仕事のこと 0
母の備忘録 0
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本への帰任前に自宅に招いてくれた仕事仲間との写真の続きです。・工場技術を担当していたRGさん 会社の中で、一番議論を戦わせた一人です。日本やアジアにもよくいっしょに出張に行きました。一度帰りの便が南回りしかなく、タイの空港で乗り換え8時間待ちということがありましたが、ずっと仕事のことで、喋り続けたことが印象に残っています。今もメールでやり取りがありますが、去年、「がんを患ってしまいました。治療頑張ります。」と送ったきりです。今年のクリスマスは、「何とか元気にしています。」と伝えられそうです。息子さんがチェロを演奏してくれました。・開発部門の長のMWさん。 私の仕事は彼との二人三脚でした。私が日本に帰ってきてから、その会社を辞めて別の会社に勤めていたとき2度ほど日本に出張に来ましたが、京都や大阪で食事をしたこともあります。今もメールでやりとりが続いています。・ドイツ赴任の最初の頃泊っていたホテルの1階にあったイタリアレストランのシェフと奥さん 家族を呼び寄せるための家を探すのに2ヵ月近くを要したと記憶しています。その間ホテルに長期滞在しましたが、そのホテルの1階にイタリアレストランがあり、そこで朝食や夕食を食べました。シェフや奥さんともずいぶん親しくなりました。 日本に帰任する直前に寄って、記念にいっしょに写真を撮らせていただきました。その後、場所を変えて営業をされているようです。シェフと私シェフの奥さんと私 これでドイツ単身赴任時代にデジタルカメラに残した写真のうちの、プライベートの部分はほぼ網羅しました。今日をとりあえず最終回とさせていただきます。いずれは家族帯同時代も含めたアナログ写真もアップしたいとは思いますので、「第一部最終回」とさせていただきました。長い間、お読みいただきありがとうございました。 次は、その後のアメリカ赴任時代に始めたゴルフのシリーズをアップする予定です。ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/25
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 ドイツ滞在は約7年に及びました。会社で現地の仕事仲間とは、真剣に議論を交わし、溶け込んできたという自負がありました。日本への帰任前には、色んな方々が送別会を開いてくださり、中には自宅に招いてくれた仲間もいました。 どこのお家も、木の温もりが感じられるお家でした。また家族全体でもてなしでくださいました。それがドイツ流なのでしょうね。ちょうどクリスマスの時期でしたので、その飾り付けもきれいでした。・工場技術を担当していたGNさんご一家。右から3人目が私。・開発部門のGMさんご一家 設計だけプロに頼んで、ご自分で家を建てられました。ドイツでは、ほとんど残業をすることがないので、仕事から帰って、コツコツと建てて、何年かかけて完成させました。人件費が高いので、ドイツではそうやって家を建てる人が結構いるようです。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/24
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 家族が日本に帰った後、単身時代2000年9月から1年4ヵ月住んだアパートの写真#6です。「アパート・シリーズ」最終回です。・2階部分の寝室です。 ここにもクローゼットがありました。アイロンをここに置いてアイロンをかけていました。・ベッドは3つ置いていました。 家族がいたときに子供用ベッドを3つ持っていました。日本に帰った家族がドイツに遊びに来ることもあると思い、このアパートに持ってきました。実際、長女が一度単独で、家内と次女・息子(故人)がいっしょに一度こちらに来ました。長女と次女が使っていた2段のベッドを分解(カット?)してこうやって置いていました。・私は息子が使っていたベッドを使っていました。 このアパートで1年4ヵ月過ごし、やはり単身赴任で来られた後任の方にこのアパートも引き継いでもらって、2002年の1月初め、ちょうどユーロ通貨が市中で使われ始めたタイミングで日本に帰任しました。 家族といっしょにいたときも充実した日々でしたが、この単身赴任期間も、充実した時期を過ごしました。プライベートでも、紹介させていただいたように、日帰りスイススキー、スイス・サイクリング横断、ロンドンでのミュージカル観劇、フランス旅行、パリ美術館巡りなどなど、ここぞとばかり動き回っていた時期でもありました。反面、日本にいる家族には苦労をかけた時期でもありました。ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/23
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 家族が日本に帰った後、単身時代2000年9月から1年4ヵ月住んだアパートの写真#5です。・2階部分への階段を上がったところ。背の低い棚が置いてありました。・2階から階段を見降ろしています。・階段を上がった右側の屋根裏部屋。 物干しを置いていました。ドイツでは景観上、洗濯物を外に干すことはご法度でした。洗濯機は地下室に各人が置いて、確かキーで電源Boxを開けて使っていました。個別に水道メータや電気メータが付いていたように思います。乾燥機も置いていたと記憶しており、ここで干すことはあまりなかったのではないかと思います。なんせ、15年も前のことなので、よく憶えていません。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/22
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 家族が日本に帰った後、単身時代2000年9月から1年4ヵ月住んだアパートの写真#4です。・バスルーム アメリカでもそうでしたが、バスタブ、シャワー、トイレは一つの部屋に共存していました。ドイツでは便座カバーなるものがありませんでした。不衛生だからということらしいです。当然ながら日本のような暖房便座もありません。冬は、冷たい便座を我慢しながら用を足さなければなりませんでした。・バスルームの中のシャワー カーテンを引いてシャワーを浴びます。ドイツ人は非常に音に敏感な人種です。仕事で夜遅く帰って来てシャワー浴びていたら、下の階にの人が「うるさい。静かにしろ。」と怒鳴り込んで来たことがありました。それ以来、夜遅くにシャワーを浴びるのは止めました。どうしてもというときには、座って、ちょろちょろとシャワーを浴びました。・2階部分への階段(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/21
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 家族が日本に帰った後、単身時代2000年9月から1年4ヵ月住んだアパートの写真#3です。・リビングの食卓 このアパートは私が入る前、日本からの出向の女性が入っていたのですが、日本に帰任だったか、外地間転勤でちょうどよいタイミングで空き家になったため、私が引越ししました。 このテーブルや昨日のソファー、テーブなどは、彼女が使っていたものですが、会社の資産となっていましたので、引越しにあたって家具類は買う必要はなく、楽な引越しでした。このテーブルは食卓ですが、日本からの長期出張者を呼んで食事会をするとき以外は使ったことがありませんでした。・キッチン 男の一人暮らしには贅沢過ぎるキッチンです。・ダイニングテーブル キッチンに2人掛けのテーブルを置いて食事をしていました。夕食は、一人で近くのタイ料理レストランなどにもよく出かけました。「一人でレストランに入るのは寂しくないですか。」とよく聞かれましたが、私は、家族や、友達どうしが楽しそうに話ししながら、食事をしているのを見ながら食べるのが好きでした。もちろん、静かに皆さん話されるし、ドイツ語なので何を話しているのかは分からないのですが・・・。庶民的なレストランでも、日本のようにうるさくなく、静かで調度も落ち着いていて、和やかな気持ちで食事ができましたし。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/20
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 家族が日本に帰った後、単身時代2000年9月から1年4ヵ月住んだアパートの写真#2です。 リビングです。事務机、パソコン、テレビ、食卓などを置いていました。・書斎スペース パソコン、モニター、スキャナー、プリンターなどが並んでいます。モニターはブラウン管、パソコン本体も大きいですね。 右に暖房装置があります。ボイラーによる集中暖房で暖かかったです。冷房は1年間に1週間くらいしか欲しいなぁという期間がないので、ありませんでした。今はどうかしりませんが、一般の家庭にはありませんでした。 右の窓にシャッターが閉まっているところが見えます。4階ですが、セキュリティーはしっかりしていました。・ソファーとテレビ ちょうどテレビではワールドカップのスキー・ジャンプをやっていたようです。ドイツではスキー・ジャンプは人気があり、ユーロスポーツという、スポーツ専用チャンネルでやっていました。当時、船木や葛西、原田が全盛の頃で、活躍していました。2、3度観戦に行ったことがあります。・採光窓一番上の階で、屋根の部分にかかっているので、このような斜めの採光窓がありました。ですから、とても明るかったです。本棚が足らずに、引越しのときの段ボールにも入れていました。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/19
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)にデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 私のドイツ赴任は、1995年5月から2001年12月まででした。 1995年現地の会社を買収してできた会社への最初の赴任メンバーでしたから、日本人はいない状態からのスタートでした。1995年5月に赴任し、その年の8月に家族を呼び寄せました。家族は2000年7月に長女の高校進学のタイミングで日本へ帰りました。上限額を超えない限り、会社が家賃を払ってくれますが、単身赴任は上限額が下がりますので、家族用の住宅からアパートに引っ越ししました。シュツットガルトの郊外からエスリンゲンという町の駅近くのアパートに引越しました。 日本にいる家族に知らせるために撮ったのだと思いますが、アパートの中の写真がデジタルカメラデータとして残っていましたので紹介していきます。 アパートは駅から歩いて5分くらい、会社まで車で5分くらいの便利なところにあり、比較的新しいきれいな建物でした。確か4階建ての4階だったと思います。地下に駐車場がありました。間取りは正確に憶えていませんが、アパートの中で2階になっていて、1階部分に、リビング、ダイニングキッチン、2階部分にベッドルームがありました。単身には広過ぎるくらいのスペースで、とても快適に優雅に生活していました。そこには2000年9月から2001年12月まで、1年4ヵ月住みました。・玄関 普通は、靴のままあがるので、そなえつけの靴箱はなく、マットを敷いて靴を置いていました。右の方に2階へ上がる階段が見えています。・クローゼット 玄関の横に収容力のあるクローゼットがありました。2階へ上がる階段が見えます。左のスリッパの上に見える電話のようなものは、アパートの入り口にあるインターホンと話をする受話器です。これで怪しい人でないと分かれば、ボタンを押して入口のドアを解錠します。奥に下駄箱が置いてありますで、普段使わない靴はここに入れていたようです。・電話器 玄関を入ったところにFAX電話を置いていました。当時インターネットは、今のように普及しておらず、家族とのコミュニケーションは電話、FAX,手紙でした。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/18
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日。オルセー美術館を丸一日かけて観賞し、ドイツへの帰途につきました。「パリ美術館巡り」最終回です。 宿泊したホテルに戻って、荷物をピックアップ。もう辺りは暗くなっています。どこに泊ったか記録はなかったのですが、写真からIbisであるのは分かったので、そのホームページとグーグルマップで調べたら、パリ東駅近くの「イビスパリガールドレストディズィェム」であることが分かりました。 パリの地下鉄「メトロ」と呼ばれます。ネットの画像で調べたら、どの写真もこの緑と白のツートーンカラーでした。 シャルル・ドゴール空港。今はどうかしりませんが、赴任当初「ドイツ行きこっち」という案内が、フランス語で「Allemagne・アルマーニュ」としか書いてなくて、この方向でいいんだろうかと迷ったことがありました。 無事、ドイツに戻りました。美術館漬けの2日間でした。 これで「パリ美術館巡り」シリーズは終わりです。 明日から、「住んでいたアパート」シリーズを投稿予定です。ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/17
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#18(最終回)です。◆ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(1780-1867) 昨日のミレーよりさらに時代をさかのぼります。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、ダヴィッドから新古典主義を継承、特にダヴィッドがナポレオンの没落後の1816年にブリュッセルに亡命した後、注目され、古典主義的な絵画の牙城を守りました。 ドラクロア同様、ルーブルのほうに主要部分が展示されています。アングルは絵画における最大の構成要素はデッサンであると考えました。その結果、色彩や明暗、構図よりも形態が重視され、安定した画面を構成しています。イタリア・ル ネサンスの古典を範と仰ぎ、絵画制作の基礎を尊重しながらも、独自の美意識をもって画面を構成しています。・「泉」(1820-1856年) ほれぼれするくらい美しいですね。◆その他・大きな絵:トマ・クチュール(1815-187・仏)「頽廃期のローマ人達」 手前の彫刻:ジャン・バプチスト・カルポー(1827-1875・仏)「ウゴリーノ」・手前の白い彫刻:ジェース・フラディエ(1790-1852)「サッフォー」 右の白い彫刻:ピエール・ジュール・カヴリエ(1814-1894) 「グラックス兄弟の母、コルネリア」(続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/16
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#17です。今まであげてきた画家たちの時代から少しだけ遡ります。◆ベルト・モリゾー(1841-1895・フランス) 19世紀印象派の女性画家で、マネの絵画のモデルとしても知られています。画風は自然の緑を基調としたものが多く、穏やかで、母子の微笑ましい情景などが特徴的です。マネに絵画を学びながら、彼のモデルを多く務め、マネとの恋仲を噂されることもありました。モリゾーはマネの弟ウージェーヌ・マネと結婚します。1878年に娘ジュリーを出産。夫や娘を題材にした作品を多く描いています。・「揺り籠」(1872年)◆ギュスターヴ・カイユボット(1848-1894・フランス) 印象派絵画の収集家でもあり、印象派の画家たちの経済的支援者でした。1875年の官展に、この『床削りの人々』を持ち込んだが、「粗野」を理由に拒否されたそうです。この作品は力強さがありますが、彼の他の作品は、優しい感じの絵が多いようです。・「床に鉋をかける人々」(1875年)◆ジャン・フランソワ・ミレー(1814-1875) パリの南方約60kmのところにある、フォンテーヌブローの森のはずれのバルビゾン村に定住し、風景や農民の風俗を描いた画家たちを、今日「バルビゾン派」と称しています。ミレーのほか、テオドール・ルソー、ディアズ、トロワイヨンなどがバルビゾン派の代表的な画家であり、カミーユ・コローなども先駆者に数えられます。彼らは、風景を主要なテーマとして導入し、対象を見ながら描く習慣を断固として実践しました。 バルビゾン派の中でも、大地とともに生きる農民の姿を、崇高な宗教的感情を込めて描いたミレーの作品は、早くから日本に紹介され、農業国日本では特に親しまれました。ミレーの代表作のひとつである『種まく人』が岩波書店のシンボルマークとして採用されたのは1933年(昭和8年)のことです。 美術の中で農夫が重要な役割を占めるようになったのには、工業の広がりに従って農村人口のかなりの部分が都市に流入し、その結果生じた望郷の念と呼応しているといわれています。・「落穂拾い」(1857年)・「晩鐘」(1858-1859年)(続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/15
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#16です。◆エドガー・ドガ(1834-1917・フランス) 印象派の画家、彫刻家。通常印象派の画家の一員とみなされていますが、光と影の変化をキャンバスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠や、熱烈に信奉したアングルの画風にありました。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けていました。 バレエの踊り子と浴女を題材にした作品が多く、彼女らの一瞬見せた何気ない動作を永遠化する素描力は秀逸です。晩年は視力の衰えもあり、デッサン人形として使用した踊り子、馬などを題材とした塑像や彫刻作品も残しています。・「舞台のバレエ稽古」( 1874年頃)(ピンボケ、写り込みすいません)・「競走場 車の側の素人騎手」(1876-1887年)・「青い踊り子達」(1893年頃)・「十四歳の小さな踊り子または、衣装をつけた大バレリーナ」(1879-1881年)(続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/14
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#15です。◆エドゥアール・マネ(1832-1883・フランス) ギュスターヴ・クールベと並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在でした。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していません。近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられています。 マネの画風は、ベラスケスを始めとするスペイン絵画やヴェネツィア派、17世紀のフランドル・オランダ絵画の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものといわれています。・「草上の朝食」(1863年には「水浴」と呼ばれた)(1863年) この作品は、激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られています。戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもしました。西洋絵画史において裸婦像は数多く描かれてきましたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、ヴィーナス、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものでした。あるいは寝室や浴室など、描かれた女性が裸でいる事が自然なシチュエーションを選んで描いたものでした。しかしここでは着衣の男性と全裸の女性の組み合わせという明らかに不自然なシチュエーションを選んだため「不道徳」だとされました。・「海辺で」(1873年)・「露わな胸のブロンド女」(1878頃)(続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/13
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#14です。◆アンリ・ルソー(1844-1910・フランス) 20数年間、パリ市の税関の職員を務め、仕事の余暇に絵を描いていた「日曜画家」であったことから「ル・ドゥアニエ」(税関吏)の通称で知られています。ただし、ルソーの代表作の大部分はルソーが税関を退職した後の50歳代に描かれています。 ルソーの絵に登場する人物は大概、真正面向きか真横向きで目鼻立ちは類型化しています。風景には遠近感がほとんどなく、樹木や草花は葉の1枚1枚が几帳面に描かれています。このような一見稚拙に見える技法を用いながらも、彼の作品は完成度と芸術性の高いもので、キュビスムやシュルレアリスムを先取りしたとも言える独創的な絵画世界を創造しました。晩年に描いた熱帯ジャングルを舞台にした作品群が特に有名です。 日本でも早くからその作風は紹介され、藤田嗣治、岡鹿之助、加山又造など多くの画家に影響を与えました。・「戦争または馬駆ける不和」(1894年頃)この作品は、まだ税関に勤務しているときの作品です。◆アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック(1864-1901・フランス) 子供のころの骨折が原因で、身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感。パリの「ムーラン・ルージュ」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、デカダンな生活を送りました。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描きました。作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家です。 アブサンなどの長年の飲酒により体を壊した上、梅毒も患って次第に衰弱し、36歳という若さでこの世を去りました。 彼のポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けており、自身のイニシャルを漢字のようにアレンジしたサインも用いました。・パリの玉座の市のラ・グリュの小屋用パネル 「マウル舞踏ないしエジプト舞踏団」(1895年) ムーラン・リュージュの有名な踊り子のラ・グリュが借りた小屋の装飾をロートレックに依頼しました。この小屋が売却された後、もう1枚の絵とともに数奇な運命をたどり1926年にようやく姿を現わしました。8枚に切られていた、これらの絵を国が購入しました。オスカーワイルドなどの著名人が描かれていると解説書には書かれています。◆ジェームス・マック・ネイル・ホイッスラー(1834-1903・アメリカ)アメリカ人の画家ですが、主にロンドンで活躍しました。 印象派の画家たちと同世代でですが、その色調や画面構成などには浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開しました。色彩と形態の組み合わせによって調和のとれた画面を構成することを重視し、作品の題名に「シンフォニー」「ノクターン」「アレンジメント」などの音楽用語を多用しました。色彩は地味で、モノトーンに近い作品も多く、光と色彩の効果を追い求めた印象派の作風とは一線を画しています。・「灰色と黒のアレンジNo.1-画家の母親の肖像」(1871年)(続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/12
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#13です。◆モーリス・ドニ(1870-1943・フランス) ナビ派の一員。ナビ派は19世紀末、パリで活動した、前衛的な芸術家の集団。「ナビ」はヘブライ語で預言者を意味します。アカデミーで、以前紹介したポール・セリュジエ、今日、紹介するピエール・ボナールら、将来のナビ派のメンバーとなる画家仲間と出会っています。彼らとナビ派を結成しました。ドニは、最も早く絵画の平面性に注目した画家の1人です。モダニスムの出発点であるともいえます。・ 「ゴルゴダの丘」(または「ゴルゴダの丘に登る」)(1889年)◆ピエール・ボナール(1867-1947・フランス) ナビ派に分類され、ポスト印象派とモダンアートの中間点に位置する画家といわれます。(ナビ派)の中でも最も日本美術の影響を強く受け、ボナールの絵の平面的、装飾的な構成にはセザンヌの影響と共に日本絵画の影響が見られます。一部の作品(下の絵もそうですが)に見られる極端に縦長の画面は東洋の掛軸の影響と思われ、人物やテーブルなどの主要なモチーフが画面の端で断ち切られた構図は、伝統的な西洋美術には見られないもので、浮世絵版画の影響と思われます。・ 「チェックのブラウス」(1892年)◆ジョルジュ・レマン(1865-1916・ベルギー) 点描の時期を経て、その後、も少し伝統的な画風へと変化しました。下の絵は点描の時期のものです。・ 「アリーヌ・マレシャル」(1892年)(続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/11
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#12です。◆アンリ・エドモン・クロス(1856-1910・フランス)新印象派の画家です。・「夕べの大気」(1893-1894年)◆マクシミリアン・リュース(1858-1941・フランス)やはり新印象派の画家です。・「サン・ミッシェル河岸とノートル・ダム」(1910年) ピンボケですいません。◆アンリ・マチス(1869-1954・フランス) フォーヴィスム(野獣派)のリーダ-的存在ですが、野獣派の活動は短期間で終わりました。その後も20世紀を代表する芸術家の一人として活動を続けました。自然をこよなく愛し「色彩の魔術師」と謳われています。・「栄耀と静寂と快楽」(1904年)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/10
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#11です。◆ジョルジュ・スーラ(フランス・1859-1891) 新印象派と呼ばれる画家の一人です。原色の細かい点描で描く「点描主義」の絵を残しましたが。31歳の若さで病死したため残された作品数は少なく、油彩約60点とクロクトン(油彩下絵)約170点、素描約230点が残るのみです。写真なので、点描まで見えていません。特に「サーカス」の方は、伝統的な描き方に見えてしまっているようです。・「ポール・アン・ベッソン、外港、満潮」(1888年)・「サーカス」(1891年)◆ポール・シニャック(フランス・1863-1955) 同じく「新印象派」の画家です。シニャックはスーラから大きな影響を受けていますが、彼の点描画は、筆触がスーラのそれよりも長く、2人の画風は微妙に異なっています。シニャックは、話し好きで陽気な性格であったため、気難しい性格だったフィンセント・ファン・ゴッホとも争いを起こす事もなく、アルルでの共同生活には応じなかったものの、ゴーギャンとの衝突の末に片耳を切った事件の直後には見舞いにも行ったそうです。・「赤いブイ」(1895年) (続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年「ドイツの想い出」カテゴリー一覧表は下記です。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=5よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/09
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#10です。 ゴーギャンです。◆ポール・ゴーギャン(1848-1903・フランス) ゴーギャンは株式仲買人(証券会社の社員)となり、ごく普通の勤め人として、5人の子供に恵まれ、趣味で絵を描いていました。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎませんでした。画業に専心するのは1883年のこと。そして、1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴァンを拠点として制作をしました。クロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)という、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成する手法で描いていきます。・「美しきアンジェール」(1889年) その後、カリブ海のフランス領の島マルティニック島へ移動しました。やがて日本を訪れることになるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も近くに滞在していたそうです。 1888年には南仏アルルでフィンセント・ファン・ゴッホと共同生活を試みます。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻しました。西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことでした。原始の風景が残るマタイエアという村に移り住んで現地の女性の絵を多く描きます。・「タヒチの女立ち(または浜辺で)」(1891年) しかし経済的に行き詰ったゴーギャンは1893年フランスに帰国。叔父の遺産を受け継ぎ、パリにアトリエを構えますが、失意の末、1895年には再びタヒチに渡航しました。・「白い馬」(1898年) ゴーギャンは、イギリスの作家サマセット・モームの代表作「月と六ペンス」の主人公の画家のモデルになりました。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/08
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#9です。 モネの続きとベルナールです。◆クロード・モネ(1840-1926・フランス)(続き)・「睡蓮の池、緑のハーモニー」(1899年)の前で日本の美術館ではあり得ない光景かも知れません。・「青い睡蓮」(1916-1919年頃) 1883年4月、モネはパリの西約80kmの郊外にあるジヴェルニーに移転。以後、1926年に没するまでこの地で制作を続けました。モネはジヴェルニーに睡蓮の池を中心とした「水の庭」、さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造りました。今は、パリ郊外の観光名所として多くの人が訪れています。この庭自体が、自分の「最高傑作」だとモネ自身が言っていたといいます。モネがジヴェルニーのアトリエでもっぱら『睡蓮』の連作に取り組むようになるのは後のことです。◆エミール・ベルナール(1868-1914・フランス) クロワゾニスム(暗い輪郭線によって分けられたくっきりしたフォルムで描かれた、ポスト印象派の様式)の画家の一人です。・「愛の森のマドレーヌ」(1888)(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/07
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#8です。モネです。◆クロード・モネ(1840-1926・フランス) 特に女性に人気の画家ではないでしょうか。フランスらしい、木々から洩れこぼれる陽光やそよ風を感じられる作品が多く、私の好きな画家の一人です。・「ひなげし」(1873年)親子の楽しい会話が聞こえてきそうです。・「モントルグィュ通り、1878年六月三十日の祭典」(1878年)フランス国旗に喜びが溢れています。・「日傘の女」(1886)風がさわやかです。頬を撫でるようです。日傘を差す女性描いた作品は3点あります。1)「散歩、日傘をさす女」1875年 ワシントンナショナルギャラリー所蔵2)「日傘の女(右向き)」 1886年 オルセー美術館所蔵3)「日傘の女(左向き)」 1886年 オルセー美術館所蔵写真の絵は(3)になります。1)も後刻米国赴任中に観ました。 (2)、(3)は女性一人ですが、(1)は女性と子供が描かれています。(1)のモデルはモネの妻のカミーユと息子のジャン。しかしこの絵が描かれた4年後に妻のカミーユはこの世を去ります。その7年後に(2)、(3)が描かれました。(2)、(3)は腰に赤い花が描かれています。モネが妻カミーユと幸福な時間を過ごした街、アルジャントゥイユの象徴、ひなげし。亡き妻への惜別の想いを描いたのでないかといわれています。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/06
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#7です。◆カミュー・ピサロ(1830-1903・フランス)・「ルヴシエンヌの道」(1872) 彼の絵に多く登場するモチーフが、遠くまで続く道です。この絵はそんな絵の中の一枚です。・「赤い屋根」(1877)・「羊飼いの娘」(1881)風景画家としてやってきた彼が、人物像に重きを置くようになった後の作品です。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/05
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#6です。 セザンヌの続きとです。◆ポール・セザンヌ(1839-1906)(フランス)(続き)・「コーヒー沸かしと女」(1890-1895頃)・「林檎とオレンジ」(1895-1900頃)◆ポール・セリュジェ(1863-1927)(フランス)・「俄雨」(1893)(ピンボケですいません) セリュジュは強く縁取られた輪郭線が特徴です。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/04
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#5です。 続いて、セザンヌです。◆ポール・セザンヌ(1839-1906) ゴッホ(1853-1890)より早く生まれ、長く生きています。ゴッホ同様、パリ郊外のオーヴェール・スュル・オワーズに1872年から滞在しています。 輪郭がはっきりしてゴツゴツした硬い感じが特徴かなと思います。・「弁護士ドミニック叔父さん」(1866頃) 初期の作品です。・「オーヴェール=シュル=オワーズの首吊りの家」(1873年) オーヴェール・スュル・オワーズに移ってからの作品。・「エスタック」(1878-1879頃) (続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/03
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#4です。◆ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)(続き) 昨日のオーヴェール・スュル・オワーズに滞在する前の、サン・レミの精神病院時代の作品です。●「昼寝またはシエスタ」(1889-1890) 落ち着いた感じの作品です。●「アルルのヴァン・ゴッホの部屋」(1889) 一転、奥行きが不安定な絵です。やはり、精神的に不安定だったんでしょうか。◆アルフレッド・シスレー(1839-1899) 主にパリ周辺の風景を題材にした穏やかな風景画を描きました。●「ポール・マルリーの洪水」(1876)(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/02
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#3です。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)です。●「オーヴェル・スュル・オワーズの教会」(1890)●「芸術家の肖像」(1889)●「ポール・ガシェ博士」(1890) ゴッホは南フランスのサン・レミの精神病院生活の後、少しパリに滞在します。その後、ガシュ博士に迎えられ、パリの郊外オーヴェル・スュル・オワーズに落ち着きます。ガシュ博士はゴッホを看病し、友情で包みこみ、彼の絵画を賛美しました。これらの3作品はその時代に書かれました。力強く、うねるような線、青を主体とした色遣いがこの時代の特徴でしょうか。しかし、彼はこれらの絵を書いた直後、1890年7月29日に自ら命を絶ちました。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/09/01
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#2です。 それでは作品群を振り返っていきます。日本の美術館では写真撮影は禁止のところが多いですが、ルーブルもそうですが、ここオルセーでも写真撮影はOKでした。文化の違いなのでしょうか。ですからこうやって自分が何を観てきたかが容易に振り返ることができます。 まず、ピエール・オーギュスト・ルノワール(1841-1919)です。フランスの印象派の画家。優しい筆致で、家内が好きな画家の一人です。●「日に当たる女の上半身」(1876)●「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876) いずれも木の葉越しに差しこむ日の光がまだらの明暗を作っているのが一つの特徴ではないでしょうか。前者は「解体した肉の山」とか、後者は「人々は嵐の日に空を暗くする紫がかった雲にも似た地面の上でダンスしている」などと非難されたようです。●「都会のダンス」(1883) 上記2作品の数年後の作品です。先の2作品に比べ、色使いが純粋になっています。●「浴女達」(1918-1919)(ピンボケですいません) 80歳に近い晩年の作品。作風がやはり変化しています。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/31
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第2日、オルセー美術館#1です。第2日はオルセー博物館を観ました。・オルセー美術館 オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルでした。狭くて不便だったことから、1939年に近距離列車専用駅となり、駅施設が大幅に縮小されました。その後、この建物はさまざまな用途に用いられ、一時は取り壊しの話もあったそうですが、19世紀美術を展示する美術館として1986年に生まれ変わりました。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残っています。 2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥー・センターという役割分担がなされています。印象派やポスト印象派など19世紀末パリの前衛芸術のコレクションが世界的に有名です。・オルセー美術館 内部鉄道駅の面影を残しています。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/30
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日夜と、第2日朝です。第1日は、ルーブル美術館、凱旋門、エッフェル塔を巡って、夜遅くホテル着・地下鉄 サン・ミシェル駅 調べてみたらエッフェル塔最寄りでも、ホテル最寄りでもないので、エッフェル塔のあと、シテ島付近を少しブラブラしたのかも知れません。もう15年も前のことなので憶えていません。第2日はオルセー博物館に向かいました。・セーヌ川 向こうに見える2つの塔がある建物は「ノートルダム寺院」・セーヌ川の景色(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/29
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日。ルーブル美術館を丸一日かけて観た後、夜のパリ街歩き続きです。 エトワール凱旋門に続き、これも定番エッフェル塔に行ってみました。夜行くのは初めてです。 フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されました。エッフェル塔の名は、設計者のギュスターヴ・エッフェルからきています。現在の高さは324m。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1m。第2展望台までは階段でも昇ることが可能です。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動しています。あまりに奇抜な外見のため、建設当時は賛否両論に分かれました。京都タワーができたときと同じですね。「エッフェル塔の嫌いなやつは、エッフェル塔に行け」ということわざも生まれた。 万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていましたが、のちに、軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っているそうです。シャイヨー宮を望むエトワール凱旋門を望む(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/28
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館を丸一日かけて観た後、夜のパリの街を巡りました。 ご存知、凱旋門です。正式には、エトワール凱旋門。 シャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場にあります。シャンゼリゼ通りを含め、12本の通りが放射状に延びていて、その形が地図上で光り輝く「星=エトワール」のように見えるので、この広場は「星の広場(エトワール広場)」と呼ばれていました。そのため、「エトワール凱旋門」の正式名称があります。 アウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まりました。ルイ・フィリップの王政復古時代、1836年に完成しましたが、ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に死去しており、彼がこの門をくぐったのは1840年にパリに改葬された時でした。古代ローマの凱旋門に範を取ったもので、新古典主義の代表作の一つです。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/27
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#17(最終回)です。●「レースを編む女」ヨハネス・フェルメール(オランダ・1632-1675) ルーブルが所蔵しているもう一枚の絵「天文学者」が、今京都で開催されている「ルーブル美術館展」に来ています。●「鳥のいる樹」カスパル・ダーフィット・フリードリッヒ(ドイツ・1774-1840) ドイツのロマン主義絵画を代表する画家。宗教的含意をふくむ風景画によって知られています。●「英国王チャールズ1世の肖像」アントン・ヴァン・ダイク(1600-1649) ヴァン・ダイクはバロック期のフランドル出身の画家。上品でくつろいだ雰囲気で描かれたチャールズ1世をはじめ、イングランドの上流階級を描いた肖像画でよく知られています。 ●「サビーニの女たちの略奪」ニコラ・プッサン(フランス・1594-1665) プッサンの活躍した17世紀はバロックの全盛期ですが、彼の作品においてはバロック的な激しい感情や劇的な明暗の表現は抑制されており、代表作『アルカディアの牧人たち』にみられるような、古典主義的で深い思想的背景をもった歴史画や宗教画が多くいなっています。 これでルーブル美術館は終わりです。丸一日かけましたが、それでも駆け足でした。またいつか、ゆっくり観に行きたいものです。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/26
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#16です。●以前上の方からの眺めで紹介した「ピュジェの中庭」です。 左奥の片足を前に出した白い彫像が見えますが、それがこの庭の名前の由来にもなったピエール・ピュジェ作の「クロトンのミロン」です。ピュジェ(1620-1592)はフランスの彫刻家です。 手前のブロンズ像は「四体の捕虜、別称敗戦四ヶ国:スペイン、帝国、ブランデンブルク、オランダ」。マルティン・ファン・デン・ボハルト、通称マルタン・デジャルダン、1682-1685年作の作品。角度の関係で2体しか見えませんが、向こう側にも2体あり、合計4体です。この4体の像は、オランダ戦争での敗戦国とそれぞれが捕虜の試練の中での異なる感情を表しているとのことです。 ●「ピュジェの中庭」上段部の彫刻群●デューラー自画像 アルブレヒト・デューラー(1471-1528)はドイツの画家です。●「風景中のヴィーナス」 ドイツの画家ルーカス・クラナッハ(父)(1472-1553)。デューラー、ホルバインと並んでドイツ16世紀絵画を代表する三大画家の一人。クラナッハは神話や寓意を扱った絵に優れた作品が多いが、とりわ女性を風景に一人置くというスタイルを創造した画家とのことです。 そういえば、彼の作品はヨーロッパの他の美術館でもよく見かけ、このようなスタイルの絵の印象が強く残っています。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/25
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#15です。●「アシリ4世の神格化とマリー・ド・メディシスの摂政宣言」 by ルーベンス 昨日紹介した「マリー・ド・メディシスの生涯」の1枚です。左下から右上に流れる構図です。左側には、暗殺された後のアンリ4世の神格化、右側には《女王の摂政》が描かれています。彼らの息子であるルイ13世は、当時わずか9歳で、喪服を纏ったマリー・ド・メディシスが王国の当主となって人々の上に君臨する玉座に座っています。中央やや左には、翼を持つ戦争の女神ベローナが描かれています。寓意と神話が複雑に混ぜ合わされているようです。 ●「ジプシー女」フランス・ハルス(1581/5~1666) ハルスは、オランダ絵画の黄金時代を代表する画家の1人で、レンブラントとほぼ同時代に活躍しています。作品にはハールレムの住人を描いた肖像画が多く、人々の生き生きとした表情を捉える描写力が見事です。笑っている人物画を多く描いたことから「笑いの画家」と呼ばれているそうです。●「バテシバの水浴」レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン レンブラント(1606-1669)は、17世紀を代表するオランダの画家です。大画面と明暗を画面上に強く押し出した技法を得意とし、「光と影の画家」「光と影の魔術師」の異名をもち、人物画の黒々とした瞳も特徴です。 この絵は、水浴しているところをダビデ王に見られたバテシバを描いたもの。「覗き見する王の姿はなく、バテシバが手にした恋文からその存在を見る者に想像させるにとどめている」と解説書には書いてありますが、そんな逸話や寓話は普通日本人は知らないので単純にこの明暗の美しさを楽しめばいいのかなと思います。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/24
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#14です。●「マリー・ド・メディシスの生涯」ルーベンスピーテル・パウル・ルーベンス(1577年-1640年) ルーベンスはバロック期のフランドル(ベルギー)の画家。1621年にフランス王太后マリー・ド・メディシスが、パリのリュクサンブール宮殿の装飾用に、自身の生涯と前フランス王で1610年に死去した夫アンリ4世の生涯とを記念する絵画の制作をルーベンスに依頼しました。この依頼でルーベンスが描いたのが、この24点の絵画です。リシュリュー翼の一室を占めています。 ルーベンスは私の好きな画家の一人です。構図が大胆で、絵の中に方向的な流れがあって、筆致に躍動感があるところが好きです。 ●ピュジェの中庭 ピエール・ピュジェ(1620-1694・フランス)の彫刻が多く置かれていることから、この名前が付いています。「クロトーナのミロン」という代表作も置かれています。リシュリュー翼の中庭です。こんな中庭は、日本の美術館ではお目にかかれないスケールです。ガラスの天井で覆われています。●「ケルメス」ルーベンス 三角形に配した人々、その中にいくつかの輪が。そして躍動感。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/23
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#13です。●以前アップしたのと同じ写真ですが、そのときはこれが何なのか色々調べたけれども分からなかったのですが、その後分かりましたので、再度アップします。 今ではランドマークとなっているルーブル美術館中央入口のガラスのピラミッドですが、これはフランス革命200年記念事業の一環として、大改装後の1989年にお目見えしました。この大改装に伴う工事中に発見されたのがこの中世の城址だそうです。●「ラメセス2世の巨像」 古代エジプト美術 紀元前1200年代 エジプト タニス出土●フィールド・トリップでしょうか●ルーブル美術館の中央入口 ピラミッド(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/22
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#12です。●「夫婦の陶棺」イタリア カエレ 紀元前6世紀末 ローマ時代以前のイタリアにあった国家群エルトリアの作品●???? ネットで色々調べましたが、分かりませんでした。●「大スフィンクス」エジプト タニス 古代エジプト 紀元前1900年頃か(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/21
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#11です。●「ミロのヴィーナス」 紀元前100年頃の作品。 1820年、ギリシャのキクラデス諸島ミロス島で発見されました。 四方から観賞できるようになっているので、四方向からカメラに収めました。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/20
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#9です。●「サモトラケの勝利の女神」 古代ギリシャ サモトラケ島紀元前190年頃(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/19
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#9です。 ドゥノン翼の1階に下りて彫刻です。●「奴隷」 ミケランジェロ(イタリア・1475-1567)●「キューピッドとプシケ」 アントニオ・カノヴァ(イタリア・1757-18322) 魔法の香りをかいで永久の眠りについたプシュケをキューピッドが生き返らせるという場面。●ボルゲーゼの剣闘士ヘレニズム時代のギリシア美術(前3-前1世紀) 17世紀初頭、ローマの南、アンツィオ(古代アンティウム)にて、スキピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の指揮下行われた発掘の際に発見されました。1808年、ナポレオン1世が、彼の義理の兄弟であるカミロ・ボルゲーゼ公のコレクションを購入したため、イタリアからルーヴル美術館に移されました。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/18
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#8です。 引き続きドゥノン翼です。●ドゥノン翼の建物に囲まれた庭です。 豪華な階段があり、建物の正面のように見えますが、建物に囲まれた場所です。 最初表に面していたのが増築で中庭になったと読みましたが、真偽のほどは分かりません。●ドゥノン翼の一展示場●ドゥノン翼の喫茶エリア 趣がありますねぇ。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/17
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#7です。フランス絵画です。●「ナポレオン1世の戴冠式」 ルイ・ダヴィッド(1748-1825) ナポレオン一世は、パリのノートル=ダム大聖堂で1804年12月2日に 自分自身の戴冠式を挙行し、その様子をダヴィッドに描かせました。 皇帝が自分で戴冠する場面ではなく、皇妃ジョゼフィーヌを戴冠する 場面としています。●「メデュース号の筏」 テオドール・ジュリコー(1791-1824) フリゲート船メデュース号の遭難者149人がセネガルの沖合で12日間漂い 続けた事件を描いた作品。 人も写真に写っているので、その大きさも分かります。 近くで見ると大迫力です。これも美術館に行って実際の絵画を見たくなる 一つの動機ですね。●「民衆を導く自由の女神」 ユジューヌ・ドラクロワ(1798-1863) 1830年7月の、7月革命を描いた作品。 擬人化された「自由」が三色旗を手に、屍のバリケードを越えて突撃を 叫んでいます。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/16
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#6です。 引き続きドゥノン翼。イタリア絵画です。●「聖母子と幼児ヨハネ」通称「美しき家庭教師」 ラファエロ・サンツィオ(通称ラファエル)(1483-1520)●「聖アンナと聖母子」 レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ 通称 レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)●「王座の聖母と天使たち パドヴァの聖アントニウス 福音書記者聖ヨハネ」 ステファノ・ディ・ジョバンニ 通称 サセッタ(1392-1450) ボルゴ・サン・セポルクロのサン・フランチェスコ聖堂【パリでの苦い思い出 続き6(最終回)】 今回アップしているパリ訪問以前、1996年に家族でパリを旅行したときの失敗談を思い出し出し小出しで書いています。 その6回目(最終回)です。 ジプシーの子供たちを問い詰めるうちに、乗客の一人が「何か財布が落ちていたよ。あんたたちのかい?」が教えてくれました。 財布を受け取り中身を見ました。案の定現金は抜かれていましたが、クレジットカードなどは無事でした。最悪の事態は免れました。もう彼らを問い詰めたところで証拠はないので、どうしようもありません。クレジットカードが戻ってきただけでも、よしとせざるを得ません。もう問い詰めるのはやめました。 今から思うと、財布を渡してくれた乗客は彼らの母親で、これ以上子供に追及が及ばないようにするためで、グルだったのかもしれません。 被害は数万円。その足でルーブルに行き旅行を続けましたが、特に一日目は重い気分でした。 もう20年も前の話ですが、今のパリはどうでしょうか。旅行者の皆さん、私と同じような目に会わないように気をつけてください。ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/15
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#5です。引き続きドゥノン翼。イタリア絵画です。●「ケンタウロスにさらわれるディアネイラ」 レーニ(1573-1642)●「聖ルカと聖カトリーヌの前に現れた聖母子」 アンニーバレ・カラッチ(1560-1609)●「眠れるアンティオペ」 アントニオ・アレグリ(通称コレッジオ)(1489?-1534)【パリでの苦い思い出 続き5】 今回アップしているパリ訪問以前、1996年に家族でパリを旅行したときの失敗談を思い出し出し小出しで書いています。 その5回目です。 家内の財布を盗んだと思われるジプシーの子供たちが逃げるように次の駅で急いで降り、それを追って我々が降りたところ、今度は彼らが地下鉄に乗り込みました。逃してはいけないと思い、我々もドアが閉まる直前に乗り込みました。 彼らが盗んだかどうか半信半疑だったのですが、逃げたことで盗んだという状況証拠は明らかになりました。地下鉄に乗って、また彼らにとっては逃げ場がなくなりました。より強硬に「盗っただろう。」 でも「知らない」を繰り返すばかり。 そうこうしているいうちに、乗客の一人が「何か財布が落ちていたよ。あんたたちのかい?」と財布を渡してくれました。(明日に続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/14
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  ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#4です。●ドゥノン翼のスペイン絵画の部屋 右側上に昨日紹介した半楕円形のムリーリョの「6人の人物の前に現れる無原罪の聖母」がありますが、その下が同じくムリーリョの「聖母マリアの誕生」です。 左側の黒い壁にある、杖を鉄砲のように担いでいる少年の絵はホセ・デ・リベーラ (1591~1652)の「えび足の少年」。 左側の壁に昨日紹介したエル・グレコの「キリスト磔刑」が見えます。●後追いで、ネットで調べましたが、画家名、作品名が特定できませんでした。ご存知方がいらっしゃればコメントを使って教えてください。●ベラスケス「王女マルガリータの肖像」 ベラスケス(1599-1660)はやはりスペインの画家です。【パリでの苦い思い出 続き4】 今回アップしているパリ訪問以前、1996年に家族でパリを旅行したときの失敗談を思い出し出し小出しで書いています。 その4回目です。 ルーブル美術館に向かう地下鉄の中で、家内が「ポシェットの財布がなくなった。」と言います。同乗していたジプシーの子供たちが家内に倒れ掛かってきたときに盗まれたようで、「お前たち財布盗っただろう。」「知らない」と幾度かやりとりが続きました。でも何も証拠がないので、彼らが犯人だとは断定できません。そうこうするうちに列車が次の駅に着きました。 ドアが開きました。その瞬間、そばにいたジプシーの子供たちが数人いっせいに列車の外に走りだしました。これで彼らが犯人なのは明白になりました。 我々も彼らの後を追って、列車を降りました。 そうすると今度は彼らが、また列車に飛び乗りました。 逃してはいけないと思い、扉が閉まる直前に我々も飛び乗りました。今から思えば、家内と子供たちも、はぐれずによく付いてきてくれたと思います。(明日に続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/13
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#3です。●「キリスト磔刑」エル・グレコ(1541~1641) エル・グレコはスペインの画家ですが、クレタ島出身です。グレコはギリシャという意味だそうです。●「昇天節の総督座乗船のリド島への出発」 フランチェスコ・グァルディ(1712~93・イタリア)●「6人の人物の前に現れる無原罪の聖母」 ムリーリョ1617-82(スペイン) ムリーリョは1996年年末から1997年年始にかけて家族とスペイン・ポルトガル旅行をしたとき、プラド美術館で初めて巡り会いました。柔らかいタッチが特徴で、家内のお気に入りの画家の一人です。【パリでの苦い思い出 続き3】 今回アップしているパリ訪問以前、1996年に家族でパリを旅行したときのある失敗談を思い出し出し小出しで書いています。 その続き、3回目です。 ルーブル美術館に向かう地下鉄の中で、列車の振動で乗客の子供たちが家内のほうに倒れかかりました。しばらくして家内が「ポシェットの財布がなくなった。」と言います。 私はどこかで落したのかと思い、「次の駅で降りて、戻ろう。」と言いました。まさか盗まれたと思ってないからです。 家内「この子たちが盗んだんだと思う。」そばにいる子供たちを見てそう言います。家内は、腰に巻いたポシェットに財布を入れていました。イースターの頃はまだまだ寒いのでコートを着ていたのですが、前のボタンを留めていませんでした。ジプシーの子供たちがそれに気付き、我々を追っかけて同じ車両に乗って、振動で倒れ掛かるふりをして、家内のポシェットのファスナーを開けて財布を盗ったようです。 私(フランス語はできませんので、英語で)「お前たち財布盗っただろう。」当然ながら彼らは「知らない。」何度か、こんなやりとりが続きました。周りの乗客は知らん顔です。「また無防備な日本人がやられているわ。」ってな感じなんでしょう。何も証拠がないので、彼らが犯人だとは断定できません。 そうこうするうちに列車が次の駅に着きました。(明日に続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/12
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 ドイツ赴任時代にヨーロッパ各国を旅行するうちに、いつの間にか絵画ファンになっていました。日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。 2001年11月24日、25日のパリ美術館巡りの第1日、ルーブル美術館#2です。 ルーヴル美術館は世界で最も入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れています。フランス王フィリップ2世が12世紀に、もともと要塞として建設したルーヴル城(ルーヴル宮殿)だったところです。●「ダリュの階段」 踊り場にあるのは「サマトラケのニケ」スポーツ用品メーカーの「ナイキ」の名前は、このギリシャ神話の勝利の女神「ニケ」から来ているとのこと。英語ではナイキ (Nike) と発音。トレードマークはこの女神の翼をイメージしたものとのことです。●ドゥノン翼●ご存知「モナ・リザ」(レオナルド・ダ・ヴィンチ)【パリでの苦い思い出 その2】 今回アップしているパリ訪問以前、1996年に家族でパリを旅行したときの失敗談を思い出し出し小出しで書いています。 その2回目です。第1回からの続きです。 荷物をホテルに預けて、地下鉄でルーブル美術館へ。途中の駅で乗り換えました。パリは旅行者のお金や財布が盗まれることが多く、気をつけなければならないことは十分認識していたつもりでした。 乗り換え駅の連絡通路でアジア系の子供たちが多くたむろしているのに気がつきました。彼らが「ジャポネ(日本人だ)」と言っていたと記憶しています。本当はそのときに気をつけなければいけなかったのです。でも、ドイツに赴任して初めてのパリ旅行。どこか「ふわふわ」としていたのだと思います。この後、大変な目に会うことになります。 ルーブル美術館方面に向かう地下鉄の電車が来たので乗りました。結構車内は混んでいて、私と家内が離れ離れになってしまいました。私は乗ったドアと反対側のドア近くに、家内は子供たちといっしょに乗った側のドア近くに立ちました。通路にたむろしていた子供たちも、その列車に乗ってきたようです。電車が発車し、揺れに合わせて子供たちが家内たちのほうに倒れ掛かってきました。 しばらくして家内が「ポシェットの財布がなくなった。」と言います。(明日に続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/11
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 ドイツ赴任時代にヨーロッパ各国を旅行するうちに、いつの間にか絵画ファンになっていました。日本に帰任する前に、パリの美術館巡りをしておきたいと思い、帰任の約1カ月に週末を利用し、パリに1泊2日で旅しました。2001年11月24日、25日です。 まず1日目。 飛行機でシュツットガルトからパリ・シャルルドゴールに飛びました。多分出張で溜まったマイレージを使ったのではないかと思います。●パリ東駅 空港からの列車は北駅に着きますが、まず東駅近くに予約したホテルに荷物を預けるためパリ東駅まで歩いたようです。●最初はルーブル美術館です。 ドイツ赴任した翌年の1996年に家族でパリ旅行したときに訪れていますので2回目です。そのときは子供といっしょでしたし、他にもたくさん観光したかったので、駆け足でした。今回は、もう一度一人でゆっくり見たいという気持ちで訪れました。これは建設時物議を呼んだ「ピラミッド」と呼ばれるガラス張りの四角錐の地下部分。●ルーブル美術館地下フロア ここでチケットを買います。【パリでの苦い思い出 その1】 1996年に家族でパリを旅行したと書きましたが、そこでちょっと苦い体験をしましたので、このシリーズの中で少しずつ書いていきます。 イースターの休みを利用して、4日間の旅行でした。飛行機で家族旅行は経済的に苦しいので、シュツットガルトから夜行列車でパリへ。翌朝パリの東駅に着き、駅の軽食レストランで食事。ホテルは北駅の近くだったので、そこまで荷物を転がしてまず荷物を預けました。 身軽になったところで地下鉄でまずルーブル美術館へ。途中の駅で乗り換えです。 パリは旅行者のお金や財布が盗まれることが多く、気をつけなければならないことは十分認識していたつもりでした。 でも、やられちゃいました。(明日に続きます。)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/10
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 2001年9月13日~9月16日にかけて高校時代の同窓生がドイツに遊びに来たときのスイスへの旅行記です。2泊3日での旅行です。9月16日、スイス第3日の続き。最終回です。ルツェルンの街の観光続きです。●ライオン記念碑 「嘆きのライオン像」、あるいは「瀕死のライオン像」とも呼ばれています。強大なハプスブルク家を破って独立を果たしたスイス歩兵の精強さは、ヨーロッパ中に知れ渡り、16世紀に入ると、スイス兵は傭兵としてヨーロッパ各地で活躍しました。フランスではルイ14世の時代にスイス傭兵などによるスイス衛兵とスイス連隊がつくられました。1792年8月10日、フランス革命で、スイス兵部隊はテュイルリー宮殿で600名が戦死しました。この戦いでのスイス兵の果敢な英雄的行為を伝え聞いたデンマークの彫刻家トルバルセンが、1821年に断崖に鎮魂の慰霊碑を刻みました。 一路ドイツのシュツットガルトに戻りました。●客人が宿泊したグラフ・ツェッペリンホテル 客人お二人は、翌日シュツットガルト中央駅から列車でウィーンに向かい、ウィーンで1泊か2泊して無事日本に帰国されました。もうおひとりも学会か何かに出席されたあと、無事日本に帰られました。お客人3人のうち、2人は面識のない方でしたが、本当に楽しい旅行でした。(次回からはパリの美術館巡りです。)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/09
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 2001年9月13日~9月16日にかけて高校時代の同窓生がドイツに遊びに来たときのスイスへの旅行記です。2泊3日での旅行です。9月16日、スイス第3日 続き。 マイリンゲンの「シャーロックホームズ記念館」を訪れた後、ルツェルンの街を観光しました。 前日分をアップした後、思い出したことがあります。大学病院で医者をしているIT君(今はその大学病院の院長さん)はスイスである学会か何かに出席しなければならなかったので、確かインターラーケン駅でさよならをした記憶があります。従って以降は私と女性陣二人での旅行となりました。 ルツェルンの街をそぞろ歩き。スイス中央に位置するルツェルンは、フィアヴァルトシュテッテ湖(ルツェルン湖)とピラトゥス山やリギ山に囲まれ、ロイス川が流れるきれいな街です。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/08
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ドイツでの単身赴任時代(2010年7月~2011年12月)の旅行の想い出をデジタルカメラで撮った写真を掘り出しながら思い出し出しアップしています。 2001年9月13日~9月16日にかけて高校時代の同窓生がドイツに遊びに来たときのスイスへの旅行記です。2泊3日での旅行です。9月15日、スイス第2日。 ツェルマットをあとにして、2泊目のグリンデルヴァルドに向かいます。距離的に近いのは、カートレインという列車に車を乗せて、鉄道トンネルで山越えしてインターラーケン方面に向かう方法です。以前家族でスキーでツェルマットに近いザースフェーを訪れたとき、冬季でフルカ峠越えができなかったので、このルートで帰ったと記憶しています。 南側のゴッペンシュタインという駅でカートレインに車を載せます。それほど長時間乗るわけではないので、乗客は車に乗ったままです。乗っているのは20分か30分くらいでしょうか。日本では経験できない旅の方法なので日本からの客人も大喜びでした。残念ながら写真が残っていませんが、・・・・ 北側のガンダーシュテークで列車を降り、グリンデルヴァルドに向かいました。グリンデルヴァルドはユングフラウ、アイガー、メンヒのオーバーラント三山の麓の町です。●グリンデルヴァルドで泊ったホテル ベルヴェデール9月16日 第3日 残念ながら雨。登山鉄道でユングフラウヨッホ(3454m)まで登るつもりでしたが、あきらめました。ダイヤリーの記録によると「シュタウバッハ滝」「トリュンメルバッハ滝」に行ったと書いてあります。その記憶もうっすらありますが、残念ながら写真がありません。天気が悪かったので撮らなかったのかもしれません。 ドイツに帰る途中で、いくつかその他の観光地に寄りました。●マイリンゲンの「シャーロックホームズ記念館」 コナン・ドイルがその雄大な自然に感動し、『シャーロックホームズ最後の事件』の中で、この町にあるライヒェンバッハの滝をホームズ最後の地の舞台として描きました。村の英国教会の中に、物語の中に登場するベーカー・ストリートのホームズの書斎を完璧に再現した部屋をつくり、記念館として1991年からオープン。ホームズやワトソン教授のもっていた小物など、細部まで細かくコピーしています。●途中の駅で遭遇したSL 観光用だと思います。(続きます)ドイツ在住期間:1995年~2001年よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/08/07
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