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July 12, 2021
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カテゴリ: 教授の読書日記
日本における自己啓発思想のことを調べていると、今から120年くらい前に創刊された『成功』という雑誌のことがよく出てまいります。で、それは19世紀末のアメリカで創刊された『Success』という雑誌の影響の下に刊行されたんですが、共に「成功」という概念を打ち出して両国に成功ブームを巻き起こすことになったのですから、現象としてはなかなか興味深い。

 っつーことで、この両雑誌についてはもうちょい詳しく調べなきゃな、と思っていたのですが、ふと、そう言えばこの両雑誌について、日本の研究者で調べている人はいないのかしら? と思い、ちゃちゃっと調べてみたら、とりあえず数件のデータが出てきた。で、こりゃいいってんで、とりあえずそれらを取り寄せて読み始めてみたと。

 そしたら、一つ、非常に優れた論文があったのよ。あまりにも優れていたので、ちょっとビックリ。っていうか、これ一つ読んだら、もう後は読まなくてもいいじゃん、っていうくらい出来が良かった。

 その論文のタイトルは「日米両国の成功雑誌に関する一考察」というもので、『アメリカ研究』誌の1987年号(21号)に掲載されている。言うまでもなく『アメリカ研究』はアメリカ学会が出している紀要ですから、日本のアメリカ研究関連で一番重みのある学術誌。著者は粂井輝子氏で、津田塾を出て白百合女子大で教鞭を執られていた方。この人はアメリカ学会が選考する学術賞である「清水博賞」の第1回受賞者だそうですから、優れた研究者であることが窺われます。もっとも私はそういうことは一つも知らずに、ただこの論文だけをいきなり読んで、単純に「よく書けているなあ~!」とえらく感心してしまっって、後で調べて、著者の実績を知ったのでした。

 ということで、後学のためにこの論文の内容を箇条書き風にまとめておきましょう。ま、私自身にとって後で役立つようにまとめているだけなので、ちょいと分かりにくいかもしれませんが、そこのところは悪しからず。

〇アメリカという国は、一般のイメージとは異なり、社会的上昇傾向が特に著しかったというわけではないのだが、それでも「機会と成功の国」というイメージが強く、それゆえに移民を惹きつけてきた。で、そんな中、『Pushing to the Front』(1894) や『Rising in the World, or, Architects of Fate』(1896) などの著書で知られるオリソン・マーデンなる人物が1897年12月に創刊したのが『Success』誌。

〇マーデンは1850年、ニューハンプシャー州の寒村で生まれた。幼くして両親と死別。近隣の農家や牧師の家で手伝いとして働くなど、薄幸な少年時代を過ごす。そんな中、屋根裏部屋でサミュエル・スマイルズの『Self-Help』を見つけてむさぼり読み、これが本人も言う通り「人生の転換点」となる。以後、いつの日かスマイルズのように人の助けになる本を書きたいと心に決め、そこから苦学してボストン大学やハーバード大学で幾つもの学位を取得。また学業の傍らホテル業に進出し、学業を終える頃には2万ドルもの大金を手にしていた。ところが1890年代の「ネブラスカ・ブーム」(何ソレ?)に惹かれて当地でホテルを建設するも、火災でホテルは焼失。しかもアメリカのスマイルズたろうとして書き溜めていた5000頁に及ぶ原稿も失うことになる。この時マーデン44歳。

〇火災後、ボストンに戻って再び執筆に取り組み、1894年に『前進あるのみ』を完成。アメリカだけで250版、25か国語に翻訳され、日本だけでも100万部が売れたという(もっとも、モットの手になるアメリカン・ベストセラー史には、この本の記録なし)。なお、この本は明治大正期に中学・高校の英語の副読本として広く採用されたという。また1896年の『Rising』では、「品位の確立と価値ある達成」というマーデンの哲学がよく打ち出されていた。少なくとも初期のマーデンは、人格の陶冶を単なる金儲けよりも重視していたことが窺われる。

〇で、これら二つの著書の好評が、マーデンをして、『サクセス』誌の創刊を思い立たせた。彼は自説をさらに世に広めるべく、Louis Klopsh の資金援助を得、1897年12月にこの雑誌を創刊。当初「人生における成功」というタイトルを想定していたものの、それでは金儲けを目指すというニュアンスが強すぎるということで、よりシンプルな「成功」にすることに。



〇立志伝などに登場するのはエジソン、リンカーン、ブッカー・ワシントン(その他例あり)など多岐にわたり、誌の方針として分野を限らず、個人的願望の達成をした人を取り上げたことがわかる。

〇本誌の創刊当時、アメリカでは既に一代で財を築くといったアメリカン・ドリームの時代が終わりつつあり、成功の機会の減少が嘆かれていた。しかし『サクセス』誌は「機会はどこにでもある。アメリカは機会の別名に過ぎない」と獅子吼、『Acres of Diamonds』の説話を説き、機会の不足を嘆く前に、自分の足元にある機会を拾え、と主張した。そして読者はこの主張に奮い立った。(とはいえ、「正直者がこれだけ懸命に働いているのに、どうして暮らしが豊かにならないのか」と、同誌に質問してきた読者もいて、それに同誌が満足のいく回答を返すことはできなかった。)

〇読者からの質問欄から推測するに、本誌の読者層は全米(+カナダ、イギリス)の10代半ばから20代の青年層で、圧倒的に男子が多い。職業的には小学校教員・商店員・事務員・農家など、社会的上昇意欲の強い人々で、現状に不満を持ち、弁護士や医者、電気技師や速記者などになるための専門知識の獲得を目指し、そのための資格や条件について問うものが多かった。

〇1898年半ばまでには発行部数は5万部に迫り、1906年には30万部に到達。全米の主要都市に支部を置いたほか、ロンドンにも編集支局ができたという。

〇1900年代半ばまでの『サクセス』誌は、「品性の確立」と「職業を通しての自己実現」という二つのテーマがあった。この二点を実現すれば、その人は周囲の社会をも益すると。マーデンは金を儲けたり名声を得ることよりも、品性の確立こそが第一であるとし、金儲けを人生の至上目的とするような当時のアメリカの風潮にはきわめて批判的だった。また、自分の性格や本性にあった職業を見出し、そこで才能を開花させ、自己実現を図ることを重視した。色盲の人が画家を志しても意味がないように、自己の特質や性向を無視して努力しても水泡に帰することをしばしば主張した。

〇R. Huber によると、当時の成功物語の著者たちが結局は金持ちになることを人生の最終目的に設定していたことと比べ、マーデンがそれに反対していたことは、実に特異なことであったという。『前進あるのみ』などの著書で知られ、『サクセス』などという雑誌を創刊したことから誤解されがちであるが、マーデンの主張は、金儲けではなく、自分にあった仕事に精を出すことによる人格の陶冶であった。その意味では、Cawelti が指摘するように、マーデンの成功理念は社会的上昇移動とは無関係であり、「保守的な中産階級プロテスタント倫理の伝統」に近い立場だったと言える。同誌が成功を標榜しながら、公立学校やYMCAなどからも推薦されたのは、このようなマーデンの成功理念ゆえであった。こうしたことの背景には、マーデンが禁欲的なニューイングランドの寒村に育ったことなども影響しているかもしれない。

〇ところが、マーデンの理念がそういうものであったとしても、『サクセス』誌の読者が本誌に期待するものもそうであったとは限らない。むしろ読者が考える「成功者」とは、逆境や障害を跳ね返し、苦学して有能な医者・建築家・実業家・政治家として成功し、莫大な年収を得るようになった人のことであった。

〇そして『サクセス』誌には、こうした読者の期待に応えるような記事もあったし、1898年10月に月刊誌から週刊誌に変貌した際にも、新方針として「実業の確立」「所得倍増」「名声獲得」などのノウハウを伝授すると告知している。従来からのマーデンの成功理念と矛盾するようなこの方向転換がいかにしてなされたのか、それに対してマーデンがどのように関与し、あるいはどのように感じていたのかは不明。

〇しかし、1905年頃からマーデンにも変化が見られ、彼はニューソートに傾倒していく。これは、機会の国アメリカにおいて、善良なアメリカ市民が成功するための方策として、他に選択肢がなくなったからかもしれない。とにかくマーデンはこの頃から精神力を重視し始め、何事にも積極的に取り組めば道は開けるという論調のことを言うようになる。

〇こうした方向性のマーデンの論調を決定づけたのが、1911年の「Great Within」の論説。火事場の馬鹿力のように、人間にはその内部にすごい力が存在する。歴史上の偉業の数々は、どれも皆、この偉大な内部を活用した結果である。偉大な内部は、「真実・美・愛の源泉」であり、「人間に内在するこの神性は究極的な勝利を収めるであろう」とマーデンは主張した。ただ、どうすればこの力を活用できるか、その具体的な方法論は示すことができなかった。

〇このようなこともあり、1911年、『サクセス』誌は廃刊となる。マーデンは元々、政治家の汚職は青少年に幻滅を与えるとして汚職を糾弾してきたが、1900年頃からアメリカの雑誌界に吹き荒れたマックレーカーキングの動きは『サクセス』誌をも巻き込み、マーデンの人の好さに付け込んで同誌を乗っ取ったマックレーカーたちは、同誌誌上でも金融資本攻撃を繰り返したため、結果、有力銀行家が『サクセス』誌への貸付を削減し、廃刊に追い込まれたのである。とはいえ、そういうことが無かったとしても、いずれにせよマックレーカーたちの暴露記事により、当代の成功者たちの仮面が次々とはがされていた時期だけに、成功者の具体例を示しながら、読者に感動を与えるという『サクセス』誌の編集方針は、既に崩壊していたし、加えて大衆に強くアピールするような大物成功者の数も減っていた。『サクセス』誌の中で、偉人伝の割合が減り、マーデンの筆になる(具体例を欠いた)抽象的な論説が増えたのもそのせい。かくしてマックレーキングと家庭記事の割合が増えた『サクセス』誌は、他の一般の全国紙と競合するようになり、そうなれば淘汰されてしまうのも当然。




〇一方、日本では明治35年(1902年)10月、村上俊蔵によって『成功』が創刊される。

〇明治期に入って身分制度が廃止され、社会移動が活性化。個人の社会的上昇が国家の増強と重ね合わされ、立身・出世という言葉が盛んに称揚されて、門地家柄の低い者が身を立て名を挙げると、成功者としてほめそやされた。そして日露戦争の頃には、成功に憧れる風潮が日本全土に広まり、成功に関する著作が盛んに刊行されていた。

〇創刊者の村上俊蔵は明治5年に浜名湖北岸の富裕な農家に生まれた。1890年頃には父の命で東京で法律を学んでいたが、興味が持てず、むしろエマソンに心酔し、文筆で立つことを志すようになる。父の命に背いたことから一時人力車夫になるなど苦学する場面もあったが、父が倒れたことで家業を手伝うことに。6年後、東京に使いに出された村上は、偶然『ビスマルクの卓上談話』なる本を見つけ、試みに訳出・出版したところ好評を得、これを機に再度上京。松島剛のもとで『学窓余談』誌の編集に携わる。

〇1899年頃、松島の家で偶然、マーデンの『サクセス』誌を見つけ、その内容に感銘を受け、「天性と天与の才に従い、自己の大志を形成し、人生を計画せよと我々を指導してくれるだけではなく、企業心と自助の精神を養うように導き、成功の秘訣と自己訓練の最上の方法を教示してくれる。要するに、強い男らしさを明示してくれる」と述べている。そこで村上は松島の『学窓余談』の改革を提案するが、松島に受け入れられず、そこで自ら『成功』誌の創刊を考えるようになる。つまり、村上が『成功』誌を創刊するに当たって、直接のインスピレーションとなったのが、マーデンの『サクセス』誌であった。

〇『サクセス』誌は1904年8月号において、「日本の弟――いかにサクセス誌がエネルギッシュな若い日本のジャーナリストを発奮させて、同一路線のもとに雑誌を発行させるに至ったか」という小さな記事を載せた。ここには村上からマーデンに宛てた手紙が引用され、この手紙によって先に述べた村上の前半生が窺われる。



〇内容は各号ごとに変化はあるが、立志・史伝欄に偉人伝が載り、自信欄には村上の論説が載った。村上は「自助庵主人」または「村上独浪」というペンネームを使った。1巻の立志欄はバンダ―ビルト、カーネギー、ロックフェラー、フランクリン、アスター、ゴールドと、5名の西洋人すべてアメリカ人で占められた。登場する人々に関し、画家・学者・政治家に関しては「立志」、実業家に関しては「富豪・○○王」という称号が付された。ただし6巻からは日本の政治家・学者・文人ばかりとなる。これは、西洋人にまつわる記事が『サクセス』誌を出典としていて、その『サクセス』誌に偉人伝が減少してきたためと考えられる。

〇『成功』誌の読者層は、R・P・ドアーによれば「官吏軍人志向の中産階級の学生たち」であったとされ、たとえば学習院の学生でこれを読まない者がない、とされるなどしたというが、同誌の読者投稿欄を見ると、中産階級の子弟というよりは、高等小学卒の商店員とか地方の小学校教員などが多く、その質問の多くは苦学して上級学校に進学するか、あるいは独学で英語・法学・政治学などの知識を身につけるか、はたまた渡米すべきかなど、経済的に苦しい中でいかにして更なる教育を身につけ、どういう職業につき、どういう風に将来を展望すべきか、といったようなものが多く、実際には中流以下の青年層が主な読者層であったことが窺われる。ゆえに、日露戦争勃発後に発行回数を増やしたところ、経済的負担が増すとの苦情が多くあったという。

〇『成功』誌は、明治期の知識人層にも好感を持って受け入れられていた。創刊号から特別賛成員として幸田露伴、巌本善治、徳富猪一郎、井上円了、海老名弾正、新渡戸稲造などが名を連ね、執筆陣には片山潜などの社会主義思想家も加わった。軍人の名も見える。つまりキリスト教・仏教・自由思想・儒教思想・民友社・政教社・社会主義者・軍関係者など、立場の異なる多方面の大家が誌面を飾った。かくして同誌は着実に部数を伸ばし、明治41年には東洋一の部数を誇るまでに。明治39年末までには、読者欄へ毎月数千通の質問が寄せられた。

〇『成功』誌が『サクセス』誌以上に多方面からの支持を得たのは、同誌が「自助的人物の養成」というものを掲げていたから。村上は、英米が先進国となったのは、その国民性の中に「自助・独立・勤労」の精神がよく浸透していたからであり、これこそが英米の精神的支柱であり、かつ、発展のカギであると見ていた。ゆえに日本がこれから発展していくためには、自助的精神に満ちた人間を涵養する必要があると考え、『成功』を創刊したわけだが、これが当時の日本の風紀頽廃を憂う人々、勤労を尊び社会改革を求める人々の間に広く共感されたのだった。

〇村上曰く、日本は「自助的人物少くして徒に安逸に日を送り居る者多き」状態であり、「積極的人物少くして、隠居的若者多き」状態であり、「土着の念徒に盛にして海外を家とするアングロサキソン的根性なき」状態であり、「資財乏しくして独立の計を為し得る者少く、国命も亦危き」状態であると。つまり個人の自立と国運の伸長とを合わせて独自の自助論を展開していた。この点、マーデンが自助精神をあくまで個人レベルの問題として扱ったのと好対照をなす。

〇またマーデンが人生の最終目的を品性の確立に求めたのに対し、村上は品性の有用性を強調した。つまり、「品性で得た信用は富に勝る」とか「人格は商業の手形のようなもの」とか。加えて村上は、富を得ることに対する寛容性がマーデンより高かった。拝金主義は否定したものの、精神的修養とその結果としての物質的安楽は、車輪の両輪であって、どちらが欠けても良くない、という考え方だった。

〇村上が、一方でマーデンを範としながら、他方で社会的上昇願望や到富思考を容認したのは、おそらくマーデンの思想に対する理解が充分でなかったからと考えられる。村上は『サクセス』誌を定期購読していなかったし、マーデンとの書簡の往復が始まってから、急に村上が人格陶冶を言い出すところからも、それは窺われる。もっとも村上とて、同誌に修養欄を設けたり、宗教による安心立命を重視するなど、元々精神面を重視していたところもある(だからこそ、松村介石らからも評価された)。しかし、伝統的に儒教精神の強い日本では、金銭や労働に対する蔑視感情が国民の中にあったため、村上としては労働の神聖の自覚、実業の重視などをしなければ、世界的大国民にはなれないと考え、精神面ばかりを重視する日本の儒教的伝統文化からの脱却を志す必要があった。

〇村上にとって日本国民の消極性、文弱の傾向、煩悶の流行は、社会主義思想と共に、国家衰微を招く者であった。そこで村上は一方で宗教による精神の安定を重視しつつ、史伝・立志欄においては先人の成功談を載せ、スマイルズやマーデンの著作を推奨して読者の自助精神を鼓舞した。

〇しかし国土広大なアメリカとは異なり、国土が狭く人口の多い日本では、誰もが立身出世を志せば、蝸牛角上の闘いにならざるを得ない。そこで、国内における機会の少なさを見て取った村上は、広く海外に機会を求めよと説いた(「日本国、兵は強しと雖も富未だ微なり、富漸く殷なるも、土地は狭し宜しく地を選て海外に往け、敢て米州の地と言はんや、又敢て東洋諸島と言はんや、天与の地未だ人工の加へられざるもの、世界到る所にあり」)。そして日露戦争勝利後は、同誌に「海外活動」の欄を設けるなど、海外移住の必要性を説いた。(村上が南極観測隊の白瀬中尉の支援者であることに注意)。この点、「機会を求めて海外に行かずとも、ここには利発な精神の持ち主には機会が豊富にある」とした『サクセス』誌の方針とは真逆と言える。(もっとも『サクセス』誌は、敢えて機会渉猟の場を国内に限定したため、国内に機会が少なくなるにつれ、もっと内側に、すなわち内面精神に機会を求めるニューソートに傾倒していくことにもなる)

〇村上は、上に述べたような思想の下、明治39年5月に『探検世界』を、また明治41年5月には『殖民世界』を創刊し、『成功』誌よりもむしろそちらの方に主筆としての精力を傾けるようになり、他方、『成功』誌本体は、次第に「受験誌」的な性格を強めていくようになる。

〇『成功』誌は、村上が白瀬南極探検隊の後援に資金をつぎ込んだことと、新機軸の『探検世界』『殖民世界』の不振によって廃刊の道を辿ることになる。(新雑誌の不振は、1900年代末から無資産者の北米への渡航が事実上困難になったことにも影響されている。)強烈なナショナリズムから発した村上の外向的な成功の夢は、かくしてはかなくも散っていった。


・・・ざっとまとめると、こんな感じかな。それにしても僅か10頁前後の論文にしてこれだけの内容。素晴らしいの一語です。粂井輝子、おそるべし。いい学者さんです。


 ところで、『成功』の創刊者・村上俊蔵が、南極探検の白瀬矗中尉を支援していたってのは、個人的にちょっと面白かった。

 というのも、私が通っていた玉川学園小学部では、白瀬矗中尉の出身校である山形県の某小学校と交流があり、毎年(・・・ではなかったかもしれないけれど)、向こうの学校の児童が玉川学園を表敬訪問するという行事がありまして。小学生同士、名刺を作って交換したり、いっしょにドッジボールをしたりしたものでございます。ドッジボールに関しては、妙に向こうの児童が弱くて、たちまちのうちに全員アウトにしてしまって時間が余って困ったことをよく覚えております。

 だから、今時の日本人は白瀬中尉のことを知らないだろうけど、私は知っていたのよ。その白瀬中尉を、村上俊蔵が支援していたということを聞いて、なんだか妙な縁を感じてしまった次第。ま、これは大して意味のない付け足しですけどね・・・。





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Last updated  July 12, 2021 01:20:04 PM
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釈迦楽@ Re[3]:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 丘の子さんへ  ああ、やっぱり。同世代…
丘の子@ Re[2]:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 釈迦楽さんへ そのはしくれです。きれいな…
釈迦楽@ Re[1]:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 丘の子さんへ  その見栄を張るところが…
丘の子@ Re:『2001年宇宙の旅』を知らない世代(09/13) 知らなくても、わからなくても、無理して…
釈迦楽 @ Re[1]:京都を満喫! でも京都は終わっていた・・・(09/07) ゆりんいたりあさんへ  え、白内障手術…

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