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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。古い記事ですので、現在は状況が大きく変化している場合もありますので、ご容赦ください。≪2013年6月27日の記事≫ [俳優 佐藤B作さん]胃がん(3)何度も再発 怖さに負けず 「食道に影があります」 2009年3月、胃がん手術後の定期検査で思いがけない結果を聞いた。手術から1年たっていなかった。 すぐ入院して内視鏡で組織を切除し、調べるとがんだった。退院後に、再発・転移予防のため、放射線治療と抗がん剤治療を受けた。 ちょうど舞台のけいこ中だった。だんだん、だるくなってきた。せりふは覚えられても、口から出てこない。立つのはもちろん、座っているのもつらく、すぐに横になりたくなる。 主治医と話し合い、予防のための治療を途中でやめてもらった。 翌年の定期検査でも、異常が見つかった。最初の手術でできた傷の真下に肉芽にくげ(肉のかたまり)ができていた。良性か悪性かはわからないという。 舞台があったため、様子をみたが、徐々に大きくなる。急きょ、出演中の舞台を降板し、治療に専念することにした。 手術で肉芽を摘出した。幸い、良性だった。 ただ、さすがに手術も3度目となると、がんの怖さをひしひしと思い知らされた。しかし、負けたくはなかった。 「がんは、油断ならないしつこさがある。隠れ上手で、いつまた出てくるかわからない。よし、こっちも、恐怖につぶされず、毎日楽しく、心の弾むことを考えて生きようと決めました」>「がんは、油断ならないしつこさがある。隠れ上手で、いつまた出てくるかわからない。>よし、こっちも、恐怖につぶされず、毎日楽しく、心の弾むことを考えて生きようと>決めました」 私は、後腹膜軟部肉腫が片方しかない腎臓の後ろにできましたが、幸いセカンドオピニオンで粒子線治療に出会い、腎臓を温存した治療ができ、現在、普通の生活ができています。 「がん」になったのをきっかけに会社を辞めましたが、そのおかげで、もともとやりたいと思っていた仕事に早く就くことができました。会社勤めを続けるより幸せな道に進めたなぁと思っています。人生どこでどうなるか分からないものです。 ただし、再発のリスクは3割強かかえています。毎日楽しく生きるのはもちろんのこと、もしものときに家内や子供たちが困らないように、終活もがんばらないといけないと思っています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/07/26
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【2021年8月11日(水)】 昨日は、午前中、事務所で関係の組織の方々の打ち合わせ。午後からは外に出てお世話になる組織へのご挨拶でした。それが終わって、事務所で諸事。終日外出していました。今日は、終日在宅で、会の諸事です。 「若冲と応挙」の第33回。生涯のお話しを前回で終え、今回は、雅号の由来、肖像画、ゆかりの地についてです。◆第3章 円山応挙(続き)3-7 雅号の由来、肖像画、ゆかりの地 応挙という雅号の由来について触れておきます。 以前の回で、応挙が私淑した一人が、宋から元にかけての中国の画家である銭舜挙(せんしゅんきょ)であると書きました。応挙はその精密な描写力を高く評価し、彼を目標とし、彼に近づこうと努力を重ねたといわれています。それだけではなく、写実を追い求めた円満院祐常も銭舜挙を高く評価していたようです。パトロンとなった祐常が銭舜挙の画力に近づこうとする応挙を見て、「銭舜挙の筆意に応ぜむ」という意味で与えたのが「応挙」という雅号であったといわれています。銭舜挙は銭選とも呼ばれます。応挙は「仲選」という落款印も多く押しています。「仲選」は「銭選に伯仲せむ」という意味だといわれています。図1「雪松図屏風」の落款上の印:応挙之印 下の印:仲選 落款のことについてさらに付け加えると、応挙の作品には「応挙冩」(冩=写)の款記を記したものが多くあります。一般的には「――筆」「――画」「――之図」が使われますが、応挙の作品では圧倒的にこの「写」が書かれたものが多くなっています。「写」には「えがく」という意味もあるので、応挙は「筆」という意味で「写」を使ったとも考えられますが、いわゆる「うつす」という意味で「写」を使ったと考えたいところです。ただ、応挙の「写」は、実物をそのまま写すという意味の「写」ではなく、対象を対象らしく描くという意味の「写」であることは、今まで述べてきたことで推し量ることができます。図1に「雪松図屏風」(以前の回で紹介)の落款を示します。「応挙之印」、「仲選」の落款印と「応挙冩」の款記を見ることができます。 図2 応挙肖像画 山跡鶴礼筆 さて、若冲の肖像画については、生前時に描かれたものは存在しないことを書きました。応挙はどうでしょう。実存します。応挙の弟子の一人である山跡鶴嶺(やまあとかくれい)が晩年の応挙を描いたものです。図2に示します。生前の肖像画なので、こんな風貌だったのでしょう。まじめな人柄のように見えます。 応挙ゆかりの地は、ポイントポイントで説明してきましたが、地図を使って説明したのは、誕生・幼少期の亀岡のみでしたので、ここで現京都市中心部のゆかりの地をプロットした地図を図3に示します。図3 京都市中心部の応挙ゆかりの地(若冲生家、若冲親族菩提寺・宝蔵寺を含む)図4 円山応挙宅跡碑 四条堺町西入ル南側 その中に若冲の生家や親族の菩提寺「宝蔵寺」もプロットしました。若冲生家は錦小路高倉、応挙の自邸はその目と鼻の先にありました(1782年以降は四条堺町。図4の碑が建つ)。応挙のアトリエは浄土宗寺院大雲院にありました。大雲院は現在東山の高台寺に近い「ねねの道」沿いにありますが、当時は今の京都高島屋の場所にありました(図5の碑が残る)。昭和48年、高島屋の拡張で現在地に移転したのです。図5 大雲院跡地碑 四条寺町下ル東側(高島屋裏側) 右端は現・大雲院 東山高台寺近く 「ねねの道」沿い 若冲のアトリエの場所ははっきり分かっていませんが、生家に近い場所だったとすると、応挙と若冲は、1キロも離れていないところで絵を描いていたことになります。ただ、文献上では、応挙と若冲が会ったという記録は残っていません。以前の若冲のところで述べたように、若冲、応挙両名と交流のあった著名人の一人儒学者皆川淇園(みながわきえん)(応挙の絵の弟子でもありました)が、天明8年(1788)に応挙、呉春らとともに石峰寺の石像群を観覧しましたが、そのとき若冲は石峰寺にいなかったと、自ら著した「淇園文集」に書いています。しかし、別の機会に二人が顔を合わせ、言葉を交わした可能性は大きいと筆者は思っています。仮に会わないまでも、互いの絵を目にする機会は多かったと思います。「平安人物志」でも、常に上位を争ってきた2人ですので、互いにリスぺクトし、互いに影響を受けたものと思います。それを窺わせる作品もありますので後述します。 応挙の弟子でもあり、四条派の始祖である呉春の自邸跡が、錦小路東洞院上ル西側にあり、碑が建っています。その碑の建つ場所には、低層マンションがあり、何と「Shamaison 呉春」という名が付いています(図6)。呉春やその弟子たちの多くが四条通付近に住んだので「四条派」と呼ばれます。図6 呉春宅址 次回は、円山派、応挙の一風変わった絵などを紹介します。(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/11
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年7月23日の記事≫ 2009年夏から3カ月、東京都の女性(61)は聖路加国際病院(東京都中央区)に通院しながら、左胸の乳がんの抗がん剤治療を受けた。がんの広がり具合から左乳房は全摘することになり、乳房を再び作る「再建」をするかどうか迷っていた。 当時55歳。年齢とともに自然に下がっていく右胸と、人工乳房を入れた左胸のバランスは、年々不自然になっていくのではないか。下着を通して女性の美しさにこだわってきた下着パタンナーの仕事柄、気になった。体の中に異物を入れることにも抵抗感があった。 Dカップの乳房は経験上、片方約500~600グラムの重さがある。どちらかを摘出すれば、左右の肩のバランスが偏るのではないかと感じた。再建したほうがジムや温泉に気軽に行けるとも聞き、人工乳房による再建を決めた。 10月中旬、約2時間半の全摘手術を受けた。同時に、乳房の再建に向けて、「エキスパンダー」と呼ばれるシリコーン製の袋を入れた。この袋に生理食塩水を入れて膨らませ、約半年かけて胸の皮膚をのばした後、手術で人工乳房と入れ替える。 左胸の全摘は、「仕方がない」と覚悟していた。だが、手術から2日目、ガーゼの交換で初めて術後の左胸を見た時はショックだった。エキスパンダーを入れた分、胸に多少の膨らみはあるが、豊かだった胸は跡形もない。生々しい傷痕。乳輪も乳頭もなく、「まるでのっぺらぼうみたい」。 乳輪・乳頭は、皮膚を移植して再建する手術があるが、「これ以上、体にメスを入れたくない」と、入れ墨をする方法を選んだ。 退院後まもなく、左わきの下のリンパ節2カ所への転移がわかった。がんの病期は0~4の5段階で「ステージ3」になった。再発の不安を抱える生活が始まり、がんを告知された時よりも落ち込んだ。 その翌日、夫に誘われて箱根に紅葉狩りに出かけた。晴れ渡る空に、富士山も見えた。「60歳になったら仕事をやめて、日本全国を車で回ろう」。お互い病気のことはほとんど口にしなかった。こうして気分転換をしながら、現実と向き合っていくしかないのだと思った。乳房の再建に使う人工乳房>当時55歳。年齢とともに自然に下がっていく右胸と、>人工乳房を入れた左胸のバランスは、年々不自然になっていくのではないか。 乳がんで再建という方法があるのを、私が「がん」にかかって色々見聞きするなかで知りました。再建という方法があるのは素晴らしいことですが、こういう新たな悩みもあるということですね。 私は後腹膜悪性腫瘍で、粒子線治療を受けましたので、外見上は背中の照射部に黒ずみが残っているだけです。外見上大きな影響がある治療の場合は、このような問題を克服していくのも、医学上の課題なのですね。幅広い医学の進歩が必要ということなのですね。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2015/12/12
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2016年01月03日 京都新聞HP 京都市左京区東大路丸太町付近の熊野職員宿舎敷地で実施した発掘調査で、子どもの成長を祈る儀礼に使われた「胞衣壺(えなつぼ)」が見つかりました。 幕末に阿波蜂須賀家の藩邸があったとみられる場所で、藩邸の門の推定地近くで見つかりました。胞衣壺は母親の胎盤を入れて埋めた器で、人がまたぐと生まれた子どもの成長や出世の願いがかなうとされています。多くの人がまたぐ場所に埋めたのだろうとみられています。 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/01/03
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2017年10月25日の修学旅行ガイドで利用したお店「ゆびとま」です。その日の日記にも書いてありますが(こちら)、この部分だけピックアップして一部編集を加えて、ここに投稿します。 この日の修学旅行は、2班がいっしょに行動するという特殊な形態でした。京都駅の「サンド」で昼食をと考えていたのですが、開店時間より早い時間に京都タワーの見学を終えたので、清水寺付近に移動してから昼食ということにしました。ところが、定番の「しげもり」さんがお休み。おまけにバスでの移動に時間がかかり、集合時間に対し余裕がなくなっていました。他に探し回る時間もあまりありません。そこで、まず、いっしょに行動していた先輩ガイドさんが知っている近くのお店に電話してみました。それがこの「ゆびとま」です。営業は確認できました。もう一つのハードルは700円ランチ一品しかないということ。今日はコロッケ定食とのことで、生徒の中に嫌いという子はいなかったので、この「ゆびとま」に入ることにしました。 東山区役所北隣の2階にあるお店です。あとで調べたら食べログにも出てこないようなお店でした。外観写真もないので、グーグルマップ・ストリートビューからの写真です。「ゆびとま」 左側茶色煉瓦張りの建物階下に「ゆびとま」のメニュー黒板。2階が「ゆびとま」 食事の写真は撮りませんでしたが、偶然他の方がブログで投稿されていたコロッケ定食の写真を見つけたので、その写真です。https://blogs.yahoo.co.jp/iloyjp/22347540.html コロッケ定食は、ボリューム満点で、美味しかったです。このロケーションで700円。ただこのときは時間も押していたし、一度に多人数入ったので、全員分出るのに時間がかかって、子供たちに急いで食べてもらわないといけないのは気の毒でした。 夜はカラオケスナックになるお店ですので、内装もそんな雰囲気です。安くて、ボリュームあって、美味しいのは魅力ですが、京都らしさはありません。京都らしさに拘らず、700円ランチの内容が生徒が全員問題なければ、今回のように緊急避難的に使うのもありかなというところでしょうか。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/07/05
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【2020年9月20日(日)】 季節の変わり目は、一日の気温変化が大きいといわれます。 気象台データベースで、平年の一日最高気温と最低気温の差を調べてみました。一番気温差が大きいのは、4月から5月にかけてですね。10度から11度くらいの差です。その後6月中旬から7月中旬にかけてと、9月中旬から末にかけてに谷があります。これは多雨時期で日照が少ないためでしょうね。そして12月から1月に再び8度くらいの差に下がります。これも日照時間が短いためでしょうか。やはり春、秋に温度差が大きくなりますが、春のほうが差が大きいようです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/09/20
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【2019年11月18日(月)】 今日、明日は20日のOB会での三味線演奏に備えて練習の予定でした。しかし、21日に台湾からのお客様のガイドが入って、今日は大徳寺・廬山寺の下見に行って来ました。旅行社にコンタクトしたところ、紅葉名所と源氏物語ゆかりの地を巡るツアーとのこと。リピータの方が多く、源氏物語に詳しい台湾の大学教授が同行するとのことで、私はお寺を中心に案内して欲しいとのことです。全行程は、大徳寺高桐院・龍源院・雲林院、廬山寺、延暦寺です。 既に延暦寺は下見に行きました(こちら)。雲林院は小さなお寺で中で迷うこともないし、高桐院や廬山寺は何度も行ったことがあるので、龍源院だけ下見すればいいと思っていたのですが、紅葉の具合も知っておきたいし、色々過去から変化もあるだろうからと、結局全部下見することにしました。 まず大徳寺境外塔頭・雲林院へ。雲林院 続いて、下見ではありませんが、興臨院にお邪魔して、仲間にご挨拶。興臨院 続いて高桐院へ。この2年くらい修復して拝観ができませんでしたが、この11月から拝観が再開されました。高桐院楓の庭苔が禿げているところがありました。以前はここまで酷くなかったような気がします。やはり異常気象の影響でしょうか。細川忠興、ガラシャの墓細川家代々の墓茶室「松向軒」続いて龍源院へ龍源院バスで廬山寺へ。紅葉絶好調でした。廬山寺 本番は、11月21日です。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/11/18
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【2014年1月7日】京都三条大橋~大津京都三条大橋 10:20~大津 14:30 (12km) 歩数27,282安藤広重 京都 三条大橋三条大橋弥次喜多像高山彦郁郎像大将軍神社粟田神社車石昼食 山科駅前 はたごや徳林庵三井寺観音道道標車石追分道標髭茶屋町説明板滋賀県に入る「右一里丁 左大谷町」この辺りに大谷の一里塚があった大津算盤の始祖碑 片岡庄兵衛が慶長7年(1611)、明国から渡来した算盤を参考にして製造を始めた元祖走井餅本家碑安藤広重 大津 走井茶店蝉丸神社分社逢坂山関所跡弘法大師堂蝉丸神社上社旧逢坂山隧道 日本人が設計施工した我が国初の山岳隧道蝉丸神社下社大津本陣跡此附近露国皇太子遭難之地碑JR大津駅から帰途につきました。第1日 無事終了
2024/01/07
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2016年04月28日 京都新聞HP 幕末に「禁門の変」の舞台となった京都御苑(京都市上京区)の「蛤御門(はまぐりごもん)」の命名時期が江戸中期の元禄時代にまで遡(さかのぼ)る新説を、京都産業大日本文化研究所の特別客員研究員で市営地下鉄運転手の長谷桂さん(38)=右京区=が27日までに発表した。これまでは、宝永の大火(1708年)後説が濃厚だったが、さらに前に「蛤御門」と記述された史料が見つかり、時代はまたもや遡りそうだ。 長谷さんによると、元禄7(1694)年ごろに成立した「京都役所方覚書」の中から「六門之番人」の項目に「蛤御門番弐人」と記述されていた。同史料を翻刻した史料集「京都町触集成」(京都町触研究会編)を読み解いて見つけた。さらに宮内庁書陵部を訪ねて所蔵の「日野輝光卿記」から、宝永の大火前年の宝永4(1707)年に「祭礼通候間蛤門さし人止也」との記録を確認した。 宮内庁の史料で祭礼時に一時的に蛤御門の通行を止めていたことや江戸期の古地図に開いた門が描かれていることから、蛤御門は「開かずの門」ではないことが分かるという。他の記録から本来の開かずの門は現在の下立売御門だった可能性が高いと結論づけている。 蛤御門は本来、新在家御門といい、後の命名は大火後に、焼けて口を開けるハマグリに見立てたとされる。天明の大火(1788年)後の命名説が根強かったが、近年、湯口誠一氏の研究で「宝永の大火」まで遡ることが分かってきた。 京都・観光文化検定試験(京都検定)の1級保持者の長谷さんは地下鉄業務の傍ら、京産大日本文化研究所に参加し、休日を中心に約1年半研究してきた。新説の発表に「蛤御門の命名に『天明』と『宝永』の両説があることに疑問があった。見落としている史料は意外と他にもあるかもしれない。寛文13(1673)年の火災の影響が考えられるが、なぜ蛤の名が付いたのかは分からない。今後も研究を続けたい」と話す。 同研究所長の小林一彦教授は「命名には前から疑義があったが、時期をしっかり調べ上げた素晴らしい研究で、時代を遡ることを示した意義がある。研究は学者だけでなく、市民の方々が成果を生み出している点をみてほしい」と評価している。現在の蛤御門。当時はやや東側にあり南向きに立っていた(京都御苑)よろしかったらぽちっとお願いします。見つけ出した史料の写しを手にする長谷さん(京都市北区・京都産業大)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/04/29
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【2019年8月21日(水)】 8月11日、読売朝刊の「オリンピアン」の挑戦というコラム記事がスタートしました。過去大会に出場した選手たちの、その後と今の姿から、五輪の重圧、メダルの重みを探るという記事です。 1回目は、東京五輪、重量挙げバンタム級で銅メダルを獲得した一ノ関史郎さん(現在75歳)。開会式の翌日で「日本人メダル第1号」でした。私はそのとき小学校4年生。一ノ関選手の出る試合を見たかどうかまでは憶えていませんが、一ノ関選手のことは「日本人メダル第1号」としてよく憶えています。重量挙げという競技も、初めて知りました。シーンと静まりかえった会場の中で行われる競技が印象的でした。 私は銅メダルを喜んだものとばっかり思っていたのですが、記事によると、金メダルを期待されていたが極度の緊張で銅メダル止まりだったということのようです。次のメキシコ五輪でも腰の故障で5位に終わり、競技を退きました。秋田県職員として勤めましたが、小学生のとき書道展で入賞したことがあったことから、重量挙げに替わるもので打ち込めるのとして書道を選択します。有名な書家にも教えを受け、継続と向上に励み、60歳を過ぎ、国内有数の書道展に入選するようになりました。定年後は民生・児童委員を続け、15年前から子供向けの書道教室を開き、35人の生徒さんたちを教えているそうです。 一ノ関さんの言葉がグッときます。「100歳になったとき、自分に『人生の金メダル』を掛けてあげられるように生きたい。自分はまだまだ未熟なので、今も日々学んでいる。」よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/08/21
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【2021年5月19日(火)】 午後から外出でした。出るときに雨が降り出しました。まず歯医者。前回で右上奥歯の治療が終わり、今日はメンテだけでした。今後、左上奥歯(親知らず)の治療が始まりますが、以前、劣化が進んでいるので、抜歯と言われたのですが、今日は「何とか残しましょう。」ということになりました。その後、月イチの三味線レッスンでしたが、事務所が近くなので、少しだけ寄って用事もしました。三味線をかついで傘差しての、歯医者、レッスンは少々堪えました。 「奇想の画家 若冲と応挙」#7です。前回で近世日本画の概略史を終え、今回から、いよいよ若冲のお話です。◆第2章 伊藤若冲2-1 若冲生誕 若冲は、正徳6年(1716)京都の中心部、錦高倉青物市場の問屋「桝屋」の長男として生まれました。今でこそ、京都中央卸売市場ができ、錦市場は寺町通から高倉通まで、すべて小売店ですが、当時は問屋もあり、柳馬場通から高倉通までは問屋が並んでいました。若冲の生家「桝屋」は、その西端、錦小路高倉にありました。今の錦市場から想像して若冲は「町の八百屋に生まれた。」と思っておられる方も多いのではないでしょうか。そうではなく問屋に生まれたのです。このことが若冲の絵を理解するうえで重要なポイントの一つです。あとで詳しく述べます。 若冲生家と伊藤家菩提寺「宝蔵寺」の位置 若冲肖像画 久保田米僊筆 佐藤康宏著「もっと知りたい伊藤若冲」から 上図に若冲の肖像画を示していますが、これは明治時代の京都画壇の日本画家 久保田米僊が「若冲ハ十回忌」の際に、古老達に若冲の容貌を聞き取って描いたものです。若冲の自画像や生きている時代に描かれた肖像画は残っていません。 さて、若冲の生家は「錦小路高倉」にあったと断定的に書きました。実際にその場所に行ってみると、「伊藤若冲生家跡」という看板が立っています。京都大丸の東側を北上して、錦商店街の西側の入り口の南東角です。若冲生家跡(錦小路高倉南東角) 何故、断定できるかというと、若冲の生家が所在した京都錦小路高倉の中魚屋町では,江戸時代から町の共有文書「町中沽券状之写(ちょうちゅうこけんじょうのうつし)」が保存されていて、そこに枡屋源左衛門(代々の主人をこう呼んだ)の家屋敷の記録も残されているからです。 「錦街通中魚屋町南側」とあり、東には伊勢屋何某の店、西に高倉通とあるので、この場所が特定されたということでしょう。今この場所は、「錦そや」というお豆腐屋さんになっています。「町中沽券状之写」寛政19年(1793) 京都市歴史資料館蔵 下図に伊藤家の家系図を示します。若冲は三代目枡屋源左衛門である父・伊藤宗清(そうせい)、母・清寿(せいじゅ)の間に長男として生まれました。若冲の次弟が宗厳(そうごん)、その下の弟が宗寂(そうじゃく)です。さらに梅會(ばいえ)という妹と亀之助という弟がいましたが、この二人は早く亡くなっています。ですので、宗寂が実質的な末弟ということになります。宗清、清寿、宗厳、宗寂とも伊藤家の菩提寺宝蔵寺(場所は上に掲載済みの地図参照)の過去帳に書かれている法名であり、俗名は不詳です。 あとで述べますが、父・宗清が42歳で亡くなり、若冲は23歳で四代目として枡屋源左衛門を継いでいます。さらに若冲40歳のときに、家督を次弟・宗厳に譲り、宗厳が五代目として枡屋源左衛門を継いでいます。 宗厳のところに「白歳(はくさい)」と書いてあるのは、絵を描くうえでの雅号です。宗厳は兄・若冲から絵の手ほどきを受け、絵も嗜みました。宝蔵寺には、墨絵ですが、宗厳(白歳)筆の絵も残っています。家が青物問屋なので、野菜の白菜から「白歳」という雅号にしたという説もあります。 末弟・宗寂は若冲50歳のときに亡くなっています。宗寂には妻がおり、宗寂が亡くなった後、仏門に入り、心寂と名乗りました。若冲が晩年深草の石峰寺近くに住まいしたとき、この心寂とその連れ子といっしょに暮らしたと云われています。 伊藤家 家系図●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/18
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2016年7月9日 京都新聞ホームページから 京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)での発掘調査で、室町時代に足利義満が北山殿に建立した七重塔「北山大塔」の頂部分を飾る「相輪」とみられる破片が見つかったと8日、京都市埋蔵文化財研究所が発表した。文献には登場するが、詳細は分からず、“幻の塔”と言われた実像に迫る成果で、東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)からも新たな記述が見つかり、文献上でも裏付けられた。国内で最も高かった相国寺(上京区)の七重塔(約109メートル)のような巨大な塔が北山文化を彩っていた可能性が濃厚になった。 見つかった破片は幅37・4センチ、高さ24・6センチ、厚さ1・5センチ。塔の頂点を飾る九輪の一つで、復元すると直径2・4メートルもある巨大な輪だと推定できた。材質は青銅で、表面には金めっきを施してあり、きらびやかな金銅製だった。 義満の命で相国寺の七重塔が1399年に完成し、1403年に焼失。その翌年に現在の金閣寺にあたる北山殿で七重塔の「立柱の儀」(起工式)が行われたが、義満の死後、1416年の落雷で焼失したとの記録が残る。今回の発掘成果を受けて研究者が調査した東寺百合文書からは、起工式の半年前にさかのぼる記録も見つかった。具体的な起工準備の状況が記され、発掘と文献との両面から塔が実存した可能性が高まった。 破片は金閣寺第1駐車場西側で発見されたが、塔がどこに建っていたのかはまだ確認できていない。市埋文研は「相輪の規模から推測すると日本最大の相国寺の塔に匹敵すると考えられ、義満の権力の大きさを示す」とみている。■貴重な手がかり得た 冨島義幸京都大准教授(日本建築史) 北山大塔の破片と断定するにはさらなる調査・研究が必要だ。相輪からは塔の高さは分からず、相国寺の塔と同規模かは不明だが、幻の大塔に迫る貴重な手掛かりを得た成果であり、評価できる。今後、さらなる建築部材や大塔の基壇が発見されることに期待したい。■史料として保存 有馬頼底鹿苑寺住職 出土した相輪の一部は貴重な史料であろうと思われる。創建当時の史料として保存しておきたい。金閣寺の発掘調査で見つかった金銅製の相輪の破片(京都市上京区・市考古資料館)北山大塔の前身となった相国寺の七重塔の復元CG(復元考証・冨島義幸、CG作成・竹川浩平)。北山殿にも巨大な塔があったと考えられるよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/07/10
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【2017年4月5日(金)】 さきほど、ご近所散歩から帰ってきました。家を出たところで、テレビによく出演されている歴史学者の磯田道史さんをお見かけしました。磯田道史さんhttp://n-jinny.com/10942.html 磯田さんは、2016年から私が住む京都桂坂にある「国際日本文化研究センター」の准教授になられたので、いつかお見かけすることもあるかもと思ってはいました。でもタクシーとかで来られるから、やっぱり無理かなとも。国際日本文化研究センターhttp://www.zai-nichibun.jp/info.html ちょうど我が家の最寄りバス停が、国際日本文化研究センター最寄りのバス停でもあり、バスから降りて来られたところでした。タクシーではなくバスでした。そして、背広姿ではなく、町歩きのラフな服装でした。 「いつも拝見させていただいています。観光ガイドの参考にさせていただいています。」などと、声をかけようかなとも思いましたが、お急ぎのようでもあったので、自重しました。 新聞記事で読んだと思いますが、子供のころから古文書に親しみ、ネイティブのように読むことができるとか。そして、歴史学者になるべくしてなったというお名前「道史」ですね。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/05
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【2017年4月22日(土)】 京都検定1級合格者の特典として、京都産業大学日本文化研究所の特別客員研究員への就任資格が得られるというのがあります。 今日その募集説明会が京都産業大学であったので、行ってきました。 京都産業大学は、洛北の少し不便なところにあろます。家内は今日は一日家にいるというので、車で行くことに。多分構内には駐車できないだろうから、最初は近くのコインパークに停めて、直接歩いて行くか、上賀茂神社から出るシャトルバスに乗って行こうと考えていました。しかし、駐車料金ももったいないので、ダメモトで係の人に電話をして車を駐車できるところがあるかと聞いてみました。「基本だめなんですが、保安所で言っていただいて、許可証を書いていただくかたちでいけるかも知れません。」とのこと。それで直接大学に行ってみることに。保安所での会話。「客員研究員の募集説明会で来ました。」「このような目的での、構内駐車はダメです。」「係の人に電話で聞いたら、保安で申請してもらったらいけると言っておられたんですが。」と、ちょっぴり嘘をついてゴリ押し。「困りましたね。仕方ないです。申請書を書いてください。」 何とか構内に停めることができました。何事もまずはダメ元でトライですね。 さて、この特別客員研究員ですが、自分でテーマを設定して、自分で研究をします。研究期間は1年間です。ただし、それを過ぎても上席特別客員研究員として残って研究を続けることも可能です。我がガイド会の先輩も、複数人上席特別客員研究員の方がいらっしゃいます。京都産業大学の図書館を利用したり、同大学の先生のアドバイスを受けることができます。1年後に研究発表が義務付けられています。 募集人員はアドバイスをいただく先生方のキャパの問題もあるため、若干名となっています。去年は1級合格者が少なく、応募すれば採用されたようですが、今年は合格率が約10%でしたので、応募する方は去年に比べて多いと思われ、応募書類で選考されることになるのでしょう。 授業を受ける訳ではないので、授業料は要りませんが、研究費用(たとえば書物を買う費用とか取材のための交通費)は自己負担です。 この特別客員研究員は1級に合格したら、是非チャレンジしたいと思っていました。しかし、現状はガイドの仕事を始めたばかりでアップアップの状態です。果たして時間的にやっていけるのかという不安があります。1級合格していれば、この応募は来年でも再来年でもいいので、先延ばしも可能です。しかし、苦労して合格した1級です。やはり即チャレンジずべきと思い、今年応募することに決めています。履歴書と研究計画書をGW明けの5月8日に提出する必要があります。 今日は、10時からその説明会があり、その後は、昨年度の特別客員研究員の方の成果発表でした。その内容は下記です。この中で、「発表1」の方は、我がガイド会の同期の方です。また、「発表4」の長谷さんは、2年連続で研究をされている方で、去年の発表では「蛤御門」の命名時期についての新発見が新聞記事にもなりました(こちら)。今年も新聞社の方が取材に来ておられました。説明会・成果発表会のプログラム 研究テーマは一応頭の中では考えてあるのですが、研究計画書は深い推敲が必要です。期限の5月8日まで2週間ありますが、ガイド関係で8日間、私用で4日間埋まっており、実質3日間しかなく、ますます目が回りそうです。ブログもしばらくお休みにせざるを得ないかもしれません。京都産業大学構内 今や名実ともに立派な大学になりました。説明会・発表会のあった図書館棟 駅の改札口のような立派なセキュリティーゲートがありました。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/22
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【2021年8月9日(月・祝)】 今日は在宅。会の諸事なかなか思うようにはかどらず気持ちが落ち着きません。お天気も台風接近で朝から雨で、朝の散歩は無しです。気温は高くないようですが、蒸し蒸ししています。 「若冲と応挙」第32回。応挙の晩期の続きです。◆第3章 円山応挙(続き)3-6 晩期(続き) 図1 悟真寺 応挙は大乗寺の「松に孔雀図」を描いた3ヶ月後、寛政7年(1795)7月17日、63歳で亡くなります。応挙は菩提寺である浄土宗の寺院・悟真寺に葬られました。悟真寺は元々は四条大宮(大宮東映のあった場所)に在りましたが、1951年に太秦の現在地に移転しました(図1)。応挙の墓は悟真寺の墓地に子孫の墓とともに建っています(図2)。墓地の向こう側に見える建物は東映太秦映画村です。 図2 応挙とその子孫の墓@悟真寺(左から応誠、応震、応挙、応瑞、応立) 右の写真は応挙の墓の拡大 墓碑は妙法院真仁法親王揮毫 中央が応挙の墓で、墓碑は応挙のパトロンの一人であった妙法院宮真仁(まさひと)法親王(光格天皇の兄)揮毫です。応挙の墓の向かって右が円山派2代応瑞、応挙の向かって左が3代応震、一番右が4代応立(おうりゅう)、一番左が5代応誠です。 図3 円山応挙家系図(再掲) もう一度、応挙の家系図を図3に示します。応挙の次男・応受も画家になりましたが、母方の祖父木下萱斎の養子となって木下家をついだので、木下応受とも名乗っていました。養子として出たため、ここには応受の墓がないわけです。2代応瑞は子に恵まれなかったのか、応受の子の応震が応瑞の養子になって円山派3代を継いでいます。しかし、この応震も子がなく、友禅工寺井久次郎の子が養子に入って応立として4代を継ぎます。5代は応誠ですが、4代応立との血縁的な関係を調べましたが、よく分かりませんでした。そしてこの5代応誠のあとは、円山家による円山派は続かなったようで、3代応震の妹(国井家に嫁いだ)の子が国井(円山)応文として、円山派一門の後継者となり(応誠同様5代を名乗った)、その子国井(円山)応陽(6代)に引き継がれました。家系図には書かれていませんが、応陽の子・国井(円山)応祥が7代として継ぎ、現在は応祥の縁戚にあたる駒池(円山)慶祥氏(本名駒池慶子)が8代として活躍されています。近年、悟真寺の天井画や襖絵を、慶祥氏の弟子(恐らくご子息)円山真祥氏(本名駒池真)といっしょに描いています。 図4「応挙誕生地」碑 図5「応挙誕生地」碑 @太秦・悟真寺 @亀岡・穴太寺近く (「もっと知りたい円山応挙」から) さて、この悟真寺で「応挙誕生地」と書いた大きな石碑を見つけました(図4)。そのときは、新しく建てられたもののように見えました。応挙は亀岡で生まれたので奇異ですが、京都府生まれという意味では合っているので、悟真寺なりの解釈によるものなのだろうと、そのときは理解しました。その後、亀岡の穴太寺近くの「応挙誕生地」の碑を訪ねたときに、以前の回で述べたように、近年どここかに移築されて無くなってしまったことを知りました。そのときは気付かなかったのですが、あとでひょっとしてと思って、美術書に掲載された亀岡の碑(図5・再掲)と悟真寺の碑(図4)を比べると全く同じ形、全く同じ字形であるのが分かりました。亀岡の碑が移築された先は、太秦の悟真寺だったのです。悟真寺の碑の近くには何も説明書きがなく、これを見た亀岡市民は「応挙は悟真寺近くで生まれたと誤解するじゃないか」とクレームをつけるのではないかと心配しています(続きます)●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/09
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【2017年8月29日(火)】 最近観た映画、「序の舞」。テレビの録画からです。題名:序の舞製作・配給:東映公開年:1984年上映時間:145分監督: 中島貞夫原作: 宮尾登美子音楽: 黛敏郎【主な配役】(役の重要度は無視して、私の知っている人を挙げています)島村津也: 名取裕子島村勢以: 岡田茉莉子高木松溪: 佐藤慶西内太鳳: 風間杜夫島村志満: 水沢アキ村上徳二: 三田村邦彦勢以の少女時代: 小林綾子商家の女子衆: 山村紅葉川上音二郎: なぎらけんいち島村甚八: 大坂志郎喜代次: 三田佳子島村麻: 菅井きんちきりやの内儀: 高峰三枝子ナレーション: 市原悦子【あらすじ】ネット情報に譲ります。 【コメント】 主人公のモデルになったのは、日本画家の上村松園。明治時代の女性の画家で、京都下京に生まれ育ち、女性の目を通して「美人画」を描きました。1948年(昭和23年)女性として初めて文化勲章を受章しました。 下の作品が小説・映画の題名にもなった「序の舞」。 子の上村松篁、孫の上村淳之も日本画家です。ちょうど読売新聞の京都版で上村淳之氏が松園や松篁の思い出を交えながらの連載を寄稿されています。そこに「『序の舞』の中で祖母の生涯がかなり脚色されていて不満だった。」というようなことを書いておられたと記憶しています。それが、原作の小説だったのか、映画だったかのかは、記憶にないし、私は原作を読んでないので、どちらのことを言っておられたのかは分かりませんが。 松園は未婚の母というのは事実で、その父は師事した四条派の鈴木松年ではないかと言われているようで、それだけでも波乱万丈ですが、映画のあらすじや描写はさらに強烈に脚色されているのではないかとの印象を受けました。母が遺した本に「序の舞」があったと思うので、読んでみたいなと思っています。 今日はガイド4連続OFF日の3日目です。9月1日の二条城ガイドの準備ができるのは、実質今日と明日のみ。昨日、二の丸御殿までは最低限準備を終わりたいと書きましたが、大政奉還のプロセスを色々調べるうちに時間が経ち、結局、二の丸御殿の大広間までしか終わりませんでした。今日何とか、二の丸御殿の残りと、本丸御殿エリアを終わりたいと思います。 午後から、高槻の義父・義母が車で来てくれました。長女のベビーに初対面です。初曾孫です。こうやって、車を運転して来てもらえるような元気な状態で曾孫に面会してもらえるなんて幸せなことです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/29
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2016年03月15日 京都新聞 京都駅南側の八条口タクシー乗り場(京都市南区)で、タクシーが約2・4キロ離れた待機場から乗り場へと駆け付ける「ショットガン方式」の運用が15日、始まった。客待ちの車であふれ、駅周辺が渋滞する原因となっていたため、市が仕組みを整備した。市によると、この方式の運用は、福井市、東京・築地市場、千葉市に次いで全国4例目という。 タクシー乗り場は南北自由通路東側に66台分のスペースがあったが、入りきれないタクシーが八条通に路上停車していた。市は昨年11月、乗り場を約120メートル西側に全面移設して51台分を確保すると同時に、京都高速道路鴨川西ランプ近くの南区東九条柳下町に60台分の待機場を設置した。 この日からはICタグを付けた事前登録車しか乗り場に入れなくなった。4月1日からは1回20円(深夜を除く)の使用料をタクシーから徴収する方針。乗り場のタクシーが1台出ると待機場のゲートが自動で開く仕組み。 この日、待機場にいたタクシーは、ゲートが開くと約15分かけて乗り場に移動し、客を乗せた。市によると、乗り場入り口のゲートが開かないトラブルも数件あったが、大きな混乱はなくスムーズに運用できたという。個人タクシー運転手山藤研二さん(69)=下京区=は「待機スペースでない所での違法な客待ちが横行していたが、これで安心できる。お客様にとっても使いやすい」と歓迎した。 しかし、懸念もある。使用料が運転手の自己負担となるタクシー会社もあり、待機場に向かう手間も考えると、4月の有料化後は運転手が敬遠し、利用台数が少なくなる恐れもある。また、駅近くの商業施設前のタクシー乗り場(4台分)は「ショットガン」の対象外で、タクシーが連なり渋滞を招く恐れもあるという。この乗り場で客待ちしていた男性運転手(68)は「1回20円の利用料を払ってお客さんがワンメーターの乗車なら、もうけはわずか」と漏らす。 市歩くまち京都推進室は「使用料は市の維持管理費を賄うために必要。業界と連携し、違法な客待ちが増えないよう指導を徹底したい」としている。「ショットガン方式」が導入され、待機場から移動して乗り場に入るタクシー(15日午後2時ごろ、京都市南区・京都駅八条口)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定1級過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/03/16
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読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。 記事が2007年と古いので、現在は状況が大きく変化している場合もありますので、ご容赦ください。≪2007年5月6日の記事≫ 昨年2月、72歳の母まさ子さんを、膵臓(すいぞう)がんで看取(みと)った。がんとわかって半年の闘病だったが、告知はしなかった。 「母の体を思い、心を思い、ほんとうの病名を家族で隠し通しました。トランプの神経衰弱みたいな気持ちで、家族で必死で演じて。告知をしないことが、良かったのかどうか、今でもわかりません」 秋吉さんは19歳の時、映画「赤ちょうちん」で注目され、女優として一線を走り続けてきた。父の死後、母は福島県で一人暮らしをしていた。 「とにかく元気な人で、風邪で寝込んだ記憶もないほど。庭の手入れが好きで、ドクダミ化粧水や梅酢とか自分で作って、健康が趣味という感じ。東京で一緒に暮らそうと言っても、腰を上げようとしませんでした」 一昨年8月、里帰りしていた妹が、風呂上がりの母の顔が黄色いことに気づいた。主治医にかかると、膵臓がんの疑いを指摘された。 「妹は母に、がんの疑いには触れず、『大きい病院で検査した方がいい』とだけ伝えました。結果がどうなるにしても、私はとにかく感情を抑えよう、冷静になろうと思いました」 >告知をしないことが、良かったのかどうか、今でもわかりません。 膵臓がんは、死亡率が高いがんです。告知しないというのも一つかもしれません。余命少ないと知ることによって、一分一秒をより大切に過ごすよう気持ちを切り替えて、悔いなく過ごすことを、もしその人ができるようであれば、告知したほうがいいかもしれません。 それに医療もさらに発達して選択肢が増えています。自分自身で治療法などを悔いの残らないように考えるという視点からも、告知したほうがいいのではないかと思います。 ただ、絶対にいいかどうかはケースバイケースのような気がします。私は真実を知りたいほうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/06/04
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【2017年12月6日(水)】 大徳寺塔頭興臨院でのガイド第15日でした。 12月に入っての平日ですが、お天気が良かったこともあり、多くのお客様にお越しいただきました。●興臨院案内#14 興臨院#9 茶室 方丈の東北には茶室「涵虚亭(かんきょてい) 」があります。「大徳寺の茶面」と呼ばれてように、茶道との関係が深い大徳寺ですが、実際にお茶室はたくさんあって、全部で47ものお茶室があります。塔頭寺院は22ですから、1つの塔頭寺院で複数持っているところも多いということです。 「涵虚亭」という名は、11世紀頃の中国宋代時代の政治家で詩人であった蘇東坡(そとうば)が書いた漢詩から付けられたもの。蘇東坡の本名は蘇軾(そしょく)ですが、号の東坡居士から蘇東坡と呼ばれることが多いです。唐宋八大家のひとりに数えられ、父の蘇洵、弟の蘇轍とともに三蘇とも称されます。その作である「赤壁賦」は傑作として有名です。 この茶室の命名の由来になった詩「涵虚亭」は次のような詩です。 水軒花榭両争妍 すいけんかしゃふたつながらけんをあらそう 秋月春風各自偏 秋月春風おのおのみずから偏す 惟有比亭無一物 ただこのていあって一物なし 坐観萬景得天全 ざしてみるばんけいの天全をうるを 意味は、 水軒と花樹と、いずれも美を争っている。 従って秋月と春風は各々自ら偏っている。 軒は水の傍にあり、榭(うてな)は花の上にある。 見るところのものは、水の景であり、また花の景である。 故に秋月と春風とにあって、偏っているわけである。 もし虚(きょ)を涵(ひた)せば、すなわち一物をつけないのであるから、 天全の景でなくて何であろうか。 虚を涵すという名を帯びた此の涵虚亭、 見ると所ただ一の亭があるのみで、他に一物もない。 座して萬景の天全を得るを観るのである。 この詩は蘇東坡が41歳の時、洋州(現在の陝西省(せんせいしょう)洋県)の文同という友人の詩に応えて作った「和文與可洋川園池三十首」の中の一首で、その地方の園や池を詠じたもの。涵虚亭、「虚(うつろであることに)に満たされている」という名の庵を題材に、「もし花園の中や水辺に建てられていたなら、他に気をとられてしまうが、何もないところにあるので、偏らず全ての風情を得られる」と賞賛しています。 さて、このお茶室は山口玄洞という篤志家によって、昭和3年に寄進されたものです。山口玄洞氏は、広島県尾道市出身で、大阪で洋反物のブローカーを開始、合資会社山口綿花商店を創設、屈指の綿花商となりました。また三十四銀行、共同火災海上保険、尼崎紡績等の重役、貴族院議員も務めました。茶道を趣味とし、表千家の後援者としても知られます。 山口玄洞氏は、資産の多くを寄付に使いました。その一環として、この涵虚亭も寄進されたわけですが、日本全国の100棟に近い堂塔を各地の名刹に寄進しています。京都およびその周辺では、醍醐寺の大講堂、神護寺の金堂、延暦寺の阿弥陀堂などがそうです。京都がお世話になった方の一人です。 お茶室の南面に正方形に近い潜り戸がありますが、これは「躙口 (にじりぐち)」です。千利休が考案したものといわれ、誰もが頭を下げて入らねければならず、一旦自分の立場を捨てて茶室の中では対等な人間関係を持つ、そんな意味があるとされます。 そうはいっても身分の高い方にそこまでしていただくのはということで、立ったまま入れるようにしたのが、西面の障子の入った貴人口(きにんぐち)です。古田織部が考案したものといわれ、このお茶室は他の造りも含め、織部好みのお茶室になっています。 茶室の前に紐が十文字に結んである小石が置いてありますが、これは関守石(せきもりいし)といい、「これより中に入ることは遠慮されたし」の意味があります。これから先、客の出入りを遠慮してもらうための印として関守の役をもたせたためにこの名があります。 次にお茶室の中ですが、入ってすぐが流しの備えられた四畳半の水屋です。奥が茶席になっており、四畳+隅板の茶室と入ってすぐ左の台目畳の手前座からなります。台目畳は4分の3畳の畳のことです(一畳の畳は丸畳)。作りとしては、「四畳台目隅板付き」となります。点前座の前に炉が切られていますので、出炉の形式で、点前座が床の間と離れたところにあるので、下座床になります。 隅板は4分の1畳で、ここにはお茶を運ぶなど亭主を補佐する半東と呼ばれる人が座り、給仕口を使って出入りします。隅板を入れることで、茶室内の動きがスムーズになり、使い勝手がよくなっています。その隅板の位置に袖壁があり、床の間が部分的に隠されています。こういう床の間を「洞床(ほらどこ)」といいます。 天井は貴人畳(床の間の前の畳。主客が座る)の上の平天井、連子窓の上の駆け込み天井(化粧屋根裏天井)、そして亭主の上の落ち天井と3つに分かれています。高さ角度が異なると同時に、使っている材料や作りも三者三様です。また躙口上の障子には外の連子窓の影が写って風情があります。 お茶の心は「和敬静寂」といわれます。千利休の茶道の精神・境地を表した言葉で、主人と客が互いの心を和らげてつつしみ敬い、茶室の品々や雰囲気を清浄な状態に保つという意味です。 また、禅の心と茶の心は一致するといわれ、茶禅一味といいますが、大徳寺全体としては、特に茶の湯そのものを大切にしています。そして、28日が千利休の月命日ですので、大徳寺のいくつかの塔頭寺院では、28日に月例のお茶会「月釜」が行われます。興臨院でも「月釜」が行われます。この涵虚亭ではなく、庫裏の広間で行われますが、興臨院は事前申し込みがなくても参加可能なようなので、そういう機会に来ていただくのもよいかと思います。 お寺で販売している大徳寺全体のガイドブックを買いました。全塔頭寺院がそこそこ詳しく書かれています。 興臨院のガイド終了後、京都産業大学の月例研究会参加のため京都産業大学に向かいました(こちら)。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/06
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【2020年0月22日(金)】 先日、一日の最高気温、最低気温差の季節変化について投稿しました。→こちら では、1週間の中での気温の変化はどうなのでしょう。気象庁のデータベースで、過去1週間の平均気温の3σ(標準偏差×3)のここ10年間の平均をプロットしてみました。要するに1週間のうちで、どれくらい気温が上がったり、下がったりするかです。 明確な傾向が分かります。3月から4月にかけて最も大きくなり、真夏の8月に最も小さくなっています。一日の最高気温、最低気温差では、4月から5月がピークでしたが、これとは少しズレるようです。また、一日の最高気温、最低気温差では、8月と10月に小さな山がありましたが、こちらのほうではそういう傾向は見られず滑らかです。あとこの10年間だけのたまたまの傾向かもしれませんが、3月末に谷間があります。桜の開花の時期です。気温が少し安定するので、この頃に一斉に咲き始めるということなのかもしれません。 1週間内の変化、1日内の変化両方を考慮すると、4月が最も気温の変化が大きいといえるでしょう。そういえば、私が風邪をひきやすいのもこの時期です。 「三寒四温」はこの気温変化が大きい春の気候のことをいうのかと思ったら、冬季に寒い日が3日ほど続くと、そのあと4日ほど少し温暖な日が続き、また寒くなるというように7日周期で寒暖が繰り返される現象のことをいうようです。誤解していました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/09/22
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【2020年7月4日(土)】 今日は、もともとフリー日で、三重へのお墓参りに行った後、名古屋に立ち寄る予定でした。しかし、悪天候と他の理由で、1週間延期することにしたので、フリー日に逆戻りしました。 7月2日の読売新聞夕刊に、他愛もない記事ですが「えっ!!」と思った記事がありましたので紹介です。 「今年の6月は統計開始以来最も暑かった」との記事です。「えっ!!」と思いました。暑いと感じたことがなかったからです。確かに私の住む京都の平均気温をみてみると、平均気温は平年23.0℃に対し、今年は24.7度、最高気温は平年27.8℃に対し、今年は29.4℃。いずれも平年に対し1.5度以上高くなっています。 しかし、暑かったという感覚がなく、むしろ涼しかったと感じていたくらいです。でも、そりゃそうですよね。今年6月は長時間外出したのは、10日間だけ。しかも、うち7日間は、ほとんどの時間を室内あるいは車の中で過ごしています。屋外に長時間身を曝したのは、3日間です。それに対して、去年の6月は長時間外出は22日で、うち21日がガイドやゴルフラウンドなど、暑い環境への外出。身体への感じ方が全然違ったわけですから。 今年は、例えこれから暑い夏が続いても、「いつもの夏より涼しいな。」と感じて終わるのでしょう。せめて「寒いな」と肌で感じることのできる冬であって欲しいものです。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/07/04
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2016年6月1日撮影の「タイリンキンシバイ(大輪金糸梅)」@ご近所散歩 です。 オトギリソウ科オトギリソウ属 。原産地は中国。江戸時代に中国から渡来したと考えられている外来種です。花期は6~8月。花が大きいキンシバイ(金糸梅)でタイリンキンシバイ(大輪金糸梅)。キンシバイ(金糸梅)は、多くの雄しべを金の糸のにたとえ、花の形が梅のようであることから名付けられたようです。 タイリンキンシバイは、しばしばその学名から「ヒペリクム・ヒドコート」と呼ばれています。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=34
2016/07/16
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【2017年4月21日(金)】 4月17日にBS日テレ「ぶらぶら美術・博物館」による放送内容(2月17日オンエア)を紹介させていただきました(こちら)。そこにも紹介しましたが、もう一つ八木邸の取材がありました。 中村芝翫(しかん)さんが案内役を務めるBS朝日「京都ぶらり歴史探訪」です。放映は2月7日でしたが、取材はいつあったかは定かではありません。放映があってから、私が勤務のとき、若主人の八木勢一郎さんに、いつ取材があったかお尋ねしたところ、「ぶらぶら・・・」の取材の少し前だったとのことでした。1月に入って、私がここのガイドを始めてすぐくらいだったのかもしれません。 ナレーションやお話された内容の要約を映像クリップとともに紹介します。番組ロゴタイトルは「時代に翻弄された新選組と女たち」 前半が新選組・幕末史の関係で、浪士組が江戸からやってくるところから、時を追って話が進みます。 まず、江戸から浪士隊が入洛したときに渡ったであろう三条大橋が紹介され、次に京都守護職・松平容保が近藤勇らに謁見した金戒光明寺、そして芹沢鴨最後の宴会場となった島原・角屋が紹介されます。そして、その宴会のあった夜芹沢鴨が暗殺された場所、八木邸へと繋がります。 「芹沢鴨暗殺の現場」 中村芝翫さんと京都市歴史資料館長の井上満郎さんが八木邸を訪ねます。 地図とともに八木邸が紹介される。 応対するのは、「ぶらぶら・・・」同様、次期(第16代)当主・八木勢一郎さん。 近藤らが庭から部屋に上がり込んで、主屋の部屋で寝ていた芹沢鴨らに斬りつける。どこから上がり込んだかは諸説ありますが、ここで勢一郎氏は「庭から」と明言。我々のガイド内容とも合致しています。一太刀浴びながらも、庭の方向に出て、縁側伝いに隣の部屋に逃げ込んだと勢一郎氏自ら説明。 隣の部屋に逃げ込んだ芹沢は暗がりの中、置いてあった文机に蹴躓いて転んだところを止めの一撃を受けて絶命した(文机の映像もあり)。刀傷は、追手が刀を振り上げたときに付いたもの。我々の説明では、「芹沢が付けたのか、追手が付けたのかまでは分からないが・・・」と説明していますが。 ひいひいお婆さんがお嫁に来たときは、血しぶきが天井に残っていたが、痛みがひどかったので取り替えた。これは「ぶらぶら・・・」では紹介されなかった。 「ぶらぶら・・・」では紹介されなかった仏壇と位牌も紹介。この位牌には「お栄」さんがないのは、お栄さんはこの日に殺されていないという説に基づいているのかもしれない。中村芝翫さんと井上満郎さんは、関東でも放映されることを意識してか、「芹沢は、お酒をたくさん飲んでは、乱暴狼藉を働いたが、それは大変な役目で、ストレスが多く飲んで忘れるしかなかったからではないか。」と弁護。 八木家が50年前から営んでいるお菓子屋「鶴屋鶴寿庵」。この場所には、昔は離れがあり、近藤勇たちがこちらのほうに寝泊まりしていた。 「ぶらぶら・・・」では「屯所餅」の紹介だったが、ここでは「鶯宿(おうしゅく)」が紹介され、梅を呼んだ土方歳三の歌も紹介されました。 この八木邸の部分、放映時間は約7分間で、「ぶらぶら・・・」より少し長めでした。 今日は、OFF日。昨日の修学旅行の投稿に時間がかかってしまいました。あとは担当する修学旅行の学校の使っている歴史の教科書を調べて、ネットで購入手続きをしたのと、散歩に行ったくらいです。家内はテニスの応援でした。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/21
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年11月21日の記事≫ 肺カルチノイドは肺がんの一種だ。患者数は少なく、新たに診断される肺がん患者全体の1%未満と推定されている。 ただ、一般的な肺がんに比べて悪性度は低いとされ、病気の進行も比較的ゆっくりしている。早期に発見し、手術で切除すれば、治るケースが多い。 国立がん研究センターによると、受診患者の平均は50代だが、30代で発症する人もいる。男女差はほとんどないとみられる。喫煙歴との関連は、他の種類の肺がんに比べて低いとされている。 肺カルチノイドには、悪性度が低い「定型」と、高めの「非定型」がある。約8割の患者が「定型」という。 初期の場合は、自覚症状がないことも珍しくない。健康診断などで胸部のX線検査を受けた際に、丸くて濃い影が見つかり、治療のきっかけになるケースが多い。 病気が進行すると、せきやたんが増える。肺の中枢に腫瘍(しゅよう)ができた場合、肺葉がつぶれる「無気肺(むきはい)」になったり、腫瘍から出血して血痰(けったん)が出たりすることがある。このほか、顔面の紅潮や下痢などの症状がみられるケースもある。 肺カルチノイドと通常の肺がんとを判別するには、組織を採って調べることが必要だ。また、肺の腫瘍を切除する手術を受けた人が、手術後の病理検査で肺カルチノイドと判明するケースも多い。 肺カルチノイドの治療は、手術で腫瘍を取り除くのが基本だが、ほかの臓器への転移がある場合は抗がん剤による治療が行われる。 連載で紹介した金子哲雄さんの場合は末期で、肺の腫瘍の直径が約9センチと大きく、骨にも転移していた。このため、手術で取り除くことができず、腫瘍を縮小させようと、周囲の血管をふさぐ治療法を選択した。 欧州で行われた調査によると、肺カルチノイドの腫瘍を切除した患者の5年生存率は、早期の1期では約90%、2期で75~85%、進行した3期で約50%という。 国立がん研究センター中央病院(東京都中央区)の大江裕一郎(おおえゆういちろう)副院長(呼吸器内科)は「他の肺がんと同様に、手術が可能な早い段階で発見することが大切だ」と話している。肺がんの種類/「肺カルチノイド」の特徴 もう一度、このシリーズの1回目を読みなおしてみました。>むせかえるような激しいせきが、止まらなくなった。>体調の異変を感じたのは2011年。40歳のころだった。 多分、今回の記事に書いてあるように、こうなる前に、せきやたんが出やすいとうのはあったのでしょうね。でも、こういうお仕事をされていると、強制的な健康診断もないし、休みがあってないようなもので、なかなか病院にも行かなくて、発見が遅れるということが多いのだと思います。 能人が「がん」に罹る確率が高い(私はそう感じています)のは、そういった理由もあるのではないでしょうか。あとは、喫煙、たばこ、不規則な生活、ストレス、ぜいたくな食生活などなど、色んな要素があるのではないでしょうか。 私はサラリーマンを退職したので、これからは強制的な無料の健康診断はありません。家内は専業主婦でしたから強制的な健康診断がなく、健康保険組合から家族用の有料の健康診断案内が来ていましたが、過去一度しか受けたことがありません。どうしても、面倒と感じてしまうようです。これからは夫婦ともども、お金を払ってでも、毎年健康診断は受けなければいけないと思っています。それから体調異変を感じたら、早めに診察を受けることですね。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/03/12
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【2020年9月14日(月)】 今日から、急に涼しくなりました。 それにしても、この8月は暑かったですね。京都の過去の8月の日最高気温の月平均値を、気象台データベースで調べてみました。 今年の8月は、過去最高の36.2度でした。次に高かったのが、1994年の35.7度。0.5度も高かったようです。去年は34.3度ですから、去年に比べたら2度近く高かったことになります。歳をとったせいもあるかもしれませんが、今年はコロナ禍で外出は少なかったはずなのに、身体の疲れがひどかったです。やはり暑さのせいでしょうか? グラフを見てもう一つ分かるのは、年々最高気温が上がっていることです。やはり地球温暖化のでいでしょうか?よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/09/14
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【2019年10月3日(木)】 昨今の新聞を賑わしている関西電力の醜聞ニュース。実は八木誠会長は私の大学時代の同じ研究室グループの先輩です。私がその研究室に配属になったのは、昭和51年(1976)かその前年です。ネット情報によると関電入社は1972年となっていますので、私とはダブってないことになりますが、私の担当の助手だった先生(後に教授)が「八木君は・・・」とよく話しておられ、やはり研究室グループ誇りの卒業生でした。OB会などでお会いしたことがあるのか、お顔に見覚えがあって、関電の社長に就任されたとき、「あっ、あの八木さんだ。」と思った記憶があります。研究一の出世頭で尊敬もしていましたので、東北大震災の影響で関電が苦境に立たされたとき、「えらいときに社長にならはったなぁ。気の毒だなぁ。頑張って欲しいなぁ。」と思っていました。 ところが今回の醜聞。額が半端じゃない。コンプライアンスに厳しく対応するようになった純粋の民間企業では、もはや起こり得ないお話しです。しかも退任をしない。ここは八木会長、潔く退任していただきたいという思いです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/10/03
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2024/01/01
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【2015年2月13日(金)】 今日はこの前の兵庫県立粒子線医療センターのセカンドオピニオンを受けてのM病院の面談の日。 今までの2つのセカンドオピニオンと違うのは、今までの2つがそこで治療をする可能性はなく純粋に意見を聞くだけだったのに対し、今回は、見込みがあればそこで治療を行うこと。 すでに重粒子線治療を行うことには決心していたので、あとはM病院主治医のY先生に、重粒子線治療の賛成をいただくことと、重粒子線治療後の経過観察と、再発などの場合の治療を了解いただくことでした。先にセカンドオピニオンの結果を入れた封筒を窓口で渡しておきました。 Y先生に呼ばれて診察室へ。 重粒子線治療を受けたい旨伝えました。ちょっと驚かれたようでしたが、了解はもらえましたし、経過観察もしていただけることにはなりました。あと、重粒子線治療前の精密検査で、重粒子線治療が無理となったら、透析前提の切除手術をしていただくことも了解いただきました。ただし、重粒子線治療後、再発したら手術は無理ですと、ちょっとムッとしながら、はっきり言われました。 粒子線医療センターのF先生は、「再手術は非常にむつかしいです。」と言われただけで、「全然駄目」とはおしゃっていませんでしたが・・・・。まぁ、腎臓ごと切除して、再発しても再手術不可能の可能性も高いし。どちらの方法も五十歩百歩。それならやはり生活の質を保てる重粒子線治療です。 Y先生に再度確認しましたが、やはりこの治療自体ご存知なかったようです。いつも相談していただいていた整形外科のM先生に聞いたら「ふーん」という感じだったとのこと。2月20日までの傷病手当用の診断書も書いていただけることになりました。 重粒子線治療が終わったら、またここへ戻って来ますので、礼を失しないよう、最後に、「抗癌剤治療のおかげで、手術や重粒子線治療ができるところまで来ました。ありがとうございます。治療が終わったっら、またきますのでよろしくお願いします。」内心穏やかではなかったかもしれませんが、「頑張ってください。」と言ってくださいました。 会計を終えて、粒子線治療センターに電話。F先生に重粒子線治療を受ける決心をしたことと、主治医の了解を得た旨を伝えようとしました。でも、ご不在でしたので、医事課の方に予約だけ入れてもらいました。一番早くて2月24日。やはり随分混んではいるようです。でも、おっしゃってた2週間先での治療開始は可能な感じです。 思い立って、入院していた病棟に行き、お世話になった看護師さんたちにあいさつに。久しぶりにかわいい「笑顔さん」たちに会いました。もうこの「笑顔さん」たちからお世話いただけないのは、ちょっと寂しいですが・・・。(再発したら、またお世話になるのでしょうが、今は、考えないことに) 方向は決まりました。後戻りできません。何があっても後悔しません。後悔しないように、抗癌剤治療後、時間もお金もかけてここまで来たのだし。 帰宅して、ウォーキング4500歩。家内とワンちゃんの散歩にも同行。【重粒子線治療についての勉強】 放射線でDNAが切断され、癌細胞の増殖は止まります。従来の放射線治療(X線)の場合は左図のように、1本ずつDNAを切断します。粒子線治療では右図のように「線」でDNAを切断すると考えられており、よりよい治療効果が得られると考えられています。 また、癌細胞の中でも血流が少ない部分は、酸素が少ないためにX線の効果が乏しくなります。粒子線、特に炭素イオン線では酸素の少ない部分にも十分な治療効果が得られるとされています。兵庫県立粒子線医療センターパンフレットよりよろしければぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/02/13
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【2014年2月21日(金)】◆◆ 伏見区#7(2月1日)稲荷お滝場巡り#17 ◆◆ 地図を見ると、弘法ノ滝に着く前に右の谷底に見えていた社に行く道がありそうです。来た道を少し戻ると、さきほど追い越した外国人の家族が、谷底に降りる道のところで休んでいました。また、挨拶をして、その道を竹藪の中を下っていくと、少し大きな道に出ました。ちょっとした探検の気分です。少し、西に戻ると、八嶋神社があり、その中に八島ノ滝がありました。ちゃんと整備されており、現役のお滝場でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2014/02/22
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 花街の行事続編の解答です。もう一つの京都「森の京都」PRムービー(下記行をクリックしてください)https://www.youtube.com/watch?v=lVT4oIwLSbc不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●花街の行事(#35に出てこなかった分)・「都の賑い」の前身は(▲五花街合同伝統芸能特別公演)・始業式で芸舞妓がつける花簪は(稲穂)、着る着物は(黒紋付) 唱和するのは(▲芸妓・舞子の誓い 五ヵ条) 芸舞妓に贈られる賞は(売花奨励賞)、お茶屋に贈られる賞は(奨励賞) 井上流五世家元が(倭文)を舞う・初寄は(京舞井上流)の(▲稽古始め)に日 (1月13日) (▲お雑煮)を祝い、(▲初舞い)で新年を寿ぐ・八朔の朔は(一日)の意味。古くは(田の実の節)といった。 芸舞妓が正装の(黒紋付)で、(師匠)や(お茶屋)に挨拶回りをする。 (お中元)も八朔から始まる。・かにかくに祭は(11月8日)に行われる。 歌碑は最初吉井勇の(古希)を祝って建てられた。 歌は(かにかくに祇園はこひし寝る時も枕の下を水のながるる) 吉井がこの歌を詠んだのは茶屋(大友)といわれる。 その女将は(磯田多佳)。・事始めは(12月13日)。 京舞井上流事始めでは、稽古場に(玉椿)の軸、門弟から届けられた(鏡餅) 挨拶は(今年もよろしゅうおたの申します) ご祝儀に(舞扇)を受ける。・花簪 1~12月 (松竹梅)(梅)(菜の花)(桜)(藤)(柳) (団扇)(薄)(桔梗)(菊)(紅葉)(まねき) 始業式は(稲穂)・女紅場は(祇園)(島原)(上七軒)(▲宮川町)など花街にも建てられた。 祇園では(▲下京第15区)女紅場と呼ばれた。 (▲八坂女紅場)と改称、現在は(八坂女紅場学園) (歌舞音曲)(茶道)(生け花)などの研鑽の場。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/10/18
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【2016年6月2日(木)】 今日も昨日同様、涼しく過ごしやすい気持ちのよいお天気でした。ルーティーンの一日でした。 写真は、5月1日撮影の「ハルジオン(春紫菀)」@ご近所散歩 キク科ムカシヨモギ属。北アメリカ原産で、日本では帰化植物。 一部の地域では「貧乏草」と呼ばれ、「折ったり、摘んだりすると貧乏になってしまう」と言われています。 名前の由来は、春に咲く、キク科のシオン(紫菀)という意味。 シオンの開花期は秋で、薄紫で一重の花を咲かせます。「紫菀」は花の色が由来です。 ハルジオンに非常によく似た花に、ヒメジジョオンがあります。 下の写真は、6月1日撮影の「ヒメジョオン(姫女菀)」@桂坂ご近所散歩 こちらもキク科ムカシヨモギ属で、北アメリカ原産です。 普通、名前がハル、ヒメのところだけが違うと思って、ハルジョオン&ヒメジョオン、あるいハルジオン、ヒメジオンと呼んでないでしょうか。 ハルジオン(春紫菀)&ヒメジョオン(姫女菀)で、真ん中の漢字も違います。 ユーミンの歌に「ハルジョオン・ヒメジョオン」というのがありましたが、厳密には間違いのようです。 ヒメジョオンの名前の由来です。 「女菀」は中国産の野草の名前。この女菀に似て可愛らしいので「姫」が付いたという説があります。 ハルジオンに似ていて小型であるため、姫紫菀という名にしたいところだが、すでに「ヒメジオン」という名前があり、それと区別するために「ヒメジョオン」という名前にしたという説もあります。 写真を見ても、なかなか区別はむつかしそうです。 では違いを列挙してみます。ネットから拾い集めました。 【ハルジオン】 【ヒメジョオン】 開花時期 4-5月 5-8月 蕾 下を向きうなだれる傾向 うなだれる傾向少ない 花 一回り大きくて少ない 一回り小さくて多い 花の色 白かピンク 白か薄紫 花びら 糸のように細い 多少幅がある*葉のつきかた 茎をだくように付く 茎は抱かない (根元が太い) (根元は細い) 根元の葉 ある ない 長い楕円形またはへら形 の葉が放射状に何枚かつく。 ただし茎が高く伸びると、 根本の葉は無くなり、茎から 出る細長い葉だけになる。*茎 中空 中実 (スポンジ状の髄が詰まっている) 枝分かれ あまりしない 上部で大きく枝分かれする主観的なものが多く、個体差もあるので、結局*印で判断せざるを得ないのではないでしょうか。ヒメジョオンも、ハルジオンも要注意外来生物に指定されているほか、日本の侵略的外来種ワースト100にも選定されていて、かわいい花を咲かせるのに、生態系上は嫌われもののようです。ハルジオンのほうだけ「みんなの花図鑑」サイトで、名前を確認させていただきました。家紋は割り抱き萩さんたぁくんさんドラゴンズさんこだっくさん秀さんだよさんsazankaさんよっちゃん×3さんkurumatabisky(車旅好)さんMAYU的さん山と海さんサンタさんさんオレちゃんさんリンゴちゃんさんありがとうございました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=34
2016/06/02
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【2020年10月9日(金)】 台風の雨で今日のゴルフは中止。 10月7日の読売夕刊から。 国会議事堂を上から見ると、「兜」の形に見える。見事、そう見えます。よくぞ発見したものです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/10/09
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【2021年5月21日(金)】 今日はもともとは年イチの会の全体会でしたが、緊急事態宣言で集まっての開催はなくなり在宅になっていました。その後、ワクチン接種1回目がちょうど今日に入り行ってきました。 打ったときの痛みは、ほとんどなかったです。昔に比べると針も細くなったりしているのでしょうね。ちょっと頭痛がしましたが、それ以外の副反応は今日はなかったです。「奇想の画家 若冲と応挙」の第8回です。◆第2章 伊藤若冲(続き)2-2 大典顕常との交流 若冲の生涯を語るうえで忘れてはならない人物が大典顕常(だいてんけんじょう)です。梅荘顕常とも呼ばれます。若冲が画家として成功するのに大きな役割を果たしました。禅の高僧であり、漢詩人、文化人としても、当時著名だった人物です。若冲の庇護者ということで、若冲の父親的な存在というふうに誤解しがちですが、実は若冲より3歳年下です。ですので、よき理解者、支援者であると同時に親友のような存在だったといってもいいかもしれません。大典顕常 世継希僊筆 11歳で相国寺(しょうこくじ)塔頭(たっちゅう)の慈雲庵で得度し、27歳で慈雲庵の住持に就いています。相国寺は臨済宗相国寺派の大本山で、同志社大学今出川キャンパスの北側に位置します。金閣寺(鹿苑寺)や銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭です。 大典は33歳の頃、若冲と知り合います。若冲36歳の頃で、後述しますが、若冲が絵のスタイルについて色々模索していた時期です。そして大典は41歳のとき、慈雲庵住持を隠退し、詩作や書に身を投じ、42歳のとき(若冲45歳)、12巻に及ぶ「小雲棲稿」という漢詩文集を著します。その第8巻に「藤景和画記」(とうけいわががのき)と題し、若冲の人となりや若冲の絵のことを書きました。 大典顕常筆 「小雲棲稿」巻之八 「藤景和画記」の部分 「藤」は「伊藤」の「藤」で、「景和」は若冲の字(あざな)です。「景和」の落款は若冲の初期の絵にも使われています。 さらに48歳のとき(若冲51歳)、相国寺塔頭の松鷗庵に若冲の寿蔵(生前に建てる墓)を建てます。そして、そこに若冲のそれまでの生涯についての記述を漢文で刻みました。同じ文章が、さきほどの小雲棲稿の第9巻に「若冲居士寿蔵碣銘(けつめい)」として収められています。この寿蔵は、現在は相国寺の墓地に移され、足利義政や藤原定家の墓と並んで建っています。若冲の寿蔵(相国寺墓地内)と寿蔵碣銘 他にも種々若冲のことを知る手掛かりは残されていますが、この「藤景和画記」と「寿蔵碣銘」が、若冲の生涯を知るうえで、最も重要な情報源となっています。 大典は54歳で、慈雲庵住持に復帰し、61歳で相国寺第113代住持に就き、禅の高僧としても名を残しました。 大典は、若冲が画家として成長する支援をしたのみならず、若冲についてこのような重要な記録を残しました。そういった2つの意味で、大典顕常は、若冲を語るうえで、忘れてはならない存在なのです。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/21
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【2020年10月10日(土)】 10月8日の読売朝刊の社会面。カラフルな写真が目に飛び込んできました。最初は何かおもちゃの国のミニチュア豪華版かなと思いました。 記事を読んでみて、USJにオープンする「スーパー・ニンテンドー・ワールド」の航空写真だと分かりました。確かに回りに道路が見えます。コロナで遅れて来年春開業だそうですが、この写真見たら、大人でもテンションあがりますねぇ。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/10/10
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【2021年5月17日(月)】 昨日、近畿地方も梅雨に入ったようです。平年より21日、去年より25日早く、昭和26年に統計を取り始めてから、最も早い梅雨入りとなりました。コロナの影響かと思いたくもなります。 16日連続在宅の後、今日、久しぶりの長時間外出となりました。雨がひどくなくて助かりました。事務所で諸事しました。「奇想の画家 若冲と応挙」#6 です。◆第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-5 江戸時代後期 江戸時代後期の特徴は、江戸での展開です。 下に#2で示した年表「近世日本絵画の代表的な画家」の、該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 前項に書きましたが、18世紀後半に、南蘋派、秋田蘭画の画家らが江戸で活躍し、江戸にようやく本格的な民間画壇が成立しました。そこへ文人画や琳派が上方から伝わり、谷文晁や酒井抱一が、それらの画風を受け入れながらも、独自の展開をしていきます。さらに、文人画は、江戸の地にとどまらず、関東各地に広まりました。たとえば、水戸の林十江、立原杏所です。 また洋風表現は浮世絵師の間にさらに入り込み、葛飾北斎や歌川国芳によって新生面が開かれていきます。下の国芳の風景画は、洋風画の陰影法を取り込んでいますが、その付け方は極端で、空の諧調表現も独特です。歌川国芳 「忠臣蔵十一段目夜討之図」 天保2~3年(1831-32) 国芳の人物画には、江戸っ子の粋から乖離したグロテスクな絵を描いたものも多くあります。図7は水滸伝のヒーローたちをエキゾチックな筆致で描いたもの。「武者絵の国芳」と有名になりました。図8は、「寄せ絵(だまし絵)」と呼ばれるもの。いずれも印象的です。国芳はこのように風景画も人物画も独特の画風を持っていましたので、辻惟雄氏は、「奇想の画家」の一人としてあげています。 歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個金毛段景住」 同「みかけハこハゐがとんんだいゝ人だ」 一方上方では浦上玉堂や岡田米山人といった個性的な文人画家や円山応挙、呉春の流れをひく四条派が活躍します。また、幕末になると勤王派による王朝復古の風潮が盛り上がり、田中訥言(とつげん)に始まり、冷泉為恭(れいぜいためちか)へ受け継がれた復古やまと絵派が活躍しました。江戸でも江戸狩野の狩野養信(おさのぶ)が、やまと絵を極め、極彩色の王朝絵巻の作品を多く残し、面白いことに、そこに遠近法を取り入れたりしています。和と洋、新と旧の出会いといっていいでしょう。 洋風画は亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)、安田雷州(やすだらいしゅう)によって深められました。下に亜欧堂田善の「両国図」を示します。#5で示した勝川春章のぎこちない遠近法は払拭されて、より正確になり、陰影法も非常に繊細です。 亜欧堂田善「両国図」(部分) 19世紀初め 秋田市立千秋美術館 そして江戸時代は終焉を迎え、明治維新という大きな時代変化を経て、絵画は近代画壇へと繋がっていきます。 江戸時代の絵画史を駆け足で紹介しましたが、今回、とりあげる伊藤若冲、円山応挙はいずれも江戸時代中期の画家です。しかも、#5で示した画家年表を見ていただいたら分かりますが、応挙の生存時期は若冲の生存時期に完全に含まれています。全く同時代に生きたといっても過言ではないでしょう。若冲の方が先に生まれ、応挙が亡くなった後も、若冲はしばらく存命だったということです。それでは、次回から先にこの世に生を受けた若冲のほうから紹介していきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/17
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【2021年12月11日(土)】 12月3日に兵庫県粒子線医療センターに郵送した20回目のマイカルテですが(こちら)、早くも本日返信が届きました。私が退院した直後は、2ヵ月、3ヵ月かかることもありましたが、体制が整えられたのか、最近は早くなりました。 担当医師からのコメントは下記で、特に問題なく、半年に一度の経過観察を1年に一度にするのも、主治医と相談したうえで決めればOKとのことです。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/12/11
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2016年04月28日 京都新聞HP 京都市東山区の清水寺・成就院で28日、襖(ふすま)絵「随息界(ずいそくかい)~四季」全54面の特別公開が始まった。日本画家鹿見喜陌(きよみち)さん(67)=左京区=が花の移ろいに生命の循環を重ねて描いた大作で、同院では13年ぶりのお披露目。「月の庭」特別公開に合わせた催しで、参拝者は雨が潤す名庭の緑と美の空間を楽しんだ。 襖絵は、京都迎賓館晩餐(ばんさん)室壁面装飾の原画作者として知られる鹿見さんが2000年に38面を制作し、3年後に16面を加えた。 5室の客殿に収まる襖絵はそれぞれ、桜や牡丹(ぼたん)、菖蒲(しょうぶ)、朝顔など季節の草花を主題とし、色彩のある花びらが白描の葉や茎から生気を帯びて立ち上がる。特に、月の庭と向き合う作品「月・秋草」は、金箔(ぱく)の月の中に咲き誇る秋草、月光に浮かぶハギの影が印象深い。鹿見さんは「時間によって変わる見え方を楽しんでほしい」と話している。5月5日まで。有料。華やかな草花で彩られた襖絵に見入る参拝者たち(京都市東山区・成就院)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/04/29
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知恩院についての問題です。そうだ京都、行こう。曼殊院2006年秋(下記行をクリックしてください)https://www.youtube.com/watch?v=3e9ufhiPeKw●知恩院・正しくは( 寺)・本尊は( )・法然上人が東山大谷の( )に建てた坊舎に始まる。 今は( 寺)となっている。・文暦元年(1234)に法然上人の廟堂を( )が復興して( 寺)として寺基 を整えた。・天正3年( 天皇)の綸旨により浄土宗の総本山となった。・御影堂は( )により再建された。国宝。 三門も国宝。( )に建てられ、現存する( の 門)としては 最大。・( )は( )で山内では最古。重要文化財。・大鐘楼も重要文化財。(約 )トンの銅鐘を吊っている。・寛永8年(1642)方丈再建時に作られた庭園は( )の裾を築山の代わりに 使った雄大豪華な庭で( )の作とされる。・48巻からなる( )は国宝。 能書家の( )( )らの詞書を添え、絵師の(土佐吉光) らによって10年あまりを費やして制作された。・この他寺宝として( )の別名をもつ国宝( )など。・七不思議 (A: ) (B: )( )の( )が降臨して一夜で瓜が生えたとか ( )へ続く抜け道の出入り口とか。 (C: ) ( )が( )で使ったとか (D: の )( )廊下の( )の描いた猫 (E: ) ( )が描いた( )菊の間の絵 (F: ) ( )が魔除けに置いたとか (G: )大工棟梁( )夫妻 夫は予算超過で自刃。「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。
2015/10/04
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年10月28日の記事≫ 大腸にたくさんのポリープができる「家族性大腸腺腫症」と2008年に診断された大阪府の会社員の男性(30)は10歳のとき、当時36歳の母親を大腸がんで亡くしていた。 母親は当初、盲腸と診断されて入院したが、手術しても治らず、入退院を繰り返した。亡くなる前は、ほとんど物を食べられず、やせ衰えていた。やや持ち直して入院先の病院から一時帰宅できそうになったところで、急変してしまった。 男性は3人兄弟の長男。すぐ下の弟(29)は大腸に異常がなかったが、末っ子の弟(27)は男性と同じ病気だった。このため、当時は単に大腸がんと診断された母親も、家族性大腸腺腫症だったことが間違いないという。 消化器の専門医でも、この病気を診た経験のある医師は少ない。男性は、当時住んでいた兵庫県や実家の福島県にある病院を紹介されるままに次々と受診した。X線検査で1千~2千のポリープがあると診断された。さらに遺伝子の検査も受け、家族性大腸腺腫症の変異があることが確かめられた。 この病気についてネットで情報を集めた。放置しておくと必ず大腸がんになることは、間違いなかった。医師からは、がんになるのを防ぐために大腸をすべて摘出するよう勧められた。 しかし、大腸を取ってしまうと、1日10回ぐらい下痢をしたり、脱水症状を起こしやすくなったりすることがある。腸閉塞(へいそく)で命を落とす患者もいるという。 この病気は胃や小腸にもポリープができるが、大腸を取ると、小腸にがんができる危険がさらに高まる。手術してもがんとの闘いが終わるわけではなかった。 摘出手術を受ける決心がつかず、悩んでいたところ、ネットの情報交換の掲示板で知り合った同じ病気の患者から、大阪市にある石川消化器内科を教えられた。 院長の石川(いしかわ)秀樹さん(55)は、内視鏡で検査しながら一つひとつポリープを取る治療を試みている。メールで予約を取り、09年2月に初めて受診した。 「この治療は、全摘を先延ばしするためのものと考えてください」。石川さんは男性に、そう説明した。2009年8月の内視鏡検査で撮影した男性の大腸内。大小のポリープがある 私はCT画像で11センチ大の腫瘍(後腹膜悪性腫瘍)を見た時は、正直びっくりしました。腎臓と同じような大きさです。微熱と疲れやすいという程度で、他に顕著な自覚症状はなかったのですから、まさかこんな大きな異物が体の中にできているとは想像もつきませんでした。 この方の内視鏡の写真も、びっくりしました。こんなにたくさんポリープができるものなのですね。確かにこんなにたくさんあれば、大腸を全摘するしか方法はなさそうです。ただ、この方はネットをうまく使って、一つずつポリープをとる治療に巡り会われたようです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/02/23
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2016年8月25日 京都新聞ホームページから 江戸や明治期などに製作された古地図から現在の京都や日本を考える「古地図展」が9月3日から、京都市南区東九条の「長谷川歴史・文化・交流の家」(長谷川家住宅)で始まる。築約270年の農家住宅である同住宅に所蔵されていた15点が並び、街の変遷やかつての日本人が見た世界を浮かび上がらせる。 「中昔京師地図(なかむかしけいしちず)」は、応仁の乱後の1480年~1580年ごろの京都を、江戸期の学者・森幸安が文献資料から1753(宝暦3)年に描き起こしたものの模写という。北は大徳寺、南は東寺周辺までが描かれている。 「大成京細見地図(たいせいきょうさいけんちず)」は幕末の京都市街を描いている。京都府庁の場所に「御用御ヤシキ」とあり、京都守護職を務めていた会津藩主の松平容保の公邸を示している。 2種類ある「東九条村図」は、江戸期の東九条村(現南区東九条)でどのように土地が利用されていたかなどを今に伝えている。 オランダの航海地図を基に1861(文久元)年に製作された世界地図「新刊輿地全図(しんかんよちぜんず)」をはじめ、樺太や千島列島、清国など外の世界に目を向けた地図もある。 監修した佛教大の伊東宗裕非常勤講師は「地域に関係するものだけではなく、世界地図などがある。当時の農村の指導者層が地理的な情報や日本を取り巻く情勢について、どん欲に知識を得ようとしていたことが分かる」と話す。 長谷川家住宅は、国の登録有形文化財で、地図や文書など貴重な資料が数多く残っている。 9月18日と10月16日、11月20日の午後2時からは伊東さんによる展示解説がある。 土日祝日の開館で、11月27日まで。開館時間は午前10時~午後4時半(入館は4時まで)。入館料は中学生以上600円、小学生300円。展示応仁の乱後の1480年~1580年ごろの京都を、江戸時代に描いた「中昔京師地図」江戸期や明治期の古地図が並ぶ会場(京都市南区、長谷川歴史・文化・交流の家)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/08/26
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【2016年11月2日(水)】 今日は、東寺五重塔に続き2つ目の仕事となる修学旅行ガイドの第1回でした。過去2度、先輩ガイドに同行しての研修がありましたが、そのときは基本的には観光ガイドはせず、先輩の行動から学ぶだけでしたが、今回は、単独でガイドをします。 東寺五重塔の初日同様緊張するかなと思いましたが、そうでもありませんでした。東寺のガイドである程度度胸がついたこと、修学旅行研修を2度していること、生徒が対象なので説明すべき内容が平易なことなど色んな要因があるのだと思います。 ただ子供たちの命を預かっているということが、東寺でのガイドとの最大の違い。さらに終了後の集合時間に絶対遅れてはいけないというプレッシャーもあります。また研修では2回とも中学生だったのですが、今回初めて小学生というのが未経験要素でした。 今回第1回めの担当学校は、東海地方の市立小学校6年生。午前8時15分までに、宿泊先であにガイドは集合です。10月18日に下見に行っており(こちら)、五条通を通るバスを大宮五条で降車して、問題なく30分弱前には宿舎前に到着。 ところが仲間のガイドの姿が一人も見えません。普通は30分前には、かなりの人数が集まるのですが。今日は特別かなと思い、5分ほど待ちましたがやはり誰も来ません。これはおかしい、同じ名前の宿舎がもう一つあるのではないかと不安になり、先輩の一人に電話。「まだ、どなたも来ていないのですが・・・」「もう、皆さん集まっているよ。どこにいんの?」「駐車場のあるところです。」「それ裏側と違うか?東側やで。」 しまったぁ・・・下見で裏側から入って、そこがちゃんとした入り口だったので、表玄関だと思いこんでいました。あわてて東側に回り、皆さんに合流することができました。 ≪気付き≫宿舎の表玄関を下見でしっかり要確認 リーダーから各ガイドに市バス一日乗車券と昼食代が配られました。普通は昼食代は報酬とともに後日銀行振り込みなのですが、この日は現金渡しでした。続いてこの日の世話役ガイドから、諸注意事項の説明があり、準備が整いました。 出発前にホテルのロビーに生徒全員がクラス班別に並んで座っていて、その班の前に我々ガイドが班名を書いた紙を持って立ちました。代表の子の音頭で「よろしくお願いします。」との全員そろっての挨拶がありました。礼儀正しい学校のようです。(小学校は初めてなので他との比較はできませんが)私の用意したプレート。これを見て、私の班のメンバーがくすっと笑ってくれました。 集団での挨拶が終わり、班別に出発前の打ち合わせ。次のようなチェックシートを準備していました。 これに基づき打ち合わせを進めました。 まず私の自己紹介。気軽にニックネームで呼んでとお願い。同じ県の出身で父が当該学校のある市に勤務していたことも紹介。少し距離を縮められたかな? 続いて、生徒たちの自己紹介。私の班は男の子2人、女の子3人の合計5人。各人、係があり、班長、タイムナビ、保健、レク、美化。チェックシートに特徴欄を設けましたが、何も書けず仕舞い。 次に行き先の確認。返信レターにも書いた下記の地図と予定表を使いました。 ここで、返信レター(こちら)は生徒が手元まで届いていないことが判明。研修のときもそうだったので、返信レターは書いても生徒まで届いていないこともあるようです。 ルートは、東寺⇒京都タワー⇒銀閣寺⇒平安神宮⇒(建仁寺)⇒清水寺でOK。建仁寺が( )で書いてあったのは、予想通り、時間が恐らく足らないだろうから、その場合は外すということのよう。京都タワーは、中に入らず外から見るだけでよいとのこと。割引きチケットについて色々調べて準備はしたのですが・・・。また平安神宮は時間がなければバスの窓から社殿や鳥居を見るだけでもいいとのこと。一番驚いたのは、男の子に一人鉄道ファンがいて、移動にできるだけ、電車を使って欲しいとのこと。余分に交通費がかかることは承知で、班のメンバーも了解済みとのこと。東寺から京都駅を近鉄を使い、京都駅から銀閣寺を部分的に地下鉄を使うことでまとまりました。≪気付き≫訪問先は中に入らず見るだけでもいい、車窓から眺めるだけでもいいという場合もある。 昼食は本能寺近くで食べたいと言います。本能寺はルートから大きく外れています。何か指定のお店があるのかと聞いたらそうでもないようです。京都らしいところで食べたいということのようです。それなら時間があれば祇園あたりで食べ、時間がなければ清水寺近くで食べるということにしました。 スイーツもどこかで食べたいとのこと。銀閣寺近辺で食べようかということにしました。 建仁寺に行かなくても時間がギリギリだったのです。しかし、京都タワーは外から見るだけなので、その分時間ができます。一方でスイーツを食べたいということなので、ここで想定していなかった時間が生じます。結局プラスマイナスで、建仁寺はむつかしそうです。 市バス一日乗車券、修学旅行パスポートを持っていることを確認。飲み物は各自持っており、カメラは持っていないので写真は自分たちでは撮らないとのこと。体調は全員良好。京都は家族で来たことがあり、初めてという子はいませんでした。 あまり時間をかけてもいけないので、ますは出発。バス停まで歩きながら、注意事項を説明しましたが、全部網羅はできませんでした。≪気付き≫時間活用のため歩きながらの注意事項説明は有効。ただし、チェックシートを確認しながら。 班は行きたい場所がよく似ている人を集めて構成されているとのこと。なるほどこういう方法もありかという感じ。 社会の教科書は事前調査通り、私の買った日本文京出版のを使っているとのこと。すでに江戸時代まで習い終わったとのこと。上卷の歴史が終わってから、下巻の政治経済を勉強するそうです。 ホテルから島原口のバス停まで歩き、バス停で待っている間に一日乗車券の使い方を説明。バスに乗って東寺東門前で下車。 バスに乗る時に基本的なミスをしてしまいました。私が先に乗ってしまいました。交通機関に乗る時、降りるときはガイドが一番最後というのが鉄則です。置き去りを防ぐためです。冷静さを欠いていました。≪気付き≫交通機関での最後乗り、最後降りを忘れないこと。(続きます) 家内は友達に誘われてゴルフ練習に行ったとのこと。私が「がん」を発病して遠ざかっていましたので、1年4ヵ月ぶりにクラブを握ったことになるでしょうか。以前買ったレッスン回数券が残っていて、友達がそれが今でも使えるかどうか聞いてくれて、使えるとのことで行ったようです。結構うまく飛んだらしいですが、さすがに身がいったとのこと。 また以前のように、家内とゴルフラウンドに行くことができれば嬉しいことです。テニスも頻繁にやっているので、両立できるかどうかですが。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/11/02
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【第5問】【公開テーマ問題】「京の七口と街道」に関する次の記述について、( )に入れる最 も適当な語句を書きなさい。 「京の七口」とは、出入り口が「七つ」あるという意味ではなく、京と諸国を結ぶ出入り□の総称と考えられる。たとえば、公家・近衛信尹の日記『三貌院記』は、大正19年(1591)に豊臣秀吉が御土居を築き、そこに「十の口」を設けたと記している。 東海道・東山道へ通じる三条口は粟田口ともいい、三条大橋や蹴上付近にあった。現在、三条大橋西側には『東海道中膝栗毛』の主人公である二人・( 41 )像がある。東国への幹線道と通じるため古くから交通の要衝であり、山城国と近江国の国境に設けられた( 42 )は、小倉百人一首に採られた蝉丸や清少納言の和歌の歌枕に詠まれている。 御土居の西南に設けられた出入り口は、現在もJR山陰本線( 43 )駅にその名が残る。山陰道へ通じており、かつての国境であった大枝山の( 44 )の峠には、酒呑童子のものと伝わる首塚がある。大技山近辺は都から追放された賊などの棲み処であり、鬼が住まうと信じられていた。 長坂口は清蔵口、北丹波口ともいい、本阿弥光悦が徳川家康から拝領したことで知られる( 45 )の地から長坂峠を越えて杉坂に至る。途中峠を経由する若狭街道の出入り口は( 46 )口で近隣の町名にその名が残る。慶長4年(1868)に立てられた寺町今出川付近の道標には、比叡山などへ通じていることが刻まれている。 賀茂川に架かる出雲路橋西の鞍馬口は、上賀茂・市原・鞍馬へ至る鞍馬街道の出入り口で、その西にある( 47 )の地蔵堂に祀られる鞍馬口地蔵は、京の六地蔵めぐりの一つである。志賀越道(山中越)の出入り口である荒神口には正式名を( 48 )という寺院があり、その通称「清荒神」がその名の由来である。 鳥羽街道(鳥羽の作道)や( 49 )街道の出入り口であった東寺口は、詳細な場所こそ明確ではないが、現在も東寺の西南が京阪国道や国道171号の起点となっており、往時が偲ばれる。 五条橋口や竹田口からは伏見街道や竹田街道といった伏見への街道が伸び、さらに道は奈良へと続く。豊臣秀吉が伏見城築城の際、宇治川に架けた( 50 )橋は幕末の動乱で焼け、現在はその場所に観月橋が架かる。3年くらい前に始まった「公開テーマ問題」です。級ごとに事前にテーマが発表されます。本来は点数が稼げる部分です。(41)【コメント】超簡単問題【私の解答】弥次・喜多【推定正解】弥次・喜多【推定得点】2点(42)【コメント】公式テキストには直接出てこないが、よく知られている名前。漢字が正しく書けるか どうかもポイント。【私の解答】逢坂の関【推定正解】逢坂の関【推定得点】2点(43)【コメント】公式テキストには直接出てこないが、私がよくバスで通過するところ。【私の解答】逢坂の関【推定正解】逢坂の関【推定得点】1点(44)【コメント】公式テキストには直接出てこないが、私の住んでるいるところのすぐ近くで、比較的 よく聞く地名。【私の解答】老の坂【推定正解】老ノ坂【推定得点】1点(2点かもしれないが、厳しめに採点)(45)【コメント】超簡単問題【私の解答】鷹峯【推定正解】鷹峯【推定得点】2点(46)【コメント】超簡単問題なのだが、間違ってしまった。【私の解答】白川口【推定正解】大原口【推定得点】0点(47)【コメント】超簡単問題【私の解答】上善寺【推定正解】上善寺【推定得点】2点(48)【コメント】公式テキストに掲載されていますが、今年の改訂版からなので難問。【私の解答】護浄院【推定正解】護浄院【推定得点】2点(49)【コメント】最初伏見街道と思ったが、伏見街道はもっと東なので再考。【私の解答】西国【推定正解】西国【推定得点】2点(50)【コメント】超難問【私の解答】槇島橋【推定正解】豊後橋【推定得点】2点●第5問 推定得点 20点中点15点。問題単位としては初めて8割を割りました。しかし第1問~第5問の累計推定得点は100点中86点。合格ライン(8割=80点)比較:+6点で、引き続き合格ラインの上をいっています。あとの問題次第ですが、合格の可能性ありです。(続きます)
2016/12/11
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【2017年2月12日(日)】 今日、明日と2日連続OFFです。朝から雪。散歩以外外出せず。家内も終日在宅でした。 2月10日、聖護院・知恩院・久昌院訪問のその2です。(「その1」はこちら) 聖護院拝観の後、歩いて知恩院に向かいます。雪が時折、激しく降ります。しかし、知恩院に近づくにつれて少し寒さが和らいだような気がしました。同じ東山でも、四条付近と丸太町通付近では、気温が微妙に違うようです。●知恩院境内図http://www.chion-in.or.jp/04_meiho/map.html山門まずご朱印をいただきました。◆知恩院の歴史 浄土宗総本山。承安5年(1175)に法然上人が結んだ草庵に始まる。江戸幕府初代将軍・徳川家康が浄土教信者で、知恩院を永代菩提所としたことから、徳川将軍家とのゆかりが深い。現存する大伽藍の多くが徳川家によって造営された。幕末の文久年間には公武合体派の中心であった薩摩藩の島津久光が宿所とし、京都での拠点にしていた。◆集会堂(重要文化財) 集会堂(しゅうえどう)が特別拝観の入り口になっています。大方丈(おおほうじょう)・小方丈(こほうじょう)・方丈庭園が特別公開されています。大昔に特別公開に訪れたことがありますが、そのときは庭園だけでした。 聖護院同様、ここも我がガイド会が担当しています。 集会堂(しゅうえどう)は、往古は「衆会堂」とも称し、寛永12年(1635)に建立されました。俗に千畳敷といわれるほど広いお堂で、御影堂の北側に隣接し、南北十五間の鴬張りの渡り廊下で御影堂と結ばれています。僧侶の修行の場として使用されてきました。明治5年(1872)の京都博覧会の会場にもなりました。 現在、御影堂修理工事中で、その間は御影堂の法然上人像がこの集会堂に遷座安置され、御影堂で行われていた各種法要はここで行われます。http://www.chion-in.or.jp/index.php 厳かな雰囲気の集会堂を通って、大方丈に向かいます。 すぐのところに先輩の一人がおられて、「1級通ったらしいなぁ。おめでとう。」と声をかけてくださいました。こういう話はすぐ伝わるものなのですね。◆大方丈(重文)・小方丈(重文) 大方丈は、二条城と同様の書院造りの形式を備え、寛永18年(1641)、徳川三代将軍家光が創建。狩野尚信、信政ら狩野派の筆によると伝わる金碧障壁画で「上段の間」と「中段の間」「下段の間」、「鶴の間」ほか、「抜け雀」の襖絵で知られる「菊の間」など豪壮華麗な佇まいを残しています。その他「松の間」、「梅の間」、「柳の間」、「鷺の間」、「竹の間」。「鶴の間」は54畳敷き。鶴の間奥の仏間には、快慶作と伝えられる本尊阿弥陀如来像が安置されています。大杓子 大方丈入口の廊下の梁に、知恩院の七不思議の一つ、「大杓子」が置かれています。 大きさは長さ2.5メートル、重さ約30キログラム。伝説によると三好清海入道が、大坂夏の陣のときに大杓子をもって暴れまわったとか、兵士の御飯を「すくい」振る舞ったということです。「すくう」すべての人々を救いとるといういわれから知恩院に置かれ、阿弥陀様の慈悲の深さをあらわしているとのこと。大方丈http://souda-kyoto.jp/card_member/event/259_photo_03.html狩野尚信筆「松鶴図」http://www.asahi.com/and_M/information/SDI2014031426761.html上段の間 武者隠しの部屋が付属http://www.asahi.com/and_M/information/SDI2014031426761.html鶯張りの廊下 御影堂から集会堂、大方丈、小方丈に至る廊下は、知恩院七不思議の一つ鶯張りの廊下です。「忍び返し」ともいわれ、曲者の侵入を知るための警報装置の役割を担っているとされています。また鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえることから、不思議な仏様の法を聞く思いがするともいわれています。http://www.chion-in.or.jp/index.php三方正面真向の猫 知恩院七不思議の一つ。方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるのでこの名があります。親猫が子猫を愛む姿が見事に表現されており、親が子を思う心、つまりわたしたちをいつでもどこでも見守って下さっている仏様の慈悲をあらわしています。レプリカと思われるものが廊下に展示されていましたが、本物があったのか、あったとするとどこにあったのかまでは分かりません。http://www.chion-in.or.jp/index.php抜け雀 大方丈の菊の間の襖絵は狩野信政が描いたもの。紅白の菊の上に数羽の雀が描かれていたのですが、あまり上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれています。現存する大方丈の襖絵には飛び去った跡しか残っていませんが、狩野信政の絵の巧みさをあらわした話といえるでしょう。知恩院七不思議の一つ。http://www.chion-in.or.jp/index.php 大方丈の北東に位置する小方丈も同時期に建てられたもの。仏間は設けず、大方丈とは対象的に水墨画で飾られた「上段の間」「雪中山水の間」「蘭亭の間」などがある。http://www.forward-corp.co.jp/environment/led/jisseki-02.html 掛け軸の「華頂山」の字は、三門の扁額の字と同じ。 方丈庭園に出ます。 ◆方丈庭園(京都市指定名勝)小堀遠州と縁のある僧・玉淵によって造られたと伝えられる。慈鎮石 大方丈(左)と小方丈(正面) 家光公お手植えの松二十五菩薩の庭 権現堂 家康・秀忠・家光三代の霊を祀る 雪が激しくなってきました。 現在御影堂は大修理中。平成31年までかかるようです。毎月第1日曜日に修理現場を見学することができます。 経蔵と東山 雪で白くなっています。 知恩院をあとにして、建仁寺塔頭久昌院に向かいます。夕刻のガイド会エリア会議の時間を考え、この時点で、妙法院の今日の拝観はあきらめました。 (続きます)(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/02/12
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【2016年12月28日(水)】 今日(12月28日)は、三重県にツキイチのお墓参りでしたが、それ以外に大きな目的がありました。土地売却のための所有権移転登記申請です。中古車ディーラーに土地を貸していましたが、1年以上前に土地を売って欲しいという話があり、しばらく迷いましたが、条件もよかったので売却の決心をし、売却の手続きを進めてきました。 しかし、登記の地目が「田」になったままなので、このままでは売却できないということが途中でわかりました。色々手配して、何とか10月25日に「田」から「雑種地」への地目変更登記を申請しました。それが完了し、土地は売却できる状態になりました。(こちら) ところが今度は買い主さんが銀行から融資を受けるに際し、私は理由はよくは分かりませんが、一度雲行きが怪しくなりました。しかし、何とかなったようで、今日、所有権移転登記をすることになっていました。売買契約書は作成済みでした.売買契約書 移転登記は不動産屋が間に入ると司法書士にお願いするのが普通ですが、個人間のやりとりだし、余分な費用はかけたくないので、登記は自分でしようと進めてきました。以前、ローンを早期返済して抵当権抹消の登記をしたときも、母から土地を相続したときも、自分で登記したので、何とかなるという裏付けもありました。 法務局のホームページからフォームをダウンロードして書類を準備しました。(1)登記申請書(2)登記原因証明情報 売買契約書は別に作成はしていました(後述)が、登記にはこれを使いました。(3)委任状 買主さんといっしょに行かず、私単独で登記するので、買主さんから私への委任状。(4)売主(私)の印鑑証明書(5)買主の住民票 お墓参りの後、(1)~(4)を持って買い主さんのKオートさんへ。署名、捺印をしていただき、(5)もいただいて、津地方法務局へ。 書類やその内容に不備があると、申請しても、また書類を書き直したりしなければなりません。私は津地方局から遠方なので、また出直したり、郵送したりする必要があります。それで事前に相談するのが得策です。だいぶ前に、相談の予約を入れようとしたのですが、年末で混んでいるようで予約ができませんでした。 止むなく予約の空き時間(相談時間30分で予約を受けるが、たいていは30分以内に終わるので、空き時間が生じる)に入れてもらって、相談を受ける心づもりでした。相当時間待つ覚悟だったのですが、行ったとき待っている人は他におらず、予約の人が早めに終わったあと、すぐ相談を受けることができました。 書類を見てもらい、必要な書類は全部揃っているし、内容も問題ないとのことで、申請可能となりました。 登録免許税は、売主である私が全額払う契約にしていましたので、収入印紙(結構な額です)をその場で買って、それも併せて提出して、移転登記申請は完了しました。 一つだけ思い違いがありました。買い主のKオートさんは、銀行から融資を受けるにあたって、移転登記完了の書類が必要になります。従って、移転登記が完了したら、Kオートさんに書類を取りに来てもらおうと思っていたのですが、私が買主から委任されて申請しているので、私が書類を取りに来ないといけないとのこと。書類に不備がなければ1月10日に移転完了するとのこと。その日以降に、取りにきて、Kオートさんに渡すことにします。 長い期間がかかりましたが、ようやく移転登記申請が完了しました。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/12/28
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◆旧東海道歩き 増上寺から旧東海道に戻り、京都に向かってすぐ左手に浜松町の由来を示す碑があります。歩き日:2013年9月29日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/01/13
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【2015年8月13日(木)】 雨が時折り降る天気でした。三重へのお墓参りを11日にしておいてよかったです。気温はそれほど高くなかったと思いますが、湿度がものすごく高いと感じました。2階で寝室兼書斎でPCを叩いてましたが、温度計は32度でした。32度ならエアコンなしでいけるのですが、今日は汗びっしょりでした。湿度が高かったのでしょう。 京都に数珠巡礼のお寺巡りがあります。加盟しているお寺にお参りしたときに、お寺の名前を彫った数珠玉を買い、それを集めて数珠やブレスレッドにするというものです。二人で洛陽三十三所観音霊場巡りを満願した後、この数珠巡礼を始めたのですが、私の癌発病とともに中断していました。5月初めに粒子線治療を終え、会社も辞めたし、体調もいいし、体力的にも問題ないので再開しました。108で割れる個数で数珠やブレスレッドを作るようです。この前の廬山寺参拝で18個になりました。ビーズ手芸をやっている長女に、ブレスレッドにしてもらいました。 その写真です。これは私用のツゲの数珠玉を使ったものですが、家内用にもメノウの数珠玉を使ったものを作ってもらいました。数珠玉にはお寺の名前が刻まれています。六角堂(頂法寺)、直指庵、廬山寺(2個)、吉峯寺、大報恩寺(千本釈迦堂)黄檗山(萬福寺)、愛宕念仏寺、清浄華院、穴太寺三室戸寺、勝持寺、虚空蔵(法輪寺)、達磨寺(法輪寺)聖護院、化野念仏寺、妙顕寺 マリーンズの岩隈、ノーヒット・ノーランやりましたね。 錦織、もう次の試合ですか。トップ選手のほとんどが出場する、マスターズと呼ばれるシリーズのひとつロジャーズ杯。2回戦で世界ランキング48位のパブロ・アンドゥハール(29=スペイン)と対戦。6―3、6―3で下し、順当に3回戦進出を決めました。マスターズ初優勝を期待します。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/13
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4月15日の京都歩きで、山科の牛尾観音に向かう途中で偶然「オドリコソウ」を発見したことを昨日投稿しましたが、その他にも桂坂では見かけたことのない花が咲いていましたので紹介します。 紫華鬘(むらさきけまん)と黄華鬘(きけまん)です。ムラサキケマンキケマン 罌粟(芥子:けし)科、キケマン属。ムラサケマン、キケマンの花期はそれぞれ4-6月、3-5月。ムラサキケマンの原産地は日本、中国、台湾 。キケマンの原産地は日本。 花が閉じているように見えますが、これで開いています。 ムラサキケマンは全草にアルカロイドを含む毒性の植物で、間違って食べると嘔吐や麻痺を起こすが、ウスバシロチョウの幼虫にとっては重要な食草となり、カタクリやスミレと同様、種にアリの好物の’エライオソーム’と言う成分が付いていて、アリに種を運ばせるとのことです。 ケマン(華鬘)はもともと花を糸で連ねて輪に結んだアクセサリーの事で、それが仏教に取り入れられて仏具や仏殿の欄間(らんま)等の装飾具として華鬘と呼ばれるようになりました。 花の形、あるいは一本の茎に花が連なっている様子がケマン(華鬘)に似ている為、ケマンソウ(別名タイツリソウ)と呼ばれる花があって、これがムラサキケマンやキケマンの名前の基になりました。華鬘(けまん)ケマンソウ「みんなの花図鑑サイト」で名前を教えていただきました。kayu-さんkurumatabisky(車旅好)さんよっちゃん×3さんMinamさんたぁくんさんこだっくさんmomochanさんMAYU的さんsazankaさん家紋は割り抱き萩さんありがとうございました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=34
2016/05/18
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2016年8月6日 京都新聞ホームページから 子どもの健やかな成長を願う「泣き相撲」が6日、京都市上京区の北野天満宮で開かれた。1歳前後の幼児約100人が暑さを吹き飛ばすように大きな泣き声を響かせた。 同天満宮の祭神・菅原道真の先祖、野見宿禰(のみのすくね)は相撲の祖とされることから、京都市内で開かれる夏のイベント「京の七夕」に合わせて昨年に始めた。 神楽殿で、鉢巻きとまわしをつけた赤ちゃんたちは母親に支えられて向き合った。行司が「残った、残った」と声を出し、先に大きく泣いた子に軍配を上げると、観客が沸き立った。京都市上京区の北野天満宮で開かれた「泣き相撲」よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/08/07
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昨日示したアメリカ10州、日本10都道府県の最高気温と夕刻相対湿度をグラフにしてみました。 ちょっと見にくいかもしれませんが、点線が平均です。最高気温の平均は日本も、アメリカも大差がないことが分かります。しかし、アメリカは、夏に35度程度になるところがあったり、冬に暖かいところ、寒いところ開きが大きくなったりで、バラツキが大きいです。一方日本では、札幌以外は、どこもよく似た気温です。 湿度は、アメリカの平均は、年間を通じて、50~60%ですが、日本は夏になると70%近くになります。アメリカは、夏に日本並みの湿度になるところもあります。 日本は夏に高温多湿。アメリカは概して夏に高温だが湿度は高くないといえます。また、気温にしても、湿度にしても、国土の広いアメリカのほうが、バラツキが大きいといえそうです。 私が担当している製品では、日本では色んな仕様があるのに、アメリカでは、極端に仕様が絞りこまれていました。バラツキが大きいので、一々気候にあった製品を開発してはいられないという事情があるのかもしれませんし、湿度が一般的に高くないので、仕様も絞り込みやすいということかもしれません。 これで、52回にわたって投稿してきた「アメリカ出張よもやま話」のシリーズを終わります。出張で見聞したことを今後の仕事に生かしていかなければならないのですが、後半で示したように日米の国情の違いが非常に大きいので、今回の見学出張を主催しているところの指導に素直に従うのはとても危険です。 その辺を考慮して、今後の仕事に活かしていかなければならないと思っています。長い間お読みいただきありがとうございました。(注:このシリーズを書きあげた直後、癌の治療のため会社を休み、現在ではその会社を辞めましたので、今回の知見を応用することはありませんでした。しかし、会社では報告書として発表し、残しましたので、何らかのかたちで貢献できたと思っています。)出張期間:2014年5月7日~5月16日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/04/26
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2015年8月4日 読売夕刊「くりくり頭」かわいいですね。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/06
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