさを褒め、藤原行成も同感でした。ただ定子の兄の伊周は道長の動きを警戒していました。さて、まひろ(吉高由里子さん)ですが藤原宣孝(佐々木蔵之介さん)の求愛を受け入れて結婚し、幸せな生活を送っていました。ただ大水や地震の後で民の暮らしは困窮していて都にはおなかを空かせた子供たちがあふれ、可哀そうに思ったまひろは親のいない子供たちに食べ物を分け与えてやっていました。そこに宣孝が来たのですが宣孝はそんな子供たちを汚らわしいと一蹴、まひろには贅沢をさせてくれるけど、まひろは嬉しい気持ちになりませんでした。さらに宣孝は、まひろが自分にくれた恋文をあちこちで見せていると自慢げに語り、それは自分にとって恥辱であるとまひろは強く抗議しました。しかし宣孝は全く反省がないのでまひろは、今まで送った文を全部自分に返すよう言い、この日は宣孝を追い返しました。後日、まひろの弟の藤原惟規が大学寮から家に戻り、惟規はまひろに、宣孝が新たに若い女を囲ったようだと報告、まひろは文を見せびらかしていることも含めて宣孝に対する怒りがだんだんと大きくなっていきました。そして宣孝との間で「許す・許さない」といった文が何度か続いた後、ある日宣孝は絹の反物を持ってまひろのところにやって来ました。でもその反物にも、また言い争いになったときに謝罪した宣孝の言葉にも心がこもっていないことをまひろはわかっていました。だから宣孝が自分に甘えてこいと言ってもそんな気にもなれず、さらに宣孝が道長とのことに絡めて皮肉を言ったので、まひろの怒りは爆発しました。手元にあった火桶の灰を宣孝の顔にぶつけ、怒りと共に立ち去りました。それ以降、宣孝はまひろのところに来なくなってしまいました。宣孝に対する気持ちの整理がつかないまま日がたち、そんなまひろのを見ていと(弟・惟規の乳母)は、夫婦なら自分が悪くなくても自分から折れて寄り添うことも大切だと言い、宣孝にお詫びの文を書くよう進言しました。ただ宣孝からの返事はまひろが期待したようなものでなかったので、まひろは気分転換も兼ねて、家の皆で石山寺に詣でようと提案しました。(宣孝が来なくなる=経済的に困る、ということもあったと思います)特に越前から乙丸についてきたきぬは石山寺に行けると大喜びで、一家揃って石山詣でに旅立ちました。皆が寝静まった深夜、まひろはお堂で一人静かに御仏に祈っていました。するとお堂の扉が開いて長身の公家が入ってきて、それはなんと道長でした。
July 3, 2024
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