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神様。 僕は、もう、恐れや、~べきではなく、本心から生きてゆけるようになりたい。 その違いを見分ける力、本心から行動してゆける勇気をお与えください。 こう生きるべきからではなく、本当の自分らしい生き方をしたいです。 あるがまま、素の自分でいられること。 完全オリジナルの他の誰とも違うユニークな自分、そして、みんな。 これが自分だと、人眼を気にしないで生きていけられるようになりたい。 自分をまず認めてあげよう、 それには自分を許していこう。 僕はその時、その時の時点で精一杯にやってきたんだと。 そして、自分と今までかかわったみんなも僕と同様精一杯にやってきたんだと。 “僕は自分を許します。皆を許します” これが、最近の僕のもうひとつのアファーメーション。 見た目はこわいけど、根はとてもやさしくて甘えん坊のキディと美ニャン子レオン
November 10, 2005
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“僕は息をしているだけで愛されている” この言葉をブリージングで感情を出した後に何回も叫んだ。 今野眞佐子先生に「あなたは、僕は息をしているだけで愛されているんだ!と何回も言い聞かせなさいね~」と約1年前に言われた時はあまりピンとこなかった。 今回、とても落ち込んで何回も何回も叫んだ。 “僕は息をしているだけで愛されている” ただの言葉に過ぎない。 しかし、私の潜在意識は確実にそれを受け入れつつあった。 少しずつ、なぜか叫んでいると泣きそうな気持ちになり、声もうわずってきた。 そして、初めはぼんやりと、そしてはっきり見えてきた。 それは、僕が保育器に入っている光景。 まるで、顔はもっと大きいけれど我が子の寝顔にそっくりな顔。 本当に小さいが表情はしっかりとしている。 そして、お母さんが少し遠いところからガラス越しに見てくれている! そばにはお父さんもいる! そうだ、本当に僕に会いに来てくれていたんだ!! 僕は見捨てられていたわけじゃないんだ!!! ものすごい感情が僕の胸からわいてきた。 うー、ママ~!パパ~! 涙が溢れて、久しぶりに思いっきり泣いた。 やっと僕の潜在意識が両親が自分を見捨てなかったことを受け取れたのだ。 来てくれていたのは頭ではわかっていたが、2ヶ月間も実際に親の顔も見えなく、接触もなかったのだ。 僕は潜在意識では見捨てられた、そして自分は愛されないんだと思い込んだ。 今まで、一番自分を苦しめていたものがやっと解放されたような気がする。 “息をしているだけで愛されている” この言葉を本当に受け取れたら、どれだけ人生を楽に生きてゆくことができるのであろうか。 自分の価値を証明する為にがんばる必要もない。 みんな本当は無限の愛で愛されているんだよ。 根源の愛と繋がっているという安心感と自信。 ”息をしているだけで愛されている” これからも、この言葉を何回も唱えていこう。
November 8, 2005
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うちの虹坊は8ヶ月になり、だんだんうるさくなってきましたね~ かまって度はとてもすごいんですね。 自分が一番、自分の感情を満たすことがなによりも大事。 他の人、パパやママがどんなに疲れていようとも、自分の感情がみたされなければ、甲高い声を張り上げる。 う~、いいかげんにしてくれ~。 それが、赤ちゃんにとって自然なことなんだけど、 その子の面倒を責任をもってみなければならない両親はとてもしんどくなる。 そのしんどくなるのが、だんだんイライラしてくることだ。 イライラが怒りに変わってくる。 その怒りは、だめなもの。 なぜ、怒りの感情が出てくるのか。 それは、実は昔の抑圧された感情が表出してきているだけなのだ。 実際の相手に対する感情は全体の2割にしかすぎなく、残りの8割は過去の抑圧された感情が刺激されている出てきているのだ。 我が子にむかってそんな怒りをもってはいけないと、 普通の人は怒りの出てきたゴミだめの蓋を再び閉じて、さらに漬物石を載せて心の奥に貯蔵しようとするだろう。 しかし、現在、自分と相方は、それぞれ我がプリンスにゴミだめの蓋と重しを直撃されている。 自分に対しては、甲高い声をだして泣き止まなかったり、相方に対しては、夜中に何度も起こし、おっぱいを飲ませても乳首を噛んだりして、自分と相方のゴミだめの中の怒りをおらおら出せ出せとやってくれている。 そして、それが幸い、お互い、出てきた怒りをひとりブリージングなどで解放する。 ブリージングとは呼吸法を使った、抑圧された感情を解放する療法です。 出てきた怒りは自分の親への怒りだったりする。 すっきりしたらと思ったら、なんと、あまりうちのプリンスは泣いたり、乳首を噛まなくなるのだ。 親の怒りを抑圧したままだと、親の抑圧されている感情を出さすために子供はきっとますます過激な行動をとるのかもしれません。(あくまで、無意識的にですが) まったく、うちの子は親の抑圧されていた怒りをどんどんだしてくれています。 他の子もそうだと思いますよ。 子供は半分、親を癒すために生まれてきていますから。 子供は親にとっての癒しマシーンです。
October 12, 2005
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この前、相方と虹輝の3人で、岩見沢の上にある北村温泉に行ってきた。 ここは、最近リニューアルされたばかりで、大きい露天風呂がもうひとつ新設され、さらに岩盤浴が新設されていました。 泉質は石狩平野は昔、海だったので、石狩平野にあるほとんどの温泉と同じ、強塩泉。加水、循環をしていない、源泉・かけ流しの温泉です。強がつくので、塩分は海水に近いくらいあり、なめてみるとしょっぱい。においも海の香りが漂ってくる。塩泉は体がとてもあたたまる。ただ、上がるときに真水で洗い流さないと痒くなる可能性があります。以前、積丹の神恵内のリフレッシュプラザ988に行って、次の日からだ中が痒くてしかたがなくなりました。あそこの温泉は海水以上の塩分があります。傷があるととてもしみます。 まず岩盤浴に入り、やはり、汗の出方が違う感じがしてとても内蔵筋が弛緩する感じがして気持ちよかった~ ここまでは、ふつうの温泉評のブログになってしまうとおもいますが、次に相方が岩盤浴に入っている間、虹輝と温泉に入ってきました。 まだ、歩けない子供を温泉に入れるのは大変だなぁとつくづく思いました。 男風呂の更衣室には、ベビーベットがありませんでした。おすわりはできるので、床に座らせながら、自分も服を脱ぎましたが、ひっくり返って、頭を打たないように常に注意をしていなければなりませんでした。なんとか、2人が服を脱いで、荷物をロッカーに入れて、やっと温泉に入りましたが、内湯は熱く、露天風呂は風が強くてあまり入れませんでした。やはり、子供を抱っこしていると、ほとんど子供に注意しているので、自分は温泉を楽しむことができません。今まで、結構、温泉に行ったら相方が連れて行ってくれたので、その苦労はよくわかりませんでした。 温泉からあがっても同様に体を拭いたりで大変でした。 子供はすぐ成長するので、この状態はずっと続くことはないですが、バリアフリーが叫ばれている今、男風呂にもベビーベットをひとつ置いてくれないかな~と思います。たしかに、まだ、歩けない赤ちゃんを入れている男の人はあまりみかけたことはないので、仕方がないのかなかぁ・・・ それとも、温泉にも託児室があったら、お母さん方は温泉にゆっくり浸かることができて、それで疲れが取れて、結構、喜ばれるんじゃないかなぁと思います。それで、評判も多くなり、温泉側も繁盛すると思いますが、温泉経営者の方々、ぜひご検討をお願いします。 三度湯して疲れました~
October 4, 2005
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今日午前中はうちの相方がセラピスト養成講座のお仕事に行って、昼過ぎまで虹輝の子守り。 おしめを洗濯したのを干して、服も洗濯して干して、掃除機と水ぶきをするのに3時間以上。午前中でそれいっぱい。 虹輝のかまってかまって~、だっこだっこ、わんわん泣いて、やっと寝静まって、次の仕事にやっととりかかれる始末。 やりたいことができましぇん。 お父さんの最大の欠点。 欠点というか、武器の欠如。 その武器はおっぱい。 やはり、哺乳瓶よりもおっぱいのほうがぜったい、いいに決まっている!! わたくしももちろんおっぱいがいいです・・・・・・・・・・ 粉ミルクはあげれるときにあげれないし、いちいち作らなくちゃいけないし、ママのおっぱいのほうがりらっくすしている。 やっぱりおっぱいですね! 自分が納得してどうする。 おっぱい星人ですので・・・・・・ どけんかコラー! うちのキャットファザー キディー
September 29, 2005
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昨夜、何回も子供が泣き起きた。 パートナーはもういいかげんにしろ~という感じになって、自分が子供を抱っこしながら、思いっきり泣いている我が子を見つめていた。 子供が泣くということ。 泣くということはなにも悪いことではないのだ。 子供にとっては、それが自然な感情の表現なのだから。 このごく自然な泣くということが、できない環境で我々は育ってきている。 私たち、それは、親や祖父の代と延々と続いているのかもしれない。 泣くということは、よくないことだという思い込み。 また、泣き声を聴くと、なんか嫌な感じやおちつかなくなるという感じが沸いてくる。 それはなぜなのだろう。 子供の感情を認めてあげるように、自分の感情も認めてあげること。 パートナーも、いいかげんにしろ~という感情を感じ、それが抜けたあとに、彼女から子供を抱くのを変わってくれた。 泣き叫ぶ我が子の感情をいっぱい受け止めたあと、やっと、泣くのは収まってすやすやと眠りに付いた。 ミルクに集中
September 28, 2005
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あかちゃんを育てるのはこんなに大変なんだぁ~とつくづく感じています。 かわいいだけじゃない。 親になって、初めてそれを実感として感じつつあります。 でも、かわいい。 でも、うるさい。 おんぶしてつかれる~ ちょっとこれをやらしてけれ。 パートナーが仕事に行っている時、自分のしたいことはまず、2/3はできましぇん。 お父さんが仕事に行って、帰りがおそくて、お母さんは一日中赤ちゃんの面倒をみていたら、きっと自分だったらノイローゼになってしまうなぁと思います。 でも、母親ってやはり父親と違うと感じます。 もっと子供を包み込むものが、なんか大洋みたいな、ふところがひろいというか、それに比べれば父親は肉体的に体力があっても、精神的には母親にはかなわないような気がします。父親だけの子育ってて、無理かもと思えてしまいます。 だけど、それは口実にして、自分はあまり子供をみないっていうのはもちろん違うと思いますよ。 僕の父親は仕事が忙しかったみたいだから、ほとんど、お母さんが面倒をみていたらしいです。 おじいちゃんの今になって、一緒にお風呂にいれたりして、こんなに大変なんだとこぼしています。 にあわな~い おばあちゃんが買ってきたラッパのパンツ、見たとたん笑ってしまいました。
September 27, 2005
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お久しぶりです!! 熱しやすくて冷めやすい、3日坊主の私です。 ブログも毎日書くのはだんだん~すべき地獄に陥ってきて、その反動がきてしまったのです。 そして、その反動のばねがやっと元にもどってきたのかもしれません。 また、この間、自分の中でどのようにブログを活用してゆけばよいかも考えてきました。 自分らしい、ブログ活用法。 自分のことを書くとあまりにもテーマが広すぎて、収集がつかなくなってしまうきらいがありました。 それで、原点に戻ることにしました。 このブログはやはり子育て、父親の子育てについてしぼっていこうと。 なかなか、今は、実はとても子供ときちょーな時間を過ごしているわけでして、その体験を閉じこもり風な態度で風化させてしまうのはもったいないと思いまして、やはりこれは皆さんにシェアしていかなくてはと思ったしだいです!!! 男、父親の視点からの子育てについての表現は母親からのものに比べて圧倒的に少ないわけでして、それをしなければだめですぞと、なにか自分の中のインナー親父につつかれてめんどくさいなぁと抵抗しても結構インナー親父はしつこくてやっぱり書かなくてはならないなと。 冷めやすい自分なので、また、いつ中断するかわからないですけども付き合ってくださいませ!!! 将来のパパのナビゲーター?
September 25, 2005
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昨日、実家から26年前の古いカセットテープを引っ張りだしてきて、それをMDに録音した。 そのカセットテープとは「美しい 名曲の小径」という全10巻セットのクラシックの名曲を集めたものだ。 これには、自分はとても思いいれがある。 幼稚園のころ、よく家や車の中でこれがかかっていた。 この音楽集のいいところは、長い交響曲などでも堅苦しくなくアレンジして短くまとめているところだ。 とても、親しみやすく入っていけるものだと思う。 一番、思い出に残っているのは、家族で十和田湖にフェリーで行った思い出だ。 もちろん、車の中ではこれがかかっていた。 紅葉に染まった八甲田、奥入瀬渓流、十和田湖、弘前あたりの真っ赤なりんご菜園... これらが、この音楽とともに記憶に残っている。 自分はいつも父親が運転する車の助手席に座っていた。 なぜなら、外の景色などがよく見えるから。後部座席に乗るのはとてもいやがった。 当時はチャイルドシートどころか、シートベルトさえつけていないで乗っていた。 また、車では寝る子ではなかった。いつも、景色を凝視?していた。妹はいつも寝ていたが。 その傾向はずっと、続いている。 車を運転するようになってからも、外の景色にはいつも注意が向く。もちろん、わき見運転には気をつけているが。 上の2人の子供達は、車に乗せてもすぐ、「まだつかないの」などと言って、ほとんど外の景色を楽しんでいない。 自分の場合、道路地図を見ながら通ったことのない道を通るときはとてもワクワクしたものだった。 おかげで、オヤジのいい?ナビゲータだったが。 北海道の国道の番号とか、国道5号線はどっからどこかまでとかわかっていた。 まるで、歩くカーナビ(笑) 今でも道路地図をみるのは趣味のひとつだ(笑) 虹輝も一流のナビゲーターに鍛えようかなぁ(;^_^A また、なぜか新しい橋とかよりも、古い橋、トンネルとかに惹かれます。 橋、トンネルフェチです(^o^; その土地の人々、家々、山、川... それらは、すべて違う、同じものはふたつとしてない。 どの風景にも、なにか感じられるものがある。 おそらく、自分が特殊だったのだろう。 うちの子供がふつうなのだと思う。 車では音楽がかかっていたので、必ず景色の記憶には音楽がついてくる。 クラシックのほかにも、映画音楽やポールモリア、ニニ・ロッソなどがよくかかっていた。 その雰囲気というか、ムードというかそれを敏感に感じ取る子供だったのだと思う。ようするにませた子供・・・ 26年前のテープは全10巻のうち5巻は見つかった。他は行方不明。 26年目のにもかかわらず音質はあまり落ちていない。 MDに落として、車で聞いている。 虹輝は聞くかなぁ~ そして、孫にも?? 大正池 岩見沢
July 21, 2005
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今日、ひとりブリージングをした。 首のあたりがとてもエネルギーが詰まった感じがして具合が悪かったからだ。 ひとりブリージングは、落ち込んだ時や感情のボタンが押ささった時、体の具合が悪い時などにやったりする。 自分の場合、すぐに感情がでてくる。 今まで、数え切れない程やってきた。 感情が出てきても、本当の根っことなる感情はなかなか出てこない場合が多い。 また、とても集中力と気力もいる。 すぐ疲れてしまい、5分と続かない時がある。 もちろん、抵抗の部分もあるかもしれない。 こつとしては、ちょっとでも感情が上がってきたら、その感情に自分自身がなりきる感覚。 そうすると、だんだんと大きいのが出てくる感じがする。 ただ、自分の師匠が見ていて、自分ではとても出て、とても迫力があると感じても、まだまだ、出していないと言われている。 やはり、どっかでブレーキしている自分がいる。 でも、もうかなり自分のトラウマの核心まで到達してきている感じだ。 自分のハートを開くのを阻害しているもの。 鎖骨のちょっと下あたりの奥にとても黒くて冷たくて硬いものがある感じ。 なかなかそれを割るのはもう少し時間がかかるかもしれない。 それが解放できたら、自分はどうなるのだろう。 自分のエゴはそれを恐れている。 いろんな理由をつけて自分が癒されるのを妨害しようとする。 一見、他の誰かが自分を邪魔をしようとして見えるかもしれない。 しかし、癒しの道は自分自身との戦いだ。 相手は自分の抵抗を鏡として見せてくれているだけにしかすぎない。 やることは、自分の感情を直視すること。 ただ、それだけ。 行動ではない。 まして、規則でもない。 愛さなければならない、許すべきだ。 ~しなければならない、~すべきだ。 それも、エゴの言葉。 愛さなくたっていい。 許さなくなっていい。 あいつが憎い、殺してやりたい。 それが今の自分だったら、 それを、声高に認めよう。 イメージの中で、相手をけちょん、けちょんにしてしまえ。 そうすれば、それは本当の気持ちではなかったことに初めて気づくだろう。 本当の気持ちは愛している。許している。 それはいつも深い自分の中に存在していた。 なぜなら、それは努力して作るもの、付け足すものではないから。 永遠に自分自身の本質として存在しているもの。 また、癒しとは本来とてもシンプルなもの。 それを、難しくしているのはエゴちゃん。 う~ん、そうなんですね。 自分でもわかっているけど・・・ いわみざわばら園で
July 20, 2005
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久しぶりというか、なんと中3以来の16年ぶりだった。 海で泳いだのは。 まだ、冷たく、とても波が荒かったが、上の子供達と思いっきり、自分も子供みたいにはしゃぎまくった。 31歳のオヤジですが、心はまだ少年の・・・(ここまででいいでしょう) 楽しかった~ やっぱり海はいいね~!!?? なんで、ずっと海に泳ぎに行けなかったのか自分でもよくわからない。 去年、石垣島でも泳ごうとしたらスコールが降って泳げなかった。 海のエネルギーを感じた。 母なるエネルギーだ。 とても、よかった。 母なる、地球に戻ってきたんだと感じた(よくわからん) あと、やっぱ海ではバーベキューだね~! まわりで皆、ジュージューやって、いいにおいがぷんぷん漂ってきた。 焼肉が食いた~い!!!!(よだれ) 夜は焼肉屋さんに行った。 タラフクくった。 家に着いた。 楽天の日記を書く気力は残っていなかった... 仲良しいたずら3動物(ヒト科、犬科、ネコ科)
July 19, 2005
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この前、映画「エクソシスト ザ ビギニング」のDVDを借りてきて観た。 「エクソシスト」で悪魔に殺されたメリン神父がどうやってエクソシスト(悪魔祓い師)になったかを、若きメリン神父を描いた最近の作品だ。 小さい頃に幼なじみのおばさんに、初めてあくまの話を聞かされて以来、とても恐れを感じたのを覚えている。 また、カトリックの教会に行っていたし、中学の時に月刊「ムー」の悪魔払いのフィクション?を読んで、やはり映画「エクソシスト」の世界は本当に存在すると、とても現実的な恐れを感じていた自分がいた。 精神世界系の世界では、天使はエンジェルカードなど、様々な我々をサポートしてくれる存在として広く定着している。 天使がいれば、悪魔もいる? 悪魔は一般に我々を誘惑、堕落させる存在として(主にキリスト教カトリックの世界では)言われている。 天使と悪魔の存在とは、いわば、善と悪を言い換えたものだ。 また、善と悪とは西洋思想、つまり、2律的思想を現したものだろう。 はたして、天使がいるように、悪魔も存在するのだろうか? 今、私はこう考えている。 いると思えばいるし、いないと思えばいない。 これじゃあ、答えになっとらんと思われるかもしれない。 ワンネスの思考。すべてはひとつという考え。 また、世界は自分自身を現す鏡だとしたら? なぜ、人々は闇を恐れるのだろう? なぜ、ホラー映画やお化けを怖いと感じるのだろう? よく、憑依体質の人がいるという。 ようするに、霊に取り付かれやすい人のことだ。 そういう現象は単に精神病の範疇で説明できるのだろうか? むしろ、実際にそれはあると思うし、西洋医学では説明しきれない部分がたくさんあるのは事実だ。 ただ、それ自体、重要なことではないと私は思う。 霊に憑依された人にお払いをして、取り付いた霊を取り除いてもらったとする。 しかし、そのような人はまた違う霊に取り付かれてしまうのだ。 だから、憑依体質?? 重要なのは、なぜ、憑依されやすいかだと思う。 その、なぜかは、その本人自身にある。 それは、抑圧された怒りや悲しみ、あるいは恨みのエネルギーだ。 人によって、それは肉体的な病気として、精神的な病気として、あるいは、なんらかの事故や憑依現象として現れるかの違いだと思う。 単に、怨霊とか悪魔とは、ようするにその人の滞った、重い低いエネルギーを映し出したものだと考えればよいのかもしれない。 とても大きな滝があるとする。 ある人はそこに自然の美しさを見出す。 しかし、ある人はそこは自殺の名所で、地縛霊がたくさんいると考える。 また、その風景にモーツァルトのBGMをかけるのとホラー映画の効果音をかけるのとでは、まったくその風景が違って見えてくるだろう。 もちろん、そこの滝はとても美しいのは客観的事実かもしれないし、また、自殺の名所であるのも客観的事実かもしれない。 自分が癒された時、いつも見ていた世界がより新鮮に美しく見えるようになったということはよく聞くことだ。 意識の状態によって、世界はまったく違う様相を呈してくるということがわかるだろう。 自分にとってエクソシストを見て、こわいと感じる感情。 それはどこからくるのか。 それは、自分自身にあったと今は理解できる。 悪魔の狂気の部分。 底知れない、すべてを破壊してしまいたくなるほどの怒り。 それは、もともと自分自身の中にあったからだ。 それを、すこしずつ見つめ、解放してきた。 自分の深いところでは、その程度の確認の為、エクソシストの映画を借りてきたのかもしれない。 映画を見ながら、自分の感情を直視続けた。 夜、瞑想しながら、悪魔に取り付かれた女性が洞窟の中をメリル神父に恐ろしい形相で迫ってくるシーンが、自分に迫ってくるイメージに置き換えられてその恐ろしさを直視した。 ふと、その恐ろしさが抜けた。 恐ろしい形相のイメージは変わらなかった。 しかし、なぜか、温かく感じ、顔のまわりに蝶々が飛んでいた。 なんか、おかしくなってきた。 彼女のおそろしい顔の鼻に指を突っ込んでやった。 笑ってしまった。 なんで、こんなに怖かったのだろう。 もともと、悪魔の感情は自分自身にあったのだ。 ものすごい形相で迫ってきた悪魔はもうひとりの抑圧された自分だったのかもしれない。 直視し抱きしめた(自分は鼻に指を突っ込んだが 笑)とき、悪魔は悪魔でなくなる。 悪魔は本質である光に変わる。 悪魔はそれを人間の為に演じてくれているのだ。 悪魔は本当は愛の存在なのだ。 学芸会できれいな天使役と汚い悪魔役。 どちらの役をやるのが愛情深いと思いますか? 一番怖いのは、悪魔や怨霊ではなく、人間かもしれません。 また、ホラー映画を見て、自分の感情がどう動くのかをチェックするのもいいのかもしれません。 美しいものには棘がある。その逆もまた真なり・・・ 岩見沢ばら園
July 18, 2005
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私の父親 かつて、自分を安心してゆだねられた力強さを感じた父 厚い手で、小さい私をやさしく導いてくれた 父の影での困難さを理解できなかった自分 どんな重責、困難にも私の前では、愚痴、文句ひとつこぼさなかった 沈黙の行動によって信用を勝ち取ってきた やっと、最近、30年間の戦いを乗り越えることができたようだ 自分もようやく自分自身を乗り越えることができつつあるように感じる そして、今、父親になった自分 しかし、父を超えることはできないように感じる どうしても父だけは永遠に超えることはできない... さらに高く… 建設中の琴似タワー(6月上旬)
July 18, 2005
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狂気の世界。 エネルギーが暗く、よどみ、まるで汚水が出口のない下水道を流れているかのように。 かつて、その暗い地底の下水道のような場所にとても惹かれた自分がいた。 そして、その世界を見てきた。 だが、もう、その世界に惹かれることはない。 また、それは、自分だったのかもしれない。 地方の精神科の閉鎖病棟、保護室という名の牢屋。 殺人者、前頭葉を切り取られた人、汚物を食べてしまう人、想像を絶する虐待を受けてきた者、薬の副作用によるまるでゾンビのように歩く固まった灰色のまなざしが脳裏に浮かぶ。 少しずつ思い出していこう... 蘭島海岸よりシリパ岬、積丹半島を望む(5月下旬)
July 16, 2005
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心の中にあった満たされぬ思い 渇望 心の渇きといえるもの それを潤そうとあちこちとさまよい歩いてきた 出会った相手にそれはあると錯覚した それを相手に求めた しかし、それは与えられなかった 探そうとさまよい歩くほど、心の渇きは激しさを増した 心の渇きを潤そうとしたが、それはすべて無駄な徒労だった もう、探し歩く気力も潰え、その場に倒れた 自分の心の渇きを深く感じながら 無力感、ふがいなさ、無価値感、孤独感などが心の底から噴出してきた まるで、泥水が噴出するように しかし、それがだんだんと透明 透き通った水のようなものが噴出してきた まるで、地下の水源に到達したかのように それは、今まで探し渇望していたものだった その水は愛、豊かさ、平安というもの そして、初めて気づいた 捜し求めていたものは、どこか遠いところにあるのではなく 自分自身の深くに眠っていたのだと もう、心が渇くことはなかった ちざきバラ園で
July 15, 2005
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自営業をしていると、経理、税金、保険関係、はすべて自己管理だ。 事業に伴う経費、面倒な確定申告、所得税に始まり、事業税、住民税、国民健康保険、国民年金とその金額は馬鹿にならない。 正直うちらを殺す気か~!と思う時もある。 会社勤めをしていれば、自動徴収されるし、保険に関しては会社がある程度負担してくれるのでそれがどのくらいのものかあまり実感はわかないかもしれない。 年金に関しては、自分の時にはたして幾らもらえるのか、はたまたもらえないのではないかと思う。 しかし、今、高齢者がどんどん増えつつある時、今それに役立ってもらえればと思う。 その他の税金や健康保険も今までお世話になっている部分もあるし、公共のものは日常的に利用させていただいているから、感謝して手放すようにしている。 ただ、思うのはそのお金を無駄に使ってほしくない。 秋になると、来年の予算獲得の為、今年度の余った予算をあまり必要でない道路工事などに食いつぶすようなことはしないでほしい。 各所管の縄張り意識を助長させる税金運用を国の全体的視点に立った包括的に税金を運用できるようにする独立した組織ができればいいのかもしれない。 また、日常茶飯的に公務員の汚職が表ざたされているが、予算は自分たちのお金だと勘違いしているのではないか。民間会社が努力して稼いだお金とまったく意味が違う。 ただ、それらの汚職を糾弾すればいいのかというとそうではないような気がする。 お金とは本来エネルギーだと思う。 仕事をして自分のエネルギーを分け与えることによって、初めてその分のエネルギーがお金の形として返ってくるのだ。 愛さないと愛されない原理と同じだ。 税金を納めるのも同じだと思う。 税金というエネルギーを解き放つことによって、自分のもとにまた、帰ってくるのだ。それも利子をつけて帰ってくるかもしれない。 それはどのような形で帰ってくるかはわからない。 給料が増えるという形として戻ってくるかもしれない。 お金も突き詰めれば自分自身を現している。 自分自身の中にあるエネルギーを解き放てば放つほど、それに見合ったエネルギー(形はお金など)として帰ってくるのだと思う。 自分自身の中のエネルギーを解き放つにはどうすればよいか? それには、潜在意識にある様々な不足の思い込み、サバイバルの意識(生きていくには奪わなければならない、競争しなくてはならないなど)に気づいてそれを手放し、かつ本来の自分自身を取り戻すことをしなくてはならない。 無尽蔵のエネルギー(無尽蔵の金庫)は本来自分の中にあることに本当に気づけば、必要な時に必要な分のお金が手に入るということがわかるようになるのかもしれない。 口でいうのは簡単だが、お金の学びは結構、しつこい。 お金が貯まったら貯まったで、いつそれを失うかもしれないという恐怖が出てくる。1億円当たっても、それで不幸になるのと同じかもしれない。 それだけ、私たちの意識下には、不足の集合的無意識が横たわっているのだろう。 過去、建前は宗教上などからだったりしても、本質は富の奪い合いの戦争が幾たびも起こった。 公務員の汚職はもしかしたら、私たちの影の部分かもしれない。 税金を納めることによる、不足、奪われるという観念、そのエネルギーが現実の形として現れているにすぎないのかもしれない。 おそらく、不足、奪われるという観念が強い人ほど、汚職のニュースを聞くととても腹立たしく思うだろう。 なぜなら、もうひとりの自分自身を見ているから。 公務員の汚職だけではない。 地球汚染、凶悪な殺人事件なども我々の心の陰だとしたら... 初夏の空 車内から 空と走るワゴン HONDA AIRWAVE
July 14, 2005
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子供が泣き止まないことが度々ある。 泣けども、泣けども、とめどなく涙をポロポロ落としながら、僕の腕の中でずうっと泣いている。 抱きながら、この感情はどこから来るのだろうか、よくわからなかった。 日常的にも、すぐに不機嫌になって泣き出すことが多々ある。 昨日、実家に行った時、土日の講習などで実家に子供を預けている時、どのように過ごしているか詳しく聞くことができた。 実家でも同じような状態なのか? その答えはうちの場合とは逆だった。 実家だと良く寝るし、よく遊んだりして、寝て起きた時に泣いたりするくらいで、機嫌が悪かったり、泣き止まないということはほとんどないそうだ。 どうしてなのだろう。 自分たちの育て方が悪いのか、確かに実家はうちより空調的に過ごしやすい環境かもしれない。 お父さん、お母さんよりもおじいちゃん、おばあちゃんのほうがうちの子供にとってはいいのか。 うちでの状態を両親に言ったら、「お腹がすいているんじゃないの」とか言われたが、なにかが自分の中でひっかかっていた。 うすうす感じていたことだが、子供が泣き止まなくなるのは、実家に預けて次の日とかに多いような気がする。 もしかしたら、なんらかのストレスを実家で感じているのではないか。 しかし、うちの親はもう目の中に入れても痛くないほどにかわいがっている感じだし、実家から戻ってきた表情はリフレッシュしている感じにも見える。 実家から帰ってきて、そのことをパートナーに話したら、実家ではいい子をしているし、どんな理由があろうともやはり母親と一時的にでも離されるのは赤ちゃんにとってはとても嫌なことだからと言った。 たしかに、うちの子は外にでるとおとなしくなる。また、迎えに行った時になぜか子供がよそよそしく、目を合わせないのだ。 うちの子はまだ生後5ヶ月だが、もう、こんなにも内面では思っているのか!! 生まれたばかりから赤ちゃんがいろいろと感じ、受け取っているということは理論上ではわかっていたが、実際、自分の子供として体験すると、とても受け入れられないような、心が重くなる感じがした。 また、子供を甘く見てはいけないという言葉を浮かばされた。わかっていなそうな顔して、実は全部親の心理を見抜いているのかもしれない。 そして、子供はなによりもお母さんを必要としていること。 それもそうだろう10ヶ月間お腹の中に一緒にいて、おっぱいも与えてくれる存在。 父親とはまた違うし、いくらおじいちゃん、おばあちゃんがいくらかわいがっても、やはり母親にまさるものはないのか。 この文章を書きながら、なぜか自分は泣きたくなる感じがする。 2ヶ月早く生まれ、2ヶ月母親と引き離され保育器の中にいたつらさからか。 我が子を産んだ母親の気持ちは父親にさえ理解できない部分がある。 人間の心の根底には、母の子宮に戻りたいという願望があるという。 今まで、この心の仕事に携わってきて、どれだけ人間には心の根底に満たされない母親への欲求を抱えているのか自分自身も含めてよくわかってきた。 なんらかの理由で母親と引き離された赤ちゃんの心を思うと、とても心が痛い。 このことを書きながら、自分の事を思い出した。 保育器から退院してある程度たった時に自分の母親が仕事に復帰した。僕は保育所に預けられた。保育所での僕は、終始、泣き止まなかったらしい。 まるで、泣き止まない我が子のように。 いつも泣いてばかりいて、おそらくその時位からだろうか、喘息の発作が出てきたそうだ。 それで、母親は仕事を辞めざるを得なくなったのだそうだ。 おじいちゃんは、保育所の床にうすいビニールみたいのしかひいていなかったからだと言っていたが。 おそらく、2度と保育器の時のように母親と引き離されるつらさを味わいたくなかったのだと思う。 もうひとつ、思い出されるのは、なぜか記憶に残っていて、その時の写真もある。2歳くらいの自分がおじいちゃんとじゃんけんをしている記憶だ。その時の自分は次におじいちゃんがなにを出すがが予知できていて、それでもちろん勝つことができるのだが、勝つとおじいちゃんがかわいそうだと思ってわざと負けているのだ。 写真では自分がチョキを出して、おじいちゃんがグーをだして自分は負けているが表情は笑っている。 もしかしたら、うちの子供もそのような傾向があって、祖父母に気を使っているのだとしたら・・・ これは、うちの子だけなのか。うちの子だけが人一倍、感受性が強いのか。 もしかしたら、本当はほとんどの子供はそうしているのかもしれない。 もし、それが本当だとしたら・・・ とんでもないことかもしれない。 他人になにげなくする赤ちゃんの笑顔は、こっちがあやしたりしてあげたからではなく、もしかしたら赤ちゃんの方が気を使ってしてあげているとしたら・・・ 赤ちゃんにとって本心を出せるのは両親だけかもしれない。 もし、両親にさえ本心を出せなくなるとしたら、恐ろしいことになる。 庭の芝桜(6月初旬)
July 13, 2005
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子供が泣いて、抱っこして、あやして、おしめを取り替えて、ミルクをあげて、やっと寝て、洗濯して、掃除機をかけて、仕事に取り掛かろうとしたら、また、子供が泣いて・・・ 全国の子育てをしているお母さん! 大変ですね!! この大変さは、男の自分が体験して初めてわかりました。 子供は思ったようにはなりません。 さっきまで、機嫌が良かったかと思えば、急に不機嫌になる始末。 仕事だったらある程度要領良くこなしていければよいけれど、 子供にはそれが通じません。 自分の場合は良いほうで、妻が仕事に行っている時だけ。あとは、分担協力しながらやっている感じです。 だから、旦那さんが一日中、仕事で留守でひとりで子育てをしなければならない大変さはしみじみとわかりました。 特に、年子などを抱えていたらもっと大変でしょう。 とっても体力、精神力が必要です。 母は強しということはよくわかる。 決められた仕事をしているほうがよっぽどラクだと思えることがある。(もちろん、それはそれで大変な部分はあるが) 仕事だったら給料はもらえるが、主婦はもらえません。 子供ができてから、夫婦間がギクシャクしてくるということはよくあるケースだが、旦那さんは自分の仕事が一番大変、自分が食わしてやってるんだという思い込みが強いからじゃないでしょうか。 それに、帰ってきてから、奥さんに母親役、娼婦役を求めたら、子育てで疲れている奥さんはもたないでしょう。 その時に初めて、お互いの今まで隠れていた問題が顕在化してくるのかもしれません。 子供を通して、心の傷が癒されいろいろなことを学ばされると思います。 子供を通して満たされなく感じるものは、幼少期に満たされなかったものなのかもしれません。 妻を母親に、旦那を父親に見立てれば、なにかがわかるかもしれません。 子育ては大変だけど、子供のかわいい笑顔には癒されます。エンジェルです。 羊蹄山(ニセコ東山付近 5月下旬)
July 12, 2005
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自分は今まで、口呼吸をしていることが多かった。 寝ている時はほとんどそうで、起きたら、口がカラカラ、特に冬がすごい。 なぜなら、鼻がほとんど詰まっている状態だからだ。 意識的に鼻で呼吸しても、中に恐らく鼻茸(粘膜が炎症して固まってしまったポリープみたいなもの)があって、自然に空気が流れていかない。一時的に通っても、すぐに詰まってしまいやすい。 自分は幼少期からずっとそうだったので、それ(口呼吸)が当たり前だった。 しかし、それが抑圧された感情が意識化されてくるように、最近になってその不快感が顕著になってきたような感じだ。 5年前くらいに一度、局所麻酔で切り取れると聞いて診察を受けたことがあるが、全身麻酔をして入院しなくてはならいと聞いて、それきりだった。 だが、最近になりやはり治さなければならないな~と思っていたら、昨日の講座で自分の隣に座っていた方に「鼻が詰まってくるしい~」とかほざいたら、「私、鼻茸を取る手術をしたわよ!」と。それも「局所麻酔で簡単に」と!! これを、聞いてなんらかのシンクロニシティを感じた。鼻茸を取るように背中を押されているような。 鼻詰まりは結構、ほっとけない症状だと思う。ふつうの人が鼻詰まりが続いたら、思考が冴えなかったり、不快だろう。 だが、自分はほとんど詰まった状態でずっとやってきたことに潜在意識がそうさせてきたように感じる。 自分が癒されてきて、やっと自分の潜在意識は「もう、不快な体験をしなくてもいいですよ」とそれを手術を許したのかもしれない。 早く、鼻が気持ちよく通る状態を味わいたいで~す!
July 11, 2005
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昨日の講習は終わった後、とっても疲れた~という感じでした。 怒りが噴出してくるわ~、鼻は詰まるわ~、口内炎は痛いわ~で。 後でわかったのだけど、自分の怒りを表明してから、ある方はとても反応してしまい、その場の雰囲気がすっかり変わってしまったみたいだったのです。 もちろん、自分でも表情が硬くなっているのがわかり、顔の前に(投影の)膜がかかっている感じでした。 見えないエネルギーというものは、流れていて、それで、その場の雰囲気が一変してしまうことがある。 このような、講習のグループではそれが起きやすい。 ただ、それが悪いことではない。 このような場では、みな正直に自分の今感じていることを表現できる場所だ。 そうすることによって、他の人が嫌な気持ちが沸いてきたとしたら、また、それをシェアすることによって、抑圧していた自分の中の怒りとかに気づくかもしれない。 多くの社会の場では自分の感情を表明することは抑制されている。 感情を抑圧している人が多いので、誰かが感情を表出すれば自分の中が刺激されるからだ。 そうすると、自分の感情自体、それを認め感じることもしないようになる。 社会が正しい方法で自分の感情を素直に表現しあえる場になれば、人は病気とかにはなりづらくなるだろう。
July 11, 2005
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セラピストはこうあるべきだ! と以前の私はその思い込みが強かったと思う。 セラピストは人よりも欠点があってはいけないとか、クライエントと親密になってはいけないとかと思い込んでいた。 でも自分は人よりも欠点というか、心の傷が深かったような気がするし、だからこそこの仕事に付くようになったのだと思う。 自分の弱さを人に見せるのが怖かった。 プライドが高かった。 男30歳で20歳そこそこの大学生の人たちとバイトをした。 そこでは、ペルソナを被る必要はなかった。 失敗すれば同じように怒られた。 プライドが傷つけられた しかし、プライドとは自信のなさの裏返し そうしながらだんだんとプライドがなくなっていったと思う まだ、完全にそれがなくなったわけではないが、まわりの人からは以前とは変わったとよく言われるようになった。 まわりはそれほど批判的には見ていない ただ、自分で自分を蔑んでいるだけなのだということがわかったような気がする。 セラピストは結局、本人の人間性に行きつくものだと思う。 自信のないセラピストが、いくら立派な経歴を言い表面的な宣伝をしたって、潜在意識ではみな繋がっているので、それをクライエントは無意識に察知してそういうセラピストの下には人は来ない 本当に自分が癒され、潜在意識レベルで自分を魅力的だと思えるようになれば、人(クライエント)も引き寄せるようになるということがやっとわかってきた
July 9, 2005
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今日温泉に行って、更衣室のロッカー代に100円が2人で 1枚しかなかったので、彼女に自分の貴重品をあずけた。 なんか嫌な気がした。買ったばかりの車の鍵でもなくされるんじゃないかとか。なぜか、彼女を前面的に信用していない自分がいた。 帰り、車で出ようとしたときに時計をしていない自分に気がついた。探しに戻ったが見つからず、最後にフロントに見つかったら知らせてくださいと言おうしたら、落し物で届いていた。 場所はやはり女子更衣室。 やっぱり! イライラ感がでてきた。 なんでいつも(なぜかその言葉が入る)そういう事をしでかすのか。 彼女に預けないで、自分が両替しに行けばよかったのに でも、そういうことをしでかす彼女にムショウに腹が立った。 人のせいにすることは、とても簡単なこと。 人のせいにしている自分に気づくのはとても難しい。 そのような人を引き寄せている自分に気づくのはもっと難しい また、そのような人と自分はある意味似ているということを認めることはチョー難しい 見たくない。見たくない。 彼が彼女が、親が友人が、会社の上司が… 誰が、そういう人と付き合うことを決めた? 誰が、その両親のもとに生まれることを決めた? 全ては自分。 わかっているけど、ムカツク、腹が立つ、なんでこんなやつと一緒にいなければならないんだ。 てめーがちゃんとなってないから悪いんだ!! 逆に自分は悲劇の主人公です。小公女セーラです。うるうる なかなかそういう自分やめられませんかっぱえびせん だって自分の傷を見たくないんだも~ん!(と無意識では言っている) 見るとは感情をただ感じるということ 怒りの感情を感じきることは一見とても難しいように感じる しかし、それは一時的なもの 永遠に続くと思って感じないように、相手にあたってみたり、無視したりしようとする 感じきれば必ず過去の同じ感情の記憶がよみがえるだろう それが、解放できれば 自分が変わる、そして相手も変わる、世界が変わる そして癒しとはとてもシンプルなもの それを難しくしようとするのがエゴちゃん エゴ(自我)は知識、ハートは感情 知識でエゴは満足してもハートは満足しない ネガティブな感情が解放され、本来の愛につつまれた感情に包まれたとき ハートは感情になり感情はまたハートとなる そうすればハートで生きられるようになる ハートで生きるとは、直感で生きられるということ 神なる我を信じられるということ そこには、迷い、恐れはない 自分の感情を感じた、自分も同じ事をやっているということが理解できた。自分自身をただ見せてくれているだけなのだ。そしたら、怒るほどたいしたことではないということがわかった。
July 8, 2005
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昨日、妻が仕事に行っている時、ずっと息子がギャーギャーと泣き止まなかった。 眠たいのか機嫌がわるいのか、泣いても泣いてもとめどなく感情が出てくる。 その息子をずっと抱いていながら考えていた。 よくこんなに出るもんだと。 幸い、自分は子供の泣き声にはまったく感情は反応しない。また、感情のことについて学んでいるので、子供が泣きやまないことはけっして良くないことだと思わない。 だから、どんどん泣いて解放してくれーと思いながら自分もなんか少し気持ち良い感じがした。もしかしたら、お父さんの分も子供が肩代わりしてくれているのかもと思ったりもした。 ただ、ずっとだっこしているので、腕の筋が痛くなってくる。筋トレの代わりだと思っている。 一般には泣くことは良くないことだと考えられている。だから、普通はなんとか子供をなだめようとするだろう。また、子供の泣き声を聞くとなんか落ちつかなる人が多い。それも、子供を泣かせないとしようとする理由だろう。もしかしたら、本当の理由はそれかもしれない。 多くの人は感情を表現することを、小さい頃から抑圧されてきている。だから、子供が泣くとまだ解放されていない感情がうずくのだろう。歴史は繰り返すというが、それが、親子代々、世代伝播していくのであろう。 自分は保育器でのトラウマこそ深いが、退院してから自分は両親に泣いても咎められなかったのだろう。この点はとても両親に感謝している。それも、初めて子供ができてその事に気づいた。 子供が泣いているのを見て、よくこんなに出るもんだと思ったが、実はそれが普通なのかもしれない。逆に大人の私たちがそれだけ感情を抑圧しながら生きてきたということだと言えるのではないか。
July 7, 2005
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自分は今までどれだけの感情を溜め込んできたのか検討もつかない。おそらくそれはものすごいものだと思う。 自分の胸の中にさながらビックバンの前の状態のようにそれは凝縮されてあった。初めて、セラピーでそれを解放する時、自分の上半身が飛び跳ねたことからもその抑圧された感情のエネルギーは膨大なものであっただろう。 また、抑圧された怒りが初めて意識の表面に出てきたとき、それは原子爆弾という表現が適切だと感じた。要するに、全てを破壊したいという感情だ。 癒しの道に入る前、よく夢の中で狂った自分になっているの見た。泣き喚き、まわりの家具を倒したり壊したり、大声を出して目がさめると言った感じだ。目がさめると心臓の鼓動がものすごく早く、ある時は目がさめてからも意識が乗っ取られる感じになったり、しばらく振るえが止まらなくなったりした。 そして、ぶつけている相手は母親が多かった。今にしてはその事はよく理解できる。保育器にいた時、何度叫んでも来てくれなかった母親への抑圧されていた怒りだったのであろう。 その感情はものすごいものだった。それを潜在意識に抱えたまま生きてきたので、同じ事を恋愛で再体験した。なかなか彼女と会えなかったり、会いに来てくれなかったり。その度にものすごいやりきれない怒りを感じた。 その感情を解放した今、そのような感情を感じる現実は体験しなくなった。逆にひとりになりたいと思うこともあるくらいだ(笑) でも、解放した感情のさらに下には、見捨てられ恐怖、自己否定、無意味感、分離感などの保育器でのトラウマがどっしりと存在しているのが明るみになってきた。 それをこの3年間で少しずつ癒してきた。特に分離間はとても根深い恐怖だ。母親と引き離されるということは、自分は神とも引き離された存在、だから世の中で生きていくのは安全でないと無意識で強く思っている。 ある程度成長してからのトラウマと呼べる体験は、形成された人格の外側に形成されると考えればよいだろう。しかし、バーストラウマは人格の元、中心核に形成される。だから、あらゆる部分でそれが影響を与えている。 それを全て解放するのは容易ではない。だが、自分の魂はそれを望んできたのだろう。だから必ず解放できるはずだと信じている。 また、それが解放されるとそれを抑圧していたエネルギーが解放され、そのエネルギーは本来の自分の才能が発揮される方へ向かう。それをだんだんと感じて初めてきている…
July 6, 2005
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今、子供のほっぺと耳たぶに湿疹が出てきている。 赤くなりつゆがでているのをみると、見ていてかわいそう、なんとかしてあげたいと親としては当然な気持ちが出てくる。自分はアトピーで湿疹の痒みのつらさを味わったことがあるので、さらにそれがわかる感じがする。 まだ、小さいからステロイドはあまり使いたくない。 クリームとか竹酢などをつけて一時的にはよくなるが、また出てくる感じだ。 パートナーは今まで2人の子育てをしてきた経験と心の学びから、「湿疹を治そうとしてはだめ、そうすればするほどますます悪化する。それよりも、そこから自分の感情がどう動くのかを見なさい」と言われた。 そうだな、自分でもそのことは心の学びをしているので、うすうすと感じていた。なぜなら自分の感情が動くからだ。そして、現実として経験していることは、実は自分自身の心の中の映像であると。 子供を心配する自分の心の裏には正直言って、やはり子供の湿疹を他の人に見せたくないという気持ち、自分の子供は完璧であってほしい、自慢できる子供であってほしいという気持ちがあるということを白状せねばなりません。 きっと、子供は自分の認めたくない部分を引き出させてくれているのだ。認めたくない部分をもっと突っ込んで言えば、自分のトラウマ、人にどう思われるのかという自信のなさなのだろう。 親子は潜在意識の部分で深く繋がっていると言われている。だから、親が変われば子供もシンクロして変わる可能性は強い。 セラピーでもよく親子でこられる方が多い。それも、なんとかして子供の問題を解決しようとしてくる。 でも私から見ると親の投影であることが多い。そして、親の問題に振ろうとすると不機嫌になったり、来なくなってしまう方が多い。 自分のトラウマ、自信のなさが癒された時、初めて子どもは自信を取り戻した自分を表現してくれるだろう。
July 5, 2005
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父親がひとりでベビーカーを押している光景。 はじめて、自分がそれをやったとき正直言って、結構まわりの目が気になった。 多くの父親は休日の時とかにお母さんと一緒にベビーカーを押している光景はよく見かけるのだが、父親がひとりっていうのは自分が気がついていないだけかもしれないが、あまり見かけないような気がする。 うちは、二人で自営業を営んでいるので妻が仕事の時は自分が子供の面倒を見ている。 ある日、妻と買い物などに行って、たまたまその時妻が仕事が入っていて、ひとりでベビーカーを押しながらうちまで帰らなければならない時があった。 その時、結構勇気がいった。通りすがる人々、車に乗っている人はどう見るのだろうか。この人はもしかしたら、奥さんに逃げられたのかも。働いていないのかも。車を買えなくてお金がないのだわ。はたまた、奥さんは夜の水商売で働いて日中は休んでいるのかしらなどと、いろいろな半ば妄想思考みたいなものが自分の頭を駆け巡った。 でも、これも男の意識改革を目指す自分にとっての学びだぁ~!と思い、気合を入れながらうちまでベビーカーを押して帰った。 心の中ははずかしい気持ちと同時にほこらしい気持ちも同時に出てきた。そんな自分の気持ちとは無関係に虹輝は振動で気持ちよくベビーカーの中で眠っていた。 たくさんの車や人とすれ違い、うちについて「虹輝ついたぞ~」 虹輝がとてもかわいい顔でにこっと笑顔をしてくれた。なんか、自分を祝福してくれた気持ちになった。そして「はやく、人にどう見られるかという気持ちを手放しなさいよ」と言われている感じにもなった。 もうすこししたら公園デビューするぞ~
July 4, 2005
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自分の内面を見れば見るほど実はさまざまな出来事に対して自分の感情が刺激されていると思う。今までは、それを半ば無意識のクセで抑圧していろいろとそれを感じないようにごまかしていたのではないかと最近、思えるようになってきた。 また、自分の感情が以前と比べて動くのが敏感に感じられるようになったので、こんな些細なことにも自分は腹を立てているものだとわかり、そのような自分を認めたくないのでさらに二重に腹を立ててしまうこともある。 その感情のボタンを一番身近に刺激してくれるのは、パートナーだ。パートナーはある意味、自分の鏡と言ってもいい。それも、自分で認めたくない部分をパートナーを通してそれを見せてくれる。だから、パートナーといるとなんかかんかでいつも感情を刺激させてくれるわけだ。 相手の行動や言動などに感情が刺激されて、それを相手のせいなどにすることをよく投影という。自分の影の部分を相手に投げつけるという意味。心の中で自分は男らしくないという抑圧された観念があると、半ば冗談で「男らしくないわね」と言われたりすると、なぜかむかっときたりしてしまったりすることだ。ようするに投影かそうでないかを見極めるには、感情が刺激されているかそうでないか。感情が刺激されなければ冷静に愛情を持って相手に伝えることができるので、それは相手に伝わる。しかし、投影から言ったりしたことは、相手に対しほとんど反発となって返ってきやすい。そして、お互いのバトルがはじまったりするわけだ。 パートナー同士だと片方だけでなく、両方がお互い投影してしまうことがあるので、それに陥ってしまうと収集がつかなくなってしまう場合が多い。自分もパートナーとはそのバトルを結構やってきた。でも、お互いこういう事を学ぶ同志だったのでそれを通してお互いの傷を発見し癒すことができたのだと思う。また、このことを学んでいなかったらとっくに別れていたのかもしれない。 最近はまだまだ自分の中には癒されていない部分があるなぁと実感している。だからと言って癒されてきた部分もまたとても多いのも事実。本当に数年前の自分自分からはとても変わったと思うし、まわりの人もそう言ってくれる。孤独感や生きずらさはなくなった。 本当はこの世に生まれきたのは神なる自分に少しでも近づくわけで、いきなり全て癒されて神になったりしたらあんまりおもしろみがないのかも。少しずつ、視界が広がっていく自分を発見し楽しめればいいんだと思います。ようするに自分自身のプロセスを楽しんで歩むしかないのだと。
July 3, 2005
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あの時から3年が経った。 「ハアッ、ハアッ」と呼吸が続いている。 昔の気密室のない高度6千メートル以上の上空を飛びながら、いつ撃墜されるかわからない冷蔵庫のような機内で酸素マスクをつけているパイロットの緊張に満ちた呼吸のようにそれが続いていた。 呼吸を始めてから、なぜか体が震えきて、とても怖い気持ちがでてきた。それは、ひとりでいることへの恐怖のような。誰か、ずっとそばにいてほしいと痛切に感じた。歯の付け根が合わない程ガチガチと音を立てている。寒い。 なぜだ、まるで冷蔵庫の中に入っているよう。「う、う…」と嗚咽と同時に涙が出てきた。どうしてなのかなぜか出てくる。まるで、もうひとりの自分が自分の中にいるように。首の付け根ガクガク動いてきた。次第にそれが大きくなり、胸が上に反れ、バタンと自分の上半身が宙に飛び跳ねた。傍から見たらエクソシストの場面そのもののよう。自分も目をつぶりながら自分自身の身に起こっていることになにがなんだかわからないまま怖かった。 先生が「なにが出てきても安全ですからね」と言った時、ちょろちょろと出ていた嗚咽に代わって自分の中の何かが堰を切ったようにどどっとあがってきた。「うわああ~!!うわああ~!!」とそれはとても深い悲痛な叫びそのものであった。
July 2, 2005
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うちは、おむつを紙おむつではなく、布のおむつを使っている。妻によると、紙おむつは赤ちゃんにとってとても不快だそうだ。そのまま捨てれて便利だが(布おむつを使うとよくわかります)、むれたりして不快だけでなく、脳の発達にとっても不快さで下半身に注意ばかりいくと、まわりの物事を吸収する力が衰えてしまうそうだ。 まあ、自分としては最近の紙おむつも結構そこら辺は研究されて改良されてきているからあまりこだわることはないと思うのだが、なにを隠そう自分自身が布おむつだったそうだ。今は結構、布おむつは巷に浸透しているが、自分が生まれた当時はまだまだ少数派だった。だから、それに目をつけた自分の母親の先見さはすばらしいと妻はほめていた。 で、ここで何を自分が言いたいかというと、紙おむつと布おむつのどちらがよいかということではなく、ようするに父親の自分が我が子のオムツを洗うことでした(^o^。 生まれてから3ヶ月くらいまでは、おしっことうんこをはっきりまだわけてできない状態で、ほとんどのおしめにうんこがついていたことがあった。洗濯機に入れる前に、すすぐわけだが、それを取るのに一苦労、洗面台の前で腰が痛くなりました。でも、おしめを洗うとなにか違うんですよね。それをまた、子供がはくということ。たしかに、ものを大事にするということにも繋がるかもしれないですけど、よく、女の子が彼氏のはくパンツにさえ愛おしさを感じるということを聞いたことがあるけど、それと似たものを自分の中に感じるような、なんかそれでさらに我が子と繋がれるような気がします。
July 1, 2005
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子供に対する無条件の愛というものは、親になってみて初めてわかるものだと思う。当然と言えばそうかもしれない。 なんだって、経験してみないと実感として理解できないものだから。頭で理解できるものではない。 よく、育児ノイローゼという言葉をきく。子供が泣き止まなかったりすると、なぜかとてもイライラしてきたり、いたたまれない気持ちになって、つい子供に暴力を振るったり、自分自身がノイローゼ、うつ状態になったりして、育児不能・放棄に陥ってしまう。 個人事業の私たち夫婦としては、お互い協力しながら子育てをしている。妻が仕事をしている間は自分が付きっきりで面倒をみている。多くの父親のように仕事ばかりで育児ができない状態ではない。初めての自分の子供が生まれてから自分はどのようになるかは予測がつかなかった。 本当にかわいがれるのだろうかと。なぜなら、トラウマがかなり深いと自覚している自分にとって、子供はいろいろと自分の中にあるトラウマを刺激してくるからだとあらかじめ予想していた部分があったからだ。 しかし、生まれてからもう5ヶ月になり、その予想は今のところ外れた。 また、同じように自分自身の5ヶ月間は両親自身も育児ノイローゼとかにはならなかったであろうし、自分と同じように子供(自分)をかわいがったということがわかったような気がする。なぜなら、人は通常、親にされたことを繰り返す。育児ノイローゼの親はそのまた両親も育児ノイローゼだった可能性が強い。いくら我が子がわんわん、ギャーギャー泣こうが自分の感情を刺激されることはまずない。 なぜこのことを引き合いに出すのかと言えば、自分は今まで自分がうまくいかない原因を両親のせいにしてきたことが多かったからだ。多くの書物や心理セラピストをしていていかに両親の影響が大きいかはよくわかっているし実感しているところだ。しかし、自分は親に虐待されたとかという記憶はないし、逆に自分の両親は共々とてもやさしい人である。妹もどこか性格が偏ったりしているところはなくとてもより良く育ってきた感じだ。 でも、自分は家族の中で浮いた存在だった。そして、自分よりもまわりがなっていないと思っていた。でも、そうじゃない。自分がなっていなかったのだ。その事が虹輝が生まれてから理解できたように思う。 じゃあ、なぜ自分はなっていなかったのか。それは、自分の生まれてから一番最初の体験。難産、未熟児、2ヶ月間の保育器体験に帰結するのだろう。 今まで、両親のせいにして母親を泣かせたこともあった。 ごめんなさい。 生後半年で喘息になり、その苦労は初めて、我が子を抱いて理解できました。 でも、それは深いところではわかっていたこと。 そして、そのような自分を許します。
June 30, 2005
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虹輝が自宅で生まれた時に受けた彼の原体験。 それは、うちのミニチュアダックスフンドのみゅうちゃんに顔をベロベロとなめられた事だ。 虹輝は破水しないで膜をかぶったまま生まれてきたから、雌犬の本能だろう。自分も膜でぬるぬるしていたために両手の手のひらにもっていることができず、そっと布団の上に降ろした。 そしたらすかさず、みゅうはベロベロと膜をかぶった虹輝の顔をなめはじめた。自分はみゅうちゃんを振り払おうとしたが、離れようとしない。その時、膜が破れ、虹輝はオギャーと最初の呼吸をし、地上の熱い空気を肺いっぱいに始めて浸透させた。そして、母親のあたたかい胸に抱かれた。 それからもしばらくずっと虹輝から離れようとしなかった。雌犬の本能だろう、虹輝のまわりのタオルを鼻ですくってかけてあげようとする。見ていて、けなげさ、あるいは本能と言うよりも、動物に本来備わっているやさしさ、ひいては宇宙全体のやさしさというものを感じた。 産婦人科ではけっしてできない体験だろう。 成長して犬になめられるのがとても嫌だったりして。それとも、ムツゴロウさんみたいになったりして...
June 29, 2005
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ひとつのいたいけない、辛うじて小さな呼吸をしているような、うごめく肉の塊のような動き方をしている、とてもとても小さな男の子がガラスケースの中に裸でチューブに繋がれていた。そこは、とても無味乾燥としており、まぶしく寒い所。そして、すでに彼の内面は絶望と孤独に冷たく染まっていった… 「大丈夫だよ!大丈夫だからね」 自分はわけもわからずそう言いながら、いきなりもう出てきた頭部のまわりを擦っていた。今は、自分の奥深いところからの確信にゆだねているしかなかった。間の次の瞬間、一気に滑らかな膜と血潮を浴びた我が子が自分の両手の手のひらにおろされた。 この光景をはたして予測しただろうか。ただ、その時の自分はなにも冷静に考える余裕などなかった。自宅出産で産むと彼女が決め、あとは助産師の人にまかせていればよいと、正直言って出産を直視するのは怖かった。虹輝はそれを私にさせまいとした。虹輝の出産は1時間とかからなかった。陣痛が始まり助産師さんが自宅に到着する前に生まれた。 まるで、行く手に拒むものをすべてなぎはらいながら突進してゆくようなものすごい収縮をおこしながら子宮から出て産道をすすんでいった彼のパワーはすごかった。表面の映像とは裏腹に自分はそのエネルギーの波動の恩恵にあずかることができた。かつて自分の母親が思い出したくないくらいの難産と早産と2ヶ月の保育器のトラウマをまるでそのエネルギーで癒すかのように。
June 28, 2005
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