全14件 (14件中 1-14件目)
1
エドワード ああ、いや、いや、全てが未完の儘さ。しかし君はまだ、どのようにしてセリアと知り合うようになったか僕に話して呉れてはいないよ。ピーター 僕は彼女にまた数日後に会った。或るコンサートで一人でいる所を。そして僕も一人だったた。僕はいつもコンサートには一人で行っていたから。最初は、一緒に行く相手がなかったからだが、後にはその方が好都合だと解ったからだ。が、セリアのような娘の場合はとても奇妙に感じた。新聞の社会欄に載っている単なる名前としか彼女を思っていなかったので、その場所で彼女が一人切りでいるのを見かけた時には。とにかく、我々は会話を始めた。そして彼女はコンサートには一人で行き、映画もそうして観ていたことを知った。そこで我々は同じようにしてしばしば会うようになった。そして時には一緒に行くようになった。そしてセリアと一緒にいる事は、仲間を居たり、一人切りである状態とは違う何かだった。時々はお茶を飲んだり、一二度一緒に食事をしたりした。エドワード そして、その跡で君を家族に紹介した、或いは、友達の誰かに。ピーター いいや。でも、一度か二度は家族や友人達の話をした。そして彼等の知的関心の無さについて触れた。エドワード そしてその後には何が起こったのかな。ピーター いいや、何事も…。しかし、彼女は実際に非常な興味を感じていると僕は思った。そして、一緒にいるととても幸福を感じた。そう、満足だった、そして…、安らかさを。それを上手く表現できないけれど。僕はそれまでそんな静かな幸福感を想像すら出来なかった。僕はただ興奮して、無我夢中状態でいただけだった。所有欲への欲望、彼女から受ける物はそうではまるでなかったのだ。それはとても奇妙な何かだった。つまりは、…、非常な、静寂さだった。エドワード そして、この興味深い事態を何が邪魔をしたのだろうか。 (アレックスがシャツの袖を捲り上げ、エプロンを掛けて姿を現した)アレックス エドワード、カレー粉がみつからないのだよ。エドワード カレー粉は置いていない、ラヴィーニアがカレーを嫌っているので。アレックス 別のサプライズが出来るよ、それなら。思うにだが、マンゴウがあるとは想定していなかったからね。だけど、カレー粉だけは計算に入れていたのだ。 (退場する)ピーター それこそがまさに僕が知りたかったことなのだ。彼女は単に姿を消した、何か或る絵の中に…、フィルム効果の様に。彼女は僕に会いたがらなくなった。口実をもうけて、非常に嘘っぽいそれだった。そして僕が彼女を見かけた時は、彼女は何か秘密の興奮状態に無我夢中と言った体で、僕には共有し得ないのだ。エドワード 彼女は単純に君に対する興味をなくしたのではないだろうか。ピーター それは解釈が違っている。僕はそれを違った風に思う。僕が残念に思うのは、彼女が僕に興味を失ったことではなくて…、我々が或る知覚を共有していると思われた瞬間・瞬間、ある種の感情、ある種の詞では規定できない経験、その中に我々二人が無意識に浸っているのだが、君の表現用語では、多分、彼女は僕への興味を失った事。エドワード それは全部がごく普通の事だ。君は今、非常に幸運な見舞われている事実に気づきさえすれば。しばらくすれば、これは当たり前な事態になってしまうだろう。他の事柄と同様に。熱が冷めれば彼女は別の女性だったと知ることになるだろうさ。そして、君も別の男だったと。僕は君に祝福を送りたい、よい潮時に生還できたことをね。ピーター 僕は君の祝福の言葉などは御免を蒙りたいね。僕は誰かに話をしなければならなかった。そして僕は君にリアルなことについてずっと語ってきたわけだ、僕の最初の現実体験であり、多分最後の物だが、君は理解しなかった。エドワード ねえ、君、ピーター。僕はただ、君とセリアに何が起こったのかを語って聞かせていただけだ。後、六か月経てば…。現実はこの通りだ。君は好きにすればよい、取るなり、捨てるなり。ピーター だが、僕は何をすればよいのかな。エドワード 何もしなくてよい。待っている。カリフォルニアに戻り給え。ピーター でも、僕はセリアに会わなくてならない。エドワード それは同じセリアだろうか。君が記憶しているセリアで満足するのがよりよいのだ。忘れないでいたまえ、もうすでに記憶なのだからね。ピーター でも、僕はセリアに会わなくては、彼女自身の言葉で、一体何が起こったのかを語ってもらう為に。それを知るまでは、記憶でさえ真実なのか否か、解らない。こうした関心を実際に共有していたのか、或る音楽を聴いていた際に実際に同じ感情を感じていたのか。或いは、ある映画を観ていたに…。リアルな何物かが…、だが、現実とは何か…。 (電話のベルが鳴る) もしもし…、今は、話が出来ない。そう、詰まりは…、それでは、こちらから電話するから、出来だけはやめにね。(ピーターに) 済まない、話中だったね。ピーター 僕は言っていた、現実とは何かと。非現実的な二人の間の経験に関する。もしその記憶を保持できさえすれば、僕は未来に耐えられる。しかし、僕は過去について真実を知らなければいけない。sの記憶の為にも。エドワード 樟脳で包めるような記憶はないさ。だが、蛾が入り込むだろう。それで君はセリアに逢いたいのだね。君が現在陥っているおバカな状態から君を守るべくこんな面倒な事をしなければならない理由が分からない。君は僕にどうして欲しいのかね。ピーター 僕の為にセリアに会って貰いたい。君はそれだけの年長者だからね。エドワード それだけの年長者だって…。ピーター そうだ、彼女は君の話なら聞くだろうと確信している。利害関係のない者としてね。エドワード それなら、僕はセリアに会おう。ピーター 有難う、エドワード。御親切に有難う。 (アレックスが上着を着て、入って来る)アレックス ああ、エドワード。僕は素晴らしい御馳走を準備し終えたよ。僕は実際勝利の凱歌をあげたいよ。これは最高に素晴らしいぜ。無から何物かを作り出すのはね。アルバニアを旅行している時でもお宅の冷蔵庫のあんな少ない材料で夕食をでっち挙げたことはなかった。だが、勿論、半ダースの卵を見つけたのは幸運に過ぎたがね。エドワード なんだって、君が卵を全部使ってしまったのかね。ラヴィニアの叔母が田舎から送って来たばかりだったのだ。アレックス ああ、それじゃあ、叔母は実在したのだね。物的な、証拠というわけだ。エドワード いや、いや、…、詰まりは、別の叔母なのさ。アレックス 了解、実際の叔母だ。しかし、感謝し賜えよ。モンテネグロには、ほんの少数の百姓しかいない、君がこれから食べる豪華な食事が出来るのは、今日ではね。エドワード しかし、朝食はどうしたらよいのかね。アレックス 朝食の事は心配しないで。君が必要とするのは一杯のブラックコーヒーだからね。それと、少しの乾いたトーストがあれば足りるさ。僕はそれをぐつぐつさせたまにして置いたからね。もう十分以上はそのままにしておかないように。もう僕は行くからね。ピーターを連れて行くよ。ピーター エドワード、僕は君の時間を大分邪魔してしまったようだ。しかも、君は一人でいたいと言うのに。ラヴィニアが戻ったら、僕が宜しくと言っていたと伝えて呉れ給え。もしも、君が構わないなら、僕が言ったことは「彼女」には話さないで置いてくれないか。エドワード 僕はラヴィニアには何も伝えるつもりはないからね。ピーター 有難う、エドワード。お休み。エドワード お休み、ピーター。そしてさよなら、アレックス。ああ、そして面倒でなかったら、出た後でドアをきちんと閉めてくれないか、錠が懸かる様にね。エドワード 忘れないでくれ、十分以上は放置しないでくれたまえ。二十分も経過した、僕の仕事はおじゃんになってしまう。 (ピーターとアレックスは退場) エドワードは受話器を取り上げて、ダイアルする。エドワード セリア・コプルストーン嬢はいますか、……、どのくらい前ですか…、いいえ、構いません。 幕が降りる
2025年10月31日
コメント(0)
エドワード やはり、あなただった、ジュリア。 (ジュリアとピーターが入って来る)ジュリア 私は、あなたが居てくれて、とても嬉しいわ。分るでしょう、私はこの辺に眼鏡を置き忘れたに違いないの。そして、単純に私はメガネがないと何も見えないのよ。私は町中をピーターを連れて駆けずり回ったの、眼鏡を探すので。行った場所は隈なくよ。誰かが既に見つけてくれているかしらね。されが私の物かどうか教えて下さらない。プラスチックのフレイムのものだけど。私、色は残念ながら覚えてはいないの。でも、ちゃんと記憶している、片方のレンズがなくなってしまっている。見知らぬ客 (歌う)水入りジンを飲んでいるが、そして俺は片目のライリーで、家主の娘を目指してやって来たぞ、そして彼女は俺の心臓を完全に掴んでしまった。……、あなたは私との約束を守ってくれますか。エドワード はい、守ります。見知らぬ客 (歌う)トーリーリー・トーライリー、片目のライリーは何が問題なのか…。 (退場する)ジュリア エドワード、あの恐ろしい男は誰なの。私のこれまでの人生でこんなに侮辱を受けたのは、初めても事だわ。私が眼鏡を忘れたのはとても幸運だった。これこそは私にとっての冒険だもの。彼について話してちょうだいな。あなた方は一緒にお酒を飲んでいたのでしょう。それでこれがその種の友人なわけでしょう、ラヴィニアが道を逸れてしまった時の。彼は誰なのですか。エドワード 僕は知らないのです。ジュリア あなたが知らないのね。エドワード 僕は人生で一度も会ったことは無いのです。ジュリア では、どうして彼は此処に来たのかしら。エドワード 僕は知らないのです。ジュリア あなたは御存知ない。そして、彼の名前は何かしらね。彼が自分のなまえはライリーだって言うのを私は聞いたわ。エドワード 僕は、彼の名前を知りません。ジュリア あなたは彼の名前を知らない。エドワード 僕は言いましたよ、彼が何者なのか見当もつきませんよ。そして、何故彼がここに来たのかも。ジュリア でも、名に就いてあなた達は話をしていたのですか。それとも、ずっと歌を歌っていたのかしら。いずれにしても全く謎が多すぎるわね、今日のこの場所には。エドワード 申し譯もありません。ジュリア いいえ、私は大好きよ。しかし、それでメガネの事を思い出したわ。それが最大の謎よ。ピーター、どうして私の眼鏡を探しては下さらないの。マントルピースの上を見てね。何処に、私は腰を掛けていたかしらね。ソファをひっくり返してみて。ない。この椅子は…。クッションの下を見てね。エドワード あなたのバッグの中にない事は確かなのですかね。ジュリア ええ、勿論ないわよ…。そこに私はメガネをしまってあるの。あら、あったわ。有難う、エドワード。それであなたがとても賢いことが分かるわ。あなたがいなければ二度と眼鏡を見付けられなかったでしょう。次に何かを失った時には、私、真っすぐにあなたの所へ来るわ、聖アンソニーの所ではなくてね。さてさて、大急ぎで行かなくては、私はタクシーを待たせたままなのですものね、いらっしゃい、ピーター。ピーター 出来ればだが、あなたと一緒に行かなくとも構いませんか、ジュリア。戻る途中で、僕はエドワードに言わなければならないあることを思い出したのです。ジュリア ああ、ラヴィニアについてなのね。ピーター いいえ、ラヴィニアについてではないもですよ。それは僕がエドワードに異見を徴したい事柄についてなのです。そして今、それができるのです。ジュリア 勿論、構いませんよ。ピーター 少なくと、リフトで下まで、お供させて下さいな。ジュリア いいえ、あなたは此処に居なさい。そして、エドワードと話をして。私はもう途方に暮れてなどいないから。そして、その上に私は機械の操作を上手に自分で熟してみたいの。リフトの中で瞑想も出来るし。さようなら、お二人。有難う、とても感謝しているわ。 (退場する)ピーター 僕は君を邪魔していない事を願うのだが…,エドワード。エドワード もう既に僕は邪魔されてしまっていると感じるのだがね。そして僕はむしろ一人でいたかった。ピーター 僕は君の手助けが欲しいのだが。電話して後で会おうと思っていたのだが、これが好機だ思われる。エドワード それで君の問題は何なのだろうか。ピーター 今晩、僕はもうこれ以上は耐えられないと感じた。あの奇怪なパーティ、済まない、エドワード。勿論、実際には実に素晴らしいパーティだったさ。僕以外のみんなにとってね。そしてそれは君の過失なんかじゃない。君は状況を把握していなかったようだ。エドワード 一つか二つには気づいては居たのだが。でも、全てに気づいていたとは思わない。ピーター ああ、気づいていなかったことを僕はとてもうれしく思うよ。僕は自分が思う以上に上手く振舞ったに相違ない。もし君が気づかなかったなら、他の参加者もそうだったのだろう。でも、ジュリア・シャトルウエイトだけは少なからず警戒している。エドワード ジュリアは確かに観察眼に優れている。しかし彼女はむしろ他の事を頭に置いているのだろう。ピーター セリアの事、僕と彼女の関係…。エドワード おや、君とセリアについて何かある得るのかね。二人に共通の何かがあるとでも思うのかね。ピーター 僕らは大いに共通の事柄があると、僕には思われたがね。僕らは二人とも芸術家だからね。エドワード 僕は決してそうは思わない。どんな芸術を君は実践しているのかな。ピーター 君は僕の小説を読んだことがないのだろうか。それは非常に好意的な批評を得ているのだがね。しかし、我々二人の興味を多く惹いているのはシネマなのだ。エドワード 活動写真に対する共通の興味はしばしば若い人々を一緒に結びつけている。ピーター さて、君は皮肉でありすぎるようだが。セリアはフィルムの芸術に関心を示している。エドワード 或る可能な職業としてかな…。ピーター 彼女はそれを職業にするかもしれない。彼女なりの詩心を以てね。エドワード そう、僕は彼女の詩篇を読んだことがある。セリアの関心のある者には興味深いそれを。勿論、その文学的長所を離れてだが。文学的な価値を僕は判断する振りはしない。ピーター 断然、僕は判断し得るのですよ。そして、それは非常に優れている。でも、それが重要な点ではない。重要なのは、思うに、我々が大いに共通項を有していること、又、彼女もそう思っていると僕が思う事なんだ。エドワード どのようにして彼女と知り合うことになったのかね。 (アレックスが登場する)アレックス ああ、いたいた、エドワード。何故、僕が覗き込んだかわかるかい。エドワード その前に、どうやって中に入ったのかを先ず、知りたいね、アレックス。アレックス 僕はやって来て、ドアが開いているのを知ったのさ。そしてそれから、中に入り君が誰と一緒にいるのかを知りたいと思ったのさ。ピーター ジュリアが開けたままにしておいたに違いない。エドワード 気にしなくともいいよ。出る時に君たち二人がドアを閉めてくれればね。アレックス 君は僕と一緒に来てくれたまえ。思ったのだが、エドワードは今晩は一人きりでいるかもしれない。そして、僕は知っている、君が夜を一人きりで過ごすのをきらっているのを。そこで、君は僕と晩飯をするために外出しようではないか。エドワード どうも御親切を有難う、アレックス。僕は大丈夫だよ。でも、むしろ一人でいたいのだよ、今夜はね。アレックス でも、君は夕食を取らなければならないだろう。外出するつもりなのかな。誰かが君に夕食を届けてくれるのかい。エドワード いいや、あまり食欲もないので、自分で用意しようと思っている。アレックス ああ、その場合には、僕は自分のなすべき事が何なのかを心得ている。ちょっとしたサプライズを君に提供しよう。僕は中々の料理上手なのを、知っているね。僕は君の家の台所に直行して、ちょっとした夕食を用意しよう。それを、君は一人で食べればいいさ。それから、我々はお遑するよ。その間に、君とピーターは話を続けることが出来る。僕はその邪魔はしない。エドワード やれやれ、アレックス。食料貯蔵室には君の料理に適当な物などは何もない。そう思うのだがね。アレックス そこが僕の特別な才能なんだが、無から口に合う上等の料理を設えてしまうのがね。どのような余り物でも結構。僕はそれを東の国で学んだのだ。一撮みの米と少しの乾燥魚で僕は六皿分の料理をでかしてしまう。何も言わないで、直ぐに始めるからね。 (台所に去る)エドワード さてと、話はどこまで行っていたのかな…。ピーター 君が、僕はどのようにしてシリアと知り合ったのかと尋ねたのさ。僕は彼女とは此処で出会った、一年前に。エドワード ラヴィニア主催の素人木曜の会でかな。ピーター 或る木曜日、何故、素人を付けたのかな。エドワード サロンを開始するラヴィニアの試みなのだ。そこで僕はより重要でない客を接待し、環境に順応しにくい人々を担当する。詰まりは、ラヴィニアの間違いをね。しかし、君はより重要でない成功者の一人さ。少なくとも一時的にはね。ピーター 僕は、そうは言いませんよ。しかし、ラヴィニアは途轍もなく僕に親切にしてくれました。そして僕は大いに彼女に恩義を感じています。そしてそれから、セリアに逢いました。彼女は僕がそれまでに知っていたどんな娘とも違っていた。そして、話をするのが容易ではなかった。その折には。エドワード 君は彼女としばしば会いましたか。アレックスの声 エドワード、二重湯沸かし器はあるかい。エドワード そこにあるのがそれだと思うにだが。どの台所にも二重湯沸かし器が設備されているだろう。アレックスの声 見付けられないのだ、あのサプライズは上手く行きつつある。別のを考える必要がある。ピーター そんなに頻繁ではなかった。そして会えた時でも彼女と話をする機会はなかった。エドワード 君とセリアは別々の目的で依頼されていたのだ。君の役割は発表要求手続きの一人であったし、セリアのは社会と流行を提供することだった。ラヴィニアは同時に二つの世界で自分を確立する野心を常に抱いていた、でも、実際には二つの世界の繋ぎ役を演じたわけで。思うに、それが木曜会が失敗した理由なのだ。ピーター 君はまるですべてが終わってしまったように話をするね。
2025年10月30日
コメント(0)
見知らぬ客 それでは疑いもなく、事態は最善の状態にありますよ。もう一人の男に関しては、彼女はミスを犯しているかも知れない、そしてあなたの元に戻りたいと思っているかも知れませんね。そしてもし別の女が問題ならば、彼女はゆるそうと決心しているかも知れない。そして、あなたに対して有利な立場に立ちたいと思っているのかも。そしてもしも、男などは関係していないとすれば、理由は思った以上に根深いのかも…。あなたは彼女がもう戻らないと言う希望を掘り下げてしまっているのかも。もし、男が絡んでいるならばあなたは再婚して、世間に誰かがあなたを必要としている事を証明したいと思うでしょうね。そして女の問題ならば、あなたは彼女と結婚する必要があります。詰まりは、あなたはその女性と結婚したいと想像していたのかも知れませんね。エドワード でも、僕は妻に戻ってほしいのです。見知らぬ客 それはごく自然な反応ですね。困惑するに値するし、不便ですからね。事実を胡麻化すのは。電話では真実を話すのは出来ませんからね。あなたが余裕を取り戻すには全く時間が要るのですが、私はそれをあなたに預けました…。エドワード 僕に託してはいませんね。見知らぬ客 それでは、私は助言しましょう…。エドワード そして、どうか助言しないでくださいな。僕はこうした用語を証人に尋問する際にしばしば使用してきました。僕はあの用語を好みません。あなたに問題を預けても宜しいですか。僕はこの会話を自ら招いたのです、でも、あなたが何者なのかを僕は知りません。これは僕が予期した事ではないのです。僕はただ誰かに自分が隠していた事柄を話して、気持ちを楽にしたかった。あなたが誰であるかを僕は知りたいとは思いません。しかし、同時に、あなたが私の妻を知らなければ、僕が思っていた以上によりよい取引が、或いは、予期以上に我々の事を知っているなら良い取引が出来るでしょうが…、僕はあなたの推測はむしろ攻撃的だと思いますが。見知らぬ客 私はあなたの奥さんと同様にあなたを知っています。そして、あなたが欲している全ては見知らぬ人間に内密な事柄を暴露する贅沢だと言う事を知っています。それ故に、私は見知らぬ人間として留まりましょう。でも、こう言わせて貰いましょうか、この見知らぬ他人に近づくことは予期せざる事柄を招き寄せる事になると。新しい力を開放する、或いは瓶から魔神を出現させる。あなたの制御を越えた一連の出来事がスタートする。そして、話を続けさせてもらいましょう。私はこう申し上げましょうか、あなたの経験はあなたが気づいてはいない物に対して救いとなる。それはゆっくりとやって来る。朝目覚めると、夜にベッドに入る時に、あなたは自分の独立性に楽しさを感じ始める。あなたの生活が益々居心地のよいものなるのを知って。何時も批判的な目で見ていた人物がいなくて、我慢強い誤解者があなたの日々の生活をよりよい方向にしてくれる。あなた自身と同じような友人を選ぶのではなくて、或いはあなたよりもより良い女友達ではなくて、そして、何度も過去を振り返って穿鑿し、ただただ、よくもあんな生活に長い間耐えてきたものだと不審にさえ思う。そして、多分、時々は彼女に嫉妬心を感じるかも知れない。最初に彼女がそれに気づいたことに。しかも、それを打破しようとする勇気を持ったことに。こうして彼女に永久の優先権を与えるでしょうよ。エドワード そうなるかも知れませんが、しかしながら…。見知らぬ客 あなたは今、こう言おうとしていた、彼女を愛していると。エドワード 何故ですか、我々はお互いを当然の存在だと思っていますよ。僕は他の人物と一緒で少しでもより幸せになるなどと思ったことはありません。何故、愛情などと言う事を持ち出すのですか。我々はお互いに馴れ合っているのですからね。それで、彼女が一片の書置きで離別した、説明もなく、行ったままで戻らないと。僕には理解出来ませんね。誰だって謎のままで宙ぶらりんな状態でいるのは嫌ですからね。今は、こんなにも…未完状態ですから。見知らぬ客 ええ、未完状態ですね。そして、誰だって謎のままで置かれるのは嫌ですからね。しかし、それ以上の事があります。人格の喪失がある。或いは、むしろ、あなたは自己自身だと思っていた人間との接触を失った。あなたはもう人間性を感じられなくなっている。あなたは突然に物自体に堕したと感じている。生きている物体ですね。しかし、もはや人間などではない。これはいつも生起しつつある。何故なら人は人物であると同時に、物体でもあるから。しかし、我々は瞬時にそれを忘れている。人が正装してパーティの出かけようと階段を下りている時に、あなたが選んだ自分の役割を整えるべく身に着けている全てを身に纏い、それから時々、最下段に達した際に、もう一段あなたが予期してなかった段があったなら動揺に遭遇する。ほんの一瞬間だが、あなたは経験することになる、階段の悪意で物体に転落した自分を。或いは、外科的な手術を例にとってみれば、内科医と外科医との問診で、私設療養院のベッドに向かう際に看護婦長と話をする時には、まだ主体者でいられる。現実の中心だ。が、テーブルの上に載せられては、人は修繕店の家具の一つでしかない。何故なら、患者を囲んでいる人々、マスクをした役者達にとっては、あなたの全部は肉体だけだ。そして、「あなた」は何処かに隠されてしまう。お酒を補充して下さいな。エドワード ああ、済みません。何をお飲みにられますか…。ウイスキーですか。見知らぬ客 ジンを。エドワード 何を入れましょうか。見知らぬ客 水を。エドワード 結論は、どうなりますか。見知らぬ客 あなたが何者であるかを見つけ出す所に行きつくでしょう。何を実際は感じているのか。他人の中に居て、あなたは本当は誰なのか。大部分の時間、我々は自分を当然の存在と思っている。我々の義務として、過去の自分がどうであったか、殆ど知らずに生きている。今、あなたは何者ですか。私と同様にあなたは何も知らずに過ごしている。もしかしたら、私以下かも知れない。あなたは一式の時代遅れの反応体にしか過ぎない。しなければならない一つの事は、何もしない事を意味する。御待ちなさい。エドワード 待てですか…。でも、待つことは不可能な或る事です。その上に、お判りでしょうが、それは僕を虚仮にしてしまう。見知らぬ客 あなたが馬鹿げた存在だと知ることは、少しもあなたに害を与えません。実際に馬鹿である自分まで後退して御覧なさい。それが、私があなたに与えうる最上の忠告ですからね。エドワード でも、どうやって待ったらいいのですか。何を待っているのかを知らないで。友人たちにこうでも言いましょうか、「僕の妻は往ってしまった」と。そして彼らは答えるでしょう、「何処へ」、そして僕は言う、「分からない」と。更に彼らは言う、「しかし彼女は何時戻るのか」、それに僕は答える、「妻が戻るのかどうかはわからない」、そして彼らは尋ねる、「一体、君はどうするつもりなのかね」と、「何もしないよ」、そう答える僕を彼らは気違いだと思うだろう。或いは単に卑しむべき奴だと。見知らぬ客 全てが結構な事です。あなたは再び人間性を取り戻す結果に気づくでしょう。そして、それは無限の価値を持った経験なのですよ。エドワード 止めてくれ! 僕はあなたが言われた事の多くに同意する。十分に真実だから。でも、それは全部じゃない。何故ならば、今朝、朝食をとっている際に妻がどんな風であったかを僕は記憶していない。彼女を捜索するように警官に依頼するとして、彼女の成り振りを叙述出来るかどうか全く自信がないのです。僕が最後に妻を見た時に、彼女がどんな服装をしていたか、覚えていないことは確かな事。そしてなおかつ、彼女に戻ってほしい。そして、彼女に戻ってもらわなくていけないのだ。我々が結婚していた五年間に何が起こったのかを見出すためにも。彼女が何者で、僕が何者かを確認する為に。そしてあなたの分析の全てをどう使えばよいのか、もし僕が闇の中でいつも茫然自失していなればならないとしたなら。見知らぬ客 闇の中に留まっている事には確かに何の目的もありません。嘗ては光の中にずっと居たのだと言う幻想を心から払拭するのに足る時間を体験する以外は。彼女を欲している理由が得られない事実は、あなたが彼女を欲していると信じる最上の理由なのです。エドワード 僕はまた彼女に逢いたいのです…、此処で。見知らぬ客 あなたは必ず彼女に再会するでしょう、此処で。エドワード つまり、あなたは彼女が何処に居るか御存知だと言う事ですか。見知らぬ客 その質問は御答する労に値しないものです。しかし、もし私が彼女を連れ戻すとしたら、一つだけ条件が有ります。それは、彼女がそれまで何処にいたのかを彼女に質問しない事を約束することなのです。エドワード 僕は、質問などはしません。そして、しかも、こう思われるのですね、我々が話を始めた時に僕は妻を欲しているとは確信していなかった。そして今は彼女を欲している。僕は、彼女を欲しているのか、それとも、単にあなたが示唆しているだけなのか。見知らぬ客 まだ我々は知らないのです。二十四時間経てば、彼女はあなたの所に、此処へ来るでしょう。あなたは彼女に会うべく、此処にいるでしょう。 (ドアのベルが鳴る)
2025年10月29日
コメント(0)
ジュリア あなたが書かれた脚本ではないの。ピーター 僕がものした物ではなくてです、でも、僕はとても楽しい時間を過ごしました。シリア 結婚式のケーキの話を続けて頂戴な。ジュリア エドワード、どうか少しだけでも腰を下ろして下さいな。あなたはいつでも完全なホスト役を務めているのを承知しているわ。でも、お願いだから、もう一人の客として振舞ってほしのよ。ラヴィニアのパーティではね。とてもたくさん質問したいことがあるの、これは絶好の機会なのよ、今、ラヴィニアが此処にいないのは。私はいつも言っていた、私がエドワードが一人でいる所を捕えて、深刻な会話が出来さえすれば、と。私は、ラヴィニアにもそう言った。官女は私に賛同してくれた。彼女は言ったわ、私はあなたが試みて下さるのを願うと。そしてこれが最初の機会だわ、ラヴィニアと一緒ではないあなたとお目にかかるのは。便所に鍵をかけて外に出られないいる時間以外は。私のは、あなたが何を考えているのかが分かるの。あなたは、私を愚かな老いぼれ女性と思っているとしっている、でも私は実際大真面目でいるのよ。ラヴィニアは私を深刻に受け止めてくれている。私には彼女が外出した理由がそれだと分かるの。それで、私はあなたにお話しをして頂きたいのよ。多分、彼女は食料貯蔵室にいて、我々が何を言うのか耳を澄ましているに相違ない。エドワード いいや、彼女は食品貯蔵室にはいあないよ。シリア しばらくの間は外出しているのね、エドワード。エドワード 彼女から話を聞くまでは解らない。もし彼女の叔母が病気ならしばらくは戻らないかもしれない。僕自身が外出するかも知れない。シリア あなたが外出ですって…。ジュリア あなたには叔母もいたかしらね。エドワード いいえ、叔母はいませんよ。僕は外出するかも知れません。シリア でも、エドワード。……私はいったい何を言おうとしていたのかしらね。田舎で老いた貴婦人が一人で暮らすのはそれは恐ろしい事ですよ。しかも、看護人を雇うことなど不可能に近いですからね。ジュリア 彼女の叔母はローラかしらね。エドワード いいえ、別の叔母です。あなたが御存知ない人です。妻の母親の姉妹です。むしろ世捨て人と言うべき方です。ジュリア 官女が贔屓にしている叔母かしら。エドワード 伯母が贔屓にしている姪ですね。しかも彼女は難しい人です。彼女が病気なら、ラヴニアを必要とするでしょうよ。ジュリア 私は疎の叔母さんが病気だなんて前に聞いていませんよ。エドワード ええ、彼女はいつでも頑健です。それで、若しも病気にでもなろうものなら、半狂乱になってしまう。ジュリア それで、ラヴニアを迎えに使いを寄こしたのね。よく解りました。それで、回復の見込みは見えているの。エドワード いいえ、彼女は全部を年金に頼っていると思うのです。ジュリア ラヴィニアは非常に親切なのね。しかも、とても彼女らしいわね。でも実際、エドワード、ラヴィニアは数週間は留守にするかもね。或いは戻っても直ぐに呼び戻されるかもね。私はこうした丈夫な老夫人達の事をよく理解している——、私自身がその一人だもの。ハンプシャーにいるその叔母について全部を知っている様に私は感じるの。エドワード ハンプシャーですって。ジュリア ハンプシャーって言いませんでした。エドワード いいえ、僕はハンプシャーとは言いませんよ。ジュリア じゃあ、ハンプステッドと仰ったかしら。エドワード いいえ、ハンプステッドとも言いません。ジュリア でも、何処かには住んでいるでしょう。エドワード 彼女はエセックス州に住んでいます。ジュリア コルチェスターに近い何処かかしらね。ラヴィニアは牡蠣が大好きだから。エドワード いいえ、エセックスの奥地です。ジュリア そうですか、もうこれ以上は穿鑿しないわね。あなたは住所と、電話番号を御存知かしらね。私は大急ぎで彼女に、ラヴィニアに逢いたいのよ。コーンワォールへ行く途中でね。でも、十分に気を使わないとね。さあ、あなたは私を処女の叔母にして下さらなくてはいけないわ。勿論、年金で生活している。金曜日には、私と二人で食事をするようにします、だから、なんでもお話して下さいね。エドワード 何でもですか。ジュリア 意味は、お判りになるわね。次の選挙とあなたの諸事情の秘密の事柄など。エドワード 僕の秘密の大部分は極めて無味乾燥ですが。ジュリア そうね、あなたは逃げたりはしないわね。金曜日には私と差し向かいで食事をしましょう。私は既にあなたが会わなくていけない人々を選んでおいたわ。エドワード でも、あなたは僕と二人きりで食事をしよう言われた。ジュリア ええ、二人だけでね。ラヴィニアを連れないで。あなたは他の人々も好きになるでしょう。でもあなたは私に話しかけなくてはいけませんよ。それだけが決まっている事ですからね。そして私は失礼しようと今は思っています。エドワード あなたは行かなければならないのですか。ピーター でも、クルーツ夫人の話をしては下さらないのですか。ジュリア クルーツ夫人て何方の事かしらね。シリア そいて、結婚式のケーキの事は…。ジュリア 結婚式のケーキですって。私は結婚式には参列してはいませんわ。エドワード、素晴らしい夕べでしたよ。ジャガイモのカリカリ揚げはとても美味しかった。えーと、私は忘れ物をしてはいないかしらね。とても素敵なパーティでしたよ。お暇したくはないのよ、とても素晴らしいパーティだったから。もう一度、繰り返して味わいたいくらいなの。金曜日にはみなさん揃って食事に来てくださいね。いいえ、駄目だわ、私、善良なバッテンさんの注意を忘れていた。もう、行かなくてはね。アレックス 僕も、残念だけれども、失礼しようかな。ピーター シリア……、一緒に歩いて帰りたいのだが、シリア いいえ、御免なさいね、ピーター。私はタクシーを拾うわ。ジュリア あなたは私と一緒にいらっしゃう、ピーター。私はタクシーを拾って、途中であなたを下してあげましょう。エドワード、金曜日にはお待ちしているわね。シリア…、直ぐまたお会いしなくてはいけない。皆さんで失礼してはいけないわ、私が今お暇するのですからね。さようなら、エドワード。エドワード さようなら、ジュリア。 (ジュリアとピーターが退場する)シリア さようなら、エドワード。直ぐにお会いできるかしらね。エドワード 多分。でも、分からない。シリア 多分、でも、分からないのね。結構だわ、さようなら。エドワード さようなら、シリア。アレックス さようなら、エドワード。ラヴィニアの叔母さんのよりよい知らせがあることを心から希望しているよ。エドワード ああ、…、そうだね、…、有難う。さよなら、アレックス。来てくれて有難う。 (アレックスとシリアが退場) (見知らぬ客に向って)エドワード まだ、行かないで、まだ、行かないで下さいね。カクテルを飲み終えてしまいましょう。それとも、ウイスキーにしますか。見知らぬ客 ジンを。エドワード 何か中に入れますか。見知らぬ客 水を少々、お願いします。エドワード 今夜の事はお詫びしなければいけませんね。実際は、今日のパーティを延期したかったのです。今日の客は僕が延期できなかった人々なので、時間どうりにいかなかったのです。しかも、あなたがいらっしゃるとは知らなかったのです。ラヴィニアは招待した人全員の名前を僕に教えてくれていたと思ったのです。でも、問題だったのは、あの、恐るべき老婦人だけだった、他に人々は僕は気にもかけませんが。 (ドアのベルが鳴る。エドワードはドアの方へ行く、こう言いながら)でも、彼女はちっとも望まれていない場合にいつも姿を現す。 (ドアを開ける) ジュリア! (ジュリアが入って来る)ジュリア エドワード、幸運にも雨が降って来たわ。それで、私は傘の事を思い出したのよ。そいて、此処にあるわね。さて、あなた方二人は、何を企んでいるのかしらね。なんて幸運なんでしょうか、これが私の持ち傘だったのは。アレックスのではなかったのは…、彼はとても穿鑿ずきでしょう。でも、私は決して他人の問題に首を突っ込んだりはしない。さて、二度目に、さようならね。私は、遂に姿を消すわね。 (退場)エドワード 御免なさい、僕は失礼ながら、お名前を存じ上げないのですが。見知らぬ客 私は、失礼しなければいかない。エドワード まだ行かないでください。僕はたまらなく誰かと話がしたいのですよ。自分の知らない人物に話をする方がより容易でしょ、詰まりは、ラヴィニアは僕を棄てたのですよ。見知らぬ客 あなたの妻が、あなたを見捨てた。エドワード 単刀直入にいえば、その通りなのです。カクテル・パーティを調整してしまうと、直ぐに彼女は姿を消していた、僕が今日の午後に此処に入って来た際にはね。彼女は自分が僕を見捨てると書いたメモを残していた。でも、僕には彼女が何処に行ったのか分からない。見知らぬ客 これは好機ですね、もう一杯お酒をお願いできますかね。エドワード ウイスキーですか。見知らぬ客 ジンをお願いします。エドワード 何かを混ぜますか。見知らぬ客 水だけを…。そして、私はあなたに同じ物をお勧めしたい。宜しければ、私が準備しましょう。宜しいですか、…、強いのを、…、でもゆっくりと啜って、…腰を下ろして飲みなさい…、深く呼吸して、そして、リラックスした姿勢を取りなさい。さて、さて、幾つか質問事項が…、結婚して何年になりますか。エドワード 五年です。見知らぬ客 子供は…。エドワード いません。見知らぬ客 そでは、より輝いている方面を見て、あなやは、彼女が何処へ行ってしまったのかは分からないと言う。エドワード はい、解りません。見知らぬ客 相手の男は誰ですか。エドワード 男はだれもいません、僕の知る限りではね。見知らぬ客 別の女性に就いては。彼女が嫉妬する理由があると思うような。エドワード 彼女は僕の行動で不平を言うような素振りは何も見せませんでした。
2025年10月28日
コメント(0)
今回からはT・S エリオットの詩劇「カクテル・パーティ」の翻訳にトライしてみます。T・S エリオット(1888ー1965)はアメリカ合衆国出身のイギリスの詩人・文芸批評家。五部からなる長詩「荒地」や詩劇「寺院の殺人」によって二十世紀前半の英語圏で最も重要な詩人の一人と評される。 「カクテル・パーティ」は1949年に発表の詩劇。エウリピデスの「アルケルテス」に想を得て、弁護士エドワード・チェンバレンとその妻、映画脚本作家ピーター・キルプ、女性詩人シリア・コプルストーンの四人の恋愛関係を精神科医のヘンリー・ハーコート・レイリー卿が解決する。現代社会を喜劇的に描いたものである。 登 場 人 物 エドワード・チェンバレン ジュリア(シャトルウエイト夫人) シリア・コプルストン アレキサンダー・マコルジー・ギブス ピーター・キルプ 見知らぬ客 後でヘンリー・ハーコート・レイリー卿と判明する 女姓の秘書 二人の賄い屋の男 場面はロンドンに設定されている 第一幕 第一場 ロンドンにあるチェンバレン家の応接室。早い宵、エドワード・チェンバレン、ジュリア・シャトルスウェイト、シリア・コプルストーン、ピーター・キルプ、アレキサンダー・マクコルジー・ギブス、そして、見知らぬ客がいる。アレックス 君は要点を完全に間違ってしまているよ、ジュリア。虎などはいなかったのだ、そこがポイントさ。ジュリア それじゃあ、あなたは何をしていたわけなの。木の上で、あなたとマハラジャは。アレックス おい、おい、ジュリア君、頼むよ。全く絶望的な状況さ。君は全く、何も聞いていやしなかった。ピーター 君は始めからの経緯を全部もう一度我々に聞かせるべきなのだよ。アレックス。アレックス 僕は同じ話を二度はしない主義でね。ジュリア でも、私は何が起こったのかを知りたくて待っているわ。詰まり、虎たちの話から始まったのでしょ。アレックス 言っただろう、虎なんかいなかったさ。シリア 止めてよ、口喧嘩は。二人とも。今度はあなたの番だわ、ジュリア。先日、話していたあのお話しを聞かせてよ、クルーツ夫人と結婚式のケーキのこと。ピーター そして、どうやって執事が彼女を食料貯蔵庫で見つけたか、シャンペンで口を漱いでるのをね。その話が好きでね。シリア 私も大好きだわ。アレックス その話は何度聞いても飽きないよ。ジュリア おやおや、みんなはあの話を知っているみたいね。シリア 我々があの話を知っているですって。でも、私達はあの話を何度聞いても飽きたりはしない。此処にいる誰もがあれを知らないなんて私は信じないわ。(見知らぬ客に向って)あなたは、御存知ないかしらね。見知らぬ客 ええ、聞いたことがありません。シリア 此処に新しい聞き手が現れたわ、ジュリア。そして、私、エドワードがあれを知っているなんて信じないわよ。エドワード 聞いたかもしれないが、覚えていないのだ。シリア そして、ジュリアこそはそれを話すべき唯一の人物だわ。彼女はとても善良な道化師ですものね。ジュリア 私が、善良な道化師ですって…。ピーター きみは物まねが上手いよ。君はどんな事も見落としをしない。アレックス 彼女は意識的でなければ、けっして見落としなどはしない。シリア 殊更にリトアニア風のアクセントに関してはね。ジュリア リトアニア風…、クーツ夫人ですって。ピーター 僕は、彼女はベルギー人だと思っていたが。アレックス 彼女の父はバルチック一家に属している。最も古く由緒ある家族のね。一つの分家はスウェーデンに、そして一つはデンマークにある。数人のとても愛らしい娘たちがいる。彼女たちは今どうしているだろうか。ジュリア クルーツ夫人はとても愛らしくて、昔はね。何と言う人生を彼女は送ったことか。私は彼女によく言っていたものよ、グレタ、あなたは素晴らしい生命力に溢れているわ。でも彼女は自由気ままに楽しんでいた。(見知らぬ客に対して)あなたはクルーツ夫人を御存知ですか。見知らぬ客 一度もお会いしたことが有りません。シリア 結婚式菓子の話を、もっと続けて頂戴な。ジュリア そうね、でもそれは私のしたい話ではないの。私、最初にデリア・ヴェリンダーから聞いたのよ、彼女は事が起きた際に現場にいたのよ。(見知らぬ客に向って)あなたは、デリア・ヴェリンダーを御存知ですか。見知らぬ客 いいえ、知りませんん。ジュリア そうね、用心深すぎる事などはないのよ。お話をする前にはね。アレックス デリア・ヴェリンダーだって。三人の男兄弟がいると言う人のことだね。ジュリア 男兄弟が何人いるかですって。二人だと。思うわ。アレックス いいや、三人だ。でも君は三人目を知らないのだよ。彼等はその兄弟をむしろ静かにさせている。ジュリア つまり、あの人の事ね。アレックス 彼は精神薄弱者なのだ。ジュリア いいえ、そうではないわ。彼は無害なのよ。アレックス そうか、それじゃあ、無害な人物としておくか。ジュリア 彼って時計を修理するのが非常に上手なの。しかも、人の話に耳を傾けるにの抜群のセンスを発揮する。蝙蝠の啼き声さえ聞き分け得る、これまでに僕が出合ったたった一人の男だよ。ピーター 蝙蝠の啼き声だって…。ジュリア 彼は蝙蝠の声が聴けるのよ。シリア ども、どして彼が蝙蝠の声を聞き分けるなんて解るのかしらね。ジュリア 彼がそう言ったからで、私はそれを信じたのよ。シリア でも、彼が…、そんないも、無害であるなら、あなたはどうして彼を信じられるのかしらね。ジュリア まあ、まあ、愛しのシリア。そんなにも懐疑的になることはない。私、かつて一度そこに滞在したの。北地の彼等の城に。彼はとても苦しんでいた。家族は彼の為に島を提供しなければならなかった。そこには、蝙蝠などはいなかった。アレックス それで、彼はまでそこに居るのかな。ジュリアは実に情報の埋蔵地みたいな存在だね。シリア 彼女は、何だって、知っているわよ。ピーター 結婚式のケーキの話の続きをしてくれたまえ。 (エドワードが部屋を離れる)ジュリア いいえ、エドワードがこの部屋に戻るまで待たなくては。さあ、リラックスしたいの。もう少しカクテルはあるかしら。ピーター でも、話を続けてよ、いずれにしてもエドワードは聴いてはいなかったのだから。ジュリア ええ、彼は話なんか聞いてはいなかったわ。でも、とれも我慢していた—、ラヴィニアのいないエドワードは。彼には全く不可能なのよ。自体が推移するままにして私に任せておけばよい。何と言う、主人役だろうか。そして何も食べ物は口に合わない。カクテル・パーティへの唯一の理由。私のように口の穢い老婦人に対して。実際、美味い物のひと口が欲しいのに。自宅でも飲めるのよ、私は。 (エドワードがお盆を手にして戻って来た) エドワード、私にこの美味しいオリーブのお代わりを頂戴な。それは何なの、ジャガイモのカリカリ揚げかしら。いいえ、もう飽きてしまったからオリーブもいいわ。そうね、クーツ夫人についてあなたに話を始めたのよ。ヴィンスウェルの結婚式だった。ああ、もう随分と昔の事よ。 (見知らぬ客に対して) あなたは、ヴィンスウェル夫妻を御存知ですか。見知らぬ客 いいえ、存じ上げません。ジュリア ああ、二人とも既に亡くなってしまった。でも、私は知りたかったの。もし彼らがあなた方の友人であったならば、私はお話し出来ませんからね。ピーター 彼等はトニー・ヴィンスウェルの両親ですか。ジュリア ええ、トニーは生産物ではあるが、解決とはならなかった。彼は状況を更に困難なものにした。あなたは、トニー・ヴィンスウェルを知っているのね。オックスフォードで彼を知ったのかしら。ピーター いいえ、オックスフォード大学では彼を知りませんでした。去年、カリフォルニアで遭遇したのです。ジュリア 私、ずっと前からカリフォルニアに行きたいと思っていたの。ねえ、話してよ、カリフォルニアで何をしていたのかを。シリア 映画を製作していたのよ。ピーター 映画を制作しようと試みていたのさ。ジュリア あら、どんな映画なのかしらね。私、それを観たかしら。ピーター いいえ、観てはいないでしょう。実のところ、制作されてはいないのですよ。別の人間が映画を制作したのですが、別のシナリオを使用したのです。
2025年10月24日
コメント(0)
近松の言説 「難波みやげ」発端抄 往年、某(それがし、穂積以貫)近松のもとにとむらいける頃、近松が言ったのは、総じて浄瑠璃は人形にかかるのを第一にするので、外の草紙と違って文句は皆働きを肝要とする活き物である。 殊に歌舞伎の生人(しょうじん)の人の芸と、芝居の軒を並べてなす業であるから、正根のない木偶に様々な情を持たせて見物の感を取ろうとするものなので、大形であっては妙作と言う物には至り難い。 某、若き時、大内の草子(宮廷内の事を書いた草紙、ここは源氏物語)を見侍んべる中に、節会の折節に雪がいたく降り積もりけるに、衛士に仰せられて橘の雪を払わせられければ、傍(かたえ)なる松の枝もたわわなるが、恨めしげに跳ね返って、と書いてある。 是は心のない草木を開眼したる筆勢である。その故は、橘の雪を払わせられたのを、松が羨んで自分で枝を跳ね返して、たわわなる雪を刎ねおとして恨んでいる気色は、さながら活きて働く心地ではないか。 これを手本として、わが浄瑠璃の精神(しょうね)を入れる事を悟ったのだ。されば、地文句、せりふ事は言うに及ばず、道行などの風景を述べる文句も、情を込めるのを肝要としなければ必ず関心が薄くなるものだ。 詩人の興象(きょうしょう、形象を写して心意を表明する)と言うのも同事であり、例えば松島宮島の絶景を詩に賦しても、打ち詠めて賞するの情を持たなくては、徒に描いた美女を見る如くならん。 この故に、文句は情をもととすと心得るべし。 文句にてにはが多ければ、何となく賤しいものである。 然るに無功(ぶこう、未熟)なる作者は、文句を必ず和歌や俳諧の如くに心得て、五字七字等(とう)の字配りを合わそうとするゆえに、おのずと無用のてにはが多くなるのだ。 例えば、年も行かない娘をと言うべきを、年端もいかぬ娘をばと言う如くになる如くになる事、字割りにかかわることから起こるので、自然と詞ずらが賤しく聞こえる。 されば、大様は文句の長短を揃えて書くべきだが浄瑠璃はもと音曲であるから語る所の長短は、節にある。作者から字配りをきっちりと詰め過ぎれば、却って口にかからない事がある物だ。この故に、我が作にはこのかかわりがないので、てにはが自ずからに少ない。 昔の浄瑠璃は今の祭文(主に門付の山伏が歌って歩いた歌い物。心中・犯罪事件・各種の名寄せなどがある)同然であって、花も実もないものであったが、某が出て加賀の掾より筑後の掾に移って、作文(さくもん)してからは文句に心を用いる事は昔に変わって、一等高く、例えば公家・武家より以下、皆それぞれの格式(身分)をわかち、威儀の別よりして詞遣いまで、その移りを専一とした。 そうであるから同じ武家であっても、或いは大名、或いは家老、その外禄の高下につけてその程ほどの格を以て差別(しゃべつ)をした。 これも読む人のそれそれの情によく映る(共感する)ことを肝要とするからである。 浄瑠璃の文句は皆、事実を有りの儘に写すうちにも、又芸となって実事にはないことがある。近くは女形(ここは、若い女の役の人形を指すか)の口上、多く実の女の口上には得言わぬ事多い。これらはまた芸というものにて、実の女の口では得言わない事を打ち出して言う故に、その実情が顕れるのだ。 この類(るい)を実の女の情にもとづいて包んだ時には、女の底意なんどはが現れずして、却って慰めにはならないからだ。 さるによって、芸と言うものに気を付けないで見る時には、女に不相応なけうとき(とんでもない)詞が多いと謗るであろう。しかれども、この類は芸であると見なくてはいけない。その外、敵役があまりに臆病なる躰(てい)や、道化様のおかしみを取る所、実事の外に芸と見做すべきところは多い。 この故に、これを見る人はその斟酌(しんしゃく、汲み取る事、事情を察する事)があってしかるべきなのだ。 浄瑠璃は愁いが肝要であると言うので、多く、哀れなり、なんどと言う文句を書き、又語るにもぶんや節様(よう)(文弥節風)の如くに泣くが如くに語ることは我が作にはないことであるよ。 某の憂いは皆、義理(ぎり、そうなるべき経緯、止むにやまれぬ訳。人が踏み守るべき道と解する説もある)を専らとする。藝のりくぎ(六義、様々な道理・筋道)が義理に詰まって(道理至極して、そうならざるを得ない必然的な事情があって。義理詰は道理を押し詰める事。義理を詰めるとは理屈を立て通すの意)哀れであれば、節も文句もきっとしたほうが益々哀れが増すであろう。 この故に、哀れを哀れなりと言う時は、含蓄の意が無くて結句はその情が薄いだろう。 哀れなりと言わずして、ひとり哀れであるのが肝要である。 例えば、松島なんどの風景にても、ああ、良き景かなと褒めたる時には、ひと口でその景象(風景、景色)が言い尽くされて何の詮(せん、甲斐もない。頭で理解はされても胸に共感されないので無益であると言う)もない。 その景を誉めようと思うならば、その景の模様共を客観的に数々言い立てれば、良い景と言わなくともその景の面白さが自ずから知れる。この類は万事に渡る事である。 ある人の曰く、今どきの人はよくよく理詰めのことでなければ、合点しない世の中、昔語りにある事に当世は請け取らない事が多い。さればこそ歌舞伎の役者などもとかくその所作が実事に似るのを上手とする。 立ち役(老人・子供を除いた善人の男の役)の家老職は本の家老に似せ、大名は大名に似るのを以て第一とする。昔の様なる子供だましのあじゃらけたる(ふざけた、馬鹿げた)事は取らない。 近松が答えて言った、この論は尤ものようであるが、芸と言う物の真実の行き方を知らない者の説である。芸と言う物は実と嘘との皮膜(ひにく、境目の微妙な所、中間のきわどい所)の間にあるものだ。 成程、今の世は実事をよく写すのを好む故に、家老は誠の家老の身ぶりや口ぶりをうつすとは言えども、さらばとて真の大名の家老などが立役の如くに顔に紅脂白粉(べにおしろい)を塗ることがあるだろうか。又、真の家老は顔を飾らないからと、立役がむしゃむしゃと髭を生えたなりにして頭は禿げたままで舞台に出て芸をしたならば、慰みになるであろうか。皮膜と言うのはこれであるよ。、 嘘にして嘘にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあるものなのだ。これについて、或る御所方の女中、一人の恋男が有って、互いに情を篤く交わしていたが、女中は金殿(立派な御殿)の奥深くに居て男は奥方に参ることも叶わないのでただ朝廷などの御巣の間から姿を見かけるのもたまさかなので、あまりに憧れなされて、その男の形を木像に刻ませて、面体なども常の人形と違ってその男とうの毛(兎の毛)程も違わさず、色艶の彩色は言うに及ばず、毛の穴までも写させ耳鼻の穴も口の内歯の数まで寸分たがえずに作り立てさせたのだった。 誠にこの男を側に置いてこれを作ったので、その男とこの人形とは神(たましい)があるのとないのとの違いだけであったが、彼の女中これを近づけて見給えばさりとは生き身を直ぐに写しては興が醒めてほろぎたなく(小ぎたない)、怖げの立つものである。 さしもの女中の恋も冷めて、傍に置き給うのも煩くて、やがて捨てられたりとかや。 是を思えば、生き身のままを直接に写すならば、たとえ楊貴妃であっても、愛想が尽きる所があるだろう。それ故に、畫そらごととて、その像(すがた)を描くにも、又木に刻むにも正眞(しょうじん)形を似せる内にも、又大まかな所あるのが、結句、人の愛する種となるのだ。 趣向もこの如くであり、本の事に似る内にも又大まかな所があるのが、結句芸となって人の心の慰みとなる。 文句(もんく、人の語気をそのまま写して語る詞)の科白なども、この心を入れて見るべき事が多い。 慰みとなる物、娯楽、エンターテインメントは「虚と実の皮膜の間にある」とは蓋し古今の名言であろう。戯曲だけではない、アートも、芸術作品も創作と現実、虚構とリアルの微妙な混合の中に傑作が立ち上がって来る。そう、首肯させられる。 私は、主として今の若い人を対象にして自国の古典を「温故知新」して貰い、大いに自信を深めてもらいたい為に、浅学菲才をも省みずこうして現代語への橋渡し役を買って出ているのですが、思っていた通りに自分自身が一番古典の有難い恩恵を蒙る次第となり、幸福長者たる面目を日々に新たにしていて、神仏に(そしてこれは言葉にせずに私の胸の内だけに秘めていればすむことなのですが、私のブログを通じて私が如何なる者であるかを熟知して下さっている愛読者ですから、笑って見過ごして下さると勝手に思い込んでいるわけで、私の素晴らしい亡妻にも)深甚なる感謝の信(まこと)を捧げながら残された晩年を楽しく過ごしている次第で、実に勿体無く、有難い次第なのであります。 奇しき因縁でブログを通じて交流をなさって下さっている方々、どうか、どのような形であれ、日本の古典に直接に触れる機会を増やして下さい。想っていた以上の幸福感と満足感を各古典は必ず齎して呉れるに相違ないのです。 勿論、先人たちがそうして来たように、外国から学ぶことは非常に大切な事です。それは他人の振り見て我が振り直せ、の教えの通りなのです。しかし、最後は自分です、御自分を大切に、大事になさって下さい。歴史を、日本の歴史を知るべきです。己の今日の姿を正す為に。 姿形に化粧を施すことは必要でしょうが、それ以上に心の化粧、魂の歪みを真澄の鑑で正確に見て取りり適切な処置を施すならば、あなたは間違いなく「世界一素晴らしい、幸福者」に成長できるでしょうから。真澄の鑑とは、歴史であり、古典であります。 近松門左衛門の主要な作品を味読し終えて、私は改めて彼の天才性に驚嘆して、目からうろこの思いをしています。沙翁・ウイリアム・シェークスピアも勿論傑出した大天才ですが、近松は宇宙第一の浄瑠璃作者であり、この娯楽の享受者が一般庶民であり、日常茶飯に、今日の歌謡曲を楽しむように気軽に軽い娯楽として「女子供までが」誰でも楽しむことが出来ていた事実は、今更ながらに奇跡とさえ激賞してもよいのではないか。私は正直、そう感じている次第なのです。
2025年10月23日
コメント(0)
信濃の倉人・大宮司公道(きんみち)が突っ立ってあがき、知らずや、我こそはあづまやと千鳥、二人の亡魂、情けなや、清盛に命を取られた恨みの魂魄、憂き目をみせんと思ったのに教経の弓勢、仮に姿を変化(へんげ)して、かく退けたぞ。 今こそ思い知らせんと二人の姿が消えたと等しく、瞋恚無明の二つのほのお、ひらめき轟き入道の臥所(ふしど)に飛んで入るよと見えや。 はっとばかりに女房達が二位殿を介抱してほうほう(這いながら)逃げ入り給いける。 障子を蹴破り大政入道、なう、暑や、情けなや。五臓六腑を焼き焦がす。やれ、骨を焚く、わが身を燃やすわ、耐えがたや。あら、暑やと天を掴み、地を掴み、苦しや助けよと突く息も、猛火と、なって却って身をこそ焼くのだった。 多くの女中が次の間で、暑さは共に身を焼く如し。側、辺りには寄り付かれないで、入道は息も絶え絶えに水よ、水よと呼ばわれば、そりゃこそと女房達、用意の筧に仕掛けたる千手の水を手ん手に汲み、流せば筧を伝う水音も左右に分かれて、さっさっさ、さざれ石船、さざ波が立ち水をどうどうと湛えたり。 心地よげに入道は飛び入らんとしたのだが、眼に物が見えたのだろう、枕の小太刀押っ取り、虚空を睨んで大音上げ、珍しや頼朝、命を助け流して置いた昔を忘れ、平家に弓を引かんとは、恩を知らぬ大悪人、おのれは牛若・小冠者めな。鞍馬育ちの精進腹(野菜許食べた栄養失調の身)で、入道を討たんとや。 年こそは取ったが手並みを見よ、と太刀を抜き放って現(うつつ)の人に詞を交わすごとくに、えい、やっとう、虚空を相手に八方むぐう(無窮で)請けつ、流しつ斬り合ったが、飛びし去って身構え、やあ、この大首は何者、何じゃ、奈良の大仏じゃ。はは、はは、はは、はは、事可笑しい、事可笑しい。清盛に焼きつぶされる身を持って、何の恨みぞ。何の仇(あた、恨み)。 帰れ、帰れ。何、帰らないとは叉あづまやか。 逃さじとちらめく炎に打ってかかれば後ろから引き戻すのは千鳥の妄執で、その魂が付きまとい惹きつけるのを事ともせずに、斬り払い、斬り払い、衣服を脱ぐ間もあら遅やと、水舟に飛び入って頭(こうべ)を浸し、身に浴びせかけて熱さを凌ぐ有様は、剱に鍛える焼きかねを水に入れたる如くである。殿中がふすぶるばかりなのだ。 すは、又響く家鳴りだ、それにつれてあづまと千鳥の二人の姿、筧の上に現れ出で、さなきだに女は五障(女の持つ五種の障り、輪王・梵王・帝釈・魔王・仏身になれぬこと)三従(女が一生を通じて親・夫・子に従う事)の重きが上の憂き思い、夫は何処、と知らぬ火の筑紫の果てや国の果て、鬼界が嶋に流されて、跡に焦がれる閨の内、辛苦はしないが顔痩せて恋しゆかしが日に添ば、今は心も乱れ髪、夫(つま)の帰洛を何時かはと待ちかねている身を、むごらしや解けとせついた下紐の解かれぬ義理に身を棄てて、長き別れになしたるも不義より起こる心の剣、我と身を切る最後の一念、盡未来際(永久に)生々世々(生き代わり死に変わりしても)離れない、のかないとはったと睨む眼の光、矢を射る如くに照り輝き、五体を劈(つんざ)く程なのだ。 我を土足にかけた上に、畏くも海の水に沈んだ君・法王を助けた咎とて殺す心の刃、非道の足偏に夫(あなうら)(非道にも私を踏んだ足)、大地をつんざき、嶋に残した父上も今は冥途の友衛(ともちどり)汝も冥途の友烏、同じ闇路の苦言を見よと、頭(こうべ)を掴んで引き上げれば、天にもつかず地につかず、中有(ちゅうう、仏語。死んでから来世に生を受ける四十九日間)の呵責を今此処に瞋恚の猛火(みょうくわ)は雨と降り来る、くる、くる、くる、真っ逆さまに落ちて奈落の苦しみを思い知れやと忿(いか)りの顔(かんばせ)、恨みの息継ぎ、照る日にうつろう明鏡(みょうきょう)の光渡るのに異ならず。 父の憎しみ、身の敵、夫(妻)の罪障、身の炎(ほむら、燃え立つ思い)、今こそ最後と言う声ばかり、姿は消えて燃え立つ炎、筧に入るよと見えたのだが、流れる水が忽ちに炎となって落ち来る音、うず巻きあがる黒煙(くろけむり)に御所中が俄かに闇となり、目前焦熱、大焦熱、火盆地獄の有様もかくやと、覚えて凄まじい。 入道が叫んで、許せ、許せ。熱や、熱や。堪え難いぞ、苦しい、やれ、あたあたと身を藻掻き、ようように這い上がり、小袖を引き脱ぎ裸身を、もしやとずっぷり石船に浸せばくらくらとそのまま湯になって沸き返り、煮え返り、湯玉が虚空に迸り、業火の筧・心火の瀧、五体に炎を頂けば百節(はくせつ、多くの関節)の骨頭、えんえんと燃え上がり、ししむら(にく)が裂けて炭の如く、一世の悪逆が身に積もって、年も積もって六十四、治承(ちしょう)五年閏二月四日の日に、熱い、熱いの焦がれ死に、生き火葬とはこれであろう。哀れ儚い最期であった。 依正両輪の火の車(過去の悪業の報いとしての地獄からの迎えの火の車)が雲中に轟けば、清盛の胸中から車輪の様なる光り物、顕れ出でて虚空に上がり車に乗ると見えたのだが、無の字の筆画ありありと無間の底に沈むであろう。 二位殿の夢の告げこそ思い知られたのだ。今こそは本望を遂げたりと虚空に上がる二つの玉、邪見の轅(ながえ)を押し立てて、立ち去る車の響きに驚き、二位殿は慌てて出でなされ、見ればあえない俤(おもかげ)のいぶせくも悲しくも、空を見上げてわっとばかりに歎きに沈ませ給いける。 人々が立ち寄って諫め参らせ、奥に誘い奉り、清盛の御骸(みから)を津の国兵庫の名にし負う経が嶋にぞ納めたのだ。 天子の外祖とかしづかれ、この世に極まる位をふみ、六十余州に威をふるった古今独歩の人であったが、又は帰り来ない死出の山、三途の河瀬、中有の旅、作りし罪より友もなく、妻子珍宝及王、位、臨命終時不隨者(りんみょうずゐじふずいしゃ)の仏の金言を目の当たり、身の毛も立ってよの人の永き教えとなりにけり。 第 五 思いやるさえ遥かなる、思いやるさえ遥かなる、あづまの旅に急がん。 是は高尾の文覚である。我は伊豆の国の流人・兵衛の佐頼朝を勧め、平家追討の義兵をおこさせばやと思い、密かに院宣を申し下し、ただ今伊豆の国蛭は小嶋にと急ぎ候。 ああ、づなう(途方も無く)草臥れた。意地のも、我にも百里足らず、二日にはきつい旅だ。とろとろと見知らして(目を眠らせて)、又一息にやってのけよう。 さらばころりと臥し、柴の枕に仮の頭陀袋(ずだぶくろ、修行に歩く僧が物を入れて首に掛ける袋)、寝るよりも早く高いびき、地雷かと疑われる。 時に文覚、仮寝の魂、忽ち体を顕れ出でて、今目前にありありと滅びる平家の有様を、夢ともわかず現ともいざ、白波を翻す、さても兵衛の佐頼朝公、関八州を切り従え、その勢は既に十万余騎、御舎弟九郎御曹子義経、秀衡(義経を庇護した奥州の藤原秀衡)の勢をかり催し、奥より切って伊豆の国、心も勇み浮島が原から御陣を召された。 時に、文覚は法衣を改め、二人の中に立ちはだかり、和殿(わどの)は聞き及ぶ牛若丸な。今は元服して義経とは、おお、目の内の賢しき生まれ、久々にて舎兄(しゃきょう)頼朝に対面はさぞ満足、先達て頼朝には平家追討の院宣を申し下して帰らせた。 わどのにも見参の引き出物を致そう。これは故左馬の頭義朝白首(しゃれこうべ)、二度の朝敵と六条河原に晒されてのを奪い取って肌を放さず、頂戴あれと前に置き、念珠つまぐり座を組めば、兄弟は床几をまろび下りて、中にも義経、おお、情けなや、口惜しや。 運を計り、時節を待つと言いながら、早速に御敵清盛を討ちもせず、一度さえあるに二度も獄門の木にさらさせ、御名を穢した不孝の恐れ、早く平家の一門の首を獲って大路に晒し、父上の修羅の妄執、今生(こんじょう)の仇(あた)を報じたやと踊り上がって忿りの涙。 頼朝は黙然と言わないで歎きも一入、に、二人の心を思いやり伺候の軍兵(ぐんぴょう)は目を見合わせて皆哀れを催しける。 かかる所に有王丸、大汗になって馳せつけ、俊寛の郎党の有王丸と申す者、君しろしめされずや、木曾の冠者義仲が北陸道(ほくろくどう)から討ち上って一戦にも及ばずに平家は悉く西海に逃げ下りし。 法皇のまします籠(ろう、牢屋)の御所に乱れ入り、これをも一緒に西海に連れまいらせんとはかったのだが、有王が漸(ようよう)に盗み出だして、法皇は當国の三嶋の明神まで供奉仕り、某が一人訴えの為に参上と、大息をついて述べたので、頼朝は甚だ驚き給い、早速の注進、過分々々、同じ源氏の一類ではあるが義仲に平家を討たせては頼朝の末代までの恥辱は逃れ難い、 我は有王を召し具し、法皇の迎えの為に三嶋へ馬を馳せるべきぞ、我が代官として義経は六万騎の軍を引率して、夜を日についで都に上り、平家の一門の根を絶って、早く開陣あるべきと、絶えて久しい白旗を、雲井(空)の外までなびかせて出陣が有ったのは由々しい事でああるよ。 然るに平家は栄花を極め、暴悪を欲しいままにしたその天罰、廻って木曾の義仲に馴れた都を追い出され、落ちて行方も赤間が関(山口県下関の旧名)、安徳天皇を始め奉り、女院(建礼門院)二位殿一門以下皆入水と聞こえしかば、すは勝ち戦と源氏の武士、船から作る鬨の声、水の白玉玉の緒(命)も共に消えていく。船軍は今日を限りと見えたのだ。 能登の守教経ははし舟(小舟)に取り乗り、義経に見参と心を配って漕ぎ廻る。 源氏の方からは安芸の太郎實光(さねみつ)、同じく次郎光行(みつゆき)と名乗って教経の舟に漕ぎ並べ、手取りにせんとしっかと組む。教経は怒って二人を左右に取って引き締め、いさうれ、おのれら能登の最期の供をするか、うんと締めた小腕(こうで)を取り放れん、放さじ、退こう、退かせない、えいや、えいやと組み合う音、舟を踏みしめ踏み離し、逆巻く波はとう、とう、とう、三人一緒に海中にどうと落ちたる水の泡、消えると等しく海面は忽ちもとの宇津の山(静岡市内、西隅の宇津の谷峠)磯打つ波と聞こえたのは草の葉を渡る風の音。 義朝の頭(こうべ)は枕の上、眠りの夢は醒めたのだった。、 文覚はむっくと起き上がり、辺りをも廻し、むむ、聞こえた、聞こえた、邯鄲(かんたん、蜀の国の人、盧生が邯鄲で仙人の枕を借り、五十年の栄花の夢を見た)の枕に五十年の夢を見た、それはもろこし、是は又、義朝のしゃれこうべを枕にした一睡に、平家の滅亡と源氏の栄を見たること、夢にあらず現にあらず、正八幡のお告げぞかし。頼もしし、頼み有。 見よ、見よ、平家に泡ふかせ、源氏一統の御代となし、天下太平國繁昌、五穀成就、民安全、目出たづくめにしてみせんと、袋を押っ取り首にかけ、勇み勇んで急いだのだ。 百億萬歳末かけてゆるがず、動かずかたぶかぬ源氏の御代の腰押しは、六神通(六種の神通力を備えた)文覚が従い守る神と君、久しき国こそ楽しけれ。
2025年10月21日
コメント(0)
肝が太い、入道に取りつかんとは、蟷螂が斧、鉞(まさかり)よりもこれを見よ、とさ足にかけて、えい、えい、えい、頭(こうべ)を微塵に踏み砕き、がはと踏み込む波が逆巻き、潮の響きが震動して死したる千鳥の骸(むくろ、死骸)から顕れ出でたる瞋恚(しんい)の業火、清盛の頭(こうべ)の上車輪の如くに舞いくるめく。 ぞっと身を震い、色変わり、うんと一声顛倒し、眼口をはって(開いたまま)わななきける。 隨人雑式、これはと驚き、抱き起し、薬よ水よと呼びかければ、すっくと立って辺りを眺め、汝等は何も見ぬか、気味悪し、気味悪し、法皇も逃げるのであれば逃がしてよい。 命が物だね(命あってこそ、何でも出来る、と言う意味の諺)、都に帰らん、船急げと、水主かん取り(舵を取り)玉の汗、海は水玉、火の玉は離れず去らず、都の空を慕い行くこそ恐ろしけれ。 身が滅びようとする時は、災害並びいたるとかや、さても入道相国御心地例ならず、殊更、御所中に様々な妖怪、或いは家鳴り、光物(ひかりもの)、色々の姿が現れた。 物怪しき事は限りなく、いかさま変化の業ならんと昼夜を分かって宿直の武士、そよと物音・風音に火鉢の白炭(じよう、炭が燃え切った後の白い灰)が動くのさえ心を配って守りける。 常に外様の男とは顔を見合わすのも法度であり、互いに心を置く、奥女中、二十三四の色盛り町の風とは一位、顔も姿も格別に、土器(かわらけ、素焼きの盃)・瓶子(へいし、徳利)携え出で、愛想らしく手をついて、私は入道様の御台所(御台所)二位の尼君様の御使、今日はいついつよりも心をつけてのお宿直(とのい)、化け物も顕れずお心の騒ぎもない。 上にもすやすやと御鎮まり、ひとしお二位様が御満足がり、酒(ささ)ひとつ召されて、いよいよ御番油断なきように申せとの御ことである。と、述べければ各(各々)はっと頭(こうべ)を下げ、中でも番頭(ばんがしら、殿中の雑務・警衛に当たる番衆の頭)難波の次郎経康、冥加に余る仕合せ、お礼は御使のお取り成し、ついては外様の我々、御不例の御様體(ごようだい)しかと存ぜず、憚りながら御物語と尋ねれば、さればいな、過ぎつる厳島への御下向より夜昼に四五度づつただ身が焼ける、あたあたとばかり御意なされ、お熱のさす折柄は辺り四五間の熱さ、暑さ。 真夏の土用に百・二百の釜を一度に焚くかとも思わせ、御看病を申す私を始め、一人もお側には寄り付かれず、せめて御心も涼しいようにと、御覧なされ、あの如くにお庭に水船を据えて、比叡山千手(せんじゅ)井の水は日本一冷たい水、毎日毎日汲み寄せてはあの筧(かけい、地上にかけ渡した樋・とい)から流し込み、ずっぽりと水にひたり、お頭(つむり)からさっさと音羽の滝に打たれるようになさるれども、その水さえに湯の様になりまする。 お熱のさそう知らせにはこの御所が鳴り渡り、あそこの隅がめきめきめき、ここの隅がぐぁた、ぐぁた、ぐぁた。 半分聞いて一座の者、そろりそろりとにじり寄り、して、その跡は何と、何と。 この後が猶怖い、こう並んでいる畳の下がむく、むく、むく。何がお目に留まるやら、空を睨んで、やい、又来たか、来たか。遣らぬぞとてはがさ、がさ、がさ。逃さぬとてはどたどたどた。 それは、それは恐ろしい事と語れば、一座の者、色青ざめて、片息(息も詰まって)になって聞いている。 難波の次郎は気がさ者(負けん気の者、気の強い者)、いやさ、変化化け物は臆病な気を見透かして業をなす。難波がかくて候えば天狗にてもせよ鬼でもあれ、障礙(しょうげ、障り、妨げ)など思いも寄らぬこと、哀れ、化け物、こういう内にも来たれかし。取ってねじ伏せ手取りに致してやる。そして、薬要らずにさっぱりと御快気を見せ奉らんと、目に見ぬ先の口広言。 女はにっと会釈して、天狗の鬼のと言うまでも無し、誠は我はあづまやとて俊寛が妻の幽霊ぞや。さあ、手取りにしてみよと言うより姿はぱっと消えて、忽ち人のしゃれこうべが座中いっぱいに満ち満ちたり。 言葉には似ず動顛して、やれ、恐ろしや、なう、怖や。と駈け出した裾を引っ咥え、追い廻し追い竦め、逃げもやらず居もやらず、念仏陀羅尼お題目、一つごっちゃにしゃれこうべ、上に成り下になって転び合い、覆(ころ)びのき、火鉢の中に飛び入り、飛び入り、ぱっとふすぼる煙の内、一塊に山の如く頭(かしら)ひとつに目は百千、睨む光は流星が渦巻きあがる如くであり、わっとわななき肝を消し、こけつまろびつ逃げ散れば、俄かに家鳴り震動して大地も崩れるばかりである。亦 能登守教経萌黄匂いの腹巻、上には狩衣引き違え、重藤(しげとう、細かく籘・とうを巻いた弓)の弓張月、星切り斑・ふのとがり矢をかいこみて大床に躍り出で給えば、女の姿が又顕れて、珍しや教経殿、我あづまやは幽霊ではあるが御身は蟇目(飛ぶときに音を発する矢、魔を退ける時に使う)を以て我を引き退けんとの弓矢の威光に押されて、情けなや、入道に近づくことが叶わない。恨みを報ぜんようもなし。 情けある能登度に恨みはない。弓矢を伏せて帰ってたべ給えとよ。 何、あづまやが幽霊とな。事可笑しいぞ、化け損ないのふるだぬきめ、正体を現わせ、さもなくば能登がひと矢と引き絞った。 後に女がまたすっくり、我は千鳥と言う女、わ殿に請けた恩はない、帰れと言うのに帰らなければ入道諸とに同じ憂き目を三瀬河(みつせがわ、三途の河)、来たれと髻をしっヵりと取り、えいと引かれたが教経は気後れせず梓弓の端で払う、本はず(弓の弦をかける最下端)・末はず(同最上端)に恐ろしや三十番神(ひと月三十日間、毎日交代で守護の番に当たる神)ましましても魍魎鬼神(もうりょうきじん、山川の精と言う魔物)は汚らわしや、出でよ、出でよと責め給うぞや。 腹が立つ、思う人を取らないで、剰(あまつさ)え、神々の責めを受けるのか、口惜しやとかっぱと轉(まろ)べば大音を上げて、正四位下能登の守平の朝臣(あっそん)教経と鳴弦(矢をつがえずに弓を鳴らす事、妖魔を払う時の作法)し、きりきりと引き絞りひょうど放つ矢さけび(矢が当たった印に射手が叫ぶ声)に、二人の女も行方なく、忽ちに障礙が消え失せて御所の震動安全たり。 二位殿が悦び、帳台を出で給い、今に始めぬ教経の弓矢の徳、御手柄、御手柄、 これにつけても、なう、過ぎつる夜、我がみたる夢の話、能登殿、ちこうと招き寄せ、声はひそめて眼に涙。言うも語るも忌まわしや。 音に聞く火の車と言う物か、牛の面、馬の顔なる鬼どもが猛火の燃え立つ車一輌を御所の内に遣り入れた。 恐ろしや、この車に如何なる者を乗せているのかと夢見心地に尋ねると、平家の大政(う)入道悪行超過し、閻浮(えんぶ、世界)第一の大仏を焼き亡ぼし給う咎によって、無間地獄に沈めよと閻魔王の仰せにて迎えの車だと答えた。が、夢はそもままで醒めてしまった。神明の守りも絶え、三世の仏の綱も切れ、長い苦患(くげん)や見給わん。今度や娑婆の限りかと思えば気も消え、心消え、入道殿よりみづからが命ぞ先にとばかりにて、身を投げ臥して泣きなさる。 教経は両手をはたと打ち、あら、不思議や、某が夜前の夢、所は大内の神祇館(じんぎかん、祭祀・官社の事を掌る神祇官が詰める所)、束帯匡(まさし)い人々があまた寄合い給いしが、遥か上座なる老翁(ろうおう)、この二十四年間平家に預けたる将軍の節刀(せっとう、出征の時に天子から賜る刀)を取り返し、伊豆の国の流人兵衛の佐(すけ)頼朝に得させんずるわとの給えば、一座の各(おのおの)了承あり。かたえの人に名を問えば、上座の人は八幡大菩薩、かく申すのは武内(たけうち、武内宿禰、軍神とする)と、言いもあえずに霧霞と消えたり。 御夢と言い、我が見た夢、かたがた御慎み、家門の大事と宣う所に、信濃の国の倉人が庭上に畏まり、故帯刀先生(こたてはきせんじょう)が次男、木曾の冠者義仲が義兵を起こし、その勢既に雲霞の如く、安曇(あづみ)の城に楯こもり、又東国では流人兵衛の佐頼朝、院宣を申し下し(申し受けて)、北条の四郎時政を語らい、山木の判官・和泉判官兼隆を夜討ちにして石橋山に城郭を構え由々しき御大事に候と、未だ訴え終わらぬ所に、筑紫宇佐の大宮司公道(きんみち)慌ただしく罷り出て、鎮西(九州)の住人緒方の三郎惟義(これよし)、平家を背き彼に従う戸次(へつき)・臼杵(うすき)・松浦(まつら)党、皆々源氏に心を寄せ、伊予の国では河野の四郎、紀州に熊野の別当湛増(たんぞう)鈴木を語らい、源氏に従い、平家に弓を引かんとす。早く討っ手を遣わされ然るべからんと言上した。 二位殿を始めとした人々は耳を驚かし、あきれ果てたるばかりなり。 教経眉に皺を寄せて、東国北国が背く上に、南海・西海悉く敵となった。急なることは眉に火がついたも同然だ。 病気の障り、入道には沙汰無用、宗盛公に参上して一門を集め、追手の手分けを致さんと、言い捨てて御所を退出ある。
2025年10月17日
コメント(0)
第 四 舟路の道行 頃は文月(七月)、半(なかば)の空、都方には亡き魂を迎えて帰る槇(まき)の露、これも都に帰り往く。 舟にぞ仏の誓いにて鬼住む嶋を逃れ出て、少将成経康頼は帰洛の舟の旅衣、今着てみるこそ由々しけれ。ちどり一人は泣き焦がれ、仮初に親と頼みし俊寛を後に残して置き、沖の嶋、また逢いましょうではないが大嶋を漕ぎ放れ、余所に見捨てて行く、壱岐(いき)の嶋、硫黄が嶋より地の嶋まで海上七七四十九里は船を繋ぐべき磯も無く、蒼海天に連なって雲に漕ぎ入る沖の舟、眺めも遠く漫々と(広々と)北は三韓(朝鮮)・壱岐・對馬、南は香椎・宇佐八幡、そもそもこの御神はすべらき(天皇)の御代が始まりて十六代の尊主・応神天皇、みもすそ川の底清く、神徳あまねき夢想の告げ(僧の行教に宇佐八幡の夢想の告げが有り、その奏上で応神天皇を男山鳩の峰に祭った)鳩の峰に鎮座有り。 他の人よりも我が人と、誓いも固い石清水、今澄み上る我々が再び帝都の雲を踏み、九重の月を眺める事、皆神明の加護ぞと各々が法施を奉り、波の白木綿・青弊(あをにぎて、麻で作った神前の供え物)、かかる遠國波涛にも、名所は音に響きの灘、鐘が岬に明け渡る。箱崎の松、宰府の梅、末は蘆屋(あしや)の浦伝い、海人の漁火影もなく、松吹く風の声ばかり。 今行く舟に通い来る苫から潜るしたたりは、小倉の雨の糸に似て、波も縮(ちぢみ)を織っているようだ。そんな風に心を結ぶ中空に初雁がねが雲間から、ちらちらちら、と散らし書き、誰が玉づさの文字が関、和布刈(めかり)の明神を伏し拝み、潮の満ち干の玉嶋に続く光やあかねさす蘇芳(すはう、黒みを帯びた紅色)周防灘とはこれかとよ。濡れた姿のあの姫嶋は誰(た)が思惑のゆかりぞと、沖の家室(かむろ)・禿(かむろ)にこと問えば灘の男波が打ち寄せていつも添い寝の床の嶋、京とまりては上の関、明日は都も程近く、阿伏兎(あぶと)御手洗(みたらい)くろく嶋、右手(めて)は四国の海面(うみつら)を走る兎の月を越え、暮れては明ける日の烏、かうかうたるわだの原、島々浦々、幾湊を風に任せ、櫓に任せ、舟な備後の敷名の浦、潮待ちしてこそいたりける。 俊寛僧都の郎党・有王丸は主人の遠流赦免あると聞きしより、夜に日をついで備後の国敷名の浦に着いたのだが、磯に寄せたる上り船、すはやこれかと渚に降り立ち、是々、御船に物問おう、鬼界が嶋の流人帰洛の船は何国(いづく)まで参りしぞ。類船(ふねが一緒に航行すること)などはなされなかったか。 俊寛が郎党の有王丸と申す者、御存知ならば教えてたべ。 なう、これこそは尋ねる流人船である。丹波の少将成経と平判官康頼が舳板(へいた)踊り出で給えば、御堅固の帰洛重畳千万、法皇の院宣(いんぜん)、小松殿の情により主人も赦免と承る。 有王丸が御迎えに参りしと憚りながらお伝えをと、聞くより二人は打ち萎れ、千鳥を呼び出し引き合わせ、これこそ俊寛の養い娘、僧都と思い宮仕えを致せと、有つる嶋の物語。 有王はっと途方に暮れて、ええ、しなしたり、口惜しや。あづまや御前の最期にも一足違って御命を助け得なかった。腹を切って申し譯をと思ったが、嶋には僧都がましませば無念の命を長らえて待ちおおせたる甲斐もなく、よっく仏神にも捨てられたか。娑婆での奉公はこれまで、腹を掻き切って冥途での忠義に急がんと、既にこよと見えければ、千鳥は陸(くが)に駆け上がり、なう、はやまるまい。此の度は帰洛がなくとも死に失せ為された身でもなし、御先途を見届けようと思うきはないかと、縋り付いて留めている所に、浦守の下人が駆け来った。 こりゃ、こりゃ、その船漕いで行け、清盛様が鳥羽の法皇を連れまして厳島を御参詣、この浦に御船がかかる(停泊する)、筈、やれ、その小船漕ぎ退けよ。急げ、急げと言い捨てて、次の里へと走り行く。 丹左衛門の尉基康は有王丸を船近くに招き寄せて、成経・康頼が帰洛の趣を清盛公に訴えん、この女性(にょしょう)を同船の事を咎められては事難しい。俊寛の養子娘であれば汝が主人である。きっと預ける。これより陸路(くがぢ)を同道して都に上れ。 あれ、舟歌が聞こえる、はや、御船も程近い。と、船をかたへに漕ぎつければ、有王は千鳥を介抱して一群茂る葦の陰に隠れた。 程も無く波の上に御座船の棹の歌、やんれ、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ、貴人の船、二隻を一対とし、一隻には龍の頭、一隻には鷁・げき 想像上の鳥の首を舳につける)の金(こがね)の楫やァ、玉の棹綾や、錦を帆に上げてやらんやら、お目でたい、鯛を釣る、鱸(すずき)釣る、磯辺に錨を下しける。 流人船が漕ぎ寄せて、丹波の少将成経、平判官康頼を召し具して、丹左衛門の尉基康ただ今帰洛仕る。御披露をと訴えれば、御簾(ぎょれん)を挙げさせて船館に法皇が安座なされていらっしゃるので、席を並べて清盛入道、我が下知を背いて俊寛も帰洛させよと病みほほけたる重盛を誑し、赦し文を下されたる者ありと聞く。俊寛も連れ帰ったるか。 御諚の如くに、一緒に帰洛すべき所、瀬尾の太郎と不慮の口論によって瀬尾を討った咎に任せ、俊寛はすぐに彼の嶋に残し置き候。と、申し上げた。 法皇はっと御驚き、入道くゎっと色を損じ、しゃつ憎っくき俊寛め。首取ってはなど帰らなかった。手ぬるし、てぬるし。成経・康頼も心許されず。汝に預ける。連れ帰りきっと守れ。いそげやっと忿(いかり)の顔色(がんしょく)。 畏まって船を押し切り、元康は都に帰ったのだ。 清盛は法皇をはったと睨み、潮(うしお)も逆巻く大声を挙げて、やあ、位抜け殿、法皇殿、保元平治よりこの方朝敵に悩まされ、天下が暗闇になったるを悉く切り沈め、法皇と言わせた入道の恩を忘れたのか。 ややもすれば平家を亡ぼせ、入道を殺せなんどと俊寛を始め人を語らい、ぬっくりとした(自分かってな、厚かましい)事を工まれた。今まではときはと言う女人を質に取り置きたれども、牛若冠者めが奪い取り東国へ逃げたれば、一寸も油断ならず、この後平家追討の院宣などを頼朝・牛若に出されては飼い犬に手を噛まれる道理、海に投げ込み人知れずに殺さん為に、厳島参詣と偽りこれまで連れ来れども、根性が腐っても王は王、手にかけるのは天の恐れ、みづから身を投げ給えば清盛には罪はない。 さあ、身を投げ給え、早う、早うと極悪、聞くに堪えかねて磯では千鳥と有王丸が出るにも出られずさし覗き、ただはあ、はあと身を冷やす。 法皇は御衣に御涙をかけながら、天照大御神に見放され奉ると思えば、世にも人にも恨みはなし。神武の正統八十代、みづから身を投げた例を聞かない。入道の心に任すしかない。只末代こそ心憂かれとばかりにて、昔を慕い行く末を思いかねては咽返り歎き沈ませ給う。 入道が心に任せるとは、殺せとのことだな。おお、院宣には背かないと、勿体無くも取って引き、海寄せ、両足をかいて(すくって、払って)真っ逆さま海へとざっぷと投げ込んだり。 潮に引かれて玉對(ぎょくたい)は沖に誘われ磯に打ち寄せて、浮いたり沈んだりして漂っている。 千鳥はっと走り出で、続いて海に飛び入ったが、足が立つ程は立ち泳ぎ、御命を助け奉らん、必ず御身をもむまいと乗りこす汐には抜き手を切り、泳ぎのぼれば、さら、さら、さら、さざ波高く押し流されて海松布(みるめ)を力にたぐり、くるくる、みなぎる波を巴(は)の字に開き、うずまき逆巻く波枕、海に馴れたる海女の業、ずっと水練(すいり、潜水)に姿も見えず。 船では弓・槍・太刀・長刀、刃を並べて眼を配り、浮かばば斬らんと待ちかける。 陸(くが)では有王が身を揉むが、烏が鵜の真似詮方なく、拳を握って控えている。 清盛はいらって、やあ、うっそりめ(薄ぼんやりした奴等め)ら、陸を見よ。俊寛の下人の有王丸がいるぞ。先ずきゃつから打ち殺せ。 畏まって、飛び降り、飛び降り、命知らずの前髪首、さらえ落して根付(ねつけ、煙草入れ・巾着・印籠などにつけ、落とさないように帯にはさむ物)にせんと憎ていにのさばれば、有王はくっくと打ち笑い、口有るままにほざいたな、物欲しいおりからよい慰みと、面も振らず(真っすぐに)割って入り、磯打つ波のまくり切り、木の葉を誘う山おろし、揉み立て揉み立て斬り散らす。 有王に斬りたてられ、むらむらぱっと逃げ散ったり。 なんなく千鳥は法皇を肩にひっかけて、浮かび出たので、有王丸、はあ、御命安全、目出たし嬉しい。こっちに任せと浪打際に降り立って、背中に潮で清めの垢離(こり)、法皇を肩に負い奉り、足に任せて走り落ち行きけり。 その隙に、清盛は長熊手をおっとり伸べて、千鳥の頭にさっくと打ち込み、えいや、えいやと引き潮に逆らう千鳥の憂さ、浮き苦しみ舳にどうと引き上げ、背骨をしっかと踏まえねめつければ、おお、引き殺せ、食い殺せ、俊寛の養子千鳥と言う薩摩の海士、あづまや様は母親同然、母の敵、父の敵の入道、法皇様は一天の君。御命に代わると思えば数ならぬ海士のこの世の本望、殺されても魂は死なぬ。 一念のほむらとなって皮肉に分け入り、取り殺さないでおくものか。ええ、無念やと、怒りの歯ぎしり恨みの涙、磯打つ波に村雨の、篠を乱すが如くである。
2025年10月15日
コメント(0)
宗清はときはに目もやらず、顔打ち振って独り言、 あっぱれ宗清は今、小松殿と言う能い主を取った果報の武士、いにしえの如くに源氏を主と仰ぐならば、世間に恥辱をかくであろう。 ああ、嬉しや、嬉しや、俊寛が妻のあづまやの最期の詞、ときはが如き根性を下げまい物。道知らず、悪戯者と笑い謗って、その身は伊邪那美の尊(みこと)以来、貞女の手本を世に残し、刃に臥臥して空しくなる。想えばあづまやは四想(四相、我・人・衆・寿者の四相)を悟る女賢人。 小松殿も賢人、平家の仇となるときにはときはとて容赦をするな。討って捨てよとの仰せ。徒に極まれば平家に弓引く仇ではないが、その身ばかりの恥辱か、義朝の尸(かばね)の恥辱だ。 牛若の生い先、源氏一統の恥、恥さらしだ。 さりながら、今、宗清が主でなければ構わぬこと、狐や狸が人を化貸し失うにもあらず。 ときはの不義放埓を申し上げるまでの事、とずんと立てば、なう、暫くと引き留め、ときはが不義とは情けなや。俊寛の妻の自害は身の貞女を守るばかり、死んで源氏の為になるならばあづまやづれに負けようか。生きて心の辛抱は、ああ、恐らくときはには及ぶまい。 牛若を助けるために清盛の心に従ったが、病と偽り帯を解いて一度も肌を穢さぬもの。そもやそも往来の人を呼び入れて仇の枕を並べようか。牛若は日蔭もの、誰を頼りに詮方なさ、往来の人を呼び入れて色に迷うのは男の習い。 騙し、透かし、誑し込んで心を見届け、従う者には源氏一味の血判させ、牛若に義兵を挙げさせ、平家一門の首を見ん為と言う言葉を打ち消して、抜かすな、言うな、噓つきのときはめ。今おのれの不義を見付けられ、当惑しての作り事、聞くのも弓矢の穢れであると、立って行こうとするのを再び引き止めて、いや、ときはに不義がないことは聞いても聞かする(是非とも聞かせる)、聞かないでも聞かせる。むさぼりつくのを取って突きのけ、ええ、平家に敵対するときはならば討って捨てよと御意を受けた宗清に、偽り者・恥知らずと、懐中の巻絹をひと捩ねじて丁々(ちょうちょう)、徒者(いたづらもの)とてはたと打ち不義者とてちゃうと打ち、詞を下げて黒髪をねぐたれ(寝乱れ)髪と打ち乱す。 杉戸を隔てて笛竹が南無三宝、顕われしと裾端を折って杉戸を蹴放し、袂の下の二尺三寸(の長さの刀)を隙も有らせずに切りかけた。老巧の宗清が抜き合わせて渡り合い、踏み込み、踏み込み撃ち合う音、ときはは驚き杉戸をはずして引き抱え、相の小楯と身を棄てて、前に覆いうしろに隔て止めても止まらずに抜け潜っつ。 太刀と太刀とが閃く影、暗夜の稲妻、流れる汗、軒の雫の如くである。 ときは御前が声をかけて、大人げなし宗清、はやまるな牛若丸の母が言う事を聞かないか。と、制せられて飛びしさり、ええ、無念な、源の牛若が大事を思い立つゆえに母上と心を合わせ、下女腰元に様を変えて心を尽くすと聞くならば、忠節を為すべき所主君たる母君を何故に打った、何故叩いた。 やあ、主君とは舌長(過言)なり。彌平兵衛宗清の今の主人は平家の大将・小松殿。平家の仇となる者は討って捨てよ。義ある武士と見極めし、とお眼鏡に適い迎えてくれた。不義放埓のときは手を以て討つのも腕のけがれと、肌身離さずに持ったこの雑巾で打ったのは有り難しとは思わぬか。 不義者の恥知らずに廻り遭うこともあるかと、隠し置いたるこの雑巾、親子の恥を押し拭い、押し拭い、早立ち退けと巻絹取って牛若の額にはったと投げつけたり。 ええ、推参なり、いで切り裂いて捨てんずと引きほどけば、こは如何に、正八幡大菩薩とありありとしるした源氏の白旗である。 二人ははっと押し頂き、我々に廻り遭うまでと肌身離さずに持ちたるとや。今この旗を拝する事は父義朝の蘇生とも千騎万騎の味方とも、この上があるべきか。奥が深い宗清の心を計らずに卒爾の雑言、許してたべ、宗清と、親子が頭を下げ伏し沈み給うのを見て、色には出さないが宗清もつれなの人界や、譜代の主人に頭を下げさせ、冥加なし、勿体無し、痛わしとさえ言い遣らぬ奉公の身の浅ましさ。想えば胸も裂けるばかりである。 しおれる瞼を見開き、見開き、せきくる涙をのみ込み、飲み込み渋面を作るのも哀れであるよ。 や、主人顔して怪我をするな、牛若と聞けば逃されぬ。宗清を討って親子共に早く立ち退け。と急いた所、おお、誠ある宗清の詞は父の教訓、いざ、立ち退かん。尤もと走り出そうとすれば、これこれ、小松殿お眼鏡の宗清である、おめおめと見逃して我が武士道がたつべきか。この宗清を一太刀うて。討ってから立ち退け、立ち退けと呼ばわったり。 むむ、尤もと、牛若が飛び掛かって太刀を振り上げれば、ときはが縋って、やれ、情けなや。心ざし(好意を寄せてくれる)の宗清を太刀を当て斬っては天の咎め、氏神の御罰、苔の下なる義朝の御照覧も恐ろしい。たとえ親子が一生を朽ち果たすとも道を立て、義を立て、誠を尽くす侍に何と刃が当てられようか。許して呉と泣きなされば、ええ、言い甲斐がない。薄手も負わずに落としては宗清の武士が廃る。 いや、それも斬らさぬ。いや、討て。いや、打たさぬと義を争う。 ええ、曲もない、腹を切るのは易いのだが、敵を見てぬくぬくと腹を切ったのでは逃げたのも同然だ。小松殿の御詞、昔はともあれ、今は平家の禄をはむ。我が死後までも目がねを違えるな、畏まったと請け合った一言は須弥山よりもなお重い。彌平兵衛の一生が廃ると知らないか。恨めしやと睨みつけた。血眼に涙が混じっている。 声の下から縁の下、敷板の外れから宗清の弓手の高股をぐっと通す切っ先は、朱に染まって現れたのだ。人々がはっと驚けば、宗清にっこと打ち笑い、ははあ、誰かは知らぬが我を突いたのは源氏の忠心、さあ、宗清こそ牛若に出で合い、深手を負って討ち漏らした。やれ、のけ、のけと呼ばわる隙(ひま)に牛若君が縁の敷板を引き退け給えば、ひな鶴が顔も形も朱に染み、這い上がって来た。 なう、懐かしの父上や。一年母上に連れて別れた娘の松が枝、今の名はひなづる、床しゅう御座るとばかりにて縋り付いて泣いたのだ。 母上に遅れて(死別)からはときは様に仕えてても、宗清の娘とは今日が言い始め、最前よりの御詞始め終わりを縁の下でつくずくと聞き、お主の命も助けたし、父上の武士も立てたく、親の身に刃を当て八逆罪を身に請けたのは親と主が愛しい故、さあ、牛若様、ときは様早く御退きなされ。なう、父上、印ばかりにちょっと切ろうと思っても当て推量の切っ先が悲しや思わぬ深疵になりましたが、たった一言許すと言う言葉を掛けて下さいませ。と、血を吸いのごい、疵を撫で、声も惜しまずに泣いている。 宗清も諸共に咽ぶ涙を押し隠して、離別の母の娘であれば親でもなければ娘でもない。女ではあっても源氏の郎党、平家方に刃を当てて許せとは何事ぞ。源氏方には誰ならん、藤九郎盛長の姪の松枝ではないか。縁の下からつかなくとも何故に)名乗りを掛けて打たなかったのだ。 宗清が怖いか、卑怯者め、腰抜けめ。とは言いながらでかしおったぞ。と、引き寄せて縋り付きて泣いたので、ときは御前も牛若も、さてはおことは宗清の娘かや。血筋程ある心ざし、子と言い、親と言い、かかる忠義の武士(もののふ)の敵になったる源氏の運、この行く末もいかならんと、四人は顔を見合わせてわっと泣き入るばかり成り。 宗清は猶、泣かぬ顔、やい、慰みに人を斬るか、主君を落すためならずや、お供申して立ち退け。吠えな、吠えなと突き退ければ、如何にもお二人を落しましょう。 我が身は残って父上の看病をさせて下されと、又、立ち寄るのをはったとねめつけ、母さえ離別したる物、看病とは狼狽えたか。手負いに心を揉ませるな。勘当と言わないのを嬉しいと思わないか。但しは勘当を受けたいか。不幸者めと叱るのにも涙。 ああ、ああ、お供しましょう、お供せう。あれ、父の心ざし。立ち退いて下さいませと涙を押し拭い押し拭いながら先に進めば、親子の人、身の大事をも思いやり、宗清父子の忠節も想い遣る方涙ながらに出で給う。 宗清は突っ立ち、牛若やらぬ、ときはやらぬ。足が立たない、口惜しやと態(わざ)とよろよろどうとまろび、おのれか程の薄手に怯みはしないぞ。又立ち上がって太刀を杖、よろりよろりとよろめく姿、見兼ねては立ち戻り、逃さぬ、やらぬは声ばかり、両方で泣き顔、睨む顔、ひらめくばかりも刃を向けはせぬ。 勇者の振る舞いには情けが有る。恩愛あり、哀れがある。分別有る、仁義ある。心は太刀の光に見えて義理に引かれる牛若君、親に焦がれるひな鶴の翼を絞る涙の雨、ときはが森の木の葉の露の様に涙を落しながら去っていくのも哀れであるよ。
2025年10月14日
コメント(0)
小松殿が聞きなされて、苦し気なるかんばせに立腹の色が現れ、心得ぬことを申す者かな、源氏譜代の汝なればこそ、常盤の常の行跡や心入れをよく知っているであろうと、思い寄っての事だ。明日にも源平が鏃(やじり)を争う時に、源氏譜代の宗清、軍の御供は容赦あれと言うべきか。よもや、さは言うまじ。 源氏の昔の恩を思うなら、今又平家の録を食む、その恩賞をよも忘れてはいまい。義ある武士と見定めた我が眼力、重盛の臨終も今明日と極まって、明日の夜までは不定の命だ。 病み疲れて眼(まなこ)眩み、最後に人を見違えたと死後に小松の名をくたすな。早急げ、宗清と床の緞帳、御簾もさっと降りたので、宗清はあっと頭を下げ、文武二道の賢将、義ある武士とのお詞、生前の面目、部門の誉、哀れ、御命を全うして御馬の前で討ち死にして、御恩を報じないのは残念至極、 もし宗清が狂気して御眼力を違えたなら、冥途より御手を下郎に貸され、歩(ぶ)に首を下げ給え。はや、お暇と罷り立った。 源氏の恩、平家の恩、引かれてたゆまぬ梓弓、矢竹ならぬ彌猛心ぞ頼みある。 囲い女(もの)とや悪口に、是をも言えば夕附く日、朱雀(しゅしゃか)の御所は女護の嶋(女ばかりが住む嶋、実在すると信じられた)、昔は源氏の春の園、義朝の花もみぢ、今日は平家の秋の庭、清盛の月雪と見手は変われど変わらないのは、ときは(普通名詞としては永久不変、変わらぬの縁)御前の起き伏しの独りでは足らぬ(男無しでは不満な)御身持ち。 お腰元の笛竹、御髪上げのひな鶴が男見立ての仰せを受けて裏の小門の物見の亭(ちん)、往来(ゆきき)の人の風俗を見下ろす簾(すだれ)を巻き上げて、今日も変わらぬお役目だとて、口へは入らない善悪(よしあし)に男を待つ風がしどけない。 なう、笛竹殿、何時ぞは何時ぞはと思っていたのですが、幸いに外に人はいない。ときは様は御気合いが悪いとて床も離れず薬もんじゃく(係り合うこと、関係が絶えぬこと)、何時も浮き浮きとはなされぬのに来る日も来る日も二人か三人か往来の男を呼び入れて、お精が強い。上々には何がなる物ぞ(お上のなさる事は不可解だ)、あれではお煩いも治らぬ筈。 清盛様に聞こえてはお身の大事、わしらやこなたも良い事はあるまい。怖くてならないと震え声。ああ、気遣いない、気遣いない。竹笛が何も飲み込んだ、今日はいつもより通りが薄い。それでも能い男をせめて二人程はつらなくてはそなたもわしも一分が立たない。 おお、合点と言う所に素襖袴(室町時代の庶民の平服。鎌倉時代では武士の平服)にかけ烏帽子。こりゃ、歴々の侍だ。但しは公家方の諸大夫(しょだいぶ、家政を司る家司・けいしに補せられる家柄の者)か。あれ程の人躰に破れ扇は不都合な、え、ままよ、是、そこな烏帽子殿、此処へ、此処へと招かれて、小腰をかがめ声張り上げて、万戸(まんこ)がその日の装束には阿のく菩提の腹巻に隋求陀羅尼(ずゐくだらに)の小手をさし、断悪修善の脛当てをあくち高にしっかとはき、大唐錬小唐錬、二振りの剣を十文字に差すままに神通自在の葦毛の駒、歴劫不思議のうき沓をはかせ、その身は軽げに乗ったりける。万戸将軍はうんそうとて、万戸将軍うんそうとて、ああ、しんき、ここへおじゃ、しっぽり(しめやかに、男女の交情が密なこと)と言いたいことがある。 先ず、待ちゃ、待つゃとひな鶴が亭から降りるのを見て、え、さてはしっぽりが御所望か。あら、痛わしや蜑人(あまびと)は海上に浮かび出で、。乳の下を掻き切り玉を押し込めて申したり。乳(ちち)のあたりにないならば疵のありたけ、どこもかも探って見給え、我が君とたださめざめと泣いている。む、さてはまい舞か、舞まいでも蜘舞でも大事ない。 これ、御門の内におじゃ。結構な目にあわせようから。こんな事じゃと耳に口を寄せて、こうじゃこうじゃと囁けば、舞まい色を変えて、万戸この由を聞くよりもあら、怖や。恐ろしや。これは龍宮の美人局(つつもたせ)、三百目の玉塔に、その外悪魚の仕掛け物、逃れ難しや我が巾着と跡をも見ずして逃げ失せける。 なう、笛竹殿、無駄骨を折ったではないかいな。いや、いや、一の裏は六、陸路を軽く、それそこへ状箱をかたげて飛脚の足、淀から三里に灸もない。脇差を一腰差し、さしもぐさ、燃え立つ汗にむしつく髭も助平のへの字なりが面白い。腰骨が太い達者造り、これがお上の好物男、やれ、これ、逃すな、呼び込め、とひな鶴が飛ぶように足早に袖を翻してしにじみと囁けば、甘い奴でじろりと見た目にほやり(にやり)と笑い、連れて内にぞ入ったのだ。 跡に続いて聞こえたのは小唄を歌うのか、何を言うか。顔見ぬ先の声の綾。鯵や刺し鯖、皮鯨・目黒・鯛の剝き身・干しかます、鰹節、干鱈・塩鱈、だらだらとだらつき声で通って行く。 ひな鶴、その魚売りを呼びゃいのう、いや、いや、今日は義朝様の精進日、せめての冥加に魚売りは遠慮なされと言う所に、旅する武士の高からげ、股引・脚絆・頬被り、南の方からそりゃ来たぞ、まっかせ、やらぬとひな鶴が囁く顔を振り切って、行きすぎるのを縋り付き、猛き武士の心をも和らげる歌も恋路を種とすると聞く。 いかなる武士も否(いな)とは言わぬ、稲舟の、押すに押されぬこの道を止まらせ給えと言いければ、さすがに岩木ではない荒男、心弱くも立ち留まる。 所は朱雀の御所の門、連れて入る、日も暮れる過ぎる。ときは御前の帳台の夜の光は雲井にも劣らぬ露がしめやかに置く、奥座敷、相の廊下を笛竹が昼の飛脚の手を引いて、案内(あない、室内の様子)を照らす燭(ともしび)にいごきもやらず立ち止まり、こりゃ、何処へ連れて行き召すぞ。白癩(びゃくらい、是非に)返してくれられと歯の根も合わぬ胴ぶるい。 これ、怖い事はなにもない、この奥に御座なさるるは聞き及びもあろう、千人の中から百人を選び百人の中から十人を選りだし、十人の内に独り優れたる時は御前にと、それはそれは美しい君、そもじにたんとほの字じゃと、嬉しいか。是、こんな目に遭うにじゃとささやけば身を捩て俄かに作るつぼつぼ口(つぼめた口)、え、嘘ばっかり。おらがような者にこのかま髭で頬ずりは痛かろう物を、わしゃいや。 え、気の弱い、是、この帷子を着て行きゃと帯を引きほどく肌えは鍋の底。気味悪く、こりゃ何と言う帷子、むむ、柔らかな、身について動かれない。言わぬことは悪い、この帷子も着どり、我等が身の廻り一色も散らすことはならぬ。 それを気遣いすることか、夜が更けぬうちに此処からと杉戸を開いて突き出せば、一足行ってはけつまづき、滑る飛脚の脛ッ脛、去るにしても我は千里を股に掛ける商売、一度も歩み兼ねぬ身が一足もいごかれぬ。智恵こそあれと四つ這いに這う、這う開ける障子の内、ともし火かすかに寝姿を見るより早くぞっと身も痺れ、蚊帳の外にうずくまり、伽羅のかおりに咽せ返る。 蚊帳の内から、ときわ御前、手を引き寄せ、これ待っている、さあ、此処へ。この手の華奢なこ。とわいの。と、じっと締められ現(うつつ)を抜かし、こりゃあんたる因果骨、mっきめっき致す御免有れと、お辞儀は申さぬ、お辞儀は致さぬ。と、蚊帳を引き上げてぬめり込む時は、押さえて、ああ、待ちゃ、待ちゃ、真実抱かれて寝る気なら我が言う事を背くまい。 他言はせまいとこの誓紙に血判(ちばん)を据えての上の事、物も書くであろう、これ見よと、袂の内の一巻を渡せば取って押し開く。 杉戸の外では笛竹が耳をそばだて、息をつめ、伺う内のひそひそは漏れる方なく聞こえるのだ。 読みも終わらずわなわなと震え、なう、恐ろしい文言、これに判形(はんぎょう)は存知もよらず、命が大事と駈け出した。 大事を知らせて往なせようか、と引き留めた。ときはの小腕を取って突きのけ、ここを大事と足早く走る、杉戸に額を打つやら、当てるやら、漸(ようよう)に押し開いてぬっと出れば竹笛がおつとり刀で突っ立っている。 わっとわななき、身を縮めて二度震え、慌てたのだ。 こりゃ、男、ときは御前に頼まれて源氏の方人(かたうど、味方)申したか。奥の様子をさあ語れ。なう、勿体無い、今の世に見る影も無き源氏に頼まれて、平家の咎めを何としようか。思いも寄らずと言わせも果てずに抜き打ちに向こう様(正面)てっぺいより太腹まで節々込めてから竹割り、二つにさっと笹の露、散る魂のもぬけのから、廊下の敷き板こじはなし、掘り置いた土の穴のここかしこ、人には見せないと骸(からだ)を取って引きずり込む。 音に驚きひな鶴が刀をひっさげて出でなんとする。首尾は、さればされば、見かけに寄らずに依らぬ卑怯者、いつもの如くに斬って捨てた。一味して戦場で討ち死にするのも死は同じ。 愚人目ゆえに今日も又、思わぬ殺生南無阿弥陀仏、ええ、まだるい、念仏どころか次の男がもうここへ。いつもの通りに死骸は埋めた。 跡を首尾よう、首尾よう。と、縁の下に這い入れば笛竹が手水の水を汲み掛け、流す血汐の唐紅、神代も聞かぬ女業。辺りに目をつけ目の鞘を外す刀ののり(生血)、押し拭い、押し拭い、袖に収めた顔かたち、けんにょ形振りひきつくろい、物音を伺い立ったのは、昔神功皇后が娘の時もかくやらんと、外に類も無いのであった。 続いて以前の侍が人目を忍ぶ頬かむり、笛竹に近づき、ひな鶴とやんらの物語に奥の様子を承った。良い年をしてなんどの蔑みも恥ずかしい。頬被りは御免なされよ。御案内を願いたいと述べければ、ああ、お案内するまでもない、この廊下をと戸を開けば、月さえ漏らぬ長廊下を辿り、辿って閨のうち、ともし火を背け、掛け香やそらだき物にふすべられ、蚊は一匹もない夏の夜。蚊帳が閨のしるしである。 えへんえへんと打ちしわぶくのも声が澄んでいる。 待ちかねし物、これ男、思わせぶりのしわぶきなんぞ、どなたの花かは知らね共、今宵ばかりの一枝は折るも偸も御赦しと、蚊帳越しに抱き付けば、とこうも言わずにふりはなす。 え、憎い。藻掻かせて慰むつもりか。清盛と言う人が居なければ、いっそ女房になりたい。はあ、鐘が鳴る。夜が更ける。此処へと蚊帳を押しのけて、何時まで包む頬被り、と取って引き退け顔を見合わせ、やあ、彌平兵衛宗清か、なう、恥ずかしやとおし俯き、消えも入りたき風情である。
2025年10月10日
コメント(0)
御点薬が澳から姿を現して、今朝の御脈は夜前の通りに変わらず、謹んで御容態を考え奉るに、是ぞと名付けん病気もなく、ただ七情(色々の感情)に破られ給い、御気の疲れ、御心のむすぼおれが深いと見えさせなれまする。 何つけても興ある御慰めを催し御欄に入れ、暫しのうちも面白しと御心が晴れ給わば、御補薬となり、薬力も廻り候わんかとぞ、申しはべりける。 維盛、聞き給いて、實(げ)にさぞあるらん。祖父(おほぢ)入道殿、邪なる御振る舞い、歎きは父重盛ただひとり、一天四海を引き受けて、御身ひとつが病に成るも理(ことわり)かな。何をがな気も晴れて心に叶う恵み、旁がた(おのおの、みんな)も思い寄り頼み存ずる、との給えば各ははっと頭を傾け、どうがなァ、はあ、何とがなと思案して評定は取り取りである。 新中納言の知盛が進み出て、御慰めとて常々目慣れ給うことはさして興にもなり難し。彼の白楽天が酒功賛(酒の功徳を讃えた文)の景氣(様子)を学び、庭前に酒の泉を湛え、美女を集め、琵琶・琴を調べ、歌い舞い奏でさせれば終に御覧なきことなので、お心が開けることもあるのではなかろうかと有りければ、越前の三位通盛が聞きもあえず、趣向珍らしし。さりながら、平生に酒宴乱舞を好みなさらぬ重盛公、却って御気に障るのではな、かろうか。 通盛が存ずるには、同じく酒を用いるにしても、庭に大竹小竹を数千本植えさせ、酒のもたい(酒を入れる器)を設え、七人の楽人に胡飲酒酉偏に甘醉樂(舞楽の曲名)などの舞楽を奏し、竹林の七賢(中国の晋の時代に竹林の中で清談に耽った七人の賢者)の愉しみを学んでは如何であろうか。 相詰めし者共が存じ寄り、遠慮なく申して見よと仰せなされた。 主馬の判官盛國がつっと出て、恐れがましく候えども、我が君常の御戯れにも上を敬い下を憐れむ御心より、北のお庭に方一町の田を開かせ、毎年御領内の土民を召され、耕し植える賤の手業、民の辛苦をご覧ある。今年も新田をすき返し候えども御所労によっていまだ田植えの御沙汰はない。 折しもこの頃の雨に潤う早乙女の田植えをご覧にいれれば、御心にも叶うべしと言上すれば、知盛、實(げ)に此れも興があろう。所詮、目録に書付けて伺わん。と、人々を相具して大床(広庇と同じ)の御座の間を目指して出でられた。 十返りの霜(松は百年に一度花を咲かせるので、十返りの霜は千年の霜)には朽ちず、一時の無常の風に枝は枯れて、頼み少ない小松殿、父入道を諫めかねて世を思う故に物思う。想いが積もって日蔭の雪も消える間をばかりである。 維盛が枕に近づき、御病中の御慰みにと一門の志し、御望みあれかしと目録を奉れば、助け起こされて脇息にかかるもしばし、玉の緒の弱りを見せぬ親心、披見あって打ち笑み給い、重盛の病気を悲しみ各(おのおの)が心を尽くされたのは返す返すも浅からず。この書きつけの内、早乙女に田を植えさせようとの物好き、我毎年の慰みにて庭の田の面を見るにつけて、去年の田植えも懐かしく感じる。用意させよ、見ようずるわとの給われたので盛國は畏まって罷り立った。 ちょうどその時に、熊野本宮の別当湛増(たんぞう)が白木の箱を携えて慌ただしく御前に出で、本宮の社檀を修復の為に、神躰を仮に宮遷し致す所、如何なる者の仕業であろうか、この箱を込め置いたのです。 私に開く事は後難も図り難く、御注進とぞ述べたのだ。 よし、何もせよ推量の僉議無益(むやく)の至りだ。それ、開け。承ると貞能(さだよし)蓋をこじはなせば、こは如何に厚板を削りならし、衣冠束帯の人を絵に描き、惣身に四十九本の釘、胸板(むねいた、胸の平らな所)と首に矢の根(やじり、矢の根)を打ち込み、日本十三所権現に申し奉る。小松の内大臣平の重盛の運命を縮め、源家の弓箭(きゅうせん、弓矢、武運)を擁護(おうご)し賜え。両ヶの所願(重盛の命を縮め、源氏を守ると言う二つの願)偏(ひとえ)に冥慮(みょうりょ、神仏の御配慮)を仰ぐ者也。願主、蛭が小嶋の住(じゅう)、源の頼朝と書き記し、調伏の願書を添えてある。 人々これはと手を打って、呆れ果ててぞいたりける。、 重盛は忿(いかり)の御涙をはらはらと流させ給い、さても、さても、天の恩を知らない愚人であるな。さんぬる平治の合戦で既に誅するべきであった。池の禅尼と重盛が身に代えて願い助けた故に、さてこそは流罪にしてあるのだ。 彼の唐土(もろこし)の獨角獣(うにこうる)と言う獣(けだもの)は水上の悪毒をおのれの角で灌ぎ消し国民の命を助けるのだが、猟師は恩を弁えず獨角獣を殺して角を取る。是は頼朝めと相同じだ。敵と味方になるならば、鉾先は磨かないで、重恩の重盛を調伏とは浅ましい。 この度の我が病は、父の悪心が止まなければ、我が命を取り給えと熊野権現に立願(りゅうがん)しての死病であるから死すれば小松の願の成就。それとは知らずに、頼朝がおのれの願が成就したと喜んで思うのは愚かな事だ。 重盛が空しくなったならば、見よ、身よ、源氏の白旗を秋津洲に翻さん。ええ、恨めしいのは入道殿、儚きは平家の運命だ。一門の成れの果てが思いやられて口惜しやと、怒れる眼(まなこ)に涙を浮かべ、お声は震え、枕を掴み、歎き沈ませ給うにも御前に伺候の人々も實に御道理ことわりやと各(おのおの)袖を絞られた。 よし、よし、盛衰は天にあり、悔やむまじ、恨むまじ。時こそ移る、耕作を見分しようぞ。疾く疾くとの給い、既に田植えぞ。早苗とる、水のみどりも青々と、御簾も障子も開け放ち、いつにも優れしご機嫌に上下が悦び勇みけり。 折から愛宕(おたぎ)の里の長(おさ)が手には鍬を持ってはいるが、心には苦も無い顔の白髭を上下にすらせて式台(礼拝)し、なうなう、早乙女おじゃらせませ(おいでなさい)、翁が新田をとろりっとならししまいて五穀成就・君万歳、民も千秋、千秋と水口(田に水を引く口、田植えの時は先ず水口を祭る)も祭済ませた。田をばぞんぶりぞ、ぞんぶりぞ。ぞんぶり、ぞんぶり、ぞんぶりぞ、さあなう、御田を植えようぞ、 はっと答えて早乙女は、一緒に来て笠を着て、みんなに遅れまいと手ン手に早苗を取りはやす。外にたぐいもない、あらかねの土に汚れぬ田植え歌、植えよ、植えよ。早乙女、目出たい君の御田植、苗代に降り立ちて田を植えれば笠を買って着せようぞ。笠を買ってたもるなら、なおも田を植えましょうぞ。如何に、早乙女、懸想文が欲しいか。失せた夫が欲しいか。 水上が濁って下の歎きが目に見えぬ。夫を返してたもるならば、なんぼ嬉しかろ。男が見えずばそれなりに当代の流行物、後家狂いせよ。見目悪、ええ、面にくの男が言った事に腹が立つ、腹が立つならば鏡を見よ。水かがみを見たならば、顔の汚れた世の中、朱雀(しゅしゃか、京都市下京区の西南部)の御所(常盤御前の邸)の築山に花が咲いたのをみたか。げに、きっと見たなれば恋の花や、いたづら花(仇花、実のならぬ花、戯れの情事を諷する)やうちや匂い渡った。 植えよ、植えよ、早乙女、千町、万町、億万町の早苗より、兄や弟や夫(つま)や子を返してたもるなら民も豊かに君がお田は実るぞ程なかるらん。実るぞ程なかりけり。 歌い終われば一座の人、よろこび、ざわめき給いける。 重盛は御耳をそばだてて、田な植えさせそ、あれ、止めよ。問うべき事がある。早乙女らを具して来い。 畏まって雑式共、御用があるぞ、早乙女共、御前に参れと呼ばわれば、ひっしょ形振り(遠慮ない様子)で早乙女が手足も土に塗れたままでひれ伏した。 近くに寄れ、女共、夫返せ子を返せと、訴詔(そしょう)ありげな田植え歌だ。汝らは誠の早乙女ではない、つつまずに申せ。と、の給えば、鍬取の翁が頭をもたげて、仰せの如くにかく申す翁を始め誠の早乙女では候わず。 君、知ろしめさずや、入道相国のお妾(てかけ)の常盤御前がいらっしゃいます。朱雀の御所の辺を通れば貴賤に限らず男たるものはかいくれ(全然、全く)に行方なく、再び影も見ることない。狐狸の所爲(しょゐ)とも申し、又常盤御前が往来の男を呼び入れ、放埓悪戯狂いとも申す。兄に別れ弟を失い、かかり(養ってくれる)子に離れて路頭に立ち、飢え死にする親も有り。 夫を取られ泣き焦がれ狂気する女も有り。五十人か百人か読むのに数限りもなし。洛中洛外の苦しみ、上には御耳に立たないのでしょうか。但し、知っても知らぬ顔か。 この翁が直訴して重盛公の御耳に達し、御詮議願い奉らんと男を失った女共はいずれも早乙女に出でたたせてかくの如き仕合せ(次第、始末)、推参は御免有れと申し上げれば、女子共は声々に、私の息子は坊主落ち(坊主が堕落して還俗した者)、ろくに生えそろわぬ者である。常盤が何にせらるるぞ。我等が兄は提灯屋、張りがえのないたった二人の兄弟です。こちらの夫は唐臼踏み、腰から下が強い男、惜しい事をいたした。誰に恐れも無く泣き喚く。女心のひとむくろ(ひた向きさ、一途)が思いやられて哀れであるよ。 大臣(おとど)は御息をほっと継ぎ、我病に臥して政務を辞し、民の訴えを聞かなかったので早くもかかる事が出で来たるわ。当家の徳が薄い故に洛中の騒ぎ、後の禍は軽くない。きっと糺し得さすべし。 やあやあ、彌平兵衛宗清、汝は常盤が館の次第をとっくと見届けて、吟味せよ。狐や狸の仕業であるならば猟師を以て狩りとらせよ。常盤の不義・放埓に極まるならば、きっと実否(じっぷ)を正し、入道殿に言上して御指図に任せよ。 又、末々平家の仇となるべきことと見るならば、誰に問うまでもない。入道殿の思い者だとて容赦致すな。常盤であっても討って捨て、詮ずる所はこれが第一である。心得たるかとの給えば、宗清謹んで畏まり、御諚に違背致して申すのではありませんが、元某は源氏に重恩の侍、殊に相具し候女房は先年離別の末にあい果て、今生になき身とは申しながら、藤九郎盛長の妹、かたがた源氏に誼(よしみ)の筋目、あまつさえ一人の娘を女につけて別れたが、ただ今は成人して如何なる源氏方に縁を組んだかもはかり知れず。かれこれ、以て常盤御前の詮議には源氏に無縁の他人に仰せつけられてしかるべきかと存ずると申しける。
2025年10月08日
コメント(0)
両使は詞を揃えて、もはや嶋には用はなし。仕合せと風もよい。 いざ、御乗船、尤もと四人が船に乗ろうとすると、瀬尾が千鳥を取って引き退け、見苦しい女め見送りの者なら、そこを立ち去れ。と、ねめつけた。 交いや、苦しからず。この少将が配所の中、厚恩の情を請け夫婦となり、帰洛せば同道と固く申し交わせし女、御両人の料簡を以て着船の津まで乗せてたべ。子々孫々までこの恩は忘れない。とと手を摺って詫び給えば、思いも寄らず喧しい女め、誰かある、引き摺り除けよ。と、ひしめいた(騒ぎ立てた)のだ。 はて、料簡がなければ力なし。この上は、少将もこの嶋に留まって都へは帰るまい。さあ、俊寛・康頼舟に乗られよ。 いやいや、一人残すのは本意(ほい)ではない。流人は一致、我々も帰るまい。と、三人浜辺にどうどざを組み、思い定めたその顔色(がんしょく)。 丹左衛門は心有る侍で、これ、瀬尾殿、か様にては君大願の妨げ、女を舟に乗せずとも、一日、二日も逗留してとっくと宥めて得心させ、皆々快くてこそ御祈祷ならめ。と、言いも切らせずに、やああ、そりゃ役人の我儘、船路関所の通り切っ手、二人とあった二の字の上に、能登殿が一点を加えて、三人とされたのさえ私であるのに、四人とは何方の赦し、所詮六波羅の御館に渡すまでは我々の預かり、乗らないと言っても乗らせずには済ませない。 俊寛の女房は清盛公の御意に背いて首を討たれた。有王の狼藉、召し人同然の坊主、雑式共、郎等共、三人を一緒に船底に押し込めて動かすな。 承ると、疋夫共が千鳥を引き退けて、三人の小腕を引き立て、引き立てして、狩人が小鳥をつむる(押し込む、詰める)如くに捩付け、捩付けして厳しく守る瀬尾の下知。 船出せ、船出せ、乗り給え、左衛門殿。但し、御使いの外に私の用ばし候か、と理屈ばれば力なく同じ舟に乗り移った。 不憫や浜辺にただ一人、友なし千鳥、泣き喚き、武士(もののふ)は物も哀れを知ると言うが、それは偽り、空事。鬼界が嶋には鬼は無くて、鬼は都にいたのだよ。馴れ初めたその日から御免の便りを聞かせて月日を拝み、願を立てて祈ったのは、連れて都で栄耀栄華の望みではない。蓑虫のような姿をもとの花の姿にして、せめて一夜を添い寝して女子に生まれた名聞(みょうもん、面目、名誉)とこれは一つの楽しみぞや。 ええ、酷い、鬼よ、鬼神よ。女子を一人乗せたとて、軽い舟が重くなろうか。人々の歎きを見る目はないのか、聞く耳を持たないのか。乗せてたべ、なう、乗せなさいな。と、声を挙げて打ち招き足摺りしては臥しまろび、人目も恥じずに嘆いたが、海士の身であるから一里や二里、恐ろしいとも思わないが、八百里九百里では泳ぎも水練(すいり、水に潜る事)も叶わないので、この岩に頭乗せてを討ち当て打つ砕き、今死ぬる、少将様、名残惜しい、さらばです。念仏申す、むぞうか者、りんにゃぎゃァってくれめせと、泣く泣く岩根に立ち寄れば、やれ待て、やれ待てと、俊寛がよろぼいよろぼい舷(ふなばた)を漸(ようよう)まろび走り寄り、これ、この船に乗せて京にやるぞ。 今のを聞いたか、我が妻は入道殿の氣に違って斬られたとか。三世の契りの女房を死なせ、何を楽しみに我独り京の月花見たくもない。都に帰って二度の歎きを味わうよりは、我を嶋に残し、代わりにおことが乗ってくれ。時には関所三人の切手にも相違はなく、お使いにも誤りはない。 世に便りない俊寛、我を仏に成すと思い、捨て置いて舟に乗れ。と、泣く泣く手を取り引っ立て、引っ立て、御両使頼み存ずる、この女乗せてたべ。と、よろぼい寄れば瀬尾の太郎、大に怒りて飛んで降り、やあ、梟人(づくにゅう、法師に対する侮語。みみずく入道の略で、みみずくの様に醜く太っている僧の意。一説に、俗入道の略で、俗僧の意と言う)め、さように自由になるならば赦し文も赦し文も御使いも詮(無用)なし。 女はとても叶わない、うぬめ乗れと啀(いがむ、犬が歯をむき出して吠えたてる)みかかれば、それはとても料簡無し、とかくお慈悲と騙し寄り、瀬尾が差していた腰の刀を抜いて取ったる稲妻や、弓手の肩先に八寸ばかり切り込んだり、うんと乗れどもさすがの瀬尾、指し添えを抜いて起き直り打ってかかるもひょろひょろ柳、僧都は枯れ木のゐざり松、両方の気力はなく、渚の砂原を踏み込み踏み抜き、息切れ声を力にて、ここを先途(勝負のきまる大切な場合)と挑み合った。 船中が騒げば、丹左衛門、舳板(へいた)に上がり、御帳面の流人と上使との喧嘩、落居(らっきょ、落着、結果)の首尾を見届けて、言上する。下人なりとも助太刀はするな。脇からは少しも構うな。と、眼(まなこ)もふらず見分する。 千鳥が堪えかねて竹杖をふって打ちかかった。僧都が声をかけて、寄るな、寄るな。杖でも出せば相手の中、咎は逃れぬ。差し出たら恨みぞと怒れば千鳥も詮方なく、心ばかりに身を揉んだのだ。 血まぶれの手負いと飢えに疲れた痩せ法師は、はっしと打ってはたじたじたじ、刀につられ手はふらふらふら、組みは組んでも締めないので左右にひょろりと離れ、砂に咽んで片息(奥絶え絶え)の両方が危うく見えたのだが、瀬尾の心は上見ぬ鷲(かみを恐れず常に他を見下して、鷲のように不遜)で掴みかかるのを俊寛の雲雀骨(痩せ骨、ひばりの脚のように細く長い骨)にはったと蹴られ、かっぱと伏せれば這い寄って、馬乗りにどうと乗ったる刀、止めを刺さんと振り上げた。 船中から丹左衛門が勝負はきっと見届けた。止めを刺せば僧都の誤り。咎が重なる。止めを刺す事は無用、無用。 おお、咎が重なったる俊寛は嶋にそのまま捨て置かれよ。 いやいや、御辺を嶋に残しては、小松殿、能登殿の御情も無足し(無駄になり)、御意に背くのは使の越度、殊に三人の数が不足しては関所の鋳論(異議)叶い難し。と、呼ばわった。されば、されば、康頼少将とこの女を乗せれば、人数には不足なく、関所の違論はないであろう。小松殿・能登殿の情にて昔の科は赦されて、帰洛に及ぶ俊寛が上使を切った咎で、改めて今鬼界が嶋の流人となれば、上の御慈悲の筋も立ち、お使の越度は少しもない。と、始終を我が一心に思い定めた。止めの刀を瀬尾、請け取れ、恨みの刀、三刀四刀、ししきぎる(何度も切る)、引き切る、首を押し斬って立ち上がれば、船中はわっと感涙に少将も康頼も手を合わせたるままで泣いている。 見るにつけ聞くにつけ、千鳥独りだけがやるせなくて、夫婦は来世もあるもの、わしが未練で思い切りがないばかりに、嶋の憂き目を人にかけ、のめのめと舟に乗れようか。皆様さらばと立ち帰ろうとした。 すがり留めて、これ、我がこの嶋に留まれば、五穀(五種の穀物、稲・麦・粟・きび・豆)に離れる餓鬼道に、現在の修羅道、硫黄が燃える地獄道、三悪道をこの世で果たし、後生を助けてはくれないか。俊寛が乗るのは弘誓(ぐぜい、仏菩薩が遍く衆生を彼岸に渡される誓願を船に譬えて言う語。ここは仏に縋って往生したいだけでの意)の船、浮世の舟には望みがない。 さあ、乗ってくれ、はや乗れと、袖を引き立て、手を引いてようように抱き乗せれば、詮方なく波に船人は纜(ともづな)を解いて漕ぎ出だす。 少将夫婦に康頼も、名残惜しや、さらばやと、言うより他はなくて、涙にて舟からは肩を上げ、陸(くが)よりは手を挙げて、互いに未来で、未来でと呼ばわる声も出で船に、追手の風の心無く、見送る陰も嶋隠れ、見えつ隠れつ汐曇り、思い切っても凡夫の心、岸の高見に駆け上がり、るま立って打ち招き、浜の真砂に臥しまろび、焦がれても叫んでも、哀れとぶらう人とても無く、鳴く音は鴎、天津雁、誘うにはおのが友衛(ちどり)、独りを棄てて置く、沖津波、幾重の袖や濡らすらん。 第 三 顔回(がんかい、孔子の門下の十哲中、首位に置かれる人)は早く夭して、遂に四十の花を見ず。盗跖(とうせき、中国春秋時代の盗賊」壽(いのち)長くして既に八十の霜を踏む。 生死不定の理りは上智博識も弁ずべからずとかや。 小松の大臣(おとど)重盛公、御所労が日を追って衰えなされ、和丹(和氣・丹波の医師の両家)の典薬・配剤に図案を尽くしたのだが、更にそのしるしなく、既に大事と見えたので、嫡子の惟盛(これもり)を始め、通盛・知盛・重衡・資盛、その外一門の老若、寝殿にゐながれ給えれば、広庇には主馬の判官盛國、筑後の守、貞能、彌兵衛宗清なんどが心を悩まし並みゐたり。
2025年10月06日
コメント(0)
花の木草も稀であるから、耕し植える五つのたなつ物もなく、せめて命を繋げとや、峰から硫黄が燃え出るのを、釣り人の魚とかえ、波の荒布(あらめ)や干潟の貝、水松布(みるめ、海藻類の総称)にかかる露の身は、憔悴枯搞(しょうすいここう、やつれはてること、やせ衰える)のつくも髪(白髪)、肩に木の葉の綴りさせと言う虫(綴り、継ぎ合わせ刺せと鳴くこおろぎ」の音もかれ、枯れ木の杖によろよろ、よろよろと嘗て蘇軾が「今は胡狄・のこてきの一ッ足」と歌いかこったことも俊寛の身に知られ、白雪が積もるのも冬が来たと身に感じ、夏風のけしきを暦にして、春ぞ秋ぞと手を折れば、およそ日数は三年の、こと問う物は沖津波、磯山おろし、濵千鳥、涙を添えて故郷へ何時廻り往く小車(おぐるま)の轍(わだち)の鮒(ふな)の水を恋う憂き目も中々に、較べる苦しい身の果ての命、待つ間ぞ哀れなり。 同じ思いに朽ち果てた鶉衣(うずらころも、つぎはぎの破れた着物)に苔深い岩のかけ路(細道)を伝い降り煩う有様、我もあの姿なのか。 諸阿修羅道故在大海變、そも三悪四趣は深山海ずらに在りと御経に説かれてあるが、知らず、餓鬼道にやおちけん。と、よくよく見れば平判官康頼、ああ、我も人もかくも衰え果てしかと、心も騒ぐ浜辺の蘆、掻き分け掻き分け来る人は丹波の少将成経。 なう、少将殿、なう、康頼、こは俊寛かと招き合い、歩み寄り、友なう人と言っては明けても康頼、暮れても少将、三人の外はないのだが、どうして訪れが絶え、自分は山田を守る案山子ではないのだが世に飽いた僧都の身が悲しいと手を取り交わしてお泣きなさる。 かこちは道理、さりながら、康頼はこの嶋に熊野三所を勧請して日参に暇なし。 三人の友ないもこの頃四人になったとは、僧都はいまだ御存知なかったか。 何、四人になったとは、さては又流人ばしがあってのことか。いや、そうではない。少将殿こそ優しき海士(あま)との恋に結ばれて、妻をもうけ給いし。と言うより僧都は莞爾(かんじ、にこにこ)として珍しい、珍しい、配所での三歳が間人の上にも我が上にも、恋と言う字の聞き始め笑い顔も此れ始め、殊更海士人の恋とは大職冠行平も磯に見る目の汐馴れ衣、濡れ始めは何と何。俊寛も古郷にあづまやと言う女房が明け暮れに思い慕えば、夫婦の仲も恋と同然。 語るも恋、聞くも恋。聞きたし、聞きたし、語り給えとせめられて、顔を赤めた丹波の少将。三人は互いに身の上を包むのではないけれども、数ならぬ海士の茶船(上荷船)を押し出して(表立てて)恋と申すのも恥ずかしいことで、なう、かかる辺国波嶋(へんごくはとう)まで誰が踏み分けし恋の道。あの桐嶋の漁夫の娘、千鳥と言う女、世のいとなみの塩衣、汲むのも焼くのもまだ濵のわざ、そりゃ時ぞと言う、夕波に可哀そうに女の身で丸裸、腰に受け桶、手には鎌、千尋の底の波間を分けて海松(みるめ)を刈る。若布(わかめ)粗布(あらめ)あられもない裸身に鱧(はも)がぬらつく、ぼらがこそぐる、がざみ(カニの一種か)がつめる。餌かと思って小鯛が乳に喰いつくやら、腰の一重布が波にひたれて肌(はだえ)も見え透く。壺かと思って蛸めが臍を伺いねらう。 浮きぬ沈みぬ、浮世渡、人魚が泳ぐのもかくたらんと、潮干に成れば洲崎の砂の腰だけ埋まり、踵(きびす)には蛤を踏み、太股に赤貝(女陰の暗示)を挟み、指で鮑を起こせば、爪は掻く牡蠣貝ばいの蓋、海士の逆手を打ち休み、柘植(つげ)の小櫛を取る間もなく、栄螺(さざえ)の尻のぐるぐるわげも縁あって夫婦となった身には美しい髪を巻いた美女と見える。 かかる嶋にもいつの間にか結びの神の影向(ようごう)か、馴れ初め馴れて今は埴生の夫婦住み。夫を思う真実の情が深く、哀れを知り、木の葉を集め縫い綴る、針手きき(裁縫上手)、さ夜の寝覚めは汐じむ肌に引き寄せて声こそは薩摩訛、世に睦まじい睦言、うらが様なめら(わたしの様な女)は歌連歌にある都人は夢にさえ見やしめすまい。縁があればこそ抱いて寝て、むぞうか者(可愛い者)とも思しゃってたもりやすと思えば、胸つぶしゅう(胸がつぶれるような有難さ)ほやほやしやりめす(嬉しい思いが致しますよ)。 親もない身、大事のせな(夫)の友達、康頼様は兄丈、俊寛様は爺様と拝みたい。娘よ、妹よ、とせよかせろと(こうしろああしろと)ぎゃってりん(仰って)にょがってくれめかし(可愛がって下さいませんか)と、ほろりと泣いた可愛さ。 都人がござんすより、りんにょぎゃァってくれめせすが身に沁みますと語るのですよ。 僧都は聞き入って感に堪え、さてさて、面白うと哀れで、だてで(一風変わっている、洒落ている)殊勝で、可愛い恋じゃわい。 先ずは、その君に見参、いざ庵に参ろうか。いや、則ちあれまで同道。 千鳥、千鳥と呼ばわれて、あい、と答えて蘆を掻き分け、竹の栃(おうこ、天秤棒)にめさし籠(目を塞ぐように細かく編んだ籠の意か)をかたげた振りも小じを(しおらしい)らしげな見めがよければ身に着たつづれ(襤褸・ぼろ)も綾羅錦繍を恥じぬ姿は美しい着物。何故に海士と生まれたのか。僧都も会釈の挨拶。 やさしい噂を承って甘心(満足)、康頼は疾く対面とな。俊寛は今日が始め。親と頼みとや。この三人は親類も同然、別して今日からは親子の約束、我が娘とあわれ、御免を蒙って四人連れて都入り、丹波の少将成経の北の御方と緋の袴着るを待つばかり。 ええ、口惜しい、岩を穿ち土を掘っても一滴の酒は無し、盃も無し。目出度いと言う詞が三々九度じゃと言いければ、はあ、この賤しい海士(あま)の身で緋の袴とはおや罰かぶること、都人と縁を結ぶことが身の大慶、七百年生きる仙人の酒とは菊水(中国河南内郷県の西北五十里の河)の流れ、それを象り筒に詰めたもこの嶋の山水、酒ぞと思う心が酒、この鮑貝の御盃を頂き、今日からはいよいよ親と子よ。 てて様よ、娘よと、むぞうか(可愛い)者とりんにょぎゃァってくれめせ(可愛がってください)と言えば各々打ち笑い、げに尤も聞く、菊の酒宴、あわびは瑠璃の玉の盃、さしつさされつ飲め歌え、三人四人が身の上を言う、それはないが硫黄の嶋も蓬莱の嶋に譬えて汲めども尽きぬ泉の酒だと楽しんだのだ。 康頼が沖をきっと見て、。はああ、漁船とも思えぬ大船が漕いで来るのは心得ず。 あれよ、あれよと言う内に、程なく着岸、京家(きょうけ、公家に仕える)の武士の印を立て、汐の干潟に船を繋がせて、両使が汀に上がって、松蔭に床几を立てさせ、流人丹波の少将、平判官康頼やおわす。と、高らかに呼ばわる声、夢ともわかず、丹波の少将はこれに候、俊寛・康頼候と我先にとふためき走り二人が前にはっはっと手を突き、頭(づ)を下げてうずくまる。 瀬尾太郎が首に掛けた赦し文を取り出し、是々、赦免の趣、拝聴あれと押し開き、中宮御産の御祈りにより非常(普通ではない、特別)の大赦が行われる。 鬼界が嶋の流人、丹波の少将成経、平判官康頼、二人赦免ある所、急ぎ帰洛せしむべきことは件の如し。と、読みも終わらずに二人ははっとひれ伏せば、なう、俊寛は何とて読み落とし給うぞ。 やあ、瀬尾程の者に読み落とせしとは慮外至極、二人の外に名前があるか、是見よと指し出だした。少将判官諸共に、これは不思議と読み返し繰り返して、もしやと禮紙(らいし、包み紙)を尋ねても僧都とも俊寛とも書いた文字があるどころか、入道殿の物忘れか、そも筆者の誤りか。 同じ罪、同じ配所、非常も同じ大赦の、二人は赦されて我独り誓いの網に漏れ果てし。 菩薩の大慈大悲にも分け隔てが有りけるか。特に捨身して死したならば、この悲しみはあるまじき。もしや、もしやと長らえて浅ましの命や、と声を惜しまずに泣きなさる。 丹左衛門が懐中の一通を取り出して、疾く申しきかせるべきであったが、小松殿の仁心、骨髄に知らせん為に暫く控えたのだ。是、聞かれよと声を上げて、何々鬼界が嶋の流人・俊寛僧都、小松の内府重盛公の憐愍(れんみん、憐れみ)により、備前の国まで帰参すべきとの条、能登の守教経が承って件の如し。、 何、三人共の御赦しか、中々(左様である)、はあはあ、はあと俊寛は真砂に額を摺り入れ摺り入れ三拝なして嬉し泣き。 少将夫婦、平判官夢ではないか、誠かと、踊っつ舞うつの悦びは、猛火に焦げた餓鬼道の仏の甘露に潤いて、如清涼地(極楽浄土)のようだと謳いしもかくやと思いやられたる。
2025年10月01日
コメント(0)
全14件 (14件中 1-14件目)
1
![]()
![]()
