草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2016年03月17日
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                    『戦争反対!』 に異議あり





   戦争反対! に異議有り  大いに異議あり    国会内で 議事堂のすぐ外で



   人々は今 口々に叫んでいる ― 戦争 絶対に 反対と………、真剣に 一種悲壮感さえ 漂わせながら



 戦争はもう懲り懲りだ 二度と御免だ! この国を 私が心から愛してやまない この素晴らしい国と国民とを



 戦争に駆り立てては 絶対にいけない!! 平和憲法を守れ 我が国が世界に誇る 戦争をしない 不戦の



 誓いを死守せよ  今 人々は 懸命に 必死に 叫んでいる ―― この騒動に 異議あり 異議有り



大いに異議有り  私の魂が 大和魂が 違和感を 覚えている どこか 何かが 狂っていると





 そんな 傍観者のような 口をきくな 他人事のような 減らず口をたたくな


 自然が 既に警告を 発し続けているではないか  大地震であり 未曾有の津波であり


 そしてまた 異常気象であり 火山の噴火現象である



 人間の力には 限界がある 人間にできることは…  現在の世相が顕に 露骨に 示しているのは



 不信だ 政治リーダーへの不信 政治家への不信 そして国民への強い不信と



 国民相互間の強烈な不信 不信 不信 また不信…  先人たちが愛して やまなかった あの麗しい国と



 そしてあの 何とも愛すべき国民たちは 一体全体 何処に行ってしまったのだろうか





            戦争反対騒動に 異議有り 異議有り








                  愚 か 者



 働きすぎ ワーカホリックのバカだと 私は言われた 仕事が好きで 好きでたまらなかったから  我武者羅に



一心に 闇雲に 働いた そう 確かに 愚か者として 私は働き通した 幸せだった 今も 愚かな私は 働き






  建込んだ汚(きたな)らしい家の屋根つづき。風雨(あらし)の来る前の重苦しい空に映る燈影(ほかげ)を望みな

がら、お雪とわたしとは真暗な二階の窓に倚(よ)つて、互いに汗ばむ手を取りながら、唯それともなく謎のような事

を言つて語り合った時、突然閃(ひらめ)き落ちる稲妻に照らされたその横顔。それは今も猶ありありと目に残つて消

去らずにゐる。わたくしは二十(はたち)の頃から恋愛の遊戯に耽つたが、然し此の老境に至つて、このような痴夢

(ちむ)を語たらねばならないやうな心持にならうとは。草稿の裏には猶数行の余白がある。筆の行くまま、詩だか散




 殘る蚊に額さされしわが血汐(ちしほ)。 ふところ紙に 君は拭ひて捨てし庭の隅。 葉鶏頭の一茎(ひとくき)

立ちぬ。 夜ごとの霜の寒ければ、 夕暮の風を待たで、 倒れ死すべき定めも知らず、 錦なす葉の萎(しを)れな

がらに 色増す姿ぞいたましき。 病める蝶ありて 傷(きずつ)きし翼によろめき、 返咲く花とうたがふ鶏頭

の   

倒れ死すべきその葉かげ。 宿かる夢も 結ぶにひまなき晩秋(おそあき)の たそがれ迫る庭の隅。 君とわかれし

わが身ひとり、倒れ死すべき鶏頭の一茎と ならびて立てる心はいかに。 (丙子・ひのえね十月丗日脱稿


  作者贅言   向島寺町に在る遊里の見聞記(けんもんき)をつくつて、わたくしは之を濹東綺譚と命名した。濹

の字は林述斎が墨田川を言現すために濫(みだり)に作ったもので、その詩集には濹上漁唱と題せられたものがある。

文化年代のことである。

 幕府瓦解(ぐわかい)の際、成島柳北が下谷和泉橋通(いずみばしどほり)の賜邸を引払ひ、向島須崎村(すさきむ

ら)の別荘を家となしてから其詩文には多く濹の字が用ひ出された。それから濹字が再び汎(あまね)く文人墨客の間

に用ひられるようになつたが、柳北の死後に至つて、いつともなく見馴れぬ字となった。


 物徂徠(ぶつそらい)は墨田川を澄江となしてゐたやうに思つてゐる。天明の頃には墨田堤を葛坡(かつは)となし

た詩人もあつた。明治の初年詩文の流行を極めた頃、小野湖山は向島の文学を雅馴(がじゆん)ならずとなし、其音に

よつて夢香洲(むかうしう)の三字を考出したが、これも久しからずして忘れられてしまつた。現時向島に夢香荘とよ

ぶ連込宿がある。小野湖山の風流を襲(つ)ぐ心であるのかどうか、未だ詳(つまびらか)にするを得ない。


 寺島町五丁目から六七丁目にわたつた狭斜(かふしや)の地は、白髯橋(しらひげばし)の東方四五町のところに在

る。即ち墨田堤の東北に在るので、濹上となすには少し遠すぎるやうな気がした。依つてわたくしはこれを濹東と呼ぶ

ことにしたのである。濹東綺譚はその初め稿を脱した時、直に地名を取つて「玉の井双紙」と題したのであるが、後に

聊(いささ)か思ふところがあつて、今の世には縁遠い濹字を用ひて、殊更に風雅をよそほはせたのである。 ― 永

井荷風(1879~1959)の白鳥の歌とも称すべき作品からの引用。








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最終更新日  2016年03月17日 09時34分03秒
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