
【ゆるしの40日--DAY 6--】
●どれほどの苦しみだったのか
ある人が、このように言いました。
「 まあ、神の子、救い主なんだったら、十字架につけられても、べつに痛くもかゆくもなかったんじゃないの?
」
このような意見は特に珍しいことでもなく、多くの人たちが、「 キリストは神の御子だから、それほどの痛みを感じなかったのではないか
」とか、「 神の御子だから、十字架で死ぬことも簡単なことだったはず
」という感覚で無意識にその出来事をとらえているようです。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
●「ことば」が「肉」となった
ヨハネ福音書1:14は、「 言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
」と、証をします。
「 ことば
」とは、イエス・キリストのことです。これは、見えない神が見える姿、すなわち人間の肉体をもってこの地上に来られ、人間の生活をしながら、わたしたちが聞いて理解できる言葉で直接語りかけてくださった、ことを「 ことばは肉となった
」と言い表しているのです。
●人として来られた具体的方法
主イエスは、「わたしたちの間に宿られた」のですが、どのような具体的な方法でこの地上世界に来てくださったのでしょうか。それは、皆さんもよくご存知の、 クリスマスの出来事
に表されています。聖霊によって身ごもったマリアを通して、家畜小屋でお生まれになったのです。
ここで不思議なのは、全能の神様の力を持ってするならば、大人の姿でバーン!と稲妻と共に突然に姿を現すこともできたはずです。しかし、なぜあえて、わざわざと言ってもいいですが、赤ちゃんからスタートするという、遠回りな方法をとられたのでしょうか。赤ん坊は、自分でトイレに行くことも、食事を準備することもできないですから、両親が片時も離れずにケアしてくれなければ、すぐに死んでしまうほどの弱い存在です。ハイハイから始まり、ヨチヨチ歩きを覚え、離乳食から固いものを食べれるようになるまでには数年を要します。言葉を覚えると同時に、あらゆる人として生きていくすべを、一つ一つ体で覚えていかなくてはならなかったのです。
つまり、人としてお生まれになった主イエスは、あなたがお母さんから生まれて今日まで成長してきた同じプロセスをたどりました。 あなたが大人へと成長するプロセスの中で経験してきた数々の苦労を、主イエスも同様に味わった
のです。
聖書はそのことをこのように証ししています。
「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブル4:15)
主イエスは、あなたとまったく同じように試練に遭われた
、と聖書は語ります。神の御子でありつつも、一日中歩き回れば疲れます。お腹も空けば、トイレにも行きます。夜になれば眠くなります。虫に刺されればかゆくなるし、ケガをすれば痛いのです。また、悩むこともあれば、落ち込むこともあります。悔しく感じることもあれば、腹を立てることもあったはずです。言が肉となって来られた、とはそういうことなのです。
●もっとも弱く小さい者として
主イエスは、最も弱く小さい者、貧しい者として、この地上に来てくださいました。両親のケアなしには、生きていけない赤ちゃんとしてこの地上にやって来た主イエスの姿は、まさに 「弱さ」の象徴
です。王の王、主の主である神の御子が、汚く糞尿の匂いに満ちた家畜小屋で生まれたことは、 「貧しさ」の象徴
なのです。
そのことを聖書はこのように教えます。
「すなわち、 主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた
。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(IIコリント8:9)
そうです、あなたが豊かになるその目的のために、主イエスはこの地上において 最も貧しくなられた
のです。その貧しさの極限を指しているのが、十字架の苦しみなのです。預言者イザヤは、イエス・キリストがどのように育ったか、その貧しさを主イエスが生まれる約700年前にこのように預言していました。
「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人(イエス)は主の前に育った。 見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。」(イザヤ53:2-3)
わたしたちとまったく同じように、多くの痛みを負って生まれ育った主イエスは、十字架の苦しみを受けられました。
ここで、あなた自身がもし十字架の苦しみを受けたならば、と仮に想像してみましょう。それは、あなたがもし実際に、人々に罵られ、唾を吐きつけられ、殴られ、ウソの証言によるでっち上げの裁判で死刑判決をうけ、鞭(むち)で打たれ、重い木を担がされて丘を登り、素っ裸にされて十字架に釘付けにされたならば、感じるであろう痛みと苦痛を、主イエスは身代わりで味わってくださったのです。
そのことを聖書は克明に記しています。
「彼が担ったのは わたしたちの病
、彼が負ったのは わたしたちの痛み
であったのに」(イザヤ53:4)
「彼が 刺し貫かれた
のは、わたしたちの背きのためであり、彼が 打ち砕かれた
のは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた 懲らしめ
によって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた 傷
によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ53:5)
約2000年前に、主イエスが実際に味わったその痛みと苦しみは、すべて、あなたのためでした。あなたの罪を担った主イエスは、あなたが架けられるはずだった十字架についてくださり、 あなたが受けるはずだった痛みと苦しみをすべて身代わりとして引き受けてくださった
のです。
「キリストも、罪のために ただ一度苦しまれました
。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」(ペトロ手紙3・18)
では、キリストが身代わりで受けた苦しみは、さらに具体的にはどれほどだったのでしょうか?
それは極限の二つの痛み。わたしたちが人間として体験できるあらゆる苦しみを主イエスは味わったのです。それは、 1.肉体的、2.精神的な痛み
だったのです。
DAY7へ続く
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