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「カクテル・パーティ」の翻訳を先ずは終えることが出来て、ほっとしているのですが、非常に興味深く原作を味読出来て満足です。次は「太平記」に挑戦する予定ですが、その前に、いつもの如くに特に若い世代の読者に老婆心ながらの「助言」と言えば体裁がいいのですが、繰り言めいた独り言を申し述べたいと思います。 貴方は、或いは、貴女は現状に満足できているでしょうか? 多分、殆どの方が幾分なりとも不満足感をお持ちなのではないでしょうか。 T S エリオットの「カクテル・パーティ」は以前に読んだ時よりも遥かに興味深く、オーバーに表現するならば、スリリングに読み進みました。女性を愛せない男と、男性から愛される事の無い女性の悩み・孤独感・絶望などなど、現代のみならずに、何時の世でも意識的に、自覚的に生きる者ならば誰しもが抱く根源的な悲しみ、空虚・不条理、無情感…。人間は本質的に孤独・一人切りな存在なのだ。 私の事を申せば。両親の深い、無償の愛情に恵まれ、優しく美しいパートナーに神の計らいで出遭い結ばれ、仕事を遊びに代えて熱中出来た最良の相棒と固く結ばれ、良書とも邂逅出来、などなど良いことずくめの人生を送ることが許されて、自分自身を 幸福長者 と称して自画自賛しているのですが、神無き現代、或いは無限の愛情の塊である絶対者から見放された現代人らしからぬ野蛮人でありまた原始人たる私、草加の爺は、生まれながらにして幸福感や生の充実感を感じ取れていたわけではなかった。十代の後半では、その理由は定かではないのですが、何時も自殺を考える暗く、暗澹たる心情を抱えてもいた。自死する勇気が持てなかったからそうしなかったに過ぎない。少なくとも親兄弟や他人の目からはそんな風には全く見えなかったはずなんですが。 それはともかくも、私達は何かある目的が、何か成し遂げなければならない使命を帯びてこの世に生み出されわけではない。この世に産まれ出たのは少なくとも、意識的には主体的にそうしたわけではない。生まれさせられた、と受動的に表現した方がふさわしい様なこの世へのデヴューなわけです。そして、物心がつくとは自我に目覚める事を意味します。良くも悪くも自分は自分なのです。人とは違うが自分とは一体何者なのか…、言葉にすればそんな風な感慨をおのずと覚える。腹が減る、暑い、寒いの感覚に襲われる。全部が受け身である。 所で、自覚的に生きるとは常に現在進行形である。永遠の 今 がいつの間にか始まつている。永遠なそと言う時間の感覚は、人には与えられていない。常に今しかないのだ。死とは今が消滅する事だ。過去と言う概念も今でしか捉えられないし、今思っている過ぎ去った時間の記憶である。今は様々な過去に支えれれて存在する。歴史とは集団の過去の記憶だ。過去は物語りの形でしか現存し得ない。過去を持たない人間はないが、今に過去が蘇るとはまざまざと過去が見える、或いは実感できると言う事だ。 古事記と言う古典が我々と無縁でないのは、それは記憶にない我々の体験であり、喜怒哀楽の記憶なのである。源氏物語は紫式部が創作した架空の世界ではない。我々がその気になれば参画できる夢なのだ。夢とは現実から生み出される理想的な人間世界でもあり得る。そして夢は、未来に向けて希求することも出来るが、その本元は過去に見た別世界だ。望ましい物も望ましくないそれも含めて。 過去は確かに実在したのだが、未来は存在しない。在るのは常に今だけなのだ。望ましい未来、おぞましい未来などと言うが、単なる言葉だけにしか過ぎない。 従って、失われた未来などと言ったところで、言葉の遊びでしかない。存在してないものが失われる筈もない。本当の未来とは、今・現在が紡ぎ出している透明無色な人間の夢であろう。 さて、若い皆さん、老人を見てどう感じていますか。素敵な人もいれば、そうでない人もいる。周囲にいる同世代の人々と同様ですね。 私は子供の頃、年長者に常に憧れを抱いていました。特に、年上の女性に。それは母親から受けていたマザコン的な感情だった。 今の私は81歳になって、容貌が醜く、体力も衰え、自他ともに好ましくはない在り方なのですが、それでも自分では現状に満足できています。若者を羨ましく思うのはその外見が輝いているからで、私も若い頃にはそうでありました。 考えるまでもなく、この世での生命現象は不可思議の連続です。しかし、我々はその不思議の真っただ中に生かされてあるので、不思議だと実感するのは稀であります。不可思議だらけなので、それは見馴れた普通の事柄で、特別な感動や感銘は受けないのですが、それでも、不思議は不思議なのです。 何故、私なる存在が今此処に現存し得るのか…。余ほどのもの好きでもない限りは、そんなことにかかずり合う気にもなれないでしょう。 人間の幸福とか、不幸とか、運が良いとか、悪いとか、実はどうでも良い事なのでした。私が啓示を受けた厳粛なる偉大な絶対者は萬物に無限の愛情・慈悲を与え続けておられる。これは、紛れもない事実で、見るもの、聞くものの全てがそれを證して止まない。 眞の意味の教育とは、宗教(宗とする教育のことです)とは、その広大無辺の無償の働きに着目させ、目覚めさせる行為なんです。それに比べれば、世に行われている教育など、どうでも良い事になってしまうでしょう。 男が見目麗しい女性に魅かれる、女が容姿端麗な男性に魅惑される。これ皆、絶対者の計らいだと断言しても間違いではない。本質的に不可思議な現象ではあっても、極当たり前なことでありますからね。生物界に雄と雌がいて、世代交代がなされ、永続的な今が持続され続ける。 生命現象は何度繰り返されても有難い物、祝福されるべきもの。信に目出度い好ましい事柄なのですね。 私は個人は孤独で寂しい存在だと申しましたが、同時に、と言いますか、全体の一部であり、全体に内包された有機体の部分でありますから、俯瞰すれば孤独どころか、寂しいどころか、福々しいにぎにぎしい存在であるのです。祝福されてあるのです。皆が幸福長者たるべき存在なのですよ。私は、事実を述べているにすぎず、説得しようなどとは毛頭考えておりません。 私は前にも繰り返し書いて来ているのですが、柴田悦子、私の愛妻ですが、最初に出会って結婚を約束してからも、その本当の素晴らしさや愛情の深さを実感できずにいた。つまり、結婚して生活を共にしてから徐々に、彼女の真実の姿に触れるようになっていった。自分のような者には勿体無い女性だ、これは神の御引き合わせに違いないと自然に、少しずつ分からせられた。 悦子の方はどういう訳か直観力に優れていたのか、後で聞いてみると一目惚れしたとか。その後私に愛想尽かしをするどころか、益々私への情愛が深くなるような夫婦としての絆を築くように我々夫婦はお互いを高め合った。それも、神の計らいであっただろうと思っています。相思相愛者となれたのも似たもの同士であったからで、人間と神の意思疎通が円滑に齟齬なく運んだのは予定調和の如くで我々には望外の幸せでした。 私は女性運が生まれつきに強い星の下に生まれついているのか、母親、姉、妹など少なくとも私にはこれ以上はないと思われるほどに、彼女たちからも過分の愛情を忝くして今日に至っている。 私は、人生に一時期を除いては孤独や孤立感、凍えるような寂しさなどは感じないで過ごすことが出来ている。 Ⅾ ℍ ローレンスに「現代人には、他者を愛する事が非常に難しい」との思想がありますが、それは神を見失ったからに相違ないのです。 私も悦子も現代人ではありますが、神に愛され続け、無意識に神を信じている共通点がありました。ここで、再び若い人々に申し上げましょう。 神を信じようが、信じまいが、神は決してその被造物たる私達を見捨てる事はありません、断じて、金輪際です。ですから、安心して自由気ままに人生を謳歌なさるのが宜しいのです。 私が、こんな能天気な駄法螺めいた事を野放図に放言すると、必ず次のような抗議の声が、不幸な境遇に喘いでいる人の中から聞こえて来そうです。 貴方は偶々、偶然に幸運に恵まれてほくほくできている様だが、私は、不運にもこれこれの理由でとても人生を謳歌するどころではない。余りにも理不尽な運命がこんなにも私を今痛めつけていると言うのに…。そうでしょう、そうでしょう、御尤もな言い分だと思います。私には、そしてあなたにもそのような羽目に追いやっている神の、運命の意図が理解できません。しかし、確信して下さい、やがて深い暗鬱な霧は晴れるに相違ない。歴史が、物語がそれを證してあまりあるものがあります。あなただけが特別に例外的に徹底して不運であり、全部が全部不幸である筈がないのです。神の愛は広大無辺であり、必ずや普通の幸福が廻って来る。あなただけが最悪の貧乏籤を引いている理由は何処にもないのです。安心して下さい。 私は以前に、四つの幸せ塾と言う物を提唱して主宰したことがあります。 四つの幸せとは、天の配剤、地の恵み、自分が自分である事の幸せ、人の和・輪、であります。これは例外なく誰にでも必ずついて回っている根本的な条件です。 あなたが今、大きなたとえようもない不幸・災難と感じている事態を、そのままで見方を変えてみるだけでも意外や、そうとも言えないと見えるかもしれないのです。 私はブログに、「ブスはブスを磨け、馬鹿は馬鹿を磨け」と言う著作を発表したことが有ります。ブスとか、馬鹿などと言う概念は非常に相対的なものでして、ブスとは誰かと比較した場合に悪態として他人から言われる言葉でしょうが、絶対的なブスなどと言うお方はこの世に存在しない。私は今でも自分を馬鹿だと思っていますが、その馬鹿さを自分なりに努力して磨き、人さまからはどう見えようとも、バカはバカ成りになんとかなるものだと、高をくくっているわけです。 人にはそれぞれどうにもならない弱点や欠点があるものです。それを歎いているだけではかなしいではありませんか。その弱点・欠点をそのままで長所に変える、美点にしてしまう。これは努力次第では可能なことなのです。 お人形のような美人は、老年を迎えればその魅力を大半は失ってしまう。イケメン男も老年を迎えなくとも魅力を失うかもしれません。人間は外見だけではありません。内部から光輝くような美男・美人が本当の立派な人物たり得る。 人は一人では生きられません。貧乏でも健康であればなんとか幸せな人生は送れます。病身でも人とのつながりを大切にしていれが、ベストではなくとも、次善の幸は得られるでしょう。 どうか、あなた様が、恙無く、平穏無事な日々を送迎できますよう陰ながら、私も祈っております。無宗教でも、無信仰でも心の中で平穏無事を密かに祈るならば、そういう気持ちに自然にんれるならば、その願いは半ば以上叶えられているのです、間違いなく。
2025年11月28日
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ラヴィニア いいえ、ピーター、全部が無意味だなんてことはないのよ。貴方はまだ始めたばかりじゃないの。つまり、これで貴方は出発しなければならない地点に立ったの。貴方は今仰ったわ、自分はセリアを知らなかったと。我々の誰もが同様だった。貴方がこれまで生きて来た根拠は彼女のイメージでしかなかった。それは貴方が自身のために作り上げたもの。貴方の必要に応じてね。ピーター、どうか私が不親切だとは思わないでね。ピーター ええ、貴女は僕に不親切ではありませんでした。ラヴィニア、そして貴女は正しいのです。ラヴィニア そして多分、私がこれまでに言ってきたことは、不親切さを減らしはしないでしょうね。もし貴方に私自身の事しかお話しなかった事実を理解させ得たとしても。エドワード ラヴィニアは正しい。此処からが君が出発する場所なのだ。もしも、ピーター、君が君自身について正対したと思わない事柄を完全に理解したとしても、そう、忘れないでいて欲しい、自分自身について遥かに悪い事柄を学ばなければいけない者もいる事を。そして後になってそれらを学び、回復不能になるが、それでも新しい出発をするのだ。君の場合はそれほど困難ではない。君は当然のように良いのだ。ピーター 残念ながら、僕にはあなたが今仰ったことが飲み込めたとは信じられないのです。でも、それにもかかわらずに、感謝します。あの、ですね、あなたがお話されている間中、一つの考えが頭の中をぐるぐると廻っていました。僕は自分の事しか関心がなかったのだと。そしてそれは、セリアには十分に良くはないのです。ジュリア 貴方は学習したのよ、ピーター、どのように人々を見るのかを。貴方が片方の目でフィルムを見ながら人々を見る時、それはつまり、あなた自身に関心を向けているのではない。単なる一つの目であるだけよ。貴方はやがていつの日か、そのようにしてセリアを思うようになるでしょう。そしてそうして彼女を理解して、妥協できる。そして彼女考えて幸福を感じる。ラヴィニア ヘンリイ卿、お尋ねしたいことがあるのですが。アレックスが我々にセリアに何が起こったのかを話している間、私はあなたの顔を見ていたのです。あなたの表情からは彼女が死んだ有り様は貴方を混乱させなかった、或いは、彼女が数人の死んでいく原住民を見捨てなかったから死んだ事実は、と言い直してもよい。ライリイ 誰に解るでしょうか、チェンバレン夫人、死につつあった原住民になされた、或いは死んでいった時の住民の心理状態などの違いが。ラヴィニア それは素直に認めましょう。でも、私の胸を打ったのは、貴方の顔は何の驚きも恐怖も示さなかった、彼女の死に方については。私は貴方が彼女を知っていたのかは分かりません。彼女を御存知だってと推察はしているのでっすが。いずれにしおても、貴方は彼女について知っておられた。しかも、貴方の表情は満足感を現わすものでした、ライリイ チェンバレン夫人、私が余りにも率直過ぎるか。もしくは貴女が非常に知覚力にたけているのか。ジュリア ああ、ヘンリイ。ラヴィニアは貴方が思っている以上に遥かに観察力に優れている。彼女は貴方に手の内をすっかり晒すことを迫っているのだと信じるわ。ライリイ あなたは今の状況を正確に述べています、ジュリア。詩を引用しても宜しいでしょうか、チェンバレン夫人。ラヴィニア あら、嫌ですわ。むしろ貴方が詩をお話される方が歓迎です。ジュリア 彼女は核心を突いてきたわよ、ヘンリイ。ラヴィニア …、もしも、私の質問に答えて下さるのなら。ライリイ バビロンが滅びし時、マギ族のゾロアスタ、我が死にし兒、は自分のイメージが庭を歩くのを見た、その幽霊は、人間の底辺にいて、彼は出遭ったのだ。彼は知っていた、生者の世界死者のそれとの二つがあることを。ひとつは目の前に見ているその世界で、もう一つは墓の下に展開するそれだ。そこにはあらゆる形の影が物を思い、生活して、死が両者を結び付けて離れられなくなってしまう迄…。 私が最初にコプルストン嬢にこの部屋で会った時に、私はその幻影が官女の座っている椅子の後ろに立っているのを見た。セリア・コプルストン嬢のようなそれ。激烈な死後の最初の五分間の驚愕を示していた。もしこれが貴女の馬鹿正直さを刺激したのであれば、チェンバレン夫人、ある心理的な状況下で、突然に芽生えた直観力がたちまちに一枚の絵画として出現する傾向にあるのですが、その示唆を単純に楽しむように貴女にお願いしたい。それは私にも起こる、時々ですが。それで、此処に死の宣告を受けた一人の女性がいた事は明白なのです。それは彼女の定めだった。ただ一つの疑問は、それでは、それはどんな種類の死だったのか。私には知り得ないこと。何故ならば詩へと続く道を選んで進んだのは彼女だったからです。しかも、最期を知らずに死の形を選択した。我々は彼女が選んだ死を知った。私は彼女がこんな風に死にだろうとは知らなかった。彼女も知らなかった。それで私に出来た全ては、その道へ行く準備の方法を指示する事だった。その道を彼女は受け入れたのだが、この死へと続いていた。そして、もしそれが幸福な死でないならば、どんな死が幸福であり得ようか。エドワード つまり、こう言う事ですか、この死の形を選んだ事は、彼女に普通の人々が経験する苦しみよりもより少なくした、と。ライリイ 全然、違うのです。むしろ、その真反対です。こう言いたい、彼女は我々と同様にすべての事を苦しみとして体験した。恐怖し、苦しみ、他人を呪いして…。これらを全部一緒くたにして。それと、肉体の不承不承さ、単なる物になってしまうことへの。こう言ってもよい、彼女は我々にまさるより多くの苦悩を経験した。何故ならば、彼女は残りに我々よりもより意識的であったから。彼女は自分の受けた苦悩に最も高い対価を支払ったのです。それが私の設計した計画の一部だった。ラヴィニア 恐らくは、彼女は死以前に、さらに大きな苦悩を経験したのでしょう。つまり、私は最近の二年間は彼女に就いて何も知らないのです。ライリイ それは貴方の側の、ある洞察力を示しているのです、チェバレン夫人。しかし、そうした経験は、神話とか想像世界で暗示され得るだけなおです。それについて話をすれば、我々は、暗黒、迷路、ミノタウルスの恐怖などを述べなければならない。しかし、その世界はこの場所には適していません。想像してください、砂漠の聖人は精神的な悪魔をいつも自分の肩に背負っていて少しも苦難を免れる事は無いのです、飢餓、有毒ガス、日光や風雨に晒される事、下痢腹、やライオンの恐怖、夜の寒気、昼の暑熱など、我々が受けるのよりも少ないと言う事はない。エドワード しかし、もしこれが正しくて、…、セリアの場合にも正しいとして、恐ろしく具合の悪い他に何かがあるに相違ない。しかも、我々の残りの者はいずれにしてもその悪い事態の中に巻き込まれている。僕は自分自身の事だけを言うべきだ、僕は確実に、そうだ。ライリイ 一つの障害から私が、貴方の心を自由にして差し上げましょう。貴方は努めて、自分の責任だとまだ感じているわだかまりから離れるようにするのです。エドワード 僕はそれでも感じざるを得ないのですよ、いずれにしても僕の責任は、半分狂っている野蛮人の一団よりももっと大きいのだと。ラヴィニア ああ、エドワード。分ったわ! 貴方が考えている事が。でも、貴女の手助けにはならない、私も罪悪感を感じている事は。ライリイ もしも我々全員が行動の結果に応じて判断されるとすれば、言葉や行為のすべては、意図や自分自身や他人についての制限された理解を超越したところで、全員が例外なく非難されるべきなのだ。チェンバレン夫人、私はしばしば決断を迫られる。患者の回復や破滅に直結するかも知れないそれを。しかも私が時々は誤った決定をしてしまう。コプルストン嬢に関して、貴女はその死は浪費だと考えるので、御自分を責めていらっしゃる。そして御自分を責めているからこそ、彼女の命は無意味に浪費されたと思われている。それは無自覚に勝ち誇っているのです、でも、私はその意気揚々した気持ちに責任などは持たないのです。しかも貴女同様に彼女の死に責任があるのです。ラヴィニア でも、私は自覚しています、これからも自分を線続けるだろうと。彼女にひどく不親切だった、…、とても敵対的だった。二年前に私達に「さよなら」を言った彼女の姿をみつづけながら…。エドワード 君の責任などは僕のに比べれば何ほどでもないさ、ラヴィニア。ラヴィニア それについては確信が持てないわ。貴方を理解していながら、セリアを誤解したことに関しては…。ライリイ あなた方はこの記憶と共に生きて、それを新しい何かにしなければいけません。過去を受け入れる事でしか、その意味は変えられないのです。ジュリア ヘンリイ、私が何かを言う時だと思うの、皆が選択をする、或る種類か別の、そしてその結果を受け止めなければいかない。セリアはその結果がキンカンジャだった道を選んだ。ピーターはボルトウエルへと通じる道をとった。そして、彼は其処へと出かけなければいけない。ピーター 意味が解りました。僕はそうしなければとは思っていないのです。でも車が待機しているのです、専門家達も。…、僕は殆どそれを忘れていました。僕はそこからは逃れられないと気付いたのです。しかも、他に何が僕に出来るでしょうか。アレックス 君のフィルムだよ、ベラは大いに期待している。ピーター それでは僕はこれで失礼します。エドワード 君にまた逢えるかな、ピーター、イギリスを後にする前に。ラヴィニア 是非とも、いらっしゃってね。分るでしょうが、皆はそれが嬉しいのです。…、貴方と私とエドワードとでセリアの話をするのが。ピーター 大変に、有難うございます。でも、今回は駄目です、単に、出来ないだけです。エドワード ども、次の訪問時には…。ピーター 次にイギリスに来る時には、僕は約束します。僕は実際、お二人にお会いしたかったのです、心の底から。さようなら、ジュリア、さようなら、アレックス、さようなら、ヘンリイ卿。 (退場する)ジュリア …、さて、さて、チェンバレン夫妻の選択の結果は、カクテル・パーティだった。準備は既にできている。お客も直ぐにでもやってくるでしょう。ライリイ ジュリア、貴女は正しい。これもまた正しい、チェンバレン夫妻がカクテル・パーティを主催するのは。ラヴィニア そして私はさっきからずっと考えていたの、ここ五分の間に、どのように私はお客にせっしたらよいかと。もう、終わってしまっていたらと願うの。でも…、貴方がいらっしゃたのは嬉しいのです。…、アレックスが話をしてくれたのも嬉しい、…、そしてピーターは知るべきだったのです…。エドワード さて、今、僕は理解したと思うのだが…。ラヴィニア それでは、それを説明して下さらない、お願いします。エドワード ああ、僕が既に理解したのはあまり多くはない。しかし、ヘンリイ卿は話されている、あらゆる瞬間が新鮮な始まりなのだと。そしてジュリアは、人生は常に持続して行くと。そしていずれにしても、二つの考えは一つに適合するみたいだ。ラヴィニア そして、同様に、私はこの人々に会いたくないのですわ。ライリイ それは貴女に定められていた重荷なのです。そしてパーティの関しては、必ず成功するでしょう。ジュリア そして思うのだけれども、ヘンリイ、我々はパーティが始まる前にお暇しましょうよ、二人は我々がいなくとも上手くやっていけるでしょうからね。貴方もよ、アレックス。ラヴィニア 私達、行ってほしくはないのです。アレックス 我々には別の約束があるのです。ライリイ 今度の場合に、私は予定されていなかったわけでもない。ジュリア さあ、ヘンリイ、さあ、アレックス。ガニングス家に行きましょうよ。 (ジュリア、ライリイ、アレックスが退場する)ラヴィニア どんな風に私は見えるかしら。エドワード とても素敵だよ。君のベストの状態だと言える。しかし、君は常に最高だよ。ラヴィニア あら、エドワード、それではぶちこわしよ。どんな女のも信じられないわよ、自分が何時も最上の状態だなんて。貴方はむしろ率直に、私を元気づけているのね。私が常にベストに見えるなんて、最悪だわね。エドワード 僕はお世辞を言う事を学んだことがないのだが。ラヴィニア 貴方が仰ったことは、私のドレスを褒めたたえたわけですね。エドワード 僕は既にそのドレスが素晴らしい事は告げてしまっているよ。ラヴィニア でも、随分と色々な事が起きたわね、あれから。そしてその上に、人は同じお世辞を二度聞きたいと思う物よ、時々はね。アドワード さて、パーティだ。ラヴィニア パーティなのね。エドワード それは直ぐに終わるだろうさ。tラヴィニア 私は始まって欲しいのよ。エドワード ドアベルが鳴ったよ。ラヴィニア ああ、嬉しいわ、始まったのよ。 カーテンが降りる
2025年11月27日
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ジュリア エドワード、誰かが私のお墓の上を歩いて通ったに相違ないわ。私、とても寒いの、ジンを少し下さらない。カクテルではなくて…、凍えそうだわ、七月だと言うのに。職員の男 クイルプ氏がいらっしゃいました。エドワード さてさて、誰が…。 (ピーターが入って来る) やあ、ピーター!ラヴィニア ピーター!ピーター 今日は、皆さん。ラヴィニア 何時着いたのかしら…。ピーター ニュウヨークからのフライトで、昨晩です。僕は三日前に、サンフランシスコを発ったのです。昼食の時に、僕はシェイラ・ペイスリーに会ったのです。そして彼女からあなた方がパーティを開催すると聞いたのです。彼女も後から来るでしょう。カニングス家での後でね。そこで僕は言った、人を押し分けてでも入らなくてはけない、実際の話が。そこは僕がエドワードとラヴィニアに会える唯一の機会なのだからね。僕は一週間の間だけ済んでいる、それでね、今晩車で行こうと思っている。それで、あなた方は僕がこんなに早く姿を現しても、気にしないだろうと知っていた。最後にお会いしてから何年も経過したように思えます、どなたとも、です。そしてご機嫌は如何ですか、親愛なるアレックス、そして、敬愛するジュリア!ラヴィニア それでは貴方はニュウヨークから帰って来たばかりなのね。ピーター そうです、ニュウーヨークから。あのボロゴノフスキーが僕を見送ってくれました。古き時代のボロゴノフスキー姫を覚えているでしょうかね。我々は昔の晩に食事をしましたね。あのレストラン・サフラン・モンキーで。そこへこれから行こうと言うのです。アレックス 何て奇妙なのだろうか、僕の猿達はサフランなのだ。ピーター 貴方の猿達ですって。アレックス、僕は何時も言っていました、アレックスは誰でも知っていると。でも、何かの猿を知っているとは知りませんでした。ジュリア 私達に何か世界のニュースを聞かせて頂戴な、ピーター。私達は此処ロンドンで極めて平穏な生活を送っているのですものね。ピーター 貴女はいつでも人をからかって楽しんでいるのですね、ジュリア。でも、あなた方は皆僕がパンナムイーグルで目下働いている事を知っているでしょう。エドワード いいや、で、パンナムイーグルとは何ですか。ピーター 確かに、あなた方はロンドンで実に静かな生活を送っておられたに相違ないですね。映画には行かないのですか。ラヴィニア 時には、行くことも有ります。ピーター アレックスは知っている。あなたは僕の最新の映画を観ていますか。アレックス 知ってはいるが、観てはいない。キンカンジャにはシネマはないので。ピーター キンカンジャですって…。何処ですかそれは。其処の人は映画を持っていないのですか。パンナムイーグルはそこを見分しなければいけませんね。多分、そこは英語を造るには良い場所でしょうよ。アレックスはパンナムイーグルに関する全てを知っています。僕をあの偉大なるベラに紹介してくれた人こそは、アレックスなのです。ジュリア そして、誰なのですか、その偉大なるベラなる人物は。ピーター 何と、ベラ・スゾゴディ…、彼が僕の上司です。僕は誰もが彼の名前を知っていると思いました。ジュリア 彼はあなたのカリフォルニアでの知人ですか、アレックス。アレックス そうです。われわれは時々お互いに恩恵を与えあっているのです。ピーター 彼が僕に一週間の有余を与えて送り出してくれた。そして僕が今夜h手一杯と言う所なのです、ボルトウエルに行くことで。ジュリア 公爵の所に滞在するのでしょう。ピーター そして、彼をかなりの程度ぎょっとさせようと。我々はイギリスの生活に関する映画を制作中なのです。しかもボルトウエルを使用したいのです。ジュリア でも、私の理解では、ボルトウエルはかなりの程度荒廃している様子だけれども。ピーター まさに、その通りです。だからこそ、我々は興味を持っているのです。イギリスでもっとも荒廃した高貴なマンションです。少なくとも、まだ人が住みついている中では、我々は一組の専門家を現地に派遣して、荒廃の具合を研究させています。そこを再構築するべく、です。我々はカリフォルニアにボルトウエルを建造するのです。ジュリア でも、あなたの役職はどのあたりなのかしらね、ピーター。あなたは荒廃した家々の専門家になったのかしら。ピーター いいえ、とんでもない。僕はこの映画の脚本を執筆したのです。そしてベラはそれに非常に満足してくれました。彼は考えたのです、僕はオリジナルのボルトウエルを見るべきだと。そしてそれに加えて、僕がイギリス人であるから公爵を上手く手なづける最上の方法を知るべきだと考えたのです。更にはその上に、我々には配役の監督がいるのですが、彼は典型的なイギリスの顔達を探している。勿論、あまり重要ではない疫ですが。そして僕はそのイギリスの顔に誰が相応しいかを決める手助けをする予定なのですよ。ジュリア ピーター、私に素晴らしい考えがあるの。私は常にカリフォルニアに行きたいと思っていた。その配役監督を説得して我々全員を採用するようには出来ないかしらね。我々は皆が非常に典型的なイギリス人でしょう。ピーター いいえ、恐らくは…。職員の男 ヘンリイ・ハーコート・ライリイ卿がいらっしゃいました。ジュリア おや、忘れていたわ。私はもうひとつのサプライズを準備しておいたの。 (ライリイが入場する) ヘンリィ・ハーコート・ライリイ卿を御紹介したいの。エドワード 我々は彼にお会いして嬉しいです。でも、我々が以前にお会いしていますね。ジュリア それであなた方が既に彼を知っているのであれば、彼をおそれる必要などないわね。御存知のように最初は私は彼を恐れていなのよ、彼は見るからに恐ろし気ですもの。ライリイ 親愛なる私のジュリア。貴方は私を印象悪く紹介するのですね。改めての紹介が必要でもあるかのように。ジュリア 敬愛する、わがヘンリイ。あなたは私の邪魔をしているのですよ。ラヴィニア もしも貴方がジュリアを邪魔できるのでしたら、ヘンリイ卿、貴方は完全な賓客です、我々がこれまでずっとお待ちしておりました。ライリイ 私はジュリアを邪魔しようなどとは夢にも考えておりませんでした。ジュリア あなたは両方を邪魔している。ライリイ 誰が今、邪魔をしているのでしょうか。ジュリア あなたは私の邪魔を邪魔してはいけません。それは邪魔をすることよりも実際、もっと悪い事です。今、私の頭の中が相当にぐるぐると廻っています。カクテルを飲まなくては…。エドワード (ライリイに対して)そして、カクテルは如何でしょうか。ライリイ 水を一杯、頂けますか。エドワード 何かいれますか…。ライリイ いいえ、結構です、有難う。ラヴィニア ピーター・クイルプ氏を紹介させてください。ヘンリイ・ハーコート・ライリイ卿。ピーターは私と主人の古くからの友人です。あら、忘れていたわ…、(アレックスに向って)あなた方は相互に知り合いだとは思うのですが、何故だかはわかりませんが。マクコルジー・ギブス氏よ。アレックス そうですね、我々は面識があります。ライリイ 幾つかの委員会で…。ジュリア 私達は非常に興味深い会話をしていたのです。ピーターは丁度カリフォルニアからやって来た所で。カリフォルニアでは映画関係で極めて重要な役割を果たしているのです。彼はイギリス人の生活についてのフィルムを制作しているの。そして、彼は我々の全員に役割を与えてくれる手筈なのですよ。それを考えてみてくださいな!ピーター でも、ジュリア。僕は今説明しようとおもっていたのです…。僕はこのフィルムであなた方の誰をも役割を見付けられないと思うのですよ。僕の仕事ではないのです、しかも、我々の流儀に反してしまう。ジュリア でも、ピーター。もしも貴方がボルトウエルをカリフォルニアに持って行けるのならば、何故、私を連れていけないの。ピーター 我々はボルトウエルを持っては行きません。我々はボルトウエルのようなものを再建するのです。ジュリア それなら、結構です。でも、何故、私を再建しないの。遥かに値段は安くて済むでしょうに。おやまあ、解りました、貴方は私を中に組み入れまいと決心しているのね。それで、私のカリフォルニアへの夢はあきらめなければいけない。ピーター 貴女は僕が招待したとしてもカリフォルニアには決して来ないでしょうに。しかし、僕には是非ともお長居したい人物がいるのですが…、誰が一体フィルムに関わることを欲しているのでしょうか。そして僕は何時も思っていたのです、彼女ならチャンスさえ掴めば成功するに相違ないと。それはセリア・コプルストンです。彼女は何時も望んでいた…。そして今なら僕は彼女の手足助が出来る。僕は既に彼女の事をベラに話して有る。そして彼女を我々の配役監督に紹介したいのだ。別のフィルムでも彼女を起用する腹案を持ってもいる。誰か彼女の所在を教えては下さらないだろうか。電話帳では彼女を発見できなかった。ジュリア 電話帳ではだめよ、住所氏名記録帳などではだめ。みんなに話してあげなさいよ、アレックス。ラヴィニア ジュリアは何が言いたいのかしら。アレックス 僕は彼女の事を話そうと考えていたのだ。君が中に入って来た時に、ピーター。残念だが、彼女は見つからないよ。ピーター ああ、…、結婚したのでしょうか。アレックス 結婚じゃない、死んだのだ。ラヴィニア セリアが…。アレックス 死んだよ。ピーター 死んだ…。それで、万事が休してしまった。エドワード セリアが死んだ。ジュリア 貴方は真相を話した方がいいわよ、アレックス。キンカンジャから持ち帰った知らせを、アレックス。ラヴィニア キンカンジャですか、何を彼女はキンカンジャでしていたものでしょうか。我々は彼女が或る看護婦の社会に入ったと聞いていたのですが。アレックス 彼女はある社会組織に加入したのだ。非常に厳格なそれだ。そして彼女はそれまでに看護婦の経験があった。ラヴィニア そうだわ、彼女はブイ・エイ・ディに所属していたのです。覚えています。アレックス 彼女はキンカンジャ行きを命じられた。そこは様々な風土病があり、それに加えてヨーロッパ人が持ち込んだ病気も当然に存在していた。そこの気候風土は疫病には適していたのだ。エドワード 続けてくれたまえ。アレックス 何でも三人がいたようだ、この滞在場所の三人のシスター達、キリスト教徒の村で、そして半分の原住民が疫病で死んでいた。この三人は数週間にわたり過重労働が続いていたに相違ない。エドワード そして、それから…。アレックス そしてそれから、野蛮人の間で暴動が勃発した。野蛮人達に就いて僕が話をしていたわけなのだが、三にはそれを承知していた。しかし死んでいく原住民達を見捨てようとはしなかった。やがて、二人が逃亡した。一人はジャングルで死に、もう一人は再び通常に生活に適合しなかった。しかし、セリア・コプルストン、彼女は連れ去られた。我々の仲間が現地に到着した時に村人達に質問した。生き残っていた者達にだ。そして彼等は彼女の体を発見した。或いは、少なくとも遺体の痕跡と思われる物を。エドワード しかし、その前に…。アレックス 話をするのが難しかったのだ。その地方の慣習で知れる所では、どうやら彼女は絞首刑に処されたらしい、蟻塚の直ぐ近くで。ラヴィニア でも、セリアが! 大勢の人がいる中で…。エドワード それも、一握りの疫病に怯えた原住民の為に、彼等もやがては死んでいくであろうと思われた…。アレックス そう、住民達はやがて死んだ。疫病に感染してね、彼等は食べられたのではない。tラヴィニア ああ、エドワード。御免なさいね、なんとも言い様がない事ね。でも、私の言いたいことはお分かりになるでしょう。エドワード 君には僕が考えている事が伝わるね…。ピーター 僕にはまるで理解できない。それでは、僕が国外にいた二年間、しかも何がセリアに起きたかも知らずにこの二年間ずっと過ごしていたのだ。二年間、セリアのことを思い続けて…。エドワード しれは僕が憤慨せずにはいられない浪費と言う物だ。ピーター あなたは僕よりも更に多くを御存知です。僕にとっては、それは浪費などではなくて、それ以外の全てなのですよ。二年間! そして、それは全て間違いだった。ジュリアさん、貴女は何故、何も仰らなかったのですか。ジュリア あなたはセリアに、この二年間、最上の物を与えたのよ。ピーター 何時、彼女は、その職場を引き受けたのですか…。ジュリア 二年前よ。ピーター 二年前、僕はあの除の事を忘れようと努めたのですよ。僕が自分の成功に少しばかり自信を持ち始めるまではと、そしてそれからまた彼女の事を考えようと…。もっともっとt、初めは僕はセリアの事を知りたくはなかった。それで、決して尋ねなかった。それから次にはたずねたくなったが、敢えてそうしなかった。たった今、貴女に彼女の事を尋ねるには勇気を全部振り絞ったのです。でも、この様な事は何も考えていなかった。僕は彼女を何も知らなかったと思う。彼女を理解しなかったし、何も、理解していない。ライリイ 貴方は御自分の職業を理解されている、クルプさん。それについて我々が阿尋ねしたい最大の物です。ピーター 職業が何でしょうか! 僕は自分を信じる為にそれを信じようと努力してきた。僕はシネマに革命を起こすようなアイディアを思い付いたと考えた。それは誰にも無視できないことだ、そして目下は二流のフィルムを制作している。が、それはやがてより良い物へと移行する。それは可能であると思えた、セリアが生きている間は。僕はそれを欲したし、セリアの為に信じた。そして勿論、セリアの為に何事かをしたかった。そして重要だったことは、セリアが生きている事だった。しかし今は、全てが無意味になってしまった。セリアは生きていないのですからね。
2025年11月26日
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第 三 幕 ロンドンのチェンバレン家の応接室。二年後である。六月の遅い午後、出前食料店の職員がビュッフェの設営をしている。ラヴィニアが脇のドアから姿を現した。職員 追加のご注文は御座いますか、奥様。ラヴィニア コップを載せた手押し車を運んで下さいな。そして準備が完了ですね。職員 畏まりました。奥様。 (彼は退場する。ラヴィニアは注意深く室内を点検する。花を生けた深い鉢を動かす) (さっきの職員が手押し車を押しながら再入場する)ラヴィニア その角に置いてね。それが最も便利がよいので。あなたは自由に出入りできますから。あなたが他に入用な物は、台所にはありましたか。職員 いいえ、御座いません、奥様。追加の御用命は何かありますでしょうか。ラヴィニア いいえ、ありません。六時半までは、そう思います。 (職員は退場する) 「エドワードが正面のドアから姿を現した)エドワード 良い具合に間に合ったようだね。心配してはいなかったと思うのだが。ラヴィニア いいえ、大丈夫です。実際、私は貴方の事務所に電話連絡をしたのですが。そしたらそちらの事務員がもう出発していますと告げたのです。もっとも私が電話したのは念を押すだけで…。エドワード (微笑みながら)それで君は、逃げ出したりはしなかった。ラヴィニア まあ、エドワードったら。それは狡くてよ、御承知のように、私達はこの二年間に何度もパーティを開催したわ。そして私はその全部に参加しました。貴方はかなり気疲れして居ませんか。エドワード いいや、大丈夫。静かな一日だ。二つの事務弁護士との相談事、簡単な訴訟に関して。君こそ相当に疲れているのではないかね。ラヴィニア まだ疲れてはいません。私は、全部が終わるのが嬉しいのです。エドワード 君の着ているドレスは素敵だね。それを着てくれて嬉しいよ。ラヴィニア あら、エドワード。お解かりかしらね、パーティの前に私にお世辞を仰ったのは今度が初めてよ。そして、それはベストのタイミングなのよ、エドワード そうさ、君は誉め言葉に相応しいのだ。我々は、あまりにも多くの人々に依頼した。ラヴィニア 本当ね、もっとより多くの人々が招待を受けてくれたわ。思っていた以上に、参加しようと言って。でも、何が出来ますか…。通常は多くが来たがらないのですが、同じくらいの多数が、我々がパーティに招待しないからと気を悪くする。エドワード 一つではなく、二つを同時に準備する室用があるようだね。ラヴィニア それは不満足です。誰もがもう一つのパーティの方がより重要なメンバーが呼ばれているに違いないと邪推してね。エドワード 確かに。君は非常に役に立つ精神を発揮する。ラヴィニア でも、ねえ。心配するには及ばないと思う。彼等は全員が来るとは限らない。招待を受けていても。こう言えるわ、後二十人を呼べるでしょう、何故ならば、代わりにカニングスの方に行くでしょうからね。エドワード 承知している。それはあの際にわれわれが言ったことだ。でも、僕はカニングス家のパーティがどんんだったか忘れてしまったよ。其処の招待客は十分に腹を空かせて行くのだ。そして、その後で我々の所に来る。大声で飲み物を呉れと叫びながらね。そして、望むらくは、我々の後でカニングスへ行く連中は早く席を開けて欲しい、カニングスの所へ急いでもらってね。カニングスから来る客の為に。ラヴィニア そしてもし、混雑し過ぎたらカクテルを手に出来ないかもしれない。トレイにたどり着けない者は他所に行くことになろう。とにかく、その時点でそれについてあなたが出来る事はなにもないもです。誰もがパーティでは人から見られたいし、他の誰もが居る場所に人々が招待されたことを示そうとする。それが成功したという事を意味する。あの絵が真っすぐでしょうかね。エドワード そう、その通り。ラヴィニア いいえ、そうではありませんわ。どうか真っすぐに直して下さらない。エドワード 今は、待っ直ぐにはなっていないのかい。ラヴィニア 左に少し傾き過ぎているの。エドワード これで、どうだろうか。ラヴィニア いいえ、私は右に寄せてとお願いしたの。それで大丈夫です。私は疲れ過ぎてあれこれはもう言えません。エドワード 人々が皆帰ってしまったら、二人でシャンペンを飲もうね。二人だけでね。少し横になったどうかね、ラヴィニア。誰も来ないだろう、少なくともあと三十分くらいは。だから、気を緩めるのがよい。ラヴィニア あなたは私の側に座ってください、そうすれば気楽に出来ますから。エドワード この瞬間が一番良い時だね、パーティ全体の中でも。ラヴィニア いいえ、違います。エドワード。最良の瞬間は、既に過ぎてしまった瞬間です。そしてそれから忘れないでね、季節の終わりの時ですわ、もうパーティは開催しないから。エドワード そして委員会もない。ラヴィニア 私達、直ぐに出発できるのかしらね。エドワード 来週の終わりにはね、僕は全くの自由の体に成れる。ラヴィニア そして私達は二人きりになれるの。私、あの遥かに遠い家が大好きです。エドワード だから、我々はあの家を手に入れたのだ。そして僕は実に感謝している、人々に会わないその口実を持てた事に。そして、君は今休息をする必要はないのかい。 (ドアのベルが鳴る)ラヴィニア ああ、邪魔だわね。さて、こんなに早くに誰でしょうか、私は単に起き上がれない。職員の男 シャトルウエイト夫人です。ラヴィニア あら、ジュリアなのね。 (ジュリアが入って来る)ジュリア さてと、お二方、私は参上しました。私は文字どうりあなた方に不意打ちを喰らわせようと企んだみたいよ。余りに早く来過ぎた事は承知しています。でも、事実は、お二人さん、私はカニングス家のパーティに参加しなければいけないの。そして、お分かりになるかしらね、かれらが食べ物や飲み物として何を提供するかを。そして私は飲める筈だったお茶を飲めなかった。私は単純にがつがつとしているの。喉が渇いて死にそうなのよ。パーキンソン夫妻が私に何をしてくれたかですって。ああ、そう、これはパーキンソンのパーティなの。私はドアの所で彼等の家族の一人を認めた。私の旧友です、事実。でも私はすっかり忘れてしまっていた。吃驚してしまったのよ、私はアレックスと一緒だった。彼は今朝、何処から戻ったばかりだった。彼の神秘的な冒険旅行から。そして我々は彼にその事を話させるつもりでいるの。しかし、彼は如何してしまったのかしらね。 (アレックスが入って来る)エドワード やあ、アレックス。一体全体、何処から舞い戻って来たのかね。アレックス 一体どこから、だって…。東の国からさ。キンカンジャさ、君が名前さえ聞いた事の無い島だ。今朝、戻ったばかりだよ。僕は君の所のパーティの事を耳にして、しかも、君等は田舎の方に旅立つだろうと思ったので、僕曰くだ、この機会を逸してはいけない、ラヴィニアとエドワードに会うにはと。ラヴィニア 御機嫌は如何、アレックス。アレックス 僕は昼食ごに電話で貴女と話をしようと試したのだが、僕の秘書は電話で貴女に通話できなかった。気にするな、僕は自分に言った、彼女にではない、予期しない客に人々が最も温かな歓迎の意を表するものだ。そのために僕は人々をよく知っているのだよ。ジュリア でも、お話して、アレックス。その奇妙な場所で貴方は何をしていたのですか。名前は何でしたかしら。アレックス キンカンジャですよ。ジュリア そのキンカンジャで、一体貴方はなにをしていたのですか。誰かサルタンのような人を尋ねていたのかしらね。虎を射撃していたのかしら…。アレックス 虎などはいないさ、ジュリア、キンカンジャには。そして、サルタンのような人物もいないよ。土地の総督の所に滞在していたのだ。我々三人は、地方の状況を視察の為に巡回旅行をしていたのだ。ジュリア 何のための視察なの、猿のナッツの…。アレックス 貴女が推測した以上に実情に近いのです。いいや、猿のナッツ類ではなくて、猿には関係のある事柄なのですが。猿は問題の中心に、或いは単なるひとつの兆候として存在はしているのですが。余り確信は持てない。少なくとも猿達は原住民の間では一般的な不安に対する一つの口実にはなっていた。エドワード でも、一体、猿がどのようにして住民の不安を惹起しているのだろうか。アレックス まず最初に、猿達は非常に破壊的なのだ。ジュリア あなたは我々に猿が破壊的な事を話す必要はないのよ。私は決してメアリイ・マリントンの猿の事を決して忘れはしないでしょう。あの恐ろしい小さな獣はメントン行きの私の切符を盗んだのよ。だから私は非常にゆっくりとした列車で旅行しなければならなかった。しかも寝台車で。彼女はとても怒ったわ、私があの生き物は殺す必要があると告げた細に。ラヴィニア でも住民は猿達を撲滅できないのでしょう、いくら彼等が害獣であっても。アレックス 不幸な事には、住民の大多数は無宗教の野蛮人なのだ。彼等は猿にある特殊な尊崇の念を抱いていて、猿が殺されることを望んでいない。それで、住民は猿による被害で政府を非難したのだ。エドワード それは非合理だね。アレックス 実に、非合理なのだ。が、特徴的でもある。しかしそれが最悪の物ではなかった。簿族の幾つかはキリスト教への改宗者なのだ。それで自然にかれらは猿に対して違った態度をとっている。彼等は猿を罠にかける。そしてそれを食べる。若い猿は非常に味がよい。僕は自身でそれを調理してみたが…。エドワード それで、誰かがそれを食してみたのかい、君が料理した物を。アレックス うん、実際に。僕は住民の為に新しいレシピを考案してあげた。でもねえ、猿を食べる事、その死骸を他の猿から守ることでキリスト教信者の住民達は非常な繁栄を遂げた。その為に彼等と多の部族の間に摩擦が生じた。そしてそれが本当の問題となった。僕はみんなを退屈させてはいないだろうね。エドワード いいや、ちっとも。その解決法を知りたくてたまらない。アレックス 僕には確信が持てない、何か可決策があるのかどうか。しかし、これさえ我々を重要事態の核心には導かないのだよ。外国からの扇動者もいたからだ。問題を大きくして…。ラヴィニア 何故、あなたはその人達を排斥しないのですか。アレックス 彼等はちょうどわが国が承認したばかりの友好的な隣国の住民達なのだ。分るでしょう、ラヴィニア、そこには非常に深い水があるのです。エドワード そして扇動者達が。どのようにして彼等は扇動するのでしょうか。アレックス 原住民に、猿の虐殺で彼等にかけらられた呪いは、キリスト教徒を虐殺することでしか取り除く事は出来ないと信じ込ませて。彼等はキリスト教への改宗者の幾人かを説得し続けてもいる。彼等は、いずれにしても、殺されないようになればよいのdから、…、元の未開状態に舞い戻ることで。それで、猿を食べる代わりに、彼等はキリスト教徒を食べているのだ。ジュリア 誰が猿を食べ続けているのですか。アレックス 僕は恐れているのだが、原住民は途轍もなく論理的ではない。ジュリア あなたはその猿の話で私達を何処へ一体連れて行こうと言うのですか。私はその猿の話を聞きながら正餐をする運びになるのでしょうね。でも人は、キリスト教徒を食べながら食事をすることは出来ないわね。異教徒の間でさえね。アレックス それは話の全体ではないのだ。エドワード それで、イギリス人の住民の何人かは殺されたのどろうか。アレックス そう、でも彼等は通常は食べられたりはしない。これらの人々が一人のヨーロッパ人と絶交した場合には、彼は原則として食用には適していない。エドワード それで、どうやって君の任務は完了するのだろうか。アレックス 我々はちょうど中間報告を作成し終わった所なのだ。エドワード それは公表されるのかね。アレックス それはあり得ないね、目下のところでは。余りにも多くの国際的な紛争の種が存在するのでね。従って、公的な発表があるかも知れない。エドワード でも、何時なのかな。アレックス 一年か、二年の内に。エドワード そして、その間には…。アレックス その間に猿が増える。ラヴィニア そして、キリスト教徒達は…。アレックス ああ、そのキリスト教徒なのだが、そろそろ、僕はあなたがたが知っている、或いは知っていたと言うべきかも、ある人物に関して話をしなければいけない。
2025年11月24日
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ライリイ 良い生活です。貴女はそれがどんなによいのかは、最後になるまで理解できないでしょうが。しかし、貴女は他に何も望んではいない。そしてその他の生活は単なる書籍にしか過ぎないのです。かつて読んで失ったそれ。狂気の世界では、暴力、うつけていること、貪欲など…、それは良い生活なのです。セリア 私は承知しております、それを受け入れることが出来るようにすべきだと。それをまだ持ち続けていてもよいと。しかもそれは私を寒い気分にします。多分、それは私の病気の一部なのでしょう。しかし私はそれが一種の屈服ででもあるように感じるのです。いいえ、屈服ではない、背信行為以上のもの。お判りでしょうが、私には何物かの幻影が見えていると実際に思うのです。しかも、それが何であるのかは分かりません。忘れたくもないのです。それと一緒に生きて行きたいのです。私は全てを失ってもやっていけるでしょう。何事にも適合しながら、もしそれを心に大切に守り育てるのであれば。事実、私は実際に不正直だと思うのです、自分に対して。誰かとの生活をしようと試みる事は。私は過去に愛情に値するものを誰にも与えられなかった。出来たらよかったのにと願っていた…、あの生活に付随していたもの、ああ、私はこれが怒号のように叫んでいるようではないかと恐れるのです。或いは、単なるつむじ曲がり…、依然として、もしかして他に道が無いのなら、…、私は絶望状態に感じるだけです。ライリイ 別の道はあるのです、勇気さえ持てば。最初に、私は馴染みのある用語で表現することが出来ます。何故なら貴女はそれを見て来ているのです、我々みんながそれを見たように。多かれ少なかれ我々の生活のそれで解り易く説明されて。二番目は解りません。それで信仰が要求されます。絶望から生まれる種類の信仰です。目的地は説明できません。そこに到達するまでは殆ど何も分からないのです。貴女は盲者として旅する。しかし道は貴女が間違った場所で探し求めていたものを所有する方向に通じているのです。セリア それは私が欲していた物を感じさせてくれます。でも、私の義務は何でしょうか。ライリイ どの道を貴女が選ぶにしても、自ずからそれ自身の義務を処方するでしょう。セリア どれがより良い道でしょうか。ライリイ どれもより良くはないのです。どちらの道も必要なのです。そのどちらかを選択することもまた必要なのです。セリア では、私は二番目のを選びます。ライリイ されは恐るべき道なのです。セリア 私は吃驚したりしませんわ。むしろ、悦んでいます。それは孤独な、寂しい道ですね。ライリイ もう一つの道よりも更に孤独ではありません。しかし、別の道を選んだ人々は自分の孤独さを忘れることが出来ます。貴女は御自分のそれを忘れる事は出来ません。どちらの道も孤独を意味しているのです。…、そして霊的な交渉。どの道も最終的な荒廃状態を避けるのです。幻影的世界での孤独なそれ、想像力が生み出す、記憶や欲望をないまぜにして。セリア それが私の落ち込んでいた地獄です。ライリイ 地獄ではないのです。貴女が他に何もできなくなるまでは。さて、貴女は今、安定していますか。セリア 私は二番目の道をのぞみます。そして、何をすれば宜しいのでしょうか。ライリイ 貴女は療養所に行くことになります。セリア ああ、何と言う非絶頂でしょう。私はあなたの療養所に行って戻って来た人々を知っています。私は彼等がそれで随分と改善されたとは思いません。それが私が貴方に会いに来た理由なのです。しかし彼等は…、毎日の生活に…、復帰しています。ライリイ その通りです。しかし、貴女が心に描いている友人達はこの療養所には行ったりしてはいないのです。私は非常に注意深く誰をそこへ送るかを決めるのです。行く人々は、彼等がそうした如くには戻っては来ないのです。セリア まるで牢獄のようですね。でも、彼等は全員がそこに留まることはできないでしょう。詰まり、そこは定員越えをしてしまうでしょうからね。ライリイ そんなに多くは行きません。しかし私は言いましたよ、彼等は戻ってこない、貴女の友人達が戻った状態では。彼等はそこに滞在しなかった。セリア 彼等はどうなりましたか。ライリイ 彼等は選択したのです、コプルストンさん。何も強制はされなかった。彼等の幾人かは戻りました、身体的な意味合いでは。誰も消えたりはしていない。彼等は非常に活動的に生活しています、非常にしばしば、世間では。セリア 直ぐにでも私をそこに送りますか。ライリイ 貴女は何時、心の準備が整いますか。セリア 今夜、九時には。ライリイ それでは帰宅なさい。そして準備をして下さい。此処に住所が書かれています、貴女の友人に知らせる。 (細長い紙片に書き込む) 貴女の家族にもすぐに知らせた方がよいでしょう。私が車を迎えにやりましょう、九時に。セリア 何を所持していく必要があるでしょうか。ライリイ 何も要りません。貴女が必要とする物は備え付けてあります。そしてその療養所ではお金は掛かりません。セリア 私がこれから何をしようとしているのか、或いは、何故そうしなければいけないのか、ほんの少しも分かりません。他に何もすることがないからでして。それが唯一の理由です。ライリイ それが最上の理由です。セリア でもその決定をしたのは私だと言う事は承知しているのです。私はそれを申し上げなくてはいけません。あら、私はあやうく忘れる所でした、此処の掛かりはおいくらでしょうか。ライリイ 私は秘書に、費用は要らないと言ってあります。セリア しかし…、ライリイ 貴女のような症例では、費用は要りません。 (ボタンを押す)セリア なたはとても御親切でしたわ。ライリイ 安静になさい、娘さん。勤勉に、御自分の救済をなさるがよい。 (女性秘書がドア口に現わた。セリアは退場する。ライリイは家庭用の電話のダイアルを回す) (電話に)終了しました。もう、お入りください。 (ジュリアが脇のドアから入って来る)彼女は遠くに行くでしょう、あそこに。ジュリア とても遠く、と思います。私に説明しなくても構いません。私は最初から知っていたのです。ライリイ 私が気をもんでいるのは他に人々についてなのです。ジュリア 問題ないわよ、ヘンリィ。私が注意して見守ります。ライリイ 彼等を連れ戻す、何に対して彼等は戻らなければいけないのか…。食料貯蔵室のかび臭い食品の製造へ、彼等の心の中の古臭い考えをこね回す所へだ。それぞれは自己の賤しさを自分から偽装できないで。何故ならば、それは他人には知られているから。お互いの裏切り行為を知っているからではなくて他者が動機を知っているからなのだ、鏡對鏡、虚栄を反射しあっている。私は大変な危険を冒している。ジュリア 我々はいつでも危険は冒さなくて行けない。それが定めなのですから。あなたは決断に質問していたけれど、別の可能な選択肢はイメージ出来ていたのかしら。ライリイ いいえ。ジュリア 大変結構です、進んで危険に対処しましょうね。我々に出来る事の全ては彼等に機会を与える事ですから。さて、今や彼等は魂を裸の状態にされてしまい、そして選択できる、似合いの衣装か、それとも色々な偽装を慌てて着込むのか。彼等は、初めて、出発する場所を持つのだ。ああ、勿論、誰らはお互いを殺し合うかもしれないが。私にはそうするとは思えない。見ていましょう。セリアの考えが私の心に重くのしかかっているの。ライリイ セリアのですか…。ジュリア セリアのよ。ライリイ しかし、今、私が彼女は遠くに行くと告げた細に、あなたは頷きましたが。ジュリア ええ、そう。彼女は遠くにいくでしょう。そして我々は彼女が何処に向っているかを知っている。でも、あの旅行の恐ろしさを我々は知っていっるのかしら。私もあなたも、知らない。どのような過程を経てある人間が別の人間に作り替えられるのかを。知っている事はと言えば、彼等が啓示の過程で試練を受けなければならない苦難の性質なのです。ライリイ 彼女は投影された精霊たちの最初の出現で怯えてしまうだろうか。ジュリア ヘンリィ、あなたは単に無垢な魂を理解しないだけよ。彼女は何も恐れないわ。彼女はなにか恐怖しなければいけない物が存在するとさえ考えていない。彼女はあまりにも謙虚なのよ。彼女は口うるさく小言を言う丘の間を、嘲りの谷を抜けて、使いに出された少女の様に熱心に辛抱強く、過ぎて行くでしょう。それでも彼女は苦しみを受けるでしょう。ライリイ 私が何かに確信を与えると、あなたはいつも疑問を提起する。私がどちらろも判定できない際は、あなたは確信以外の何物をも理由としない。ジュリア それが一つの方法なのです、私があなたにとって非常に役立っている。感謝しなければいけないわね。ライリイ そして、私が彼女のような人物に、一心に御自分の救済にお励みなさい、と言う時に、わたしは自分が言っている事を理解していないのです。ジュリア あなたは御自分の限界を受け入れなければいけないわ。それにしても、アレックスはどのくらい私達を待たせるつもりなのかしら。ライリイ 彼は今にも此処に姿を現すはずです。私はバラウェイ嬢に話をしようと思います。 (家庭用の電話を取り上げる)バラウェイさん、ビブス氏は何時到着しますか。…、ああ、そうですか。(ジュリアに)彼は今こちらに向かっている途中だそうです。(電話に)もうお盆を持って来てくださいな、バラウェイさん。(アレックスが入って来る)アレックス さて、さて、首尾はどうなりましたか。ジュリア 全てが手筈通りだわ。アレックス イェンバレン夫婦は選択をしたのですね。ライリイ 彼等は自分たちの運命を受け入れている。アレックス そして彼女も選択をしたのですね。ライリイ 彼女は今夜、連れてきます。 (女性秘書がデキャンタと三つのコップを載せたお盆を持ってきた。ライリイが飲み物を注ぐ)さてさて、我々は取り敢えず乾杯をしましょうか。アレックス 炉端の建造にむけた言葉を! (彼等はそれぞれのコップを挙げる)神がライリイ 彼等が新しい人生の炉端を建設するべく、星々に見守られて。アレックス 彼等が炉の周辺に椅子を並べるように。ジュリア 聖なる霊がその屋根を見下ろすように、そして月の女神が自身で寝床に良い影響をもたらしますよう。 (彼等はお神酒を飲む)アレックス 旅だった人々への祝福の言葉を!ライリイ 旅行者を守護する神よ、道に祝福を…。アレックス 砂漠での彼女を見守り、山での彼女を見守り、迷路での彼女を見守り、流砂の側で彼女を見守り給え。ジュリア 色々な声から彼女を守り給え、幻影から彼女を守り給え、彼女を心の乱れから守り給え、静寂さの中で彼女を守り給え。 (彼等は飲み物を飲む)ライリイ 一人だけ、その者の為に言葉は発し得られない者がいる。アレックス その言葉はまだ発せられてはいない。ジュリア ピーター・クイルプのことですね。ライリイ 彼はまだ言葉が有効である場所には来てない。ジュリア それをこれから言ってみましょう。アレックス 他の人々が、多分、その言葉を発するでしょう。御承知の如くに、僕はカリフォルニアにも友人知人があるのです。 幕が降りる
2025年11月20日
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ライリイ 渋々だったのでしょうかね、それで、あなたが連れて来た。ジュリア ああ、いいえ、そうではありません。ちょった違っているのです。彼女には信じられないのです、あなたが自分を真剣に診察してくれるかが。ライリイ それは異常でも何でもありませんよ。ジュリア それでは、彼女は真剣に診察する対象に該当するのですね。ライリイ それが最も異常なのです。ジュリア ヘンリィ、頑張ってね。あなたはそんなに疲労していてはいけないわ。隣りの部屋で待機します。官女が居なくなってから戻ります。ライリイ そう、彼女がいなくなってから…。ジュリア アレックスは此処にいるのですか。ライリイ そうです、間もなくやって来るでしょう。(ジュリアは脇のドアから退場する) (ライリイはボタンを三度押す。女性秘書がセリアを請じ入れた)ライリイ セリア・コプルストンさんですね。…、腰を掛けて下さい。貴女はシャトルスウエイト夫人の友人でしたね、確か。セリア はい、ジュリアでした、…、シャトルスエイト夫人が、私に貴方に診察をお願いするように助言したのです。でも、私は前にお会いしたことがありますね。何処かしらね、…、ああ、勿論のことですが、解らない…。ライリイ あなたが知る必要はありません。私はシャトルスウエイト夫人の要請であそこに居たのです。セリア それを聞いてさらに困惑してしまいますわ、しかしながら、私はあなたの時間を浪費させたくはありません。しかも私は常に恐れているのです、私がいずれにしても時間を空費しているとあなたから思われるのではないかと。思うに、殆どの人々があなたに診察を仰ぎに来た際に、明らかに病気の状態です。或いは、あなたに好都合な理由を与えて、あなたに逢いたいと望んでいる。でもね、私には出来ません。私は単に自暴自棄状態で此処へ参りました。そしてあなたが私の帰りなさいと仰れば傷つかづに戻れます。ライリイ 私の患者の大部分は、コプルストンさん、何が問題なのかを正確に私に話してくれる事から始めるのです。そして私はそれにどう対処しようかと考えるのです。彼等は確信している、自分は神経的に危険な状態にあると、そう彼等は自分の病気を規定している。そして通常彼等は誰か他の物が悪いのだと思っている。セリア 私は少なくとも自分以外の誰も責めたりはしません。ライリイ そしてその後で、私の処置の序章は、彼等に彼等の病気に対する見立てが間違っている事を示そうと試みることなのです。そして彼等を誘導して想像している程には興味深い物ではない事を納得させることなのです。そこまで行けば、治療の大半は終わっているのです。セリア 私は私の問題が興味深い物だとは思っていません。でも私はそんな風には始めません。私は極めて良好だと感じています。私には行動的な生活が送れます。もしも、何か差しさわりが有ったとしても。私は何事かに迫害されているとも想像しておりません。私には何の幻聴も聞こえません。妄想もありません。私の生活している世界があたかも全部夢想であるかのように思える事を除いては。最初に私は自分の置かれている生活環境についてお話すべきでしょうか。あなたはまだ私について何も御存知ない事を忘れていました。そして私がどのような体験を経てきているのか、特に最近の数週間で。兎に角、私は自分に関して説明する必要がない事を当然と心得ていました。ライリイ 現時点で私はあなたについて十分の情報を得ています。先ず、貴女の心の状態を委しく聞かせて下さい。セリア そうですね、私には理解できない事が二つあります。それをあなたは兆候と仰るかも知れませんが、最初にお話したいのは、私の心の何処かが悪いと思いたいとでも表現しましょう。何故ならば、どこかが悪くなくとも、どこかが不具合なのです。或いは、少なくとも、それまでとは非常に相違している、世界との関係で。そしてそれは非常に恐るべきことなのですね。それは恐るべき現象なのです。それで私はむしろ信じたい、私にはどこかが異常なのだと。それは正常に戻し得るとも。私はあなたから何かを聞かせていただきたい、正常に戻れる方法などについてです。ライリイ 我々は先ず、貴女に関して正常な状態とはどういうことなのかを見つけ出しておかなければいけませんね。あなたは二の事があると言われた。一番目は何ですか。セリア 孤独感の気づきです。でも、それでは平板過ぎます。つまりは、衝突が有るとは意味していません。でも実際にはあったのですが。それは単に幻想の終わりではなかった。通常の道ではない、或いは溝が掘られていた。勿論、それは通常人々の上に何時も起こっている何かです。そして人々はそれを克服している。多かれ少なかれ、少なくともそれを背負っている。いいえ、私が申したいのは、起きた現象は私に気づかせた、私が人生でずっと孤独だったと言う事を。人は常に一人だと言う事。単純に一つの関係の終局ではない、これまでに決してあり得なかった事実の発見ではなく、或る啓示、私の周囲の皆との関係性に関するそれ。お判りになりますか、誰かに話しかけるのさえもはや無意味だと感じる…。ライリイ そして、貴女のご両親については、どうなのですか。セリア ええ、彼等は田舎で暮らしています。今や彼等は都会には住むべき場所を持たないのです。彼等に出来る事と言えば地方で生活を続けることぐらいです。そしてそれは非常に長い家族でに倉氏でした。彼等はしれを離れないでしょう。ライリイ そして、あなたがロンドンに暮らしている。セリア 私はアパートを借りています、従妹と一緒に。が、彼女は一時的に海外に出ました。そして私の家族は地方に戻って一緒に住もうと勧めています。でも、その気にはなれませんの。ライリイ それではあなたは、誰にも会いたくはないのですか。セリア ええ、どもそれは、一人でいたいからではないのですが。ライリイ それであなたは、心のよじれを抱えたままで、そう言う具合に思っている。セリア でも、凡てがとてもうまくいっているように見えた、その時には。私はそのことを繰り返し何度も思った。今は解るのです。間違いだったと。でも分からないのは、間違いが何故に罪だと感じさせるのか。しかも、それに対して他のどんな言葉も思いつかないのです。一種の幻覚に相違ないのですが。しかも、同時に、恐怖感で吃驚したのは、私がそれまでに信じていた何よりも更に現実的だったから。ライリイ 何がより現実的に見えたのですか、貴女がそれまでに信じていた何よりも。セリア 私がそれまでにしたどんな物にたいする感情でもなかった。そこから逃げ出したいと思う、或いは、私の中にある何物でも取り払いたいと思う。でも、その空虚感、誰かに対する失敗、更には私の外側にある何物かを、ですね。そして感じた、何かを償わなくてはいけない…、それが言葉にすればそうなる。あなたにはそんな心の状態にある患者を治療できるでしょうか。ライリイ 貴女が信じていたものとは、この男性との様々な関係ですね。セリア まあ、それが推測で来るのですね、何て賢明なお方なのでしょう。いいえ、それは明瞭にできた筈だった。貴方は彼について知る必要はないでしょうね…。ライリイ はい。セリア 私は典型的なだけに過ぎない。ライリイ 様々な違ったタイプがあります。一人は別の誰かより特殊です。セリア ああ、私は彼に随分と多くの物を与えた。そして、彼もまた私に…。そして、与えたり受け取ったりは非常に正しかったと思える。打算的な言葉は使わなくても、私達二人が置かれていたような人間によいものだった。しかし、新しい人間の、我々には。もし感じられるとして、当時行動していた時も、今でさえも、それは正しいと思える。そしてそれから、私は気づいた、二人は赤の他人同士だったと。与えたり受け取ったりもなかった。そして我々はお互いを単純に利用したにしか過ぎない、彼の目的に沿って。それは恐怖だった。我々は自分たちの想像力が作り上げた何物かを愛したに過ぎないようで。我々は実際には愛されもせず、愛しもしない。そして孤独の儘だ。そしてもし人が孤独であるならば、愛する者も愛される者も非現実な存在だと言える。そして夢想する者はその者が見る様々な夢以上に現実的ではない。ライリイ そして、その相手の男性は、今、貴女にはどのように感じられますか。セリア 森の中に迷い込んだ子供のように思えますわ、想像上の遊び相手と一緒にいて。そして突然に気が付いた、自分は子供に過ぎず、森の中で迷い、家に帰りたがっていると。ライリイ 同情心は既に手がかりであるかも知れない、あなた自身がその森から抜け出す道を発見する。セリア 森から抜け出せたとしても、慰め難い記憶は残るでしょうね、私が嘗て森の中に迷い込んで宝物を発見した。しあも、発見などはしていない、その宝はそこにはなかったのだから。そして多分は何処にも存在していない。でも、若しも存在しない物ならば、それを発見できなことに私は何故に罪悪感を感じなければいけないのか。ライリイ 幻滅はそれ自身がひとつの幻想に成り得るものです。我々はそれに休息の場を求められれば幸いなのですがね。セリア 私には議論は出来ません。再び傷つくのを恐れているからではありませんで、何物も再び傷をつけたり傷を癒したりは出来ないでしょう。私は時々に思った、歓喜は現実的である、それを経験する人は現実感を持てないけれども。何故ならば、起こったことは夢の様に記憶され、心で強く愛することで意気が強められ、欲望の無い喜びの震え、欲望は愛する事の歓喜で満たされる。目ざめている時には知らない状態、しかし、私は何を、誰を愛したのだろうか。或いは私の中の何が一体愛されたのだろう。私には分からない。そしてもしそれらが無意味なのであれば、私は治療されたい。私に見付けられなかった物を渇望することから。そしてそれを発見できなかった恥辱から解放されるべく。治療して下さいますか。ライリイ 状態は治療可能です。しかし治療の形は貴方の選択次第です。貴女の代わりには選べません。もしそれが貴女の願いであるならば、人間の状態に融和させることはできます。貴女ぐらい遠くに行かれた何人かは、状態が平常に復しています。彼等は自分が体験した幻影を記憶しているでしょう。しかし彼等はそれを悔いるのを止めます。通常の日常生活を維持して過剰な期待を避けることを学ぶ。自分自身や他人に対して寛容になる。与える事、請け取る事、通常の行動として与えたり受け取ったりする事柄を。彼等は愚痴をこぼしたりしない、別れるべき朝や再会する夕べに満足する。暖炉の前の何気ない会話、二人の人間は互いが理解できない事実を知っている。彼等が理解していない子供たちを養育する。子供たちも両親を理解しないだろう。セリア それが最良の生活ですか…。
2025年11月19日
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ライリイ (エドワードに対して)あなたは私に嘘をついていましたね、コプルスとの関係を隠して。エドワード 何て卑劣な事を言うのです、家内はその事を何も知らないと言うのに。ラヴィニア 実際、エドワード! 私は目隠しをされたままでいましたわ、大勢の人々がその事を私に告げたけれど。知らない人が誰かいたかしらね。ライリイ 一人いましたよ、事実上、それは貴女です、チェンバレン夫人。試みていましたね、私に信じさせようと、貴女が仰る所の神経衰弱に落ち入る決定的な原因はその発見だったと。ラヴィニア でも本当なんです。私は完全に打ちのめされたのです。今は部分的に回復したとは言うものの。ライリイ そうです、確かに貴女は完全に打ちのめさせたのです。そして確かに、幾分は回復された。しかし貴女は御自分の苦悩の原因はあなたが愛している人の背信行為だと仰れなかった、彼は人生で初めて誰か他の人と突然に恋に落ちた。そしてその誰かに対して貴女は嫉妬する理由がある。エドワード 実際、ラヴィニア。これはとても興味深いことだね。君は僕よりもずっと隠蔽するのが上手だったね、さて、君の相手は誰だったのだろうかね。ラヴィニア そうね。そうしたいのでしたら彼に告げなさい。ライリイ ピーターと言う名の若者。エドワード ピーター、誰ですか。ライリイ ピーター・クイルプ氏。彼は頻繁に客になっています。エドワード ピーター・クイルプ。ピーター・クイルプ! そうだったのか、ラヴィニア。御目出とうを言おう。君は僕が最も疑いを持ちえない人物を選んでいたわけだね。そして彼は僕にセリアに関して秘密の打ち明け話をしに来たのだ。こんなにも馬鹿げた話を僕はこれまでに聞いたことがなかったよ。これは人生上で最大の冗談だよ。ラヴィニア 私、あなたがそんなにもユーモアのセンスをお持ちだったなんて知りませんでしたよ。ライリイ これは最初の最も希望的な兆候ですよ。ラヴィニア あなたはこれらの全部をどうして知り得たのですか。ライリイ それは申し上げる事は出来かねますね。私には患者に関する独自の情報収集法がありましてね。それを開示しろと私に迫るのはいけません。これは職業上の礼儀に関する事柄でして。ラヴィニア 私は今日、あなたの職業的なエチケットについての行動を余り多く気づきませんでした。ライリイ 要点を整理してみましょう。で、私がお二人にお互いの事に関して、新たな事実の暴露を述べる事を許して頂きたい。それはあなた方が私を信頼して打ち明けた秘密事項ではありません。私があなた方と交換した情報は全部が外部から入手したものです。チェンバレン夫人、貴女が二か月前に私の所に来た時、私は貴女の説明に納得がゆかなかった。貴女の感情に起きている苦悩の明瞭な兆候についてですが。そしてそう、私はお尋ねしました。エドワード 二か月前ですか、君の神経が危機に瀕したのは。僕はまるで気づかなかったよ。ラヴィニア あなたは何も気づこうとはしない。私に関心を払わないから。ライリイ さて、私はお二人が如何に多くの共通点を有しているかを指摘したいのです。あなた方は例外的なくらいにお似合いのカップルなのですよ。イェンバレンさん、あなたは奥さんがあなたを捨て去ったと思った時に、初めて気づいたのです、あなたはコプル嬢を愛してなどいない事を。そしてびっくり仰天し途方に暮れる程に狼狽もした。ラヴィニア 夫は誰にも恋などはしませんわ。ライリイ しかも、奥さんの為に最小の犠牲さえ払おうとはしなかった。この事実があなたの虚栄心を傷つけた。あなたは自身を情熱的な恋愛者と思いたかった。それからあなたは奥さんが、あなたは誰をも愛せない人なのだと指摘していた言葉を思い返してみた。それはあなたに、自分は誰に対しても愛情を注げないのではないかと疑った。或るタイプの男にとって自分は女性に愛情を注げないのではないかととの疑惑は自尊の念を著しく傷つけるばかりではなくて、より粗野な人間にあっては性的な不能者ではないかとの恐怖を煽ることになる。ラヴィニア あなたは心が冷たいひとですよ、エドワード。ライリイ 貴女はそうおっしゃるが、チェンバレン夫人。そして今、問題の側面に目を向けて見ましょう。貴女は御自分の若い友人が、心の中では承知していたけれども、彼は貴女に恋などはしていないと、しかも彼を恋人の立場に置こうと強いていた、と気づいて常に傷ついていた、そして私はこう申し上げましょう、貴女は若い友人が実際にはコプルストン嬢に恋していることを知った。直ぐに貴女は進んでその事実を認めたことを、私は強く確信している。彼がかんじるだけでね気づく前に貴女はそれを認めたのです。そして貴女は自身に対して、私は勘ぐっているのですが、出来る限り長く、彼はより上流の社会的な卓越性を目標にしているのだと、貴女の愛人でいる事で授与される名誉よりもですね、そう解釈した。やがて貴女は、彼の愛情が彼女に喚起している感情が、貴女が彼に齎しているものとは違っている事実に直面しなければならなくなった時に、それは衝撃となった。貴女はずっと誰かに強く愛されたかったのです。貴女はこれまでの人生で本当には誰からも愛されてはいなかった事実に気づかされてしまった。それから貴女は、だれも自分を愛することは出来ないのだと恐れ始めた。エドワード 僕は今、君に対して大変に申し訳なく思い始めているよ、ラヴィニア。分るだろう、君は例外的と言ってよい程に愛らしくはないのだよ。そして僕はその理由がまるで分らない。ただ、僕の罪だと思うのだがね。ライリイ そして今、あなた方は見始めた、私は希望的に思っています、二人は共通のものが如何に多いかを。同様の孤立感。女性を愛せないと自覚した男性と、誰からも愛してはもらえないと知った女性。ラヴィニア 私達に共通の物があるという認識は、お互いを唾棄するに十分なものだと、私には思えるのです。ライリイ もしろ、それを二人を繋ぐ絆だと見るのがよいのです。暗中模索状態でいる間中、貴女は言い続けることが可能です、彼は誰も強く愛することはできないのだ、と。そして御主人は、彼女はいつでも言える、彼女には愛する能力がないのだと。お二人は、お互いを非難する、自分自身の落度としてです。そして相互理解を避けるのです。そして、もう互いの主張に異議を唱え、一緒くたにしてしまうだけにしか過ぎない。ラヴィ内 可能でしょうかね。ライリイ 私がお二人とも療養所に送り込んだならば、私の所に見えた時の心理状態でですね、私はこう申し上げるでしょう、あなた方の想像力を遥かに上回る恐怖が襲ってきたことでしょう。何故ならば、あなた方は背中に背負い込んだものをそのままでいたでしょうから。様々な欲望と言う欲望の陰に怯えながらです。諸悪魔が、充満した力でやって来て、あなた方を自分の懐に抱え込んでその餌食になる。ラヴィニア それでは、私共はどうしたらよいのでしょうか。前進も、後退も出来ないのですらね。エドワード、どうしましょうか。ライリイ あなた方はすでにその疑問の答えを出してしまっているのです。御自分の言われて事の意味を理解しないで…。エドワード ラヴィニア、我々は悪い仕事を最上に仕上げなければいけない。それが彼の言う意味だ。ライリイ チェンバレンさん、悪い仕事を最上に仕上げる事ならば、我々の誰もがしていることなのです。勿論、療養所に行く聖者達を覗いてはね。あなたはこの語句を忘れるでしょう、そしてそれを忘れる事で状況がかわるでしょう。ラヴィニア エドワード、そのホテルはニュウホレストにあるの。あなたがそこに行きたいのなら。丁度事業を引き継いだばかりの経営者はアレックスの友人の一人なの。私はそこへあなたをお連れできるし、一人になりたいのでしたら、私はそこを立ち去るわ。エドワード だが、僕は他へは行けないのだ。来週の月曜日に訴訟事件を抱えているので。ラヴィニア それならクラブに止宿なされば。エドワード いや、それがダメなのだよ。明日、出なければいけないのだ。でも、君は何故、僕がクラブにいる事を知っているのだい。ラヴィニア ねえ、あなた、エドワード。私はある種の責任感を持っているのよ。私はそこに貴方のシャツ類を届けておきましょう。エドワード 家に帰ってもよいように僕には思えるのだが。ラヴィニア それでは、タクシーでご一緒しましょう、経済的に済ましましょう。エドワード、他に何か彼に尋ねたいことはないのですか、お暇する前に。エドワード うん、あるのだよ、が。言葉にするのが難しいのだよ。ラヴィニア でも、私はあなたが無理にでも言葉にして尋ねて頂きたい。少なくとも、私はあなたに質問して欲しい或る事があるのです。エドワード それは未来に関してのことなのだろうか…、誰か他の人達の。僕は他人の破滅の上に何かを建設したいとは思わないのだが。ラヴィニア 正にその通りですわ、そして私にもお尋ねしたいことが有ります。ヘンリィ卿、あなたですか、あの電報を打ったのは。ライリイ 私は、貴女の御主人の問題をかたずけておきたいと思います。(エドワードに) あなたのしなければならない事は良心を鮮明にすることではなくて、あなたの良心の重荷に如何に耐え忍ぶかを学ぶことなのです。他人の未来などは貴方に何の関係もないのです。ラヴィニア あなたは今、私の質問にも答えて下さった。人々は彼等自身で、自分の決断を下していると我々に告げなければならない。エドワード 他に、我々に仰りたいことはありましょうか、ヘンリィ卿。ライリイ いいえ、今の状況内では、有りません。(エドワードが小切手帳を取り出した。ヘンリィは手で制して)秘書が請求書を送りますから。平穏になさり、御自分の救済に励みなさい。(ラヴィニアとエドワードが退場) (ライリイはソファに行き、横になる) (自宅用の電話が鳴る。彼は立ち上がって答える)もしもし、うん、お入りなさい。 (補助のドアからジュリアが入って来る)彼女は下で待っています。ジュリア 存じております、ヘンリイ。私が自身で彼女を此処へ連れて来たのです。ライリイ そうでしたか、彼女にはあなたが最初に私に会うとは知らせていませんね。ジュリア 勿論ですわ、私はドア口で彼女を下して、角までタクシーを走らせたのです。しばらく待ってから、裏から忍び込んだのです。私はただあなたにお知らせしに来たにすぎません。彼女は決心をする用意が出来ていると確信しています。
2025年11月18日
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ライリイ 正確に申されました。私はあなたが自身を重要だと感じるようにして差し上げましょう。そしてあなたはそれを非常に素晴らしい治療だと想像されるでしょう。そして更に進むと、あなたの力の及ぶ範囲のさまざまな困難さを…、あなたが嘆くようになるでしょう。この世の中でなされる害毒の半分は、自分を重要だと感じたがっている人々が原因なのです。彼等は害毒を与えようなどとは意図してはいない。そして害毒は彼等の関心の外にある。或いは、彼等はそれを見ない、或いはそれを正当化する。何わたあしは故ならば彼等は自己をよいものと思う際限のない闘争に熱中しているからです。エドワード もし私がそんな風であるなら、大変な量の害を与えてしまっているに違いない。ライリイ いいえ、あなたが思う程ではありません。ただ、こう申しましょう、あなたの控え目な能力の範囲内でですね。私がお暇した後で、何が起こったのかを説明してください。エドワード 今は解るのです、何故、妻に戻って欲しかったのかが。彼女が私を取りこんだ状態が原因だった。私は十五分間も一人ではいなかった、感じるまで、更に激烈に、実際激烈に、多分は初めて、全体的な圧迫、彼女がいつも私に押し付けようとしていた役割に対する非現実感、それはある種の女性達が頑固で、無意識な、類人的な強さで以てだったが。彼女がいなかったなら、すべては空虚だった。彼女が私を去ったと考えた時、私は分解して、存在するのを辞め始めた。それが家内が私に齎せたものです。私は彼女無しでは生きていけない。…、それが今は堪えられないこと。私は彼女無しでは生きていられないのですよ。何故ならば、彼女は私が自身のどうような存在も感じられないようにしてしまったから。それが五年間生活を共にした間に彼女が私にした事だった。彼女はこの世を私が生きていけない場所にした、彼女との関係を抜きにしては。私は一人にならなければいけない、が、今とは違う場所で。それで私はあなたに、あなたが推奨する療養所に入れて貰いたいのです。私はそこで一人でいられるでしょうからね。 (自宅用の電話が鳴る)ライリイ (電話に)はい、(エドワードに対して) そうです、あなたはそこで一人になれますよ。エドワード 私が色々と話したことをあなたが一言でも理解してくれたのか心配です。ライリイ あなたは私に対して忍耐心を持ってください。チェンバレンさん。私はただあなたを観察しただけで多くの事を学んでいます。そして、好きなだけ話をさせていますが、あなたが話されていない事をメモしています。エドワード 私はかつて非常な肉体的な苦痛を感じていました。そして今はそれよりももっと悪い苦痛を感じつつあるのを承知しています。驚くべき事です、もし誰かが驚く時間を持つとしたら。私は肉体の死は恐れません。でも、このいま経験している死は恐怖です。精神の死…、あなたに私が今感じている苦痛を理解できるでしょうか。ライリイ 仰っている意味は理解します。エドワード 私はもはや自身だけでは行動出来ない。あなたに面接に来ること、それが最後の決断でした、私に可能だった事の。私は今やあなたの手中にある。私にはもうこれ以上の責任は取れない。ライリイ 多くの患者がそうした信念に到達しています。エドワード そして、あなたは私をサナトリウムに送るのでしょうか。ライリイ あなたは他に私に話されることはないのでしょうか。エドワード 私に他の何を語れるでしょうか。あなたは私のずっと以前の歴史を聞きたくないのですからね。ライリイ はい、私はずっと以前のあなたの歴史を聞きたくはありません。エドワード そして、あなたは私をサナトリウムに送るのでしょうか。私は又家に帰る事は出来ないのです。そして私の所属するクラブでは、七日間以上は部屋を確保できない仕組みなのです。私にはホテルに行く勇気がない。そして、その上に、私はもう着替えのシャツを用意していない。あなたが家内に私が必要な全ての物を送る様に伝えて下さい。そして勿論、私が何処に居るのかは知らせないでいただきたい。そして場所は遠いのでしょうか。ライリイ 長旅だと言ってよいでしょう。しかし私は貴方のような患者を扱う前に、その患者に就いて非常に多くの事柄を知る必要があるのです。患者自身がいつも語り得る以上の。実に、私の患者達は私が新たに開拓する必要のある一連の状況だけでるのがしばしばの症例ですからね。一人だけの患者は、彼は自身で病気になっている、はむしろ例外です。私は最近別の患者を診察しましたが、あなた自身の症例と酷似していた。 (机の上のボタンを三度押した) あなたはむしろ通常ではない処置を受けなくてはいけません。私はもう一人の患者にあなたを紹介する方法を提案します。エドワード どういう意味なのでしょうか。別の患者とは誰ですか。これは余りにもプロらしくない方法だと思いますが。私は別の患者の前で私の症例を議論したくはないのです。ライリイ 反対なのです、これが唯一の治療法なのです。議論されるべきなのです。あなたは私になにも話されなかった。あなたはこうした機会を持たなくて行けなかったのです。しかもあなたは十分に話された、私に確信させるに足る、言ってみればあなたのケースを上手く運んでやっていける、法廷弁護士としてですが、法廷に入る前にある確信を知るべきなのでして。エドワード 私は少なくと自由に辞去できる。私はそれをあなたに提案します。決心がつきました。ホテルに行きます。ライリイ それはあなたが自由ではないからなのです。チェンバレンさん、あなたが私に会いに来たのは。あなたにそれを与えるのはわたしなのです、それが私の仕事なのです。 (ラヴィニアが女性秘書に案内されては入って来る)で、こちらがもう一人の患者です。エドワード ラヴィニア!ラヴィニア まあ、まあ、ヘンリィ卿。私は夫についてお話し申したいと伝えたのですが。彼に会うとはまだ心の十分が出来ておりませんわ。エドワード そして僕も君に会うとは思っていなかった、ラヴィニア。僕はこれを不名誉な策略だと呼びたい。ライリイ 名誉の前の正直。チェンバレンさん。お座りなさい、御両人ともに。チェンバレン夫人。あなたの夫は療養所に入りたがっています。それは当然にあなたに関心のある問題です。エドワード わたしはどんな療養所にもいきませんよ。ホテルに行くつもりです。そして君に頼みたいのだが、済まないが衣類を送って呉れないかな。ラヴィニア あら、何処のホテルですか。エドワード 分からない、言いたかっのは…、それは、君には関心がない事だ。ラヴィニア それならば、あなたの衣類も私には関心の有る事とは思わないわ。 (ライリイに向って)あなたは私が送られていたと同じ療養所に夫を送ると思われますが。そう、彼は私以上にあそこが必要なのです。ライリイ 私はあなたがそれを明るい光の下で理解されたのを嬉しく思います。少なくとも、現時点では、しかし、チェンバレン夫人、あなたは私の推奨する療養所には行っていませんよ。ラヴィニア それはどういう意味でしょう。私がお願いしてそこへ送られた。もしそれが療養所でなかったならば、あそこは何だったのでしょう。ライリイ 一種のホテルです。一種の避難所です、毎日の生活から休息が必要なだと考えている人々の為の。彼等は新鮮な気分に戻って帰って来る。もし彼らが療養所だと信じるならば、彼等をそこへ送らない良い理由になります。私流の療養所が必要な人々は、簡単には騙されません。ラヴィニア あなたは悪魔ですか、それとも、単なる経験豊富な冗談屋に過ぎないのですか。エドワード 僕は二番目の説明の方を取りたいね。狂的な、に制限を加えないで。何故君はその療養所に行ったりしたのだろうか。僕は人生で君程に心理的な複雑さを持たない人間に遭ったことがないのだが。君はより強いだろう…、一種の戦艦よりも。それが僕を狂気に追いやったんだ。僕こそは療養所なるものが必要な人間なのだ。しかし、僕はそこにはいかないつもりだがね。ライリイ あなたは正しい、チェンバレンさん。あなたは私の療養所には適していない。あなたはもっと重症なのですよ。エドワード もっと重症ですって…。それでは、私は郊外の下宿屋などで病気療養をするとしましょうか。ラヴィニア それはとてもあなたには相応しくない、エドワード、今私はニュウフォレストに一つのホテルを知っているの。エドワード 如何にも君らしいね、ラヴィニア。君はいつだってよりよいものを知っている。ラヴィニア それはただ、私があなたよりもより現実的な精神を有しているからよ、エドワード。あなたはそれを知るべきなのよ。エドワード 君は何度もそう僕に言っていたからにすぎないが、収入税のフォームを全部書き込んで貰いたいと思ったのだよ。ラヴィニア 馬鹿をおっしゃらないでよ、エドワード。私が実際的と言った時に、本当に重要な事柄で実際的だと言ったの。ライリイ この興味ある討議を邪魔することを許して下さい。私は、あなたがたお二人ともに重症だと言いました。幾つかの兆候が見られます、同時に発生する必然性があって、顕著な程度まで、私の療養所に適した患者である資格がおありです。その一つは正直な心、それは、彼等が受けている悩みの原因の一つなのですが。ラヴィニア 誰も私の夫が正直な心を持っているなどとは言えません。エドワード 僕も正直には君をそうだとは言えないがね、ラヴィニア。ライリイ 私はお二人の洞察力に対して祝福の言葉を送りましょう。あなた方の同情的な相互理解は、これから私がお二人に申し上げなければならない事への深い理解を用意してくれています。私はわざわざ通常の騙しなどを用いたりはしません。或いは、克服しがたい、無垢な鈍重さで以て。私の患者はあなた方のような人々ですが、自己欺瞞者なのですよ。無限の痛みを身に受けて、自分の精力を浪費している。しかも決して成功はしない。あなた方お二人は私に相談している振りをしているが、お二人共にご自分の診断を私に押し付けようとしているだけです。そして自分の治療を指示している。しかしながら、私の如き者の手中に落ちれば、御自分が意図したよりも大幅に降伏しなければいけません。これが私に嘘を吐き続けた結果なのです。ラヴィニア 私は此処に侮辱されに来たのではありません。ライリイ 侮辱と言う言葉が無意味な場所に来られてしまったのです。そしてあなたはそれを我慢しなければいけません。あなたが私に告げた事の全ては、…、お二方とも十分に真実なのです。あなたは御自分の感情を表現されました。或いはそのうちの幾つかを。重要な事実を除けて仕舞ったうえで。最初にあなたの御主人から診察させてください。
2025年11月14日
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第 二 幕 ヘンリー・ハーコート・ライリー卿の診察室。ロンドンにある。朝。數週間後、ヘンリー卿だけが机に向かっている。彼は電気のボタンを押した。女性秘書が予約ノートを手に入って来る。ライリイ 今朝のこの三つの予約に関して、バラウェイさん、私はざっと自分の指示をお浚いしておきたいので、お判りですね、勿論、面接を避けたのです。女性秘書 畏まりましてございます、ヘンリー卿。最初の予約は十一時です。彼は小待合室に通して御座います。そして、何時でも診察が可能です。ライリー 直ぐに診察しよう、そして、二番目は。女性秘書 二番目は別の部屋に案内してあります。いつも通りに彼女は十五分過ぎには到着しています。しかし彼女を待たすことは構いません。ライリイ 或いは、彼女は私を待たせても気にしないでしょうね。しかし、彼女は常に時間厳守ですね。女性秘書 彼女が到着した時には私は電話で話をしていたのです。彼女を待たせておきます、三度、合図をなさるまで。ライリイ そして、三番目の患者は…。女性秘書 三番目の患者さんは小待合室に案内します。そして私は彼女が到着したことをお知らせする必要はありません。それから、合図が有りましたなら、他の患者達を外に案内して、彼等が家を後にした後だけに…。ライリイ 大変に結構、バラウェイさん。今は、それで充分です。女性秘書 ギブス氏がいらっしゃいました、ヘンリイ卿。ライリイ 直接に中に入るよう伝えなさい。 (女性秘書は退場する) (その直後にアレックスが入って来る)アレックス チェンバレンの予約は何時ですか。ライリイ 十一時ですが…。普段と変わらない時刻です。それほど多くの時間は要りません。言ってくださいさあ、何か困難な事はありましたか。私が彼の担当をするのだと説得すのに。アレックス 困難ですって! いいえ、ただ彼は予約の日を待つのに四日間もあるのがじれったいようでしたが。ライリイ 彼の予約を後にずらす必要がありますね、彼の抵抗を低めるには。しかし、私が意味したいのは、彼はあなたの判断を信用していますか。アレックス ええ、全面多岐に。それは僕が非常に知性的であるからではなくて、僕が非常な情報通であるからなのですよ。有能な医者をよく知っている種類の人物としてね。買い物に適した店を知っていると同時にね。その上に、彼は自分の妻以外の者が推薦する医師なら、誰にでも診療を受けたいと思っているのです。ライリイ 私は既に彼女に私の名前を口にしないようにと強く念を押しておいたのです。アレックス あなたのいつもの先見の明で、彼は今や、全く意気揚々としている。何故なら妻を上手く出し抜いたと思っているから。そして医師が彼をサナトリアムに送り込んだりしたら、そこは彼女が彼を探し出せない場所なので、そうであれば、彼は信じている、彼女は深く後悔するだろうし、彼は自分の病気を楽しめるのだと。ライリイ 病気は彼に二重の意味の優先権を与える。詰まりは、自身から逃げるのと、妻をよりよくできる。アレックス 彼の妻から逃げるのではないのですか。ライリイ 彼は彼女から逃げたいとは欲していない。アレックス 彼は今、自分のクラブに滞在している所です。ライリイ そうです、彼は其処から手紙を寄越しています。 (自宅用の電話が鳴る)もしもし、かれを通しなさい。アレックス あなたは多忙な朝をすごされるのですね。僕は補助階段を利用して外に出ますよ。そして彼等が帰った時に戻ります。ライリイ そうです、彼等がいなくなってからです。 (アレックスは脇階段から退場する) (エドワードが女性秘書に案内され来る)エドワード ヘンリイ・ハーコートライリイ卿…。 (立ち止まり、相手を凝視する)ライリイ (書類から眼を離さずに) お早うございます、チェンバレンさん、どうぞ、お座りください、お手間は取らせませんよ。…、さてと、チェンバレンさん…?エドワード ドアを入る際に、あなたではないかとひらめくものがありました。でも、僕は別の兆候だと無視した。そう、僕はもっとよりよく事態を知るべきだったのです、あなたを知らない人間に勧められて此処に来る以前に。しかも、アレックスはこれにふさわしい人物ですからね。そして彼の名店の推薦はいつだって的を射るものだった。お許し願えれば、彼は粗忽ものでもあるので、出来れば知りたいのですが、…、何の役に立つでしょうか、直ちにお暇をしたいと思うのですが。ライリイ いいえ、宜しければ、座りなさい、チェンバレンさん。あなたは立ち去っては行かないのです。そうしてどうぞお座りください。あなたはひとつ質問をすることになります。エドワード あなたが私の部屋に来た時には来客として妻から招待を受けていたのでしょうか。そう、私は考えるのですがね。…、彼女はお見送りしたのでしょか。ライリイ 私は招待されていたとは言えないのです。チェンバレン夫人は私が来るだろうとは知らなかった。しかし私はあなたがあの場にいるだろうことはしっていましたし、誰々と一緒かも承知はしていたのですよ。エドワード でも、家内とは面識があったのでしょう。ライリイ はい、その通りです。エドワード それじゃあ、これは罠なのだ!ライリイ 罠などと言わないようにしましょう。しかし、仮に罠だったとしても、あなたはもう逃げられませんよ。そして、ですから…、お座りください。あなたはその椅子が快適な事を知るでしょうよ。エドワード あなたは知っていた、あなたに私が話をする前に、何が起こってしまっていたのです。ライリイ それはそれです、それは、それです。しかし、全てがよい都合に行っている。その質問はしばらくの間は忘れておきましょう。最初に、困難についてお話しください、私の職業的な意見を望んでいる難問について。エドワード 私は、家内を連れ戻した事であなたを非難したりはしない。そう思っている。あなたは私を説得したがっているみたいですね、私は家内がいなくても上手くやっていけると。でも、ありのままを知って貰いたい、私は何科の決断をする心理状態にはないことを。ライリイ もしも私があなたの奥さんを連れ戻して来なかったとして、チェンバレンさん、事態はよりよく運んでいたでしょうかね、今現在…。エドワード 解りません、確信がない。事はむしろより悪化していたでしょう。ライリイ さらに事態は更に悪化していたかも知れない。あなたは三人の命を破滅させてしまったかも知れない、その不決断によって。今はただ二人だけ…、その破滅から救い出せるチャンスを有している。エドワード あなたはまるで、私が行動できるかのように話されている。もし、そうであるならば、私はあなたに、或いはほかの誰かに相談する必要はないのです。私は患者としてここに来ています。もしあなたが私の症例に興味がないのであれば、私は別の所に行くでしょう。ライリイ あなたは御自分が非常な重症の病気を患っていると信じる分別をお持ちです。エドワード 医者と言う者は自分でそれを診立てることが出来るものと思うべきでした。或いは少なくとも彼は諸兆候について探るのではないかと。二人の人々が最近私に助言している、殆ど同じ文言で、私が医者に診断を仰ぐべきだと。彼等は、言った、再び殆ど同じ文言で、私が神経衰弱の瀬戸際に瀕していると。私はその時は自分では分からなかった、しかし彼等にそれが見えたのなら、医者ならそれを察知する筈だと思ったのでした。ライリイ 神経衰弱は、私が使った事の無い用語です。それは殆ど何にでも当てはまるのです。エドワード それ以来、私は自分の病状は非常に稀なものなのだと自覚したのです。ライリイ 全部のケースが独自のものであり、お互いが非常に似ている点もある。エドワード どこかに療養所はありますかね、あなたが僕のような患者を送り込んだ、あなたの個人的な診断に基づいて。ライリイ あなたはとても性急な性格の方だ。チェンバレンさん。色々の患者に合わせて、様々な療養所があります。しかも、その療養所が患者にとって考え得る最悪の場所である場合もある。まず手始めに我々は貴方のどこが悪いのか、あなたにどう対処すべきかを決める前に、発見しなければいけません。エドワード 私の様な症例を診察した経験はあるのでしょうか。私は自分の人格を信じるのを辞めてしまっています。ライリイ ああ、そうですね。これは重症です。非常に普通の疾病です。実に流行しているそれです。エドワード 記憶しているのですが、少年時代に…。ライリイ 私は出来るだけ最近の状態から始めるのが常です。そして必要に応じて過去にさかのぼる。お判りですか、あなたの少年時代の記憶、つまり、現在の心理状態、その大部分は仮想のもので、そしてあなたの夢想など、あなたは途轍もない空想を描いたりする。私を満足させようとして。私には自分の好き放題にあなたに夢想させる事も可能だ。そしてそれは、あなたの虚栄心をおだて上げて一時的な刺激を与えて興味を感じさせるのも自在にできる。エドワード でも、私は自分の無意味さを思うと押しつぶされそうになっているのです。
2025年11月12日
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エドワード 一人の叔母を作り出したのさ。彼女は田舎で病気なのだよ、そして、君を呼び出した。ラヴィニア そうなの、エドワード。でもあなた真実を述べた方がよかったのよ。真実以外の何事もジュリアを騙す事は出来ないでしょうから。でも、どうして叔母はエセックスで生活する様になったのかエドワード ジュリアが僕に何処かに住んでいると言わせたのだ。ラヴィニア 分かったわ。それでジュリアは彼女をエセックスに住まわせたのね。そして電報がエセックスから来るようにした。そうね、私、ジュリアに真実を話すわね。此れからは私は何時も真実をジュリアには告げる事にするわ。私たちは嘘を吐くのに途轍もない時間を浪費しましたからね。エドワード 言っている意味がよくわからない。ラヴィニア 重要な点は、私は一度あなたから離れて以来、あなたの事を余りにも深刻に考え過ぎていたみたいなの。そして今は、あまりにもあなたが馬鹿げて見えるのよ。エドワード それは随分と深刻な結論だね、あまりにも短時間に…、どれだけかな、三十二時間で到達したものとしては。ラヴィニア ええ、とても重要な発見です。自分が五年間も生活を共にして、ユーモアのひと欠片もない男と知ったのは。そしてその結果で、私自身がユーモアの感覚を全部失ってしまった。それはいつでもあなたに折れて出ていたからなのですよ。エドワード 僕は、君が何時も僕に屈服していたとは気づかなかった。それはとても違った風に僕の胸を打つのだよ。我々に解決を迫る問題が発生した場合に、思うに、折れて出るのは僕の方だと思うのだが。ラヴィニア 私に対して一歩を譲ると仰る意味は理解できますわ。詰まりは、全部の実際的な決意を横に置いておいて、あなたが自身で決めなければならないのに。覚えているのだけれど、ああ、何が結果として将来するのか私は実感しなければいけない。私たちがハニムーンを計画していた齎に、私はあなたに言わせることが出来なかった、あなたは何処に行きたいのかを。エドワード 僕はその決定を君にしてほしかったのだ。ラヴィニア でも、どうして私に行きたいところを言う事が出来たでしょうか、あなたが最初に言って下さらなければ、何処か他の場所を…。そして私、記憶しているけれども、絶望した私は言った、あなたは多分、ピースヘブンに行きたいのだと思う、と。そしてあなたは言った、構わないよ。エドワード 勿論、僕はそれでよかったのだ。僕はそれを一種のお世辞として言ったのさ。ラヴィニア あんたはお世辞として仰ったのね。そして、あなたはとても思慮深い、と人々が言っていた。そしてあなたは自分を利己的ではないと思っていた。ただ、受動的であっただけ。あなたは支持されて、元気付けれたいだけだった…。エドワード 元気づけられる、何に対してかな…。ラヴィニア 自身をよく思いたいから。あなたをバーで働かせたのは私だったと御存知でしょう……。エドワード 君は始終に小言を言って僕を煩がらせた、何故なら、僕が十分な仕事を得られないでいたから。そして、僕に持つと多くの人々と会うべきだと言った。そして、訴訟事件がき始めると、それは君の友人経由ではなかった、君は突然にそれを不便だと思い始めた。僕は常に忙し過ぎ、疲れ過ぎていたから、君に社会的に役立つ者としてはね。tラヴィニア 私、決して不平を言ったりはしなかった。エドワード それは実に僕を憤激させるに足るやり方だった、君が不平を言わなかった態度は…。ラヴィニア 不平や不満を漏らしたのは貴方の方だった、事務弁護士か依頼者以外は誰にも会えなかったから。エドワード そして君は一度も同情的ではなかったね。ラヴィニア そうね、でも努力はしていたわ、色々と。それが理由だわ、私がこの木曜会を開催してあなたに知的な人々との会話をする機会を与え続けたのは。エドワード 君がもしも僕を執事として雇っていたならばもっと多くの機会を与えることが出来ていた筈なのだがね。君の客の何人かは僕を君の執事だと思っていたかも知れない。ラヴィニア そして、何度かの場合には、私が特別にあなたに会って欲しいと望んでいた機会には、あなたはそう言う人々が辞去する時でないと到着出来なかった。エドワード そう、少なくと彼らは僕を執事と思うことはなかった。ラヴィニア 私が試みた色々の事柄は事態を一層悪化させただけ。そしてあなたは御自分が望んでいた事が目の前に差し出された瞬間に、何か他の何かが欲しくなっていた。それで私はこれまでとはまるで違った接し方であなたと対したいと思っています、未来には。エドワード 警告を有難う。しかし教えてくれたまえ、こうして僕は君と会えたが、何故戻って来たのかね。ラヴィニア 正直に言って、解りません。わたしは危険だとの警告を受けています。しかも、何かが、或いは何者かが帰る様に強いたのです。そしてあなたは何故、私を欲したのですか。エドワード 僕にも分らない。君は僕を元気づけようと試みていたと言ったが、それなら何故、僕が無意味な存在だといつも感じさせ続けていたのだろうか。僕には言えないのだが、自分はどんな人生を望んでいるのか。でも、君が僕に選んでくれた人生ではないのは確かなのだ。君は自分の夫が成功者だと思いたい。そして社会的な背景を提供したいと望んでいる、自分自身の社会的な背景の為に。君は一人の女主人として夫たる僕が支えとなる事を願っている。そう、融通が利くようにしようと試みたが、将来は、君に保証するが、非常に違った風に行動するつもりでいる。ラヴィニア ブラボウ! エドワード。これは吃驚だわね。でも、誰があなたにそんな風な返答の仕方を教えたのかしらね。エドワード 僕は実際、十分すぎるくらいの屈辱を感じた。最近になって、屈辱が屈辱を感じるのを止める時までは。君は君で、何も感じない時点に到着した。そして自分の感情を述べている。ラヴィニア それは新発見だわね。あなたが何かを話そうと言う気持ちになったのは。いずれにしても、私はあなたを有りの儘に受け入れます。エドワード ということは、君は過去の僕も、現在の僕も、そのままで受容すると言うわけだね。でも、君は現在の僕はどんな風に思われるのだろうか。ラヴィニア ああ、過去のあなたがいつもそうだったのと変わりなく。私について言えば、私はむしろ違っていて、その人物をあなたは自然に知るこになるでしょう。エドワード これは非常に興味深いね。しかし君はまるですっかり変身を遂げてしまった様によそっているね。でも、僕にはその変化がより良い方向に向かったのか否か、判別がつかない。でもね、君には僕もまた変化をしたと見えないのだろうか。ラヴィニア ああ、エドワード。あなたは幼少時に、いつも自分の身長を計測していた。前の休日よりもどれ程背が伸びたか知りたくて。あなたは何時だって異常なほどに神経質に自分自身に関心を示していたと私には思える。そしてほかの人が成長するのなら、自分も成長したいと望む。一体、どんな方法であなたは変貌を遂げたのかしらね。エドワード 変化などと言う物は他者の視線を透して自己を見つめた際に悟るものだよ。ラヴィニア それはあなたにとっては粉みじんになるような衝撃的な体験だったに相違ないわね。でも、心配はしないで。あなたは直ぐに立ち直れるわ。そして小さな役割でも演ずるに値する自分を見出すでしょう。別の顔を以て、人々を自分の中に受け入れて…。エドワード 君に関して僕を最も激怒させて止まない物の一つが、いつでも君の完全な確信さなのだよ、僕自身が自分を理解しているよりももっと確実に君が僕を理解しているとの。ラヴィニア そしてあなたに関して私を最も憤激させることはいつでもあなたの穏やかな臆説、私などは苦労して理解する価値などはないのだと思い込んでいることだった。エドワード そして我々は再び此処にいる。罠にはまった状態で。僅かに一つの相違だけで、多分、…、お互いに十分に相手と戦える。その檻の自分の隅に陣取っている。そうよ、夜を過ごすにはより良いほうほうだ、グラマフォンに耳を傾けているよりも。ラヴィニア 私たちはとてもよいレコードを所有しているけれども、私はずっと訝しく思っていた、あなたは実際に音楽を毛嫌いしているのかと。そして蓄音機に耳を傾けることは唯一のあなたの逃げ道だったのか、二人きりでいる際に私に話しかけることからの。エドワード 僕はしばしば訝しく感じたよ、君は何故、僕と結婚したのか。ラヴィニア そうね、あなたは十分に魅力的だったからよ、お判りでしょう。そしてあなたは私に言い続けていた、君が大好きだと。私は信じている、あなたは自身を説得していたのだと、私の恋をしていると。それはまるで素晴らしい経験の縁に立っているみたいで、何時も何事も起こらなかった。私は今でも不思議に思うのよ、あなたは本当に私に惚れこんでいたのかしらと。エドワード 誰もが、そう僕に告げた。しかも我々は全く似合いのかップルだとも称したよ。ラヴィニア 悲しいわ、あなたは御自分の意見を少しも言おうとしない。ああ、エドワード、私はあなたにとって良い存在でありたかった。或いは、もしそれが不可能でも、少なくともあなたにとって忌まわしい事であつても、無ではない何物かでありたかった。それがあなたが私に望んでいた全ての様に思えたから。でも、わたしあなたにお詫びしたいのだけれど……。エドワード 僕に済まないなどとは言わないで! 僕は済まない気持ちでいる十分過ぎる人々を見て来ている。ラヴィニア そうでしょうね、その人たちは本当には、心底からは、あなたに済まないなどとは思っていなかったのでしょう。あなたは今忸怩たる思いでいらっしゃる。そしてそれは堪え難いこと。私は思ったの、私があなたを去ればあなたに救いへの道が開けると。思ったのよ、あなたにとって幽霊にしか過ぎなかった私があなたにとって死んだも同様の状態になれば、あはたは現実感を取り戻す本来の道を発見できるだろうと。何故なら、あなたは現実の中に生きて行かなければいけないのです。何時だったのかはわかりませんが、あなたが私を知る前の何処かの時を目指して。多分は、少年時代だけなのかも。エドワード 僕は君に僕に対してだけ理性的であっては欲しくない。それは別種の軽蔑だからね。そして僕は君に僕の事を説明して欲しくはない。君は依然として、僕のある種の人格を創造しようとしているみたいだからね。それは唯一、僕を僕自身から引き離す役割しかしないだろう。ラヴィニア あなたは本当は簡単な事柄をわざと複雑にしている。私が明瞭に見ている一つの点がある。我々は二度と昨日の朝まで送っていた生活に舞い戻ったりしてはいけない。エドワード 戸があった。が、僕は開ける事が出来なかった。僕はハンドルにさえ手を触れなかった。何故に僕は自分の監獄を歩いて出なかったのか。地獄とは何か。地獄は自分自身だ。地獄は孤立していて他の人物達は単なる投影された影でしかない。逃げるべき所もないし、何処にも逃げ場はない。個人は何時でも孤独だ。ラヴィニア エドワード、何について話をしているのかしらね。自身に話しかけている。我慢して、一瞬だけでも私の事を思って下さらない。エドワード ほんの昨日の事だった、あの破滅が起こったのは。そして今は僕はそれを抱えて生きて行かなければならない。一日、一日、一時間、一時間を、永遠に、永久に…。ラヴィニア 私が思うに、あなたは神経的な破壊の縁に瀕しているのよ。エドワード それを口にしないでくれたまえ。ラヴィニア 私、言わなければいけないの。私、知っているの、あなたを助けて下さるであろうひとりのドクターを。エドワード もし医師に診てもらうにしても、僕は自分で選択する。君が選んだ相手ではなくて。僕には解る気がする、最初にどのようにしてドクターに会い、君の視点からの僕の病状を語ったかを。でも僕は医者は必要ない。僕は単に地獄に落ちただけだ。そこでは医師などはいないし、少なくとも職業的な能力を発揮するそれはね。ラヴィニア 人は実際的でなければいけませんわ。地獄に居ても。そして私は貴方よりも実際的です。エドワード 今僕は君が実際的とは何を言っているのか知るようになったが、実際的! ハニモーンの時に、記憶しているのだが、君は全てをティッシュ・ペイパーに包み、又再び包みを開けなければいけなかった、自分の欲しい物を見つけるために。そして僕は君に歯磨き粉の蓋をどう閉めるのかをどうしても教えることが出来なかった。ラヴィニア 大変結構です、これからは貴方を強制はしません。あなたは御自分が何を欲しているのかを知るには混乱しすぎています。あなたは妥協はしないでしょう。そしてあなた流の妥協は古いそれですからね。エドワード 君は僕を理解しない。明瞭にはしなかっただろうか、将来、君は僕が別の人物だと認識するだろうことを。ラヴィニア 実際、その違いはセリアがカリフォルニアに行くこととは何の関係も無い事をね。エドワード セリア? カリフォルニアに行くだって…。ラヴィニア ええ、ピーターと一緒に。実際、エドワード、あなたが本当に人間ならば、大笑いしだすところですよ。でも、あなたはそうしない。エドワード おお、神よ、神。昨日に戻ることさえできたならば…。決断をしたと思う前にどんな悪魔がドアの錠を開けたままにしていたのか、こうした疑惑が入って来るようにと。そして次に君が戻って来た、破滅の天使、確かに僕はそう感じたよ。一瞬で、君が触れたので、破滅しかない。おお、神よ、僕は一体、何をしでかしたのか。悪魔、化け物蛸。結局は僕は君の意のままにならなければならないのか。ラヴィニア そうね、エドワード。私はあなたを笑わすことが出来なかったように、医者にも見せられないでしょう。現在の所は私がそれについて出来る事は他には何もありません。私はちょっと行って台所を覗いてみなかればいけないわね。卵が幾つかあるのを知っている。でも私たちは夕食に外出しなければいけないわね。所で、私の荷物が階下のホールに置いてるので、ポーターに運んでくれるように命じて下さらない。 幕が降りる
2025年11月11日
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ラヴィニア 誰が去って行くのですか、あら、セリアなの。そう、ピーターもね。私は二人が此処に居るとは期待していなかったわ。ピーターとセリア でも電報が…。ラヴィニア どんな電報なのかしらね。セリア あなたがジュリアに送ったそれ。ピーター アレックスにあなたが打電したそれ。ラヴィニア あなた方が言っている意味が分からないわ。エドワード、あなたが電報を送ったのかしら。エドワード 勿論、僕は電報などは送っていないさ。ラヴィニア これはジュリアの悪戯の類だわね。それで、彼女は来るのかしら。ピーター ええ。そしてアレックスもね。ラヴィニア それじゃあ、彼等に説明を求めましょう。所で、皆さん腰を下ろしましょうよ。何の話をしましょうかね。エドワード ピーターはアメリカに行くそうだよ。ピーター そうです。僕は明日電話を掛けてあなたに報告するつもりでいたのです。そして去る前にはお邪魔してお別れを言おうとも考えていたのです。ラヴィニア そして、セリアも行って仕舞うのかしら。そう、聞いたのだけれども。二人に御目出とうを言いますよ、ハリウッドにね、当然…。何てわくわくする事態なのでしょうか、セリア。さあ、とうとう幸運を手にしたのね。大きな夢を実現できるかも知れない。あなた方は一緒に行くのかしらね。ピーター 僕らは一緒ではありません。セリアは此処から去っていくと言っています。でも、僕は何処へなのかは知らないのです。ラヴィニア 何処へ行くのかは、あなたは御存知ない。それで、あなた自身は何処へ行かれるのかは解っているのよね。ピーター はい、勿論です。僕はカリフォルニアに行くつもりでいます。ラヴィニア ところで、セリア。あなたはどうしてカリフォルニアには行かないのかしら。誰もがあそこは素晴らしい気候だって知っているわ。あそこに行った人々は決して離れようなどとは思わないとか。セリア ラヴィニア、私はピーターについて理解しているつもりです。ラヴィニア それは間違いない事だと思うわ。セリア 何故、彼がそこへ行こうとしているのかも…。ラヴィニア それも又疑いのない所ね。セリア 私は彼が行くのは正しいと信じている。ラヴィニア あら、あなたがそう助言したの。ピーター 彼女はこの事は何も知らないのです。セリア しかし今は私は行かなくては、…、何処かに、お別れを言わなければいけない。…、友人としてね。ラヴィニア ねえ、セリア、私達はずっと友達だったわね。思うに、あなたは私の最も親愛の情を感じている友人の一人だった。少なくとも、娘が持ちうる友人として。彼女よりずっと年上の女性としては。セリア ラヴィニア、私を棄てたりはしないでね。再びお会いすることは出来ないかも知れないけれども。私が今申し上げたいことは、あなたに記憶していて頂きたいの、あなたとエドワードが幸福でいられるように願っている者として。ラヴィニア あなたはとても親切だった、しかも非常に神秘的でもあったわ。私達はなんとかやっていけると思うわ。有難うね、過去と同様に。セリア いいえ、過去とは同じじゃない! (ドアベルが鳴る。そしてエドワードがそれに答えに行く) ああ、思うに、これは馬鹿らしいことだったね。でも……。 (エドワードがジュリアと一緒に再び登場する)ジュリア まあ、ここにいらしたのね、ラヴィニア。遅れて御免なさいね。でも、あなたからの電報は少なからず驚きだったわ。私は来るについては全部を家に置いてきたの。それで、愛する叔母様の具合はどうなの。ラヴィニア 私の知る限りでは、彼女は非常に元気です、有難う。ジュリア 彼女は奇跡的な回復ぶりを見せたのね、私は自分に言ったわ、あなたからの電報を見た時には。ラヴィニア しかし、何処からこの電報は発信されたのかしらね。お尋ねしたいわ。ジュリア それは、勿論のこと、エセックスからよ。ラヴィニア でも、どうしてエセックスからなのでしょう。ジュリア あなたがエセックスに行っていたからよ。ラヴィニア わたしがエセックスに行っていたからですって!ジュリア ラヴィニア、あなた記憶を失ったなどとは仰らないでね。それからあの叔母に関する色々な説明を。…、それと電報。ラヴィニア そうね、多分、私はエセックスにいた。でも実際に分からないのよ。ジュリア あなた、何処に居たか分からないですって、ラヴィニア。あなた、拉致されていたなんて言わないでよ、説明して、私、ひやひやするわ…。 (ドアベルが鳴る。エドワードが答えに行く。アレックスが入って来る)アレックス ラヴィニアはもう到着していますか。エドワード ええ。アレックス ようこそ戻られました、ラヴィニア。あなたからの電報を受け取った時には…。ラヴィニア 何処からですか。アレックス デッドハム。ラヴィニア デッドハムはエセックスだわね。それじゃあデッドハムからだったわけね。エドワード、デッドハムにだなたか友人はいたかしら。エドワード いいや、僕はデッドハムには知り合いはいないよ。ジュリア これは全部途轍もなく神秘的な成り行きだわね。アレックス しかし、何が神秘的なのですか。ジュリア あまり追求しないで頂戴な。ラヴィニアは記憶を欠落させたのよ。そして、だから我々に電報を打ったのよ。そして今、私は彼女が本当に我々を必要としているのか信じられない。分るのは、彼女が叔母の事で疲れ切ってしまい…、彼女の叔母はすっかり回復して、それを聞いてあなたは悦ぶの、アレック。古き偉大な西部での長旅の後で、接続の駅で待ちながらを繰り返してね。そして、彼女はひもじい思いも経験した。アレックス ああ、それならば、僕はどうするか解るよ…。ジュリア いいえ、アレックス。我々は彼女たちをそっとしておいてあげなくてはいけない。そして、ラヴィニアを休ませてあげなくては。さあ、みんなで私の家にいらっしゃい。ピーター、タクシーを呼んで頂戴な。 (ピーターは退場する) 私の所でカクテル・パーティを今日はしましょうね。セリア そうね、今直ぐ行くわね。さようなら、ラヴィニア。さようなら、エドワード。エドワード さようなら、セリア。セリア さようなら、ラヴィニア。 (セリアは退場)ジュリア そしてもう、我々も行かなくてはね、アレックス。エドワード 確認して欲しいのだが、あなた忘れ物はないでしょうね、ジュリア。ジュリア 何かを忘れていないかですって…、ああ、私の眼鏡の事ね。大丈夫だわ、ここにあるから。その上にこのメガネは用済みなの。もう戻ってはこないつもりよ、今晩は。ラヴィニア 止まって。あなたに電報の事を説明して欲しいの。ジュリア 電報の事を説明しろと言うの…。あなたは、どう思うのかしら、アレックス。アレックス いいや、我々には説明は出来ない。ラヴィニア あなた方は電報の事を説明できると確信しているの。何故かは解らないけれども。しかし、私は昨日或る機械を作動させたの、それは今も作動中なの、そして私にはそれと止める事は出来ない。いいえ、それは機械などではない。或いはもしある種の機械のような物であっても、他の誰かがそれを動かしている。でも、いったい誰かしらね、誰かがいつも邪魔をしている…、自由だとは感じられない。…、でも、私はそれを始動させたのよ…。ジュリア アレックス、私達に何かを説明できるかしらね。アレックス いいや。ジュリア、彼女は自分自身で見つけ出さなくてはね。それがただ一つの道だ。ジュリア 全く同感よ。では、親愛なる皆さんたち、又すぐにお会いしましょうね。エドワード 何時また、お会いできますか。私、お会いすると言いましたか。さようなら、私は確信しているの…、何も忘れたりはしていない。 「ピーターが入って来る)ピーター タクシーを拾いました、ジュリア。ジュリア 大変に結構。さようなら。 (ジュリアとアレックス、ピーターが退場する)ラヴィニア 私、言わなくてならない、あなたは私とあってちっとも嬉しそうではないわね。僕は何にしても多くの機会を持てたとは言えないが、勿論、君と会えて嬉しいよ。ラヴィニア そう、それは言っても馬鹿らしいことですわ。一人の女学生の様に、セリアの様に。私は何故そう言ったのか分かりません。でも、私、此処に戻ったわ。エドワード 僕は何も質問をしないつもりだ。ラヴィニア そして、私は何も説明などしません。エドワード 僕は何らの説目をしないつもりでいる。ラヴィニア そして私は質問を何もしませんよ、そして、しかも…、何故でしょうね。エドワード 何故なのかは僕も分からない。そして何について我々は話をしたらよいのか。ラヴィニア 一つだけ私が知らなければいけない事柄が有ります。他の人々に関して、彼等をどう扱ったなら良いのか、あのパーティの事なの。私があのことを全部忘れていたなんてあなたは信じないでしょう。私はあなたをひどい目に遭わせたわ。あなたはそれに対してどうしたのかしら。私は家を後にしてから思い出したのよ。エドワード 僕は自分が知る来客の皆に電話を掛けた。でも、全員には的中しなかった。少数がやって来た。ラヴィニア 誰ですか、来たのは。エドワード 今夜此処へ来た連中だけさ。ラヴィニア それは奇妙ね。エドワード …、そしてもうひとり別の客が。何者かぼくの知らない人物。しかし、君は知っている筈さ。ラヴィニア ええ、知っていると思う。でも、ジュリアには面食らってしまった。あの女は悪魔だわ。彼女は何かが起こりつつあることを本能で察知する。どのようないきずまった状況でも、彼女を頼ったりしては駄目よ。そして、あなたは彼等に何を話したのですか。
2025年11月07日
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第 一 幕 第 三 場 同じ部屋、次の日の午後遅く、エドワードが一人でいる。彼はドアベルに応答する為に行く。エドワード ああ…、今晩は。 (見知らぬ客が入って来る)見知らぬ客 今晩は、チェンバレンさん。エドワード さてと、ジンと水をお出ししましょうか。見知らぬ客 いいえ、結構です。これは別の場合ですから。エドワード あなたが一人で来たと言う事は、不首尾だったわけですか。見知らぬ客 いいえ、全くそうではないのです。私はあなたに思い出させる為に来たのです。あなたはある決心をしましたね。エドワード 僕が心変りしたでも思っておられるのでしょうか。見知らぬ客 いいえ、あなたは変心する準備は出来ていない筈です、決心してしまったことから立ち直るまでは。いや、私が告げに来たのは、あなたがやがて心変わりをするだろうということです。しかし、それは重要なことではないのです。もう遅すぎるのです。エドワード 今僕は半ばは心変わりしているのです。僕は自由に心を変えられると、あなたにお示しも出来るでしょう。見知らぬ客 あなたは心を変えられても、決して自由などではありません。あなたの自由だった瞬間は昨日でした。あなたは或る決心をしました。あなたは動きを開始して自分の生活に力を、他者のそれにもちゅうにゅうした。それらは反対にはし得ないもの。それは一つの考察です。もう一つはこうです、死から誰かを連れ戻すのは深刻なことです。エドワード 死んだ状態ですか。話の形が…、何かしら、劇的ですね。私の妻が私を棄てたのはほんの昨日の事でした。見知らぬ客 しかし、我々はお互いに対して毎日死んでいるのです。我々が他者として知っているのは過ぎ去った時間でのわれわれの記憶にしか過ぎない。その時間に彼等を知った。しかも、彼等はそれから変化してしまっている。彼等も我々も同じだと思い込んでいるのは有用だし、便利でもある、ある社会的な慣習としては。それはやがて壊れてしまうのだが。我々はこうも覚えていなければいけないだろう、再会する度にわれわれは見知らぬ他者と出会っているのだと。エドワード それで、あなたは僕が妻と見知らぬ他者として会うように望んで居られる。それは容易ではないでしょう。見知らむ客 非常に難しい事です。しかしながら、もっと難しいのは、互いが身も知らぬ他人でないと思い続けることなのですね。あのパーティ愛情に溢れている幽霊たち、祖母、クリスマスパーティでの精気にみちた独身の叔父、愛らしい子守り娘、——あなたの幼少時代をやさしく取り囲んでいた人々、慰安、慈愛、安心感の中で。もし彼らが戻って来てでもしたら、困惑してしまうのではないだろうか。あなたは彼等に何と言うでしょうか、或いは、彼等はあなたに何といえばよいのか…、最初の十分間が過ぎた時に。あなたは彼等を見知らぬ者として対処するのは困難だ。しかも、もっと難しいのはお互いが見知らぬ者同士ではないふりをすること。エドワード 僕に最近の五年間を抹殺させることなどは殆ど出来ませんよ。見知らぬ客 私は何事も忘れるようになど要請はしていないのです。忘れようと試みるのは隠蔽しようとすることです。エドワード 確かに、僕が忘れた方がよいと思う事柄はあります。見知らぬ客 それと、人物たちもね。でも、それらを忘れてはいけません。あなたはそれら全部と正面から正対すべきなのです。しかし、それらとは見知らぬものとして会するのです。エドワード すると、僕自身も見知らぬ人物になりますね。そうです、あなた自身に対しても、同様なのですよ。しかし、忘れないでください、あなたは奥さんに会っても、何も質問しないでください。そして何も説明しないでいて下さい。私は同様の事を彼女にも申しました。こんがらかった記憶でお互いを締め付けたりしないように。私はもう行きます。エドワード 止まってください、あなたは彼女と一緒に戻りますか。見知らぬ客 いいえ、彼女と一緒には戻りません。エドワード 何故だか、僕には解らない。そして、あなたが彼女を連れて戻るべきだと僕は思うのですが。見知らぬ客 はい、そう思われるでしょう。そして、或る明確な理由があって、それをあなたに説明する準部をしいていませんが、あなたは彼女に私の事をいってはいけませんよ。そして彼女はあなたにわたしの話はしないでしょう。エドワード 解りました、約束します。見知らぬ客 そして、あなたは訪問者達を待たなければいけません。エドワード 訪問者達…、どのような訪問者ですか。見知らぬ客 やって来る者たちの全部です。見知らぬ者達ですよ。私自身については、あらかじめ用心して補助の階段を使ってお暇しようと思うのです。エドワード 一つ質問させて下さい。見知らぬ客 どうぞ、して下さいな。エドワード あなたは、一体、誰なのですか。見知らぬ客 わたしもひとりの見知らぬ者です。 (退場する。間がある。エドワードは落ち着きなく動き回る。ベルが鳴る。彼は正面玄関に行く) セリア!セリア ラヴィニアは到着しましたか…。エドワード セリア、何故、やって来たのかね。今直ぐにも、ラヴィニアが戻ってきそうなのだ。君は此処に居てはいけないのだよ。何故、此処にきてはいけないのだ。セリア 何故なら、ラヴィニアに頼まれたからよ。エドワード ラヴィニアが君に頼んだからだって…。セリア そうなの、直接にではないの。ジュリアが電報を受け取ったの。彼女に家に来るようにって。私を一緒につれて、ジュリアが遅れたので、私を先に送り出したの。エドワード それはとても奇妙だね。そして、ラヴィニアらしくない。でも、待つしかないね。座り給え。セリア 有難う。 (間)エドワード ああ、神様。何を一体話題にしたらいいのだろう。エドワード 我々は沈黙したままで此処に座っていられない。セリア あら、出来るわよ。ただ、あなたを見てるだけなの、エドワード。笑っても許して下さいね。あなたはまるで校長室に呼ばれた小さな少年みたいだわ、そして、どんな事をしでかしてしまったのか不安で堪らないと言った風情だわ。以前にはこんななたを見た例がないわ。これは実際、奇妙な状況なのね。エドワード 僕には事態のユーモラスな面が見れないのだがね。エドワード 私、実際にはあなたを笑ってはいない、エドワード。わたしは何事だって笑ったりはしなかった、昨日は。でも、二十四時間で多くを学習した。それはとても愉快な経験だった。ああ、来れて嬉しいわ。遂にあなたを人間として見る事が出来ている。あなたもそんな風に私を見れないかしらね、そして、それを笑う事は…。エドワード 出来たらいいね。僕は全てを理解したい。僕は全くの暗闇の中に居るから。セリア でも、事態は実に単純よ。あなたのはそれが理解できないのかしら…。 (ドアベルが鳴る)エドワード あれはラヴィニアだ。 (正面のドアに行く) ピーター。 (ピーターが入って来る)ピーター ラヴィニアは何処ですか。エドワード ラヴィニアが君に電報を送ったなどは言わないだろうね。ピーター ええ、僕には送ってきてはいない。しかし、アレックスにここへ来るように言った、僕を連れてね。彼は直ぐにでも来るはずだ。セリア、あなたもラヴィニアから聞いたのですか、それとも、僕は邪魔をしているのでしょうかね。セリア 私はたった今、自身の考えでやって来たのよ。彼女はジュリアに電報を打ち、私を連れてここへくるように依頼したの。エドワード 他には誰を彼女は招待したのだろうか。ピーター ねえ、僕の印象では、ラヴィニアは昨日のパーティを今日しようと考えたのではないだろうか。それで、彼女の叔母は死んではいないと思う。エドワード どんな叔母だい。ピーター 君が話していた叔母さ。しかし、君は昨日の我々の会話を覚えているのだろうか。エドワード 勿論さ。ピーター 望むらくは、君がそれについて何もしなかった事だが。エドワード そう、何もしてはいないさ。ピーター 僕は非常に嬉しく思うよ。何故なら、僕は気持ちを変えてしまったからだ。詰まり、それは何の役にも立たない、僕はカリフォルニアへ行こうと思っている。セリア あなたはカリフォルニアに行くのね。ピーター そう、僕は新しい仕事を得たのだ。エドワード それで、どうしてそうなったのだね、一晩で。ピーター それがね、アレックスが接触させてくれた人がいて、我々は全部決着させたのだ、今朝。アレックスは知り合って素晴らしい人物だよ。何故なら、彼は誰でも知っているし、何処でも知っている。それで僕が今日ここへ来た理由はさよならを言う為だった、実は。セリア 私は大変に嬉しく思います、あなたの為にね。それでも、我々は…、寂しくは感じるのよ。御存知のようにコンサートではどんなにかあなたに頼ったことか。そしてまた絵の展覧会では。あなたが思われているいる以上にね。面白かったわ、でも今、あなたはチャンスを手にされた。あなたが野心を実現されることを私も希望している。いなくなるのは淋しいけれどもね。ピーター そう言って呉れて有難う。でも、もっと良い人が見つかると思う。一緒に行くのに好都合な相手。セリア 私、コンサートには行かないでしょう。私も別の道を行くから。 (ラヴィニアが施錠用のカギを手にしている)ピーター 君は外国行くのですか。セリア 分からないの、多分ね。エドワード 二人とも行ってしまうのかい。 (ラヴィニアが入って来る)
2025年11月06日
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エドワード いいや、そうじゃあない。ただ、そうではないのだよ。そして、全てのこうした理由は僕に示唆されたのだ、あの男、僕がライリイと呼ぶのだが、名前はライリイなどではないのだが。それは彼が歌っていた歌の中の名前にしか過ぎないのだ。セリア 彼はあなたにライリイと言う名前の男の歌を歌ったのね。実際、エドワード、あなたは気が狂ていると思うわ。つまり、神経的な破滅の縁に瀕しているのよ。エドワード、私が行ってしまったなら、或る偉大な医師、私はその名声を聞いて言うのだけれど、診てもらうと約束して。彼の名前はライリイなの。エドワード 最も偉大な医師よりも更に偉大な誰かが必要だろうね、この、病を治すには。セリア エドワード、もし私が今行くとして、全てが大丈夫だと言ってください。ラヴィニアを引きもどしてあなたの自由を手に入れるなどとは思わないと、私に確信させてね。そして、私達の間も変化がないと…。それが私に関心のある事の全てなの。本当よ、エドワード。それが上手くいけば、全てがそうなるわよ、私、約束するわ。エドワード いいや、セリア。ずっと素晴らしかったし、感謝もしている。しかも君は非常に稀な貴重な人物だよ。でも、もう、遅すぎる。そして、僕は認識するべきだったのだ、君にとっては公平ではなかったと。セリア 私は、公平ではなかったですって。あなたは其処に立っていて、私が公平であると話をする能力がある。エドワード ラヴィニアが離別しなければ、この事態は決して起こり得なかった。どんな未来が君に有り得ると考えられるのだろうか…。セリア 私にどのような未来が望みうるか、ですって…。我々が事を始める前に、私は未来などは捨てているわ。そしてその後では、私は何時も現在に生きている。其処では時間など無意味なの、我々だけの私的な世界、「幸福」と言う言葉が別の意味を持っている。或いは、そう見える。エドワード 僕はその経験については以前に聞いたことがある。セリア 一つの夢。私は今日まで仕合せだった、夢に浸っていて…。そしてそれから、ジュリアがラヴィニアについて質問して、ラヴィニアがあなたを去り、あなたは自由になると知れた際に、私は突然に気付いたのよ、あの夢は十分ではなかったと。私はそれ以上の何物かを欲していたことを、私は欲してた、私はあなたの所に走って言いたかった、でも、あの夢の方がより素晴らしかったのだ。それは真実の現実だったのだと思えたわ。そしてもしも、今が現実ならば、まるで夢のようだわね。多分、自分の夢を裏切ったのは私自身だったわけね。何時も、何時も、私が望んだこの世界と同時にあれも…、知ってみれば、とても屈辱的で、心痛むことだわね。エドワード 君が傷ついたり、悲しんだりする理由などは何もない…。セリア ああ、あなたが私に屈辱を与えているなどと思わないでね。屈辱とは、私が自分にしている何物かなの。あなたは私に屈辱を与える程には十分に現実的ではありませんわ。大多数の女は二人で素晴らしい何かを共有した相手の男が一時的な気晴らしの遊びとしていたのだと知った時に、自分が堕落させられたと感じと私は思う。ああ、私、敢えて言わしていただくわね、あなたは自分を騙していた。それが有りの儘の事柄、疑いもなく。エドワード 僕は君を一時の気晴らしなどとは思わなかった。もしも一過性の娯楽を言いたければ、ピーターをどう考えるのかね。セリア ピーターですって…、ピーター誰のことですか。エドワード ピーター・クイルプ。彼は今晩此処に来ている。彼は一種の夢の中に居たし、今はただ単に不幸で、狼狽えている。セリア 私には単純にあなたが話していることが分からない。エドワード、それは余りにも残酷な逃げ口上だわ。自分を正当化するための。一切、何もなかった、ピーターと私の間には。エドワード 無かったのかな、彼はそう想った。彼はそれについて僕に話したくて戻って来たよ。セリア でもそれは馬鹿げている。私はピーターに私が彼に強い関心を抱いていると思わせる何物も与えてはいない。私は彼には才能が有ると思った。彼が孤独なのを知った。彼を手助けできるかもとは思った。私は彼をコンサートに連れて行った。しかしそれから、彼が更なる交友を深めたいと接近した際に、以前より関心が弱まった。そしてむしろ己惚れていると感じた。でも、何故、私達はピーターの話をする必要はない。重要な事の全ては、あなたが今ラヴィニアを欲していると考えている事。そしてもしも、あなたがそうした人物であるならば、そうね、そうすべきなのでしょうね。エドワード そうではないのだ。僕はラヴィニアに恋などはしていない。僕は実際に彼女を恋したことはない。もし、これまでに僕が恋愛感情を抱いたとすれば、そして今僕はその経験があると思うのだが、君以外の誰にも恋心を感じた覚えはないのだ。そして多分、今もそうだ。でも、これはこれ以上は先に進まない。有ってはいけない事が起こってしまったのだ。……、或る永遠の事柄が。君は別の男が、もっと年齢的に近い若者が。セリア 私はあなたの助言などは興味ないのよ、エドワード。あなたが私の未来に興味と関心を持つなど資格がないのよ。自身の未来を上手く切り抜けるに足る有能さを有していることを私は望むだけよ。そしてあなたがラヴィニアに恋していずに、これまでにもそうではなかったならば、あなたは何を望んでいるのかしらね。エドワード 僕には確信が持てない。比較的に確かな事は、今朝から始まったばかりなのだが、僕は自分と中年男として初めて直面したのだ。老いを感じるとはどういうことか、知り始めたのだ。それは最悪の事だ。最も自分が欲している物全てを欲する欲望を喪失したと感じた時は。以前に、自分が欲するべき対象が強く感じられたのが、今は背後にどのような欲望が残されているのか、を知りたいと願い続ける。でも、理解できない。老いを感じるとはどのような事なのか、どうして理解出来ようか。セリア 私は、あなたを理解したいわ。理解できるのだから。そして、エドワード、どうか信じてね、私はどのような事態が起きても決してあなたを呪ったりはしないつもりよ。でも、あなたの人生はどうなってしまうの。私にはそれを考えるのに堪えられないの。ああ、エドワード、あなたはラヴィニアと一緒で幸福でいられるのかしらね。エドワード いいや、幸福じゃあない。もし幸福と言うものがあるとしても。単なる知る仕合せ、悲惨さは愛らしさの廃墟にはどんな養分も与えはしないと言う事実を。飽き飽きする単調さは愉悦の住み家ではない。僕は知ったのだ、僕に人生はずっと前に決定してしまっていたことを。其処から逃走を図るのは見せかけの振りで、虚偽にしか過ぎない。現に存在するもの、存在しない物、或いは変え得ると思われるものだ。自己はこう言うかもしれない——、僕はこれが欲しい、或いはあれが…。意志する己は薄弱な低能なのだ、そして最後には行きつくかもしれない、頑迷な、より強固な自己で以て、話をしないし、決して話そうとしないで、議論もせず、そしてある人の場合には後見人の如き存在かも知れないが、僕のような者にあっては、鈍重で、執念深く、負けじ魂の凡人精神なのだ。意思する自己は大きな不幸、この望まなかった友愛の絆の災厄を乗り越えようと画策出来る。が、より強力な相手の支配に屈服する形でしか繁栄することはかなわない。セリア 私には確信が持てないの、エドワード、あなたを理解しているか。でも、前には理解しなかった程には理解してるのよ。思うのだけれど、信じているの、あなたは以前よりも、私に対してはあなた自身になっていると。二度、あなたは変化した。私があなたを見つめ始めてから。私はあなたの顔を見た。そしてあらゆる外見を知り、愛したと思う。そして私が見ているとそれは皺だらけにしぼんだ。まるでミイラの包帯をほどいたかのように。あなたの声に耳を澄ますと、私の心はいつもわくわくと震えた。そしてそれが別の声に変じたわ、いいや、声ではない、私が聞いたのは人間の声ではなくて昆虫の出す音だった。乾燥して、終わり無く、無意味で、非人間的で、……。あなたは両足をこすり合わせて音を立てているかのよう。或いは、バッタがそうしているかのようで。私は見た、そしてあなたの心臓に耳を傾けた。あなたの血液の運行に…。そしてただカブトムシしか、人間の形をしたものしか見なかった。その中では何も無い空虚な間隙で、あなたがカブトムシを踏みつけた時に出る物しか出てこない。エドワード 多分、それがありのままの僕だね。僕を踏んで見給え、そうしたいのならね。セリア いいえ、私はあなたを踏みたくはない。それはあなたではないから。私があなただと思っていたものの抜け殻にしか過ぎないから。わたしは今別の人物を目の前にしている。前には見た事の無い人物として接しているの。私が前に見ていた人は、彼は単なる投影された影だった。いまはそれが分かるの。私が望んでいた何かのね…、いいえ、欲していたのではなくて、心の底から渇望し熱望しいた…、この世に実在していて欲しいと死ぬほどに願っていた何物かなの。何処かには何かの拍子に出現するかも知れない、そうあって欲しい…、でも、何かしら、何処になのか…。エドワード、私は単になたを利用していただけなのかもしれないわね。出来れば、許して欲しいの。エドワード 君を……僕に許して欲しいだなんて。セリア そう、二つの点で、ひとつ目は… (電話が鳴る)エドワード 忌々しい、電話だ。電話に出た方がいいね。セリア そう、出た方がいい。エドワード もしもし……ああ、ジュリア。どんな御用でしょうか。あなたの眼鏡がまた…、何処にそれを置いたのですか。でも、さっきも、あちこち全部探しましたよ。バックの中は見ましたか、どうか僕の頭を混乱させないで、……、確かなのですか、台所に…。分りました、そのままでいてくださいね、我々、僕が探しましょう。セリア そう、あなたが探してあげてね。私はまた台所には行かないわ (エドワード、退場する。再び眼鏡とボトルを手に戻る)エドワード 彼女は今度だけは正しかった。セリア 彼女はいつだって正しいわよ。でも、何故、空のシャンペン・ボトルを持ってきたの。エドワード 空ではない、少し気が抜けているかも。でも、何故彼女はハーフボトルと言ったのだろうか。これは家の最上のひとつなのだ。そして僕はハーフボトルは持っていない。さて、僕と最後の一杯を飲んでくれないかな。セリア 何に乾杯しましょうか。エドワード 誰にグラスを捧げようかね。セリア 後見人たちに!エドワード 後見人達にだって…。セリア 後見人達に。後見人の話をしたのはあなたよ。 (二人はグラスを飲み干す) ジュリアも後見人かも知れないわね。多分、私の後見人なのよ。メガネは預かるわ。お休みなさい、エドワード。エドワード お休み…、セリア。 (セリアは退場)エドワード ああ、いけない! (素早く受話器を取り上げた)もしもし、ジュリア、あなたは御待ちでしたね…、お待たせ致し大変に申し譯御座いません。でも、我々は、僕はメガネを探していたもので…、いいえ、見付けました。はい、彼女が今それを持っていきますから…、おやすみなさい。 幕が降りる
2025年11月05日
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第 一 幕 第 二 場 同じ部屋。十五分後、エドワードが一人で、トランプのペイシャンスをしている。ドアのベルが鳴る。彼はそれに答えるために行く。セリアの声 お一人すか…。 (エドワードがセリアと一緒に戻って来る)エドワード セリア、何故、戻って来たりしたのかね。僕は出来る限り早く電話すると言ったよ。そして、少し前にそうしたのだが…。セリア もしもあなたが誰かと一緒でしたら、傘を取りに戻ったと言うつもりでした。あなたは私の会えてもあまり嬉しそうには見えないと、言わなくてはいけないわね。エドワード、私は何が起きたのかを理解しています。でも、さっきの電話の様子が私には理解できなかった。あなたらしくはなかった。それで私はあなたにお会いしなければいけないと感じたの。大丈夫だと言って下いな。そうすれば、私は帰りますから。エドワード しかし、どうして君は何が起きたか理解できるなどと言うのかね。僕には理解できない事なのだが。或いは、これから何事が起ころうとしているのか、分からない。それを理解しようと試みる為にも一人になりたいのだ。セリア 事は完全に単純だと私は考えるべきと思っています。ラヴィニアがあなたを捨て去ったのよ。エドワード そう、事態はその通りさ。それは、誰のも明白な事だと思う。セリア 叔母などはあの時の全くの作り事で、あまり上等とは言えない。あなたはもっとましな何かを用意しておくべきでしたね、ジュリアに対しては。でも、それも実際には大したことではないわ。みんなはやがて十分に知るでしょう。それは私達の困難な事態を治める事にはならないでしょうが。エドワード 実際の困難を明るみに引き出すだけにしか過ぎないだろうね。セリア でも、確かにこれらは一時的なものよ。御存知のように私は事態を受け入れています。離婚はあなたの経歴を破滅させてしまい。しかも、ラヴィニアは決してあなたを離したりはしない。確かに、夫は離婚される相手であると言う馬鹿げた約定にあなたはしがみついたりしてはしない。そしてもし、彼女が選択してこんな根拠を与える…、エドワード 成程ね、でも事態はそんな風では全くないのだよ。ラヴィニアは戻って来るのだ。セリア ラヴィニアが戻ってくるですって…、彼女は我々に罠を仕掛けたとでも言うのでしょうか。エドワード いいや、若し罠があるとしたら、我々は全員が罠にはまっているのさ。我々は自分で罠を仕掛けたのだ。しかし、それがどんな罠なのかはまるで見当もつかい。セリア それじゃあ、何が一体起こったのでしょうか…。 (電話が鳴る)エドワード えい、電話だぞ。電話に出なくてはいけない。もしもし…、ああ、もしもし、いいや、詰まりは、そう、アレックス。そう、勿論だよ…、ありゃ絶品だった、僕はあんな素晴らしい料理をこれまでに賞味したことはない。…、そう、それは興味深いね。しかし僕はあれはなかなかに噛み応えがあると感じたね。…、いや、アレックス、チーズはいらないよ。いや、ノルウェイ産でなくて…。でも、実際に僕はチーズはたくさんなのだよ。どんなスリッパだい…、ああ、ユーゴスラビアの。スモモとアルコール、いや、アレックス、僕は実際なにもいらない。とても疲れているのだ。とても有難う、アレックス、お休み。セリア 一体全体、どうしたというのですか…。エドワード アレックスからだった。セリア アレックスからだとは分かったわ、でも、彼は何を話していたのかしら。エドワード もう、すっかり忘れてしまったよ。彼は自分の道を進んで行った、少し前にね。そして僕に何か夕食を作ってやろうと主張した。そして、彼はそれを十分以内に食べろと命じた。多分、まだ煮えているだろう。セリア まだ、煮えているだろうですって。どうりで、奇妙な匂いがすると思っていたの。勿論、それはまだ料理中でしょう。…何かを料理しているところでしょうね。私は調べに行かなくては…。 「部屋を出始めた」エドワード どうかお願いだから、邪魔をしないで。(セリアは退場) 誰かが着て、君が台所にいる所を見付けたりしたら…。 (エドワードはテーブルの所に行き、ペイシャンスのゲームを眺めた。カードを動かす。ドアのベルが続けて鳴る。セリアがエプロン姿で再登場する)セリア ドアに応対に出た方がいいわ、エドワード。それがベストの行動よ、頭を冷やしてね。分るでしょう、私は実際に傘を忘れてしまったのよ。そして言うつもりよ、あなたがここで飢えて途方に暮れていたので、何かをしなければいけなかった。私は此処に留まって、隠れたりはしないわ。 (台所に戻る) ベルが又なった。エドワードは玄関に行く。そして、声が聞こえた。ジュリア…、どうして又戻って来たのですか、…。 (ジュリアが入って来る)ジュリア 一種の霊感があったのよ。 (フライパンを手にセリアが入って来る)セリア すっかり駄目になってしまったわ、エドワード。エドワード いい事だよ。セリア フライパンも駄目になっていた。エドワード それと、半ダースの卵もね。朝食用に一個欲しかったのだが。ゆで卵としてね。それが僕が出来る唯一の料理でね。ジュリア セリア! あなたも私と同じ霊感が働いたのね、エドワードに食事をさせなくてはと。彼は今非常な困窮下にあるのだから。我々が彼の体力を維持してあげなくては。エドワード、気づいてくれなくては、如何にあなたが幸運なのか、善良なる二人のサマリア人が此処にいる事を。私は、以前は気づかずにいましたよ。エドワード 盗賊の間に倒れた男は僕よりももっと幸運でしょう。彼は宿屋に運ばれた。ジュリア まあ、何て感謝を知らないのでしょうか、そのフライパンの中には何が入っていたの。セリア 解りませんわ。エドワード アレックスがやって来て、僕の為に用意した何物かですが、彼はそれを作ると言ってきかなかった。三人の善きサマリア人ですよ。僕は、全部忘れていたのです。ジュリア でもあなたはそれに手を触れてはいけなかった。エドワード 勿論、僕は手を触れていませんよ。ジュリア まあ、まあ、私は前もって警告しておくべきでいたね。アレックスの作る物は何にしろ全く滅茶くちゃなのよ。私は彼が毒した人々のお話を沢山してあげましょうね、さて、まあ、そのエプロンをこちらに下さいね、私に何が作れるか、試してみましょう。あなたは、此処にてエドワードと話をしてあげてね。 (ジュリアは退場)セリア 一体、何が起こったのかしらね、エドワード。一体全体、何が…。エドワード ラヴィーニが戻って来るのだ、と思う。セリア そう、思うの。分らないのね。エドワード そう、でも僕は信じてはいるのさ。此処に居た、あの男…。セリア その男って、誰の事ですか。私は彼を恐れているわ。彼は、ある種の力を持っている。エドワード 僕は彼が何者かを知らない。しかし、君たちが皆去った後で、彼と話をした。そして彼はラヴィニアを連れ戻すだろうと言った、明日に。セリア でも、何故、あの男は彼女を連れ戻したいのかしらね、彼が悪魔ででもない限りは、私、彼は悪魔だと信じられるわ。エドワード 僕が彼に尋ねたから、そう答えたのだ。セリア あなたが尋ねたからですって…、それならば、彼は悪魔に違いないわ。彼はあなたに魔法をかけたに違いない。どのようにして彼は、あなたに彼女が戻って欲しいと思わせたのかしらね。 (ポンとはじける音が台所から聞こえる)エドワード あれは一体、何だろうか。 (再びジュリアがエプロンをつけて、三つのコップを載せたお盆を手にして入って来る)ジュリア 私は、霊感を受けたのよ。食べられる物はあそこには何もなかったわ。私はくまなくあちこちと探した。そして、シャンペンしか見つけられなかった。それもハーフボトルの。確かにね。勿論、冷やしてなどはいない。でも、気晴らしには最適でしょ。そして私は思った、私達三人共何か刺激になる物を必要としている、この惨状の後ではね。さて、健康の為に提案したいの、見当がつくかしらね、誰のための健康を祝するかを。エドワード いいえ。想像出来ませんね。でも、アレックスの為には飲みたくないですね。ジュリア ああ、アレックスにじゃないわ。さあ、ラヴィニアの叔母の為によ。あなたはそれを推測すべきだったわ。エドワードと セリア ラヴィーニアの叔母ですって。ジュリア さてと、次なる質問は何をなすべきかよ。それはとても単純だわ。もう、遅すぎるか、早すぎる、レストランに行くには。だから二人とも私と一緒に我が家に来るべきよ。エドワード いや、済みませんが、ジュリア。出来ればそうするのですが。疲れ過ぎて外出できないのSよ。全く空腹ではないのです。ビスケットを何枚か食べるつもりでいます。ジュリア でも、あなたは、セリア。あなたは一緒に来て軽い食事を私とするべきよ。とても軽めのそれを。セリア お供するのが許されれば、そうするのですが。あと十分程、行く前にエドワードに言いたいことがあるのです。ジュリア ラヴィニアについてかしらね。そう、急いで来てね。そしてタクシーを拾わなくては。分るでしょう、あなたは全く空腹そのものと言った風情だわよ。お休みなさい、エドワード。 (ジュリアは退場する)セリア さて、彼はどのようにあなたを説得したのかしら。エドワード 彼がいかようにして僕を説得したかだって…。僕は非常に鮮明な印象を受けたのだ。ラヴィニアが行ってしまったのはいずれにしても最上の策だったと僕を説得した。僕は感謝すべきなのだ。そしてなおかつ、彼は妻が戻る事を僕が望んでいると僕自身に悟らせることが彼の議論の効果だった。セリア それが、悪魔の手法よ。それでは、あなたはラヴィニアに戻って欲しいのね。ラヴィニアに!そしてあなたに関心のある一つの事は、破滅を避ける事だった。いずれにしても不愉快な事態を。いいえ、断じて、そうではあり得ないわ。そうだとは思わない。それは心労への一時的な屈服に過ぎないと思う。そしてパニックへの。あなたは面倒に直面できないのよ。エドワード いいら、そうじゃない。単に、そうではないよ。セリア 単純に、虚栄の問題ではあり得ないわね。世間があなたを笑いものにするだろう、何故ならば妻が別の男を求めてあなたを棄てたから、と思うのかしらね。私はやがてそれが正しいとするでしょうよ。エドワード、あなたは自由になるの。
2025年11月04日
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エドワード ああ、いや、いや、全てが未完の儘さ。しかし君はまだ、どのようにしてセリアと知り合うようになったか僕に話して呉れてはいないよ。ピーター 僕は彼女にまた数日後に会った。或るコンサートで一人でいる所を。そして僕も一人だったた。僕はいつもコンサートには一人で行っていたから。最初は、一緒に行く相手がなかったからだが、後にはその方が好都合だと解ったからだ。が、セリアのような娘の場合はとても奇妙に感じた。新聞の社会欄に載っている単なる名前としか彼女を思っていなかったので、その場所で彼女が一人切りでいるのを見かけた時には。とにかく、我々は会話を始めた。そして彼女はコンサートには一人で行き、映画もそうして観ていたことを知った。そこで我々は同じようにしてしばしば会うようになった。そして時には一緒に行くようになった。そしてセリアと一緒にいる事は、仲間を居たり、一人切りである状態とは違う何かだった。時々はお茶を飲んだり、一二度一緒に食事をしたりした。エドワード そして、その跡で君を家族に紹介した、或いは、友達の誰かに。ピーター いいや。でも、一度か二度は家族や友人達の話をした。そして彼等の知的関心の無さについて触れた。エドワード そしてその後には何が起こったのかな。ピーター いいや、何事も…。しかし、彼女は実際に非常な興味を感じていると僕は思った。そして、一緒にいるととても幸福を感じた。そう、満足だった、そして…、安らかさを。それを上手く表現できないけれど。僕はそれまでそんな静かな幸福感を想像すら出来なかった。僕はただ興奮して、無我夢中状態でいただけだった。所有欲への欲望、彼女から受ける物はそうではまるでなかったのだ。それはとても奇妙な何かだった。つまりは、…、非常な、静寂さだった。エドワード そして、この興味深い事態を何が邪魔をしたのだろうか。 (アレックスがシャツの袖を捲り上げ、エプロンを掛けて姿を現した)アレックス エドワード、カレー粉がみつからないのだよ。エドワード カレー粉は置いていない、ラヴィーニアがカレーを嫌っているので。アレックス 別のサプライズが出来るよ、それなら。思うにだが、マンゴウがあるとは想定していなかったからね。だけど、カレー粉だけは計算に入れていたのだ。 (退場する)ピーター それこそがまさに僕が知りたかったことなのだ。彼女は単に姿を消した、何か或る絵の中に…、フィルム効果の様に。彼女は僕に会いたがらなくなった。口実をもうけて、非常に嘘っぽいそれだった。そして僕が彼女を見かけた時は、彼女は何か秘密の興奮状態に無我夢中と言った体で、僕には共有し得ないのだ。エドワード 彼女は単純に君に対する興味をなくしたのではないだろうか。ピーター それは解釈が違っている。僕はそれを違った風に思う。僕が残念に思うのは、彼女が僕に興味を失ったことではなくて…、我々が或る知覚を共有していると思われた瞬間・瞬間、ある種の感情、ある種の詞では規定できない経験、その中に我々二人が無意識に浸っているのだが、君の表現用語では、多分、彼女は僕への興味を失った事。エドワード それは全部がごく普通の事だ。君は今、非常に幸運な見舞われている事実に気づきさえすれば。しばらくすれば、これは当たり前な事態になってしまうだろう。他の事柄と同様に。熱が冷めれば彼女は別の女性だったと知ることになるだろうさ。そして、君も別の男だったと。僕は君に祝福を送りたい、よい潮時に生還できたことをね。ピーター 僕は君の祝福の言葉などは御免を蒙りたいね。僕は誰かに話をしなければならなかった。そして僕は君にリアルなことについてずっと語ってきたわけだ、僕の最初の現実体験であり、多分最後の物だが、君は理解しなかった。エドワード ねえ、君、ピーター。僕はただ、君とセリアに何が起こったのかを語って聞かせていただけだ。後、六か月経てば…。現実はこの通りだ。君は好きにすればよい、取るなり、捨てるなり。ピーター だが、僕は何をすればよいのかな。エドワード 何もしなくてよい。待っている。カリフォルニアに戻り給え。ピーター でも、僕はセリアに会わなくてならない。エドワード それは同じセリアだろうか。君が記憶しているセリアで満足するのがよりよいのだ。忘れないでいたまえ、もうすでに記憶なのだからね。ピーター でも、僕はセリアに会わなくては、彼女自身の言葉で、一体何が起こったのかを語ってもらう為に。それを知るまでは、記憶でさえ真実なのか否か、解らない。こうした関心を実際に共有していたのか、或る音楽を聴いていた際に実際に同じ感情を感じていたのか。或いは、ある映画を観ていたに…。リアルな何物かが…、だが、現実とは何か…。 (電話のベルが鳴る) もしもし…、今は、話が出来ない。そう、詰まりは…、それでは、こちらから電話するから、出来だけはやめにね。(ピーターに) 済まない、話中だったね。ピーター 僕は言っていた、現実とは何かと。非現実的な二人の間の経験に関する。もしその記憶を保持できさえすれば、僕は未来に耐えられる。しかし、僕は過去について真実を知らなければいけない。sの記憶の為にも。エドワード 樟脳で包めるような記憶はないさ。だが、蛾が入り込むだろう。それで君はセリアに逢いたいのだね。君が現在陥っているおバカな状態から君を守るべくこんな面倒な事をしなければならない理由が分からない。君は僕にどうして欲しいのかね。ピーター 僕の為にセリアに会って貰いたい。君はそれだけの年長者だからね。エドワード それだけの年長者だって…。ピーター そうだ、彼女は君の話なら聞くだろうと確信している。利害関係のない者としてね。エドワード それなら、僕はセリアに会おう。ピーター 有難う、エドワード。御親切に有難う。 (アレックスが上着を着て、入って来る)アレックス ああ、エドワード。僕は素晴らしい御馳走を準備し終えたよ。僕は実際勝利の凱歌をあげたいよ。これは最高に素晴らしいぜ。無から何物かを作り出すのはね。アルバニアを旅行している時でもお宅の冷蔵庫のあんな少ない材料で夕食をでっち挙げたことはなかった。だが、勿論、半ダースの卵を見つけたのは幸運に過ぎたがね。エドワード なんだって、君が卵を全部使ってしまったのかね。ラヴィニアの叔母が田舎から送って来たばかりだったのだ。アレックス ああ、それじゃあ、叔母は実在したのだね。物的な、証拠というわけだ。エドワード いや、いや、…、詰まりは、別の叔母なのさ。アレックス 了解、実際の叔母だ。しかし、感謝し賜えよ。モンテネグロには、ほんの少数の百姓しかいない、君がこれから食べる豪華な食事が出来るのは、今日ではね。エドワード しかし、朝食はどうしたらよいのかね。アレックス 朝食の事は心配しないで。君が必要とするのは一杯のブラックコーヒーだからね。それと、少しの乾いたトーストがあれば足りるさ。僕はそれをぐつぐつさせたまにして置いたからね。もう十分以上はそのままにしておかないように。もう僕は行くからね。ピーターを連れて行くよ。ピーター エドワード、僕は君の時間を大分邪魔してしまったようだ。しかも、君は一人でいたいと言うのに。ラヴィニアが戻ったら、僕が宜しくと言っていたと伝えて呉れ給え。もしも、君が構わないなら、僕が言ったことは「彼女」には話さないで置いてくれないか。エドワード 僕はラヴィニアには何も伝えるつもりはないからね。ピーター 有難う、エドワード。お休み。エドワード お休み、ピーター。そしてさよなら、アレックス。ああ、そして面倒でなかったら、出た後でドアをきちんと閉めてくれないか、錠が懸かる様にね。エドワード 忘れないでくれ、十分以上は放置しないでくれたまえ。二十分も経過した、僕の仕事はおじゃんになってしまう。 (ピーターとアレックスは退場) エドワードは受話器を取り上げて、ダイアルする。エドワード セリア・コプルストーン嬢はいますか、……、どのくらい前ですか…、いいえ、構いません。 幕が降りる
2025年10月31日
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エドワード やはり、あなただった、ジュリア。 (ジュリアとピーターが入って来る)ジュリア 私は、あなたが居てくれて、とても嬉しいわ。分るでしょう、私はこの辺に眼鏡を置き忘れたに違いないの。そして、単純に私はメガネがないと何も見えないのよ。私は町中をピーターを連れて駆けずり回ったの、眼鏡を探すので。行った場所は隈なくよ。誰かが既に見つけてくれているかしらね。されが私の物かどうか教えて下さらない。プラスチックのフレイムのものだけど。私、色は残念ながら覚えてはいないの。でも、ちゃんと記憶している、片方のレンズがなくなってしまっている。見知らぬ客 (歌う)水入りジンを飲んでいるが、そして俺は片目のライリーで、家主の娘を目指してやって来たぞ、そして彼女は俺の心臓を完全に掴んでしまった。……、あなたは私との約束を守ってくれますか。エドワード はい、守ります。見知らぬ客 (歌う)トーリーリー・トーライリー、片目のライリーは何が問題なのか…。 (退場する)ジュリア エドワード、あの恐ろしい男は誰なの。私のこれまでの人生でこんなに侮辱を受けたのは、初めても事だわ。私が眼鏡を忘れたのはとても幸運だった。これこそは私にとっての冒険だもの。彼について話してちょうだいな。あなた方は一緒にお酒を飲んでいたのでしょう。それでこれがその種の友人なわけでしょう、ラヴィニアが道を逸れてしまった時の。彼は誰なのですか。エドワード 僕は知らないのです。ジュリア あなたが知らないのね。エドワード 僕は人生で一度も会ったことは無いのです。ジュリア では、どうして彼は此処に来たのかしら。エドワード 僕は知らないのです。ジュリア あなたは御存知ない。そして、彼の名前は何かしらね。彼が自分のなまえはライリーだって言うのを私は聞いたわ。エドワード 僕は、彼の名前を知りません。ジュリア あなたは彼の名前を知らない。エドワード 僕は言いましたよ、彼が何者なのか見当もつきませんよ。そして、何故彼がここに来たのかも。ジュリア でも、名に就いてあなた達は話をしていたのですか。それとも、ずっと歌を歌っていたのかしら。いずれにしても全く謎が多すぎるわね、今日のこの場所には。エドワード 申し譯もありません。ジュリア いいえ、私は大好きよ。しかし、それでメガネの事を思い出したわ。それが最大の謎よ。ピーター、どうして私の眼鏡を探しては下さらないの。マントルピースの上を見てね。何処に、私は腰を掛けていたかしらね。ソファをひっくり返してみて。ない。この椅子は…。クッションの下を見てね。エドワード あなたのバッグの中にない事は確かなのですかね。ジュリア ええ、勿論ないわよ…。そこに私はメガネをしまってあるの。あら、あったわ。有難う、エドワード。それであなたがとても賢いことが分かるわ。あなたがいなければ二度と眼鏡を見付けられなかったでしょう。次に何かを失った時には、私、真っすぐにあなたの所へ来るわ、聖アンソニーの所ではなくてね。さてさて、大急ぎで行かなくては、私はタクシーを待たせたままなのですものね、いらっしゃい、ピーター。ピーター 出来ればだが、あなたと一緒に行かなくとも構いませんか、ジュリア。戻る途中で、僕はエドワードに言わなければならないあることを思い出したのです。ジュリア ああ、ラヴィニアについてなのね。ピーター いいえ、ラヴィニアについてではないもですよ。それは僕がエドワードに異見を徴したい事柄についてなのです。そして今、それができるのです。ジュリア 勿論、構いませんよ。ピーター 少なくと、リフトで下まで、お供させて下さいな。ジュリア いいえ、あなたは此処に居なさい。そして、エドワードと話をして。私はもう途方に暮れてなどいないから。そして、その上に私は機械の操作を上手に自分で熟してみたいの。リフトの中で瞑想も出来るし。さようなら、お二人。有難う、とても感謝しているわ。 (退場する)ピーター 僕は君を邪魔していない事を願うのだが…,エドワード。エドワード もう既に僕は邪魔されてしまっていると感じるのだがね。そして僕はむしろ一人でいたかった。ピーター 僕は君の手助けが欲しいのだが。電話して後で会おうと思っていたのだが、これが好機だ思われる。エドワード それで君の問題は何なのだろうか。ピーター 今晩、僕はもうこれ以上は耐えられないと感じた。あの奇怪なパーティ、済まない、エドワード。勿論、実際には実に素晴らしいパーティだったさ。僕以外のみんなにとってね。そしてそれは君の過失なんかじゃない。君は状況を把握していなかったようだ。エドワード 一つか二つには気づいては居たのだが。でも、全てに気づいていたとは思わない。ピーター ああ、気づいていなかったことを僕はとてもうれしく思うよ。僕は自分が思う以上に上手く振舞ったに相違ない。もし君が気づかなかったなら、他の参加者もそうだったのだろう。でも、ジュリア・シャトルウエイトだけは少なからず警戒している。エドワード ジュリアは確かに観察眼に優れている。しかし彼女はむしろ他の事を頭に置いているのだろう。ピーター セリアの事、僕と彼女の関係…。エドワード おや、君とセリアについて何かある得るのかね。二人に共通の何かがあるとでも思うのかね。ピーター 僕らは大いに共通の事柄があると、僕には思われたがね。僕らは二人とも芸術家だからね。エドワード 僕は決してそうは思わない。どんな芸術を君は実践しているのかな。ピーター 君は僕の小説を読んだことがないのだろうか。それは非常に好意的な批評を得ているのだがね。しかし、我々二人の興味を多く惹いているのはシネマなのだ。エドワード 活動写真に対する共通の興味はしばしば若い人々を一緒に結びつけている。ピーター さて、君は皮肉でありすぎるようだが。セリアはフィルムの芸術に関心を示している。エドワード 或る可能な職業としてかな…。ピーター 彼女はそれを職業にするかもしれない。彼女なりの詩心を以てね。エドワード そう、僕は彼女の詩篇を読んだことがある。セリアの関心のある者には興味深いそれを。勿論、その文学的長所を離れてだが。文学的な価値を僕は判断する振りはしない。ピーター 断然、僕は判断し得るのですよ。そして、それは非常に優れている。でも、それが重要な点ではない。重要なのは、思うに、我々が大いに共通項を有していること、又、彼女もそう思っていると僕が思う事なんだ。エドワード どのようにして彼女と知り合うことになったのかね。 (アレックスが登場する)アレックス ああ、いたいた、エドワード。何故、僕が覗き込んだかわかるかい。エドワード その前に、どうやって中に入ったのかを先ず、知りたいね、アレックス。アレックス 僕はやって来て、ドアが開いているのを知ったのさ。そしてそれから、中に入り君が誰と一緒にいるのかを知りたいと思ったのさ。ピーター ジュリアが開けたままにしておいたに違いない。エドワード 気にしなくともいいよ。出る時に君たち二人がドアを閉めてくれればね。アレックス 君は僕と一緒に来てくれたまえ。思ったのだが、エドワードは今晩は一人きりでいるかもしれない。そして、僕は知っている、君が夜を一人きりで過ごすのをきらっているのを。そこで、君は僕と晩飯をするために外出しようではないか。エドワード どうも御親切を有難う、アレックス。僕は大丈夫だよ。でも、むしろ一人でいたいのだよ、今夜はね。アレックス でも、君は夕食を取らなければならないだろう。外出するつもりなのかな。誰かが君に夕食を届けてくれるのかい。エドワード いいや、あまり食欲もないので、自分で用意しようと思っている。アレックス ああ、その場合には、僕は自分のなすべき事が何なのかを心得ている。ちょっとしたサプライズを君に提供しよう。僕は中々の料理上手なのを、知っているね。僕は君の家の台所に直行して、ちょっとした夕食を用意しよう。それを、君は一人で食べればいいさ。それから、我々はお遑するよ。その間に、君とピーターは話を続けることが出来る。僕はその邪魔はしない。エドワード やれやれ、アレックス。食料貯蔵室には君の料理に適当な物などは何もない。そう思うのだがね。アレックス そこが僕の特別な才能なんだが、無から口に合う上等の料理を設えてしまうのがね。どのような余り物でも結構。僕はそれを東の国で学んだのだ。一撮みの米と少しの乾燥魚で僕は六皿分の料理をでかしてしまう。何も言わないで、直ぐに始めるからね。 (台所に去る)エドワード さてと、話はどこまで行っていたのかな…。ピーター 君が、僕はどのようにしてシリアと知り合ったのかと尋ねたのさ。僕は彼女とは此処で出会った、一年前に。エドワード ラヴィニア主催の素人木曜の会でかな。ピーター 或る木曜日、何故、素人を付けたのかな。エドワード サロンを開始するラヴィニアの試みなのだ。そこで僕はより重要でない客を接待し、環境に順応しにくい人々を担当する。詰まりは、ラヴィニアの間違いをね。しかし、君はより重要でない成功者の一人さ。少なくとも一時的にはね。ピーター 僕は、そうは言いませんよ。しかし、ラヴィニアは途轍もなく僕に親切にしてくれました。そして僕は大いに彼女に恩義を感じています。そしてそれから、セリアに逢いました。彼女は僕がそれまでに知っていたどんな娘とも違っていた。そして、話をするのが容易ではなかった。その折には。エドワード 君は彼女としばしば会いましたか。アレックスの声 エドワード、二重湯沸かし器はあるかい。エドワード そこにあるのがそれだと思うにだが。どの台所にも二重湯沸かし器が設備されているだろう。アレックスの声 見付けられないのだ、あのサプライズは上手く行きつつある。別のを考える必要がある。ピーター そんなに頻繁ではなかった。そして会えた時でも彼女と話をする機会はなかった。エドワード 君とセリアは別々の目的で依頼されていたのだ。君の役割は発表要求手続きの一人であったし、セリアのは社会と流行を提供することだった。ラヴィニアは同時に二つの世界で自分を確立する野心を常に抱いていた、でも、実際には二つの世界の繋ぎ役を演じたわけで。思うに、それが木曜会が失敗した理由なのだ。ピーター 君はまるですべてが終わってしまったように話をするね。
2025年10月30日
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見知らぬ客 それでは疑いもなく、事態は最善の状態にありますよ。もう一人の男に関しては、彼女はミスを犯しているかも知れない、そしてあなたの元に戻りたいと思っているかも知れませんね。そしてもし別の女が問題ならば、彼女はゆるそうと決心しているかも知れない。そして、あなたに対して有利な立場に立ちたいと思っているのかも。そしてもしも、男などは関係していないとすれば、理由は思った以上に根深いのかも…。あなたは彼女がもう戻らないと言う希望を掘り下げてしまっているのかも。もし、男が絡んでいるならばあなたは再婚して、世間に誰かがあなたを必要としている事を証明したいと思うでしょうね。そして女の問題ならば、あなたは彼女と結婚する必要があります。詰まりは、あなたはその女性と結婚したいと想像していたのかも知れませんね。エドワード でも、僕は妻に戻ってほしいのです。見知らぬ客 それはごく自然な反応ですね。困惑するに値するし、不便ですからね。事実を胡麻化すのは。電話では真実を話すのは出来ませんからね。あなたが余裕を取り戻すには全く時間が要るのですが、私はそれをあなたに預けました…。エドワード 僕に託してはいませんね。見知らぬ客 それでは、私は助言しましょう…。エドワード そして、どうか助言しないでくださいな。僕はこうした用語を証人に尋問する際にしばしば使用してきました。僕はあの用語を好みません。あなたに問題を預けても宜しいですか。僕はこの会話を自ら招いたのです、でも、あなたが何者なのかを僕は知りません。これは僕が予期した事ではないのです。僕はただ誰かに自分が隠していた事柄を話して、気持ちを楽にしたかった。あなたが誰であるかを僕は知りたいとは思いません。しかし、同時に、あなたが私の妻を知らなければ、僕が思っていた以上によりよい取引が、或いは、予期以上に我々の事を知っているなら良い取引が出来るでしょうが…、僕はあなたの推測はむしろ攻撃的だと思いますが。見知らぬ客 私はあなたの奥さんと同様にあなたを知っています。そして、あなたが欲している全ては見知らぬ人間に内密な事柄を暴露する贅沢だと言う事を知っています。それ故に、私は見知らぬ人間として留まりましょう。でも、こう言わせて貰いましょうか、この見知らぬ他人に近づくことは予期せざる事柄を招き寄せる事になると。新しい力を開放する、或いは瓶から魔神を出現させる。あなたの制御を越えた一連の出来事がスタートする。そして、話を続けさせてもらいましょう。私はこう申し上げましょうか、あなたの経験はあなたが気づいてはいない物に対して救いとなる。それはゆっくりとやって来る。朝目覚めると、夜にベッドに入る時に、あなたは自分の独立性に楽しさを感じ始める。あなたの生活が益々居心地のよいものなるのを知って。何時も批判的な目で見ていた人物がいなくて、我慢強い誤解者があなたの日々の生活をよりよい方向にしてくれる。あなた自身と同じような友人を選ぶのではなくて、或いはあなたよりもより良い女友達ではなくて、そして、何度も過去を振り返って穿鑿し、ただただ、よくもあんな生活に長い間耐えてきたものだと不審にさえ思う。そして、多分、時々は彼女に嫉妬心を感じるかも知れない。最初に彼女がそれに気づいたことに。しかも、それを打破しようとする勇気を持ったことに。こうして彼女に永久の優先権を与えるでしょうよ。エドワード そうなるかも知れませんが、しかしながら…。見知らぬ客 あなたは今、こう言おうとしていた、彼女を愛していると。エドワード 何故ですか、我々はお互いを当然の存在だと思っていますよ。僕は他の人物と一緒で少しでもより幸せになるなどと思ったことはありません。何故、愛情などと言う事を持ち出すのですか。我々はお互いに馴れ合っているのですからね。それで、彼女が一片の書置きで離別した、説明もなく、行ったままで戻らないと。僕には理解出来ませんね。誰だって謎のままで宙ぶらりんな状態でいるのは嫌ですからね。今は、こんなにも…未完状態ですから。見知らぬ客 ええ、未完状態ですね。そして、誰だって謎のままで置かれるのは嫌ですからね。しかし、それ以上の事があります。人格の喪失がある。或いは、むしろ、あなたは自己自身だと思っていた人間との接触を失った。あなたはもう人間性を感じられなくなっている。あなたは突然に物自体に堕したと感じている。生きている物体ですね。しかし、もはや人間などではない。これはいつも生起しつつある。何故なら人は人物であると同時に、物体でもあるから。しかし、我々は瞬時にそれを忘れている。人が正装してパーティの出かけようと階段を下りている時に、あなたが選んだ自分の役割を整えるべく身に着けている全てを身に纏い、それから時々、最下段に達した際に、もう一段あなたが予期してなかった段があったなら動揺に遭遇する。ほんの一瞬間だが、あなたは経験することになる、階段の悪意で物体に転落した自分を。或いは、外科的な手術を例にとってみれば、内科医と外科医との問診で、私設療養院のベッドに向かう際に看護婦長と話をする時には、まだ主体者でいられる。現実の中心だ。が、テーブルの上に載せられては、人は修繕店の家具の一つでしかない。何故なら、患者を囲んでいる人々、マスクをした役者達にとっては、あなたの全部は肉体だけだ。そして、「あなた」は何処かに隠されてしまう。お酒を補充して下さいな。エドワード ああ、済みません。何をお飲みにられますか…。ウイスキーですか。見知らぬ客 ジンを。エドワード 何を入れましょうか。見知らぬ客 水を。エドワード 結論は、どうなりますか。見知らぬ客 あなたが何者であるかを見つけ出す所に行きつくでしょう。何を実際は感じているのか。他人の中に居て、あなたは本当は誰なのか。大部分の時間、我々は自分を当然の存在と思っている。我々の義務として、過去の自分がどうであったか、殆ど知らずに生きている。今、あなたは何者ですか。私と同様にあなたは何も知らずに過ごしている。もしかしたら、私以下かも知れない。あなたは一式の時代遅れの反応体にしか過ぎない。しなければならない一つの事は、何もしない事を意味する。御待ちなさい。エドワード 待てですか…。でも、待つことは不可能な或る事です。その上に、お判りでしょうが、それは僕を虚仮にしてしまう。見知らぬ客 あなたが馬鹿げた存在だと知ることは、少しもあなたに害を与えません。実際に馬鹿である自分まで後退して御覧なさい。それが、私があなたに与えうる最上の忠告ですからね。エドワード でも、どうやって待ったらいいのですか。何を待っているのかを知らないで。友人たちにこうでも言いましょうか、「僕の妻は往ってしまった」と。そして彼らは答えるでしょう、「何処へ」、そして僕は言う、「分からない」と。更に彼らは言う、「しかし彼女は何時戻るのか」、それに僕は答える、「妻が戻るのかどうかはわからない」、そして彼らは尋ねる、「一体、君はどうするつもりなのかね」と、「何もしないよ」、そう答える僕を彼らは気違いだと思うだろう。或いは単に卑しむべき奴だと。見知らぬ客 全てが結構な事です。あなたは再び人間性を取り戻す結果に気づくでしょう。そして、それは無限の価値を持った経験なのですよ。エドワード 止めてくれ! 僕はあなたが言われた事の多くに同意する。十分に真実だから。でも、それは全部じゃない。何故ならば、今朝、朝食をとっている際に妻がどんな風であったかを僕は記憶していない。彼女を捜索するように警官に依頼するとして、彼女の成り振りを叙述出来るかどうか全く自信がないのです。僕が最後に妻を見た時に、彼女がどんな服装をしていたか、覚えていないことは確かな事。そしてなおかつ、彼女に戻ってほしい。そして、彼女に戻ってもらわなくていけないのだ。我々が結婚していた五年間に何が起こったのかを見出すためにも。彼女が何者で、僕が何者かを確認する為に。そしてあなたの分析の全てをどう使えばよいのか、もし僕が闇の中でいつも茫然自失していなればならないとしたなら。見知らぬ客 闇の中に留まっている事には確かに何の目的もありません。嘗ては光の中にずっと居たのだと言う幻想を心から払拭するのに足る時間を体験する以外は。彼女を欲している理由が得られない事実は、あなたが彼女を欲していると信じる最上の理由なのです。エドワード 僕はまた彼女に逢いたいのです…、此処で。見知らぬ客 あなたは必ず彼女に再会するでしょう、此処で。エドワード つまり、あなたは彼女が何処に居るか御存知だと言う事ですか。見知らぬ客 その質問は御答する労に値しないものです。しかし、もし私が彼女を連れ戻すとしたら、一つだけ条件が有ります。それは、彼女がそれまで何処にいたのかを彼女に質問しない事を約束することなのです。エドワード 僕は、質問などはしません。そして、しかも、こう思われるのですね、我々が話を始めた時に僕は妻を欲しているとは確信していなかった。そして今は彼女を欲している。僕は、彼女を欲しているのか、それとも、単にあなたが示唆しているだけなのか。見知らぬ客 まだ我々は知らないのです。二十四時間経てば、彼女はあなたの所に、此処へ来るでしょう。あなたは彼女に会うべく、此処にいるでしょう。 (ドアのベルが鳴る)
2025年10月29日
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ジュリア あなたが書かれた脚本ではないの。ピーター 僕がものした物ではなくてです、でも、僕はとても楽しい時間を過ごしました。シリア 結婚式のケーキの話を続けて頂戴な。ジュリア エドワード、どうか少しだけでも腰を下ろして下さいな。あなたはいつでも完全なホスト役を務めているのを承知しているわ。でも、お願いだから、もう一人の客として振舞ってほしのよ。ラヴィニアのパーティではね。とてもたくさん質問したいことがあるの、これは絶好の機会なのよ、今、ラヴィニアが此処にいないのは。私はいつも言っていた、私がエドワードが一人でいる所を捕えて、深刻な会話が出来さえすれば、と。私は、ラヴィニアにもそう言った。官女は私に賛同してくれた。彼女は言ったわ、私はあなたが試みて下さるのを願うと。そしてこれが最初の機会だわ、ラヴィニアと一緒ではないあなたとお目にかかるのは。便所に鍵をかけて外に出られないいる時間以外は。私のは、あなたが何を考えているのかが分かるの。あなたは、私を愚かな老いぼれ女性と思っているとしっている、でも私は実際大真面目でいるのよ。ラヴィニアは私を深刻に受け止めてくれている。私には彼女が外出した理由がそれだと分かるの。それで、私はあなたにお話しをして頂きたいのよ。多分、彼女は食料貯蔵室にいて、我々が何を言うのか耳を澄ましているに相違ない。エドワード いいや、彼女は食品貯蔵室にはいあないよ。シリア しばらくの間は外出しているのね、エドワード。エドワード 彼女から話を聞くまでは解らない。もし彼女の叔母が病気ならしばらくは戻らないかもしれない。僕自身が外出するかも知れない。シリア あなたが外出ですって…。ジュリア あなたには叔母もいたかしらね。エドワード いいえ、叔母はいませんよ。僕は外出するかも知れません。シリア でも、エドワード。……私はいったい何を言おうとしていたのかしらね。田舎で老いた貴婦人が一人で暮らすのはそれは恐ろしい事ですよ。しかも、看護人を雇うことなど不可能に近いですからね。ジュリア 彼女の叔母はローラかしらね。エドワード いいえ、別の叔母です。あなたが御存知ない人です。妻の母親の姉妹です。むしろ世捨て人と言うべき方です。ジュリア 官女が贔屓にしている叔母かしら。エドワード 伯母が贔屓にしている姪ですね。しかも彼女は難しい人です。彼女が病気なら、ラヴニアを必要とするでしょうよ。ジュリア 私は疎の叔母さんが病気だなんて前に聞いていませんよ。エドワード ええ、彼女はいつでも頑健です。それで、若しも病気にでもなろうものなら、半狂乱になってしまう。ジュリア それで、ラヴニアを迎えに使いを寄こしたのね。よく解りました。それで、回復の見込みは見えているの。エドワード いいえ、彼女は全部を年金に頼っていると思うのです。ジュリア ラヴィニアは非常に親切なのね。しかも、とても彼女らしいわね。でも実際、エドワード、ラヴィニアは数週間は留守にするかもね。或いは戻っても直ぐに呼び戻されるかもね。私はこうした丈夫な老夫人達の事をよく理解している——、私自身がその一人だもの。ハンプシャーにいるその叔母について全部を知っている様に私は感じるの。エドワード ハンプシャーですって。ジュリア ハンプシャーって言いませんでした。エドワード いいえ、僕はハンプシャーとは言いませんよ。ジュリア じゃあ、ハンプステッドと仰ったかしら。エドワード いいえ、ハンプステッドとも言いません。ジュリア でも、何処かには住んでいるでしょう。エドワード 彼女はエセックス州に住んでいます。ジュリア コルチェスターに近い何処かかしらね。ラヴィニアは牡蠣が大好きだから。エドワード いいえ、エセックスの奥地です。ジュリア そうですか、もうこれ以上は穿鑿しないわね。あなたは住所と、電話番号を御存知かしらね。私は大急ぎで彼女に、ラヴィニアに逢いたいのよ。コーンワォールへ行く途中でね。でも、十分に気を使わないとね。さあ、あなたは私を処女の叔母にして下さらなくてはいけないわ。勿論、年金で生活している。金曜日には、私と二人で食事をするようにします、だから、なんでもお話して下さいね。エドワード 何でもですか。ジュリア 意味は、お判りになるわね。次の選挙とあなたの諸事情の秘密の事柄など。エドワード 僕の秘密の大部分は極めて無味乾燥ですが。ジュリア そうね、あなたは逃げたりはしないわね。金曜日には私と差し向かいで食事をしましょう。私は既にあなたが会わなくていけない人々を選んでおいたわ。エドワード でも、あなたは僕と二人きりで食事をしよう言われた。ジュリア ええ、二人だけでね。ラヴィニアを連れないで。あなたは他の人々も好きになるでしょう。でもあなたは私に話しかけなくてはいけませんよ。それだけが決まっている事ですからね。そして私は失礼しようと今は思っています。エドワード あなたは行かなければならないのですか。ピーター でも、クルーツ夫人の話をしては下さらないのですか。ジュリア クルーツ夫人て何方の事かしらね。シリア そいて、結婚式のケーキの事は…。ジュリア 結婚式のケーキですって。私は結婚式には参列してはいませんわ。エドワード、素晴らしい夕べでしたよ。ジャガイモのカリカリ揚げはとても美味しかった。えーと、私は忘れ物をしてはいないかしらね。とても素敵なパーティでしたよ。お暇したくはないのよ、とても素晴らしいパーティだったから。もう一度、繰り返して味わいたいくらいなの。金曜日にはみなさん揃って食事に来てくださいね。いいえ、駄目だわ、私、善良なバッテンさんの注意を忘れていた。もう、行かなくてはね。アレックス 僕も、残念だけれども、失礼しようかな。ピーター シリア……、一緒に歩いて帰りたいのだが、シリア いいえ、御免なさいね、ピーター。私はタクシーを拾うわ。ジュリア あなたは私と一緒にいらっしゃう、ピーター。私はタクシーを拾って、途中であなたを下してあげましょう。エドワード、金曜日にはお待ちしているわね。シリア…、直ぐまたお会いしなくてはいけない。皆さんで失礼してはいけないわ、私が今お暇するのですからね。さようなら、エドワード。エドワード さようなら、ジュリア。 (ジュリアとピーターが退場する)シリア さようなら、エドワード。直ぐにお会いできるかしらね。エドワード 多分。でも、分からない。シリア 多分、でも、分からないのね。結構だわ、さようなら。エドワード さようなら、シリア。アレックス さようなら、エドワード。ラヴィニアの叔母さんのよりよい知らせがあることを心から希望しているよ。エドワード ああ、…、そうだね、…、有難う。さよなら、アレックス。来てくれて有難う。 (アレックスとシリアが退場) (見知らぬ客に向って)エドワード まだ、行かないで、まだ、行かないで下さいね。カクテルを飲み終えてしまいましょう。それとも、ウイスキーにしますか。見知らぬ客 ジンを。エドワード 何か中に入れますか。見知らぬ客 水を少々、お願いします。エドワード 今夜の事はお詫びしなければいけませんね。実際は、今日のパーティを延期したかったのです。今日の客は僕が延期できなかった人々なので、時間どうりにいかなかったのです。しかも、あなたがいらっしゃるとは知らなかったのです。ラヴィニアは招待した人全員の名前を僕に教えてくれていたと思ったのです。でも、問題だったのは、あの、恐るべき老婦人だけだった、他に人々は僕は気にもかけませんが。 (ドアのベルが鳴る。エドワードはドアの方へ行く、こう言いながら)でも、彼女はちっとも望まれていない場合にいつも姿を現す。 (ドアを開ける) ジュリア! (ジュリアが入って来る)ジュリア エドワード、幸運にも雨が降って来たわ。それで、私は傘の事を思い出したのよ。そいて、此処にあるわね。さて、あなた方二人は、何を企んでいるのかしらね。なんて幸運なんでしょうか、これが私の持ち傘だったのは。アレックスのではなかったのは…、彼はとても穿鑿ずきでしょう。でも、私は決して他人の問題に首を突っ込んだりはしない。さて、二度目に、さようならね。私は、遂に姿を消すわね。 (退場)エドワード 御免なさい、僕は失礼ながら、お名前を存じ上げないのですが。見知らぬ客 私は、失礼しなければいかない。エドワード まだ行かないでください。僕はたまらなく誰かと話がしたいのですよ。自分の知らない人物に話をする方がより容易でしょ、詰まりは、ラヴィニアは僕を棄てたのですよ。見知らぬ客 あなたの妻が、あなたを見捨てた。エドワード 単刀直入にいえば、その通りなのです。カクテル・パーティを調整してしまうと、直ぐに彼女は姿を消していた、僕が今日の午後に此処に入って来た際にはね。彼女は自分が僕を見捨てると書いたメモを残していた。でも、僕には彼女が何処に行ったのか分からない。見知らぬ客 これは好機ですね、もう一杯お酒をお願いできますかね。エドワード ウイスキーですか。見知らぬ客 ジンをお願いします。エドワード 何かを混ぜますか。見知らぬ客 水だけを…。そして、私はあなたに同じ物をお勧めしたい。宜しければ、私が準備しましょう。宜しいですか、…、強いのを、…、でもゆっくりと啜って、…腰を下ろして飲みなさい…、深く呼吸して、そして、リラックスした姿勢を取りなさい。さて、さて、幾つか質問事項が…、結婚して何年になりますか。エドワード 五年です。見知らぬ客 子供は…。エドワード いません。見知らぬ客 そでは、より輝いている方面を見て、あなやは、彼女が何処へ行ってしまったのかは分からないと言う。エドワード はい、解りません。見知らぬ客 相手の男は誰ですか。エドワード 男はだれもいません、僕の知る限りではね。見知らぬ客 別の女性に就いては。彼女が嫉妬する理由があると思うような。エドワード 彼女は僕の行動で不平を言うような素振りは何も見せませんでした。
2025年10月28日
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今回からはT・S エリオットの詩劇「カクテル・パーティ」の翻訳にトライしてみます。T・S エリオット(1888ー1965)はアメリカ合衆国出身のイギリスの詩人・文芸批評家。五部からなる長詩「荒地」や詩劇「寺院の殺人」によって二十世紀前半の英語圏で最も重要な詩人の一人と評される。 「カクテル・パーティ」は1949年に発表の詩劇。エウリピデスの「アルケルテス」に想を得て、弁護士エドワード・チェンバレンとその妻、映画脚本作家ピーター・キルプ、女性詩人シリア・コプルストーンの四人の恋愛関係を精神科医のヘンリー・ハーコート・レイリー卿が解決する。現代社会を喜劇的に描いたものである。 登 場 人 物 エドワード・チェンバレン ジュリア(シャトルウエイト夫人) シリア・コプルストン アレキサンダー・マコルジー・ギブス ピーター・キルプ 見知らぬ客 後でヘンリー・ハーコート・レイリー卿と判明する 女姓の秘書 二人の賄い屋の男 場面はロンドンに設定されている 第一幕 第一場 ロンドンにあるチェンバレン家の応接室。早い宵、エドワード・チェンバレン、ジュリア・シャトルスウェイト、シリア・コプルストーン、ピーター・キルプ、アレキサンダー・マクコルジー・ギブス、そして、見知らぬ客がいる。アレックス 君は要点を完全に間違ってしまているよ、ジュリア。虎などはいなかったのだ、そこがポイントさ。ジュリア それじゃあ、あなたは何をしていたわけなの。木の上で、あなたとマハラジャは。アレックス おい、おい、ジュリア君、頼むよ。全く絶望的な状況さ。君は全く、何も聞いていやしなかった。ピーター 君は始めからの経緯を全部もう一度我々に聞かせるべきなのだよ。アレックス。アレックス 僕は同じ話を二度はしない主義でね。ジュリア でも、私は何が起こったのかを知りたくて待っているわ。詰まり、虎たちの話から始まったのでしょ。アレックス 言っただろう、虎なんかいなかったさ。シリア 止めてよ、口喧嘩は。二人とも。今度はあなたの番だわ、ジュリア。先日、話していたあのお話しを聞かせてよ、クルーツ夫人と結婚式のケーキのこと。ピーター そして、どうやって執事が彼女を食料貯蔵庫で見つけたか、シャンペンで口を漱いでるのをね。その話が好きでね。シリア 私も大好きだわ。アレックス その話は何度聞いても飽きないよ。ジュリア おやおや、みんなはあの話を知っているみたいね。シリア 我々があの話を知っているですって。でも、私達はあの話を何度聞いても飽きたりはしない。此処にいる誰もがあれを知らないなんて私は信じないわ。(見知らぬ客に向って)あなたは、御存知ないかしらね。見知らぬ客 ええ、聞いたことがありません。シリア 此処に新しい聞き手が現れたわ、ジュリア。そして、私、エドワードがあれを知っているなんて信じないわよ。エドワード 聞いたかもしれないが、覚えていないのだ。シリア そして、ジュリアこそはそれを話すべき唯一の人物だわ。彼女はとても善良な道化師ですものね。ジュリア 私が、善良な道化師ですって…。ピーター きみは物まねが上手いよ。君はどんな事も見落としをしない。アレックス 彼女は意識的でなければ、けっして見落としなどはしない。シリア 殊更にリトアニア風のアクセントに関してはね。ジュリア リトアニア風…、クーツ夫人ですって。ピーター 僕は、彼女はベルギー人だと思っていたが。アレックス 彼女の父はバルチック一家に属している。最も古く由緒ある家族のね。一つの分家はスウェーデンに、そして一つはデンマークにある。数人のとても愛らしい娘たちがいる。彼女たちは今どうしているだろうか。ジュリア クルーツ夫人はとても愛らしくて、昔はね。何と言う人生を彼女は送ったことか。私は彼女によく言っていたものよ、グレタ、あなたは素晴らしい生命力に溢れているわ。でも彼女は自由気ままに楽しんでいた。(見知らぬ客に対して)あなたはクルーツ夫人を御存知ですか。見知らぬ客 一度もお会いしたことが有りません。シリア 結婚式菓子の話を、もっと続けて頂戴な。ジュリア そうね、でもそれは私のしたい話ではないの。私、最初にデリア・ヴェリンダーから聞いたのよ、彼女は事が起きた際に現場にいたのよ。(見知らぬ客に向って)あなたは、デリア・ヴェリンダーを御存知ですか。見知らぬ客 いいえ、知りませんん。ジュリア そうね、用心深すぎる事などはないのよ。お話をする前にはね。アレックス デリア・ヴェリンダーだって。三人の男兄弟がいると言う人のことだね。ジュリア 男兄弟が何人いるかですって。二人だと。思うわ。アレックス いいや、三人だ。でも君は三人目を知らないのだよ。彼等はその兄弟をむしろ静かにさせている。ジュリア つまり、あの人の事ね。アレックス 彼は精神薄弱者なのだ。ジュリア いいえ、そうではないわ。彼は無害なのよ。アレックス そうか、それじゃあ、無害な人物としておくか。ジュリア 彼って時計を修理するのが非常に上手なの。しかも、人の話に耳を傾けるにの抜群のセンスを発揮する。蝙蝠の啼き声さえ聞き分け得る、これまでに僕が出合ったたった一人の男だよ。ピーター 蝙蝠の啼き声だって…。ジュリア 彼は蝙蝠の声が聴けるのよ。シリア ども、どして彼が蝙蝠の声を聞き分けるなんて解るのかしらね。ジュリア 彼がそう言ったからで、私はそれを信じたのよ。シリア でも、彼が…、そんないも、無害であるなら、あなたはどうして彼を信じられるのかしらね。ジュリア まあ、まあ、愛しのシリア。そんなにも懐疑的になることはない。私、かつて一度そこに滞在したの。北地の彼等の城に。彼はとても苦しんでいた。家族は彼の為に島を提供しなければならなかった。そこには、蝙蝠などはいなかった。アレックス それで、彼はまでそこに居るのかな。ジュリアは実に情報の埋蔵地みたいな存在だね。シリア 彼女は、何だって、知っているわよ。ピーター 結婚式のケーキの話の続きをしてくれたまえ。 (エドワードが部屋を離れる)ジュリア いいえ、エドワードがこの部屋に戻るまで待たなくては。さあ、リラックスしたいの。もう少しカクテルはあるかしら。ピーター でも、話を続けてよ、いずれにしてもエドワードは聴いてはいなかったのだから。ジュリア ええ、彼は話なんか聞いてはいなかったわ。でも、とれも我慢していた—、ラヴィニアのいないエドワードは。彼には全く不可能なのよ。自体が推移するままにして私に任せておけばよい。何と言う、主人役だろうか。そして何も食べ物は口に合わない。カクテル・パーティへの唯一の理由。私のように口の穢い老婦人に対して。実際、美味い物のひと口が欲しいのに。自宅でも飲めるのよ、私は。 (エドワードがお盆を手にして戻って来た) エドワード、私にこの美味しいオリーブのお代わりを頂戴な。それは何なの、ジャガイモのカリカリ揚げかしら。いいえ、もう飽きてしまったからオリーブもいいわ。そうね、クーツ夫人についてあなたに話を始めたのよ。ヴィンスウェルの結婚式だった。ああ、もう随分と昔の事よ。 (見知らぬ客に対して) あなたは、ヴィンスウェル夫妻を御存知ですか。見知らぬ客 いいえ、存じ上げません。ジュリア ああ、二人とも既に亡くなってしまった。でも、私は知りたかったの。もし彼らがあなた方の友人であったならば、私はお話し出来ませんからね。ピーター 彼等はトニー・ヴィンスウェルの両親ですか。ジュリア ええ、トニーは生産物ではあるが、解決とはならなかった。彼は状況を更に困難なものにした。あなたは、トニー・ヴィンスウェルを知っているのね。オックスフォードで彼を知ったのかしら。ピーター いいえ、オックスフォード大学では彼を知りませんでした。去年、カリフォルニアで遭遇したのです。ジュリア 私、ずっと前からカリフォルニアに行きたいと思っていたの。ねえ、話してよ、カリフォルニアで何をしていたのかを。シリア 映画を製作していたのよ。ピーター 映画を制作しようと試みていたのさ。ジュリア あら、どんな映画なのかしらね。私、それを観たかしら。ピーター いいえ、観てはいないでしょう。実のところ、制作されてはいないのですよ。別の人間が映画を制作したのですが、別のシナリオを使用したのです。
2025年10月24日
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近松の言説 「難波みやげ」発端抄 往年、某(それがし、穂積以貫)近松のもとにとむらいける頃、近松が言ったのは、総じて浄瑠璃は人形にかかるのを第一にするので、外の草紙と違って文句は皆働きを肝要とする活き物である。 殊に歌舞伎の生人(しょうじん)の人の芸と、芝居の軒を並べてなす業であるから、正根のない木偶に様々な情を持たせて見物の感を取ろうとするものなので、大形であっては妙作と言う物には至り難い。 某、若き時、大内の草子(宮廷内の事を書いた草紙、ここは源氏物語)を見侍んべる中に、節会の折節に雪がいたく降り積もりけるに、衛士に仰せられて橘の雪を払わせられければ、傍(かたえ)なる松の枝もたわわなるが、恨めしげに跳ね返って、と書いてある。 是は心のない草木を開眼したる筆勢である。その故は、橘の雪を払わせられたのを、松が羨んで自分で枝を跳ね返して、たわわなる雪を刎ねおとして恨んでいる気色は、さながら活きて働く心地ではないか。 これを手本として、わが浄瑠璃の精神(しょうね)を入れる事を悟ったのだ。されば、地文句、せりふ事は言うに及ばず、道行などの風景を述べる文句も、情を込めるのを肝要としなければ必ず関心が薄くなるものだ。 詩人の興象(きょうしょう、形象を写して心意を表明する)と言うのも同事であり、例えば松島宮島の絶景を詩に賦しても、打ち詠めて賞するの情を持たなくては、徒に描いた美女を見る如くならん。 この故に、文句は情をもととすと心得るべし。 文句にてにはが多ければ、何となく賤しいものである。 然るに無功(ぶこう、未熟)なる作者は、文句を必ず和歌や俳諧の如くに心得て、五字七字等(とう)の字配りを合わそうとするゆえに、おのずと無用のてにはが多くなるのだ。 例えば、年も行かない娘をと言うべきを、年端もいかぬ娘をばと言う如くになる如くになる事、字割りにかかわることから起こるので、自然と詞ずらが賤しく聞こえる。 されば、大様は文句の長短を揃えて書くべきだが浄瑠璃はもと音曲であるから語る所の長短は、節にある。作者から字配りをきっちりと詰め過ぎれば、却って口にかからない事がある物だ。この故に、我が作にはこのかかわりがないので、てにはが自ずからに少ない。 昔の浄瑠璃は今の祭文(主に門付の山伏が歌って歩いた歌い物。心中・犯罪事件・各種の名寄せなどがある)同然であって、花も実もないものであったが、某が出て加賀の掾より筑後の掾に移って、作文(さくもん)してからは文句に心を用いる事は昔に変わって、一等高く、例えば公家・武家より以下、皆それぞれの格式(身分)をわかち、威儀の別よりして詞遣いまで、その移りを専一とした。 そうであるから同じ武家であっても、或いは大名、或いは家老、その外禄の高下につけてその程ほどの格を以て差別(しゃべつ)をした。 これも読む人のそれそれの情によく映る(共感する)ことを肝要とするからである。 浄瑠璃の文句は皆、事実を有りの儘に写すうちにも、又芸となって実事にはないことがある。近くは女形(ここは、若い女の役の人形を指すか)の口上、多く実の女の口上には得言わぬ事多い。これらはまた芸というものにて、実の女の口では得言わない事を打ち出して言う故に、その実情が顕れるのだ。 この類(るい)を実の女の情にもとづいて包んだ時には、女の底意なんどはが現れずして、却って慰めにはならないからだ。 さるによって、芸と言うものに気を付けないで見る時には、女に不相応なけうとき(とんでもない)詞が多いと謗るであろう。しかれども、この類は芸であると見なくてはいけない。その外、敵役があまりに臆病なる躰(てい)や、道化様のおかしみを取る所、実事の外に芸と見做すべきところは多い。 この故に、これを見る人はその斟酌(しんしゃく、汲み取る事、事情を察する事)があってしかるべきなのだ。 浄瑠璃は愁いが肝要であると言うので、多く、哀れなり、なんどと言う文句を書き、又語るにもぶんや節様(よう)(文弥節風)の如くに泣くが如くに語ることは我が作にはないことであるよ。 某の憂いは皆、義理(ぎり、そうなるべき経緯、止むにやまれぬ訳。人が踏み守るべき道と解する説もある)を専らとする。藝のりくぎ(六義、様々な道理・筋道)が義理に詰まって(道理至極して、そうならざるを得ない必然的な事情があって。義理詰は道理を押し詰める事。義理を詰めるとは理屈を立て通すの意)哀れであれば、節も文句もきっとしたほうが益々哀れが増すであろう。 この故に、哀れを哀れなりと言う時は、含蓄の意が無くて結句はその情が薄いだろう。 哀れなりと言わずして、ひとり哀れであるのが肝要である。 例えば、松島なんどの風景にても、ああ、良き景かなと褒めたる時には、ひと口でその景象(風景、景色)が言い尽くされて何の詮(せん、甲斐もない。頭で理解はされても胸に共感されないので無益であると言う)もない。 その景を誉めようと思うならば、その景の模様共を客観的に数々言い立てれば、良い景と言わなくともその景の面白さが自ずから知れる。この類は万事に渡る事である。 ある人の曰く、今どきの人はよくよく理詰めのことでなければ、合点しない世の中、昔語りにある事に当世は請け取らない事が多い。さればこそ歌舞伎の役者などもとかくその所作が実事に似るのを上手とする。 立ち役(老人・子供を除いた善人の男の役)の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るのを以て第一とする。昔の様なる子供だましのあじゃらけたる(ふざけた、馬鹿げた)事は取らない。 近松が答えて言った、この論は尤ものようであるが、芸と言う物の真実の行き方を知らない者の説である。芸と言う物は実と嘘との皮膜(ひにく、境目の微妙な所、中間のきわどい所)の間にあるものだ。 成程、今の世は実事をよく写すのを好む故に、家老は誠の家老の身ぶりや口ぶりをうつすとは言えども、さらばとて真の大名の家老などが立役の如くに顔に紅脂白粉(べにおしろい)を塗ることがあるだろうか。又、真の家老は顔を飾らないからと、立役がむしゃむしゃと髭を生えたなりにして頭は禿げたままで舞台に出て芸をしたならば、慰みになるであろうか。皮膜と言うのはこれであるよ。、 嘘にして嘘にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあるものなのだ。これについて、或る御所方の女中、一人の恋男が有って、互いに情を篤く交わしていたが、女中は金殿(立派な御殿)の奥深くに居て男は奥方に参ることも叶わないのでただ朝廷などの御巣の間から姿を見かけるのもたまさかなので、あまりに憧れなされて、その男の形を木像に刻ませて、面体なども常の人形と違ってその男とうの毛(兎の毛)程も違わさず、色艶の彩色は言うに及ばず、毛の穴までも写させ耳鼻の穴も口の内歯の数まで寸分たがえずに作り立てさせたのだった。 誠にこの男を側に置いてこれを作ったので、その男とこの人形とは神(たましい)があるのとないのとの違いだけであったが、彼の女中これを近づけて見給えばさりとは生き身を直ぐに写しては興が醒めてほろぎたなく(小ぎたない)、怖げの立つものである。 さしもの女中の恋も冷めて、傍に置き給うのも煩くて、やがて捨てられたりとかや。 是を思えば、生き身のままを直接に写すならば、たとえ楊貴妃であっても、愛想が尽きる所があるだろう。それ故に、畫そらごととて、その像(すがた)を描くにも、又木に刻むにも正眞(しょうじん)形を似せる内にも、又大まかな所あるのが、結句、人の愛する種となるのだ。 趣向もこの如くであり、本の事に似る内にも又大まかな所があるのが、結句芸となって人の心の慰みとなる。 文句(もんく、人の語気をそのまま写して語る詞)の科白なども、この心を入れて見るべき事が多い。 慰みとなる物、娯楽、エンターテインメントは「虚と実の皮膜の間にある」とは蓋し古今の名言であろう。戯曲だけではない、アートも、芸術作品も創作と現実、虚構とリアルの微妙な混合の中に傑作が立ち上がって来る。そう、首肯させられる。 私は、主として今の若い人を対象にして自国の古典を「温故知新」して貰い、大いに自信を深めてもらいたい為に、浅学菲才をも省みずこうして現代語への橋渡し役を買って出ているのですが、思っていた通りに自分自身が一番古典の有難い恩恵を蒙る次第となり、幸福長者たる面目を日々に新たにしていて、神仏に(そしてこれは言葉にせずに私の胸の内だけに秘めていればすむことなのですが、私のブログを通じて私が如何なる者であるかを熟知して下さっている愛読者ですから、笑って見過ごして下さると勝手に思い込んでいるわけで、私の素晴らしい亡妻にも)深甚なる感謝の信(まこと)を捧げながら残された晩年を楽しく過ごしている次第で、実に勿体無く、有難い次第なのであります。 奇しき因縁でブログを通じて交流をなさって下さっている方々、どうか、どのような形であれ、日本の古典に直接に触れる機会を増やして下さい。想っていた以上の幸福感と満足感を各古典は必ず齎して呉れるに相違ないのです。 勿論、先人たちがそうして来たように、外国から学ぶことは非常に大切な事です。それは他人の振り見て我が振り直せ、の教えの通りなのです。しかし、最後は自分です、御自分を大切に、大事になさって下さい。歴史を、日本の歴史を知るべきです。己の今日の姿を正す為に。 姿形に化粧を施すことは必要でしょうが、それ以上に心の化粧、魂の歪みを真澄の鑑で正確に見て取りり適切な処置を施すならば、あなたは間違いなく「世界一素晴らしい、幸福者」に成長できるでしょうから。真澄の鑑とは、歴史であり、古典であります。 近松門左衛門の主要な作品を味読し終えて、私は改めて彼の天才性に驚嘆して、目からうろこの思いをしています。沙翁・ウイリアム・シェークスピアも勿論傑出した大天才ですが、近松は宇宙第一の浄瑠璃作者であり、この娯楽の享受者が一般庶民であり、日常茶飯に、今日の歌謡曲を楽しむように気軽に軽い娯楽として「女子供までが」誰でも楽しむことが出来ていた事実は、今更ながらに奇跡とさえ激賞してもよいのではないか。私は正直、そう感じている次第なのです。
2025年10月23日
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信濃の倉人・大宮司公道(きんみち)が突っ立ってあがき、知らずや、我こそはあづまやと千鳥、二人の亡魂、情けなや、清盛に命を取られた恨みの魂魄、憂き目をみせんと思ったのに教経の弓勢、仮に姿を変化(へんげ)して、かく退けたぞ。 今こそ思い知らせんと二人の姿が消えたと等しく、瞋恚無明の二つのほのお、ひらめき轟き入道の臥所(ふしど)に飛んで入るよと見えや。 はっとばかりに女房達が二位殿を介抱してほうほう(這いながら)逃げ入り給いける。 障子を蹴破り大政入道、なう、暑や、情けなや。五臓六腑を焼き焦がす。やれ、骨を焚く、わが身を燃やすわ、耐えがたや。あら、暑やと天を掴み、地を掴み、苦しや助けよと突く息も、猛火と、なって却って身をこそ焼くのだった。 多くの女中が次の間で、暑さは共に身を焼く如し。側、辺りには寄り付かれないで、入道は息も絶え絶えに水よ、水よと呼ばわれば、そりゃこそと女房達、用意の筧に仕掛けたる千手の水を手ん手に汲み、流せば筧を伝う水音も左右に分かれて、さっさっさ、さざれ石船、さざ波が立ち水をどうどうと湛えたり。 心地よげに入道は飛び入らんとしたのだが、眼に物が見えたのだろう、枕の小太刀押っ取り、虚空を睨んで大音上げ、珍しや頼朝、命を助け流して置いた昔を忘れ、平家に弓を引かんとは、恩を知らぬ大悪人、おのれは牛若・小冠者めな。鞍馬育ちの精進腹(野菜許食べた栄養失調の身)で、入道を討たんとや。 年こそは取ったが手並みを見よ、と太刀を抜き放って現(うつつ)の人に詞を交わすごとくに、えい、やっとう、虚空を相手に八方むぐう(無窮で)請けつ、流しつ斬り合ったが、飛びし去って身構え、やあ、この大首は何者、何じゃ、奈良の大仏じゃ。はは、はは、はは、はは、事可笑しい、事可笑しい。清盛に焼きつぶされる身を持って、何の恨みぞ。何の仇(あた、恨み)。 帰れ、帰れ。何、帰らないとは叉あづまやか。 逃さじとちらめく炎に打ってかかれば後ろから引き戻すのは千鳥の妄執で、その魂が付きまとい惹きつけるのを事ともせずに、斬り払い、斬り払い、衣服を脱ぐ間もあら遅やと、水舟に飛び入って頭(こうべ)を浸し、身に浴びせかけて熱さを凌ぐ有様は、剱に鍛える焼きかねを水に入れたる如くである。殿中がふすぶるばかりなのだ。 すは、又響く家鳴りだ、それにつれてあづまと千鳥の二人の姿、筧の上に現れ出で、さなきだに女は五障(女の持つ五種の障り、輪王・梵王・帝釈・魔王・仏身になれぬこと)三従(女が一生を通じて親・夫・子に従う事)の重きが上の憂き思い、夫は何処、と知らぬ火の筑紫の果てや国の果て、鬼界が嶋に流されて、跡に焦がれる閨の内、辛苦はしないが顔痩せて恋しゆかしが日に添ば、今は心も乱れ髪、夫(つま)の帰洛を何時かはと待ちかねている身を、むごらしや解けとせついた下紐の解かれぬ義理に身を棄てて、長き別れになしたるも不義より起こる心の剣、我と身を切る最後の一念、盡未来際(永久に)生々世々(生き代わり死に変わりしても)離れない、のかないとはったと睨む眼の光、矢を射る如くに照り輝き、五体を劈(つんざ)く程なのだ。 我を土足にかけた上に、畏くも海の水に沈んだ君・法王を助けた咎とて殺す心の刃、非道の足偏に夫(あなうら)(非道にも私を踏んだ足)、大地をつんざき、嶋に残した父上も今は冥途の友衛(ともちどり)汝も冥途の友烏、同じ闇路の苦言を見よと、頭(こうべ)を掴んで引き上げれば、天にもつかず地につかず、中有(ちゅうう、仏語。死んでから来世に生を受ける四十九日間)の呵責を今此処に瞋恚の猛火(みょうくわ)は雨と降り来る、くる、くる、くる、真っ逆さまに落ちて奈落の苦しみを思い知れやと忿(いか)りの顔(かんばせ)、恨みの息継ぎ、照る日にうつろう明鏡(みょうきょう)の光渡るのに異ならず。 父の憎しみ、身の敵、夫(妻)の罪障、身の炎(ほむら、燃え立つ思い)、今こそ最後と言う声ばかり、姿は消えて燃え立つ炎、筧に入るよと見えたのだが、流れる水が忽ちに炎となって落ち来る音、うず巻きあがる黒煙(くろけむり)に御所中が俄かに闇となり、目前焦熱、大焦熱、火盆地獄の有様もかくやと、覚えて凄まじい。 入道が叫んで、許せ、許せ。熱や、熱や。堪え難いぞ、苦しい、やれ、あたあたと身を藻掻き、ようように這い上がり、小袖を引き脱ぎ裸身を、もしやとずっぷり石船に浸せばくらくらとそのまま湯になって沸き返り、煮え返り、湯玉が虚空に迸り、業火の筧・心火の瀧、五体に炎を頂けば百節(はくせつ、多くの関節)の骨頭、えんえんと燃え上がり、ししむら(にく)が裂けて炭の如く、一世の悪逆が身に積もって、年も積もって六十四、治承(ちしょう)五年閏二月四日の日に、熱い、熱いの焦がれ死に、生き火葬とはこれであろう。哀れ儚い最期であった。 依正両輪の火の車(過去の悪業の報いとしての地獄からの迎えの火の車)が雲中に轟けば、清盛の胸中から車輪の様なる光り物、顕れ出でて虚空に上がり車に乗ると見えたのだが、無の字の筆画ありありと無間の底に沈むであろう。 二位殿の夢の告げこそ思い知られたのだ。今こそは本望を遂げたりと虚空に上がる二つの玉、邪見の轅(ながえ)を押し立てて、立ち去る車の響きに驚き、二位殿は慌てて出でなされ、見ればあえない俤(おもかげ)のいぶせくも悲しくも、空を見上げてわっとばかりに歎きに沈ませ給いける。 人々が立ち寄って諫め参らせ、奥に誘い奉り、清盛の御骸(みから)を津の国兵庫の名にし負う経が嶋にぞ納めたのだ。 天子の外祖とかしづかれ、この世に極まる位をふみ、六十余州に威をふるった古今独歩の人であったが、又は帰り来ない死出の山、三途の河瀬、中有の旅、作りし罪より友もなく、妻子珍宝及王、位、臨命終時不隨者(りんみょうずゐじふずいしゃ)の仏の金言を目の当たり、身の毛も立ってよの人の永き教えとなりにけり。 第 五 思いやるさえ遥かなる、思いやるさえ遥かなる、あづまの旅に急がん。 是は高尾の文覚である。我は伊豆の国の流人・兵衛の佐頼朝を勧め、平家追討の義兵をおこさせばやと思い、密かに院宣を申し下し、ただ今伊豆の国蛭は小嶋にと急ぎ候。 ああ、づなう(途方も無く)草臥れた。意地のも、我にも百里足らず、二日にはきつい旅だ。とろとろと見知らして(目を眠らせて)、又一息にやってのけよう。 さらばころりと臥し、柴の枕に仮の頭陀袋(ずだぶくろ、修行に歩く僧が物を入れて首に掛ける袋)、寝るよりも早く高いびき、地雷かと疑われる。 時に文覚、仮寝の魂、忽ち体を顕れ出でて、今目前にありありと滅びる平家の有様を、夢ともわかず現ともいざ、白波を翻す、さても兵衛の佐頼朝公、関八州を切り従え、その勢は既に十万余騎、御舎弟九郎御曹子義経、秀衡(義経を庇護した奥州の藤原秀衡)の勢をかり催し、奥より切って伊豆の国、心も勇み浮島が原から御陣を召された。 時に、文覚は法衣を改め、二人の中に立ちはだかり、和殿(わどの)は聞き及ぶ牛若丸な。今は元服して義経とは、おお、目の内の賢しき生まれ、久々にて舎兄(しゃきょう)頼朝に対面はさぞ満足、先達て頼朝には平家追討の院宣を申し下して帰らせた。 わどのにも見参の引き出物を致そう。これは故左馬の頭義朝白首(しゃれこうべ)、二度の朝敵と六条河原に晒されてのを奪い取って肌を放さず、頂戴あれと前に置き、念珠つまぐり座を組めば、兄弟は床几をまろび下りて、中にも義経、おお、情けなや、口惜しや。 運を計り、時節を待つと言いながら、早速に御敵清盛を討ちもせず、一度さえあるに二度も獄門の木にさらさせ、御名を穢した不孝の恐れ、早く平家の一門の首を獲って大路に晒し、父上の修羅の妄執、今生(こんじょう)の仇(あた)を報じたやと踊り上がって忿りの涙。 頼朝は黙然と言わないで歎きも一入、に、二人の心を思いやり伺候の軍兵(ぐんぴょう)は目を見合わせて皆哀れを催しける。 かかる所に有王丸、大汗になって馳せつけ、俊寛の郎党の有王丸と申す者、君しろしめされずや、木曾の冠者義仲が北陸道(ほくろくどう)から討ち上って一戦にも及ばずに平家は悉く西海に逃げ下りし。 法皇のまします籠(ろう、牢屋)の御所に乱れ入り、これをも一緒に西海に連れまいらせんとはかったのだが、有王が漸(ようよう)に盗み出だして、法皇は當国の三嶋の明神まで供奉仕り、某が一人訴えの為に参上と、大息をついて述べたので、頼朝は甚だ驚き給い、早速の注進、過分々々、同じ源氏の一類ではあるが義仲に平家を討たせては頼朝の末代までの恥辱は逃れ難い、 我は有王を召し具し、法皇の迎えの為に三嶋へ馬を馳せるべきぞ、我が代官として義経は六万騎の軍を引率して、夜を日についで都に上り、平家の一門の根を絶って、早く開陣あるべきと、絶えて久しい白旗を、雲井(空)の外までなびかせて出陣が有ったのは由々しい事でああるよ。 然るに平家は栄花を極め、暴悪を欲しいままにしたその天罰、廻って木曾の義仲に馴れた都を追い出され、落ちて行方も赤間が関(山口県下関の旧名)、安徳天皇を始め奉り、女院(建礼門院)二位殿一門以下皆入水と聞こえしかば、すは勝ち戦と源氏の武士、船から作る鬨の声、水の白玉玉の緒(命)も共に消えていく。船軍は今日を限りと見えたのだ。 能登の守教経ははし舟(小舟)に取り乗り、義経に見参と心を配って漕ぎ廻る。 源氏の方からは安芸の太郎實光(さねみつ)、同じく次郎光行(みつゆき)と名乗って教経の舟に漕ぎ並べ、手取りにせんとしっかと組む。教経は怒って二人を左右に取って引き締め、いさうれ、おのれら能登の最期の供をするか、うんと締めた小腕(こうで)を取り放れん、放さじ、退こう、退かせない、えいや、えいやと組み合う音、舟を踏みしめ踏み離し、逆巻く波はとう、とう、とう、三人一緒に海中にどうと落ちたる水の泡、消えると等しく海面は忽ちもとの宇津の山(静岡市内、西隅の宇津の谷峠)磯打つ波と聞こえたのは草の葉を渡る風の音。 義朝の頭(こうべ)は枕の上、眠りの夢は醒めたのだった。、 文覚はむっくと起き上がり、辺りをも廻し、むむ、聞こえた、聞こえた、邯鄲(かんたん、蜀の国の人、盧生が邯鄲で仙人の枕を借り、五十年の栄花の夢を見た)の枕に五十年の夢を見た、それはもろこし、是は又、義朝のしゃれこうべを枕にした一睡に、平家の滅亡と源氏の栄を見たること、夢にあらず現にあらず、正八幡のお告げぞかし。頼もしし、頼み有。 見よ、見よ、平家に泡ふかせ、源氏一統の御代となし、天下太平國繁昌、五穀成就、民安全、目出たづくめにしてみせんと、袋を押っ取り首にかけ、勇み勇んで急いだのだ。 百億萬歳末かけてゆるがず、動かずかたぶかぬ源氏の御代の腰押しは、六神通(六種の神通力を備えた)文覚が従い守る神と君、久しき国こそ楽しけれ。
2025年10月21日
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肝が太い、入道に取りつかんとは、蟷螂が斧、鉞(まさかり)よりもこれを見よ、とさ足にかけて、えい、えい、えい、頭(こうべ)を微塵に踏み砕き、がはと踏み込む波が逆巻き、潮の響きが震動して死したる千鳥の骸(むくろ、死骸)から顕れ出でたる瞋恚(しんい)の業火、清盛の頭(こうべ)の上車輪の如くに舞いくるめく。 ぞっと身を震い、色変わり、うんと一声顛倒し、眼口をはって(開いたまま)わななきける。 隨人雑式、これはと驚き、抱き起し、薬よ水よと呼びかければ、すっくと立って辺りを眺め、汝等は何も見ぬか、気味悪し、気味悪し、法皇も逃げるのであれば逃がしてよい。 命が物だね(命あってこそ、何でも出来る、と言う意味の諺)、都に帰らん、船急げと、水主かん取り(舵を取り)玉の汗、海は水玉、火の玉は離れず去らず、都の空を慕い行くこそ恐ろしけれ。 身が滅びようとする時は、災害並びいたるとかや、さても入道相国御心地例ならず、殊更、御所中に様々な妖怪、或いは家鳴り、光物(ひかりもの)、色々の姿が現れた。 物怪しき事は限りなく、いかさま変化の業ならんと昼夜を分かって宿直の武士、そよと物音・風音に火鉢の白炭(じよう、炭が燃え切った後の白い灰)が動くのさえ心を配って守りける。 常に外様の男とは顔を見合わすのも法度であり、互いに心を置く、奥女中、二十三四の色盛り町の風とは一位、顔も姿も格別に、土器(かわらけ、素焼きの盃)・瓶子(へいし、徳利)携え出で、愛想らしく手をついて、私は入道様の御台所(御台所)二位の尼君様の御使、今日はいついつよりも心をつけてのお宿直(とのい)、化け物も顕れずお心の騒ぎもない。 上にもすやすやと御鎮まり、ひとしお二位様が御満足がり、酒(ささ)ひとつ召されて、いよいよ御番油断なきように申せとの御ことである。と、述べければ各(各々)はっと頭(こうべ)を下げ、中でも番頭(ばんがしら、殿中の雑務・警衛に当たる番衆の頭)難波の次郎経康、冥加に余る仕合せ、お礼は御使のお取り成し、ついては外様の我々、御不例の御様體(ごようだい)しかと存ぜず、憚りながら御物語と尋ねれば、さればいな、過ぎつる厳島への御下向より夜昼に四五度づつただ身が焼ける、あたあたとばかり御意なされ、お熱のさす折柄は辺り四五間の熱さ、暑さ。 真夏の土用に百・二百の釜を一度に焚くかとも思わせ、御看病を申す私を始め、一人もお側には寄り付かれず、せめて御心も涼しいようにと、御覧なされ、あの如くにお庭に水船を据えて、比叡山千手(せんじゅ)井の水は日本一冷たい水、毎日毎日汲み寄せてはあの筧(かけい、地上にかけ渡した樋・とい)から流し込み、ずっぽりと水にひたり、お頭(つむり)からさっさと音羽の滝に打たれるようになさるれども、その水さえに湯の様になりまする。 お熱のさそう知らせにはこの御所が鳴り渡り、あそこの隅がめきめきめき、ここの隅がぐぁた、ぐぁた、ぐぁた。 半分聞いて一座の者、そろりそろりとにじり寄り、して、その跡は何と、何と。 この後が猶怖い、こう並んでいる畳の下がむく、むく、むく。何がお目に留まるやら、空を睨んで、やい、又来たか、来たか。遣らぬぞとてはがさ、がさ、がさ。逃さぬとてはどたどたどた。 それは、それは恐ろしい事と語れば、一座の者、色青ざめて、片息(息も詰まって)になって聞いている。 難波の次郎は気がさ者(負けん気の者、気の強い者)、いやさ、変化化け物は臆病な気を見透かして業をなす。難波がかくて候えば天狗にてもせよ鬼でもあれ、障礙(しょうげ、障り、妨げ)など思いも寄らぬこと、哀れ、化け物、こういう内にも来たれかし。取ってねじ伏せ手取りに致してやる。そして、薬要らずにさっぱりと御快気を見せ奉らんと、目に見ぬ先の口広言。 女はにっと会釈して、天狗の鬼のと言うまでも無し、誠は我はあづまやとて俊寛が妻の幽霊ぞや。さあ、手取りにしてみよと言うより姿はぱっと消えて、忽ち人のしゃれこうべが座中いっぱいに満ち満ちたり。 言葉には似ず動顛して、やれ、恐ろしや、なう、怖や。と駈け出した裾を引っ咥え、追い廻し追い竦め、逃げもやらず居もやらず、念仏陀羅尼お題目、一つごっちゃにしゃれこうべ、上に成り下になって転び合い、覆(ころ)びのき、火鉢の中に飛び入り、飛び入り、ぱっとふすぼる煙の内、一塊に山の如く頭(かしら)ひとつに目は百千、睨む光は流星が渦巻きあがる如くであり、わっとわななき肝を消し、こけつまろびつ逃げ散れば、俄かに家鳴り震動して大地も崩れるばかりである。亦 能登守教経萌黄匂いの腹巻、上には狩衣引き違え、重藤(しげとう、細かく籘・とうを巻いた弓)の弓張月、星切り斑・ふのとがり矢をかいこみて大床に躍り出で給えば、女の姿が又顕れて、珍しや教経殿、我あづまやは幽霊ではあるが御身は蟇目(飛ぶときに音を発する矢、魔を退ける時に使う)を以て我を引き退けんとの弓矢の威光に押されて、情けなや、入道に近づくことが叶わない。恨みを報ぜんようもなし。 情けある能登度に恨みはない。弓矢を伏せて帰ってたべ給えとよ。 何、あづまやが幽霊とな。事可笑しいぞ、化け損ないのふるだぬきめ、正体を現わせ、さもなくば能登がひと矢と引き絞った。 後に女がまたすっくり、我は千鳥と言う女、わ殿に請けた恩はない、帰れと言うのに帰らなければ入道諸とに同じ憂き目を三瀬河(みつせがわ、三途の河)、来たれと髻をしっヵりと取り、えいと引かれたが教経は気後れせず梓弓の端で払う、本はず(弓の弦をかける最下端)・末はず(同最上端)に恐ろしや三十番神(ひと月三十日間、毎日交代で守護の番に当たる神)ましましても魍魎鬼神(もうりょうきじん、山川の精と言う魔物)は汚らわしや、出でよ、出でよと責め給うぞや。 腹が立つ、思う人を取らないで、剰(あまつさ)え、神々の責めを受けるのか、口惜しやとかっぱと轉(まろ)べば大音を上げて、正四位下能登の守平の朝臣(あっそん)教経と鳴弦(矢をつがえずに弓を鳴らす事、妖魔を払う時の作法)し、きりきりと引き絞りひょうど放つ矢さけび(矢が当たった印に射手が叫ぶ声)に、二人の女も行方なく、忽ちに障礙が消え失せて御所の震動安全たり。 二位殿が悦び、帳台を出で給い、今に始めぬ教経の弓矢の徳、御手柄、御手柄、 これにつけても、なう、過ぎつる夜、我がみたる夢の話、能登殿、ちこうと招き寄せ、声はひそめて眼に涙。言うも語るも忌まわしや。 音に聞く火の車と言う物か、牛の面、馬の顔なる鬼どもが猛火の燃え立つ車一輌を御所の内に遣り入れた。 恐ろしや、この車に如何なる者を乗せているのかと夢見心地に尋ねると、平家の大政(う)入道悪行超過し、閻浮(えんぶ、世界)第一の大仏を焼き亡ぼし給う咎によって、無間地獄に沈めよと閻魔王の仰せにて迎えの車だと答えた。が、夢はそもままで醒めてしまった。神明の守りも絶え、三世の仏の綱も切れ、長い苦患(くげん)や見給わん。今度や娑婆の限りかと思えば気も消え、心消え、入道殿よりみづからが命ぞ先にとばかりにて、身を投げ臥して泣きなさる。 教経は両手をはたと打ち、あら、不思議や、某が夜前の夢、所は大内の神祇館(じんぎかん、祭祀・官社の事を掌る神祇官が詰める所)、束帯匡(まさし)い人々があまた寄合い給いしが、遥か上座なる老翁(ろうおう)、この二十四年間平家に預けたる将軍の節刀(せっとう、出征の時に天子から賜る刀)を取り返し、伊豆の国の流人兵衛の佐(すけ)頼朝に得させんずるわとの給えば、一座の各(おのおの)了承あり。かたえの人に名を問えば、上座の人は八幡大菩薩、かく申すのは武内(たけうち、武内宿禰、軍神とする)と、言いもあえずに霧霞と消えたり。 御夢と言い、我が見た夢、かたがた御慎み、家門の大事と宣う所に、信濃の国の倉人が庭上に畏まり、故帯刀先生(こたてはきせんじょう)が次男、木曾の冠者義仲が義兵を起こし、その勢既に雲霞の如く、安曇(あづみ)の城に楯こもり、又東国では流人兵衛の佐頼朝、院宣を申し下し(申し受けて)、北条の四郎時政を語らい、山木の判官・和泉判官兼隆を夜討ちにして石橋山に城郭を構え由々しき御大事に候と、未だ訴え終わらぬ所に、筑紫宇佐の大宮司公道(きんみち)慌ただしく罷り出て、鎮西(九州)の住人緒方の三郎惟義(これよし)、平家を背き彼に従う戸次(へつき)・臼杵(うすき)・松浦(まつら)党、皆々源氏に心を寄せ、伊予の国では河野の四郎、紀州に熊野の別当湛増(たんぞう)鈴木を語らい、源氏に従い、平家に弓を引かんとす。早く討っ手を遣わされ然るべからんと言上した。 二位殿を始めとした人々は耳を驚かし、あきれ果てたるばかりなり。 教経眉に皺を寄せて、東国北国が背く上に、南海・西海悉く敵となった。急なることは眉に火がついたも同然だ。 病気の障り、入道には沙汰無用、宗盛公に参上して一門を集め、追手の手分けを致さんと、言い捨てて御所を退出ある。
2025年10月17日
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第 四 舟路の道行 頃は文月(七月)、半(なかば)の空、都方には亡き魂を迎えて帰る槇(まき)の露、これも都に帰り往く。 舟にぞ仏の誓いにて鬼住む嶋を逃れ出て、少将成経康頼は帰洛の舟の旅衣、今着てみるこそ由々しけれ。ちどり一人は泣き焦がれ、仮初に親と頼みし俊寛を後に残して置き、沖の嶋、また逢いましょうではないが大嶋を漕ぎ放れ、余所に見捨てて行く、壱岐(いき)の嶋、硫黄が嶋より地の嶋まで海上七七四十九里は船を繋ぐべき磯も無く、蒼海天に連なって雲に漕ぎ入る沖の舟、眺めも遠く漫々と(広々と)北は三韓(朝鮮)・壱岐・對馬、南は香椎・宇佐八幡、そもそもこの御神はすべらき(天皇)の御代が始まりて十六代の尊主・応神天皇、みもすそ川の底清く、神徳あまねき夢想の告げ(僧の行教に宇佐八幡の夢想の告げが有り、その奏上で応神天皇を男山鳩の峰に祭った)鳩の峰に鎮座有り。 他の人よりも我が人と、誓いも固い石清水、今澄み上る我々が再び帝都の雲を踏み、九重の月を眺める事、皆神明の加護ぞと各々が法施を奉り、波の白木綿・青弊(あをにぎて、麻で作った神前の供え物)、かかる遠國波涛にも、名所は音に響きの灘、鐘が岬に明け渡る。箱崎の松、宰府の梅、末は蘆屋(あしや)の浦伝い、海人の漁火影もなく、松吹く風の声ばかり。 今行く舟に通い来る苫から潜るしたたりは、小倉の雨の糸に似て、波も縮(ちぢみ)を織っているようだ。そんな風に心を結ぶ中空に初雁がねが雲間から、ちらちらちら、と散らし書き、誰が玉づさの文字が関、和布刈(めかり)の明神を伏し拝み、潮の満ち干の玉嶋に続く光やあかねさす蘇芳(すはう、黒みを帯びた紅色)周防灘とはこれかとよ。濡れた姿のあの姫嶋は誰(た)が思惑のゆかりぞと、沖の家室(かむろ)・禿(かむろ)にこと問えば灘の男波が打ち寄せていつも添い寝の床の嶋、京とまりては上の関、明日は都も程近く、阿伏兎(あぶと)御手洗(みたらい)くろく嶋、右手(めて)は四国の海面(うみつら)を走る兎の月を越え、暮れては明ける日の烏、かうかうたるわだの原、島々浦々、幾湊を風に任せ、櫓に任せ、舟な備後の敷名の浦、潮待ちしてこそいたりける。 俊寛僧都の郎党・有王丸は主人の遠流赦免あると聞きしより、夜に日をついで備後の国敷名の浦に着いたのだが、磯に寄せたる上り船、すはやこれかと渚に降り立ち、是々、御船に物問おう、鬼界が嶋の流人帰洛の船は何国(いづく)まで参りしぞ。類船(ふねが一緒に航行すること)などはなされなかったか。 俊寛が郎党の有王丸と申す者、御存知ならば教えてたべ。 なう、これこそは尋ねる流人船である。丹波の少将成経と平判官康頼が舳板(へいた)踊り出で給えば、御堅固の帰洛重畳千万、法皇の院宣(いんぜん)、小松殿の情により主人も赦免と承る。 有王丸が御迎えに参りしと憚りながらお伝えをと、聞くより二人は打ち萎れ、千鳥を呼び出し引き合わせ、これこそ俊寛の養い娘、僧都と思い宮仕えを致せと、有つる嶋の物語。 有王はっと途方に暮れて、ええ、しなしたり、口惜しや。あづまや御前の最期にも一足違って御命を助け得なかった。腹を切って申し譯をと思ったが、嶋には僧都がましませば無念の命を長らえて待ちおおせたる甲斐もなく、よっく仏神にも捨てられたか。娑婆での奉公はこれまで、腹を掻き切って冥途での忠義に急がんと、既にこよと見えければ、千鳥は陸(くが)に駆け上がり、なう、はやまるまい。此の度は帰洛がなくとも死に失せ為された身でもなし、御先途を見届けようと思うきはないかと、縋り付いて留めている所に、浦守の下人が駆け来った。 こりゃ、こりゃ、その船漕いで行け、清盛様が鳥羽の法皇を連れまして厳島を御参詣、この浦に御船がかかる(停泊する)、筈、やれ、その小船漕ぎ退けよ。急げ、急げと言い捨てて、次の里へと走り行く。 丹左衛門の尉基康は有王丸を船近くに招き寄せて、成経・康頼が帰洛の趣を清盛公に訴えん、この女性(にょしょう)を同船の事を咎められては事難しい。俊寛の養子娘であれば汝が主人である。きっと預ける。これより陸路(くがぢ)を同道して都に上れ。 あれ、舟歌が聞こえる、はや、御船も程近い。と、船をかたへに漕ぎつければ、有王は千鳥を介抱して一群茂る葦の陰に隠れた。 程も無く波の上に御座船の棹の歌、やんれ、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ、貴人の船、二隻を一対とし、一隻には龍の頭、一隻には鷁・げき 想像上の鳥の首を舳につける)の金(こがね)の楫やァ、玉の棹綾や、錦を帆に上げてやらんやら、お目でたい、鯛を釣る、鱸(すずき)釣る、磯辺に錨を下しける。 流人船が漕ぎ寄せて、丹波の少将成経、平判官康頼を召し具して、丹左衛門の尉基康ただ今帰洛仕る。御披露をと訴えれば、御簾(ぎょれん)を挙げさせて船館に法皇が安座なされていらっしゃるので、席を並べて清盛入道、我が下知を背いて俊寛も帰洛させよと病みほほけたる重盛を誑し、赦し文を下されたる者ありと聞く。俊寛も連れ帰ったるか。 御諚の如くに、一緒に帰洛すべき所、瀬尾の太郎と不慮の口論によって瀬尾を討った咎に任せ、俊寛はすぐに彼の嶋に残し置き候。と、申し上げた。 法皇はっと御驚き、入道くゎっと色を損じ、しゃつ憎っくき俊寛め。首取ってはなど帰らなかった。手ぬるし、てぬるし。成経・康頼も心許されず。汝に預ける。連れ帰りきっと守れ。いそげやっと忿(いかり)の顔色(がんしょく)。 畏まって船を押し切り、元康は都に帰ったのだ。 清盛は法皇をはったと睨み、潮(うしお)も逆巻く大声を挙げて、やあ、位抜け殿、法皇殿、保元平治よりこの方朝敵に悩まされ、天下が暗闇になったるを悉く切り沈め、法皇と言わせた入道の恩を忘れたのか。 ややもすれば平家を亡ぼせ、入道を殺せなんどと俊寛を始め人を語らい、ぬっくりとした(自分かってな、厚かましい)事を工まれた。今まではときはと言う女人を質に取り置きたれども、牛若冠者めが奪い取り東国へ逃げたれば、一寸も油断ならず、この後平家追討の院宣などを頼朝・牛若に出されては飼い犬に手を噛まれる道理、海に投げ込み人知れずに殺さん為に、厳島参詣と偽りこれまで連れ来れども、根性が腐っても王は王、手にかけるのは天の恐れ、みづから身を投げ給えば清盛には罪はない。 さあ、身を投げ給え、早う、早うと極悪、聞くに堪えかねて磯では千鳥と有王丸が出るにも出られずさし覗き、ただはあ、はあと身を冷やす。 法皇は御衣に御涙をかけながら、天照大御神に見放され奉ると思えば、世にも人にも恨みはなし。神武の正統八十代、みづから身を投げた例を聞かない。入道の心に任すしかない。只末代こそ心憂かれとばかりにて、昔を慕い行く末を思いかねては咽返り歎き沈ませ給う。 入道が心に任せるとは、殺せとのことだな。おお、院宣には背かないと、勿体無くも取って引き、海寄せ、両足をかいて(すくって、払って)真っ逆さま海へとざっぷと投げ込んだり。 潮に引かれて玉對(ぎょくたい)は沖に誘われ磯に打ち寄せて、浮いたり沈んだりして漂っている。 千鳥はっと走り出で、続いて海に飛び入ったが、足が立つ程は立ち泳ぎ、御命を助け奉らん、必ず御身をもむまいと乗りこす汐には抜き手を切り、泳ぎのぼれば、さら、さら、さら、さざ波高く押し流されて海松布(みるめ)を力にたぐり、くるくる、みなぎる波を巴(は)の字に開き、うずまき逆巻く波枕、海に馴れたる海女の業、ずっと水練(すいり、潜水)に姿も見えず。 船では弓・槍・太刀・長刀、刃を並べて眼を配り、浮かばば斬らんと待ちかける。 陸(くが)では有王が身を揉むが、烏が鵜の真似詮方なく、拳を握って控えている。 清盛はいらって、やあ、うっそりめ(薄ぼんやりした奴等め)ら、陸を見よ。俊寛の下人の有王丸がいるぞ。先ずきゃつから打ち殺せ。 畏まって、飛び降り、飛び降り、命知らずの前髪首、さらえ落して根付(ねつけ、煙草入れ・巾着・印籠などにつけ、落とさないように帯にはさむ物)にせんと憎ていにのさばれば、有王はくっくと打ち笑い、口有るままにほざいたな、物欲しいおりからよい慰みと、面も振らず(真っすぐに)割って入り、磯打つ波のまくり切り、木の葉を誘う山おろし、揉み立て揉み立て斬り散らす。 有王に斬りたてられ、むらむらぱっと逃げ散ったり。 なんなく千鳥は法皇を肩にひっかけて、浮かび出たので、有王丸、はあ、御命安全、目出たし嬉しい。こっちに任せと浪打際に降り立って、背中に潮で清めの垢離(こり)、法皇を肩に負い奉り、足に任せて走り落ち行きけり。 その隙に、清盛は長熊手をおっとり伸べて、千鳥の頭にさっくと打ち込み、えいや、えいやと引き潮に逆らう千鳥の憂さ、浮き苦しみ舳にどうと引き上げ、背骨をしっかと踏まえねめつければ、おお、引き殺せ、食い殺せ、俊寛の養子千鳥と言う薩摩の海士、あづまや様は母親同然、母の敵、父の敵の入道、法皇様は一天の君。御命に代わると思えば数ならぬ海士のこの世の本望、殺されても魂は死なぬ。 一念のほむらとなって皮肉に分け入り、取り殺さないでおくものか。ええ、無念やと、怒りの歯ぎしり恨みの涙、磯打つ波に村雨の、篠を乱すが如くである。
2025年10月15日
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宗清はときはに目もやらず、顔打ち振って独り言、 あっぱれ宗清は今、小松殿と言う能い主を取った果報の武士、いにしえの如くに源氏を主と仰ぐならば、世間に恥辱をかくであろう。 ああ、嬉しや、嬉しや、俊寛が妻のあづまやの最期の詞、ときはが如き根性を下げまい物。道知らず、悪戯者と笑い謗って、その身は伊邪那美の尊(みこと)以来、貞女の手本を世に残し、刃に臥臥して空しくなる。想えばあづまやは四想(四相、我・人・衆・寿者の四相)を悟る女賢人。 小松殿も賢人、平家の仇となるときにはときはとて容赦をするな。討って捨てよとの仰せ。徒に極まれば平家に弓引く仇ではないが、その身ばかりの恥辱か、義朝の尸(かばね)の恥辱だ。 牛若の生い先、源氏一統の恥、恥さらしだ。 さりながら、今、宗清が主でなければ構わぬこと、狐や狸が人を化貸し失うにもあらず。 ときはの不義放埓を申し上げるまでの事、とずんと立てば、なう、暫くと引き留め、ときはが不義とは情けなや。俊寛の妻の自害は身の貞女を守るばかり、死んで源氏の為になるならばあづまやづれに負けようか。生きて心の辛抱は、ああ、恐らくときはには及ぶまい。 牛若を助けるために清盛の心に従ったが、病と偽り帯を解いて一度も肌を穢さぬもの。そもやそも往来の人を呼び入れて仇の枕を並べようか。牛若は日蔭もの、誰を頼りに詮方なさ、往来の人を呼び入れて色に迷うのは男の習い。 騙し、透かし、誑し込んで心を見届け、従う者には源氏一味の血判させ、牛若に義兵を挙げさせ、平家一門の首を見ん為と言う言葉を打ち消して、抜かすな、言うな、噓つきのときはめ。今おのれの不義を見付けられ、当惑しての作り事、聞くのも弓矢の穢れであると、立って行こうとするのを再び引き止めて、いや、ときはに不義がないことは聞いても聞かする(是非とも聞かせる)、聞かないでも聞かせる。むさぼりつくのを取って突きのけ、ええ、平家に敵対するときはならば討って捨てよと御意を受けた宗清に、偽り者・恥知らずと、懐中の巻絹をひと捩ねじて丁々(ちょうちょう)、徒者(いたづらもの)とてはたと打ち不義者とてちゃうと打ち、詞を下げて黒髪をねぐたれ(寝乱れ)髪と打ち乱す。 杉戸を隔てて笛竹が南無三宝、顕われしと裾端を折って杉戸を蹴放し、袂の下の二尺三寸(の長さの刀)を隙も有らせずに切りかけた。老巧の宗清が抜き合わせて渡り合い、踏み込み、踏み込み撃ち合う音、ときはは驚き杉戸をはずして引き抱え、相の小楯と身を棄てて、前に覆いうしろに隔て止めても止まらずに抜け潜っつ。 太刀と太刀とが閃く影、暗夜の稲妻、流れる汗、軒の雫の如くである。 ときは御前が声をかけて、大人げなし宗清、はやまるな牛若丸の母が言う事を聞かないか。と、制せられて飛びしさり、ええ、無念な、源の牛若が大事を思い立つゆえに母上と心を合わせ、下女腰元に様を変えて心を尽くすと聞くならば、忠節を為すべき所主君たる母君を何故に打った、何故叩いた。 やあ、主君とは舌長(過言)なり。彌平兵衛宗清の今の主人は平家の大将・小松殿。平家の仇となる者は討って捨てよ。義ある武士と見極めし、とお眼鏡に適い迎えてくれた。不義放埓のときは手を以て討つのも腕のけがれと、肌身離さずに持ったこの雑巾で打ったのは有り難しとは思わぬか。 不義者の恥知らずに廻り遭うこともあるかと、隠し置いたるこの雑巾、親子の恥を押し拭い、押し拭い、早立ち退けと巻絹取って牛若の額にはったと投げつけたり。 ええ、推参なり、いで切り裂いて捨てんずと引きほどけば、こは如何に、正八幡大菩薩とありありとしるした源氏の白旗である。 二人ははっと押し頂き、我々に廻り遭うまでと肌身離さずに持ちたるとや。今この旗を拝する事は父義朝の蘇生とも千騎万騎の味方とも、この上があるべきか。奥が深い宗清の心を計らずに卒爾の雑言、許してたべ、宗清と、親子が頭を下げ伏し沈み給うのを見て、色には出さないが宗清もつれなの人界や、譜代の主人に頭を下げさせ、冥加なし、勿体無し、痛わしとさえ言い遣らぬ奉公の身の浅ましさ。想えば胸も裂けるばかりである。 しおれる瞼を見開き、見開き、せきくる涙をのみ込み、飲み込み渋面を作るのも哀れであるよ。 や、主人顔して怪我をするな、牛若と聞けば逃されぬ。宗清を討って親子共に早く立ち退け。と急いた所、おお、誠ある宗清の詞は父の教訓、いざ、立ち退かん。尤もと走り出そうとすれば、これこれ、小松殿お眼鏡の宗清である、おめおめと見逃して我が武士道がたつべきか。この宗清を一太刀うて。討ってから立ち退け、立ち退けと呼ばわったり。 むむ、尤もと、牛若が飛び掛かって太刀を振り上げれば、ときはが縋って、やれ、情けなや。心ざし(好意を寄せてくれる)の宗清を太刀を当て斬っては天の咎め、氏神の御罰、苔の下なる義朝の御照覧も恐ろしい。たとえ親子が一生を朽ち果たすとも道を立て、義を立て、誠を尽くす侍に何と刃が当てられようか。許して呉と泣きなされば、ええ、言い甲斐がない。薄手も負わずに落としては宗清の武士が廃る。 いや、それも斬らさぬ。いや、討て。いや、打たさぬと義を争う。 ええ、曲もない、腹を切るのは易いのだが、敵を見てぬくぬくと腹を切ったのでは逃げたのも同然だ。小松殿の御詞、昔はともあれ、今は平家の禄をはむ。我が死後までも目がねを違えるな、畏まったと請け合った一言は須弥山よりもなお重い。彌平兵衛の一生が廃ると知らないか。恨めしやと睨みつけた。血眼に涙が混じっている。 声の下から縁の下、敷板の外れから宗清の弓手の高股をぐっと通す切っ先は、朱に染まって現れたのだ。人々がはっと驚けば、宗清にっこと打ち笑い、ははあ、誰かは知らぬが我を突いたのは源氏の忠心、さあ、宗清こそ牛若に出で合い、深手を負って討ち漏らした。やれ、のけ、のけと呼ばわる隙(ひま)に牛若君が縁の敷板を引き退け給えば、ひな鶴が顔も形も朱に染み、這い上がって来た。 なう、懐かしの父上や。一年母上に連れて別れた娘の松が枝、今の名はひなづる、床しゅう御座るとばかりにて縋り付いて泣いたのだ。 母上に遅れて(死別)からはときは様に仕えてても、宗清の娘とは今日が言い始め、最前よりの御詞始め終わりを縁の下でつくずくと聞き、お主の命も助けたし、父上の武士も立てたく、親の身に刃を当て八逆罪を身に請けたのは親と主が愛しい故、さあ、牛若様、ときは様早く御退きなされ。なう、父上、印ばかりにちょっと切ろうと思っても当て推量の切っ先が悲しや思わぬ深疵になりましたが、たった一言許すと言う言葉を掛けて下さいませ。と、血を吸いのごい、疵を撫で、声も惜しまずに泣いている。 宗清も諸共に咽ぶ涙を押し隠して、離別の母の娘であれば親でもなければ娘でもない。女ではあっても源氏の郎党、平家方に刃を当てて許せとは何事ぞ。源氏方には誰ならん、藤九郎盛長の姪の松枝ではないか。縁の下からつかなくとも何故に)名乗りを掛けて打たなかったのだ。 宗清が怖いか、卑怯者め、腰抜けめ。とは言いながらでかしおったぞ。と、引き寄せて縋り付きて泣いたので、ときは御前も牛若も、さてはおことは宗清の娘かや。血筋程ある心ざし、子と言い、親と言い、かかる忠義の武士(もののふ)の敵になったる源氏の運、この行く末もいかならんと、四人は顔を見合わせてわっと泣き入るばかり成り。 宗清は猶、泣かぬ顔、やい、慰みに人を斬るか、主君を落すためならずや、お供申して立ち退け。吠えな、吠えなと突き退ければ、如何にもお二人を落しましょう。 我が身は残って父上の看病をさせて下されと、又、立ち寄るのをはったとねめつけ、母さえ離別したる物、看病とは狼狽えたか。手負いに心を揉ませるな。勘当と言わないのを嬉しいと思わないか。但しは勘当を受けたいか。不幸者めと叱るのにも涙。 ああ、ああ、お供しましょう、お供せう。あれ、父の心ざし。立ち退いて下さいませと涙を押し拭い押し拭いながら先に進めば、親子の人、身の大事をも思いやり、宗清父子の忠節も想い遣る方涙ながらに出で給う。 宗清は突っ立ち、牛若やらぬ、ときはやらぬ。足が立たない、口惜しやと態(わざ)とよろよろどうとまろび、おのれか程の薄手に怯みはしないぞ。又立ち上がって太刀を杖、よろりよろりとよろめく姿、見兼ねては立ち戻り、逃さぬ、やらぬは声ばかり、両方で泣き顔、睨む顔、ひらめくばかりも刃を向けはせぬ。 勇者の振る舞いには情けが有る。恩愛あり、哀れがある。分別有る、仁義ある。心は太刀の光に見えて義理に引かれる牛若君、親に焦がれるひな鶴の翼を絞る涙の雨、ときはが森の木の葉の露の様に涙を落しながら去っていくのも哀れであるよ。
2025年10月14日
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小松殿が聞きなされて、苦し気なるかんばせに立腹の色が現れ、心得ぬことを申す者かな、源氏譜代の汝なればこそ、常盤の常の行跡や心入れをよく知っているであろうと、思い寄っての事だ。明日にも源平が鏃(やじり)を争う時に、源氏譜代の宗清、軍の御供は容赦あれと言うべきか。よもや、さは言うまじ。 源氏の昔の恩を思うなら、今又平家の録を食む、その恩賞をよも忘れてはいまい。義ある武士と見定めた我が眼力、重盛の臨終も今明日と極まって、明日の夜までは不定の命だ。 病み疲れて眼(まなこ)眩み、最後に人を見違えたと死後に小松の名をくたすな。早急げ、宗清と床の緞帳、御簾もさっと降りたので、宗清はあっと頭を下げ、文武二道の賢将、義ある武士とのお詞、生前の面目、部門の誉、哀れ、御命を全うして御馬の前で討ち死にして、御恩を報じないのは残念至極、 もし宗清が狂気して御眼力を違えたなら、冥途より御手を下郎に貸され、歩(ぶ)に首を下げ給え。はや、お暇と罷り立った。 源氏の恩、平家の恩、引かれてたゆまぬ梓弓、矢竹ならぬ彌猛心ぞ頼みある。 囲い女(もの)とや悪口に、是をも言えば夕附く日、朱雀(しゅしゃか)の御所は女護の嶋(女ばかりが住む嶋、実在すると信じられた)、昔は源氏の春の園、義朝の花もみぢ、今日は平家の秋の庭、清盛の月雪と見手は変われど変わらないのは、ときは(普通名詞としては永久不変、変わらぬの縁)御前の起き伏しの独りでは足らぬ(男無しでは不満な)御身持ち。 お腰元の笛竹、御髪上げのひな鶴が男見立ての仰せを受けて裏の小門の物見の亭(ちん)、往来(ゆきき)の人の風俗を見下ろす簾(すだれ)を巻き上げて、今日も変わらぬお役目だとて、口へは入らない善悪(よしあし)に男を待つ風がしどけない。 なう、笛竹殿、何時ぞは何時ぞはと思っていたのですが、幸いに外に人はいない。ときは様は御気合いが悪いとて床も離れず薬もんじゃく(係り合うこと、関係が絶えぬこと)、何時も浮き浮きとはなされぬのに来る日も来る日も二人か三人か往来の男を呼び入れて、お精が強い。上々には何がなる物ぞ(お上のなさる事は不可解だ)、あれではお煩いも治らぬ筈。 清盛様に聞こえてはお身の大事、わしらやこなたも良い事はあるまい。怖くてならないと震え声。ああ、気遣いない、気遣いない。竹笛が何も飲み込んだ、今日はいつもより通りが薄い。それでも能い男をせめて二人程はつらなくてはそなたもわしも一分が立たない。 おお、合点と言う所に素襖袴(室町時代の庶民の平服。鎌倉時代では武士の平服)にかけ烏帽子。こりゃ、歴々の侍だ。但しは公家方の諸大夫(しょだいぶ、家政を司る家司・けいしに補せられる家柄の者)か。あれ程の人躰に破れ扇は不都合な、え、ままよ、是、そこな烏帽子殿、此処へ、此処へと招かれて、小腰をかがめ声張り上げて、万戸(まんこ)がその日の装束には阿のく菩提の腹巻に隋求陀羅尼(ずゐくだらに)の小手をさし、断悪修善の脛当てをあくち高にしっかとはき、大唐錬小唐錬、二振りの剣を十文字に差すままに神通自在の葦毛の駒、歴劫不思議のうき沓をはかせ、その身は軽げに乗ったりける。万戸将軍はうんそうとて、万戸将軍うんそうとて、ああ、しんき、ここへおじゃ、しっぽり(しめやかに、男女の交情が密なこと)と言いたいことがある。 先ず、待ちゃ、待つゃとひな鶴が亭から降りるのを見て、え、さてはしっぽりが御所望か。あら、痛わしや蜑人(あまびと)は海上に浮かび出で、。乳の下を掻き切り玉を押し込めて申したり。乳(ちち)のあたりにないならば疵のありたけ、どこもかも探って見給え、我が君とたださめざめと泣いている。む、さてはまい舞か、舞まいでも蜘舞でも大事ない。 これ、御門の内におじゃ。結構な目にあわせようから。こんな事じゃと耳に口を寄せて、こうじゃこうじゃと囁けば、舞まい色を変えて、万戸この由を聞くよりもあら、怖や。恐ろしや。これは龍宮の美人局(つつもたせ)、三百目の玉塔に、その外悪魚の仕掛け物、逃れ難しや我が巾着と跡をも見ずして逃げ失せける。 なう、笛竹殿、無駄骨を折ったではないかいな。いや、いや、一の裏は六、陸路を軽く、それそこへ状箱をかたげて飛脚の足、淀から三里に灸もない。脇差を一腰差し、さしもぐさ、燃え立つ汗にむしつく髭も助平のへの字なりが面白い。腰骨が太い達者造り、これがお上の好物男、やれ、これ、逃すな、呼び込め、とひな鶴が飛ぶように足早に袖を翻してしにじみと囁けば、甘い奴でじろりと見た目にほやり(にやり)と笑い、連れて内にぞ入ったのだ。 跡に続いて聞こえたのは小唄を歌うのか、何を言うか。顔見ぬ先の声の綾。鯵や刺し鯖、皮鯨・目黒・鯛の剝き身・干しかます、鰹節、干鱈・塩鱈、だらだらとだらつき声で通って行く。 ひな鶴、その魚売りを呼びゃいのう、いや、いや、今日は義朝様の精進日、せめての冥加に魚売りは遠慮なされと言う所に、旅する武士の高からげ、股引・脚絆・頬被り、南の方からそりゃ来たぞ、まっかせ、やらぬとひな鶴が囁く顔を振り切って、行きすぎるのを縋り付き、猛き武士の心をも和らげる歌も恋路を種とすると聞く。 いかなる武士も否(いな)とは言わぬ、稲舟の、押すに押されぬこの道を止まらせ給えと言いければ、さすがに岩木ではない荒男、心弱くも立ち留まる。 所は朱雀の御所の門、連れて入る、日も暮れる過ぎる。ときは御前の帳台の夜の光は雲井にも劣らぬ露がしめやかに置く、奥座敷、相の廊下を笛竹が昼の飛脚の手を引いて、案内(あない、室内の様子)を照らす燭(ともしび)にいごきもやらず立ち止まり、こりゃ、何処へ連れて行き召すぞ。白癩(びゃくらい、是非に)返してくれられと歯の根も合わぬ胴ぶるい。 これ、怖い事はなにもない、この奥に御座なさるるは聞き及びもあろう、千人の中から百人を選び百人の中から十人を選りだし、十人の内に独り優れたる時は御前にと、それはそれは美しい君、そもじにたんとほの字じゃと、嬉しいか。是、こんな目に遭うにじゃとささやけば身を捩て俄かに作るつぼつぼ口(つぼめた口)、え、嘘ばっかり。おらがような者にこのかま髭で頬ずりは痛かろう物を、わしゃいや。 え、気の弱い、是、この帷子を着て行きゃと帯を引きほどく肌えは鍋の底。気味悪く、こりゃ何と言う帷子、むむ、柔らかな、身について動かれない。言わぬことは悪い、この帷子も着どり、我等が身の廻り一色も散らすことはならぬ。 それを気遣いすることか、夜が更けぬうちに此処からと杉戸を開いて突き出せば、一足行ってはけつまづき、滑る飛脚の脛ッ脛、去るにしても我は千里を股に掛ける商売、一度も歩み兼ねぬ身が一足もいごかれぬ。智恵こそあれと四つ這いに這う、這う開ける障子の内、ともし火かすかに寝姿を見るより早くぞっと身も痺れ、蚊帳の外にうずくまり、伽羅のかおりに咽せ返る。 蚊帳の内から、ときわ御前、手を引き寄せ、これ待っている、さあ、此処へ。この手の華奢なこ。とわいの。と、じっと締められ現(うつつ)を抜かし、こりゃあんたる因果骨、mっきめっき致す御免有れと、お辞儀は申さぬ、お辞儀は致さぬ。と、蚊帳を引き上げてぬめり込む時は、押さえて、ああ、待ちゃ、待ちゃ、真実抱かれて寝る気なら我が言う事を背くまい。 他言はせまいとこの誓紙に血判(ちばん)を据えての上の事、物も書くであろう、これ見よと、袂の内の一巻を渡せば取って押し開く。 杉戸の外では笛竹が耳をそばだて、息をつめ、伺う内のひそひそは漏れる方なく聞こえるのだ。 読みも終わらずわなわなと震え、なう、恐ろしい文言、これに判形(はんぎょう)は存知もよらず、命が大事と駈け出した。 大事を知らせて往なせようか、と引き留めた。ときはの小腕を取って突きのけ、ここを大事と足早く走る、杉戸に額を打つやら、当てるやら、漸(ようよう)に押し開いてぬっと出れば竹笛がおつとり刀で突っ立っている。 わっとわななき、身を縮めて二度震え、慌てたのだ。 こりゃ、男、ときは御前に頼まれて源氏の方人(かたうど、味方)申したか。奥の様子をさあ語れ。なう、勿体無い、今の世に見る影も無き源氏に頼まれて、平家の咎めを何としようか。思いも寄らずと言わせも果てずに抜き打ちに向こう様(正面)てっぺいより太腹まで節々込めてから竹割り、二つにさっと笹の露、散る魂のもぬけのから、廊下の敷き板こじはなし、掘り置いた土の穴のここかしこ、人には見せないと骸(からだ)を取って引きずり込む。 音に驚きひな鶴が刀をひっさげて出でなんとする。首尾は、さればされば、見かけに寄らずに依らぬ卑怯者、いつもの如くに斬って捨てた。一味して戦場で討ち死にするのも死は同じ。 愚人目ゆえに今日も又、思わぬ殺生南無阿弥陀仏、ええ、まだるい、念仏どころか次の男がもうここへ。いつもの通りに死骸は埋めた。 跡を首尾よう、首尾よう。と、縁の下に這い入れば笛竹が手水の水を汲み掛け、流す血汐の唐紅、神代も聞かぬ女業。辺りに目をつけ目の鞘を外す刀ののり(生血)、押し拭い、押し拭い、袖に収めた顔かたち、けんにょ形振りひきつくろい、物音を伺い立ったのは、昔神功皇后が娘の時もかくやらんと、外に類も無いのであった。 続いて以前の侍が人目を忍ぶ頬かむり、笛竹に近づき、ひな鶴とやんらの物語に奥の様子を承った。良い年をしてなんどの蔑みも恥ずかしい。頬被りは御免なされよ。御案内を願いたいと述べければ、ああ、お案内するまでもない、この廊下をと戸を開けば、月さえ漏らぬ長廊下を辿り、辿って閨のうち、ともし火を背け、掛け香やそらだき物にふすべられ、蚊は一匹もない夏の夜。蚊帳が閨のしるしである。 えへんえへんと打ちしわぶくのも声が澄んでいる。 待ちかねし物、これ男、思わせぶりのしわぶきなんぞ、どなたの花かは知らね共、今宵ばかりの一枝は折るも偸も御赦しと、蚊帳越しに抱き付けば、とこうも言わずにふりはなす。 え、憎い。藻掻かせて慰むつもりか。清盛と言う人が居なければ、いっそ女房になりたい。はあ、鐘が鳴る。夜が更ける。此処へと蚊帳を押しのけて、何時まで包む頬被り、と取って引き退け顔を見合わせ、やあ、彌平兵衛宗清か、なう、恥ずかしやとおし俯き、消えも入りたき風情である。
2025年10月10日
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御点薬が澳から姿を現して、今朝の御脈は夜前の通りに変わらず、謹んで御容態を考え奉るに、是ぞと名付けん病気もなく、ただ七情(色々の感情)に破られ給い、御気の疲れ、御心のむすぼおれが深いと見えさせなれまする。 何つけても興ある御慰めを催し御欄に入れ、暫しのうちも面白しと御心が晴れ給わば、御補薬となり、薬力も廻り候わんかとぞ、申しはべりける。 維盛、聞き給いて、實(げ)にさぞあるらん。祖父(おほぢ)入道殿、邪なる御振る舞い、歎きは父重盛ただひとり、一天四海を引き受けて、御身ひとつが病に成るも理(ことわり)かな。何をがな気も晴れて心に叶う恵み、旁がた(おのおの、みんな)も思い寄り頼み存ずる、との給えば各ははっと頭を傾け、どうがなァ、はあ、何とがなと思案して評定は取り取りである。 新中納言の知盛が進み出て、御慰めとて常々目慣れ給うことはさして興にもなり難し。彼の白楽天が酒功賛(酒の功徳を讃えた文)の景氣(様子)を学び、庭前に酒の泉を湛え、美女を集め、琵琶・琴を調べ、歌い舞い奏でさせれば終に御覧なきことなので、お心が開けることもあるのではなかろうかと有りければ、越前の三位通盛が聞きもあえず、趣向珍らしし。さりながら、平生に酒宴乱舞を好みなさらぬ重盛公、却って御気に障るのではな、かろうか。 通盛が存ずるには、同じく酒を用いるにしても、庭に大竹小竹を数千本植えさせ、酒のもたい(酒を入れる器)を設え、七人の楽人に胡飲酒酉偏に甘醉樂(舞楽の曲名)などの舞楽を奏し、竹林の七賢(中国の晋の時代に竹林の中で清談に耽った七人の賢者)の愉しみを学んでは如何であろうか。 相詰めし者共が存じ寄り、遠慮なく申して見よと仰せなされた。 主馬の判官盛國がつっと出て、恐れがましく候えども、我が君常の御戯れにも上を敬い下を憐れむ御心より、北のお庭に方一町の田を開かせ、毎年御領内の土民を召され、耕し植える賤の手業、民の辛苦をご覧ある。今年も新田をすき返し候えども御所労によっていまだ田植えの御沙汰はない。 折しもこの頃の雨に潤う早乙女の田植えをご覧にいれれば、御心にも叶うべしと言上すれば、知盛、實(げ)に此れも興があろう。所詮、目録に書付けて伺わん。と、人々を相具して大床(広庇と同じ)の御座の間を目指して出でられた。 十返りの霜(松は百年に一度花を咲かせるので、十返りの霜は千年の霜)には朽ちず、一時の無常の風に枝は枯れて、頼み少ない小松殿、父入道を諫めかねて世を思う故に物思う。想いが積もって日蔭の雪も消える間をばかりである。 維盛が枕に近づき、御病中の御慰みにと一門の志し、御望みあれかしと目録を奉れば、助け起こされて脇息にかかるもしばし、玉の緒の弱りを見せぬ親心、披見あって打ち笑み給い、重盛の病気を悲しみ各(おのおの)が心を尽くされたのは返す返すも浅からず。この書きつけの内、早乙女に田を植えさせようとの物好き、我毎年の慰みにて庭の田の面を見るにつけて、去年の田植えも懐かしく感じる。用意させよ、見ようずるわとの給われたので盛國は畏まって罷り立った。 ちょうどその時に、熊野本宮の別当湛増(たんぞう)が白木の箱を携えて慌ただしく御前に出で、本宮の社檀を修復の為に、神躰を仮に宮遷し致す所、如何なる者の仕業であろうか、この箱を込め置いたのです。 私に開く事は後難も図り難く、御注進とぞ述べたのだ。 よし、何もせよ推量の僉議無益(むやく)の至りだ。それ、開け。承ると貞能(さだよし)蓋をこじはなせば、こは如何に厚板を削りならし、衣冠束帯の人を絵に描き、惣身に四十九本の釘、胸板(むねいた、胸の平らな所)と首に矢の根(やじり、矢の根)を打ち込み、日本十三所権現に申し奉る。小松の内大臣平の重盛の運命を縮め、源家の弓箭(きゅうせん、弓矢、武運)を擁護(おうご)し賜え。両ヶの所願(重盛の命を縮め、源氏を守ると言う二つの願)偏(ひとえ)に冥慮(みょうりょ、神仏の御配慮)を仰ぐ者也。願主、蛭が小嶋の住(じゅう)、源の頼朝と書き記し、調伏の願書を添えてある。 人々これはと手を打って、呆れ果ててぞいたりける。、 重盛は忿(いかり)の御涙をはらはらと流させ給い、さても、さても、天の恩を知らない愚人であるな。さんぬる平治の合戦で既に誅するべきであった。池の禅尼と重盛が身に代えて願い助けた故に、さてこそは流罪にしてあるのだ。 彼の唐土(もろこし)の獨角獣(うにこうる)と言う獣(けだもの)は水上の悪毒をおのれの角で灌ぎ消し国民の命を助けるのだが、猟師は恩を弁えず獨角獣を殺して角を取る。是は頼朝めと相同じだ。敵と味方になるならば、鉾先は磨かないで、重恩の重盛を調伏とは浅ましい。 この度の我が病は、父の悪心が止まなければ、我が命を取り給えと熊野権現に立願(りゅうがん)しての死病であるから死すれば小松の願の成就。それとは知らずに、頼朝がおのれの願が成就したと喜んで思うのは愚かな事だ。 重盛が空しくなったならば、見よ、身よ、源氏の白旗を秋津洲に翻さん。ええ、恨めしいのは入道殿、儚きは平家の運命だ。一門の成れの果てが思いやられて口惜しやと、怒れる眼(まなこ)に涙を浮かべ、お声は震え、枕を掴み、歎き沈ませ給うにも御前に伺候の人々も實に御道理ことわりやと各(おのおの)袖を絞られた。 よし、よし、盛衰は天にあり、悔やむまじ、恨むまじ。時こそ移る、耕作を見分しようぞ。疾く疾くとの給い、既に田植えぞ。早苗とる、水のみどりも青々と、御簾も障子も開け放ち、いつにも優れしご機嫌に上下が悦び勇みけり。 折から愛宕(おたぎ)の里の長(おさ)が手には鍬を持ってはいるが、心には苦も無い顔の白髭を上下にすらせて式台(礼拝)し、なうなう、早乙女おじゃらせませ(おいでなさい)、翁が新田をとろりっとならししまいて五穀成就・君万歳、民も千秋、千秋と水口(田に水を引く口、田植えの時は先ず水口を祭る)も祭済ませた。田をばぞんぶりぞ、ぞんぶりぞ。ぞんぶり、ぞんぶり、ぞんぶりぞ、さあなう、御田を植えようぞ、 はっと答えて早乙女は、一緒に来て笠を着て、みんなに遅れまいと手ン手に早苗を取りはやす。外にたぐいもない、あらかねの土に汚れぬ田植え歌、植えよ、植えよ。早乙女、目出たい君の御田植、苗代に降り立ちて田を植えれば笠を買って着せようぞ。笠を買ってたもるなら、なおも田を植えましょうぞ。如何に、早乙女、懸想文が欲しいか。失せた夫が欲しいか。 水上が濁って下の歎きが目に見えぬ。夫を返してたもるならば、なんぼ嬉しかろ。男が見えずばそれなりに当代の流行物、後家狂いせよ。見目悪、ええ、面にくの男が言った事に腹が立つ、腹が立つならば鏡を見よ。水かがみを見たならば、顔の汚れた世の中、朱雀(しゅしゃか、京都市下京区の西南部)の御所(常盤御前の邸)の築山に花が咲いたのをみたか。げに、きっと見たなれば恋の花や、いたづら花(仇花、実のならぬ花、戯れの情事を諷する)やうちや匂い渡った。 植えよ、植えよ、早乙女、千町、万町、億万町の早苗より、兄や弟や夫(つま)や子を返してたもるなら民も豊かに君がお田は実るぞ程なかるらん。実るぞ程なかりけり。 歌い終われば一座の人、よろこび、ざわめき給いける。 重盛は御耳をそばだてて、田な植えさせそ、あれ、止めよ。問うべき事がある。早乙女らを具して来い。 畏まって雑式共、御用があるぞ、早乙女共、御前に参れと呼ばわれば、ひっしょ形振り(遠慮ない様子)で早乙女が手足も土に塗れたままでひれ伏した。 近くに寄れ、女共、夫返せ子を返せと、訴詔(そしょう)ありげな田植え歌だ。汝らは誠の早乙女ではない、つつまずに申せ。と、の給えば、鍬取の翁が頭をもたげて、仰せの如くにかく申す翁を始め誠の早乙女では候わず。 君、知ろしめさずや、入道相国のお妾(てかけ)の常盤御前がいらっしゃいます。朱雀の御所の辺を通れば貴賤に限らず男たるものはかいくれ(全然、全く)に行方なく、再び影も見ることない。狐狸の所爲(しょゐ)とも申し、又常盤御前が往来の男を呼び入れ、放埓悪戯狂いとも申す。兄に別れ弟を失い、かかり(養ってくれる)子に離れて路頭に立ち、飢え死にする親も有り。 夫を取られ泣き焦がれ狂気する女も有り。五十人か百人か読むのに数限りもなし。洛中洛外の苦しみ、上には御耳に立たないのでしょうか。但し、知っても知らぬ顔か。 この翁が直訴して重盛公の御耳に達し、御詮議願い奉らんと男を失った女共はいずれも早乙女に出でたたせてかくの如き仕合せ(次第、始末)、推参は御免有れと申し上げれば、女子共は声々に、私の息子は坊主落ち(坊主が堕落して還俗した者)、ろくに生えそろわぬ者である。常盤が何にせらるるぞ。我等が兄は提灯屋、張りがえのないたった二人の兄弟です。こちらの夫は唐臼踏み、腰から下が強い男、惜しい事をいたした。誰に恐れも無く泣き喚く。女心のひとむくろ(ひた向きさ、一途)が思いやられて哀れであるよ。 大臣(おとど)は御息をほっと継ぎ、我病に臥して政務を辞し、民の訴えを聞かなかったので早くもかかる事が出で来たるわ。当家の徳が薄い故に洛中の騒ぎ、後の禍は軽くない。きっと糺し得さすべし。 やあやあ、彌平兵衛宗清、汝は常盤が館の次第をとっくと見届けて、吟味せよ。狐や狸の仕業であるならば猟師を以て狩りとらせよ。常盤の不義・放埓に極まるならば、きっと実否(じっぷ)を正し、入道殿に言上して御指図に任せよ。 又、末々平家の仇となるべきことと見るならば、誰に問うまでもない。入道殿の思い者だとて容赦致すな。常盤であっても討って捨て、詮ずる所はこれが第一である。心得たるかとの給えば、宗清謹んで畏まり、御諚に違背致して申すのではありませんが、元某は源氏に重恩の侍、殊に相具し候女房は先年離別の末にあい果て、今生になき身とは申しながら、藤九郎盛長の妹、かたがた源氏に誼(よしみ)の筋目、あまつさえ一人の娘を女につけて別れたが、ただ今は成人して如何なる源氏方に縁を組んだかもはかり知れず。かれこれ、以て常盤御前の詮議には源氏に無縁の他人に仰せつけられてしかるべきかと存ずると申しける。
2025年10月08日
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両使は詞を揃えて、もはや嶋には用はなし。仕合せと風もよい。 いざ、御乗船、尤もと四人が船に乗ろうとすると、瀬尾が千鳥を取って引き退け、見苦しい女め見送りの者なら、そこを立ち去れ。と、ねめつけた。 交いや、苦しからず。この少将が配所の中、厚恩の情を請け夫婦となり、帰洛せば同道と固く申し交わせし女、御両人の料簡を以て着船の津まで乗せてたべ。子々孫々までこの恩は忘れない。とと手を摺って詫び給えば、思いも寄らず喧しい女め、誰かある、引き摺り除けよ。と、ひしめいた(騒ぎ立てた)のだ。 はて、料簡がなければ力なし。この上は、少将もこの嶋に留まって都へは帰るまい。さあ、俊寛・康頼舟に乗られよ。 いやいや、一人残すのは本意(ほい)ではない。流人は一致、我々も帰るまい。と、三人浜辺にどうどざを組み、思い定めたその顔色(がんしょく)。 丹左衛門は心有る侍で、これ、瀬尾殿、か様にては君大願の妨げ、女を舟に乗せずとも、一日、二日も逗留してとっくと宥めて得心させ、皆々快くてこそ御祈祷ならめ。と、言いも切らせずに、やああ、そりゃ役人の我儘、船路関所の通り切っ手、二人とあった二の字の上に、能登殿が一点を加えて、三人とされたのさえ私であるのに、四人とは何方の赦し、所詮六波羅の御館に渡すまでは我々の預かり、乗らないと言っても乗らせずには済ませない。 俊寛の女房は清盛公の御意に背いて首を討たれた。有王の狼藉、召し人同然の坊主、雑式共、郎等共、三人を一緒に船底に押し込めて動かすな。 承ると、疋夫共が千鳥を引き退けて、三人の小腕を引き立て、引き立てして、狩人が小鳥をつむる(押し込む、詰める)如くに捩付け、捩付けして厳しく守る瀬尾の下知。 船出せ、船出せ、乗り給え、左衛門殿。但し、御使いの外に私の用ばし候か、と理屈ばれば力なく同じ舟に乗り移った。 不憫や浜辺にただ一人、友なし千鳥、泣き喚き、武士(もののふ)は物も哀れを知ると言うが、それは偽り、空事。鬼界が嶋には鬼は無くて、鬼は都にいたのだよ。馴れ初めたその日から御免の便りを聞かせて月日を拝み、願を立てて祈ったのは、連れて都で栄耀栄華の望みではない。蓑虫のような姿をもとの花の姿にして、せめて一夜を添い寝して女子に生まれた名聞(みょうもん、面目、名誉)とこれは一つの楽しみぞや。 ええ、酷い、鬼よ、鬼神よ。女子を一人乗せたとて、軽い舟が重くなろうか。人々の歎きを見る目はないのか、聞く耳を持たないのか。乗せてたべ、なう、乗せなさいな。と、声を挙げて打ち招き足摺りしては臥しまろび、人目も恥じずに嘆いたが、海士の身であるから一里や二里、恐ろしいとも思わないが、八百里九百里では泳ぎも水練(すいり、水に潜る事)も叶わないので、この岩に頭乗せてを討ち当て打つ砕き、今死ぬる、少将様、名残惜しい、さらばです。念仏申す、むぞうか者、りんにゃぎゃァってくれめせと、泣く泣く岩根に立ち寄れば、やれ待て、やれ待てと、俊寛がよろぼいよろぼい舷(ふなばた)を漸(ようよう)まろび走り寄り、これ、この船に乗せて京にやるぞ。 今のを聞いたか、我が妻は入道殿の氣に違って斬られたとか。三世の契りの女房を死なせ、何を楽しみに我独り京の月花見たくもない。都に帰って二度の歎きを味わうよりは、我を嶋に残し、代わりにおことが乗ってくれ。時には関所三人の切手にも相違はなく、お使いにも誤りはない。 世に便りない俊寛、我を仏に成すと思い、捨て置いて舟に乗れ。と、泣く泣く手を取り引っ立て、引っ立て、御両使頼み存ずる、この女乗せてたべ。と、よろぼい寄れば瀬尾の太郎、大に怒りて飛んで降り、やあ、梟人(づくにゅう、法師に対する侮語。みみずく入道の略で、みみずくの様に醜く太っている僧の意。一説に、俗入道の略で、俗僧の意と言う)め、さように自由になるならば赦し文も赦し文も御使いも詮(無用)なし。 女はとても叶わない、うぬめ乗れと啀(いがむ、犬が歯をむき出して吠えたてる)みかかれば、それはとても料簡無し、とかくお慈悲と騙し寄り、瀬尾が差していた腰の刀を抜いて取ったる稲妻や、弓手の肩先に八寸ばかり切り込んだり、うんと乗れどもさすがの瀬尾、指し添えを抜いて起き直り打ってかかるもひょろひょろ柳、僧都は枯れ木のゐざり松、両方の気力はなく、渚の砂原を踏み込み踏み抜き、息切れ声を力にて、ここを先途(勝負のきまる大切な場合)と挑み合った。 船中が騒げば、丹左衛門、舳板(へいた)に上がり、御帳面の流人と上使との喧嘩、落居(らっきょ、落着、結果)の首尾を見届けて、言上する。下人なりとも助太刀はするな。脇からは少しも構うな。と、眼(まなこ)もふらず見分する。 千鳥が堪えかねて竹杖をふって打ちかかった。僧都が声をかけて、寄るな、寄るな。杖でも出せば相手の中、咎は逃れぬ。差し出たら恨みぞと怒れば千鳥も詮方なく、心ばかりに身を揉んだのだ。 血まぶれの手負いと飢えに疲れた痩せ法師は、はっしと打ってはたじたじたじ、刀につられ手はふらふらふら、組みは組んでも締めないので左右にひょろりと離れ、砂に咽んで片息(奥絶え絶え)の両方が危うく見えたのだが、瀬尾の心は上見ぬ鷲(かみを恐れず常に他を見下して、鷲のように不遜)で掴みかかるのを俊寛の雲雀骨(痩せ骨、ひばりの脚のように細く長い骨)にはったと蹴られ、かっぱと伏せれば這い寄って、馬乗りにどうと乗ったる刀、止めを刺さんと振り上げた。 船中から丹左衛門が勝負はきっと見届けた。止めを刺せば僧都の誤り。咎が重なる。止めを刺す事は無用、無用。 おお、咎が重なったる俊寛は嶋にそのまま捨て置かれよ。 いやいや、御辺を嶋に残しては、小松殿、能登殿の御情も無足し(無駄になり)、御意に背くのは使の越度、殊に三人の数が不足しては関所の鋳論(異議)叶い難し。と、呼ばわった。されば、されば、康頼少将とこの女を乗せれば、人数には不足なく、関所の違論はないであろう。小松殿・能登殿の情にて昔の科は赦されて、帰洛に及ぶ俊寛が上使を切った咎で、改めて今鬼界が嶋の流人となれば、上の御慈悲の筋も立ち、お使の越度は少しもない。と、始終を我が一心に思い定めた。止めの刀を瀬尾、請け取れ、恨みの刀、三刀四刀、ししきぎる(何度も切る)、引き切る、首を押し斬って立ち上がれば、船中はわっと感涙に少将も康頼も手を合わせたるままで泣いている。 見るにつけ聞くにつけ、千鳥独りだけがやるせなくて、夫婦は来世もあるもの、わしが未練で思い切りがないばかりに、嶋の憂き目を人にかけ、のめのめと舟に乗れようか。皆様さらばと立ち帰ろうとした。 すがり留めて、これ、我がこの嶋に留まれば、五穀(五種の穀物、稲・麦・粟・きび・豆)に離れる餓鬼道に、現在の修羅道、硫黄が燃える地獄道、三悪道をこの世で果たし、後生を助けてはくれないか。俊寛が乗るのは弘誓(ぐぜい、仏菩薩が遍く衆生を彼岸に渡される誓願を船に譬えて言う語。ここは仏に縋って往生したいだけでの意)の船、浮世の舟には望みがない。 さあ、乗ってくれ、はや乗れと、袖を引き立て、手を引いてようように抱き乗せれば、詮方なく波に船人は纜(ともづな)を解いて漕ぎ出だす。 少将夫婦に康頼も、名残惜しや、さらばやと、言うより他はなくて、涙にて舟からは肩を上げ、陸(くが)よりは手を挙げて、互いに未来で、未来でと呼ばわる声も出で船に、追手の風の心無く、見送る陰も嶋隠れ、見えつ隠れつ汐曇り、思い切っても凡夫の心、岸の高見に駆け上がり、るま立って打ち招き、浜の真砂に臥しまろび、焦がれても叫んでも、哀れとぶらう人とても無く、鳴く音は鴎、天津雁、誘うにはおのが友衛(ちどり)、独りを棄てて置く、沖津波、幾重の袖や濡らすらん。 第 三 顔回(がんかい、孔子の門下の十哲中、首位に置かれる人)は早く夭して、遂に四十の花を見ず。盗跖(とうせき、中国春秋時代の盗賊」壽(いのち)長くして既に八十の霜を踏む。 生死不定の理りは上智博識も弁ずべからずとかや。 小松の大臣(おとど)重盛公、御所労が日を追って衰えなされ、和丹(和氣・丹波の医師の両家)の典薬・配剤に図案を尽くしたのだが、更にそのしるしなく、既に大事と見えたので、嫡子の惟盛(これもり)を始め、通盛・知盛・重衡・資盛、その外一門の老若、寝殿にゐながれ給えれば、広庇には主馬の判官盛國、筑後の守、貞能、彌兵衛宗清なんどが心を悩まし並みゐたり。
2025年10月06日
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花の木草も稀であるから、耕し植える五つのたなつ物もなく、せめて命を繋げとや、峰から硫黄が燃え出るのを、釣り人の魚とかえ、波の荒布(あらめ)や干潟の貝、水松布(みるめ、海藻類の総称)にかかる露の身は、憔悴枯搞(しょうすいここう、やつれはてること、やせ衰える)のつくも髪(白髪)、肩に木の葉の綴りさせと言う虫(綴り、継ぎ合わせ刺せと鳴くこおろぎ」の音もかれ、枯れ木の杖によろよろ、よろよろと嘗て蘇軾が「今は胡狄・のこてきの一ッ足」と歌いかこったことも俊寛の身に知られ、白雪が積もるのも冬が来たと身に感じ、夏風のけしきを暦にして、春ぞ秋ぞと手を折れば、およそ日数は三年の、こと問う物は沖津波、磯山おろし、濵千鳥、涙を添えて故郷へ何時廻り往く小車(おぐるま)の轍(わだち)の鮒(ふな)の水を恋う憂き目も中々に、較べる苦しい身の果ての命、待つ間ぞ哀れなり。 同じ思いに朽ち果てた鶉衣(うずらころも、つぎはぎの破れた着物)に苔深い岩のかけ路(細道)を伝い降り煩う有様、我もあの姿なのか。 諸阿修羅道故在大海變、そも三悪四趣は深山海ずらに在りと御経に説かれてあるが、知らず、餓鬼道にやおちけん。と、よくよく見れば平判官康頼、ああ、我も人もかくも衰え果てしかと、心も騒ぐ浜辺の蘆、掻き分け掻き分け来る人は丹波の少将成経。 なう、少将殿、なう、康頼、こは俊寛かと招き合い、歩み寄り、友なう人と言っては明けても康頼、暮れても少将、三人の外はないのだが、どうして訪れが絶え、自分は山田を守る案山子ではないのだが世に飽いた僧都の身が悲しいと手を取り交わしてお泣きなさる。 かこちは道理、さりながら、康頼はこの嶋に熊野三所を勧請して日参に暇なし。 三人の友ないもこの頃四人になったとは、僧都はいまだ御存知なかったか。 何、四人になったとは、さては又流人ばしがあってのことか。いや、そうではない。少将殿こそ優しき海士(あま)との恋に結ばれて、妻をもうけ給いし。と言うより僧都は莞爾(かんじ、にこにこ)として珍しい、珍しい、配所での三歳が間人の上にも我が上にも、恋と言う字の聞き始め笑い顔も此れ始め、殊更海士人の恋とは大職冠行平も磯に見る目の汐馴れ衣、濡れ始めは何と何。俊寛も古郷にあづまやと言う女房が明け暮れに思い慕えば、夫婦の仲も恋と同然。 語るも恋、聞くも恋。聞きたし、聞きたし、語り給えとせめられて、顔を赤めた丹波の少将。三人は互いに身の上を包むのではないけれども、数ならぬ海士の茶船(上荷船)を押し出して(表立てて)恋と申すのも恥ずかしいことで、なう、かかる辺国波嶋(へんごくはとう)まで誰が踏み分けし恋の道。あの桐嶋の漁夫の娘、千鳥と言う女、世のいとなみの塩衣、汲むのも焼くのもまだ濵のわざ、そりゃ時ぞと言う、夕波に可哀そうに女の身で丸裸、腰に受け桶、手には鎌、千尋の底の波間を分けて海松(みるめ)を刈る。若布(わかめ)粗布(あらめ)あられもない裸身に鱧(はも)がぬらつく、ぼらがこそぐる、がざみ(カニの一種か)がつめる。餌かと思って小鯛が乳に喰いつくやら、腰の一重布が波にひたれて肌(はだえ)も見え透く。壺かと思って蛸めが臍を伺いねらう。 浮きぬ沈みぬ、浮世渡、人魚が泳ぐのもかくたらんと、潮干に成れば洲崎の砂の腰だけ埋まり、踵(きびす)には蛤を踏み、太股に赤貝(女陰の暗示)を挟み、指で鮑を起こせば、爪は掻く牡蠣貝ばいの蓋、海士の逆手を打ち休み、柘植(つげ)の小櫛を取る間もなく、栄螺(さざえ)の尻のぐるぐるわげも縁あって夫婦となった身には美しい髪を巻いた美女と見える。 かかる嶋にもいつの間にか結びの神の影向(ようごう)か、馴れ初め馴れて今は埴生の夫婦住み。夫を思う真実の情が深く、哀れを知り、木の葉を集め縫い綴る、針手きき(裁縫上手)、さ夜の寝覚めは汐じむ肌に引き寄せて声こそは薩摩訛、世に睦まじい睦言、うらが様なめら(わたしの様な女)は歌連歌にある都人は夢にさえ見やしめすまい。縁があればこそ抱いて寝て、むぞうか者(可愛い者)とも思しゃってたもりやすと思えば、胸つぶしゅう(胸がつぶれるような有難さ)ほやほやしやりめす(嬉しい思いが致しますよ)。 親もない身、大事のせな(夫)の友達、康頼様は兄丈、俊寛様は爺様と拝みたい。娘よ、妹よ、とせよかせろと(こうしろああしろと)ぎゃってりん(仰って)にょがってくれめかし(可愛がって下さいませんか)と、ほろりと泣いた可愛さ。 都人がござんすより、りんにょぎゃァってくれめせすが身に沁みますと語るのですよ。 僧都は聞き入って感に堪え、さてさて、面白うと哀れで、だてで(一風変わっている、洒落ている)殊勝で、可愛い恋じゃわい。 先ずは、その君に見参、いざ庵に参ろうか。いや、則ちあれまで同道。 千鳥、千鳥と呼ばわれて、あい、と答えて蘆を掻き分け、竹の栃(おうこ、天秤棒)にめさし籠(目を塞ぐように細かく編んだ籠の意か)をかたげた振りも小じを(しおらしい)らしげな見めがよければ身に着たつづれ(襤褸・ぼろ)も綾羅錦繍を恥じぬ姿は美しい着物。何故に海士と生まれたのか。僧都も会釈の挨拶。 やさしい噂を承って甘心(満足)、康頼は疾く対面とな。俊寛は今日が始め。親と頼みとや。この三人は親類も同然、別して今日からは親子の約束、我が娘とあわれ、御免を蒙って四人連れて都入り、丹波の少将成経の北の御方と緋の袴着るを待つばかり。 ええ、口惜しい、岩を穿ち土を掘っても一滴の酒は無し、盃も無し。目出度いと言う詞が三々九度じゃと言いければ、はあ、この賤しい海士(あま)の身で緋の袴とはおや罰かぶること、都人と縁を結ぶことが身の大慶、七百年生きる仙人の酒とは菊水(中国河南内郷県の西北五十里の河)の流れ、それを象り筒に詰めたもこの嶋の山水、酒ぞと思う心が酒、この鮑貝の御盃を頂き、今日からはいよいよ親と子よ。 てて様よ、娘よと、むぞうか(可愛い)者とりんにょぎゃァってくれめせ(可愛がってください)と言えば各々打ち笑い、げに尤も聞く、菊の酒宴、あわびは瑠璃の玉の盃、さしつさされつ飲め歌え、三人四人が身の上を言う、それはないが硫黄の嶋も蓬莱の嶋に譬えて汲めども尽きぬ泉の酒だと楽しんだのだ。 康頼が沖をきっと見て、。はああ、漁船とも思えぬ大船が漕いで来るのは心得ず。 あれよ、あれよと言う内に、程なく着岸、京家(きょうけ、公家に仕える)の武士の印を立て、汐の干潟に船を繋がせて、両使が汀に上がって、松蔭に床几を立てさせ、流人丹波の少将、平判官康頼やおわす。と、高らかに呼ばわる声、夢ともわかず、丹波の少将はこれに候、俊寛・康頼候と我先にとふためき走り二人が前にはっはっと手を突き、頭(づ)を下げてうずくまる。 瀬尾太郎が首に掛けた赦し文を取り出し、是々、赦免の趣、拝聴あれと押し開き、中宮御産の御祈りにより非常(普通ではない、特別)の大赦が行われる。 鬼界が嶋の流人、丹波の少将成経、平判官康頼、二人赦免ある所、急ぎ帰洛せしむべきことは件の如し。と、読みも終わらずに二人ははっとひれ伏せば、なう、俊寛は何とて読み落とし給うぞ。 やあ、瀬尾程の者に読み落とせしとは慮外至極、二人の外に名前があるか、是見よと指し出だした。少将判官諸共に、これは不思議と読み返し繰り返して、もしやと禮紙(らいし、包み紙)を尋ねても僧都とも俊寛とも書いた文字があるどころか、入道殿の物忘れか、そも筆者の誤りか。 同じ罪、同じ配所、非常も同じ大赦の、二人は赦されて我独り誓いの網に漏れ果てし。 菩薩の大慈大悲にも分け隔てが有りけるか。特に捨身して死したならば、この悲しみはあるまじき。もしや、もしやと長らえて浅ましの命や、と声を惜しまずに泣きなさる。 丹左衛門が懐中の一通を取り出して、疾く申しきかせるべきであったが、小松殿の仁心、骨髄に知らせん為に暫く控えたのだ。是、聞かれよと声を上げて、何々鬼界が嶋の流人・俊寛僧都、小松の内府重盛公の憐愍(れんみん、憐れみ)により、備前の国まで帰参すべきとの条、能登の守教経が承って件の如し。、 何、三人共の御赦しか、中々(左様である)、はあはあ、はあと俊寛は真砂に額を摺り入れ摺り入れ三拝なして嬉し泣き。 少将夫婦、平判官夢ではないか、誠かと、踊っつ舞うつの悦びは、猛火に焦げた餓鬼道の仏の甘露に潤いて、如清涼地(極楽浄土)のようだと謳いしもかくやと思いやられたる。
2025年10月01日
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さあ、お盃の相手、それ御銚子、御肴、但、御寝間の新枕かと生首を膝。元に押しやれば、さすがの入道、顔をしかめ、身を縮めて、はっあ、今日は安芸の厳島の御縁日、精進を忘れた、教経、明日明日と座を立ち給うのを、これは胴慾(むごい、情けない)、あづまやの思惑余り不興と留める折から、御門をはたはたと閉める音、遠侍(主殿から遠く離れ、中門の際などに設けた番所)が騒ぎ達、俊寛の召使・有王丸と名乗り、十八九の暴れ者、清盛公に直見参と御所中を切り散らし、御座危うく候と追々の言上に、いよいよ動顛、能登殿・甥御頼み入ると伯父は老耄(ろうもう、老いぼれ)廃忘(ものが分からずに、狼狽える)と言い捨てて奥に入りなされた。 荒れに荒れたる有王丸、当番の詰め侍(勤務中の侍)、放免(ほうめん)の役(警備の役をする下部)、武者所(院の御所の警備をする武士の詰め所)、牛に蝱(あぶ)がつく如くに寄れば蹴散らし、すがれば払い、大床(おおゆか、母屋の外側の細長い室、広庇)に立って大音上げ、清盛相国は主人の俊寛の妻の首と婚礼がある由、たった今聞いた。 嫁入り御寮は首ばかり、聟殿に胴があっては片(へん)ちぐて似合わない女夫(めおと)、入道の銅を切って入滅(にゅうめつ、死ぬこと)の仲人、よい所に有王丸聟殿に見参と、八方に眼を配り振り散らす。前髪は時雨の雲に風あれて墓山(ぼさん、日暮れの山)を廻る勢である。 下司の次郎友方、丁稚(侮蔑の語)めやらぬと縋り付くのを頸筋を掴んでぐっと引き寄せ、文覚法師が張り和らげたる頭、手間は要らないと刀の柄にてはったと打てば、柘榴(ざくろ)を割った如くで抱えてほうぼう逃げてけり。 近寄っては叶わないと難波・瀬尾が無分別、巻ろくろ(綱を巻いて物を引いたり、吊るしたりする滑車)の大綱を両方に四五間引っ張って巻いて取ろうとひしめい(押し合い騒ぐ)たり。はああ、子供遊びの綱引きか、悪あがきをする餓鬼らめ、是を見よと片足を上げて、やあうん、と気を込んで(気合をこめて)荢物(まもの、麻を綯った綱)をふっつと踏み切れば、瀬尾は武士の疵ならぬ木津、難波は西瓜(すいか)をまろばす如くにて、ころころころび、うったりける。 この上は能登鯖をひと口食うまで、能登殿、能登殿と、駆け入る所を菊王丸が飛んで出て、どっこい慮外な能登よばり、旦那では手に足りぬ。わっぱの菊王、さあ、来いと、四つ手にむんずと取り組んだ。両方年は十八ささぎ、力は藤こぶ藤つるの、捩じ合いひしめ合い、絡みあう。 有王の大髻(たぶさ)を菊王が大唐輪(髻・もとどりから上を二つに分け、頂の上に二つの大きな輪を作った髪。大きな唐子わげ、少年の髪の結い方)、乱しかけ、ふりかけ、下手上手に押し合って勝負は互角と見えたる所に、やあやあ、過ちすな菊王、汝らが手には叶わない。と、引き退けて教経が一ひしぎと組みつき給えば、望むところと有王が腕からみに差し込んで、一押しぐっと、こりゃ、こりゃ、こりゃ、捩付ける大力にさしもの能登殿も、よろ、よろ、よろ、や、前髪めに負けてたまるか、と踏み直せば、はたと突き、ええ、口惜しと取り付けば振りほどき、組めば捻じ曲げ引き廻されて、平家一番の大力と音に聞こえた能登の守、大腰(おおこし、相撲の手か、おおきく腰を入れて投げる手か)に地響きうたせ尻居(尻もち)にどうと投げ据えたり。 有王めには教経もかなわない。一人も出で合うな。手並みは見えた。おのれも帰えれと宣えば、生きて帰るも命無し。入道と刺し違えようと駆け入る所を、立ち上がり、上帯を掴んで、狼狽えたか若者、おのれら五人や十人は教経が片腕にもならないが、情けの負けと知らないか。 鬼界が嶋に流人の主を持ちながら、犬死するか戯け者、誠の力これを見よと片手に掴んで車寄せの築地越しに投げ越す力、風を持ち、桐のひと葉がふうわふわ、ひらひらひらりと降り立って、恩を感じる感涙・落涙、いわべは色だつ敵と敵、睨むも徳に入るの門、六波羅の大手門、惣門・楼門・冠木門(かぶきもん)、扉は金石鉄壁の透間の風も通さないが、触らないで通れるのも弓矢の情、。助けるも道、殺すも道。 さもあればあれ、帰れ、有王、お暇申すと礼儀は身の上、残る恨みは主君の上、拳を握り牙を噛みしどろ足にて帰る波、 内には義理を立てる波の、音に聞こえ名に聞いた能登殿の弓勢、学ばずして学問力も有王丸、引かれて名をば遺したのだ。 第 二 我が門(かど)に千尋(ちひろ)有る陰と詠じたのも平家に繁る園の竹、入道相国の御娘中宮がお産の当たり月、お産所は六波羅の池殿で、兼ねての御祈祷御室(おむろ)・東寺・天台座主を始め御願寺十六か寺、伊勢・住吉・加茂・厳島など七十余ヶ所の御奉幣。七にも能登の守教経は石清水御代参に駒を速めて下向ある。 鳥羽の作り道(京都市南区と南区にまたがる鴨川の両岸)を、丹左衛門の尉基康(もとやす)、瀬尾の太郎兼康、雑式・供人相具して旅立ちにて、参り会い、われわれは中宮の御産に当たり月に様々な御願につき、今日、獄屋を開き罪科人共を残らず御免、これによって鬼界が嶋の流人をも召し返される赦し文の御使い、両人が承り候ぞと申しける。 能登殿やがて降り立ち給い、むむ、流人の赦免とは尤もの善根(ぜんごん、よい報いが得られる行為)、しからば勿論、俊寛僧都、丹波の少将成経・平判官康頼、三人共の御赦免であろうずるな、と宣えば、いや、御赦し文の名付けは丹波の少将と平判官の二人だけ。 瞬間については殊に憎しみが深く、一人嶋に残し捨てよとの御諚(ごじょう、仰せ)と聞きもあえず、さてこそさてこそ、これにつけても小松殿は三世(過去・現在・未来。此処は未来の意味)を見抜く末代の賢人、入道殿に慈悲心がなく、意地が強い気質を今病中にも一つの悔やみ、鬼界が嶋の流人共の赦免の時に、俊寛に就いては憎しみが深く残されることが有っても、一門は是非とも諫め申せ。 重盛ひとりが言うのではない、忝くも鳥羽の法皇はかねがねの御嘆き、これかれ院宣と思い一人も嶋に残すな。それにも入道殿が承引がないならば、一門の心得で中国・備前の辺まで呼びのぼせ、時節を見よ。我が死後までの遺言である、思い忘れるな。と、かく言う教経一門残らず病床に呼び集めての詞、一門は皆忘れてしまったのか、それとも覚えていても守らないのか。 ええ、言い甲斐のない者どもかな。いやいや、人はともあれ、この教経は小松殿の詞を仇にはしない。入道殿に申す間、両人しばらくこれにて待て。と、馬を引き寄せて乗らんとし給えば、瀬尾の太郎がつっと寄り、ああ、申し、申し、いわれのない御取り持ち、痩せ坊主を一人助けたとしても定業(じょうごう、前の世から決まっている悪行の報い)の御難産が變成男子(へんせいないし、女子が男子に生まれ変わること)の御平産も候まじ。 惣じて俊寛は当家が御取立ての身にて恩知らずの畜生、女房のあづまやが御馳走答拝(ごちそうたっぱい、丁寧な持成し)請けながら御心に従わず、慮外の自害、第一に家来の有王と言う小倅が御所に斬り入る狼藉者・推参者、かかる不当の俊寛を召し返し、あた(あだ)を求められんは狼の子飼いするも同然、今をも知らぬ大病の小松殿はお詞が立たぬとて何の咎めも無き事と、申す内から能登殿は気色を損じ、黙れ、瀬尾、詞が多い。 汝が様なる不実者に、問答無益(もんどうむやく)、所詮俊寛が赦し文は教経が書いて渡そう。硯・料紙との給えば、いや、申し、我等は少将・平判官の二人を御赦しに入道相国公の御使い、外の義は存ぜず。急ぎの公用、お暇とずんど立てば、丹左衛門が引き留めて、これこれ、御辺ばかりが御使いか。両人で承る上は万端相談、入懇(じゆこん、しんみつにすること)も有るべき所いかめしげに先走り、独り抜きん出何とする。 何事も御産安穏の為ならずや。祈誓も立願(りゅうがん)も慈悲心なくて叶うべきか。別紙に俊寛の赦し文を持参して、使いの落ち度になるとしても御辺に科はかけまい。この丹左衛門基康が腹切るまでと申す詞に一ッ致して、俊寛の赦し文、能登の守教経と在判して渡された。 丹左衛門は重ねて、赦免状は済み候えども海上改めの関所・関所の通り切っ手、鬼界が嶋の流人ただ二人とだけ書かれたり。これぞ難儀と出だせば、取って披見あり。 おお、これぞ猶安心だ。二の字の上に能登の守が一点加えて流人三人、関所は異義なく通すべきなりと読み挙げて、渡し給えば、丹左衛門が請け取り、この上も無き善根、関所も易々、お産も安々、瑞相よき門出、いざ、立たれよ兼安と、言えども瀬尾はしぶしぶ顔。女童がするように慈悲善根なんどで子が生まれる程ならば、世に難産はあるまい。産の道は離れ物(普通と違う特殊な物)この上に中宮の御身に怪我でもあった際には能登の守教経と申す弓取りに愚痴文盲(おろか)の名が流れるだろう。笑止、笑止と舌も引かないのに、六波羅から早使、中宮平産、王子御誕生、赦し文の御使喜んで急がれよ。と、呼ばわる声に、瀬尾の太郎がむっと顔、これ瀬尾、女童がするような慈悲善根の奇特、あれ、聞きたるか、教経が文盲の名を流すかとの気遣い、汝等は智慧が有って人の上にまで気遣い。大儀、大儀、 さりながら智恵も余りに働けば、後にはその知恵も落ちて、つれて首も落ちるもの。用心して道を急げと詞も胸にはっしと当たる。 小松殿の大悲の弓、能登殿の義信の矢、海山を越えて末遠い筑紫の空や、もとよりもこの嶋は鬼界が嶋と聞くなれば鬼の有る所にて今生よりの冥途なり。 たとい如何なる鬼であってもこの哀れをどうして分からないであろうか。この嶋の鳥獣も鳴くのは我を問い慰めるつもりであろう。昔を語り忍にも、都に似たる物とては空に月日の影だけであるよ。
2025年09月29日
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往来の群衆は目をそばめ、恐ろしや、もったいなや、と皆が手を合わせる所に、六波羅からの早使い下司(げし、下役人)の次郎友方(ともかた)が鞭に鐙を合わせて駆け来った。 難波・瀬尾に述べたのは、常盤御前から義朝の髑髏を申し請け、持仏堂に安置して経を読み、回向して弔いたしとの願い、叶えられては又、新参の俊寛の妻、あづまやが何事をか望まんに、叶えられなくては逆恨みするやも、所詮はこの白首(しゃれこうべの事は面倒が尽きない。打ち砕いて鴨川に流して捨てよと御一門一統の仰せである。いで、計らい申さんと脚立を踏んで伸び上がればば、あら、不思議や、大仏の鼻から大手が伸びてきて、下司の頭をむんずと掴み、大仏の御頭の中から声が有って、義朝のどくろより己が頭(こうべ)を張り砕かんと、握り固めた金拳が鉢も割れよとばかりに二三十回、脳も烏帽子も打ち裂かれて眼(まなこ)も眩み、これ、死にます、死にます、お助け下さいと吠えるのも構わずに、前にかっぱと衝き伏せ、その手を伸ばして白首(しゃれこうべ)を掴んで御頭の中に引き入れたのは、再び此処に羅生門、茨木童子の腕骨にて、相手は綱には似ていないのだ。難波と瀬尾は肝を消し、今度の兵火(ひょうか)に焼け落ちたこの中に、狸野干(やかん、きつね)も住むべき様はない。 黄金が混じった金仏、金の精と覚えたり。ついでに御頭(みくし)、も打ちひしぎ、鋳潰して公用に達せん、それそれと荒し子(雑兵)仲間が立ち帰って、大鎚・大杵・金梃なんどで、ごうごう、いわんくわんと、百千の鉦・釣り鐘が河瀬に響き、さざ波が立ち木草もゆるぐばかりである。 その時に当たり、裳なし(腰から上だけの)衣に種子袈裟(輪けさ)掛けて六尺豊かな大坊主が御首(みくし)の中から躍り出でて、鎚も杵も踏み散らし、蹴散らして、やあ、喧しいぞ、うんざい(侮蔑語、有財餓鬼の略)共、音にも聞くらん、高尾の文覚と言う源氏の腰押し(後ろから力を添えること、又、その人)、この白首はもと我が物、取り返しただけだ。仏の頭を踏み荒らした罰は平家利生は源氏、清盛に先ずこう抜かせと、立ち出でたのだ。 それ、盗人坊主、難波・瀬尾を知らぬか。足ものかさじと大勢でどっと取り巻いたのだ。 やれ、事々しいぞ。那智の滝に千日打たれ、龍神と相撲を取り、愛宕高尾の大天狗と腕押しをした坊主だ。手並みを見よと、獄門柱、えいと引き抜き、振り回し、河原の院の古道から長講堂の裏筋を追っかけ、追い込み、殴りたてれば眉間真向、腰骨膝骨を打ちみしゃがれ(砕かれて)て辺りに近づく雑兵はいない。 やあ、口ほどにもない難波・瀬尾、頭はられて堪忍するか、下司の次郎折り合え、出合えと、馬の尾で柄を巻いた九寸五分、寄るならば突こうとする頬魂(つらだましい)、恐れて近づく者もない。 さもあらん、うぬらが主の清盛は国土を悩ます大悪魔、この文覚は悪魔降伏国土安穏を祈る、大行者を苦しめる悪逆、遠くは三年近くて三月に思い知らせようぞ。 この身は即ち不動明王、南莫三曼多縛曰羅赧(なまくさばんだばさらだ)、戦奴の下に手摩訶路さんずいの麗奴の下に手薩破吨也吽但羅(せんだまかろしゃなそはたやうんたら)、あんだら(侮蔑語、馬鹿者)共と、どって笑って立ち帰る。勇猛力ぞ春風も、庭は踊りの秋の露。さっさ、ふれふれ振るや小褄はいとしえ、えいえいえい、えいえい、縁に引かれる柳の糸の雪に折れぬも風には靡く、竹は恋しき幾夜もなびく、靡きくるくる栗栖野(くるすの、もと山城の国愛宕・現在京都市北区にも宇治郡・現在同東山区にあった萩の名所)の萩、野分の薄、尾花が靡いてやっちゃりな。やっちゃりな、ちりり、ちぢみ髪も油とろとろ、櫛の歯になびく、たんたん丹波の酒天童子(しゅてんどうじ、源の頼光と四天王が退治した鬼、酒を好んだ)も、さあえ、さすぞ盃、のめさ酔えさ、酔うた紛れにな、君と寝てさ、歌い踊って上臈達は局の縁に腰を打ちかけて、もうし、あづまや様是見さしゃんせ、、時ならぬ踊りも御奉公、入道様の仰せ、随分お心慰め、お盃の相手、御寝間の添い寝も遊ばすように致せとて、あれ、あの亭(ちん)に御座なさるる。 いざ、気を浮かして我々が、躍りにつれ、御前にお出てさあ踊りとざわめけば、ああ、いやいや、みづからを諫めの踊り、笑うのではないけれども、世に在りし昔は妓(まいこ)踊り子、腰元混じり様々な変わり踊り、ややこ(少女)踊り、木曾踊り、小町踊り、伊勢踊り、見せたいものは都踊りの抜き拍子(所々、拍子を抜いた曲、変奏曲か)、むむ、見たい見たい、いざ一踊り、所望、所望と浮かされて、恥ずかしながらこうした振りに若衆の出で立ちの目せき笠(目の細かい編み笠)金鍔かいらぎ(黄金の鍔・つばをはめた、粒状の突起のある鮫皮で柄を巻いた刀)、かんぬき指(閂のように水平に横たえてさすこと)でたんだふれふれ、千代の松坂越えて、松は千歳の色ながら、惜しや小松は雪折れて、老い木枯れせぬ六波羅踊りが所望だが合点か。 平家、平家と千種(ちくさ)も靡く、さてはゐよいか住みよいか、ゐよも住みようも慈悲も情けもしゃんとしょ、我は身一つ泣き暮らす。 踊り人(と)が見たくは昔に返せ。世の中對の浴衣をしゃんと着た踊り振りが床しい。 吉野初瀬の花よりも紅葉よりも恋しき夫が見たい物、うたての踊りやな。情には人々鬼界が嶋に流され、夫(つま)諸共住むように申してたべとばかりにて、かっぱと臥して泣き給えば、踊り子の上臈達はげにことわり、痛わしと皆々袖を絞られる。 踊りの声が聞こえたのか、亭の内から越中の次郎兵衛盛次(もりつぐ)が御使いとして局に入り、なう、あづまや殿、この間御一門衆が入れ替わり立ち代わり、様々に仰せられるのにも承引がないのも尤もではあるが、御身とて岩木ではない。今日本にて西を東との給いなされても背く者がいない入道殿だ。恋なればこそ我々まで頼み、時世につくのも一つの道、且は身の果報。常盤御前の幸せがよい証拠、女たる身の望む所とは思わないか。 さあさあ、良い返事をと擦り寄れば身をしさり、ええ、主人たちから内衆(内に仕える人々)まで人らしい人はない。常盤御前の幸せとは武士の口からは聞きたくない。夫義朝の白首まで踏み叩く敵の手掛け妾となる様な助平の徒者とこのあづまを較べられるのも口惜しい。 八重の潮路の鬼界が嶋、雨露もしのぎかね餓鬼同然に成り果てた殿御を愛し、恋しや、会いたやと思う外に望みはない。身の果報を何にしよう。何も聞かぬ、聞きともない。と、両手で耳を塞ぎもののふの情けで泣かせてくれるなと、わっとばかりにうつ伏して沈み入りたる有様に、盛次も詞はなく、すごすごと奥に入ったので、ひっ続いて斎藤別当實盛(さねもり)がしらが髭を喰いそらして、我等六十に余り色気を離れて奥方女中を預かる實盛と言う者、御寝間の勤めはともかくも御前にちょっと出る分には差支えはないであろう。自分は年寄りで悪い事は申さない。と、言いも切らせずに、ああ、諄(くど)や、諄や。 昨日も来て同じことくどくどと長口上、聞き入れる耳は持たないと、愛想がないので、手持ちが悪く、拙者の生国は越前、近年御領につけられ武蔵の長井に有りし故にそれで長居は御免あれと紛らかしてぞ入りにける。 胸に迫れば声に出て、恨めしの世の中や。召人(めしうど)となるくらいならば手枷・足枷、牢獄屋にも入れられず、情け交じりの憂き目を見る。水責め・火責めの苦しみも、心の辛さは劣るまい。この上にお使いが立つならば、何と返事も詮方なし。 なう、上臈達、我が内には有王丸とて音に聞こえる大力の若者がいる。もしも忍んで尋ねて来るならば今生後生の御情け、密かにそっと知らせてたべ、有王を頼りにこの地獄を逃れたい。有王がな、来たれかし。有王は来ないかと立っては口説き、居ては歎きの折に、綿殿に足音がして能登の守教経(のりつね)がわっぱ(童)の菊王を伴ってつっと入り、俊寛が妻あづまやとは汝のことであるか。某などは朝敵退治の大将か、その外天下の大事でなくてはおあようの大人げない小節(しょうせつ、小さなこと)に詞を加える能登の守ではないけれども、入道殿の仰せは某とても背かれず、先ず入道殿を誰と思うのか。 一門の棟梁、国家の固め、如何なる非道をの給うても汝ら風情が利を利に立てさせ清盛入道が利を曲げて天下の仕置き立つべきか。 さりながら、おことが女の操を守って二張の弓を引くまじとは、弓取りの義にも劣らない魂に感じ入る。匹夫疋婦(どのような賤しい者)もその志を奪わずと言えり。尸(かばね)の上にまでは恥辱なし、貞女の道は能登の守が立ててとらそう。又、おことは一旦入道殿の御詞、きっと(確かに)立つべき御返事、さあ、ただ今、と道理正しき言葉の末、涙にかきくれ手を合わせ、ああ、有り難し 平家の中にも小松殿か、能登殿かと一二と言って三がない、文武二道の御大将、数ならぬ下衆女、に道を立ててとらそうとの海山の御恩徳、夫の名をも穢さず生きての本望、死しての誉、いぜみずからも清盛公のお詞の立つお返事をと、懐の守り刀するりと抜いて肝先に、ぐっと突き立てひとくり刳って、申し教経(のりつね)様、あづまやが死ねば平家の御意を背くもの、この世にない。御意を背く者がなければ入道殿のお詞は立ったぞや。 お詞を立てるのはこのあづまや、あづまやが道を立てて下さんすは教経様、御恩は忘れません。ああ、忝いとこれを最後に息絶え果てたり。 驚き騒ぐ女房達を突きのけ、押し除け、出かいた女、と首を打ち落とし、おれ菊王、この骸(からだ)は門外に捨て置け。と、髻(たぶさ)を掴んで首を引っ提げ、御前まぢかの欄干に謹んで、御心を懸けられしあづまや、教経が口説き落として連れ参ると、申し上げましたが、御望み叶い候。急ぎ御酒宴、御酒宴と呼ばわり給えば、入道殿、障子も暖簾も引き除けほやほや笑顔、つれなきあづまやを靡かせて来たとや。 能登の守は弓矢、打ち物ばかりか恋の仲立ちにも名将、高名高名、早く逢いたい。彼の君はいずくにぞ。 即ち、此処に候と袖の下から生首を御膝下に、指し置けば、入道、くぁっと顔色が変わり、やあ、腹立ちや、倅(小僧、若造)め。首を切れとは誰が言った。年寄って色に耽ると嘲ったる仕方、親同然の伯父に向かって緩怠至極(無礼至極、不届き千万)、返答せい能登の守、言い訳せよ教経。と、日頃の短気増長して、攫みつかんづる荒気にもちっとも恐れず、これは近頃御無理千万、もとこの女の心立て善し悪しは御存知なく面体美しく顔良き色を恋焦がれ給う故、その顔ばせを御手に入れし教経に御感はなくて御立腹は無体千万、かれは法王の御謀反に組して当家を亡ぼし、一門の首を取らんとした俊寛の妻、折がな時がな、夫の冦(あた)と心に剣を含んだる女、御寝間近くの寵愛は鴆毒(ちんどく、中国南方に住む鴆と言う鳥の毒)に砂糖・甘蔓(あまづら)をつけて唇に寄せて味わうが如く。命がけの戯れ、大将たる身のせざる所、申すに及ばず、御存知の上でとかくお心をおかけなされたと、あづまやの目鼻口以外はもとより要らぬと存じて口説き仰せ、顔ばかりを連れて参りました。
2025年09月25日
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平家 女護 嶋 籠(こ)の内の鸚鵡は檻(おばしま)に従って振り仰ぎ、牗(まど)を伺って踟蹰(はづくひ、羽つくろい)する。 紺の足、丹き嘴、緑の衣、翠(みど)りの衿、金精の妙質・火徳(かとす)の明輝、弁財聰明にしてて、よく物言う霊鳥、いかんぞ時のさかしきにあう。 放たれたる臣、捨てられたる妻妻、懐(おもい)をここに同じくする。 平の朝臣清盛入道相國(しょうこく、大臣。清盛は太政大臣である)の四海におおう驕慢の網には漏れる方もなし。 家に爭う子なければ、家正しからずとかや。小松の内府(だいふ、清盛の長子、内大臣重盛)は所労により致仕(ちじ)なされて、教訓も怠れば驕奢(きょうしゃ)暴虐は心の儘、第九の姫君は高倉の帝の中宮(皇后)であって、殊にこの頃は御懐妊の御悦び、執柄(しっぺい、摂政・関白)花族(かぞく、太政大臣と成り得る貴族。清華)の公卿(こうけい)も平家に諂う御進物、或いは馬・太刀・巻絹・織物、綺羅(きら、美しい衣類)みちみちて殿中は花の如く、門前に市をなして万寶は一つとして闕けてはいないので、禁中も仙洞も此れには過ぎないだろうと思われる。 ここに子息、三位の中将重衡は南都での戦に勝利して、奈良の都の八重桜、今日九重の梅が香と鎧の袖に勝つ色を見せて、御前に畏まり、去る二十八日、轉害(天街)般若坂の柵逆茂木を押し破り興福寺・東大寺・諸伽藍を残らずに放火せしめ、奈良法師の首を七百余、猿沢の池に斬りかけ、大将分の首五十余級、並びに大仏の頭が焼け落ちたのを、衆徒の首と共に積んで開陣(凱旋)仕る。 外に生け捕り一人、急ぎ実検有って生捕りの罪、御沙汰あるべきものぞと述べられた。 入道相国は笑壺に入り、悪法師共め、源氏に心を寄せて、當家に敵對、我が威光に恐れぬは仏を甲に着る故、悪徒の調本の大仏の首をも獲ったのは手柄、手柄、さてまた源氏に肩入れの大悪僧、文覚法師が南都に隠れ住むと聞いているが、生捕りは文覚かそれへ引けとの給えば、重衡し去って弓袋(ゆぶくろ)から白骨(されこうべ)一つを取り出して、これは源氏の大将古佐馬の頭義朝(よしとも)の髑髏(どくろ)、かの文覚が東大寺の二階に壇を構え、源の義朝公と書きしるし、本尊に立て平家調伏の行方法まぎれなき所、四方を包んで攻めすくめ候えども、ただ者ならぬ文覚は太刀・刀・燃える火をも事とせず、焔を潜って落ち失せし所の白首(されこうべ)、奪い取り候と聞くよりつっと立ち、歯噛みをなして、ええ、憎や、憎や。この禅門(仏門に入った男)を亡ぼさんとせし義朝、白首(されこうべ)となっても再び足下に来る。 入道の威勢を思い知れと、髑髏も砕け、檜扇も折れるばかりに丁々ちゃうど打っては小躍り、はたと蹴散らし、がはと踏み、一門の人々これを見よ、二度の朝敵を討ったりと殿中に響く高笑い。忿りよりなお冷(すさ)まじい。 さて、生捕りとは何者、面を見ようと御諚の中、縄め血走る弱腕(よわかいな)指まで同じ紅鹿子(べにかのこ)も奥様じみて面窶れ、三十ばかりの乱し髪、盛りを過ぎたる妖桃(ようとう、美しい桃のような美人)で春を痛める姿にて引かれて出て来た百(もも)の媚、列座の一門が目を動かして烏帽子がひらひらと閃けば、入道も気を取られ、奥歯・前歯が疎らな大口をくわっと開けてとろとろと見惚れていらっしゃる。 重衡が進み出て、この女は鬼界が嶋の流人、俊寛僧都の妻あづまやと申す者、南都法華寺の尼寺に隠れ住み、平家に敵対、小長刀を以て某の陣を伺いしを搦めとり候。 と、披露も全部聞かずに、むむ、色良き花は匂いも深い。みめがよければ心も優しくけなげであろう。俊寛法師は尊げもない妻帯坊主であるが、二万石の寺領を与え、僧都にして崇敬(そうきょう、尊敬)した。 清盛の恩を忘れて、法王の謀反に組したる罪科、女房に罪はない。それ故に當家に一旦の恨みは殊勝、殊勝、向後(きょうこう、今後)は我に宮仕えせよ。年寄りし禅門の起き伏しの撫でさすり、介抱に預からん。それ、縄を解け。と、の給えば、瀬尾太郎兼康(せおたろうかねやす)が縄を解こうと取りつく腕元、ずんと立ってはたと踏み、慮外なり青侍、院の昇殿を許された法性寺の執行(しゅぎょう、寺務を総理する僧職)俊寛僧都の妻、軍の習い雑兵にも搦め取られたのは是非もなし。我が夫と膝を組し(対等に交際した)平家の前、ひかれるのさえ口惜しいのに、このあづまやが身におのれらが手を触れさせようか。 羽根があれば空をも飛び、夫(つま)諸共と思う身を、命助かり宮仕えをせょとは清盛公、ええ、昔の世が世であるならばかかる無念は聞かずに済んだ物を。神仏の罰、利生も人によるか入道殿とはったと睨む目に涙。包み兼ねてぞ見えにける。 いや、入道を情け知らずとは料簡違い。この白骨の義朝が妻・常盤が我に甘える不憫さ、牛若などという子供を助け置いたのは何と、俊寛を嶋から戻すか戻さないかは、おことが心に有るべきこと。それ、局々の女共、あづまやが縄を解き、随分といたわり馳走して、酒宴・音楽・舞躍り、望むことして慰めよ。禅門が秘蔵の客人だ、もてなせ、もてなせとの給えば、上中臈の女房達が手に手に縄も解き打ち解けた。 人々の取り成しで、夫の俊寛がもしや帰洛の種もやと、心に染まぬ軽薄な空頼みこそ割りなけれ。 梅や桜にも勝って散ることを知らぬ入道の閨の花、老後の眺め、寿命の薬、皆重衡の忠孝、手柄手柄、奈良法師の首にこの髑髏を添え、大仏の頭をも六条河原に獄門にかけ、難波・瀬尾が警護して見物群中が聞く前で首帳を読み立て、諸国にかがむ源氏共、聞き伝えにも脅しをくれ、平家の威勢を顯わせ。 もし奪わんと近づくか、胡散な奴ばらは切り捨てにせよ。 やっと長絹(ちょうけん、ひたたれに似た服)のそば(袴の股立ち)を引っ掴み、帳台(貴人の席で、床より一段高く、四隅に帳を垂らした台)に入り給う六十有余の老木櫻、我慢の色に咲き出た心の花や、春の水、六条河原に高垣を結い、廬舎那仏の御首(みくし)に義朝の髑髏を並べて中央に懸けければ、照る日の影も金色に五十余級の衆徒の首、光明に照らされて累々と連なった有様は梢に実のある仏前の按謨羅菓(あんもらか、印度、中国南部産の落葉喬木の果実)とも形容すべきもの。 洛中の貴賤が踝をつぎ、近国他国の老若男女が道を去りあえずに立ち集い、五天竺の堂塔を一日で滅却して、八万四千の僧尼を殺害した弗沙彌多羅(ほっしゃみたら)の悪逆を末世の身に見る事よ。 奈落の底には、刹利(せつり、印度の四つの階級の内の第二位、王族と軍人)も首陀(しゅだ、同前の四階級の最下位、農夫)も変わらぬもの。怖い、凄いの声々は巷に満ちて夥しい。 瀬尾の太郎兼安、入道相国の仰せによって首帳を高々とこそ読み上げた。第一の物始め、坂の四郎法師永覚、山科寺の大くら坊、かなこぶしの式部卿、これらは六宗に名を得ている悪僧、いくさ神の祭りとする。戒壇院の富樓那沙弥、詞戦いで悪口に寄せ手も口を喰いしばる。 西大寺の苦が口法眼、反魂坊、二月堂の荒若狭吉祥院のばらもん佐渡、南大門の貫の木日向釘抜き周防(すほう)、南円堂には八角目玉の眼光法師、伝法院の今韋駄天、今毘沙門、鉾を取っては並びなき名取の法師武者俱舎唯識維摩の學頭で、智慧が殊に優れているので、今文殊と字(あざな)している。 鎮守堂の鰐口、因幡ゐのしし、和泉とら禅師、これらは早業はやぶさの、飛鳥の影に先立って、風を追っかけ、嵐を追っ詰め、楯割り、石割り、岩切坊、發志院にはとんぼう返りの通明法師、矢くりの小聖・夜叉・新發意(しんぼち)、榎の木寺にはなた僧正、元興寺には鎌僧都、管槍(くだやり)中将熊手、快源黒不動、赤不動、十五大寺・七大寺の荒法師・悪法師、野ざれの首は源の義朝、金色の大頭は聖武天皇の御建立、逆徒の大将金銅の廬舎那仏、前仏が去って後仏を待つ首数、都合五十六級、七千万歳弥勒の世まで治まる平家の御代の大數(だいす)叶い畢んぬ。 従三位右近衛の中将、平の朝臣重衡がこれを討つとぞ読み挙げたのだ。
2025年09月22日
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第 五 泰山を脇挟んで、北海を越える事はあたわず。王の王たらざるはあたはざるにはあらずとかや。 延平王国性爺、兵を用いること掌に回すが如し。五十余城を屠(ほふ)り、武威は日々に盛んにして妻の女房を古郷より栴檀皇女を供し参らせて、九仙山から呉三桂と太子を御幸(ごこう)なし申せば十善天子の印綬をささげ永暦(えいりゃく)皇帝と号し奉り、龍馬(りゅうめ)が原に八町四方の木城(ぼくじょう)をからくみ(こしらえ、組み立て)、陣幕・外幕・錦の幕、陣屋の上には日本伊勢両宮の御祓い大麻(おおぬさ)を勧請して、太子を別殿に移し参らせ、その身は中央の床几にかかり、司馬将軍呉三桂・散騎将軍甘輝が同じく左右の床几に座し、韃靼大明分け目の勝負軍(いくさ)、評定様々である。 御三桂は團扇(だんせん)を取り直して、およそ謀は浅きより出でて深きに入るにしくはない。と、竹筒を一本取り出し、この筒に蜜を込めて山蜂を多く入れておいた。かくのごとく數千本拵え先手の雑兵に持たせ、立ち合いの軍をする躰で筒を棄てて逃げ退くならば、貪欲(とんよく)盛んな韃靼勢、食べ物と心得て拾い取るのは必定。 口を抜くと等しく数万の山蜂群がり出、賊兵を毒痛せしめ、漂う所を取って返し八方から討ち取るべし。 是をご覧候え、と口を抜けば数多(あまた)の蜂が鳴き羽ぶいてぞ出でにける。 賊兵は嘲笑い、浅はかなる童脅しの謀(はかりこと)、焼き捨てて恥をかかせよ。と、積み重ねて火をつけようとする。その時に筒の底に仕掛けたる放火の薬鳴り渡り、飛び散って、十町四方の軍兵(ぐんぴょう)に生き残る者は候まじと、火縄を筒にさしつけると同時に飛んだる乱火の仕掛け。げにもこうとぞ見えにける。 五常軍甘輝、果物を入れた花折(はなを飾りにつけた折籠)を一合取り出して、呉三桂の奇計は尤もで御座候、某(それがし)の謀、かくの如くに折り籠を二三千合も拵え、様々な菓子、食偏に向(かれいい、弁当の飯)・酒・肴をしたため、各これに鴆毒(ちんどく)を入れて陣屋近くに貯え並べ置いて陣所近くに敵を引き受けて、戦いに負けたる躰にして十里ばかり引き取るべし。 韃靼が例の長追い、勝ち誇って陣屋に入り込みこの食物に眼(まなこ)くれ、宝の山に入ったりと軍将・雑兵が我先にと掴み喰らわんとするのは必定。唇に触ると等しく片端から毒血(どくけつ)を吐き、刃に血塗らずして皆殺しにしてくれんと、面々に軍慮に心を砕き、評議とりどり、まちまちである。 国性爺は打ち頷いて、いづれも一理ある計略、批判するに及ばず。さりながら、国性爺が魂に徹して忘れ難いのは母親の最期の詞、韃靼王は汝らが母の敵、妻の敵と思いこんで本望をとげよ。気をたるませぬ、その為の自害なりとの言葉の末、骨に沁み、五臓に徹して刹那にも忘れることはない。 千変万化の謀も何かせん、ただ、無二無三に攻め入って韃靼王の李蹈天に馬を並べ寄せてむずと組み、寸々(ずたずた)に切り刻んで捨てなければ、たとえ国性爺が百千万の軍功があったとしても、君の忠も世の仁義も、母の為には不孝の罪と鏡の様なる両眼に涙をはらはらと流したので、呉三桂・甘輝を始め一座の上下諸共に、皆々袖をぞ濡らしける。 殊更に女の身でありながら、故郷を忘ぜず、生国を重んじ、最後まで日本の国の恥を思われた。我も同じく日本の産、生国は捨てまいと、あれ見給え、天照大神を勧請致した。 某、匹夫より出でて数々、所の城を攻め落とし、今諸侯王となって各々のかしづきに預かっている事は全く日本の神力によるものだ。しかれば竹林にて従えた嶋夷(外国人の蔑称)共を日本頭に作り置いて、彼らを真っ先に立て日本の加勢だと披露したならば、もとより日本は弓矢に長じ、武道鍛錬に隠れが無いので韃靼夷は聞きおぢして、二の足になる所を畳み寄せて乗っ取らんとこの頃我が女房と示し合わせた。 やあやあ、源の牛若、軍兵を卒して是へ、是へと團(うちわ)を挙げれば、あっと答えて立ち出でたる小むつの髪の初元結、諸軍勢の元服頭、そりたての月代が日本風の浅黄色(薄い藍色)で体には中国風の錦を着て、実に華やかな出立なのだ。 仮御殿の幔幕から姫宮が走り出で給い、なうなう、国性爺、この旗は御身の父一官の籏印、この書きつけも一官の筆、心もとなき文言と出だし給えば床几を下がって、読み挙げた。 我、なまじいに明朝先帝の朝恩を報(ほう)ぜんと二度この土に帰参して功なく、誉も無し。老後の余命いくばくの楽しみを期(ご)せん。今月今夜、南京の城に向かって討ち死にを遂げ、微名を和漢に留める者である。 鄭芝龍老一官、行年七十三歳と読みも終わらないうちに国性爺はすっくと立ち、さあ、敵に念が入って来たぞ。 母の敵に父の敵、知略も要らず軍法も何かせん。かた方はともかくも、身に迫るのは国性爺、只一人で南京の城に乗り込み、韃靼王の李滔天の首を捩じ切り、父の最期の場を変えずに討ち死にして、父母の冥途との籏を同道せん今生の御暇乞いと、飛んで出でれば両将が袖に縋って、ああ、曲も無し。 甘輝が為には妻の敵、舅の敵、呉三桂の為にも妻の敵、みどりごの敵、おお、それそれ、いづれも敵に軽めなし。天下の敵は三人一所、さあ、来いと駈け出した。 この三人の太刀先には如何なる天魔疫神も面を向けるべき方(かた)もない。 鄭芝龍老一官、夕霧くらい黒革縅(おどし)すすげどに(勇猛そうに)出で立って、南京城の外廓(とくるわ)の大木戸を叩いて、国性爺の父老一官と申す者、年寄り膝骨が弱って人並みの軍が叶わない。さればとて、若殿原の軍咄を安閑と聞いてもいられない。 この城門に推参して(無礼ながらに参上して、謙辞)速やかに討ち死にして素意を達したく候。哀れ、李滔天よ出で合い、この白髪首を獲ってたべ。生前(しょうぜん)の情けであろうと呼ばわった。 城の中から六尺豊かな大男、優しし一官、相手になってとらせんと木戸を押し開けて切って出た。 心得たりと二打ち、三打ち、打つぞと見えたが、つっと入って首を打ち落として大に不興して大音を上げ、一官年寄ったが斯様の葉武者(取るに足らぬ武者)に遣る首は持っていない。李滔天よ、出で会え。外の者が出て来たならば、何時までもこの通りだと城を睨んで立ったりける。 韃靼大王は壽陽門の櫓に現れ出でて、国性爺の老父・一官とはきゃつめよな。問うべき仔細があまた有る。殺さずに搦めとって引いて来たれ。 承ると四五十人が棒づくめに取り回し、透きをあらせずに滅多打ち、ねじ伏せねじ伏せ縛り付けて城中をさして引いて入った。無念と言うのも余りあり。 程なく、甘輝・呉三桂・国性爺を真っ先に大手の門に駈けつければ、ひっ続いて六万余騎、小むつを後陣の大将にして今日を死線と押し寄せたり。 国性爺が下知をして、未だ生死も知れず、殊にこの南京城、四方に十二の大門、三十六の小門有り。一方であっても開いたる方から落ち失せるのは必定、四方に心を配って討てと、合い詞に手を配り箙(えびら、矢を入れて背負う武具)を叩き、鬨の声、天も傾くほどであるよ。 小むつが嗜む剣術の、牛若流の小太刀を以て一陣に進み出て、相手選ばず時を選ばず、所も選ばないこの若武者、死にたい者が相手だと思う様に広言して、多勢の中に割って入り、火水を飛ばせて戦いける。 賊どもが多数討たれたが、七十万騎が立てこもっている南京城、落ちる様子も無いのだった。 国性爺は何としてでも父の生死を知りたいと懸け廻っても詮方なく、陣頭に大音を上げて、我もろこしに渡って五年の間、数か度の合戦で終に無刀の軍をせず。今日珍しくも剣の柄に手をかけまじ。馬上の達者・剣術得物の韃靼勢、寄って討てやと招きかければ、にっくい広言、打ち殺せと我も我もと喚いてかかる。引き寄せて剣ねじ取り、叩きひしぎ、打ちみしゃぎ、鉾・槍・長刀をもぎ取りもぎ取り、捻じ曲げ、押し曲げ、折砕き、寄せ来るやつばらを脛に触れば踏み殺し、手に触るのは捩殺し、絞め殺しは人礫、騎馬の武者は馬諸共にひとつに掴んで、手玉にあげ、四つ足を掴んで馬礫、人礫・馬礫・石のつぶても打ち交じり、人間業とは見えないのだ。 さしもの韃靼も攻め寄せられて、すは落城と見えたる所に、一官を楯の表に縛り付け、韃靼王を先に立て李滔天が進み出で、やあやあ、国性爺、おのれは日本の小国から這い出で、唐土の地を踏み荒し、數か所の城を切り取り、剰(あまつさ)え大王の御座近くに、今日の狼藉緩怠千万、これによって親一官をかくの如くに召し取った。 日本流に腹を切るか、但は親子諸共に直ちに日本に帰るにおいては一官を助けるべし。承引がなければたった今、目前で一官を引っ張り切り致す。とかくの返答はや申せと、高声に呼ばわれば、今まで勇んでいた国性爺、はっとばかりに目も眩み、力も落ちて打ち萎れ、諸軍勢も気を失い、陣中ひっそりと鎮まりける。 一官は歯噛みをなして、やい、国性爺、狼狽えたか、遅れたか、七十に余るこの一官、命を長らえて何になる。母の最期の言葉が健気であったからと言って、父にも語り吹聴したのを忘れたのか。これほどまでしおおせた一大事、この皺じいの命一つに迷って仕損じたと言われては、末代までの恥辱、故郷の聞こえ、日本生まれは愛に溺れて義を知らぬと、他国に悪名をとどめんは、日本 女ではあるが汝の母は生まれ故郷を重んじ、日本の恥と言う字に命を捨てた。それを忘れでもしたか。 これ程の手詰めに成り、子の親が目の前で八つ裂きにされようとも、目もふらずに飛び掛かって本望を遂げ大明の御代になさんと思う根性を何処で失ったのだ。 ええ、未練なり、浅ましい。と、地団太踏んで制すれば国性爺は父に恥しめられて、思い切って大王目掛けて飛んで出れば李滔天は父に剣をさし当てた。 はっと気も消え立ち止まり、進みかねたるしどろ足、頭の上に須弥山が今崩れかかってもびくと声もしない国性爺だが、前後に暮れてぞ(どうしたらよいのか分からない)見えたのだ。は 甘輝と呉三桂、互いにきっと目配せして、つっと出て韃靼王の前に頭を垂れ、かくまでしおおせ候えども御運の強い韃靼王、一官が絡めとられたことは国性爺の運もこれまで、末頼みなき大将、我々が両人が命を助け給わらば、国性爺の首を獲ってさしあげん。御誓言にて御返答を承らんと言いもあえぬに韃靼王、おお、おお、神妙、神妙、と言う所を飛び掛かってはったと蹴倒し締め上げれば隙をあらせずに国性爺、飛び掛かって父の戒めをねじ切り、ねじ切り、李滔天を取って押さえ父を縛りし楯の面まっその如くに小手、高手に縛り付け、三人目と目を見合わせて、ああ、嬉しやと喜ぶ声、国中に響くほどなのだ。 諸軍勢は勇みをなして、太子、姫宮、御幸を為し奉れば、御前にてきゃつばら、則ち罪科に行うべし。夷国とは言いながら韃靼国の王であるから、縛りながらに鞭打ちして本国に送るべしと、左右に別れて五百鞭、半死半生、打ち据えて引き除けたり。 さあ、これからが李滔天だ。本の起こりの八逆、、五逆、十悪人。かたみ恨みが無いように国性爺が首を引き抜いてやろう。 両人は老腕と三方に立ちかかり、声を掛けて一事に、えい、やっと、引き抜き捨て、永暦皇帝御代万歳、国安全と寿も大日本の君が代の神徳・武徳・聖徳のみちて尽きせぬ国繁盛、民繁昌の恵みによって五穀豊饒(ぶにょう)に打ち続き、万々年とぞ祝いける。
2025年09月18日
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いづくの誰が籠っているのか、門は高く、堀深く、砦々に垣楯つき(垣根の様に楯をならべて)、要害険阻を帯びている。 かうかうたる高矢倉、あがる雲雀や帰る雁、花と見つつも色々の籏に翼や休むらん。のどかに照らす朝日影、月影打ってつけたるは、日の本の美名を顯(あら)わし、延平王国性爺が乗っ取ったる石頭城、いわねどそれと知られる、白眞弓・鉄砲・高麗鉾・槍・長刀・大籏・小籏靡き合い、吹き抜け・幟(のぼり)・馬印がへんぽんと翻り、天も五色に染め成せば、藤もつつじも山吹も共に移ろう色見えて春の日数は盤上の石の数とぞ積もりける。 若葉の末の深緑、晴れ行く雲の絶え間より是南京の雲門関と、名乗って出るほととぎす、幔幕が高い卯の花垣、今年も夏の半ばなり、方三十里にさかも木引き、関の大将左龍虎三千余騎が兜の星を輝かし太鼓を打ってらんでうし、鳥の空音は謀るとも許す方無き勢いに、劔は夏野の薄を乱し火縄は澤の蛍火と要害厳しい関の戸は、鳥も通わぬばかりなり。 日本育ちの国性爺、たとえばこの関を鐵石で固めたとしても押し破って通らん事、わらんべが障子一重を破るよりも易けれども、軍中の目覚ましに、我が本国文治の昔、武蔵坊弁慶が安宅の関守を欺いた例を引くや、梓弓、軍兵にめくはせして、そもそもこれは驪山の麓、楊貴妃の御廟所、大眞殿再興勧進の大行者、勧進帳を聴聞して、勧めに入れや関守と、軍勢の着倒一巻取り出して、味方の祈祷、敵調伏と観念して高らかにこそ読み挙げければ、それつらつらとおもんみれば、韃靼逆徒の秋の月は無慚の雲に隠れ、生死不定の長き夢驚かすべき勢もなき。 ここにそのかみ、帝おわしました。御名を玄宗皇帝と名付け奉り、寵愛の玉妃に分かれ恋慕止み難く、啼泣眼(まなこ)にあらく、涙は玉を連ねる思いを泉路の翻して大眞殿を建立した。 か程の霊場が絶えてしまう事を悲しんで、臨卭(りんきょう)の方士の末葉(ばつよう)が諸国を勧、進す。一戦合戦(一度でも戦う人々は、一紙半銭の洒落)の輩(ともがら)は敵方では首を鉾に貫かれ、身方では合戦勝利の勝鬨をあげよう。 帰命稽首(仏に帰依して謹んで頭をさげること、仏に敬意を表する詞)、敬って申すと天も響けと読み挙げた。 関の大将の右龍虎左龍虎、すは、国性爺、飛んで火に入る夏の虫、梢に蝉がおめいてかかれば、にっこと笑い、樊噲流は珍しからず、門を破るのは日本の朝比奈流を見よやとて、貫の木(閂・かんぬき)さかもぎ押し破り、向かう者を叩き伏せて、逃げるのを掴んで人礫(つぶて)、左龍虎右龍虎を討ち取って、なんなく過ぎる月日の関である。 碁盤の上も関を吹き超える。秋の風は霧を晴れ渡らせて山城は韃靼の軍将海利王が楯籠り、前は岸壁後ろは海、要害頼みの油断を見て、秋の夜討ちの国性爺、乗ったり駒の轡ならぬ、轡虫(くつわむし)、月待つ、松虫の声が澄み渡り、しんしん、りんりんしづしづしづと、堀際近く攻め寄せて百千の高提灯(たかちょうちん、長竿の先につけた提灯、一度にぱっと立てたのは千世界の千日月を一度に見るが如くで、城の兵(つわもの)は寝耳に水の慌てぶり、騒ぎぶり、兜を脛につけたり、鎧はさかさま、馬を背中に負う、おう、おう、おう、おう、おう、大手の門を押し開いて、切ってい出れば寄せ手の勢、貝鐘を鳴らして鯨(ときの)声、大将は團扇押っ取って、ひらり、ひらり、ひらひら、ひらり、ひらめかして、日本流の軍(いくさ)の下知(げい、指揮)、攻めつけひしぐのは義経流、ゆるめて打つのは楠(くすのき)流。くりから落とし(螺旋方に落とすこと)、坂落とし、屋島の浦の浦浪も、ここに寄せ手の勢い強く、揉み立て揉み立て、斬りたてられ城中指してぞ引いたりける。 時分はよしと夕闇に、日本秘密の焙烙火矢(ほうろくびや)を打って放つその響き、須弥も崩れるばかりなのだ。楯も櫓も海人の焚く塩の煙か炭竈か、焔は秋の村もみじ、楚人の一炬に焦土になった咸陽宮とも言えるだろうか。 国性爺は勝時の駒の手綱をかいくって輪乗りをかけて、くるくるくる、くるり、くるりと乗り回し廻る月日に偽りのない世なりけり。神無月、しぐれて過ぎる岡野邊に棟門高い城郭こそは、これも国性爺が切り取った福州(ほくしゅう)の長楽城(ちょうらくじょう)、軒の甍はらんらんと、玉を彩る初霰、みぞれ交じりの夕風が吹き来る上に降り積もり、塀も櫓も埋もれて雪の眺めは面白や。その外、閩州建州諸国の府、三十八か所を切り取って太子の御幸を待ち顔に所々に付城(本城に対する出城)を築き、兵糧軍兵を籠め置いて、威勢は天の気に顯われて手に取る様にぞ見えたのだ。 呉三桂は喜悦のあまり身をも人をも打ち忘れ、太子を抱き奉り、城ある山へと走り往く。 二人の老翁が引きと留めて、愚かなり愚かなり、目撃一瞬に見ゆると言えども各百里を隔てたり。汝はこの山に入って一時と思うであろうが五年の春秋を送っている。 四年に四季の合戦を見たるとはよも知らじ。かく言う中にも立つ月日、太子の成長は汝の身の面影をよく見て、水鏡、水清ければ影も清い、汝に忠あり、誠ある。心の鏡に移り来る我は先祖高皇帝、我は青田劉伯温(りゅうはくうん)、住処は月の中に立つ桂の裏葉吹き返し、智見(仏経用語で意識と眼識に優れている事)の目には上十五、下十五夜と見てきたが衆生は心乱れ、碁の石とやさぞ見るであろう。 又、水中の遊漁は釣り針と疑う。雲上の飛鳥は弓の影とも驚けり。一輪もくだらず万水とても登らないので、満ちては欠ける影があれば、欠けても満ちる月を見よ。 しばしが程のくも隠れ、ついには晴れて天照らす、日の本和国の神力にて太子の位は早や出づる日との給う御声は松吹く嵐、面影ばかりは松立つ山の峰の嵐と吹き、隠れてぞうせ給う。 茫然として呉三桂、夢かと思えばまどろまず、げにや五年の歳月を経たるしるしにや、我が顔には髭が伸びている。 太子の尊容、時の間に御たけも立伸びて早や七歳の御物腰、呉三桂、呉三桂と召さるる御声は大人しく雪の深山に鶯の初音を聞きし思いにて、あい、あい、あい、と頭を下げて天を拝し、地を拝し、嬉しさ足も定まらず、再び夢の心地する。 御前に手をつかねて、いにしえの鄭芝龍の一子国性爺が日本から渡って味方の義兵を起こすとは音にこそ承れ、春秋五年の軍功は明らかに、大明半国は取り返し候えば国性爺に案内して、君はこれにまします旨を告げ知らせたく候と、申しもあえぬに遥かの谷の向こうから、なうなう、それなるは司馬将軍呉三桂にてはなきか、呉三桂、呉三桂と呼ばわる方をよくよく見て、御身は昔の鄭芝龍か。これは、これは、呉三桂、命あれば珍しや。一子国性爺が古郷の妻・栴檀皇女を案内した。と、招きあえば姫宮も、懐かしの呉三桂、おことが妻の柳哥君、命を懸けての忠節にて、憂き瀬を渡るうかれ船(漂流船)で日本に流されて、一官親子夫婦の情けで不思議に再び会うことよ。 柳哥君は何処にぞ、みどりごは何となりけるぞ。早く逢いたい、会わせてたべと焦がれ給うのは道理である。 さればその時の深手にて我妻は空しくなり、后も敵の鉄砲で命を落とし給いし故、胎内を断ち破り我が子を害して敵を欺き、太子は山中にて易々と育て参らせた。早や七歳の生い先はこれに渡らせ給いしぞと語るにつけて姫宮も、わっとばかりにどうと臥して、人目もわかぬ御歎き。思いやられていたわしい。 一官は麓を見返って、あれあれ梅勒王めが姫宮を見付けて數千騎にて追いかけて来る。年より骨に力みを出し、踏みとどまって命限りに防ぎ支えんと逸れども、宮の。御上は危なし、危なし。そこへ何とかして逃げさせたいが、この山の不案内、谷を越す道はあるまいか。 いや、いや、この道は廻れば六十里、谷が深くて底が知れない。これへも呼ばれず、そこへも越されず、むむ、如何せん。と、虚空を拝し、ただ今に奇瑞を現わし給う。 御先祖高祖皇帝、青田の劉伯温が神仙微妙の力を合わせて非定の危難を救い給えと、太子諸共に一心不乱の祈誓有り。 姫宮と小むつも手を合わせ、南無、日本住吉大明神、福寿皆無量と丹精無二の志し、天も感応、地も納受、洞口から一筋の雲が無心にして棚引けば、天の架け橋かささぎの渡せる橋や、葛城の久米の岩、はし夜ならで夢路を辿る如くにて渡るともなく、行くともなく向こうの峰に登り着き、足もわじわじ震えけり。 程なく賊兵が雲霞の如くにどっと駆け寄せて、あれあれ、太子も呉三桂も見えているぞ。思いもよらぬ拾い物だ、鰯の網で鯨を獲るとはこのことだ。 的になったる奴ばら、やれ、弓よ、鉄砲よ。打ち獲れ、射とれとひしめきける。 梅勒王が下知をなし、やれ、待て待て、後ろは広いし、退き場は有る。弓鉄砲はうまくゆくまい。こりゃ見よ、遂に見かけぬ架け橋だ。必諚、国性爺めの日本流のそろばん橋(山口県岩国市の錦帯橋の俗称。ここはアーチ形で橋杭のない橋を言う)だろう。畳橋(たたみばし、折り畳みが出来る橋)であろうか。敵に喰い物をあてがうのは愚かな軍法だ。 続けや、者共、渡れや渡れと五百余騎が押し合い、ひっつめ我先にと、えいえい声を掛け、橋の半ばまで渡ると見えたのだが、山風谷風がさっ、さっさっさっと谷の架け橋を吹き切って、大将を始め五百余騎がどた、どた、どた、と落ち重なり、めっこう(額の真ん中)打ち割る、頭を砕く。 泣いたり、喚いたりで、後から後から続けて落ちて谷を埋めるばかりである。 呉三桂と鄭芝龍は得たり賢し、心地よしとばかりに、大石や大木を手当たり次第に投げつけ、投げかけしたので、一騎も残らずに刹那の内に人の寿司とぞなったのだ。 中にも大将の梅勒王は岩根を伝い、葛を手繰り、這い上ったので呉三桂が遊仙の碁盤を引っ提げて、こりゃ、この碁盤はところで練って石よりも固い、苦くて口に合わなくともひと口食ってみるか。おのれが一目眼を以て御無用の呉の相手、碁勢を見よと頭を出せば、ちゃうど打ち、面を出せばはたと打ち、ぶちつけぶちつけ脳も鉢も打ち砕かれて微塵となってぞ失せにける。 おお、本望、本望、本朝にもかかる例なし。先例は吉野の碁盤忠信、それは榧木(かやのき)、これはところの九仙山、先手が身方に回り来る。四ツ目殺しに、點(なかて)を入れて粘(市長)にかけてうちきり、攻めてからめて断ち切って、手詰めの関を勝ち戦、敵のはまを拾い上げ、国も御代も打ち換えで、手を尽くしたる劫(こう)もある。 忠義の道はまっこうこう、道はこうよと打ち連れて福州(ほくしゅう)の城にぞ入りにけり。
2025年09月16日
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第 四 唐土の便り今やと待つ、それではないが、松浦潟、小むつが宿の明け暮れは唐の姫宮相住みを、あたり隣も浮き名立て、唐と日本のしおざかい、ちくら者かと疑えり。 夫も今は国性爺と名を改め数万騎の大将軍と聞くからに、我も心の勇み有り。若衆出立に様を替えて撫でつけ鬢(びん)のおおたぶさ、翡翠の大づと(大きなたぼ。後ろに大きく張り出した髪)ふっさりと禰宜の息子か、膏薬売りか、女とはよもや見えない、水浅黄の股引を引き締めて、羽織を着て、朱鞘木刀(きかたな)真紅の下げ緒、花の口紅、雪の白粉、菅笠深くはぎ高く、足元軽い濵千鳥、浜辺伝いを日参の印を待つ、松浦の住吉や、神前にこそ着きにけり。 充満御願と祈誓をかけ手を合わせると見えけるが、ひらりと抜いたる居合の早業、神木の松を相手取り木刀をかざして躍り上がり、声を掛け、えい、やっとう、とう、えいやっとう、上段下段の太刀捌き、かげろう・稲妻・獅子奮迅、足取り(足の運び)、手の内(手の業)、四寸八寸身の開き(きわどい所で身を躱す事)、踏み込んで打つ入り身(相手の手元に入り込むこと)の木刀、枯木の松片枝をずっぱと切って落としたのは、今牛若とも言ってよい。 いつの間にかは栴檀女、森の影から走り出て、なうなう、小むつ殿、毎日毎日、時を違えず変わった風俗、今日と言う今日は跡を慕って見つけましたが、誰に習ってこの兵法(ひょうほう)、器用なことやとの給えば、いや、師匠はなけれど夫の打ち太刀(太刀打ち)、習おうより慣れようとの事唐土の便り心もとなく、御迎えの船は参らずともお供して渡ろうと、この明神に吉凶を祈り候えばこれ見賜え、木刀にてこの松の木が真剣の如くに斬れたのは、神が納受のしるしと申し、商い船の便船時節も良く候と申し上げれば、それは嬉しい、頼もしい、片時(へんし)も早く戻してたべと、御悦びは浅からず。 御心安く思召せ、総じてこの住吉と申すは舟路を守る御神であり、神功皇后と申す帝が新羅(しんら)退治の御時に汐ひる玉汐みつ玉を以て、御舟を守護なされた舟玉神と申しまする。 昔唐土の白楽天と言う人が日本の智恵をはかろうとこの秋津洲(あきつす)に渡り給い、目前の景色を取り敢えず青苔衣を帯びて岩ほの肩にかかり、白雲帯に似て山の腰を廻ると詠じ給えば大明神が賤しい釣りの翁と現じて、一首の歌の御答、苔衣、着たる岩ほはさもなくて、きぬきぬ山の帯をするかな。と、詠じ給いし御歌で、ぎっと詰まって楽天は此処から本土に帰ったとか。 国を守りの御神のその歌は、苔衣わが身にうけて旅衣いざとて二人は、打ち連れて舟路はるけくなる、形振りであるよ。 栴檀女 道 行 唐子髷(からこわげ)には薩摩櫛、島田髷(しまだわげ)には唐櫛(とうぐし)と、大和もろこし打ち混ぜてさしもならわぬ旅立ちや。 船と陸(くが)とで行く道は笠捨てられず、懐(ふろころ)に枕を畳む、夢畳む、千里を胸に叩き込む。女心の強弓も男ゆえにこそ、引かれていく。 我は古郷を出る旅、君は古郷に戻る旅、双葉に見せて栴檀女、小むつがいさめを力にして大明国へと思い立つ、心の内こそ遥かなれ。 親と夫を持っている身は何か歎きは有るだろうが、有明の月さえ同じ月ではあるが、なう、二人見慣れし閨の中、名残は数々多くある。 大村の浦の浜風、ひと村雨はさらさらと晴れても晴れぬ我が涙、袖に包んで袂で拭う。鏡の宮に影とめて泣かぬ人とや見るそれではないが、見る目の浦、振りさけ見れば久方の日も行く末の空遠く、帰るさ何時ぞ、天津鴈さそえやさそえ、わが夫(つま)も二十五筋の琴の糸、結び契りし年の数、いざ、すがかきて(謳わずに琴や三味線を掻き鳴らすこと)、箱崎の松ならぬ待つと聞くならば我も急ごう。磯べ伝いに寄り藻掻く海士の子供が打ち連れて、はじき石なご、又ちょうか半、三つ四つ五つ数えては、幼な遊びも睦まじく、七瀬の淀を行く水も、昔の影やかくれんぼ、鬼の来ぬ間と歌ったのも、濡れて乾かない旅衣、もろこし船を待つ、松浦(まつら)川、湊も近い、千賀の浦風に、そなたの潟を見給えば、磯に手ぐりのくりや川波にゆらるる釣り舟に、びんずら(みづら、古代の男子の髪の結い方、髪を真ん中から左右に分けて両耳の辺で束ねる。後には主として少年の髪の結い方となる)を結った童子一人、網は降ろさないで釣り竿の糸と言う糸を睨んで見ている。 なうなう、おちご、我々は唐土へ渡る者だが程よい所まで乗せてくれないかと声を掛けた。 あら、何でもない事、一人は唐土人、一人は筑紫人、女性の身にして唐土に渡るとは恋しき人が居るのであろう。二千里の外(ほか)古人の心、三五夜中ではないけれども影を漏らさぬ月の船、とくとく召され候えとはや、指し寄せる水馴(みな)れ竿、不思議の縁と打ち乗りて焦がれて、漕がれ行く、行方も知らず白波の、凪てのどけき波の面、続いて見える八十嶋を異国の人の家ヅと(土産、土産話)に教えてはくれないかと頼めば、童子は舟端に立ち上がり、海原はるかに指さして、いかに旅人、聞き給え。 先ずあれに続くのは、鬼界十二の嶋、五嶋七嶋中でもあの白い鳥が多く群れているのは白石が嶋、こなたにけふりの立つ登るのは硫黄が嶋、さて又、南に高く霞がかかっているのは千鳥の嶋である。あれはいにしえに天照る神が住吉の明神に笛を吹かせて舞曲を奏して二神(ふたかみ)が遊び給いし所だと言うので、二神嶋と申すのだ。 唐土人ぞと語るのだ。語る間に敷島のはや秋津洲(あきつす)の地を離れ、それより先の嶋々の、嶋かと見れば雲の峰、山かと見れば空の海、風はなけれどあま小舟、天の島、舟岩、舟の空を走り往く如くにて山なき西に山が見える。月に先立ち、日に連れて、日の本い出し秋風も立も変わらずそのままの、まだ秋風に鱸(すずき)釣る松江(ずんこう)の湊に着きにけり。 人々船より上がり給い、誠におちごが御情座(畳の上を行く)したるようなる船の中、かかる波涛を時の間に渡し給える御方はいかなる人にてあるやらん。 人がましやな名もなき者、我日の本に昔より住み慣れたれば住吉の、大海童子と申す者、暇申してこのわっぱは住吉に立ち帰り、帰朝を待ち申さんと言う、夕凪の水際なる海人の小舟を漕ぎ戻し追い風に任せつつ沖の方に出たのだった。沖の方へと出たのだった。 伝え聞く、陶朱公(范蠡の別名)は句践を伴い、会稽山に籠りいて、種々の知略を巡らして遂に呉王を亡ぼし句践の本意を達したとか。昔を問えば遠き世のためしも呉三桂が今身の上に知った、白雲の、山より山に身を隠して太子を育て奉る。 移れば変わる苔むしろ(山住まい。苔をむしろとしてその上に寝る)、宮前の楊柳・寺前の花、峰の枯木に立ち替わり、夕べの霧の間には、わが身を以て褥(しとね)として、鸞與属車(らんよしょくしゃ、天子の乗り物とそれに従う車)の輦(てぐるま)も蔦の錦に織り替えて、朝(あした)の露の辺(ほとり)には谷の猿(ましら)の潟に駕(が)し、早や二歳(ふたとせ)は昨日今日、明けるのも山、暮れるのも山、我が名も君が顔ばせも人目を包む雲水に、虹の架け橋途絶えして、深山烏や鵼子鳥、梢に来鳴く鸚鵡さえ、昔をまねぶ声はない。 水遠くして山長く、根ざさ・茅原・槇(まき)・檜原、峨々と聳える崔嵬(再会)の山路に疲れ行く末は名にのみ聞きし興花府(こかふ)の九仙山によじのぼり、しばし佇む松風も、馴れてや友と住み慣れし。 龐眉(ほうび、大きな眉)白髪の老翁(ろうおう)二人、石上に碁盤を据え、黒白二つの石の数、三百六十一目に離々たる馬目、連々たる鴈行、脇目もふらぬ碁の勝負。心はささがきの空にかかれる糸に似て、身は空蝉の枯れ枝となり、浮世を離れて手談のわざ、中間禅の高臺かと太子を石段に移し参らせて、枯木の株に頤をもたせ、見とれる我も諸共に余念の塵をや払うであろう。 呉三桂は興に乗じて、なうなう、老人に物を申さん。市中は離れての座隠の遊び、面白し。さりながら、琴詩酒の三つの友を離れ碁を打って勝負を諍い給う事、別に楽しむ所ばし候か。 翁はさして答えもせずに、碁盤と見る目は碁盤であり、碁石と見る目は碁石である。 大地世界を以て一面の碁盤なすと言える本文がある。心上の須弥山これに有り。大明一国の山河草木今此処からみると、などか曇るであろう。ひと隅に九十目、四方に四季の九十日、合わせて三百六十目、一目に一日を送ると知らぬ愚かさよ。 面白し、面白し。天地一躰の楽しみに二人が向かうとは何事ぞ。陰陽の二つがあらざれば、萬物整う事はない。 勝負はさて、如何に。人間の吉凶は時の運にあらずや。さて、白黒に夜と昼、手談はいかに、軍(いくさ)の法、切って押さえて撥ねかけて、軍は花の乱れ碁や。飛び交う烏、群れいる鷺と譬えたのも白き、黒きに夜昼も分からずに昔の斧の柄もおのずからとや朽ちぬべし。 翁が重ねてのたまわく、今日本より国性爺と言う勇将が渡って大明の味方となり、ただ今軍の真っ最中、これよりその間は遥かであるが、一心の碁情眼力でありありと合戦の有様目前に見せるべしと、の給う声も山風も、碁石の石にぞ響いたのだ。 呉三桂ははっと心づき、げにげに、此処は九仙山、この九仙山と申すのは、四百余州を目の下に見て、峰もかすかにおぼろ、おぼろと、雲かと見れば一霞、麓に落ちる春風の風のまにまに吹き晴らす。 空は弥生の半ばであり、柳桜をこきまぜて、錦に包む城郭のありありとこそ見えたのだ。
2025年09月11日
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甘輝は飛びし去って、おお、御不審は御尤も。全く某無法にあらず、狂気にも候わず、昨日、韃靼王より某を召し、この頃日本より和藤内と言うえせ者(くだらぬ者)、小乏下劣(小乏下劣)の身をもって智謀軍術たくましく、韃靼王を傾け大明の世に翻さんとこの土に渡る。 彼の討っ手は誰ならんと数千人の諸侯の中からこの甘輝を選り出され参議将軍の官に任じ、十万騎の大将を給わった。 和藤内をわが妻の兄弟と今きくまでは夢にも知らず、きゃつ日本に伝え聞く楠とやんらが肝胆を出で(智謀の奥義を悟り)、朝比奈・弁慶とやんらが勇力有りとも、我はまた孔明の腸(はらわた)に分け入り、樊噲・項羽の骨髄を借って一戦に追って追いまくり、和藤内の月代首をひっさげて来たらんと広言吐きし某が一太刀も合わせずに矢の一本も放たずに、ぬくぬくと味方すれば、五常軍甘輝が日本の武勇に聞きおぢするものでなし、女にほだされ縁にひかれて腰が抜けて弓矢の義を忘れたと韃靼人の雑口(ぞうこう、雑言、噂話)にかけられるのは必定、しかれば子孫末孫の恥辱は逃れ難し。恩愛不憫の妻を害して、女の縁に引かれない義信の二字を額に当て、さっぱりと味方せん為に、やい、錦祥女、とどめる母の詞には慈悲心が籠る、殺す夫の剣の先には忠孝がこもる。 親の慈悲と忠孝に命を棄てよ女房と理非を飾らない勇士の言葉、おお、聞き分けた、身に叶った忠孝、親に貰ったこの体、孝行の為に捨てるのは惜しいとも思わない。と、母を押しのけてつっと寄り胸を押し開ければ引き寄せて、見るも危うい氷の刃、なう、悲しやとかけ隔て、押し分けようにも詮方なく、退けようとするが手は叶わず、娘の袖に喰いついて引き除ければ夫が寄る。 夫の袖を咥えて引けば、娘は死なんと又立ち寄る。それを又口にくわえて唐猫が塒(ねぐら)を替える如くにて、母は眼もくれ、身も疲れ、わっとばかりにどうと臥し、前後不覚に見えたので、錦祥女が縋り付き、一生に親知らず、終に一度の孝行なく、何で恩を送ろうぞ。 死なせてたべ、母上と口説き歎けばわっと泣き、なう、悲しい事を言う人や、殊に御身は娑婆と冥途に親三人、残り二人の父母は産み落とした大恩あり。 中にひとりのこの母は、哀れ見かけず恩もなく、うたてや継母の名は削っても削られず。今此処で死なせては、日本の継母が三千里を隔てた唐土の継子を憎んで見殺しに殺したと、わが身の恥ばかりではない、遍く口々に日本人は邪見なりと国のなを引き出すのはわが日本の恥ぞかし。 唐を照らす日影も日本を照らす日影も、光に二つはないけれども、日の本とは日の始め、仁義・五常(仁義礼智信)情けが有る。 慈悲もっぱらの神國に生を請けたるこの母が、娘殺すのを見物して、そも生きておられようか。願わくばこの縄が日本の神々のしめ縄と顕れ、我を殺し、かばねは異国に晒すとも、魂は日本に道引き給えと声を挙げ、道も有り、情けも有り、哀れも籠る口説き泣き。 錦祥女は縋り付く、母の袂の諸涙、甘輝も道理に至極してそぞろに涙に暮れていたが、ややあって甘輝は席を打って、はっあ、是非もなし、力なし。母の承引が無い上は、今日よりは和藤内とは敵対、老母はこれに留め置いて、人質と思われるのも本意(ほい)ではない。輿車を用意して所を尋ねて送り返し参らせよ。 いや、送るまでもなく、この遣り水より黄河までよき便りには白粉を流し、叶わぬ知らせは紅粉を流す約束で、迎いにおいでが有る筈。 いで、紅粉を解いて流そうと、常の一間に入ったのだ。 母は思いに掻き暮れて、思うに違う世の中を立ち帰って、夫や子に何と語り聞かせたらよいか。と、思い遣る方無く涙の色、紅より先の唐錦、錦祥女はその隙に瑠璃の鉢に紅粉を溶き入れ、これぞ親と子が渡らぬ錦中絶えて、名残は今ぞと言う、夕波の泉水にさらさらさらと、落ち瀧津瀬の紅葉はと浮世の秋を堰下し、共に染めたるうたかたも、紅くぐる遣り水の落ちて黄河の流れの末、和藤内は岸頭に蓑打ち被き座を占めて、赤白二つの川水に心をつけて見守る川面、南無三宝、紅粉が流れる。 さては望みは叶わないか。味方もせぬ甘輝に母は預けて置かれぬ。踏み出す足の早瀬川、流れを止めて行く先の堀を乗り越え、塀を飛び越え、籬・透い垣踏み破り、甘輝の城の奥の庭、泉水にこそ着いたのだ。 まずは母は安穏、跳び上がり、戒めの縄を引きちぎって、甘輝の前に立ちはだかって、五常軍甘輝と言う髭唐人はわぬしよな、天にも地にもたったひとりの母に縄をかけたのは、おのれをおのれと奉って味方に頼もうと思ったからで、もってうすれば方図もない、味方にならないのはこの大将が不足であるのか。第一、女房の縁と言い、そっちから願うはずだ。 さあ、日本無双の和藤内が直付けに頼むぞ、返答せよ。柄に手を掛けて突っ立ったり。 おお、女房の縁と言えば猶の事ならぬわ。御辺が日本無双であるならば、我は唐土に希代の甘輝である。女にほだされて味方する勇士にあらず。女房を去る所もない。病死するまでべんべんとも待たれまい。追い風次第に早く帰れ。但し、置き土産に首が置いていきたいか。 いやさ、日本への土産に貴様の首をと、両者が抜かんとする所を錦祥女が声を掛けて、ああ、ああ、これなあ、なあ、病死を待つまでも無し。ただ今流した紅の水上を見給えと衣装の胸を押し開けば九寸五分の懐剣、乳の下から肝先まで横に縫って刺し通し、朱に染みたるその有様、母はこれはとばかりにて、かっぱと臥して正体無し。 和藤内も動顛し、覚悟をきわめし夫でさえ、そぞろに驚くばかりである。 錦祥女は苦し気に、母上は日本の国の恥を思召し、殺すまいとなされるけれども、我が命を惜しんで親兄弟をみつがずば(助けなければ)唐土の恥、こうなった上は女に心ひかされたとのひとの謗りはよもあるまじ。 なう、甘輝殿、親兄弟の味方して、力ともなってたべ。父にもかくと告げてたべ。もう物を言わせて下さるな。苦しいわいのとばかりで、消え消えにこそなったのだ。 甘輝は涙を押し隠して、おお、でかいた、でかいた、自害を無にはさせないぞと和藤内の前に頭を下げて、某先祖は明朝の臣下、進んで味方申すべきであったが、女の縁に迷ったと俗難を憚っていたのだが、我妻がただ今死を以て義を勧める上は、心清く御味方いたす。また貴殿をば大将軍と仰ぎ、諸侯王になぞらえて御名を改め、延平王国性爺鄭成功と号し、装束召させ奉らんと武運が開けるそれではないが、唐櫃の蓋の二重の錦、羅陵の袂、緋の装束、章甫(しょうほ)の冠、花紋の沓(くつ)、珊瑚琥珀の石の帯、莫邪の剣、金(こがね)を磨き蓋(きぬかさ)をさっとさしかければ、十万余騎の軍兵ども、憧(どう)のはた、幡(ばん)のはた、吹き抜き、盾鉾・弓鉄砲、鎧の袖を連ねたのは、会稽山に越王が再び出でたる如くである。 母は大声、高笑い、ああ、嬉しや、本望や。あれを見や、錦祥女、御身が命を捨てたので親子の本望を達しましたよ。親子と思えど天下の本望、この剣は九寸五分なれども四百余州を治める自害、この上に母が長らえては始めの言葉が虚言となり、再び日本の国の恥を引き起こすと、娘の剣を押っ取ってのんどにがばと突き立てた。 人々がこれはと立ち騒げば、ああ、寄るまい、寄るまい。と、はったと睨み、なあ、甘輝、国性爺、母や娘の最期を必ず歎くな悲しむな、韃靼王は面々の母の敵、妻の敵、と思えば討つのに力が増す。 気をたるませぬ母の慈悲、この遺言を忘れるな。父の一官がおわするので親には事を欠かないぞ。母は死して諫めをなし、父は長らえて教訓をなすので、世に不足なき大将軍、浮世の思い出これまでと、肝の束ねを人抉り、切りさばき、さて、錦祥女、この世に心残らないか。 何しに心残らんと言えども残る夫婦の名残、親子は手を取り引き寄せて、国性爺の出立を見上げ見下ろし嬉し気に笑顔を娑婆の形見として一度に息は絶えたのだ。 鬼を欺く國性爺龍虎と勇む五常軍、涙で眼(まなこ)は眩めども、母の遺言に背くまい、妻の心を破るまいと国性爺は甘輝を恥じ、甘輝は又国性爺に恥じて、萎れる顔隠す。 なきがらおさめる道にべに、出陣の門出だと生死二つをひと道に、母の遺言、釈迦に経。父の庭訓、鬼に金棒、討てば勝ち、攻めれば取る末代、不思議の智仁の勇士。玉ある淵は岸破れず。龍住む池は水涸れず。 かかる勇者が出生する国々たり、君々たり。 日本の麒麟はこれであるぞと、異国に武徳を照らしたのだ。
2025年09月09日
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縄をかけるのが嫌なら、帰去来、帰去来、びんくはんたさつ、ぶおん、ぶおん、とねめつけた。 和藤内は眼をくわっと怒らし、やい、毛唐人、うぬらの耳、は何処についていて何と聞いたのだ。忝くも鄭芝龍一官の女房、身には母、姫の為にも母同然、犬猫を飼うように縄を付けて通さんとはは、日本人は鈍なこと(馬鹿な事)を聞いてはいない。小難しい城内、入らなくとも大事ない。 さあ、ござれと引っ立てた母が振り放して、それそれ、今言ったことを忘れたのか、大事を人に頼む身は幾たびか様々な憂き目もあり、恥もある。縄はおろか足枷・手枷にかかっても願いさえかなうとならば瓦金を替える如し。小国ではあるが日本は男も女も義は捨てぬ。縄掛けたまえ一官殿と恥しめられて力なく、用心の腰縄を取り出して、高手小手に縛り上げ、親子が顔を見合わせて笑顔を作る日本の人の育ちぞ健気である。 錦祥女も堪えかねる歎きの色を押し包み、何事も時世(ときよ)にて国の掟は是非もなし。母御はみずからが預かる上は気遣いなし。何事かは存じないが御願の一通り、御物語を承り、夫の甘輝に言い聞かせて何とぞ叶え参らせん。 さてこの城のめぐりに掘ったる堀の水上(みなかみ)はみずからの化粧殿の庭から落ちる遣り水で、末は黄河の出水と流れ入る水筋である。 夫の甘輝が聞き入れてお願いが成就すれば白粉を溶いて流すべし。川の水が白く流れるのは目出度きしるしと思召し、いさんで城に入りなされ。又、お願いが叶わぬ時には紅を溶いて流しましょう。川水が赤く流れる時は、かなわぬ左右(さう、知らせ、便り)と思召し母御前(ごぜ)を請け取りに城外まで出で給え。 善悪ふたつは白妙と唐紅(からくれない)の水の色に心をつけて御覧ぜよ。さらばさらばと夕月に門の戸をさっと押し開いて、伴う母は生死のさかい、菩提門を引き換えてこれは浮世の無明門、閂(かんぬき)をてうど下す音、錦祥女は悲しみの涙で目もくれて、弱いのは唐土女の風、和藤内も一官も泣きはしないのだが日本武士の風、大手の門の閉て開けに石火矢を打つのは韃靼風、一つに響く石火矢の音で、聞くのさえ遥かなる、夢も通わない唐土に通えば通う親子の縁、恩愛の綱が結び合っての縛り縄、かかる例は異国にもまれに咲き出す雪の梅、色音は同じ鶯の声にぞ通う事、要らざりし。 錦祥女は孝心深く、母を奥の一間に移し、二重の褥三重の布団、山海の珍菓名酒をもって重んじ持成す有様は、天上の栄花とも、又。高手小手のいましめは十悪五逆の科人とも、見る目いぶせく痛わしく、様々に宮仕え、誠の母といたわったのだ。心のうちこそ殊勝である。 腰元の侍女達が寄り集まり、何と日本の女子を見てか、目も鼻も変わらないが、髪の結い方や変わった衣装の縫い様、若い女子もあれであろう、裾も褄も、ほらほら、ほらほら、とぱっと風が吹いたら太股までも見えそうな。ああ、恥ずかしい事じゃあるまいか。いやいや、とても女子に生まれるなら、こちゃ日本の女子になりたい。何故と言えば、日本は大にやわらぐ大和の国と言うげな。何と女子の為には大に柔らかいのは好もしい国ではないか。 ほう、有難い国じゃのと目を細めてぞ頷きける。 錦祥女が立ち出でて、これこれ、面白そうに何を言うぞ。あなたはみずからとはなさぬ仲の母上なれば、孝行と言い、義理と言い、実の母よりも重いけれども、国の掟で詮方なく縛りからめたおいとしさ、韃靼国に漏れ聞こえ、連れ合いに咎めがあってはと宥免(ゆうめん)もなり難く、難儀と言うのはわが身一つ、いづれも頼む食物も違うとや。御口にあうもの伺うとて進ぜてくれよとの給えば、いや、申し、如才もなくお料理も念入り、龍眼(りゅうがん)肉のお飯、お汁は鴨(あひる)の油揚げ、豚のこくしょう(濃い醤油で煮詰めたもの)、羊のはまやき、牛のかまぼこ、様々にして上げても、なう、忌々しい、そんな物はいやいや、縛られて手も動きがかなわない、つい(簡単に、手軽に)むすびにしてくれと御意なされる。 そのむすびと言う物はどういう食べものなのか合点がゆかず、皆が打ちよって詮議致せば、日本では相撲取りをむすびと申すげな。それ故に方々尋ねても、折しも悪うお歯に合いそうなすもう取りが切れ物(品切れ)なりとぞ申しける。 表に轟く馬、車、御帰館と呼ばわって、唐櫃を先に舁き入れさせ、悠々たる蓋(きぬがさ)もさすがは五常軍甘輝と名に負うその物躰(もったい、重々しい様子)、錦祥女が出で迎え、何とて早き御退出、御前は何と候ぞや、さればされば、韃靼大王は叡感深く、過分の御加増、十万騎の旗頭・散騎将軍の官に任ぜられて、諸侯王の冠装束を給わり、大役を仰せつけられたぞ。 家の面目はこれにすぎずとありければ、それは御手柄、目出度い、目出度い、なう、家の吉事はかさなるもの、匍頃恋しい、床しいと申し暮らしていた父上が日本にてもうけ給いし母兄弟を伴い頼みたい事があると、門外まで来たのですが、御留守と言い、国の厳しい掟を憚り、男は皆帰して母上だけを止めて置いたのですが、猶も上の聞こえを恐れて縄をかけて、あれ、あの奥の亭で御馳走は致しましたが、胎内から出ていない義理の母上を縄にかけた御心底、悲しいですと語りける。 むう、縄掛けしとはよい料簡、上に聞こえて言い訳あり。随分もてなせ。 いざ、我も先ず、対面しようか。案内申せと言う声が漏れ聞こえてか、妻は戸の内側で、なう、錦祥女、甘輝殿が御帰り、か、此処はあまりに高あがり、わらわはそれへと立ち出でる形はいどど老木の松の占めからまれし藤かづら、立ちゐ苦しきその風情、甘輝は見る目もいたわしく、まこと世の中の子と言う者のあればこそ、山川万里を越え賜うその甲斐も無き戒めは、時代の掟だ是非もない。 それ、女房、御手が痛むか、気を付けよ。うどんげの客人(まれびと)いささか粗略を存ぜず、何事なりともこの甘輝が身に相応のことならば、必ず心をおかれるな。と、世にも睦まじく持成せば老母は顔色打ち解けて、おお、頼もしい忝なや、 その言葉を聞くからは、何しに心をおくべきか。頼み入りたき大事を密かに語り申したし、是へ是へと小声に成り、なう、我々がこの度唐土に渡りし事は娘が床しい為ばかりではない。去年の初冬に肥前の国、松浦が磯と言う所に大明の帝の御妹・栴檀皇女が小船にめされて吹き流され、御代を韃靼に奪わし雄物語を聞くと等しく、父はもとより明朝の廃臣(はいしん、元の臣下)、我が子の和藤内と言う者、賤しき海士の手業ながら唐土や日本の軍書を学び、韃靼大王を亡ぼし、昔の御代に翻して姫宮を帝位につけんと先ず日本に残し置き、親子三人してこの唐土に来たのだが、浅ましや草木まで皆韃靼に従い靡き、大明の味方に志す者は一人も候らわず、和藤内が片腕の味方と頼むは甘輝殿、力を添えて下されかし。ひとえに頼み参らする。これが拝む心ぞ、と額を膝に押し下げ押し下げして、只一筋の心ざし、思い込んでぞ居ると見えるのだった。 甘輝は大いに驚いて、むう、さては聞き及ぶ日本の和藤内と申すは、この錦祥女とは兄弟、鄭芝龍一官の子息で候な、むむ、武勇の程は唐土までも隠れなく、頼もしき思い立ち、もっともこうなくては有るべからず。 我等も先祖は大明の臣下、帝が滅び給いてよりは頼むべき主君なく、韃靼の恩賞を蒙り、月日を送る折から望む所のお頼み、早速に味方と申したきが少し存ずる所が有れば、急にあっとも申されずとっくと思案してお返事申し上げましょうと、言わせも果てずに、ああう、そりゃお卑怯な。詞が違う。 これ程の一大事、口より出せば世間ぞや。思案の間にも漏れ聞こえて不覚をとり、悔やんでも返らず、お恨みとは思うまじ。成るにしても成らないにしてもお返事を。さあ、お返事をと責めつければ、むう、急に返答を聞きたいならば易いこと、安いこと。 如何にも五常軍甘輝は和藤内の味方であると、言うより早く錦祥女の胸元を取って引き寄せて、剣を引き抜いて咽笛に差し当てた。 老母は慌てて飛び掛かり、二人の中に割って入り、持ったる手を足で踏み離して、娘を背中に押しやり、押しやり、仰のけに重なり臥して大声上げ、これ、情けなや、何事ぞ、人に物を頼まれては女房を刺し殺すのが唐土の習いか。 心に染まぬ無心を聞くも女房の縁があるからだと、心の底から腹が立っての事か。但しは狂気したのか、偶々、始めて来て見た母親の目の前で、殺そうとする無法人、日来(ひごろ)が思いやられる。味方をしないならばそれまでのこと、 今までとは違って親がある大事の娘、是、怖い事はないぞ。母にしっかりと取りつきなさいと、隔ての垣と身を棄てて囲い歎けば、錦祥女は夫の心は知らないが、母の情の有難さ。怪我遊ばすなとばかりにて、共に涙に咽びけり。
2025年09月05日
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第 三 仁ある君も用なき臣は養う事あたわず。慈ある父も益無き子は愛するあたわず。 大和唐土様々に、道の巷は分かれるが、迷わずに急ぐ誠の道、赤壁山の麓にて親子三人が廻り遭い我が聟とばかり聞き及ぶ、五常軍甘輝の屋形城・獅子が城にぞ着きにける。 聞きしにまさる要害はまだ寒さが冴え返る春の夜の、霜にきらめく軒の瓦鯱(かわらしゃちほこ)天に鰭(ひれ)振り、石塁は高く築き上げている。 堀の色は藍に似て、縄を引くが如し(遠くまで長く続いている)。末は黄河に流れ入って、楼門は固く鎖したり。 城内には夜回りの銅鑼(どら)の声がかまびすしい。矢狭間には弩(いしゆみ)が隙間なく所々に石火矢を仕掛けて置き、すわと言う時には打ち放そうと、その勢いは和国には目馴れない要害である。 一官は案に相違して、乱世と言いかかる厳しき城門ことごとしく、夜中に叩いて聞きも馴れぬ舅が日本より来たりしなんどと言うとも、誠と思い取り次ぐ者もあるまい。たとえ娘が聞いたとしても二歳で別れ、日本に渡った父と如何なる証拠を語ったとしても、容易く城内に入れる事は難しいだろう。いかがわせんとぞ私語(ささやき)ける。 和藤内は聞きもあえずに、今更驚く事ならず、一身の外に味方はなしとは日本を出る時より覚悟の前、終(つい)に見ぬ舅よ、婿よと親しみ建てして不覚を取るよりも、頼まれるか、頼もうか、ひと口商い(厭か応を即座に決める交渉)、嫌と言ったならば即座の敵、二歳で別れた娘ならば我らにも行き遇い姉、きゃつに孝行の心が有れば、日本の風も懐かしく、文の便りもあるべきに頼まれぬ(当てには出来ない)心底、われが竹林の虎狩りで従えた嶋夷(しまえびす、外国人の蔑称)を軍兵の基手にして切り靡ける程であるなら、五万や十万勢がつくのに遑はいらない。 何の人頼み、この門を蹴破って不孝の姉の首を捩じ切り聟の甘輝と一勝負と、躍り出れば母が縋り付いて押し留め、その娘御の心入れは知らないが、夫につれて世の中がままにならないのは女の習い、父とは親子、御身とは種ひとつ、他人はみずから獨りであり、海山千里を隔てても継母と言う名は逃れない。 娘の心に親兄弟が恋い慕うまいものでもなし、その所へ切り込んで日本の継母の妬みであると言われるのは、我の恥であるばかりではなくて、日本の国の恥、御身は不肖の身を以って韃靼の大敵を攻め破り、大明の御代にかえさんと大義を思い立ったからは、私の恥は捨て、わが身の無念を観念して、人を懐け従えて、一人の雑兵も味方に引き入れるのこそは軍法のもとと聞く。 まして聟の甘輝は一城の主、一方の大将、これを味方に頼むことは大方にて成るべきことか心を納め、案内を乞えと制すれば、和藤内は門外で大声を挙げ、五常軍甘輝公に直談申したき事がある。開門、開門と叩いたのは城中に響き渡るばかりである。 当番の兵士は声々に、主君の甘輝公は大王の召しに依って昨日より出仕有り、何時御帰りかもはかられず、御留守と言い、夜中と言い、何者なれば直談などとは推参至極、言う事あればそこから申せ、御帰りの節に披露してとらすべしと呼ばわりける。 一官は小声に成り、いや、人づてに言う事ではない、甘輝公が留守ならば御内室の女性(にょしょう)にじかに会って申すべし。日本より渡りし者と申せば合点が有るはずと、言いも果てぬのに城中が騒ぎ、我々さえ面も拝まぬ御台所である。対面せんとは不敵者、殊に日本人とや、油断するなと高提灯、金偏の獨鐃鉢(どらにょうはち)を打ち立て、打ち立て、塀の上にはあまたの兵が鉄砲の筒先を揃えて、石火矢を放って打ちみしゃげ、火縄よ、玉よとひしみきける。 奥にかくとや聞こえたのだろう、妻の女房が楼門に駆け上がり、ああ、騒ぐな、騒ぐな、聞き届けてみずからがそれよと声を掛けるまで、鉄砲を放つな、粗忽をするな。 なう、なう、門外の人々、五常軍甘輝の妻・錦祥女(きんしょうじょ)とは我が事、天下悉く韃靼の大王に靡き、世に従う我が夫も大王の幕下(ばつか)に属(しょく)し、この城を預かり守る厳しき折も折、夫の留守の女房に会わんとは心得ず、さりながら、日本とあれば懐かしい、身の上を語られよ、聞きたいものであるよと言う中でも、もしや、我が親ではなかろうか、何ゆえに尋ね給うぞやと心もとなさ、危なさに、懐かしさも先だって、兵(つわもの)共、麁相するな、むさと鉄砲を放つなと心遣いぞ道理である。 一官も初めて見る娘の顔も朧に霞み、さながらおぼろ月、涙に曇る声を挙げて、粗忽の申し事ながら御身の父は大明の鄭芝龍、母は当座に空しくなり、父は逆鱗を蒙り、日本へ身退く、その時は二歳であり、親子名残の憂き別れ、弁えなくとも乳人の噂、物語りにも聞いたであろう。 我こそ父の鄭芝龍、日本肥前の国平戸の浦で年を経て、今の名は老一官、日本で儲けた弟はこの男、是なるは今の母、密かに語り頼みたいことがあって、成り果てしこの姿を包まずに来たりしぞ。門を開かせたべかし。と、しみじみと口説く詞の末、思い当って錦祥女、さては、父かと飛び降りて縋り付きたい、顔みたや、心は千々に乱れるが、さすが一城の主甘輝の妻、下々が見ている所なので涙を抑え、一々に覚えがある事ではあるが証拠がなくては胡乱(うろん、怪しい、疑わしい)である。みずからが父である証拠があれば聞かま欲し。 と、言うよりも早く兵共、口々に証拠。証拠、証拠を出せと叫び出した。 はて、親子と言うより別に変った証拠などはない。 そりゃ、曲者だ、と鉄砲の 筒先を一度にはらりとつっかけた。 和藤内、駈け隔てて、無用の鉄砲、ぽんとでも言わせたら撫で切りにしてくれん。 いや、しゃっつめ共、逃がすな、鉄砲の口の蓋を取って取り囲み、証拠、証拠と責めかけて既に危うく見えたのだが、一官が両手を挙げて、これこれ、証拠はそちらに有る筈。一とせ唐土を立ち退く時に成人の後に形見にせよと我が形を絵に写して、乳人に預けておいたのだが、老いの姿は変わっても面影が残る絵に合わせて疑いを晴らし給え。 なう、その詞がもう証拠、と肌から離さない姿絵を高欄に押し開き、柄付きの鏡を取り出して月に移ろう父の顔を鏡の面に近々と写し取って引き比べ、引き合わせて、よくよく見れば絵に留めてあるのは古の顔も艶あるみどりの鬢、鏡は今の老い窶れ頭の雪と変わっているが、変わらないで残る面影の目元、口元そのままに我が影にもさも似たり。。 爺(てて)方譲りの額の黒子、親子のしるし疑いなし。さては誠の父上か、なあ、懐かしや、恋しや、母は冥途の苔の下、日本とやらんに父上有とばかりにて、便りを聞かん導(しるべ)も無く、東の果てと聞くからに明ければ朝日を父ぞと拝み、暮れれば世界の図を開き、これは唐土、是が日本父は此処にましますよと絵図では近いようではあるが、三千余里のあなたとか、この世の対面は思い絶え、もしや冥途で逢う事もやと死なぬ先から来世を待ち、歎き暮らし、泣き明かして二十年の夜昼はわが身でさえ辛かった。よう生きていて下さった。父を拝む有り難やと声も惜しまぬ嬉し泣き。 一官は咽せ返り、楼門に縋って見上げれば、見下ろして、心が余って詞はなく、尽きぬ涙が哀れであるよ。 武勇に逸る和藤内は母と共に臥し沈めば、心なき兵(つわもの)も零す涙に鉄砲の火縄も湿めるばかりである。 ややあって、一官我々、此処へ来たのは、聟の甘輝を密かに頼みたき一大事。先ず、まず、御身に語るべき。門を開かせて城内へ入れてたべ。 なう、仰せなくともこれへと申す筈なれども、この国はいまだ軍なかば、韃靼王の掟にて親類縁者たりとも他国者は固く城内へは禁制との定めなり。 されどもこれは格別、こりゃ兵ども、如何せんと有りければ、料簡(考え、思慮)もない唐人共、いやいや、思いもよらぬこと、ならぬ、ならぬ、帰去来、帰去来(さあ、帰れ)、びんくはんたさつ、ぶおん、ぶおん、と又鉄砲を差し向けたので、人々は案に相違してあきれ果てて見えたのだが、母が進み出でて、尤も、尤も、大王よりの掟があれば力なし。さりながら、年寄ったこの母は何の用心が要るものぞ。あの姫にただ一言、物語をするだけ。 わらわ一人を通してたべ。誠、浮世の情である。手を合わせても聞き入れず、いやいや、女だとて宥免せよとの仰せはなし。 然らば我々料簡して、城内にあるうちは縄をかけて縛りおき、縄付きにして通せば韃靼王に聞こえても主君の言い訳、我等が身ばれ、急いで縄をかけられよ。
2025年09月03日
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しかるに某、去る天啓五年、この国を立ち退き、日本に渡る時に二歳になった娘の子を乳人の袖に捨て置いたのだが、その子の母は産み落とした当座に死んでいる。 かく言う父は八重の潮路の中絶えて、何時と言って父母も知らぬ身が育てば育つ草木(そうもく)の雨露(うろ)の恵みに長ずる如く天地の父母の助けにや、成人して今五常軍(じょうぐん)甘輝(かんき)と言う大名、一城の主の妻となるよし、商人の便りで聞き及んだ。 頼む方はこれだけだ。親を慕う心が有って娘さえ承引すれば、聟の甘輝もやすやすと頼まれるであろう。 これより道の程百八十里、打ち連れては人も怪しむであろう、吾一人道を変えて、和藤内は母を具して日本の漁船が吹き流されたと、頓智を以って人家に憩い、追いつくべし。 是より先は音に聞く千里が竹とて、虎の住む大藪がある。それを過ぎれば尋陽の江、これ猩々(しょうじょう、酒をよく飲むと言う想像上の動物。オラウータン)の住む所。鉱山が聳え立つ絶景の高山は、赤壁(せきへき)とて昔東波の配所だった所、それよりは甘輝の在城、獅子が城には程もない。その赤壁にて待ち揃え、万事を示し合わすべしと、方角と言っても知れない、白雲の日影を心覚えにて東西にこそ別れたのだ。 教えに任せて和藤内は人家を求めて忍ばんと甲斐甲斐しく母を背負い、たつきも知らぬ(よじ登る手がかり、手附き)岩巖石(いわがんぜき)、枯木の根ざし瀧津波(たきつなみ、急流)を飛び越え跳ね越え、飛鳥の如く、急げども末は果てしも無い大明国、人里は絶えて廣々(こうこう)たる千里が竹に迷い入ったのだ。 和藤内はほうどくわをぬかし(茫然自失、当惑して)、なう、母じゃ人、この脛骨に覚えがある。もう四五十里は来ましたが、人にも猿にも遇う事か、行けば行く程藪の中、むうう、合点たり、方角を知らない日本人、唐の狐がなぶるような、化かすならば化かせ、宿無し旅の行き着き次第、小豆(あづき)の飯(はん)の相伴と根笹大竹押し分け、踏み分けて猶奥深く行く先に、怪しや数万の人の声・責め皷・攻め太鼓、喇叭ちゃるめら。高音をそらし、ひゃうひゃうとこそ聞こえたのだ。 すわ、我々を見咎めて敵が取り巻く攻め太鼓か、又は狐のなす業かと茫然たりその折節に、空涼しくも風が起きる。砂をうがち、どうどうどう、竹葉(ちくよう)さっと巻き立て巻き立て、吹きおる。竹は剣の如く凄まじいなどとは愚か(言い足りない)であるよ。 和藤内はちっとも臆せずに、よめたりよめたり、扨ては異国の虎狩りであるよ。あの鉦(かね)太鼓は勢子の者、此処は聞こえる千里が原だ。虎が嘯けば風が起こるとか、猛獣の所為(しょい)と覚えたり。 二十四孝の楊香(ようきょう)は孝行の徳によって自然と遁れた悪虎の難、その孝行には劣るにしても忠義に勇む我が勇力、唐に渡っての力始め、神力(しんりき)益々日本力、刃で向かうのは大人げなし。虎は愚か、象でも鬼でもひとひしぎと尻をひっからげて身づくろい、母を囲って立った姿は西天(さいてん、印度)の獅子王も恐れるだろうと思われる。 案にたがわず吹く風と共に現れたる猛虎の形、ふし根に面を擦り付け、擦り付け、岩角に爪を研ぎ立て、二人を目掛けて挑みかかるのを事ともせずに、弓手で殴り、妻手(めて、右手)に受けてもぢってかければ身を躱し、虎の力が緩むとひらりと乗り移り、上になり下になって命比べ、根較べ、声を限りにえい、えい、えい、虎の怒り毛、怒り声、山も崩れるかと思う程である。 和藤内も大わらわ、虎も半分毛をむしられて、両方共に息疲れ、石上に突っ立てば虎も岩間に小首を投げて大息をついたその響き吹革(ふいごう、鍛冶職が火を起こすのに使う道具)を吹くかの如くである。 母が藪蔭から走り出て、やあやあ、和藤内、神國に生まれて神から受けた身躰髪膚(しんたいはっぷ)畜類に出合い力立てして怪我をするな。日本の地は離れても神はわが身に居る、五十川(いすずかわ)大神宮のお祓いをなど納受なからんや。と、肌の守りを渡されると、げに、尤もと押し頂き虎に差し向け、差し上げれば神国神秘のその不思議、猛りたるその勢いも忽ちに尾をふせ、耳を垂れてじりり、じりりと四足を知を締め、恐れわななき岩洞に(がんとう)に隠れ入る。 尾づ(尾の根本)を掴んで刎ね返し、打ち伏せ打ち伏せ、怯む所を乗っかり、足下にしっかりと踏まえたその姿は天(あま)の斑駒(ぶちこま)を取り押さえた素さんずいのない淺鳴(そさのを)の尊の神力・天照神の威徳ぞ有難き。 かかる所に勢子(せこ)の者が群がり来たるその中に、大将と思しき者が大音を挙げて、やあやあ、うぬはいづくの風来人(ふうらいじん、浮浪人、宿無しでさ迷い歩く者)だ。我が名を妨げる。 その虎は忝くも主君右軍将・李滔天より韃靼王への献上の為に狩り出だしたる虎であるぞ。 早々に渡せ、異議に及べばぶち殺さん。しゃがゎん(武人の意か。上官の転とも言う)しゃがゎんと喚きける。 李滔天と聞くより願う所と笑壺に入り、やあ、餓鬼も人数(諺、お前のような取るに足りないつまらない者でも人間の一人なので)しおらしい事をほざいたな、我が生国は大日本、風来とは舌ながしな(過言)、左程に欲しい虎であるならば、主君と頼む李滔天とやら、ところてんとやら、此処へ突きだして詫び言をさせろ、じきに会って用もある。 さもないうちは如何なることもならぬぞ、。ならぬとねめつけた。 やあ、物を言わせるな、討ち獲れやと一度に剣をはらりと抜いた。 心得たりと守りを虎の首に掛けて、母親の側にひっ据えれば、虎は繋いだ如くに働かない。 心やすしと太刀を刺しかざし群がる中に割って入り、八方無尽に割りたて割りたて、撫でまくる。 勢子の大将の安大人は官人を引き具して立ち帰り、おのれ老いぼれめ、余さないと一文字に斬り掛かる。猶も神明擁護の印、神力が、虎に加わってむっくりと起きて、身震いして、敵に向かって歯を鳴らし、猛り唸って飛び掛かった。 これは敵わない、と安大人は勢子が指していた剣、狩り鉾、数槍、手に当たるを幸いに投げつけ、投げつけ打ちかけた。 虎は弾力自在を得て、剣を宙にひっ咥え、ひっ咥えして岩に打ち当てて微塵に砕いた。刃の光は玉散る霰、氷を砕くのと異ならない。 打ち物が尽きてしまえば官人共は色めき立って逃げ惑う。 後ろからは和藤内が、どっこいやらぬと顯れ出で、安大人のそっ首を差し上げて、くるくると振り廻してえい、やっと打ちつければ、岩に熟柿を打つ如くに五躰をひしげて失せにかけり。 この勢いに官人原跡へ戻れば悪虎の口、先に行けば和藤内が二王立ちに突っ立っている。 ああ、申し、御堪忍、御免御免と手を合わせて、土に喰いつき泣いている。 和藤内は虎の背を撫でて、うぬらが小国と言って侮る日本人、虎さえ怖がる日本の手並みを覚えたか。我こそは音に聞こえたる鄭芝龍老一官の世倅(せがれ)、九州の平戸に成長した、和藤内とは我がことである。 先帝の妹宮・栴檀皇女に廻り遭い、三世の恩を報ぜん為に父の古郷に立ち帰り、國の乱を治めるのだ。さあ、命が惜しいのならば味方につけ。厭と言えば虎の餌食だ。厭か応かと詰め掛けた。 何の嫌でざりましょう、韃靼王に従うのも李滔天に従うのも、命が惜しいから。向後(きょうこう、これから後)お前の御家来共、御情けを頼み奉ると、地に鼻をつけて畏まった。 おお、でかした、でかした、去りながら我が家来になるからは日本流に月代を剃って、元服させ名も改めて召し使わんと、差し添えの小刀をはずさせてこれも当座の早剃刀、母も手に受け取って並ぶ頭の鉢の水、揉むや揉まずや無理むたい、片端から剃るやら、こぼつやら(剃ってはいけない所を誤って剃り落したり)、糸鬢・厚鬢を剃刀次第、瞬く間に剃り落して仕舞い、二櫛半のはらげ髪(櫛で二三度梳いただけの乱れ髪)、頭は日本髭は韃靼、身は唐人、互いに顔を見合わせて頭ひやっと風引いて、くっさめ、くっさめ、村雨の如くにさめざめと涙を流すのは道理であるよ。 親子はどっと打ち笑い、揃いも揃った供回り、名も日本と改めて何左衛門・何兵衛、太郎・次郎十郎まで面々が国所、頭字に名乗り、二行に立ってぼったてろ。、 承り候と、御先手の手振りの衆ちゃぐ忠左衛門、かぼちゃ右衛門るすん兵衛、とんきん兵衛、しゃむ太郎、ちゃぼ次郎ちゃるなん四郎、ほるなん五郎、うんすん六郎、すん吉九郎、もうる左衛門、じゃが太郎兵衛、さんとめ八郎、いぎりす兵衛、今帰りの御供先、跡に引き馬とらふの駒、母を助けて孝行の名、を取る、口とる、国を取る、誉は異国本朝に踏みまたげたる鞍鐙(くらあぶみ)、虎の背中に打ち乗って威勢を千里に顯わせり。
2025年09月01日
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その隙に、上臈が浜辺に降りて、夫婦を招き、日本人、日本人、なむきゃらちょんのふとらやあやあ、ありければ、小むつふっと笑い出し、ありゃ何と言うお経ぢゃと腹を抱えて可笑しがる。 やいやい、笑うな、あれは日本人、ここへおぢゃ、頼みたいと言う事と押しのけて立ち寄れば、上臈が涙に暮れながら、大明ちんしにょうろ、君(くん)けんくるめいたかりんかんきゅう、さいもうすがすんへいするともとんたかりんとんな、ありしてけんさんはいろ、とらやあとらやあ、とばとばかりにて又さめざめと泣き給えば、小むつは浜辺にころりと臥して、腹筋よって耐えかねる、和藤内は常々父の詞の唐音(とおいん)覚え、はっと手を突き頭を下げて、うすうすうさすはもう、さきがちんぶりかくさくきんないろ。きんにょうきんにょうと手を打って、互いにしみじみ手をとり組み、悲嘆の涙睦まじい。 小むつはくわっと急き上げ胸ぐら取って、これ男、唐人言葉は聞きとうない。如何にいたずらしればとて何時の便宜に唐三界(からさんがい、もろこし辺、中国あたり)あんまりな稼ぎ(働き、仕事)じゃ、やい、そこなとらやあや女、こっちの大事の男をようも、ようも、きんにょうにしたなあ、日本の男の塩梅は吸うてみることもなるまい。この塩梅を食うてみよと備中鍬を振り上げれば和藤内がひったくり、やい、目を開けて悋気せよ。 これこそは日頃から語っていた父一官の古(いにしえ)の主君・大明の帝の御妹、栴檀皇女であり、国の乱にて吹き流され給うとの御物語、御捨て難く、お痛わしや。直ぐに我が家にお供すれば庄屋への断りや代官所の詮議、何やかやと喧しい。とかく親仁と談合する。お主は内に帰って、早々これへ同道致せ。人が見ないうちに早く、早くと言いければ、小むつもはっと手を打って、さてもさても御愛しや、同じ日本の内でさえ王位高貴の姫君は荒い風にも当てないようにとすると聞く。ましてこれは見ぬ唐土の王胤(おういん、王の血筋の方)、浅ましい御姿であるよ。所も多いのに此処へ御船が寄った事も、主従の縁が深かった故、追っ付親仁様を呼んで参りましょう。 ああ、愛しのとらやあや、きんにょう、きんにょうと涙に暮れ、家路にこそは帰ったのだ。 かくとは知らず、一官夫婦は不思議な瑞夢を蒙ったと當国(肥前のくに松浦、佐賀県の東、西松浦郡と長崎県南、北松浦郡の辺り)松浦の住吉に詣で、帰るさの濵伝い、なうなう、と声をかけて招き寄せ栴檀皇女が亂国を逃れて御船がこれへ流れ寄った。 痛わしき有様と聞きもあえず、一官夫婦はあっと頭を地に附けて、お聞き及びも候わん、某は古えの鄭芝龍と申す者、ただ今の妻や子は日本の者で候が旧恩をつれなさを報じなければ忠臣の道は立ち申しません。 某こそは年寄ったれ、この倅、兵事軍術を嗜み、御覧の如く骨太に生まれついて大胆不敵の剛力者、今一度大明の御代に翻し、冥途にまします先帝の宸襟を安んじ奉らん。御心安く思しめせと世にも頼もしく申し上げれば、皇女は御涙にくれ給い、さては聞き及んでいる鄭芝龍とは御身よの。 李滔天の悪逆、韃靼国と心を合わせ、兄帝を失い、国を奪い、わらわも既に既に害せられんとしたりしを呉三桂夫婦の臣が介抱で、今日の今まで惜しからぬ露の命のつれなさを頼むとばかりの給って、又さめざめと泣きなさる。 互いに通じる詞の末、縁につるれば唐のもの悔いの八千代たび繰り返す、昔語りぞ哀れであるよ。 母も袂を絞り兼ねげにまことかような事を承らん印であったよ。今朝の暁に夫婦共に変わらぬ夢の告げ、軍(いくさ)は二千里を出でて西に利ありと、言う事をまざまざと見て候、やあ、和藤内、この夢を考え、君御出世の忠勤を励むべし。 いかに、いかにと、ありければ、和藤内はつっしんでただ今某はこの浜で、鴫の鳥と蛤との希代の業を見受けまして軍法の蒽奥(おんくおう、奥義)を悟り開いて候。千里を出でて西に利有りとは大明国は我が国を出て西に当たって千里の波涛、軍法の法の字は散水に去ると書く。散水は水である。水を去るとはこの出汐も水に任せて早く日本の地を去るべしとの神の告げ。 我等が本卦(八卦、乾の木偏にない税離震巽土偏の炊りっしん偏のない恨坤)師の卦に当たって、師は軍(いくさ)の義である。 坤(こん)上坎(かん)下の卦躰、一陽を以て衆陰を統(す)ぶるといっぱ、我が一身を以って数万騎の軍兵(ぐんぴょう)を従え保つ大将、今散水のさす潮にのって早く日本の地を去って、南京(なんきん)北京(ほくきん)に押し渡り、浮世に長らえあるならば、呉三桂と軍慮を合わせ、李滔天の賊徒を亡ぼし、軍勢を催して韃靼へ逆寄せに押し寄せて、韃靼頭の芥子坊主(頂上の髪だけ残して後は剃り落した頭、日本では子供の風。芥子の実の殻に形が似る)、捩じ首を貫き、追っぷせ、切り伏せ御代長久の凱歌をあげん事和藤内の心魂に(堅い信念を持つこと)に徹するところ。 天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず。吉凶は人によって日によらず。このまま直ぐに出船、道すがらに島々の夷を語らい、案の中(うち)なる(計画通り)の軍(いくさ)をせん。御出陣と勇んだのは三韓退治の神功皇后が艫舳(ともへ、船のへさきと船尾)に立ちし荒御前(あらみさき、軍の先頭を勤める勇武な神)を今見る如き勢いである。 父は大に感心して、おお、潔し、頼もしい。誠や、一粒(いちりゅう)の花の種は地中に朽ちずに終(つい)に千輪の梢に登ると言う本文、げに、一官の子なるぞや。 我々夫婦も同船にてお供申すべきが、大勢は目に立って所々の渡海の番所、国の咎めの恐れあり。夫婦は密かに藤津(ふじつ、佐賀県藤津郡の海岸、有明海の岸)の浦から出船すべし。 おことは此処より乗り出だし、便り良き小嶋に姫宮を預けおき、船路を変えて追い付けよ。 親子の忠心は正直の頭に神宿る、神風は船中何の気遣いもない。出合う所は唐土に隠れも無き千里が竹(架空の固有名詞)にて相待つべし。 急げ、急げと、姫宮にお暇申し、夫婦は遥かに別れていく。 和藤内は姫宮の御手を引き、元の唐船に遷し乗せ参らせ、押し出そうとする所に、女房が息を切らせて走り付き、船のとも綱をしっかりと取り、家には親仁様母様も皆お留守、いな(変な)ことと思ったが道理こそ、親子とっくと談合しめ、親子とっくと談合しめ、親御の国からお内儀を呼び、この小むつを置き去りにして親子夫婦が四人して、唐に身代を引く気じゃな。のせ あんまり酷い、連れないぞよ。何の見、落ちやし落ちが有る、唐高麗は愚かな事、天竺や雲の果てであっても共に連れんと言いかわした二人の仲、仲人もない挨拶無い二人が胸と胸とに起請も誓紙も収めてある。なんぼう飽かれた仲であっても、今までの情にせめて同じ船に乗せ、五里も十里も沖合の波に沈めて、ふかや鮫の餌になれと夫の手で殺して下され。和藤内殿と舳板(へいた)を叩き泣き口説き、放そうとする気色(きしょく)ないのだった。 おお、大事の門出、不吉のほえづら、そこを立ち退け、目に物見せんと櫂を取り上げれば、姫宮が慌てて縋り付き、とどめ給うのを押し退けて、櫂も折れよと船端を叩き、脅しに打つのを身に受けて、打たれて死ねば本望と、浜辺にどうと臥しまろび、声も惜しまず歎いていたが、ええ、これでも死なれぬなあ、よしよし、今はこれまで、結構者(お人よし)も事による、この海底に身を沈め瞋恚(しんい)は嫉妬の大蛇となって、元の契りは今日の仇、今に思い知らせんと、石を袂に拾い入れ岩ほの肩によじ登れば、駆け上。がって和藤内が抱き留めて、やい、こりゃ、粗相すな(軽はずみなことをするな)心底見つけた、軍なかばの大明国事太平に治まるまで、姫宮を汝に預け日本に留め置かんと思うのだが、筋無き(賤しい)女の心を伺い、態(わざ)とつれなく見せたのだ。 これ四百余州とつりがえの姫宮をしっかりと預け置くからは、男の心変わらぬ証拠、姫宮に仕え奉るのは舅に孝行、夫に仕える百倍である。命に代えて頼み入る。 国が治まって迎えの御舟のお供をせよ。と、宥めれば、聞き入れて、こちらには気遣いせず、随分無事でござれやと、言えども弱る女の心、せめて一夜の覚悟をしないで夢みたような別れやと夫の袖に縋り付く。わっとばかりに泣き叫ぶ心の内ぞやるせなき。 和藤内も胸が塞がり、至極の(道理至極との)思いに目もくらみ、共に心が乱れるのだが、かくては果てじ、いざさらば、さらばさらばの暇乞、栴檀女も涙ながらに追っ付け迎いの輿を待つ。その時に伴い帰るべし、必ず早くとの給えば畏まって和藤内、泣く泣く船を押し出だす。 又纜(ともづな)に取り付いて、言い残した事がある。暫くなう、と引き止めた。 ええ、聞き分けなしと引き切って船を深みに漕ぎ出だせば、詮方なく波に身を浸し、ただ手を挙げて舟よなう、舟よと呼べど出で舟の、甲斐の無い岩ほに駈け上って足をつまだて伸びあがり、見送る影も遠ざかる。 唐土の望夫山、わが朝のひれふる山、今のわが身の我が思い、石ともなれ山ともなれ。動かない去らないと掻き口説き涙限り、声限りに互いに呼ばれ招かれて、姿を隠す汐曇り、声を隔てる沖津波、沖の鴎・磯千鳥、泣き焦がれてぞ別れ行く舟路の末も知らぬ日の、筑紫は雲に埋めども跡に逢うそれではないが、擁護(おうご)の神風や、千波万波を押し切って、時も違えずに親子の船は唐土の地に着きにけり。 鄭芝龍一官は古郷に帰る唐錦、装束引き換え妻子に向かい、わが本国とは言いながら、時移り代変わり、天下はことごく李滔天が引きれてしまい、韃靼夷の奴となり、昔の朋友一族とても誰を尋ねんようもなし。 司馬将軍呉三桂の生死のありかも知れざれば、何を以って義兵の旗を挙げ、何国を一城ひ立てこもるべき所も無い。
2025年08月28日
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中にも降達(こうたつ)と言うがむしゃ者(がむしゃら、乱暴者)、いで、栴檀女を召し取り、一人の手柄にせんと、鎧の上に蓑を打ちかけて、海人も小舟に棹を指して入り江、入り江を漕ぎ廻り、この芦の影が気遣いなと押し分けた櫂の先、柳哥君がしっかりと取り、力に任せて撥ね返せば、舟端を踏み外して真俯けにかっぱと沈み、浮き上がろうとする所を櫂も折れよと畳みかけて、打てば沈み、浮かべば打ち、息も継がせず鼈(すっぽん、泥龜)が泥を泳ぐが如くにて、水底を潜って落ち失せてしまった。 無用の抜け駆け、殊に船まで仰せつけられた。渡りに船とはこのことと、船中に隠しておいた剱を取って横たえ、栴檀女をお乗せ参らせ我も乗らんとせし所に、何処より這い上がったのか降達は鎧も濡れ雫、鉾を引っ提げて二十騎ばかりが余すまじと追いかけて来る。 はあ、急がしや、御覧候え、敵が手酷く追いかけるので、しばしと防ぐその間、船底に隠れなさいませ。と、拾った剣と腰の剣、二刀に振って待ちかけた。 降達が程なく駆けつけて、憎っくき女め。櫂で物体表面返報と、長柄の鉾を押っ取り延べて突っかけた。 おお、そっちから当てがったこの剱、こっちからも返報と切って廻れば二十余人が女一人に斬りたてられて陸(くが)迷う蘆辺の鴎、一羽も飛び立たないうちに討たれる者もいる。 痛手を受けて逃げるもある。柳哥君も降達も数か所の深手、朱になって群芦を押し分け、掻き分け追い入り、追い込み互いが眼(まなこ)に血が入ってしまった。前後も分からぬめくら打ち、岸の岩角切っ先に電光石火の命を限り、危うい有様なのだ。 降達は鉾も切り折られてゐざり寄ってむんずと組み、柳哥君が持っていた剣をもぎ取ろう、もぎ取ろうと捩じりあう足を踏み溜めきれずに、のけざまにぱっぱと臥した。すぐさま乗ってのっかかり、刺し通し、刺し通しして、頸をふっとと掻き切ってにっこと笑いし、心の内、嬉しさは類なかりし。 なう、なう、姫宮様、お身には怪我もなかったか。船はそのままそこにありますかと、よろぼい寄ってこの躰では船中のお供はならぬ。又敵が寄せて来れば、もうどうも叶わぬ。潮に任せて何処までも落ち給え。沖へ船が出るまではこの女が陸(くが)に控えておりまする。敵が何万騎寄せて来ても命限り、腕限りに防御いたしましょう。さりながら、主従二度の対面は御縁と命ばかりですぞ。随分と御無事で、御無事で、なむ、諸天諸仏、別して八大龍神、万乗の君の姫宮の御船を守護し給えやと、船梁(船の中に渡した横木)を取って押し出せば、折しも引く潮の名残を何と栴檀女、涙でしおれる潮風に龍神が納受の沖つ風、沖を遥かに流れゆく。 あら、心やすや、嬉しやと、よし、この上は生き延びてもわが身ひとつ、死んでも誰を友千鳥、生死の海は渡れども、夫の行方、子の行方、君が行方は覚束ない、波の浮世の海を越え兼ねたと言うならば言え、この一心の早手船、仁義の櫓櫂・武勇の楫、折っても折れぬ沖津波、寄せ来る鯨波(ときのこえ)かととて、剣にすがって、たぢ、たぢ、たぢ、よろ、よろ、よろぼい寄る方の磯山おろし松の風、乱れし髪をかき上げて、辺りを睨んで立ったりし和漢女の手本、紙、筆にも写し傳えたり。 第 二 緜蛮(めんばん)たる黄鳥(最も美しい声で鳴く鶯)は丘隅(きゅうぐう)に留まる。人として留まる所に留まらないならば鳥にしかざるとかや。 ここに、大日本肥前の国松浦の郡(こおり)平戸の郷(ごう)に釣りを垂れ、網を引いて世を渡る和藤内三官(わとうないさんかん)と言う若者が居る。 妻も同じ海士(あま)の業、藻に住む虫のわれからと、仲人なしの手枕にくくり枕としめ合いし小むつと言う名に目出て、世を睦ましく暮らしていた。 そも、この和藤内の父はもと日本の者ではない。大明国の忠臣・大師(だいし、周の時代には三公のひとつで人臣の最高位)大爺(たいや、敬称)鄭芝龍と言った者であるが、暗愚な帝を諫めかねて自ら長沙(ちょうしゃ、流罪)の罪を避けて、この日の本に筑紫潟・老一官と名を改めて、浦人に契りをこめ、この男子(おのこ)を儲けたので、母の和国の和の字を用い、父は唐人の唐の声をかたどって和藤内三官を名乗って二十余年の春も立ち、秋も過ぎゆく十月の小六月(ころくがつ)と言って温かな、備中鍬(びっちゅうぐわ)に魚籠(めかご)を提げ、身の過ぎわい(生業)と言うので、夕凪に夫婦が連れ立って出かけたのだ。 見渡せば沙頭(さとう、砂の上)に印を刻む鴎、沖洲に集(すだ)く浦千鳥、潮の干潟をすき返し、蛤(はまぐり)を踏んで色々の貝を採り、小づま(着物の褄)がしょぼしょぼと濡れる。拾った貝は何と何、ごうな(宿借り)、したたみ(きさご)、あさり貝、塩吹上のすだれ貝、ちらと見染め姫貝に一筆書いて送りたい、ではないが、平貝(たいらがい)、相手の女は口を開けて、ほや貝ではないがほやほやと笑う。 赤貝に、心を寄せるではないが、寄せ貝(波などが岸に寄せた貝)、ああ、心が痛むはないが、いたら貝(赤貝の異名)、君には縋りたいと近寄るけれど醋(す、酢)貝と、吸いつくのだが我は鮑(あわび)の片思い、憎い、さるぼ、そもじの猿頬(さるぼ)に拳固をくらわせたいぞや、さざえ貝の如き拳で。梅の花貝(桜貝の異名)桜貝、寝もしないで一人明かすではないが、赤螺(あかにし)の誰を待てとや、馬刀(まて)貝、人の見るではないが、海松(むる)を喰って忘れ貝、我が二人寝の床ではないがとこぶし(鮑に似た小型の貝)は身にしみじみと沁みる、しじみ貝、いわい貝(鮑や蛤のように祝儀に用いる貝)、門出によしの法螺貝(ほらかい)は悦びの貝だと取ったのだ。 中に一つの大蛤が日陰で大口を開けて、取る人有とも知らずに白い潮泡を吹いて盛り上げているのは、げにや、蛤能く気を吐いて楼臺をなすと言うのもこのよなのかと、見とれている所に磯の藻屑に飛び渡りあさる羽音面白く、降り居る鴫(しぎ)がきっと見つけて、嘴を怒らせてただひと啄(つつき)と狙い寄る。 やあ、言われぬぞ、鴫殿、看経(かんきん、鴫が静かに佇む様を言う)もする身でこれが本の殺生戒、蛤もはま口をくわっと破戒無慚、飛びついてかち、かち、かち、つつく所を貝合わせにしっかりと喰い合わせて、動かさせない。鴫は俄かに興ざめ顔、引いつしゃくっつ羽叩きして、頭を振って岩根に寄せ、打ち砕かんず鳥の智慧、蛤は砂地の得物潮の溜まりに引き込まんと尻下がりに引き入れる。羽節を張ってぱっと立ち、一丈ばかりもあがれども吊られて落ちては又立ち上がり、ぱっと立ってはころりと落ち、鴫の羽がき百羽がき、毛を逆立てては爭いける。 和藤内はつくづくと見て、備中鍬をからりと捨て、あっあ、面白し、雪折れ竹に本来の面目を悟り、臂(ひぢ)を切って祖師西来意の輪を開きしも尤もかな、理(ことわり)かな。 我は父の教えに依ってもろこしの兵書を学び、本朝古來名将の合戦勝負の道理を考え、軍法に心を委ねたが、今鴫と蛤の諍いによって軍法の奥義が一時に開けたぞ。 蛤は貝の固いのを頼んで鴫が来たのを知らず、鴫は嘴の鋭いのに誇って蛤が殻の口を閉じるのを知らず、貝は放さじ鴫は放さんとする。前に気を配って後ろを顧みるに隙なし。 ここに臨んで、我手も濡らさずに二つを一度に引っ掴むはいと易し。蛤は貝、の固いのも詮(せん)なく鴫の嘴の尖りも遂にその徳なかるべし。 これぞ両雄を戦わしめてその虚を打つと言う軍法の秘密、もろこしには秦の始皇、六国を呑んだ連衡の謀(はかりごと)、本朝の太平記を見ると御醍醐の帝、天下に王として蛤の大口を開いた政(まつりごと)は取り締めなくて、相模入道と言う鴫鎌倉に羽叩きして奢りの嘴(くちばし)鋭く吉野千早に潮を吹かせ申せしに、楠正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)と言う二つの貝に嘴を閉じ責められて、むしり取ったるその虚に乗って、うつせ貝。蛤共に掴んだのは、いち物(優れた)高氏将軍が武略に長じた所である。 誠や、父一官の生国は大明韃靼、鴫と蛤とが国諍い、今合戦の最中だと伝え聞く。哀れ、唐土に渡り、この理を以って彼の理を推し、攻め戦う程ならば大明韃靼両国を一飲みにせんものを。と、眼も離さずに工夫を凝らし、思い潜めたる武士(もののふ)の一念の末ぞ逞しき。 ことわりかなや、この男(おのこ)は唐土に押し渡り、大明と韃靼を平均して異国本朝に名を上げた延平王(えんぺいおう)・国性爺(こくせんや)は、この若者の事である。 小むつが遠目に、なう、なう、もう潮がさしてくる。何をきょろりとしてぞいのと走り寄り、これはさて、鴫と蛤が口を吸うか。女夫と言う事を今知った。どうやら犬の様で見ともない。どりゃ、放して進ぜようと笄(こうがい)を外して口を押し割れば、鴫は喜び蘆辺を指して、満ち来る潮に蛤も砂に姿を隠したのだ。 はあ、時雨そいだ、いざ帰ろうと見やる洲崎の楫を絶え、揺られ寄ったのは珍しい造りの船。鯨船でもなし、唐の茶船か何じゃ知らぬ、と船底を見れば、唐土土人と思しきて二人余りの上臈が芙蓉の顔(かんばせ)柳の眉、袖は涙の汐風に化粧もはげて面痩せて、哀れにも美しく、雨に萎れた初花に目鼻を付けた如くである。 小むつは小声になって、ありゃ、絵に描いてある唐の后だ。悪戯(いたずら、みだらな事)して流されたものじゃわいな。 ああ、そうじゃ、そうじゃ、よい推量、俺は悪く合点して楊貴妃の幽霊かと思って怖かった。何でもよい、女房ではないかいな、むう、嫌らしい、唐の女房が目につくか。おやじ様が始めの様に唐にござって、こなたもあっちに生まれたら、そのような女房を抱いて寝さっしゃっであろうが、日本で生まれた因果でわしが様な女房を持って口惜しかろうの。 はあ、ひょんな事ばかり、なんぼう美しいと言っても、唐の女房だ。衣装付き、頭附き、弁財天を見るようで勿体なくて、気がはって寝られはしないと笑ったのだ。
2025年08月26日
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先年、大明が飢饉の時に、李蹈天が邪智を以って諸国の御蔵の米を盗み、君に憐れみ無き故におのれ韃靼の合力を受けて、民を救うと言いなし、国中に散らし与え、万民をなつけ、謀反の臍(ほぞ)を固めたとしろし召さぬ愚かさよ。 彼が左の眼を刳りしは、これぞ韃靼一味の一味(味方)への合図で、御覧候え難殿の額、大明とは大きに明らかなりと言う字訓で、月日を並べて書いた文字、この大明は南陽(みなみよう)国にして日の国である。韃靼は北陰(きたいん)国にして月の国、陽に属して日に譬えた左の眼(まなこ)を刳ったのは、この大明の日の国を韃靼の手に入れんとの一味のしるし、使も聡(さと)くその理を悟り、悦んで立ち帰った。 積悪姦曲の佞臣はやく五刑の罪に沈めずんば、聖人出世のこの国、忽ち蒙古の域におち、尾を振り皮をかぶらないだけのこと、畜類の奴となり、天地の怒り宗苗(そうびょう)の神が祟りをなし、その罪は帝の一身に帰するであろう。拳を以って大地を打つことで外れても呉三桂のこの言葉は違わないだろう。 恨めしの叡慮やと泣いて、怒って、理を尽くし、詞を尽くして奏したのだ。 帝は大に逆鱗あり、物知り顔である文字の講釈、理を付けて言うならば白雪却って黒とも言う義があるぞ。皆、李蹈天と嫉む詞、事も無いのに甲冑を帯し、朕に近寄る汝こそは逆臣よと立ちかかって御足にかけ、呉三桂の真向(まっこう、額の正面)を踏みつけ給えば、不思議やな御殿がしきりに鳴動して、勅筆の額がゆるぎ出で、大の字の金刀点(きんとうてん、第三画)、明の字の日片(ひへん)が微塵に砕け散ったるは天の告げかと恐ろしし。 呉三桂はなお身を惜しまずに、ええ、情けなや。御眼も眩みしか、御耳も聾(詞)いたるか。大の字は一人と書いた筆画、一人とは天子帝の御事、その一人の一点を取れば帝の御身は半身、明の字に片が無ければ日の光が無い国は常闇(とこやみ、永久のやみ、永久に世が乱れる事)、忝くもあの額は御先祖大祖高皇帝(洪武帝)、御子孫繁盛、御代万歳と宸翰を染め給う。 宗苗の神の御怒りを恐ろしいと思召して、道を糺し、非を改め、御代を保ちましまさば、君に投げ打つ呉三桂の一命は踏み殺され、蹴殺されても厭わないどころか、土ともなれ、灰ともなれ、忠臣の道は違えないと御衣(ぎょい)に縋って大声を挙げて泣き、涙を流して諫めたのは世々の鏡と聞こえける。 かかる所に四方八面に人馬の音、貝鐘を鳴らして大鼓を打ち、鬨の声が地を動かし、天も傾くばかりなり。 思い設けていた呉三桂が高殿に駆け上がり見渡せば、山も里も韃靼勢が旗をなびかせ、弓鉄砲、内裏を取り巻いて攻め寄せたのは、潮(うしお)が満ちて来る如くである。 寄せ手の大将・梅勒王が庭上に馬を乗り入れて、大音を挙げて、そもそも我が国の王・順治大王がこの国の后華清夫人に恋慕とは謀(はかりごと)、懐妊の后を召し取り、大明の帝の種を絶やさん為に李蹈天が眼を刳って一味のしるしを見せたる故に、鬨を移さずに押し寄せたのだ。 とても叶わぬ呉三桂、帝も后も絡めとり、味方に下り韃靼王の台所につくばい、淅水(かしみず、米のとぎ汁)でも啜って、命を繋げと呼ばわった。 やあ、事が可笑しいぞ、二百八十年、草木も揺るがぬ明朝を攻め破らんなんどとは、大海に横たわる鯨を蟻が狙うのに異ならず。 あれ、追い払え、追い払えと駆け回って下知するのだが、我が手勢は百騎ばかりの徒歩武者以外は公家にも武家にも誰有って居り合う味方は居なかった。ただ拳を握って立っていた所に、女房の柳哥君が水子(みずこ、赤子)を肌に抱きながら后のお手を引き、なう、口惜しや、御運の末、公卿大臣を始め、雑人下郎に至るまで李滔天に一味して、御味方は我々ばかり。無念至極と歯噛みをなす。 ああ、悔やむな、悔やむな、言うても益なし。但しは妃の胎内に帝の種を宿し給えば、大事の御身、一方を切り抜けて君諸共に、某お供申すべし。その子も此処に捨て置き、おことはひとまず御妹を介抱して海登(かいどう)の湊を指して落ちよ、落ちよと言いければ、心得たりとかいがいしく栴檀皇女の御手を引き、金川門(きんせんもん)細道を二人忍んで落ちなさる。 いで、これからは大手の敵を一当てに当てて追い散らし、易々落とし奉らん、御座を去らさせ給うなと言い捨てて、駈け出し、明朝第一の臣下、大司馬将軍呉三桂と名乗りかけ、百騎にならぬ手勢にて數百万の蒙古の軍兵を割りたて、おん廻し、無二無三に斬り入れば、韃靼勢も余さじと鉄砲・石火矢を隙間なく矢玉(やぎょく)を飛ばせて、戦いける。 その隙に、李滔天の弟李海方(解放)が玉躰(ぎょくたい)近くに乱れ入り、帝の御てを両方からしっかりと取る。后は夢とも弁えず、天罰知らずの大悪人、御恩も冥加も忘れしかと縋り給えば、おお、己とても逃がさぬと、取って突きのけ、氷の利剣を御胸にさし当てた。 君は怒れる龍顔に御涙をかけながら、げに、刃の錆は刃より出て刃を腐らし、檜山の火は檜から出て檜を焼く。仇も情けも我が身からでるのだと、今こそ思い知ったぞ。 鄭芝龍は呉三桂の諫めを用いずに、おのれらが諂いに誑かされて、国を失い、身を失い末代まで名を流す。口に甘い食べ物は腹中に入って害をなすと知らざりし我が愚かさよ。汝らも知る如く、夫人(ぶにん)の胎内に十月に当たる我が子が有る。誕生も程あるまじ。月日の光を見せよかし。せめての情とばかりにて御涙にぞ呉れなさる。 ああ、ならぬ、ならぬ、大事の眼を刳り出したのは何のため。忠節でも義理でもない、心を君に心を許させ韃靼と一味せん為。晴(めだま)ひとつが知行になり、君の首が国になると取って引き寄せ、御首を水もたまらずに撃ち落として、さあ、李海方、この首は韃靼王に送るべし。汝は妃を絡め来たれと言い捨てて、寄せ手の陣へと駆け入りたり。 司馬将軍呉三桂は敵をあまた討ち取り、何なく一方を切り開いて君を落さんと立ち帰れば、御首もなき尊骸(そんがい)朱になって伏し給い、李海方は妃を搦めて引っ立てる。 やあ、上手い所に出合ったな、我が君のとむらい軍、齎(とき)にこそ外れたり、非時を喰おうと飛び掛かり李海方の真向を二つにさっと切り割って、妃の戒め(縛った縄)を切りほどき、涙ながらに尊骸を押し直せば代々に伝わる御国譲り、御即位のしるしの印綬が肌にかけられたり。 ええ、ありがたや、これさえあれば御誕生の若宮、御位心安し。と、鎧の肌に押し入れ、一先ずは御后にお供致そう。先ず御遺骸を隠そうかと、難儀は二、身は一つ、打ち砕かんと敵の勢が一度にどっと乱れ入るのを、さしったりと切り払い、込み入れば殴り立て、打ち伏せ薙ぎ伏せ捲りたて、走り帰って、今はこれまで、事は急である。 御死骸はともかくも、一大事はお世継ぎと、妃の手を引いて立ち出でれば、このごろ生まれた我が水子、乳房を慕ってわっと泣く。ええ、邪魔らしい、さりながら、己も我が世継だと引き寄せて鉾の柄にしっかりと結わえ付けて、こりゃ、父が討ち死にしたならば、成人して若宮に忠臣の根継ぎとなれ。我らが家の木間ぶり(木の為に取り残して置く果実、木守り)と振りかたげてぞ、落人を切り留めんと敵の兵(つわもの)慕い寄れば踏み止まり、切り捨て、打ち捨て、引く潮の海登(かいどう)の湊に着きにけり。 是より台洲府(だいすふ)に渡らんと、見れども折節船一艘も無く、渚に沿って立っていた所、四方の山々、森の影、打ちかにける鉄砲は横切る雨の如くである。 呉三桂はさね(小さな鉄や革の板)よき鎧で飛んで来る玉を受け止め、受け止め、妃を負い、囲えども運の極めや、胸板にはっしと当たる玉の緒も、切れてあえなくなり給う。 呉三桂もはっとばかり前後に暮れて(前後も分からずに、茫然と)立っていたのだが、御母后は是非もなし、十善の御子種をやみやみと胎内にて淡(あわ、泡)となさん(消えさせる)も言う甲斐がないと、剣を抜き持って后の肌に押し寛げて、脇腹に押し当て十文字に裂き破れば、血潮の中の初声は玉の様なる男の子親王、嬉しくも嬉し、悲しくも悲し。 遣る方もなく、涙を流しながらも母后の袖を引きちぎって押し包み、抱き上げたのだが待てしばし、取り巻きたる四方の敵、死骸を見つけて若宮を隠し取ったと、行く末まで探されては、宮を育てんようもなし、ととっくと思案して、我が子を引き寄せ衣装を剥ぎ、宮に打掛け参らせて、剣を取り直して水子の胸先を刺し通し、刺し通し、妃の腹に押し入れ、あっ晴れおのれは果報者よ。良い時に生まれ合わせて十善太子の御身代わり、でかしおった、出かいた、娑婆の親に心を遺すな、親も心は残さぬぞ、と言えども残る浮き名残り、鎧の袖に若宮を包む、包む涙に咽返り別れ行くこそ哀れなり。 かくとは知らず柳哥君は栴檀女を誘って湊口まで落ち延びたのだが、前後には敵が満ち満ちたり。さあ、ここまで逃れるだけと、繁る葦間をかき分けて、身を忍ばせて隠れている。 李滔天の侍大将・安大人が手勢を引き具してどっと駈け寄せ、今の鉄砲は確かに后か呉三桂に当たったと覚える。辺りを見廻し、是を身よ、妃を仕留めたは。はあ、腹を切り裂き、懐妊の王子まで殺した。 忠節立てする呉三桂、主君を棄て、名を捨てても命は惜しいか。きゃつは人前すたったぞ。この上は彼の妻の柳哥君と栴檀女を尋ねるばかり。眼(まなこ)を配れ、高名せよ。と、四方に分かれ走り往く。
2025年08月22日
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国 姓 爺 合 戦 花飛び、蝶駭(おどろ)けども人愁えず。(花はひらひらと飛び散り、蝶は驚いて飛び立つ。春が去っても宮裏の人は悲しまない) 水殿雲廊、別に春を置く。(水や雲を描いた宮殿や廊は季節の春とは別で、何時も春のように明るい) 曉日(ぎょうじつ)よそおいなす千騎(ぎ)の女、絳脣(こうしん)翠黛(すいたい)色を交え、土も蘭奢(らんじゃ)の梅の香や、桃も桜も、とこしえに、花を見せたる南京の時代(ときよ)ぞさかり、盛んなる。(夜明けから千人の宮女が美しく装い、赤い唇、緑の黛(まゆずみ)色とりどりで、土もかんばしい梅が香る如く、桃も桜も永遠に花を咲かせるように、常にはなやかな南京の時代は誠に盛んであるよ) そもそも大明(みん)十七代思宗烈(しそうれつ)皇帝と申し奉るは光宗(こうそう)皇帝第二の皇子、代々の譲りの糸筋も絶えず乱れぬ青柳と靡き従う四方の國、宝を積んで貢物、歌舞遊宴に長じ給い、玉楼金殿(美しい宮殿)の中には三夫人、九嬪二十七人の世婦(せいふ)八十一人の女御が有る。 およそ三千の容色(ようしょく)かんばせをよろこばしめ(約三千人の美しい宮女が喜々としており)、群臣諸侯が媚を求め、珍物奇翫(ちんぶつきかん、変わった弄びもの)の捧げ物、二月中旬に瓜を献ずる栄花である。 ここに、三千第一の御寵愛華清夫人(かせいぶにん)は去年の秋より御懐妊あって、この月にお産のあたり月、君の叡感(天子の御感)臣下の悦び、聖壽(天子の年齢)四十に及びなされても世継の太子がいらっしゃらない。 かねて天地への御祈り、この度にしるしあり。王子誕生は疑いなしと、産屋に明珠美玉を連ね、産着に越羅蜀錦を裁ち、御産は今かと用意ある。 中にも大司馬将軍呉三桂の妻柳哥君、この頃初子を平産して、殊に男子の乳なればとて、御乳つけの役人、その外めのと侍女(じにょ)阿監(あかん、宮女を監督する女官)などの役々の官女が付き添って掌(たなごころ)の上の珊瑚の玉ぞと嘉祝(かしづ)きける。 時に崇禎十七年中呂(りょ)上旬、韃靼国の主・順治大王から使いを以て虎の皮・豹の皮、南海の火浣布(かかんふ)到支國(ししこく)の馬肝石(ばかんせき)、その外、邊国島々の寶を庭上に並べさせ、使者の梅勒王(ばいろくおう)つっしんで、韃靼国と大民国は古(いにしえ)より威を励み、國を争い軍兵(ぐんぴょう)を動かし、鉾先を交え、互いに仇を結ぶこと、且は隣国のよしみに違い、且は民の煩いであった。 わが韃靼は大国で、七珍万寶暗からず(乏しくない)とは申せ、女の形は余国に劣って候。この大明の帝には華清夫人とて隠れなき美人がおわする由、わが大王恋焦がれて深く所望に候えば、こちらに送り給わって大王の后と仰ぎ、大明と韃靼は向後(きょうこう)親子の因み(関係)をなし、長く和睦をいたさんと形の如くの御調物(みつぎもの)、数ならねども鎮護大将梅勒王が后の御迎えの為に参朝とこそ奏したのだ。 帝を始め卿相雲客、今に始まらない韃靼の難題、すわ、諍乱(しょうらん)の基ぞと、宸襟安からざる所に、第一の臣下、李蹈天(りとうてん)が進み出て、今までは国の恥辱を慎み隠し置き候、去んぬる辛(かのと)の巳(み)の年、北京で五穀が実らず、万民が飢渇に及びし刻(きざみ)、某密かに韃靼を頼み、米粟数万石の合力を受け、国民を救い候き。 その返報には何事でも韃靼の望みを一度はからず叶えようと固く契約仕る。 君は今、四海を保ち、民を治め給うも、一度は韃靼の情によってである。恩を知らないのは鬼畜に同じ、御名残はさることではありまするが、とくとく后を送られてしかるべしとぞ奏聞したのだ。 大司馬将軍・呉三桂は待漏殿にてとっくと聞き、御階(みはし)おばしま(欄干、手すり)を踏み散らして李蹈天の膝元にどうと座し、不憫や、御辺は何時の間に畜生の奴とはなったるぞや。忝くも大民国は三皇(さんこう)五帝が礼楽を起こして、孔孟が教えを垂れ給い、五常五倫の道は今が盛りである。 天竺には仏が因果を説いて、断悪修善の道あり。日本には正直中常の神明の道有り。韃靼国には道もなく、法も無く、飽くまでに喰らい、暖かく着て、猛き者は上位に立ち、弱き者は下につく。善人悪人、智者愚者の分かちも無く、畜類同然の北狄(ほくてき、北方の野蛮人)、俗が呼んで畜生国と言う。 如何に御辺が頼むとて、数百万石の米穀を合力(ごうりょく)して、この国を救いしとは訝しい、訝しい。民が疲れて飢えに及ぶとは何故ぞ。上に、由無き奢りをすすめ、宴楽に宝を費やし、民百姓を責めはたり(厳しく責め立て、やかましく催促する)己の栄華を事とするその費えを止めるならば五年や十年は民を養うに事をかかぬ大国の徳、叡慮もはからず、公卿詮議にも及ばず、懐妊の后を軽々しく夷(えびす)の手に渡さんと言う心底、いささか心得ず。 契約は御辺との相対、上には知ろし召さぬこと、畜生国の貢ぎ物は内裏の穢れだ、取って捨てよ官人共と、北狄を事ともせずに國の威光を見せたのは、管仲が九回諸侯を集めて斉の国威を示したのも、このようなものだったろう。 韃靼の使者・梅勒王は大いに怒って、やあやあ、大国小国はともあれ、合力を得て民を養った徳も知らず、契約を変ずるのはこの大明こそは道も無き、法も無き、手に足りぬ(取るに足りない)畜生国だ。 軍兵を以て押し寄せ、帝も后もひとくるめに我が大王の履持ちにすること、日を数えて待つべしと席を蹴立てて立ち帰ろうとした。 李蹈天が引き留めて、暫く、暫く、憤りは尤も至極せり。某は先年、貴国の合力を受けて、一粒も身の為にせずに國を助けたのは忠臣の道であるのに、今また約を変じて兵乱を招くならば、君を悩ませ、民を苦しめ、剰(あまつさ)え恩を知らぬ畜生国と言わせるのは御代の恥、國の恥。 この度は臣が身を捨て、君を安んじ、国の恥を清める忠臣の仕業、是見給えと小剣を逆手に抜き持ちゆんでの眼(まなこ)にぐっと突き立て、瞼をかけてくるり、くるりと刳(く)り出し、朱(あけ)になった目の玉を引っ掴んで、なう、使者殿、両眼は一身の日月、左の眼(まなこ)は陽に属して日輪である、片目なければ片輪もの、一眼を刳って韃靼王に奉る。 国の恩を報じる道を重んじて義を守る。大明の帝の忠臣の振る舞いこれで候と、笏に据えて差し出せば梅勒王は押し頂いて、ああ、あっぱれ、忠節や候。 ただ今、呉三桂の言い分にては、嫌とも両国権を争い、合戦に及ぶ所、天下の為に身を棄てて事を治め給う事、神妙、神妙。忠臣とも賢臣とも申すにも余りあり。后を迎え取ったるも同然。 我が大王の叡感、使いに立ったる某も、面目これに過ぎるべからず。はやお暇ぞと奏しける。 叡慮殊に麗しく、李蹈天が目を刳ったのは伍子胥(ごししょ)の余風、呉三桂の遠い慮(おもんぱかり)范蠡(越王句践に仕えた功臣で、苦心の結果呉王を破り会稽の恥をそそいだが、永く留まる事の危険を察知して自ら退身して巨万の富を積んだ)の趣がある。 両臣が政(まつりごと)を糺す我が国は千代万代も変わるまじ。 韃靼の使い、早く本国に返すべしと、宴楽殿に入り給う。 げに佞臣と忠臣との表は似ている紛れ者、目利きを知らぬ南京の君が栄華ぞ例なき、、 ここに帝の御妹、栴檀皇女と申せしは、まだお年も十六夜月(いざよい)の、都の宮人のたねや、この世に降る露の玉をのべたる御かたち、管弦の道、書(ふみ)の道、文字も働く口ずさみ、漢詩は日本で歌というらしい、男女を和らぐとや、ここにも恋の仲立ちは変わらぬ物とものと詩を吟じ、年よりひねた(ませた)御心、兄帝の奢りの様、色に耽り、酒宴に誇り、朝まつりごと(朝廷の政治)し給わぬ御いけんの種にもと、行儀正しき御身持ち、おとぎの女官を召し寄せて浮世咄も囁きの、耳は恋する目は睨む、心が伽羅のたきさしの思いうずみて明かさるる。長生殿の方から出御なりと呼ばわって二十歳までの后達が二百人、梅と桜の造り枝百人ずつ片分けて振りかたげ、左右に召し具し入り給い、なう、妹君、我万乗の位に就き、臣下が多いその中で、右軍将の李蹈天は遂に朕が命に背かず、明け暮れに心を慰める第一の忠臣、御身の心を懸けると聞く。 幸い朕が妹婿にしようと思うのだが、御身は更に承引なく、今日までは打ち過ぎたしかるに此の度韃靼国から無体の難義を言いかけて、既に合戦に及び国の乱となる所を、呉三桂などは忠臣顔、口先の道理は誰も言う事、李蹈天が左の眼を刳って宥めたので、使も伏して帰ったのだ。 国の為、君の為、身を棄てて片輪となった。末代無双の忠臣、賞せずんばあるべからず。是非に朕が妹婿北京(ほくきん)の都を譲らんと約くせしが、御身は承引あるまじと、この花軍を催した。 賢女立てしてすんすんとすげなき御身が心を表し、梅花を味方に参らする。朕の味方は桜花、女官共に戦わせ、桜が散って梅が勝つならば御身の心に任すべし。桜が勝って梅花が散らば御身の負けに極まって李蹈天の妻にする。 天道次第。縁次第、勝も負けるも風流陣、かかれやかかれ、と宣旨がある。下知に従う梅桜、左右に分かれて備えける。 勅諚であれば姫宮も、よし力なく(まあ、仕方がない)、さりながら、心に染まぬ夫定め、そうのう(易々と)引くべき様(よう)はなし。花もわが身も咲きかけて、當今(とうぎん、当代の天子)妹、栴檀皇女の縁の分け目の晴れ軍、大将軍は我なりと名乗りもあえぬかざしの梅、たが袖触れし梢には群れいる鶯の翼に駈け散らす、羽音もかくやと梅が香も、芬々(芬々)と打ち乱れ、受つ、流しつ戦ったのだ。 姫君が下知しての給わく、柳うずまく木陰には風が有ると知るべし。弱き枝にはつぼみを持たせ、強き枝には花をひらかせよ。移ろう(盛りを過ぎた)枝をば木偏に若(すはゑ、若くて真っすぐに伸びた細い枝)に代えて互いに力を合わすべし。と、花に馴れたる(花の事をよく知り心得た)下知に依って喚(おめ)いてかかれば花を踏んで、同じく惜しむ色も有り。 只一文字に頭に挿せば二月(にげつ)の雪と散るもある。落花狼藉入り乱れて軍は花をぞ散らしけり。兼ねて帝の仰せに依り、心を合わせた女官達、梅方がわざと打ち負けて、枝も花も折り乱されてむらむら、ぱっと引きければ、勝つ色を見せて桜花、姫宮と李蹈天との縁組は決まったとあまたの女官同音に、勝鬨(かちどき)挙げるしんにゅうの加陵頻伽(かりょうびんが、仏説に見える想像上の鳥で、顔は美女の如く、特に声が美しい)の声が宮中に響き渡ったのは、千羽鶯・百千鳥のさえずり交わす如くである。 司馬将軍呉三桂、鎧冑さわやかに出で立ちて、偃月の鉾(長刀に似て、刃が三たわけた武器)を会釈もなく振り回し、梅も桜も散々に薙ぎ散らして御前に畏まり、ただ今玉座の辺に合戦が有りとて鯨波(ときのこえ)が殿中に響き、宮中がもってのほかの騒ぎによって、物の具を固めて馳せ参じ候えば、さて、馬鹿らしや、御妹栴檀女と李蹈天の縁定めの花軍とは天地が開けてこの方かかるたわけた例を聞かず。 君、知ろしめさずや一家に仁あれば一国に仁を起こし、一人貪戻(たんれい、むさぼって道にもとること)なれば一国乱を起こすと言えり。上の好む所に従うのは民の習い、この事を聞き及び山がつや土民が嫁取り聟取りで、此処にて花軍、かしこにても花軍と、喧口偏に花闘言偏に争(けんかとうしょう)のはしとなり、花は散って打ち物わざ、誠の軍が起こることは鏡に掛けて見る如し。 ただ今にも逆臣がおこり、宮中の攻め入り、喚き叫ぶ藝波は聞こえても、しは、例の花軍だと馳せ参る勢もなく、玉躰(ぎょくたい)をやみやみと逆臣の刃に掛ける事は、勿体無しとも浅ましとも悔やむに甲斐のあるべきか。 その逆臣佞臣とは李蹈天のこと、君は忘れ給いしか、御若年の時、鄭芝龍(ていしりゅう)と申す者が佞臣を退けたまえと諫め申すを、逆鱗あって鄭芝龍は追い放たれ、今老一官と名を変えて日本肥前の国、平戸とかやに住まい致すると承る。 その鄭芝龍がこの事を伝え聞き、日本にまで大民国の恥辱が広まるやも知れぬ。
2025年08月20日
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巡り巡って我が君に廻り遭いしも我が夫(つま)の念力・通力・神力であり、渡邊の綱と碓氷の定光をただ今、これへ招くべし。 哀れ、我が子をも譜代の家来と思召し、敵御成敗の御馬の口をも取るならば、父が一期(いちご)の素懐を遂げ、母が鬼女の苦患(くげん)を逃れ、成仏得脱は間違いなし。二世(この世とあの世)の苦しみ助かるのも、ただ大将の御慈悲ですと角を傾け、手を合わせ、ひれ伏してこそ泣いている。 かかる所に、綱と定光、草木を押し分けて、たあ、我が君様はこれに御座候、両人今夜信濃路を通った所、誰が言うともなく源の頼光は、あの山のあなたに、この谷のこなたにと、手を取って引くが如くにて覚えずこれまで参りましたと申し上げれば、頼光は鬼女の神変を委しく語り、奇異の思いを為し給う。 さて両人を末武に引き合わせて、この上は女の望みに任せて、汝の一子に主従の契約をしよう。これへ召せと宣えば、母は悦び、快道丸、快道丸幾つでもれば、あい、と答えてつっと出で、どっかと坐したる顔の色、なう、母(かか)様、あれは何処の叔父様じゃ。土産貰おう、嬉しいと手を叩いて喜んだ。愛嬌はあるが凄まじい形相だ。さながら愛染明王(あいぜんみょうおう、愛欲をつかさどり、怒りの相を現わす明王)の笑い顔かと見間違えてしまう。 母は立ち寄って、やい、慮外者(りょがいもの、無礼者)め、あの御方様こそ常々言い聞かせている源の頼光様だ。今日よりはおこと(そなた)が殿様奉公、精を出しましょうと申しなさいな。 と、教えられて、はっと手を突き一礼して、随分奉公精に入り(念入りにして)敵の首を幾つでも引き抜いて上げましょうと、老い先が見えた広言に、御悦びは浅からず。 母は重ねて、あの岩窟に鹿・猪を追い込み置き、折々刀を試し見れば、御覧候え、あの如くに引き裂き候。是非、お目見えのしるしに相撲を所望と言いければ、ずんど立って岩屋の口に立てたる盤石(岩)を軽々と取って投げ退け、両手を広げつつ立つ所に、内から荒熊が飛んで出て来たのを、どっこい任せろとしっかと抱いた。 相手の熊を事ともせずに捩付けようとするが、いっかな動かばこそ、からみつけばこじ放し、組み付けば押し伏せて、呻いた咽笛を二つ三つ叩きつけて、怯む所を取って押さえ、片足を掴んでくる、くる、くる、二三間かっぱと投げ、ああ、草臥れた、乳が飲みたい、母(かか)様と母の膝にぞ凭れたのだ。 頼光はなはだ御喜悦有り、ためしなき強力(ごうりき)、さしがはこの母の子供であったなあ。即ちただ今冠させて坂田の金時と名付けて四王天(欲界六天のひとつで、須弥山の半腹の四方)の四天(帝釈天に仕え、仏経を守護する四王天の主。四天王と同じ)を表して定光・末武・綱・金時を頼光が家の四天王、四夷八蛮を斬り靡け、源氏の威光を四海に照らさんしるしぞと、各々ざざめきあい給う。綱と定光が詞を揃えて、君はしろしめし給わずや、近江の国高懸山(こうかけやま)には悪鬼が住んで国民を悩まし、折々は都方にも現れる故に、諸国の武士に悪鬼退治の宣旨が下りていると言えども、お請け申す者もなし。 武勇に長ぜし武士(もののふ)で鬼神退治あるにおいては、勲功勧賞(くんこうけしょう、ほうび)望みに任せるとの高札が所々に立てられておりまする。 この勢いで、悪鬼退治を思召し立ち給えと勧め申せば、頼光、それこそは武運が開けるであろう瑞相だ。多くの人数は無用である。主従五人で山続きに分け入って、鬼神が自在に身を変じて千騎となったなら千騎を討ち、天下太平の忠義をあらわして敵を滅ぼす前表(前知らせ)、はやうったてと進み給えば、金時悦んで、おお、鬼神退治とは面白かろう。 これ、人々、この金時は生所も知らず宿もない山姥の子であるから、産所も山、産屋も山、育つ所も山であるから、山道の先陣を仕ると真っ先に立って出でければ、おお、でかしたでかした、こころにかかる事はない、母はもとより化生の身、有りとも無しとも陽炎(かげろう)の影身にそうて守り神、これまでぞ金時、これまでぞ我が君、暇申して帰る山の峰にいざよう月かと見れば、まだ中空に暮れぬ日かげが暮れたのも通力、庵と見えたのなくも輪廻を離れない妄執の雲水、流れ、流れて谷に音あり。梢に声ある。 風に消え消え、嵐にちりちり、塵が積もって山姥となった。鬼女が有様を見るか、見るかと峰にかけり、谷に響いて今まで此処に在るよと見えし山また山に、山廻り、山また山に山巡りして行方も知らずなりにける。 第 五 瑶臺(ようたい、玉の台、玉楼)に霜満てり。一声の玄鶴(老鶴)空に啼く。 巴口偏に交(揚子江の上流)秋深し。五夜(午前四時頃)の哀猿月に叫ぶ。物すさまじき山路かな。 かくて頼光は四天王を相具し、鳥も通わぬ高懸(こうかけ)山は屏風を立てたる如くであるよ。 悪所(険しい所)を嫌わず主従五騎、木の根に取り付き岩間を伝い、足に任せて行く先も、次第次第に道暗く、山とも谷とも知れないので、とある木の根に腰を打掛てしばらく休憩なされたのだ。 頼光が仰せなさるには、かほどに険しい山中をはや二三里も過ぎたけれども、何の不思議も無いのは必定、世俗の虚説であろう。実否(じっぷ)を質し、重ねて取り巻き討ち取るべし。いざ、凱陣せん、人々と言わせも果てずにあら恐ろしや、虚空に数万の声が有って不思議ありや、不思議なしや、思い知らせん、思い知れと、えい、えい、どっと笑う声は波が打ち寄せて来るが如きである。 時に、向こうの松の枝に五尺余りの女の首、鉄漿ぐろに色白く、眼(まなこ)の光は赫奕(かくやく、明るく輝くさま)として、川辺の氷は一面に朱を流したようであり、にっと由ばむ顔ばせは身の毛もよだつばかりである。 末武が進み出て、ようよう、どうもどうも、鬼の娘に御見もじ、この末武がめが思いの種、八幡一夜の御情けあれ。心中づくなら後とも言わず今目の前に陸奥の千曳の石と我が恋と、重い思いを比べよと、大石をえい、やっと片手に掴んで投げつければ、変化の首はそのままにかき消すようにぞ消え失せた。 時に、山河が震動して雷電稲妻おびただしく、二丈余りの悪鬼の形、火焔を降らし、枯木を投げかけ石上に突っ立ち、しうぞくだつばがんがんがっと、呼ばわる声に、此処の山蔭、谷陰、岩陰、杉の木の間に散乱して、あまたの眷属一度にどっとおめいてかかる。 さ知ったりと(心得た)と頼光は髭切を差しかざして、数万の中に乱れ入り、おめき叫んで戦いける。 通力自在の変化だに名剣の徳に恐れをなし、大半は滅びて失せてしまった。 大将・破顔鬼怒りを為し、頼光めがけて飛んで掛かる。それを金時が表に立ち塞がり、やあ、させぬ、させぬ、顔の赤いのが自慢か。そっちの顔が赤ければ、俺の貌もまっかいな。母(かか)さまからの譲りの力の塩梅を見よと言う、夕日に輝く紅葉葉の、いづれをそれと紅の両手をかけて組んだれども、二丈に余る鬼神の姿、二尺に足りぬ金時が、膝節までも届かばこそ、幾とせ古りし楠の根を纏いたる朝顔の朝日に消える命の程、危うくも又不敵であるよ。 鬼神はいらって片手を伸ばして金時の堂骨を掴んでかろがろと差し上げ、微塵になれと投げつければ宙にてひらりと跳ね返り、落ち様に鬼神の両足を一つに掴んで、はがい締め大地のどうと打ち付けた。そして起き上がる所を踏み倒し、打ち伏せねじ伏せて、ねじ伏せて馬乗りにしっかりと乗り、一息ふっと吐いたのは、悪鬼に勝る勢い、、げに、山姥の御子息だ、いやいや、どっとぞ褒めにける。 渡邊・末武・定光は、なんど我らもと馳せ集まり、千筋の縄をかけたのだ。 おお、心地よし、潔し、ただこのままに都に引け。合点じゃ、まっかせ、金時が銅よりも太い大綱をしっかりと掴んで、やあ、やるぞえ、本綱・中綱・木遣りでせい、やあ、天魔のひよえい、えいえい、天魔の通力をことごとく亡ぼして、凱陣あるこそ目出たけれ。 かくて帝都には高懸山の変化の討っ手、諸卿が詮議有る所に、大納言兼冬公が参内あって、さても某が聟の源頼光、勅宣の御高札に任せて、江州高懸山に分け入り変化を生け捕り、入洛仕って候えども勅勘の身を憚り、某を以て奏聞仕り候、早く佞臣の実否を質されて賞罰を願い奉る。それそれとありければ、金時の縄取で三人が四方を取り囲み、庭上にひっ据えた鬼神の怒りおめく声は宮中に鳴り響き、帝を始め月卿雲客(公卿殿上人)、宮女、上下の男女共、恐れおののいているばかりである。 関白忠平が御階近くに出られて、変化退治の武功、叡感浅からず、この恩賞によって頼光の出仕御免有り、はやはや鬼神の頭を斬り、淀川の臥しつけに沈めるべしとの綸言なりと詞がまだ終わらないうちに渡邊が居だけ高になって、からからと笑い、こは、一天の君の勅諚とも覚えぬ物かな。もとより罪なき頼光の御免有とは何のこと、鬼神退治の恩賞は望み次第との御高札によって、我々は一命を擲って鬼神を生け捕り候えでも、いまだ洛中には平の正盛と言う恐ろしき鬼神が住んで、科無き者を讒して国土を騒がし候、 きゃつを我々に給わってこの鬼神と共に退治仕まつらん。是が第一の望みですと、憚り無く申しける。 関白殿を始め、有り合う諸卿は色を損じて、威勢盛んの正盛、たとえ如何なる誤りがあろうとも、誅せんことは叶い難し。何にてもほかの義を望むべしと有りければ、定光を始め末武・金時が口々に、叶わぬ望みをまだまだと申しても無益の至り、この方で御無心申さぬからは、そっち御用も承らぬ、 この談合をさらりと元に戻して、この鬼神の縄を切りほどき、庭上に放つならば、我々も共に腹を搔き破って共に悪鬼となって現れ、禁裏はおろか日本国中に仇をなさんと、既に縄を切ろうとした。 卿相雲客、あら怖や。やれ待て、渡邊、麁相しやるな、定光殿、末武殿、金時とやら良い子じゃ、頼む、縄を解くな。鬼を放してたまるものかと、御簾や几帳に身を縮め、震えわななき給いける。 関白道理に服し給い、奏聞衆議判は力なく、検非違使勅をこうぶりて正盛に縄をかけ、四天王に渡された。こは有り難しとひっぷせ(引き伏せ)、さあ一人は片づけたぞ。とてものことに清原右大将高藤と言う大悪人の鬼神の棟梁も給わらんと、言上すれば、諸卿が目と目をきっと合わせて、かたずを飲んでおわします。 関白殿は眉をひそめて、忝くも高藤は女院の御弟、如何に罪科があるとはいえ右大将の官人を武士の手に渡された古例はない。この議においては叶うまじとの給えば、御尤も御尤も、ならぬことを是非とは申さない。さらば鬼の縄を解けとつっと寄れば、ああ、ああ、気が短い、渡邊殿、談合致そう。綱殿と、慌て騒ぎ給う所に右大将がつっと駈け出て、やあ、推参なるわっぱどもめ、己ら如き匹夫の分にて、某を亡ぼさん事は蓮の糸にて大石を吊り下げんとするに似ている。 早くその場を立ち退くべし、と嘲笑って立っている。綱は堪らずに駆け出て高藤の諸膝をかいてどうどひっしき、やあ、匹夫とは誰の事だ。己が罪は天下一統存知の所、白状には及ばずと高手小手にぞ戒めたり(縛った)。 時を移さずに、舅中納言兼冬卿が頼光を誘引して参内あれば、叡感はなはだ麗しく、源氏の本領もとのごとく鎮守府の将軍に任ぜられ、兼冬の娘おもだか姫は四位の女官に補(ふ)せられて、御祝言の吉日まで勅諚有ったのは有難いことである。 さて、右大将の配所は鬼界ケ嶋へ、正盛は鬼神と共に誅すべしとの綸言、こは有り難し、有り難し。それ計え、承ると、正盛を引き出して首を宙で打ち落とし、残る鬼神は四天王が嬲り殺しの手玉ぞと、定光・末武・両足取れば、金時が片手に角を持ち、えいえい声して引く程に、なんなく首をねじ切って左右にさっと退いても、退かないのは夫婦・主従・一門一家、縁者親類が豊かなる流れを汲んで源の氏も繁盛、国も繁昌、五穀豊饒(ぶにょう)の民繁盛、蓬莱国の秋津嶋治まる御代とぞ祝いける。
2025年08月16日
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源 頼光 道行 第 四 仇形(あだなり)と名にこそ立てれ櫻花、名にこそ立てれ桜花、散りても遂に根に帰る。 都の春を頼みても浮世の渕瀬は常ならぬ。流れの行方は汲んで知れ。 源の頼光は判官夫婦の情けにて御命逃れしと、又もや他所へ抜け出して森の下風、木の葉の雫、落人(おちうど)の身となり給う。 戦場出陣の折ならで、召しも習わぬ武者草鞋(こんず草鞋、丈夫な草鞋)、それではない藁の沓((くつ)で御足を痛めながら草の露が散る蔭にさえ今は憂き身を置く方も無い。 鳴子に騒ぐ群鳥の散りじり別れ落ち給う御有様ぞ哀れなり。 美濃のお山はそなたとも、いさ、白菊や、秣(まぐさ)刈る牧の童に道問えば、花によそえて紫欄(しらん)紫蘭、知らない、知らないと子供でさえ侮る。 葛(かつら)蔦葛が這い広がって行く先を遮り、堰き留めようとするかのように関ケ原、日高の杣(そま)も打ち曇り、さっと袂にひと時雨。しばし宿を借りる笠縫いの里を遥かに見渡せば、野分に乱れる萩薄、野守の鏡(野中の水が隠れているが、その水鏡)の曇りを吹き払うように、世に埋もれている身の暗い影を吹き払ってほしい。 息吹の里に軒端葺く苫(とま)は荒みて淋しいのだが、絵に写したら美しかろう。賤が藁家に立つ煙、消えては結び棚引きては風の間に間に立ち迷う。 ああ、人界の善悪に、誘われ靡く人心、かくやとばかり観ずれば五欲(色・声・香・味・触、財・色・食・名・睡眠)七情(喜・怒・憂・懼・愛・憎・欲)様々な罪を得るではないが、うるまの里近く、友にも疎く親しきも不破になる、それではないが、不破の中山の山深くに木の間を漏れる入相の鐘がこうこうと物凄く、谷の架け橋とだえして、峰に妻乞う鹿の声、子を悲しみて猿(ましら)が鳴く。 夜半の鵺鳥(ぬえどり、夜に寂しい声で鳴く鳥とする)夜の鶴、涙を誘うものであるようだ。 暮れ行く空は風絶えて、四方の山々黙然と座禅の相を現わせば、谷の川音しんしんと寝物語は美濃近江、国の境よ、世の中の盛者必衰の境かと、我が身に問えば我が答は否ではない。 稲葉山、後に見做して何時かまた世に遇う、それではないが、青野が原ならば、今を昔の世語りと思い続けて行く末は、垂井赤坂青墓も、それぞとばかり言う、夕間暮れに、松の嵐の、とうとうとう、さらさら、さっと吹きおろし雲の行き来も他所よりは早暮れすぎて物すごく、名をだに知らぬ山中に忙然(ぼうぜん、前後もわからずにぼんやりとして)として立ち給う。 草木が繁ってがんがんたる岨蔭(そばかげ)横折れして、枯木の枝を見上げれば、こはいかに、老若男女の血汐の生首を梢にひっしと掛けたるは唯熟柿がなっている如くであるよ。 頼光はちっとも臆せずに、むむ、言われぬ狐か狸殿、落人と侮って魂を抜こうとな。しや、物々し、と名刀の髭切りを抜きかけて瞬きもせずに守り詰めて立ちなさる。 時に、向こうの木陰より小山の如き大男、丸太舟をこぎ出すように、ぬめって(滑らかにすべり出て)歩み寄り、頼光の足元にどっかと座り込んだ有様は、追剥の大将と看板を打ったるようであるよ。 頼光ものさばり声、こりゃこりゃ、男、うぬが面付きはただ者ではない。商売も合点である。某(それがし)は善光寺参詣の上方者である。路銀を切らし一宿すべき様もない。近頃無心千万ながらわぬしが常々盗み貯めた金銀衣類は言うに及ばず、身に纏いし古褞袍(おんぽう、古い粗末な衣類)と腰に差した刀も、はやはた、脱いで渡せ。命だけは助けてつかわす。と、言い終わらないうちに、からからと笑い、やあら、でっちめが、味をやるよ。身が一迹(いっせき、特有、独特)の科白の裏をくわすとは痴れ者、意地張って大怪我をまくらんよりはうぬが褞袍と腰に差した赤鰯も早く此処へまけ出せ(隠さずに全部出せ)。 渡さぬだてを吐き出せば、こりゃ、この首の連中に加えて遣ろう。西の枝か東の枝か、さあさあ、望めと詰めかけたのだが、頼光は返答もなさらない。 ああ、この程の旅の疲れ、とろとろと寝てくれんと、岩角に駆け上がり首を二ッつ三っッつ引っ掴んで飛び降り、おお、日本一の枕ごさんなれと両足をずっと踏み伸ばして豊かに臥したる御有様は、不敵にもまた恐ろしい。 山賊今は堪り兼ね、柄に手を掛けて抜かん、抜かんと藻掻くのだが、神武智勇の名将の三徳(知・仁・勇)兼備の威に押され、眼(まなこ)も眩み腕痺れ、覚えず震え出したのだが、さすがの山賊ほうど呆れ(呆れてぼんやりする様)我十余年の今日まで多。くの者に出会いしが一度もかようの不覚は取らなかった。 さもあれ、御身は唯人ではない。包まずに語り聞かせ給え。 おお、さもあらん。およそこの土(ど)に生ある者で我が名を知らぬ者やある。源の満仲の嫡子摂津の守頼光ぞよ。と、聞きも終えずにはっと飛びしさり、頭を大地にこすりつけて、ああ、勿体なや、勿体なや。 さればこそ始めより、世の常ならず見奉り候。さては平の正盛、清原の右大将の讒言にてかかり御身になり給うよな。所こそあれ、この所にて会い奉るのも宿世の御縁、我は卜部の熊竹と申す山賊の張本、向後(今後)は一命を擲って君に仕え奉らん。お沓取とでも思召し候えかし。と、思い入ったる詞の末、頼光喜色ななめならず、おお、頼もしい、しからば今日よりは主従ぞや、子孫に長く武功を伝え幾千代かけし壽(ことぶき)に、卜部の末竹と名乗るべしとの給えば、有り難し、有り難し、昨日までは追剥、今日よりは忝くも源氏の郎党・卜部の末武、お供申す。山も谷も草も木も、皆わが君の御領内、この山の獣も鳥も虫も皆、傍輩(ほうばい)、懸けたる首は傍輩の烏への置き土産、さらばさらばと見返せば山路を帰るや、一洞(ひとつの洞)のような虚しい谷のような声、山高くして海が近く、谷深くして水は遠い。 前には海、水じゅうじゃうとして月は真如の光を掲げ、後ろには嶺松魏々(ぎぎ、聳える)として風常楽の夢を破る。刑鞭蒲(刑罰に用いる鞭は柔らかな蒲としたが)朽ちて、蛍空しく去る。諌皷(かんこ、君を諫める時に使う皷は誰も用いる者がないので)苔深くして鳥は驚かずとでも言うべきだろうか。 心は昔に変わらないけれども、一念化生(一心に思いつめて生まれ変わった)の鬼女と人は見る、陸奥の信夫(しのぶ)の山にあるかとすれば、今日は甲斐が嶺(ね)木曾の山、昨日は浅間・伊吹山、比良や横川(よかわ)の花ぐもり、雪を担いて山がつ(山中に住む賤しい者、樵・ここりや杣人・そまびとなど)の樵路に通う花のかげ、休む重荷に肩を貸し、月を伴う山路には雪月花を弄ぶ。心はしずの目に見えぬ鬼とや人が言うのであれば言え、良し悪しではなくて、四つ足のそれではないが、足引きの山姥が山巡りするぞ苦しき。 暮れるのも早い山蔭に行き暮れなされて頼光、道なき方に踏み紛い、里はいずくと誰にかも問う、それではないが東西が分からずに立ち迷う。 お供の末竹が辺りを見廻して、や、あれに柴を刈る女がやすらっているからには人里も遠くはないでしょう。究竟(くっきょう、何よりの)案内者、これ、女、この山は何と言う、麓の里に下る者さが案内せよ。と、言いければ、これは信州上路(あげろ)の山の頂、御覧の如く道も無く、麓の道とて東北は五十余里、秋田の地、幾重の谷、峰に縄を渡して橋となし、恐ろしや唐土(もろこし)の蜀川(しょくせん、険阻を以て知られる中国四川省の川)、天竺の流砂、葱嶺とやらの難所にも勝とも劣らぬ、北は越後・越中の境川、これも谷を二越え、十里に余れば今日の内には思いもよらず、御愛しや、我等が方にお泊めしたく思い候えども若き殿達、この柴嚊(しばかか、柴を刈るかか)の住み家はお嫌であろうか。と、言う風情はふつつかならぬ山人の、薪に花とはこれを言うのか。 頼光は打ち笑み、いや、それは逆様、あらくましき(荒々しい、粗暴な)若者共をそなたこそは厭われるであろう。行き暮れたる山道、柴刈りは愚か山姥の住家でも苦しからずとの給えば、歯っと驚く顔ばせにて、むむ、さては自らが山姥と見えけるか。山姥とは山奥に住む鬼女、よし鬼也とも人であっても山に住む女であれば、さ見給うも理(ことわり)や、そも、山姥は生所(せいじょ)も知らず宿も無し。ただ雲水を頼りにて、至らぬ山の奥も無く人間ならずと恐れるが、ある時は山柴の山路疲れる肩を助け、里まで送る折も有り、又或時は織姫(機織り女)五百機(いおはた、多くの機・はた)立てる窓の梅、枝の鶯よろしく、絲繰り、綿繰り、紡績(ほうせき)の宿に身を置き、人に雇われて手間仕事、櫛さえ取らぬ乱れ髪、女の鬼とはことわりの、世を空蝉の殻ならぬ、唐ころも、千声万声の砧に声のしってい、しってい、からころ槌の音、こたまに響く山彦も皆山姥の業(わざ)也と思うも見るも人心。煩悩が有れば菩提有り。仏有れば衆生が居る。衆生有れば山姥もどうしていない筈がありましょうや。 都に帰りて世語りになさいませ、夜すがら物語を致しましょう。と、廬に誘い入れにけり。 小高き所を設え、整え、構えて頼光を請じ奉れば、いやいや、左様になされる者ではありませんよ。一夜の程は軒の下でも明かすべし。見申せば一人住みの女性、この方へはお構いなく渡世の営みをせられかし。と、辞退したところ、いや、紅は園生に植えても隠れなき。大将軍の御骨柄(おこつがら)は紛う所は候わず。 誠や、源の摂津の守殿は清原右大臣の讒奏にて、御身を危うくされて諸国に流離い彷徨いなさるとは山の奥にいても隠れの無い事。その人物であると御名乗り候わば自らも身の上を語り参らせん。やあ、定めて旅の疲れ、何をがな、おもてなし。折節、山の木の実も皆落ち果てぬ、げに、思い付きたり、筑紫宰府の山にいがぐり一枝昨日まで有ったのだが、これを取って参らせん。と、表に出てから振り返り、必ず、必ず、奥の一間を覗き給うな、見給うな。追っ付帰らん待ち給えと岩根を踏むことは飛鳥の如く、山深くに飛んで入ってしまった。 末武は横手を打って、筑紫の宰府までは五百余里、今の間に帰らんとや。きゃつが仕方、言い分始めから飲み込めず(不可解だ)。君の武功を抑えんと魔障変化(魔物や化け物)の爲す所、追っかけて討ちとめてくれんと、駈け出そうとするのを、やれ、待て。 変化と知って立ち騒げば、彼に心を奪われる、こちらは静まって却ってきゃつを誑かし、嬲り殺しに退治しよう。 さもあれ、彼の詞に従って奥の一間を見ずに置くのも遅れたり(臆した、臆病だ)。と、主従の二人が覗いて見給えば、あら、凄まじや。五六歳と思しき童(わらんべ)、五體の色は朱の如く、おどろの産髪(うぶかみ)が四方に乱れ、餌食と思しき鹿・狼・猪を引き裂いて積み重ね、木の根を枕に臥している様子は誠の鬼の子はこれであろうと思われる。 知らず、我等は羅刹國(らせつこく、食人鬼の羅刹の住む国)に来たのかと身の毛がいよ立つ程である。 時を移さずに主の女、栗を手折ってふりかたげ(肩に背負い)帰った所を、頼光膝丸を抜き放って、はたと打てばひらりとはづし、ちょうど切ればはっと開きしさって睨むかんばせは変わり、角(つの)は三日月、両眼(りょうがん)は寒夜の星のように輝いている。 怒れる面にはらはらと零れる涙にくれながら、うたてやな、恥ずかしや、恨みなき我が君に仇をなそうとは思わないが、御太刀影(刀の光)驚いて、自性(じしょう)を現わし候ぞや。 この上は、力なき枯野の薄穂に出でて、身の上懺悔申すべし。我、元は遊女の身、坂田の何某と幾代をかけし契りの仲、夫の父を物部と言う者討たせ、その敵を討たん為にあかぬ別れの梓弓、夫の運命拙くて妹に先を越され、親の敵を討たないだけではなくてそのこと故に、源氏の大将、漂泊の御身となり給う。 今生(こんじょう)のこの身にてこの鬱憤は晴れ難い。腹を掻き切って魂魄汝が胎(はら)に宿り日本無双の大力、一騎當千の男子と生まれ変わり敵の余類を滅ぼさんと天に訴え、地に叫び、誓いの刃に臥したのでした。 それよりわが身もただならず、子を持つ、それではないが、望月の影深く、人倫離れた山に籠れば、いつの間にかは山巡り、一念の角はそばだち、眼(まなこ)に光る邪正一如と見る時は、鬼にも有らず人にも有らず、名は山姥の山廻り、春は三吉野初瀬山高間の山の白妙にまがう霞もそれかとて花を尋ねて山巡り、秋はさやけき空の色、変わらぬ影も更科や、姥捨て山の名にめでて、月見る方へと山を巡り、冬は冴え行く比良が嶽(だけ)、越の白山(しらやま)時雨行く、雲を起こして雲に乗り、雪を誘って山廻り。
2025年08月12日
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畢竟、この判官の為には我が子であって我が子ではない。 現世の親とは御身のこと、頼光を失い、冠者丸を世に立てるべきであろうか。後悔がないようにに、心の底を真っすぐに聞かま欲ししと有りければ、小侍従ははっと胸が塞がり、文を繰り返し巻き返して顔を傾けて目を塞ぎ、胸に手を組みさしうつむき、思案とりどり、様々に、しばしいらえもなかりしが、ああ、誠にそうじゃもの、なう、判官殿、たとえ判官殿が此処を落としたとして頼光様を助けても、かくまで栄える右大将のこと、御首を見るまでは雲の裏側に仮に隠れたとしてもも、そのまま助けおく筈もないでしょう。 時には冠者丸も世に出ずに、ひとつも取らず、二つも取らずに源氏の破滅の時なり。いたわしながら討ち奉り、冠者を源氏の大将軍にして清和の系図を継がせるのはわが身の幸せ、あの子の果報と言わせも果てずに、おお、皆まで聞くに及ばず、さこそ思いて尋ねた事、御首を打つのは今日の中(なか)、用意をしようと立つ所に、是なう、御身の為には相伝のお主、世の謗り天の咎め、仏神の怒りも恐ろしい、みずからが一太刀に騙し寄って刺し通さん。場所はこの持仏堂、千に一つも仕損じはしない、もしも失敗したならば声を掛けるのを合図に駈けつけて首取り給え、おお、潔い、しからば御身が討たれよ。 次の間に忍んでいて、声次第に駈け出でよう、必ず急くまい。気遣いなされるな、首尾よくと別れて座敷に立ち出でた。 跡を見送って北の方、恥ずかしや、男も女も慎むべきは舌三寸、子を思うばかりの詞に心を見さがされ(隅々まで見られ)疑いを受けるのも尤も、詞での言い訳は誠しからず。所詮は御身代わりに冠者丸が首を討って、頼光の御難を救い、邪なき心を誠の心、この仏こそ証拠ぞと貞女の道を守る刀、袂の下に押し隠す。 数珠も我が子に、別れの涙、今日一日を現世(げんぜ)未来、生死ならぬ障子をさっと開けければ冠者丸が立ち出でて、今日は仏事の日とは申しながら片親にてもある者はわきて(特別に)祝い日、目出度き御顔を見せ給えとにこやかなるを見るにつけて、母は心が乱れるのだが、さあらぬ躰(てい)にて、この祝い日に髪をも結わずに取り上げ髪(ざっと束ねた髪)は何事ぞ、頼光様はいず方にましますか。 さん候、築山の涼み所にお入りです。我等もお側におりましたが残暑凌ぎ難く、行水を、も解き、自鬢に取り上げて見苦しいであろうと、つと掻き撫でる手つき手元も今の間の形見と思えば胸が迫り、物言う声もしどろである。 これ、冠者丸、現世の親よりも未来の親が先ず大事、行水をしたのは幸いです。帷子(かたびら)を着かえ身を清め、御経を読んで父聖霊への手向け、若き身だとて無常の命、何時、なんどきとも定めはない。自他平等の回向をしなさいよ。 あっと答えて冠者丸、親がかさねる死に装束、その身はそれとも知らずに白帷子、思い染めないのが実に哀れであるよ。 能勢の判官仲國は妻の小侍従と共に、頼光を騙し討ちにしようとはあたかも蟷螂の斧、却って御佩刀(みはかし)にかかって顯(あら)われては一大事、あら、気づかわし、胸安からずと仏間の妻戸に伺えば、静かにお経の声が聞こえる。 すはや、これぞ頼光の御声、かく御心を許されし上は何事かあらん。物音がそよともすれば妻戸一枚を蹴破って、ただ一打ちとはばき本を抜きかけて、耳をそばだてて控えている。 冠者丸は一心不亂に読む読経の紐もたけた。ああ、歎くまい、遅れまいと母は刀をするりと抜き後ろに立ちは立ったのだが、髪は黒々と色白で、読誦の弁舌さわやかに、百人にも優れた生まれつき見るに目もくれ心消え、太刀を振り上げた手も弱り、涙の闇に迷ったのだが、さて、可愛いやな後ろからこの母が斬り殺すとは露知らず、慈現視衆生福壽海無量、と読むのか不憫であるよ。 親を殺す子にばかり天罰が下るのは何事か。我の如くに子を殺す親にも罰当たれかし。奈落に早く沈んだならばこの世の思いはしないであろうと、太刀を振り上げては泣き沈み、消え入っては又振り上げ、声をも立てずにかっぱと伏し、からりと投げた太刀よりも胸を切り裂く切ない思いの刃、涙の玉が四方に飛び散るほどである。 御経もはや巻軸の時刻(読み終わる頃)過ぎたのだが、討つに討たれず、せんかた尽きて、判官殿はおわせぬか、出合い給えと呼ばわれば、さしったりと(心得た)ばかりに妻戸を蹴破って、飛んで入る。冠者丸も跳びひさり、互いに顔をきっと見合わせ、呆れて言葉は無かったが、母は泣く泣く声を挙げて、御不審は御尤も、やれ、冠者丸、右大将より頼光を討ち奉れ、さすればおことを源氏の大将と仰がんとの内通、判官殿の名が大事、御身を害して頼光の首と敵をたぶらかして御難儀を救い、御身も母も末代に女の道、忠孝の名をとどめんとこの太刀を、幾度か打ち付けようと打ち付けようとはしたのだが、愛し可愛いに目が眩み、どうでも母はよう討たれぬ。なう、判官殿、はやはやあの子を討ってたべ。 こりゃ、狼狽えるな、頼光はお主にとって元御主人であり、兄ではないか。御命に代わるのは本望であり、誉であるよ。母方が賤しくて未練の最後と笑われるな。目をふさぎ手を合わせて尋常に討たれてたもと口説き給えば、冠者丸は顔色をさっと蒼くさせ、わじわじ震え、やあ、何と我らがこの首討たんとや。親分ながら判官殿は元他人、頼みにしたる一人の母、情けなや、むごたらしや、仮初の患いにも薬よ灸よとの給いしは偽りだったのか。首を討たれる科が有っても助けるのこそが親の慈悲、つれない母や、恐ろしやと逃げようとするのを母が飛び掛かって引き留め、浅ましや口惜しや、やい、科があって討たれるほどであるならば、母がこの身を一分だめしに刻まれても見殺しにするものか。 子の命は親の命、たとえ御身が思い切り捨てようと言っても私は捨てたくはない。御身の命は御身よりは母が百倍惜しいのだが、それを殺すのが人界の義理というもの。その義理と言う字に責められている母の心を思いやれ。死にたくないならば殺しはしまい、せめて一言潔く弓取りらしい詞を聞かせ、恥を濯いでくれよと言って声を挙げて歎くのだった。 判官は嘲笑い、御辺の心底は顯われたり。生きとし生けるもの命の惜しくない者がいるだろうか。その一命を義に依って捨てるのを捨てるのを弓取り武士名付けて、惜しむのは買人(商人)土民と言う。さようの下郎を御身がわりにとって何の益が有ろうか。 この上は頼光の御運次第とありければ、冠者は色をなして、ああ、有難き御料簡、命を一つ拾ったと逃げ出すのを母が捕って引き据え、恥知らず、可愛さも不憫さもふっつりと覚め果てたり。長い恥を見せるよりは母が慈悲ぞと言うより早く抜き打ちに討つ太刀風に、盛りを待たぬ小椿や、首は前にぞ落ちにける。さいごであった 胸にせきくる涙を抑え髻(たぶさ)を引っ提げ、夫に近づき、過去の業が拙く畜生を産みながら人と思って育てたのは、面目もなく恥ずかしい。 かかる者を大将の御身代わりとは恐れながら、我々の忠孝の志を立て給い、御情けには君御出世の後までも、この子の最期はけなげであったと必ず恥を隠してたべ。言うに甲斐の無い最期であったと再び咽返るのも道理であるよ。 かかる所に外樣(とざま)の侍が六七人馳せ来たって、やあ、右大将より御返事遅しとて使いが度々に及び候。急々に有無の御返答しかるべしとぞ申したる。 判官は少しも騒がずに、あれ、聞き給え、君の御難儀ただ今に極まって、先途(せんど、未来)の御用に立つことは御身誠の心ざし、弓矢の冥加に叶いたり。とてもの事に最期潔くしなかった事の残念さよ。血の別れ(同じ血筋、肉親)とて顔ばせは頼光に似ているが、丸額と角額、この分にては渡せない、この首に角(すみ)を入れれば頼光にまがいなし(そっくりだ)と、櫛笥を引き寄せて髪を解き元結を取れば髻の中に一通の文を結い込めて、母様に参る冠者丸と書いてある。 夫婦は不審晴れやらずにさては覚悟が。ただしは、何ぞ望み事でも有りけるかと、泣く泣く開き開き読み挙げた。声も無く、涙に埋もれて文の言葉もしどろなり。 松は千歳を盛りとし、朝顔は一時を一期とする。万事は先世に定まっておる夢、何を現と定めるべきか。しかれば。我等満仲公の不教を受け、判官殿の子となり、十三の春から十六のこの秋まで養い親の御厚恩を申すにも言葉はなく、殊更母の御恩徳は七生産まれ替わっても報じ難く存ずる折節に、我が首を打って頼光の御身代わりとの志、物陰より見参らせ望む所とは存じても、常々母の御不憫、荒い風にも当てられずに、御身のかえての御寵愛、その期に臨んでは歎きに沈んでよもや討ち給うまじ。 所詮我等は臆病者、未練の躰を見給わば御憎しみの怒りの刃、御心やすく討ち給わんと、わざとさもしき卑怯の最期、命を惜しむと思すなよ。 西東を覚えてから遂に一度も御気に違ったことも無く、一生の別れ、今はの際は御腹立ちの御顔ばせを見奉らん悲しさは、来々世々の迷いである。 さりながら、君には忠、親には孝、母の貞女の道が立つならば、身においての悦び、三世の諸仏も照覧あれ、命は更に惜しからず。悲しみの中の悲しさは年たけるまで母上の御寝間近くに起き臥して、今宵よりの御嘆き思いやられて愛おしく、御名残は尽きせず候。返すがえすと書き留める。 母は文を身に着けて首を掻き寄せて、抱きついてかっぱと伏し、声を挙げて泣きなさる。 思い切ったる判官も、わっとばかりに五躰を投げ、消え入るばかりに歎かれる心の内こそ哀れなる。母は涙の隙よりも、ああ、人は筋目が恥ずかしい。さすが満仲の御胤にてありしもの。この御心とは露知らず臆病なりと心得て、賤しき母が口にかけて言い恥しめたる勿体無さよ。 恐れがましい、冥加なや、中有の旅のお供して言い訳をしようと、太刀を取り上げれば、判官押さえて、ああ、不覚なり。御身は確かに生みの母、我ばかりは現在の主君、死ぬのであれば我が死ぬべきであるが、頼光がこうだと聞こし召さば、よも永らえんとはの給うまい。 時にはこの子も犬死、我等夫婦も不忠の者、敵の使いは頻りである。密かに頼光を落とし参らせて、一先ずはこの首の額に知識の剃刀を頂く、天の誠の道、守れば守る、御仏に後世を任せてこの世には忠義を磨く玉祭、濁りにしまぬ蓮葉の、花を君子の譬えれば、儒仏の教えに暗からぬ人の心ぞ頼もしき。
2025年08月06日
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第 三 佞人(ねいじん、言葉が巧、みで心が正しくない者)の詞は甘きこと密の如く、人を損なう事は刃より猶速やかなり。 清原の右大将・平の正盛に加担して、源の頼光は武勇に誇り、狼藉者を引き込、み、民家を騒がせ、我々の手の者を大勢打ち取り、あまつさえ都にまで切り登らんとの企て、上を軽しめ、下を傾け候と再三讒訴が頻りであるので、遂にレイ成(せい)乳虎(にゅうこ)の牙にかかって、シツ都(と)蒼鷹(そうよう)の忠臣の翼も折れ、勅勘の身となり給い、美濃の国、能勢の判官仲國は累代の被官と言い、内縁深い誼によって、しばらく忍んでおわします。 判官の妻小侍従一子・冠者丸十六歳、夫婦親子は等閑なく(なおざりなく)、家内(けない)も男女いたわり仕え奉り、御心を置く方も無く(気になることもない)、夏が過ぎ、秋も初めとなる。 西表のおばしま(欄干)に色々の灯篭を飾らせて、この夕暮れの御徒然と(ご退屈でお寂しいでしょうと)御盃を参らすと、頼光も浅からず思召して深く喜ばれ、疎らに生えた茅草(ちぐさ)の露に灯篭の光が反映して玉を敷いた昔の秋を思い出されて数杯を傾けて興に入り、長歌を作り、朗詠し(声を出して歌う)給うぞ面白き。 とうろう の 段 かずかずめぐる盃の影にうつろう灯篭の色を変え、品を変え、切り籠(こ)太鼓の形(なり)もよい。籠に入れたる造り花、桔梗・蓮葉・藤の花、風に揉まれて揺れる、百合の花、あの奥山のひともと薄、何時穂に出でて乱れ、乱れ合うそれではないが、葵(あおい)の花と花菖蒲(あやめ)、我の想いは深見草(ふかみくさ、牡丹の異名)誰か哀れと知ろう、白菊や。紫苑・雁皮(雁皮)に芥子、しもつけの花、などを花桶に入れ、しだれ柳や糸柳、水無き空の釣り舟(造花をいけて軒端などに吊り下げて置く舟型の造り物)も漕ぐではないが、焦がれる色の紅椿・手鞠(てまり)・山吹・かきつばた・花仙(かせん、海棠の異名)の姿を置き上げ(模様の部分を地より盛り上げて高くすること)に文字を透かしの透かし灯篭・額灯籠、手際(てぎわ)優しい花かづら、振り分け髪を比べ来し井筒灯篭、井戸屋形、這い松はれる朝顔の花のうてな(蕚・がく)の輪々(りんりん、一輪)毎に灯す燭(ともしび)きらきらと、さながら秋の蛍が飛び交う宇治川の網代灯篭、文字灯篭、すはま團扇・唐団扇(とううちわ)、おうぎ車に水車、油煙につれてくるくると廻り灯篭、かげ灯篭、月も更け行く夜嵐に回れ、廻れ、品よく回れ風車、小車(おぐるま、小さな車とおぐるまの花の意を掛けている)の花見車に忍びの車、ああ、ああ、百夜(ももよ)の車、よそに主ある袖引くな(夫のある女に言い寄るな)、袖褄引くな、おみなめし、恋をする、菫か美人草、四季に色ある造り花、手を尽くしてぞ飾ったのだ。 頼光ははなはだ興に乗じ、酒宴が酣(たけんわ)の折から、渡邊の綱と碓氷の定光が御前に罷り出て、誠に此の度判官殿の忠節にて我々まで安座の段、浅からず候えども、何時までもこうして悠々としても有られず、御大将は誰あらん、忝くも六孫王(源経基、清和天皇の第六皇子貞純親王の子)の御孫・摂津の守源の頼光、郎等には先ずこの渡邊、新参には碓氷の定光、一席にただ二人ではありますが、両腕には百人づつ、胴骨にも百人づつ、押っ取ってこの座にばかり六百騎、何をうかうかと待ち給わん、悪道(あくどう)には方人(かたうど)多く、直ぐなる道には入る人は少ない。 右大将が威勢をかって平家盛りの世とならば、正盛が四海を一飲みにして万民の歎きは遠くはないであろう。 両人はお暇を給わって都の軆(てい)をも伺い、諸国の御家人を狩り催し、科無き旨を奏聞して、佞臣原(ねいしんばら)一々に掻き首して御本意を遂げさせ奉らん、いかにしてもこの様に安閑と暮らしては筋骨がたるんで、精根尽き果て候えば早御暇をと申しける。 頼光、聞し召して、我もわこそ思いつれ。さあらば、両人は伊勢路、紀の路に赴くべし。我はまた北国にかかり源氏に心ざしの勢を集めて、都九条六孫王の誕生水にて出で会わん。 門出と言い、定光にはまだ主従の盃をせずにいた。名乗りの一字を譲る上は向後(きょうこう、今後)源氏の家の子であるぞ。と、御盃を下された。定光はしさって(へりくだって)頂戴し、天が下にふたりともなき大将軍を主君に持ち、下地の勇力十倍増し、一騎當千と思召されよと、三杯続けてつっと干した。 能勢(のせ)の判官は座を立って、おお、目出度し、目出度し、貴殿、渡邊殿の武勇にあやかり申す為にその盃を一子冠者丸にくだされかしとありければ、お辞儀も申すべけれども武勇にあやかり給う為に、御望みに任せんとさす盃を冠者丸、頂き頂き敬う躰(てい)を、母は見るより打ち萎れ、袂を顔に押し当てて包む涙もおのずから声に現れ、色に出で、人々これはと座敷は興が醒めてぞ見えにける。 判官は見かねて御祝儀の折から、不吉の落涙、狂気したるか。罷り立てと引っ立てた。 渡邊がとどめて、おお、尤も、尤も、定光の盃不足に思われる事、母御の気には道理至極、ここは綱が頂戴せん。冠者殿、いざ、差し給えと言いければ、母は漸く涙を抑え、御不審はお断り、定光殿をゆめゆめ軽んずるには候らわず。 わが身の運の拙さと、あの子の果報の薄い事、日頃くよくよと思う事。思い余りて涙が零れ、御祝儀を冷ませしぞや。 御大将にも、綱殿も御存知の定光殿への物語、妾は始め小侍従の局とて、御父上の満仲(まんじゅう)公に宮仕え、源氏の種を身に宿し、誕生したのはあの若美女御前と名付け給い、御寵愛ありしかど頼光様の御母・御台所の御心を憚り、出家させんと十一の春から十三の秋まで山にのぼせ給いしに、経の一字も習わずに、斬っつ張っつの弓馬の芸、満仲公の御憤りを宥めても、歎きても、御怒り晴れやらず、藤原の仲光に仰せつけられて、首を討たれることに極まったのだが、情のある仲光忠義を重んじて我が子の幸壽丸(こうじゅまる)を害して、あの子の首だと言って見せ参らせ、当座の命は助かりしが遂にはそのこと顕れて二度の御勘気・御立腹、親子の縁を切って妾と一緒に判官殿に下されて、今みずからは能勢の判官仲國の妻、あの子は一子冠者丸とは申せども、元は満仲公の御子頼光の御弟、美女御前でおわしまする。 ああ、悲しきかなや、同じ源氏の胤と生まれ給う程なれば、御台所の御腹にも宿り給えかし。しからば出家の沙汰も無く、頼光様は大将軍、あの子は又副将軍と千騎万騎の軍兵(ぐんぴょう)も従え靡け給わん。で 御身の末代に残る源氏の系図の巻にさえ、美女御前と言う名をけづって入れられず、ようようと郷侍(ごうざむらい)・鋤鍬取りの大将とは、いたわしとも浅ましとも、数ならぬこの女の腹を借らせ給いしにより、御出家と仰せ出だされしが、果報の花の散り始め、井出の蛙(かわず)の虫偏に科(かいるこ、おたまじゃくし)で、小さい時は尾ひれがあり、さながら魚の如くであり、母蛙が親に似ぬ龍を産んだと悦んだが、次第に尾ひれが手足となって常の蛙となったので、歎き悔やむと伝えたがそれは天地自然の道理で、自らは偶々源氏の大将を産み落とした悦びは夢であろうか、覚めては平人(はいにん、並の人間)となり給うのもこの母が戒行(かいぎょう、仏の戒めを守り、正しい行いをする点)の拙さ故と積る涙は濁り江と、夜昼に泣かぬ日はなくて、蛙に劣るわが身であると御前も人目も打ち忘れ、かっぱ伏して泣きければ、君を始め渡邊、定光、諸共に皆々が袖をぞ濡らさるる。 稍々あって、頼光が言うには、小侍従の悔やみ至極ながら子を見る事父にしかずと言こそう、満仲の深い心入れこそ有りつらめ。 今、右大将正盛等の逆威に責められし頼光が弟美女御前であるならば、かく安穏にあるべきか。判官の子となったる故に、先ずこの度の難を逃れた事、父の慈悲のこれが一つ。 御勘気の上からは元の如く出家ともなし給わず、判官の子に給わって弓矢の家を建てさせらる。父の慈悲の二つ目がこれだ。我世に出てもあるならば、末を見てや三っつの慈悲。親の形見は兄弟ぞよと涙ぐみ給いければ、判官親子はあっとばかり、渡邊も定光も末頼みある源氏の光、掲げ添えたる灯篭も、かげに門出の盃や、お暇給わり立つ雲の、明ければ七月、十五日、亡き玉祭る持仏堂、北の方は只一人香を焚き、水を手向け、捧げる花は蓮葉の露の数々、亡き人の頓證菩提と回向の折から、判官が立ち出でて同じく香花を奉り、しばらく念誦ことおわり、なう、小侍従、あれ見給え。本尊は三世常住の仏菩薩、殊に今日は盂蘭盆であり親祖父の聖霊(しょうりょう)満仲公の亡き玉もこの持仏堂に来させ給う。 尊霊の御前にて申すからは、詞にも虚言なく心にも懸子(かけご、底意、下心)なし。御身もまた偽りなく真っすぐに返答有れば、語るべきことあり、心底を聞かんと有りければ、ああ、今めかしい。何事かは存ぜねども、常にも偽りは申しておりません。殊に大事の盂蘭盆の、年に一度のお客の聖霊佛の前で、露程も虚言(きょごん)のお返事も申しません。語らせ給えと仰せける。 判官は頷いて、懐中から文を一通を取り出して、これ、是を見られよ、頼光、これに御座のよし、右大将が伝え聞き、急ぎ詰め腹きらすか、但し密かに刺し殺すか、首を打って差し出すにおいては、一子冠者丸は由緒ある者であるから、源氏の大将と奏聞し取り立てんとの文に起請を書き添えて寄こされたり。 されども某、かかる非道に組すべきか、頼光を密かに落とし奉り、右大将から咎めがあれば腹を切るまでと心に収めて打ち殴っておいたのだが、御身の昨日の口説き事、偶々、満仲の若君を誕生させた甲斐もなく、平人の判官の子として埋もれる冠者丸、明け暮れ本意なく悲しいと、水に住む蛙とまで思い続けて悔やみの躰(てい)、母なる身では道理である、尤もである。
2025年08月01日
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何を言うのもお気慰め、ひらに頼むと強いられて源七下地好きの道、てんぽの皮やりましょうと、箱から取り出した三味線の、糸は昔に変わらねど引くその主の成れの果て、親の罰ではないが、撥駒(三味線の胴と糸とが触れぬように胴の下部につけた駒)、上駒の音色優しく弾きなせり。 紙子の袖に置く露と共に離れし妹背の仲、哀れ昔は全盛の松の位も冬枯れし風呂敷包み行く先は、知らぬ旅路にとぼとぼと、築地の陰に安らえば、珍しい三味線、なんぼ大内(公家、堂上家)方でも洒落の浮世に廻り来る。車寄せから立聞けば、はああ、不思議やあの小唄は、わが身が廓にあった時に坂田の蔵人時行殿になれそめ、作り出だせし替え唱歌、かの人ならで誰が伝えたのか、懐かしや、どうぞ入り込んで見たいものじゃと、出放題に声を張り上げて、これは難波の遊女町に誰知らぬ者のない傾城の祐筆(ゆうひつ、代筆)、濡れ一通りの状文なら恐らく私が一筆で叶わぬ恋も叶うように、仮名書き筆、びらりしゃらりのかすり墨、生娘・遊女・手懸者、後家・尼・人の女房まで段々の書き分けは私が家の伝授ごと。もしそんな御用ならお頼みあれとぞ言い入れたのだ。 奥では女中が耳を澄まし、さっても変わった売り物、いざ呼び入れて痴話文(色文)書かせてお慰み、更科掃部、呼んでおじゃ。あい、と答えて二人ずれにて走り出て、是のう、傾城の祐筆殿はこなたかえ、この御殿の姫君様、何やらそもじに御用有り。こなたへいざと手を取れば、はあ、御用とは何やらん、おめもじ様にと言う夕顔の、庭の飛び石、すな、すな、すな、ちょこ、ちょこ、ちょこと奥座敷へと。 何の遠慮も無く、並み居たる大裡女郎(公家の女房)に場うてせぬ(その場の様子に気おくれしない)、いずれそれ者(遊女上がり)と見えたのだ。 煙草売りの源七も何心もなく側近くに寄り、顔と顔とを見合わせれば、やあ、離別せし女房、南無三宝と木隠れの(ちょっと顔を隠したが)、女はそれと見て、水臭い男、畜生、人でなし。赤恥かかせてしまおうかと飛び立つ胸の内も人目が関となり邪魔をする。 気持ちを押し静め、押し静めして心を砕き折々に尻目に睨むも恋である。 姫君は何の気もつかづに、これのう、紙子、そなたの物腰、褄はずれ(身のこなし)、いかさま常の女子りゃと有りければ、ああ、どなたかは存じませぬがお優しいお詞、お尋ねがなくても言いたくて言いたくて、胸が咳上げる折ですので、さらば、お話しを致しましょう。 恥ずかしながら私の昔は、憂き河竹の傾城、荻野屋の八重桐とて大夫仲間の立て者(頭株)と言われた程の全盛の末も、遂げぬ仇恋に上り詰めてこの通り、夜な夜な替わる大臣(豪遊する客)の中でも坂田の何某とて水揚げの初日(遊女が初めて客に接すること)からふと会い染めて丸三年、何が互いの浮気盛り、上り詰めれば上り詰める程に忉利天(とうりてん、欲界の第二天、須弥山の頂に有り、高さ八万由旬と言う。有頂天になった意)の宙ならぬ、中二階夜昼なしの床入りに、掛け鯛(元日に小鯛を二尾荒縄で結び竈の上に掛ける)様と異名を受け、水も漏らさぬ仲だったのですが、また同じ廓に小田巻と言う大夫、かの男にゆきついて毎日百通二百通、書きも書いたり痴話文は大方馬に七駄半、舟に積んだら千石舟、車に積んだらえいやらさ、木遣りでも音頭でも祈っても呪っても微塵毛も無い二人の仲がいよいよ募って会う程に、小田巻は大に腹を立てて、忘れもしない八月の十八日の雨あがりに、月は山からおぼろ染め、打掛をひらりと取って捨て、白無垢ひとつにひっしごき脛(はぎ)も露わに私が膝にふうわりとんと居かかって、是、八重桐、あんまり見られぬ、いやじゃぞや、さあ、男をたもるか(呉れるか)たもらぬか、いやか、おうか。いやか、二つに一つの返答が聞きたいと胸ずくし(胸倉、胸元)をひっつかむ。 こっちも一期の大事とぞ弱みを見せずに、こりゃ、小田巻とやら、管(くだ)を巻くとやら、光は(威勢、威光)は喰わぬ、出直しや。この広い日本にあの人ならで男はないか、よしないにしても有るにせよ、それ程に床しい男なら何故に先に惚れなんだ。男盗人、いき傾城、といいざまに取って投げつければ明かり障子をぶち破り、つぎ三味線を踏み砕き、縁から下にころころころと這い柏杉(びゃくしん)までこけかかり、木こく南天めっきり、めっきりと切り石の上にま俯け、鼻血は一石六斗三升五合五勺。 そりゃこそ喧嘩が始まったぞ、大事なこっちの大夫様にひけを取らせてはすむまいよ。加勢をやれと言ったほどに、遣り手・曳舟(大夫に従う囲い女郎)・中居、まま焚き・出入りの座頭・あんま取り、神子・山伏に占算、雪駄(せきだ)片足(かたし)に下駄片足、草鞋(わらんず)がけで来るのも有る。 台所から座敷まで、大夫様の仕返しと、あそこでは叩き合い、此処ではぶち合い、踊り合い、茶棚、へっつい煙草盆、当たる物を幸いに打ちめぐ、打ち割る、踏み砕く、めりめり、ひひゃりひしゃりと鳴る音にそりゃ地震よ神鳴りよと、世直し、くわばらくわばらと我先にと逃げ様に、水擔桶(みずたご、みずをくんできた桶)・盥(たらい)にこけかかり、座敷も庭も水だらけに、成るほどに、南無三、つなみが打って来るわいな。悲しや、と喚くやら、秘蔵の子猫を馬ほどな鼠がくわえて駆け出すやら、屋根ではイタチが踊るやら、神武以来の悋気諍い、こことは世上に隠れなく、かの男はその場から親御様の勘当を受けて、わが身も廓を夜抜けして、根本恋路(恋路の大元と言う)の浮き名(艶聞)を取った。 鍋の蓋取る、杓子取る、馴れぬ世帯のその日過ぎ、男め故で御座んする。ああ、あんまり喋って息が切れた。お茶ひとつ下さんせと語りかけた。 姫君を始め腰元衆、さて心中(愛する男に真心を捧げる女)の女郎や、たとえ如何なる身になっても想う男と添うからには面白かろうとの給えば、されば末を聞いて下さんせ。その男の父(てて)親が闇討ちに討たれて敵討たねば叶わぬと、私は縁を切って行方もなく別れて、親の敵を狙うとは跡かたもない赤嘘(真っ赤な嘘)、わが身に秋風が立ちけれども、何を潮に逃れることも出来ずに、親御様が死なんしたのを究竟一(くっきょういち、なによりよい)のかこつけに敵討ちとの口上は釈迦でも一杯参る(一杯食う、まんまと騙される)こと、まんまと私をたばかり女房には紙子を着せて、わが身はちゃんと栄耀らしい若い女中に立ち混じり三味線を弾いて居けつかり、腐り腐るを見るような、日本国の姫御前(ひめごぜ)の因果を一つに固めてもわが身には及ぶまい。初対面の皆様に在りし昔の懺悔咄を致し、お恥ずかしやとばかりにて、おろおろ涙にくれければ、おお、道理、道理、身にかからぬこちとさえ煙とうて堪らぬぞ。 さりながら、構えて短気な心を持ちやんな。まだ咄たいこともある、奥へおぢゃ、こちへ、こちへと人々は皆々、一間に入ったのだ。 跡見送って八重桐、さらば奥に参って憎さも憎し、男の懺悔を言ってしまおうと入ろうとするのを、時行が取って引き戻し、はったとねめ、さすがは流れの女だな、親の敵を討つまでと相対づく(相談して承知しあった上)での離別ではないか。ただ今の詞は誰に向けての当て言、いまだ敵の行方は知れず、心を砕く夫の 躰(てい)、哀れとも思わずにおのれの栄耀に引き当てて、面白そうな仇口(無駄口)。 恨めしやとばかりにて、無念の涙に暮れければ、女房は益々あざわらい、あの、まがまがしい(まざまざしい、本当らしい)顔はどうじゃ、親の敵は何人いるのじゃ。 こなたの妹御糸萩殿とやんらが先月二十三日に佐夜(さや)の中山で討ち給う物部の平太は敵ではないかいな、時行、はっと驚き、何、妹が敵平太を討ったるとは必定(ひつじょう、確か)か。 さ、定か誠か、碓氷(うすい)の荒童と言う人を語らい(味方に頼み)、易々と討って源の頼光様を頼み、駆け込みしとは日本国中に隠れも無い事と言えば、最後まで聞きもあえず、南無三宝、天道にも見放されて弓矢神にも捨てられた。口惜しの運命やとわが身を掴んで泣いている。 女房が側に立ち寄って、是なう、今悔やんで済むことか、忝くも頼光様、妹御を匿いなされた遺恨によって敵の主人・右衛門の督平の正盛は清原の右大将と心を合わせて、頼光様を讒奏し、勅勘の身となり給う。これほどに大きな騒動を今まで知らぬとは狼狽え者の浮き名を、世間にふれようと言う事か。 前後を思案して下さんせ、日頃の心には似ないこと。ええ、おとましい(忌々しい、疎ましい)世に連れて、心までが腐ったかと縋り付いて泣いたので、時行は突っ立って、さては敵ゆえに頼光の御難儀となったるとや。妹に先を越され、親の敵は討たなくとも正盛・右大将は敵の敵である、いで、二人の首を獲って頼光の御恩に報じ、名字の恥をすすがんと躍り出でんとするのを引きとどめて、それ、それ、それ、しれは悉皆気違いか。 討とうとすれば討てるくらいならば頼光様に油断があろうか。彼等は威勢真っ最中、討たれぬ仔細があればこそ日蔭の御身となられたのです。こなたが今駈け出して心安く首を獲ろうなどとは、重ねて恥が掻きたいのですか。こなたが今まで悪戯(浮気)で娘をころりと落とした(靡かせた、口説き落とした)のと、首をころりと落とすのとは雲泥・万里の差がありますよと、恥しめた。 時行ほうど(ぐっと)行き詰まり、あっあ、そうじゃ、誤った。しからばこれより頼光の御行方を尋ねて御家来となり、御威勢を借りて正盛の首を引き抜いてやろう、と駈け出そうとするのを再び引き留めた。 たった今、恥しめた舌も乾かないのに無分別、武勇正しき頼光様、御内には渡邊の源五綱と言う一騎当千の兵(つわもの)、同じく碓氷の荒童、鬼も欺く(鬼と見違える)その中に、生温い(意気地のない、柔弱な)形(なり)をして、妹に先(せん)を越され敵を討たなかった無念さ故に、御奉公致したいと言えるものですか。それともそれでも仰いますか。 御取り上げが無い時にはすごすごとは戻られまい。棒を頂いて(棒でぶたれて)戻るよりも行かない方が遥かにまし。どうぞ分別はないかいの。ええ、情けないお人やと、突き倒してぞ泣いている。 時行は道理に攻められて行きつ戻りつ、歯噛みをなして、拳を握り、立っていたが、もうこの上の分別なしと皮籠(かわご)の中から氷のようなる鎧通し(短刀、敵と組んだ時に刺す為の物。多くは九寸五分、無反り)を押っ取り腹にぐっと突き立てて、背骨にかけて引き廻した。 女房、これは狂気かと縋がり付けば、あっ、あっ、音が高い、音高し。男が今の悪言は伍子胥(ごししょ)が呉王を諫めたる金言よりも猶重い。恐らくこの一念項羽・紀信の勇気にも劣るまいとは思うのだが、時来たらねば力なし。これまでまだまだ(ぐずぐずと、のんべんだらりと)長らえ、臆病者、腰抜けと指を指されるのは無念の上の無念である。 我が死んでから三日の内に御身の胎内に苦しみがあれば、我が魂が宿ったと心得て十月を待って誕生せよ。神變希代(しんぺんきたい)の勇力の男子となって、今一度人界に生まれ出て、正盛・右大将を亡ぼすであろう。 お事が身も今日より常の女と事代わり、飛行通力あるべきぞ。深山幽谷を住処として生まれる子を養育せよ。さらば、さらば、と声と共に劔を抜けば紅の血は夕立と争うが如し。最後の念ぞ凄まじい。 あら、不思議や、切り口より炎のまろかせ(かたまり)が女房の口に入れば、うんとばかりにそのまま息が絶えてしまった。 かかる所に若侍五六十、無二無三に群がって、屋形の四方を押っ取り巻、やあ、やあ、兼冬、右大将高藤公より汝が姫を召されたのだが、頼光と縁組とて承引なき条、憚り千万。それによって姫を引っ立て来たるべしとの御使い、乱れ入って奪い取れとおめき叫ぶその声に、兼冬公驚き給い、やあ、主ある娘を奪わんとは人畜類(人の姿をした畜生)の右大将、返答するには及ばない。あれ、追い散らせとの給えども、言うに甲斐の無い公家侍、防ぐ方法も無いと見えたる所に、伏したる女がむっくと起き、表に立ったる奴ばらを取っては投げ、取っては投げ、姫君のおわします御簾を囲って立った姿は、さながら鬼女の如くである。 正盛の家の子、太田の太郎、数にも足らぬ下衆女だ、何事をかしいださん。あれ、引き出せと下知すれば、何、某を女とな、おお、女とも言え男なりけり。胎内に夫の魂が宿り、木の梅と桜の花心、妻となり子と生まれ、思う敵を討つそれではないが、空蝉の体は流れの大夫職、一念は坂田の蔵人時行。そのしるし、是見よと二抱え程の椋(むく)の木を片手もじりに、えい、やっと捩折って寄り来る奴原、はら、はら、はら、はらり、はらりと薙ぎ立てたのは人間業とも思えない。 この勢いに恐れをなし、返し合わせる者もなく、皆ちりじりに失せにけり。 おお、さも、そうずさもあらん、我が魂は玉の緒の御命、恙無く行く末待たせましませと姫君に一礼して、今よりは我いづくをそこと知らず、白妙の三十二相(あらゆる美しさを備えた顔)のかんばせも、怒れる眼(まなこ)物凄く、島田がほどけて逆様に忽ち夜叉の鬼瓦、唐門(からもん)、四つ足門、塀も築地も跳てね越え飛び越え、飛び越え跳ね越え雲を分けて、行方も知らずなりにけり。
2025年07月30日
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さあ、しおおせた、立ち退かん。と、甲斐甲斐しくも首を引っ提げて、女を小脇にしっかりと抱いて、一散にこそ落ち失せにけり。 右大将の侍共、こは何事ぞと走り出て、南無三宝、平太は討たれ候ぞ。と呼ばわる声に高頭が駆け出て来て地団太を踏み、ええ、口惜しや、無念やな、正盛に向かって言葉がない。よし地をくぐり、雲に入るとも高藤が威勢にて絡めとらずにおくべきか。追っかけて打ち獲れ者共と、怒れる声は松吹く嵐、月日にまがう目のさやの小夜(さや)の中山を手分けをして、上を下へとかえしたのだ。 二人はようよう宿外れまで走りつき、振り返れば追っ手の提灯が八方を取り巻いて、逃げようもないのだった。 ええ、残念至極だ、なまなか追っ手に討たれるよりは御身を害して腹切らんとは思えども、敵に首を取り返され、我等の首さえ渡してしまうのはかばねの上(死後)の無念である。 誰の泊まりかは知らないが、此処を頼んで差し違え、死骸を隠してもらおうと砕けるばかりに門の戸を叩き、卒爾ながら我々は親の敵をうって立ち退く折から、追手が厳しく候えば何方かは存ぜねどもお庭を借り切腹仕りたく候。御恵み頼み奉ると大声をあげてぞ申しける。 所こそあれ頼光の泊まりの宿、渡邊は聞くより早く飛んで出て、實否(じっぷ)は知らねど敵討ちとは心地よしと、手づから門を押し開き、さあ、匿った、お入りやれ。摂津の守頼光の宿所、かく言うは渡邊源五綱、日本国がきおい立っても蚊の食うほどにも思わばこそ、ゆっくりと休息あれと、もとの貫の木をしっと(ぴったりと)下し、御前に伴い行ったのだ。 頼光は対面ましまし、彼等は夫婦か兄弟か、家名實名(けみょうじつみょう)敵討ちの首尾を具に聞こうと宣えば、さん候(そのことですが)、某は信濃(しなの)国碓氷(うすい)の庄司が倅で幼名は荒童丸、父没してみなし子となり當所に賤しきげす奉公、この女と朋輩の誼(よしみ)に承れば、この女の父坂田の前司と申せし者、平の正盛の家人、物部の平太に討たれて共に天を頂かぬ恨みを一太刀報ぜんと狙えども、一人の兄は行方知れず、女の力に叶い難き物語を見捨ておけずに、今宵清原の右大将の泊まりで敵を見出し思いの儘に討ち取り、首を持参仕って御座る。 打ち物はこの太刀、この女が重代、智慧文殊と伝て来た、平泉の文殊宝壽が千日潔斎して打ったる利剣のしるし、片手殴りのひと打ちで御覧候え、この大首、女が持ったる髭ひと房、両股、両膝ただ一刀に大の男、七つに切ったる業物、今宵の御情けを謝せんが為、この女が献上、御佩き替えとも思しめさば生前(しょうぜん)の悦び、猶御芳志には死骸を隠し給われ。 さあ、今生に思い置くことはなし、いざ来い、刺し違えようとつっと寄る。 やれ、渡邊、あれを止めよ。と、押し分けさせて、太刀を抜いて御覧あれば、明々として芙蓉が開いたる如くで、焼き刃は星をつらねたる如くに光は波が涌く如し。 唐土、晋の武帝が天下を治めて呉国の方に紫の雲気が立つのを怪しんだのだが、雷換(らいかん)と言う者が天文を考えて土中を掘って干将莫邪(かんしょうばくや)の二剱を得たり。 しかるにこの宿に当たって紫の雲気が棚引いたことは遠く異国の昔を思い、必ず名剣あるべしと鷹野の事寄せて一宿したが、今宵この太刀を手に入れたることは源家の武功が天に叶いしその威徳、首を打つあまりの切っ先が風にも散る髭を斬り、両膝かけて落ちたる事日本無双の名剣である。名は躰をあらわせば即ち髭切膝丸と名付けるとしようか。と言い、謹んで頂戴したのだった。御子孫に長く伝わった和国の宝となったのだ。 さて、その女に兄もあったとか、後から故郷へ送ってやろう。荒童には我が頼光の光を譲って、碓氷の定光(さだみつ)と名乗って奉公せよ。との御諚の趣、二人はあっとと頭を下げ、喜んで涙を流したのだ。 かかる所に平の正盛が大勢を引き率っして、門を叩いて、やあやあ、頼光、忝くも右大将殿の御前近く人を殺めた者を引き込み、天子同然の右大将をかろしめるのは朝敵にも勝ったるぞ。 女童(わっぱ)に縄をかけ、頼光・渡邊主従共に切腹せよ。異議に及ばばふんごんで片端にふみ殺さんと、傍若無人に罵ったのだ。 渡邊はくっくと噴き出して、やい、天子同然とは誰がことだ。おのれらは腕はかなわず、手は立たず、口ばっかりは人らしく官位を以ての脅かしは、喰わぬ、喰わぬ、さりながらぎしみ(互いに詰め寄り)合うのも大人げなし。さあ、渡す、請け取るならば取って見よと、門の戸をさっと押し開き、すっくと立ったるその勢いに正盛主従は色をなして、膝わなわなとなったのだ。 荒童が続いて飛んで出て、これ、旦那、宵までは旅籠屋のげす喜之助、今は頼光の御家人・碓氷の定光渡せよ出だせよと言わずとも、幸いに此処も旅籠屋である。此処へ来て絡めとれ。 さあ、入らんせ、泊まらんせ。泊まりじゃないかえ、旅籠の料理は御望み次第、頭から爪先まできざんできざんで、ざくざく汁、真っ二つに胴切りの血なまぐさい焼物、冥途の道は相宿はなしだ。焦熱地獄のすゐ風呂も沸いて御座んす。ざっと行水・阿鼻地獄、泊まらんせ泊まらんせ。泊まりじゃないのかと招いたのだ。 右大将の高藤が遅ればせに駈け来たり、やあ、臆したのか正盛、頼光・渡邊なればとて鬼神にてもあらばこそ、後ろ詰は高藤だ、と言うと正盛はいきりだして、乗り込んで踏みつぶせ、承ると切って入る。 源氏方でもあまさじと、両勢がどっと入り乱れて火水に成れぞ戦いける。 頼光は忍びの旅小勢の供人が大半討たれ、定光・渡邊ただ二人攻め来る敵の真向腕骨、胴切り縦割り、車切り、なで斬り撫でたてながら、追いまくる。 さしもの大勢、しどろになって見えたのだが、近郷の農人・浪人、右大将が威勢に組して、我も我もと入れ替え入れ替え、射る矢は雨の如くである。 定光も渡邊も心はやたけに逸れども飛び道具を防ぎかねて、何と定光、もしわが君にかすり矢でも当たっては末代の瑕瑾、一先ずは落とし奉らんとあなたこなたと見廻れども、皆高塀に廻りは掘り、裏門は固く閉ざしている。 やあ、この門一つを押し破るのは安いけれども、後から寄せ手が込み入るのも喧しし、上へそっと持ち上げて蹴込みの下から落とし申さん。尤もと、棟門高い瓦ぶき、尺にあまりし四角柱、二本を二人が面々にひっ抱えて、やあ、えいやうんと差し上げれば、さしもの大門は礎石を離れ、天から吊ったる如くである。 頼光も笑わせ給い、門を守る金剛力士二王を持ったれば、我が行く先は関もなし、女は兄の行方を尋ね、兄弟打ち連れて来たれ。一足も早く落ちよ。我は美濃路を登るべし。汝らもあらましに切り散らして追いつけと悠々として退き給う御有様ぞ不敵なる。 その隙に、寄せ手の軍兵(ぐんぴょう)あますまじと込みいったり。 両人、今は心安く、雑人ばら一人づつ切っては手間遠、はかいかず、後日にこの門を立て直してやるばかりと門柱を引き離し、手に手に引っ提げて大勢を左右に受け、醉象が岩を割り、飛龍が波を叩くごとくに、はらりはらりと薙ぎ立てた。 人も馬もたからばこそ、さしもの大勢打ちひしがれて、高藤・正盛は力なく、跡をも見ずして逃げ去れば、おお、面白し、心地よし。君に追っつき奉らん、とうとう急げ、どう、どう、どう、と踏んだ海道も武勇の道も一筋に、古参の渡邊、新参の碓氷の定光の奉公始め、門に手柄をあらわして二王二天に四天王が出でるべきしるしと聞こえたのだ。 第 二 松浦潟、ひれ振る山の石よりも、つもる思いは猶重い、岩倉の大納言、兼冬公、の御娘・澤瀉(おもだか)姫と申せしは源の頼光と御縁篇(ごえんぺん)の契約を互いに持てば久方の月日が重なり年も立ち、情の盛りもいたづらに右大将の讒言故に、頼光は行き方もなく御文の音づれさえもなく、枯野に弱る秋の虫、世に便り無き憂き節に、もし御短慮のこともやと、御寝間の奉行、寝ずの番、女中の外には男をまぜずの大役は女護が嶋に事ならず。 お局の藤浪はお側に立ち寄り、なう、ここなお子、何故にうきうきなされませぬ、これ程大勢が集まって浮世話の高笑いも皆、お前をいさめの為、お煩いでも出た時には、親御様への御不孝、日頃のお気に似合いませぬ。と、いさめられても勇まぬ顔、ああ、又局の気づまりな。異見は聞きたくもない。 日本国の花紅葉を今この庭に移しても、どうして心が勇もうか。吉日が決まり頼光様に嫁入りして、今頃はお中に帯をも結ぶはず。それを、あの右大将づらめに妨げられて、あまつさえお行き方が知れず。何処を当て度に一筆の問わせの文も無し、長枕、この長夜を誰と寝よか、おりゃ、泣くまいと思えども、涙がどうも堪忍しない。堪えてたもとはらはらと玉を貫く御目もと、腰元・茶の間・中居までお道理やと諸共に貰い涙にくれたのだ。 お局は気の毒がり、ああ、何ぞいの、お力はつけもしないで、そなた衆までめろめろと忌々しい、置いてたも。 やあ、それはそうと煙草売りの源七はまで見えぬか。気さく者の通り者(気さくで世情に通じている者)、今にも来たら御姫様をまじくらに向かい鬼(鬼ごっこ遊びの一種)をして遊びたい。 こりゃ、気の変わった思い付き、早く煙草が来たれかし。煙草たばこと待つ宵の松葉煙草ひかずと 昔は色に上り詰め、今は浮世に下がり坂田の時行と埋もれし名も父のあた、晴らさんと思う志、飽かぬ夫婦の仲をさえ三下り半の生き別れ、袖は涙の川ならぬ、皮骨柳(かわごり、煙草が湿らないように皮を張った行李)を今は見過ぎとひっかたげ、刻み煙草に油を引かずと売り歩く。 そりゃ、煙草が来たわと腰元衆が呼び入れて、これ、源七、まずこの皮籠(ご)は預かる。尻からげも降ろしなさいよ。御姫様より御意がある。 そなたも以前は悪性故にし損ない、そのなりになったげな。傾城とやら廓とやら大内(ここは禁裏ではなくて貴族の邸宅)には珍らしい三味線の一曲を常々御望みであるから、三味線も整え置いた、さあさあ、所望とありければ、ああ、恙もなし、尤も以前は傾城の一つ買いも仕り、三味線・鼓弓・浄瑠璃・文作(即興で滑稽な文を作ること)のら一巻の諸芸なら、こっちに任せて奥座敷に、吉野の山の連れ引きも、昨日の昔今日は又、吉野煙草の刻み売り、股引がけで三味線とは、茶漬けにひしこの御望み、平、皿、御免と逃げ出るのを女房達が引き止めて、その言いようがもう面白い。
2025年07月25日
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女偏に區(こもち) 山 姥(やまうば) 漢に三尺(さんせき)の斬蛇があり、四百年の基を起こす。秦に大阿工市あって、六国を合わす。 古の君子、是を以てみずから守るとする。子路(しろ)が謳った剣の舞、返す袂も面白き。 我が神国の天の村雲、百王護国のお守り、野辺に伏す民こそ目出たけれ。されば今上天暦(てんりゃく)の帝が御代しろしめす慈しみ、波静かなる遠江、枝を鳴らさぬ時津風、、浜松の宿の辺に当たって空に紫の雲気が漂い、斗牛の間に英々(雲が軽く明るい様)たり。 ここに清和天皇の正統、摂津の守源の頼光十八歳、かくと伝え聞き給い、寄せて寄せてもろこし)の張華が名剣を得たるためし、疑いもなくこの辺に天下の重宝となるべき名剣が埋もれてあるに相違ない。尋ね求めて父満仲(まんじゅう)の武功を継ぎ、源氏の子孫に伝えんと、同年の若者渡邊の源五綱に御心を合わせ、近隣の宿々(しゅくじゅく)二夜三夜、泊まり、鷹野にことよせて在り処を尋ねる名剣の鞘ではなが、小夜の中山(今の静岡県掛川市内)にお宿を召されたのだ。 その頃、胤子女院の御弟、清原の右大将高藤と言ってわずかの(詰まらぬ)儒家に生まれながら當今(とうぎん、今の天皇)の御外戚。姉女院の威勢をかって中納言の右大将に経上がり、栄耀奢り、身に余り、諸国の名所を遊覧して、今宵はこの宿にお泊りと宿割りの侍がひじを張って、むらむらと立ちかかり、やあやあ、当宿にこの家でなくては御本陣になりそうな家はない。先立っての宿札は何者ぞ。幕も札もはやはや捲れと呼ばわった。 亭主は驚いて、これこれ、粗忽なされるな、忝くも摂津の守頼光、源氏の大将の御宿札と制したのだが、何の頼光、源氏でも毛虫でも清原の右大将殿の威勢にはかなうまじ。のじばらば(のさばれば)幕を引きちぎって宿札を打ち割り、引きずり出せと罵りけり。 渡辺の綱は聞きもあえず、何の条、先(せん)に打ったる宿札。指でもささば踏み殺そう。と、躍り出ようとするのを頼光がしばしと押しとどめなされて、同じ武家にもあらばこそ、長袖(公家)に勝っても誉にはならない。殊に彼は右大将、女院の弟、朝家に敵するなどと讒(ざん)せられては不覚である。 ひそかにこの宿を立ち出でて、宿外れに一宿しようぞ。汝は残って穏便に明け渡すべしと、手廻り少々御供にて裏の小道の松蔭より、山路に沿って出で給う。 時刻が移ると頼光の関札を引き抜いて、清原の右大将御泊まりと高々と押し立てて、ひんならべて右衛門の督、平の正盛同じく泊まりと、関札を二本並べて立てたのだった。 渡邊は今はたまりかねて、躍り出て、下人ばらを取って突きのけ、大音を挙げて、清原の右大将は右衛門の督正盛と名を二つ付けられたのか。先に打ったる宿札を変える法はないのだが、主君の頼光は若輩ではあるが御思案が深く、奢り者の右大将と張り合い後日の讒を受けん事を犬に嚙まれるのも同然と、大人しく宿を代えられたのだが、定めてこれは平家の大将正盛な。彼と相宿なされるからは頼光も相宿と、正盛の札を取って引き抜き、叩き割ろうとしたところに平の正盛、怒れる顔にてはったと睨み、やあ、おのれは頼光が下人綱と言うわっぱよな。この度、右大将殿の東の名所の遊覧に御同道致し申すからには相宿の関札を誰に憚ることがあろうか。 主従ともにあくちも切れぬ(あくちは子供の口辺に出来る腫物で、年少者に対する軽蔑語)小倅共め、元の如くに札を立て直せ。但し、割るならば割って見よ、と刀の柄に手を掛けた。 渡邊はにっこと笑い、おお、源氏の習い御辺の様なる相手は大人が手を出すまでもなく、前髪だちの子供の受け取り(引き受ける物、分担)、主人の頼光に宿を空けさせ右大将の威を借りて御辺はぬっくりとまらんと(平気で、厚かましく)や、暖かな事(いい気な事)だ。 右大将一家の外をふんごんだならば空脛(からすね)ながん(なぎ払おう、横に払おう)と関札を微塵に踏み砕いて仁王立ちに立ったのは、金輪際から忽ちに生え抜いたる如くであるよ。 正盛はそぞろ恐ろしく、身は震えるのだが押し静めて、おのれ生かしておけぬ奴ではあるが高官との御同道である、騒動も恐れある。ここは某(それがし)大人しく、宿外れに別宿する。よっく性根に覚えておけ。と、おめぬ(気遅れしない、臆しない)顔で立ち帰ったので、渡邊は見向きもしないで、右大将が宿入りの中を押し割ってのさのさと、はがいのしたる夕烏、右大将の行列の中を突っ切ってのさばりかえって、羽を伸ばした夕方の烏よろしくゆうゆうと帰ったのだ。 泊まりじゃないか、旅籠屋の門賑わ敷く、暮れかかる上り、下りの旅人の、粋と野暮とに擦れて揉まれて友連れの、招く薄もおじゃれ、おじゃれが恋を呼ぶ。炭 仮の契りも末かけて、そなたは百きり、おりゃ九十でも心次第のござ枕、笠も預かる、股引洗う、洗足の湯と膳立てとぐゎった(騒がしい形容)菱屋の門構え、本陣宿の忙しさ。 あまたの出女、下男(しもおとこ)中に若葉の喜之介が、跡の月から角前髪(元服前の少年の髪型で、額の両の角を剃ったもの)、土けも取れて顔の色、白瓜なます、夕飯の拵えを急ぐ薄刃の音、ちょっき、ちょっき、ちょっきちょっき、ちょっきと切り盤(俎板)百人前を夢の間に、仕立て済まして息休め、煙草をくわえて立っている。 下女の小糸が忙し気に、これ、野良松、暇の無い旅籠屋奉公、殊に今日は清原様とやら、麦わら様とやら、お公家様の大客、上つ方は物静かで、御料簡もあるべきが、下女の習いで口悪く、膳が遅いの何のとて煩く言わせて下んすなよ。 何故にきりきりと働かぬ、煙管はわしが預かると、ひったくれば喜之助、ええ、小喧しい、男の仕事がもどかしいらしいが、これ、料理したり水汲んだり、椀をふいたり門掃いたり、打ったり舞ったり、このて一つで百足(むかで)の代わりも仕る。 貴様の様に毎夜、毎夜、旅人を閨に引き入れ、煮焼きもせぬ加減のよい美味い手料理を振舞って、うめく程に銭を儲けて、ゆるりと朝寝めさるると、われらが仕事は格別で、貯めた銭ざし抜いたり、差したりしないだろう。そうであれば、おお、嘘ではないと笑うのだ。 むむ、これは聞きどころ、何じゃ、毎夜帯解き勤めするとの言い分か、これ、そんな小糸じゃないよ。朋輩衆は面々に勤め次第に銭金をためて親里に貢ぎ、身には一重(絹のかたびら)も飾るけれども、わしはこなたを思い染めて、面倒を見よう見られようと、頼もしずくの言い交わし、もし末の縁が有って一緒にも暮らせたならと、随分と身をたしなみ、旅人の酒の挨拶、肴には小唄を歌い、わずかの銭を頂く時には涙がこぼれて口惜しいが、若いこなたが奉公の身で義理順義もあるものと一銭も身につけずに、みんなこなたに渡すぞや。 一言、可愛いと言って言ったとしても罪にはなるまい。ほんに思う程にもない男と、首筋に歯型を付けたのも恋の極印(確かなる印)である。 喜之助はほろりと涙ぐみ、おお、謝った、こらやこらや、さあ、わっさりと仲直り、機嫌を直して盃事、幸い肴はこの膾(なます)、まずは祝、言の心持ち、そんなら祝って女房から、わしが手酌で是さした、我等は得物のこの茶碗、吸い物は煮売りの豆腐、目出度く謳おう。を 寂光の豆腐、茶碗酒のたしなみも、かくやと思うばかりの膾かな。あいよ、すけよと、夕紅の前垂れ膝に凭れかかって可愛い奴だと戯れる。 かかる所に、右衛門の督平の正盛、参上と案内すれば、喜之助と小糸は口上の趣かくと奥にぞ取次ける。 清原の右大将が出で向い、やあ、正盛、ちこう、ちこう、と対座に請じて、さても御辺と某は昨日までは泊まり泊まりは同宿で名所古跡の物語、旅宿の徒然を忘れられたのに、今宵は頼光めに邪魔されて、思わぬ別宿、明日の泊まりを待ちかねる。今宵の寂しさを推量あれと有りければ、正盛は謹んで御懇意の余りで申し上げたき仔細が候。その故は某が家来、物部(ものんべ)の平太と申す者が先年坂田の前司忠時と申す浪人侍と口論して、かの坂田を討ちは討って候えども、彼には男女の子供が有り、親の敵と狙い、もしも平太を討たせては某は武道が立ち申さない。一寸も側を離れさせずに旅の末まで(辺地の旅)召し連れて、幸い君と御同宿御威勢を以て、昨夜まで心安く臥したるに、今宵野外れの別宿で平太めに過ちも候いては弓矢の不覚、哀れかの者御次に一宿させて下されるならば生々世々(しょうじょうよよ)の御厚恩と、。言いも切らぬに右大将、おお、何より以って安い事、その者をこれへと言う間に、駕籠を内へ舁き据えさ、せて六尺豊かな大男で日影を見ぬ目の色青く、月代が伸びて髭長く、野辺の薄に異ならない。 右大将は近くに招き、物部の平太とは和主よな。敵持ちの用心尤もながらこの高頭が匿ったぞ。某が威勢の程人間は愚か、鬼神であっても某の側近くで狼藉致し、指でも指すならば、天子に弓を引く朝敵と同然、身を知らなぬ者があるだろうか。何の用心、月代を剃らせて梳り、世間を広くのさばれよ。高頭がこう言うからは樊噲(はんかい)張良(ちょうりょう)に抱かれてあると思うべし。と、過言上なく罵れば正盛は悦びあり難し、有り難し、いよいよ頼み参らせ奉る。 明朝御見舞い申し上げる、と一礼してから帰ったのだ。 喜之助と小糸は襖の陰で後先をとっくと聞き届け、あれあれ、父(とっ)様を討った平太めに極まった。日頃頼みし契約は今宵ぞや、女の腕で仕損じるのは必定である。必ず跡を頼みます、と小褄を引き上げて身繕う。喜之助が押さえて、せくまい、せくまい、其方に兄御も有る気な、その兄が出合わずして女の仕損じは恥辱であると、荒ごなしをしてやろうと止めを刺せば、自分で討ったのも同然と、躍り出づれば、ああ、忝い、とてものことに父様の譲りの銘の物(刀鍛冶の名が刻んである確かな剱)、常に人が気が付かない思いがけない所に取っておいたと一間床の板畳を引き上げれば、一腰の金造り、人こそ知らね紫の虹が立ち上る名剣と後にぞ知られける。 喜之助が鞘口を抜いて見れば、氷の焼刃、玉散るばかり(澄んだ光を放つさま)。さあ、本望は遂げたも同じだ。必ず急くまい、急くまいと言うのも関路の朝烏、飛び立つ心ぞ道理であるよ。 それそれ奥から行燈を提げて誰やら来るぞ。怪しまれるなと目はじきしてちゃっと忍べば小糸はそらさない顔、鼻歌で座敷を取りおく玉箒、紙くずを拾っているのだった。 敵の平太は燭をそむけてこりゃ女、物を頼もう。明日の御立は明け六つ(午前六時頃)、その時刻に合うように月代を一つ頼みたい。上手な髪結いはいないだろうか。 ああ、ああ、お安い事、どりゃ呼んであげましょう。と立とうとするといやいや少し様子があって男はならぬ。女の髪結いは 有るまいかと、言えばはっと心づき、なうなう、お前はお幸せ私は自体町代(名主の下の町役人)の娘で髪月代一通りは小額・眉際・中剃り・逆剃り・ことそげ剃り、御顔はたった一剃刀にごし、ごし、ごし、唇なりと鼻なりと、御首なりともころりっと剃り落して差し上げまする。 ああ、忌々しい、気味悪い、仇口言わずに早く剃れと、剃刀を取り出して髪おっさばき、縁先の水桶に頭を浸して揉む、紅葉葉の焦がれる小糸の心の内、喜之助は襖の陰で今や出でん、今や出でんと互いに目配せして気を通わせて、これこれつむりがまだ揉めぬぞ、こう剃り掛かって気を急くことはちっともないぞ。揉めぬうちに剃り掛かれば剃刀が外れると、言えども更に気もつかづに消える命は塵取りに落ちる雫の儚さよ。 さあ、今が大事なぼんの窪、俯かせんと髪を撫で上げれば、喜之助は襖をそっと締、め開けに(音がしないように押さえて開ける事)後ろに立っても親の敵、声を掛けないのは口惜しと躊躇う色を女は、悟って、申し旦那様、お前は強そうな御侍、定めし人を斬ろうとしたこともありましょうな。 おお、斬ったとも、斬ったとも、おお、その切った坂田の娘の糸萩、親の敵と言うより早く、喜之助が抜き打ちに首に続けて髭一房、両ひざにかけて一太刀に水を切ったる如くである。
2025年07月23日
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絵は残るとも、我は残らぬ身、と聞けば愛しさや、そこそは我が夫(つま)が涙に暮れて筆を捨て、松のしずくは袖に、満つ潮の、新宮の宮居は神々しくて、出島に寄せる磯の波、岸打つ波は補陀落や那智は千年、観世音、いにしえ花山の法皇が后との別れを恋慕い、十善の御身を捨てて、高野・西国・熊野へ三度詣で、後生(ごしょう)前生(ぜんしょう)の宿願をかけて発心門に入る人は、神や受けるらん御本社の證誠殿(しょうじょうでん)の階(きざはし)を降りて下りて、待ち受け悦び給うとかや。 我は如何なる罪業の、その因縁の十二社をめぐる輪廻を離れないので、疑い深い音無川の流れの罪をかけてみる、業の測りの錘(おもり)には、それさえ軽い盤石の岩田川にぞ着きにける。 垂迹和光(すいじゃくわこう、仏・菩薩がかりに神として現れ、その光を和らげて俗塵に混じる事)の方便であろうか名所、旧跡、宮立ちまで現れ動き見えければ、元信信心肝にそみ、我が描く筆とも思われず、目をふさぎ、南無日本第一霊験、三所権現と伏し拝み、頭(こうべ)をあげて目を開けば、南無三宝、先に立ちたる我妻は真っ逆さまに天を踏んで、両手を運んで歩み行く。 はっと驚き、これ、なう、浅ましの姿やな。誠や、人の物語、死したる人の熊野詣では或いは逆様、後ろ向き、生きたる人には変わると聞く。立ち居につけて宵より心に懸かることがあったが、さてはそなたは死んだかとこぼし染めたる涙より、尽きぬ歎きと成りにけり。 恥ずかしや、心には陸地を歩むと思えども逆様に見えるかや、四十九日のそのうちは娑婆の縁にむすぼほれ姿を見せて契りし物を。妹背の中に怖げだち愛想も尽きてしまえばどうしようか、変わらぬ姿の慎ましや。逢見る事も此れ限りと泣く声ばかり身をしぼる。 涙の霧や恋慕の霞、冥々、朦々朧々として見えつ隠れつ燭(ともしび)の油煙に紛れて消えてしまった。 元信は五体をかっぱと投げ、よし雨露に朽ち果てた骸骨であっても抱き留め、肌身に添えん夫婦の友、何に怖げのあるべきぞ、現世(げんぜ)の逢瀬が叶わないならば刃に死してこの世去り、極楽諸天はおろかなことたとえ地獄の底であっても、誘え、伴え、連れ立てと座敷の隈ぐま、屏風をおしのけ、障子を開いて、やれ、遠山はいずくにいる。みやはいづくだ、我が妻と、開ける妻戸に遣り手の形、現れて見えたのだ。まことに哀れ至極ではないか。 何時、習わしの世渡りや、阿波の鳴門は越えるとも、この浮舟の憂き流れ、何と遣り手の身ぞ辛き。間夫(内密の愛人)の忍び路を邪魔する関となり、文の通いの逆茂木に、人の思いは戒めながら、わが身は包む恋衣、赤前垂れの火焔に焦がれ、三途八難の悪趣に堕す。苦しみの涙は目を晦まし、生死(しょうじ)をわかぬ迷いの雲、諸所に名を変えて数々色を飾った報い、体一つが五つに分かれ五輪(地水火風空)五行(木火土金水)の苦を受ける。如何なる世にか免れるだろうかと叫びわななく袂の蔭、艶色も貴(あて)である二人の遊女が左右に分かれて見えたのだ。 これこそは、そのはじめ白紛紅花に装った、後世の道には遠山が仇の情けの釣り針に、人を釣るそれではないが、敦賀の浮き姿、松と言われた松が枝(え)は四大のもとの木に帰るのだ。次は三国へ買い流されて姉女郎や朋輩に売り負けまいぞ勝山と、名を変え風を変えたのも、恋に我を張る我慢の山、麓の塵のちりひぢの土にかえすをご覧是と、言うそれではないが、夕月が出る毎に後ろに高く現れたのは、流れ漂う川竹の伏見に来ての浅香山、さすがに所も極楽を願えと告げる撞木町、安養世界(極楽の一つが転じて遊里)の夜店には灯すべき燭もなくて、吹き消す風も吹かずに、一心の火をもとの火に返す間の蔭ぞかし。 前に立った花すすき、ほのぼの見えし幻は、木辻の町の三つ山と呼ばれ時の面影が今は名のみに、奈良坂や、この手かの手の枕の酒、みぞれあられと隔てるのだが解ければ同じかすり井の、水を仮なる戯れもついに迷いの井堰(いせき)にからみ、木は執心の斧に砕かれ、土は逢う夜の壁と隔たり、火はまた三世の縁を焼く。 四大の四苦をこの身ひとつに重ね、重ねて空より出でて空に入る。報いも罪も色も情も、迷うのも悟るのも待つ夜の鐘も、別れの鳥の声々までも地水火風の五つの玉の緒、ただ一筋に結び合った姿であるぞや。 なう、なう、惜しみてもなお惜しまるる、名残も縁も遂に行く道ならばいざ、伴わん、とは思えども夫の命長かれと、祈る心も様々に、みな妄執の仇夢とさめざめ脆い涙の露の、玉の台の床の内、連理の蓮(はちす)かたしきて長き契りを待つぞや待たん。しるしはこれ、この、一見卒塔婆永離三悪道、南無や三熊野本地の三尊、迎え給えや道引き給えと、唱える声は伏せ屋に残って形は見えずに消えてしまった。 元信は抱き留めんと縋り付いたが影もなくて、うんとのっけに目くるめき、忽ち息が切れて絶え入ったのを名古屋揚屋門弟等が驚き騒ぎ、薬を様々に呼び助けて、ようやく一間に休ませたのだ。 夜もほのぼのと明け行く。その頃、官領の雑式、不破の道犬・長谷部の雲谷が誘引して伴左衛門の酒漬けの死骸を担がせてどやどやと乱れ入って、この所に名古屋山三春平はおるか。官領よりの御下知があって、対面致すと呼ばわったのだ。 名古屋は遅遅せず、出で向かえば雑式鉄鞭(かなぶち)引き鳴らし、不破の伴左衛門を御手前が手にかけしこと紛れも無き上、父道犬の願いによって吟味をとげらるる所、盗賊の罪逃れ難く、曲事(処罰)に行われる條召し取り来たれとの御諚、尋常に縄をかけられよと仰せける。 名古屋は少しも騒がずに懐中よりくつわの手形(葛城の身請けの証文)と数通の手紙を取り出して、かような愚蒙の返答は申すのも似合わぬものながら、片口(一方だけの)の御裁断いかにしても軽ろ軽ろし、これ、この手形を御覧ぜよ、葛城ことは三月二日に親方が暇を取り、拙者が本妻借宅を見立ての間、揚屋に預けおいた所、伴左衛門は数通の艶書、かくの通りに不義者の女敵なり。 この方より願いを出し、親の道犬をも罪科に沈めんと存ぜし折に、却ってわれらを召し取れとは定めてそれは各々の聞き違い。それなる道犬か雲谷のかな御座ろう。逃げも走りも致さぬ男です、聞き直してお出でなされよと大様にこそ答えたのだ。 道犬は、つっと出汚い、出汚い、こりゃ山三、倅伴左衛門は葛城を請け出す手附として金子五百両を懐中していた。女敵討ちは聞こえたが何故金子を盗んだのか。総じて盗みと言う物も、盗むときはうまいこと、顕れた時は辛く、苦いじゃげな。 さあ、何と逃れる所は有るまいと、証拠のない言い分ながら名古屋も相手は死人である。何をしるしの言い訳だと苦々しくぞ見えたのだ。 四郎二郎はかくと聞くより飛んで出て、いやいや、とこうの評議は御無用、盗人ならば盗人、切り取りならば切り取り、咎人は狩野の元信、縄は百筋千筋でもおかけなされよ。と、大小を抜いて投げ出さんとする所を、名古屋は押さえて、しばらくしばらく、御心底は忝い、去りながら、それまでに及ばぬこと、平に平にと押しとどめ、是、道犬、某盗人ではない、申し譯が立つならおのれまた侍に、盗人と言いかけしたその咎は何とする。 時に雲谷が進み出て、いやさ、山三、盗人でない言い訳が立てば、命が助かる、その方が仕合せよ。道犬公は一子を殺され、金子を取られ、何の誤りあるべきと、言わせも果てずうぬらが存ずる詮議にあらず、お屋形にては一つ間にさえ入れざりしを忘れたか雲谷、この穿鑿が相済んで、うぬも逃がさない。用心せよと睨みつければ道犬、山三、山三、脇道へは逸らすまい。五百両の金子を身に着けた伴左衛門は切りは切ったが金は知らぬと、言うとしても言わしはしないぞ。盗人でないならば言い訳せよと詰め掛けた。 おお、言い訳はして見せよう。その跡は合点かと、いや先ず、言い訳から聞こう。とせりあえば、雑式は、これこれ、名古屋、問答までもなし、その為の我々、人にこそよれ、両方共に弓馬の身がら、盗賊と言いかけ分明(ぶんみょう)ならぬ訴訟、かつは上(かみ)をかすめる落ち度、言い訳が立つならば道犬は存分に計らうべし。又、盗賊と決まったならば下知の如く、御手前に縄をかけ申すと理非を明らかに述べられた。 名古屋、勇んで罷り出て、名古屋山三春平は外のことは不調法、傾城の買い様と人を斬る様は大名人、恐らく宗匠ごさんなれ、それそれ、伴左衛門の死骸をこれへ出だされよ。 心得たりと役人共が、封を切りほどき酒漬けの死骸は更に色変わらず、ただその時の如くである。 名古屋は袴のそばを取って近々と寄り、かれを討ちしは先月の二十日、暁の月に堂々と時鳥ではなが、名乗りを上げて襲ったのは騙していない証拠だ。向こう疵に切り伏せて止めを刺さんと乗っかかり、胸を押し開けば海中に金子がある。このままでおいては真の盗人がやって来て探し取るのは必定。 時には山三が盗んだと後日の難を察したので、鳩尾(きぞおち)先を抉って金子は彼奴が体の内肺の臓に押し込んだ。五臓の中でも肺は金(かね)同気、求めて朽ちもとろけもよもしないだろう。いで、見せんと手を伸ばし、ぐっと入れ、朱にそみたる緞子(づんす)の財布、引きずり出してこれ見たか、これでも山三が盗人か、弓矢取る身の仕方を見よと、道犬にはったと投げつけた。 死骸を踏みつけて突っ立てば、雑式を始めとして、元信そのほかの門弟たち、出来た、出来た、あっぱれあっぱれ、御分別、後覺(後學)なりと勇みをなした。 道犬は言句も出ずに、雲谷は怯まぬ顔、相手の言い訳が立つからには、この方は切られ損、御帰りなされと立つ所を二人の雑式が飛び掛かり、鐵棒(てつぼう)を振り上げて、打つ程に面も眉間も打ち裂かれ、胴骨は砕けるばかりである。 やがて縄をかけさせて、道犬親子は世間流布の重罪、上を犯す咎と言いただ今の始末、諸人への見せしめ、親子諸共に獄門に晒すべし。それそれ。死骸の首を打て、承って下郎共掻き首して髻(たぶさ)をからげ、道犬の首に掛けさせて、さて雲谷は当座の慮外、罪の軽重(けいじゅう)いかがあらんと有りければ、元信春平、詞を揃え、本は彼奴めが悪逆、騒動の始めであるよ。古主の屋形に訴えて長袖でから流罪に行い申したし。 尤も尤も、二人ともに牢屋にやれと引っ立てたが脛が立たず、ええ、卑怯者、歩かないならばよした、桶に打ち入れて生きながらの酒びたし地獄の鬼の中食菜と、戯れ笑い帰らるる。 悦ぶ中にも元信は愁いに沈む那智の滝、乱れる色を諫めんと、うたえや歌えと雅楽の介、その外の門弟中は愁いは愁い、祝儀は祝儀、未来のみやの嫁入りは十七日、現世(げんぜ)の銀杏の前の嫁は七百町歩の知行をして末永く添い遂げるであろう。 墨や筆と家を繁栄させる絵具筆、熊筆・藁筆・泥引き筆、その筆先に金銀も湧いて泉の壺の印、並びのない夏毛の鹿、ならぬ狩野の筆は末世の寶となったのだ。 下 之 巻 およそ絵の道には六つの法がある。長康・張僧・陸探の三人を異朝の三祖と学び来て、和国に筆の色を増す。狩野の四郎二郎元信、天然彩墨の妙手を得て、後柏原・御奈良の院正親町(おほきまち)の帝(みかど)は三代四代の聖朝に仕え、祝髪の後に越前の法眼玉川齎永仙(ぎょくせんさいえいせん)と號し、末世の今に至るまで、古法眼(こほうげん)と賞嘆するのはこの元信の筆とかや。 既に大永七年、新帝・後奈良天皇は大嘗會の斎場として悠基殿主基殿(ゆきでんしゅきでん)を東西に設けてそこに屏風を立てられたが、その屏風を書き、従四位の下越前の守に補任さられ、あまたの門弟や上下の供人が肩を怒らせる山科や、土佐の将監光信山庄に案内せられける。 将監夫婦は出で向い、今官禄に秀で給うを見るにつけて、娘の事のみ忘れがたく候と、詞に先立つ涙なりけり。仰せの如く某とてもかの人を先に立てて、惜しからぬ命を捨て兼ね申せし所に、次第次第に登庸し大嘗会の屏風を仕り、叙爵(じょしゃく、五位以上に上る事)に至る朝恩の上、貴公の勅勘訴訟叶い、向後(きょうこう、今後)一家(いっけ)の結びをなし、相並んで絵所の門を開くべしとの宣旨を蒙むり参った。 親御達を世に立てなば、草葉の陰の娘御の一つの迷いも晴れるかと型の通りに禁中方の願いを取り成し候と、語り給えば将監夫婦はありがたや、忝や、歎きの中の悦びとは我らが身で御座いまする。貴殿の御ひけい(口利き、仲立ち)で勅勘を許されたのも、一つは娘に光であるぞと、なおなお落涙せきあえず。 かかる所に名古屋山三春平、樽・肴・黄金・時服(時候に合った衣服)さまざま音物(いんぶつ、進物、贈り物)を持たせて将監に対面有り。 雲谷・不破が不届き故に、元信我等両人沈淪致せし所、善悪の是非が落居し、三人の悪党が死罪・流罪の巌科(げんか、重罪)に処せられ、某も先知(以前の知行)に復し候。 その節は姫君の御事につき、御自分様々に御懇志の趣、主人御屋形満足致され、先ず当分(差し当たって)お礼を申される。その印・目録の通りである。微小ではあるがと申された。 御使い柄と申し、御叮嚀なる御事と互いの礼儀浅からず。しばらく時が移ったのだ。 やや有って名古屋、やあ、承れば娘子遠山、くつわの手前約束の年が明いて、今日是へ帰り給うよし。さぞさぞ、御喜びと推量致しまする。と、申しても人々は飲み込めずに、とこうの返答がない所に、供の者共が声々に、遠山様ははや、あれまで見えました。迎えにお出でなされまし。ありゃありゃ、袖を振って御座るわと、言っても更に心得ず、死して程経た遠山が帰る筈はないと涙ながらに立ち出でて見れば、屋形の姫君、銀杏の前、かもじ入れずの二つ櫛、鴨の羽なりの蓮葉袖、供の又平は日傘をさして、さしずめ女房役の遣り手であるよ。 何時ならわしの道中も、、心つければ振りやすい、振れ振れ、雪の遠山の御影が是此処が、おれが内かとつっと入り、なう、とっ様、嚊様、今帰ったわいな。ひさしゅうで逢いました。と、とんと座りし居住まいはかぶろ立ち(禿から上がった根生の遊女)を見る如くである。 各々は不審が晴れず、名古屋は固より合点であるから、いづれものご不審は尤も、尤も、長く申せば段々あれども畢竟、姫君を将監殿の娘にして死したる人が再び蘇られたと思召し、元信にめあわせあれ、姫君もひとたびは大事の命を助けられし各々であるから、こんな事をしなくても親同然です。なまなか儀式立てしては養子と言う事になって面白くない。 又平夫婦と談合して、血を分けた遠山に致したのが我らが趣向です。取り組み(縁組)は御屋形の御意で御座ると小短く、訳も聞こえる、道も立つ。金を使ったしるしです。 将監夫婦も悦びの涙、ちいさい時のおみつの成人顔を見られて嬉しいと、抱き付いてぞ泣きなさる。 名古屋は重ねて懐中より、一通を取り出して、これは田上郡(たがみこうり)七百町の御朱印、永代知行なされよと頂戴させ、さて、田上郡は給所(家来たちに給付した土地)給所の入り組みで地割りが中々に難しい。某が父の主計(かぞえ)の介天文の暦算に達し、鼠承露盤というものを巧み、つもり、物割り、物人の声に従って十露盤(そろばん)の表が明白に現れる。 これを以て考えれば、間積もり、知行高は刹那に相済み申すべしとありければ、元信聞き給いそれにつき延喜の帝、陸平永宝駒引銭を鋳させて民をにぎわし給う。その駒は晋の韓幹(かんかん)が馬を写さた。 我またその駒の図を伝え覚えて候えば、駒引き銭を鋳て領内を賑わし候べし。。 これは珍重、しからば、善は急がしや。嫁入り、聟入り、国入りして、本祝言の儀式は重ねて、まずまず今宵は祝ってざっと目出度く候。十露盤粒に萬代積もるぞ、豊かなる。 年は子の年、大国夫婦、力次第に子孫も湧き出る。地からは五穀、手からは金が湧き出で、涌き出で子々孫々まで長久栄花の家繁盛は、君が恵の遺徳であるよ。
2025年07月21日
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